
Canon EOS 620+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / Canon EF50mm f1.8II +FUJI 400
今日紹介するのは、瀬戸市の商店街だ。せとものの街として全国的に名前は知られているものの、瀬戸市そのものをよく知っているという人は少ないと思う。せとものというのは一般的な陶器の名称だと思っている人もいるかもしれない。それくらい瀬戸の焼き物は日本中に広まっているということも言える。
愛・地球博のサテライト会場があったということで、瀬戸電の尾張瀬戸駅に降り立った人も大勢いただろうけど、その中で商店街やアーケードに立ち寄った人がどれくらいいたか。せともの祭りは全国的にも有名だから、そのときに商店街も見ているだろうか。
瀬戸焼の歴史を最初から語ると長くなるので今日はやめておく。瀬戸焼きの始祖、加藤四郎左衛門影正(通称・藤四郎)が出てきたときに、またあらためて書くことにしよう。今日は商店街について紹介していくことにする。
瀬戸市の人口は約13万人。近年は名古屋のベッドタウンというような位置づけになってはいるけど、もともとは陶器の街として発展してきた。ここには陶器作りに適した土がたくさんあった。
その瀬戸には、瀬戸銀座通り商店街、宮前地下商店街、末広町商店街と3つの商店街がある。どれもレトロ感たっぷりで、昭和好きの期待を裏切らない。フィルムで写真を撮ろうとなったとき、早い段階でここのことが頭に浮かんだ。フィルム向きの被写体だろうという予測は当たった。
結局、一回では撮りきれずに二回行くこととなり、二度目は雨降りになった。雨の瀬戸商店街というのもなかなか悪くなかった。今日から3回か4回に渡って、フィルムで切り取った瀬戸の街編をお送りしようと考えている。
まずは宮前地下商店街から始めよう。地上なのに何故地下商店街という名前がついているのかという謎もあとになって解明される。

電話と書かれてはいるけど公衆電話はすでになく、下には小便するなとか何とか書かれてある。絶好の立ち小便ポイントになっていたのだろう。
公衆トイレがこれほど増えてきれいになったのはわりと近年のことだ。昭和時代にはけっこう道ばたでおっさんが立ち小便をしていて、それを悪いことだという自覚があまりなかった。日本の歴史を見ても、江戸時代などは当然公衆便所はなく、明治になってようやく公衆トイレというのが登場したものの、まだまだ習慣としては定着していなかった。初期の郵便ポストを公衆トイレだと思って小便をする人間が後を絶たなかったというのは有名な話だ。屋外での立ち小便が罪だというモラルが浸透したのも、けっこう近年になってからのことだということを私たちは忘れかけている。
小便する……その後は何と書かれているのだろう。するべからん、だろうか。

古くて新しいおもちゃ屋さん。昭和にフィギュアという言葉はなかったから、その点では新しい。当時はなんでも人形だった。しかし、たたずまいは思い切り古い。店の看板がつなぎ合わせた紙にマジックで手書きというのもどうなんだ。「」はあとから書き足したのか、余裕がない。雑貨・フィギュアまで書いて、残りのスペースが足りなくなったことに気づいたのだろう。のを小さく書いて誤魔化したのも見て取れる。子供の習字じゃないんだから。
こういうところには意外と古い掘り出し物のおもちゃなんかが埋もれているかもしれない。なんでも鑑定団の北原さんに教えてあげたい。
子供の頃買ってもらった仮面ライダーのパンチ&キックとか、超合金のロボットとか、ミウラのミニカーとか、あんなのはみんな捨ててしまった。持っていたら今頃はお宝だったのに。

宮前地下街と書かれているのを見て、どこかに地下へ通じる階段があるんじゃないかとあたりを探してしまった人も多いはずだ。名古屋人は地下街が大好きだから、瀬戸にあってもおかしくないだろうと。
その答えは次の写真にある。

実はこの商店街の上には深川公園という公園があって、そこから見ると商店街は一段低いところにある。だから、地下商店街というわけだ。これは意外と知らない人が多いんじゃないかと思う。私もつい最近テレビを見て知ったばかりだ。そうはいっても、やっぱりこれは地下じゃないだろう。
宮前というのは、商店街の突き当たりに深川神社があって、ここはその門前町としてできたところなのでそういう名前がつけられた。
昔は陶器関係の職人町だったから、ここらの商店街も職人たちでたいそうな賑わいだったそうだ。給料日あとともなると職人が集まってきて、たくさんお金を使っていったから、街も発展していった。飲食街も多かっただろうし、色町的な性格も併せ持っていたことだろう。今はそういう面影はまったく消えてしまっている。
現在の宮前地下商店街で有名な店は、うなぎ屋さんと焼きそば屋さんだ。これが二大看板と言っていい。瀬戸焼きそばというのはちょっとした名物で、休日ともなるといつも列ができている。うなぎ屋もなかなか評判いい。

歩道橋の上から銀座通り商店街の入り口あたりを撮ってみる。牧歌的というか、昔ながらというか、さびれているというか。写真を撮る分には味わいがあっていいけど、商売をしてる人たちは大変だ。
それにしても、昭和は銀座が好きだった。日本全国どこにも、何々銀座という商店街や飲み屋街があった。昔は銀座というのが都会への憧れの象徴であり、地方の人間が考える一番賑わっている場所は銀座だったのだ。時代をさかのぼれば、小江戸(こえど)や小京都(しょうきょうと)などが各地にあるから、精神性としてはその流れを汲んでいる。現在は都会と地方との格差がそれほどなくなったから、こういう純粋な憧れを抱くことは恥ずかしいことのような風潮になっている。

訪れるのは何年ぶりか思い出せないくらい久しぶりだから、どこがどう変わったのかよく分からなかった。思ったよりも小綺麗になっていたから、近年かなり改装したようだ。地面もこんな洒落た感じではなかった。ただ、部分、部分にはしっかり昭和が残っていて、変わらないところも多いと思わせた。
銀座通り商店街は、全長約200メートルのアーケード街で、個人商店や飲食街が並んでいる。大須ほどではないにしても、レトロでマニアックな店もある。
長らく下降線を辿り続け、いわゆるシャッター通りになっていたのだけど、愛・地球博をきっかけに多少復興傾向にあるようだ。学生や若者に対して積極的に開放したり支援をしたりして、少しずつ店も増えつつある。古いたたずまいの新しいギャラリーなどもあって、ちょっといいじゃないと思った。

とはいうものの、夕方の時間帯でこれだけ人が少ないと、劇的な立て直しは難しそうだ。愛・地球博で一時的に人は増えたとしても、結局のところ支えてくれるのは地域の住民しかいないわけで、そういう人たちにとって必要不可欠で魅力的な商店街でなければお客は来てくれない。私のように写真を撮りにくるような物好きがたまにいたとしても、たいしてお金は落としていってくれない。

お、こんなところに人力車が。観光客用か、と思って裏に回ってみたら違った。なんだろう、これ。人力車には違いないけど、運ぶのは人ではなさそうだ。ただの飾りでもないだろうし、何を運ぶものだろう。

銀座通り商店街を西に抜けたところ。商店街の名前は地図には載っていないから、最初どこからどこまでなのか分からなかった。東の端は深川神社の通りで、宮前橋から一本入ったところだ。西は、記念橋の通りを超えて、栄町のはずれまで続いている。
左手にある床屋さんもレトロチックだった。黙って座ってお任せにしたら、後ろを刈り上げられた上に七三分けにされてしまいそう。パーマの注文を出せば、それはアイパーの可能性が高い。

わっ、店名が右から左に書かれている。若松屋。店構えからして花屋さんかなと思いつつ続きを読むと、若松屋洋服店とある。ええぇ、洋服店!? 全然洋服を売っている感じはない。店内をちらりとのぞき見ても、洋服らしきものが見えない。
帰ってきて調べたところ、「手しごとや『阿ん』」という焼き物のギャラリー兼店舗だと知ってずっこけた。やっぱり洋服店じゃなかったか。花屋でもなく、陶器屋さんだったとは、完全に意表を突かれた。古い店舗をそのまま流用しているのだろうけど、この看板は紛らわしい。それが狙いだとしても、フラッとは入りづらい。

道が二股に分かれて面白いことになっている。分かれ道にある家は落ち着かないだろうと思うけど、どうやらうどん屋さんのようだ。
左にはパルティせとが見えている。右へ行くと古い家並みが少し残っている。どちらを行っても出る道は同じであまり変わらない。

一部を切り取っていくと、昭和の名残が色濃く残っているように見える。実際のところは新しい建物もけっこうあって、新旧が混在している感じだ。愛・地球博の前と後とでは大きく様変わりをした部分もあるから、今にして思えば2003年くらいにこのあたりを撮っておけばよかった。その当時も、何度となく表通りは通っていた。特に瀬戸川沿いは大きく変貌した。裏道や商店街はあまり変わってないのかもしれない。
フィルムシリーズ第3弾で瀬戸編の第1弾はこれくらいで終わりにしよう。明日はこの続きで、商店街を少し離れて、瀬戸川沿いの風景を中心にお届けします。深川神社紹介に絡めて瀬戸の歴史についても少し書きたいと思っている。
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