
Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF135mm f2.8 SF / EF50mm f1.8 II
津屋川の彼岸花ポイントは、南濃梅園のある対岸あたりだということは、頭では分かっていたつもりだった。一応、海津町のページにあったマップをプリントアウトして持っていったのだけど、これがどうも分かりづらい。彼岸花の時期は、北部グラウンドというところが臨時駐車場になっていると地図にはある。けど、結局最後までその場所を見つけられないままぐるぐる同じ所を回って時間を失うことになってしまった。ハリヨ池近くの小公園の駐車場にとめたときは、すでに日が沈んでいた。
養老公園がある前の道を南下して、右手にモービル石油がある信号を左折したらあとは道なりに進んで、線路の下をくぐって橋の手前を左に入っていったあたりが駐車場なのだと思う。私はたぶん、一本手前の道を入って、さまようことになったのだろう。
上の写真は駐車場を探しているときに撮った写真で、ここらにも多少彼岸花が咲いていた。群生ポイントとしては、ここよりもう少し向こう側だ。見えている橋の左手あたりが駐車場なのではないかと思うけど、いまだに確信は持てていない。
車なら大垣インターから20分くらい。電車なら近鉄養老線の美濃津屋駅が最寄り駅になる。駅から歩くとちょっと距離がありそうだ。
岐阜県海津郡南濃町にある津屋川(つやがわ)は、木曽川水系の一級河川で、養老の滝がある滝谷などを水源として、揖斐川に合流している。
ここがいつから彼岸花の名所になったのかは知らない。自然に生えるものではないから、農家の人か誰かが最初に植えて、そこからだんだん増えていったのだろう。絨毯になるほど増えるはずはないから、みんなの手で植えて名所にしていったに違いない。現在は川沿い3キロに渡って10万本が咲く。
去年は満開がすごく遅くて10月の5日くらいだったらしい。今年は平年並みで9月24日あたりがピークだったようだ。私は一週間遅かった。
最近はずいぶん有名になったようで、バスツアーの人たちまでやって来るんだとか。見頃になるとカメラの砲列が並ぶというから、そのシーンを撮りたかった。一番人が多いときを狙うなら、中日新聞に載った次の日だ。地元における中日新聞の影響力の大きさは絶大なのだ。
東海地方では、愛知県半田市の矢勝川も彼岸花名所としてよく知られている。
彼岸花というと、ちょっと不吉なイメージもあったりして苦手な人もいると思うけど、思っている以上に人気があって、彼岸花名所へ行くと驚くほど大勢の人が来ている。桜と紅葉に次ぐくらいの人気度なんじゃないかと思うほどだ。今まで見た中では、埼玉県日高市の巾着田が一番すごかった。あそこは訪れている人もものすごかった。彼岸花を侮ってはいけないと思い知らされた。

この写真の場所の左側が南濃梅園で、右に行くと駐車場じゃないかと思う。暗くなってきていて少しでも撮りたかったから、駐車場を確かめに行く時間がもったいなくて行っていない。帰りに確認しなかったのは、二度来ることはないかなと思ったからだ。もう一度行ったら、もう一回さまようことになるかもしれない。

この左手にある水の流れは、用水路か何かで、川は右手に流れている。最初、どれが津屋川なんだかよく分からなかった。
左前方に見えている家並みは美濃津屋の町だ。線路沿いということで家がけっこう集まっている。家並みの間からときどき養老線の電車が見えていた。時間があれば、彼岸花と電車を絡めて撮りたいと思っていたけど、川とは距離があるのでそれは難しそうだった。どっちみち暗くて電車を撮れるような状態でもなかった。

場所によってすっかり枯れ果てているところと、このようにまだよく咲いているところと、まだらになっていた。今年は咲きがよかったようで、人の写真を見ると土手は真っ赤な絨毯のようになっていた。
土手の上には小さな祠があった。みんなの写真でよく登場しているお地蔵さんはどこにあったのだろう。探したけど見つけることができなかった。あれは川の向こう岸だったか。

このあたりがおそらく一番密集して咲いているところだと思う。少しまだらになっていたものの、まだだいぶ残っていた。
イメージとしては、この上をぞろぞろと歩いている人たちを入れて撮りたいと考えていた。日没後では誰も歩いていない。たまに犬の散歩の人が通りかかるくらいで。

この日は風がない日で、川の写真を撮るにはいい条件だった。津屋川は流れがゆるやかで、風がないと川面が鏡面のようになって、景色や空をよく映す。
明るさが残っていたら、このあたりでPLフィルタを使いたかった。

橋の上からの定番撮影ポイント。訪れた多くのカメラマンは、ここから撮る。津屋川のゆったりとした穏やかな流れと、背景の養老山脈、彼岸花の赤が彩りを添える。

ソフトフォーカスレンズの描写。普通の写真の中に急にこれが出てくると、突然目がかすんだようになって違和感がある。でも、この写真を単独で見ると、このレンズでもっと撮ってみたくなる。
ふと思いついたのが、白川郷の合掌造りの家並みだ。雪で白く染まった白川郷をソフトレンズで撮ったら、とても幻想的な風景になりそうだ。
ソフトレンズはまだ模索中。

アオサギが舞い降りた。せっかくならもう少し絵になるところに降りてくれたらよかったのに。鳥はこちらの思惑など考えちゃいない。
車に望遠も積んでいたけど、この暗さでは使えなかった。望遠で川面に映った姿と彼岸花の赤だけを切り取ればもう少し絵になっただろう。
この川はカワセミもいるようだ。

川の上を何かがすーっと泳ぎ渡っていって、わっ、なんだ、ヘビか、と思ってよく見ると、ヌートリアだった。
南米産の大きなネズミで、野生化したヌートリアは外来種として問題になっている。水田を荒らしたり、生態系を崩したりして、あまり好かれてはいない。
最初に見たときは驚いたけど、さほど珍しいものではないから、ちょくちょく見かける。のんきそうに川や池で泳いでいる。

この川の一つの名物として、舟で投網を投げる実演というのがある。誰かに頼まれているのか、自らその役を買って出ているのか、おじいさんが小舟をこぎ出して、網を投げる。それをカメラマンたちが撮る。また投げる。また撮る。そしておじさんは陸に上がり、帽子をひっくり返してお金を集めて回るというシステムらしい。あらかじめお金を払って見せてもらうという話もあって、実際のところはよく知らない。
人がたくさん集まっているところでギターの弾き語りでもすれば、小銭くらいは集まるかもしれない。浴衣を着た女の人など訪れようものなら、格好の被写体となって撮られまくることだろう。コスプレ趣味の人はやってみるといいかもしれない。

土手を散歩する犬とおじさん。
養老山脈の麓の町ということで、山が近い。普通の町並の背景に大きな山がある光景は、ちょっと不思議な感じだった。

川の東側は、広大な田畑が広がる。稲の刈り入れ前で、秋の実りのいい風景だった。

空は紺色が深くなり、金星が見えた。もうこれ以上は撮れない。
南濃梅園の中を通って、車まで戻る。3月はここの梅林はきれいだろう。
ここから少し北へ行った養老町明徳には、源氏橋という名の小さな橋が架かっている。平治の乱に破れた源義朝(頼朝・義経の父)は、ここから舟に乗って津屋川を下り、知多半島の野間に逃げ延びたという。かつての津屋川は、物資や木材を運ぶために利用されていて、もっと川幅が広かったようだ。
義朝は最初から知多まで逃げるつもりだったんだろうか。京都から落ちのび、追っ手をかわしつつ琵琶湖を横断して大垣へと逃れ、そこから南へ南へと下り、最後は野間で家臣の裏切りにあい殺されてしまう。
この行程を地図上で辿ってみると、遙かに長い旅路だということが分かる。津屋川からでも、揖斐川に入り、木曽三川が合流するあたりを超え、桑名を過ぎ、伊勢湾に出て、知多半島に入ってから野間まではかなりある。
父亡き後、長男の義平(よしひら)は、京都へ戻って平清盛の暗殺を図るも失敗して捕えられ、斬首された。次男の朝長(ともなが)は、逃亡中の怪我が元で命を落としている。三男の頼朝は、途中で一行とはぐれて平家に捕まった。このとき頼朝13歳。
京都へ送られた頼朝は当然死刑となるところを、平清盛の継母・池禅尼の嘆願により命を救われる。伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)へ流されることで許された。このとき頼朝が殺されていたら、のちの歴史はまた違ったものとなっていただろう。
義経は頼朝の異母弟に当たる義朝の九男で、平治の乱のときはまだ1歳だった。父親の死後、京都の鞍馬寺に預けられ、のちに奥州平泉へ移り、藤原秀衡の庇護を受けた。
頼朝が平家打倒に立ち上がったのは34歳のとき(治承・寿永の乱)だった。平泉から駆けつけた義経は22歳。源平の合戦は義経の派手な活躍で鮮やかに決着がついたような印象があるけど、実際には6年の長きに渡る戦いだった。
そんな歴史に思いを馳せながら津屋川の流れと彼岸花を見ると、また少し違った思いを抱くかもしれない。今年はもう駄目だ。遅すぎる。機会があれば、来年にでもぜひ行ってみて欲しいと思う。私も次に訪れることがあったなら、そのときこそ遅刻せずに行きたい。上流から小舟に乗って私が登場したときは、遠慮なく激写してください。私も舟の上からみなさんを撮りたい。
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