南宮大社は謎が多くて魅力的な神社

神社仏閣(Shrines and temples)
南宮大社鳥居


 垂井めぐりの最後に南宮大社(なんぐうたいしゃ)を訪れた(地図)。
 垂井(たるい)という地名を聞いてどこにあるのかすぐにピンと来る人はあまり多くないかもしれない。東海道本線の名古屋-米原間をよく利用する人なら、大垣と関ヶ原の間だっけくらいの認識はあるだろうか。住所でいうと、岐阜県不破郡垂井町になる。
 JR東海道本線の垂井駅(地図)からは1.5キロほどだから、歩くと30分かからないくらいだろう。
 新幹線の線路を越えるとすぐに大きな朱塗りの鳥居が現れる。高さ21メートルの鳥居は鉄製だそうだ。いつ誰が造ったのかは、ちょっと調べがつかなかった。それほど古いものではなさそうだ。



楼門

 南宮大社は、南宮山の麓にあり、いつ誰がこんな場所に建てたのか、よく分かっていない。周囲に何があるというわけではなく、南宮山が特別神聖な山という話も聞かない。祀られている神様は、金属の神である金山彦命(カナヤマヒコ)で、南宮山とは直接関係なそうだ。かつて垂井にあった美濃の国府(地図)からもだいぶ離れている。
 社伝では神武天皇即位のときに建てられたとしている。日本神話における即位は紀元前660年ということになっている。
 崇神天皇5年(紀元前92年)のとき、南宮山の上に移って、その後今の場所に移されたという説もある。
 現実的な話でいえば、かつて美濃の国府にあって、美濃国総社とされた南宮御旅神社(なんぐうおたびじんじゃ/地図)にあった南宮大社が、今の場所に移ったというのが実際のところなんじゃないだろうか。国府ができたのは奈良時代だから、創建年はさかのぼっても飛鳥時代だろうか。国府の南にあるから南宮の名がつけられたというのも、もっともらしい話だ。
 一説によると、壬申の乱(672年)のとき、大海人皇子(のちの天武天皇)が利用した野上の行宮(あんぐう)を社殿としたのが始まりという。行宮というのは、天皇や皇子が政変などで御所を追われて、一時的な仮の宮としたものをいう。野上行宮は、不破にあった尾張大隅の私邸で、関ヶ原に跡地とされる場所が伝わっている。もしくは、すでにその頃には南宮大社があって、大海人皇子が戦勝祈願をして、天武天皇即位後に、野上の行宮を南宮大社に送ったともいわれている。
 信濃の諏訪大社、伊賀一宮の敢国神社(あえくにじんじゃ)、摂津の廣田神社も南宮と呼ばれることがあり、諏訪大社と何らかの関係があることも指摘されている。諏訪大社を本山、南宮大社を中の宮、敢国神社を稚き児の宮とも呼ぶそうだ。
 神武天皇云々という話を話半分でも信じるならば、神武東征のときナガスネヒコとの戦いで神武天皇を金鵄(金色のトビ)が助けたというのが出てくる。これは金属製の武器や飛びもので戦って勝利したというのが伝説となったと考えていいのかもしれない。それによって神武天皇が大和を平定することができたとすれば、金山彦神は神として祀られる資格が充分にあったと言えるだろう。この時代に高度な金属加工をできたのは、大陸や朝鮮半島からの渡来人だった可能性が高い。
 いずれにしても、『延喜式神名帳』(927年)には仲山金山彦神社として載っていることから、すでにその頃までには歴史のある神社となっていたのは間違いなさそうだ。
 美濃国一宮であり、近代社格制度では1871年に国幣中社となり南宮神社と改め、1925年に国幣大社に昇格し、戦後に南宮大社と改称した。



門入り口

 思いがけずすごくいい神社で、期待していなかっただけに感動が大きかった。楼門は特に素晴らしい。
 楼門の向こうに舞殿が見え、拝殿、本殿と一直線に並んでいる。
 家光の再建ということで、ところどころに日光東照宮風な感じが見て取れる。楼門の上の図柄も、東照宮で見たものとよく似ている。眠り猫があるあたりの感じだ。



随神

 楼門の中で守りを固めていたのは、これも東照宮で見た随神(ずいじん)というものか。ちょっと自信がないけど、楼門にいて仁王像じゃないとすれば、随神しかないようにも思う。



狛犬

 門の裏には、狛犬がいた。姿形は違えども、この配置も東照宮と同じだ。
 関ヶ原の戦いの巻き添えで燃えてしまう前と、家光が再建したものとでは、ある程度変わってしまってんじゃないかと思うけど、どうなんだろう。随神、狛犬が守る楼門というのも、前は違っていたかもしれない。



拝殿

 楼門もいいけど、社殿がまたいい。南宮造と呼ばれる独特の様式で、朱塗りが美しい。
 関ヶ原の戦いで焼け落ちたのち、家光が再建したのもので、本殿、拝殿、楼門など、建物のほとんどは国の重要文化財に指定されている(18棟)。
 以前は国宝もあったようだけど、今は重要文化財に格下げとなっている。
 かつては21年ごとに式年遷宮が行われていたようで、室町時代以降は51年ごとになったという。一番最近では昭和47年というから、頑張れば次を見られそうだ。
 再建が叶ったのは、この地出身の竹中半兵衛一族や、家光の乳母だった春日局の願いによるところが大きかったようだ。春日局の父親は、美濃の守護代斉藤氏で明智光秀の重臣だった人物だ。だから、関ヶ原以前の南宮大社を春日局は知っていたのだろう。
 家光が再建したときは七千両かかったというから、今の価値に換算して3億5千万から5億円といったところか。まだ徳川幕府にお金がうなっていたときだからこそポンと出せた金額だ。
 再建がなったのは、関ヶ原の戦いから40年以上経った1642年のことだった。



参拝

 平日の夕方で、駅から離れたところに位置しているにもかかわらず、ポツリ、ポツリと参拝客がやって来て途切れない。なかなかの人気神社らしい。金属の神様にみんな何をお願いに訪れているのだろう。
 祭神の金山彦神(カナヤマヒコ)は日本神話に登場する神で、『古事記』では金山毘売神と表記される。
 イザナミ(伊弉冉尊)が、火の神カグツチ(軻遇突智)を産んで女陰にやけどをして苦しんでいるときに、嘔吐物(たぐり)から生まれたのが金山彦神とされている。一緒に金山毘売神(金山姫神)も生まれたと書かれている。金山姫神は、金山彦神の奥さん、または姉妹という。
 南宮大社では、金山彦神が主祭神となっていて、金山姫神は祀られていない。南宮大社の元宮とされる南宮御旅神社では金山姫神が祀られている。
 火の神を産むときの嘔吐物から生まれたというのは、金属加工を連想させる。なので、金属そのものよりも金属の加工を司る神といった方がよさそうだ。鉱山の神とするなら、かつての南宮山は何かの鉱物資源があった山だったのかもしれない。現在は金属関係の守護神とされていて、その方面の関係者がたくさん参拝に訪れるそうだ。
 配祀として、見野命と、彦火火出見命が祀られている。彦火火出見命は神武天皇とされる。見野命は、読み方からしても、美濃の神ということだろう。
 南宮大社を地図で見ると、斜めに傾いていることに気づく。社殿は東南を向いて建っている。北西には何があるのだろうとずっと辿っていくと、伊吹山にぶつかる。これは明らかに伊吹山を遙拝するように建てられている。不破の関を監視する神という説もあり、そうなると壬申の乱や天武天皇との関係も真実味が増してくる。



本殿

 本殿は大がかりな工事中だった。足場が組まれて、シートに覆われていたから、本殿を見ることはできなかった。
 関ヶ原の戦いで、毛利軍などが陣取ったのは、この奥左手あたりの南宮山麓だったか。現在の南宮山登山口は、南宮大社境内の左奥にある。
 毛利軍が動けないように山裾に吉川広家が陣取り、毛利軍その他を完全に押さえ込んだ。毛利秀元は山腹に、長束正家や安国寺恵瓊は後ろに控える形となり、進軍できないでいた。長宗我部盛親は更に後方に下がったところに陣取って最初から動く気がない。
 しかし、関ヶ原と南宮大社の両方に行ってみると、その距離は遠すぎて、南宮山というのは戦場でさえないことが分かる。戦場になった場所からは直線距離にしても7、8キロある。これでは戦況がどうなっているか見えるはずもない。山に登るといっても、山道が整備されていない当時のことだ、何千、何万の軍団で登れるはずもない。せいぜい物見がいて、現地と行き来する伝令で状況を知ったという程度のことだろう。まさか戦闘が半日で終わってしまうとは思ってなかったといえばそうかもしれない。それにしても、ここからではあまりにも遠すぎてやる気がなかったと思われても仕方がない。それなのに、なんで南宮大社は焼け落ちてしまったのだろう。
 やる気がなかったといえば、長我宗部盛親だ。四国の覇者となった長宗我部元親の四男でありながら兄たちを差し置いて家督を継いだ有能な元親も、関ヶ原ではいいとこなしだった。
 最初は東軍につくつもりで使者を送ったら、近江で西軍に阻まれて、意志を伝えることができずに、なんとなく西軍に組み込まれてしまった。戦後、自分は戦闘には参加しなかったし、東軍につくつもりだったと、井伊直政に頼んで家康に取りなしてもらって一時は許されたものの、お家騒動で兄の津野親忠を殺してしまい、これが家康の怒りを買って土佐の領地没収となってしまう。
 京都に送られて謹慎生活を余儀なくされ、その後寺子屋の師匠となった。
 転機が訪れたのは、1614年、豊臣家に招かれて、家臣として取り立ててもらえることになった。そして張り切って出陣した大阪冬の陣だったのに、ここでも出番がないまま戦は終結してしまう。かなり激戦が予測されたところに配置されていたのに、まるで戦の方から盛親を避けていくようだった。
 盛親が唯一活躍した戦いは、八尾の戦いだった。徳川の藤堂高虎軍と激戦を演じて、壊滅寸前にまで追い込んだ。ただ、相手の援軍が来て撤退となり、翌日の天王寺・岡山での最終決戦には参加しないまま大坂城の守りに回った。
 もう駄目だと悟った盛親は逃亡。京都に潜んでいるところを蜂須賀の家臣に見つかって捕らえられ、二条城の外で縛られたあと、六条河原で斬首された。
 力があっても運がない武将はこうなるという一つの例がここにある。



神仏習合の名残

 すべてが派手な朱塗りというわけではなく、こういう渋い建物もある。
 江戸時代までには神仏習合の神社として発展して、明治の神仏分離令が出るまではたくさんの仏堂を持っていた。護摩堂や本地堂の他、三重塔などもあり、それらは現在、南宮大社近くの朝倉山真禅院(地図)に移築されている。



隼人社

 いくつかの摂社がある中で、拝殿奥にある隼人社は重要なところなので、一声挨拶をしておいた。写真は、樹下神社かもしれない。隼人社はその隣だとすると、回廊からじゃないと見えなかったような気がする。
 京都の四条でさらし首になっていた平将門の首が関東に飛び立ったとき、再び反乱が起きることを恐れた南宮大社の隼人神は、飛びゆく将門の首を弓矢で射落としたという伝説がある。そのとき首が落ちた場所とされる岐阜県大垣市荒尾町には御首神社(みくびじんじゃ)というのがあり、そこでは将門の首を祀っている。
 首が落ちたとされる伝承地は他にもいくつかあって、東京大手門にある首塚が一番有名だろう。ここには数々の伝説もある。
 体の各パーツを祀る神社があるのは平将門くらいのものだ。首だけでなく、足とか手とか胴体とか鎧や兜などを単品で祀る神社が東京にある。全部回ってパーツを揃えると、将門を味方につけられるようになるかもしれない。本体は言わずと知れた神田明神だ。
 東国出身で、朝廷に刃向かった将門のことが江戸っ子は好きだったようで、将門様として神田明神を中心に将門信仰といったようなものがあった。時代が明治になったとき、朝敵である将門を本社の祭神にしておくのはまずいということで別殿に移すことになり、そこでひともんちゃくあった。氏子たちは怒り、新しく迎えた少彦名命の本社には賽銭を入れず、別殿に移された将門の方にばかり入れたという。
 神田祭が台風で中止になったときは、将門様のお怒りだと新聞にも書かれるほどだった。戦後、首塚を移動させようとしたGHQに次々と災難が降りかかり、ついには動かすことを断念したなどという都市伝説も生まれている。



お堂

 右手には朱塗りの小さな門があって、こちらにはお寺の名残と思われる大きなお堂のような建物が建っている。



絵馬

 満載の絵馬が、南宮大社の人気を物語る。



南宮大社門前

 南宮大社前は、ちょっとした門前町になっている。昭和の風情が漂っていていい感じだった。
 なかなかついでに寄れるようなところではないとは思うけど、機会があればぜひ一度訪れて欲しい神社だ。

 醒ヶ井から垂井までの思い出編でシリーズ完結 ~滋賀岐阜歴史編18
 
【アクセス】
 ・JR東海道本線「垂井駅」から徒歩約30分
  またはタクシーか車で
 ・無料駐車場 あり
 ・レンタサイクル 500円
 ・拝観時間 終日

 南宮大社のwebサイト
 
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コメント
  • 2008/10/20 21:23
    前略 以前 南宮大社の神職さんに この辺りから挙兵の南朝方の亀山上皇の皇子でその王子が信楽に陣する歴史でいきました いいところです ところで ヤフーのブログから 歴史 明治天皇 替え玉と入力し検索 2面11正統ー 12昨日ーに書き込みました 参考まで 仙
  • 南北朝時代
    2008/10/21 04:45
    ★伊勢の仙さん

     こんにちは。
     情報ありがとうございます。

     南宮大社と南北朝時代が関係あるとは知らなかったし、思ったこともなかったです。
     やっぱり、一度南北朝時代は流れを追って勉強し直さないといけません。
     そのためにはフィールドワークが大切だから、吉野も一度行かないといけないかなぁ。
     行けば収穫も多いはず。
     ちょっと見当してみます。
  • 質問
    2008/12/26 20:07
    唐突ではありますが、質問があります。「彦火火出見命は神武天皇」とはどういうことですか。なぜそう言えるのですか。浅学のため、山幸彦が神武天皇であるということは聞いたことがありません。このことについて何かお教えいただけたら幸いです。
  • 伝説ではあるけれど
    2008/12/27 01:39
    ★やっぴーさん

     こんにちは。
     神武天皇は伝説の初代天皇で、その実在が疑われていたり、諸説あってはっきりしたことは分かっていませんが、「日本書紀」に、彦火火出見は兄の五瀬命(いつせのみこと)たちと故郷の高千穂を出て、九州を平定しながら難波に至り、大和で地元の豪族に敗れて兄の五瀬命が命を落とし、彦火火出見は紀州に逃れたあと熊野から大和に入り、激戦の末大和を平定し、橿原宮で初代天皇として即位した、という記述があります。
     別の説では、彦火火出見は神武天皇の祖父というのもあります。
     その他、神日本磐余彦尊や、始馭天下之天皇などの異名もいくつかあるようです。
     即位していた年数が長すぎるとかいろいろありますが、建国記念の日は神武天皇が即位したとされる日だったりもするので、完全な作り話とも思えません。
     いずれにしても、多くは伝説で、はっきりしたことは分からないというのが実情だと思います。
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