
今回の大須散策では、エリア内にある神社仏閣を全部まとめて回ってしまおうと考えていた。地図を見ながら主立った神社はすべて回りきったつもりだった。しかし、家に帰ってきてから確認してみると、三輪神社を一つ見落としていたことが分かった。三輪神社といえば、この前行った奈良の長谷寺や室生寺に近い三輪山と関わりが深い神社だ。こんな大事なものを逃してしまったのは失敗だった。もう一回大須へ行かなければいけない理由ができた。エリアから一本外れているという理由で行かなかった若宮八幡宮とあわせて、近いうちに行かなければならない。
名古屋人もあまり知らない名古屋総鎮守の若宮八幡社
大須の三輪神社はエピソードや楽しみがいろいろ
今日のところは、巡ってきた3つの神社を紹介しようと思う。
まずは春日神社から。
地下鉄上前津駅を出てすぐ、交通量の多い大須通りに面してそれはある。上の写真は、反対車線から見た神社の全景だ。このあたりはビルが建ち並ぶところで、よくぞこれだけでも残ったと思う。昔はもっと広かったに違いないけど、この場所でこれだけ残ればまずは上出来だろう。万松寺の鎮守だった桜天神社などは、栄の錦でビルの谷間のようなところにこそっと入り込んで肩身の狭い思いをしている。
受験シーズンの桜天神へ

大通りに面しているのに、鳥居をくぐって一歩中に踏み入ると、店の中に入ったみたいにふっと音が消えて静かになる。この空間だけ少し空気も違うようだ。
社殿は春日大社に似せて造ってある。春日造と呼ばれる様式だ(切り妻造の妻入)。朱塗りの感じもそれっぽい。
戦後の昭和34年(1959年)に再建されたものだから、まだまだ新しい。といってもそろそろ50年だから、修理や塗り直しくらいはしてるだろうか。
創建の時期ははっきりしていない。平安時代の948年とか938年とか、そのあたりに奈良の春日大社から4柱大神の分霊を勧請したのが始まりとされている。どうして尾張のこんな場所に春日さんを呼んだのかと思ったら、春日大社を創建するとき常陸の国(茨城県)の鹿島神社から迎える神(白鹿に乗った武甕槌命)がここに泊まったからだそうだ。そんな話があるわりには、尾張には春日神社はほとんどない。
1500年代のはじめ頃、前津小林城の牧与左衛門尉長清という人物が社殿を建て直したりして整備したと伝わっている。
尾張藩2代藩主の徳川光友が生まれるときに、母親がこの神社で安産祈願をしたともいわれている。この乾の方のエピソードについては、大森寺のときに書いた。
あれには後日談というか、別のエピソードがある。百姓の娘だった乾の方は、自分のような卑しい身分の人間の股から殿様を産むのはよくないといって、自ら腹を切って産んだという。成長してからその話を聞いた光友は、母の供養のために名古屋城にでかい大仏を造らせた。これが陶器でできた大仏で、戦時中避難させていたものが、どういう経緯があったのか、巡りめぐって湯河原温泉の福泉寺に首だけあるらしい。湯河原なんかには行く機会がなさそうだけど、行ったときはぜひ見てみたいものだ。
昔は村の鎮守様として大事にされていた春日神社は、上前津地区の氏神様になっている。

祭神は、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と経津主命(フツヌシノミコト)で、春日大社と同じだ。経津主神と建御雷神も祀られているかもしれない。
社殿は新しくても、神社としては歴史がある。名古屋城の築城よりもずっと前からここにいた。江戸時代は相当広い境内だったという。

この吊り灯篭も春日大社で見た。同じものかどうかまでは分からない。そこまではっきりは見てないし、覚えていない。
朱塗りの色がちょっと安っぽいというかペンキっぽい。色も少しピンクがかっている。近くで見ると仕事が素人っぽい。塗りムラがある。経費削減のために関係者が塗ったか。
春日大社の朱は本朱と呼ばれる特別な顔料が使われていて、ものすごくお金がかかっている。色あせしにくいという特徴があるのだけど、一般の神社ではそんな高価な朱は使えないのでベンガラなどで代用している。そのため、時間が経つとオレンジに近いような色になってしまう。

この狛犬変わってるなと思ってよく見てみると、なるほど、鹿かと気づく。春日さんの神の使者は鹿だ。だから神社を守っているのも鹿でいいのか。
右は雄だったようだ。よく見なかったから気づかなかった。そっちを見れば角が生えているからすぐに分かった。

大須観音の裏手に、ひっそりと小さな神社が鎮座している。北野神社だ。実はこれが大須観音のいわば本家の方で、この神社の一部である神宮寺が大須観音だった。
そのあたりの経緯は大須観音のときに書いた。けど、知らない人が多いのだろう。大須観音があんなにも賑わっていたのに、こちらを訪れる人はほとんどいない。そんな案内板みたいなものも立っていないから、みんな知らないまま通りすぎてしまう。

撫で牛はまだ新しそうで、白々としていた。古いところでは、撫でられてテカテカになっている。これはあまり撫でられている様子がない。
村社だから、やはり格のある神社だ。社格というのは、今では有名無実という建前でありながら、まったくなくなったとは言えない。厳然とあるといえばあるのかもしれない。
神社は、大きく官社と諸社に分けられる。官社というのは文字通り官が統括するもので、官幣社と国幣社と分かれ、それぞれ大・中・小の格がある。別にそんなものを覚えても日常生活にはまったく役に立たないけど、上から官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、官幣小社、国幣小社、別格官幣社の順に格付けされる。
官幣大社は京都、奈良などをのぞいて一県に一つくらいで、たとえば東京なら明治神宮、愛知なら熱田神宮といったところだ。
諸社は府社と県社が同等で、郷社、村社、無格社の順になる。全国の半数の神社が無格社だから、各のある神社というのはそれだけ重要度が高いといっていい。実質的な差はさほどないらしいけど。
神社の世界というのも、一般にはあまり馴染みのないところでいろいろあるようだ。学校でも教えないし、テレビでもやらないから、自分で調べないと分からないことが多い。

梅の紋でお馴染みの天神さんだ。祭神は当然、菅原道真になる。
学問の神様と観音信仰がどうして結びついたのかについては、大須観音のところでは省略してしまったので、ここで少し書き加えておこう。
そもそもは、1324年に後醍醐天皇が長岡庄(岐阜県の大須)に北野天満宮を造らせたのが始まりだ。これがのちに、清洲越のときに大須観音と共にこの地に移ってきて、北野神社となった。
後醍醐天皇が天満宮を建てたのは、まだ菅原道真の怨念を恐れる気持ちがあったのだろうか。
宇多天皇に重用されて出世街道をひた走った菅原道真は、次の醍醐天皇に嫌われて九州太宰府に左遷され、その地で無念の死を遂げる。これが平安時代の903年のことだ。その後、都では次々と関係者が謎の死を遂げ、人々は道真の怨念だと噂し合った。とうとう醍醐天皇もショックのあまり死んでしまい、いよいよ道真は怨霊だということになった。これを鎮めるために建てられたのが、太宰府天満宮であり、京都の北野天満宮だった。
道真の死から400年以上経った時代に、人々は天神様のことをどう思っていたのだろう。まだ怨霊として恐れていたのか、その頃はすでに学問の神様としてあやかろうと思っていたのか。どういうつもりで後醍醐天皇が長岡庄に北野天満宮を建てさせたのはか分からない。1324年といえば、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画が発覚した年だ。とすれば、道真の怨霊を恐れたというよりも、むしろ道真を味方に取り込もうと考えていたなんてこともあるかもしれない。二度目の倒幕計画が発覚して、後醍醐天皇は1332年に隠岐島に流された。その後、復活して南朝吉野で朝廷を開き、南北朝時代が始まるのはまた別の話。
大須観音に話を戻すと、後醍醐天皇は僧の能信上人に深く帰依していて、能信上人に北野天満宮を守るための寺を造るように命じた。それがのちの大須観音だ。
能信上人は伊勢神宮に100日こもって、どの仏様を祀ればいいでしょうと一心不乱に祈ったところ、それなら観音様にしないというお告げを聞いて、観音寺を建てることにしたのだった。こうして、一見何のつながりもない天満宮と観音寺がくっつくことになった。

隣には、正一位稲荷大神と染め抜かれた旗が立ち並ぶ稲荷さんがある。
正一位(しょういちい)といえば、最高位を表す称号だから、すごく偉いように思うけど、基本的にこれは勝手に名乗っているだけで、名乗ることを特別に許されているとかそういうことではない。お稲荷さんの総本社である伏見稲荷大社が正一位で、そこから勧請した全国の稲荷神社がそれならうちも正一位だと言い張っているだけだ。

次にやって来たのが、富士浅間神社だ。1495年、後土御門天皇の勅命で駿河の浅間神社から勧請して建てられたとされている。
春日神社と同様、前津小林城の牧与左衛門尉長清が再建している(1527年)。
現在の社殿は、昭和4年(1929年)に改築されたものだそうだ。ということは、ここは空襲で焼け残ったのか。

狭い神社ながら、たくさんの神様がぎゅうぎゅう詰めになっている。浅間神社なら木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)は当然のこととして、瓊々杵命、大山祗命、天照大神など多数の神様を祀っている。境内社も、稲荷神社、天神社、出雲社、金比羅社、秋葉社と、いいとこ取りの寄せ集めのようになっている。それだけもともとは大きな神社だったということも言えるし、明治の廃仏毀釈の波をかぶった神社でもある。もとは、富士山観音寺清寿院という寺の鎮守だったのがこの富士浅間神社で、明治になってこの神社だけが残って今に至っている。
清寿院は修験道の寺で、富士山観音寺とも呼ばれ、のちに藩命で清寿院と改めたという経緯があった(1667年)。
広い境内には芝居小屋や見せ物小屋まであって、大変な賑わいだったという。
ここには尾張三名水のひとつ、清寿院柳下水と名づけられた井戸があった(他のふたつは蒲焼町の扇湯の井戸、清水の亀尾水)。供水に使った井戸水は、将軍が上洛したときに飲用水として出されたそうだ。

いろんな神様がいる神社は、ちょっと変わった神も招待した。招き猫ならぬ招き狐だ。そんなのいたっけ?
妙に真新しい拝殿には「まねき稲荷」という額がかかっている。

中をのぞき込んでみると、確かにお狐さんが招いている。犬がちょっとした芸をしてるところのようにも見える。お手、おかわり、みたいだ。
狐の石像も、つい最近彫りましたという姿をしている。これを新たな大須名物にしようという狙いか?
けど、招き猫のルーツは狐だという説があり、それによると本家は招き狐で、招き猫はそれのパロディーなのだという。実際、伏見稲荷には手招きしている古い狐の人形がある。そもそもは狐が商売繁盛や縁起物の象徴で、それが猫に変わっていったのは神聖な狐をそんなふうに人形にするのを明治政府が禁じたからだなんだとか。
確かに、猫が縁起のいい生き物と思われるようになったのは最近のことで、昔は魔性という感覚が強かったのではないかと思う。そう考えると、猫がお金や人を呼び寄せる縁起のいい生き物だという発想は不自然ではある。

今回の大須神社レポートはここまで。
次回はお寺編だ。
ゆく寺くる寺---寺町大須400年の歴史に思いを馳せる ~大須6回
【アクセス】
・地下鉄「大須観音駅」または「上前津駅」下車。徒歩で。