江戸時代の四間道の頃から名古屋人は広い道路が好きだった ~四間道1 - 現身日和 【うつせみびより】

江戸時代の四間道の頃から名古屋人は広い道路が好きだった ~四間道1

四間道1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 名古屋には4つの町並保存地区がある。この前紹介した中小田井、東海道の宿として有名な有松、かつての武家屋敷だった白壁・主税・橦木界隈、そしてもう一つが今日紹介する四間道(しけみち)だ。有松と白壁もHPの散策ページに写真を載せているのだけど、ブログには書いてないからそのうち再訪して写真を撮ってこようと思っている。今日はまず四間道について書こう。
 円頓寺商店街と四間道は、どちらも那古野1丁目にある。町並保存地区は、円頓寺商店街の南側、堀川の西側あたりになる。
 円頓寺商店街から先に行くなら、鶴舞線の丸の内で降りて、8番出口を出たら最初の角を左折して7分ほど歩くと五条橋に出る。上の写真がそうだ。橋を渡ってすぐ先に円頓寺商店のアーケード入り口がある。
 四間道から行くなら、桜通線の国際センターで降りた方が近い。ここから10分弱くらいだ。名古屋駅から歩いても20分ちょっとだろう。
 那古野は、町の名前としては「なごの」と読ませる。ちょっとややこしいのは、この文字で「なごや」と読ませるところもあることだ。那古野神社は「なごや」だし、信長が生まれたとされる那古野城も「なごやじょう」だ。もともとはこの地を治めていた那古野氏に由来している。
 更に話をややこしくしているのが、那古野1丁目と那古野1丁目が隣り合わせに2つあることだ。どういうことかというと、南は中区の那古野1丁目で、北は西区の那古野1丁目となっている。でも、番地は続き番号になっていて、南へ行くほど数字が大きくなる。郵便配達の間違いはなさそうだ。しかし、なんでこんなことになってしまったのだろう。
 町並保存地区は、北側の西区の那古野1丁目の方だ。南も一部古い町並みが残ってはいるのだけど。

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 今回私が歩いたコースは、五条橋を渡って堀川沿いの四間道を南下して、中橋を見て、そこを西へ入って浅間神社に参拝したあと北上して円頓寺商店街を歩き、細い路地を右へ左へ行ったり来たりしながら南へ下って、最後は桜通に出るというものだった。写真の並べ方は、だいたい歩いた順番になっている。
 場所柄、古い家の屋根の上からは名駅のタワー群がひょこひょこ頭を出している。これはこれで面白い光景だけど、この10年で四間道の風景もずいぶん変わったことになる。10年前はまだ超高層ビルは1本も建っていなかった。

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 昨日も書いたように、このあたりは清洲越によって作られた町並で、自然発生的にできた町ではない。堀川もまた、熱田と名古屋城を結ぶ人工的な川だ。当時、たくさんの物資を運ぶのは、陸路よりも水路の方が便利だった。だから川沿いに町を作るのは理にかなったことだったのだ。
 商家の表は、物資の出入りが便利なように堀川の方を向いていて、土蔵を家の裏手に並べた。現在もその名残が色濃く残っている。 
 このあたりが四間道と呼ばれるようになるのは、1700年に元禄の大火と呼ばれる火事があって以降のことだ。円頓寺付近から火が出て、あたり一帯1600軒以上の町屋と15の寺社がことごとく燃えてしまった。
 このとき尾張藩4代藩主の徳川吉通は防火方法を研究させて、問屋の裏手の道幅を4間(約7メートル)に広げた。四間道の呼び名はここから来ている。これは延焼を防ぐためで、同時に道の東側の建物をすべて土蔵造りにさせている。工事は40年にも渡ったという。
 なので、四間道という名前の町や道があるわけではない。このあたりの通称のようなものだ。

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 どの家が本当に古い家で、どれが町並保存に合わせて改築されたものなのか、今ひとつ区別がつかない。ぴかぴかに黒い格子などもあって、近づいて見てみると、これはけっこう新しいんじゃないかと思わせるところもある。
 町屋造りの特徴としては、低い二階建てというのがある。上の写真などがそうで、現代の二階建て家屋と比べると二階部分の背が低いのが分かると思う。
 一階、二階ともに格子がはめられ、壁は基本的に黒く塗られている。土蔵は白壁だ。

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 中橋から見る堀川と、向こうに見えている橋は、桜通に架かる桜橋だ。
 中橋も古い橋で、現在のものは大正7年に架けられたものだ。
 堀川にはかつて七つの橋が架かっていて、それを堀川七橋と呼んでいる。上流から、五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋と並び、熱田へ至る。今は道路がたくさんできたからその数だけ橋も増えたけど、昔は名古屋城から熱田まで7つしか橋がなかった。それだけ橋を架ける工事が大変だったということもであるだろう。

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 ここ最近の四間道は少し流れが変わってきている。一種の流行ものとも言えるのだけど、古民家をそのまま利用したカフェやレストランがいくつかできた。cafe de SaRaやNagono Salonは平成15年に名古屋市都市景観賞を受賞している。
 これによって若いカップルや奥様たちが集まるようになってきて、少しずつ賑わいを見せ始めているようだ。住人にとってはあまり歓迎したくないこともかもしれないけど、もう少し知名度が上がってもいいと思う。名古屋駅から歩いてこられる場所だから、県外からの観光客が訪れてみたいというくらい魅力的なところになる可能性がある。黒壁の町として町おこしに成功した滋賀県長浜を見習いたい。あんなに人が訪れると邪魔くさいにしても、名古屋人がもっと訪れる町になってもいいんじゃないか。

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 その町を訪れたなら、地元の神社へ行って挨拶をしていけというのが散策の鉄則(?)だ。地域の神様と顔つなぎをしておくのは決して損にはならない。こういう縁を大事にしておくと、いつかどこかで思いがけない御利益があるものだ。
 那古野の神様は、浅間神社(せんげんじんじゃ)だ。創建は1647年とされている。
 祭神は、木花之開耶姫(コノハナサクヤヒメ)だ。どういうわけか、ここに富士山の神様が祀られている。誰が建てたのかなど、詳しいことは分からない。もともとは別の場所にあった神社で、1647年というのはこの地に移ってきた年だという話もある。
 木花之開耶姫と浅間神社については、河口湖へ行ったときに書いたので、ここでは繰り返さない。

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 境内は間口が狭く、奥行きがある。なかなかきれいに手入れされていて、気持ちがいい。
 樹齢300年以上の欅(ケヤキ)や楠(クスノキ)などがあって、保存樹に指定されている。

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 浅間神社の北方向は、左手に町屋、右手に土蔵が並ぶ。この道が四間に広げた道ということになると思う。
 この並びに清州越十人衆の一人、伊藤家の町屋と蔵が並んでいるはずなのだけど、どれがそうなのかはよく分からなかった。たぶん一番立派なところがそうだったのだろう。上の写真がそうなのかもしれない。
 江戸時代の尾張では、清洲越をした家というのが一つのステータスだった。江戸に三代住んでこそ本物の江戸っ子と言えるというのと同じで、それくらい古くから尾張名古屋に暮らしているということを意味するからだ。
 伊藤家というのは、尾張藩御用達の米穀問屋で、名字帯刀を許された名家だった。このあたりは伊藤姓が多く、松坂屋を興した伊藤家と区別するために川伊藤と呼ばれたそうだ。
 名古屋も第二次大戦末期に空襲でずいぶんやられている。名古屋城もそうだし、市内の多くは焼け野原になった。ただ、東京ほどではなかったので、ところどころ焼け残ったところもあり、四間道も焼けなかった場所の一つだ。なので、こういう町屋や土蔵が今に残っている。

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 食べ物屋さんではなさそうだけど、着物屋さんか服屋さんか、そんな店もある。

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 四間道を訪れた人がほとんど撮ってしまう家。植木や花がセンス良く飾り付けられていて、目をひく。風景の彩りとしてありがたい存在だ。

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 これはレストランじゃないかと思う。昼食か休憩を終えたらしい料理人が外から戻って中に入っていった。
 休憩なしの私にとっては必要のないところだけど、普通の人にはあるとなしでは大違い。散策の途中で一休みしたりランチを食べたりできる店があるというのは大事なことだ。

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 四間道ガラス館なる店もあった。こういうのを見ても、四間道は確実に変わっていっていることを実感する。古い町並みだけど、ただ守っていくというだけでは古びてしまうばかりだ。外から人が訪れない町はゆっくり朽ちていく。人の住まない家がすぐに駄目になるのと同じだ。
 名古屋市もただ保存するというだけではなく、もう少し人を呼ぶための宣伝などをしてもいい。名古屋人でも名駅近くにこんな古い町並みが残ってるのを知らない人が多いはずだ。この町にはもっと可能性を感じるから、いかさないのはもったいない。

 明日はこの続きで四間道後編になる。まだ屋根神様も登場していない。次回はそのあたりを中心に紹介していきたい。
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