
Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS
縄文時代の日本は、今よりも気温が1~2度高く、海面は4~5メートル高かったと考えられている。なので、現在の名古屋市はほぼ全域が海の底で、一番北にある守山区に海岸線があった。それゆえ、このあたりは早くから人が住み始めた場所で、古墳なども多く残されている。
平安から室町時代になると海岸線はぐっと南に下がり、名古屋の北側は奥地となった。その頃は、善光寺街道と瀬戸街道沿いにポツリ、ポツリと集落があるような農村だったという。守山区も森山と表記されることが多かったようだ。
昨日から紹介している瀬古地区がちょうどそういう地域に当たり、せこの郷と呼ばれていた。せは背中、こは場所を表し、裏手といった感じだろうか。
善光寺街道というのは、その名の通り、長野の善光寺へ行くための道だ。京都や大阪、江戸など、それぞれの国にある脇道で、東海道のような公式の一本道とは違う。尾張の場合は、東海道と中山道を結ぶ近道として発展したという歴史がある。江戸時代に入ってからは藩によって整備され、ますます重要な道となっていった。
瀬古にはその名残がわずかにあって、現在の天神橋から瀬古商店街を北上し、瀬古小学校の東から勝川橋までつながっている。当時は矢田川、庄内川ともに橋がかかっておらず、渡し船でいくか、水が少ないときは歩いて渡ったそうだ。国道19号線が開通してからは、旧道もすっかりすたれて忘れられてしまった。
上の写真は、瀬古東一丁目あたりの善光寺街道で、朱塗りの祠(ほこら)がある。これと似たものがあちこちにあるから、街道と関係があるものなんだろう。旅人の安全を守るためなのか、子供を守るためという話もある。
今日は瀬古散策の本編となる。目的の水屋は発見できなかったけど、水屋とは何かというあたりも書いていきたい。

道ばたの石仏がお寺に属するものなら、祠は神社の小型版のようなものだ。中に仏像が入っていたりすることもあるそうだから、ミニ神社と言い切ってしまうのは問題があるのだろうけど、町や村の素朴な信仰の表れには違いない。
祠は、ほくら(神庫または宝倉)から転じたものだと言われている。

瀬古地区の祠がいつからあるものなのかは知らない。見た感じそれほど古いものではなさそうだから、江戸時代とかではなく、昭和に入ってからのものかもしれない。
古くなったら作り直しているとすれば、元々あったものは江戸とかもっと古いという可能性もある。
手間の花は、アガパンサスだと思う。南アフリカ原産のユリの仲間だ。明治になって日本に入ってきたものだから、江戸時代の風景には似合わない。

これは鳥居を持っているから、ちょっと本格的な祠だ。ここまでくると、神社の小型版と言って差し支えないと思う。
こういうものが町の風景に溶け込んで点在しているというのも、このあたりのいいところだ。

水屋を探して歩き回っているときは、どの道が善光寺街道か分かっていなかったから、とにかく細い道があったら入り込んでみた。路地裏フリークかというほどの路地裏歩きを見せる私。

わ、懐かしいと思った。昭和40年代、50年代の長屋風景だ。久しくこんな風景は見てなかった。小学生くらいまではまだこういう家がけっこう残っていたけど、気がついたらいつの間にかなくなっていた。ずっと忘れていた小学生のときの感覚がよみがえった。

おおお、これまたすごい。まだこんなアパートが残っていたか。表にも生活感があふれ出していて、すごいことになっている。純昭和アパートとでも呼びたくなるようなものだ。
昭和40年代に見たとしても、このアパート年季が入ってるなと思っただろう。

水屋探しから、だんだん昭和の路地裏探しに目的が変わっていった。このあたりもなかなかのものだ。車はすれ違えないどころか、入っていくのもためらわれる細さだ。
名の知れた観光地でなくても、日本のいたるところにまだまだ昭和の面影というのはたくさん残っているのだろう。車を降りて、一本、二本、奥へ入っていけば、こんな光景と出会うことができる。

水屋探しはいっこうに進展を見せず、疲労だけがたまる。
外から見たら石垣が見えたから、もしかしたらこんな森の中にも水屋は埋もれているのかもしれない。どこかでそんな情報も見たのだけど、それがここかどうかは分からない。

小学校の西側に細くくねった道があって、そのあたりが怪しいとにらんで何度も行き来した。この家もそれっぽさを漂わせるのだけど、水屋とは違うようだ。
ただ、いかにも昔のお金持ちの家といった趣で、当然ここも水屋を持っていたに違いない。
帰ってきてから、ここがかつての庄屋さんだった家だということが分かって、なるほどと納得した。

庄屋さんの家の敷地内にあって、一段高くなっているこの建物がどうやら水屋っぽい。生け垣と木々に遮られて、下の方が見えないので確信は持てないのだけど。
このあたりは庄内川と矢田川がたびたび氾濫して水浸しになって、その自衛策として高く土を持って垣を築き、食料貯蔵庫兼避難住居として建てた建物を水屋(みずや)という。一般には蔵式と住居式があって、ここは両方を兼ねた住居倉庫式と呼ばれる形式のものが多かったようだ。
ただし、こういうものを持っているのは中流以上の家で、持てない家は洪水のたびに大被害をこうむっていた。もともと低湿地帯で、窪地のようになっていたことから、一度水に浸かるとなかなか水が引かずに、引くまでに数週間からひと月以上もかかったという。だから、水屋は住居としての機能も持っていなければいけなかったというわけだ。その間は、備え付けの舟で行き来をしていたそうだ。
かつてたくさんあった水屋も、現在は3つほどが残るだけとなった。その中の一番水屋らしい水屋が、私の探していた東龍(あずまりゅう)という酒屋さんのものだった。結局どこにあったかというと、小学校の東の路地を北へ進んだ先だった。近くまで行けば案内標識が出てるそうだ。
そんなわけで、私の水屋探し瀬古散策は、メインディッシュ抜きで終わりを迎えることになってしまった。昭和の路地やアパートなどの収穫はあったものの、肝心のものが発見できずに消化不良の気分が残った。
このままでは終われないから、もう一度出直そうと思っている。少し離れたところには、守山城跡の宝勝寺や、大永寺などもあるから、そちらとからめて巡っていこう。大永寺地区や、庄内川を渡った勝川地区にも水屋があるようだから、余裕があればそちらも回りたい。
守山区も、大森、小幡よりも北西の地域はほとんど馴染みがないから、もう少しあちこち行って詳しくなっておきたい。
瀬古シリーズとしては、神社仏閣編がまだ残っている。あさっては遠出で、明日は早寝なので、ちょっと間が空きそうだ。神社仏閣は生ものではないから、またそのうちゆっくり書こうと思っている。
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