密蔵院には多宝塔があるというべきか多宝塔しかないというべきか

神社仏閣(Shrines and temples)
密蔵院-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 春日井の外れに密蔵院(みつぞういん)という寺がある。神社仏閣好きの間では、重要文化財の多宝塔がある寺としてちょっとは知られた存在なのだろうけど、一般的な知名度は高くない。かつてこの寺が尾張地方における天台宗の中心地だったと知る人もさほど多くないだろう。
 最盛期には境内に36の建物が建ち並び、尾張・美濃を中心に全国11の国に700以上の末寺を有し、修行僧が3,000人もいたという。この前出てきた竜泉寺も、この密蔵院の末寺の一つだった。
 それ以前、この地方の天台宗の中心は、小牧にあった大山峰正福寺(通称大山寺)だった。現在、大山寺は跡地として残るばかりで、かつての栄華の面影は何も残っていないという。当時は比叡山延暦寺、姫路の書写山円教寺(このブログで以前登場した)と並んで天台宗三大道場といわれていたというのに、寺の浮き沈みというのも激しいものがある。
 天台宗は法蓮華経を教典として中国で生まれた宗派で、初め鑑真和上が来日した際に典籍が持ち込まれ、平安時代のはじめに向こうで修行した最澄が帰国(806年)して伝えたのが、日本における始まりだった。
 総本山は言わずとしれた比叡山延暦寺だ。ここから円仁、円珍など多くの高僧が育っていった。
 最澄の一年後に唐から帰国したのが弘法大師空海で、最澄は一時空海に弟子入りして密教の本流を学ぼうとしている。しかし、両者は考えの違いから別れ、空海は真言宗の祖となり、最澄も独自の密教を深めていくことになる。
 比叡山延暦寺というと、織田信長を思い出す人も多いかもしれない。延暦寺焼き討ちによって信長の残虐性が際立つことになってしまったのだけど、延暦寺にも大いに問題があった。
 室町時代になると延暦寺は武装化を強め、独立国家のようになっていた。時の権力者にも平気でたてつき、強大な権力と武力と資金を抱えて、好き放題にやっていた。奈良の興福寺もそうだったという。
 このまま放置しておくわけにはいかないと最初に立ち上がったのが室町幕府六代将軍の足利義教(くじ引きで選ばれた将軍)で、曲がりなりも制圧に成功したものの、義教が死去すると再び武装化に走り、戦国時代には織田信長に対して徹底抗戦の姿勢を見せる。山にこもった僧兵4千人に何度となく武装解除するように通達するもまったく聞き入れず、ついには焼き討ちという事態にまで発展してしまった。
 この信長と延暦寺との対立が全国の天台宗に与えた影響は大きく、これをきっかけに密蔵院初め、多くの天台宗の寺は衰退していくことになる。たくさんあったこの地方の天台宗の寺も、現在は竜泉寺と守山区瀬古東の石山寺しか残っていない。
 信長の死後の延暦寺がどうなったかというと、秀頼、家康、家光らによって僧坊は再建され、さすがに懲りたのかその後はおとなしくなった。家康の死後は、天海僧正によって江戸の鬼門の守りとして建てられた上野東叡山寛永寺に実権が移った。
 1994年には世界遺産に登録されている。
 天台宗のその他の大本山としては、日光の日光山輪王寺、岩手県平泉の関山中尊寺、長野の定額山善光寺大勧進がある。
 以上が、長い前置きとなった天台宗スタディだ。本編の密蔵院については、実はあまり書くことがないので、前置きに力を入れてみた。見所としても多宝塔しかないから、写真もほとんどそればっかりだ。かつての繁栄の面影は、多宝塔にわずかに残るばかりなのだった。

密蔵院-2

 多宝塔を見に来たのは、これで3回目か4回目になる。最初は2005年の1月で、その後1回か2回、桜を見るために訪れている。だから新鮮味はないけど、それでも何度見ても立派なものだと感心する。
 正式名称を二重塔婆(にじゅうとうば)という。といっても実際には二重ではなく一重の造りになっている。円形の本体の上に正方形の屋根を持ち、胴のまわりに裳階(もこし)をつけているから二重に見えるだけだ。
 高さ約16.5メートル。
 室町時代初期に建立されたもので、禅宗様式が取り入れられた珍しいスタイルをしているのだという。どのあたりが禅宗スタイルなのかはよく分からないけど、言われてみると他の多宝塔とは印象が違うようだ。
 これまでに何度も修理が行われながら、建てられた当時の原形を保っているといわれている。
 屋根はこけら葺きで、一番最近では平成14年に葺き替えが行われたようだ。まだ6年しか経っていなくても、しっかり古い感じが出ていて違和感はない。

密蔵院-3

 正面下から。あらためて見ると、この多宝塔は大きさに気づく。胴回りが立派でどっしりしている。知立神社や稲沢で見た多宝塔よりも一回りか二回り大きい感じだ。

密蔵院-4

 見るべきものは多宝塔しかないから、いろんな角度から見て、撮ってみる。一番格好いいのはこのあたりからだろうか。
 午後はまともな逆光になってしまうから、青空バックに撮りたければ午前中に行かないといけない。この裏側からは撮るスペースがない。

密蔵院-5

 こちらが本堂なのだろうか。なんだか民家っぽくて、うかつに入っていけない雰囲気がある。賽銭箱が置かれている様子もない。
 私が行くのはいつも夕方だから、昼間に行けばもっと開放されているのかもしれない。

密蔵院-6

 江戸末期の1844年に刊行された尾張名所図会では、こんな伽藍配置になっている。江戸時代でさえすでに古い建物は多宝塔だけになっていたことが分かる。
 鎌倉時代の1328年、密蔵院は慈妙上人(じみょうしょうにん)によって開山された。正式名称を、医王山薬師寺密蔵院 (いおうざんやくしじみつぞういん)という。
 慈妙上人については、密蔵院を開いたという以外に情報がなくて、どんな人物だったのかはよく分からない。美濃の御嵩(みたけ)からやって来たらしい。どういう経緯で密蔵院が尾張の大本山になっていったのかというのも、調べがつかなかった。慈妙上人によるところが大きかったのか、それ以外に要因があったのか。
 戦国時代に衰退したときは、末寺が700から100に、塔頭も36から16になったというから、半減どころか激減だ。
 江戸時代初期の1615年に珍祐が七堂を再興したものの、再び力を失っていき、1891年の濃尾平野で本堂、仁王門、灌頂堂が倒壊すると、建て直す財力も残っていなかった。

密蔵院-7

 境内には、開山堂や観音堂、山王社などがある。

密蔵院-8

 本尊の薬師如来は非公開で、蔵にしまい込まれている。
 毎年10月の第一日曜日に所蔵の文化財を一般公開しているそうだ。このときばかりは近隣の神社仏閣ファンが一堂に会するのだろうと思う。きっと写真は撮らせてくれないから私は行かない。撮らせてくれるなら喜んで行くけど。

密蔵院-9

 最後にもう一度、多宝塔を撮って帰ることにする。夕焼けバックのシルエットなんかもよさそうだ。夜間はライトアップもしてるというからちょっと驚く。確かに、離れたところにライトが設置されていた。夜あのあたりを通ることがあったら、見に行こう。
 愛知県の多宝塔コレクションも、一歩ずつ着実に進んでいる。けど、ここで一段落。残りの岡崎大樹寺と豊橋の東観音寺は遠いから、しばらく行けそうにない。荒子観音は一度行っているけど、ブログでは紹介してないから、そのうち行って写真を撮ってこよう。八事興正寺の五重塔についても未紹介になったままだ。
 全国には170基以上の多宝塔があって、国宝や重要文化財になっているのはわずかに39。そのうちの7基が愛知県にあるというのは、なかなかのものだ。多宝塔は東日本に少なく、多くは関西に集中している。全制覇というのは無理だろうけど、国宝になっている滋賀県大津の石山寺、大阪泉佐野市の慈眼院、和歌山伊都郡の金剛三味院、海草郡の長保寺、那賀郡の根来寺大塔、広島県尾道市の浄土寺の6つは見てみたい。
 だんだん神社仏閣ブログのようになってきているけど、これは流行ものだから、そのうちブームは終わります。などといいながら、明日も神社仏閣ネタの予感がする。
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