
Canon EOS 20D+TAMRON SP 90mm f2.8
家から一歩外へ出たとたん、あ、夏だ、と思う。昨日まではそうじゃなかった。夏はある日突然やって来て、しばらく居座っていく。恋のように。
春の体は夏の濃密な空気にまだ馴染んでいなくて、少し息苦しいような気さえする。今シーズン初めて半袖を着て出かけた。強い太陽の日差しに晒された白い両腕は、ちりちりと小さく音を立てて焦げるようだ。
直射日光で熱せられた車に乗り込むと、すぐに汗が滲んでくる。あわてて入れたエアコンもすぐには効かず、一筋、二筋と汗が流れた。この感覚も久しぶりだ。暑いということがどういうことかを思い出す。
窓を開けて空気を入れ換える。これで多少は車内の空気が軽くなった。
私たちは夏が去るたびに夏を侮ってしまう。冬になる頃には、夏なんてたいしたことなかったとさえ思う。こんな凍えるような寒さに比べたら真夏の暑さの方がずっとましだと。けど、夏の入り口に立つと、夏を甘く見ていた自分に文句を言いたくなる。誰だよ、冬より夏の方がいいなんて言ったのは。
見上げる空は無情に青く、力を取り戻した太陽は直視することを許さない。私は心の中で夏に向かって小さくあやまる。ごめんよ、侮っていた私が悪かったです。
夏が来るたびにいつも、小学生の夏休みを思い出す。夏はそのあとも繰り返しやって来たのに、どういうわけか思い浮かべるのは小学生の自分なのだ。ラジオ体操のときの朝の匂いや、田舎で蝉を捕ったときの状況や、スイカを食べたあと昼寝をした畳の感触や、真っ黒に日焼けした好きな女の子のこと。夏祭り、朝顔、クワガタ、朝焼け空。夕暮れ時に聞いたカナカナの声。
夏という季節にはたくさんの記憶が閉じこめられている。この季節になるたびに私はその宝箱をそっと開けて確かめる。誰にも知らせていない秘密の宝をこっそり見るように。
あなたは夏が好きですかと問われたら、迷うことなくはいと答える。昔よりもずっと好きになった。どうして好きかという理由をいくつも並べることができる。夏を売り込む営業マンのように。
汗をかきながら食べるかき氷、小旅行だった海水浴、兄ちゃんたちがやっていた頃の高校野球。友達と遊んだ花火や、子供会のキャンプや、川の魚釣り。ラムネに縁日の金魚すくいに夏休みの宿題。全部が全部楽しい思い出ばかりじゃないけど、今はすべてが懐かしい。
あの頃私たちは子供だった。子供らしい子供だったと言った方がいいかもしれない。あの時代に子供時代を送れたことを幸せに思う。
これから夏は何段階かに分けて深まっていく。まだ今は入り口に入ったばかりの第一段階だ。今の段階ではまだ信じられないくらい暑くなる。寝苦しい熱帯夜も続くだろう。でも、少しずつ体も慣れていって、夏を受け入れるようになる。あるいは、暑さをあきらめる。夏とケンカしても勝てないことを思い知って。
大人になった私たちは、この夏にどんな記憶を刻めるだろう。今子供時代を懐かしんでいるように、おじいちゃんになったとき、この時代のことを懐かしく思い出すことができたらいいなと思う。
いつの夏も、二度と巡り来ない特別な夏だ。真っ白な画用紙のように、まだ何も描かれていない。いい絵が描けるかどうかは自分次第。どこへも行かず、何もしなければ、夏の思い出を描くことができない。大人になっても宿題はある。自由研究という宿題が。それは、未来の自分に対して提出するものだ。
今年もいい夏にしよう。あちこちへ行って、楽しいことをたくさんやって、いろんな思い出を作ろう。
大人と子供の一番の違いは、子供は夏が永久に続くと思い込んでいるけど、大人はそうじゃないことを知っているところだ。この夏が最後の夏になるかもしれない。だから、大人は一つの季節を全力で生きなければいけないのだ。もうあの頃みたいに無邪気なだけではいられないから。
