
Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS
春日井の神社仏閣巡り、始めました。
尾張旭の神社もまだ回り終えていないのに、春日井にまで手を広げてしまった。春日井は尾張旭とは規模が違う。神社だけでも50以上あるし、お寺まで回るとなると、それはもう大変だ。とりあえずお寺はほどほどにしておいて、神社優先で巡っていきたいと思う。
このときはグリーンピアへ行く前に、高蔵寺エリアの高蔵寺と五社大明神を巡ってきた。まずはここから始めよう。ブログを始める以前に密蔵院や内々神社なども行ってるけど、それらも再訪して一度きちんと書いておきたい。50もあるとそう簡単には回りきれないから、ぼちぼちいくことにしよう。
ついでに春日井の城はどうなんだと調べてみると、田楽城、上条城、白山城など、いくつか小さな城があっただけで、今は跡地しか残っていないようだ。大留城は子安神明社になっている。
小牧長久手の戦いのときに少しだけ春日井も登場するものの、戦国時代を通じてあまり重要な拠点ではなかったらしい。隣の小牧市にある小牧城のような城はない。
ということなので、城は省略する。その代わり、古墳群がたくさんあって、それをどうしようかとちょっと考えているところだ。今日は後半で尾張氏について少し書くつもりでいるけど、その時代までさかのぼるなら、古墳は避けては通れない。ただ、奈良時代以前は、多くの人にとって馴染みが薄いだろうし、詳しく書いてもあまり面白くないんじゃないかと思う。私もよく知らないし、残っている資料や史跡も少ない。逆に、それだからこそ勉強して分かりやすく書く必要があるのか。
今日のところは春日井の2つの神社仏閣を紹介して、尾張氏に関しては触りだけにしておきたい。あまり長くならないようにしよう。と、このときはまでそう思っていた。まさか、これほど長くなるとは。

春日井市の高蔵寺(こうぞうじ)といえば、かつて名古屋の一大ベッドタウンとして大いに注目を集めたところだ。東京でいえば多摩ニュータウン、大阪だと千里ニュータウンのようなものだ。
最近、やや印象が薄くなっているようだけど、実際のところはどうなんだろう。JR中央線で名古屋市内まで20分ちょっとという利便性は失われていないはずだ。朝夕の電車はやっぱり激混みなんだろうか。
初入居が1968年と日本で二番目に古いニュータウンということで、そろそろ高齢化の問題なども出てきているようだ。元々は航空自衛隊高蔵寺分屯基地の移転を前提として作られたニュータウンだったのに、移転計画が頓挫してしまって、いまだに隣り合わせになっている。
小牧の桃花台ニュータウンでは桃花台線が廃線になっていろいろモメていたけど、JRの中央線がなくなってしまうことはないだろうから、その点では安心だ。愛知環状鉄道線で瀬戸まで10分で行けるというのもある。車を使って名古屋駅まで行くのはちょっと遠いか。
そんな高蔵寺の地名の由来となったのが、今回紹介する高蔵寺というお寺だ。山号を燈明山(とうめいざん)という天台宗の寺で、創建時は一山十二坊あったというから、今よりもずっと大きな規模だったのだろう。現在はわりとこぢんまりしている。
平安時代中期の933年、智蔵僧正によって創建されたと言われている。
上の写真は本堂で、高蔵福徳神毘沙門天が安置されている。見た目がかなり新しいから、最近建て直したのだろう。

本尊はこちら、観音堂に安置された薬師如来像だ。
階段を上がっていいものか分からず、下から拝むにとどめた。だから、薬師如来像はよく見えなかった。
小さな箱のような賽銭箱を見ると、何も入っていない。10円玉を入れようとして一瞬迷って、20円にした。100円にすると見栄を張ったみたいでよくないかなと。5円とか1円とかありったけ入れて、賑やかにしておけばよかったかもしれない。募金箱じゃないと怒られるだろうか。

隣には古い民家風の建物があった。お寺の境内だろうから、住職一家の住居か。なかなか年季が入っていて、建物としてはこっちの方が風格があるくらいだ。
このお寺は、室町時代の十二天画像や曽呂利惣八所持刀など、たくさんの書や刀を所有しているそうだ。ただ、傷みが激しいなどの理由で一般公開はしていないらしい。
本堂や本尊の木造薬師如来坐像などは、特別な日に公開があるようだ。

塀際にはアジサイやいろいろな花が植えてあった。お寺というのは、ある意味民家も兼ねているから、こういう家庭的な部分がけっこう見られる。神社はあまりそういうことがない。神社を私物化してるようなところがたまにあって、おいおいこれはいいのかと思うことはある。
高蔵寺はもう少し何かあるかと思ったけど、これくらいのものだった。地名の元となったお寺ということで、訪問できたことはよかった。
五社大明神社は、ここから車で2分くらいのところにある。歩いても10分もかかならいようなところだ。どちらも高蔵寺の駅から歩いていける。

線路沿いの道を折れて坂道を上がった先に、五社大明神がある。左手には参拝者用の駐車場があるから、そこにとめればいい。
ゆるやかに登りながら長く続く参道をのんびり歩いていく。石段自体はそれなりに古そうだけど、手すりなどは新しい。雰囲気は壊れるけど、安全優先ということだろう。

五社大明神に関してはネットで調べてみても情報が少なすぎてよく分からない。春日井市としてもあまり重視していないようだ。現在は、高蔵寺町の氏神ということで、近所の人たちが守っているといったところだろうか。
境内の説明書きによると、創建年や場所は定かではなく、分かっているのは1493年に再建されて、1528年に現在の地に移り、1655年にも再建されているということだ。
昔は熱田神宮の高倉明神を祀る熱田高蔵宮の奥の宮だったため、この一帯を高倉地と呼んでいたらしい。
祭神が尾張氏の祖神であることから、創建そのものは古そうだ。

参道を登り切ったところに本殿がある。写真でほぼ全容だ。大きな神社を想像していくとこぢんまりしてると思うだろうし、町の氏神と思えばなかなか立派なものだ。
五社というのは祀られている、素盞緒尊(スサノオノミコト)、大碓尊(オウスノミコト)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、菊理比売命(キクリヒメミコト)、天目一個命(アマノマヒトツノミコト)のことをいうのだろうか。
とにかく、詳しいことはよく分からないというのが正直なところだ。

せっかく行ったことだし、二度訪れることはないだろうということで、あちこち記念写真を撮った。
これは横から見た拝殿と本殿だ。三棟が一直線に続いていて、屋根付きの渡り廊下も備えている。
社殿の造りなども、元々このスタイルだったのか、再建によってこうなったのか、よく分からない。わりと見慣れた感じではある。

ちょっと変わった木彫りの狛犬を発見。手前は標準的な石像の狛犬で、木彫りというのは初めて見た。左右に一体ずついた。

津嶋神社など、摂社、末社も並ぶ。明治以降、このあたりにあった神社を合祀したのだろう。
高蔵寺と五社大明神について私が紹介できるのはこれくらいで、ここで簡単に終わってもいいのだけど、それじゃあ面白くないし、私も物足りない。尾張氏に関係がありそうな神社が登場したということで、延長戦として尾張氏について少し書きたいと思う。時間と興味のある方はおつき合いください。
尾張氏(おわりし)は、古墳時代を中心に、尾張地方一帯を支配した大豪族だ。この地方の尾張というのは、この尾張氏から来ている。元々は尾治氏だったという説もあるようだけど、はっきりしていない。はっきりしていないといえば、尾張氏についてもいろいろな説があって、本当のところはよく分かっていないというのが実情だ。
時代をさかのぼって縄文、弥生時代、この地方はどうなっていたかといえば、三河湾、伊勢湾はもっと内陸まで深く切れ込んでいて、名古屋市はほとんど海の底だった。その海岸線にポツリ、ポツリと海人(アマ)と呼ばれる人々の集落があり、それらの多くは大陸から小舟に乗って渡ってきた人たちと考えられている。やがて人口が増え、漁業だけでなく稲作も始まり、集落が集まり大きくなり、一つの大きな海人族ができあがっていった。
一方、現在の尾張北部にも別の集落があり、丹羽氏と物部氏という二大勢力という構図ができていた。物部氏の本拠は現在の高牟神社で、丹羽氏は二の宮の大県神社として残っている。
尾張氏の本拠がどこだったのかはいろいろ言われていてよく分かっていない。伊勢湾から知多半島あたりを支配していた海人が尾張氏となって北上しながら勢力を伸ばしたとか、西から来た尾張氏が海人を飲み込みながら巨大化していったなど諸説ある。いずれにしても、海人や物部氏を統合しながら尾張氏はこの地で大豪族として成長していくことになる。
尾張一の宮の真清田神社(ますみたじんじゃ)なども尾張氏の始祖を祀った神社で、創建は2630年前とされている。一時そこに尾張氏の本拠があったともされる。天火明命(アメノホアカリノミコト)を祀っている神社は、尾張氏の神社であると思って間違いない。尾張氏は伊勢神宮の創建にも関わりがあるという話もある。
始祖である天火明命から数えて11代目の小止与命(オトヨノミコト)が、初代の尾張国造に任命される。この息子が建稲種命(タケイナダネノミコト)で、妹の宮簀姫命(ミヤズヒメノミコト)が日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の奥さんとなり、建稲種命もヤマトタケルの東征に副将軍として同行している。
ヤマトタケルは伊勢神宮から預かった天叢雲剣を持って東の国を平定したあと、いったん尾張に戻り宮簀姫命と結婚するも、草薙剣(東征のとき神剣によって野火の難を払ったことからそう呼ばれるようになった)を奥さんに預けたまますぐに伊吹山へ悪い神を退治しにいって返り討ちにあって命を落としてしまう。
その草薙剣をおさめるために建てたのが熱田神宮で、そのため熱田神宮では草薙剣を御神体としている他に、宮簀姫命と建稲種命も祀っている。
熱田神宮の大宮司は代々尾張氏が勤め、のちに外孫筋の藤原季範に大宮司職が譲られ、この季範の娘が源頼朝を生むことになる。
以降、大宮司家は次第に武士となっていき、織田信長のときには一武将となっていて、桶狭間で戦死したりもしている。
信長といえば、津島神社も尾張氏と関わりがあるところで、信長も手厚く保護している。桶狭間の戦いの前に熱田神宮に戦勝祈願をしたのは、織田家が藤原氏や橘氏とのつながりを持っていたからというのもありそうだ。
神社つながりでいえば、尾張氏同族の津守氏は大阪の住吉大社の宮司を代々務めている。
あと、京都丹後半島に元伊勢籠神社(もといせこのじんじゃ)というのがあり、ここの宮司は海部氏(あまべし)の直系が今でも継いでいる。祭神は尾張氏と同じ天火明命ということで、同族か、もしくはここから尾張氏が出たという説もあるようだ(尾張氏から分かれたのが海部氏という説もある)。海部氏の家系図は日本に現存する最古のものとして、家系図としては初めて国宝に指定された。
話が少し前後したので、もう一度年代を追って整理してみる。
2世紀から3世紀にかけての弥生時代、日本で初めての国家である邪馬台国が誕生する。近畿にあったのか、九州だったのか、未だに論争が続いていて結論が出ていない。まったく別の土地だった可能性もある。
卑弥呼亡きあとの4世紀中頃、大和朝廷が成立する。はじめは近畿から九州にかけてが勢力圏内で、7世紀頃までには東海、関東まで広がっていった。
海人族、のちに尾張氏は、この大和朝廷と深く結びついていくことで勢力を強めていく。一族から妃を朝廷に送り込んで外戚となり、やがて一族の者が要職にもつき、国政にも影響を及ぼすようになっていった。
歴史上、表舞台で最も華やかな活躍をみせたのは、壬申の乱のときだ。のちに天武天皇となる大海人皇子(おおあまのみこ)を助けて勝利に導き、朝廷との関係はいっそう深まった。大海人皇子の名前もまた象徴的だ。
ちなみに、愛知県には海部郡(あまぐん)という地名が今でも残っている。愛知県出身の総理大臣、海部俊樹が尾張氏と関わりがあるのかどうかは知らない。
尾張氏の全盛期は、5世紀末から6世紀にかけてとされている。平安末期に熱田神宮の大宮司を藤原家に譲って以降、歴史の表舞台から姿を消した。鎌倉時代になっても頼朝ともつながっているわけだし、これだけの勢力を誇った一族が突然力を失ってしまうというのは考えづらい。歴史の裏では隠然たる力を持っていたかもしれないし、直系が現在に至るまで続いている可能性もある。舞台裏に回ったのは何か理由があったのだろう。
最後に、尾張氏ゆかりの史跡を挙げておく。今後自分が巡るときの手がかりとしても役に立つように。
まずは守山区の東谷山(とうごくさん)だ。ここのことは以前にブログにも書いた。熱田神宮の奥の宮として天火明命を祀った古社で、名古屋城ができてからは鬼門の守り神として尾張徳川家からも大事にされた。ここは尾張氏との関わりが深い。
活躍したのが古墳時代ということで、たくさんの古墳も残っている。一番大きなものが熱田区の熱田神宮近くにある断夫山古墳(だんぷさんこふん)で、一説ではヤマトタケルの死後、夫をめとらなかったことからこの名がつけられた宮簣媛の墓とされている。
ただ、実際には6世紀くらいに造られたものということで、尾張氏の誰かの墓だろうということになっている。全長151メートル、高さ16メートルで、東海地方最大の前方後円墳だ。
周囲を歩いてみたけど、地上レベルではスケール感などはよく分からない。ただのこんもりした丘みたいなものだ。上の方まで登ってみたりもした。この古墳が造られた頃は、このあたりはすぐ海岸線だったようだ。
その他、大きな古墳としては、春日井の味美二子山古墳、白山神社古墳、守山区の白鳥塚古墳などがある。
小規模の古墳群もたくさんあり、春日井、小牧、犬山、守山区などに点在している。宅地開発などでつぶされてしまったり、埋もれたままになっていたりする中、一部は保存されて見ることができるようになっているものもある。うちの近所にもあって、小学生のとき見学に行ったけど、さっぱり面白くなかった。
それらの古墳からは、様々な出土品が出ていて、『鹿男』で有名になった三角縁神獣鏡も何枚か見つかっている。見つかるのは4世紀以降の古墳からということで卑弥呼の鏡とは無関係ではあるけど、中央政権を通じて大陸との交流があったという証拠ではある。海人そのものが大陸から渡ってきた人々の末裔だとするなら、当たり前といえば当たり前の話か。
味鋺・味美地区の古墳は物部氏のものもあるようだ。
以上が尾張氏についての大まかな説明というか、自分のための覚え書きのようなものだ。
はっきり分かっていることは少なく、史実のように言われていることもどこまでが本当なのかは分からない。多分に想像もあるだろうし、間違った認識もどこかに必ずあるはずだ。一般的な認識が低いのは、あまり表舞台に出たがらなかった一族だったというのもある。学校の教科書でも尾張氏についての記述がどれだけあるのか。壬申の乱のときに少し出てくるくらいかもしれない。だから、一般常識として知らなくても当然だ。
でも、こうやってちょっと勉強してみると、歴史の様々なところで関わっていることが分かって面白い。これまで何気なく回ってきた神社にも尾張氏は深く関係しているし、信長の行動でちょっと謎に思えた部分も、尾張氏というキーワードが解いてくれた。
今後とも直接的、間接的に尾張氏と関わりのある場所を巡ることになるだろう。特に真清田神社は近いうちに行っておきたい。ここは尾張地方における重要な神社だから。
古墳群も機会があれば立ち寄ってみたい。そのときまた尾張氏について勉強しつつ書きたいと思う。かなり興味深い存在だということが今日でよく分かった。熱田神宮ももう一度行って、宝物庫も見てこないといけない。
歴史は思いがけないところでつながっている。その発見が面白い。
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