
半田の矢勝川の彼岸花帰りに寄った神社シリーズ第4回は愛知県知多郡阿久比町にある箭比神社(やひじんじゃ/
地図)です。
今回が最終回になるのだけど紹介した順番と寄った順番は逆で、矢勝川帰りに最初に寄ったのがこの箭比神社だった。
例によってほとんど記憶がないのだけど、苔むした石段の風景は覚えていた。写真を見たら蘇った。
それが阿久比町(あぐいちょう)の箭比神社だったのは覚えていない。

説明板の文章がちょっと難ありでよく分からない。
「延喜12年(912年)に箭野八郎正良の勧請により菅原雅規公の御参詣のもとに社号を「箭比神社」と賜わり創建された」とあるのだけど、そもそも箭野八郎正良はどこの神社からどんな神を勧請したのかという肝心の説明がない。
箭野八郎正良が勧請して祀ったのと菅原雅規が参拝したということの関連もはっきりせず、箭比神社という社号を菅原雅規がつけたのがいつなのかもよく分からない。以前は違う神社名だったということか。
菅原雅規(すがわらのまさのり)は菅原道真の孫で、その菅原道真は延喜元年(901年)の昌泰の変で息子の菅原高視とともに尾張国へ流罪となっており、雅規は尾張国で生まれた可能性が高い。
ただ、雅規の生まれは919年なので、神社が勧請されたという912年はまだ生まれていない。
だとすると、雅規が箭比神社という社号を贈ったのは940年以降ということになるだろうか。10代の少年が社号をどうこうというのは考えにくい。
雅規は後に文章博士になっており、その頃までには許されて京に戻ったはずだ。それでも、英比殿(あぐいどの)という別名があるところをみると、長らく阿久比に暮らしていたのだろう。
事情はよく飲み込めないけど、『尾張國内神名帳』に箭比天神とあるのなら平安時代にはすでにあったことになる(『延喜式』神名帳(927年)には載っていない)。
箭比の箭は矢の旧字体というか異字体なのだけど、どこから来ているのだろう。勧請した箭野八郎正良の名前からなのか、別の意味があるのか。
矢という字は『古事記』、『日本書紀』にも出てくるから奈良時代にはすでに使われていて、それをあえて箭という字を使ったのにはなにか理由があったのだろう。
詳しい歴史はいずれまた。
なお、写真は2017年9月に撮影したものです。

説明板にもあるように、尾張藩二代藩主の徳川光友が寄進した赤鳥居をくぐると”おこり”にかかるという言い伝えがあるそうだ。
おこりといっても知っている人は少なそうだけど、漢字で書くと瘧で、間欠的に発熱したり悪寒や震えが来る病気らしい。マラリアの一種ともいう。
なんで尾張藩の殿様が寄進した鳥居でそんな話になったのかは分からないけど、そのあたりにも何かこの神社が抱える事情がありそうだ。
念のためくぐらないでおいた。






江戸時代末の慶応元年(1865年)に再建された本殿は春日造で桧皮葺(ひわだぶき)だったとされる。
現在は銅板葺になっているもののスタイルとしては春日造を保っている。
春日大社の本殿の形式で、春日神社系でもないのに春日造の社殿というのは珍しい。
春日造の社殿も愛知県内ではほとんど残っていないのではないかと思う。

アクセス
名鉄河和線「
阿久比駅」より徒歩約30分
駐車場 不明