
奈良県吉野山にある勝手神社(
地図)を訪ねたのは2018年の新緑の季節だった。
神社は2001年(平成13年)に不審火によって焼失して以来、長らく社殿がない状態が続いている。再建のために寄付金を集めているようだけど、18年経っても実現していない。復活への道のりは遠いのだろうか。
そのため、吉野の観光案内などでは勝手神社(跡)となっている。社殿がないくらいだから、参拝しても神様は留守ということになるだろうか。御神体は少し北にある吉水神社(
地図)に移されているとのことだ。

櫻本坊や金峰山寺に伝わる『日雄寺継統記』によると、創建は第6代孝安天皇6年という。
孝安天皇は実在を疑われる天皇で、『日本書紀』では孝安天皇6年は紀元前386年に当たるので現実味がないと思いがちではあるのだけど、何らかの史実が反映されている可能性もあって、最初から無視していいわけではない。実際に創建はかなり古い可能性がある。
吉野大峰山の鎮守に吉野八社明神(吉野八大神)があり、勝手神社はそのひとつで、かつて勝手明神と呼ばれていた。
残りの7つは、子守明神(吉野水分神社)、金精明神(吉野・金峰神社)、芝明神(八大竜王社)、井光明神(井光神社八幡宮)、威徳天神(威徳天満宮)、幣掛明神(幣掛神社)、牛頭天王社(廃絶)だった。
勝手というのはお勝手口というように入り口を意味するとされている。吉野山の入り口にあるということで山口神社とも呼ばれ、『延喜式』神名帳(927年)の大和国吉野郡吉野山口神社の論社のひとつとなっている。
山麓の勝手権現、中腹の子守権現、山頂の蔵王権現を三所権現として、それぞれ文殊堂、地蔵堂、投入堂があった。
全国には28の勝手神社があるそうで、そのうちの一社は守山区の志段味にある。詳しくは神社サイトの
勝手社のページで。

江戸時代中期の1712年に寺島良安が編さんした百科事典『和漢三才図会』では祭神を愛鬘命(うけりのみこと/うけのりのみこと)としている。
天孫降臨のときに従って降った神というのだけど、ほとんど知られていないマイナーな神だ。愛鬘の別名が勝手大明神という。
現在というか、社殿が焼ける前までは大宮で天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)を、若宮で木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)を祀っていた。
アメノオシホミミはアマテラスの子で、天降るのを拒否して息子のニニギを天降らせた神だ。
コノハナサクヤヒメは一般的に富士山の女神とされるのだけど、どうして若宮で祀っているのだろう。
この他、大山祇命、久々能智命、苔虫命、葉野姫命を祀るとしている。
久々能智(ククチチ)はイザナギ・イザナミの子で木の神とされる。
苔虫は大山祇(オオヤマツミ)の娘でコノハナサクヤヒメの姉、石長比売(イワナガヒメ)の別名とされる。
葉野姫(カヤノヒメ)は、 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫と表記され、イザナギ・イザナミの子で草の神とされる。
天降ったニニギはコノハナサクヤヒメと結婚しているので、要するにこれはニニギ・ファミリーを祀っているということだ。コノハナサクヤヒメの父親がオオヤマツミで、イワナガヒメは美しくないということでニニギが結婚を断ってオオヤマツミに送り返している。
ククチチ、カヤヒメがどういう経緯で祀られるようになったのかは分からない。

この勝手神社は二度歴史の舞台になっている。
一度目は672年の壬申の乱のとき、天智天皇の後継者争いでいったん吉野に逃れた大海人皇子は勝手社を参り、琴を奏でたところ、背後の山に五色の雲が湧いて天女が降りてきて五度袖を振りつつ舞った。それ以来、背後の山は袖振山と呼ばれるようになったという。
天智天皇の皇子の大友皇子軍を破った大海人皇子は飛鳥の浄御腹宮(きよはらのみや)で即位して天武天皇となった。
二度目は平安末の源平合戦の頃、源頼朝軍に追い詰められた義経一行は吉野山に逃げ込み、義経が愛した静御前はひとりはぐれて追っ手に捕まり、勝手社で法楽の舞を舞ったと伝わる。
南北朝時代、約4年間を吉野山の行宮で過ごした後醍醐天皇も、何度かは勝手社を訪れたのではないだろうか。
中世以降、神仏習合時代は勝手明神の本地仏は毘沙門天とされ、勝手の勝が戦の勝利につながるということで武将の崇敬を受けた。

燃える前の勝手神社社殿は桃山様式の三間社流造の檜皮葺で、奈良県の有形文化財に指定されていた。
これだけ由緒のある神社だから、町の神社のようにコンクリート造というわけにはいかないだろう。檜皮葺で再建するなんてなれば、相当お金がかかりそうだ。私の賽銭くらいではどうにもならない。
いつか再建がなったらもう一度行ってみたい。
【アクセス】
・近鉄吉野線「
吉野駅」からロープウェイで3分(ロープウェイ3/24~5/6まで運行予定。その他の時期運行未定)、ロープウェイ吉野山駅から徒歩約20分(バスあり)
・駐車場 なし
公式サイト