月別:2019年01月

記事一覧
  • 定点観測

     いつもの定点観測をお送りします。 ...

    2019/01/31

    日常写真(Everyday life)

  • 在庫写真より ~過去写真

     写真のデータ整理を兼ねて、過去に撮った写真の中から未使用だったものを拾い出してきた。 けっこう使える写真があったので過去写真ということでお送りします。 ...

    2019/01/30

    日常写真(Everyday life)

  • 10年後も変わっていなくて安心した吉良の金蓮寺弥陀堂

     愛知県西尾市にある金蓮寺(こんれんじ/地図)を訪ねたのは去年2018年4月の初めだった。 西尾市の金蓮寺なんていうとピンと来ない。吉良町の金蓮寺だ(2011年に幡豆郡吉良町は西尾市に編入された)。 この寺を初めて訪れたのは2007年の10月だった。そのときのことはブログにも紹介した。 愛知県第三の国宝、金蓮寺弥陀堂は吉良の田舎にあっけらかんと建つ 今回は10年以上ぶりの再訪ということになった。 懐かしいというか、...

    2019/01/29

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 在庫写真より ~ご近所夕景

     在庫写真から、ご近所夕景をお送りします。 ...

    2019/01/28

    日常写真(Everyday life)

  • 向上心不足のサンデー料理

     1月の最終日曜日。サンデー料理は今年4回目となった。 早かったようなゆっくりだったような1月がそろそろ終わろうとしている。これくらいの時期になると年末年始が恋しくなる。年末は過ぎてみるとけっこう好きなことに気づく。年始も嫌いじゃない。 次の楽しみは春ということになる。今年は早々に梅が咲いたようだけど、まだ自分の目では見ていない。 何にしても早く暖かくなってほしい。 サンデー料理はペースを乱すことな...

    2019/01/27

    料理(Cooking)

  • 小幡茶臼山古墳も行ってみる

     現状の古墳の大部分は、墳丘上が雑木林になっていて外から見ても形が分からないことが多い。というより、それが古墳だと分からないことがほとんどかもしれない。 上の写真の小幡茶臼山古墳(地図)もそうだ。 住所でいうと、翠松園になる。これは大正時代に山を切り開いて道路を作り、翠松園と名づけて分譲地を販売したことからそれが町名になった。江戸時代までは小幡村の一部で、小幡ヶ原と呼ばれていた。 南に隣接する茶臼...

    2019/01/26

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 在庫写真より ~飛行機のある風景

     在庫写真から、飛行機のある風景をお送りします。 ...

    2019/01/25

    飛行機(Airplane)

  • 守山区の牛牧遺跡を訪ねてみる

     守山区の小幡緑地西園の南西で見つかった牛牧遺跡(うしまきいせき/地図)は、名古屋を代表する縄文遺跡のひとつだ。 日本列島全体では約9万ヶ所の縄文遺跡が知られている。そのうち85パーセントは東日本にあり、愛知県では約1,100ヶ所が見つかっている。  牛牧遺跡があるのは、北の庄内川と南の矢田川に挟まれた台地上で、その台地の中央部に位置している。川からある程度離れたこの場所を選んだのは水害を避けてのことだっ...

    2019/01/24

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 別位置非定点観測

     いつもとは別位置の非定点観測をお送りします。 ...

    2019/01/23

    日常写真(Everyday life)

  • 無題

      ...

    2019/01/22

    その他

  • 分かるのは印場城がここにあったということくらい

     尾張旭市庄中町1丁目の西部浄化センターに、かつて印場城(地図)があった。 城の規模は東西64メートル、南北60メートルほどで、西部浄化センターの北半分が城跡ということになる。 北を流れる天神川を利用しつつ、堀と土塁で囲んでいたとされる。 平成6年(1994年)に浄化センターを建築する際に調査が行われ、天目茶碗、漆器類、木製品などが見つかった。 築造時期は室町時代の15世紀後半と考えられている。 1699年(元禄...

    2019/01/21

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • なるようになるのがサンデー料理

     2019年の1月はあまりに動きがないので、遅いんだか早いんだかよく分からない。年末からほとんど経っていないような気もするし、もう20日かとも思う。それだけ平和といえばそうなのだけど、捉えどころのない出だしとなった。 サンデー料理は新年3回目。相変わらず季節感はない。一般家庭の夕飯のおかずとも違っている気がするんだけど、世の中は広いから案外サンデー料理に似た料理があちこちの食卓に並んでいるのかもしれない。...

    2019/01/20

    料理(Cooking)

  • 長久手市役所は岩作東城の城址

     かつての長久手町役場、今の長久手市役所の敷地内に「岩作城址」の石碑がある(地図)。興味津々という人は少ないだろうけど、戦国時代ここに岩作城という城があった。 岩作は地名で、「やざこ」と読む。これは石作連(やざこのむらじ)から来た地名と考えてよさそうだ。 城址の350メートルほど北に石作神社(地図)がある。こちらは「いしつくり-じんじゃ」と読ませる。 第12代垂仁天皇の時代、石棺を奉納したことで石作(や...

    2019/01/19

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 定点観測

     相変わらずの定点観測をお送りします。 ...

    2019/01/18

    日常写真(Everyday life)

  • 尾張旭市の印場大塚古墳

     東山一丁目交差点の北東に印場大塚古墳(地図)と名づけられた古墳がある。道路沿いなので通りからも見てとれる。 矢田川の南、本地ヶ原台地の上に小さな円墳が集まった古墳群がある。この印場大塚古墳はそのうちのひとつだ。 現在までに知られているのは白山第1号古墳、長坂古墳群の第1号から第6号までの6基、天狗岩古墳の8基で、それ以外は住宅地になる中で調査されないまま破壊されてしまった。 すべては10メートルほどの...

    2019/01/17

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • モノクロ写真

     久々シリーズ。今日はモノクロ写真をお送りします。 ...

    2019/01/16

    モノクロ(Monochrome)

  • 在庫写真より ~川風景

     在庫写真から、かなり久々、川風景をお送りします。 ...

    2019/01/15

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • 小幡古墳群のひとつ長塚古墳

     守山区小幡地区は知られざる古墳密集地区で、今も数基の古墳が現存している。 守山区の古墳というと、東谷山古墳群から続く志段味古墳群がよく知られている。東谷山の尾張戸神社古墳や志段味の白鳥塚古墳は4世紀築造とされる。 そこから西へ庄内川を下ったところに小幡古墳群がある。かつてこのあたりは小幡が原と呼ばれていた。大小あわせて100以上の古墳があったともいう。 明治になってここに小幡ヶ原射撃場が作られたとき...

    2019/01/14

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • サンデー料理はイギリス人に通用するか?

     新年明けてもう2週間近く経ってしまったのに、いまだなんとなくふわふわした感じが続いている。年末年始らしくない年末年始を過ごして、でもやっぱり年末年始には違いなく、まだそれが続いているような感じがする。来週からは感覚を元に戻せるだろうか。 サンデー料理は2019年の二回目だ。特別なことが何もないのはいつもと変わらない。 今日はメインがサーモンということもあって、少し洋食寄りに作ろうと思ったのだけど、で...

    2019/01/13

    料理(Cooking)

  • 定点観測

     いつもの定点観測をお送りします。 ...

    2019/01/12

    日常写真(Everyday life)

  • 道ばた写真

     今日は道ばた写真をお送りします。 ...

    2019/01/11

    日常写真(Everyday life)

  • 犬山の専念寺は池田恒興が建てたというけれど

     愛知県犬山市犬山西古券にある専念寺(地図)を訪ねた。 文化財ナビ愛知(web)はこの寺についてこう書いている。「専念寺は、浄土宗の寺院で京都知恩院の直末である。寺伝によると弘治元年(1555)に犬山城主池田信輝により創建され、その伯父が開山した。信輝の死後、犬山城主小笠原家、平岩家の菩提寺となり、同家一族の墓がある」 池田信輝は池田恒興といった方が通りがいいだろう。 浄土宗で京都知恩院の末寺といってい...

    2019/01/10

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 在庫写真より ~その他のこぼれ写真

     在庫写真から、今日はその他のこぼれ写真をお送りします。 ...

    2019/01/09

    日常写真(Everyday life)

  • 木曽三川治水工事の功労者を祀る治水神社

     岐阜市海津町油島の木曽三川公園(web)の南にある治水神社(地図)を訪ねた。 揖斐川、長良川、木曽川の合流地点の堤の上にその神社はある。 名古屋を含む濃尾平野は東高西低の地形で、水は低いところに流れるため必然的に西側に川が集まっている。そのため、河川の流域はたびたび氾濫が起こり、甚大な被害を出していた。 何とかしなければいけないことは分かっていても、いざやるとなるとあまりの難工事に尾張藩も手が付け...

    2019/01/08

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 在庫写真より ~置き忘れてきた季節の風景

     在庫写真から、今日は置き忘れてきた季節の風景と題してお送りします。 ...

    2019/01/07

    日常写真(Everyday life)

  • 天ぷらに始まるサンデー料理

     新年最初のサンデー料理。 いつもと変わらずスタートした。今年も変わり映えしない料理を一年間作っていくことになる。変わらず作れたらそれだけで幸運と言うことができる。 年末年始は変則的な料理が続いたから、久しぶりに天ぷらが食べたくなった。なので気持ちの上で今日のメインは天ぷらだった。「いつものマグロ」 美味しいマグロが食べたいとか高い寿司を食べたいといった欲望や願望はなく、いつものマグロで充分満足し...

    2019/01/06

    料理(Cooking)

  • 部分日食

     部分日食だったので撮ってみた。 望遠レンズを手放して久しいので60mmマクロレンズで。 肉眼では分からなかったけど、写真だと左上が欠けているのが確認できる。 次回の部分日食は今年2009年の12月26日なので、わりとすぐだ。 皆既日食となると2035年9月2日だからだいぶ先だ。関東や長野あたりでしか見られないようなので、生きている間にもう皆既日食は見られないかもしれない。...

    2019/01/06

    星(Star)

  • 定点観測

     2019年最初の定点観測をお送りします。 といっても、すべては去年撮ったものなのだけど。 ...

    2019/01/05

    日常写真(Everyday life)

  • 在庫写真より ~神社仏閣こぼれ写真

     在庫写真から神社仏閣こぼれ写真をお送りします。 ...

    2019/01/04

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 在庫写真より ~道行き風景

     去年の在庫がまだけっこう残っているのでしばらく続く。 今年はまだ定点観測の一枚を撮っただけだ。 今日は道行き風景をお送りします。...

    2019/01/03

    日常写真(Everyday life)

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定点観測

日常写真(Everyday life)
定点観測1

 いつもの定点観測をお送りします。



定点観測2




定点観測3




定点観測4




定点観測5




定点観測6




定点観測7




定点観測8




定点観測9




定点観測10

 

在庫写真より ~過去写真

日常写真(Everyday life)
幻日

 写真のデータ整理を兼ねて、過去に撮った写真の中から未使用だったものを拾い出してきた。
 けっこう使える写真があったので過去写真ということでお送りします。



メタセコイア冬




矢田川河川敷夏枯れ




雲の表情




電線に鳥たち




夕焼けと家のシルエット




太陽とダイサギ




雪の御嶽山

 

10年後も変わっていなくて安心した吉良の金蓮寺弥陀堂

神社仏閣(Shrines and temples)
金蓮寺弥陀堂

 愛知県西尾市にある金蓮寺(こんれんじ/地図)を訪ねたのは去年2018年4月の初めだった。
 西尾市の金蓮寺なんていうとピンと来ない。吉良町の金蓮寺だ(2011年に幡豆郡吉良町は西尾市に編入された)。
 この寺を初めて訪れたのは2007年の10月だった。そのときのことはブログにも紹介した。
 愛知県第三の国宝、金蓮寺弥陀堂は吉良の田舎にあっけらかんと建つ
 今回は10年以上ぶりの再訪ということになった。
 懐かしいというか、あまり変わった様子は見られなかったのだけど、平成27年(2015年)から屋根の葺き替えをしていたというから、前回からはその点で変わっていた。ただ、葺き替えから3年経っているということである程度古びていて言われなければ気づかなかった。
 相変わらず開けっぴろげで無防備だ。目の前の建物が国宝とは思えない。

 寺の歴史などについては前回ある程度詳しく書いたので、それ以上付け足すことはない。
 この寺のメインはなんといっても国宝に指定されている弥陀堂で、鎌倉時代中期のものとされている。現存する木造建築では愛知県最古のものという。
 決して大きくて立派なものではないけれど、鎌倉時代の建築特有の様式美を備えている。



金蓮寺弥陀堂正面

 まだ桜が残っていて弥陀堂に彩りを添えた。



金蓮寺弥陀道内部

 前回と違っていたのは、弥陀堂の扉が開いていて中の阿弥陀仏を見ることができたことだ。前回は夕方で閉まっていたのかもしれない。
 堂内の見学は200円を自主的に賽銭箱に入れるシステムとなっている。これも国宝らしからぬ態度で、性善説っていいなと思わせる。
 撮影禁止なんてケチなことも言わない。
 中央の阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作とされているも、愛知県指定有形文化財で、国の重要文化財には指定されていない。
 脇侍の観音菩薩立像と勢至菩薩立像は鎌倉様式を模した江戸期の作と考えられている。
 ただ、台座は創建時のものということで、もともと阿弥陀三尊像として祀られていたようだ。



金蓮寺本堂

 こちらが本堂。
 金蓮寺の山号は青龍山で、もともと真言宗だったものを足利尊氏の時代に曹洞宗に改宗したとされている。
 本尊は不動明王像となっている。



金蓮寺不動明王石仏




金蓮寺もうひとつの堂




金蓮寺の白虎?

 白い猫、ではないはず。



金蓮寺木の床




金蓮寺境内の石仏




金蓮寺説明書き

 説明書き右下のモノクロ写真は昭和28年に撮られた弥陀堂だ。この頃は屋根が瓦葺きになっていたことが分かる。
 解体して建て直すときに元の桧皮葺に戻した。

 10年後にまた行ってもあまり変わってなさそうだけど、その変わらなさを確かめるためにまた10年後くらいに訪ねてみたい。
 拝観料を取ったり、堂内撮影禁止とかになっていないといいけど。

【アクセス】
 ・名鉄西尾線「吉良吉田駅」から徒歩約35分
 ・無料駐車場 あり
 ・拝観時間 終日(9時-17時?)

 西尾市観光webサイト

在庫写真より ~ご近所夕景

日常写真(Everyday life)
冬木と夕空

 在庫写真から、ご近所夕景をお送りします。



緑ヶ池夕景




瀬戸夕景




矢田川夕景




香流川沿い夕景




矢田川夕空




ゆとりーとライン夕景




矢田川と夕日




矢田川ススキと落日

 

向上心不足のサンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理

 1月の最終日曜日。サンデー料理は今年4回目となった。
 早かったようなゆっくりだったような1月がそろそろ終わろうとしている。これくらいの時期になると年末年始が恋しくなる。年末は過ぎてみるとけっこう好きなことに気づく。年始も嫌いじゃない。
 次の楽しみは春ということになる。今年は早々に梅が咲いたようだけど、まだ自分の目では見ていない。
 何にしても早く暖かくなってほしい。

 サンデー料理はペースを乱すことなく、今年も淡々と続いていく。向上心がないといえばそうで、そのあたりの心持ちはどうなんだろうと自分でもよく分からない。天ぷらが上達したという気持ちだけはずっと持ち続けているのだけど。
 今週もお馴染みの3品が並んだ。



サーモン

「いつものサーモン」
 しょう油ベースのタレにごま油を効かせてみたら悪くなかった。



野菜コンソメスープ

「野菜コンソメスープ」
 具材は、鶏肉、ジャガイモ、ニンジン、キャベツ。
 ブロッコリーやトマトも入れようと思っていたけどやめておいた。シンプルで優しい旨みを楽しむ。



豆腐オムレツ

「豆腐オムレツ」
 卵、絹ごし豆腐、シーチキン缶、刻みタマネギ、とろけるチーズ、ダシの素、塩、コショウを混ぜ合わせて、オリーブオイルで両面を焼く。蓋をして弱火で。
 軽くしょう油を塗って、かつお節を振りかける。

小幡茶臼山古墳も行ってみる

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
小幡茶臼山古墳

 現状の古墳の大部分は、墳丘上が雑木林になっていて外から見ても形が分からないことが多い。というより、それが古墳だと分からないことがほとんどかもしれない。
 上の写真の小幡茶臼山古墳(地図)もそうだ。
 住所でいうと、翠松園になる。これは大正時代に山を切り開いて道路を作り、翠松園と名づけて分譲地を販売したことからそれが町名になった。江戸時代までは小幡村の一部で、小幡ヶ原と呼ばれていた。
 南に隣接する茶臼前の町名は茶臼山古墳から来ている。
 小幡ヶ原一帯には大小あわせて100基以上の古墳があったという話もある。現在も数基の古墳が残り、小幡古墳群と呼んでいる。少し前に紹介した小幡長塚古墳地図)もそのひとつだ。

 昭和35年(1960年)に測量調査が行われ、そのときは全長63メートル、後円部径40メートル、前方部幅35メートルとされた。
 その後、昭和63年(1988年)から翌年にかけて発掘調査が行われ、再測量で後円部径32メートルに修正された。幅6メートルの周濠も見つかっている。
 この古墳の特徴は横穴式石室を持つことで、このあたりの古墳では唯一のものとなっている。そのことから古墳時代後期に当たる6世紀後半の築造と考えられている。
 石室の大きさは全長4.8メートル、幅2.1メートルほどで、玄室の床面には5-10cmの円礫が敷かれていた。
 墳丘に葺石はなかったようだ。
 当時この地を支配していた首長とその一族を埋葬するための古墳だったといえそうだ。
 土師器や須恵器の他に、鉄刀、鉄鏃、馬具、馬鈴、鎧、金環、銀環、玉などが出土している。
 大正時代に盗掘されたという話が伝わっており、そのときには金製品があったともいう。

 横穴式石室は畿内から尾張に伝わったとされる。それほど早い時期ではなく、おそらく6世紀に入ってからだろう。6世紀半ば以降ではないかと思う。
 しかし、尾張ではこの形式は広まらなかった。それだけ小幡茶臼山古墳は特異な古墳という言い方ができる。
 横穴式石室の特徴は、追葬ができるという点で、埋葬思想というものも6世紀になると変化していったと考えられる。
 石室内には家型石棺が置かれており、これは岐阜県可児市のあたりで切り出した石が使われているという。どうしてそんな遠くから石を切り出して運んできたのかは分からない。特別な石だっただろうか。


茶臼山古墳

 一部は竹林になっている。
 当然ながら古墳は盛り土でできていて、完成当時は草木など生えていない。犬山の青塚古墳などはきれいな状態を再現している。あれが本来の姿だ。
 できることなら古墳らしい姿にしてほしいところなのだけど、管理を考えると難しいか。雑木林にしておいて何かいいことがあるとも思えないのだけど。



茶臼山古墳

 西側に回ると横の部分がごっそり削られているのが分かる。
 これは県立緑丘高校の通学路を作るために削ったもので、その後も開発によって更に削り取られてしまった。
 古墳の断面が見られることはなかなかないといえばないのだけど。
 説明板はこちら側に立っている。

 志段味地区の古墳で行っていないところもまだたくさんあるので、そちらも回って紹介したい。

【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線「喜多山駅」から徒歩約12分
 ・駐車場 なし
 

在庫写真より ~飛行機のある風景

飛行機(Airplane)
飛行機

 在庫写真から、飛行機のある風景をお送りします。



飛行機2




飛行機3




飛行機4




飛行機5




飛行機6




飛行機7

 

守山区の牛牧遺跡を訪ねてみる

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
牛牧遺跡

 守山区の小幡緑地西園の南西で見つかった牛牧遺跡(うしまきいせき/地図)は、名古屋を代表する縄文遺跡のひとつだ。
 日本列島全体では約9万ヶ所の縄文遺跡が知られている。そのうち85パーセントは東日本にあり、愛知県では約1,100ヶ所が見つかっている。 
 牛牧遺跡があるのは、北の庄内川と南の矢田川に挟まれた台地上で、その台地の中央部に位置している。川からある程度離れたこの場所を選んだのは水害を避けてのことだっただろうか。近くに水源があったには違いない。
 牛牧遺跡は縄文時代晩期から弥生時代を経て古墳時代に到る長い期間続いた集落だったことが分かっている。台地上には中型の前方後円墳などが築かれた。

 遺跡は昭和33年(1958)に発見され、守山市教育委員会による調査を皮切りに、1691年には名古屋市教育委員会が、1998年から1999年にかけて愛知県埋蔵文化財センターが調査を行った。
 出土品の多くが縄文時代晩期の土器で、弥生式土器や古墳時代の須恵器なども混じる。竪穴住居跡も見つかっている。
 1989-1999年の県営守山住宅建て替えにともなう調査で、縄文時代晩期の土器棺墓が40基以上発見された。
 見つかった土器や土偶に赤色の顔料が塗られていたのも牛牧遺跡の特徴のひとつとされている。
 その他、古墳時代の装飾付器台が出土しており、古墳時代のこの地の勢力を知るための手がかりになる可能性がある。
 戦国時代の山茶碗片や天目茶碗が出ていることから、戦国時代に到るまでこの地で人が暮らしていたことがうかがえる。

 牛牧の地名の由来として、この場所に牛の牧場があったという説があるも、そういった痕跡は見つかっていない。いつ頃から牛牧の地名があったのかも分かっていない。
 牛から離れて「ウシマキ」が由来だとすると、物部氏の祖とされるウマシマジ(宇摩志麻遅命)から来ている可能性が考えられる。
 ただし、物部氏の本拠は庄内川を挟んだ北側の味鋺・味美エリアで、庄内川以南は一般的に尾張氏の支配地とされていることからすると、ウマシマジを語源とできるかどうかということになる。
 庄内川の北に松河戸遺跡 町田遺跡が知られている。
 庄内川南沿いの志段味から小幡、守山にかけての古墳群について、はっきりしたことは分かっていない。

 現在も牛牧という地名は残っていて、小幡緑地西園の住所は牛牧だ。江戸時代までは牛牧村と呼ばれていた。小幡緑地本園までが村域だった。
 小幡緑地西園を訪ねていっても、説明板が立っているだけで何も残されていない。
 出土品は愛知県埋蔵文化財調査センター(web)が所蔵しているはずだけど、どの程度一般に公開しているのかは分からない。

【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線「小幡駅」から徒歩約20分
 ・駐車場 あり(小幡緑地)

別位置非定点観測

日常写真(Everyday life)
別定点観測

 いつもとは別位置の非定点観測をお送りします。



別定点観測2




別定点観測3




別定点観測4




別定点観測5




別定点観測6




別定点観測7




別定点観測8




別定点観測9

 

無題

その他
階段にタマネギの皮

 


欄干の錆




壁のヒビ




水仙の蕾




昼の月

 

分かるのは印場城がここにあったということくらい

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
印場城址

 尾張旭市庄中町1丁目の西部浄化センターに、かつて印場城(地図)があった。
 城の規模は東西64メートル、南北60メートルほどで、西部浄化センターの北半分が城跡ということになる。
 北を流れる天神川を利用しつつ、堀と土塁で囲んでいたとされる。
 平成6年(1994年)に浄化センターを建築する際に調査が行われ、天目茶碗、漆器類、木製品などが見つかった。
 築造時期は室町時代の15世紀後半と考えられている。
 1699年(元禄12年)の「印場村庄屋彦助書上」には、城主は坂井弥兵衛と伝わっているが詳しいことは不明と書かれている。
 周辺には渋川城、瀬戸川城、井田城などがあった。井田城主が浅井玄藩允、その弟の浅井源四郎が瀬戸川城の城主だったことくらいしか分かっていない。
 尾張旭でいうと、新居城が一番大きかったと考えていいだろうか。現在の城山公園がその城跡だ。
 新居村の開拓者でもあった水野良春が城主で、大森城の尾関氏と争っていた。
 時代でいうと、南北朝時代なので、印場城は100年ほど後の築城ということになる。
 水野良春については以前にも何度かこのブログに登場している。

 又太郎良春さんはアマツヒコネがお好き? ---尾張旭神社巡り4弾

 水野良春のお墓にも二、三度行っている。

 初冬の尾張旭巡り

 水野良春についてはいずれもう少し詳しく書きたいと思っている。



印場城跡

 門は開いているけど部外者は立ち入り禁止だと思う。
 たとえ入っていけたとしても遺構は何もない。
 昔、ここに城があったんだなと思いを馳せるくらいだ。
 城など必要ない世の中になったことを喜ぶべきだろう。
 
【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線「印場駅」から徒歩約12分
 ・駐車場 なし
 

なるようになるのがサンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理

 2019年の1月はあまりに動きがないので、遅いんだか早いんだかよく分からない。年末からほとんど経っていないような気もするし、もう20日かとも思う。それだけ平和といえばそうなのだけど、捉えどころのない出だしとなった。

 サンデー料理は新年3回目。相変わらず季節感はない。一般家庭の夕飯のおかずとも違っている気がするんだけど、世の中は広いから案外サンデー料理に似た料理があちこちの食卓に並んでいるのかもしれない。
 以前はもう少し全体の方向性を決めていたのだけど、近年はそういうこともしなくなった。行き先は食材が教えてくれる。というか、食材任せで、半ば自らの意志を放棄している。
 なるようになる、それがサンデー料理の極意だ。



焼き茄子

「焼き茄子のタマネギ入りマヨネーズ・ソースがけ」
 ナスは塩水に浸けてあく抜きをして、オリーブオイルで両面を焼く。
 酒、みりん、しょう油、塩で軽く味付けをする。
 ソースは、オリーブオイル、タマネギ、酒、みりん、しょう油、唐辛子を加熱して、最後に卵黄を加えて混ぜ合わせる。



里芋とイカ

「里芋とイカの煮物」
 冷凍里芋というのがあって、それを使うと皮むきの手間から解放される。味も食感も普通に里芋を調理するのと変わらない。
 まず、水、酒、みりん、和風だしでイカを加熱して、火が通ったら一度取り出す。
 冷凍里芋を投入して、しょう油、白だし、塩で味付けをして、アルミホイルの落とし蓋をして煮込む。
 イカを戻して軽く加熱する。



エビとシイタケ

「エビとしいたけのピリ辛」
 エビの下処理をして、オリーブオイル、豆板醤、ショウガで炒める。
 火が通ったら取り出す。
 しいたけ、長ネギを炒める。
 酒、みりん、しょう油、塩、コショウで味付けをする。
 エビを戻して加熱しながら混ぜ合わせる。

長久手市役所は岩作東城の城址

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
岩作城址

 かつての長久手町役場、今の長久手市役所の敷地内に「岩作城址」の石碑がある(地図)。興味津々という人は少ないだろうけど、戦国時代ここに岩作城という城があった。
 岩作は地名で、「やざこ」と読む。これは石作連(やざこのむらじ)から来た地名と考えてよさそうだ。
 城址の350メートルほど北に石作神社(地図)がある。こちらは「いしつくり-じんじゃ」と読ませる。
 第12代垂仁天皇の時代、石棺を奉納したことで石作(やざこ)の姓を賜ったのが始まりとされ、石作神社の祭神となっている建真理根命(タテマリネ)は尾張氏の祖神、天火明命(アメノホアカリ)の六世の孫と『先代旧事本紀』はいう。
『延喜式』神名帳(927年)には尾張国に4社の石作神社が載っている。丹羽郡、中島郡、葉栗郡、山田郡で、ここ長久手の石作神社は山田郡石作神社とされる。
 石工集団がそれぞれ散らばってその地で祖神を祀ったのが石作神社の始まりと考えられる。
 地名はいつの頃からか「石」から「岩」に変わったのだろう。あるいは、もともと石作と岩作は別だったのかもしれない。
 石作神社はこれまで二度参拝している。

 石作神社と色金山
 長久手の石作神社を再訪していい神社だと思う

 岩作城を築城したのが誰だったのかは伝わっていない。発掘調査から室町時代だと考えられている。
 正確に言うと、ここは岩作東城で、岩作西城もあった。
『尾張志』はそれぞれの城についてこう書いている。

「岩作東城 岩作むら東島といふ民戸の西の方に□る地にてここの字を城の内といふ也四面に土居の形猶残れり土居幅二間つつあり土居を省て東西四十四間南北三十二間あり地方覚書に今井四郎兵衛居之當村東畠にあり其跡一段二畝歩也とある是なり郷人今も其名を知れり天正十二年四月九日岩崎籠城戦死の士に今井四郎三郎といふあるは四郎兵衛の子なとにやありけむ」

「同所西城 同村西島といふ民居の北の方にあり堀搆等もなく土居も残らねは舊墟定かにわきかたしされと東西三十間南北十間はかりあり地方覚書に又一ツは鈴村權八居之當村西畠にあり其址一段廿歩也といへるは是也城址みな水田なれとここの字を城屋敷と呼也」

 岩作東城は90メートル×70メートルほどの規模で、江戸時代後期になっても土居(土を積み上げて作った垣)が残っていたようだ。
 城主は今井四郎兵衛で、小牧長久手の戦いの戦死者の中に今井四郎三郎という人物がて、それは四郎兵衛の子ではないかという。
 岩作西城は東城の西300メートルほどのところにあって、大きさは54メートル×18メートルくらいで、城主は鈴木権八といっている。

『尾張徇行記』(1822年)は、「岩作城 古簿曰、今井五郎太夫者居之、然土人今無識其姓名者」と書いている。
 おそらく東城のことで、同じ今井でもこちらは五郎太夫とする。三郎、四郎、五郎となれば兄弟かもしれない。

 取るに足らないようなこんな小さな城ではあるのだけど、小牧長久手の戦いの舞台となったことで語り継がれることとなった。
 天正十二年(1584年)当時の岩作東城の城主が今井氏だったのは間違いなさそうで、岩崎城での戦死者の中に今井四郎三郎の他に七右衛門、小右衛門、助八郎、小八郎などがいることからして、このあたりに今井一族がいたことが分かる。
 もともとこの今井氏は武田家の家臣で、武田が滅びた後、徳川家康に仕えたとされる。
 今井氏の他に加藤忠景の名も見られ、この加藤忠景は信長亡き後息子の信雄に仕え、岩崎城主だった丹羽氏次の姉を正室に迎えていたことからすると、加藤忠景が城主だった可能性もあるのか。
 いずれにしても少ない人数で守っていたところを羽柴秀吉軍の池田恒興に岩崎城ともども攻め落とされてしまった。

 その後、岩作東城は廃城になったとされるも、発掘調査で江戸時代中期の陶磁器などが見つかっていることから、城址を屋敷に改築するかして誰かが利用していたとも考えられる。
 西城については分からない。今は田んぼになってしまって跡形もない。

 600メートルほど東には家康が陣を敷いた色金山があり、1.2キロほど南には古戦場公園がある。
 その他、血の池公園やら首塚やらといった物騒な場所や地名も残り、戦国に興味がある方なら多少楽しめると思う。逆に言えばこの時代に興味がないとまったく楽しめない。

定点観測

日常写真(Everyday life)
定点観測

 相変わらずの定点観測をお送りします。



定点観測2




定点観測3




定点観測4




定点観測5




定点観測6




定点観測7




定点観測8




定点観測9




定点観測10

 

尾張旭市の印場大塚古墳

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
印場大塚古墳

 東山一丁目交差点の北東に印場大塚古墳(地図)と名づけられた古墳がある。道路沿いなので通りからも見てとれる。
 矢田川の南、本地ヶ原台地の上に小さな円墳が集まった古墳群がある。この印場大塚古墳はそのうちのひとつだ。
 現在までに知られているのは白山第1号古墳、長坂古墳群の第1号から第6号までの6基、天狗岩古墳の8基で、それ以外は住宅地になる中で調査されないまま破壊されてしまった。
 すべては10メートルほどの円墳で、古墳の中ではごく小型のものだ。前方後円墳もないことから、それほど強大な勢力がいたわけではなさそうだ。ただし、出土品からヤマト王権との関係性が指摘されている。尾張氏とは別の勢力とも考えられる。
 大塚古墳も直径16メートルほどということで大塚というほどではないのだけど、長坂古墳群の中では一番大きいことからそう呼ばれている。この地の首長のものだろう。
 矢田川の南は狭い平地で、ここで稲作を行い、丘陵地に古墳を築造したと考えてよさそうだ。古窯の跡も見つかっている。

 古さでいうと白山第1号古墳は4世紀のものと考えられており、一番古い。長坂遺跡公園(地図)に現存している。
 印場大塚古墳は4世紀末から5世紀初めの築造とされる。
 円筒埴輪と朝顔形埴輪が見つかった他、須恵器の甕や鉄刀などの鉄製品が出土している。
 裾の部分に埴輪を巡らせ、墳丘は拳くらいの大きさの葺石(ふきいし)で覆われていたことが分かっている。石は矢田川の河川敷で拾ってきたものか。
 白山第1号古墳の50メートルほど西にあった天狗岩古墳は7世紀初めに築造されたもので、4世紀後半から7世紀初めまで長い期間にわたってこの地に暮らしていた集団がいたことを示している。
 白山第1号古墳は尾張旭市の古墳の中で唯一、横穴式石室を持つ古墳となっている。石室からは刀、須恵器の壺、金の耳飾り、耳環、ガラス製品などが見つかっている他、人骨も3体あった。
 現在は印場大塚古墳の敷地内に復元されている。
 本地ヶ原神社にある天狗のかかと岩は、石室の天井石とされる。

 印場大塚古墳の敷地内には、5世紀の竪穴式住居を復元したものもある。
 縦穴を掘って、四本の柱を立て、桁を掛けて、その上に茅葺きの屋根を載せている。
 現代人が思うより快適だったというけど、本当か。

 普段は門が閉ざされているものの、瑞鳳公民館で鍵を貸してくれて中に入って見学することができる。
 開館時間は9時から16時までとなっている。
 車は公民館に停められる。

 毎年11月3日の文化の日には古墳祭りが行われる。去年が第10回だったようだ。
 見学会の他、火おこしなどの古代体験ができるらしい。
 今年2019年の春には、守山区のしだみ古墳群「歴史の里」という古墳施設がオープンする。今、古墳が静かなブームを迎えつつあるのかもしれない。

モノクロ写真

モノクロ(Monochrome)
モノクロ家と空

 久々シリーズ。今日はモノクロ写真をお送りします。



モノクロ雪




モノクロ手水




モノクロ路地




モノクロ灯篭




モノクロ階段




モノクロ夕方の月




モノクロ崖の上




モノクロ名古屋市庁とうろこ雲




モノクロ掲示板




モノクロ古い窓

 

在庫写真より ~川風景

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
矢田川曇り

 在庫写真から、かなり久々、川風景をお送りします。



香流川雪




川鏡面




鳴海あたりの川




香流川夕景




香流川緑




香流川夕暮れ




一宮の青木川?




緑区天白川




矢田川夕焼け




矢田川初夏

 

小幡古墳群のひとつ長塚古墳

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
小幡長塚古墳

 守山区小幡地区は知られざる古墳密集地区で、今も数基の古墳が現存している。
 守山区の古墳というと、東谷山古墳群から続く志段味古墳群がよく知られている。東谷山の尾張戸神社古墳や志段味の白鳥塚古墳は4世紀築造とされる。
 そこから西へ庄内川を下ったところに小幡古墳群がある。かつてこのあたりは小幡が原と呼ばれていた。大小あわせて100以上の古墳があったともいう。
 明治になってここに小幡ヶ原射撃場が作られたとき、大部分が破壊されてしまった。戦後に宅地開発される頃はまだ七塚と呼ばれていたというから、その頃は他にも残っていたのだろう。それらは調査されないまま破壊されてすべては分からなくなってしまった。

 長塚古墳(地図)は全国の他の長塚古墳と区別するため小幡長塚古墳と呼んでいる。
 302号線の茶臼前交差点から少し西に入った住宅地にある。
 茶臼前交差点の名前はすぐ北にある小幡茶臼古墳(地図)から来ている。それもいずれ紹介したいと思っている。

 長塚古墳は近年まで5世紀に築造されたと考えられていた。
 それが2005年(平成18年)以降の調査で見つかった須恵器や埴輪の破片から6世紀後半に築造されたようだと修正された。
 6世紀後半というと前方後円墳では終末期に当たる。名古屋でも7世紀になると古墳はほとんど造られなくなった。
 墳丘の長さは約81メートルで、この地区としては大型に近い中型の前方後円墳ということになる。
 周囲を二重の周濠で囲い、堤の高さは180センチほどだったと考えられている。周濠を含めた全長でいうと140メートルほどになるというからなかなか立派なものだ。
 ただし、葺石は確認されていない。
 内部の調査は行われていないため、人骨や副葬品などは見つかっていない。
 須恵器(高坏、甕)、円筒埴輪、朝顔型埴輪、人物埴輪の破片、家型埴輪、動物埴輪などが出土した。この中では人物埴輪が珍しくて貴重だ。出土品は見晴台考古資料館に収蔵されている。

 小牧長久手の戦い(1584年)のとき、古墳の上に登って見張りをしたという言い伝えがある。確かにここは小牧と長久手を結ぶ通り道に当たる。
 小幡ヶ原射撃場時代は演習のとき墳丘に塹壕を掘ったりしたので、そのときの痕跡が残っている。
 周囲には住宅が建ち並び、墳丘の一部は壊されたものの、姿はわりとよく残っている。

 被葬者が誰かということに関しては、これはもう分からないとしか言いようがない。6世紀の後半に小幡あたりを支配していた豪族の首長だろうけど、尾張氏の誰かなのか、別の一族なのか、別だとすれば尾張氏の側なのか反対勢力なのか、そのあたりを推測することも難しい。
 小幡には縄文時代から続く牛牧遺跡があり、古くから庄内川沿いのこのあたりに人が暮らしていたことが分かっている。弥生時代を経て古墳時代、そして飛鳥時代へと歴史はつながっていっているわけだけど、古墳時代と神社創建を結ぶ輪がよく見えない。あるいはそれが小幡廃寺なのかもしれない。

 まだ紹介していない古墳がいくつもあるので、ちょくちょく古墳ネタも挟んでいこうと思っている。



小幡長塚古墳後円部




冬の小幡長塚古墳

 冬場の方が草が枯れて墳丘の様子がよく分かる。



小幡長塚古墳説明板




小幡長塚古墳北側から

 北側から見ると雑木林のようになっていて古墳とは気づかない。

【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線「喜多山駅」から徒歩約11分
 ・駐車場 なし
 

サンデー料理はイギリス人に通用するか?

料理(Cooking)
サンデー料理

 新年明けてもう2週間近く経ってしまったのに、いまだなんとなくふわふわした感じが続いている。年末年始らしくない年末年始を過ごして、でもやっぱり年末年始には違いなく、まだそれが続いているような感じがする。来週からは感覚を元に戻せるだろうか。

 サンデー料理は2019年の二回目だ。特別なことが何もないのはいつもと変わらない。
 今日はメインがサーモンということもあって、少し洋食寄りに作ろうと思ったのだけど、できあがってみたらいつもの無国籍料理になっていた。私のサンデー料理は日本以外のどこの国の人に通用してどこの国の人に通用しないのだろう。たとえばイギリス人に食べさせてみたいといった気持ちはある。イギリス人の味覚を信じていいのかどうかは分からないけど。



サーモンのカルパッチョもどき

「サーモンのカルパッチョもどき」
 カルパッチョの定義が分かっていないのだけど、カルパッチョのつもりで作った。
 ソースは、タマネギ、オリーブオイル、酒、みりん、しょう油、塩、コショウをひと煮立ちさせて作った。
 仕上げにバジル粉を振りかける。



鶏肉ほうれん草卵

「鶏肉とニンジンとほうれん草と卵」
 料理名が自分でも分からない。
 鶏肉とニンジンをオリーブオイルで炒める。
 ほうれん草を下茹でする。
 酒、みりん、しょう油、塩、コショウで味付けをする。
 ほうれん草と別に作った炒り卵を加えて混ぜ合わせる。



ジャガイモバーグ

「ジャガバーグ」
 これも名称不詳の料理で、ジャガイモのハンバーグ風ということでジャガバーグと名づけてみた。
 ジャガイモを切り分けてレンジで加熱してつぶす。
 ジャガイモに刻んだタマネギ、シーチキン缶、とろけるチーズ、和風だしの素、塩、コショウを混ぜて、オリーブオイルで両面を焼く。
 ソースは、酒、みりん、しょう油、マヨネーズをひと煮立ちさせて作る。
 レンジで加熱したブロッコリーとオリーブオイルで焼いたトマトを添えた。
 

定点観測

日常写真(Everyday life)
定点観測

 いつもの定点観測をお送りします。



定点観測2




定点観測3




定点観測4




定点観測5




定点観測6




定点観測7




定点観測8




定点観測9




定点観測10

 

道ばた写真

日常写真(Everyday life)
手袋

 今日は道ばた写真をお送りします。



猿の置物




千代補稲荷




小賀須公園




マフラーの落とし物




大変困っている




赤と黒の廃社




キティちゃんやら招き猫やら




草むらにゴミ

 

犬山の専念寺は池田恒興が建てたというけれど

神社仏閣(Shrines and temples)
専念寺

 愛知県犬山市犬山西古券にある専念寺(地図)を訪ねた。

 文化財ナビ愛知(web)はこの寺についてこう書いている。
「専念寺は、浄土宗の寺院で京都知恩院の直末である。寺伝によると弘治元年(1555)に犬山城主池田信輝により創建され、その伯父が開山した。信輝の死後、犬山城主小笠原家、平岩家の菩提寺となり、同家一族の墓がある」
 池田信輝は池田恒興といった方が通りがいいだろう。
 浄土宗で京都知恩院の末寺といっている。

 それに対して『尾張名所図会』(1844年)はこう書く。
「弘治元年故念和尚、当城主池田勝入に申して建立せし古刹なり。和尚は信長公の時、江州安土において、浄土宗と日蓮宗と宗論ありしとき、其座に列りしほどの学僧なり。本尊阿弥陀立像は運慶の作。塔頭一宇あり。圓光院」
 北にある常満寺(1291年創建の古刹)などとともに絵図にも描かれている。

 寺伝では1555年に故念和尚が開山し、池田恒興が創建したということのようだ。
 しかし、それはたぶん正しくない。
 池田恒興は1536年生まれで、1555年当時は19歳で信長の小姓をしていた。とても寺を建てるような財力はないし、そんな立場でもない。
(恒興の母が信長の乳母となり、後に信長の父の信秀と再婚したため、恒興と信長は義理の兄弟ということになる)
 それに、池田恒興が犬山城主になるのは、1570年の姉川の戦いで功績を挙げたことによるもので、1555年時点ではまだ犬山城主になっていない。ゆえに、1555年に池田恒興が専念寺を建てたというのは無理がある。
 創建年の1555年が正しいのであれば、その当時の犬山城主は織田信清だ。前年の1554年に信清の父・信康(信秀の弟)が美濃の斎藤道三との加納口の戦いで討ち死にしたため、信清が跡を継いだ。
 池田恒興が専念寺と関わり持ったのは犬山城主になった1570年以降のことだろう。池田恒興(信輝)の墓が境内裏手にあることからしても、無関係ということはなさそうだ。
 池田恒興が犬山城主だった時代は4年ほどで、1574年には東濃の小里城に移った。
 1580年には摂津の荒木村重を破り、有馬、尼崎、花隈の領主となる。
 1582年の本能寺の変の後、秀吉とともに明智光秀を破り、摂津10万石の大名として大坂城に入った。
 1584年、小牧長久手の戦いでは秀吉側につき、膠着状態を打破するために家康本拠の三河に向かったところを家康隊に急襲され、長久手で命を落とした。49歳だった。
 このとき嫡男の元助も討ち死にし、次男の輝政が跡を継ぐことになった。池田輝政は後に姫路城を大改修して今の姿にした人物だ。
 秀吉が小牧長久手の戦いに勝ったら恒興に尾張一国を与えると約束していたという。もしそうなっていたら、その後の尾張の運命は違ったものになっていたかもしれない。



専念寺楠

 境内には大きな楠が二本ある。『尾張名所図会』には巨木は描かれていないから、その後に育ったものだろうか。



専念寺本堂

 本堂は1673年(寛文13年)に再建されたもので、国の登録文化財に指定されている。
 2004年(平成16年)に一部が改修されたものの、建物自体は江戸時代前期の様式をよく残している。
 本堂の西にある庫裏も1689年(元禄2年)と古いもので、こちらも登録文化財指定になっている。
 本尊の阿弥陀如来像を『尾張名所図会』は運慶作と書いているけど本当だろうか。もし本当であればもっと話題に上っているはずだし文化財登録されているだろうから、やはり違うのか。もしくは古いものは失われてしまったのか。



専念寺手水に氷が張る

 寒い日で手水が凍っていた。



専念寺手水の氷




専念寺石仏

 池田恒興は小牧長久手の戦いで命を落とした後、いったん遠江国新居に埋葬され、後に京都妙心寺の慈雲院に改葬された。
 専念寺にも墓があるのは犬山城主だったからだろう。分骨されているかもしれない。
 池田勝入斉となっているのは、剃髪して勝入(しょうにゅう)と号したためだ。諡号は護国院。
 専念寺は恒興が去った後に犬山城主となった小笠原家、平岩家の菩提寺となった。

 すぐ北にある常満寺も行っておけばよかったのだけど、それはまたの機会にということで。

【アクセス】
 ・名鉄犬山線「犬山駅」より徒歩約17分
 ・駐車場 不明(ありそうな気はする)
 

在庫写真より ~その他のこぼれ写真

日常写真(Everyday life)
鳩飛ぶ

 在庫写真から、今日はその他のこぼれ写真をお送りします。



床の染み




水中の葉




石とセメント




西日の光と影




銅の染み




アメジスト




土壁




水紋とイチョウの葉

 

木曽三川治水工事の功労者を祀る治水神社

神社仏閣(Shrines and temples)
治水神社

 岐阜市海津町油島の木曽三川公園(web)の南にある治水神社(地図)を訪ねた。
 揖斐川、長良川、木曽川の合流地点の堤の上にその神社はある。
 名古屋を含む濃尾平野は東高西低の地形で、水は低いところに流れるため必然的に西側に川が集まっている。そのため、河川の流域はたびたび氾濫が起こり、甚大な被害を出していた。
 何とかしなければいけないことは分かっていても、いざやるとなるとあまりの難工事に尾張藩も手が付けられずにいた。
 そこで幕府に訴え出た。重い腰を上げて治水工事に取りかかると決まったときの将軍は9代徳川家重だった。
 馴染みがないと思うけど、8代吉宗の長男に当たる。この人物、あまり評判がよくない。生まれついての虚弱体質で言葉が不明瞭だったこともあり、大奥にこもって酒と女に溺れていたという。
 家重が目を付けたのは、この頃まだ力を持っていて脅威だった薩摩藩だった。当然、費用は薩摩藩持ちだ。
 担当に選ばれたのが薩摩藩家老の平田靱負(ひらたゆきえ)だった。治水神社の祭神でもある。

 宝暦4年(1754年)の2月から宝暦5年(1755年)の5月にかけて行われたことから宝暦治水とも呼ばれている。
 それまで勝手気ままに流れて氾濫を繰り返していた木曽川、長良川、揖斐川の三川をきっちり分けることが工事の主な目的だった。
 この工事はのちに宝暦治水事件と呼ばれることになる。最終的に藩士51人が自殺し、33人が赤痢などの病気で命を落とし、総責任者の平田靱負も工事完成後に責任を取って自害したためだ。
 しかし、自殺だと分かると藩が取りつぶされる恐れがあったため、幕府には報告しなかったとされる。おそらく幕府側でも事情は知っていただろう。
 薩摩藩が負った費用は40万両。今の金額で300億円以上だったと推定される。そのうちの半分以上は大坂商人からの借金でまかなった。これを返済するにも薩摩藩は苦労し、奄美大島などの島民が犠牲になった。
 平田靱負は「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」という辞世の句を残し、美濃の大牧で腹を切った。
 この工事のおかげで河口域の氾濫は減少したものの逆に上流部で洪水が増えるという結果を招くことになる。
 本格的な治水工事が行われるのは明治になってからで、ヨハニス・デ・レーケによるものだった。

 その後、忘れられかけていたこの工事を世に知らしめたのは三重県多度の西田喜兵衛という人物だった。 
 明治33年(1900年)の宝暦治水之碑の建立式には総理大臣の山県有朋も参列した。
 その後、地元の人々によって大正14年(1925年)に宝暦治水奉賛会が設立され、神社創建のための募金活動を経て、昭和2年(昭和2年)に建築が始まり、昭和13年(1938年)に治水神社が完成した。
 平田靱負の他、工事で命を落とした85名が祭神として祀られている。
 神社の南の堤には多くの松が植えられ、油島千本松原として国の史跡に指定されている。始まりは九州から持ち込んだ日向松だった。



治水神社社名碑

 社名碑は東郷平八郎の書。



治水神社参道




治水神社手水舎




治水神社拝殿前

 古社を思わせる立派な社殿で、昭和の創建とは思えない。
 本殿、拝殿、祭文殿を渡殿でつなぐというのは尾張造を意識したものだろう。
 祭文殿は桧造り銅板葺きで、昭和5年に建てられたものだ。
 拝殿は桧造り桧皮葺きで昭和13年に造営された。



治水神社本殿




治水神社本殿を見る




治水神社本殿横から




治水神社社務所

 社務所も立派。



治水神社工事人像




治水神社隼人橋

 隼人橋は宝暦治水工事完成200年記念の昭和29年(1954年)に建造された。この橋は二代目のものだ。
 隼人はもちろん、薩摩隼人から来ている。
 かつてはここに小川が流れていたそうなのだけど、今はもう流れていない。



治水神社観音堂

 宝暦治水観音堂は工事の犠牲者を弔うために昭和28年(1953年)に建立された。
 現在のものは昭和58年(1983年)に再建されたものだ。
 毎年4月25日と10月25日に慰霊祭が行われている。今でも遺族などが鹿児島からも参列するという。

【アクセス】
 ・養老鉄道養老線「石津駅」から海津市営バス南回り線に乗り、「木曽三川公園」バス停下車。そこから徒歩約1分。
 ・駐車場 なし(境内前に駐車可)
 
 治水神社公式サイト

在庫写真より ~置き忘れてきた季節の風景

日常写真(Everyday life)
境内の紫陽花

 在庫写真から、今日は置き忘れてきた季節の風景と題してお送りします。



クモの巣




ウスバキトンボ




蝉の抜け殻




香流川緑道




入道雲




名古屋城空堀




実る稲




フヨウとモンキチョウ




道のどんぐり

 

天ぷらに始まるサンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理

 新年最初のサンデー料理。
 いつもと変わらずスタートした。今年も変わり映えしない料理を一年間作っていくことになる。変わらず作れたらそれだけで幸運と言うことができる。
 年末年始は変則的な料理が続いたから、久しぶりに天ぷらが食べたくなった。なので気持ちの上で今日のメインは天ぷらだった。



マグロ

「いつものマグロ」
 美味しいマグロが食べたいとか高い寿司を食べたいといった欲望や願望はなく、いつものマグロで充分満足している。
 たとえマグロが食べられなくなったとしても特に困らない。マグロばかり食べているからよっぽど好きなんだろうと思うかもしれないけど、そうでもない。



豆腐とほうれん草

「豆腐とほうれん草のピリ辛」
 なんとなく気分で木綿豆腐にしてみたのだけど、やはりこういう料理は絹ごしの方が合っている。
 味付けはごま油、豆板醤、ショウガ、酒、みりん、和風だし、しょう油、塩。それとシーチキン缶。



ナスとタマネギの天ぷら

「ナスとタマネギの天ぷら」
 何度やっても天ぷらは完璧ということがない。作ったことがない料理は分からないのだけど、これまで作った料理の中で天ぷらがダントツに難しい。苦手というか上手くいかない確率が高い。でも、何度も挑戦したくなる魅力が天ぷら料理にはある。
 今年も天ぷら修行は続く。天ぷらで始まったから一年のラストはまた天ぷらにしよう。今決めた。

部分日食

星(Star)
部分日食

 部分日食だったので撮ってみた。
 望遠レンズを手放して久しいので60mmマクロレンズで。
 肉眼では分からなかったけど、写真だと左上が欠けているのが確認できる。

 次回の部分日食は今年2009年の12月26日なので、わりとすぐだ。
 皆既日食となると2035年9月2日だからだいぶ先だ。関東や長野あたりでしか見られないようなので、生きている間にもう皆既日食は見られないかもしれない。

定点観測

日常写真(Everyday life)
定点観測1

 2019年最初の定点観測をお送りします。
 といっても、すべては去年撮ったものなのだけど。



定点観測2




定点観測3




定点観測4




定点観測5




定点観測6




定点観測7




定点観測8




定点観測9




定点観測10




定点観測11

 

在庫写真より ~神社仏閣こぼれ写真

神社仏閣(Shrines and temples)
拝殿屋根

 在庫写真から神社仏閣こぼれ写真をお送りします。



注連縄




道ばたのお堂




切り株




陶器の置物




社殿の屋根




境内の神木




カエルの旗立て




圓道寺門




倒れた木




道ばたの石仏

 

在庫写真より ~道行き風景

日常写真(Everyday life)
川辺の空

 去年の在庫がまだけっこう残っているのでしばらく続く。
 今年はまだ定点観測の一枚を撮っただけだ。

 今日は道行き風景をお送りします。



ヘクソカズラの冬




柿の実




電柱の残骸?




刈り取り途中の田んぼ




階段のある風景




水たまりに映る風景




空き地に石灰




高速道路と田んぼ




コンクリートから芽吹く


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