
岐阜県多治見市にある本土神社を訪ねた(地図)。
本土神社(ほんどじんじゃ)とはまた変わった名前だ。沖縄の人は本州のことを本土と言ったりするけど、もちろんその本土ではないだろう(北海道の人は本州のことを内地という)。
本土神社の名前の由来は調べがつかなかった。
主祭神として猿田彦命(サルタヒコ)を祭っている。
創建は平安時代中後期の1030年と伝わる。
このあたりは伊勢の神宮領の池田御厨があった場所で、その関係もあって伊勢の神宮にゆかりのある猿田彦を祀って産土神としたという。
伊勢の猿田彦神社から勧請したという話があるのだけど、それはどうかと思う。伊勢の神宮の近くにある猿田彦神社は明治に入ってから建てられたものだ。それ以前は宇治土公(うじのつちぎみ/うじとこ)氏が屋敷で祀っていた。
「倭姫命世記」によると、猿田彦の子孫の大田命(おおたのみこと)がアマテラスを祀る地として倭姫(ヤマトヒメ)に五十鈴川のほとりを献上し、大田命の子孫が宇治土公を称して代々神宮に玉串大内人として奉職したとする。
平安時代に猿田彦を勧請したのであれば、猿田彦神社ではなく鈴鹿市の椿大神社かもしれない。
椿大神社の宮司は代々山本家で、こちらも大田命の直系を主張しておりどちらも譲らない。
更に延喜式神名帳の鈴鹿郡椿大神社は都波岐神社・奈加等神社のことという説もあり、話がややこしくなっている。
配祀神として庭津日命(にわつひのみこと)を祀るとしており、こちらも気になるところだ。もしかしたらこちらの神の方が地主神として先だったのではないか。
庭津日は庭高津日とともに大年神と天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)との間の子とされる。
『古事記』にのみ登場する神で、その正体はよく分からない。兄弟として竈(かまど)の神である奥津日子・奥津比売や山の神の大山咋(オオヤマツミ)、大土(土之御祖)などがいる。
多治見は古くから焼き物が盛んな土地で、庭津日はその関係で祀られたのかもしれない。
美濃焼の産地のひとつで、その歴史は古墳時代後期までさかのぼる。山の斜面を利用して作った半地下の窖窯(あながま)で土器や須恵器(すえき)を焼いていた。
多治見(たじみ)の由来は諸説あってはっきりしない。
937年の田只味(たしみ)という郷名が初出とされる。
多治比(たじひ)という古代の豪族が由来という説や、多治部から来ているなどともされ、定かではないようだ。
鎌倉時代になると土岐氏が美濃国守護となり、一族がこの地をおさめた。
永保寺は、1313年に夢窓疎石と元翁本元が土岐頼貞の招きによりこの地を訪れ、長瀬山の麓に庵を結んだのが始まりとされる。
多治見という表記になったのは南北朝時代のこととされる。
信長は瀬戸や多治見の地の押さえ、陶工たちも支配下に置いていた。
江戸時代の多治見は天領になっていた。
この本土神社は土岐氏にも大事にされ、土岐頼貞も守護神として信仰していたという。
鎌倉時代末の1330年(元徳2年)に社殿を修復した棟札などを所蔵しているそうだ。
境内にある宝篋印塔は、もとは御獄神社にあったもので、室町時代初期のものと考えられている。
隣接する長福寺は江戸時代までは神宮寺だった。









決して派手ではないのだけど、秘めた力を持つ神社と感じた。その力はかなり強そうだ。
ここはなかなかだ。個人的にかなり気に入った。じんわりこみ上げてくるよさがある。また行こう。
【アクセス】
・JR中央本線「多治見駅」から徒歩約15分
・駐車場 あり(無料)