
ヤマトタケル終焉の地とされる能褒野を訪ねた。
それは、三重県亀山市田村町とされ、ヤマトタケルを祀る能褒野神社(
地図)がある。
先入観が邪魔しないように、あえて下調べをせずに出向いていった。知識が感覚を鈍らせるということがある。
能褒野神社に自分のみを置いてみると、うーん、なんだろう、何も感じない、と思った。林に囲まれた境内や参道はけっこういい雰囲気なのに、エネルギーが発せられていない。ここは違うだろうと。
帰ってきて神社が建てられたのが明治28年(1895年)と知り、拍子抜けした。それは何も感じないわけだ。
ただ、目的は能褒野神社に参ることではなくて、能褒野の地に行ってみることだったので、神社自体はさほど重視していなかった。すぐ近くにあるヤマトタケル陵とされる能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん/
地図)はちょっと良かった。古墳があるエリアはしっかり空気を出していた。本体はここかと思った。

『古事記』、『日本書紀』は、尾張のミヤズヒメの元に草薙剣を置いたまま伊吹山の荒ぶる神退治に出向いたヤマトタケルは、伊吹山の神に負けて深手を負って山を下り、故郷の大和に戻る途中の能褒野で力尽きて命を落としたとしている。
ヤマトタケルを葬る墓を能褒野に作ったと『延喜式』諸陵寮にも書かれている。
魂は大和を目指して白鳥に姿を変えて飛んでいったという伝説があり、ヤマトタケル関係の古墳などは白鳥と名付けられたものが多い。
能褒野には多くの古墳があり、どれがヤマトタケルの墓かというのは昔からいろいろ言われてきた。加佐登の白鳥塚や、長沢の武備塚、鈴鹿市上田町の二子塚などが候補に挙げられつつ、明治12年(1879年)、内務省によって王塚(丁字塚)が治定されて能褒野王塚古墳と名付けられた。
全長90メートルの前方後円墳で、北伊勢最大というのが決め手になったようだ。ただし、築造時期は4世紀末とされているため、年代的には合わないか。
これによりヤマトタケルを祀る神社も必要だろうという話が持ち上がり、明治28年(1895年)に創建されたのが能褒野神社だ。
この神社は民間ではなく皇族主導で建てられたという特徴を持っている。有栖川宮をはじめとした皇族がお金を出し、当時伊勢の神宮の祭主をしていた久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう)によって能褒野神社と社号が選定された。明治天皇も伊勢の神宮へ行く途中に立ち寄っている。


ヤマトタケルを主祭神として、配祀として建貝児王(たけかいこのみこ)と弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)を祀っている。
これは明治終わりの神社合祀政策のとき、縣主神社と元小天宮を合祀したことによる。
その他、式内社の那久志里神社や志婆加支神社を含む約40の神社がここに集められた。
こんなにたくさんの神様が集められているにもかかわらず、ここは留守なのかと思うほど気配がない。みんな散り散りにどこかへいってしまったのだろうか。






伊吹山には何がいたのか?
ヤマトタケルはどうして草薙剣をミヤズヒメの元に置いていったのか。いや、草薙剣ではなくても普通の武器を持っていくべきだったのではないか。
『古事記』では伊吹山にいたのは白くて大きな猪だったとする。それは神が姿を変えたもので、無視して進んだために怒りを買って氷雨を降らされ、ヤマトタケルは失神。命からがら山を下りたタケルは関ヶ原(醒ヶ井)の居醒めの清水で水を飲んでやや回復するも、重い病にかかっていた。
『日本書紀』では現れたのは大蛇で、神の使いと知らずにまたいでいったことで神が怒ったとする。
ヤマトタケルは伊吹山に一体何をしにいったのか? 荒ぶる神を退治にしにいったはずが、ほぼ戦わずして負けて逃げ帰ったという話の意味がよく分からない。
東征では何度もピンチに陥りながら人の助けもあって乗り切った。それが伊吹山に限っては助けを得られなかった。そこにはどんな理由があったのか。
一番納得いかないのは、ヤマトタケルが歩いたルートだ。タケルはどこへ行きたかったのだろう?
能褒野まで辿り着いたときに辞世の句のように大和を思う歌を残しているから大和へ向かっていたのだろうと思いがちなのだけど、タケルが進んだ道はどう考えても伊吹山から大和へ向かう道ではない。
伊吹山を下りて関ヶ原に着いたなら、そこから進路を西にとって琵琶湖に出てるのが普通のルートだ。琵琶湖沿いを陸路でいくか、船で瀬田か山科あたりまで行って、そこから大和に向かって南下した方が早いし道のりも楽だったはずだ。
なのに、関ヶ原から東に向かって養老町を通って、桑名、四日市と南下し、鈴鹿へ向かっている。これではものすごく遠回りだし、このルートでいくと険しい鈴鹿山脈、伊賀を越えていかなければならない。病気の体でそれは無理というものだ。
かといって尾張のミヤズヒメのところに戻ろうとしたわけでもない。本当にヤマトタケルは何がしたかったのだろう。
伊吹山から能褒野まで来てこの先に何があるかと考えたとき、ひょっとしたらヤマトタケルは伊勢に向かったのではないか。伊勢にはヤマトヒメがいる。これまで何度も助けてもらったヤマトヒメにもう一度助けを求めたということは考えられないだろうか。何の根拠もない思いつきでしかないけど。
それにしても、物語の作者はどういう意図を持ってこういう話にしたのか。実際にはこれらの出来事はなかったとしても、正史として書く以上、そこには何らかの根拠なり、伝えたい物語などがあったとみるべきで、何を書き残そうとして、何を隠したがったのかを考える必要がある。ま、それは私の役目ではないので他の方に譲りたい。私としては不思議だなぁと思うくらいのことだ。
倭は 国の真秀ろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭し麗し ヤマトタケルは荒々しいだけの英雄ではなく、ときに恋する悩み多き青年であり、感傷的な詩人でもあるという複雑な人物像が日本人の心をくすぐるのだろう。

ヤマトタケルの足跡を追う旅は、加佐登神社(かさどじんじゃ)編につづく。
【アクセス】
・JR関西本線「
井田川駅」から徒歩約40分
・駐車場 あり(無料)