月別:2017年02月

記事一覧
  • 名古屋市千種区にもあった素盞男神社

     名古屋市東区にはスサノオ関係の小さな神社がたくさんあると以前紹介した。 名古屋市東区は須佐之男神社がいっぱい 昭和区石坂にある須佐之男神社も、もともとは東区にあったものだった。 昭和区石坂の須佐之男神社も東区由来  まだ見落としているスサノオ関係の神社がどこかにありそうだと思ったら千種区にも素盞男社があった。字は違っているけどこれもスサノオの神社だ。住所でいうと、松軒1丁目になる。 中村区にも同...

    2017/02/28

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 伊勢山神明社はお伊勢さんの巻物を祀る名古屋出張所

     名古屋市中区伊勢山にある神明社を訪ねた。 金山駅の北、もしくは東別院の南といった方が分かりやすいだろうか。 伊勢山の町名は、この神明社が伊勢山と呼ばれる小山にあることから名付けられたのだと思う。伊勢は伊勢の神宮の伊勢で、小山は古墳だ。どういうことか少し説明する必要がある。 地形的にいうと、ここはちょうど名古屋台地の中間あたりで、西の端になる。名古屋台地の南が熱田で、北の端に名古屋城がある。西を流...

    2017/02/27

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • ブリはどうやってもブリなサンデー料理

     神社サイトにかかりきりの状態が続く。今年は梅さえ撮りにいけずに終わるかもしれない。桜の頃にはひと段落しているだろうか。 サンデー料理は変わらない。今週は少し変化球だった。滅多に使わないブリを使ってみた。「ブリのからしマヨネーズしょう油焼き」 ブリといえば照り焼きかブリ大根と相場が決まっているけど、それでは面白くないということで違う味付けに挑戦してみた。 からしマヨネーズしょう油味。 失敗ではない...

    2017/02/26

    料理(Cooking)

  • 吹上八幡社を訪ねる

     名古屋市千種区の吹上(ふきあげ)。広い幹線道路の若宮大通から少し北に入ったところに八幡社がある。表通りからは見えないので、この通りをよく通るという人でもその存在を知らないかもしれない。 他の八幡社と区別するために吹上八幡社と呼ばれることも多い。 もともとここにあったわけではなく、少し南の昭和区御器所にあったようだ。 創建は江戸時代末期の1858年。 明治19年(1886年)に氏子の希望でこの地に移されたと...

    2017/02/25

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • つかみ所のない上社ジャンクションとその他のジャンクション風景

     黒川ジャンクション、楠ジャンクションに続いて、今回は上社ジャンクションと、その他のジャンクション風景をお送りします。 黒川ジャンクションの夕方と夜を撮る 楠ジャンクションで本番前の下撮りをする 上社ジャンクションは何度も通っているし、何度となく撮っているのだけど、何回撮ってもしっくりこないというか、撮りどころのポイントが分からない。 黒川ジャンクションや楠ジャンクションと比べると絵にしづらい。見...

    2017/02/24

    建物(Architecture)

  • 定納公園に米田城の面影はなくとも簗田政綱は名を残した

     米田城は、桶狭間の戦いで戦功第一となった簗田政綱(やなだまさつな)が城代を置いて治めたとされる城だ。 名古屋市守山区向台2丁目の定納公園あたりにその城はあったとされる。もう少し西、天子田交差点南東の住宅地のあたりともいう。 米田は「よねだ」だと思うけど、名古屋には喫茶コメダもあるし「こめだ」かもしれない。 別名の「やなだが城」は、簗田政綱の簗田から来ているとされる。 城の大きさは南北50メートル、...

    2017/02/23

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 道ばたの風景

     今日は道ばた風景をお送りします。 ...

    2017/02/22

    日常写真(Everyday life)

  • 名東区の和爾良神社が式内社じゃなくても地域の大切な守り神

     名古屋市名東区にある和爾良神社を久々に訪ねてみた。前回訪れたのが2009年だから、だいぶ月日が経っていた。 名東区の神社巡りはちょっとややこしい和示良神社から『延喜式神名帳』にある山田郡和尓良神社の候補のひとつとなっている神社ではあるけど、個人的にはその可能性は低いと思っている。見た目からしてもそうだし、なにより式内社の匂いがしない。 候補となっている神社は7つ。 和爾良神社 春日井市上条町  朝宮...

    2017/02/21

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 西区浄心の宗像神社と宗像三女神問題

     深島神社を訪ねたとき、宗像三女神問題の解決を見ないまま保留として、浄心の宗像神社に行ってからもう一度考え直すと書いた。その機会が意外とすぐにやってきた。 名古屋市西区浄心にある宗像神社。名古屋城から見て北西約1キロのところにその神社はある。 名古屋城天守の北西に御深井丸(おふけまる)という出っ張ったエリアがある。北西角の堀に面したところに戌亥隅櫓(西北隅櫓)があり、天守を守る防御の役割を果たすた...

    2017/02/20

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 緑のない茶色いしずる感のあるサンデー料理

     神社サイト作り優先で、ここのところあまり撮りにいけていない。両立できればいいのだけどそれも難しいので、しばらくサイト作りに専念して、写真は二の次とする。季節の花も追いかけられそうにない。 神社サイトは完成までに一年はかかりそうだ。なかなか気の長い話だけど、地道にいくしかない。昔、初めてホームページ作りをしたときもこんな感じだったかなと少し懐かしくなった。 サイト作りと平行して、まだ行っていない神...

    2017/02/19

    料理(Cooking)

  • 榎白山神社と美濃路を駆けた若き日の信長の話

     名古屋城の西1キロちょっとのところにある押切。旧美濃路沿いに榎白山神社はある。 かつて名古屋十名所に選ばれたこの神社も、今はあまり知られてない。 江戸時代に発売された『尾張名所図会』(上巻は1844年、下巻は1880年)の中に「榎権現図会」と題して描かれている。広い境内と立派な社殿が建ち並んでいる。鳥居は描かれておらず、入り口の門と塀で周囲を取り囲まれている様子が神仏習合の白山社らしい。 東海道と中山道...

    2017/02/18

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • ユニークで実はちょっとすごいかもしれない南押切神明社

     名古屋市西区にある南押切神明社について書けることは少ない。どういう由緒を持つ神社なのかということがほとんど分からない。神明社だからおそらく江戸時代だろう。中期以降の可能性が高い。村社とあるから、村の中心的な神社だったことが分かる。 しかしこの神社、ただの町中にある小さな神社ということで終わらせるのはもったいない魅力を持っている。それは、参拝者を楽しませるという点においてだ。 押切という地名は全国...

    2017/02/17

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • なんでもない街の風景

     今日は道行き街の風景をお送りします。 ...

    2017/02/16

    日常写真(Everyday life)

  • 下飯田の六所社とヒルコの話

     地下鉄名城線の平安通駅と志賀本通駅の間、通りから少し北へ入ったところに神社があるのは知っていた。鳥居が見えていて少し気にはなっていたのだけど、なかなか寄る機会がなくてそのままになっていた。 近くまで行ってみると六所社とある。わっ、六所社か、と思う。名古屋北部にはいくつかの六所社があるのだけど、由緒などが分からないところが多いので、ちょっとやっかいな神社という印象が私の中にある。 以前、矢田の六所...

    2017/02/15

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 名古屋と近郊で食パンをめぐる旅 ---池下ベーカリーrico/Jack&Betty/ ぱん・くまくる

     名古屋と近郊で食パンをめぐる旅シリーズ。今回は地下鉄駅前にある3軒のパン屋さんを紹介します。 地下鉄東山線の池下駅の北にある「池下ベーカリーrico」さん。 以前は「ベーカリー CORK」という店名だったそうだけど、その頃のことは知らない。 池下に写真を撮りにいったときに店の前を通りかかって気になっていた。そのときは買わず、もう一度出直して買いにいった。 町のパン屋さんというたたずまいの店だけど、たぶん女...

    2017/02/14

    パン屋(bakery)

  • 西区浅間町の冨士浅間神社は仮住まいのはずが定住した

     名古屋城の西、堀川を渡って300メートルほど行ったところに冨士浅間神社はある。 今も昔も、地理的に名古屋から富士山は見えない。高い展望台などに登っても、手前の山並みに遮られて富士山の姿を見ることは叶わない。もっと南へ下って、南知多や渥美半島、三重県の伊勢あたりからは見えることがあるそうだ。 古来から富士山は霊山として信仰の対象だったのだろうけど、富士山信仰が一般化して流行したのはやはり江戸時代に入...

    2017/02/13

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 山芋入り卵焼きが当たりだったサンデー料理

     土曜日は雪が舞う日で、日曜日の今日は雪こそ降らなかったものの寒い一日だった。立春を過ぎても春はまだ遠い。それでも日没時間がだいぶ遅くなって、夕方になると季節の移ろいを感じる最近なのだった。「サーモンとアスパラ」 サーモンはパシフィック・サーモンとかだったか(忘れてしまった)。スーパーで売ってるものは、サーモンといいつつ鮭ではなく養殖の鱒ということが多い。回転しない寿司屋のサーモンはどんなサーモン...

    2017/02/12

    料理(Cooking)

  • 野並の八剱社と千秋家のこと

     名古屋市天白区の南の外れ、野並交差点から少し東へ行ったところに八剱社がある。 守山区にある八劔神社は「やつるぎ」と読むのに対して、こちらは「はっけん」と読ませる。 熱田神宮にある別宮・八剣社(はっけんしゃ/八剣宮)から勧請して建てたのが野並にある八剱社だ。 創建したのは熱田神宮大宮司の千秋家(せんしゅうけ)で、おそらく安土桃山時代と思われる。 少し歴史をさかのぼって経緯を紹介するとこうだ。 千秋...

    2017/02/11

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 天白区の菅田神社と「すげ」と「すが」と「かん」の話

     天白区菅田町にある菅田神社。 島田神社から59号線沿いを南へ1キロほど行った菅田交差点から少し中に入ったところにその神社はある。 少し中に入るというのは新道から見ての話であって、南に通っている旧道から見ると神社は道沿いにある。島田神社もそうだし、そこから北へ進んだところにある植田八幡宮もそうだ。 島田エリアから南下して菅田町に寄ったあと、野並へ行くというのがこの日の計画だった。 創建ははっきり伝わ...

    2017/02/10

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 名古屋市天白の島田地蔵寺に歴史あり

     島田神社、島田城跡に続く第三弾。今回は島田地蔵寺を紹介します。 天白島田の歴史を語るなら、この3つはセットと考えた方がいい。 島田地蔵寺は、島田神社と道一本隔てて隣り合わせになっている。ただ、入り口が少し遠いのですぐ隣という感じではない。寺はもともと、ここから600メートルほど東、現在の天白小学校のあたりにあったという。 島田城築城が室町時代前期の1362年から1367年。島田神社は城の鬼門除けとして創建さ...

    2017/02/09

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 「名古屋神社ガイド」サイトのお知らせ

    撮影 Daisuke.H  お知らせ。「名古屋神社ガイド」というサイトを作ったので報告を。 http://jinja.nagoya/ 作ったというか、まだ作っている最中で、神社のページをコツコツというかちまちまやっているところだ。 思った以上に時間がかかっていて、完成予定は未定となっている。少なくとも今月いっぱいはかかりそうで、その後の追加分もあるから、本当の完成はずっと先になるかもしれない。 そもそも、名古屋市内に神社って何...

    2017/02/08

    その他

  • 天白の島田城跡と斯波高経のこと

     名古屋市天白区島田に、室町時代から戦国時代にかけて存在した島田城の跡が残っている。代々城主を務めた牧氏の子孫の所有地とのことだ。 島田城の歴史について書く前に、まずはこの城の築城を命じた斯波高経(しばたかつね)と、鎌倉時代から室町時代に至る歴史について振り返った方がよさそうだ。 斯波高経(足利高経)。生まれは1305年。足利尊氏と同い年だ。年代でいうと鎌倉時代後期ということになる。 ひいおじいちゃん...

    2017/02/07

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 天白区の島田神社を訪ねる

     名古屋市天白区の島田から野並にかけてのエリアの神社、旧跡巡りをしてきた。 その中から今回は島田神社を紹介します。 島田神社について語るためには島田城と島田地蔵寺をセットにしないといけないのだけど、いっぺんに書くのは大変なので3回に分けて紹介するくことにしたい。 室町時代前期、南北朝時代の武将で守護大名だった斯波高経(しば たかつね)が島田城を築城した際、城の鬼門除けとして熊野権現を勧請して祀ったの...

    2017/02/06

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 小手先の実験的サンデー料理

     ふと気づけば早くも2月。節分も終わって、今日は立春だった。春は遠くて近い。 サンデー料理は相変わらず季節感はないけれど、年間を通じて何も変わらないのがサンデー料理のいいところかもしれない。マンネリ、あるいは安定感。 今回は少しだけ実験的な試みがあった。人から見たらいつもと同じに見えるかもしれないけど。「マグロとアスパラのしょう油だれ」 タレと一緒に半生まで加熱するのが一番手っ取り早くて簡単だ。焼...

    2017/02/05

    料理(Cooking)

  • 矢田の六所神社はどうして六所なのか

     名古屋市東区矢田にある六所神社を訪ねた。 ナゴヤドームの西500メートルほどのところにある。旭が丘高校の裏手で、神社の北には三菱電機の大きな工場が建ち並んでいる。 かつてこのあたりには六所の森、別名暗がりの森と呼ばれる昼なお暗い森が広がっており、森の中に入るときは昼でもたいまつを焚いたほどだったという。森自体が信仰の対象であり、神社はその中にあった。 創建についてはっきりしたことは伝わっていない。...

    2017/02/04

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 川のある風景 ~冬の夕どき

     今日は川のある風景をお送りします。 いつものように、矢田川、庄内川を中心に。 日暮れの早い冬場は、夕景写真が多くなる。春に向かってだんだん日没時間が遅くなっていくから、これからはまた昼風景が増える。寒いのは苦手だけど、早い日暮れは嫌いじゃない。冬には冬の夕景がある。 ...

    2017/02/03

    河川敷(River beach)

  • 御嶽山と冬の風景

     平和公園の平和堂裏から見る御嶽山。 北東方向だからこの方角には朝陽も夕陽も見られないのだけど、夕焼け時間のこの時間帯が一番好きだ。平和公園は高台にあって、目の前を遮る物がないのがいい。 今日は冬の風景を題してお届けします。 田んぼの準備が始まっていた。 ...

    2017/02/02

    日常写真(Everyday life)

  • 冬の茶屋ヶ坂公園と千種区の歴史

     冬の茶屋ヶ坂公園。枯れ風景に西日が当たってきれいだった。 名古屋市千種にある茶屋ヶ坂公園は、街中の幹線道路から少し入った場所にもかかわらず自然を感じることができる都市公園だ。 広さ約10ヘクタールの公園は、茶屋ヶ坂池を中心に、北はグラウンドや児童公園、南は雑木林が広がり、アジサイの名所としてもちょっと知られている。これまでに何度かブログで紹介した。 茶屋ヶ坂公園のアジサイ風景を撮る 茶屋ヶ坂公園の...

    2017/02/01

    施設/公園(Park)

名古屋市千種区にもあった素盞男神社

神社仏閣(Shrines and temples)
素盞男社入り口

 名古屋市東区にはスサノオ関係の小さな神社がたくさんあると以前紹介した。
 名古屋市東区は須佐之男神社がいっぱい
 昭和区石坂にある須佐之男神社も、もともとは東区にあったものだった。
 昭和区石坂の須佐之男神社も東区由来 
 まだ見落としているスサノオ関係の神社がどこかにありそうだと思ったら千種区にも素盞男社があった。字は違っているけどこれもスサノオの神社だ。住所でいうと、松軒1丁目になる。
 中村区にも同じ表記の素盞男神社があって、そこももともとは千種区の内田にあったものだという。
 松軒の素盞男神社は、東区東之切の須佐之男神社と300メートルも離れていない。千種区と東区に別れてはいるけど、同じエリアに属しているといっていい。要するにここらあたり一帯はスサノオを祀る神社だらけだということだ。
 各神社の詳しい創建年は伝わっていないものの、分かっているところが1700年代の後半だから、どこも同じくらいの時期と考えてよさそうだ。江戸時代の中期ということになる。

 名古屋城の東、白壁あたりに尾張藩士の高級武家屋敷があり、東区百人町あたりに中下級武士の邸宅があった。千種区松軒あたりだともう武家屋敷は途絶えて農地だったと考えられる。
 松軒素盞男神社があるところは当時竹藪で、別名「藪(やぶ)天王」と呼ばれていたという。
 神社は道路に面して西を向いている。西向きの神社は珍しい。創建時からそうだったのか、戦後の宅地開発でそうせざるを得なかったのか、どちらか分からない。
 住宅街の中の一軒家のようなたたずまいをみせている。



素盞男社境内

 境内を猫が走ったのであわててローアングルから撮ったけど写っていなかった。
 隣は社務所のような民家のような。



素盞男社拝殿屋根と鬼瓦




素盞男社龍神社

 龍神社も合祀されている。
 境内の周りには藪天王龍神と染められた幟がたくさん奉納されている。
 日本における竜は、中国から入ってきたものが独自の変化を遂げて畏れと信仰の対象になった。小さなものをあわせると竜関係の神社はとても多い。
 水の神とされるようになったのは仏教における竜の影響もありそうだ。
 農業にとって水は不可欠であり、日本各地で竜を祀る神社が建てられた。
 中には竜といいながら蛇を祀っているところもある。特に白龍神社などというのは白蛇にまつわるものがけっこうある。
 竜宮伝説もまたそのひとつで、浦島太郎の話だけでなく、洞窟は竜の棲む都につながっていると信じられてきた。
 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」では竜宮小僧の話が盛んに出てくる。困っている人を知らない間に助けてくれる謎の存在で、静岡県浜松地方で語り継がれている伝説だ。
 ちなみに、中日ドラゴンズがどうして竜なのかといえば、戦後の1947年に、当時のオーナー杉山虎之助が辰年生まれだったからだ。
 すでに弥生時代には中国から竜の存在が伝わったようで、日本人と竜との関わりは長く深いものとなっている。

【アクセス】
 ・JR中央本線「千種駅」から徒歩約22分
 ・地下鉄桜通線「車道駅」から徒歩約20分
 ・駐車場 なし
 ・拝観時間 終日
 

伊勢山神明社はお伊勢さんの巻物を祀る名古屋出張所

神社仏閣(Shrines and temples)
伊勢山神明神社入り口

 名古屋市中区伊勢山にある神明社を訪ねた。
 金山駅の北、もしくは東別院の南といった方が分かりやすいだろうか。
 伊勢山の町名は、この神明社が伊勢山と呼ばれる小山にあることから名付けられたのだと思う。伊勢は伊勢の神宮の伊勢で、小山は古墳だ。どういうことか少し説明する必要がある。

 地形的にいうと、ここはちょうど名古屋台地の中間あたりで、西の端になる。名古屋台地の南が熱田で、北の端に名古屋城がある。西を流れる堀川が台地の縁の外に当たる。
 縄文時代は今よりも海面が数メートル高かったため、名古屋の西半分の低地は海の底だった。だんだん海岸線が後退して、それまで高台に住んでいた人々が平地に進出するようになる。
 そうして弥生時代以降、水が引いた平地に集落ができ、高台となった台地には古墳が築かれた。
 今はなくなってしまった大須二子山古墳は、全長130メートルほどの前方後円墳で、東海地方では最大規模のものだった。その他、富士見町遺跡や古墳などが多数見つかっている。社殿の下にある古墳は神明社古墳と名付けられている。
 室町時代前期の南北城時代、京都をはじめ各地で戦乱が起こり、伊勢の神宮もそれに巻き込まれることになる。神宮領が侵略されたり焼き討ちにあったりして、貴重な宝なども多数持ち出されたという。
 その中のひとつ、秘宝の巻物が尾張のこの地に持ち込まれ、古墳の上に祀られることになった。それがここの古墳の上で、1338年のことという。
 表向きは伊勢の神宮からアマテラスを勧請して祀ったとされているけど、実際のところはそういうことだったという話だ。古墳は伊勢山と呼ばれるようになり、巻の森とも呼ばれた。
 ただ、神社にある由緒書きには別のことが書いてあった。創建は室町以前で、巻物は慶長年間(1596年-1615年)に、御師(おんし)が巡拝のときに巻物を収めたのだと。
 どちらの話が正しいのかは分からないけど、南北朝時代の混乱期に散逸した巻物を手に入れて祀ったという方がリアリティとしてはあるように思う。
 伊勢の神宮が皇室ゆかりの神社となるのは、天武天皇、持統天皇の時代からで、それからしばらくは天皇専門の神社とされ、庶民はもちろん、皇室も簡単には参れなくなった。
 事情が変わるのが南北朝時代で、神宮は荒廃して、式年遷宮をするお金もなくなり、仕方なく一般庶民に門戸を開いてお金を集めることにした。それで生まれたのが伊勢を案内する御師という人たちだった。今でいう観光案内人のようなもので、神宮に参拝に訪れた人たちのお世話をする係だ。
 江戸時代、お伊勢参りが爆発的なブームになったのはよく知られている。
 伊勢山神明社は、お伊勢さんの出張所のような役割を果たし、伊勢まで行けない人がここに詣ってお伊勢参りの代わりにしたそうだ。



伊勢山神明神社

 蕃塀(ばんぺい)を越えて参道を進むと、左手にオールドファッションの二階建てアパートがせり出し、その奥には神社のものらしい古式ゆかしい建物が建っている。アパートの前には子供用の自転車が置かれ、灯籠の前には分別用のゴミ箱が並ぶ。
 なんて生活感が溢れる神社なんだと思う。
 それにしても、左手の建物の食い込み方はどうしたことだろう。参道正面から見る拝殿を一部隠すほどのせり出し感。右手は開放的で広々としているのに、左側の狭苦しさったらない。
 なんか面白い神社だなという印象を残した。



伊勢山神明神社境内

 神社境内の様子。
 左手に写っている二階建ては古い旅館のような建物だ。神社関係者の宿泊施設とかだろうか。



伊勢山神明神社内アパート




伊勢山神明神社境内上から

 拝殿の前から境内を見下ろしたところ。
 古墳の上だけに小高い。
 全国的にはどうなのか知らないのだけど、名古屋は古墳の上に神社が乗っていることが多い。
 神明社古墳についてはよく知らない。大須二子山古墳は6世紀前半のものとされているけど、正式な発掘調査が行われる前に壊されたため詳しいことは分かっていない。距離的に見ても、熱田の断夫山古墳(だんぷさんこふん)と無関係とは思えない。断夫山古墳は尾張氏の首長のものだろうといわれているから、神明社古墳もその関係者の可能性が高そうだ。



伊勢山神明神社豊春稲荷社

 豊春稲荷社はなかなかいい稲荷社だ。



豊春稲荷社朱鳥居




豊春稲荷社の社




伊勢山神明神社境内社

 相殿に熱田大神と加具土大神(カグツチ)を祀る。
 熱田の神を祀るのは、古墳の埋葬者との関係だろうか。
 カグツチはどういう経緯で祀られることになったのかよく分からない。
 境内社として、津島社と塩竈社(しおがましゃ)を合同で祀る社がある。塩竈社は宮城県の鹽竈神社(しおがまじんじゃ)から勧請したものだろうか。



境内の巨木




伊勢山神明神社鳥居と注連縄


【アクセス】
 ・地下鉄名城線「東別院駅」から徒歩約4分
 ・駐車場 なし(境内に可かも)
 ・拝観時間 終日
 

ブリはどうやってもブリなサンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理

 神社サイトにかかりきりの状態が続く。今年は梅さえ撮りにいけずに終わるかもしれない。桜の頃にはひと段落しているだろうか。
 サンデー料理は変わらない。今週は少し変化球だった。滅多に使わないブリを使ってみた。



ブリの変化

「ブリのからしマヨネーズしょう油焼き」
 ブリといえば照り焼きかブリ大根と相場が決まっているけど、それでは面白くないということで違う味付けに挑戦してみた。
 からしマヨネーズしょう油味。
 失敗ではないけど大成功とは言えない。ブリは魚自体の味が強いから、それを上回るくらい強い味付けでないと負けてしまう。というか、ブリは何味でもブリでしかないということかもしれない。フライにしてもブリはブリだ。



ナスと鶏肉のケチャップ

「ナスと鶏肉のケチャップ炒め卵そぼろ混ぜ」
 ナスと鶏肉をケチャップその他で炒めて、そぼろ卵をあとから混ぜ合わせる。
 もう一色あるともっと華やかな色味になっただろう。



白菜とニンジンの牛乳スープ

「白菜とニンジンのコンソメ牛乳スープチーズ入り」
 簡単に言うと牛乳スープ。とろけるチーズを入れるのがちょっとしたポイント。
 具材は野菜やキノコ類なら何でも合うと思う。
 

吹上八幡社を訪ねる

神社仏閣(Shrines and temples)
吹上八幡社入り口

 名古屋市千種区の吹上(ふきあげ)。広い幹線道路の若宮大通から少し北に入ったところに八幡社がある。表通りからは見えないので、この通りをよく通るという人でもその存在を知らないかもしれない。
 他の八幡社と区別するために吹上八幡社と呼ばれることも多い。
 もともとここにあったわけではなく、少し南の昭和区御器所にあったようだ。
 創建は江戸時代末期の1858年。
 明治19年(1886年)に氏子の希望でこの地に移されたという。
 御器所の八幡といえば御器所八幡宮がある。
 御器所八幡宮は八幡らしい八幡社と感じた
 あちらは創建が平安時代ともいわれる古い神社だ。御器所村の氏神が八幡大菩薩ということで、御器所村にはいくつかの八幡社があったようだ。『尾張志』には「神之内(しむのうち)という所にあり」とあるけど、それはこのことではない。『尾張志』の完成が1844年で、この八幡社の創建は1858年だから。

 吹上という地名は全国にあって、由来については諸説あってはっきりしない。
 太古の昔、このあたりまで海岸線が来ていて、海が後退したにできた土地ということで砂地だったのだろう。風の通り道で風がよく吹き上がるということで吹上と名付けられたのではないかと考えられている。
 吹上というと、名古屋の人間にとって吹上ホールがある場所として認識している人が多いんじゃないだろうか。しかし、隣接する吹上公園に名古屋刑務所があったことを知る人があまり多くないかもしれない。かつては愛知監獄、名古屋監獄という名称だった。
 若宮大通を作るに際して一部が引っかかるということで移されることになり、昭和37年(1962年)に三好町に移転した。
 監獄が作られるまでは茶臼山古墳と太郎塚という二つの古墳があったというが、今はもう跡形もない。古墳でいうと、鶴舞公園の東に八幡山古墳が残っている。
 吹上公園は、鶴舞公園の分園として昭和44年(1969年)に開園した。



吹上八幡社拝殿

 八幡社は端正な感じがするところが多い。この神社もそうだった。
 境内も思ったより広くて、雰囲気もなかなか悪くない。訪れる前に地図で確認したときはもっとこぢんまりした神社を想像してた。



吹上八幡社狛犬

 彫りの浅い狛犬。
 大正8年(1919年)の銘が刻まれている。
 


吹上八幡社社殿

 社殿は昭和の再建だろうけど、結構年季が入っている。建築様式は江戸末期のものをそのまま受け継いでいるのだろうか。



吹上八幡社境内社

 境内社が一ヶ所に集められている。
 どこの社なのかは確認していない。



吹上八幡社小さな社をおまいり




吹上八幡ご神木

 ご神木はイチョウだったか。



吹上八幡社鳥居と紙垂


【アクセス】
 ・地下鉄桜通線「吹上駅」から徒歩約13分
 ・駐車場 なし
 ・拝観時間 終日
 

つかみ所のない上社ジャンクションとその他のジャンクション風景

建物(Architecture)
上社ジャンクション

 黒川ジャンクション楠ジャンクションに続いて、今回は上社ジャンクションと、その他のジャンクション風景をお送りします。
 黒川ジャンクションの夕方と夜を撮る
 楠ジャンクションで本番前の下撮りをする

 上社ジャンクションは何度も通っているし、何度となく撮っているのだけど、何回撮ってもしっくりこないというか、撮りどころのポイントが分からない。
 黒川ジャンクションや楠ジャンクションと比べると絵にしづらい。見慣れすぎているというのもあるかもしれない。
 歩道橋もあって撮れるポイントは多い。でも、ここぞというところがない。なんとか見つけたいと思うのだけど見つからない。
 やはり通りすがりではなく、ちゃんと撮る目的で三脚を持っていかないといけないのだろう。もう少し暖かくなったら夜撮りにいくことにしよう。



上社ジャンクション歩道橋から見る夕陽




上社ジャンクション立体交差




上社ジャンクション夕景




上社ジャンクション夜の歩道橋




黒川ジャンクション夕焼け

 黒川ジャンクション夕景。
 


黒川ジャンクションループ下




黒川ジャンクション夕暮れ




丸太町ジャンクション

 丸太町ジャンクションだと思う。



本郷インターチェンジ

 本郷インターチェンジ付近。



日進ジャンクションの夜

 日進ジャンクション

【上社ジャンクション アクセス】
 ・地下鉄東山線「上社駅」から徒歩約5分
 ・駐車場 なし

【黒川ジャンクション アクセス】
 ・地下鉄名城線「黒川駅」から徒歩約5分
 ・駐車場 なし
 

定納公園に米田城の面影はなくとも簗田政綱は名を残した

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
定納公園南西から

 米田城は、桶狭間の戦いで戦功第一となった簗田政綱(やなだまさつな)が城代を置いて治めたとされる城だ。
 名古屋市守山区向台2丁目の定納公園あたりにその城はあったとされる。もう少し西、天子田交差点南東の住宅地のあたりともいう。
 米田は「よねだ」だと思うけど、名古屋には喫茶コメダもあるし「こめだ」かもしれない。
 別名の「やなだが城」は、簗田政綱の簗田から来ているとされる。
 城の大きさは南北50メートル、東西55メートルというから規模は小さい。定納公園より一回り小さいくらいだ。地形的に少し小高くなっているのが写真からも分かると思う。一重の堀が張り巡らされていたというから、戦闘を意識した戦国時代の城としての体裁は整っていたと考えてよさそうだ。
 近年まで堀の一部が残っていたようだけど、宅地開発によって痕跡は消えてしまった。
 江戸時代前期の1650年代に村の調査が行われ、1670年頃にまとめられた「寛文村々覚書」には、「大森村 古城跡弐ケ所 先年の城主は不知、今ハ畑ニ成ル」とある。その頃までには城跡は残るものの誰の城だったのかも村人にすら伝わっていなかったようだ。
 簗田政綱は、桶狭間の戦いで沓掛城(豊明市)を受領したのは確かなようなのだけど、米田城も一緒にもらったのかどうかはよく分からない。沓掛城跡と米田城では直線距離で14キロ以上離れている。こんな飛び地の城を一緒に与えたりするだろうか。簗田政綱の城だったとしても城代を置いていたには違いない。



定納公園南東から

 簗田政綱。1516年生まれ、1579年没。
 一般的にはあまり知られていないこの人物も、戦国の歴史にちょっと詳しい人にはよく知られている。桶狭間の戦いの陰の功労者として名を残した武将だ。
 しかし、謎の多い人物で、その功績もどこからどこまでが史実で、どこからが作り話なのか、よく分からないというのが実情だ。
 信長の影の参謀、隠密、ただの地侍、などなど、その正体は知れない。
 下野国(栃木県)足利荘簗田郷で足利家に仕えたあと、今川、斯波、織田と流れ歩いたという話もどこまで信じていいのか分からない。
 確かなことは、桶狭間の戦いにおいて、信長が勲功第一として知行3千貫と沓掛城を与えたということだ。
 一番分からないのは、何故、今川義元の首を取った服部小平太や毛利新介ではなく簗田政綱だったのかという点だ。
 桶狭間の戦いのクライマックス、本陣での戦いで、一番に義元に槍をついたのが服部小平太で、その後、義元の首を取ったのが毛利新介だった。通常であれば、この二人のうちのどちらかが第一の手柄となるはずだった。
 しかし、戦の翌日の論功行賞において、信長が真っ先に名前を挙げたのが簗田政綱だった。
「第一回選択希望選手、読売、桑田真澄、投手、17歳、PL学園高校」と高らかに読み上げたパンチョ伊藤の声が蘇る。会場は大いにざわついたことだろう。
 誰? とか、なんで? とか、嘘でしょ? などの声が飛び交ったに違いない。
 信長の一生を丹念に綴った太田牛一の『信長公記』にもそのあたりのくわしいいきさつについては書かれていない。頼むよ、牛一、そこが大事じゃん、ってことが『信長公記』にはちょくちょくある。まあ、牛一も記録係として織田家に仕えていたわけではなく、自身も武将として働いていたわけで、すべてを見聞きするのは無理というものか。

 政綱は最初、斯波氏に仕え、勢力が弱まったと見ると信長の家臣になったとされる。逆に、このあと出てくる沓掛城の城主だった近藤春景は、信長の代になって織田家に見切りを付けて今川家に走り、桶狭間の戦いで命を落とすことになる。先の見えない戦国時代に先を見通すのは難しい。
 桶狭間の頃、政綱がどこで何をやっていたのかも見解が分かれている。信長に与えられた九之坪城(北名古屋市)の城主だったとか、沓掛あたりの地侍だったとか、隠密だったという説もある。
 確からしいことは、今川軍の情勢を信長に知らせて、それが勝利につながったことで信長は政綱を勲功第一にしたらしい、ということだ。問題は、何故、政綱がその情報を知ることができたかということと、どこにいてどうやってそのことを信長に知らせたかということだ。
 義元は桶狭間の戦いの前日、2万5,000ともいわれる大軍を率いて沓掛城に入った。このとき信長は清洲城にいて、まだ動かない。沓掛城と清洲城の間は、直線距離で23キロほど離れている。早馬を飛ばすといっても当時はサラブレッドではなく木曽馬だ。そんなにスピードは出ない。
 そもそも、政綱は信長に直接謁見できるような身分だったのかどうか。いくら有力な情報といっても、どこのどいつか知らないやつが届けた情報など危なくて信じられない。そうなると、やはりもともと政綱は信長と通じていたか、信長が命じて情報を探らせていたと考えるのが自然なようにも思う。
 軍議において他の重臣を差しおいて政綱が突撃作戦を提案したというのは嘘だろう。そこまでの重要人物ではない。
 もしかしたら、たまたま運良く沓掛あたりにいて、今川軍の動きを察知することができて、それを信長に知らせた大当たりだったというラッキーパンチだっただけかもしれない。その後の中途半端な活躍からしても一発屋の匂いがする。
 信長が清洲城で動かなかったのは、何かを待っていたからかもしれない。それは沓掛城を出たあとの義元の行動を知らせる情報だった可能性は高い。朝方にあわてて飛び出したのは、その情報がもたらされたからではなかったのか。それをもたらしたのが政綱だったとすれば、勲功一番を政綱としたのも頷ける話だ。
 今川軍は戦闘部隊と本隊を分けて進軍を始めた。戦闘部隊が砦を攻撃するのと本隊との距離が開くのを待っていたのだろう。その本隊が孤立するであろう場所が桶狭間と読んだからこそ勝機有りと今川軍に突撃していったに違いない。何の勝算もなく行き当たりばったりで信長が清洲を出たはずがないのだ。清洲を出たときにはすでに信長の中で勝利の方程式は完成していたのだろう。

 沓掛城主となった政綱は、織田家臣団として各地の戦いに参加することになる。ただ、名前がほとんど記録に出てこないところを見ると主力ではなかったのか、活躍がなかったのか。引き続き信長の隠密として働いていたという説もあるけど、それなら逆に中途半端に表には出てこなかったんじゃないかとも思う。
 加賀一向一揆を鎮圧したあと、加賀天神山城主となるも、再び立ち上がった一向一揆を抑えられず退却。責任を取って安土に籠もり、1579年に死去したと伝わる。本能寺の変が起きるのはその3年後のことだ。
 息子は徳川家に仕え、江戸時代は旗本になるも、後が続かず、お家断絶になったという。
 沓掛城も、最後の城主となった川口久助が関ヶ原の戦いで西軍につき、その後、廃城になった。



定納公園北西から

 たとえ戦国時代といえども、ほとんどの人間は歴史に埋もれて名を残すことも叶わない。そんな中で、簗田政綱は謎とは言われながらも確かに名を刻んだ。米田城にしても、政綱との関わりがなければ完全に忘れ去られて誰もかえりみない城跡になっていただろう。
 わずかな手がかりでも残せば、後世の歴史好きがそれを掘り起こしてくれる。
 簗田政綱とは何者だったのか? その問いの答えはあまり重要ではないのかもしれない。
 
【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線「大森・金城学院駅」から徒歩約27分
 ・駐車場 なし(駐車スペースあり)
 

道ばたの風景

日常写真(Everyday life)
道ばたのブーツ

 今日は道ばた風景をお送りします。



折れた水仙




道ばたのサッカーボール




公衆電話ボックスのテープ




蓮舫ポスター




道ばたの机




落ちたメモ帳




お地蔵様




飛ばされたTシャツ




野球帽




民家の牛

 

名東区の和爾良神社が式内社じゃなくても地域の大切な守り神

神社仏閣(Shrines and temples)
和爾良神社参道

 名古屋市名東区にある和爾良神社を久々に訪ねてみた。前回訪れたのが2009年だから、だいぶ月日が経っていた。
 名東区の神社巡りはちょっとややこしい和示良神社から
『延喜式神名帳』にある山田郡和尓良神社の候補のひとつとなっている神社ではあるけど、個人的にはその可能性は低いと思っている。見た目からしてもそうだし、なにより式内社の匂いがしない。
 候補となっている神社は7つ。
 和爾良神社 春日井市上条町
 朝宮神社 春日井市朝宮町
 両社宮神社 春日井市宮町
 和爾良神社 名古屋市名東区猪高町
 藤森神明社 名古屋市名東区本郷
 景行天皇社 長久手市宮脇
 普通、7社もの論社がある式内社はない。たいていは2社で、あってもせいぜい3社だ。ずばり大胆に予想するなら、すでに山田郡和尓良神社が失われてしまって存在していないのではないか。候補になっているすべてがそれではないような気がするのだけどどうだろう。
 まず春日井市にあるものは候補から外していいと思う。山田郡と春部郡の境についてはいろいろ説があってはっきりしていないのだけど、北は庄内川を境にしているという説に賛同したい。庄内川のすぐ北にある味鋺神社(あじまじんじゃ)が春部郡味鋺神社というのであれば、それより更に北の春日井市はやはり春部郡ということだろう。
 名東区の和爾良神社と藤森神明社は論外だと思う。景行天皇社もどうもそんな感じがしない。可能性としては一番高そうではあるけれど。
 ただ、そうなると春日井の朝宮神社や和爾良神社が式内社とは無関係ということになり、それはそれでちょっと惜しいような気になる。祭神が阿太賀田須命(あたがたすのみこと)と建手和爾命(たけたかにのみこと)ということと、由緒からしても式内社だとしてもおかしくない。
 もし、春日井市が山田郡であるのなら、和爾良神社を摂社として祀ったという両社宮神社というのも有力候補となってくる。長く失われていたのは摂社として合祀されていたからというなら納得がいく。両社宮神社はまだ行ったことがないので近いうちに訪ねたい。

 それにしても、何故、延喜式にある和尓良神社をわざわざ和爾良神社としたのだろう。
「尓」は「爾」の異字で、どちらかというと尓の方が略字だ。音読みで「ニ」、「ジ」、訓読みで「なんじ」、「そ」となり、あなたとか、それとか、そうだといった意味だ。
 読み方も神名帳では「わにら」なのに、春日井市の和爾良神社は「かにら」と読ませている。
 名東区の和爾良神社は、社名の石碑は「和爾良神社」となっているのに、鳥居の額や境内の説明板は「和示良神社(かにらじんじゃ)」になってしまっている。和爾良の略字のつもりだとすれば、示は明らかに間違っている。尓にしなければいけない。
 愛知県神社庁が出している『愛知縣神社名鑑』の中では、和爾良神社(わにらじんじゃ)とある。宮司の引き継ぎのときに上手く伝わらず間違ってしまったのかもしれない。

 現在の出来町通は、江戸時代には山口街道と呼ばれていた。
 戦国時代、往来が多くなった頃、この地で暮らしていた武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫が旅人の安全を願って社を建てたのが始まりとされる。
 祭神は武内宿禰(たけうちのすくね)ということで、その点でも延喜式にある和尓良神社とは言い難い。年代からしても戦国時代では新しすぎる。
 いつどういうきかっけでこの神社が和爾良神社を名乗るようになったのかは分からない。江戸時代などは原の天神様と呼ばれていたという。このあたりの地名である猪子石原(いのこしはら)から来ている。
 式内社がよくてそうじゃなければ駄目と言っているのではなく、無理に式内社を主張しなくてもいいんじゃないかと言いたいだけだ。たとえば創建が江戸時代だったとしても、すでに400年、500年と地域の人々に守られ大事にされてきたということだ。それ以上背伸びする必要はない。式内社を名乗って実はそうじゃないとなったらかえって説得力を失ってしまう。無名な人が真面目に描いた絵に有名画家の印を押すことで偽物になってしまうようなものだ。
 まあ、神社側がそうしているのではなくて周りが勝手にああだこうだと言い争っているだけといえばそうなのかもしれないけど。



和爾良神社

 再訪の主な目的は写真を撮り直すことだった。
 このときは夕方のいい光が差し込んでいた。
 ちょっとこぎれいになっていると思ったら、参道などを整備したばかりだった。



和爾良神社石碑と鳥居




和爾良神社拝殿と狛犬

 1908年(明治41年)に、西ノ切にあった浅間神社(木花開耶姫命)と、欠下にあった山ノ神社(大山祗命)を合祀して村社に列した。



和爾良神社本殿




和爾良神社境内社

 かつて菅原道真像を祀っていたという話があるけど、現在、祭神の中に菅原道真は入っていない。天満宮、天神社のたぐいもない。すでに菅原道真像は失われてしまったのだろうか。



和爾良神社拝殿境内




和爾良神社参拝者

 境内には桜の木がある。花が咲く頃、また訪れることにしよう。

【アクセス】
 ・名古屋市営地下鉄東山線「一社駅」から徒歩約60分
 ・名鉄瀬戸線「小幡駅」から徒歩33分
 ・市バス/名鉄バス「猪子石原停留所」から徒歩約5分
 ・駐車場 あり(無料)
 ・拝観時間 終日
 

西区浄心の宗像神社と宗像三女神問題

神社仏閣(Shrines and temples)
宗像神社入り口正面

 深島神社を訪ねたとき、宗像三女神問題の解決を見ないまま保留として、浄心の宗像神社に行ってからもう一度考え直すと書いた。その機会が意外とすぐにやってきた。
 名古屋市西区浄心にある宗像神社名古屋城から見て北西約1キロのところにその神社はある。
 名古屋城天守の北西に御深井丸(おふけまる)という出っ張ったエリアがある。北西角の堀に面したところに戌亥隅櫓(西北隅櫓)があり、天守を守る防御の役割を果たすために設けられた。
 その北の堀を御深井堀といい、周辺にも御深井と呼ばれる場所があり、少し混乱する。
 宗像神社は下御深井御庭にあったというから、城内ではなく名城公園になっているところにあったようだ。境内は4百坪以上というからかなり広かったようだ。御深井弁天(おふけべんてん)と呼ばれていたという。

 1610年、名古屋城築城に際して、名古屋城初代城主で尾張藩初代藩主の徳川義直(家康の九男)は、九州筑前の宗像神社(宗像大社)から宗像三女神を勧請して3つの社を創建した。
 それが宗像社であり、深島社であり、武島社であるというのだけど、問題はどの神をどこに祀ったかという点だ。
 深島神社の祭神も田心姫命(タゴリヒメ)だとか、湍津姫命(タギツヒメ)だとか、市杵島姫(イチキシマヒメ)とか、それぞれ説があり、どうにも決めかねているようだ。
 宗像神社については、もともと田心姫命を祀っていたのだという。
『尾張志』(1844年完成)では、深島社の田心姫命は間違いで、市杵島姫を深島社、武嶋社を湍津姫命、宗像社を田心姫命にすると、『日本書紀』に当てはまるから上手く収まっていいんじゃない? 的なことを書いている。でも、それは筆者の推測であって確実ではないからもっと詳しい人が検討してくださいよろしくと逃げ道も用意している。『尾張志』がまとめられたのは1800年代のことで、1610年の創建から200年以上の歳月が流れている。その頃になるとすでに詳しいことは分からなくなっていたのだろう。
 武嶋社というのは今はないようで、これも『尾張志』によると、瀧嶋社として浅間町の浅間社の摂社になったという。浅間町の浅間社というと冨士浅間神社のことだろうか。だとしたら、現在はそれに当たるような境内社はなさそうな感じだ。

 そもそもの話でいうと、本家の宗像神社ですら三女神をどこで祀るかの混乱がある。
『古事記』では、沖ノ島の沖津宮に多紀理毘売命(タギリビメ)が、大島の中津宮に市寸島比売命(イチキシマヒメ)が、田島の辺津宮(へつみや)に多岐都比売命(タギツヒメ)が祀られていることになっているのだけど、『日本書紀』では沖津宮に田心姫(タゴリヒメ)、中津宮に湍津姫(タギツヒメ)、辺津宮に市杵嶋姫(イチキシマヒメ)とあり、それも途中で入れ替わったりしている。
 宗像神社でも時代の変遷で何度か入れ替わっているようだけど、現状としては、沖津宮に田心姫神(タゴリヒメ)、中津宮に湍津姫神(タギツヒメ)、辺津宮に市杵島姫神(イチキシマヒメ)ということで落ち着いたようだ。
 浄心の宗像神社はといえば、田心姫神という確信が持てなかったからか、角が立たないようにという配慮からか、三女神と徳川義直を祀ることにしたようだ。
 それ以上のことはよく分からないので、宗像三女神問題は再び棚上げということになる。



宗像神社参道入り口の金属鳥居

 弁天通に面する参道入り口に金属製の細い鳥居が建っている。一応、鳥居らしい格好はしているけど、ここまでアレンジしてしまうともはや鳥居と呼ぶことがためらわれる。



弁天通の弁天像

 牛に乗った弁天像。ちょっとシュールだけどこれにはちゃんとしたわけがある。
 この通りが弁天通と呼ばれるようになったのは、宗像神社が由来だろう。イチキシマヒメは神仏習合で弁才天と同一視された。
 この弁天像がいつ作られたのかは分からない。弁天通商店街と名付けられる前だったのか後だったのか。
 一時、堀川沿いの空き地に捨て置かれていたようで、それが再び戻されることになり、弁天さんが七福神を連れて里帰りしたんだと住人は喜び、弁天以外の七福神像も作って飾ることにしたのだとか。
 このあたりの浄心という地名は、交差点角にある浄心寺から名付けられた。
 江戸時代後期の1811年に建立された曹洞宗の寺で、地元では浄心観音と呼ばれて親しまれているそうだ。
 毎年6月9、10日に行われる天王まつり(弁天まつり)では、弁天通に露天が並んで賑わうらしい。



宗像神社拝殿

 徳川家の神社だったものを一般に公開して村社に列したのが明治7年(1847年)のこと。
 明治22年(1889年)に現地に移された。
 第二次大戦の空襲で社殿が焼失。
 昭和27年(1952年)に本殿などが再建された。
 義直直筆の社号額があるそうだけど、表には架けられていない。



宗像神社拝殿と狛犬

 境内社の前にブロンズ製の狛犬がいたらしいのだけど、見落としてしまった。拝殿前の境内にはそれらしいものがなかったから、拝殿右手の奥へ入っていたところにあるのだろう。
 江戸時代末期の1861年に伊藤萬蔵が他の2名と共同で寄進したものだそうだ。
 尾張国中島郡平島村(現一宮市丹陽町平島)に農家の息子として生まれた伊藤萬蔵は、丁稚奉公から独立して店を構え、幕末から明治の混乱期を巧みに乗り切って、米相場などで大成功をおさめた人物だ。
 しかし、ただの山師ではなく、生涯神仏への感謝の気持ちを忘れず、95歳で亡くなる少し前まで寺社に石造物などを寄進し続けた。65年間で、その数は数百にのぼるという。
 その萬蔵が29歳のとき初めて寄進したのが、宗像神社にあるブロンズの狛犬だった。
 単独の寄進は35歳のとき、実家の菩提寺である常保寺(現一宮市浅野)に石灯籠一対を納めた。

 境内社に金刀比羅社、須佐之男社がある。
 木造の金箔塗の狛犬が本殿と金比羅社にあるようだ。



宗像神社クスノキ

 クスノキなんだけど、なんでこんな姿になってしまったのだろう。



和徳稲荷入り口

 和徳稲荷社も同じく明治22年(1889年)に上御深井からこの地に移されたというのだけど、上御深井というのがどこなのかちょっと分からない。



和徳稲荷社の木像亀




和徳稲荷鳥居

 朱塗りの鳥居は桜の木を取り囲むように建っている。桜の花の時期は、和徳稲荷社自体が花に埋もれるようになる。
 見逃した狛犬もいるし、チャンスがあれば桜の頃にもう一度出向きたい。
 
【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「浄心駅」から徒歩約2分
 ・駐車場 なし
 ・拝観時間 終日
 

緑のない茶色いしずる感のあるサンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理

 神社サイト作り優先で、ここのところあまり撮りにいけていない。両立できればいいのだけどそれも難しいので、しばらくサイト作りに専念して、写真は二の次とする。季節の花も追いかけられそうにない。
 神社サイトは完成までに一年はかかりそうだ。なかなか気の長い話だけど、地道にいくしかない。昔、初めてホームページ作りをしたときもこんな感じだったかなと少し懐かしくなった。
 サイト作りと平行して、まだ行っていない神社めぐりもしなければいけない。なので、当面、このブログも神社ネタ中心ということになる。最近、神社のことしか書いてないような気がする。そんなに神社好きではないのに。

 サンデー料理をするくらいの時間はある。最初の頃は作り始めから食べるまでに2時間くらいかかっていて、そのうち1時間半になって、今は1時間ちょっとでやれるようになった。急げばもう少し時間短縮はできそうだけど、そんなに慌てて作らなければいけない理由もないからマイペースでわりとのんびり作っている。
 一番時間がかかるのは皮むきとか切り分け作業で、次は凝ったソース作り。面倒な皮むきとソース作りと揚げ物が重なったりするとてんやわんやになる。最高に面倒な皮むきは里芋だろうか。もやしのヒゲ取りもすごく時間がかかる。
 一番好きな調理方法って何だろうと考えると、意外と揚げ物は楽しいかもしれないと思う。下準備と後片づけがすごく大変ではあるのだけど。



マグロの卵とじ

「マグロの卵とじ」
 衣のないカツ丼の具のマグロ版みたいなもの。
 けっこう美味しい。このままご飯に乗せればマグロ卵丼になる。



ナスの素揚げ甘酢あんかけ

「揚げナスの甘酢あんかけ」
 ナスの素揚げのコツがやっと分かった。まず塩水に浸けるのがポイントだ。真水ではなく塩水にすることでナスが油を吸いすぎるのをふせぐのだとか。
 10分ほど浸けてあく抜きをしたあと、よく拭いてビニール袋にカタクリ粉と一緒に入れて、粉をまぶす。
 油の温度は170度で3分くらい。角のあたりが焦げ茶色になったら取り出して油切りをする。
 これでべちゃっとならずに中身がトロトロの仕上がりになる。
 タレは甘酢ダレが合うと思う。



シーチキン麻婆豆腐

「シーチキン麻婆豆腐味噌風味」
 ひき肉の代わりにシーチキン缶を使って、味噌ダレを加えたちょっと変わり種の麻婆豆腐。
 豆板醤でピリ辛にしつつ味噌味を加えることで通常の麻婆豆腐とはまたちょっと違う味が楽しめる。
 

榎白山神社と美濃路を駆けた若き日の信長の話

神社仏閣(Shrines and temples)
榎白山神社入り口

 名古屋城の西1キロちょっとのところにある押切。旧美濃路沿いに榎白山神社はある。
 かつて名古屋十名所に選ばれたこの神社も、今はあまり知られてない。
 江戸時代に発売された『尾張名所図会』(上巻は1844年、下巻は1880年)の中に「榎権現図会」と題して描かれている。広い境内と立派な社殿が建ち並んでいる。鳥居は描かれておらず、入り口の門と塀で周囲を取り囲まれている様子が神仏習合の白山社らしい。
 東海道と中山道を結ぶ脇道として整備された美濃路は、熱田の宮の宿で東海道と別れて堀川沿いを北上し、名古屋城の西で進路を西に変え、清洲から大垣を経て垂井宿で中山道と合流した。
 殿様から庶民まで多くの人が利用し、とても賑わった街道だったという。
 白山神社の前には立場と呼ばれる旅人の休憩所があり、茶店などが集まっていたそうだ。
 このあたりがちょうど名古屋城下の西の端に当たり、夜になると木戸が閉じられ、出入りができなくなった。街道沿いに寺院が並んでいたのは防備の役割もあった。

 1560年。尾張に攻め込んだ今川義元を迎え撃つべく信長が出陣。
 5月19日。新暦では6月12日。午前3時頃、今川勢の先鋒隊だった家康軍と朝比奈軍が丸根砦、鷲頭砦(緑区大高)への攻撃を開始。
 1時間後の午前4時、知らせを受けた信長は即座に清洲城を飛び出した。それについていけたのはわずかに6騎のみ。
 そのまま一気に桶狭間まで駆けていったようなイメージがあるけど、実はそうではない。熱田神宮に着いたのは午前8時。距離にして約13キロ。自転車をのんびり漕いでいっても1時間ちょっとしかかからない距離を4時間もかけて進んでいる。もちろん、のんきに歩いていったわけではない。
 何をしていたかというと、途中、この榎白山神社で戦勝祈願をし、更にその先の日置神社でも戦勝祈願をしている。祈願しまくりの信長、このとき27歳。
 もちろん、念入りに祈祷を受けていたとかそういうことではない。途中で状況を逐一把握しながら家臣たちが追いついてくるのを待っていたのだ。敦盛を舞ったのは清洲城ではなく日置神社だったという話もある。
 信長は1534年、現在の名古屋城の二の丸あたりにあったとされる那古野城で生まれた(異説あり)。那古野城と清洲城は美濃路でつながっており、21歳で清洲城に移るまでこのあたりが信長の庭だった。白山神社も当然馴染みだったはずだ。
 奇抜な格好をして家来どもを引き連れ馬を乗り回していた10代の信長。ひと昔前の暴走族のようなものだ。暴れてそのへんのものを壊したりしていたかもしれない。
 熱田神宮で戦勝祈願を終える頃には200騎まで増えていた。
 ここからは鎌倉街道を東へ進むことになる。潮が満ちている鳴海潟を避け、いったん北上して上の道を行ったと考えられている。
 善照寺砦に到着したのが午前11時頃。その前に丸根砦、鷲頭砦が落ちたことを知る。あえて救援に向かわず見捨てたのは、今川軍の先陣を引きつけるための捨て石にしたからだ。
 中嶋砦で兵を整えたあと、手越川沿いを進み、桶狭間に着いたのは昼頃のこと。今川軍はいったん休憩して昼ご飯を食べていた。楽勝ムードでかなり緩んでいたのではなかったか。信長はそのタイミングを待っていたに違いない。
 そこへ突然、暴風雨が起きて今川軍は大慌てになる。これは信長にとっても計算外だっただろうけど、おかげで敵に気づかれずに接近することができた。嵐が収まるのを待って正面から今川義元の本陣に突撃していった。
 午後2時頃、義元の首を取り、ほぼ勝負あり。この時代の戦闘は大将が負けたら終わりで、全滅まで戦ったりはしない。
 戦いが終わったのは午後4時頃のこと。清洲を飛び出して12時間が経っていた。
 よく今川2万5千に対して織田軍2千とか3千で兵力差は10倍といった言われ方をするけど、本陣での局地戦においてそれは正しい認識ではない。今川軍の主力部隊は前線に出て砦を攻撃しており、本隊の兵士はせいぜい5千程度だったと考えられる。それは守備隊であり、当時の足軽兵の特質として半分農民だった。
 それに対する信長軍は農家の次男坊、三男坊を集めて鍛えた専門の兵士だった。半農民の5千の兵士と精鋭部隊2千の兵士が戦ってどちらが強いかはそう考えなくても分かる。
 桶狭間の戦いは信長の奇襲ではなく作戦勝ちだったというのが最近の定説になっている。状況を読み切り、運も味方に付けた信長軍が勝つのは必然だったといえる。それは結果論といえばそうなのだけど、少なくとも信長の側に勝機があり、それを掴んだ信長はやっぱりたいしたものだった。
 意外と律儀なところがある信長は、戦勝祈願をして勝ったお礼として、榎白山神社には太刀を、日置神社には松林を、熱田神宮には信長塀をそれぞれ奉納している。
 白山神社の太刀は第二次大戦の空襲で焼けて失われてしまったそうだ。



榎白山神社

 榎白山神社は、普通に「えのきはくさんじんじゃ」だと思っていたら、「えのしろやまじんじゃ」と読むそうだ。いつからそう読むようになったのかは分からない。江戸時代はもっぱら白山権現と呼ばれていたというから、昭和以降のことだろうか。
 名古屋十名所は、大正13年(1924年)に新愛知新聞社(現中日新聞)が選んだもので、現在の基準からいうとだいぶずれている。
 熱田神宮、名古屋城、笠寺観音までは納得だけど、圓頓寺(えんどうじ)は円頓寺商店街の中にある小さな寺になっているし、山田元大将之社といって分かる人がどれくらいいるか。闇ノ森(くらがりのもり/闇之森八幡社)、榎ノ権現(白山神社)、久屋金刀比羅(東区久屋町)、櫻田勝景(さくらだしょうけい/南区呼続)、天理教々務支庁(昭和区緑町)などは名古屋の人間でも知ってる人は少ないんじゃないだろうか。
 榎白山神社も、立派な神社ではあるものの、名古屋を代表するような名所とはいえない姿になっている。明治の神仏分離令を経て大正期まで名所と呼べたというのなら、戦前まではある程度往事の姿をとどめていたということだろう。戦前に撮られた写真があったら見てみたい。



榎白山神社拝殿と梅

 創建は室町時代中期の1477年。
 斯波義康という人物が加賀国の白山媛の神社(白山比咩神社)から勧請して祀ったのが始まりとされる。
 日頃から白山の神を信仰していたら、白山神が夢に出てきて、押切(鴛鴦喜里)に我を祀れと言ったとかなんとか。
 祭神はククリヒメ(菊理姫大神)、アマテラス(天照大御神)、トヨウケビメ(豊受大神)。
 アマテラス、トヨウケビメは後付けだろうし、ククリヒメも明治以降のことで、本来は白山大権現だったはずだ。
 ルイス・フロイスは著書『日本史』の中で、こんなことを書いている。
「予は伴天連らの教えと予の心はなんら異ならぬことを白山権現(の名において)汝らに誓う」と信長は語ったと。
 以前、信長の弟・信行(信勝)が末森城の城主になったとき白山権現を勧請して祀ったことを軟弱と思ったけど、それは私の思い違いで、織田家にとって白山権現は特別な存在、ひょっとすると守護神だったのかもしれない。だとすれば、私の白山神に対する認識は改めないといけないことになる。
 桶狭間の戦いに臨むに当たって、信長はどうしてもこの白山権現に詣っていく必要を感じたのかもしれない。どれだけ劣勢でも必ず勝つという信念を持っていただろうけど、勝つ保証などもちろんあるはずもなく、負けることはすなわち死を意味する。戦勝祈願とひと言で片づけていいほど軽いものではなかっただろう。
 信長は桶狭間に勝利して、本能寺で命を落とした。信行は信長との争いに敗れて22でこの世を去った。白山権現は今も変わらずそこに在り続ける。



榎白山神社拝殿から見る本殿




榎白山神社境内の榎

 榎白山社の名前は、境内にあるご神木の榎(えのき)が由来となっている。
『尾張名所図会』にも描かれていて、すでに枯れたような姿をしている。江戸時代からすでに古木の風情だったのだろうか。



榎白山神社本殿

 社殿は空襲ですべて焼けてしまったとのことだ。
 本殿までコンクリート造になっているのはちょっと珍しいかもしれない。



榎白山神社狛犬

 前足の長い狛犬。



榎白山神社少将稲荷

 少将稲荷社。



榎白山神社境内社

 境内社に天神社、金刀比羅社、戸隠社がある。
 菓子の神・菓祖の田道間守(たじまもり)を祀る田道間守社があるようだけど、写真に撮るのを忘れた。榎の近くにあった社がそれだっただろうか。



榎白山神社神馬像と梅




榎白山神社絵馬掛け




榎白山神社権現橋

 かつて境内のすぐ西を笈瀬川(おいせがわ)が流れ、近くに架かる橋を権現橋といった。川は姿を消し、橋の欄干が榎白山神社に移されている。
 神社は歴史の証人なのだと、今回あらためて思った。

【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「浅間町駅」から徒歩約15分
 ・名鉄名古屋本線「栄生駅」から徒歩約25分
 ・駐車場 なし
 ・拝観時間 終日
 

ユニークで実はちょっとすごいかもしれない南押切神明社

神社仏閣(Shrines and temples)
南押切神明社入り口

 名古屋市西区にある南押切神明社について書けることは少ない。どういう由緒を持つ神社なのかということがほとんど分からない。神明社だからおそらく江戸時代だろう。中期以降の可能性が高い。村社とあるから、村の中心的な神社だったことが分かる。
 しかしこの神社、ただの町中にある小さな神社ということで終わらせるのはもったいない魅力を持っている。それは、参拝者を楽しませるという点においてだ。



南押切神明社

 押切という地名は全国にあって、いわゆる崩壊地名を指す場合が多い。災害に遭った土地の記憶をとどめるための先人の知恵のようなもので、押切もそのひとつだ。押し切られる、つまり川の堤防が決壊して水に浸かったことを意味する。
 地図を見ると北を流れる庄内川はかなり離れているからそれに当てはまらないように思うのだけど、実はかつてこのあたりに笈瀬川(おいせがわ)という川があった。西区の児玉町あたりから押切、ノリタケの森の東、名古屋駅西の椿神社前と南下し、中川に合流していた。中川は運河になる前は自然の河川だった。
 笈瀬川はその後、暗きょになったり埋め立てられたりして、現在見ることはできなくなっている。
 押切のあたりがちょうど川が氾濫しやすい場所だったと考えられる。
 別の説として、鴛鴦喜里村(おしきりむら)という表記があり、オシドリのことを鴛鴦(えんおう)といい、そこから来ているというものがある。鴛はオスのオシドリ、鴦はメスのオシドリを意味し、つがいのオシドリが喜ぶ里というなら、冬になるとここらにオシドリが飛来してきたのだろうか。
 もうひとつ、地押しをして開墾した場所から来ているという説もあるのだけど、地押しというのは江戸時代の検地のことだから、江戸時代以前に押切、あるいは鴛鴦喜里という地名がついていたのなら矛盾する。鎌倉時代、近くに押切城があったと伝わっている。
 押切の地名は東北南部から東海地方にかけて集中しているようで、名字の押切もそのエリア出身の割合が高いという。山形、東京、埼玉、千葉が特に多いそうだ。押切もえは千葉県市川市出身ということで、先祖の頃からそこに住んでいるのかもしれない。
 

 南押切神明社は、押切交差点から22号線(菊ノ尾通)を西へ進み、菊ノ尾交差点を過ぎて次を南へ入って少し行ったところにある。住所でいうと、則武新町1丁目になる。
 押切にはかつて、名鉄一宮線の押切町駅(押切町1丁目8番)があった。犬山線岩倉駅ー押切町駅の区間と押切町駅ー柳橋の区間をつなぐターミナル駅だった。
 その後、あれやこれやあって、新名古屋駅が開業したことで押切町駅は廃止になった。戦争中の1941年(昭和16年)のことだ。
 現在の街並みからは、かつて駅前風景が広がっていたことを想像するのは難しい。



南押切神明社豊月社

 舞殿型拝殿にかかる額が、どういうわけか豊月社になっている。よそからもらってきたものをそのまま流用したのだろうか。だとしても、額くらいは新調してもよかったんじゃないか。それとも、この舞殿や額はそういうことではないのか。



南押切神明社岩狛

 一部で岩狛と呼ばれる型の狛犬。
 大正7年(1918)建立とある。
 岩に前足を片方乗せて、身を乗り出そうとしている姿をした狛犬のことを便宜的にそう呼んでいる。名古屋ではこのタイプの狛犬は珍しいと思う。
 口に花をくわえているのも初めて見た。狛犬はもともと獅子だから、唐獅子牡丹(からじしぼたん)といったところだろうか。



南押切神明社本殿と陶製狛犬

 本殿脇にいる狛犬はたぶん陶製だ。陶製の狛犬もあまりない。名古屋市内では見たことがないかもしれない。
 瀬戸市にある式内社の深川神社には、陶祖・加藤景正(藤四郎)作と伝えられる陶製の狛犬がある。一体は盗まれて片方しかないのだけど、重要文化財に指定されている(かつて国宝だった)。
 南押切神明社の狛犬はそこまでのものではないだろうけど、ちゃんとした陶工が作ったもののはずで、実はけっこうな価値があるものかもしれない。
 片方は青の色がかなり残っているから、完成時は青色だったと思われる。もう一方はほとんど色が落ちてしまっているから、別の色だっただろうか。
 この神社、本当はけっこうすごい神社なんじゃないのかと思い始めた。



南押切神明社金比羅宮

 境内社の金比羅宮。



南押切神明社境内社

 境内社に、津島社,秋葉社がある。



南押切神明社舞殿と下校中の小学生




南押切神明社手水舎の龍

 ちゃんと水が出ているところに好感が持てる。



南押切神明社鳥居の上の鳩

 鳥居に鳩の彫刻。八幡宮ではなく神明社なのに。
 遊び心ではないだろうけど、こういうちょっとした仕掛けがあるのもこの神社の楽しいところだ。



南押切神明社干支の置物

 そういえば去年は申年だったなと。



南押切神明社境内に咲くタンポポ

 このあと行く白山神社のついでに寄っただけで期待していなかったし、参拝して写真を撮っているときもそれほど特別なものは感じなかったのだけど、帰ってきてから写真を見返したりあれこれ調べていくうちに、何かいいものを秘めた神社かもしれないと思うようになった。
 狛犬はもっとちゃんと撮っておくべきだった。近くまで行く機会があれば、もう一度立ち寄って写真を撮り直したい。
 小さな境内に魅力がぎゅっと凝縮したユニークな神社、それが私の南押切神明社に対する印象となった。
 
【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「浅間町駅」から徒歩約17分
 ・名鉄名古屋本線「栄生駅」から徒歩約16分
 ・駐車場 なし
 ・拝観時間 終日
 

なんでもない街の風景

日常写真(Everyday life)
中川運河沿いのアパート

 今日は道行き街の風景をお送りします。



店跡の駐車場




ワーゲンとトタンの家




アサヒビール工場と夕焼け空




煉瓦風の家屋




夜の電話ボックス




タイホーパチンコとボーリング場




郊外の住宅地と夕陽




歩道橋からの夕景




路地の風景




住宅街の日暮れ

 

下飯田の六所社とヒルコの話

神社仏閣(Shrines and temples)
六所社入り口

 地下鉄名城線の平安通駅と志賀本通駅の間、通りから少し北へ入ったところに神社があるのは知っていた。鳥居が見えていて少し気にはなっていたのだけど、なかなか寄る機会がなくてそのままになっていた。
 近くまで行ってみると六所社とある。わっ、六所社か、と思う。名古屋北部にはいくつかの六所社があるのだけど、由緒などが分からないところが多いので、ちょっとやっかいな神社という印象が私の中にある。
 以前、矢田の六所神社を紹介した。
 矢田の六所神社はどうして六所なのか
 あのときも、どうして六所神社という名前が付けられたのか分からず保留になっている。
 今回紹介する六所社も、矢田の六所神社とはまた別の意味で分からない神社というのが仮の結論ということになる。
 住所でいうと、北区下飯田町になる。

 一般的に六所社というのは、六柱の神を祀っているとか、六つの神社を合祀して祀ることでそう呼ばれるようになったというパターンが多い。下飯田六所社は後者ということになる。
 創建のいきさつは伝わっていない。
 明治から大正にかけて、このあたりに工場が多くできると邪魔になった小さな神社は六所社に集められることになった。それが大正三年(1914年)のことという。
 そのとき合祀されたのが、神明社、天神社、熊野社、金比羅宮、八龍社、山ノ神社の六社だったことから六所社と呼ばれるようになったのだとか。
 それなら何の疑問もないではないかと思うだろうけど、分からないのはそれ以前は八幡社だったというのだ。
 現在の六所社の祭神は、イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、ツクヨミ、ヒルコの六柱となっていて、八幡神はどうなったのかと思ったら、本殿脇の奥まったところ小さな社があって、そこに祀られている。ほとんど末社のような扱いを受けている。どうしてこんな逆転が起きてしまったのだろう。
 八幡社の創建はいつのことなのか。江戸時代なのか、それより前なのか。
 何しろこの神社に関する情報が少なくて、私の調べはここで行き詰まってしまった。今回もまた、六所社が保留となってしまったわけで、私の六所社に対する苦手意識のようなものがますます強くなりそうな予感がしている。
 東区矢田と下飯田以外に、上飯田の六所宮や西区比良の六所社などがある。私が把握していないところもあるかもしれない。
 こうなったら六所社を全部回って、それぞれの由緒を調べた上で、関係性を考えないといけないだろう。特に上飯田の六所宮は下飯田と祭神の顔ぶれがまったく一緒なので、無関係ということはなさそうだ。
 ちなみに、このあたりは明治の頃、六郷村という名前だった。
 明治22年(1889年)に、大曾根村、大幸村、矢田村、山田村、上飯田村、下飯田村が合併して六郷村となった。
 六所神社の名前がそこから来ているということはないだろうけど、可能性としてなくはないのか。
 六郷村は東区に編入されたあと、昭和19年(1944年)に東区を分割して北区ができたときに西半分が北区になった。



六所社一の鳥居

 金属製の一の鳥居。銅製とかだろうか。
 八幡社の名残がないのは鳥居もそうで、八幡鳥居ではない。
 周辺の神社を合祀したからといって本体が脇に追いやられてしまうことはあまりないと思うのだけど。



六所社二の鳥居から見る拝殿




六所社拝殿

 ところで、六柱の祭神の中に何気なくヒルコ(水蛭子/蛭子命)が混じっている。これははっきりした意図があったのか、それともイザナミ、イザナミのファミリーだからついで入れておけとなったのか、そのあたりが気になる。本来であればヒルコはこのファミリーには入れない。いなかったことにされた子だからだ。
『古事記』ではイザナギとイザナミの最初の子として生まれるも、奇形児ということで葦の舟に入れられオノゴロ島から流されてしまう。子作りのときに女のイザナミから誘ったのがいけなかったとかなんとか、訳の分からない理屈で、なかったことにされてしまう。
 続いて生まれたアハシマ(淡路島のことではない)も、どういうわけかいなかったことにされてしまう。なので、公式にはアマテラスが最初の子で、次がツクヨミ、その次がスサノオということになっている。
『日本書紀』では少し違っていて、生まれてすぐではなく3歳になっても足が立たないのでアメノイワクスフネに乗せて流したとある。順番も最初ではなく、アマテラス、ツクヨミの次となっている。
『日本書紀』でアマテラスは、オオヒルメノムチとなっていて、ヒルメとヒルコは対になっているのではないかという説がある。
 流されたヒルコがどうなったかというと、各地で流れ着いたヒルコを育てて神になったという伝説を生んでいる。特に有名なのが兵庫県の西宮神社で、ヒルコは摂津国西の浦に流れ着いて、土地の人が拾って戎三郎(エビスサブロウ)と名付けて大事に育て、やがて神となり祀られるようになったとされる。
 古来、海の向こうから流れ着くものは縁起がいいものとされ、のちに七福神の恵比寿様と結びついて信仰の対象となった。
 蛭子能収(えびすよしかず)のようにヒルコをエビスと読ませるのも、そこから来ている。

 それにしても、ヒルコというのはどういう神なのか。どういう存在で、どんな意味を持つのか、いろんな人がいろんなことを言っているけど、実際のところよく分からない。
 蛭の字を当てたのは何か意味があってのことのように思うけどどうなのか。蛭子というだけでなく水蛭子と水がつくのはどういう意味を持たせようとしているのだろう。
 ヒルコとヒルメは双子で、双子は不吉とされるから片方を葬ったという説はなんとなく納得してしまいそうになる。
 ヒルコの段は国生みのことをいってるから、それを神として考えるのは間違っているのではないかという指摘もなるほどと思う。だとすればヒルコやアハシマは土地のことか、もしくは島のことを指しているのだろうか。
 一番よく分からないのは、『古事記』や『日本書紀』に関わった人たちは、何故このエピソードを書き加えたのかということだ。このあと、国生みを無事終えて、子供も生んで、世界は動きだし、回り始める。わざわざその前の失敗を書くには、そこに何らかのメッセージをこめたということだろう。何かの象徴かもしれないし、逆に何かを隠すためにわざと違うことを書いた可能性もある。最終的に天皇もこの記述を認めたということだろうから、それが何を意味するのか分かっていたということだろう。
 名古屋の神社でここ以外にヒルコを祀っている神社があったかどうか、ちょっと記憶がない。境内社に蛭子社というのがあった気がするけど、本殿に祀っているところは少ないんじゃないだろうか。
 六所社問題、ヒルコ問題ともに、解決しないままいったん棚上げということになる。



六所社拝殿額




六所社境内の様子




六所社天神社

 天神社。



豊藤稲荷




六所社授与所と結ばれたおみくじ




六所社御嶽神社

 御嶽神社。
 尾張大國霊神社も独立した境内社となっている。



六所社橋の欄干

 かつて近くを流れていた川はすでに姿を消してない。
 それらの川に架かっていた橋の欄干や台座などが六所社の境内に集められている。
 隣にある有終館というのがどんな建物なのかは分からない。



六所社境内の母子


【アクセス】
 ・地下鉄名城線「志賀本通駅」から徒歩約5分
 ・駐車場 不明
 ・拝観時間 終日
 

名古屋と近郊で食パンをめぐる旅 ---池下ベーカリーrico/Jack&Betty/ ぱん・くまくる

パン屋(bakery)
ベーカリーrico店舗

 名古屋と近郊で食パンをめぐる旅シリーズ。今回は地下鉄駅前にある3軒のパン屋さんを紹介します。

 地下鉄東山線の池下駅の北にある「池下ベーカリーrico」さん。
 以前は「ベーカリー CORK」という店名だったそうだけど、その頃のことは知らない。
 池下に写真を撮りにいったときに店の前を通りかかって気になっていた。そのときは買わず、もう一度出直して買いにいった。
 町のパン屋さんというたたずまいの店だけど、たぶん女性がやられている店なので、店構えも、店内の様子も、パンの感じも女性らしさが出ている。
 意外というべきかどうなのか、パン屋の主人は男性が多い。それはパティシエが意外に男性が多いのと共通するのかもしれない。もちろん、パンもケーキも女性がオーナーの店もあるのだけど、パン屋は割合でいうと3分の2は男性だと思う。パン作りもたぶん体力勝負で、外から見ているよりもずっと大変なのだろう。



リコ

 何種類かある食パンの中からマイルド食パンを選んだ。
 山食パンが好きなのだけど、その店の基本を知るには角食パンの方が分かりやすいように思う。
 この日は確か、年末年始の休み明けで、通常400円が300円になっていた。サイズからして400円でも高くはないけど300円は安い。
 全体的に手堅くまとまっているという感じだ。とても真面目で誠実な食パンといえる。必要充分の美味しさで、難を言えば突出したところがないということだろうか。
 別の種類の食パンも食べてみたい。

 池下ベーカリーricoのFaceBook
 お店の地図
 9時~18時
 定休日 日曜日・祝日



Jack&Betty店舗

 地下鉄東山線の一社駅から南へ少し行ったところにある「Jack&Betty」さん。
 ここはかなり昔からあるパン屋さんで、もう老舗といっていいくらいかもしれない。少なくとも30年以上はやっているはずだ。
 ずいぶん前に一度か二度買って食べたことがあるけど、時間が経ちすぎていて味の記憶はない。
 夕方から店内のパンを全部値引きするのが売りだったのに、最近それをやめてしまった。先行きが少し心配になる。



Jack&Betty食パン

 買ったのはゴールデン食パンだった。
 二口、三口と食べ進めて、あれ? 美味しい、となった。
 実はあまり期待していなかった。しかし、Jack&Bettyの実力を少々侮っていたようだ。長年続くということはそれだけ美味しさが認められているということだから、考えたら美味しいのは当たり前なのだ。
 期待以上だったことを差し引いても、この食パンは美味しいと思う。サクッとした軽い歯ごたえと、もっちりした中身の食感、しっかりした味わいのバランスがいい。オーソドックスだけどそれだけではない。
 どうせ昔ながらの古いタイプのパン屋さんでしょと敬遠している人にこそオススメしたい。



Jack&Bettyホテル食パン

 一度目の印象がよかったのでもう一度買いにいった。選んだのはちょっと高級タイプのホテル食パン。高級といっても一本498円だから高くはない。
 けど、今度は逆に期待しすぎたのか、期待を下回った。もっちり系で私の好みではないというのもあったかもしれない。個人的にはゴールド食パンの方が好きだ。

 お店の地図
 7時~19時
 定休日 なし



くまくる外観

 天白区野並にある「ブランジェリー ぱん・くまくる (Boulangerie Pain-Kumacle) 」さん。地下鉄桜通線の野並駅のすぐ南だ。
 店の前で大がかりな工事をしていて騒々しかったのだけど、店の感じはよかった。
 Kumacle(くまくる)とはどういう意味なのだろう。Boulangerieはフランス語でベーカリーで、Painもフランス語でパンだから、Kumacleというフランス語があるのかと思いきやそうでもなさそうだ。造語だろうか。



くまくる食パン

 買ったのはパン・ド・ミだった。久々の山食パンという気もする。
 持った感じ、ずしりとちょっと重たい。たまにこんなふうに重量のある食パンがある。水分量が多いとかだろうか。くたっとするほど柔らかい。
 山食パンということでトーストの食感はザクッとしている。口溶けはまずまず。香りはいいのに味は薄味で、最初ちょっと物足りないかなと思うんだけど、後半でだんだん美味しくなっていく。
 食べ終わったとき、これはけっこう美味しい食パンかもしれないと思う。
 生で食べてみたら、やっぱり美味しかった。むしろトーストよりも生の方がいい。目は荒いのだけど、しっとりしていて口溶けがいい。
 このパン屋さん、なかなかの実力派とみた。家から近ければまた買いにいきたいけど、野並まで行く機会が今後あるかどうか。

 ブランジェリー ぱん・くまくるのブログ
 お店の地図
 10時~19時
 定休日 日曜日・隔週月曜日
 

西区浅間町の冨士浅間神社は仮住まいのはずが定住した

神社仏閣(Shrines and temples)
冨士浅間神社外観

 名古屋城の西、堀川を渡って300メートルほど行ったところに冨士浅間神社はある。
 今も昔も、地理的に名古屋から富士山は見えない。高い展望台などに登っても、手前の山並みに遮られて富士山の姿を見ることは叶わない。もっと南へ下って、南知多や渥美半島、三重県の伊勢あたりからは見えることがあるそうだ。
 古来から富士山は霊山として信仰の対象だったのだろうけど、富士山信仰が一般化して流行したのはやはり江戸時代に入ってからだった。富士講という組織が全国に各地にたくさん作られた。いうなれば富士山愛好会みたいなもので、グループで富士山に向かって拝んだり、お金を集めて代表者が富士山に登ったりした。富士塚というのもその頃作られたもので、ミニチュア冨士に登って富士山登山気分を味わった。
 名古屋には浅間神社がいくつかある。四間道(西区那古野1)の浅間神社や、中区大須2の富士浅間神社などがそうだ。
 その中で浅間町にある冨士浅間神社が現存する中では一番古い歴史を持つ浅間神社かもしれない。

 創建は室町時代前期の1398年。南北朝時代が終わったのが1392年だから、その少しあとだ。
 三谷源太夫(前山源太夫? 前山の源太夫?)という人物が富士浅間の社(富士山本宮浅間大社のことか)に参拝して勧請したのが始まりという。当初は東区の富士塚町にあった。
 富士塚町は1976年に廃止された町名で、今の東桜のあたりを指す。現在、冨士神社があるところに元の冨士浅間神社があった。桜天神社と同じ並びの桜通沿いにある小さな神社で、以前に訪れたことがある。
 ちょっと話がややこしいのだけど、順を追って説明するとこうなる。
 1610年、名古屋城築城にあたって浅野幸長が東区富士塚町の冨士浅間神社に普請小屋を建てることになり、神社は城西の浅間町に移された。
 その後、江戸時代になって再び元の冨士浅間神社があった場所に冨士神社が建てられることになる。どうやら浅間町に移るのは名古屋城築城の間だけという約束で、築城が終わったら元の場所に帰るということになっていたらしい。しかし、名古屋城ができて以降も浅間町に定住を決めて戻ってこないということになり、仕方がないので元の場所に再建したということのようだ。
 オリジナルはよそへ移ったけど、元の場所に分身ができたみたいな感じで、どちらがオリジナルか判断が難しい。
 明治以降、冨士浅間神社は村社から郷社になっている。
 名古屋城築城前の1582年に、富士塚町にあった冨士浅間神社に徳川家康が参拝に訪れたという記録が残っている。
 ちなみに、冨士神社から1キロほど西にある桜天神社には加藤清正が名古屋城築城の指揮を執る本陣を置いていた。その頃の桜天神は萬松寺の鎮守で、このとき萬松寺を大須に移して、桜天神はそのまま残されることになった。



冨士浅間神社南鳥居

 冨士浅間神社の冨の字は、うかんむりではなく、わかんむりの冨を使っている。冨が旧字体とかではなく、どちらが正解でどちらかが間違っているというわけでもない。どちらも正しく、どちらも同じ意味だ。
 冨士で使う場合、うかんむりの上の点を人に見立てて、聖なる山の上に人は立ってはいけないからわかんむりの冨にしたとか、点を神に見立てて神の姿は人には見えないものだから冨にしたなどの説がある。
 他にもいくつか説があるようだけど、どれも俗説といえばそうだろう。北口本宮冨士浅間神社などは点なしわかんむりを使っているけど、浅間神社総本社の富士山本宮浅間大社は点在りの富を使っている。各冨士神社のちょっとしたこだわりという程度かもしれない。



冨士浅間神社東鳥居

 東鳥居。



冨士浅間神社拝殿

 浅間神社ということで祭神は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)。
 富士山を神格化した神は本来、浅間大神(浅間神)だった。それがいつしか、コノハナサクヤヒメとなり、各地の浅間神社の祭神として定着した。
 コノハナサクヤヒメは火の神であり、水の神でもある。
 アマテラスの孫で天孫降臨のニニギは、地上で美しいコノハナサクヤを見初め、結婚を申し込んだ。喜んだ父親のオオヤマツミ(大山祇神)は、それじゃあ一緒に姉ももらってくださいということで、イワナガヒメ(石長姫)も差し出したところ、イワナガヒメは醜いからけっこうですと送り返されてきてオオヤマツミは大怒り。コノハナサクヤは繁栄をもたらし、イワナガは永遠の命をもたらしたのに、それを受け取らなかったことで寿命は短くなるだろうと告げたのだった。
 コノハナサクヤは一晩で子供を身ごもるも、ニニギはそれは自分の子供ではないんじゃないかと疑った。自分が降臨する前に国津神との間にできた子供ではないのかと。疑いをかけられたコノハナサクヤはそれを晴らすため、もし天津神の子なら燃える火の中でも産まれるでしょうといい、火を放った産屋に籠って3人の子供を産んだ。
 それが、ホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホオリ(山幸彦)で、ホオリの孫が初代天皇の神武天皇となる。海幸彦、山幸彦の話はよく知られているところだけど、真ん中のホスセリ(火須勢理命)は影が薄い。
 ニニギノミコトというのは天孫降臨で有名ではあるものの、実はたいした活躍をしていない。結婚から出産に至るいきさつでもかっこ悪いし、日向まで行けたのもサルタヒコの導きがあったからだ。もともと降臨はアマテラスの息子でニニギの父・アメノオシホミミ(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命)がやるはずだったのに、地上は危ないとかごねて息子のニニギに押しつけたという経緯がある。ニニギも地上に降りるのは気が進まなかったのかもしれない。
 コノハナサクヤヒメがいつどういういきさつで富士山の神となったのか、今ひとつよく分からない。火の中で子を産んだということから来ているのだろうけど、富士山本宮浅間大社の社伝では、水の神で富士山の噴火を鎮めるために祀られたということになっている。
 日本最高神のアマテラスは女神だし、冨士の山はコノハナサクヤヒメが守っている。邪馬台国も女王卑弥呼になって戦乱が収まったとされる。日本は女神が守っている国という言い方ができそうだ。



冨士浅間神社提灯




冨士浅間神社本殿屋根




冨士浅間神社手水舎




冨士浅間神社国府宮なおいぎれ

 国府宮神社(尾張大國霊神社)のはだか祭で授与される「なおいぎれ(儺追布)」のような布が笹に結ばれて奉納されている。どういう関係でここに納められているのかは分からない。冨士浅間神社と国府宮神社は直接関係がないと思うのだけど。



冨士浅間稲荷社




浅間稲荷社の社と朱鳥居

 浅間稲荷社。



冨士浅間神社境内社

 神明社、白山社、八幡社、津島社、宗像社、金比羅社などの境内社がある。 



冨士浅間神社江川橋

 かつて境内の西を江川(えがわ)という川が流れていた。今はもう姿を消してしまってない。
 その江川に架かっていた江川橋の親柱が境内に移されている。
 名古屋市道江川線という道路名は、かつて流れていた江川から来ている。

【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「浅間町駅」から徒歩約2分
 ・駐車場 なし
 ・拝観時間 終日
 

山芋入り卵焼きが当たりだったサンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理

 土曜日は雪が舞う日で、日曜日の今日は雪こそ降らなかったものの寒い一日だった。立春を過ぎても春はまだ遠い。それでも日没時間がだいぶ遅くなって、夕方になると季節の移ろいを感じる最近なのだった。



サーモンとアスパラ

「サーモンとアスパラ」
 サーモンはパシフィック・サーモンとかだったか(忘れてしまった)。スーパーで売ってるものは、サーモンといいつつ鮭ではなく養殖の鱒ということが多い。回転しない寿司屋のサーモンはどんなサーモンを使っているのだろう。
 アスパラをフライパンで加熱する方法を会得した。
 フライパンに水を少々(大さじ2~3杯)と塩を入れて、アスパラを1分半から2分くらい加熱するといい具合に仕上がる。アスパラを一本のまま加熱できるのと、茹でるよりも水(お湯)が無駄にならないのがいい。時間短縮にもなる。



ナスとトマトのチーズ

「ナスとトマトのチーズ乗せ蒸し焼き」
 薄切りにしたナスをオリーブオイルで焼いて、切り分けたトマトと刻んだタマネギを入れ、フタをして加熱する。後半でとろけるチーズを加える。
 たれは、酒、みりん、しょう油、からし、マヨネーズをひと煮立ちさせる。



山芋入り卵焼き

「山芋入りお好み焼き風卵焼き」
 卵、小麦粉、すりおろした山芋、ダシの素、シーチキン缶、刻んだキャベツ、塩を混ぜ合わせ、オリーブオイルで焼く。フタをして蒸し焼きにするからひっくり返さず片面焼きで。
 コショウ、刻んだ長ネギ、かつおぶしを振りかける。
 山芋のふわふわ食感も感じられて、なかなか上出来だった。美味しかったからまた作ろう。
 

野並の八剱社と千秋家のこと

神社仏閣(Shrines and temples)
野並八剱社入り口

 名古屋市天白区の南の外れ、野並交差点から少し東へ行ったところに八剱社がある。
 守山区にある八劔神社は「やつるぎ」と読むのに対して、こちらは「はっけん」と読ませる。
 熱田神宮にある別宮・八剣社(はっけんしゃ/八剣宮)から勧請して建てたのが野並にある八剱社だ。
 創建したのは熱田神宮大宮司の千秋家(せんしゅうけ)で、おそらく安土桃山時代と思われる。
 少し歴史をさかのぼって経緯を紹介するとこうだ。

 千秋家のルーツを辿ると、尾張国を支配した尾張氏にたどりつく。
 尾張氏の始祖はアメノホアカリ(天火明命/ニギハヤヒと同一神とも)で、乎止与命(オトヨ)のとき尾張国造(おわりのくにのみやつこ)となり、一族は代々熱田神宮の大宮司を務めることになる。
 時が流れて平安時代。京の都では藤原氏が全盛期を迎えていた。熱田神宮側で迎えたのか押しつけられたのかは定かではないけど、国司としてやってきた藤原南家の藤原季範を養子として大宮司職が譲られることになった。尾張氏は権宮司に格下げの形になる。
 以来、藤原千秋家を名乗るようになり、熱田神宮大宮司の職は千秋家が代々務めることになる。
 この藤原季範の娘・由良御前(ゆらごぜん)は源義朝の正室となり、源頼朝を産んだ。このこともあり、千秋家はだんだん武家化していくことになる。
 戦国時代の1560年、大宮司で当主の千秋季忠は、織田信長に従って桶狭間の戦いに出陣して討死してしまう。その父の季光は信長の父・信秀に仕えて加納口の戦いで戦死している。
 季忠の息子・季信は父が戦死したときはまだ母のお腹の中にいた。14年後の1574年、元服した季信は信長と謁見することになる。そのとき信長は、熱田神宮の大宮司でありながらこのまま武士をやっていては家が途絶えてしまうおそれがあるから、今後は兵役を免除するゆえ大宮司の務めに専念するようにと言い渡し、刀一振りとともに野並村を領地として与えたとされる。

 熱田神宮の大宮司だった千秋家が、領地の野並村に熱田神宮から勧請して神社を創建するというのはごく自然なことだ。
 ただ、何故、熱田神宮本体ではなく別宮の八剣社からだったのだろうと不思議に思った。
 八剣社は708年に、宝剣をあらたに鋳造することになり、それを納めるために建てられた社とされ、『延喜式神名帳』には愛智郡八剣神社として載っている式内社だ。
 なるほどそういうことかと思いついた。つまりは、信長から拝領した刀を納める社として創建したのが八剱社だったということなのだろう。どこにもそんなことは書かれていないけど、たぶんそうだと推測する。だとすれば、刀を納めるための社として八剣社ほどふさわしいものはない。
 信長からもらった刀が今どこにあるのかは分からない。神社の所有なのか、千秋家が所蔵しているのか、それとももう失われてしまったのか。
 千秋家は明治初期まで熱田神宮大宮司の職を務め、大宮司職がなくなった以降も一族の末裔は野並で暮らしているという。先祖代々の墓が梅野公園の近くにある。



八剱社鳥居から見る境内

 地下鉄桜通線も通る幹線道路の東海通に面しているとは思えないほど境内は静かだ。周りを取り囲む木々が音を吸収しているのだろう。
 きりっとした端正な神社だ。いい八幡宮とはまた違う凛々しさのようなものを感じた。



八剱社拝殿

 祭神は、ヤマトタケル、イザナギ、イザナミ、アマテラス、ツクヨミ、ヒルコ(蛭子命)、スサノオ、ミヤズヒメ、タケイナダネ。
 熱田神宮の八剣宮では、本殿と同じく熱田大神(あつたのおおかみ)などを祀っている。
 野並の八剱社は、創建当時誰を祀っていたのだろうか。刀を納めるためだったのではないかと予想するけど、それは当然ながら草薙剣ではないから熱田大神ではおかしい。近いところではヤマトタケルあたりだろうかと考えると、それもちょっとしっくりこない。アマテラスなどは後付けだ。
 その点に関してクリアーにならずモヤモヤが残った。千秋家が建てたというのだから、そのあたりの詳しいいきさつは代々伝わっていると思うのだけど、神社の由緒書きにはそのあたりの詳しいことは書かれていない。
 神仏習合の時代だったから、八剣大菩薩=不動明王を祀っていたということも考えられるだろうか。



八剱社注連縄と紙垂




八剱社社殿屋根




八剱社社殿全体




八剱社境内社

 合祀された境内社が並ぶ。神明社、田神社、秋葉社、六所社、山神社など。



八剱社北鳥居

 神社北側の鳥居。
 かつて神社の北に京と鎌倉を結ぶ鎌倉街道が通っていた。
 八剱社の北の道は上の道と呼ばれる陸路で、少し南の古鳴海交差点あたりで中の道と合流していた。海上ルートは南区の村上社あたりに船着き場があり、三王山あたりで合流していたようだ。潮の満ち引きによってどのルートを行くか決めていたという。
 野並から鳴海にかけての丘陵地帯は、かつて梅林が広がっていたらしい。その一番高いところにちょっと変わった松があり、聖松とされて旅人たちの目印になっていたという。『尾張名所図会』にも「野並乃梅」として載っている。松は昭和の初期頃に枯れてしまったらしく、現在は梅林も残っていない。梅野公園に名前として名残があるくらいだ。
 ちなみに、野並の地名の由来は、鳴海潟に広がる野原を鳴海野と呼んでいて、その野に並ぶところということで野並と名付けられたと考えられている。



野並の鎌倉街道

 かつての鎌倉街道。言われなければ分からない。



八剱社北の社

 道を隔てて小さな社がある。総コンクリート造の小社で、八剱社と関係があるのかないのか分からない。これくらいの規模のものを建てられないほど境内は狭くないから違う系統のものかもしれない。

【アクセス】
 ・地下鉄桜通線「野並駅」から徒歩約2分。
 ・駐車場 あり(無料) 北鳥居から入る
 ・拝観時間 終日
 

天白区の菅田神社と「すげ」と「すが」と「かん」の話

神社仏閣(Shrines and temples)
菅田神社外観

 天白区菅田町にある菅田神社
 島田神社から59号線沿いを南へ1キロほど行った菅田交差点から少し中に入ったところにその神社はある。
 少し中に入るというのは新道から見ての話であって、南に通っている旧道から見ると神社は道沿いにある。島田神社もそうだし、そこから北へ進んだところにある植田八幡宮もそうだ。
 島田エリアから南下して菅田町に寄ったあと、野並へ行くというのがこの日の計画だった。



菅田神社鳥居入り口

 創建ははっきり伝わっていない。
 1872年(明治5年)に若宮八幡宮として村社になったという。
 それ以前の名称は分からない。創建はおそらく江戸時代中期あたりではないかと想像するけど、確かなことは言えない。
 祭神が仁徳天皇で、若宮八幡といえば、名古屋総鎮守の若宮八幡社が思い浮かぶ。ただ、明治になって若宮八幡と称したというなら若宮八幡社からの勧請と決めつけるわけにはいかない。
 最初から祭神が仁徳天皇だったとも限らない。
 1923年(大正12年)に菅田神社と改称された。



菅田神社参道と境内

 ところで菅田神社をどう読んだだろう。
「すだ」と読んだ人もいるだろうし、「すがた」と読んだ人もいるだろう。もしかすると「かんだ」じゃないかと思った人もいるだろうか。
 正解は「すげた」と読む。
「菅」という字の読みについてはいろいろな読み方があって混乱するという人も多いはずだ。
 菅野美穂(かんのみほ)や菅直人(かんなおと)は「かん」なのに、菅義偉(すがよしひで)や菅原道真(すがわらのみちざね)は「すが」と読む。
 くさかんむりの「菅」とたけかんむりの「管」も混同しがちだ。
 せっかくなのでちょっと勉強してみることにしよう。

 たけかんむりに官(かん)で「ふえ」を意味する。笛という字もそうだ。そこから管楽器などでもたけかんむりの管が使われる。
 竹で作った「くだ」から水道管のように使われるようになり、つかさどる、支配するという意味で管理、管轄というようにも使う。
 くさかんむりに官で筒状の茎や植物を意味する。スゲという植物がそうで、「菅」の「すげ」はそこから来ている。菅笠(すげがさ)などのように使う。
 天白の菅田(すげた)という地名は古くからあったようで、湿地帯に生えるカヤツリグサの一種がここらにたくさん生えていたことが由来と考えられている。古くはこのあたり一帯が湿地帯だったことからしても納得がいく。
 人名に菅が使われる場合、植物のスゲが由来する他、美作菅氏(みまさかかんし)に由来する場合がある。
 菅原道真で知られる菅原氏から派生した一族が美作国(岡山県北部)に移り住み、管氏(かんうじ)を名乗ったとされている。
 ただ、読みに関しては「すが」だったり「すげ」だったり「かん」だったりと定まらなかったようで、それが現在まで続いて混乱を生む要因となった。
 一般的に東日本では「すが」や「すげ」が多く、西日本では「かん」が主流となっているそうだ。菅官房長官は秋田の出で、菅直人元首相は山口の出身だから、この法則は当てはまる。
 もうひとつ、菅田将暉(すだまさき)のように「す」と読むこともある。菅田将暉は大阪出身で、本名を菅生大将(すごうたいしょう)という。
 地名として菅田町というのがあって、その場合も「すげた」だったり「すがた」だったりする。
 ついでにくさかんむりのことを書くと、現在は三画のくさかんむりが一般的になっているけど、「++」と横棒を離して四画に書く場合もあって、それは必ずしも旧字体というわけではなく、どちらを書いても正しいとされる。菅田神社の入り口の石柱は「++」の四画くさかんむりを使っている。



菅田神社拝殿

 舞殿型拝殿があり、その奥に本殿がある。
 祭神は仁徳天皇の他、あわせて9柱が祀られている。
 神明社、熱田社、洲原社、知立社などの境内社がある。
 同名の菅田神社(すがたじんじゃ)が奈良県大和郡山市にあり、『延喜式』に載る式内社とされている。祭神は菅田比古命。
 山梨県甲府市には菅田天神社(かんだてんじんしゃ)がある。甲斐武田家とゆかりの深い神社で、スサノオと菅原道真を祀る。菅田天は菅原道真から来ているようだ。



菅田神社本殿と摂社




菅田神社狛犬

 大正12年(1923年)に制作された狛犬。菅田神社と改称されたときに新調したもののようだ。



菅田神社社殿と境内


【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「飯田駅」から徒歩約50分
 ・地下鉄桜通線「野並駅」から徒歩約35分
 ・野並駅と植田駅を結ぶ市バスに乗って、「海老山停留所」で下車。徒歩約6分
 ・駐車場 あり(無料)
 ・拝観時間 終日
 

名古屋市天白の島田地蔵寺に歴史あり

神社仏閣(Shrines and temples)
島田地蔵寺外観

 島田神社島田城跡に続く第三弾。今回は島田地蔵寺を紹介します。
 天白島田の歴史を語るなら、この3つはセットと考えた方がいい。
 島田地蔵寺は、島田神社と道一本隔てて隣り合わせになっている。ただ、入り口が少し遠いのですぐ隣という感じではない。寺はもともと、ここから600メートルほど東、現在の天白小学校のあたりにあったという。
 島田城築城が室町時代前期の1362年から1367年。島田神社は城の鬼門除けとして創建されたとされるから同時期だったと思われる。島田地蔵寺が建てられたのは1442年と伝わっている。
 建立したのは、斯波高経(しばかたつね/足利高経)の孫の樵山和尚(しょうざんおしょう)とされる。
 登場人物を整理すると、鎌倉街道の守りとして斯波高経が同族の牧氏に島田城築城を命じ、島田神社は牧氏が創建した可能性が高い。そして、島田地蔵寺を建てたのは斯波高経の孫ということになる。
 応仁の乱が始まるのが1467年だから、その25年ほど前のことだ。
 どうして管領までのぼりつめた斯波高経の孫が島田村で禅寺を開くことになったのかは、少し順を追って説明する必要がある。

 斯波高経については島田城編のときに書いた。
 幕府の最高権力者から転がり落ちて、都落ちし、最後は追い詰められた越前の寺で病死した。
 高経が特に目をかけていたのが4男の義将(よしゆき)で、父の死後に許されて、室町幕府の初代、3代、5代、7代の管領を務め、越前・越中・信濃守護ともなった人物だった。
 樵山和尚の父親は、高経の5男・ 義種(よしたね)で、室町幕府の重職に就き、加賀・越前・若狭・信濃・山城の守護も務めた。
 大野斯波家の初代。
 1395年、3代将軍足利義満の出家に従って兄と共に仏門に入る。
 1408年、死去。享年57。
 嫡男ではなかったとはいえ樵山和尚はもともと武士だった。合戦での怪我が元だったのか、思うところがあったのか出家して僧侶となる道を選んだ。越前(福井県)の永平寺で修行したと伝わっている。それ以前は源種国(みなもとのたねくに)と名乗っていたようだ。
 義種の嫡男・満種(みつたね)は加賀守護を務めるなどするも、その後失脚して高野山に入ってしまう。この後、斯波家は世襲が上手くないなかったこともあり、幕府内において勢力がだんだん弱くなっていくことになる。
 ついでに書くと、樵山和尚や満種の母は、千秋高範の娘で、熱田神宮の大宮司だった藤原季範の末裔に当たる。藤原季範の娘・由良御前(ゆらごぜん)は源義朝の正室となって源頼朝を産んでいるから、樵山和尚はその流れをくんでいることになる。

 樵山和尚が永平寺からこの地にやってきて寺を開いたのは、斯波氏一門の牧氏ゆかりの地だったからというのと、このあたりが熱田神宮大宮司の千秋家の土地で、その招きもあったからとされている。
 少し南へ行った野並に、千秋家代々の墓がある。
 創建時はこれより東にあり、島田山広徳院と称していた。永平寺の末寺ということで曹洞宗の禅寺ということになる。
 1491年に天白川の氾濫で堂が倒壊。
 1500年、鳴海の瑞泉寺の秀建和尚が本堂を再建。島田山地蔵寺と改称。現在地に移されたのはこのときだろうか。
 1541年、牧義次が堂を修造。
 1560年、桶狭間の戦いの際、今川軍によって火を放たれ焼失。
 その後、牧義汎が再建する。このとき、古厩山地蔵寺と改称した。
 島田地蔵寺は牧家の菩提寺にもなっている。



島田地蔵寺

 島田地蔵寺を紹介するとき、必ず出てくるのが熊坂長範(くまさか ちょうはん)の盗馬毛換え伝説だ。
 平安時代に生きたとされる伝説の大盗賊で、東海から信州、北陸にかけて多くの逸話が残されており、たびたび芝居や物語の主人公にもなっている。
 その中で島田地蔵寺に伝わるエピソードはこんなものだ。
 もともと善人だった熊坂長範はほんの出来心で身内の馬を盗んで売ったら知られずに上手くいったことに味を占めてしまう。それなら金持ちから盗んでやろうと思いついたものの、そのままでは盗んだ馬ということがバレてしまう。そこで、島田にあった地蔵尊に馬の毛の色を変えてくれと頼んだらその通りになって、売りさばくことに成功。いつしか大盗賊となっていた。
 島田には地蔵寺ができる前から地蔵信仰があったようで、島田地蔵寺にある地蔵像は、平安時代の僧・恵心僧都源信(942年-1017年)の作と伝わっている。もともとこの地蔵があったのが天白小学校のあたりだったという。
 この話が伝わり、いつしかその地蔵は毛替地蔵と呼ばれるようになった。馬の毛の色が変えられるくらいなら人間の髪の毛もどうにかなるんじゃないかと、髪の悩みについての相談を受けるようになっていく。きれいな髪になりますようにとか、白髪が減りますようにとか、あげくの果てにはもっと髪が増えますようにとかいった願い事をしに地蔵のところにやってくる人間が大勢いたのだとか。
 その後、熊坂長範は改心して、手に入れたお金を庶民に分け与え、自分は出家して僧になったという後日談がある。お寺に伝わる話ということで、これがないと地蔵が単に泥棒の手助けをしただけのエピソードになってしまうから、それはまずいということだったのだろう。



島田地蔵寺本堂

 本尊の阿弥陀如来像は、平安時代後期に活躍した仏師・定朝(じょうちょう)の作とされる。
 その他、東海地方で最古とされる掛軸の地蔵尊も所蔵するという。
 お願いすれば見せてもらえるのかもしれないけど、このときはほぼ予備知識なしに出向いたので、外観を撮るだけで終わってしまった。

 8月には提灯祭りが行われる。
 戦国時代の1570年。日照りが続いて困り果てた村人たちは地蔵に雨を降らせてくださいとお願いしたところ雨が降ってきて大助かりしたということで、それ以来、提灯を奉納するようになり、いつしか祭りに発展していったのだとか。
 夜、奉納する提灯を持った人たちが列を作ってお寺に向かい、境内では盆踊りや太鼓の演奏なども行われ、夜店が並んであたり一帯が賑わいを見せるという。



島田地蔵寺参道

 今回は天白島田三部作と名付けて島田の歴史を紹介してみました。
 近所に歴史ありとあらためて思った今回の島田行きだった。
 
【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「塩釜口駅」または「植田駅」から徒歩約30分。
 ・駐車場 あり(無料)
 ・拝観時間 不明(たぶん夕方には閉まる)

 島田地蔵寺webサイト
 

「名古屋神社ガイド」サイトのお知らせ

その他
D&Eにて
撮影 Daisuke.H

 
 お知らせ。
名古屋神社ガイド」というサイトを作ったので報告を。
 http://jinja.nagoya/

 作ったというか、まだ作っている最中で、神社のページをコツコツというかちまちまやっているところだ。
 思った以上に時間がかかっていて、完成予定は未定となっている。少なくとも今月いっぱいはかかりそうで、その後の追加分もあるから、本当の完成はずっと先になるかもしれない。
 そもそも、名古屋市内に神社って何社あるんだろう。300社とか400社くらいあるだろうか。だとしたらひとりで全部回ってコンプリートするのはほぼ不可能だ。主立ったところだけでも相当かかる。
 これまで参拝した神社の一覧表を作ってみると、緑区から南西エリアはほぼ未踏ということが判明した。少しは回っているつもりだったのにまったくだった。名古屋16区で行ったことがない区はないのだけど、そのときついでに神社に寄るということもしていないようだ。これは自分でも意外だった。
 近いうちに遠征に出る必要がありそうだ。自転車の方が小回りが利くとはいえ、中川区とか南区とかまでは遠すぎるから、まずは地下鉄沿線あたりを巡ってみたい。

 名古屋の神社巡りをしている人や、これからやってみようと思っている人の手引きになれば幸いです。

 今日の写真は著者近影ということで。
 

天白の島田城跡と斯波高経のこと

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
島田城跡外観

 名古屋市天白区島田に、室町時代から戦国時代にかけて存在した島田城の跡が残っている。代々城主を務めた牧氏の子孫の所有地とのことだ。
 島田城の歴史について書く前に、まずはこの城の築城を命じた斯波高経(しばたかつね)と、鎌倉時代から室町時代に至る歴史について振り返った方がよさそうだ。

 斯波高経(足利高経)。生まれは1305年。足利尊氏と同い年だ。年代でいうと鎌倉時代後期ということになる。
 ひいおじいちゃんに当たる足利家氏(あしかがいえうじ)が足利宗家から分かれた尾張足利家の初代であり、斯波氏(しばうじ)の祖とされる人物だ。足利一門筆頭であり、将軍と同格ともされてる名門だった。
 室町幕府ができたのち、高経の4男・義将を管領とし、斯波氏は代々、三管領の筆頭となる。
 管領というのは幕府の実務一切を取り仕切る最高権力の地位で、三管領の斯波氏、細川氏、畠山氏が交代で務めた。のちにこのことが応仁の乱へとつながっていくことになる。
 鎌倉幕府の滅亡が1333年。そこに至る前後で斯波高経は重要な役割を果たすことになる。

 父が早くに亡くなったことで、10代で足利尾張家の当主の座に就いたとされる。
 1318年に即位した後醍醐天皇は、朝廷に政治を取り戻すべく鎌倉幕府倒幕を試みるも失敗。二度目の倒幕計画が知られてしまい隠岐島に流されたのが1331年。
 しかし倒幕の気運は高まり、楠木正成などは幕府に抵抗を見せて各地で暴れ回っていた。 
 1333年、赤松円心が挙兵。後醍醐天皇も隠岐島を脱出。足利尊氏(この頃はまだ高氏)も幕府に逆らい、赤松円心たちとともに六波羅探題(北条仲時ら)を攻め落とした。斯波高経も尊氏軍に従っていた。
 一方、鎌倉に攻め込んでいた新田義貞は、北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権北条高時らを自害に追い込み、ここに鎌倉幕府は滅亡した。
 ここから後醍醐天皇による建武の新政(天皇が自ら政治を行うこと)が始まるわけだけど、尊氏を征夷大将軍にするとかしないとかでもめたり、公家優遇の政治に反発が強まったりで、後醍醐天皇と尊氏との対立が決定的なものとなってしまう。
 1335年、尊氏が反旗を翻すと、奥州から応援にやってきた北畠顕家(きたばたけ あきいえ)、新田義貞、楠木正成らとの戦となり、撃退されてしまう。敗北した尊氏軍は九州まで逃れていった。斯波高経は途中までそれに従い、長門にとどまり、九州との連絡役を務めた。
 九州で兵力を整えた尊氏は、再び京に向けて進撃。湊川の決戦で新田軍、楠軍を打ち負かす。高経は陸路を行き、楠軍を殲滅させる活躍を見せた。
 尊氏は京に入り、光明天皇を擁立。後醍醐天皇は新田義貞たちととも比叡山に立てこもるも、その後、投降。
 高経は越前に向かい、新田義貞を討ち取ることになる。
 1336年。室町幕府成立。高経は越前、若狭の守護を兼務する。
 こでようやく争いがひと段落したと思いきや、まだまだそうすんなりとはいかない。北朝の将軍・足利尊氏に対して吉野に逃れた後醍醐天皇が南朝を名乗り、この南北朝時代は56年間も続くことになる。
 さらに足利家内部での権力争いが起こり、高経もそれに巻き込まれることになる。尊氏と対立した弟の直義との間で行ったり来たりを繰り返す高経。
 高経からすれば尊氏の自分への恩賞が充分でないと感じていたようで、一方の尊氏にとって高経はあまり力を付けさせると脅威になる存在という認識があったのだろう。両者はにらみ合いが続くことになる。
 この状況が動いたのは尊氏の死によってだった。1358年のことだ。二代将軍として尊氏の嫡男・義詮(よしあきら)が就任すると、高経はその後見人となり、幕府の中で徐々に権力を握り始める。執事(のちの管領)だった細川清氏を失脚させ、4男の義将を執事として、自ら政治を動かすことになる。このとき高経53歳。人生の絶頂期だったといえるかもしれない。
 あまりにも強引な政治に反発が強まり、佐々木道誉(京極高氏/3男・氏頼の舅)と対立してあっけなく失脚。都落ちを余儀なくされる。
 1367年、将軍・義詮から討伐令が出され追われる身となり、福井県越前の杣山城(そまやまじょう)で病死することになる。62歳だった。
 ただし、高経の死後に義将は謝罪して許され、幕府に復帰を果たした。



島田城本丸跡

 入り口には島田城跡を示す説明板が立っていて、中まで入っていけそうだったので進んでみると、通路ができていてこんもりした小山まで登っていけるようになっていた。
 中は竹藪というか雑木林になっている。これらがいつ頃の木なのかは分からない。それほど古いものではないだろうけど、常緑樹が多い。



島田城本丸

 こんもりしているところが本丸跡のようだ。
 道路や宅地で大きく削り取られていて往事の様子を思い浮かべるのは難しい。
 江戸時代に書かれた『尾張志』に、東西42間(約76m)、南北101間(約182m)ほどが城跡とある。おそらくこれは戦国時代に改修されたもので、斯波高経が牧氏に築かせた初期のものとは違っている可能性が高い。当初はもっとこぢんまりした砦のようなものだっただろうか。
 ちなみにサッカーのフィールドが68m×105mだから、サッカーのフィールドを縦に2面並べたくらいの大きさだ。そう考えるとけっこう広かったことが分かる。



島田城の木

 島田城が築城されたとされるのが貞治年間だから、1362年から1367年となる。
 先ほども書いたように、1367年に斯波高経は追われる身となり死去しているから、1360年代前半と考えた方がよさそうだ。その頃の高経は政治の実権を握り、越前に加え、尾張や遠江の守護も兼ねていたというから、鎌倉街道の要所を押さえておく必要がると考えたのだろう。室町幕府もまだ盤石とは言い難い時期だ。
 この地に住む一族の牧氏に城を築かせ、守護させたとされる。初代の城主は牧顕朝という。代々、牧氏が城主を務めた。
 時は流れて戦国時代の1548年。信長の父・信秀が末森城(現在の城山八幡宮)を築城したとき、妹婿で守山川村北城主だった牧長義に小林城(現在の矢場地蔵)築城を命じ、その出城として島田城を修理し、一族に守らせたとされる。
 牧長義は信長の叔母を妻としており、息子の長清は信長の妹を正室にしていることからしても、戦国時代は織田家との結びつきが強くなった。
 尾張守護で名門の斯波氏の一族と、尾張守護代の尾張家の傍流でしかない織田家とが婚姻することになるのだから時代は変わったと当事者たちは思ったんじゃないだろうか。信秀くらいの代になると斯波氏の力は衰えて、守護代の織田家の方が力が強くなっていた。



島田城跡の牧神社

 本丸跡に小さな社がある。地元の人たちは牧神社と呼んでいるそうだ。牧家の祖神を祀っているという。
 現在、このあたり一帯には数多くの牧家が存在している。これほど開発が進んだ住宅地の中で、一部とはいえ古い城跡が残ったのは、この土地を持っている牧家の一族のおかげだ。近年の宅地開発が進むまでは馬場や的矢の跡も残っていたらしい。
 戦国時代ののち、牧家はいくつかに分かれ、江戸幕府の旗本になったり、尾張藩士になったりした。



島田城跡の雑木林

 島田城がいつ廃城になったかは伝わっていない。戦国時代、このあたりは織田家と今川家との争いの最前線だったから、その戦火で焼けてしまってそのまま捨て置かれたのかもしれない。近くの島田地蔵寺は桶狭間の戦いの際に戦火で燃えたとされている。だとすれば、島田城もただでは済まなかっただろう。
 夏草や兵どもが夢の跡と芭蕉は歌ったけど、今となってはその跡さえ辿ることが難しくなった。
 

天白区の島田神社を訪ねる

神社仏閣(Shrines and temples)
島田神社裏入り口

 名古屋市天白区の島田から野並にかけてのエリアの神社、旧跡巡りをしてきた。
 その中から今回は島田神社を紹介します。
 島田神社について語るためには島田城島田地蔵寺をセットにしないといけないのだけど、いっぺんに書くのは大変なので3回に分けて紹介するくことにしたい。
 室町時代前期、南北朝時代の武将で守護大名だった斯波高経(しば たかつね)が島田城を築城した際、城の鬼門除けとして熊野権現を勧請して祀ったのが島田神社の始まりとされる。貞治年間というから1362年から1367年の間ということになる。
 島田にとって斯波高経は重要なキーパーソンだから詳しく説明する必要があるのだけど、それは島田城編のときに書くことにする。

 上の写真は島田神社の北入口で、本来の入り口ではない。59号線を行っていたら発見したのでここから入ってしまった。59号と平行して南東を走っている細い道が旧道だろう。南鳥居はそちらに面している。



島田神社手水舎

 岩から水が湧き出していて、それが手水舎になっている。あたりに水道らしきものは見当たらなかったから湧き水なのだろう。

 ずっと昔、伊勢湾は今よりもずっと内陸まで深く切れ込んでいて、天白のあたりは入り江だったらしい。
 その後、川が運んだ土砂などで陸地が増え、奈良時代あたりにはこのあたりは年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる広大な干潟(ひがた)が広がっていたという(あゆちは愛知の名前の由来になったとされる)。
 熱田の湊から野並あたりにかけてが干潟の海岸線で、沿岸に沿ってできた道がのちに鎌倉街道(鎌倉と京都を結ぶ道の通称)と呼ばれるようになる。現在の天白川は干潟の名残だそうだ。
 島田城は、そんな街道を守る要として築かれた。
 応仁の乱が始まるのが1467年だから、ちょうど100年前のことだ。その応仁の乱の原因の一端を作ることになるのが斯波氏なのだけど、この頃はまだそんなことは想像していなかっただろう。
 築いたといっても斯波高経自らが城主となったわけではなく、同じ一族の牧氏に島田城を守らせていたようだ。斯波高経といえば、尾張・遠江・越前の守護であり室町幕府管領なので、一地方の小さな城を守っているような立場の人物ではない。
 島田神社を創建したのも同時期だろうと予想はするけど、はっきりとした創建のいきさつなどは伝わっていない。神社の創建は牧氏によるものという可能性もある。



島田神社拝殿

 それにしても、どうして城の鬼門除けとして選んだのが熊野権現だったのだろうか。城の鬼門除けに熊野権現を祀ること自体は他でもあることだから不自然ではないとしても、斯波氏といえば足利一門の名門だ、熊野信仰とはあまり関係があるとも思えない。平安時代以降、熊野詣が流行って貴族や皇族も通ったというから、ひょっとすると斯波高経も熊野を詣でたことがあって、特別な信心を抱いていたのだろうか。
 平安時代から鎌倉時代を経て室町時代に生きていた人たちにとって熊野権現というのはどういう存在だったのか。長く続いた北条氏の鎌倉幕府が滅んで、建武の新政から室町幕府が誕生したこの時期、城を建てることや神社を創建することにどういう意義を見出していたのか。
 そのあたりの感覚を共有できないことがもどかしい。



島田神社南鳥居入り口

 違う入り口から入ると気分が落ち着かないから、いったん外に出て、正式な南鳥居をくぐって入り直した。
 こちらから見る島田神社は立派だ。北から入るのとでは全然印象が違う。



島田神社鳥居と参道




島田神社社殿

 明治の神仏分離令で隣接する島田地蔵寺と切り離される。
 1909年(明治42年)、近くにあった神明社、八幡社、天神社と合祀され、その後、黒石の山神社と天神社を合祀しときにいったん黒石に移っている。
 1923年(大正12年)、今の場所に戻る。
 1926年(大正15年/昭和元年)、天神社と秋葉社を合祀し、島田神社に改称。
 現在の主祭神は、イザナギ(伊邪那岐命)、イザナミ(伊邪那美命)となっている。
 その他、事解之男命(コトサカノオ)、速玉之男(ハヤタマノオ)、天照大神(アマテラス)、大山秖神(オオヤマツミ)、鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズ)、応神天皇(ホムタワケ)、少彦名神(スクナヒコ)を祀っている。
 コトサカノオとハヤタマノオは熊野の神だから、これがもともとの祭神だったかもしれない。



島田神社天神社

 境内社の天神社は別扱いで祀られている。
 拝殿前には菅原道真が5歳のときに詠んだとされる和歌の石碑が建っている。

 美しや 紅の色なる 梅の花
  あこが顔にも つけたくぞある


 5歳から梅好きでこんな詩を詠んでいた菅原道真はやっぱりただ者ではなかった。
 ついで書くと、その道真の師匠は島田忠臣(しまだ の ただおみ)という人で、平安時代前期の貴族であり、この時代を代表する漢詩の詩人だった。道真は島田忠臣の娘・宣来子(のぶきこ)と結婚しているから、舅でもある。
 祖父の島田清田(しまだ の きよた)は尾張の士族だったとされる人物で、都に登って官僚となり、伊賀守にまでなった立身出世の人だった。
 この島田一族が天白の島田と関係があるのかどうかは分からない。島田忠臣は今生天皇の直系祖先とされる。



島田神社鷽替え

 新しい鷽替えの石像があった。最近新調したものだろうか。
 鷽替え(うそかえ)というのは、鷽(ウソ)を嘘(うそ)にたとえて、前年にあった悪い出来事は嘘だから今年はいい年にしようという発想の神事だ。各地の天満宮で行われている。
 道真が神事を執り行おうとしていたとき、たくさんの蜂に囲まれてピンチのときにウソ(鷽)が飛んできて、蜂を食べてくれて事なきを得たことが鷽替えの由来とされている。
 ただ、神事が始まったのは江戸時代からということで、この説はやや怪しい。
 ウソ(鷽)という鳥がいるのは本当だ。「うそ」は口笛を意味する古語で、人の口笛のような声で鳴くことから名付けられた。

 島田城編につづく。
 
【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「塩釜口駅」から徒歩約30分。
 ・駐車場 あり(無料)
 ・拝観時間 終日
 

小手先の実験的サンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理


 ふと気づけば早くも2月。節分も終わって、今日は立春だった。春は遠くて近い。
 サンデー料理は相変わらず季節感はないけれど、年間を通じて何も変わらないのがサンデー料理のいいところかもしれない。マンネリ、あるいは安定感。
 今回は少しだけ実験的な試みがあった。人から見たらいつもと同じに見えるかもしれないけど。



いつものマグロ

「マグロとアスパラのしょう油だれ」
 タレと一緒に半生まで加熱するのが一番手っ取り早くて簡単だ。焼くより固くならない。ただ、見た目にこだわると、あまりいい調理法とはいえないかも。



カボチャ

「カボチャ煮込みの卵とじ」
 カボチャは煮るか揚げるくらいしかないのだけど、何か違う調理ができないと考えて作ったのがこれだ。
 酒、みりん、しょう油、水、コンソメの素で煮込む。
 カニかま、下茹でしたブロッコリー、ツナ缶を加え、塩、コショウで味を調える。
 溶き卵を回し入れて、固くならないうちに火を止める。
 仕上がりが想像できなかったのだけど、思ったよりも美味しかった。カボチャと卵は意外と合う。何か応用もできそうだ。



ジャガイモと鶏肉

「ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、鶏肉炒めのオーロラソース風」
 もともとはフランス料理でベシャメルソースにトマト(ピューレ)とバターを加えたものをオーロラソース(フランス語で夜明けの意味)というらしいのだけど、日本ではケチャップとマヨネーズを混ぜたものをそう呼んでいる。色は少し似ているかもしれないけど、ソースとしてはまったくの別物だ。
 オーロラソースはそれほど美味しくないという思い込みがあってこれまでサンデー料理ではほとんどしなかった。今回やってみたらけっこう美味しかったから、今後は出番が増えるかもしれない。特にジャガイモ系には合いそうだ。
 しずる感が出て見た目も美味しそうで食欲をそそる。
 

矢田の六所神社はどうして六所なのか

神社仏閣(Shrines and temples)
矢田六所神社入り口鳥居

 名古屋市東区矢田にある六所神社を訪ねた。
 ナゴヤドームの西500メートルほどのところにある。旭が丘高校の裏手で、神社の北には三菱電機の大きな工場が建ち並んでいる。
 かつてこのあたりには六所の森、別名暗がりの森と呼ばれる昼なお暗い森が広がっており、森の中に入るときは昼でもたいまつを焚いたほどだったという。森自体が信仰の対象であり、神社はその中にあった。
 創建についてはっきりしたことは伝わっていない。一説によると、建てられたのは鎌倉時代前期の建久年間(1190年-1199年)で、幕府の御家人だった山田重忠が創建したという。
 本当だろうか? まさかここでも山田重忠の名前が出てくるとは思わなかった。山田重忠に関しては以前書けるだけ書いた。
 山田重忠について私が書けることのすべて
 1221年の承久の乱で命を落としたときが56歳だったという説を信じるならば、山田庄の御家人になった1185年は20歳前後で、六所神社創建時は30歳前後ということになり、年代の辻褄は合う。

 創建時は六所社と称してカミムスビ(神皇産霊神)を祀っていたという。
 六所という名前とカミムスビは何を意味しているのかと考えてしまう。本当に創建したのが山田重忠で、カミムスビを祀る神社を建て、名前を六所としたとすると、そのいきさつが全く理解できない。
 カミムスビは、天地開闢(てんちかいびゃく)のとき、アメノミナカヌシ(天之御中主神)、タカミムスビ(高皇産霊神)に続いて高天原に出現した造化の三神のうちの一柱だ。姿は見せないものの女神であるとされている。オオクニヌシがピンチのときに二度も生き返らせるなどの活躍を見せたこともあって出雲と関わりが深い。
 タカミムスビとセットで祀る神社はいくつかあるものの、カミムスビ単独で祀る神社はあまりない。皇室の神という性格が強く、庶民の間の信仰の対象というのとは違う。何故、重忠はこの地でカミムスビを選んだのか。そこには必ず理由があったはずだし、必然性がないはずがない。そこが分からない。山田重忠は領主である以前に武士であると考えると、どうにもカミムスビとはつながらない気がする。

 六所神社という名前の神社は全国にいくつかある。創建のときに六柱の神を祀ったとか、合祀して六柱の神を祀ったことで改名したというパターンが多いようだけどそれだけではない。
 令制国のうち、出羽国総社 安房国総社 武蔵国総社 下総国総社 相模国総社 出雲国総社はそれぞれ六所神社となっている。総社というのは、その地区の祭神を集めて祀った総合神社のようなものだ。
 名古屋にもいくつか六所神社があり、北区、東区の北部に集中している。式内社の別小江神社(わけおえじんじゃ)も六所明神と称していた時代があった。
 愛知県で有名なところでいうと、家康の祖父・松平清康が創建したと伝わる六所神社が岡崎市にある。三代将軍・家光が再建した社殿は重要文化財に指定されている。
 六所神社が一番多い地区は静岡県西部で、60社ほど密集している。 

 一体、六所神社とはどういうものなのか。「ろくしょ」という語感に何か特別なものがあるのか、六という数字に意味があるのか。
 矢田の六所神社に関しても、どういうたぐいの神社なのかよく分からなかった。現地に赴いて境内に身を置いて写真を撮ったりすると、その神社の性格みたいなものが分かることもあるのだけど、矢田の六所神社についてはなんとも捉えどころがない神社と感じた。暗がりの森と呼ばれた頃の面影を今の六所神社に見るのは難しい。江戸時代には1,800坪ほどあったという敷地も、今はずいぶん狭くなった。
 江戸時代後期の1844年に発行された『尾張志』の中に六所社を見つけることはできない(私が見落としているだけかも)。ただ、江戸時代前期、尾張二代藩主・光友の命で編さんされた『寛文村々覚書』(1661年-1673年)の中で六所大明神として出てくるそうだ。
 江戸時代から見た鎌倉時代というのがどれくらいの距離感のあるものなのか上手く想像できないのだけど、すでにその頃には矢田の六所神社に関する由緒などはきちんと伝わっていなかったのかもしれない。500年、600年というのは、遠いといえば相当遠い。



矢田六所神社拝殿前

 明治時代前期に改修した社殿は第二次大戦の空襲で焼けてしまい、現在のコンクリート造のものは昭和42年に建てられたものだ。
 古いものはほとんど残ってないと思われる。



矢田六所神社本殿

 現在の祭神はカミムスビではなく、イザナギ(伊邪那岐命)、イザナミ(伊邪那美命)となっている。神仏習合の歴史もあって、時代のどこかで入れ替わったのだろう。
 加賀国(石川県)の白山比め神社(しらやまひめじんじゃ)から勧請したという話だけど、だとしたら肝心のククリヒメ(菊理媛神/白山比め大神)はどうしてしまったのか。ククリヒメを祀ってしまうと白山神社になってしまうから避けたということなのか。
 白山神社でイザナギ、イザナミをセットで祀るのは、ククリヒメが仲違いをした両者の仲裁をしたことから来ている。縁結びの神とされるのはそのためだ。
 各地の白山神社ではククリヒメ抜きだったりイザナギかイザナミを単独で祀るところもあるから、ククリヒメ抜きというのが特別不自然というわけではないのだけど。



矢田六所神社境内の猫

 神社の祭りは毎年2月26日に行われ、カッチン玉祭りと呼ばれている。それはこんなエピソードから来ている。
 ある日、神社のある森のはずれで赤ん坊の泣き声がした。不審に思った村人が確かめようと森に入ったところ、いい身なりをした若夫婦が生まれたての赤ん坊を抱いていた。森の清水を産湯にしていたところだったようだ。それでひと安心した村人ではあったのだけど、7日後、その夫婦は忽然と姿を消してしまった。その話が村から近隣に伝わり、それはきっとマレビト(異界からの訪問者もしくは霊的存在)に違いないということになり、伝言ゲームでだんだん変化して、神社で安産祈願をして清水を産湯にするといいことがあるらしいという話になっていったという。
 夫婦がいなくなった日が旧暦の2月26日で、その日が祭りの日となった(現在は新暦の2月26日)。
 カッチン玉というのは竹に飴を巻きつけて固めたもので、子供のへその緒をかたどったものとされる。安産祈願や子供の健やかな育成に御利益があるとされている。一年でこの日しか買えないということで、普段は静かな六所神社もこの日ばかりはちょっとした賑わいになるのだとか。境内には多くの露天も並ぶそうだ。



矢田六所神社龍神社

 境内社に黒龍、白龍を祀った六所龍神社がある。
 かつての中日ドラゴンズの球団社長が龍神社を詣ったところ、3連勝が二度続いて6勝になり、六所だけに縁起がいいということで、それ以来ナゴヤドームのオープン戦初戦の日にドラゴンズの選手や関係者で優勝祈願をするようになったのだとか。
 ただ、球団社長の交代もあり、近年は行われていないとも聞く。
 授与所が開いているときは、ドラゴンズ関連のお守りやグッズなどを販売しているそうだ。



矢田六所神社絵馬




矢田六所神社池の鯉




矢田六所神社稲荷社




矢田六所神社境内


【アクセス】
 ・JR中央本線「大曽根駅」から徒歩約20分
 ・地下鉄名城線「ナゴヤドーム前矢田駅」から約15分
 ・無料駐車場 あり(祭りの日は駐車不可)
 ・拝観時間 終日
 

川のある風景 ~冬の夕どき

河川敷(River beach)
矢田川と夕陽と飛行機

 今日は川のある風景をお送りします。
 いつものように、矢田川、庄内川を中心に。
 日暮れの早い冬場は、夕景写真が多くなる。春に向かってだんだん日没時間が遅くなっていくから、これからはまた昼風景が増える。寒いのは苦手だけど、早い日暮れは嫌いじゃない。冬には冬の夕景がある。



矢田川と小原橋




矢田川川の流れ




庄内川夕景とススキ




黒川の川面




矢田川夜景と月と金星




川面に映るひこうき雲




矢田川の流れ夕照




矢田川夕暮れどき




庄内川と沈む夕陽




矢田川の夕焼け

 

御嶽山と冬の風景

日常写真(Everyday life)
御嶽山夕照

 平和公園の平和堂裏から見る御嶽山。
 北東方向だからこの方角には朝陽も夕陽も見られないのだけど、夕焼け時間のこの時間帯が一番好きだ。平和公園は高台にあって、目の前を遮る物がないのがいい。

 今日は冬の風景を題してお届けします。



冬枯れの桜と枝に引っかかった何か




平和公園から見る名古屋駅方面




平和公園夕陽とランナー




長久手の田んぼと瀬戸デジタルタワー

 田んぼの準備が始まっていた。



空き地の冬ススキ




翌日の雪だるま




名城公園グラウンドのナイター照明




民家の庭の冬桜




冬枯れの木のシルエット




桜の木と月の夕暮れ

 

冬の茶屋ヶ坂公園と千種区の歴史

施設/公園(Park)
西日に染まる茶屋ヶ坂公園入り口


 冬の茶屋ヶ坂公園。枯れ風景に西日が当たってきれいだった。
 名古屋市千種にある茶屋ヶ坂公園は、街中の幹線道路から少し入った場所にもかかわらず自然を感じることができる都市公園だ。
 広さ約10ヘクタールの公園は、茶屋ヶ坂池を中心に、北はグラウンドや児童公園、南は雑木林が広がり、アジサイの名所としてもちょっと知られている。これまでに何度かブログで紹介した。
 茶屋ヶ坂公園のアジサイ風景を撮る
 茶屋ヶ坂公園の雑木林ゾーンが気になって散策してきた
 特にアジサイの穴場スポットとしておすすめしたい公園だ。
 冬場は特に何もないのだけど、茶屋ヶ坂池には渡りのカモたちがやってくる。オシドリが来たこともある。



茶屋ヶ坂公園

 アジサイエリアの冬景色。
 アジサイは枯れ始めた7月には花を切り落とさないといけないんだそうだ。遅くまで放っておいてから剪定すると、翌年出るはずの芽まで一緒に切ることになって次の年は咲かないのだとか。ずっと切らずに放っておくならそれでもいいらしいのだけど。
 ここのアジサイは管理をしている人がいるようで、花はきれいに剪定されていた。今年の初夏にはまたきれいな花を見せてくれるだろう。



茶屋ヶ坂公園池

 おそらく農業用の溜め池だと思うけど、今やこのあたりに農地などは一切なく、完全な住宅地になっている。
 茶屋ヶ坂の地名の由来は、江戸時代、山口街道(古出来と瀬戸を結ぶ街道、現在の出来町通)の坂に一軒の茶屋があったことから付けられたという。
 当時の表記は茶屋坂だった。
 現在、茶屋坂、茶屋ヶ坂、茶屋が坂などの表記が混在していてどれが正式なのだろうと思ったことがある人もけっこういるんじゃないだろうか。茶屋坂は茶屋坂自動車学校などがあり、町名は茶屋が坂なのに駅などは茶屋ヶ坂となってる。読み方はすべて「ちゃやがさか」でいいと思う。
 小さい「ヶ」とカタカナの「カ」は本来別の由来の言葉なのだけど、現代ではあまり区別することなく使われていたりする。ヶは個を意味して、個の異字体の箇の竹かんむりを省略したものという。ケは介の略で、ヶは「个」の変形、もしくは略字ともいう。
 読み方は「こ」だったり「け」だったり「が」だったりする。1個、2個のように数を表す場合もあり、「の」を意味する場合もある。茶屋ヶ坂の場合は、茶屋のある坂といった意味となる。
 茶屋坂と表記していたときもおそらく「ちゃやがさか」と読んでいたはずで、それだと分かりづらいからということで「ヶ」を入れて表記するようになったのだと思う。それが「が」になったのはヶでは今ひとつ意味が分かりづらいということからだろうか。
 結局のところ、どの表記が正解でどれが間違いということはなさそうだ。多少間違えていたとしても郵便物は届くはず。



茶屋ヶ坂公園と夕陽

 地名の話が出たので、ついでに千種区の歴史のおさらいをしておくことにしよう。
 その前にざっと名古屋の変遷を確認しておいた方がよさそうだ。
 江戸から明治になって廃藩置県によって名古屋県となったのが明治4年(1871年)。
 翌明治5年に愛知県と改称。額田県を吸収合併して現在の県域が完成した。
 明治11年(1878年)、名古屋城下が名古屋区となる。
 明治22年(1889年)、名古屋市が誕生。当時の人口は約16万人、面積としては現在の24分の1ほどだった(2017年現在230万人)。
 その後、明治、大正と周辺エリアを次々に合併して市域は拡大していった。
 明治41年(1908年)、区政が敷かれることとなり、中区、東区、西区、南区ができた。
 大正10年(1921年)、更に近隣の町村を編入して面積が一気に倍増する。
 昭和12年(1937年)、それまでの4区を分割して、千種区、中村区、昭和区、熱田区、中川区、港区ができた。
 昭和38年(1963年)、 守山市を編入して守山区を新設。愛知郡鳴海町を編入して緑区を新設。
 最後にできた区は、名東区と天白区で、昭和50年(1975年)のことだった。

 千種区についてもう少し詳しく見ていくと、昭和12年に東区から分離独立したのは、旧千種町と旧東山村の地区だった。
 その後、昭和30年に猪高村を編入。しかし、これはのちに名東区として分離されることになる。一方で、昭和区天白町植田の一部(東山公園があるあたり)を組み入れて現在の千種区域ができあがった。
 昭和40年代までは茶屋坂通という町名だったというから、古くから住んでいる人はその名前の方が馴染みがあるのかもしれない。今は茶屋が坂一丁目、二丁目となっている。



茶屋ヶ坂公園の歩道橋から見る夕陽

 千種区は繁華街から自然豊かなエリアまであり、バラエティに富んでいてバランスのいい街だ。
 東西に地下鉄東山線、南北に地下鉄名城線が走り、基幹バスで名古屋駅ともつながっている。
 西は今池、千種と繁華街があり、中央には高級住宅地の覚王山、池下があり、東は東山公園や平和公園などの自然豊かなところも残されている。
 地下鉄沿線の駅前は賑わっているし、店も多い。大学、高校が集まる文教地区でもある。名古屋トップの名古屋大学をはじめ、名古屋三大お嬢様学校の椙山女学園大学と愛知淑徳大学があるのも千種区だ(SSKのもう一つは守山区の金城学院大学)。
 東山動植物園があり、城山八幡宮や覚王山日泰寺など、寺社仏閣が多いエリアでもある。
 有名人もわりと多く出していて、スケートの安藤美姫や映画監督の堤幸彦、女優の戸田恵子や漫画家の江川達也、歌手の八神純子なども千種区出身だ。林修先生も千種区の出で、名門東海高校から東京大学に進学している。
 名古屋駅や栄ほど騒々しくなく、適度に自然もあって、必要なものはなんでも揃うのが千種区の特徴といえるだろう。
 個人的にも好きな街ではあるのだけど、一つ難点がある。それは坂が多い街という点だ。中央部分が盛り上がっていて、守山区から見ると行きも帰りもけっこうな坂道があって逃れられない。自転車乗りにはきつい。あの坂さえなければもっと千種区を好きになっていたのだけど。
 他県から移ってきて名古屋のどこに住んだらいいかさっぱり分からないといった場合、まずは千種区内を検討してみるといいんじゃないかと思う。

【アクセス】
 ・地下鉄名城線「茶屋ヶ坂駅」から徒歩約8分。
 ・駐車場 なし(近くにコインパーキングあり)

 千種区webサイト