名古屋城の西1キロちょっとのところにある押切。旧美濃路沿いに
榎白山神社はある。
かつて名古屋十名所に選ばれたこの神社も、今はあまり知られてない。
江戸時代に発売された『尾張名所図会』(上巻は1844年、下巻は1880年)の中に「榎権現図会」と題して描かれている。広い境内と立派な社殿が建ち並んでいる。鳥居は描かれておらず、入り口の門と塀で周囲を取り囲まれている様子が神仏習合の白山社らしい。
東海道と中山道を結ぶ脇道として整備された美濃路は、熱田の宮の宿で東海道と別れて堀川沿いを北上し、名古屋城の西で進路を西に変え、清洲から大垣を経て垂井宿で中山道と合流した。
殿様から庶民まで多くの人が利用し、とても賑わった街道だったという。
白山神社の前には立場と呼ばれる旅人の休憩所があり、茶店などが集まっていたそうだ。
このあたりがちょうど名古屋城下の西の端に当たり、夜になると木戸が閉じられ、出入りができなくなった。街道沿いに寺院が並んでいたのは防備の役割もあった。
1560年。尾張に攻め込んだ今川義元を迎え撃つべく信長が出陣。
5月19日。新暦では6月12日。午前3時頃、今川勢の先鋒隊だった家康軍と朝比奈軍が丸根砦、鷲頭砦(緑区大高)への攻撃を開始。
1時間後の午前4時、知らせを受けた信長は即座に清洲城を飛び出した。それについていけたのはわずかに6騎のみ。
そのまま一気に桶狭間まで駆けていったようなイメージがあるけど、実はそうではない。
熱田神宮に着いたのは午前8時。距離にして約13キロ。自転車をのんびり漕いでいっても1時間ちょっとしかかからない距離を4時間もかけて進んでいる。もちろん、のんきに歩いていったわけではない。
何をしていたかというと、途中、この榎白山神社で戦勝祈願をし、更にその先の日置神社でも戦勝祈願をしている。祈願しまくりの信長、このとき27歳。
もちろん、念入りに祈祷を受けていたとかそういうことではない。途中で状況を逐一把握しながら家臣たちが追いついてくるのを待っていたのだ。敦盛を舞ったのは清洲城ではなく日置神社だったという話もある。
信長は1534年、現在の名古屋城の二の丸あたりにあったとされる那古野城で生まれた(異説あり)。那古野城と
清洲城は美濃路でつながっており、21歳で清洲城に移るまでこのあたりが信長の庭だった。白山神社も当然馴染みだったはずだ。
奇抜な格好をして家来どもを引き連れ馬を乗り回していた10代の信長。ひと昔前の暴走族のようなものだ。暴れてそのへんのものを壊したりしていたかもしれない。
熱田神宮で戦勝祈願を終える頃には200騎まで増えていた。
ここからは鎌倉街道を東へ進むことになる。潮が満ちている鳴海潟を避け、いったん北上して上の道を行ったと考えられている。
善照寺砦に到着したのが午前11時頃。その前に丸根砦、鷲頭砦が落ちたことを知る。あえて救援に向かわず見捨てたのは、今川軍の先陣を引きつけるための捨て石にしたからだ。
中嶋砦で兵を整えたあと、手越川沿いを進み、桶狭間に着いたのは昼頃のこと。今川軍はいったん休憩して昼ご飯を食べていた。楽勝ムードでかなり緩んでいたのではなかったか。信長はそのタイミングを待っていたに違いない。
そこへ突然、暴風雨が起きて今川軍は大慌てになる。これは信長にとっても計算外だっただろうけど、おかげで敵に気づかれずに接近することができた。嵐が収まるのを待って正面から今川義元の本陣に突撃していった。
午後2時頃、義元の首を取り、ほぼ勝負あり。この時代の戦闘は大将が負けたら終わりで、全滅まで戦ったりはしない。
戦いが終わったのは午後4時頃のこと。清洲を飛び出して12時間が経っていた。
よく今川2万5千に対して織田軍2千とか3千で兵力差は10倍といった言われ方をするけど、本陣での局地戦においてそれは正しい認識ではない。今川軍の主力部隊は前線に出て砦を攻撃しており、本隊の兵士はせいぜい5千程度だったと考えられる。それは守備隊であり、当時の足軽兵の特質として半分農民だった。
それに対する信長軍は農家の次男坊、三男坊を集めて鍛えた専門の兵士だった。半農民の5千の兵士と精鋭部隊2千の兵士が戦ってどちらが強いかはそう考えなくても分かる。
桶狭間の戦いは信長の奇襲ではなく作戦勝ちだったというのが最近の定説になっている。状況を読み切り、運も味方に付けた信長軍が勝つのは必然だったといえる。それは結果論といえばそうなのだけど、少なくとも信長の側に勝機があり、それを掴んだ信長はやっぱりたいしたものだった。
意外と律儀なところがある信長は、戦勝祈願をして勝ったお礼として、榎白山神社には太刀を、日置神社には松林を、熱田神宮には信長塀をそれぞれ奉納している。
白山神社の太刀は第二次大戦の空襲で焼けて失われてしまったそうだ。

榎白山神社は、普通に「えのきはくさんじんじゃ」だと思っていたら、「えのしろやまじんじゃ」と読むそうだ。いつからそう読むようになったのかは分からない。江戸時代はもっぱら白山権現と呼ばれていたというから、昭和以降のことだろうか。
名古屋十名所は、大正13年(1924年)に新愛知新聞社(現中日新聞)が選んだもので、現在の基準からいうとだいぶずれている。
熱田神宮、名古屋城、笠寺観音までは納得だけど、圓頓寺(えんどうじ)は円頓寺商店街の中にある小さな寺になっているし、山田元大将之社といって分かる人がどれくらいいるか。闇ノ森(くらがりのもり/闇之森八幡社)、榎ノ権現(白山神社)、久屋金刀比羅(東区久屋町)、櫻田勝景(さくらだしょうけい/南区呼続)、天理教々務支庁(昭和区緑町)などは名古屋の人間でも知ってる人は少ないんじゃないだろうか。
榎白山神社も、立派な神社ではあるものの、名古屋を代表するような名所とはいえない姿になっている。明治の神仏分離令を経て大正期まで名所と呼べたというのなら、戦前まではある程度往事の姿をとどめていたということだろう。戦前に撮られた写真があったら見てみたい。

創建は室町時代中期の1477年。
斯波義康という人物が加賀国の白山媛の神社(
白山比咩神社)から勧請して祀ったのが始まりとされる。
日頃から白山の神を信仰していたら、白山神が夢に出てきて、押切(鴛鴦喜里)に我を祀れと言ったとかなんとか。
祭神はククリヒメ(菊理姫大神)、アマテラス(天照大御神)、トヨウケビメ(豊受大神)。
アマテラス、トヨウケビメは後付けだろうし、ククリヒメも明治以降のことで、本来は白山大権現だったはずだ。
ルイス・フロイスは著書『日本史』の中で、こんなことを書いている。
「予は伴天連らの教えと予の心はなんら異ならぬことを白山権現(の名において)汝らに誓う」と信長は語ったと。
以前、信長の弟・信行(信勝)が末森城の城主になったとき白山権現を勧請して祀ったことを軟弱と思ったけど、それは私の思い違いで、織田家にとって白山権現は特別な存在、ひょっとすると守護神だったのかもしれない。だとすれば、私の白山神に対する認識は改めないといけないことになる。
桶狭間の戦いに臨むに当たって、信長はどうしてもこの白山権現に詣っていく必要を感じたのかもしれない。どれだけ劣勢でも必ず勝つという信念を持っていただろうけど、勝つ保証などもちろんあるはずもなく、負けることはすなわち死を意味する。戦勝祈願とひと言で片づけていいほど軽いものではなかっただろう。
信長は桶狭間に勝利して、本能寺で命を落とした。信行は信長との争いに敗れて22でこの世を去った。白山権現は今も変わらずそこに在り続ける。


榎白山社の名前は、境内にあるご神木の榎(えのき)が由来となっている。
『尾張名所図会』にも描かれていて、すでに枯れたような姿をしている。江戸時代からすでに古木の風情だったのだろうか。

社殿は空襲ですべて焼けてしまったとのことだ。
本殿までコンクリート造になっているのはちょっと珍しいかもしれない。

前足の長い狛犬。

少将稲荷社。

境内社に天神社、金刀比羅社、戸隠社がある。
菓子の神・菓祖の田道間守(たじまもり)を祀る田道間守社があるようだけど、写真に撮るのを忘れた。榎の近くにあった社がそれだっただろうか。



かつて境内のすぐ西を笈瀬川(おいせがわ)が流れ、近くに架かる橋を権現橋といった。川は姿を消し、橋の欄干が榎白山神社に移されている。
神社は歴史の証人なのだと、今回あらためて思った。
【アクセス】
・地下鉄鶴舞線「
浅間町駅」から徒歩約15分
・名鉄名古屋本線「
栄生駅」から徒歩約25分
・駐車場 なし
・拝観時間 終日