月別:2017年01月

記事一覧
  • 昭和区石坂の須佐之男神社も東区由来

     名古屋市昭和区広路町石坂の須佐之男神社。前回紹介した白髭稲荷大明神とは隣り合ってはいても関係はなさそうだ。白髭稲荷の入り口が南側なのに対して須佐之男神社の入り口は東側にある。社殿も東を向いている。 名古屋では独立した稲荷神社が少ないように、須佐之男神社もあまり多くない。以前紹介した東区に小さな須佐之男神社がいくつある以外は、中村区の素盞男神社や中川区の須佐之男社くらいしかないようだ。愛知県を代表...

    2017/01/31

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 八事の白髭稲荷大明神はワイルドなお稲荷さん

     天白区の神社めぐりをしているとき、地図で見つけた白髭稲荷大明神。 八事の近くだから天白区のように思うのだけど、住所でいうと昭和区広路町になる。八事山興正寺と隼人池の間にあって、エリアとしては八事なのか、いりなかなのか、やや微妙なところだ。 すぐ隣に須佐之男神社がある。地図では隣り合っているように見えるものの、現地に行ってみると間に道路があって入り口もまったく別なので、もともと関係がないような感じ...

    2017/01/30

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • はじめに天ぷらありきのサンデー料理

     今週は天ぷらありきのサンデー料理だった。 天ぷらは何かと手間と時間がかかるから、天ぷらをするなら残りの2品は簡単に作れるものにしたい。できれば切り分けるだけとか、炒めるだけとかがいい。今回はそうなった。 天ぷらは何度やっても理想通りに行かないから、作るたびにがっかりするのだけど、しばらく経つとまた挑戦したくなる。普通に揚げるだけならそれほど難しくはないとしても、美味しくサクッと揚げるのは難しい。...

    2017/01/29

    料理(Cooking)

  • 道行き人のいる風景 ~見守るように

     人が写っていてもいなくても、人の営みや体温が感じられる写真が好きだ。 誰かが見てても見ていなくても、きっと誰かがあなたを見守っている。 そんな写真が撮りたい。 今日は道行き人のいる風景をお送りします。 ...

    2017/01/28

    日常写真(Everyday life)

  • たまたま見つけた大幸八幡社に参拝していく

     名古屋市東区矢田の「ベーカリー67」へ行った帰り道、少し奥に入った向こうに鳥居を見つけて行ってみることにした。(「ベーカリー67」は営業日が金・土のみで夕方前には売り切れて店が閉まってしまうためまだ買えていない) 大幸八幡社とある。 ナゴヤドームのある大幸南よりも北、矢田川のすぐ南側のこんな場所に神社があるとは知らなかった。大通りからはやや奥まった住宅地で、用事がなければここまで入ってくることはない...

    2017/01/27

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • ここ最近のフォトコンのこと

    「CAPA 2016年12月号」の「TEKKEN」で「街灯り」が佳作。 この月のテーマが「輝く鉄路」ということで、この写真のことを思い出した。2012年に撮った古いものだ。こうして古い写真でも日の目を見るのは嬉しい。「TEKKEN」は中井氏が長く担当していて、鉄ちゃんじゃなくても参加できるのがいい。国鉄色とかSLとかのテーマの月は私などではどうにもできないのだけど、参加できるテーマのときは参加するようにしている。 最近、あま...

    2017/01/26

    フォトコン・写真(Photo Contest)

  • 道行き街角風景 ~七が3つで何と読む?

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 在庫写真シリーズ。 今回は置き忘れてきた夏の街角と題してお送りします。 漢字の七が3つの文字をたまに見かける。上の写真の正面の店でも使われている。なんて読むんだろうと気になったことがあったのだけど、調べることもなく放置していた。「喜」の異字体で、「き」「よろこ(ぶ)」と読み方も同じということだ。 こういう同じ字が三つ使われた文字を品文字(しなもじ)というら...

    2017/01/25

    日常写真(Everyday life)

  • 深島神社は宗像三女神のうちの誰を祀っているのか

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm 名古屋市北区柳原(やなぎはら)にある深島神社は、宗像三女神の誰かを祀る神社だ。問題は、三女神のうちの誰か、ということだ。 1964年に北区役所が発行した『北区誌』によると、室町時代中期の1450年に九州福岡の宗像神社(宗像大社)から田心姫命(タゴリヒメ)を勧請して創建されたとあり、明治後期から大正にかけて編さんされた『名古屋市史』によると、祭神は...

    2017/01/24

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 守山瓢箪山古墳訪問と歴史の里のこと

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 9-18mm 決して古墳好きとかではないけれど、気づくとけっこうな数の古墳を巡っている。 東海地方最大とされる熱田の断夫山古墳(だんぷさんこふん)や、ヤマトタケルが眠るという伝説のある白鳥古墳。鶴舞公園近くにある八幡山古墳に、春日井の味美古墳群の中心、二子山古墳などなど。犬山にある復元された青塚古墳は印象に残っている。 名古屋市守山区も古墳の多いところだ。特に志段味は志段味古墳群...

    2017/01/23

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • クルージング・サンデー料理

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 大寒も過ぎて1月も早くも後半になっていた。ついこの前正月だと思ったのに。12分の1がこの調子では、今年もあっけなく終わってしまいそうだ。 サンデー料理は1月の二週目から通常運転のクルージングに入った。2017年も変わらないままなのかどうか。何年か前まではその年のテーマみたいなものもあったのだけど、ここ最近はそれもなくなった。ずっと課題だった盛りつけも、今ではもうあま...

    2017/01/22

    料理(Cooking)

  • 東山植物園便り ---春を探して

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 2017年初の東山植物園行きとなった。 去年の暮れは動物園で鳥インフルエンザが発生して、かなり気の毒なことになった。動物園は年末からひと月以上休園していた。植物園は変わらず営業していたのだけど、紅葉が終わって撮るものもあまりないということでしばらく足が遠のいていた。そろそろ新春の花も咲き出したんじゃないかと出向いていったのだった。 鳥インフルエンザはとりえず終息...

    2017/01/21

    植物園(Botanical garden)

  • 山田重忠について私が書けることのすべて

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 名古屋市北区山田の山田幼稚園前に「山田重忠舊里」という碑が建っている。山田天満宮から北へ150メートルほど行ったあたりだ。 園児にとってもその親にとってもなんのことだかでまるで興味がないという人がほとんどだろうけど、ときどき明らかに園児の親とは思えない人物がやってきて写真を撮っていくことを不審に思っている人はいるかもしれない。そもそも、舊里を読めず意味が分か...

    2017/01/20

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 1月の森林公園 ~冬景色から梅へ

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 60mm F2.8 1月の森林公園。今年は梅の開花が早いというニュースを聞いて、それじゃあそろそろ行ってみようかということになった。 しかし、森林公園の梅は例年他よりも遅い。今年もやっぱりそうだった。何本かの木がようやくわずかにほころび始めたところで、見頃以前に撮り頃でさえなかった。まだまだ気が早すぎた。 この日は東門から入って展示館まで行って引き返すとい...

    2017/01/19

    植物園(Botanical garden)

  • 守山区の寺巡り ---利海寺と浄土院

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm 名古屋市守山区西城(にししろ)にある利海寺(りかいじ)。 守山区の「城跡と寺社めぐりコース」の中にあったので行ってみることにした。 場所は守山中学の西で、浄土院と並んで建っている。 西城という地名は、戦国時代にあった小幡城の西ということで付けられたのだろう。それなら城西の方がよかったんじゃないかと思わないでもないけど、名古屋城の西に城西と...

    2017/01/18

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 道行き街の風景

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 今日は道行き街の風景をお送りします。 ...

    2017/01/17

    日常写真(Everyday life)

  • 昭和区の藤成神明社と塩付街道のこと

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 名古屋市昭和区は個人的にあまりイメージがない区なのだけど、鶴舞公園も、八事興正寺も考えてみると昭和区で、まんざら無縁の土地というわけではない。桜名所の山崎川も昭和区を縦断しているし、御器所八幡宮や尾陽神社も去年訪ねた。 今日紹介する塩付通にある神明社は、この辺りの地名から藤成神明社と呼ばれている。藤成という地名は、尾張藩の附家老だった成瀬家から来ている。 ...

    2017/01/16

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 名前のない不時着サンデー料理

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 今週末の名古屋はけっこうな雪が降った。サンデー料理は変わらず普段通り。季節や天候にはほとんど左右されない。 冷蔵庫にある食材で、その日食べたい料理を作るのが基本で、応用はめったにない。今日はちょっと着地点が分からないまま作り始めて不時着気味になったものがあったものの、もはや大崩れはなくなった。たまに大失敗していた頃の方が楽しかったといえなくもないのだけど。 ...

    2017/01/15

    料理(Cooking)

  • 新シリーズ 足元の風景

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 足元の風景というタイトルを思いついた。これまで道ばた風景と呼んでいたグループの写真の中で、地面に落ちているものやそれに近いもの、それらの中である種の物語性を感じさせるものを足元の風景と呼んで、あらたにシリーズ化していこうと考えている。その先で今年作るフォトブックのタイトル候補にもなるはずだ。 下を見て歩いていないと気づかないことはけっこうあるもので、ときに...

    2017/01/14

    日常写真(Everyday life)

  • 塚ノ杁池 ---晩秋の夕景

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm 名古屋市名東区にある猪高緑地(いたかりょくち)。その中にある一番大きな池、塚ノ杁池を訪れたのは去年の晩秋のことだった。 ここは私にとって飛ぶトンボ撮りポイントのひとつで、夏シーズンに訪れることが多い。2016年は初夏の6月にも一度出向いている。この日訪れたのも、もしかしたらトンボの居残り組がいるんじゃないかと期待したからだった。しかし、すでに影...

    2017/01/13

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • 春日井市の小木田神社と貴船神社はセットらしいのだけど

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 愛知県春日井市の神社巡りをしているときに立ち寄ったふたつの神社、小木田神社(おぎたじんじゃ)と貴船神社(きふねじんじゃ)を紹介します。 まずはJR中央本線春日井駅の北東にある小木田神社から。 現在、神社がある小木田町の町名はこの神社から来ているのだけど、もともとこの辺り一帯は開田村と呼ばれていた(一時、小木田村の時代もあった)。尾張国篠木荘の一部で、小木田神...

    2017/01/12

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 川のある風景 ~矢田川、庄内川

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 他 今日は矢田川、庄内川を中心に、川のある風景をお送りします。 ...

    2017/01/11

    河川敷(River beach)

  • 江戸と昭和の名残をとどめる百人町界隈の風景

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 名古屋市東区に百人町という町名の町がある。東京新宿の百人町が伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことから名付けられたように、名古屋の場合も百人組同心の住宅があったことからそう呼ばれるようになった。 名古屋城から見て東に3キロほどいったところだ。より名古屋城に近い白壁・橦木町には禄高三百石クラスの中級武士の屋敷があり、百人町には禄高百石ほどの下級武士の屋敷が集まっ...

    2017/01/10

    名古屋(Nagoya)

  • 今年も森孝八劔神社へ初詣に行く

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm 今年の初詣は1月7日の松の内最終日に森孝八劔神社(もりたかやつるぎじんじゃ)でぎりぎりセーフ。初詣をどこの神社にしようか迷って、結局一番近所にしたのは去年と同じパターンだ。去年は大森八劔神社とのはしご初詣だった。 松の内というのは、門松や松飾りを出しておく期間のことで、この間は家に年神様がいるとされる。その間に初詣をして、年賀状も書き終えて...

    2017/01/09

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 新年明けても普通が一番サンデー料理

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 今年最初のサンデー料理。そういえばまだ新年の挨拶をしていなかった。 あめましておめでとうございます。もう8日か。 新年最初くらいは正月らしい料理でもしようかと思ったのだけど、サンデー料理は季節やイベントに左右されず普通が一番だろうということで思い直していつもの料理にした。今回は和寄りなスタンダード・サンデーだ。 皿も盛りつけも背伸びせずにこのまま変わらず続け...

    2017/01/08

    料理(Cooking)

  • 大永寺と山田重忠に関する混乱気味の考察

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm 昨日今日と、縁もゆかりもないはずの山田重忠を中心とする山田氏のことが気になって頭から離れない。長母寺、長父寺(大永寺)、長兄寺(長慶寺)と3寺コンプリートしたことで関係者を肩に乗せて連れてきてしまったのかもしれない。しばらく前から背中に鈍痛を感じるのは気のせいと思いたい。 今回紹介するのは長父寺に当たるとされる大永寺だ。地名にもなっているか...

    2017/01/07

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 守山区の長慶寺はいずれにしても山田氏が建てた寺

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm 名古屋市守山区小幡中にある長慶寺(ちょうけいじ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武人で御家人の山田重忠が建てた寺のひとつとされる。母のための長母寺、父のための長父寺、兄のための長兄寺がそうだということは長母寺を紹介したときに書いた。 長母寺はカッコイイ禅寺だと思う 長兄寺は字を変えて長慶寺に、長父寺は名を改めて大永寺になったという。 一...

    2017/01/06

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 長久手前熊の多度神社は本当に多度神社だったのか

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm 愛知県長久手市の前熊にある多度神社を訪ねたのは、去年2016年の6月だった。なので、今年の初詣に行ったわけではない。 香流川沿いを通ってモリコロパークへ行くときに横を通るから一度や二度は行ってブログにも書いたつもりでいたら、まだ行ったことがなかった。ちゃんと参拝して写真を撮ったまではよかったのだけど、半年も放置してしまっていた。 行ったつもりに...

    2017/01/05

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • モノクロームの風景

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 他 新年明けて三が日も終わってしまった。生活もブログもそろそろ平常通りに戻さないといけないと思いつつ、今年はまだ本格的に撮りにいっていないから新鮮な写真がない。今日も引き続き去年の在庫からモノクローム風景をお送りします。 ...

    2017/01/04

    モノクロ(Monochrome)

  • 定点観測写真

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 他 今日は定点観測写真をお送りします。 今回は2点の観測ポイントから。 こうして並べてみるとけっこう変化があって面白い。定点観測ポイントを増やして、もっと頻繁に撮ることにしよう。毎回のようにここから撮ってるから今日はやめておこうと思って撮らないことがけっこうあるから、それはもったいない。今後シリーズ化していきたい。 ...

    2017/01/03

    日常写真(Everyday life)

  • 名古屋のちょっといいところ巡りモデルコース

     他県の人から見て名古屋の街に魅力がないと感じるのは、名古屋のことをよく知らないことが一番の要因だと思う。それは知ろうとしない側よりも知ってもらおうという努力が足りない名古屋側に責任があるかもしれない。 確かに、東京、大阪、京都のように見所満載とはいかないし、札幌や博多や横浜なんかに比べてメジャーな観光スポットが少ないということはある。ただ、名古屋も細かいところを見ていけば面白い場所はたくさんある...

    2017/01/02

    名古屋(Nagoya)

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昭和区石坂の須佐之男神社も東区由来

神社仏閣(Shrines and temples)
須佐之男神社入り口

 名古屋市昭和区広路町石坂の須佐之男神社。前回紹介した白髭稲荷大明神とは隣り合ってはいても関係はなさそうだ。白髭稲荷の入り口が南側なのに対して須佐之男神社の入り口は東側にある。社殿も東を向いている。
 名古屋では独立した稲荷神社が少ないように、須佐之男神社もあまり多くない。以前紹介した東区に小さな須佐之男神社がいくつある以外は、中村区の素盞男神社や中川区の須佐之男社くらいしかないようだ。愛知県を代表する神社のひとつで天王総本社の津島神社の祭神はスサノオだから、もっとたくさんスサノオ関係の神社があってもよさそうなものなのに。境内社の津島社や天王社は多い。
 ちなみに、スサノオを主祭神とする代表的な神社としては、京都の八坂神社、出雲の須佐神社、さいたま市の氷川神社などがある。



須佐之男神社参道と境内

 創建は江戸時代中期の1773年。名古屋城下の武家屋敷が集まる東区水筒先町(すいとうさきまち/現筒井一丁目)に住む尾張藩士の西村なんとかという人が津島神社から勧請して邸宅内に社を建てたのが始まりだそうだ。やはりこの神社も東区由来のものだったのか。あのあたりの武家の間ではスサノオが流行っていた。 
 現在の昭和区石坂に移されたのは明治35年(1902年)のことという。どういう事情があったのかはよく分からない。
 戦中の昭和19年(1944年)、村社に昇格。
 戦後の区画整理で境内がだいぶ削られ、あらたに道路を作ったら神社が袋小路の中になってしまい、困っているところを八事山興正寺から土地を寄付してもらうことになったそうだ。飯田街道を挟んでこちらがもかつては興正寺の敷地だったのか。



須佐之男神社拝殿

 祭神のスサノオについては以前何度か書いている。
 信長、秀吉も大事にした津島神社へ行ってスサノオと友達になっておこう

 境内社として、カグツチ(火之迦具土神)を祀る秋葉社、オオモノヌシ(大物主神)を祀る金比羅社、オオヤマツミ(大山祇命)を祀る山之神がある。
 これらは興正寺の門前にあったもので、土地を譲り受けた際にこちらに移されたとのことだ。



須佐之男神社拝殿から本殿を見る




須佐之男神社社殿

 尾張造と呼ばれる社殿は、拝殿、祭文殿、本殿が廻廊でつながれて左右対称になっているのが特徴だ。
 尾張地方特有の建築様式で、津島神社や真清田神社尾張大国霊神社高座結御子神社氷上姉子神社などがそうだ。
 熱田神宮ももともとは尾張造だったものを、明治に入って神明造にしてしまった。
 尾張氏に関係があることは間違いないだろうけど、どうして尾張地方にしかないのかはよく分からない。
 この須佐之男神社が元から尾張造だったのかどうかも不明だ。



須佐之男神社拝殿屋根と森




須佐之男神社由緒書き




須佐之男神社鳥居




須佐之男神社鳥居と参拝の小学生




須佐之男神社境内と森の風景

 入り口の鳥居と拝殿は大正13年(1924年)に造られたものだ。
 このあたりは空襲の被害を受けなかったのだろう。興正寺も空襲にあったという話は聞かない。

【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「いりなか駅」から徒歩約12分。
 ・駐車場 なし
 ・拝観時間 終日
 

八事の白髭稲荷大明神はワイルドなお稲荷さん

神社仏閣(Shrines and temples)
白髭稲荷大明神入り口


 天白区の神社めぐりをしているとき、地図で見つけた白髭稲荷大明神
 八事の近くだから天白区のように思うのだけど、住所でいうと昭和区広路町になる。八事山興正寺と隼人池の間にあって、エリアとしては八事なのか、いりなかなのか、やや微妙なところだ。
 すぐ隣に須佐之男神社がある。地図では隣り合っているように見えるものの、現地に行ってみると間に道路があって入り口もまったく別なので、もともと関係がないような感じだ。
 どんな神社なのかもよく分からないまま、とりあえず行ってみれば何か分かるだろうということで出向いてみた。



白髭稲荷鳥居

 入っていくのにしばらくちゅうちょした。というのも、民家の庭のようなところというか、庭そのもので、無関係な人間が勝手に入っていいのかどうか確信が持てなかったからだ。鳥居の左手には民家の建物があって生活音が聞こえてきた。もしかして不法侵入なのかとも思いつつ、入り口は開いているし悪いことをしにきたわけではないから大丈夫だろうと自分を納得させて先へ進んでみることにした。



白髭稲荷境内と鳥居

 なんというか、ものすごくワイルドだ。草木が茂ってちょっとしたジャングル状態になっている。神社が自然と一体化しているとさえいえる。



白髭稲荷朱鳥居

 カラーリングは紛れもなく稲荷神社のものだ。手作り感も漂う。
 全国的にどうなのかは知らないのだけど、名古屋は稲荷神社として独立している神社はあまり多くない。すぐに思いつくところとしては、千代保稲荷の名古屋支社とか守山区の生玉稲荷社くらいのものだ。神社の中にある稲荷社というのは多いのだけど。



白髭稲荷キツネさん左

 祀られているのは白髭稲荷だけでないようで、いくつかの大明神の石碑がある。



白髭稲荷キツネさん右

 白髭稲荷大明神は、同じ名前の神社が福岡県大川市にあるようだ。
 もうひとつ、熊本城内にもあるらしい。



白髭稲荷社殿

 いつ誰が建てたどんな神社なのか、詳しいことは何も分からない。
 白髭で稲荷というのだから、祀られているのはサルタヒコ(猿田彦)ではないかと思う。
 サルタヒコに関しては伊勢の猿田彦神社や滋賀県高島市の白髭神社を訪れて、ここのところ縁がある。サルタヒコについてそのときに少し書いた。
 おそらくここの神社は、この家の人かどうかはともかくとして、個人が稲荷社を勧請して建てたものだろうと想像する。ここはその規模が少し大きいということなのだろう。
 あえて白髭大明神と名付けているのは意味があるはずで、単なる稲荷社というよりサルタヒコを祀ることを意識している可能性が高い。
 サルタヒコがどんな神なのかということを簡単に説明するのは難しい。伊勢に関係が深いことは確かで、白髭というのはおじいちゃんだったときのサルタヒコのこととされる。神仏習合時代は道祖神としての性格も併せ持つことになった。個人的にすごく気になる存在なので、今後もどこかで関わってくるはずだ。猿田彦大本宮を名乗る椿大神社に行きたいと思いつつ実現できていない。
 なにはともあれ、白髭稲荷大明神はちょっと面白い神社だった。
 続いて隣の須佐之男神社を参拝したのだけど、それはまた次回。

【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「いりなか駅」から徒歩約13分。
 ・駐車場 なし
 ・拝観時間 終日
 

はじめに天ぷらありきのサンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理


 今週は天ぷらありきのサンデー料理だった。
 天ぷらは何かと手間と時間がかかるから、天ぷらをするなら残りの2品は簡単に作れるものにしたい。できれば切り分けるだけとか、炒めるだけとかがいい。今回はそうなった。
 天ぷらは何度やっても理想通りに行かないから、作るたびにがっかりするのだけど、しばらく経つとまた挑戦したくなる。普通に揚げるだけならそれほど難しくはないとしても、美味しくサクッと揚げるのは難しい。衣作りと油の温度が決めてなんだろうけど、毎回手探りでやってもうひとつ上手くいかない。家で天ぷらを上手に揚げられる人は他のどんな料理をやってもたいてい上手いはずだ。天ぷらは奥が深い。



イカソーメンのピリ辛

「イカソーメンのピリ辛ソース」
 イカソーメンとして売ってるものは最初から切り分けられているから、これは料理をしたうちには入らない。
 ソースは、オリーブオイル、酒、みりん、しょう油、ショウガ、豆板醤、白ごまをひと煮立ちさせて作った。
 イカ自体が美味しければイカソーメンは美味しい。



エリンギとほうれん草の卵とじ

「エリンギとほうれん草の卵とじ」
 エリンギを輪切りにするとどうなんだろうと試してみた。縦に切るより食べやすくていい。下処理として切れ目を入れたので味も染みこんだ。
 タマネギをごま油で炒め、エリンギ、下茹でしたニンジンとほうれん草を加え、酒、みりん、中華だし、しょう油、塩で味付けをする。
 溶き卵を回し入れ、卵とじにする。



天ぷらあれこれ

「天ぷらあれこれ」
 具材は、ナス、ジャガイモ、長ネギ、ブロッコリーだった。長ネギやブロッコリーも天ぷらにするとけっこう美味しい。
 今回の揚がり具合の出来は70点。まだまだサクサク感が足りない。
 また違った具材で変わり天ぷらもやってみることにしよう。
 

道行き人のいる風景 ~見守るように

日常写真(Everyday life)
大森橋からの夕陽


 人が写っていてもいなくても、人の営みや体温が感じられる写真が好きだ。
 誰かが見てても見ていなくても、きっと誰かがあなたを見守っている。
 そんな写真が撮りたい。

 今日は道行き人のいる風景をお送りします。



ゆとりーとライン高架と宮前橋




千種区道行き




スーツ




ゲートボール・トレーニング




天白川大橋




矢田川河川敷の夕景




平和公園紅葉の頃




高針の歩道橋と小学生




名二環高架下と夕陽




植田川に架かる橋の上より

 

たまたま見つけた大幸八幡社に参拝していく

神社仏閣(Shrines and temples)
大幸八幡社をやや離れたところから見る


 名古屋市東区矢田の「ベーカリー67」へ行った帰り道、少し奥に入った向こうに鳥居を見つけて行ってみることにした。
(「ベーカリー67」は営業日が金・土のみで夕方前には売り切れて店が閉まってしまうためまだ買えていない)



大幸八幡社鳥居前

 大幸八幡社とある。
 ナゴヤドームのある大幸南よりも北、矢田川のすぐ南側のこんな場所に神社があるとは知らなかった。大通りからはやや奥まった住宅地で、用事がなければここまで入ってくることはない。
 大幸というと大幸東団地を思い浮かべる。UR都市機構が手がけた大きな団地で、学校時代の同級生が住んでいた。団地内に商店街や幼稚園、郵便局まであってひとつの町のようになっている。
 このあたりはかつて狩津村と呼ばれていた。鳥や獣がたくさんいて猟に適していたことからそう名付けられたという。山の幸が豊富に獲れたことから大幸(おおさち)と呼ばれ、戦国時代以降は「だいこう」と音読みされるようになったのだとか。
 南の隣村は上野村で、のちに鍋屋上野と呼ばれるようになり、鍋屋上野浄水場などに名前が残っている。
 別の説では近くにあった醍醐の森から転じたというものもあるようだ。
 北を流れる矢田川の名前の由来についてもいくつか説があり、『尾張国地名考』では山田荘の山田が省略されたものとしている。
 ついでに書いておくと、現在東区となっている地域には城がなかったようだ。隣の千種区には末森城があるし、上野にも上野城があった。周りを囲む北区、中区、守山区にもそれぞれいくつか城があったのに、たまたま東区のエリアだけは城空白地帯だったのだろう。城跡が見つかっていないだけかもしれないけれど。



大幸八幡社境内

 境内はやけにがらんとしている。これはあまりにもあけっぴろげすぎないかと思う。
 神域という概念があるように、神社というのは建物ではなく空間のことだ。だからこそ、内と外とを明確に区別しなくてはならないわけで、昔はそのための機能として森があった。神社は閉じていないと気が抜けてしまう。いくら住宅地の中とはいえ、もう少し何かで囲った方がいいと思う。



大幸八幡社拝殿

 創建は江戸時代中期の1752年と伝わっている。
 八幡社なので祭神はホムタワケ(誉田別命/応神天皇)。
 八幡神社を訪れてよく思うのは、どうして八幡社だったのだろうということだ。戦もなくなって久しい江戸時代に八幡神を祀る意味とはなんだったのか。この神社の成立がどういうものだったのか分からないのだけど、たとえば城の城主が城内で八幡神を祀っていて、それがのちに城外に移されて八幡神社となったとかなら分かる。ただ、先ほども書いたように、このあたりに城があったとは伝わっていない。創建時の場所がこことは違って、近くの城主なり武将なりが創建したということなら納得はいく。土地の領主が村のために神社を建てようとなったとき、それがどうして八幡社でなければならなかったのだろうと考えると、その必然性がよく分からない。
 一番分からないのは、江戸時代を生きていた庶民たちの八幡神に対する思いだ。江戸時代の人たちは八幡神をどういう神と見ていたのか。現代の我々が思う戦の神というのとは違っていたのかもしれない。徳川家と八幡神の関係や、神仏習合の八幡大菩薩についてなど、私自身が今ひとつ理解できていない。この八幡神問題は今後も課題として残る。 
 明治18年に村社となる。
 現在の社殿は昭和53年(1978年)に再建されたものという。



大幸八幡社狛犬

 社殿は新しいけど狛犬はなかなか古い。
 大正6年(1917年)に作られたもので、浪速狛犬という種類のものらしい。
 狛犬に関しては特に興味もなくて全然知識がないのだけど、浪速狛犬(浪速型狛犬)というのは大阪で生まれたひとつのスタイルとのことだ。
 幕末から明治にかけて奈良、京都に広がり、滋賀県から三重県へ、やがて愛知県西部まで来て、そこで止まったらしい。
 大阪で量産されたものは北前船で九州から北海道まで運ばれたものもあるという。
 大正時代に愛知県西部の職人に受け継がれたというから、ここのものはその職人が作ったものかもしれない。
 熱田の住吉神社には1789年に作られた浪速狛犬があるそうだ。



大幸八幡社拝殿の屋根




大幸八幡社御嶽社

 神仏習合の名残として、境内に御嶽社と僧侶のものらしい石像がある。詳しいことは不明。
 濃尾地震(明治24年/1891年)の記憶を伝える震災紀念碑も建っている。このあたりでもけっこうな被害が出たようだ。



木の電柱

 神社は神を祀る場所というだけでなく、地域の歴史を伝える拠り所でもある。もしこの場所に神社が建っていなければ、この地区の歴史を知ることはなかっただろう。たまたま大幸という町を通りかかってその町のことを調べてみようなどとは考えない。
 たとえ歴史の記憶の大部分を失ってしまったとしても、神社はそこに在り続けるだけで一定の役割を果たす。地域のつながりが希薄になった現代において、祭りや神事などによって人々を結びつけるという役割も担っている。

【アクセス】
 ・地下鉄名城線「砂田橋駅」から徒歩約7分。
 ・駐車場 たぶんなし(路上可)
 ・拝観時間 終日
 

ここ最近のフォトコンのこと

フォトコン・写真(Photo Contest)
TEKKENフォトコン




CAPA 2016年12月号」の「TEKKEN」で「街灯り」が佳作。
 この月のテーマが「輝く鉄路」ということで、この写真のことを思い出した。2012年に撮った古いものだ。こうして古い写真でも日の目を見るのは嬉しい。
「TEKKEN」は中井氏が長く担当していて、鉄ちゃんじゃなくても参加できるのがいい。国鉄色とかSLとかのテーマの月は私などではどうにもできないのだけど、参加できるテーマのときは参加するようにしている。
 最近、あまり鉄道を撮ってない。鉄道旅も行きたいのだけど。


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森林公園フォトコン

 毎年恒例となっている愛知県森林公園の「四季の風景写真コンテスト」。
「紅葉シーズン」が入選した。
 おそらく私が参加しているフォトコンの中でもっとも小さなフォトコンだけど、森林公園は好きな場所だから、ささやかな恩返しのような気持ちもある。商品が500円の図書カードでも毎年参加したい。



どまつりフォトコン

2016どまつりフォトコンテスト」で、「雄叫び」が佳作。
 ここ数年、祭りやイベントにあまり出向かなくなっている中、どまつりだけは毎年楽しみにしていて、写真を撮る楽しさも変わっていない。だから、どまつりフォトコンは他のフォトコンよりも入っておきたい気持ちが強い。去年はあまりいいのが撮れなかった中で、これだけは気に入っていた。
 どまつりは何度撮っても難しい。今年の夏もきっと撮りにいくことになるだろう。

 展示会は、私自身も気づいたら終わっていた。



フォトテクニックデジタル・フォトコン

「フォトテクニックデジタル 2017年2月号」のネイチャー部門で「散る秋」が次点入選。
 理想の散り葉撮りはまだ遠い。完璧な一枚を撮るためにはいろいろと条件があって、テクニックと運だけでは撮りきれない。頑張れば必ず撮れるというものでもないから、毎年撮り続けていくしかない。



 

 2016年シーズンのフォトコンは、夏まではまずまず好調を保っていたのだけど、秋以降に失速した。毎年同じような傾向がある。冬はともかくとして、秋に苦手意識はないだけに、年末に結果が出ないのはあまりいいことではない。
 やる以上は入らないと意味がないので、春に向けて調子を取り戻していきたい。
 

道行き街角風景 ~七が3つで何と読む?

日常写真(Everyday life)
街角

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 在庫写真シリーズ。
 今回は置き忘れてきた夏の街角と題してお送りします。

 漢字の七が3つの文字をたまに見かける。上の写真の正面の店でも使われている。なんて読むんだろうと気になったことがあったのだけど、調べることもなく放置していた。
「喜」の異字体で、「き」「よろこ(ぶ)」と読み方も同じということだ。
 こういう同じ字が三つ使われた文字を品文字(しなもじ)というらしい。それも初めて知ったことだった。
 ということで、「き」で変換すると「㐂」の文字が出てくる。Macではどうなのかは分からない。
 店の名前「㐂代雀」は「きよすずめ」と読むのだろう。



煙突のある街角




詩




銭湯のある風景




たばこ屋




たたみ屋




三叉路の街角




松のある街角




喫茶店と本屋




黒塀のある風景




矢田川川原とゆとりーとライン

 

深島神社は宗像三女神のうちの誰を祀っているのか

神社仏閣(Shrines and temples)
深島神社参道

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 名古屋市北区柳原(やなぎはら)にある深島神社は、宗像三女神の誰かを祀る神社だ。問題は、三女神のうちの誰か、ということだ。
 1964年に北区役所が発行した『北区誌』によると、室町時代中期の1450年に九州福岡の宗像神社(宗像大社)から田心姫命(タゴリヒメ)を勧請して創建されたとあり、明治後期から大正にかけて編さんされた『名古屋市史』によると、祭神は湍津姫命(タギツヒメ)であるという。神社の鳥居横の由緒書きは『北区誌』にならったのか、田心姫命と書かれていた。
 しかし、江戸時代後期の1844年にまとめられた『尾張志』を読むと話がややこしくて頭が混乱する。
 まず深島は地名としては「ふかしま」だけど、古い社名は「シムトウ」または「シムタウ」なのだという。今風に言うと、「しんとう」ということだろう。
 で、言い伝えでは祭神をタギツヒメとしているのだけど、それは間違って伝わったもので、本当は市杵島姫(イチキシマヒメ)ではないかというのだ。
 宗像神社の深島社で祀っているのはイチキシマヒメで、タギツヒメを祀るなら武島社でないといけないのだとかどうとか。タゴリヒメというなら宗像社のはずだとも。
(『尾張志』は表記が難しくて何が書いてあるのか分からないところが多くて、私の理解が間違っている可能性もある。現代語訳版が欲しい。)
 ただ、『尾張志』も筆者の考えではそうじゃないかと推測するというだけで断定はしていない。あとはもっと詳しい方よろしくみたいな逃げを打っている。
 ちなみに、柳原の地名は、かつてこのあたりが入り江の沼地だった頃、柳の木が多かったことから名付けられたといわれている。
 深島も古い地名のようで、一説では湿地の中にそういう名前の島があったともされる。
 あるいは、宗像神社絡みの命名かもしれない。

 宗像大社について簡単に説明しておくと、一般的に宗像大社というと、宗像市田島にある社のこととされることが多い。本来は沖ノ島の沖津宮と筑前大島の中津宮をあわせた三社の総称だ。田島の社は辺津宮(へつみや)という。
 それぞれ、沖津宮でタゴリヒメ( 田心姫神)を、中津宮でタギツヒメ(湍津姫神)を、辺津宮でイチキシマヒメ(市杵島姫神)を祀っている。
 沖ノ島は神の島と呼ばれ、現在でも女人禁制で、男性も素っ裸で禊ぎをしないと上陸することが許されない。8万点ともいわれる出土品のすべてが国宝に指定されており、海の正倉院の別名を持つ。宗像と沖ノ島関連は世界遺産暫定 リストに載っていて、今年中にも世界遺産に登録されるかもしれない。

 結局、深島神社の祭神は誰なのか。
 それは、かつてこの神社が深島弁才天と呼ばれていたことがヒントになるのではないか。宗像三女神の中で一番の美人とされ、神仏習合でインドのヒンドゥー教の女神・弁才天と同一視されたのがイチキシマヒメだった。
 日本各地に7千以上あるとされる宗像神社、厳島神社関係の神社では、三女神をセットで祀っているか、単体で祀る場合はイチキシマヒメのことが多い。
 とすれば、深島神社も単純に考えてイチキシマヒメでいいんじゃないかと思うけど、どうだろう。別にタゴリヒメでもタギツヒメでもかまわないし、実際そうなのかもしれないけど、弁天様といえばやはりイチキシマヒメでないとおかしい。

 ついでに書くと、日本三大弁天は、琵琶湖の竹生島にある竹生島神社、江の島の江島神社、広島宮島の厳島神社とされている。もちろん、本家は宗像大社だ。
 名古屋はあまり弁才天とは縁がないところなのか、有名どころでいうと川原神社にある弁天社くらいしか思いつかない。
 ところで、弁才天と弁財天とどちらが正しいんだろうと思ったことはないだろうか。基本的には弁才天の方が正式とされているようだけど、才能を求めるか財宝を求めるかによって、それぞれが決めればいいのかもしれない。



深島神社

 誰がいつ創建したのかははっきり分かっていない。ただ、江戸時代より前には違いなく、室町か、もしくはもっとさかのぼるかもしれない。
 このあたりは川がたびたび氾濫して水害にあったというから、それを鎮めるために九州から水の女神を呼んだということだろうか。あるいは、九州から来た宗像氏関係の一族がこのあたりに住みついて、故郷の祖先神を祀ったとも考えられる。
 名古屋城から見て鬼門の方角に当たり 尾張藩からも庶民からも崇敬されたという。
 かつて境内は2000坪もあったといい、境内の西に流れる川には立派な橋が架かっていたそうだ。川の痕跡はすでに残っていない。
 明治になって村社になったものの、敷地は10分の1近い200坪あまりまで縮小されてしまった。
 社殿は第二次大戦の名古屋空襲で焼失。
 現在の本殿などは戦後の昭和27年に建て直されたものだ。



深島神社拝殿




深島神社拝殿から見た本殿




深島神社稲荷社

 境内社には、稲荷社の他、牛頭天王社、荒神社、石神社がある。



深島神社霊石

 尾張藩初代藩主の義直の命を受けた神主の三谷左内が木曽の山中で拾ってきた霊石らしい。どうやってこんなに大きくて重たそうな石を木曽の山から持ってきたのだろう。



深島神社さざれ石

 さざれ石。



深島神社ご神木の桜




深島神社裏手の鳥居




深島神社社殿と木のシルエット




城北神社

 深島神社の西100メートルくらいのところに宗像神社がある。またの名を城北神社ともいう。
 城北荘という大きな団地の中庭に鎮座するロケーションに驚いていたら、この神社はもう閉店しましたみたいな貼り紙があって二度びっくりした。入り口が閉ざされていて、もうこの神社は終わったので他へ詣ってくださいと書かれている。そんなことがあるものなのか。お世話をする人がいなくなったのかもしれないけど、距離感からしても祀っている神からしても、深島神社と無関係のはずがなく、ついでにお世話するくらいはできそうに思うのだけど、小さな社といっても内情はなかなかややこしい問題があるのかもしれない。
 それにしても、この神社の存在が深島神社についての理解を更に難しいものにしている。深島神社の2000坪の敷地内にあったものなのか、そうではないのか。ちらっと聞いた話によると、深島神社よりもこちらの宗像神社の方が古いともいう。
 こちらでは宗像三女神をまとめて祀っている。城北神社というのはあとから付けられた名前で、もともとは宗像神社だったと思われる。説明板には括弧して弁天社とある。
 何故、深島神社とこの距離感で同じ女神を別に祀る必要があったのか。両者の成立過程などの調べがつかないので、これ以上は知りようがない。深島神社は宗像神社のどこから勧請してどの女神を祀っているのかという最初の問いに戻ってしまう。何故、深島神社では三女神じゃなかったのか、という点も疑問だ。
 大胆な予想をするならば、実はこちらの宗像神社の方が最初にあって、深島神社はここから一女神を勧請したというのはどうだろう。さすがにそれは大胆すぎる推理だろうか。
 名古屋市西区浄心にも宗像神社があるようだから、そちらに行ってきてから宗像問題の続きを考えることにしたい。

【アクセス】
 ・地下鉄名城線「名城公園」より徒歩約5分。
 ・駐車場 たぶんなし
 ・拝観時間 終日
 

守山瓢箪山古墳訪問と歴史の里のこと

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
瓢箪山古墳

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 9-18mm



 決して古墳好きとかではないけれど、気づくとけっこうな数の古墳を巡っている。
 東海地方最大とされる熱田の断夫山古墳(だんぷさんこふん)や、ヤマトタケルが眠るという伝説のある白鳥古墳。鶴舞公園近くにある八幡山古墳に、春日井の味美古墳群の中心、二子山古墳などなど。犬山にある復元された青塚古墳は印象に残っている。
 名古屋市守山区も古墳の多いところだ。特に志段味は志段味古墳群と呼ばれほど古墳が集まっている。東谷山の山頂にある尾張部神社は古墳の上に建っているとされていて、中腹にもいくつかの古墳が築かれている。勝手社も勝手塚古墳の上にある神社だ。
 それとは別に、小幡近辺にも古墳がけっこうある。小幡白山神社も、市場白山神社も、古墳の上の神社というパターンだ。
 守山区の古墳は4世紀から6世紀にかけて作られたものという。200年以上の間、このあたりは有力豪族の拠点のひとつだったと考えてよさそうだ。当時は今よりも海岸線がだいぶ内陸寄りにあったはずで、北には庄内川、南には矢田川が流れ、台地の上という地理的な条件が生活するのに適していたのだろう。
 断夫山古墳は6世紀前半とされている。とすると、拠点はだんだん南へ下がっていったと考えていいだろうか。
 これらの古墳を尾張氏との関係を抜きに語ることはできないのだけど、この時代の尾張氏に関して分かっていることはそれほど多くない。名古屋の古墳で埋葬者が断定されているものはひとつもない。

 今回紹介するのは瓢箪山古墳(ひょうたんやまこふん)だ。名鉄瀬戸線の瓢箪山駅の北300メートルほどのところにある。瓢箪山の地名や駅名はここから来ている。古墳の名前の由来は、横から見たときひょうたんを半分にしたような形からだろう。全国にいくつか同じ前の古墳があるようだ。
 木々が生い茂っていて古墳の姿としては確認できないものの、保存状態は良好という。住宅地の中ということを考えるとよく残った方だろう。戦後まで周囲に幅10メートルほどの濠も残っていたそうだ。
 前方後円墳で、全長約63メートル、高さ4メートルの二段築成。小幡台地の縁に沿って作られ、北西を向いている。
 発掘調査で大型円筒埴輪や水鳥形埴輪などが見つかっており、5世紀末から6世紀初頭に築かれたとされる。
 大きさからしても、この地方の首長クラスの人物のものと推定される。



瓢箪山古墳全景

 ぐるっと周囲を回ってみたのだけど、全体像を確認することはできなかった。訪れたのが初夏の6月ということもあって、草木がぼうぼうだった。



ひょうたん山公園

 古墳を囲うように広場になっていて、ひょうたん山公園と名付けられている。ブランコなどの遊具もある。古墳のすぐ隣は守山小学校だから、小学生たちが遊びに来たりするのだろうか。



歴史の里

 来年、平成30年、守山区志段味地区に、歴史の里という古墳のテーマパークができるらしい。それを知ったときはちょっと笑ったけど、計画を読んでみるとかなり真面目で本格的なものになるようだ。個人的にはレゴランドよりこっちの方が楽しみだ。
 出土品の展示にとどまらず、埴輪造りや発掘調査のお手伝い、古代の衣装レンタルや、市民による古墳の再現まであるという。最近は古墳女子という言葉も生まれるほど古墳がちょっとしたブームになっているというし、発売予定の古墳グッズは女子にも人気が出るかもしれない。オープン記念にはぜひ、古墳にコーフン協会会長であり古墳シンガーであるまりこふんさんをお招きしてテープカットでもしてもらわなければなるまい。
 実際、完成したら行ってみたいと思う。一基くらいは前方後円墳の完全再現もしてもらいたいところだ。守山古墳めぐりスタンプラリーとかやっても面白い。
 私はといえば、まだ行っていない古墳をぼちぼち巡っていこうかと考えている。
 
【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線「瓢箪山駅」から徒歩約8分。
 ・駐車場 なし
 
 名古屋市歴史の里
 

クルージング・サンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 大寒も過ぎて1月も早くも後半になっていた。ついこの前正月だと思ったのに。12分の1がこの調子では、今年もあっけなく終わってしまいそうだ。
 サンデー料理は1月の二週目から通常運転のクルージングに入った。2017年も変わらないままなのかどうか。何年か前まではその年のテーマみたいなものもあったのだけど、ここ最近はそれもなくなった。ずっと課題だった盛りつけも、今ではもうあまり考えない。色味だけは多少気をつけようと考えてはいるけれど。
 今週もマグロ、ジャガイモ、卵と、揺るぎない定番メニューに終始した。食べる側の私からすると料理人の私の常連客のようなもので、そうそうメニューや味付けが変わってもらっては困るというのはある。食べる私としては安定した味を求めているわけで、急に美味しくなったりおしゃれになったりすることはあまり望んでいない。
 サンデー料理は偉大なるマンネリとなり得るかどうか。



マグロのしょう油だれ

「マグロのグリル焼きしょう油だれ」
 今回はグリル焼きにしてみたのだけど、ちょっと火を通しすぎて固くなった。グリルも火加減の調整がわりと難しい。アルミホイルを敷いた方がいいのだろうか。
 たれは、からししょう油だれ。



オムレツ

「変わりオムレツ」
 普通のオムレツは作れないけど、オリジナルのオムレツなら何種類か作ることができる。
 今回は、刻みキャベツ、まいたけ、カニかまのオムレツだった。卵、小麦粉、塩、コショウと混ぜ合わせ、オリーブオイルで両面を焼く。
 コンソメスープのあんあけをかけて食べた。



ジャガイモと鶏肉

「鶏肉と野菜炒め」
 具材は、鶏肉、ジャガイモ、ニンジン、ブロッコリー、シーチキン缶。
 味付けは、オリーブオイル、マーガリン、マヨネーズ、酒、みりん、しょう油、塩、コショウ、とろけるチーズ。
 

東山植物園便り ---春を探して

植物園(Botanical garden)
タンポポ

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 2017年初の東山植物園行きとなった。
 去年の暮れは動物園で鳥インフルエンザが発生して、かなり気の毒なことになった。動物園は年末からひと月以上休園していた。植物園は変わらず営業していたのだけど、紅葉が終わって撮るものもあまりないということでしばらく足が遠のいていた。そろそろ新春の花も咲き出したんじゃないかと出向いていったのだった。
 鳥インフルエンザはとりえず終息したとのことで、1月13日から営業を再開した。まずはひと安心といったところだろう。
 いつものように植物園をぐるっと歩いてきた。春というにはまだまだ遠いものの、少しずつ花も咲き出してきていて、冬の終わりが近づいているのを実感した。明日は大寒で、それが過ぎれば季節は春へと向かう。



椿

 侘助というのは品種名なのか、椿の中のグループ名なのか、定義がよく分からない。椿も品種がたくさんある。



カンアオイ

 カンアオイの蕾が顔を出していた。



残雪とモミジの枯れ葉

 日陰に雪が少し残っていた。



コウヤボウキ

 逆光のコウヤボウキが好きだ。



フクジュソウ

 フクジュソウ(福寿草)はやっと2つ3つ、蕾が出てきたところだ。花が咲くのは2月に入ってからだろうか。



椿




スイセン

 スイセンはだいぶ咲いていた。今が見頃といえそうだ。



ソシンロウバイ

 ソシンロウバイは、よく咲いている木とまだまだのものがあった。
 マンサクはまだ咲いていなかった。



メジロ

 メジロ。



梅一輪

 梅はまだ全然だった。今年は梅が早いと聞いたのだけど、東山植物園の梅は例年通りのようだ。
 
【アクセス】
 ・地下鉄東山線「星ヶ丘駅」から徒歩約8分。
 ・駐車場 有料(1回800円) 少し離れた場所に無料駐車場あり
 ・営業時間 9時-16時50分 月曜日定休
 ・入園料 500円(中学生以下 無料)

 東山動植物園webサイト
 

山田重忠について私が書けることのすべて

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
山田重忠碑

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 名古屋市北区山田の山田幼稚園前に「山田重忠舊里」という碑が建っている。山田天満宮から北へ150メートルほど行ったあたりだ。
 園児にとってもその親にとってもなんのことだかでまるで興味がないという人がほとんどだろうけど、ときどき明らかに園児の親とは思えない人物がやってきて写真を撮っていくことを不審に思っている人はいるかもしれない。そもそも、舊里を読めず意味が分からないという人が大多数ではないだろうか。私も読めなかった。
 舊は旧の旧字体で、旧里、つまり山田重忠がかつてここで暮らしていたということだ。なるほど、あの山田重忠が! となる人もまた限られるに違いない。ほとんどの名古屋人、愛知県民にとってさえ山田重忠はすでに忘れられたも同然の存在になっているからだ。
 戦国時代の人ならまだしも、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した地方の一武将についてよく知っているという人はあまりいないだろう。このブログで最近、たびたび登場しているから多少は興味を持つようになったという方も少しはいるだろうか。大永寺を紹介したときにある程度書いたものの、いろいろはっきりしないことがあって私の中でもやもやが残った。
 大永寺と山田重忠に関する混乱気味の考察
 山田重忠の屋敷跡が残っているなら、そこを訪ねてみれば直接的な手がかりは得られなくても何かしら感じるところや思うところがあってヒントをもらえるのではないかと思い、出向いてみることにしたのだった。



山田

 山田二郎重忠について知るには、まず鎌倉幕府成立前後と承久の乱までの流れを把握しておく必要がある。
 守山郷土史研究会『もりやま 第五号』に田辺爵が寄稿した文章によると、1221年の承久の乱で自刃して果てた重忠は、そのとき56歳だったという。おそらく数え年だろうから、逆算すると生まれは1165年か1166年ということになるだろうか。これが正しいなら、母のために建てた長母寺の創建年が1179年というのは間違いということになる。
 ついでに書くと、星崎城を築城したとされるのが1177年-1181年の間というのだけど、これもやはり無理がある。重忠が地頭に任命された1185年以降ではないか。
 少しさかのぼって1181年。治承・寿永の乱で、重忠の父・重満は美濃の墨俣川(墨股川)において平重衡(しげひら/平清盛の五男)との戦いに敗れて戦死している。45歳だったとされる。
 1183年、重忠初陣。18歳。木曾義仲に従って、北越から京へ進撃。京では京中守護の任を与えられたという。
 平安時代から鎌倉時代にかけて元服(成人)は12-16歳くらいだったとされる。重忠の初陣が18歳だったというのはやや遅いと感じるけどどうなのだろう。2年前に父や兄に従って初陣を飾っていたとしてもおかしくはない。そのときは16歳になっていたはずだ。ただ、一緒に戦に出ていたら兄の重義ともども討ち取られていた可能性が高かったわけで、そういうことも考えて次男は置いていったということかもしれない。
 木曾義仲は倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破るなど活躍するも、京都ではすこぶる評判が悪く、後白河法皇と敵対するなどもあって源頼朝が派遣した源範頼・義経との粟津の戦いで討たれてしまう。1184年のことだ。
 重忠は投降。頼朝勢に恭順の意を示して許されることになるのだけど、最初は木曾義仲に従っていたということがひとつキーになるような気がする。初めから頼朝と共にあったわけではないという点に。
 1185年。壇ノ浦の戦いにて平家滅亡(完全に滅んだわけではない)。実質的な鎌倉幕府はこのとき成立したとされる。全国に守護地頭を置く権利を後白河法皇に認めさせたことがその根拠となっている。
 父と兄を失って山田家の家督を継いでいた重忠は、尾張国山田荘の地頭に任命され、御家人となった。

 奈良時代から平安時代にかけて、このあたりは東大寺の荘園だった。荘園というのは非常にややこしいのだけど、簡単にいうと地方における私有農地のようなものだ。貴族や有力寺社が支配する土地ともいえるだろうか(朝廷が支配している土地は公領)。そこへ鎌倉幕府が勝手に守護やら地頭やらを送り込んできたから元の支配者はたまったもんじゃない。地頭は荘園を管理する役職で、年貢の取り立ても行う。農民にとっては二重に税を持っていかれることにもなる。
 守護は軍事担当責任者といった役割で、地頭を監督するのも任務だった。戦国時代の守護大名はここに端を発している。
 尾張国山田郡の名称は、この山田荘があったことに由来する。現在の地名の山田は山田郡からきている。
 山田氏のルーツは清和源氏系とされる。清和源氏満政流八島氏の一族である源重実を祖とするという。
 重忠の父が重満、その父が浦野重直で、もともとは美濃あたりを拠点としていたらしい。重直の代に尾張国山田郡に移ってきて、名前を山田氏に変えたとされる。あるいは、尾張国春日井郡浦野に所領があったことから浦野氏を称していたともいう。
 更にその父が源重遠(みなもと の しげとお)で、この重遠が尾張源氏の祖とされている。重遠のときに、美濃から尾張国浦野に移住したという話もある。
 清和源氏満政流の満政は、源経基の第二子に当たる。その父が清和天皇の第6皇子・貞純親王だ。
 源氏や平氏というと根っからの武士と思いがちだけど、元を辿ると天皇に行きつく。跡を継げない息子たちをそれぞれ独立させて武家としたことが始まりで、桓武天皇が平安京に都を移したのちに行われるようになったとされる。
 源氏だとか平氏だとかの氏にこだわるのは天皇の血を引く家系であることを意味しているからだ。単に有力豪族とか名門だとかそういった話ではない。源氏や平氏が他の家と決定的に違う理由がそこにある。古い既成概念が壊れつつあった戦国時代でさえそうで、源氏の流れをくむ今川や武田などは名門の誇りを持っていたし、そうではない信長や家康は平氏や源氏を名乗ろうとした。

 1199年。頼朝死去。53歳。落馬したことが原因ともされるが、はっきりした死因は分からない。暗殺されたという説もある。
 嫡子の頼家はそのとき18歳。実際の政治は北条氏が行うことになる。
 この北条氏、実は源氏ではない。桓武平氏高望流の平直方を始祖とする平氏だ。ここにものちに重忠の行動を決定づける一つのキーがある。
 1203年。22歳の頼家は、重病に陥ったという名目で修禅寺へ幽閉されてしまう。
 変わって三代将軍になったのは、まだ12歳だった弟(頼朝の四男)の実朝だった。当然、政治を行うことはできず、将軍補佐役の執権職に就いた北条時政が実権を握ることになる。
 翌1204年。頼家死去。これも暗殺だったというのが有力な説だ。
 このあと、あれやこれや権力争いが起こり、1219年、将軍・実朝が暗殺されてしまう。実朝は28歳になっていたものの、実子がなく、ここに頼朝の血筋は途絶え、鎌倉幕府は源氏から北条氏のものへと移っていくことになる。あらたな将軍を朝廷から迎えようとして断られ、藤原摂関家から迎えられることになるのだけど、それはお飾りに過ぎなかった。

 鎌倉でそんなゴタゴタが起きている間、重忠とその一族は尾張の山田荘で何をしていたかといえば、たぶんわりと平和で穏やかな日々を過ごしていたのではないかと思われる。地頭として山田荘に入ってから30数年という歳月を思えば、何事もなかったはずはないけれど。
 拠点は星崎城だったのか、山田の屋敷だったのか、くわしいことは分からない。あちこちに寺を建てたりしたのもこの時期だったはずだ。幕府の地頭でありながら京で後鳥羽上皇の近くに仕えていたという話もある。もともと八島氏一門は伝統的に朝廷との繋がりが深い勤皇派だったとされる。
 ただ、鎌倉の情勢に無関心だったはずはなく、逐一報告を受けて状況を把握していたに違いない。50を過ぎていたとはいえ、いまだ武将としての気概のようなものは失われていなかったのだろう。
 実朝暗殺から2年後の1221年。幕府から朝廷に政権を取り戻すべく後鳥羽上皇が討幕のために挙兵すると、重忠はいち早く呼応し、一族ともども朝廷側への参戦を決めている。後の世にいう承久の乱だ。
 何故、幕府の御家人だった重忠が幕府側ではなく朝廷側についたのだろうと考えたとき、単に勤皇派だったからではなく、鎌倉幕府の実権が源氏から平氏の北条に移ったことが大きな理由だったかもしれない。後鳥羽上皇に対する忠誠心よりも、北条討つべしという思いの方が強かったのではないか。
 あるいは、ようやく訪れた人生最後になるかもしれない大きな戦に心躍って後先考えずに戦に突っ込んでいってしまったということもあっただろうか。それにしても、50代半ばといえば当時ではけっこうな高齢で、隠居している歳だ。それが孫まで連れて最前線で戦うことになるのだから尋常ではない。よほどの決意と胸に秘めた思いがあったのだろう。
 北条を倒したあとの展望が重忠の中にどこまであったのかは分からない。幕府をもう一度源氏の手に取り戻すくらいの思いはあっただろうか。もしかすると重忠は朝廷側の勝ち戦だと少々軽く考えていたかもしれない。後鳥羽上皇もそう思っていたらしいところがある。いくら実権は鎌倉にあるとはいえ、朝廷と戦うとなればそれは朝敵だ。朝廷軍として参戦しないまでも多くの武将は幕府側にはつかないと踏んでいただろう。実際、大和、美濃、尾張などの武士たちが立ち上がり朝廷軍となり、それを見た各地の御家人たちも朝廷側につく動きを見せ始めた。
 しかしここで登場したのが尼将軍と呼ばれた頼朝の妻だった北条政子だ。おまえたち、苦労してやっと武家の世の中を作ったではないか。また朝廷支配の時代に逆戻りしたいのか。頼朝様に受けた恩をなんと考えると演説をぶった(のちの脚色もある)。
 形勢はたちまち逆転し、御家人たちは我もわれもと幕府側につき、幕府軍の数は最終的に19万人にもなったといわれている。

 北条義時の嫡男・泰時を総大将にした幕府軍は、途中で兵を増やしながら鎌倉から京に向けて三方から進軍した。
 対する朝廷軍は藤原秀康を総大将に1万7500を美濃と尾張の間を流れる尾張川に布陣させて迎え撃つも、数に勝る幕府軍にあっけなく敗北。このままでは持たないと判断した藤原秀康、三浦胤義らは、最終防衛ラインと決めた宇治・瀬田まで引いて再布陣することにした。
 結果論ではあるけど、少ない兵を分散させてしまったのはまずかった。幕府軍の体勢が整う前に全員集結させて鎌倉に先制攻撃をかけていたら、その後の展開は違ったものになっていたかもしれない。
 重忠はまず木曽川の墨股を守るべく布陣した。しかし、幕府の主力軍10万が攻めてきたので杭瀬川までいったん引いた。そこで善戦するも破れ、瀬田川まで落ちて奮闘したものの再び敗れ、京の宇治川で三度敗れることになる。
 藤原秀康、三浦胤義たちも同じく幕府軍に敗北し、院の御所・高陽院(かやのいん)に集結した。しかし、門は閉ざされ後鳥羽上皇は無視を決め込む。出てこないどころか中に入れてもくれない。
 幕府軍が一気に京に押し寄せてきたことを知った後鳥羽上皇は保身に走った。実はあのお触れは配下にそそのかされたもので自分の意志ではないのだ。だから取り消すと。ついでに藤原秀康や三浦胤義はけしからんから逮捕するようにという命まで下した。
 突然、朝廷からも幕府からも追われる身となった重忠は、藤原秀康、三浦胤義とともに東寺に立てこもって最後の抵抗を試みる。しかし、ここでも敗走。三浦胤義は自害。藤原秀康は河内国で幕府軍に捕まって捕虜となった。
 重忠は落ちた先の嵯峨般若寺山で自刃したという。
 一緒に戦いに加わっていた息子の重継も捕らえられて殺された。孫の兼継は14歳ということもあって殺されずに越後国に流された。
 後鳥羽上皇はといえば、苦しすぎる言い訳で許されるはずもなく、かといって命を奪うことはできないので隠岐島に流されることになった。それでもそこで1239年まで生きた。



瓦

 碑が建っている足元に瓦が埋め込まれている。まさか鎌倉時代のものでもないだろうけど、山田重忠の屋敷に関わりがあるものなのだろうか。
 重忠の碑の他に名古屋十名所の碑が建っている。
 大正13年(1924年)に、中日新聞の前身・新愛知新聞社が選んだもので、熱田神宮や名古屋城と並んで山田元大将之社が入っている。名所というからには大正時代までは確かに山田重忠屋敷にまつわる何らかの建物があったということだ。戦前までは後鳥羽上皇に仕えた忠臣ということで山田重忠はよく知られた存在だったという。戦争を挟んで、いまやすっかり忘れられた存在をなってしまった。そのことを嘆いた重忠本人か関係者が私を重忠ゆかりの地に招いてもう一度知らしめろという使命を与えたのかもしれない。相変わらず背中が痛いのは気のせいだろうか。
 ちなみに、十名所のその他は、笠寺観音、闇ノ森、榎ノ権現、櫻田勝景、圓頓寺、久屋金刀比羅、天理教々務支庁となっている。笠寺観音などは納得だけど、知らないところが多い。機会を見つけて巡ってみたい。



廣福禅寺

 山田幼稚園は隣にある大應山廣福禅寺が経営している。
 お寺の住職などに聞けば更に詳しいことを教えてもらえるかもしれない。



廣福禅寺の堂




廣福禅寺園内の碑と社

 園内には別の碑と小さな社が並んでいる。残念ながら入ることはできないので、どういう由来のものかは分からない。



山田幼稚園公園

 山田幼稚園の敷地になっている場所に、かつて金神社(こがねじんじゃ)があったという。幼稚園の外、北東に小さな公園があるのだけどそこがそうなのだろうか。もしくは園内にあった社がその名残なのか。
 金神社は山田天満宮に移されて、お金の神様として人気を集めている。

 無住道暁が編さんした仏教説話集『沙石集』には重忠についてこんな記述がある。
「弓箭の道に優れ、心猛く、器量の勝った者である。心優しく、民の煩いを知り、優れた人物であった」と。
 鎌倉時代の1283年に完成したものだから、重忠が生きていた時代からそれほど年月が経っていない時期に書かれたものだ。きっとそういう人物だったのだろう。
 ここ何週間か、山田重忠について調べたり考えたりする時間が多かった。もっと本格的に調べれば分かることもあるのだろうけど、研究者でも郷土史家でもない私にできるのはここまでのようだ。まだどこかで重忠ゆかりの地を訪ねることがあれば、もう少し書けることもあるかもしれない。
 最後に山田氏がその後どうなったかを書いてしめくくりとしたい。

 越後国に流されていた兼継は7年後に許され、出家して僧となった。
 兼継は1244年に37歳で死去するも、尾張山田氏の家督は、弟の重親とその子・泰親(重親の三男)が継いで家系は継承した。
 泰親兄弟は鎌倉幕府への出仕が許され、泰親は弟の親氏と共に尾張国菱野の地頭に任じられ、菱野城を築いたという。晩年は出家して菱野に本泉寺を建てたと伝わっている。
 
【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線/JR中央本線「大曽根駅」から徒歩約13分。
 ・駐車場 なし
 

1月の森林公園 ~冬景色から梅へ

植物園(Botanical garden)
芝生広場と雪だるま

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 60mm F2.8



 1月の森林公園。今年は梅の開花が早いというニュースを聞いて、それじゃあそろそろ行ってみようかということになった。
 しかし、森林公園の梅は例年他よりも遅い。今年もやっぱりそうだった。何本かの木がようやくわずかにほころび始めたところで、見頃以前に撮り頃でさえなかった。まだまだ気が早すぎた。
 この日は東門から入って展示館まで行って引き返すというコース取りだった。梅がないとなると今の時期はあまり撮るものもない。芝生広場に残された3日目の雪だるまが印象に残った。
 南門前に咲いている菜の花が見頃ということを帰るときになって思い出した。東門から入ると南門前まで行くのはちょっと遠すぎる。
 そんなわけで、1月の森林公園風景をお送りします。



冬の太陽




水たまりの氷




芝生広場へのアプローチ




メタセコイア冬




竹林の陰影




水たまりの風景




残雪とモミジの枯れ葉




散りサザンカ




梅の花




梅一輪

 

守山区の寺巡り ---利海寺と浄土院

神社仏閣(Shrines and temples)
利海寺入り口

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 名古屋市守山区西城(にししろ)にある利海寺(りかいじ)。
 守山区の「城跡と寺社めぐりコース」の中にあったので行ってみることにした。
 場所は守山中学の西で、浄土院と並んで建っている。
 西城という地名は、戦国時代にあった小幡城の西ということで付けられたのだろう。それなら城西の方がよかったんじゃないかと思わないでもないけど、名古屋城の西に城西という町名があるから、それと区別するためだろうか。ずっと「さいじょう」と読むのだと思い込んでいて、にししろと読むことを知ったのは今日のことだ。

 臨済宗妙心寺派の寺で、山号を安休山という。
 室町時代後期の元亀年間(1570-73年)に、中区の白林寺の和尚が開山したと伝わっている。そのときは明鏡山圓福寺といった。
 創建時は低地にあってたびたび庄内川の氾濫で被害を受けたとのことだ。
 江戸時代中期の1754年に今の高台に移され、名前も変わった。
 本尊は延命地蔵菩薩立像。



利海寺山門

 臨済宗妙心寺派の総本山は京都にある妙心寺だ。
 以前紹介した長慶寺は同じ臨済宗でも東福寺派なので派が違う。この何々派というのもよく分からないもので、どれくらいの違いがあるのか部外者にはうかがい知れない。
 臨済宗妙心寺派は、末寺3,400以上を持つ臨済宗最大の宗派だそうだ。



利海寺本堂と鐘楼




利海寺本堂屋根




利海寺鬼瓦




利海寺全景




浄土院山門

 続いて隣にある一条山浄土院を訪ねた。
 こちらはこぢんまりしたお寺さんという印象を受ける。境内に寺が経営する幼稚園がある。
 浄土院については創建年など、くわしいことは調べがつかなかった。本尊は浄土宗なので阿弥陀如来像だ。



浄土院本堂

 浄土宗は法然を祖とする仏教宗旨のひとつで、平安時代後期の1175年を始まりの年としている。法然43歳のときだ。
 ただひたすら「南無阿弥陀仏」をとなえて阿弥陀様に往生を祈るのが教えの根幹となっている。他力本願というやつだ。
 南無阿弥陀仏の南無は帰依するという意味で、阿弥陀様の言う通りといったところだろう。
 ちなみに、あみだくじ(阿弥陀籤)もこのあたりから来ていると思ったら少し違っていて、昔は真ん中から外に向かって放射状に線を書いて各自が選ぶというやり方で、それが阿弥陀如来の後光に似ているところから付けられた呼び方なんだとか。室町時代あたりにはすでに行われていたらしい。子供の頃、駄菓子屋で紐のついた飴を選ぶというのがあったけど、あれなどもあみだくじの原型のようなものといえるかもしれない。
 浄土宗と浄土真宗の違いについてだけど、もともとは同じ浄土宗から派生したもので、浄土真宗はのちに親鸞によって枝分かれしたものだ。同じく他力本願を根幹としながら決定的に違うのは、自分の力で往生しようなどと思わず、一切を阿弥陀様に委ねてしまおうという絶対他力が浄土真宗の基本的な考え方となっている。
 浄土宗の中でも鎮西義やら西山義やらあるのだけど、そのへんの詳しい差異についてはよく知らない。
 鎮西派の総本山が京都の知恩院で、東京の芝増上寺は大本山となっている。
 西山派の総本山は京都の永観堂禅林寺だ。
 浄土宗の学校としては、京都の佛教大学などがある。名古屋にある名門の東海中学校・高校もそうだ。
 浄土宗のことを調べると村上春樹の名前が引っかかってくる。京都生まれの村上春樹は、おじいさんが浄土宗西山派の寺で住職をしていたのだとか。学校の先生だった父親も僧侶のようなことをしていたらしい。



浄土院門前の地蔵

 地元の史跡巡りは続く。

【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線「瓢箪山駅」から徒歩約15分。
 ・ゆとりーとライン「金屋」から徒歩約15分。
 ・無料駐車場 あり
 ・拝観時間 終日
 

道行き街の風景

日常写真(Everyday life)
信号と電線

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 今日は道行き街の風景をお送りします。



アパートともじゃハウス




ゆとりーとラインとマンション工事




架線柱




茅葺き屋根の家




夕空と街のシルエット




空き地の蔵とセイタカアワダチソウ




電波塔のシルエット




教会と十字架




アパートのアンテナ




冬の桜

 

昭和区の藤成神明社と塩付街道のこと

神社仏閣(Shrines and temples)
藤成神明社入り口

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 名古屋市昭和区は個人的にあまりイメージがない区なのだけど、鶴舞公園も、八事興正寺も考えてみると昭和区で、まんざら無縁の土地というわけではない。桜名所の山崎川も昭和区を縦断しているし、御器所八幡宮尾陽神社も去年訪ねた。
 今日紹介する塩付通にある神明社は、この辺りの地名から藤成神明社と呼ばれている。藤成という地名は、尾張藩の附家老だった成瀬家から来ている。
 犬山藩初代藩主で犬山城主だったのが成瀬正成で、その長男の正虎がこの地で新田開発を行い、その際に藤成新田と名付けた。成瀬家は藤原氏の出ということで、藤と成と一字ずつ取って藤成としたという。
 1625年、父の死によって家督を継ぐことになった正虎は従五位下の隼人正に任じられる。近くにある隼人池は1646年に正虎が作った溜め池だ。隼人町の地名の由来もここからきている。
 藤成神明社の創建はよく分からない。藤成新田の鎮守として建てられたようで、五軒家にある五軒家神明社の創建が1632年というから、その前後ではないかと思う。
 祭神はアマテラスというけど、藤成神社とも呼ばれていたというから、もともとはアマテラスを祀る神明社ではなかった可能性もある。同じ昭和区にある川原神社から勧請したという話がある。川原神社は「延喜式」に載っている古い神社で、日の神、土の神(埴山姫神)、水の神(罔象女神)を祀っている。江戸時代中期以降に神明社が流行ったとき、うちも神明社にしてしまおうということになったのではないかと想像するけどどうだろう。

 神社から1本西に入った通りは、塩付街道と呼ばれる通りだった。塩を馬の背中に乗せて運ぶ道で、いつしかそう呼ばれるようになったという。
 藤成神社は現在、東を走る新道の塩付通に面している。社殿はちょっと珍しく東向きだ。ただ、塩付街道が通っていた時代は、そちらの通りに面していたはずで、そのときの社殿は南向きだったのではないか。境内を削ったとき、敷地が東西に細長くなったので社殿を東向きに変えたというのは充分考えられる。創建時から塩付街道に対して背を向けていたとは考えにくい。
 塩付街道が整備されたのは1596年頃とされている。江戸に幕府が開かれる少し前だ。
 この時代の名古屋は海岸線が今よりもずっと北の方にあって、鳴海や星崎あたりにはたくさんの塩浜があったという。そこでとれた塩を運ぶために整備されたのが塩付街道だった。北上して飯田街道を経由して信州方面へ。あるいは出来町から矢田を通って瀬戸方面、矢田から坂下、美濃方面へと塩は運ばれていった。
 鎌倉時代初期の山田荘の地頭だった山田重忠がどうして星崎あたりに城を築いたのだろうと疑問に思ったのだけど、その理由のひとつに塩の存在があったとすれば納得がいく。星崎はのちに東海道として整備される道沿いにあり、熱田湊と有松の中間あたりに位置している。交通の要衝でもあり、塩の流通を押さえるためだとしたら、城を築くのには最適の場所だったのだろう。

 名古屋城築城以降、名古屋城下に多くの新田が作られることになった。14ヘクタールあったとされる藤成新田もそのひとつだったわけだけど、現在その面影はほとんど残っていない。田畑の姿はなく、完全な住宅地になっている。
 塩付街道も往事の面影をとどめるところは少ない。ところどころに細い道が残っているだけだ。



神明社参道と鳥居

 東鳥居からの参道がカクカクしている。狭くなった敷地の中に鳥居や社殿を無理に詰め込んだようになっている。



神明社拝殿

 この神社に関する情報が少ないため、社殿などについても詳しいことは分からない。
 すごく新しいわけではなく古めかしくもない。戦後すぐくらいの再建だろうか。



神明社本殿の屋根




神明社境内社

 鬼王神社というのがあるらしいのだけど、これのことだろうか。
 それともこれは、山神社、八劔社、津島社、天神社などが集められた境内社だろうか。
 その他、龍神社、八百万社、月讀社などが合祀されているそうだ。
 鬼の字が入る神社はあまり多くない。名古屋では珍しいんじゃないだろうか。土地の神様を祀っていて、地元の人々は「おきよさま」と呼んでいるという。



神明社稲荷社

 稲荷社。



弘法堂と観音堂

 東鳥居から入ってすぐ左手に、弘法堂と観音堂がある。かつての神宮寺だろうか。
 普段は中には入れないようになっている。



仏像ミニチュア




鳥居と空




神明社鳥居の外

 機会を見つけて昭和区の神社めぐりの続きをやりつつ、塩付街道も少し行ってみることにしたい。
 
【アクセス】
 ・地下鉄桜通線「桜山駅」から徒歩約10分。
 ・無料駐車場 なし
 ・拝観時間 終日
 

名前のない不時着サンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 今週末の名古屋はけっこうな雪が降った。サンデー料理は変わらず普段通り。季節や天候にはほとんど左右されない。
 冷蔵庫にある食材で、その日食べたい料理を作るのが基本で、応用はめったにない。今日はちょっと着地点が分からないまま作り始めて不時着気味になったものがあったものの、もはや大崩れはなくなった。たまに大失敗していた頃の方が楽しかったといえなくもないのだけど。
 昨日今日と雪風景は撮りにいけなかったので、明日チャンスがあれば残雪くらいは撮れるかもしれない。



スモークサーモン

「スモークサーモンのしょうゆソース」
 スモークサーモンは切り分ける手間すらないので、もはや調理とは呼べない。酒、みりん、しょう油をひと煮立ちさせてタレを作っただけだ。
 スモークサーモンをたまに食べたくなる。普通のサーモンとは別物に近い。



ナスとトマトのスープ

「ナスとトマトのコンソメスープ風チーズ乗せ」
 名前のない料理。着地点が見えなかったのがこれだった。最初、スライスしたナスを焼いて、スライストマトとチーズを乗せるイメージだったのだけど、途中からスープ仕立てになってしまった。これはこれで成立しているから失敗ではないのだけど。
 もう少し盛りつけをどうにかできたかなとは思う。



ジャガイモ焼き

「ジャガイモのミニハンバーグ風」
 これも名前のない料理。
 ジャガイモを適当に切り分けて煮込んで柔らかくしてつぶす。
 刻みタマネギ、パン粉、小麦粉、卵、塩、コショウ、マヨネーズ、からし、しょう油、マーガリンを加えてよく混ぜる。
 とりあえずオリーブオイルで焼いて、少し冷ましてからミニハンバーグ風に成形して、両面を焼く。
 

新シリーズ 足元の風景

日常写真(Everyday life)
捨てられた仕事着

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 足元の風景というタイトルを思いついた。これまで道ばた風景と呼んでいたグループの写真の中で、地面に落ちているものやそれに近いもの、それらの中である種の物語性を感じさせるものを足元の風景と呼んで、あらたにシリーズ化していこうと考えている。その先で今年作るフォトブックのタイトル候補にもなるはずだ。
 下を見て歩いていないと気づかないことはけっこうあるもので、ときにはしゃがんでみないと見えないものもある。前ばかり見ていると足元に転がっている物語を見逃すことになる。
 それはとてもささやかなものかもしれないけれど、私が見つけなければ誰にも見つかることなく永遠に失われてしまうかもしれない。小さなドラマに微笑んだり、ときに胸を痛めたり、そんなことにいくばくかの価値を見出す。何気なく過ぎていく何でもない日々を愛おしく思えるように。



冬のスズメバチ




うつぶせの人形




つぶれた柿




レインコート




サンタの帽子だろうか




色とりどりの落ち葉




落ち葉と雑誌




メモの落とし物




ハト




供えられた枯れ花

 

塚ノ杁池 ---晩秋の夕景

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
塚ノ杁池

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 名古屋市名東区にある猪高緑地(いたかりょくち)。その中にある一番大きな池、塚ノ杁池を訪れたのは去年の晩秋のことだった。
 ここは私にとって飛ぶトンボ撮りポイントのひとつで、夏シーズンに訪れることが多い。2016年は初夏の6月にも一度出向いている。この日訪れたのも、もしかしたらトンボの居残り組がいるんじゃないかと期待したからだった。しかし、すでに影も形もなく、トンボ・シーズンは完全に終わりを迎えていた。
 もう一つの目的は、塚ノ杁池の夕焼け風景を撮ることだった。考えてみると訪れるのは夏が多いから日没時間が遅く、ここで夕焼けを撮ったことが一度もない。いつもはめったに行かない東岸に回り込んでみたら西の方角に沈む夕陽を撮れるかもしれない。
 ただ、残念ながらそれは叶わなかった。夕陽が隠れて沈んでいくのが意外に早かったのと、この日は空が焼けなかったことで、まるでチャンスがなかった。
 そんなわけで狙いを夕焼けから夕暮れに変更した。太陽が沈み、空が暮れていくまで待って撮った。夕暮れの塚ノ杁池もなかなか悪くない。夜に訪れたら星空も撮れるかもしれない。



塚ノ杁池晩秋

 いつもトンボを撮っている南岸。
 このときはまだ渡りのカモの姿はなかった。
 ときどきカワセミも見かける。



塚ノ杁池風景




塚ノ杁池夕陽

 林の向こうに沈んでいく夕陽。
 北岸の土手から。



塚ノ杁池カイツブリ

 夕暮れ撮りのポジションをここに決めて待つことにした。



塚ノ杁池と飛行機




塚ノ杁池夕暮れ

 東岸でもポイントを探ってみたけどいいところは見つからなかった。


塚ノ杁池夕景

 冬になれば浮き草も消えて、水面はもっときれいな水鏡になるはずだ。
 空が焼ければここでも夕焼け水風景が撮れると思う。チャンスを求めてまた行くことにしたい。
 
【アクセス】
 ・地下鉄東山線「本郷駅」から徒歩約25分。
 ・無料駐車場 あり(夕方で閉まるので注意)
 

春日井市の小木田神社と貴船神社はセットらしいのだけど

神社仏閣(Shrines and temples)
小木田神社鳥居

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 愛知県春日井市の神社巡りをしているときに立ち寄ったふたつの神社、小木田神社(おぎたじんじゃ)と貴船神社(きふねじんじゃ)を紹介します。
 まずはJR中央本線春日井駅の北東にある小木田神社から。
 現在、神社がある小木田町の町名はこの神社から来ているのだけど、もともとこの辺り一帯は開田村と呼ばれていた(一時、小木田村の時代もあった)。尾張国篠木荘の一部で、小木田神社は開田村の鎮守として村民たちに崇敬されてきたという。
 石柱には郷社とある。近代社格については以前書いたことがあるけど、明治に入ってから定められたもので、官社と諸社(民社)に分けられ、伊勢の神宮は別格として、無格社もあった。諸社は府県社、郷社、村社とあり、郷社は村社より広い範囲の地域の代表といった位置づけの神社ということになる。
 現在の小木田神社は、街中にある中規模の神社といったたたずまいとなっている。かつてはもっと広い境内を持った大きな神社だったと思われる。
 創建はよく分かっていないようだ。奈良時代の719年創建という話もあるようだけど、それにしては「延喜式神名帳」には載っていない。
 江戸時代中期の1768年再建の棟札が見つかっているという。



小木田神社拝殿

 コンクリート造の拝殿は見た感じ新しい。昭和後期くらいのものだろうか。
 祭神はオオナムチ(大国主命)、スクナヒコナ(少彦名命)、スサノオ(須佐之男命)。
 この神社がどの系統の神社なのかよく分からない。小木田は地名なので手がかりにならない。祭神の顔ぶれからすると国津神系統なのだけど、主祭神はオオナムチなのかスサノオなのか。
 スクナヒコナは、オオナムチが出雲で国造りをするときに海の彼方からガガイモの実の殻に乗ってやってきた小さな神で、国造りで重要な役割を果たしたとされる。カミムスビの子供とも、タカミムスビの子供ともされているものの、その出自はややはっきりしないところがある。オオナムチ(オオクニヌシ)とセットのはずなのに、出雲大社では祀られていない。
 オオナムチは、スサノオの子供もしくは六世の孫とされる。
 スクナヒコナは、国造りの途中で、じゃあボクそろそろ行くよとどこかへ行ってしまう。あとに残されたオオナムチはやや途方に暮れる。
 この神社が本当に奈良時代あたりの古い創建なのかどうか。もうひとつつかみ所のない感じが残った。



小木田神社手水舎

 大きな岩を手水舎にしているのはいい感じなのだけど、残念ながら水が出ていなかった。



小木田神社境内社

 境内社がずらりと並ぶ。
 境外社だった荒神社や天神社などが合祀されている。

 この神社に伝わる棒の手は、八幡太郎義家が流祖の源氏天流で、愛知県の無形民族文化財に指定されている。
 尾張国瀬古村(名古屋市守山区)の村瀬七郎左右衛門に指導伝授されたものが伝わっているとされる。
 毎年秋の祭りで演舞が奉納される。

【アクセス】
 ・JR中央本線「春日井駅}から徒歩約12分。
 ・無料駐車場 たぶんあり
 ・拝観時間 終日



貴船神社鳥居

 続いて小木田神社から北西約300メートルほどのところにある貴船神社を訪ねた。
 もともと小木田神社の境外社として創建されたという。創建年は不明とのこと。
 小木田神社が男の神を祀る神社なのに対して、貴船神社はアマテラスを中心に女の神を祀る神社ということで対を為している。
 貴船神社というと京都の総本宮がよく知られている。祭神は水の神・タカオカミだ。
 こちらの貴船神社ではアマテラスとクラオカミが祀られている。
 ちょっとややこしいのは、タカオカミとクラオカミは対の神とされたり同一神であるとされたり対になった総称がオカミであるとかで、よく分からない。
 よく分からないといえば、どうして貴船神社でアマテラスを祀っているのかも謎だ。最初からそうだったのか、途中からそうなったのか。
 鳥居は小木田神社も貴船神社も神明鳥居と思わせて笠木の両端が斜めになっている。これが創建時から変わっていない形式なのかどうかの判断もつかない。



貴船神社由緒

 由緒が書かれた石盤の字が読みづらい。花崗岩(御影石)だろうか。石の地模様に文字が溶け込んでいる。



貴船神社拝殿




貴船神社拝殿と本殿




貴船神社本殿屋根




貴船神社境内社


【アクセス】
 ・JR中央本線「春日井駅}から徒歩約12分。
 ・無料駐車場 たぶんあり
 ・拝観時間 終日



関田町

 近くにあった関田天神社(せきだてんじんしゃ)。
 別の地区の会長が管理していたものを譲り受けて募金を募って鳥居などを新築したのが平成10年とのこと。
 こちらは明神鳥居だ。
 由緒などはよく分からない。
 

川のある風景 ~矢田川、庄内川

河川敷(River beach)
矢田川風景

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 他



 今日は矢田川、庄内川を中心に、川のある風景をお送りします。



矢田川夕焼け




庄内川午後




庄内川と名駅方面




矢田川河川敷風景




矢田川




矢田川少年たち




矢田川夕陽




矢田川上流




庄内川夕焼け




庄内川と満月

 

江戸と昭和の名残をとどめる百人町界隈の風景

名古屋(Nagoya)
百人町通り

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 名古屋市東区に百人町という町名の町がある。東京新宿の百人町が伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことから名付けられたように、名古屋の場合も百人組同心の住宅があったことからそう呼ばれるようになった。
 名古屋城から見て東に3キロほどいったところだ。より名古屋城に近い白壁・橦木町には禄高三百石クラスの中級武士の屋敷があり、百人町には禄高百石ほどの下級武士の屋敷が集まっていた。
 少し北にある徳川園は、尾張藩二代藩主の光友が隠居所として建てた大曽根屋敷があった場所だ。
 この場所に武家屋敷が集められたのは、東西の飯田街道と南北の善光寺街道が交差するあたりで、主に防衛を目的としていたとされている。わざと十字路をずらす枡形の道も現在にとどめている。
 名古屋城の城下町は名古屋城築城の際に作られた碁盤目状の人工の町だ。現在は城の南が官庁街に、東が住宅街になっている。
 名古屋の街は東京に比べて下町と呼べるようなところがわずかしか残ってない。主な要因は、名古屋大空襲だ。あまり一般的には知られていないことだけど、名古屋の街は建物面積の4割を空襲で失っている。戦前まで国宝だった名古屋城天守も焼夷弾で焼かれて燃え落ちた。
 そんな中、百人町の一帯は空襲で焼けずに残ったため、わずかながら下町の風情をとどめている。戦後に区画整理の対象にならなかったのか、いまどき珍しく家と家との間の細い路地など残っている。江戸時代の建物などはさすがにないものの、昭和をとどめるという点では名古屋でも貴重なエリアとなっている。
 以前に一度、隣の黒門町を歩いて写真を撮ったことがある。
 黒門町あたりの風景
 西隣の筒井町も昭和の色合いをとどめる商店街だ。
 時代に取り残された昭和の温もり ---筒井町商店街



百人町西交差点




百人町黒塀




百人町桔梗銭湯




百人町古い家屋




百人町路地




百人町木造家屋




百人町二階建




大松




百人町路地と煙突




百人町通

 名古屋城から東へ、名古屋市役所愛知県庁名古屋市市政資料館を通って白壁橦木町建中寺筒井町商店街を抜け、黒門町百人町を歩くというのは、なかなかな魅力的なコースだと思う。県外の方も、名古屋の方も、チャンスがあれば一度訪れてみてください。

【アクセス】
 ・地下鉄桜通線「車道駅」から徒歩約13分。
 ・JR中央本線「千種駅」から徒歩約18分。
 ・駐車場 なし
 

今年も森孝八劔神社へ初詣に行く

神社仏閣(Shrines and temples)
森孝八剱神社一の鳥居

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 今年の初詣は1月7日の松の内最終日に森孝八劔神社(もりたかやつるぎじんじゃ)でぎりぎりセーフ。初詣をどこの神社にしようか迷って、結局一番近所にしたのは去年と同じパターンだ。去年は大森八劔神社とのはしご初詣だった。
 松の内というのは、門松や松飾りを出しておく期間のことで、この間は家に年神様がいるとされる。その間に初詣をして、年賀状も書き終えておくのがいいといわれる。江戸時代にそういうことにしておこうと決まったらしい。
 ところで初詣の習慣が一般化したのはいつのことか知っているだろうか。なんとなく江戸時代くらいからじゃないのと思っている人も多いかもしれないけど、実際は明治時代の中頃からといわれている。伝統行事と呼ぶには少し新しすぎるかもしれない。それ以前は家長が大晦日から年明けにかけて土地の氏神を祀る神社に籠もる習慣があったのだとか。
 なにはともあれ、これで正月も終わったなと感じた。



八剱神社

 森孝の八剱神社は、大森八剱神社から、江戸時代後期の1826年に勧請して建てられたとされる。
 大森八剱神社は歴史が古く、平安遷都の前年、793年にこの地を支配していた豪族の山田連によって創建されたと伝わっている。
 その地は大森北八劔というのだけど、それが現在の地名でいうとどのあたりのことなのかちょっと分からない。その後、1796年に矢田川と天神川の合流地点、大森中ノ町田に移されたという。大森中央公園に石碑が残っているからそのあたりではないかと考えられている。現在地に移されたのは1927年(昭和2年)のことだった。矢田川も昔は何度も氾濫していたようだ。
 現在も町名として残る八剣は、八劔神社から来ているものと思われる。八劔神社の名前は、熱田神宮の別宮、八剣宮(はっけんぐう)に由来するというのだけど定かではない。
 別宮というのは本宮に次ぐ格式のある宮のことで、八剣宮は708年、熱田の剣をあらたに鋳造したときに創建された神社だという。「延喜式」には「愛智郡八剣神社」とある。
 大森八劔神社が八剣宮から直接勧請したとはいえないかもしれない。祀られている祭神が違う。八剣宮は熱田神宮本宮と同じ、熱田大神(あつたのおおかみ)、アマテラス、スサノオ、ヤマトタケル、ミヤズヒメ、タケイナダネに対し、大森八劔神社ではスサノオ、ヤマトタケル、天火明命(アメノホアカリ)を祀っている。スサノオとヤマトタケルは共通としても、勧請というなら熱田大神(あつたのおおかみ)は外せないのではないか。
 アメノホアカリは尾張氏の始祖とされていて、ニニギの兄とされる天孫系の神だ。尾張氏ゆかりの真清田神社尾張戸神社(おわりべじんじゃ)などで祀られている。山田連も尾張氏の一族ということで一緒に祀ったのか、あるいは中世の大森城主・尾関氏が祀ったとも考えられている。
 森孝八劔神社ではアメノホアカリが抜けて、スサノオとヤマトタケルが祀られている。

 全国的に見ると、八劔(八剣、八剱)神社は岐阜県に多い。ヤマトタケルが伊吹山で戦って負けたことと無関係ではなさそうだ。
 愛知県では一宮市に多い。東京や千葉あたりにも何社かるようだけど、関東以北にはないようだ。南は九州の福岡県に集中している。
 出雲や山陰地方にはほとんどないようだから、八岐大蛇とは関係ないのか。
 総本社がどこかは不明。発祥はどこなのだろう。名前は同じでも由来は別なのかもしれない。



八剱神社境内




八剱神社参道




八剱神社拝殿

 2008年に訪れたときは、拝殿がまだ古い木造のものだった。去年久々に行ってみると拝殿が真新しい白いコンクリート造になっていた。2010年に建て替えたらしい。
 以前、拝殿の横あたりにあった境内社が見当たらなかった。どこかに移したのだろうか。
 古い記録には御嶽社にオオナヌシとスクナヒコナを祀っているとあるから、その社が以前あった境内社だろうか。本殿横の社は津島社ではないかという。



八剱神社拝殿斜めから




八剱神社鎮守の森

 去年2016年に神社の公式webができて、ブログも書かれるようになったらしい。
 結婚式も行われるようだ。
 1月17日には左義長がある。
 例大祭は10月10日で、もち投げもあるそうだ。

【アクセス】
 ・地下鉄東山線「藤が丘駅」から徒歩約45分。
 ・名鉄バス「三軒家停留所」から徒歩約4分。
 ・拝観時間 終日
 ・駐車場 なし(路上)
 

新年明けても普通が一番サンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 今年最初のサンデー料理。そういえばまだ新年の挨拶をしていなかった。
 あめましておめでとうございます。もう8日か。
 新年最初くらいは正月らしい料理でもしようかと思ったのだけど、サンデー料理は季節やイベントに左右されず普通が一番だろうということで思い直していつもの料理にした。今回は和寄りなスタンダード・サンデーだ。
 皿も盛りつけも背伸びせずにこのまま変わらず続けていけばいいと居直ることにした。変われないのならいっそのこと徹底的に変わらないことの方が価値が出る。10年以上変わらない料理を作ってきたのだから、それが20年になろうが30年になろうがたいした違いはない。50年変わらず続けばそれはちょっとしたものだけど。
 そんなわけで、今年もマイペース・サンデーでいこうと思う。



いつものマグロ

「いつものマグロ」
 表面をオリーブオイルで焼くパターン。
 魚焼きグリルと、フライパンと、鍋で煮るのと、この場合、どの調理法が一番美味しいのだろう。手間はかかるけど、今度切り身ごとに違う調理をして食べ比べてみよう。



豆腐とこんにゃく

「豆腐とコンニャクとゆで卵のダシ味噌煮」
 ダシを効かせた味噌ダレで煮込む味噌おでん風の煮物。
 田楽にしようかと思ったのだけど、気分でこちらにしておいた。



エビケチャップ

「エビのケチャップ炒め」
 エビチリっぽいけど、簡易版で手間はかかっていない。
 下処理をしたエビに塩、コショウ、酒を振って揉む。
 水で洗って水気を拭く。
 ビニール袋にカタクリ粉と一緒に入れて粉をまぶす。
 ごま油でざっと炒めて、いったん取り出す。
 刻んだタマネギを炒める。
 エビを戻して、酒、みりん、しょう油、豆板醤、鶏ガラだし、塩、ケチャップ、水で味付けをする。
 

大永寺と山田重忠に関する混乱気味の考察

神社仏閣(Shrines and temples)
大永寺鐘楼門

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 昨日今日と、縁もゆかりもないはずの山田重忠を中心とする山田氏のことが気になって頭から離れない。長母寺、長父寺(大永寺)、長兄寺(長慶寺)と3寺コンプリートしたことで関係者を肩に乗せて連れてきてしまったのかもしれない。しばらく前から背中に鈍痛を感じるのは気のせいと思いたい。
 今回紹介するのは長父寺に当たるとされる大永寺だ。地名にもなっているから守山区周辺の人にとってはそれなりに馴染みがあるだろうか。
 現状、山田重忠に関して、私の頭はひどく混乱している。主な要因は、父母兄を弔うために建てたとされる寺に関する年代のつじつまが合わないせいだ。昨日も書いたのだけど、長慶寺の創建年がはっきりしないというのがまずある。建長年間(1249年-1256年)では明らかに遅すぎるし、南山和尚(1254年-1335年)が開山したという話とも矛盾する。
 他のふたつの寺は、長母寺(母)が1179年で、大永寺(父)が1190年という。重忠の生まれは不明ながら承久の乱で戦死しているので没年は1221年だ。そのとき50代だったという。一緒に連れていった孫の兼継が14歳だったというから、結婚が早かったこの時代としては妥当なところだろう。
 一見おかしなことはないように思うけど、母の寺から父の寺までの間に11年間あることをどう思うべきなのか。父の重満は、1181年に起きた墨俣川の戦い(源行家と平家軍の戦い)に行家軍として参加して討ち死にしている。重忠の兄・重義も同じく戦死した。
 父を弔うためとされる寺を父の死後9年近く経ってから建てたというのはやや遅すぎないだろうか。母親は若死にだったのか、父の戦死の2年前に寺ができている。父と一緒に戦死した兄の寺は同時進行とは考えにくいから、その数年後ということになるだろう。
 重忠の生まれ年が1165年とか1168年だとすると(没年の1221年時点で50代と仮定して)、今度は母の寺の1179年というのは逆に早すぎることになる。その頃の重忠はまだ10代前半だ。それに、父が健在のときに父を飛び越えて母親を弔うための寺を年若い息子が創建できるだろうかというのがある。
 これらの矛盾というかつじつまが合わない年数をどう理解すればいいのか分からず混乱しているというのが現状の私なのだ。単に寺の創建年数が間違って伝わっているだけかもしれないし、3寺全部を重忠が建てたわけではないということかもしれない。
 重忠は南区にあった星崎城の城主だったと伝わっている。築城したのは1180年前後(1177-1181年)だという。これも1165年生まれではやや無理がある。もしかすると生まれた年はもっと早い1160年代前半か1150年代終わりで、戦死したときは60代だったのだろうか。若くして父親をなくして家督を継ぐという例はたくさんあっても、父親や兄が存命中の10代の次男坊が城を築城したり寺を建てたりといった例があるのかどうか。
 星崎城があったとされるのは、南区本星崎町(現在、笠寺小学校があるあたり)で、重忠が生まれたと伝わる北区山田(山田幼稚園のあるあたり)からは直線距離で12キロほど離れている。この位置関係についても今ひとつ理解できない。どういう経緯で南区に星崎城を築城して、どうして寺を建てたのが守山区だったのかも。
 星崎城があった近くに現在も残る光照寺は重忠が建てたとされる寺のひとつだ。おそらく星崎城主時代のものだろう。城造りと平行したものだったとしたら1179年の長母寺よりも先だっただろうか。
 1185年、壇ノ浦の戦いで平氏を破った源氏の棟梁・源頼朝は、守護・地頭を置く権利を後白河法皇に認めさせる。これをもって鎌倉幕府成立とするのが最近の定説になりつつある(イイハコ作ろう鎌倉幕府)。このとき、重忠は尾張国山田荘の地頭に任じられて御家人となっている。
 これを機に星崎城から移ったとして、移住先がどこだったのかが分からない。生まれたとされる北区山田の邸宅は、このとき移り住んで拠点とした屋敷という可能性もある。
 だとすれば、守山に寺を建てたのは1185年から戦死する1221年までの間と考えた方がつじつまが合う気がするけどどうなんだろう。長母寺の1179年というのは動かないのだろうか。
 御家人時代の重忠が山田荘でどんな暮らしをしていたかは分からない。戦のない平和な世の中を喜んでいただろうか。
 しかし、1221年、源頼朝の血統が三代で途絶えて弱体化した鎌倉幕府を倒すべく後鳥羽上皇が挙兵すると、重忠もそれに応じてはせ参じた。恩義があるはずの幕府側ではなく朝廷側についたのはどんな理由からだったのだろう。14歳の孫まで連れていっているところを見ると討ち死に覚悟ではなく重忠なりの勝算があってのことだっただろうか。

 私自身が整理できていないまま書いているので読んでいる人も上手く理解できないと思う。今のままでは全然納得できないから、もう少し理解を深めるためにも近いうちに重忠の屋敷があったとされる北区山田を訪ねてみようと思う。できればそこで肩の荷を降ろしたい。
 山田氏を知るためには、少なくとも重忠の祖父・浦野重直、その父の源重遠までさかのぼる必要がありそうだ。
 以下、大永寺について簡単に紹介しておきたい。



大永寺本堂

 1190年、山田重忠が小幡に建てた寿昌院が始まりとされる。
 その後、戦火で焼けて衰退していたものを、1521年に重忠の末裔で小幡城主(または星崎城主)の岡田重頼が再興して寿昌院大永寺とした。
 小幡から現在地に移ってきたのは江戸時代前期の1617年で、岡田善同が名古屋城築城の際に余った木材で再建したとされる。
 このとき近くにある大永寺熊野社も創建されたとのことだ。
 1891年の濃尾地震で倒壊。第二次大戦の空襲で焼失。
 最盛期は末寺12を持つ寺になっていたという。
 本尊は源信(恵心僧都)が彫ったと伝わる釈迦如来像。



大永寺本堂屋根




大永寺本堂屋根裏から




大永寺本堂屋根とうろこ雲




大永寺鐘楼

 現在の本堂その他は平成8年に建て直されたものとのことだ。その中で唯一残っている古いものがこの鐘楼だ。現在は鐘楼としては使われておらず、鐘は鐘楼門に移されている。



大永寺犬槇

 境内には樹齢400年近い犬槇(イヌマキ)と樹齢500年近い羅漢槇(ラカンマキ)の木がある。
 鐘楼門前にはしだれ桜もある。



大永寺ラカンマキ




大永寺屋根

 現時点で断定的なことは書けないのだけど想像を交えて考えると、これらの3寺は、重忠が創建したとしても父や母を弔うとは別の目的で建てられたものだったのかもしれない。隠された理由があったとかよりも、後の時代の人々が重忠をたたえる美談として伝えたというのは考えられることではないだろうか。
 いずれにしても山田氏問題はもう少し尾を引くことになりそうだ。すっきりしないけど仕方がない。
 
【アクセス】
 ・ゆとりーとライン「川宮」から徒歩約9分。
 ・無料駐車場(このときは閉じられていた)
 ・拝観時間 不明(夜は門が閉まるかどうか分からない)
 

守山区の長慶寺はいずれにしても山田氏が建てた寺

神社仏閣(Shrines and temples)
長慶寺入り口

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 名古屋市守山区小幡中にある長慶寺(ちょうけいじ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武人で御家人の山田重忠が建てた寺のひとつとされる。母のための長母寺、父のための長父寺、兄のための長兄寺がそうだということは長母寺を紹介したときに書いた。
 長母寺はカッコイイ禅寺だと思う
 長兄寺は字を変えて長慶寺に、長父寺は名を改めて大永寺になったという。
 一方、寺伝によると山田重忠の孫に当たる山田兼継を弔うために弟の正親が建長年間(1249年-1256年)に創建したとなっているそうだ。
 どちらが本当なのか分からないし、どちらも正しくないのかもしれない。というのも、開山したという南山和尚(南山士雲)が生まれたのが1254年とされているからだ(1335年没)。建長年最後の年1256年としても年代が合わない。
 山田重忠が創建したとなると開山が南山和尚ということはあり得ない。重忠の生年は不明ながら(1165年?)没年は1221年と分かっている。
 山田重忠が創建したという話は、尾張藩最初の地誌『張州府志』(1752年)に出てくる(のちに改訂版ともいえる『尾張志』1844年が編さんされる)。500年も経ってから書かれたものだから間違いや混乱があっても仕方がないことではある。ただ、話としては山田重忠が父母兄を思って三つの寺を作ったという方が収まりがいい。山田重忠という人は信心深い人でこれ以外にもいくつかの寺を建てているから、あれもこれも重忠さんが建てたことになってしまっているというのはあるかもしれない。
 いずれにしても山田氏が建てた寺ということは間違いなさそうだ。

 山田重忠についてはあらためてどこかで書くとして、山田兼継(かねつぐ)と南山和尚について少し補足しておく。
 生まれは1208年頃。重継の長男。
 1221年、後鳥羽上皇が倒幕を目指して挙兵した(承久の乱)のに応じた祖父・重忠、父・重継に従って14歳ながら戦に参戦。
 しかし負け戦となり、重忠は自害、重継は幕府側によって殺され、捕まった兼継は越後国に流された。
 7年後に許されたのち出家して僧として一生を送った。
 この山田兼継の没年さえ分かれば長慶寺の創建年もはっきりするのだろうけど、それが分からないのが混乱を生んだ一因になっている。

 南山士雲。生まれは遠江で、幼くして京都の東福寺で修行して、長慶寺を開山。
 のちに鎌倉の建長寺、京都の東福寺などに移る。
 無縫塔が本堂裏手に建てられている。



長慶寺山門前参道

 少し南から見たところ。かつてこの道は山門へと続く参道だったと思われる。おそらく、旧瀬戸街道から続いていたのだろう。
 現在は道沿いに民家が建ち並んでいる。



長慶禅寺

 松栄山長慶寺だと思っていたら、山門前の石柱には榮松霊山 長慶禅寺とある。松栄山ではなく栄松山が正しいのか。
 山門が閉じていて入れないのかと思いきや、脇が開いていて入ることができた。



長慶寺本堂

 臨済宗東福寺派。
 日本における臨済宗の開祖は栄西(1141年-1215年)とされる。京都五山、鎌倉五山はどこも臨済宗だ。
 東福寺派は、1235年に宋に渡って1241年に帰国した円爾(えんに)により始まる。開山の南山和尚は円爾に教えを受けたとされる。
 大本山は京都東山の東福寺
 長母寺は天台宗の寺として創建され、のちに臨済宗東福寺派となった。
 本尊は聖観世音菩薩。



長慶寺本堂屋根

 寺の本堂の屋根が好きだ。いい屋根を見ると屋根だけ撮りたくなる。



長慶寺擬宝珠

 本堂は新しいけど、擬宝珠(ぎぼし)は古そうだ。以前のものを流用したのかもしれない。
 擬宝珠の起源にはいくつか説があって、主な説として仏教の宝珠説と葱坊主説がある。
 釈迦の骨壺である舎利壺の形に似ているところから来ているというのが仏教由来説。
 ネギ坊主に形が似ていることから葱帽子の読みに擬宝珠という字を当てたというのが葱坊主説。ちょっと無理があるか。ネギの臭みが魔除けになると信じられていたという話がある。
 古くは伊勢の神宮の正殿の高欄に飾られた五色の宝珠が元になったという話もある。この大元を辿ればおそらく中国に辿り着く。古代仏教の聖地インドまでさかのぼれるかもしれない。古い中国の絵に宝珠らしきものが描かれているという。
 伊勢の神宮が現在のような社殿を持つ宮になったのは持統天皇(在位690年-697年)の時代だと考えられている。その頃には当然中国大陸や朝鮮半島から仏教関連のあれこれが入ってきているから、宝珠のルーツを仏教思想に見ることは可能だろう。
 日本で初めて擬宝珠、もしくはそれらしきものが登場するのは奈良の平城京にあった二条大橋だという。当初は朝廷関連の建物でしか使えなかったらしい。
 現存する古いものとしては、伊勢の神宮内宮にある風日宮橋の欄干のものがある。1498年の銘が彫られている。厳島神社のものは1546年で、京都の宇治橋は1636年。こうして見てみると、擬宝珠が一般的なものとなったのはそれほど古い時代というわけではなさそうだ。あちこちで作られるようになるのは室町時代以降だっただろうか。



長慶寺紋

 屋根瓦の紋は寺の紋だろうか。
 紋というと山田氏の紋が丸に八で、現在名古屋市の市章となっている丸八のルーツがそこにあるという説がある。名古屋市の市章は明治40年に定められたもので、尾張徳川家が目印として使っていた合印が元になったとされている。それを辿ると山田氏の家紋にルーツがあるというのだ。これも諸説あって実際のところは分からない。
 山田氏は清和源氏満政流の流れをくむ源氏の家系だ。源氏で八というと鶴岡八幡宮の額の鳩をかたどった八の字を思い浮かべる。八幡宮の八でもあり、鳩は八幡宮の神の使いとされている。
 こじつけかもしれないけど、源氏の八と山田氏と尾張徳川家と名古屋がどこかでつながっているというのはまんざらでたらめでもない気がする。



長慶寺山門屋根

 この話は大永寺編へとつづく。
 

長久手前熊の多度神社は本当に多度神社だったのか

神社仏閣(Shrines and temples)
前熊多度神社

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 愛知県長久手市の前熊にある多度神社を訪ねたのは、去年2016年の6月だった。なので、今年の初詣に行ったわけではない。
 香流川沿いを通ってモリコロパークへ行くときに横を通るから一度や二度は行ってブログにも書いたつもりでいたら、まだ行ったことがなかった。ちゃんと参拝して写真を撮ったまではよかったのだけど、半年も放置してしまっていた。
 行ったつもりになっていた理由として、同じ長久手市の神門前にある神明社に社殿などが似ているせいもあるかもしれない。少し変わった造りになっていて、それがよく似ている。二つの社殿建築を手がけたところが同じなのだろうか。
 前熊の多度神社に関しては、創建年も由緒もよく分かっておらず、資料もほとんどないようだから、書くことがあまりない。創建は江戸時代ではないかと予想はするけど、それも想像でしかない。
 この神社について書くことがあるとすれば二つ。一つは天王祭りで、もう一つは入り口の鳥居についてだ。



多度神社鳥居

 入り口の鳥居は明神鳥居で、江戸時代前期の1661年に建立されたと記録に残っている。愛知県内で江戸時代前期の石造鳥居が残っているところは少ない。
 けど、どうして明神鳥居なのだろうという疑問を抱く。多度大社の祭神はアマツヒコネ(天津彦根命)で、アマテラスの子供なので神明系に属しているはずだ。多度大社の鳥居は神明鳥居だし、尾張旭市にある多度神社もそうだった。他の多度神社でも明神鳥居のところはあるのだろうか。あるいは、創建時は多度神社ではなかったという可能性も考えられるか。
 そのあたりについても、今後何か分かれば追記したいと思う。



多度神社社殿

 ここ前熊多度神社の祭神はアマツヒコネではなく、その子供の天目一箇神(アメノマヒトツ)が祀られているのではないかという。その根拠はよく分からない。
 天目一箇神は、多度大社の別宮・一目連神社で祀られている一目連(いちもくれん、ひとつめのむらじ)と同一神だとか違うとか、ややはっきりしないところがある。
『日本書紀』などでは鍛冶を担当している場面がよく描かれていることから、鍛冶や製鉄の神という位置づけだ。長久手のこの辺りで鍛冶の神様を祀るというのはどういう経緯からだったのだろう。何故アマツヒコネではなくアメノマヒトツだったのか。明神鳥居であることを考え合わせると、何か事情がありそうではある。



多度神社神楽殿




多度神社神楽殿拝殿




多度神社社殿を斜めから見る




多度神社林




多度神社境内

 書くべきもう一つ、天王祭りについて。
 合祀されている津島神社(天王社)の祭りで、毎年7月、山車を曳いて町内を練り歩く。
 この山車はけっこう古いもののようで、古出来町の東之切から譲り受けたとか、大森八剱神社から購入したなどの話があるようだけど、はっきりしたことは分かっていないようだ。
 大正時代までは近くの前熊寺の境内にあった天王社の祭りの際に曳かれていたそうだ。歴史は400年近くになるという。
 10月には警固祭りが行われ、多度神社の辺りも通る。
 警固祭りも同じくらいの歴史があるもので、この地方特有のものだ。馬の背に標具(ダシ)を乗せて飾ったオマント(馬の塔)を中心に、それを守る鉄砲隊や棒隊が列を作って練り歩く。その途中、神社などで鉄砲隊が火縄銃を発砲し、棒隊は棒の手を奉納する。
 以前に一度、尾張旭市の渋川神社で棒の手を見たことがある。いくつかの保存会が作られていて、秋祭りではあちこちで奉納されている。ただ、去年長久手で大きな事故があったから、今後どうなっていくのか少し心配だ。

 これで長久手の主立った神社はすべて紹介したように思う。式内社とされる石作神社や、神仏習合の名残が色濃い岩作御嶽神社など、印象に残る神社がいくつかあった。

【アクセス】
 ・リニモ「公園西駅」から徒歩約30分
 ・リニモ「芸大通駅」からNバスに乗って前寺公民館停留所下車。
 ・無料駐車場 駐車スペースあり
 ・拝観時間 終日
 

モノクロームの風景

モノクロ(Monochrome)
冬木

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 他



 新年明けて三が日も終わってしまった。生活もブログもそろそろ平常通りに戻さないといけないと思いつつ、今年はまだ本格的に撮りにいっていないから新鮮な写真がない。今日も引き続き去年の在庫からモノクローム風景をお送りします。



差し込む光




古い住宅




途切れたひこうき雲




池のさざ波




桜の枯れ葉落ち葉




破れた手紙




光と壁の表情




割れたプラスチック




水たまり




半月




水面の木々

 

定点観測写真

日常写真(Everyday life)
定点観測1

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 他



 今日は定点観測写真をお送りします。
 今回は2点の観測ポイントから。
 こうして並べてみるとけっこう変化があって面白い。定点観測ポイントを増やして、もっと頻繁に撮ることにしよう。毎回のようにここから撮ってるから今日はやめておこうと思って撮らないことがけっこうあるから、それはもったいない。今後シリーズ化していきたい。



定点観測2




定点観測3




定点観測4




定点観測5




定点観測6




定点観測7




定点観測8




定点観測9




定点観測10




定点観測11




定点観測12

 

名古屋のちょっといいところ巡りモデルコース

名古屋(Nagoya)
名駅ビル




 他県の人から見て名古屋の街に魅力がないと感じるのは、名古屋のことをよく知らないことが一番の要因だと思う。それは知ろうとしない側よりも知ってもらおうという努力が足りない名古屋側に責任があるかもしれない。
 確かに、東京、大阪、京都のように見所満載とはいかないし、札幌や博多や横浜なんかに比べてメジャーな観光スポットが少ないということはある。ただ、名古屋も細かいところを見ていけば面白い場所はたくさんあるわけで、そういうところをもっと積極的に情報発信していけば、もう少し名古屋について興味を持ってもらえるんじゃないかと思うけどどうだろう。訪れるかどうかは個人の判断として、まずは知ってもらわなければ始まらない。

 たとえば、写真を撮るという目的で名古屋にやってきた男女を私が案内すると考えたとき、名古屋城やテレビ塔や東山動物園なんかに連れていっても面白くない。ひとつのモデルコースとしてこんなものを提案してみる。
 まずは四間道。江戸時代から続く風景は名古屋では貴重だ。
 続いて円頓寺商店街。名古屋の古きよき商店街の風情を楽しむことができる。
 更にそのまま歩いて明道町の駄菓子屋問屋街。名古屋でもかなりマニアックなディープ・スポットだ。
 お昼は名古屋めしでもいいのだけど、何か買ってノリタケの森でのんびり食べてもいい。
 午後は古い町並みが好きなら、有松中小田井があるし、建物好きなら白壁で川上貞奴邸豊田佐助邸へ行くのもありだ。
 熱田神宮をはじめとした神社巡りコースや八事興正寺などのお寺巡りコースでも行く場所に事欠かない。
 夕景は名古屋港も捨てがたいけど、個人的には向野橋から撮る鉄道と名駅風景をおすすめしたい。
 夜景まで撮る時間があるなら、ルーセントアベニューを撮ってからミッドランドスクエア展望台へ行くのがいい。
 夜の別コースとして、潮見から見る工場夜景や、潮見ジャンクション、清洲ジャンクション、黒川ジャンクション楠ジャンクションなどのジャンクションめぐりなんてコースも考えられる。

 今回は写真を撮るならという観点から選んだひとつのコースで、まだまだ他にも見所、撮り所はあるし、家族連れなら家族連れ用のコース設定もできる。
 名古屋は見るところが何もないとは思わない。リニア・鉄道館に続いて、今年の4月にはレゴランドもオープンするし、キッザニアができるという話もある。
 リニアの東京-名古屋間の開業予定が10年後の2027年。
 名古屋にすごくいいところはなくても、ちょっといいところならたくさんある。写真を通じてそういう場所の魅力を伝えていければいいなと思っている。

 今日は名古屋の風景をお送りします。



名古屋城

 名古屋城天守



堀川

 堀川の風景



五条橋

 堀川に架かる五条橋



黒川樋門

 黒川樋門(くろかわひもん)。
 庄内川から黒川(堀川)に水を引き入れるために作られた樋門。水路は矢田川の地下を通っている。



虹の塔

 平和公園にある虹の塔
 中にステンドグラスがはめ込まれていて、差し込む光が七色に見える



東山スカイタワー

 東山スカイタワー



ゆとりーとライン

 ゆとりーとライン
 名古屋ガイドウェイバス。専用軌道を持つ半自動運転のバス。渋滞や遅れ知らず。



東山観覧車

 東山動物園にある観覧車



金城学院

 金城学院大学



ザ・シーン城北

 ザ・シーン城北
 名古屋で最初にできたタワーマンション(1996年)。高さ160メートルは現在でも名古屋で二番目に高い(一番は熱田区にあるザ・ライオンズ ミッドキャピタルタワー)。



オアシス21

 オアシス21テレビ塔
 
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