
名古屋市北区山田の
山田幼稚園前に「山田重忠舊里」という碑が建っている。
山田天満宮から北へ150メートルほど行ったあたりだ。
園児にとってもその親にとってもなんのことだかでまるで興味がないという人がほとんどだろうけど、ときどき明らかに園児の親とは思えない人物がやってきて写真を撮っていくことを不審に思っている人はいるかもしれない。そもそも、舊里を読めず意味が分からないという人が大多数ではないだろうか。私も読めなかった。
舊は旧の旧字体で、旧里、つまり山田重忠がかつてここで暮らしていたということだ。なるほど、あの山田重忠が! となる人もまた限られるに違いない。ほとんどの名古屋人、愛知県民にとってさえ山田重忠はすでに忘れられたも同然の存在になっているからだ。
戦国時代の人ならまだしも、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した地方の一武将についてよく知っているという人はあまりいないだろう。このブログで最近、たびたび登場しているから多少は興味を持つようになったという方も少しはいるだろうか。大永寺を紹介したときにある程度書いたものの、いろいろはっきりしないことがあって私の中でもやもやが残った。
大永寺と山田重忠に関する混乱気味の考察 山田重忠の屋敷跡が残っているなら、そこを訪ねてみれば直接的な手がかりは得られなくても何かしら感じるところや思うところがあってヒントをもらえるのではないかと思い、出向いてみることにしたのだった。

山田二郎重忠について知るには、まず鎌倉幕府成立前後と承久の乱までの流れを把握しておく必要がある。
守山郷土史研究会『もりやま 第五号』に田辺爵が寄稿した文章によると、1221年の承久の乱で自刃して果てた重忠は、そのとき56歳だったという。おそらく数え年だろうから、逆算すると生まれは1165年か1166年ということになるだろうか。これが正しいなら、母のために建てた長母寺の創建年が1179年というのは間違いということになる。
ついでに書くと、星崎城を築城したとされるのが1177年-1181年の間というのだけど、これもやはり無理がある。重忠が地頭に任命された1185年以降ではないか。
少しさかのぼって1181年。治承・寿永の乱で、重忠の父・重満は美濃の墨俣川(墨股川)において平重衡(しげひら/平清盛の五男)との戦いに敗れて戦死している。45歳だったとされる。
1183年、重忠初陣。18歳。木曾義仲に従って、北越から京へ進撃。京では京中守護の任を与えられたという。
平安時代から鎌倉時代にかけて元服(成人)は12-16歳くらいだったとされる。重忠の初陣が18歳だったというのはやや遅いと感じるけどどうなのだろう。2年前に父や兄に従って初陣を飾っていたとしてもおかしくはない。そのときは16歳になっていたはずだ。ただ、一緒に戦に出ていたら兄の重義ともども討ち取られていた可能性が高かったわけで、そういうことも考えて次男は置いていったということかもしれない。
木曾義仲は倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破るなど活躍するも、京都ではすこぶる評判が悪く、後白河法皇と敵対するなどもあって源頼朝が派遣した源範頼・義経との粟津の戦いで討たれてしまう。1184年のことだ。
重忠は投降。頼朝勢に恭順の意を示して許されることになるのだけど、最初は木曾義仲に従っていたということがひとつキーになるような気がする。初めから頼朝と共にあったわけではないという点に。
1185年。壇ノ浦の戦いにて平家滅亡(完全に滅んだわけではない)。実質的な鎌倉幕府はこのとき成立したとされる。全国に守護地頭を置く権利を後白河法皇に認めさせたことがその根拠となっている。
父と兄を失って山田家の家督を継いでいた重忠は、尾張国山田荘の地頭に任命され、御家人となった。
奈良時代から平安時代にかけて、このあたりは東大寺の荘園だった。荘園というのは非常にややこしいのだけど、簡単にいうと地方における私有農地のようなものだ。貴族や有力寺社が支配する土地ともいえるだろうか(朝廷が支配している土地は公領)。そこへ鎌倉幕府が勝手に守護やら地頭やらを送り込んできたから元の支配者はたまったもんじゃない。地頭は荘園を管理する役職で、年貢の取り立ても行う。農民にとっては二重に税を持っていかれることにもなる。
守護は軍事担当責任者といった役割で、地頭を監督するのも任務だった。戦国時代の守護大名はここに端を発している。
尾張国山田郡の名称は、この山田荘があったことに由来する。現在の地名の山田は山田郡からきている。
山田氏のルーツは清和源氏系とされる。清和源氏満政流八島氏の一族である源重実を祖とするという。
重忠の父が重満、その父が浦野重直で、もともとは美濃あたりを拠点としていたらしい。重直の代に尾張国山田郡に移ってきて、名前を山田氏に変えたとされる。あるいは、尾張国春日井郡浦野に所領があったことから浦野氏を称していたともいう。
更にその父が源重遠(みなもと の しげとお)で、この重遠が尾張源氏の祖とされている。重遠のときに、美濃から尾張国浦野に移住したという話もある。
清和源氏満政流の満政は、源経基の第二子に当たる。その父が清和天皇の第6皇子・貞純親王だ。
源氏や平氏というと根っからの武士と思いがちだけど、元を辿ると天皇に行きつく。跡を継げない息子たちをそれぞれ独立させて武家としたことが始まりで、桓武天皇が平安京に都を移したのちに行われるようになったとされる。
源氏だとか平氏だとかの氏にこだわるのは天皇の血を引く家系であることを意味しているからだ。単に有力豪族とか名門だとかそういった話ではない。源氏や平氏が他の家と決定的に違う理由がそこにある。古い既成概念が壊れつつあった戦国時代でさえそうで、源氏の流れをくむ今川や武田などは名門の誇りを持っていたし、そうではない信長や家康は平氏や源氏を名乗ろうとした。
1199年。頼朝死去。53歳。落馬したことが原因ともされるが、はっきりした死因は分からない。暗殺されたという説もある。
嫡子の頼家はそのとき18歳。実際の政治は北条氏が行うことになる。
この北条氏、実は源氏ではない。桓武平氏高望流の平直方を始祖とする平氏だ。ここにものちに重忠の行動を決定づける一つのキーがある。
1203年。22歳の頼家は、重病に陥ったという名目で修禅寺へ幽閉されてしまう。
変わって三代将軍になったのは、まだ12歳だった弟(頼朝の四男)の実朝だった。当然、政治を行うことはできず、将軍補佐役の執権職に就いた北条時政が実権を握ることになる。
翌1204年。頼家死去。これも暗殺だったというのが有力な説だ。
このあと、あれやこれや権力争いが起こり、1219年、将軍・実朝が暗殺されてしまう。実朝は28歳になっていたものの、実子がなく、ここに頼朝の血筋は途絶え、鎌倉幕府は源氏から北条氏のものへと移っていくことになる。あらたな将軍を朝廷から迎えようとして断られ、藤原摂関家から迎えられることになるのだけど、それはお飾りに過ぎなかった。
鎌倉でそんなゴタゴタが起きている間、重忠とその一族は尾張の山田荘で何をしていたかといえば、たぶんわりと平和で穏やかな日々を過ごしていたのではないかと思われる。地頭として山田荘に入ってから30数年という歳月を思えば、何事もなかったはずはないけれど。
拠点は星崎城だったのか、山田の屋敷だったのか、くわしいことは分からない。あちこちに寺を建てたりしたのもこの時期だったはずだ。幕府の地頭でありながら京で後鳥羽上皇の近くに仕えていたという話もある。もともと八島氏一門は伝統的に朝廷との繋がりが深い勤皇派だったとされる。
ただ、鎌倉の情勢に無関心だったはずはなく、逐一報告を受けて状況を把握していたに違いない。50を過ぎていたとはいえ、いまだ武将としての気概のようなものは失われていなかったのだろう。
実朝暗殺から2年後の1221年。幕府から朝廷に政権を取り戻すべく後鳥羽上皇が討幕のために挙兵すると、重忠はいち早く呼応し、一族ともども朝廷側への参戦を決めている。後の世にいう承久の乱だ。
何故、幕府の御家人だった重忠が幕府側ではなく朝廷側についたのだろうと考えたとき、単に勤皇派だったからではなく、鎌倉幕府の実権が源氏から平氏の北条に移ったことが大きな理由だったかもしれない。後鳥羽上皇に対する忠誠心よりも、北条討つべしという思いの方が強かったのではないか。
あるいは、ようやく訪れた人生最後になるかもしれない大きな戦に心躍って後先考えずに戦に突っ込んでいってしまったということもあっただろうか。それにしても、50代半ばといえば当時ではけっこうな高齢で、隠居している歳だ。それが孫まで連れて最前線で戦うことになるのだから尋常ではない。よほどの決意と胸に秘めた思いがあったのだろう。
北条を倒したあとの展望が重忠の中にどこまであったのかは分からない。幕府をもう一度源氏の手に取り戻すくらいの思いはあっただろうか。もしかすると重忠は朝廷側の勝ち戦だと少々軽く考えていたかもしれない。後鳥羽上皇もそう思っていたらしいところがある。いくら実権は鎌倉にあるとはいえ、朝廷と戦うとなればそれは朝敵だ。朝廷軍として参戦しないまでも多くの武将は幕府側にはつかないと踏んでいただろう。実際、大和、美濃、尾張などの武士たちが立ち上がり朝廷軍となり、それを見た各地の御家人たちも朝廷側につく動きを見せ始めた。
しかしここで登場したのが尼将軍と呼ばれた頼朝の妻だった北条政子だ。おまえたち、苦労してやっと武家の世の中を作ったではないか。また朝廷支配の時代に逆戻りしたいのか。頼朝様に受けた恩をなんと考えると演説をぶった(のちの脚色もある)。
形勢はたちまち逆転し、御家人たちは我もわれもと幕府側につき、幕府軍の数は最終的に19万人にもなったといわれている。
北条義時の嫡男・泰時を総大将にした幕府軍は、途中で兵を増やしながら鎌倉から京に向けて三方から進軍した。
対する朝廷軍は藤原秀康を総大将に1万7500を美濃と尾張の間を流れる尾張川に布陣させて迎え撃つも、数に勝る幕府軍にあっけなく敗北。このままでは持たないと判断した藤原秀康、三浦胤義らは、最終防衛ラインと決めた宇治・瀬田まで引いて再布陣することにした。
結果論ではあるけど、少ない兵を分散させてしまったのはまずかった。幕府軍の体勢が整う前に全員集結させて鎌倉に先制攻撃をかけていたら、その後の展開は違ったものになっていたかもしれない。
重忠はまず木曽川の墨股を守るべく布陣した。しかし、幕府の主力軍10万が攻めてきたので杭瀬川までいったん引いた。そこで善戦するも破れ、瀬田川まで落ちて奮闘したものの再び敗れ、京の宇治川で三度敗れることになる。
藤原秀康、三浦胤義たちも同じく幕府軍に敗北し、院の御所・高陽院(かやのいん)に集結した。しかし、門は閉ざされ後鳥羽上皇は無視を決め込む。出てこないどころか中に入れてもくれない。
幕府軍が一気に京に押し寄せてきたことを知った後鳥羽上皇は保身に走った。実はあのお触れは配下にそそのかされたもので自分の意志ではないのだ。だから取り消すと。ついでに藤原秀康や三浦胤義はけしからんから逮捕するようにという命まで下した。
突然、朝廷からも幕府からも追われる身となった重忠は、藤原秀康、三浦胤義とともに東寺に立てこもって最後の抵抗を試みる。しかし、ここでも敗走。三浦胤義は自害。藤原秀康は河内国で幕府軍に捕まって捕虜となった。
重忠は落ちた先の嵯峨般若寺山で自刃したという。
一緒に戦いに加わっていた息子の重継も捕らえられて殺された。孫の兼継は14歳ということもあって殺されずに越後国に流された。
後鳥羽上皇はといえば、苦しすぎる言い訳で許されるはずもなく、かといって命を奪うことはできないので隠岐島に流されることになった。それでもそこで1239年まで生きた。

碑が建っている足元に瓦が埋め込まれている。まさか鎌倉時代のものでもないだろうけど、山田重忠の屋敷に関わりがあるものなのだろうか。
重忠の碑の他に名古屋十名所の碑が建っている。
大正13年(1924年)に、中日新聞の前身・新愛知新聞社が選んだもので、熱田神宮や名古屋城と並んで山田元大将之社が入っている。名所というからには大正時代までは確かに山田重忠屋敷にまつわる何らかの建物があったということだ。戦前までは後鳥羽上皇に仕えた忠臣ということで山田重忠はよく知られた存在だったという。戦争を挟んで、いまやすっかり忘れられた存在をなってしまった。そのことを嘆いた重忠本人か関係者が私を重忠ゆかりの地に招いてもう一度知らしめろという使命を与えたのかもしれない。相変わらず背中が痛いのは気のせいだろうか。
ちなみに、十名所のその他は、笠寺観音、闇ノ森、榎ノ権現、櫻田勝景、圓頓寺、久屋金刀比羅、天理教々務支庁となっている。笠寺観音などは納得だけど、知らないところが多い。機会を見つけて巡ってみたい。

山田幼稚園は隣にある大應山廣福禅寺が経営している。
お寺の住職などに聞けば更に詳しいことを教えてもらえるかもしれない。


園内には別の碑と小さな社が並んでいる。残念ながら入ることはできないので、どういう由来のものかは分からない。

山田幼稚園の敷地になっている場所に、かつて金神社(こがねじんじゃ)があったという。幼稚園の外、北東に小さな公園があるのだけどそこがそうなのだろうか。もしくは園内にあった社がその名残なのか。
金神社は山田天満宮に移されて、お金の神様として人気を集めている。
無住道暁が編さんした仏教説話集『沙石集』には重忠についてこんな記述がある。
「弓箭の道に優れ、心猛く、器量の勝った者である。心優しく、民の煩いを知り、優れた人物であった」と。
鎌倉時代の1283年に完成したものだから、重忠が生きていた時代からそれほど年月が経っていない時期に書かれたものだ。きっとそういう人物だったのだろう。
ここ何週間か、山田重忠について調べたり考えたりする時間が多かった。もっと本格的に調べれば分かることもあるのだろうけど、研究者でも郷土史家でもない私にできるのはここまでのようだ。まだどこかで重忠ゆかりの地を訪ねることがあれば、もう少し書けることもあるかもしれない。
最後に山田氏がその後どうなったかを書いてしめくくりとしたい。
越後国に流されていた兼継は7年後に許され、出家して僧となった。
兼継は1244年に37歳で死去するも、尾張山田氏の家督は、弟の重親とその子・泰親(重親の三男)が継いで家系は継承した。
泰親兄弟は鎌倉幕府への出仕が許され、泰親は弟の親氏と共に尾張国菱野の地頭に任じられ、菱野城を築いたという。晩年は出家して菱野に本泉寺を建てたと伝わっている。
【アクセス】
・名鉄瀬戸線/JR中央本線「
大曽根駅」から徒歩約13分。
・駐車場 なし