
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
同じ食材を使っても調理の仕方と味付けで違う料理になるように、同じ被写体を撮っても撮り手次第で写真はまったく別のものになる。
写真を供するということと、自分で味わうということは、同じようでいて違う行為だ。重なる部分はあっても目的も方向性も違う。
家庭料理と店の料理の違いにたとえると分かりやすい。いくら家族が美味しいと褒めてくれても、そのまま店に出して通用するかといえばそうではない。写真も同じで、いくら自分がいいと思っても、お客さんがいいと言ってくれなければその写真は通用しないということになる。もちろん、自分がいい、美味しいと思えることが大前提ではあるけれど。
人に供する写真とはどういうことかを考えてみる。
たとえば雑誌なりメディアなりの依頼に応える写真というものがある。具体的にどこかの場所の写真を提供してほしいという場合もあれば、どこかへ行ってこれこれの写真を撮ってきてほしいという依頼もある。依頼主が満足すればその写真は価値があることになるし、満足しなければ無価値ということになる。
一般大衆向けのグラビア写真を例にとると、グラビアを撮っているすべてのカメラマンが心の底からその写真で自己満足を得ているという例はおそらく少ない。雑誌の要求に応えることが第一義であり、グラビアを見る人の満足を得ることが自分の満足よりも優先する。
たとえばそれは、ファミリーレストランで出される料理を作っている料理人に似ているかもしれない。レシピはすでにある。自分なりのアレンジよりも食べる人間が求める味を提供することが求められる。
一方で写真家と呼ばれる人間は、個人経営レストランの雇われシェフにたとえられるだろうか。個人事務所を持っている写真家ならオーナーシェフということになるだろう。お客の満足優先であることには変わりないとしても、自分が提供したい料理なり写真を提供することで成立させている。お客を選ぶ権利もある。流行るか流行らないかは自分次第でもあり、お客次第でもある。流行る流行らない以前に不特定多数からの支持を得る必要がある。
職業として写真を撮る人間は、ある種、妥協との戦いでもある。自分が撮りたいものを撮りたいように撮ってそれで商売が成り立つのは稀だ。才能とかそういった部分だけで決まるわけではなく、それなりに商才がなければ難しいし、人とのつながりも大切になる。運も必要だろう。
売れる写真と売れない写真がある。売れる写真を撮るか、売れなくても自分の写真を撮り続けるか、その判断は撮り手自身の責任において決定される。
自分の写真を売りたいと考えている人は大勢いるはずだ。自分の店を出したいと考えている人と同じくらい。
けど、実際に売れることは難しく、潰れずに営業していける料理店が多くないように、職業写真家として活躍し続けることは難しい。腕さえあれば食いはぐれはないというのは、料理人もカメラマンも同じだろうけど、腕1本で経営者としてやっていくのは簡単ではない。
よく言われることだけど、カメラマンに資格はないのだから、カメラマンの名刺を刷って今日から自分はカメラマンだと言えばカメラマンと言えなくはない。ただ、やはりそれだけでカメラマンと言い張るのは無理がある。生活できる程度に稼がないと本当のカメラマンとはいえない。
写真で食べていきたいと考えたとき、若ければ素直に写真の専門学校に入った方がいい。そこに道筋がある。
そうでなくても脱サラして写真家になった例もなくはないから道が閉ざされているわけではないだろうけど、実際は難しそうだ。
自信があれば数十枚の写真を持ってカメラ雑誌の編集部なり出版社なりを訪ねるといったことでもいい。
フォトコン入選の常連程度で写真家になれると思ったら大間違いで、その程度の撮り手は山ほどいる。フォトコンで入選しまくってそのまま写真家になった米美知子さんの例はあるけど、あれは若くて美人だったからで、特例中の特例だ。
もしくは、ストリート・ミュージシャンならぬストリート・カメラマンとしてデビューするという手もある。道ばたで自分が撮った写真のプリントを売って写真家になった人もいた。
今はストックフォトもあるから、そこで売ることに特化するというのもひとつの方法だ。生活できるくらい売れば、堂々とカメラマンを名乗れる。
いずれにしても、売れる写真と売れない写真があるという厳然たる事実の前で、私たちはそれに従うしかない。どうすれば流行る店ができるか分かっていれば誰だってその通り実践する。人気写真家になる方法論があるなら誰もがそれをやっている。人気商売とされるタレントやアイドルなども同じことがいえるだろう。
結局のところ、どうすれば売れるかなんてことは誰にも分からないのだ。一発当ててそれで終わりというパターンもある。
もちろん、写真においても売れることが絶対的な正義だとは思わない。けど、売れなくもいいかといえばそうとも断言できない。いったんその道を志した以上、売れたいと願うことは当然だし、そう思わなければいけないと思う。売れれば官軍、売れなければ賊軍、そう言い切ってしまうのは乱暴だろうか。
遠回りのようにくどくど書いてきたけど、今日のテーマは、売れる写真ってなんだろう? ということだった。
その問いの答えはきっとひとつではない。誰かが出した答えがそのまま自分の答えになるわけでもない。
忘れてはならないのは、売れるということは買う人がいるということだ。買い手の側に立って考えてみたとき、買いたい写真とは何かということがひとつのヒントになるかもしれない。
自分が撮りたいと思う写真と、自分が買いたいと思う写真は同じだろうか? 自分の写真を見て、この写真にいくらなら払っていいかと考えてみる。1,000円なら買うか? 1万円でも買いたいか? タダでもいらないと思うなら、他人ならなおさらのことだ。それは売れない写真ということになる。
他人の写真を見て、その写真を買いたいか買いたくないか考えてみる。自分でも撮れる写真ならわざわざお金を出してまで手に入れたいと思わない。
売りたいということばかりに気持ちがいってしまうと、買い手の気持ちをないがしろにしがちだ。自分が買い手として、どんな写真にお金を払っていいだろうかと頭の中で思い浮かべてみる。それこそが売れる写真というやつではないか。そうやって思い浮かべた写真を10枚、20枚、もしくは100枚、自分が持っているならば、誰かがあなたの写真を買ってくれるだろう。
売れる写真を撮るということは、必ずしも妥協や迎合ではない。写真の買い手は漠然とした一般大衆ではなく人だ。もっと言えば個人だ。
買いたい写真と売りたい写真、それは完全に一致しないまでも共通部分はあるに違いない。売れる写真と考えるよりも、買いたい写真を撮ることを考えればいいのではないかというのが今回の話の趣旨なのだけどどうだろう。ぼんやりと答えらしきものが見えてこないだろうか。
人はどうしても自分の思いや価値観にとらわれがちで、受け手の気持ちを優先させることは難しい。自分がいいと思うものはいいものに違いないと思い込んでしまう。
いいものと売れるものは違う。いいものを提供しさえすれば売れるはずだという思い込みは捨てた方がいい。一般受けするものを提供すればそれで売れるだろうという安易な考え方も間違っている。
売れるものは誰かが買いたいものだ。買いたいというのはお金を出してもほしいということだ。お金を出すということがどういうことかは誰もが知っていることだから説明するまでもないだろう。ほしいという人が多ければ多いほど写真の価値は上がり、値段も高くなる。
自分のためだけではなく誰かのために写真を撮ることは決して悪いことではない。人に喜ばれる写真を撮ることは、自己満足よりも幸せなことかもしれないと、最近の私は思うようになってきた。それが結論かといえば、まだ答えは出ていないのだけれど。