月別:2016年09月

記事一覧
  • 新美南吉と矢勝川の彼岸花

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 半田の矢勝川彼岸花へ行く際の最寄り駅は名鉄河和線の半田口駅になる。しかし、この駅で降りて矢勝川の彼岸花へ向かう人はほとんどない。この駅で降りるのはたいてい2、3人程度で、私以外に彼岸花目当てと思われる人とはほとんど会ったことがない。平日の夕方ということもあるのだろうけど、多くは車で訪れているようだ。 半田口駅は急行も停まらない無人駅なので、名古屋から特急や急...

    2016/09/30

    旅/散策(Stroll)

  • 今年も半田矢勝川の彼岸花を撮りにいく 2016 <後>

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 昨日に続いて今日は矢勝川彼岸花風景の後編をお送りします。 今年はどこかで新しい撮影ポイントを発掘したいと思っていたのだけど、やっぱりいつもと同じ場所になってしまった。日が傾いてからは土手下を行ったり来たりしながら土手舞台風景の撮影をした。ここ5年くらいこのパターンになっている。これが撮りたいが為に夕方前に着くように行っているわけで...

    2016/09/29

    観光地(Tourist spot)

  • 今年も半田矢勝川の彼岸花を撮りにいく 2016 <前>

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 今年も恒例の矢勝川彼岸花を撮りにいってきた。これが8回目くらいになるだろうか。 ここのところ雨の日が続いていて、自分が行ける日と晴れの日の兼ね合いで、行けるのが昨日(27日)しかなかった。ネットで開花情報は毎日見ていて、少し早いけど撮るにはちょうどいいかもしれないと期待していってみたものの、全体としてはまだ撮り頃にはなっていなかった...

    2016/09/28

    観光地(Tourist spot)

  • 初秋の矢田川夕景

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 秋分を過ぎたというのに名古屋はまだ暑さが続いている。今日の最高気温は31度だったとか。それでも風景は確実に秋へと移り変わっている。コスモスも増え、河原には彼岸花が咲いている。日もずいぶん短くなった。 今日は近所の矢田川河川敷初秋風景をお送りします。写真に写る光も優しくなったのを感じる。 ...

    2016/09/27

    河川敷(River beach)

  • 道ばた写真は探さないと見つからない

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 今日は道ばた写真をお送りします。 相変わらず道に落ちているものとかを見つけると喜んで撮っている。お金を見つけるより嬉しい。そこに深い意味はない。発見する楽しさと意外性の面白さがあるだけだ。ただ反応しているだけのこと。 レーダーを道ばた方面に向けておけばいろいろ引っかかってくる。レーダーを道行きにセットすると道ばたは反応できなかったりする。この手の写真は探し...

    2016/09/26

    日常写真(Everyday life)

  • 夏が去ったと感じるサンデー料理

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 9月は雨ばかりでなかなか撮りに出られずもどかしい日々が続いていた。この週末は少し晴れ間も見られてよかったと思ったら、自分が外に出られず余計にもやもやした気分になる。来週も雨の日が多そうだ。今月は日照時間が短すぎる。ヒガンバナもぼちぼち見頃だし、工場夜景フォトコンの締め切りも近づくし、いいかげん晴れてくれないと困る。 そんなわけでサンデー料理はいつもの通り。ダ...

    2016/09/25

    料理(Cooking)

  • 写真ノート<38> ---写真の伝わらなさ

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 写真の伝わらなさ加減というのは一体どれくらいのものなんだろうと考えることがある。正確に伝わっていると感じることは少なくて、もしかしたら全然伝わっていないんじゃないかと思うことさえある。 それはフォトコンの選者さんのコメントに感じることでもあるのだけど、一番伝わらなかったと感じたのは去年参加した御苗場でのことだった。評価されるされないとは別に、こちらの意図がま...

    2016/09/24

    写真ノート(Photo note)

  • 道行き風景 ---少し過去の風景

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 写真で時間を巻き戻してみると、過ぎ去った月日の多さを思い知ることになる。今年も残り100日だとか。 何もない日々を愛おしく思えるようになったのはいつの頃からだろう。それは、無条件に明日が約束されているわけではないことを知ったときだろうか。 何もないような日常の風景を写すようになったのはここ5年くらいのことだ。その日にあった出来事を淡々と書き連ねる日記のように日...

    2016/09/23

    日常写真(Everyday life)

  • 今月のフォトコンについて

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO「フォトテクニックデジタル 2016年10月号」のノンジャンル部門で「ヒマワリと十字架」が入選。「フォトテク」のノンジャンルはおととし、去年とよく入っていたのだけど、選者がテラウチマサトさんに代わってからさっぱり入れなくなっていたから、久々の入選となった。清水哲朗さん時代と比べると選ばれる作品の傾向もがらりと変わっていた。個人的にはシミテツさんと相性が良かったから残...

    2016/09/22

    フォトコン・写真(Photo Contest)

  • 瀬古の高牟神社と石山寺を再訪する

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 守山区瀬古の高牟神社と石山寺を再訪した。前回訪れたのが2008年だから、けっこう久しぶりだ。「近所に歴史あり、御畳奉行と行く瀬古の古寺社巡りツアー」 出向いたのは春前のことだったので、写真としては季節外れな感じになってしまっている。 春先から初夏にかけて神社をまとめて巡ったときの写真が在庫になってけっこう残っている。夏写真がひと段落したところで、それらを順番に...

    2016/09/21

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 名古屋と近郊で食パンをめぐる旅 ---ブレ・ヴァン/ポンヌフ/マキマキ

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 名古屋と近郊で食パンをめぐる旅シリーズ。今回は名古屋市内の3つのパン屋さんを紹介します。 瑞穂区桜山にある「ブーランジェリー ブレ・ヴァン (Bre'-Vant)」さん。 瑞穂区は遠いからめったに行かないのだけど、前から気になるパン屋さんが何軒かあった。ここはその中でも評判のいい店だ。 場所は桜山交差点から東へ200メートルほど行ったところの通り沿いなので分かりやすい。...

    2016/09/20

    パン屋(bakery)

  • 夏旅の忘れ物 ~長浜/浜松

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm この夏は余呉・長浜と浜松・弁天島の二度鉄道旅をした。二回しか行ってないとも言えるのだけど、ここ一、二年は近場の鉄道旅もほとんどしていなかったから、これでも出かけた方だった。 そろそろ夏も終わろうかというこの時期、写真を整理していたらまだ使っていない在庫写真がけっこう残っていた。このまま埋もれさせてしまうのももったいないから、夏旅の忘れ物と...

    2016/09/19

    旅/散策(Stroll)

  • ナスの天ぷらが食べたいサンデー料理

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 今週は和風方面行きサンデー料理だった。皿が和皿というだけといえばそうなのだけど。 月に一度くらいナスの天ぷらが食べたくなる。ナスはそんなに食べたくないし、天ぷらが特別好きというわけでもなく、ナスの天ぷらが好きなのだ。ただ、考えてみると店でナスの天ぷらを注文した記憶はない。店で食べる天ぷらというとだいたいがエビの天ぷらだ。じゃあ、家でエビの天ぷらを食べたいかと...

    2016/09/18

    料理(Cooking)

  • 写真ノート<37> ---写真のバックグラウンド

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 写真には撮った人間のバックグラウンドが必ずある。表面に表れているかどうかは別にして。 字に性格が表れるように、写真には人間性が出るといわれる。すべての写真がそうではないにしても、人間が撮る以上、人間性といったものを抜きに写真は語れない。 それは、アナログ時代のフィルムからデジタルに移行した今も変わることはない。科学的にはまだ証明されていなくても、撮る人間の...

    2016/09/17

    写真ノート(Photo note)

  • タダなら行ってみようか久屋大通庭園フラリエ

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm 名古屋大須の矢場町にランの館ができたのが1998年(平成10年)。私が初めて訪れたのは2007年のことだった。 月日は流れて2014年(平成26年)、ランの館は閉館となった。話題になっている場所へ一度は行くけど二度は行かないという名古屋人気質がここでも犠牲者を生むことになった。来場者の低迷で、名古屋市の仕分けを食らってしまったのだった。 そのランの館が無...

    2016/09/16

    施設/公園(Park)

  • 去りゆく夏の道行き風景

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 夏が私たちから遠ざかっていくのではない。私たちが夏から遠ざかっていくのだ。記憶が私たちから離れていくのではなく、私たちが記憶から離れていくように。 今日は十五夜。中秋の名月。名古屋では薄い雲がかかってぼんやりした姿を見せて浮かんでいる。季節はもうすっかり秋の入り口だ。 置いてきた夏は記憶と写真の中に残った。振り返らずに先を目指すのではなく、ときどき振り返っ...

    2016/09/15

    日常写真(Everyday life)

  • 9月のモリコロパークを撮る

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm / 60mm F2.8 観覧車は乗るよりも撮る方が好きだ。モリコロパークの観覧車は一度だけ乗ったことがある。愛・地球博の期間中ではなく、万博が終わって間もない頃だった。撮るのはもう何度も撮っていて、ときどきこの観覧車のことを思い出して、また撮りにいこうかとなる。今回もそうだった。時間帯はやはり夕方に限る。夕焼けから夕暮れどきがいい。 観覧車がある少し...

    2016/09/14

    施設/公園(Park)

  • 舞阪から弁天島へ <後>

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm 前回の続きで、今日は舞阪から弁天島の後編をお送りします。 舞阪駅から弁天島までは、旧東海道を行けば2.5キロほどなので、ゆっくり歩いて45分くらいだ。私は遠回りして歩いたから4キロくらいだった。写真を撮りながらでも1時間半はかからなかったと思う。 上の写真は舞阪漁港だ。向こうに見えているのが今切口にかかる浜名大橋。橋の向こうは遠州灘で海とつながっ...

    2016/09/13

    観光地(Tourist spot)

  • 舞阪宿跡と舞阪の町を歩く <前>

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 中田島砂丘をあとにして次に向かったのは舞阪だった。JR東海道本線で浜松駅から名古屋方面に2つ戻ったところに舞阪駅がある。その次が弁天島駅で、弁天島の夕景を撮ることがこの日の最終目標だった。弁天島は2009年に一度訪れたことがある。 舞阪で降りたのは、かつて東海道の宿場町があったところで、松並木などが残っているというのをネットで知って一度歩いてみたいと思ったからだ...

    2016/09/12

    観光地(Tourist spot)

  • 嫌いではないけど好きでもないサンデー料理

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 料理することが好きかと訊かれたら別に好きじゃあないと答える。じゃあ嫌いなのかと問い詰められると、そうは言ってないと反論したくなる。嫌いじゃないなら好きなんでしょと強く言われたら、まあそうかもしれないねと言うしかなくなる。人の行動原理は必ずしも好き嫌いによるわけじゃないと思うのだけど。 その問いは、写真を撮ることが好きかという問いに似ている。別に好きで撮ってる...

    2016/09/11

    料理(Cooking)

  • 写真ノート<36> ---フォトコンのこれまでとこれから

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 最近、フォトコンの入選歴を訊ねられることがあって数えてみたところ、入選回数が99回になっていた。 これまでも折に触れて写真ノートの中でフォトコンに関しては何度か書いてきたのだけど、今回総まとめとしてこれまでのフォトコンとこれからのフォトコンについて書いてみたいと思う。 ホームページを始めたのが1999年。コンテンツが日記だけでは寂しいから散策をもうひとつの柱にしよ...

    2016/09/10

    写真ノート(Photo note)

  • 東山植物園便り ---夏よまだ行かないで

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 9-18mm / 60mm F2.8 気が早いヒガンバナは、秋の訪れを待ちきれずに8月の終わりに咲いてくる。初秋の花というよりも晩夏の花といった方が当たっているかもしれない。この花を見ると、突然秋が来たかと焦ってしまう。植物園のヒガンバナが特別早いだけともいえるのだけど。 9月はじめの東山植物園。前回訪れたのが7月はじめだったから、丸々2ヶ月も訪れていなかったことになる。この夏はどこで何を撮って...

    2016/09/09

    植物園(Botanical garden)

  • 9月はじめの海上の森を撮る

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 9-18mm / 60mm F2.8 9月はじめの海上の森。 夏が終わる前に行っておきたかった。 4月と7月に湿地コースは歩いているのだけど、池コースとなると1月以来となる。ずいぶん久しぶりだ。毎年、夏は一番よく出向いている季節なのに、今年はなんとなく行けなかった。夏にも、虫にも、あまり気持ちが向かわなかったというのもあるし、暑さに負けたというのもある。 9月の海上の森は、夏と秋の狭間で花も少なく...

    2016/09/08

    森/山(Forest/Mountain)

  • 中田島砂丘の風景 <3>

     中田島砂丘の第3回をお送りします。 今回の中田島砂丘では珍しくC-PLフィルターを使ってみた。前々回書いたように、海辺は強い風によって砂埃と波しぶきが猛烈に吹き荒れているため、フィルターなしではちょっと怖くて使えなかったというのがある。25mmと60mmは保護フィルターを持っているのだけど、9-18mmはサイズが違っていて持っていないので、ステップアップリングでC-PLフィルターを使ったのだった。 実は超広角レンズでC...

    2016/09/07

    観光地(Tourist spot)

  • 中田島砂丘モノクローム

     中田島砂丘の2回目は、モノクローム編をお送りします。 風景としては単調なので、あえて単純化してモノクロ化するのは方向性として間違っていない。この風景はモノクロもよく似合うだろうと撮る前から思っていた。 惑星感というか地球感のある写真が撮りたかった。映像や写真で見る月の地表のようなイメージで。月面探査コンテストに出場する日本チームの月面ローバーHAKUTOがここで運用試験をしたというから、実際月面環境に...

    2016/09/06

    観光地(Tourist spot)

  • 浜松名物の一つとして中田島砂丘をおすすめしたい <1>

     浜松といえば浜名湖パルパルでしょう! というのは静岡県民。一般的には浜名湖であり、餃子であり、うなぎであり、うなぎパイであり、浜松城といったあたりを思い浮かべることだろう。お父さんたちにとっては浜名湖ボートだったり、奥様方にとっては浜名湖かんざんじ温泉だったりするかもしれないけど、真っ先に砂丘! と答える人は少数に違いない。 そもそも浜松市内に中田島砂丘があること自体、知らない人の方が圧倒的多数...

    2016/09/05

    観光地(Tourist spot)

  • サンデー料理はバリエーション

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 先週のサンデー料理で自分が何を作って食べたかほとんど覚えていない。無意識に作って無意識に食べているわけでもあるまいに。ぼんやり覚えているのは、メインの食材に何の魚を使ったかくらいだ。他の2品のことはまったくといっていいほど思い出せない。ブログを書くときに先週の料理の写真を見て、今週もほとんど同じ食材を使っていることに気づいたりする。毎回同じ食材で少しずつ形が...

    2016/09/04

    料理(Cooking)

  • 写真ノート<35> ---色を探す、見つける、決める

    OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO 日本の四季と風景は色でできている。 春の桜色、向日葵の黄色、紅葉の赤、雪の白。  青い空と海、夕焼けの橙色、入道雲の白、新緑の緑。 植物や動物、鳥たちの様々な色。 光にも色があり、人が作り出した人工物も様々な色を持っている。 写真を撮るとき、人は半ば無意識のうちに色を探している。色が人の心理に与える影響は大きい。 今日は写真における色の問題について少し考えて...

    2016/09/03

    写真ノート(Photo note)

  • 今月のフォトコンのこと

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4「カメラマン 2016年9月号」で、「写生会」が銅賞入選。 この写真は去年、津島市の天王川公園で撮ったものなのだけど、別カットのものをいくつかのフォトコンに応募して落選したので、しばらくその存在を忘れていた。一年半近く経ってもう一度この日の写真を見直す機会があって、あらためてセレクトし直して応募したら今回は入選した。そういうことがけっこうある。ラブレターは一晩置...

    2016/09/02

    フォトコン・写真(Photo Contest)

  • 夏の道行き風景

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 旅ネタやイベントものが続いたので、今日はちょっとひと休み。夏の道行き風景をお送りします。 夏の期間が6月、7月、8月なら、9月はもう秋ということになる。今年も相変わらずの残暑で、まだまだ夏の延長戦が続いているけれど、セミの鳴き声が聞こえなくなったり、朝夕ちょっと涼しかったり、夜には虫の音が聞こえたりして、秋に向かっていることを実感する。今が一年で一番もの悲しい...

    2016/09/02

    日常写真(Everyday life)

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新美南吉と矢勝川の彼岸花

旅/散策(Stroll)
半田口駅ホーム

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 半田の矢勝川彼岸花へ行く際の最寄り駅は名鉄河和線の半田口駅になる。しかし、この駅で降りて矢勝川の彼岸花へ向かう人はほとんどない。この駅で降りるのはたいてい2、3人程度で、私以外に彼岸花目当てと思われる人とはほとんど会ったことがない。平日の夕方ということもあるのだろうけど、多くは車で訪れているようだ。
 半田口駅は急行も停まらない無人駅なので、名古屋から特急や急行で行くと阿久比駅で乗り換えないといけない。それはまあいいのだけど、トイレがないのが困る。一番近いトイレとなると、矢勝川と線路が交差する東側にある小さな公園ということになるだろう。と去年までは思っていたのだけど、矢勝川へ向かう途中にある八幡神社にトイレがあることを今年発見した。道沿いから少し入らないといけないのだけど、ここのトイレは便利だ。新美南吉記念館まで行かなくても済む。
 そんな話もありつつ、今日は矢勝川周辺の風景をお送りします。



新美南吉の生家

 半田といえば新美南吉を半田市は全面的に推している。新美南吉といえば半田、半田といえば新美南吉と相場が決まっている、というほど全国に浸透しているとは思えない。そもそも新美南吉の知名度はどれくらいのものなのだろう。
 童話『ごん狐』くらいは読んで知っているという人も多いかもしれない。けどそれ以外の作品まで知っている人は少ないんじゃないか。「北の賢治、南の南吉」といわれることがあっても、知名度という点では宮沢賢治には遠く及ばない。
 宮沢賢治と新美南吉は世代的に近い。宮沢賢治はほぼ無名のまま死んだのだけど、学生だった南吉は賢治の作品を読んで知っていたという。ちなみ、宮沢賢治は生前、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の2冊を自費出版しただけで、原稿料をもらったことは1度しかなかった。それでも中原中也などは賢治のことを知っていて、東北にすごい詩人がいると周囲に触れ回っていたそうだ。よく『春と修羅』の中の一節を口ずさんでいたというし、賢治の死後に作品を広めることに尽力もしている。
 上の写真は、新美南吉が生まれた生家を復元展示したものだ。大正2年(1913年)に畳屋を営む父渡辺多蔵の次男としてこの家で生まれている。
 本名は渡辺正八。のちに新美家の養子となる。
 4歳のときに母が死去。2年後に父が再婚して弟が生まれた。その2年後に父が離婚するも、同じ年に同じ相手と再婚。養子になった新美家は母方の祖母の家だった。
 しかし、養子になった家になじめず、実家に戻って暮らしていたという。
 詩作や童話を書き始めたのは高校生の頃からだ。
 岡崎師範学校(現・愛知教育大学)を受験するも体格検査で不合格となる。
 半田で小学校の代用教員となるも、同年退職。
 翌1932年、童話『ごん狐』を発表。同年、東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語部文科文学に入学。
 2年後に喀血。21歳のときだ。
 東京外国語学校を卒業後は、神田の貿易商会に勤めるも、またも喀血して半田に戻る。
 1937年、知多の河和小学校で代用教員となる。しかし、体調不良で退職。
 家畜の飼料製造販売の研究所に入社。
 その後、安城高等女学校(現・安城高校)の教員となる。
 1943年、結核が悪化。3月22日この世を去る。29歳だった。

 新美南吉の生家は一時人手に渡っていたものを、昭和58年(1983年)に半田市が買い取り、修復復元したのち、昭和62年(1987年)から一般公開されている。入場無料。



黒板蔵




八幡神社

 行く前に地図で見つけた八幡神社に寄っていくことにした。



八幡神社境内

 拝殿の前に狛犬が4体並んでいる。かつてこの神社は神明神社で、のちに八幡神社を建て増ししたという経緯があったそうで、八幡神社と神明社が並ぶ格好になっている。
 このあたりの地名は岩滑(やなべ)という地区で、そこから岩滑八幡神社と呼ばれているようだ。
 境内には山車蔵もあって、祭りのときは山車が引き回されるという。
 ここから少し西へ行ったところに、南吉が晩年を過ごした離れがあり、南吉は生家と離れを行き来するときにこの神社の境内を通ったといわれている。



神明鳥居

 鳥居は神明鳥居のままとなっている。平成27年に建て替えられたものでまだ新しい。



八幡神社拝殿




空き地の彼岸花




八幡神社境内と鳥居




宮司専門駐車場




竹内製麺所と犬

 きつねのごんは、村の墓地へ行って、六地蔵の後ろに隠れながら白い着物を着た葬列が通りかかるのを見ている。そのときに彼岸花が登場する。
「墓地には、ひがん花が、赤いきれのようにさき続いていました」
 さらにこう続く。
「そう列は、墓地へ入ってきました。人々が通ったあとには、ひがん花がふみ折られていました」

 南吉のことを思いながら矢勝川の彼岸花を見ると、これまでとは少し違って見えるかもしれない。
 

今年も半田矢勝川の彼岸花を撮りにいく 2016 <後>

観光地(Tourist spot)
矢勝川土手の少年たち

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 昨日に続いて今日は矢勝川彼岸花風景の後編をお送りします。
 今年はどこかで新しい撮影ポイントを発掘したいと思っていたのだけど、やっぱりいつもと同じ場所になってしまった。日が傾いてからは土手下を行ったり来たりしながら土手舞台風景の撮影をした。ここ5年くらいこのパターンになっている。これが撮りたいが為に夕方前に着くように行っているわけで、夕方の土手風景さえ撮れればそれで満足ともいえる。別に彼岸花の季節じゃなくてもかまわないといえばかまわない。自転車で行ける距離ならしょっちゅう行きたいくらいお気に入りの場所だ。
 花嫁行列も一度撮ってみたいと思いつつタイミングが合わない。今年は24日におこなわれたようだ。その日はまだ彼岸花は少なかったんじゃないだろうか。



日没間近の土手




ゴミ拾いの小学生たち




彼岸花の土手を行く




駆け抜ける少年




母と息子




母子の帰り道




日暮れ後の彼岸花




うちに帰ろう




夕暮れのランナー




日暮れの矢勝川沿い風景




矢勝川に日は暮れる

 

今年も半田矢勝川の彼岸花を撮りにいく 2016 <前>

観光地(Tourist spot)
矢勝川土手の彼岸花

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 今年も恒例の矢勝川彼岸花を撮りにいってきた。これが8回目くらいになるだろうか。
 ここのところ雨の日が続いていて、自分が行ける日と晴れの日の兼ね合いで、行けるのが昨日(27日)しかなかった。ネットで開花情報は毎日見ていて、少し早いけど撮るにはちょうどいいかもしれないと期待していってみたものの、全体としてはまだ撮り頃にはなっていなかった。6分咲きくらいだっただろうか。メインの土手斜面が咲きそろっていないので、一番絵になる部分で撮りきれないのがもどかしかった。早く咲き出したところはすでに枯れた花も増え始めているのだけれど。
 それにしても今年は暑かった。この暑さのせいで開花も遅れ、このままでは撮り頃は10月にずれ込むかもしれない。今週末はまだいけるんじゃないかと思う。隣にある田んぼの米の収穫もまだ始まっていなかった。この秋は天候不順ですっきりしない日が多すぎる。
 今年は特にテーマを決めず、現地に行って見たまま感じたままを撮ろうと思っていた。大きな収穫はなかったけど小さな収穫はあった。毎年少しずつは前進しているのを実感する。去年の写真と比べればそれははっきり分かる。ただ、3年前に撮れていたものが撮れなくなったりもしているから、プラスマイナスでいくと単純なプラスでもないのかもしれない。
 空模様に関しては申し分なかったものの、夕焼け空が見られなかったのは残念だった。すごくきれいに焼けたのは何年前のことだっただろう。
 行くタイミングや、その日の天気によっても撮れる写真は違ってくるし、それに加えて自分自身の変化もある。今年撮れた写真は今年の自分にしか撮れないものと思うと、やはり万難を排してでも毎年出向かなければいけないとあらためて思った。
 そんなわけで、矢勝川の彼岸花風景を前後編に分けてお届けします。



土手のヒガンバナと入道雲と夫妻




土手のヒガンバナ絨毯




川縁のヒガンバナ




土手を駆ける少女




祈りの地蔵




彼岸花の群生




彼岸花と老夫婦




逆光のエノコログサ




田んぼとヒガンバナと夫婦




矢勝川のつどう人々




夕方の彼岸花シルエット

 後編につづく。
 

初秋の矢田川夕景

河川敷(River beach)
コスモス

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 秋分を過ぎたというのに名古屋はまだ暑さが続いている。今日の最高気温は31度だったとか。それでも風景は確実に秋へと移り変わっている。コスモスも増え、河原には彼岸花が咲いている。日もずいぶん短くなった。
 今日は近所の矢田川河川敷初秋風景をお送りします。写真に写る光も優しくなったのを感じる。



橋を渡る自転車と河原のおじさん





入道雲の名残




雨で増水した川の流れ




川沿いの住宅




水たまりと西日




橋と夕空




水鏡と自転車の人




夕陽に向かって走るランナー




川の流れ夕照




おじいさん




大森橋からの見る夕焼け風景

 

道ばた写真は探さないと見つからない

日常写真(Everyday life)
青い風船

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 今日は道ばた写真をお送りします。
 相変わらず道に落ちているものとかを見つけると喜んで撮っている。お金を見つけるより嬉しい。そこに深い意味はない。発見する楽しさと意外性の面白さがあるだけだ。ただ反応しているだけのこと。
 レーダーを道ばた方面に向けておけばいろいろ引っかかってくる。レーダーを道行きにセットすると道ばたは反応できなかったりする。この手の写真は探して見つかるものではないけれど、探さないと見つからないものではある。



サボテンと室外機




大量の衣紋掛け




ピンクの謎の物体




正体不明の黒いもの




ミニ仏像




河川敷のおしり




どろんこタオル




傘とトレーナー




青いぬいぐるみ




ネクタイ

 

夏が去ったと感じるサンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 9月は雨ばかりでなかなか撮りに出られずもどかしい日々が続いていた。この週末は少し晴れ間も見られてよかったと思ったら、自分が外に出られず余計にもやもやした気分になる。来週も雨の日が多そうだ。今月は日照時間が短すぎる。ヒガンバナもぼちぼち見頃だし、工場夜景フォトコンの締め切りも近づくし、いいかげん晴れてくれないと困る。
 そんなわけでサンデー料理はいつもの通り。ダイコンの煮込み料理なんかを作っていると、ああ、もう夏が去ってまた冬が来るんだなと思う。まだ少し気が早いけれど。



鯛の煮付け

「鯛の煮付け」
 たれで煮ながら味を付けることを煮付けというらしい。さっき勉強して初めてちゃんと知った。今まで煮物と煮付けの区別がついていなかった。
 味付けは、酒、みりん、しょうゆ、白だし、ショウガ、塩で。



ダイコンその他の煮物

「ダイコンその他の煮物」
 これも煮ながら味付けをするという意味では煮付けに属するのかもしれないけど、最初はお湯で湯がくからやっぱり煮物の方がしっくりくる。
 ダイコン、ニンジン、鶏肉、白菜、まいたけ。
 味付けは、白だし、こぶつゆなどで。



エビ炒めの卵とじ

「エビ炒めの卵とじ」
 具材は、エビ、タマネギ、コーン、オクラ、カニかま。
 溶き卵に水溶きカタクリ粉とコンソメの素、潮を混ぜて、炒めながら和える。
 卵を炒り卵にして、あんかけをかけた方が見た目の仕上がりがよかったかも。
 

写真ノート<38> ---写真の伝わらなさ

写真ノート(Photo note)
生まれたてのヒヨコ

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 写真の伝わらなさ加減というのは一体どれくらいのものなんだろうと考えることがある。正確に伝わっていると感じることは少なくて、もしかしたら全然伝わっていないんじゃないかと思うことさえある。
 それはフォトコンの選者さんのコメントに感じることでもあるのだけど、一番伝わらなかったと感じたのは去年参加した御苗場でのことだった。評価されるされないとは別に、こちらの意図がまるで伝わっていなかったように感じてもどかしかった。自分が在廊していなかったせいもあるのだけど、どれくらいの人があの展示の意味を理解してくれていたのだろう。壁一面に道ばた写真を貼り付けて、中央に写真集「a life」を置いた展示は、壁の写真を見てほしかったというよりも写真集「a life」を見てほしかったのだった。壁の写真は「a life」の中に登場する人たちが暮らしている世界で、背景にすぎなかった。舞台でいえば書き割りのようなものだ。壁の写真をざっと見て、写真集を手にしなかった人にはそれが伝わるはずもなかった。写真集を手に取った人も、多くは展示の意図に気づかなかったのではないだろうか。まさかあそこまで伝わらないものだとは思っておらず、展示というものを安易に考えすぎていた。
 あの展示方法が間違っていたとは自分では考えていないのだけど、伝えたいことを伝えることができなかったという現実がある以上、あの展示は失敗だったといわざるをえない。ひとりよがりだったといってもいい。人に見てもらおうという前提で展示するならば、まずは何よりも分かりやすくなければいけないことを思い知ったのだった。

 ちなみに、上の写真は生まれて間もない名古屋コーチンの雛だ。説明がなければ死んだヒヨコと思ってもおかしくはない。卵から生まれるときに体力を使うから、生まれてすぐのヒヨコは寝て体力を回復するのだとか。

 私たちは人の写真を見るとき、それが分かりやすいものであれ分かりづらいものであれ、理解したつもりになっている。なるほどそういうことねと。そのとき撮影者の意図がどの程度自分に理解できているかまで考えをめぐらせることはほとんどない。撮影者の意図がどうであろうと自分が理解できさえすればそれでいいと考えがちだ。
 けど、撮影者の側からして本当にそれでいいのだろうか。鑑賞者の無理解や誤解をそのまま放置しておくだけで何の手も打たずあきらめてしまっていいのかどうか。人に理解してもらうための努力をもっとしなければいけないと感じている。
 私のように何のグループにも所属せずに写真をやっている人間にとって、自分の写真がどう理解されているかを知る方法は少ない。それこそフォトコンに入選してコメントでももらわない限り分からないといってもいい。あとはブログのコメントや友だちとの会話の中にいくらかのヒントがあるくらいだ。写真サークルに参加でもすればそのあたりのことでいい面があるのだろうとは思いつつ、みんなで仲良く楽しく写真を撮りたい気持ちは持ち合わせていない。
 どんな写真であれ、こちらの意図を完全に伝えるのは難しい。鑑賞者の理解を100パーセントコントロールするなどということは不可能だ。だからといって最初から投げ出して解釈を相手に委ねるのは無責任に思える。何かを伝えたいからこそ撮った写真を人に見せるわけで、伝えようとする意志において最大限誠実でなければならないのは当然といえば当然のことだ。

 こちらの意図を正しく知ってもらうには何をどうすればいいのか。ひとつには主題を明確にすることだろう。あれもこれもと欲張りすぎるといいことはない。
 写真はただ漠然と写すだけでは、すべての要素が均等に写ってしまう。主役も脇役も端役も同列に並んでしまうと、見る人間の意識は散漫になる。それは緊張感のない悪い写真だ。
 撮り手の目は見たい物や意識して見ているものに焦点が合っているから、そこに意識が向いて、それ以外は意識から外れて見えているのに見ていないといったことになりがちだ。写真における主観と客観のずれはそこで起こってくる。
 それを防ぐためには、主題となる要素をできるだけ絞り込むことだ。本当に伝えたいことに一点集中させることでようやく撮り手の意志が鑑賞者に伝わる。まずはそこをないがしろにしては話が始まらない。その上で、その先のことに関しては鑑賞者に委ねるしかない部分となる。人は写真の中の主題にだけ注目するわけではなく、背景とか色とか光とか脇に写っているものも見るし、そこで何かを感じることもある。ときに撮り手の思惑を超えて。
 写真集なら、物語性が大切だし、写真展の展示なら主題を明瞭にする必要がある。
 何よりもまず、撮り手自身が自分のテーマをはっきり自覚していなければならないことは今更いうまでもない。結局、何がいいたいのと問われたときに即答できる答えを持っていなければ、それは写真で伝える伝えない以前の問題ということになる。

 撮り手は過小評価されることだけではなく、過大評価されることも恐れなければならない。結果オーライで高評価を得て喜んでいる場合ではない。過不足なく正確に意図を伝えることを目的とすべきだ。つまり、自分の写真をできる限りコントロールしなければならない。自分の写真をコントロールできないようでは鑑賞者の感情や理解をコントロールすることはままらない。
 なぜ過大評価がいけないかというと、自分の意図を超えてしまうことに関してはコントロールが難しくなるからだ。評価に自分を合わせようと無理に背伸びをすると自分を見失う。過大評価された写真はある種の失敗だと思っておいた方がいい。
 過小評価は単純に力不足だから、足りない分は鍛錬で補うしかない。
 写真は意図しないものが写ったりするのが面白いというのは確かにそうなのだけど、それを偶然頼みの言い訳に使ってはいけない。まずは自分の写真をコントロール下に置かないと。それでもなお、撮影者の意志を超えて写り込んでしまうことに価値がある。神の手というのはそういうことだ。

 何を撮りたいのか。何を表現したいのか。何を伝えたいのか。写真で何がしたいのか。もう一度といわず、何度でも自分自身に問いかけてみなければいけない。答えがまだ見つかっていなくても、答えを探し続ける必要はある。
 撮り手と被写体と受け手が完璧な調和を見せたとき、初めて写真は幸せなものとなる。撮り手の被写体への理解、受け手の写真への理解、受け手の被写体への理解と撮り手の受け手への理解。写真は三者を結びつけた内側にあるということを忘れないようにしたい。美しい正三角形が理想型だ。
 

道行き風景 ---少し過去の風景

日常写真(Everyday life)
店裏と洗濯物

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 写真で時間を巻き戻してみると、過ぎ去った月日の多さを思い知ることになる。今年も残り100日だとか。
 何もない日々を愛おしく思えるようになったのはいつの頃からだろう。それは、無条件に明日が約束されているわけではないことを知ったときだろうか。
 何もないような日常の風景を写すようになったのはここ5年くらいのことだ。その日にあった出来事を淡々と書き連ねる日記のように日々を写していこうと思う。たとえその写真がすべて残らず消えてしまうとしても、あるかないか分からない未来への贈り物には違いないのだ。



街並み風景




ショーウィンドーの衣装




空き地の野良猫




未来坂




植田川沿い風景




小さな溜め池




銭湯の煙突のある風景




河川敷の打ちっ放し




集合住宅の配水塔




アパートの2階の洗濯物

 

今月のフォトコンについて

フォトコン・写真(Photo Contest)
フォトテクフォトコン

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



「フォトテクニックデジタル 2016年10月号」のノンジャンル部門で「ヒマワリと十字架」が入選。
「フォトテク」のノンジャンルはおととし、去年とよく入っていたのだけど、選者がテラウチマサトさんに代わってからさっぱり入れなくなっていたから、久々の入選となった。清水哲朗さん時代と比べると選ばれる作品の傾向もがらりと変わっていた。個人的にはシミテツさんと相性が良かったから残念ではあるのだけど、テラウチさんもフジコンのフォトブック部門で初めて選んでくれた恩人のひとりなので、テラウチさんのときにも入らないといけないと思っていた。
 これは愛知牧場で撮った一枚だ。愛知牧場のそばには南山教会があるのだけど、この十字架は牧場内の小高い丘の上にあるもので、創設者の尾関誠一氏が牧場を作るとき苦労した際にその祈りの場として建てたものだそうだ。
 ここ5年くらい毎年十字架を入れた構図で撮っていて、年によっていいときと悪いときがある。ヒマワリの咲き具合や位置関係によって上手くいくときもあればいかないときもある。この一枚は去年の夏に撮ったものだ。今年はあまりよくなかった。



ヒマワリ写真別仕上げ

 コメントのアドバイスにもう少し青みを加えたらどうだろうというのがあったので、試しにやってみた。テラウチ氏がどんな色味をイメージしていたのかは分からないのだけど、こういう仕上げもありかなと思った。むしろ、もっと極端に青緑色にしてもいいかもしれない。
 ただ、どうして私がヒマワリと十字架の組み合わせで撮っているかというと、日本の敗戦と夏の悲しみをイメージしているからというのがある。終戦は8月15日で、空襲にあわなかった町ではヒマワリが咲いていただろうし、十字架は原爆が落とされた長崎を連想させる。そうでなくても、夏の強烈な光にはどこか悲しみの気配のようなものがあって、それが私の中では黄色いイメージなのだ。だからこそ、この写真は黄色でなくてはいけなかった。自分の頭の中にある夏の黄色を出すことが一番重要で、それが完成した写真の色となった。



TEKKENフォトコン

「CAPA 2016年10月号」のTEKKENフォトコンで「養老といえば」が佳作。
 TEKKENは毎月決まったテーマがあって、鉄道専門に撮っているわけではない私としては応募できる月が限られてくる。この月のテーマは駅名標だった。駅名標を狙って撮ることはまずないのだけど、そういえば養老駅のひょうたんがあったなと思い出して応募してみたのだった。
 鉄道関係のフォトコンで最大の目標は、TAMRONの鉄道フォトコンに入選することだ。恩義を感じている広田のおやじさんと直ちゃん(矢野直美)に表彰式で会うにはなんとか入選しなければいけないのだけど、5年くらい連続で落ちている。あのフォトコンは必ずしも鉄ちゃんだけのものではないから私でもチャンスはあると思うのだけど、いまだに入れずにいる。ふたりが審査員交代になる前に一度でいいから入りたい。そのためには、もう少し本腰を入れて鉄道撮影をする必要がある。
 

瀬古の高牟神社と石山寺を再訪する

神社仏閣(Shrines and temples)
高牟神社入り口

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 守山区瀬古の高牟神社石山寺を再訪した。前回訪れたのが2008年だから、けっこう久しぶりだ。
近所に歴史あり、御畳奉行と行く瀬古の古寺社巡りツアー
 出向いたのは春前のことだったので、写真としては季節外れな感じになってしまっている。
 春先から初夏にかけて神社をまとめて巡ったときの写真が在庫になってけっこう残っている。夏写真がひと段落したところで、それらを順番に出していきたい。そうこうしてると秋になってしまうし、うっかりしてると今年が終わってしまう。紅葉の季節まではつなぎ写真が多くなりそうだ。
 高牟神社と石山寺については前回書けるだけのことは書いたので、興味がある方はそちらをお読みいただければと思う。今回は写真で紹介することにしたい。



矢田川堤防から見下ろす

 下街道の瀬古口交差点から細い道を西へ進んだ突き当たりに石山寺と高牟神社はある。
 個人的には矢田川の土手道から下って入る方が好きだ。堤防ができる前は川沿いの神社だったのだろうけど、かつての風景がどんなふうだったのか上手く想像できない。




手水舎の水




天満宮の牛




高牟神社拝殿




境内社




本殿を横から見る




境内社




寄付人の札




境内を行く親子




石山寺

 ほぼ隣接しているといっていい石山寺。かつては神仏習合で一体化していたと思われる。
 ここの山門は姿がよくて好きな門のひとつだ。二階部分に鐘があるし、楼門というべきだろうか。おそらく江戸時代前期に再建されたものだと思う。



石山寺山門

 かつて行ったことがある神社仏閣も、年月が経ったので、再訪して写真を撮り直したい気持ちになっている。神社仏閣再訪もシリーズ化することになりそうだ。
 

名古屋と近郊で食パンをめぐる旅 ---ブレ・ヴァン/ポンヌフ/マキマキ

パン屋(bakery)
ブレ・ヴァン店舗

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 名古屋と近郊で食パンをめぐる旅シリーズ。今回は名古屋市内の3つのパン屋さんを紹介します。

 瑞穂区桜山にある「ブーランジェリー ブレ・ヴァン (Bre'-Vant)」さん。
 瑞穂区は遠いからめったに行かないのだけど、前から気になるパン屋さんが何軒かあった。ここはその中でも評判のいい店だ。
 場所は桜山交差点から東へ200メートルほど行ったところの通り沿いなので分かりやすい。駐車場は広く、平日の夕方なのに警備員さんが立っていた。そんなに混み合う店なんだろうか。
 今年で20年というから、地域にすっかり定着しているのだろう。店の規模としてはわりと大きめで、スタッフもけっこう多いようだ。カフェスペースもある。



ブレ・ヴァン食パン

 なかなか行けないので、ソフトとハードと両方買ってみた。
 個人的な好みもあるけど、ハードの方が美味しいと思う。ざっくりした歯ごたえと口どけのよさが両立している。ソフトは食感はいいのだけど口どけがもうひとつで、味はややしょっぱく感じられた。
 両方とも美味しかったけど、どうしてもここじゃなくてはいけないというほどでもなかった。何しろ家から遠い。
 値段はまずまず。

 ブレ・ヴァンのHP
 お店の地図 
 8時~19時
 定休日 日曜日・月曜日



ポン・ヌフ店舗

 天白区八事にある「パン厨房 ポン・ヌフ」さん。
 八事というと興正寺もある昭和区というイメージなのだけど、お店は天白区になる。店の前の通りの山手グリーンロードは昭和区だ。八事交差点から南西方向に150メートルほど進んだ左手にある小さなお店がそうだ。
 ポンヌフといえば映画「ポン・ヌフの恋人」を思い出す。セーヌ川に架かるポン・ヌフ橋から店名は取られたのだろう。
 駐車場はないので、近くのコインパーキングか、道を隔てたイオンにとめるか。店の前の通りはバス停もあるし、短時間でもとめておくのは厳しいかもしれない。



ポン・ヌフ食パン

 選んだのは、パン・ド・ミと全粒粉のふたつ。
 パン・ド・ミはとてもオーソドックスで、味はややはっきりしているので、好みが分かれるかもしれない。
 全粒粉は少し渋みが感じられる。歯ごたえはサクサクのバシバシで好みのタイプだ。
 買う予定だったテンダーブレットが売り切れていたのは残念だった。次の機会があればそれを食べてみたい。

 ポン・ヌフ のHP
 お店の地図 
 7時半~20時半
 定休日 月曜日



マキマキの店舗

 名東区一社4丁目にあるベーカリーマキマキ (BAKERYmakimaki)さん。
 ここは場所を説明するのが難しい。上社ジャンクションから見て直線で南西300メートルほどの住宅地の中にある。目印となるような交差点や店がないので、土地勘のない人がカーナビなしに行き着けるかどうか。植田川沿いから西へ入った先の角だから、近くまで行けば分かるとは思うのだけど。
 このお店は行く前からなんとなく好きだなと思っていて、そういう感じというのはけっこう当たるものだ。パンの評価は味だけが決めるわけではなく、店の雰囲気だとかオーナーや店員さんの態度とか、いろいろな要素が絡まって印象を決める。また行きたいと思えばその店は自分にとっていいパン屋だし、その逆もある。



マキマキのバタール

 食パンがなかったので、天然酵母バタールというのを選んでみた。
 帰ってきてから勉強したところによると、フランスパンはバゲット、バタール、パリジャン、フィセル、ブールなどに分かれていて、それぞれサイズや重さ、形などに決まりがあるんだそうだ。その中でバタールというのは、重さは300gくらい、長さは40-50センチくらいものをいうのだとか。
 昔食べたフランスパンは、固くてパサパサでかみ切れないくらいな感じだったのに、最近のものはかなり食べやすくなっている。昔もちゃんとしたフランスパンはそうだったのだろうか。
 ザクザクの歯ごたえと中身はもっちりで、ハード食パンに近い。これはこれで美味しいと思った。
 次はこの店の食パンが食べてみたい。



マキマキのクロワッサン

 パン屋めぐり2周目はクロワッサンめぐりにすると決めたのだけど、フライングで少しずつクロワッサンも買って食べている。
 このクロワッサンは店名のマキマキと名付けられた看板商品で、店の看板やマークにもクロワッサンが描かれている。
 ややしっとり系のクロワッサンで、個人的にはもう少し皮がパリッとしている方が好みだ。中身はもっちりしている。
 充分美味しいけど、まだクロワッサンの基準が分からない。

 ベーカリー・マキマキ のFaceBook
 お店の地図 
 10時~18時
 定休日 日曜日・月曜日
 

夏旅の忘れ物 ~長浜/浜松

旅/散策(Stroll)
長浜丸ポスト

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 この夏は余呉・長浜と浜松・弁天島の二度鉄道旅をした。二回しか行ってないとも言えるのだけど、ここ一、二年は近場の鉄道旅もほとんどしていなかったから、これでも出かけた方だった。
 そろそろ夏も終わろうかというこの時期、写真を整理していたらまだ使っていない在庫写真がけっこう残っていた。このまま埋もれさせてしまうのももったいないから、夏旅の忘れ物ということでまとめて出してしまうことにした。前半は長浜で、後半は浜松から弁天島の写真だ。
 2016年の夏は、この二つの旅の記憶とともに幕を閉じようとしている。秋は久々に紅葉の遠出をしようかと考えている。



自衛隊ポスター




道で乾かす油絵




電話番号の名残




地下通路




浜名湖に沈む夕陽




浜松駅前の家康くん




浜松アクトタワー




静岡放送と河合ピアノ

 つい最近、ふとしたきっかけで知ることになったのだけど、2012年のミスせとものだった大槻有沙さんが今年から静岡放送のアナウンサーになっていた。ミスせともの撮影会で撮らせてもらったひとりなので、知り合いのような気分でちょっと嬉しかった。
 あれからもう4年近い歳月が流れていたのかと思うと、それはそれでちょっと驚く。



浜辺のナイフ




米津の浜




舞阪港の夕景




ブルーモーメント弁天島

 

ナスの天ぷらが食べたいサンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 今週は和風方面行きサンデー料理だった。皿が和皿というだけといえばそうなのだけど。
 月に一度くらいナスの天ぷらが食べたくなる。ナスはそんなに食べたくないし、天ぷらが特別好きというわけでもなく、ナスの天ぷらが好きなのだ。ただ、考えてみると店でナスの天ぷらを注文した記憶はない。店で食べる天ぷらというとだいたいがエビの天ぷらだ。じゃあ、家でエビの天ぷらを食べたいかというとそうでもない。サンデー料理でエビの天ぷらは何回登場してるだろう。あまりないんじゃないかと思う。
 そんなわけで今日はナスの天ぷらがメインだった。揚がり具合としてはまずまずで、自己採点は75点といったところか。そのうちチャンスがあれば、店でナスの天ぷらを食べてみよう。やっぱり自分で揚げるよりずっと美味しいんだろうな。



サーモンサラダ

「サーモンのサラダ」
 サーモン、タマネギ、トマトで作るサラダ。
 しょう油ベースのソースと、塩、コショウで食べる。
 レタスがあれば彩りがもっと華やかになった。



山芋炒め

「山芋とエリンギとオクラの炒め物」
 味付けは酒、みりん、しょう油、白だし、唐辛子など。
 コンソメとマヨネーズしょう油で味付けしようと思っていたのだけど、他との兼ね合いで和風にした。



ナスの天ぷら

 切り込みを入れるといいというのをネットで見て、理由は分からないまま採用している。こうすると揚がり具合がよくなるのだろうとは思っている。
 ナスのフライも好きだから、次はフライにしてみよう。
 

写真ノート<37> ---写真のバックグラウンド

写真ノート(Photo note)
ゴミ捨て場の犬小屋

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 写真には撮った人間のバックグラウンドが必ずある。表面に表れているかどうかは別にして。
 字に性格が表れるように、写真には人間性が出るといわれる。すべての写真がそうではないにしても、人間が撮る以上、人間性といったものを抜きに写真は語れない。
 それは、アナログ時代のフィルムからデジタルに移行した今も変わることはない。科学的にはまだ証明されていなくても、撮る人間の念のようなものが写真に写り込んでいる可能性がないとはいえない。実際には写っていないはずの気配だとか雰囲気だとかいったことを感じる写真というものがあるのは、そういうことなのではないかと考えたりもする。
 今回はそのあたりのことについて少し書いてみることにしたい。

 たとえば味噌汁と茶碗の白ご飯が写された写真があるとする。
 誰かが晩ご飯を紹介するためネットにアップした写真かもしれないし、一年間の外国旅行から帰ってきた人が久しぶりに食べる味噌汁とご飯に感激して思わず撮った一枚かもしれない。あるいは、宇宙旅行から帰ってきた日本人宇宙飛行士が撮った写真だとしたらどうだろう。
 写真にはそれぞれのバックグラウンドがあるというのはそういうことだ。撮られる瞬間にいたるまでの経緯がある。
 人は写真を見る。眺める。読む。考える。想像する。共感する。感動する。何かを感じて、その何かの正体を知りたいと思うことがある。写真はある程度鑑賞者に委ねられている部分があって、そこが写真のいいところであり、難しいところでもあるのだけど、単純すぎては面白くないし、曖昧すぎては落ち着かない。
 いい写真のひとつの例として、パッと見て何が写っているのか分からなくて、よくよく見てみるとなるほどそういうことかと納得するといったパターンのものがある。人はそういう写真を面白いと感じがちだ。謎かけがあって謎解きがある写真。撮り手と鑑賞者の間でキャッチボールが交わされることである種のカタルシスが得られる。
 味噌汁とご飯の話に戻ると、通常、写真は語られない前提で撮られることが多いのだけど、一方で写真は語られる宿命も併せ持っている。写真に興味を持った人間は、撮り手がどんな人間で、写っているものがどういう状況で撮られたのかを知りたがる。たいていは理解して、納得してすっきりしたいためだ。
 なにげなく撮られた味噌汁とご飯の写真には何も感じなくても、宇宙帰りの宇宙飛行士が撮ったと分かればそこに感動や共感を覚えたりする。
 写真は誰が撮ったかによっても価値が大きく変わる。一目見てつまらないと感じた写真でも、高名な写真家が撮ったものと分かると見方が変わったりするし、名のある人気写真家が偽名でフォトコンに応募したら落選するということだってあるはずだ。

 写真に人生経験は必要か?
 個人的に経験至上主義といったものを昔から嫌っていて、写真に人生経験など必要ないと言いたいところではあるのだけど、写真が技術と経験と美意識と才能の総合芸術であるとするならば、経験を軽視することはできないだろう。
 フォトコン入賞者の年齢を見ると、格式のあるフォトコンほど年齢が高くなる傾向がはっきり表れている。表彰式へ行くと、びっくりするくらい年齢層が高い。現在、第一線で活躍している写真家の大半が40代以上だし、森山大道、アラーキー、篠山紀信などは皆70代だ。あの人たちは若い頃から活躍していた写真家だけど、昔より今の方がいいのが撮れてると言うはずだ。
 そう考えると、写真は人生経験がものをいう部分が少なからずあることは認めざるを得ないのではないか。もちろん、経験豊富であるほどいい写真を撮れるといった単純な方程式は成り立たない。世界一周すれば世界的な写真家になれるかといえばなれないし、宇宙飛行士がすべて優れた写真家かといえばそうではない。
 ただ、今写真をやっている20代、30代の人にとってみれば、年を食えば今よりいいものが撮れるようになるというのはひとつの希望になるんじゃないか。基本的に写真は、上手くなることはあっても下手になることはない。撮れば撮るほどよくなっていくのが普通だ。他の芸術のように才能が涸れておしまいということはなく、一生涯取り組むことができる表現方法というのは他にはあまりない。

 写真は氷山にたとえられるかもしれない。氷山の一角という言葉があるように、写真として表れるのは撮り手のほんの一部分に過ぎない。見えていない部分には大きな自分が隠れていて、それが大きければ大きいほど表に表れる部分が輝くように思う。底が浅い写真はどこか分かるものだ。
 経験だけでなく、思想や哲学、教養、知識といったものも必要だと思う。写真は撮り手の総合力が問われる。つまらない写真しか撮れなければつまらない人間だと思われても仕方がない。
 いい写真を撮るためには、自分を磨くしかない。感覚を進めることと、思考を深めること。技術はあとからどうにでもなる。
 たくさん見て、知って、感じて、考えて、理解すること。小説を読んだり、美術館へ行ったり、音楽を聴いたりすることは自分の血肉となり、直接ではないにしても間接的に撮る写真に影響を与える。
 いい写真とは、見る人の心を動かす写真だ。人の心を動かすというのはそんなに簡単なことじゃない。
 他人が自分のすべてを理解してくれるなどというのは幻想に過ぎないことは誰もが知っている。写真も同じだ。主観的には100の写真も、人が見れば10パーセントか20パーセントしか伝わっていないかもしれない。もっと低いことだってある。それはある意味、どうしようもないことだ。より伝わる表現を模索することも大事だけど、もっと簡単なのは、自分のキャパシティーを上げることだ。もし自分自身を10倍の1000にすることができれば、そのうちの10パーセントが伝われば当初の100に当たる。
 誰も自分の写真のよさを理解してくれないと嘆いている暇があったら、自分を高め、深め、前へ進めるにはどうすればいいかを考えた方がいい。
 上手くなるには写真を撮ることももちろん大切なのだけど、撮り手である自分が低い位置にとどまり続けてしまえば写真のレベルはいっこうに上がらない。小手先の技術だけ高めても、人を感動させることはままならない。
 優れた写真を撮るには、自分自身が優れた人間になるしかない。

 私がいつも考えていることは、先へ進むことだ。とにかく前へ行くことだけを考えている。人の理解や結果はいつも遅れてあとからついてくる。理解が追いつかれてしまったら逆に負けだ。どんどん先へ行かないと。
 写真は常に過去の自分が撮ったもので、今の自分はすでにそこにはいない。過去の自分が撮った写真よりも、未来の自分が撮る写真を見たい。それが写真を撮り続ける一番の原動力になっている。
 写真家ならプロとアマチュアとを問わず、いつでもこう思っているはずだ。もしかしたら、今日こそは、あるいは明日こそ、なにかすごいのが撮れるんじゃないか、と。その幻想を抱くことは間違いではないけれど、今ここにはないし、一足飛びに行けるものでもない。毎日休まず歩き続ければいつかたどり着けるかもしれないものだ。
 私もまた、10年後にはもう少しいいのが撮れるようになってるんじゃないかと楽しみにしている。
 

タダなら行ってみようか久屋大通庭園フラリエ

施設/公園(Park)
フラリエ玄関

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 名古屋大須の矢場町にランの館ができたのが1998年(平成10年)。私が初めて訪れたのは2007年のことだった。
 月日は流れて2014年(平成26年)、ランの館は閉館となった。話題になっている場所へ一度は行くけど二度は行かないという名古屋人気質がここでも犠牲者を生むことになった。来場者の低迷で、名古屋市の仕分けを食らってしまったのだった。
 そのランの館が無料の市民公園として生まれ変わったのが2014年9月。名前は公募から選ばれた久屋大通庭園「フラリエ」に決まり、再出発することになったことをニュースで見て知って以来、一度行かなければいけないとずっと気にはなっていた。ようやく行けたのが今年2016年の9月ということで、フラリエ誕生から2年も経ってからとなってしまった。
 ランの館のときも、どんな施設か説明するのが難しかったのだけど、フラリエについても同じことがいえる。ランの館の名残をとどめた市民公園兼飲食店とでもいったらいいだろうか。植物園というほど植物が充実しているわけではなく、飲食店施設としても中途半端だ。一番近いのはノリタケの森のような感じといえば名古屋の人なら分かってくれるかもしれない。あそこに比べたら規模はずっと小さいけれど。
 ちなみに、愛称のフラリエは、「ふらり」+「フラワー」+「アトリエ」を組み合わせた言葉なんだとか。
 言葉で説明しづらいので、写真で説明してしまおうという試みなのだけど、果たしてどれくらい伝わるだろうか。



北入口から入ったところ




芝生広場とパティオ風




くつろぎ用椅子




噴水のウォーターガーデン




柱の通路




ハートと騎士




北ウィング

 雑貨店が入る北ウィング。



クリスタルガーデン

 ランの館時代は蘭を観賞するためのメイン施設だったクリスタルガーデン。
 今でも少し蘭が展示されている。イベントなども行われるようだ。



西ウィング

 西ウィングにはカフェやレストランが入っている。



西ウィング内部

 蘭の鉢なども売っている。



バーベキュー

 ビールやワインなども飲むことができる屋外のガーデンキッチン。バーベキューもできる。



ガーデン

 写真を撮るためにフラリエを訪れてみて思ったのは、ここは舞台だということだ。フラリエ自体は被写体としては物足りないけど、舞台としては整っている。あとは登場人物を配置するなり、イベントなりがあれば、ここは絵になる。逆にいえば、舞台だけ整っている空っぽの空間でしかない。フラリエそのものを撮っても楽しくない。結婚式もできるようなので、それなら撮ってみたいと思う。
 季節としては断然、春がいいだろう。夏は花が少なかった。クリスマスシーズンは何かイベントなどしてそうだから、夜に訪れるのもいい。
 年末年始以外は年中無休で、開園時間は午前9時から午後5時半まで。
 ガーデンキッチンやカフェなどは22時半までやっている。
 有料駐車場が隣接している(18台)。

 名古屋人はお得やタダに弱いといわれる。お金を出してまでランの館に行きなくないけどタダならフラリエに行ってもいいという人は多いはずだ。ただ、最初にも書いたように、特別気に入らないと一回行って終わりということが多々あるわけで、イタリア村のことを考えると、フラリエも安泰とはいえない。テナントが撤退すると危ういことになる。
 県外の人にすすめられるほど魅力的とはいえず、名古屋の人にも強く推薦できないとなると、これ以上私はフラリエについて語る資格がないかもしれない。いやいや、フラリエ大好きですよという人もたくさんいるに違いないけど。
 舞台が整っているということで、モデルさんの撮影には向いていると思う。許可が必要なのかどうかは知らないけど、この日もおめかしをした子供たちをカメラマンが撮影していた。
 上手く活用できればいいスポットだから、今後も続いていってほしいと思う。
 

去りゆく夏の道行き風景

日常写真(Everyday life)
夏の田んぼ風景

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 夏が私たちから遠ざかっていくのではない。私たちが夏から遠ざかっていくのだ。記憶が私たちから離れていくのではなく、私たちが記憶から離れていくように。
 今日は十五夜。中秋の名月。名古屋では薄い雲がかかってぼんやりした姿を見せて浮かんでいる。季節はもうすっかり秋の入り口だ。
 置いてきた夏は記憶と写真の中に残った。振り返らずに先を目指すのではなく、ときどき振り返ってみることも悪くない。
 今日は夏の道行き風景をお送りします。



夏の空と雲




田んぼのかかし




シーズンオフの市民プール




田んぼと瀬戸デジタルタワー




田んぼの草取り




川とコサギ




道ばたの側溝に咲く百日紅




電線にとまる夏のツバメ




夕焼けと野焼きの煙




日暮れの香流川

 

9月のモリコロパークを撮る

施設/公園(Park)
モリコロ観覧車

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm / 60mm F2.8



 観覧車は乗るよりも撮る方が好きだ。モリコロパークの観覧車は一度だけ乗ったことがある。愛・地球博の期間中ではなく、万博が終わって間もない頃だった。撮るのはもう何度も撮っていて、ときどきこの観覧車のことを思い出して、また撮りにいこうかとなる。今回もそうだった。時間帯はやはり夕方に限る。夕焼けから夕暮れどきがいい。
 観覧車がある少し東の高台から名古屋駅方面の夕景を見るのも好きだ。邪魔な電線や木など視界を遮る物がなくて空が広い。
 この日はかえで池の横を通って日本庭園まで行き、引き返してこいの池を回って観覧車のあるエリアまで行くというコースを辿った。今の季節は花も咲いていないし、虫もいないので、撮るものがあまりない。以前あったコスモス畑は2年ほど前になくなってしまったから、次の見所は11月後半の紅葉ということになるだろう。



S字の散策路





かえで池




桜の木にカマキリ




初秋の光




半月とオミナエシ




光るこいの池




西日の散策路




遠くのはげ山




水面に映る木の影




光る観覧車のゴンドラ




夕焼けの名古屋駅方面




沈み行く夕陽

 

舞阪から弁天島へ <後>

観光地(Tourist spot)
舞阪漁港

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 前回の続きで、今日は舞阪から弁天島の後編をお送りします。
 舞阪駅から弁天島までは、旧東海道を行けば2.5キロほどなので、ゆっくり歩いて45分くらいだ。私は遠回りして歩いたから4キロくらいだった。写真を撮りながらでも1時間半はかからなかったと思う。
 上の写真は舞阪漁港だ。向こうに見えているのが今切口にかかる浜名大橋。橋の向こうは遠州灘で海とつながっているのだけど、港の船はたぶん浜名湖で漁をする船だろう。
 浜名湖は湾だったり、淡水だったり、海とつながったりと、過去に大きな変化があった湖だ。室町時代の地震で湖水面が下がって海とつながったとされている。大津波の影響もあるという。
 現在はかなり塩分濃度が高いようで、汽水というより塩湖に近いのだとか。なめる気はしないけどなめたらたぶんしょっぱいはずだ。



港町の風情





水神宮




弁天島の夕陽




弁天島夕焼け風景




常夜灯




北雁木

 舞阪宿から次の新居宿(あらいしゅく)までは船で渡していた。最初1里(4キロ)だったのが地震や津波などで1里半になった。
 舞阪宿には3つの渡し場があって、ここは北雁木(きたがんぎ)と呼ばれていた。主に大名や幕府の役人が利用したところということで、幅十間(約18メートル)の石畳が敷かれていた。現在のものはたぶん復元ではないかと思われる。



自転車のふたり




弁天島に夕陽が沈む

 弁天島海水浴場。
 この日はまだ夏休み期間ということで家族連れなどそこそこ人が訪れていた。
 もともと弁天島の他、全部で4つの小島があり、昭和に入ってから埋め立てで造成して観光地とした。
 見えている鳥居は神社のものではなく、観光用のシンボルタワーだ。
 弁天島あたりには縄文時代から人が住んでいたという。現在、島全体で3,000人ほどが暮らしているのだとか。



弁天島ブルーモーメント




弁天島鳥居ライトアップ

 今回の浜松の旅はここでおしまいとなった。
 

舞阪宿跡と舞阪の町を歩く <前>

観光地(Tourist spot)
舞阪宿松並木

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 中田島砂丘をあとにして次に向かったのは舞阪だった。JR東海道本線で浜松駅から名古屋方面に2つ戻ったところに舞阪駅がある。その次が弁天島駅で、弁天島の夕景を撮ることがこの日の最終目標だった。弁天島は2009年に一度訪れたことがある。
 舞阪で降りたのは、かつて東海道の宿場町があったところで、松並木などが残っているというのをネットで知って一度歩いてみたいと思ったからだった。愛知県内の東海道で松並木というと御油宿がよく知られていて私も一度訪れたことがある。それ以外に三保松原とか気比の松原とかも行ったことがあるのだけど、舞阪の松並木もなかなかのものだった。松の木が元気で青々しているのがいい。街道沿いにこれだけの規模の松並木が残っているところはそうないんじゃないかと思う。
 舞阪宿跡では東海道で唯一現存する脇本陣も見所のひとつなのだけど、途中で旧東海道を外れた道を歩いたのでその存在をすっかり忘れて見逃してしまった。どのみち午後4時で閉まってしまうので外観しか見られなかっただろうけど(見学無料)。
 そんなわけで、今日は舞阪から弁天島に続く風景の前編をお送りします。



松並木のある風景




白王稲荷神社




旧東海道の街並み




スズキ船機店




舞阪灯台




海辺の散策路




舞阪灯台下




浜と遠州灘

 浜名バイパスの北は遊歩道が整備されていて、舞阪灯台の近くにある展望台からは遠州灘を見渡すことができる。



犬とランナー




舞阪の町と夕陽

 弁天島編につづく。
 

嫌いではないけど好きでもないサンデー料理

料理(Cooking)
サンデー料理

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 料理することが好きかと訊かれたら別に好きじゃあないと答える。じゃあ嫌いなのかと問い詰められると、そうは言ってないと反論したくなる。嫌いじゃないなら好きなんでしょと強く言われたら、まあそうかもしれないねと言うしかなくなる。人の行動原理は必ずしも好き嫌いによるわけじゃないと思うのだけど。
 その問いは、写真を撮ることが好きかという問いに似ている。別に好きで撮ってるわけじゃなくて、と説明し出すと話がややこしくなるから言葉を飲み込んでしまいがちだ。好きでもない料理を作って好きでもない写真を撮ってる私は不幸なのかといえばもちろんそうでもない。いっそのこと、料理も写真も好きということにしてしまえば話が早いのだけど。
 2005年の9月にブログを始めて、最初のサンデー料理はシーフードカレーだった。
「好きじゃない+好きじゃない=やっぱり好きじゃない」
 そのときの話題も、カレーは別に好きじゃないというものだった。考えてみると私は別に好きでもないことをあれこれやって、それを案外楽しんでいるところがあるのかもしれない。半分照れ隠しで半分本気なのだけど、子供の頃からの性格なので今更変えようがないと思われる。
 私はもう30年近く、ほとんど一日も休むことなく日記を書き続けている。日記を書くことが好きかと問われれば、やっぱりこう答えるしかない。別に好きで書いてるわけじゃない、と。
 生きていることは嫌いじゃないけど特別好きでもない。ときどき楽しいことがあるから死ぬより生きている方がいいんじゃないかと思う。そんな人生論があってもいいようなよくないような。



マグロのグリル焼き

「マグロのグリル焼きしょう油ソース」
 グリルで半生まで焼きを入れるマグロ料理。
 たれは、酒、みりん、しょう油、ショウガ、からしで、塩、コショウを振りかけて。



ナスのトマトチーズ

「ナスのトマトチーズ乗せ」
 ナスは水にさらしてあく抜きをしたあと、オリーブオイルで焼く。蓋をして弱火で蒸し焼きにすると柔らかくなる。
 刻みタマネギ、トマト、ツナ缶をオリーブオイルで炒め、塩、コショウ、コンソメの素で味付けをして、最後にとろけるチーズを加える。



ジャガイモの煮っ転がし

「ジャガイモの煮っ転がし」
 煮っ転がしというよりスープ風になってしまったけど、方向性としては煮っ転がしだった。
 具材を炒めて、酒、みりん、しょう油、鶏ガラだしで味付けをして、水を加えて煮込んでいく。
 

写真ノート<36> ---フォトコンのこれまでとこれから

写真ノート(Photo note)
観覧車と夕焼け家族

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 最近、フォトコンの入選歴を訊ねられることがあって数えてみたところ、入選回数が99回になっていた。
 これまでも折に触れて写真ノートの中でフォトコンに関しては何度か書いてきたのだけど、今回総まとめとしてこれまでのフォトコンとこれからのフォトコンについて書いてみたいと思う。

 ホームページを始めたのが1999年。コンテンツが日記だけでは寂しいから散策をもうひとつの柱にしようと決めて、そのお供として記録用のコンパクトデジカメを買ったのが確か2000年だったと思う。
 初めてのデジタル一眼は2005年の10月。愛・地球博が終わったタイミングだったのでよく覚えている。中古のEOS D30だった。
 フォトコンに応募を始めたのは2006年で、最初はまったくかすりもしなかった。正直、自分でも写真の才能がないと思ったし、入選は遠い目標でしかなかった。
 初入選は2007年8月の『デジタルカメラマガジン』で、「アジサイの江ノ電を撮る人たち」が佳作に入った。選者は鉄道写真家の広田尚敬さんで、翌月も選んでもらったこともあって、広田さんは今でも恩人として感謝する気持ちを持ち続けている。まだまだ全然へたくそだった時代に唯一選んでくれた写真家だった。
 これで気をよくして、自分もけっこう撮れるようになったんじゃないと思ったのは勘違いで、2008年はまったくの鳴かず飛ばずで終わる。
 2009年からぽつぽつ入り始めるも、翌2010年まではたまにまぐれのように入選するだけだった。
 ひとつ大きなきっかけになったのは、2011年4月の「駆ける園児」が『デジタルカメラマガジン』の準優秀に選ばれたことだった。このときは本当に嬉しくて、ひとりで部屋の中で走り回りたいくらいだった(当時は20日の深夜0時にネットで発表されるというシステムだった)。フォトコンの入選であれほど喜んだのは後にも先にもあのときだけだ。選者の中井精也さんにも本当に感謝している。
『デジタルカメラマガジン』では年度賞で2位になり、その他でもいろいろ入って飛躍の年となった。
 2012年も好調は続き、雑誌以外のフォトコンにも手を広げてあちこちで入るようになる。
 2013年は自信を深める年となった。それまで入選といってもほとんどが佳作だったのが、この年、入選の壁を越え、一気に優秀賞までいけるようになったのだった。どんな小さなフォトコンでも、1位になることには価値がある。1位と2位の差は2位と100位の差よりも大きい。
 富士フイルムのフォトコンで「名もなき風景の声を聞け」がフォトブック部門で入選したのもこの年だった。それによって道ばた写真というものが自分の中で確立した。自分の写真の軸足が決まったのは、この入選があったからだ。
 2014年になると、生意気なことに入ることが当たり前になっていく。組写真もある程度分かってきて入選するようになる。
 工場夜景フォトコン入選のご褒美として北九州サミットに招待してもらったり、『工場夜景』写真集に参加させてもらったりと、いろいろ思い出深い年だった。
 2015年は『PHaTPHOTO』のMVPで神戸の御苗場に出させてもらったのが大きな出来事だった。展示自体はあまり手応えがなかったのだけど、終わってからあれこれ思うところもあり、得たものも多かったように思う。
 ようやく『日本カメラ』に入ることができたり、『デジタルカメラマガジン』で初の最優秀をもらったりもした。
 京都の高台寺のweb写真を担当させてもらったことは、今後につながる大事な経験となった。
 そして2016年。今年はあまりよくもなく悪くもなくといった感じで、ここまで来ている。
 初入選から10年で100回というのが多いのか少ないのか、なんとも言えない。写真を始めた当初の自分にしたら考えられないくらいではあるけど、今の写真に満足しているわけではなく、自分ではもっともっと撮れるような気がしている。

 フォトコンを始めたきっかけは、自分の写真を評価してもらいたいという単純なものだった。続けていくうちにその思いや理由、意味や方向性は様々に変化していったわけだけど、最終的な目標はフォトコンから卒業することだというのは変わっていない。フォトコンの年度賞をとることが目標ではないし、フォトコンのために写真を撮っているわけでもない。大事なことはフォトコンの先にある。
 最初は自分の写真を正しく判断することができなかった。他人の評価に委ねるしかなかったときから比べれば、ある程度判断はつくようになった。ただ、自己評価と他人の評価が完全に一致したわけではなく、まだまだ開きがあるのも事実だ。なかなか自分の写真を客観点に判断するのは難しい。その写真に思い入れがあればあるほど判断は狂う。
 ただ、一番変わったのは、自分の写真を信じられるようになったことだ。評価されなくても自分がいいと思える写真を撮りたいと思えるようになった。言い換えれば、褒め言葉に引きずられないようになったと言える。
 何にしても、フォトコンは入らなければ意味がない。たいていの場合、落選理由を本人に知らされることはなく、落ちてもどこをどう直せばいいか分からないからだ。入ったとき初めて自分の写真に対するプロの言葉が聞ける。
 一方で、フォトコンは落ちてこそ価値があるという言い方もできるかもしれない。落とされ続けることで痛みを知り、それが力になる。落ちることは恥ずかしいことじゃない。あきらめてやめてしまったらそこで負けだ。

 フォトコンはやらないよりもやった方がいいと私は考える。入るにしても落ちるにしても得られるものがあるから。挑戦しなければ何も得られない。
 特にプリントをやることをおすすめしたい。フォトコンをやる理由の半分以上はプリントをするためだといってもいい。プリントは経験を重ねなければいいものを作れない。いいプリントのためにはいい写真を撮らなければいけないし、せっかくいい写真を撮ってもプリントが下手では写真が台無しになってしまう。
 そもそも写真とはプリントのことで、画像データのことではない。プリントして初めて写真は物として存在する。データ応募のフォトコンもあるけど、写真はプリントという完成形で評価されるべきものだ。
 プリントの技術を上げるためにフォトコンをやるというのは正しい方向性だと思う。

 これからフォトコンをやろうという人や、やっているのになかなか選ばれないという人に向けてかける言葉があるとすれば、フォトコンには必勝法も近道もないということだ。とにかく自分の写真を地道に撮り続けるしかない。フォトコンのために写真を撮るのは虚しいからやめた方がいい。
 これは持論なのだけど、フォトコンに入選しているようなアマチュアの写真を極力見ないようにすべきだと私は考える。センスのいい写真などに変な影響を受けてしまうからだ。見て勉強するならプロの写真家の写真集がいい。そこに答えはあるのだから、真似すればいいのだ。写真の真似は盗作ではない。真似して、掴んで、そこから自分のオリジナルを見つけていけばいい。
 フォトコンを続けてある程度入るようになると、コツというか傾向が分かってきて、入ること自体はそれほど難しいことではなくなる。選者が選びそうな傾向の写真を応募することで入る確率が上がるといったこともある。
 ただ、やっぱり自分が本当に撮りたい写真で勝負すべきだと思うのだ。入ることは嬉しいし、落ちることは悔しい。だから入りそうな写真を撮って入選を続けたいと思うのが人情だ。その気持ちに打ち勝てるかどうかに分かれ道がある。入って嬉しい写真とそうでもない写真がある。入って嬉しい写真を撮るのが本来のあり方ということを忘れてはいけない。

 最後に、選者さんに対して日頃思っていることを書いて締めくくりとしたい。
 ひと言でいうなら、もっと嫌われてもいいんじゃないの? ということだ。
 最近の時代的な傾向もあって、評価の言葉が甘いものばかりになっている。楽しんで撮っているアマチュアを傷つけまいという配慮なのだろうけど、そんなおためごかしの言葉では写真は上達しない。指導者的な立場でもっと厳しい言葉があってもいいんじゃないかと私は思うのだ。
 プロなのだから、写真を単純に楽しんでいる人と、真剣に取り組んでいる人は写真を見れば区別がつくはずで、後者の場合は強い叱咤激励を望んでいる人も少なくないのではないか。
 ひとくちアドバイスのようなものはあっても、あれは技術的な添削がほとんどで、写真を撮る姿勢や思想まで踏み込んだ批評がなされることはほとんどない。土門拳などは、担当するフォトコンの応募者たちに向かってアマチュア相手でも容赦なく罵倒していた。コメントを読んだおじいちゃんとか泣いてるんじゃないかってほどの痛烈さだったけど、あれはアマチュアに対しても対等な写真家として対峙していたからこその言葉だった。「次の一枚を人生最後の一枚という覚悟を持って明日からの写真活動をしてください」という言葉が印象に残っている。
 いい写真を選んで褒めるだけなら素人でもできる。選ばれた写真の顔ぶれを見て、アマチュアだからって甘く見られてるなと思うこともある。プロがプロの写真を選んだらこういう結果にはならなかっただろうなと。
 選者としての役割は、優れた写真を選ぶことだけではなく、参加している人たちの写真力を上げることもあるのではないか。選んだ写真に対しても駄目なところは駄目と言うべきだし、どうすればもっと良くなるかを伝えるべきだ。ここをこうすればもっと良くなるとアドバイスするだけでなく、撮影姿勢や写真に対する態度についても問うべきだと思うのだ。
 忙しいし、そこまで時間も労力もかけていられないというのが実際のところなのだろうけど、選者になった以上、選ぶことと落とすことに責任を持つことは必要だ。フォトコン選者というものをあまり軽く考えない方がいい。責任が持てないというなら最初から引き受けるべきではない。
 ときに一枚の入選、落選がその人の写真人生を左右することもある。単純にいい悪いではなく、どの作品を選ぶべきなのか、しっかり考えて決めてから選んでほしい。

 フォトコンの間口は広く、奥行きは深い。軽い気持ちで参加してもいいし、ライフワークとして取り組むこともできる。あれこれ書いたけど、まだやったことがない人にはぜひやってみくださいとおすすめしたい。私ももうしばらくは続けたいと思っている。
 

東山植物園便り ---夏よまだ行かないで

植物園(Botanical garden)
ヒガンバナ

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 9-18mm / 60mm F2.8



 気が早いヒガンバナは、秋の訪れを待ちきれずに8月の終わりに咲いてくる。初秋の花というよりも晩夏の花といった方が当たっているかもしれない。この花を見ると、突然秋が来たかと焦ってしまう。植物園のヒガンバナが特別早いだけともいえるのだけど。
 9月はじめの東山植物園。前回訪れたのが7月はじめだったから、丸々2ヶ月も訪れていなかったことになる。この夏はどこで何を撮っていたのだろうと、自分でも不思議に思うほどだ。8月に一度も植物園を訪れなかったのは、ここ数年で初めてのことだ。
 9月の植物園はやっぱり撮るものが少ない。トンボ池もめっきり寂しくなってしまった。終わりゆく夏を否が応でも感じながらの撮影となった。



シラタマホシクサ





サワギキョウ




萩の仲間




枯れアジサイ




ワレモコウとススキ




地面の落ち葉




ノリウツギ




タラノキ




ギンヤンマ




ヒマワリ

 秋は秋で好きだけど、もう少しだけ夏の延長戦が続いて欲しいと願う。
 

9月はじめの海上の森を撮る

森/山(Forest/Mountain)
海上池の夏風景

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 9-18mm / 60mm F2.8



 9月はじめの海上の森
 夏が終わる前に行っておきたかった。
 4月7月に湿地コースは歩いているのだけど、池コースとなると1月以来となる。ずいぶん久しぶりだ。毎年、夏は一番よく出向いている季節なのに、今年はなんとなく行けなかった。夏にも、虫にも、あまり気持ちが向かわなかったというのもあるし、暑さに負けたというのもある。
 9月の海上の森は、夏と秋の狭間で花も少なく、撮るものがあまりない。虫もすっかり数を減らす中、ツクツクボウシだけが元気に鳴いていた。その声も消えると、森は唐突に静かになる。ずっと続いていた耳鳴りが急にやんだみたいに。
 海上池と篠田池の水がずいぶん減っていた。夏が過ぎると毎年こんなものだったか。雨不足とかではないと思うのだけど。



カマキリ




セミの抜け殻




篠田池の9月




苔と杉の芽




杉林




トンボ




カエル




海上池の立ち枯れの木




水面の映り込み




水没枯れ木




イナゴ




森の中の散策路

 秋の紅葉シーズンにもう一度行きたい。
 

中田島砂丘の風景 <3>

観光地(Tourist spot)
中田島砂丘に集う人々




 中田島砂丘の第3回をお送りします。

 今回の中田島砂丘では珍しくC-PLフィルターを使ってみた。前々回書いたように、海辺は強い風によって砂埃と波しぶきが猛烈に吹き荒れているため、フィルターなしではちょっと怖くて使えなかったというのがある。25mmと60mmは保護フィルターを持っているのだけど、9-18mmはサイズが違っていて持っていないので、ステップアップリングでC-PLフィルターを使ったのだった。
 実は超広角レンズでC-PLを使ったのは初めてで、その組み合わせにデメリットがあることを知らなかった。デメリットというのは、上の写真を見ると分かるように、空の明るさにムラができることだ。片効きと呼ばれる現象で、太陽の位置や角度によって空の半分や一部に明るさムラが出ることがあるのだとか。そんなことは知らず、液晶モニターも基本的には確認しないので、帰ってきてからPCで見るまで気づかなかった。
 効果を弱めたりすると多少はましになるようだけど、基本的に超広角レンズとC-PLの組み合わせはNGと思っておいた方がいいらしい。どうしても使いたければあとからレタッチで直すことになるのだけど、こういう中途半端なグラデーションは完璧に直すのが難しい。囲ってしまうと境界線が不自然になるから、焼き込みと覆い焼きでやるか、色のコントロールで調整するかだろう。
 私はもう懲りたので、超広角でC-PLは使わないことにする。標準や広角レンズまでならここまで極端な片効きが出ることはないはずだ。



浜辺に打ち上げられた空き瓶





高い波とサーファー




砂浜のウミガメ目線




砂地に生きる草




浜に落ちていた新しい靴の片方




波消しブロックに打ちつける波




垣のシルエット




遠州灘と波打ち際




波の姿




馬込川河口




砂丘と足跡

 まだ名残惜しいのだけど、今回はここまでとしたい。
 砂丘の全貌がだいたい掴めたので、次の機会があればもっといい条件でいいのを撮りたい。
 
 浜松名物の一つとして中田島砂丘をおすすめしたい <1>
 中田島砂丘モノクローム

【アクセス】
 ・JR東海道本線「浜松駅」から通鉄バス「中田島」行きに乗って「中田島砂丘」下車(約15分)。徒歩約1分。
 ・無料駐車場あり(遠州灘海浜公園)
 
 浜松市公式webサイト
 浜松・浜名湖観光情報webサイト
 

中田島砂丘モノクローム

観光地(Tourist spot)
中田島砂丘




 中田島砂丘の2回目は、モノクローム編をお送りします。
 風景としては単調なので、あえて単純化してモノクロ化するのは方向性として間違っていない。この風景はモノクロもよく似合うだろうと撮る前から思っていた。
 惑星感というか地球感のある写真が撮りたかった。映像や写真で見る月の地表のようなイメージで。月面探査コンテストに出場する日本チームの月面ローバーHAKUTOがここで運用試験をしたというから、実際月面環境に近いものがあるのかもしれない。
 この場所で多くのPVが撮られている理由も、現地に行ってみるとよく分かる。これだけ広く開けている場所で人工物が視界に入らないところというのは貴重だ。ここには砂と空と海と石と草と木と雲くらいしかない。ときどき落ちているゴミを除けば。
 できることならまったく足跡が付いていない状況で撮ってみたい。そのためには浜松に一泊して夜明け前に訪れるしかないだろう。



砂漠感




風紋が広がる




うねる砂丘




荒涼とした風景




広い砂浜と二人




風が砂に描く模様




打ちつける波しぶき




長く続く米津の浜




遠州灘と空と雲




波消しブロックと波しぶき

 つづく。
 
 中田島砂丘の風景 <3>
 浜松名物の一つとして中田島砂丘をおすすめしたい <1>

【アクセス】
 ・JR東海道本線「浜松駅」から通鉄バス「中田島」行きに乗って「中田島砂丘」下車(約15分)。徒歩約1分。
 ・無料駐車場あり(遠州灘海浜公園)
 
 浜松市公式webサイト
 浜松・浜名湖観光情報webサイト
 

浜松名物の一つとして中田島砂丘をおすすめしたい <1>

観光地(Tourist spot)
砂丘と風紋




 浜松といえば浜名湖パルパルでしょう! というのは静岡県民。一般的には浜名湖であり、餃子であり、うなぎであり、うなぎパイであり、浜松城といったあたりを思い浮かべることだろう。お父さんたちにとっては浜名湖ボートだったり、奥様方にとっては浜名湖かんざんじ温泉だったりするかもしれないけど、真っ先に砂丘! と答える人は少数に違いない。
 そもそも浜松市内に中田島砂丘があること自体、知らない人の方が圧倒的多数のような気もする。日本三大砂丘のひとつともいわれるほど日本を代表する砂丘であるにもかかわらず、その知名度は低い。
 私がその存在を初めて知ったのは2010年のことだった。
 日本三大砂丘の一つが浜松にあるとは知らなかった
 そのときの感想は、へー、これが砂丘なんだというもので、特別な感慨は抱かなかったのだけど、砂丘のスケール感を伝える写真が撮りきれなくて、いつか再訪して撮り直したいという気持ちはずっと持っていた。
 名古屋から見て浜松は近いようで遠く、遠いようで近い。名古屋駅からJRの快速と普通を乗り継いでも1時間半ほどだから、ふと思い立ったらすぐに行ける距離ではあるのだけど、気分的な遠さがある。
 浜松駅から中田島砂丘までは路線バスが出ていて15分で行ける。生活路線バスなので本数もそこそこあって利便性は高い。中部からも関東からもこれだけ行きやすい場所にありながら訪れる人が少ないのは、やはり知名度の低さゆえに違いない。映画やドラマ、PVなどのロケ地としてはけっこう使われていて、映像業界ではよく知られているとのことだ。最近では映画『清洲会議』や朝ドラの「とと姉ちゃん」などでも使われている。
 アカウミガメが産卵にやってくるところとしてもちょっと知られた存在となっている。

 南北約600メートル、東西約4キロというからなかなかの規模だ。ただし、砂丘っぽい部分は東西1.2キロくらいなので、それほど広大という印象は受けない。砂丘に続く米津の浜が見渡せないほど延々と続いているのだけれど。
 海岸には風が強く吹いている。砂丘の東を流れる天竜川が上流から運んできた砂を北風が吹き上げて積み上がってできたが中田島砂丘だ。
 ただ、天竜川上流にできたダムの影響などもあり、年々砂丘の面積は減少傾向にあるという。昔の姿を知っている人は、久々に訪れるとなんだか起伏が少なくなったと思うらしい。
 名物は風紋で、春と秋にきれいな風紋が見られるそうだ。私が前回訪れたのは1月で、今回は8月だから、どちらもシーズンを外している。どのみち昼間は訪れた人の足跡だらけになってしまうから、風紋目当てなら朝早く訪れるのがいい。
 目の前の遠州灘は視界を遮るものがなく、水平線に沈む夕陽も、水平線から昇る朝日も、両方見られるのだという。星空を撮るにもよさそうではあるのだけど、とにかく風が強いので相当しっかりした三脚じゃないと揺れてしまいそうだ。
 あと、風による砂埃と波しぶきがすごいから、レンズフィルターは必須だ。メガネが汚れて途中から前がよく見えなくなった。
 砂浜は足を取られて歩きづらいので、歩きやすい靴がおすすめだ。
 隣接する遠州灘海浜公園に広い無料駐車場とトイレがある。

 そんな中田島砂丘の模様を何回かに分けてお届けします。



砂丘のスケール感




風と波が作る砂模様




惑星感




風紋と遠州灘




垣

 堆砂垣。これがないと砂がどんどん風で運ばれてしまって浜の面積が小さくなっていくらしい。



遠州灘と米津の浜

 長く続く米津の浜。



青い海と白波




砂丘を訪れる家族たち




白波




中田島砂丘全景

 つづく。

 中田島砂丘モノクローム
 中田島砂丘の風景 <3>

【アクセス】
 ・JR東海道本線「浜松駅」から通鉄バス「中田島」行きに乗って「中田島砂丘」下車(約15分)。徒歩約1分。
 ・無料駐車場あり(遠州灘海浜公園)
 
 浜松市公式webサイト
 浜松・浜名湖観光情報webサイト
 

サンデー料理はバリエーション

料理(Cooking)
サンデー料理

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 先週のサンデー料理で自分が何を作って食べたかほとんど覚えていない。無意識に作って無意識に食べているわけでもあるまいに。ぼんやり覚えているのは、メインの食材に何の魚を使ったかくらいだ。他の2品のことはまったくといっていいほど思い出せない。ブログを書くときに先週の料理の写真を見て、今週もほとんど同じ食材を使っていることに気づいたりする。毎回同じ食材で少しずつ形が違っているだけといえばそうかもしれない。
 今週はサーモンがあって、ナスがあって、オクラがあった。ジャガイモやタマネギなどはたいていストックしてある。そこから食べたい味付けで料理をすると、いつもの感じになる。工夫の余地はあるようでない。
 今日の気分的なメインは卵料理だった。ジャガイモ入りのオムレツみたいなやつがようやく完成した。何度か作ってそのたびにもう一歩しっくりこなかったのだけど、今回は上手くいった。基本形はできた。
 なんだかんだでもう9月だ。夏も終わっていく。



サーモンの甘酢

「サーモンの甘酢ソースがけ」
 何も調理していないいつものサーモン。たれを甘酢ソースにしてみた。サーモンの寿司が美味しいのだから、甘酢しょう油でも合うに違いないと思った。当然合わないはずはない。



ナスとオクラのピリ辛

「ナスとオクラのピリ辛」
 ナスは弱火でじっくり焼くと柔らかくなると書いてあるのを読んでやってみたらその通りだった。いつも強火で炒めてしまうからなんとなく固さが残っていたのだ。少ないときは魚焼きグリルで焼くとトロトロになるのは知っていたけど、量が多いとグリルでは調理しづらい。ナスは弱火でゆっくり、それを忘れないようにしたい。
 味付けは豆板醤、ショウガ、酒、みりん、しょう油でピリ辛にした。
 シーチキンもけっこう効いていた。



ジャガイモ入りオムレツ

「ジャガイモ入りオムレツ風」
 ジャガイモ、ニンジンを細切りにして茹でる。
 タマネギを刻む。
 卵、とろけるチーズ、マヨネーズ、コンソメの素、塩、カタクリ粉を混ぜ合わせ、フライパンで蓋をして蒸し焼きにする。
 弱火でじっくり両面を焼く。
 一応、ケチャップをかけてみたけどなくてもいい。 
 

写真ノート<35> ---色を探す、見つける、決める

写真ノート(Photo note)
弁天島夕景

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 日本の四季と風景は色でできている。
 春の桜色、向日葵の黄色、紅葉の赤、雪の白。 
 青い空と海、夕焼けの橙色、入道雲の白、新緑の緑。
 植物や動物、鳥たちの様々な色。
 光にも色があり、人が作り出した人工物も様々な色を持っている。
 写真を撮るとき、人は半ば無意識のうちに色を探している。色が人の心理に与える影響は大きい。
 今日は写真における色の問題について少し考えてみたいと思う。

 色を撮るという観点から被写体を選んだり、撮影地を決めるというアプローチがあってもいい。
 色を意識せずに写真を撮っている人はほとんどいないと思うけど、それでは厳密に色を追求して撮っているかといえば意外とそうでもないのではないだろうか。色に関する感覚はわりと漠然としていて、画面上の隅から隅まで自分の意志で色をコントロールして撮っているわけではないだろう。すべての色を自分で決めなければいけない画家と、すでに存在する色を写す写真家とでは、色に対する責任感といったものが大きく違っている。写真家は色を決められないというあきらめから色を決めなくていいという責任放棄に向かう傾向がある。
 写真家ができることといえば、自然環境や条件の中から自分なりの最善を選ぶことくらいだと思いがちだ。季節を選び、時間帯を選び、光を選んで撮る。それ以外でいえば、撮るときにフィルターを使うとか、ホワイトバランスを変えるとか、レタッチで色味を変えるとかだろう。彩度やコントラストを調整したり、カラーバランスを変えるといったレタッチ作業もときには行う。
 自分は色に関しては充分に敏感でコントロールできていると考えている写真家もある程度はいるだろうけど、果たして本当にそうだろうか。もっと厳密に色について追求すべきなのではないか。少なくとも、多くの写真家はもっと色について自覚的であるべきだと思うのだけどどうだろう。
 写真を構成する色は写真家が選べる。いや、選ばなくてはならない。選んで決めていい。

 世界の人の色の感覚がどうなのかはよく知らないけど、日本人特有の色に関する感覚というものがある。名前のついた色の和名だけで数百あるし、色そのものでいえば数千はありそうだ。これほど多くの色の名前を持っている国民は日本だけではないだろうか。赤系統の色だけでも、桜色から桃色、緋色、深紅、茜色、紅色、朱色、柿色、褐色、赤銅色、煉瓦色、小豆色などなど、たくさんある。実際にどんな色か正確には分からなくても、日本人として共有する感覚的なものがある。
 美術学校で色をどんなふうに教え習っているのかは知らない。一般教養として特殊な色について学ぶ機会はめったにない。心理学で色が人に与える効果を教えたり、カラーコーディネートで学んだりすることがあるくらいだろうか。
 写真は色を扱うという点では専門分野といってもいいのに、色そのものについて教えたり学んだりすることは少ない。カメラ雑誌でも色の特集をしているのは見たことがないし、たぶん写真学校でも詳しいことはやっていないのではないか。ホワイトバランスで色温度を変えたりすることは感覚的なことであって、色についてきちんと学んだことにはならない。
 色に限らず、写真は科学的なものであるはずなのにいまだに感覚だけが先行しているのはおかしなことだと思う。経験を蓄積してそれを後続に伝えるというのでは、あまりに非効率的で前時代的だ。
 写真における色というものが具体的に鑑賞者にどう影響を与えるのかを知った上で、正確な色再現の方法論を確立することが必要だと考える。

 写真は結果オーライで、自然や状況を受け入れるしかないという考え方が定着している。たとえそれが自分の狙いとは違ってもそれはそれでよしとする部分がある。実際問題、そういう部分が大きいのは事実だとしても、最初からあきらめていいというわけではないはずだ。
 何も考えずにシャッターを押しても、とりあえず写りはする。けど、それでは作品にはならない。記録としての写真と鑑賞に堪える作品とはまったく別のものだ。作品を作ろうと思えば、考えている以上に自分の意志で決定しなければいけないことが多い。
 たとえば夕焼けの写真を撮ろうと思ったとき、それは橙色なのか、蜜柑色なのか、茜色なのか、桃色なのか、紫色なのか、そのどれが撮りたいのか。撮れた色をよしとするのではなく、狙って撮ることが大切で、そこを自覚的に撮ってこそ自分の作品に責任が持てるようになる。言い訳するようなことがあればそこで負けている。
 感覚に頼れば再現性は低くなり、経験の積み重ねだけでは時間もかかるし限界がある。色の効果について学び、正確に色を再現できてこそ、それが知識となり、技術として身につき、自分の中に蓄積されていく。
 写真をやる人間も、やはり美術の勉強をした方がいいし、色に関する専門知識もないよりあった方が有利になる。

 色を探し、見つけて、再現する。まずはそのことを自覚的に行うことを提言したい。
 撮れた写真の色を無条件に受け入れて正解とするのではなく、自分の意志で最終的に色を決めることが大事な点だ。それは撮る段階でのことであり、レタッチのことでもあるのだけど、撮る以前に自分の中で完成形を思い描いておくことが前提となる。そこから逆算して、いつどこへ行って何をどんな条件で撮るのかを決定する。
 写真は撮れるものを撮るものだという考えから、自分の中の完成イメージを再現するものだという考えに切り替わったとき、写真はまったく別のものになる。
 思い通りに撮れないことを現実のせいにしてはいけない。思い通りに撮るためにはどうしたらいいかを考えるのが正しいアプローチだ。
 写っていることすべてに対して責任を持つということはとても重いことなのだ。全部を自分の意志で決めてこそ、その重さに耐えられる。
 青空の青色ひとつ取っても、無責任であってはならない。
 

今月のフォトコンのこと

フォトコン・写真(Photo Contest)
カメラマン2016年9月

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



「カメラマン 2016年9月号」で、「写生会」が銅賞入選。
 この写真は去年、津島市の天王川公園で撮ったものなのだけど、別カットのものをいくつかのフォトコンに応募して落選したので、しばらくその存在を忘れていた。一年半近く経ってもう一度この日の写真を見直す機会があって、あらためてセレクトし直して応募したら今回は入選した。そういうことがけっこうある。ラブレターは一晩置いてから出せという教えがあるけど、写真もしばらく寝かせた方がいい場合もある。
 撮った直後は別カットの方がいいと思って応募したわけだけど、一年以上経ってから見てみるとこちらのカットの方が断然いい。結果的には最初の判断が誤りということになる。月日が経つと技術力が上がるだけでなく見る目も肥えるから以前よりも正しい判断ができるようになる。写真の経験値というのはそういう部分が大きいように思う。
 この日のこのシーンはなかなかよかった。写真のよしあしどうこうよりも、いいシーンに出会えて、それを写すことができたことを喜んだ。こうして入選するとあとに残る。落選すると、その他の写真の中に埋もれてしまう。
 この写真は日の目を見させてあげたいと思うものがある。これもそうした中の一枚だ。






フォトテクニックデジタル2016年9月

「フォトテクニックデジタル 2016年9月号」で、「野に咲く」が次点入選。
「フォトテクニックデジタル」の次点は入選扱いながら賞金も賞品ももらえないので、本を買おうかどうしようか迷って買わないことが多い。古本で手に入ったら買おうかくらいの感じだ。
 これは今年の5月に刈谷市の小堤西池で撮ったカキツバタだ。
 今年は出向いたタイミングもよかったし、花の状態もよかったから撮りやすかった。天候は残念ながら曇り空だったのだけど、しっとりした感じを出すにはむしろよかったかもしれない。晴れていたらカキツバタの色はもっと飛んでいたはずだ。
 アドバイスで、池が白く飛びすぎているからPLフィルターを使った方がよかったとあった。なるほど、このシーンでPLなのか。それはまったく思いつかなかった。ハイキーにしているから池が飛んでしまうのはしょうがないと最初からあきらめていた。PLを使えば水面の階調が残ったかもしれない。全体の雰囲気も少し違ったものとなっただろうから、両方撮ってみてどちらかを選ぶという手はあった。
 そういえば最近、長時間露光のとき以外PLを使ってない。今後は状況次第で積極的に使っていこうと思った。で、浜松の中田島砂丘のときに使ったら、大問題が発生してしまったのだけど、それはまた今度ということで。
 
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夏の道行き風景

日常写真(Everyday life)
7月の田んぼ風景

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 旅ネタやイベントものが続いたので、今日はちょっとひと休み。夏の道行き風景をお送りします。
 夏の期間が6月、7月、8月なら、9月はもう秋ということになる。今年も相変わらずの残暑で、まだまだ夏の延長戦が続いているけれど、セミの鳴き声が聞こえなくなったり、朝夕ちょっと涼しかったり、夜には虫の音が聞こえたりして、秋に向かっていることを実感する。今が一年で一番もの悲しい季節かもしれない。
 夏の光も少しずつ強さを失っていき、日暮れも早くなる。写真を撮るようになって以来、それ以前よりも季節のうつろいに敏感になった。夏写真の在庫はまだたくさん残っているけど、これから撮る写真はだんだん秋めいていく。
 ある日、ふとした瞬間に、ついに夏をあきらめるときが来る。あっ、夏が終わった、とはっきり分かる瞬間だ。それはたぶん、風が変わったと感じたときだ。今年もその瞬間はもうそう遠くないのだろう。



空き地のエノコログサ




夏の遊歩道と桜の木




フウセンカズラの実




田んぼと案山子




西日を浴びる




お盆のお墓




夏休みの塾




城山の田んぼ風景




平和堂下の階段




空き地とフェンスと夏の雑草

 
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