
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm
滋賀県長浜市余呉町の山の上に
菅山寺(かんざんじ)というお寺がある。
山門の前にある二本の巨大なケヤキの木の写真を見たとき、自分も絶対撮ってみたいと思った。
樹齢1000年を超える欅で、それぞれ幹周りは5.8メートルと6.2メートル。高さは15メートルと20メートル。
菅原道真が44歳のとき、自らの手で植えたと伝わっている。
米原駅でJR北陸本線に乗り換え、木ノ本駅で降りる。駅前のバス停から余呉バスに乗って10分(250円)。坂口という停留所で降りたらそこからは歩きだ。坂口の登山口から菅山寺までは約2キロ。山道を歩き慣れた人なら1時間といったところだろう。私は1時間半以上かかってヘロヘロになりながらなんとか辿り着いた。
普段履きのスリッポンに30度を超える暑さ、朝飯昼飯抜きという悪条件が重なり、倒れそうになった。この道のりは決して楽しいハイキングなんかじゃない、ほぼ修行のレベルだ。道真さん、マジですか、と何度も心の中で天に問いかけていた。ここは山登りのつもりで行かないと痛い目に遭う。
余呉湖の東3キロほどのところに、標高532メートルの呉枯ノ峰(くれかれのみね)を中心とした山があり、余呉三山と呼ばれている。
菅山寺があるのは標高432メートルの大箕山(たいきざん)の山頂付近で、ピーク超えて少し下ったところだ。
現在は坂口登山口からのコースが表参道ということになっているけど、かつては寺の東を流れる高時川近く、木之本町の大見いこいの広場から登る道が表参道だったという話だ。そちらのルートは坂口よりも険しいらしい。
他には木ノ本駅近くの伊香高校グランド横から入って呉枯ノ峰を経由するルートと、観音寺から田上山を経由するルートもあるようで、それぞれ2時間弱のコースだとか。
一番楽なのが県道284号線沿いのウッディパル余呉から入って林道を車で進んで道が途切れたところから歩くというコースだ。これなら15分くらいで行けるというからかえって物足りないくらいかもしれない。
個人的には坂口から登って私と同じ苦しみを味わってもらいたいところだけど、あれくらいの歩きなんて楽勝という人もたくさんいるだろうから、あまり大げさに書くのもよくないかもしれない。結局、休みやすみ歩き、現地で撮影をして往復3時間半だった。二度はもう行けないと思った。私は一生に一度で充分だ。

坂口停留所に着いたら道を渡って集落の方に入っていくと大きな赤い鳥居がある。横に散策路の案内板があり、ここが登山口ということになる。

菅山寺は現在、無住になっているため、60戸ほどある坂口集落の人たちが中心になって守っているそうだ。
里にある弘善館は寺宝の宝物庫になっていて、予約をすると見学することができる(300円)。
本尊の十一面観音立像の他、狛犬や仏像など、けっこうなお宝を所有している。

歩き始めてすぐ、いきなりの急坂にのけぞる。トレッキングシューズにしようかとも思ったのだけど、そこまでの山道だとは思っていなかったのと、このあと長浜の街歩きをする予定だったので普段履きにしたのが失敗だった。足場は悪く、帰り道の下りは何度も足を滑らせて転びそうになった。
前半の勾配がきつすぎていきなり深いダメージを負ってしまい、その後の蓄積ダメージと下りの膝への負担により足がおかしくなる。足は吊り、激しい筋肉痛に襲われる。
本当に40過ぎの道真さんがこんな山道を行き来していたのだろうかと思ってしまう。貴族とはいえ、昔の人は体力が有り余っていたのだろうか。粗食なのに。

道々、石仏がたくさん置かれている。四国八十八ヶ所になぞらえたものだ。
多くの石仏が頭を切られている。自然に落ちたものではなさそうで、明治の廃仏毀釈の跡ということだろうか。

雑木林の道はずっと見晴らしが開けず、腰掛けるベンチひとつない。休むにしても立ち止まって呼吸を整えるか、傾斜の斜面に腰を下ろすしかない。
ようやくベンチをみつけてへたり込んだところは、峠のピークに当たる場所だ。これで全行程の3分の2くらいだろう。ここからはけっこう急な下り坂になって、やや開けた場所に菅山寺はある。
下りだからといって喜んでばかりはいられない。帰りは同じ道を引き返すのだから、行きの下りは帰りの登りになるということだ。

歴代住職たちの墓標。

創建は奈良時代後半の764年。孝謙天皇の勅命を受けた照檀上人(しょうだんしょうにん)が開いたとされる。当初は竜頭山大箕寺という名前で、興福寺門法相宗のお寺だったという。
その後やや衰退していたところを建て直すべく、889年に宇多天皇の命により菅原道真が入山して中興した。その際、菅原の菅の字を取って大箕山菅山寺に改めるとともに、真言宗豊山派へと改宗している。このとき道真は44歳。7年の歳月をかけて3院49坊を建立したと伝えられている。
鎌倉時代の最盛期には僧房105、末寺は70を超えていたというから一時は大変立派な寺院に成長していたということになる。現在の様子からその頃の姿を想像するのは難しい。
こんな滋賀県の山奥の寺に菅原道真がいたことを意外に思う人も多いだろう。道真はもうひとつ、このお寺にまつわる伝説が残されている。
余呉湖は日本最古とされる羽衣伝説が伝わる地というのを知っているだろうか。『近江国風土記』に書かれているもので、これが元になって全国に同じような伝説が生まれたとも言われている。
それによると、桐畑太夫という漁師が、余呉湖で水浴びをしていた天女の羽衣を隠してしまうところから話は始まる。羽衣がない天女は天に帰ることができず、仕方なく太夫の妻となりひとりの男児を産む。しかし、羽衣を見つけた天女はそれを身につけて天へと帰っていった。残された子供を哀れに思った菅山寺の僧、尊元阿闍梨は寺に連れていき育て、賢く育った男の子は京都の菅原是善卿の養子となる。その子こそ、菅原道真であったというものだ。
菅原道真の生まれた地は諸説あってはっきりしていない(奈良市菅原町や京都市下京区、上京区、島根県松江市など)。その中のひとつに、余呉湖近くの川並村で生まれ、6歳から11歳まで菅山寺で学んだあと京都に移ったというものがある。
いずれにしても、ここ菅山寺と菅原道真の縁は深いようだ。
その後、寺の勢いは弱まりながらも、この地域にゆかりのある大名などが大事にしたことでお寺は保たれていくことになる。近江の浅井家が庇護し、石田三成も寺領30石を寄進している。
余呉湖は、豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いの舞台となった場所で、そのとき菅山寺も焼け落ちたという。
その前の天正の大地震でも本堂などが倒壊したというから戦国時代は受難の時代だった。
江戸時代になって、徳川家康がこのお寺にあった教典7000巻のうち5714巻を増上寺に移してしまった。代わりに50石の寺領が与えられたといっても、寺側としては否応も無かったことだろう。ただ、そのまま菅山寺にあったとして、現在まで無事に伝わったかどうかというと何とも言えない。その教典は現在重要文化財に指定されている。
現存する本堂などは、江戸時代に再建、または改築されたものだそうだ。ほとんどが朽ち果てそうになっている。運が悪いと拝んでいる最中に崩れてくるかもしれないくらいだ。
明治以降は衰退し、ついには無住となる。大正時代に保存会が組織されて、現在に至っている。例大祭のときには坂口の住民などが一堂に会して盛大に祭りが行われているそうだ。

経堂も傷みが激しい。裏に回ると扉が落ちて中が見える。
専暁が宋から持ち帰った一切経7000巻が収められていたという。

鐘楼に現在、鐘はない。2014年に1400万円かけて修復したというニュースがあったけど、弘善館に保存展示しているのだろうか。
鎌倉時代中期の1277年に鋳造されたもので、重要文化財に指定されている。
この銘文の中にも道真のことが出ている。

本堂下の石段を進んだ先に朱雀池がある。神秘さをたたえた静かな池だ。
この感じ、どこかで見た覚えがあると思った人は、映画『蟲師』を観た人かもしれない。
ロケ隊のメンバーもみんなで山道を歩いて登ってきたのだろう。大変だったはずだ。機材を担いではさすがに無理ということで、機材だけはヘリコプターで運んだのだとか。

一番奥にあるのがかつては菅原神社といい菅原道真を祀る近江天満宮だ。
道真が左遷された先の太宰府で亡くなったのが903年のこと。59歳だった。
菅原神社が建てられたのが955年。道真の像を祀り、菅山寺の鎮守としたのが始まりという。
本殿は江戸期に建てられたもので、拝殿は大正時代のものだそうだ。昭和5年に改築されている。
近江天満宮と称されるようになったのは大正時代からのようだ。
こちらも本堂に負けず劣らずの朽ちぶり。でも気をつけて参拝すれば大丈夫。
写真がまたたくさん残っているので、続きはまた次回。