
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
構図を軽んじている写真が多い一方で、構図に関する誤解が蔓延しているように思えてならない。構図はスタイルではあるけれど、写真の体裁を整えるためだけのものではない。
写真において構図はとても大事なことだけど、もっとも大事なことではない。構図について無自覚すぎる写真と、構図に縛られすぎている写真と、どちらもある。構図、構図と言い過ぎるのは好きじゃないのだけど、今回は構図について少しおさらいをしておこうと思う。
写真は絵画におけるデッサンのようなものがないから、遠近法や消失点などの知識がなくてもとりあえず破綻のないものが撮れてしまう。そこにある種の落とし穴がある。特にデザインセンスがある人が撮った写真は、構図など知らなくてもそれらしく収まってしまうから、かえってたちが悪かったりもする。
構図は建物における設計図のようなものだ。適当に線を引いてもとりあえず成立するとはいえ、家は建ってさえいればいいというわけにはいかないように、いい加減な構図で撮られた写真は見る者にどこか不安定な感じを与える。水平が傾いていても気にならないとしたら、それは構図の基本的な部分で間違っている。
いわゆる正しい構図というものがある。それは、人が長年かけて築き上げてきたスタイルだ。写真以前に絵画でも長年研究され、議論され、淘汰され、洗練されてきた。人の感覚がよしとしたものだから、今更そこに勝負を挑んでいってもほぼ勝ち目はない。新しい構図の発見などというものは、現代の写真家がやるべき課題だとは思えない。
問題は基本的な構図を正しく理解できているかどうかだ。そして、その場その場で的確な構図を選べるかどうか大切なのだ。常に正しい構図で撮ることがいいわけではない。最適な構図を選ぶ能力こそが必要とされる。基本通りがいいのか、あえて外すことが正解なのか、それは本人の意志で決めればいい。ただ、構図について無自覚なのはいけない。自分の撮った写真がどの構図に当てはまるのか答えられなければならないし、基本を外すならその効果を説明できなければならない。
構図は外観の美的感覚といったものではなく、写真を構成する基礎的な骨子だ。なんとなくな感覚で決めるべきことではない。
具体的に構図とは一体何なのか、何をどうすれば構図を理解し、正しい構図で撮れるようになるのか、私なりの考えをいえば、寄せること、切ること、余白を作ることの3点だと思っている。
構図にはいくつかの基本パターンがある。被写体を中央に持ってくる日の丸構図から、斜めの線やS字、対角線などの線を意識したもの、三角形や逆三角形のように図形を意識したもの、トンネルや額縁といったものなど、だいたい10数種類に分類される。
その中で、これだけマスターしておけば大丈夫というものがある。それは、三分割構図と交点というものだ。画面に上下左右の線を二本引いて、それぞれ交わった4点のどこかに被写体を持ってくるという方法だ。そうすることで、自然と寄せて、空白を作ることができる。何故それがいいのかという理屈はこの際問題ではない。人の感覚がそうだというのだから仕方がない。そうすることによって画面に安定感が生まれる。
もうひとつの切るということに関しては短い言葉で説明するのは難しい。ひと言で言ってしまえば写真家の矜持ということなのだけど、このことに関しては回を改めた方がよさそうだ。もう少し付け加えるなら、全体を入れて逃げないということだ。切り取るということに対して自覚と責任を持たなければならない。
話を戻すと、交わった点のどこかに被写体なり画面の主題を持っていくことで、鑑賞者の最初の視点の置き所を作る効果もある。写真を撮った人間はそのときの状況を分かっているけど、第三者は何の予備知識もなく写真を眺めることになる。そのとき瞬間的にパッと目が行くポイントがあるのとないのとでは大違いで、私はアイキャッチポイントと呼んでいるのだけど、その一点を作ることも構図を作る上でとても重要なことだと考えている。
視点の置き所がない写真は鑑賞者の意識がさまようから散漫な印象を与えてしまう。そういう写真は緊張感に欠ける。この緊張感というのも重要なキーワードで、構図によって緊張感を生み出すこともできれば失うこともある。構図は、ただ単に間違っていなければいいというわけではない。鑑賞者の視点や意識をコントロールするために正確に制御すべきものだ。
厳しい構図によって生み出された緊張感は、余白によって緩和される。余白のない写真は迫力はあっても疲れる。ほどよい緊張と緩和が調和してこそ心地よさが感じられ、鑑賞に堪えうる写真となる。余白は背景であって、必ずしも背景そのものとは限らない。
余白は鑑賞者が想像を広げるための助けともなり、そうすることで物語性を生み出すこともできる。一から十まで説明した写真はつまらない。
余白の場所や量もまた、撮影者が意図して制御すべき要素のひとつだ。
構図は、いい写真を撮るためのテクニックなどではないということを理解していなければならない。
構図に関しての書籍はたくさん出ているし、毎月発売されるカメラ雑誌でも飽きることなく繰り返し構図について書かれている。あまりにも言われすぎているので、中級者や上級者は不感症になっていて読み飛ばしているかもしれない。でも、分かったつもりにならず、もう一度勉強し直してみていい。
あえて繰り返すけど、構図の基本を身につけることは絶対に必要だ。その上で、いつも言うようにプロの写真家が撮る写真をたくさん見ることが大切になる。プロの構図を真似しておけば間違いない。そのとき、感覚に頼らず、構図を読み解く目や意識が大切になる。
受けを狙って奇をてらったり、冒険したりしなくてもいい。勝負所は言うまでもなく被写体であり、写真の内容だ。構図だけ正しくても意味がない。けど、正しい構図で撮られていないがゆえに評価を下げるのはもったいない。
基本構図を会得して応用を考えるようになったときは、日本絵画に学ぶのがいいと思う。江戸時代の浮世絵などは参考になる。歌川広重や葛飾北斎の浮世絵は斬新な構図でありながらきちんと成立していて面白い。真似していい部分も多々ある。
いい写真は必ずいい構図で撮られている。言い方を換えるなら、正しい構図で撮られているからこそ、鑑賞者はその写真の構図について意識することがなく、構図について論じられることがないのだ。人が写真を見たとき、この構図ってどうなんだろうと思わせてしまったらその時点で負けだ。その構図はおそらく正しくない。
絶対的に正しい写真といったものは存在しない。けれど、そのとき撮られるべき一番いい構図というものは存在する。それを一瞬で判断しないといけないのだから、考えようによっては写真はけっこう難しい。じっくり腰を据えて構図を練っている暇などないことが圧倒的に多い。
構図を極めることが目的なのではない。構図を意識せずに写真を撮れるようになることが目標だ。自分の感覚が正しいと判断して撮ったんだから、その構図は間違っていないと確信できれば構図はマスターしたと言えるだろう。
構図に関してあれこれ考える必要がなくなるように、一日でも早く構図をやっつけなければいけない。