マイケル・ケンナの写真を初めて見たのがいつで、どういうきっかけだったのかは覚えていない。5、6年くらい前だろうか。
初めて長時間露光で撮られた写真の魅力を知ったのは、BSのテレビ番組「
写真家たちの日本紀行」で
米津光(よねづあきら)さんが出た回だった。あれは確か2009年だったはずで、マイケル・ケンナのことを知ったのはそのあとのことだ。
米津光さんについてはいつか書くこともあると思うので、今回はマイケル・ケンナを紹介したいと思う。
マイケル・ケンナの写真はほとんどがモノクロのフィルムで撮られている。使っているカメラは6×6cmの中判カメラ・ハッセルブラッドだ。昔から現在に至るまで一貫して変わらない。
一分、二分といった露光時間ではなく、ときに数時間もの長時間露光で撮られているという。
どうしてケンナの写真だけが特別な静寂感を持っているのか。その理由は分からない。真似して撮ってみても、遠く及ばない。おそらく、同じカメラ、同じフィルム、同じ場所で撮ってもあのようには撮れないだろう。たとえ隣で一緒に撮ってもだ。
イギリス生まれ(1953年)のアメリカ在住で、世界各地で風景を撮っている。日本も好きでたびたび訪れて撮影しており、その集大成として出したのが今日紹介する『日本 JAPAN』という写真集だ。
雪の北海道や琵琶湖など、私たちにもおなじみの場所で撮られているにもかかわらず、日本人の誰も見たことがないような風景がそこにある。得も言われぬ静寂感、ケンナの写真をひとことで説明するとそういうことになるのだろう。初めて見たときの衝撃は忘れがたいものがある。なんだ、これはと思った。
長時間露光をやりたいがために私が琵琶湖へ行くのも、ケンナの写真を知ったからだ。個人的にマイケル・ケンナごっこと呼んでいる。たとえごっこと分かっていても真似せずにはいられない魅力がある。
写真集は非常に大きくて重たくて立派なものだ。定価が1万円超えなので欲しいけど簡単には買えない。現在は品切れになっていて古本は高値がついている。とりあえず図書館で借りることをおすすめします。
これを見ればあなたも明日から長時間露光を始めたくなるはず。
セバスチャン・サルガドは世界的に圧倒的な支持を得ている成功した写真家でありながら、一方で批判を浴びがちな写真家でもある。あれは純粋な写真家ではないと言う人もいる。そうした賛否両論を踏まえた上でもなお、やはりサルガドの写真には見る者を圧倒する力があることは間違いないと思うのだ。好き嫌いは別にして。
ブラジルで生まれ、サンパウロ大学を出たあと、エコノミストとしてキャリアをスタートさせたサルガドは、仕事の関係でアフリカを訪れ、そこで見た光景に感化され写真家に転身する。当初の分類としては報道写真家だった。
1947年にロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンなどが結成し、のちに世界的な写真家集団に成長したマグナム・フォトにもしばらく参加していた。
1986年に、ラテンアメリカを取材した『もう一つのアメリカ』を出版。同時期にアフリカをテーマにした『サヘル』を出す。その後、1993年に肉体労働者にスポットを当てた『人間の大地 労働』を刊行して国際的な名声を得ることになる。
サルガドの撮影は、徹底した密着スタイルによってなされている。それは長いときで数年間にも及ぶ。労働者を撮るときも、原住民を撮るときも、寝起きを共にし、被写体に寄り添って撮る。外側からではなく、できる限り内側から。
ときに完璧すぎる構図や、あり得ないほど神々しい光に包まれた写真は、現実離れしすぎていて作り物めいているという批判を受けることがある。しかし、サルガドはその一枚を撮るために膨大な時間と労力を惜しまない。彼は単なる撮影とは呼ばない、プロジェクトと呼んでいる。そういう意味でいうと、やはりサルガドは純粋な写真家ではないといえるかもしれない。ジャーナリストといえばそうだし、気質的には研究者に近いかもしれない。
サルガドが撮るような写真を生涯で一枚でも撮れる写真家がどれくらいいるだろう。サルガド批判はそんな一枚が撮れてからでいい。見果てぬ夢と知りつつ、私もそんなのが撮ってみたい。
好きな写真家や影響を受けた写真家を訊かれてエルスケンの名前を挙げる写真家は多い。写真家や写真家を目指す人間があこがれる写真家がエルスケンだ。
エド・ヴァン・デル・エルスケン。オランダ、アムステルダム生まれ。
第二次大戦後、フリーカメラマンとして活動を始め、二眼レフのローライ・フレックスを首から提げ、少しの衣類を入れたリュックを背負い、モノクロフィルムと小銭だけをポケットに入れて、ヒッチハイクで単身パリに降り立ち、そのまま移り住んだ。ときにエルスケン24歳。将来への展望がどれくらいあっただろうか。
パリの貧民街をうろつき、カフェに入り浸り、知り合いになった若者たちなどを撮った。
『セーヌ左岸の恋』
エルスケンの処女作であり、最高傑作であり、1950年代を代表する一冊でもある。
現在の私たちから見ると、ある意味では見慣れたような写真と感じるかもしれない。けれど、それはエルスケンが始めたスタイルを、あとに続いた写真家たちが模倣したからに他ならない。当時の人たちにとってエルスケンの写真はとても斬新で新鮮に映ったに違いない。作っていない自然な表情の人々をスナップしてストーリー仕立てにするという感覚は当時はまだなかったのではないかと思う。それはエルスケンが異邦人であり、正式な写真教育を受けていなかったということもあるだろう。非演出であるながらとても映画的という、一見すると矛盾する絵が不思議なほど奇跡的に成立している。何故、エルスケンだけがあんなふうに撮れたのか、誰にも分からないのではないか。撮った本人でさえも。時代やパリという場所だけのことではない。
エルスケンは何度か日本を訪れており、エルスケンと会ったエピソードを持つ人も少なくない。
世界をめぐり、何冊も写真集を出し、映画も撮りはしたものの、エルスケンは『セーヌ左岸の恋』の写真家だった。もう一度あんなのを撮って見せてくれと願った人も多かっただろうけど、私たちはあの一冊だけでも見ることができたことを幸せに思うべきだろう。
アンリ・カルティエ=ブレッソンといえば、古典であり、写真の教科書であり、写真における決定的瞬間という概念を広め定着させた写真家として確固とした地位を築いている。写真学校では必ず勉強するであろう写真家ゆえに、かえって避けているという人もいるかもしれない。世代的にいうと、木村伊兵衛や土門拳などと同じ年代だ。
スナップ写真を得意として、レンジファインダーの小型カメラを手持ちで撮るというスタイルだった。ブレッソンといえばライカ、ライカといえばブレッソンというイメージが強い。
パリ生まれで、若い頃は画家志望だった。第二次大戦に従軍して捕虜になり、脱走してレジスタンスに加わり、終戦を迎える。戦後はキャパなどとともにマグナムフォトで報道写真家として活動していた。
ブレッソンの名を知らしめたのは、1952年に出版された『決定的瞬間』だった。ブレッソンの名前は知らなくても、「サン=ラザール駅裏」というタイトルの水たまりを飛んで着地する寸前の男の写真を見たことがあるという人は多いんじゃないだろうか。
古典ということで食わず嫌いせずに一度通過しておいた方がいい写真家だ。今見ても参考になることが多いと思う。
ブレッソンは獲物を追いかけるハンターではなかった。とにかく待つことが信条の気の長い釣り人のような写真家だった。決定的瞬間を捉えた写真というのは意外と少ない。むしろ、決定的瞬間の前後というか、それを予感させるような写真が多い。ブレッソンの写真は、そんな撮り手のわくわく感が写し込まれているからこそ多くの人に愛されたんじゃないだろうか。