
OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4
写真を撮る行為は、現地へ行けない人の代わりに行って、おみやげを買って帰ってくるようなものだ。こちらが買いたいおみやげと、渡された相手が喜ぶおみやげは必ずしも一致しない。どちらを優先させるべきかといえば、やはり渡される側であるべきだろう。納得できなくても仕方がない。
それが嫌なら相手が欲しがる以上のものを持って帰ってくればいい。言い換えるなら、期待を裏切らないか、期待を上回るかの二択ということになる。

写真はある程度、見る側の人にゆだねるしかない部分がある。一枚の写真ですべては説明できない。
丸投げは無責任過ぎて駄目にしても、撮り手と受け手の共同作業の部分はある。
作品と呼ばれるものの多くはそうなのだけど、写真は受け手が補完しなければいけない部分が多い表現形態だと思う。

考えて撮れというけど、考えるのは前日の晩までに済ませておかなければいけないことだ。当日に現場で考えながら撮っているようでは間に合わない。
現地では、何も考えず、感じて、反応して撮るだけだ。野球のバッティングやサッカーのシュートと同じように。
考えながら撮るのが一番いけない。

写真は思考や感情を内包できる。
言葉で説明しなくて済むのがいいところだ。
ときに文章より雄弁に語ることがある。
けど、だからといって理解してもらおうとする努力を怠っていい訳ではない。言葉で説明できない分、きちんと写真で説明する必要がある。
撮り手の意志を受け手に伝えることは、そんなに簡単なことじゃない。
曲解されることは結果であって、最初からどんなふうに取られてもいいと考えるのは表現の放棄に等しい。

自分にとって切実なものを撮らないと、本当のことは写らないような気がする。
被写体への共感が本物か偽物かは見る人に伝わるものだ。
ささやかで取るに足りないような小さな写真だとしても、まずは切実でなければならない。

私がどんな思いを込めて、どんなつもりで写真を撮っているかなどということは大して重要なことではない。
見た人が何を感じたかがすべてだ。
写真表現において、こちらの思いを押しつけてはいけない。

ドキュメンタリーと作りごとの境界線上にこそ、写真の真実や意義がある。
現実そのものでも、空想に走りすぎても、つまらない写真になってしまう。
現実をそのまま描きたければ映像でいいし、空想を描くなら絵画でいい。写真には写真にしかできないことがある。

写真は偶然の要素があるから好きだ。
自分の計算や思惑を超えたものがときに写る。
そこが写真の面白であり、難しさであり、一番の喜びでもある。

対峙しすぎると、被写体と撮影者とが一対一の関係に陥って鑑賞者の入り込む余地がなくなってしまう。その関係が濃密になればなるほど息苦しい写真になる。
撮り手と被写体と受け手がきれいな三角形を描く写真が好きだし、そういうのを撮りたいと普段から思っている。

内面と外見の両方を磨かなければ本当の輝きを得られないのは、人も写真も同じ。