
OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 75-300mm F4.8-6.7
写真は心で撮れなどと言う写真家がたまにいるけど、その教えはとても無責任だ。そんな適当なことを言っちゃいけない。
人並み外れた歌唱力を持つプロの歌手が、歌うことが好きな素人に向かって、歌は心で歌うものだというのと同じだ。
いや、歌は技術だろう。
音痴な人間がいくら心を込めて歌っても、聴いている人間は迷惑なだけだ。
気持ちを込めて撮りましたと下手な写真を見せられても、なんとも困ってしまう。
心は技術の上に載せなければ意味がない。
写真における技術とはなにか。
それは、ピントの確かさだとか、的確な絞りやシャッタースピードだとか、構図の安定感だとか、そういった部分でもあるけど、それだけではない。
たとえるなら、技術的に優れた文章に似ているかもしれない。
写真はカメラのシャッターボタンを押せば撮れてしまうからこその簡単さと難しさがある。
誰でも字は書ける。でも、上手く書ける人はそれほど多くないし、字で人の心を動かせる人は更に少ない。
楽器なら練習曲があって、だんだん難しい曲を練習していくことで上達する。
絵画ならデッサンの訓練が不可欠だ。
写真においてはそれらに当てはまるものがない。だから、何をどうすれば上手くなるのか分からず途方に暮れてしまう人も少ないないだろう。
写真上達の一番の近道は、プロの写真家の写真集をたくさん見ることだと私は思う。
デッサンの練習や基礎訓練がないなら、お手本を真似るより他に方法がない。
自己流には限界がある。
有名な画家も、自分の好きな画家が描いた絵を模写する。
書ならそれを臨書という。
それは、お手本を上からなぞるといったことではなく、描いた人間---写真なら撮った人間---と一心同体となり、描くという行為を追体験するといったようなことだ。
呼吸、間、空間、心理、感情、思考といったものを読み解く試みでもある。
写真は、再現するのが難しい表現方法ではあるのだけど、ひとりの写真家、もしくは一枚の写真を同じように撮ってみることで気づくことが必ずある。
何故その場所でなければならなかったのか、どうしてこの一瞬を選んだのか。
季節はいつで、時間帯は何時頃なのか。どんな光がどちらから当たっているか。
カメラは、レンズは、絞りは。
雑誌に掲載されている単独の写真ではなく、一冊にまとめた写真集から学ぶべきことが多い。
そこには撮り手の呼吸のようなものがあり、思想がある。リズム、テンポ、緩急、流れ。そういったものを取り込んで自分のものにしていくこと。
写真集をたくさん見ることで写真の核の部分が見えてくる。
いずれおすすめの写真集を紹介する機会もあると思う。
写真を始めて何年といった人間が、写真に心を込めるなんて10年早い。
まずは普通にちゃんと撮れるところまでいかないと話が始まらない。
フィルム時代と違って、今は技術的な部分はほとんどカメラ任せにして飛ばせるから、昔に比べてずいぶん有利なのは間違いない。
ただ、道具が進歩したからといっていい写真が撮れるわけではなく、連写スピード上がれば誰もが決定的瞬間をものにできるというわけでもない。
写真は基礎的な技術や反復練習といった初歩的な部分があまりにもないがしろにされすぎている。
技術に関してひとつ言えることは、構図だけは一応勉強しておいた方がいい。
三分割とか対角線とかS字とか額縁とか黄金分割とか、そいったものは、写真に始まったことではなく、絵画などが数百年、数千年という単位で培ってきたもので、あえて逆らってみせる必要はない。
1対1.168の黄金比が美しく感じられるのは本当かとか、どうして三分割に安定感を感じるのかとか、そんなことはこの際どうでもいい。実際そうなんだから仕方がないと納得するしかない。
日の丸構図が駄目なときといいときの区別などは、経験的に覚えていくしかない。
構図を意識しないまま撮った写真は、見る者に不安定感を与えて、内容まで気持ちがいかないことがある。
そういう意味では、正しい構図はプラス要素ではなくマイナス要素を持ち込まないための必要最低限の条件といった言い方ができる。
写真は多分に感覚的なものではあるけれど、感覚だけに頼ってはいけない。
技術が大事だからといって、技術に走ると写真はつまらなくなってしまう。
スポーツにおいて心技体という言葉あるように、写真も技術と感覚と心が高い次元が融合したとき、初めていいものが撮れるようになる。
その道のりは遠い。
写真は簡単だけど難しく、難しいけど簡単だ。技術力があれば、好きなものを好きなように撮ればいいだけになる。
難しいから面白いと思えるようになれば一人前と言えるかもしれない。