
PENTAX K-7 + TAMRON 10-24mm f3.5-4.5
大高城跡。
夏草が生い茂り、訪れる人は少ない。
桶狭間の戦いのとき、若き19歳の家康(当時はまだ元康)は、味方の危機を救うべく、敵陣をかいくぐってこの城に兵糧を運び入れた。
桶狭間の前哨戦となった鷲津砦、丸根砦では激しい戦いが行われていた。
1560年。今川義元42歳。信長は26歳だった。
あれから450年以上の歳月が流れた。

桶狭間の戦い当時、大高のあたりは三河と尾張の境界線で、複雑な勢力図になっていた。
三河を支配する今川方と、尾張を支配する織田勢との小競り合いが続いていた。尾張の支配も不完全なもので、信長に従わない独立勢力もまだ健在だった頃だ。
大高城の築城年ははっきりしていない。南北朝時代には原形が作られていたとされている。
信長の父・信秀の時代は織田方で、信秀の死後、今川側に寝返った鳴海城主・山口教継によって沓掛城とともに今川に奪われることになる。
その対抗として、信長は大高城の周囲に丸根砦や鷲津砦などを築き、取り囲んだ。
そんな状況のとき、桶狭間の戦いが起きる。
今川義元が討ち取られ、家康が岡崎に帰って独立したことで、大高城は再び織田方のものとなった。
いったんは廃城となったものの、江戸時代、尾張藩家老の志水家が跡地に屋敷を建てて住むようになる。
明治に入ると屋敷は売却され、長らく放置された。
昭和13年に国の史跡に指定され、大高城址公園として整備された。
現在は空堀や本丸、二の丸跡などを見ることができる。
本丸跡には城山八幡社がある。

あたりを見渡すことができる小高い丘の上に鷲津砦と丸根砦はあった。
他の砦には信長が兵を置かなかったため、現在はほとんど跡も残っていないようだ。鷲津砦と丸根砦は大高城跡とともに史跡に指定されている。
丘の上に登ってみても、石碑があるくらいで、特に何かがあるわけではない。わずかに空堀の跡らしきものが見えるくらいだ。

戦いの前哨戦で、二つの砦が激しい攻撃を受けているという報告を信長は受けている。
それに対して信長は、何の指示もしなかった。援軍も送らず、完全に見捨てている。
桶狭間の戦いは、信長が描いたシナリオだった。たぶん、それは間違いない。今川義元に対するリアクションではなく、信長のアクションに対して義元がリアクションした戦いだった。
戦いは始まる前から信長の頭の中でシナリオが完成していた。二つの砦での戦いは、想定されたもので、勝負に勝つための捨て駒だった。
戦いの最中、織田信平や飯尾定宗、佐久間盛重たちはそのことを悟ったに違いない。激しい抵抗を見せたものの、砦は今川勢によって全滅させられた。
その全滅を待っていたかのように、信長は善照寺砦に入り、兵力を整えた。その前に熱田神宮で戦勝祈願をしているけど、これは時間稼ぎの意味合いもあったのではないかとする説もある。
時間稼ぎといえば、砦をあえて攻めさせたのも時間稼ぎのためであり、相手方の大兵力を分散させる狙いもあった。
ことは信長のシナリオ通りに進んでいく。

桶狭間の戦いがどこで行われたのかは、はっきり分かっていない。二つの候補地が名乗りをあげているものの、そのどちらも定かではない。
以前の定説では谷間のようなところとされていたけど、現在はそうではないという説が有力になっている。
戦上手の今川義元がわざわざ戦いに不利な谷間に本陣を置くはずもない。油断していたのは事実だとしても、たかが砦二つ落としたくらいで先勝祝いの酒盛りをするわけもない。まだ時刻は昼前だ。
常識的に考えて、本陣は桶狭間山の上の方だっただろう。それでもあえて信長は、正面から本陣を突いた。そこには確かな勝算があったはずだ。信長は負けると分かっている戦をするほど愚かではない。

桶狭間の戦い伝承地の一つに、義元と信長の像が並んで建っている。
今は戦国ブームと言われる。戦国時代にロマンを感じられるくらい歳月が流れた。日本国内で日本人同士が殺し合っていた時代があった。

一角に今川義元の墓がある。
後世に作られたものだろうけど、墓石の小ささに少し切ない気持ちになる。

一般的に今川義元が京都に上洛する途中で、信長の奇襲に遭って首を取られたとされる桶狭間の戦いは、実はそうではなかったというのが最近の定説になってきている。
単純に言ってしまえば、尾張と三河との領地争いだ。信長が仕掛けて、義元が応じた。義元にしても京都に上洛できるほど情勢は安定していなかった。まわりには北条や武田などが虎視眈々と領地を狙っている。
西の尾張を支配下に治めて、東との戦いに憂いをなくすというのが主な狙いだっただろう。少しずつ勢力を伸ばし始めてきた若き信長も気になったに違いない。
大兵力で一気に織田の本拠である清洲城まで攻め落とす心づもりだっただろう。駿府を出るときは、織田勢は清洲城に籠城するはずだと考えたのではないだろうか。
前線の砦を攻略したという報告を待って、義元の本隊は沓掛城を出た。いったんを桶狭間に本陣を置き、その後、分散した兵を再集結して清洲へと向かう予定だったと思われる。
一方の信長は時機を逸しなかった。思いがけない豪雨で足止めを食ったものの、義元の本陣が置かれた桶狭間へ向かって突進した。
このとき信長勢は精鋭部隊の兵2千。義元本隊は5千ほどといわれているものの、実際の戦闘員はもっと少なかったと考えられる。主だった攻撃部隊は砦攻略の方に参加していた。決して2千対2万の戦いなどではなかった。
まさか本陣を突かれるとは思ってない義元軍は慌てて、混乱した。敗走する兵も現れ、形勢は一気に信長軍に傾いた。
戦いはわずか2時間ほどで決着し、信長の軍勢が義元の首を討ち取ったとことで勝負ありとなった。
細かい部分での計算違いはあっただろうけど、概ね信長の描いたシナリオ通りに事は運んだ。
夕方には本拠の清洲城に戻っている。これだけの歴史的な戦いが、わずか半日ちょっとで終結してしまった。

もう一ヶ所の伝承地も、公園になっており、碑や説明版などがある。
住宅地の小さな公園で、ここらで激しい戦が行われたといった感じはまるでしない。

こちらの義元の墓はやや立派だ。
関ヶ原の地を歩いていると、なんだか西軍に対してとても同情的な気持ちになる。今でも無念の思いがあの地には漂っているのかもしれない。
桶狭間ではそんなことはない。義元の魂は故郷へ戻ったのだろうか。
東海一の弓取りと言われた義元は、決して愚かでも、弱くもなかった。セオリー通りに攻め、相手の巧妙なやり方に負けた。それは奇襲などといったものではなく、情報戦を制し、新しい時代を切り開いた先駆者としての信長に、敗れるべくして敗れたと言ってもいいかもしれない。ベテランの実力者が若手のホープに敗れた、ただそれだけのことだ。勝負の世界ではときどきそういうことが起きることを、私たちは知っている。

すぐ近くにある高徳院。今川義元本陣跡の碑が建っている。
戦死者の霊を弔うために創建されたそうだ。

私たちは、彼らが夢見た世界を生きているだろうか。過去に報いるということを、もう少し考えなければならないのかもしれない。