月別:2011年01月

記事一覧
  • 失敗して彩りを忘れたサンデー料理

    PENTAX K-7+PENTAX FA 50mm f1.4 今日のサンデー料理は、一つ大きな失敗をやらかした。そのことで動揺してしまい、彩りの緑を忘れた。緑のない料理は、黄色と茶色に支配されて、なんというか華やかさがない。今日は赤も少なかったから余計にそう見える。アスパラガスがわずかな救いだった。アスパラがない図を想像すると、完全に黄茶色料理になっていた。危ないところだった。 相変わらず彩りを添えるのが苦手だ。なんとかしたい...

    2011/01/31

    料理(Cooking)

  • 記憶の中のおもちゃ箱の蓋が開く「昭和日常博物館」<3>

     小学生のときのお小遣いがいくらだったのか、今はもう思い出せない。低学年のときは決まったお金を月々もらうというのではなく、必要なときにその都度お願いしてもらっていたような気もする。中学のときで3,000円くらい、高校で5,000円だったような記憶がある。普段はあまりお金を使う子供ではなく、お年玉などをためて年に何回か欲しいものを買っていた。学校帰りに買い食いとかもあまりしなかった。昔から飲み食いにお金を使う...

    2011/01/29

    美術館・博物館(Museum)

  • 昭和30年代の暮らしを再現する「昭和日常博物館」<2>

     風景として撮る昭和日常博物館は、セピア色のモノクロでと最初から考えていた。後半のブツ撮りはカラーにした。カラーではないと伝わらないものもある。 カメラのフィルムがカラーになったのは、昭和30年代終わりのことで、最初はとても高価なものだった。カラーフィルムが一般的になったのは、昭和40年代の半ばで、それでも比率はまだ5割に満たなかった。 昭和50年代に入ると、カラー全盛の時代となり、比率は80パーセントを...

    2011/01/29

    美術館・博物館(Museum)

  • 昭和30年代に小旅行できる「昭和日常博物館」<1>

     ちょっと昭和30年代にタイムトリップしてきた。 まだ生まれていないから懐かしいとはいえないのだけど、最も昭和らしかった時代。一番夢が溢れていたときと言ってもいいだろう。 戦後の復興が進み、街は活気を取り戻し、日本も人々の暮らしも豊かになった。次々に新しい電化製品が発売され、新幹線が走り、オリンピックが開催された。生活が豊かになることが幸せになることだと信じられた時代。すべてが幸せだったわけではない...

    2011/01/28

    美術館・博物館(Museum)

  • 1月の尾張旭

    PENTAX K-7+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / FA50mm f1.4 尾張旭城山のいつもの風景。 少し前までコスモスが咲いていた気がするけど、季節は巡り、今は1月。すっかり冬枯れの田んぼだ。 鳥の姿も少ない。ケリも冬場はここにいない。ツバメが飛び交う春までは、まだ遠い。 田んぼの白いビニールがまぶしかった。寒さから野菜を守るミニハウスだ。 いつの間にか、けっこうな規模の本格的な畑になった。元々は小さな体験農園みたい...

    2011/01/26

    日常写真(Everyday life)

  • 大森から小幡緑地東園へ

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 / 55-300mm f4-5.8 今日も小ネタが続く。1月に入ってほとんど遠出できていない。 今回は大森から小幡緑地、尾張旭へと続くご近所写真だ。 雨池は、去年の秋に水が抜かれて、まだそのままになっていた。次に水が入るのは春らしい。 当然ながら、鳥の姿はない。ここをすみかにしていたバンたちはどこへ行ったのだろう。毎年楽しみにしていたミコアイサも、今年は見ることができない。 遠くて近...

    2011/01/26

    日常写真(Everyday life)

  • スモール・ピクチャー ~日々の写真

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 他 余り物の写真がまたたまってきたので、一度まとめて出してしまうことにする。 一枚目は、東山植物園の展望台から見た冬枯れの景色だ。 中京テレビの東山タワーは、けっこうカッコイイ。地デジに完全移行してしまってもタワーはFMラジオ用として残るようだ。ラジオのタワーとしては贅沢だろうけど。 長らく工事をしていた高針ジャンクション付近も、かなり形ができてきて、完成に近づいた。...

    2011/01/25

    日常写真(Everyday life)

  • ホッとする和食サンデー料理

    PENTAX K-7+PENTAX FA 50mm f1.4 今日のサンデー料理は、和食の気分だった。かなり和に徹したつもりだったのだけど、レタスが思った以上に異彩を放ってしまった。レタスの原産は中近東や地中海地方だ。和食に使う食材じゃなかった。 それでも、全体を見れば和食に分類される料理にはなっている。油断すると茶色一色になりそうなところを、緑色を加えることでなんとか回避できたと思う。料理における彩りとしての緑色の重要さを再...

    2011/01/24

    料理(Cooking)

  • 早春の花の開花速報 ~農業センターにて

    PENTAX K-7+PENTAX TAMRON 90mm f2.8 1月20日の大寒も過ぎ、次の二十四節気は2月4日の立春だ。今年の冬はけっこう冷えているけど、そろそろこのあたりが寒さの底と考えてよさそうだ。春はもうそう遠くないところまで来ている。 そうなると、早春の花が気になりだした。さすがに1月では気が早すぎるのだけど、近づいて注意深く観察してみると、花たちはもう咲く準備をすっかり整えている。日々の暮らしの中で見えていないだけだ。...

    2011/01/22

    花/植物(Flower/plant)

  • 1月の動物園は人も動物も寒い

    PENTAX K-7+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / TAMRON 90mm f2.8 ちょっと東山動植物園に行ってきた。 去年は年間パスポートで10回行くのがやっとで、動物ハンドブックがもらえる20回を目標にしていたのに届かなかった。今年はなんとか達成したいと思っている。そのためには、シーズンオフでも月に1度は行かなくはいけない。1月、2月でもう2回行っておきたい。 それにしても、冬の動物園は寒い。寒すぎて人もいない。場所によっては...

    2011/01/22

    動物園(Zoo)

  • トヨタの収集癖全開の新館 <トヨタ博物館・第5回>

    PENTAX K-7+TAMRON 28-78mm f2.8 トヨタ博物館の最終回、新館編が残っていた。今回がシリーズの最終回となる。 新館はトヨタ博物館の10周年を記念して1999年(平成11年)に建てられた。 こちらは昭和の暮らしと車を組み合わせた展示になっている。 懐かしい家財道具や家電、おもちゃ、雑誌、写真など、非常に趣味的な収集で、おもちゃコレクターとして名高い北原照久に、トヨタがその財力で対抗して集めたみたいなことになって...

    2011/01/20

    美術館・博物館(Museum)

  • 名古屋城の雪と氷風景 <後編>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 今日は昨日の続きで、雪の名古屋城周辺風景をお送りします。 雪も終わってみれば遠い日の出来事のようで、水曜日の今日も日陰に少し残り雪があるものの、すっかり過去の出来事になった感がある。今シーズンはもうあれほど積もることはないのではないかと思う。明日は大寒で、まだ寒さは続くようだけど、1月も後半となれば遠くに春も見えてくる。ロウバイが咲き始め、菜の花開花の便りも届いた。...

    2011/01/20

    雨/雪/天候(Weather)

  • 名古屋城周辺の雪景色 <前編>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 大雪が降った翌日、雪景色を求めて名古屋城へ向かった。 着いてみると、思った以上に雪が溶けていて、思い描いていたような雪景色は残っていなかった。天守閣にもほとんど雪が乗っていない。それなら入城してまで撮ることはないだろうという判断で、外の堀沿いを歩きながら撮ることにした。 やはり出遅れは致命的だったかと思いつつも、まだ雪が残っているところもあって、普段とは違う冬の表...

    2011/01/18

    雨/雪/天候(Weather)

  • 雪の日の名古屋

    PENTAX K-7+PENTAX 55-300mm f4-5.8 / 50mm f1.4 / 16-45mm 日曜日、名古屋では久々に大雪が降った。出かけたかったのだけど行けなかったので、撮れる範囲で少しだけ撮った。それにしても、吹雪くほど降ったのは本当に久しぶりのことだった。 午前中から降り始めた雪は、午後になると強まり、みるみる雪景色になっていった。 少し離れたところはかすんで見えない。東山タワーも、名古屋駅のビルも視界から消えた。 道路もかな...

    2011/01/18

    雨/雪/天候(Weather)

  • 普通のサンデー料理

    PENTAX K-7+PENTAX FA 50mm f1.4 今日のサンデー料理は、ヘルシー寄りにしようと思って作り始めたのだけど、結果的にはそうならなかったかもしれない。いつもとあまり変わらなかった。今回も特にテーマは決めず、食材と相談しつつ食べたいものを作った。 外は大雪。こんな日は家でおとなしく過ごして、のんびり料理でも楽しもう。 白身魚と豆腐と白はんぺんの蒸しもの2色ソースがけ。 今日のメインはこれだった。一見豆腐っぽ...

    2011/01/17

    料理(Cooking)

  • 車がスポーツを目指した時代 <トヨタ博物館・第4回>

    PENTAX K-7+TAMRON 28-78mm f2.8 トヨタ2000GTを抜きにトヨタ自動車は語れない。トヨタはもう、トヨタ2000GTを超える車は作れないだろう。これは生まれたときから伝説となることを宿命づけられた車だった。 発売は1967年。生産終了までの3年間で、337台が生産された。 発売当時の価格は238万円。現在の価格に換算すると2,000万円程度とされる。しかし、何しろ生産台数が少なかったから手に入れるのは難しかったことだろう。 私...

    2011/01/16

    美術館・博物館(Museum)

  • あの頃自動車は夢と情熱の結晶だった <トヨタ博物館・第3回>

    PENTAX K-7+TAMRON 28-78mm f2.8 トヨタ博物館の3階は、日本車ゾーンになる。 日本初の自動車は、1904年の山羽式蒸気自動車とされている。名前の通り、蒸気で走る車だった。 初のガソリン車は、1907年のタクリー号だ。10台ほど製造されたという。 1911年にはニッサンの源流である快進社自働車工場が、エンジンも含めたオール国産車の開発に成功。 その8年後、日本初の量産車である三菱A型が三菱造船によって作られた。 名古...

    2011/01/15

    美術館・博物館(Museum)

  • 車も顔が大事 <トヨタ博物館・第2回>

    PENTAX K-7+TAMRON 28-78mm f2.8 車も顔が大事。 シボレーマスターシリーズDA。 昔の車は、顔に個性があった。負けん気が強くて、威張っているように見えるけど、そこが愛らしくもある。 その時代の流行というか、スタンダードなデザインがあって、この時代のアメリカ車は、大きなラジエーターグリルと、二つの丸目ヘッドライトが特徴だ。流線型のボディラインは、すでに1930年代くらいから登場している。 この時代の車が一番...

    2011/01/14

    美術館・博物館(Museum)

  • トヨタ博物館のオールドカーたち <第1回>

    PENTAX K-7+TAMRON 28-78mm f2.8 初めてトヨタ博物館へ行ったのは、去年の夏だった。季節に関係のないネタだからと後回しにしていたら、半年近く経ってしまった。ネタ切れを起こしたときのための在庫にしようという考えもあったのだけど。 1989年、トヨタ自動車の創立50周年記念として作られたのがトヨタ博物館だ。 名前からしてトヨタ自動車に関する博物館と思いがちだけど、実際はそうではなく、19世紀末から20世紀にかけての...

    2011/01/13

    美術館・博物館(Museum)

  • 飛鳥で開放感を味わう <第四回>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 飛鳥坐神社をあとにした頃、ようやく雨があがった。 飛鳥の地は、山に囲まれているものの、空間的な広がりを感じる。高い建物がなく、民家も密集していない。田んぼも多く、何もないような土地も広がっていて、心地よい開放感がある。久しぶりに建物の圧迫感がない自由さを感じた。 サイクリングの効率性も捨て難いけど、やはり飛鳥は歩きが合っているように思う。時間をかけてゆっくり歩いて...

    2011/01/12

    奈良(Nara)

  • 飛鳥で昔に思いを馳せる <第三回>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 桐島ローランドととよた真帆が飛鳥を旅するというテレビ番組で、桐島ローランドが撮った酒船石の写真がすごく格好良くて印象に残った。あの写真も、私を飛鳥へと向かわせる要因の一つとなった。 案内標識から石段を登った小高い丘の上にそれはあった。周りを竹林で囲まれており、雨ということもあって薄暗く、ひっそりとしている。雨音だけが響いていた。 不思議といえば不思議なものだ。東西...

    2011/01/11

    奈良(Nara)

  • 2011年新春サンデー料理

    PENTAX K-7+PENTAX FA 50mm f1.4 今日が2011年最初のサンデー料理となった。おせち料理を作るには時機を逸したということで、普通の料理になった。 今年も週に一度の料理は続けていくつもりでいる。その中で、もう一つ、二つ、新機軸と呼べるような料理をレパートリーに加えたいところだ。オレ流料理の殻を破りたい。ミキサー導入で幅を広げるというのも考えたい。 今回のサンデーも、これといったテーマはなく、冷蔵庫の食材を...

    2011/01/10

    料理(Cooking)

  • 冬の雨の中、飛鳥を歩く <第二回>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 鬼の石、亀石を見たあとは、石舞台古墳がある東エリアへと向かった。 空がだんだん厚い雲に覆われ始め、わずかな隙間から光が差して明日香の地を照らした。ほどなくして、その光も消え、ポツリ、ポツリと雨が落ち始めた。 お寺の入り口のようなものが見えたので近づいてみると、聖徳皇太子御誕生所と彫られた石柱が立っていた。その前には下馬の文字も見える。 石柱をくぐった先にお寺がある...

    2011/01/09

    奈良(Nara)

  • 飛鳥の地に立つ <第一回>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 飛鳥を見たくて、年末に旅をしてきた。 12月の冷たい雨が降る中、歩き歩いた6時間半。飛鳥の地に立ち、空気に触れ、息吹を感じて、私の目に映る飛鳥を写してきた。 ずっと行きたいと思っていてなかなか行けず、ようやく行くことができた。自分にとって特別な場所は、しかるべき時期が来ないと呼んでもらえないらしい。こちらの片思いだけでは、その場所と同調することができない。今回行けたの...

    2011/01/08

    奈良(Nara)

  • 受験合格祈願は山田天満宮へ

     初詣と大学受験の合格祈願を兼ねて名古屋市北区にある山田天満宮に行ってきた。 といっても、私が今更大学に入り直すわけではない。知り合いの子供のためのお願いだった。初詣は挨拶だけで済ます。 名古屋には三天神というのがある。あとの二つのは桜天神と上野天満宮ということになっている。 山田天満宮は、1672年、尾張徳川二代藩主の徳川光友が建てた神社だ。 江戸では徳川四代将軍・家綱が、教育や学問に力を入れる政治...

    2011/01/07

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 夕暮れどきの川原町は雨 <岐阜旅第二弾・その6>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 岐阜城をあとにして、この日最後の目的地の川原町へとやってきた。 本降りの雨の中、傘も差さずに自転車を押しながら写真を撮っている人というのもどうかと思ったけど、次の機会がいつ訪れるか分からないとなると、ここまで来て寄らないわけにはいかなかった。 雨に濡れてしっとりとした川原町の風情はなかなかよかった。ただ、撮影には厳しすぎる条件で、三脚を立てる心の余裕も持てず、通り...

    2011/01/05

    観光地(Tourist spot)

  • 旧名鉄美濃駅に立ち寄る

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 長良川鉄道で美濃市へ行ったとき、名鉄の旧美濃駅に立ち寄ってきた。 駅といっても、すでに廃線になったところで、駅舎と旧車両が保存されているところだ。美濃市駅から歩いて3分ほどのところにある。 岐阜旅第一弾シリーズの本編に組み込めなかったので、番外編として紹介することにした。 かつて名鉄に、美濃町線(みのまちせん)という路線があった。岐阜市の徹明町駅(てつめいちょうえき...

    2011/01/05

    飛行機(Airplane)

  • 夕焼けのち雨の岐阜城登城 <岐阜旅第二弾・その5>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 閉館間際の岐阜城天守閣に飛び込んで、急な階段を駆け上がって最上階から外眺めたとき、空は暗雲とオレンジに分割され、長良川は夕焼け色に染まっていた。 おお、これは。 こんなときは平凡な言葉しか出てこない。美しい。 まだ若く、天下取りの野望に燃える34歳の信長は、ここからの眺めに何を思ったか。やっとここまできたかという感慨か、まだまだこれからという思いだったか。難攻不落と...

    2011/01/05

    城(Castle)

  • 男前の伊奈波神社と微笑みの岐阜大仏 <岐阜旅第二弾・その4>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 岐阜市内で随一の歴史と格式のある伊奈波神社(いなばじんじゃ)は、とてもカッコイイ神社だ。 昨日も書いたように、金神社に祀られているのがお母さんの渟熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)で、橿森神社の祭神・市隼雄命(いちはやおのみこと)は子供、この伊奈波神社がお父さんの五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)ということになる。 キリッとした男前の佇まいで、みんなに自慢した...

    2011/01/04

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 金にまつわる信長と神社の話 <岐阜旅第二弾・その3>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 岐阜駅前に、金ピカの信長像が建っている。去年できた。 甲冑を身につけ、マントを羽織り、手には西洋風のカブトと火縄銃を持っている。評判はあまり芳しくないようだけど、話題にはなった。 背後の高層ビルは、シティタワー45だ。展望台に登ろうかと思っていたのだけど、結局行けなかった。 この地は、もともと、井ノ口と呼ばれていた。斉藤氏の稲葉山城を攻略して、信長がここを拠点とした...

    2011/01/03

    神社仏閣(Shrines and temples)

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失敗して彩りを忘れたサンデー料理

料理(Cooking)
サンデー1

PENTAX K-7+PENTAX FA 50mm f1.4



 今日のサンデー料理は、一つ大きな失敗をやらかした。そのことで動揺してしまい、彩りの緑を忘れた。緑のない料理は、黄色と茶色に支配されて、なんというか華やかさがない。今日は赤も少なかったから余計にそう見える。アスパラガスがわずかな救いだった。アスパラがない図を想像すると、完全に黄茶色料理になっていた。危ないところだった。
 相変わらず彩りを添えるのが苦手だ。なんとかしたいと思っているのだけど。

サンデー3

 がんもどき崩れの豆腐ハンバーグ。
 失敗したのはこいつだ。がんもどきを作るつもりが、ぐずぐずになって、なんとか体裁を整えたら豆腐ハンバーグもどきになっていた。
 まずは豆腐に木綿ではなく絹ごしを使ったのが失敗の要因だった。水切りが不完全だったのも、よくなかった。更に言えば、つなぎの粉も足りなかったし、練り込みも不足していた。
 油で揚げたらバラバラになってしまって、どうにもならなくなったので、すくいだしてフライパンで焼いて固めるしかなかった。最初から豆腐ハンバーグとして作っていたら、これはこれで美味しかったのだが。
 これは悔しい。失敗したままでは終われないので、近いうちに再挑戦したい。
 今回の作り方はこうだ。
 絹ごし豆腐をキッチンペーパーで巻いて、レンジで5分ほど加熱して水切りをする。このあと更に重しをしてもっとよく水切りすべきだった。
 シイタケ、ニンジン、白はんぺんを細かく刻む。
 卵白に砂糖を加えて、よく泡立てる。
 泡立てた卵白、豆腐、シイタケ、ニンジン、白はんぺん、カタクリ粉、ダシの素、塩、コショウをよく混ぜる。
 このとき、全卵をもう1個入れて、粉は小麦粉にした方がよかったかもしれない。
 ラップでくるんで茶巾絞りにして、レンジで3分加熱する。
 少し冷まして、油で揚げる。この段階である程度形が整っている必要があったのに、まだ水気が多くて柔らかすぎた。
 たれは、酒、みりん、しょう油、めんつゆ、塩、コショウ、唐辛子をひと煮立ちさせる。
 次はもっとましながんもどきを作りたい。

サンデー2

 スズキの味噌卵ソースがけ。
 スズキは、ショウガ、塩、コショウをまぶし、酒を振ってしばらく置く。
 タッパーに入れて、レンジで3分加熱する。
 しめじとアスパラは、塩、コショウを振って、タッパーに入れて、レンジで2分。
 ソースは、卵黄、オリーブオイル、マヨネーズ、白味噌、ダシの素、塩、コショウ、砂糖、からしを混ぜて作る。
 和とも洋ともつかない料理だけど、味噌卵ソースは美味しかった。このソースは他でも使えそうだ。

サンデー4

 肉じゃがのカレー味バージョン。
 カレー味の肉じゃがを作ったら、結果的にカレースープのようになった。カレーと肉じゃがは兄弟のような関係にあることに気づいた。
 油を使わず、ジャガイモ、鶏肉、ニンジンを煮る。ひたひたになるくらいまで、水、酒、みりん、ダシの素を入れて、最初は強火で、途中からアルミホイルの落とし蓋を乗せて弱火で煮る。
 途中でタマネギを追加する。
 白だし、カレー粉、砂糖、塩、コショウで味付けをする。
 いったん冷まして、味を染み込ませる。
 再加熱して温まったところで、水溶きカタクリ粉を入れて、とろみをつける。
 カレー味を濃くすれば、このままカレーライスとしても食べられそうだ。

 一つ大きな失敗があって、しまったという思いが強かったのだけど、食べてみれば失敗の影響は意外と小さかった。彩り不足を除けば、全体のバランスも悪くなかった。
 失敗したものはそのままあきらめず、もう一度作ってみる必要がある。失敗して気づいたことを無駄にしないためにも。

アイ

 しばらく登場してなかったアイを久々に登場させてみる。
 相変わらずのワガママお嬢ぶりに手を焼いているのだった。

記憶の中のおもちゃ箱の蓋が開く「昭和日常博物館」<3>

美術館・博物館(Museum)
昭和日常博物館3-1




 小学生のときのお小遣いがいくらだったのか、今はもう思い出せない。低学年のときは決まったお金を月々もらうというのではなく、必要なときにその都度お願いしてもらっていたような気もする。中学のときで3,000円くらい、高校で5,000円だったような記憶がある。普段はあまりお金を使う子供ではなく、お年玉などをためて年に何回か欲しいものを買っていた。学校帰りに買い食いとかもあまりしなかった。昔から飲み食いにお金を使うのが好きじゃなかったのだ。
 それでも小学生の一時期、近所の駄菓子屋によく通っていた。あれはお店をやっているおばちゃん---今思えばまだ若いお姉さんくらいだったのかもしれない---が好きで通っていたのかもしれない。なんでもだいたい10円とかだった。よくよく選んで3つとか買って食べるという感じだったと思う。
 何を食べていたのか、あまりはっきりとは覚えていない。串に刺さったイカの甘辛いやつとか、麩菓子とか、チョコバットとか、クッピーラムネとか、ヒモつきの飴とか、そんなようなものだった。体によさそうなものではなかったけど、あれは美味しいものだった。
 今なら食べきれないくらい買えるけど、だからといって買って食べたいとは思わない。駄菓子は子供の頃の思い出の中にあればそれでいい。
 昭和日常博物館に展示されている駄菓子は、昭和30年代のものということで、私にはほとんど馴染みのないものだった。もう少し上の年代の人には懐かしく思い出されるものなのだろう。私の記憶にあるものよりも、もっと素朴な駄菓子だ。



昭和日常博物館3-2

 三ツ矢ソースというのは見たことがない。三ツ矢サイダーのところが三ツ矢ソースを作っていたのかと思ったら、そういうことではないようだ。
 調べてみると、明治27年に大阪の越後屋産業というところが発売したもので、日本初の一般向けウスターソースだそうだ。今でも三ツ矢ソースブランドのソースは販売されているようだから、関西圏では知られた存在なのかもしれない。名古屋では見たことがないから売っていないと思うけどどうだろう。



昭和日常博物館3-3

 昔の薬の名前というのは面白いものが多い。ちょっとふざけているのかと思うものや、今では馴染みのない響きのカタカナ名など、くすっと笑える。
 もっと時代が進んだ未来では、バファリンとかキャベジンとかも、なんかレトロで変な感じを受けるようになるのだろうか。



昭和日常博物館3-4

 芸が細かい。板塀に軟球をぶつけてできた跡がつけられている。
 私も人の家の蔵にボールをぶつけて遊んでいて叱られた記憶がある。今思うと貴重な蔵を相手にキャッチボールをしたら怒られるのは当然だと分かるけど、当時はそんなに怒らなくてもと思った。



昭和日常博物館3-5

 メジャーなものからマイナーなものまで、たくさんのコレクションを展示している。
 当初は自前でいろいろ集めていたのだけど、ここの存在を知った人たちからたくさんの寄付が集まるようになったそうだ。
 今では昭和30年代のものを中心に10万点のコレクションを所蔵しているのだとか。常設展にはそのうちの1万点ほどが展示されている。
 ドラマや映画のための小道具として貸し出しも行っていて、この前私も見にいった名古屋市博物館の「名古屋タイムズの見た名古屋」展でも、ここの所蔵品があった。
 牛乳瓶は私の世代でもお馴染みのものだ。学校給食も牛乳瓶だった。牛乳のフタを集めているやつとかもいた。牛乳瓶のフタは上手く外すのが意外と難しかった。力を入れすぎると指がずぼっと牛乳の中に入ってしまい、しまった、やっちまった、ということになった。



昭和日常博物館3-6

 EP盤、LP盤、A面、B面、33回転、45回転、などといっても、何のことか分からないという世代も増えたのだろう。
 昔買ったレコードは押し入れの奥にしまっているはずだけど、もうレコードプレーヤーがない。この先、二度と聴く機会はないに違いない。
 初めて自分のお小遣いで買ったレコードは、山口百恵の「秋桜」だった。



昭和日常博物館3-7

 ソノシートなんて、知らない世代には一般のレコードよりももっと馴染みのないものに違いない。
 ビニール製のレコードで、雑誌の付録とかでついてきたものだ。
 ピンクレディーの活動期間は昭和50年代初めだから、コレクションに関しては必ずしも昭和30年代にこだわってはいない。



昭和日常博物館3-8

 コカコーラやペプシの瓶は、よく知っている。私はペプシの方が好きだった。当たりが出るとルパン三世の下敷きがもらえて、それが目当てでよく飲んだ覚えがある。



昭和日常博物館3-9

 妙に懐かしかったコレ。目にしたのはずいぶん久しぶりのことだ。 
 首を振ってコップの水を飲むキツツキみたいなやつ。
 今思えば何が面白かったのか謎だけど、けっこう売れたんじゃないだろうか。わりとあちこちで見かけたように思う。



昭和日常博物館3-10

 ドロップ缶も、昔はよくあった。ハッカの白いやつが出ると嬉しかった。
 ドロップ缶というのも最近はすっかり流行らなくなった。今でも売ってるには売ってるのだろうけど。



昭和日常博物館3-11

 カレーのルーが発売されて、一般家庭の食事としてよく食べられるようになったのも、昭和30年代に入ってからのことだ。ハウスやヱスビーが先駆けだった。
 大塚食品が日本初のレトルトカレー、ボンカレーを発売したのが昭和44年。以降、多くのメーカーから様々なカレーが発売され、カレーライスは日本の国民食といえるほどの成長を遂げた。



昭和日常博物館3-12

 これまた懐かしい。金ピカに塗られた塔や城のみやげもの。ペナントやキーホルダーとともに、観光地みやげの定番だった。
 私もいくつか買って持っていたはずなのに、どこへやってしまったのだろう。
 今でも観光地に行けば売っているのを見る。旅で浮かれた気分になると、なんとなく買ってみたくなったりもする。



昭和日常博物館3-13

 カメラコレクションもけっこうたくさんあるのだろうけど、スペースの関係で一部だけ展示されている。
 二眼レフは、見たことがあるだけで触ったことがない。こんなので撮っていると、ベテランのカメラマンさんとかに話しかけられそうだ。



昭和日常博物館3-14

 これもコレクションの一つか。コタツのスイッチ付きコード。
 ここ最近、コタツを使っていないから、現代のコタツがどんなふうに進歩しているのか知らない。今はもうリモコン式なのか、それとも変わらずコード式なんだろうか。



昭和日常博物館3-15

 昔の小学生向け雑誌の数々。
 小学何年生という雑誌は、わりと最近まであったんじゃなかったか。何年か前に、とうとう廃刊になったというニュースを見たような気がする。
 付録が魅力的で、定期購読したりもした。



昭和日常博物館3-16

 ロボットにミニカー、プラモデルにラジコン、懐かしのおもちゃの数々。子供の頃の楽しかった記憶が蘇る。あらためて、あの頃は幸せな時代だったと思う。
 いろんなおもちゃの思い出が浮かぶけど、今はもう、記憶の宝箱の中に仕舞ったままにしておいた方がよさそうだ。思い出そうとするときりがない。

 昭和30年代が懐かしい方もそうでない方も、機会があれば一度訪れてみることをオススメします。

 昭和30年代に小旅行できる「昭和日常博物館」<1>
 昭和30年代の暮らしを再現する昭和日常博物館<2>

【アクセス】
 ・名鉄犬山線「西春駅」から徒歩約30分。
 ・市内循環バス「きたバス」に乗って「市役所東庁舎」下車。 月曜~土曜日 100円
 ・無料駐車場 あり
 ・開館時間 9-17時 月曜日、毎月月末休館

 昭和日常博物館webサイト
 

昭和30年代の暮らしを再現する「昭和日常博物館」<2>

美術館・博物館(Museum)
昭和日常博物館2-1




 風景として撮る昭和日常博物館は、セピア色のモノクロでと最初から考えていた。後半のブツ撮りはカラーにした。カラーではないと伝わらないものもある。
 カメラのフィルムがカラーになったのは、昭和30年代終わりのことで、最初はとても高価なものだった。カラーフィルムが一般的になったのは、昭和40年代の半ばで、それでも比率はまだ5割に満たなかった。
 昭和50年代に入ると、カラー全盛の時代となり、比率は80パーセントを超えた。
 私の子供の頃のアルバムを見ると、赤ん坊の時代は白黒で、小学校にあがる前くらいからカラーになったようだ。当時のフィルム代や現像代は、今の感覚にするとどれくらいだったのか、ちょっと分からない。写真を撮るという行為は日常的なものではなく、行事や旅行のときに限られていたから、多少高くてもしょうがないといった感じだったんじゃないだろうか。昭和30年代は、かなり贅沢な趣味という金額だったと思われる。



昭和日常博物館2-2

 当時の庭を再現しようとしたものの、三輪車も自転車も朽ち果てそうになっていて、廃墟の光景のようになってしまっている。これはこれで味といえばそうなのだけど。
 そういえば、最近は古典的なスタイルの三輪車に乗っている子供をあまり見ない気がする。昔は裏道などで三輪車を乗り回しているのが普通だったけど、今は子供にとって安全な場所が少なくなったというのもありそうだ。



昭和日常博物館2-3

 あー、なんか、あったな、こういうの。簡易水道みたいなやつ。
 小さい頃、うちの田舎のトイレの外にあったような記憶がある。真ん中の棒を手のひらで押し上げると、水がシャワーのように出てくる仕組みだ。



昭和日常博物館2-4

 下駄履きでの入場をお断りしますと書かれた店も今はない。下駄はカランコロンうるさいのが難点であり、そこがよさでもあった。
 20年くらい前に買ってもらったマイ下駄をまだ持っている。今こそ、下駄履きで店に入っていってやってもいいかもしれない。おそらく、それを注意するマニュアルは存在しない。



昭和日常博物館2-5

 土間の炊飯釜。
 一般公開している旧家などでよく見る。実際に使われているのは見たことがない。山村の古い家では今でも現役で使っているところがありそうだ。こういう釜で炊いたご飯を食べてみたい。



昭和日常博物館2-6

 何かの器具。アイロンかもしれない。



昭和日常博物館2-7

 土壁と窓。こんなあたりも芸が細かい。展示全般、けっこう作り込んでいる。



昭和日常博物館2-8

 井戸のポンプ。
 井戸はまだ使っているところは使っている。うちの田舎にもある。



昭和日常博物館2-9

 アルマイトの給食用食器。確か小学校のときはこれだったと思う。
 給食をさほど楽しみにしていなかったせいもあって、給食の思い出はあまり残っていない。覚えているのは、たまに出るカレーうどんが美味しかったことくらいだ。



昭和日常博物館2-10

 かなり古そうな白黒テレビ。SANYO製だ。
 これで12インチくらいだろうか。昔は14インチくらいのテレビを家族揃って観ていた。
 私がまだ小さかった頃、アパート住まいのときは白黒テレビだっただろうか。そのへんの記憶がはっきりしない。



昭和日常博物館2-11

 東芝の電気炊飯器。
 電気炊飯器が出る前は一般家庭は何でご飯を炊いていたのだろう。アパートなどに大きな釜は持ち込めない。今のような炊飯土鍋があったのか。庭がある家は、薪と釜で炊いていたのだろう。考えてみると、そのあたりの事情を知らないことに気づく。



昭和日常博物館2-12

 ナショナルの冷蔵庫。
 取っ手が栓抜きみたいになっている。
 瓶には栓抜きが、缶には缶切りが必需品だった。



昭和日常博物館2-13

 テレビの室内アンテナというのは、わりとポピュラーだった。映りが悪くなると、叩いて直した。昔はなんでも、調子が悪くなると、叩くか振るかしたものだ。中でカラカラ音がしたりしても、それで直ったりするから、不思議だ。



昭和日常博物館2-14

 今ではまったく流行らなくなった子供じゃらし。赤ん坊が寝ているベビーベッドの上に吊ってあった。ヒモを引っ張ると、ぐるぐる回転してメロディーが流れる。子供はこの程度でご機嫌になると信じていた時代。



昭和日常博物館2-15

 コレクション品編につづく。

 昭和30年代に小旅行できる「昭和日常博物館」<1>
 記憶の中のおもちゃ箱の蓋が開く「昭和日常博物館」<3>

【アクセス】
 ・名鉄犬山線「西春駅」から徒歩約30分。
 ・市内循環バス「きたバス」に乗って「市役所東庁舎」下車。 月曜~土曜日 100円
 ・無料駐車場 あり
 ・開館時間 9-17時 月曜日、毎月月末休館

 昭和日常博物館webサイト
 

昭和30年代に小旅行できる「昭和日常博物館」<1>

美術館・博物館(Museum)
昭和日常博物館1-1




 ちょっと昭和30年代にタイムトリップしてきた。
 まだ生まれていないから懐かしいとはいえないのだけど、最も昭和らしかった時代。一番夢が溢れていたときと言ってもいいだろう。
 戦後の復興が進み、街は活気を取り戻し、日本も人々の暮らしも豊かになった。次々に新しい電化製品が発売され、新幹線が走り、オリンピックが開催された。生活が豊かになることが幸せになることだと信じられた時代。すべてが幸せだったわけではないにしても、人々は未来に希望が持てた。頑張ることで報われた最後の時代という言い方もできるかもしれない。
 今振り返って見ると、まだまだ貧しく、街も清潔とは言えず、暮らしは依然として不便なままだった。それでも、昭和30年代を生きた多くの人が懐かしく振り返るのは、やはりあの時代はいい時代だったからに違いない。昭和40年代に入ると、必ずしも夢や希望だけで生きていける時代ではなくなっていた。
 平成になって20年以上が過ぎ、人々が昭和時代を懐かしく思い返すことが多くなったように思う。昭和というキーワードが、レトロとノスタルジーを感じさせる言葉になった。昭和回顧のイベントなども増え、全国各地に昭和を再現した施設などもたくさん作られている。それが閉塞した今の時代の気分なのだろう。
 そんな時代の流れをいち早く読み取り、昭和を収集、保存し、展示を始めたのが、師勝町歴史民俗資料館だった。
 昭和が終わって間もない平成2年(1990年)という早い時期に、昭和にまつわる品々を集め、資料館として開館させた。
 1999年に行った「ナツカシイってどんな気持ち~ナツカシイをキーワードに心の中を探る」という企画展示をきっかけに、今のような展示スタイルになっていった。
 常設展示の他、年に3回の企画展が開催されている。
 平成18年(2006年)に、師勝町と西春町が合併して北名古屋市となり、名称は北名古屋市歴史民俗資料館「昭和日常博物館」に変わった。
 博物館は、北名古屋市の東図書館の3階にある。入場は無料で、土日祝日をのぞく平日の午後5時までとなっている。
※現在は、毎週月曜日と毎月末日が休館日となっている(9-17時)。



昭和の自転車屋さん

 こういう風景をリアルタイムで知っている人なら、懐かしいに違いない。再現度はかなり高そうだ。
 昭和30年代ということで、私などは中途半端で少し乗り切れないものを感じた。もっと若ければ、まったく知らない昔の風景を新鮮に感じるんじゃないだろうか。
 昭和50年代というのも魅力的な時代だったから、そのあたりを再現する施設があってもいいんじゃないだろうか。



バイク陸王

 自転車屋さんを再現している。
 店先にとまっているのは、陸王というバイクだ。和製ハーレーなども呼ばれたそうだ。



昭和日常博物館タバコ屋

 タバコ屋さんと公衆電話。昔、タバコ屋は切手やハガキも販売していた。
 公衆電話は、ボックスが主流になる前は、こんな風に店の前に置かれているのが普通だった。



昭和日常博物館丸ポスト

 丸ポストと駄菓子屋。
 丸ホストは今でもときどき見かけるから、特別懐かしいものではない。
 駄菓子屋は、ここまで古めかしいものではなかったけど、子供の頃よく行っていた。まだわずかに駄菓子屋の生き残りがあった。



昭和日常博物館床屋

 ここまでオールドスタイルの床屋は知らない。



昭和日常博物館ポマード

 ポマードというのは今でも売ってるのだろうか。リーゼントが絶滅寸前だから、ポマードの需要は多くないかもしれない。



昭和日常博物館下駄屋

 下駄屋さん。昔は靴屋ではなく、下駄屋と呼んでいた。下駄履きの人も最近はまったく見なくなった。



昭和日常博物館電気屋

 電気屋さんの再現。
 さすがに新品同様の電化製品を収集することは無理なので、あまり電気屋っぽく見えない。
 洗濯機の特売が1万9千円を超えている。当時としてはものすごく高価だったに違いない。
 家電の三種の神器は、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫だった。今では当たり前となったこれらも、あの頃は夢の製品だった。それまですべて手作業や肉体労働だったことが、電気製品の登場で劇的に楽で便利になった。電気炊飯器や電気掃除機が一般に普及したのもこの頃だ。
 お父さんたちは外でせっせと働いて稼ぎ、次々に新しい家電を買ってきて、家族みんなが大喜びした。お父さんに権威があり、家族に尊敬されたのも当然のことだった。



昭和日常博物館居間

 昭和30年代の居間の様子。真ん中にちゃぶ台があり、テレビがあり、家電に囲まれた暮らし。収納という発想があまりなかった時代だから、いろんなものが床に置かれていた。
 昭和30年代前半、テレビは街頭か、お金持ちの家に行って観るものだった。昭和35年でようやく一般家庭の普及率が50パーセント近くまでなり、90パーセントを超えるのは昭和40年になってからのことだった。
 チャンネル争いという言葉も、今はもう死語に近い。



昭和日常博物館黒電話とタンス

 黒電話に小さな鏡台。薬箱や諸々のものがタンスの上に置かれている。こんな風景は、昭和40年代になっても続いていたように思う。子供の頃、アパートで暮らしていたときの写真を見ると、こんな感じに近い。
 洋服を仕舞うクローゼットなんてものはなく、そもそも仕舞うほどたくさんの洋服を持っていない。日常の着替えは、部屋の隅に吊っていた。



昭和日常博物館食卓風景

 こちらは田舎の方の居間といった感じだ。板張りの床というのは、街中では少なくなっていたんじゃないだろうか。



裸電球

 傘を被った裸電球。うちの田舎では長らくこんなだったから、すごく古いとは感じない。
 蛍光灯が普及して、少しずつ切り替わっていったのも、この時代だ。



リヤカー

 リヤカーは、農村地域では必需品だった。街での暮らしでは、馴染まないものとなっていた。



昭和日常博物館1-15

 隙間から漏れる部屋の明かり。すきま風が入る隙間でもある。昔の家は寒かった。

 懐かしの小物編に続く。

 昭和30年代の暮らしを再現する昭和日常博物館<2>
 記憶の中のおもちゃ箱の蓋が開く「昭和日常博物館」<3>

【アクセス】
 ・名鉄犬山線「西春駅」から徒歩約30分。
 ・市内循環バス「きたバス」に乗って「市役所東庁舎」下車。 月曜~土曜日 100円
 ・無料駐車場 あり
 ・開館時間 9-17時 月曜日、毎月月末休館

 昭和日常博物館webサイト
 

1月の尾張旭

日常写真(Everyday life)
尾張旭2-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / FA50mm f1.4



 尾張旭城山のいつもの風景。
 少し前までコスモスが咲いていた気がするけど、季節は巡り、今は1月。すっかり冬枯れの田んぼだ。
 鳥の姿も少ない。ケリも冬場はここにいない。ツバメが飛び交う春までは、まだ遠い。

尾張旭2-2

 田んぼの白いビニールがまぶしかった。寒さから野菜を守るミニハウスだ。
 いつの間にか、けっこうな規模の本格的な畑になった。元々は小さな体験農園みたいなものだったと思うのだけど。
 冬野菜がたくさん育っていた。

尾張旭2-3

 誰もいない野球グラウンド。草野球も真冬はシーズンオフか。

尾張旭2-4

 スカイワードあさひに登った。
 このときは雲が低く垂れ込めていて、遠くまで見渡すことができなかった。全体的にかすんで視界はよくなかった。

尾張旭2-5

 下の小学校では、たくさんの小学生たちがサッカーボールで練習をしていた。授業はもう終わった時間だったと思うけど、サッカー部という感じでもない。半分くらい女の子だった。

尾張旭2-6

 御嶽山は見えず、木曽山脈は見えた。きれいな雪化粧だ。
 右は恵那の笠置山だと思う。1000メートルを超える山だけど、こちらは冠雪していない。

尾張旭2-7

 恵那山はわりと近いから、どーんとよく見える。
 2000メートル超えだから、真っ白になっている。

尾張旭2-8

 名古屋駅方面のビル。春がすみのようだ。

尾張旭2-9

 ナゴヤドームもよく見える。
 あとは名古屋城が見えれば、名古屋の主だった建物全員集合となるのだけど、ここから名古屋城は見えない。ビルの影に隠れてしまっている。

尾張旭2-10

 名港トリトンと名古屋港方面。
 
尾張旭2-11

 帰り道、西日を浴びるススキ。
 少しずつ日が長くなってきた。

大森から小幡緑地東園へ

日常写真(Everyday life)
尾張旭1-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 / 55-300mm f4-5.8



 今日も小ネタが続く。1月に入ってほとんど遠出できていない。
 今回は大森から小幡緑地、尾張旭へと続くご近所写真だ。
 雨池は、去年の秋に水が抜かれて、まだそのままになっていた。次に水が入るのは春らしい。
 当然ながら、鳥の姿はない。ここをすみかにしていたバンたちはどこへ行ったのだろう。毎年楽しみにしていたミコアイサも、今年は見ることができない。

尾張旭1-2

 遠くて近い瀬戸電。何度となく撮っているのに、子供の頃を最後に、まったく乗っていない。瀬戸電の駅まで歩いて行くには遠いし、瀬戸電の路線の範囲は全部自転車で行けるから、乗る用事がない。

尾張旭1-3

 線路脇が完全に私物化されてしまっている。小さな畑のみならず、仕切りを超えて植木鉢が並べられている。

尾張旭1-4

 小幡緑地東園に行った。
 あまり撮るものがない時期に行くことが多い東園だから、ここへ行ってもやっぱり撮るものはあまりない。一年を通じて本園に比べると被写体が少ない。でも、ときどきふと行きたくなるのだった。

尾張旭1-5

 どこを見ても冬枯れの景色で、華やかな色がない。

尾張旭1-6

 カワセミを発見。けど、遠いし、枝が邪魔。このあとすぐに飛び立ってしまった。

尾張旭1-7

 メタセコイア並木。
 メタセコイアも秋の紅葉がきれいなのだけど、冬の赤茶けた枝の重なりも悪くない。

尾張旭1-8

 メタセコイア並木といえば、冬ソナ。けど、ここはそんなロマンスとは縁が薄そうだ。

尾張旭1-9

 芝生広場の一部だけ緑色をしていた。ちょっと色があって喜ぶ。

尾張旭1-10

 水を出しっぱなしにしてもったいないと近づいたら、横にひび割れができて、そこから水が噴き出していた。大丈夫だろうか。

 尾張旭の後編につづく。

スモール・ピクチャー ~日々の写真

日常写真(Everyday life)
近所写真-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 他



 余り物の写真がまたたまってきたので、一度まとめて出してしまうことにする。
 一枚目は、東山植物園の展望台から見た冬枯れの景色だ。
 中京テレビの東山タワーは、けっこうカッコイイ。地デジに完全移行してしまってもタワーはFMラジオ用として残るようだ。ラジオのタワーとしては贅沢だろうけど。

近所写真-2

 長らく工事をしていた高針ジャンクション付近も、かなり形ができてきて、完成に近づいた。
 3月20日に、高針ジャンクションと伊勢湾岸道路の名古屋南ジャンクションがつながる。名称も、名古屋第二環状自動車道に変わる。国道302号線も同時につながるから、車の流れはだいぶよくなるんじゃないだろうか。
 完成したら、ジャンクションの写真を撮りに行こう。

近所写真-3

 銀映のない新出来交差点。
 愛知県最後のストリップ劇場が姿を消した。
 入ったことはなかったし今後も入ることはなかっただろうけど、古い文化がまた一つ消えたことが寂しい。

近所写真-4

 大きな鳥が翼を広げたような格好をした団地。ただの長方形よりも気が利いている。

近所写真-7

 サギの群れ。コロニーでもないのにサギがこんなに集まっているところを見るのは珍しい。

近所写真-5

 裏路地で見つけた火の見櫓。
 まだ現役で使っていそうな雰囲気がある。半鐘もかかっている。
 丸と三角のデザインがなかなか洒落ている。

近所写真-8

 倉庫前。ペンキで偶然描かれた模様が、アート作品に見えた。

近所写真-6

 時代を感じさせるパーマ屋さん。

近所写真-9

 昔のお寺などに使われた古い瓦。夕暮れ色に染まって雰囲気が出ていた。

近所写真-10

 街灯の明かりが映り込む川とカモたち。

 日々の暮らしの中にある小さな写真。

ホッとする和食サンデー料理

料理(Cooking)
和サンデー1

PENTAX K-7+PENTAX FA 50mm f1.4



 今日のサンデー料理は、和食の気分だった。かなり和に徹したつもりだったのだけど、レタスが思った以上に異彩を放ってしまった。レタスの原産は中近東や地中海地方だ。和食に使う食材じゃなかった。
 それでも、全体を見れば和食に分類される料理にはなっている。油断すると茶色一色になりそうなところを、緑色を加えることでなんとか回避できたと思う。料理における彩りとしての緑色の重要さを再認識する。
 味付けも全般に和に統一して、洋物の調味料はなるべく避けた。油もオリーブオイルではなくごま油を使ったし、マヨネーズも使ってない。

和サンデー2

 マグロのサラダ風炒め。
 マグロに塩、コショウ、酒を振ってしばらく置く。
 ごま油とショウガで、タマネギを炒め、トマトの刻みとマグロを追加する。
 酒、みりん、しょう油、白だし、砂糖、酢、塩、コショウ、唐辛子で味付けをする。
 レタスを敷いて盛りつけ、最後にあらびきコショウを振りかけて完成となる。
 味はよかったのだけど、レタス以外の選択肢があったのではないかと、最後まで気になった。

和サンデー3

 具だくさんのすまし汁。
 大根はひとつまみの米と一緒にゆがいて、あく抜きをする。
 ジャガイモ、ニンジンを適当な大きさに切って、タッパーに入れてレンジで2分加熱。時間短縮になる。
 具がひたひたになるくらいまで水、酒、みりん、ダシの素を入れて、鶏肉、ジャガイモ、ニンジン、大根を茹でる。
 最初は中強火で、ある程度火が通ったら、中弱火にして、アルミホイルで作った落とし蓋をかぶせて、しばらく煮ていく。
 中盤くらいで、絹ごし豆腐と長ネギの白い部分を追加する。
 終盤に、塩、コショウ、白だしで味を調える。
 軽く茹でたサヤエンドウを彩りに使った。これだけでもちょっと華やかな感じになる。
 野菜もいろいろ食べられるし、優しい美味しさなのでオススメしたい。

和サンデー4

 里芋とタコの煮物。
 珍しくタコが登場した。あまりタコは食べないのだけど、たまには食べようかという気になった。
 里芋はよく洗って皮のままタッパーに入れて、レンジで5分くらい加熱する。少し冷まして皮をむく。
 酒、みりん、しょう油、ダシの素、水で、里芋とタコを煮る。
 途中で落とし蓋をする。
 めんつゆ、砂糖、塩、コショウで味付けを完成させ、刻んだ青ネギを入れて、しばらく煮たら出来上がりだ。
 タコがいいダシになって、里芋だけで煮るよりも美味しかった。タコにも味がよく染みていた。ちょっとタコを見直した。

 こんな感じの今日は和食サンデーだった。和食はホッとする。
 料理としてのインパクトは弱かったけど、満足感はあった。

早春の花の開花速報 ~農業センターにて

花/植物(Flower/plant)
農業センター1

PENTAX K-7+PENTAX TAMRON 90mm f2.8



 1月20日の大寒も過ぎ、次の二十四節気は2月4日の立春だ。今年の冬はけっこう冷えているけど、そろそろこのあたりが寒さの底と考えてよさそうだ。春はもうそう遠くないところまで来ている。
 そうなると、早春の花が気になりだした。さすがに1月では気が早すぎるのだけど、近づいて注意深く観察してみると、花たちはもう咲く準備をすっかり整えている。日々の暮らしの中で見えていないだけだ。
 一番早く春がやってくるところがどこかといえば、それは畑と言っていいと思う。肥沃な土地の野草は、街中や里山に先駆けて花を咲かせる。果樹園の木の下などもそうだ。
 そんなわけで、ちょっと農業センターまで行ってきた。ここはしだれ梅の名所で、その下見も兼ねていた。
 シーズン中は大勢の人たちで賑わうこの場所も、シーズンオフに訪れる人は少ない。こんな真冬の時期は特にそうだ。
 日陰にはまだ残雪が点在し、その上にドングリの実が落ちていた。こんな状況でも咲いている花はあるのだった。

農業センター2

 水仙がポツリ、ポツリと咲いていた。
 水仙のシーズンというのは毎年よく分からない。冬の最初から春まで咲いている印象がある。
 品種の違いなのか、環境によるものなのか、場所によってばらつきもある気がする。

農業センター3

 春一番に咲いてくる木の花といえば、このロウバイとマンサクだ。
 まだマンサクは見ていない。ロウバイの方が早い。たくさんのつぼみが膨らんでいた。

農業センター4

 ロウバイの葉脈。

農業センター5

 ハクモクレンも、白い筆のようになってきていた。花が開くまでにはもう少し時間がかかりそうだ。

農業センター6

 竹林はまだ冬色をしている。梅が咲く頃にはもう少し緑色が戻ってきていることだろう。
 毎年ここから梅と竹林を組み合わせて撮っている。今年はこんな感じで背後に梅のピンクを入れてみようか。

農業センター7

 気の早い梅が少しは咲いているのではないかと期待していたけど、梅はどの木もまだまったく咲いていなかった。
 それでもしだれた枝の先にはピンクの蕾がたくさんついていた。

農業センター8

 ジョウビタキのメス。
 春になって渡ってしまう前に、もう少し鳥も撮っておきたい。

農業センター9

 菜の花畑はもうシーズンに入っていた。早咲きのものはよく咲いている。
 世界にまた少しずつ色が戻ってきた。

農業センター10

 コンニチハ。と、ホトケノザが顔を出した。
 やっぱり咲いていた。これが今年の春の野草とのファーストコンタクトだった。
 夕方で花を閉じてはいたけど、オオイヌノフグリも見つけた。春の野草シーズンは開幕した。

農業センター11

 年中無休で咲いているようなイメージがあるタンポポだから、1月に見ても当たり前のように思える。それだけ冬が暖かくなっているということかもしれない。

農業センター12

 綿毛も準備を整えて、春風を待つ。

農業センター13

 長靴大根。

 寒い、寒いと言いつつも、足元にはすでに春が来ている。季節の移ろいを感じながら、日々を過ごしていきたい。

1月の動物園は人も動物も寒い

動物園(Zoo)
東山動物園-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / TAMRON 90mm f2.8



 ちょっと東山動植物園に行ってきた。
 去年は年間パスポートで10回行くのがやっとで、動物ハンドブックがもらえる20回を目標にしていたのに届かなかった。今年はなんとか達成したいと思っている。そのためには、シーズンオフでも月に1度は行かなくはいけない。1月、2月でもう2回行っておきたい。
 それにしても、冬の動物園は寒い。寒すぎて人もいない。場所によっては人っ子一人いなくて、閉園日に紛れ込んでしまったような気持ちにさえなった。
 動物たちにとっても寒さはこたえるようで、全体的に小屋にすっこんでいるのが多かった。元気なのはシロクマとか、水にいるアザラシや鳥たちくらいだ。日本の四季というのは、世界中から集められた動物たちにとっては過酷な環境だ。
 雪がまだ日陰に一部残っていた。沖縄風の東屋の屋根からは、雪解け水がポタポタ落ちていた。

東山動物園-2

 まずはバードホールに入ってみる。ここも窓が開いていて吹きさらしではあるけど、表よりは暖かい。
 いろんな鳥たちが気ままに歩いたり飛んだりしてるのがバードホールだ。
 カモさんはお尻をフリフリ向こうへ行ってしまった。

東山動物園-3

 お昼寝中を邪魔してしまって、そっと近づいたのに気がついて、パチッと目を開けた。
 たぶん、こっちを見ている。
 そのまま動かなかったら、目をショボショボさせてまた寝てしまった。

東山動物園-4

 一本足のクロエリセイタカシギ。
 この日はやたら鳥ばかり撮っていた。他に撮るものがなかったということもある。

東山動物園-5

 寒そうに丸まるモモイロペリカンさん。
 目が充血しているのは、寝不足からきているものではない。

東山動物園-6

 こいつは渡りガモのホシハジロだ。冬になって渡ってきた野生なのに、すでにこんなに人に慣れている。公園の池にいるやつは、ここまで近づかせてはくれない。元から動物園の一員だったかのように馴染んでいる。

東山動物園-7

 雪とキリンという不思議な組み合わせ。

東山動物園-8

 カメラ目線のアクシスジカたち。ハイ、ポーズと、こちらが注文を出したみたいに決まっている。

東山動物園-9

 カリフォルニアアシカ。親子の触れ合い。

東山動物園-10

 カバの池に映り込むカラス。
 賢いカラスのことだから、水に映った自分の姿を知っているんじゃないだろうか。

東山動物園-11

 最後にちょこっとだけ植物園にも寄ってみた。けれど、さすがにこの時期は咲いている花もほとんどなく、収穫はなかった。
 福寿草もまだ咲いていなかった。

東山動物園-12

 合掌造りの家まで行ったところで時間切れとなった。
 今回はこれだけ。次回は2月の始めくらいになるだろうか。

トヨタの収集癖全開の新館 <トヨタ博物館・第5回>

美術館・博物館(Museum)
トヨタ博物館5-1

PENTAX K-7+TAMRON 28-78mm f2.8



 トヨタ博物館の最終回、新館編が残っていた。今回がシリーズの最終回となる。
 新館はトヨタ博物館の10周年を記念して1999年(平成11年)に建てられた。
 こちらは昭和の暮らしと車を組み合わせた展示になっている。
 懐かしい家財道具や家電、おもちゃ、雑誌、写真など、非常に趣味的な収集で、おもちゃコレクターとして名高い北原照久に、トヨタがその財力で対抗して集めたみたいなことになっている。どうだすごいだろうと、お金持ちの子供が自慢しているみたいでもある。見る人が見ればかなりのお宝もあるんじゃないだろうか。
 写真はマツダのキャロルだ。1969年。
 キャロルといえば今でも続いている車だけど、初期のキャロルはこんな姿をしていた。
 初登場は1962年(昭和37年)で、マツダの前身の東洋工業から発売された。360ccの軽自動車で、翌年4ドアが発売されて、ちょっと人気が出た。しかし、後部座席が狭すぎるとか、走りももう一つで、ライバルのスバル360には勝てなかった。
 トヨタ博物館にあるのは、初代のマイナーチェンジ後のものだ。
 この赤白ツートンカラーは、なかなかセンスがいいと思う。キュートだ。

トヨタ博物館5-2

 明治後期の人力車。
 これも車の一つだ。車輪がついた最初のものは、日本の場合、やはり人力車だろうか。いや、大八車の方が先だ。馬車というのは、日本にはいつ入ってきたのだろう。
 いやいや、更にさかのぼれば、平安時代の牛車(ぎっしゃ)がある。平安貴族の一般的な乗り物で、あれにも車輪がついていた。となると、日本の車の歴史は思った以上に古い。

トヨタ博物館5-3

 1950年の薪トラック。
 名前の通り、薪を燃料としてガスを発生させ、その力で走った。戦後のガソリン不足は深刻だったのだ。
 トヨタBM型トラックを改良して作った輸送車で、かなりのパワー不足だったようだけど、それでも2万6,000台ほどが生産されたという。

トヨタ博物館5-4

 ダサカッコイイ自転車。ダサさが一周して、むしろカッコイイ。
 今この自転車を乗っていると、かなり目立ちそうだ。

トヨタ博物館5-5

 いろんなものが脈絡もなく集められていて、こんなポスターもその一つだ。

トヨタ博物館5-6

 集められているものは、昭和30年代から40年代くらいのものが多いだろうか。個人的には自分よりも前の世代のものなので、直接的な懐かしさはない。

トヨタ博物館5-7

 古い家電も手当たり次第に集めたといった感じで、とりとめがない。ただ雑然と並べられているだけなのがもったいない気がする。スペースの関係もあるだろうけど、見せ方にもう一工夫あると、もっとよくなるはずだ。

トヨタ博物館5-8

 古いカメラもいろいろ収集している。
 オリンパスのペンといえば最近デジタルで復活して人気を呼んでいるけど、フィルムカメラのオリジナルがこのペンFだ。
 ハーフ版の一眼レフは世界初だった。

トヨタ博物館5-9

 昭和の古い写真もたくさん飾られていて楽しい。

トヨタ博物館5-10

 ホンダ・ベンリィ。1963年。
 このバイクはよく知らない。有名らしいのだけど。

トヨタ博物館5-11

 ホンダシビック。1972年。
 ぎりぎり覚えているような気がする。
 私が大学生の19歳のとき、初めて買った車が、ワンダーシビックの赤だった。ホンダマチックという不思議なミッションで、Dの他に☆とLがあって、オートマチックなのにギアチェンジをしなくてはいけないという面倒なやつだった。オートマなのにガチャガチャギアを変えていると、なんでそんなことしてるのと、よく不思議がられたものだ。これはホンダマチックっていって、こういうものなんだといちいち説明するのも邪魔くさかった。

 そんなわけで、トヨタ博物館は考えていた以上に楽しめてよかったのだけど、要望を言うとしたら、もっと参加型の展示にして欲しいというのがある。実車の常時試乗は難しいとしても、定期的に試乗会などがあれば、リピーターも増えるに違いない。シミュレーターで2000GTのドライビングを体験できるとか、車種限定でいいからシートに座れるとか、いろいろアイディアは考えられる。
 車にはあまり興味がないという人でも、新館の方が楽しめると思うから、そちらもひっくるめてオススメしたい博物館だ。

名古屋城の雪と氷風景 <後編>

雨/雪/天候(Weather)
雪の名古屋城2-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 今日は昨日の続きで、雪の名古屋城周辺風景をお送りします。
 雪も終わってみれば遠い日の出来事のようで、水曜日の今日も日陰に少し残り雪があるものの、すっかり過去の出来事になった感がある。今シーズンはもうあれほど積もることはないのではないかと思う。明日は大寒で、まだ寒さは続くようだけど、1月も後半となれば遠くに春も見えてくる。ロウバイが咲き始め、菜の花開花の便りも届いた。

雪の名古屋城2-2

 見慣れた市役所交差点の風景も、雪があるとけっこう違って見えた。北国の都市のようだ。
 雪に覆われた夜の街の風景を撮ってみたいと思った。次に積もったら撮りに行きたい。

雪の名古屋城2-3

 冬でも緑の葉をつけたままの木。
 常緑樹と落葉樹の性質の違いは何だろう。

雪の名古屋城2-4

 雪と黒猫。
 うちのアイは、ベランダで雪を見て逃げ帰ってきた。

雪の名古屋城2-5

 渡りのカモたちは雪などへっちゃらのようで、雪の上を歩き、雪の中の何かをついばんでいた。

雪の名古屋城2-6

 堀の凍っていないところに集まるカモたち。
 オナガガモやキンクロハジロ、ヒドリガモなど。

雪の名古屋城2-7

 枯れて水中に沈んだ柳の葉とオナガガモの群れ。
 ユリカモメも少しいた。
 全体的に鳥たちの姿が少なかったのは、雪の影響もあったのだろうか。

雪の名古屋城2-8

 凍る堀の水。
 昔はもっと気温が低かったから、堀が凍ることはもっと多かったはずだ。夜中に忍者が氷の上を歩いてお城に侵入したなんてことはなかったのか。

雪の名古屋城2-9

 石垣と堀と雪と氷。江戸時代のような静けさを感じた。

雪の名古屋城2-10

 氷の上に木漏れ日が落ちて、光のスポットライトができた。
 この光の中にカモでも乗ってくれないかと考えたけど、そう都合良くはいかない。

雪の名古屋城2-11

 水の流れが残ったまま凍り付いてできた模様。

雪の名古屋城2-12

 木の枝に引っかかって取れなくなった凧。
 ちょっと懐かしい光景だった。

雪の名古屋城2-13

 雪解けが雨のように降り注ぐ。

雪の名古屋城2-14

 濡れて艶を取り戻したモミジの落ち葉。

 雪撮りの大変さと難しさと楽しさを再認識した。
 近いうちにどこかへ雪を撮りに行こう。

名古屋城周辺の雪景色 <前編>

雨/雪/天候(Weather)
雪の名古屋城1-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 大雪が降った翌日、雪景色を求めて名古屋城へ向かった。
 着いてみると、思った以上に雪が溶けていて、思い描いていたような雪景色は残っていなかった。天守閣にもほとんど雪が乗っていない。それなら入城してまで撮ることはないだろうという判断で、外の堀沿いを歩きながら撮ることにした。
 やはり出遅れは致命的だったかと思いつつも、まだ雪が残っているところもあって、普段とは違う冬の表情を見ることができた。一枚目の写真を撮れただけでも、行ったかいがあったと思えた。

雪の名古屋城1-2

 空堀にはしっかり雪が積もり、きれいに残っていた。
 城内の堀にいる鹿たちはどうしていただろう。

雪の名古屋城1-3

 誰かが作った雪だるまが、首をかしげながら石垣の角で座っていた。

雪の名古屋城1-4

 雪の間はどこかにすっこんでやり過ごしていたであろうノラたちも、雪解けとともに出てきた。
 足元が冷たいことだろう。

雪の名古屋城1-5

 雪上の足跡。
 トレッキングやスニーカーみたいな靴跡が多い。こんな日に革靴やヒールは危険だ。

雪の名古屋城1-7

 カモさんの足跡。なかなか可愛い。

雪の名古屋城1-6

 冬枯れの旋律。鈍い太陽の光を受けてささやきを交わす冬の木々。

雪の名古屋城1-8

 清洲櫓はきれいな雪化粧が残っていた。天守閣もこんなふうだったらよかったのだけど。
 手前を横切るコブハクチョウ。

雪の名古屋城1-9

 堀の水の凍っているところと凍っていないところ。

雪の名古屋城1-10

 堀の氷風景に心惹かれて何枚も撮った。

雪の名古屋城1-11

 天守閣はこの通り、少し雪が残っているくらいで、雪化粧は落ちていた。これでは普段とあまり変わらない。
 凍り付いた堀の風景は、なかなかよかった。

雪の名古屋城1-12

 堀端の人があまり歩かないところは、しっかり雪景色だった。

雪の名古屋城1-13

 雪に映る影は蒼い。

雪の名古屋城1-14

 名城公園の花壇。雪から花たちが顔を出して咲いていた。

雪の名古屋城1-15

 夕方近くなって、空には青空が戻り、太陽も出た。
 風車と雪も相性がいい。

雪の日の名古屋

雨/雪/天候(Weather)
雪降り-1

PENTAX K-7+PENTAX 55-300mm f4-5.8 / 50mm f1.4 / 16-45mm



 日曜日、名古屋では久々に大雪が降った。出かけたかったのだけど行けなかったので、撮れる範囲で少しだけ撮った。それにしても、吹雪くほど降ったのは本当に久しぶりのことだった。

雪降り-2

 午前中から降り始めた雪は、午後になると強まり、みるみる雪景色になっていった。
 少し離れたところはかすんで見えない。東山タワーも、名古屋駅のビルも視界から消えた。

雪降り-3

 道路もかなり厳しい状況になっていた。こんな日に運転したくはない。自転車に乗るのも嫌だ。

雪降り-4

 雪は弱くなったり強くなったりを繰り返し、結局夜まで降り続くことになった。

雪降り-5

 とにかく、すごいことになっていた。
 これほどの大雪は、名古屋ではめったに見られない。

雪降り-6

 これぞ雪景色。
 こんなチャンスにどこにも撮りに行けないとは、もったいない。数年に一度のビッグチャンスを逃した。

雪降り-7

 子供は強し。雪に負けていない。

雪降り-8

 視界が1キロもなかったかもしれない。
 昼間でもフラッシュ撮影すると、雪が手前に丸く写る。

雪降り-9

 雪のタイヤ跡。人の足跡も。

雪降り-10

 夜の雪撮り。
 フラッシュを強制発光させて、空に向かって撮ると、こんなふうになる。
 オートフォーカスは利かないから、マニュアルで中間距離くらいにして、絞りは開放。

雪降り-11

 翌日も午前中にまた少し降った。けど、雪国じゃないから溶けるのは早い。どれだけ降っても一過性の雪だ。
 夢のようにきれいだった銀世界は、たった一日で終わってしまった。太陽に溶かされた雪はきれいなものじゃない。

雪降り-12

 凍った道路の模様。

雪降り-14

 香流川の雪も、昼にはだいぶ溶けてしまっていた。

雪降り-13

 雪風景撮りにはもう手遅れだろうと思いつつも、あきらめきれない気持ちがあって、名古屋城へ向かった。

普通のサンデー料理

料理(Cooking)
ノーマルサンデー

PENTAX K-7+PENTAX FA 50mm f1.4



 今日のサンデー料理は、ヘルシー寄りにしようと思って作り始めたのだけど、結果的にはそうならなかったかもしれない。いつもとあまり変わらなかった。今回も特にテーマは決めず、食材と相談しつつ食べたいものを作った。
 外は大雪。こんな日は家でおとなしく過ごして、のんびり料理でも楽しもう。

ノーマルサンデー2

 白身魚と豆腐と白はんぺんの蒸しもの2色ソースがけ。
 今日のメインはこれだった。一見豆腐っぽいけど、わりと手間がかかっている。
 木綿豆腐は水気を絞る。
 卵白を泡立てる。
 卵白、刻んだ白身魚、木綿豆腐、白はんぺん、ダシの素、塩、コショウ、砂糖をよく混ぜ合わせ、こねる。
 容器に詰めて、蒸し器で15分ほど蒸す。
 ソースは2種類。卵黄、オリーブオイル、マヨネーズ、からし、砂糖、コンソメの素、塩、コショウの卵黄ソースがひとつ。
 もうひとつは、酒、みりん、しょう油、ダシの素、塩、コショウ、唐辛子をひと煮立ちさせて、水溶きカタクリ粉でとろみをつける。
 これくらい手をかけると、料理をした気になる。更に完成度を上げるには、ミキサーを使う必要がある。

ノーマルサンデー3

 野菜コロコロコンソメスープ。
 オーソドックスな野菜スープで、よく作っている。一番安心感のあるスープだ。冬場は特に食べたくなる。
 油は使っていない。具材を銅鍋に入れて、ひたひたまで水、酒、みりん、コンソメの素で煮込んでいく。
 アクを取りつつ、ある程度煮て、アルミホイルで落とし蓋をしたら中弱火にして、そのまましばらく煮る。いったん冷まして味を染み込ませ、再加熱して完成となる。
 具材は好きなものを入れてかまわない。

ノーマルサンデー4

 大根と山芋の炒め物。
 大根は米をひとつまみ入れて煮て、アク抜きをする。
 山芋、長ネギの白い部分、大根、シイタケをオリーブオイルで炒める。
 酒、みりん、しょう油、白だし、塩、コショウで味付けをして、後半で長ネギの青い部分を入れて、全体に馴染ませたら出来上がりだ。
 山芋のシャキシャキが効いている。
 和風のややあっさり味に仕上げたけど、中華味にしてもよさそうだ。

 とまあ、こんな感じの普通のサンデー料理だった。

車がスポーツを目指した時代 <トヨタ博物館・第4回>

美術館・博物館(Museum)
トヨタ博物館4-1

PENTAX K-7+TAMRON 28-78mm f2.8



 トヨタ2000GTを抜きにトヨタ自動車は語れない。トヨタはもう、トヨタ2000GTを超える車は作れないだろう。これは生まれたときから伝説となることを宿命づけられた車だった。
 発売は1967年。生産終了までの3年間で、337台が生産された。
 発売当時の価格は238万円。現在の価格に換算すると2,000万円程度とされる。しかし、何しろ生産台数が少なかったから手に入れるのは難しかったことだろう。
 私はスーパーパーブームのときに、走っているのを何度か見たことがある。現在は何台くらい動ける状態で現存しているのだろう。
 今でも間近で見ると、胸の高鳴りを感じる。こんなに見ているだけでワクワクさせてくれる車はめったにあるものじゃない。ただカッコイイとか速いとか、それだけでは語り尽くせない。何か持っているというやつだ。
 これだけ高額な販売価格だったにもかかわらず、トヨタは作れば作るほど赤字だったという。当時の最先端技術を惜しみなくつぎ込み、最高の素材を使って、手間暇かけて作ったことで、まったくコストに見合わないものとなった。社名を高めるための宣伝費と考えれば安かったかもしれない。
 実はこの車、実質的にはヤマハ発動機が作った。トヨタはボディのデザインと販売をしたくらいで、エンジンもシャーシも内装も、組み立てまでもヤマハでやっていた。このときのトヨタは、スポーツカーに関するノウハウをほとんど持っていなかったのだ。ヤマハはオートバイで培った技術に加えて、楽器作りの知識や技術まで導入して、こいつを作り上げた。
 ヤマハはそれだけの技術力を持ちながら、何故か自動車業界に進出することはなかった。F1などにエンジン提供をしていたのに、自動車メーカーになろうとはしなかった。トヨタ2000GTは、ヤマハが作った最初で最後の最高傑作という言い方もできるかもしれない。
 もし、トヨタ2000GTの試乗会が行われるとなったら、全国からたくさんのおじさんたちが押し寄せることになるだろう。

トヨタ博物館4-2

 三菱 コルト ギャラン GTO-MR型。1971年。
 パッと見、セリカかと思ってよく見ると、コルトギャランだ。
 なかなか硬派な車で、昔も今も根強い人気がある。
 三菱は自分も周囲も縁がなかったけど、なかなか渋い車を作っている。

トヨタ博物館4-3

 いすゞ 117クーペ PA90型。1970年。
 いすゞといえば117クーペという時代が長く続いた。全盛期は1970年代だったろうけど、90年代に入ってもけっこうよく見かけた。販売に関しても息の長い車だった。
 かなり独特のデザインで、当時も異彩を放っていたけど、今見てもそれは変わらない。好きな人にはたまらないよさがあったのだろう。

トヨタ博物館4-4

 ダットサン フェアレディ SP310型。1963年。
 その後のフェアレディZの元になったスポーツカーだ。第1回日本グランプリ1300~2500ccクラスの優勝がこの車だった。
 1960年代に入ると、人々は車に利便性や快適性だけでなく、スポーツの要素も強く望むようになっていった。日本車もレースに参加するようになり、一般向けの車もスポーツカーというジャンルが確立されていった。

トヨタ博物館4-5

 ホンダ S500 AS280型。1964年。
 ホンダ初の四輪自動車は、チャレンジャーのホンダらしく小型スポーツカーだった。
 販売期間は1963年10月から12月にかけてと、きわめて短いものだったにもかかわらず、ホンダ初期の代表作として長く語られてきた。
 バイクの技術を流用した左右別チェーン駆動というちょっと驚きのデザインで、走行中にチェーンが切れると恐ろしいことになるらしい。
 こんな車をセカンドカーとして所有していると、カーライフは楽しくなりそうだ。

トヨタ博物館4-6

 トヨタ7。1970年。
 いきなり時代が飛んだかと思わせて、実はこの車、1968年に開発されたものだ。
 トヨタ2000GTではレースに勝てないということになり、レース専用の車として開発されたのが、このトヨタ7だった。このときもやはりヤマハの力を全面的に借りている。
 1968年製とは思えないほど外観の完成度は高い。今のレースで走っていてもあまり違和感がないような気がする。

トヨタ博物館4-7

 プリンス R380-I。1966年。
 プリンス自動車工業が開発した日本初のプロトタイプレーシングカー。
 元々、スカイラインやグロリアを持っていたのはプリンスで、その後ニッサンに吸収合併されて、日産プリンスとなった。この車も、のちにニッサンプリンスR380と改められた。
 レースにおいてポルシェを破るなど、日本レーシング界初期を代表する車だ。

トヨタ博物館4-8

 ニッサンプリンス スカイライン 2000GT-B S54型。1967年。
 日本で初めての本格的なグランド・ツーリングカー(GT)で、スカG神話はここから始まった。
 これも元はプリンスが開発した車だ。
 この後、ハコスカ、ケンメリ、鉄仮面、R31、R32 GT-Rへとつながっていくことになる。

トヨタ博物館4-9

 MR2になってしまうと、完全にオンタイムだから懐かしさはない。今でもごくたまに見ることがある。
 日本初の量産型ミッドシップスポーツカーで、当時の走り屋には人気が高かった。走りは楽しいという評判だった。
 完全な2シーターと思われがちだけど、無理すれば後部に乗ることもできる。車内はエンジン音がかなりうるさくて、落ち着いた会話ができなかった記憶がある。マフラー交換なんかしてると余計に。
 それにしても、最近のトヨタはこういう面白い車を作らなくなってしまった。ホンダもそうだ。若者が買えるスポーティーカーの需要はあると思うのだけど。

トヨタ博物館4-10

 愛・地球博にトヨタが出展したi-unit。
 立った状態の低速走行と、寝た状態の高速走行ができる。
 近い将来、車は乗るものではなく着るものになるというのが、トヨタが出した一つの答えだ。
 子供の頃は、自分が大人になったときには、車は空に浮かぶ透明のチューブに入って走っていると思っていた。未来は思ったよりもやってこないものだ。

 次回は最終回で、新館編をお送りします。
 つづく。

あの頃自動車は夢と情熱の結晶だった <トヨタ博物館・第3回>

美術館・博物館(Museum)
トヨタ博物館3-1

PENTAX K-7+TAMRON 28-78mm f2.8



 トヨタ博物館の3階は、日本車ゾーンになる。
 日本初の自動車は、1904年の山羽式蒸気自動車とされている。名前の通り、蒸気で走る車だった。
 初のガソリン車は、1907年のタクリー号だ。10台ほど製造されたという。
 1911年にはニッサンの源流である快進社自働車工場が、エンジンも含めたオール国産車の開発に成功。
 その8年後、日本初の量産車である三菱A型が三菱造船によって作られた。
 名古屋では1932年にアツタ号というのが制作されている。
 トヨタはやや遅れて1936年、トヨダAA型で参入を果たした。
 その後は戦争で車どころではなくなり、本格的に自動車が大量生産されるようになるのは、戦後しばらく経った1940年代後半になってからだった。終戦直後は、物資不足やアメリカ軍が目を光らせていたこともあって、そう簡単なことではなかった。それでも、1960年代には自動車が一気に庶民のものとなり、爆発的に増えていったのだから、たいしたものだ。
 一枚目の写真は、マツダ・R360クーペだ。
 1960年に発表されたこの車で、戦後初めてクーペという名前が使われた。以降、クーペは2ドア・スポーティータイプの代名詞となる。
 全体のデザインは、まだまだ洗練されているとは言えないものの、フロント部分はなかなか洒落ている。
 マツダはすでにこの頃からロータリーエンジンだった。

トヨタ博物館3-2

 トヨペットクラウンRS型。1955年。
 トヨタ初の純国産車の量産型。
 今の感覚からすると、まだ車体は小さい。でも、6人乗りだ。ドアは観音開きタイプになっている。
 当時の社長が乗りそうな車だ。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に登場したのは、クラウンデラックスRSD型だった。

トヨタ博物館3-3

 日野ルノー PA62型(だったと思う)。1962年。
 現在はトラックなどで知られる日野自動車も、かつてはルノーと提携して、こんな自家用車を作っていた。
 のちに独自の設計で、国産車のコンテッサ900や1300を作るようになる。

トヨタ博物館3-4

 スズキのスズライトSL型。1957年。
 大工だった鈴木道雄は、繊維工場の成功を追い風に、バイク業界に進出してそこで実績を積み、自動車産業に殴り込みをかけた。
 1954年に試作車を完成させ、翌年にはセダンのSS、ライトバンのSL、ピックアップのSPの3タイプの発売を開始した。しかし、セダンとピックアップは今一つ人気が出ず、ライトバンのSL一本に絞ることになった。上の写真がそれだ。
 まだ少し、試作車の名残が感じられる。

トヨタ博物館3-5

 ひときわ目を惹く一つ目小僧。
 富士自動車のフジキャビン5A型。1955年。
 後輪が1つ、前輪が2つの三輪キャビンスクーター。
 FRPのボディは130キロ。2サイクルエンジンの最高速度は60キロだった。  
 画期的な試みも、商業的な成功には至らず、わずか85台が制作されただけだった。
 やわすぎるボディで、乗り心地が悪く、煩雑な操作とクーラーやヒーターが効かないという、運転することが苦行のような車だったらしい。ヘッドライトが一つなのは、経費削減のためだったという理由も泣かせる。

トヨタ博物館3-6

 ダイハツ ミゼット DKA型。1959年。
 オート三輪は、私が物心がついた頃はまだわずかに走っていた。全盛期は1950年代だ。
 各メーカーからいろいろなオート三輪が発売された中で、ダイハツのミゼットはその決定版といえるものだった。
 日本ではほぼ絶滅したオート三輪ではあるけど、東南アジアや中国では、今でも普通に走っている。日本でも今だからこそ、新しいオート三輪は需要があるようにも思う。

トヨタ博物館3-7

 ホンダのスーパーカブ CA100(C100の輸出用モデル)。1962年。
 うちのじいちゃんがこの赤いのに乗っていた。大学生のとき、一度だけ乗らせてもらったことがある。だから、懐かしかった。
 ホンダのスーパーカブは、世界で最も作られた二輪車で、世界の至る所で今でも走っている。

トヨタ博物館3-8

 トヨペット クラウン RS-L型。1958年。
 クラウンのレッドボディは斬新な感じがする。
 トヨタが満を持してアメリカ市場に送り込んだのが、このRS-L型だった。
 大成功とはいかなかったものの、アメリカ進出の第一歩となった。

トヨタ博物館3-9

 トヨペットコロナハードトップ RT50型。1965年。
 国内初のハードトップ車で、デザインと走りを両立させることに成功して、人気を博した。
 このあたりになると現役で走っている姿を見ているかもしれない。デザインもだいぶ現代のものに近づいてきた。

トヨタ博物館3-10

 トヨペット クラウン RS41型(だと思う)。1963年。
 なんてカッコイイ鏡面仕上げ。今どきの新車にも負けてない輝きだ。
 初代からモデルチェンジした2代目のトヨペットクラウン。ボディもやや大きくなって、高級感も増した。

トヨタ博物館3-11

 現代に近づくほど馴染みのあるデザインになって、垢抜けていく一方で面白みがなくなっていく。自動車はこのあと、ますます画一化され、大衆化していくことになる。
 それと平行して、一般向けのスポーツカー路線が拡大していく。次回は、いよいよ真打ちに登場していただこう。
 つづく。

車も顔が大事 <トヨタ博物館・第2回>

美術館・博物館(Museum)
トヨタ博物館2-1

PENTAX K-7+TAMRON 28-78mm f2.8



 車も顔が大事。
 シボレーマスターシリーズDA。
 昔の車は、顔に個性があった。負けん気が強くて、威張っているように見えるけど、そこが愛らしくもある。
 その時代の流行というか、スタンダードなデザインがあって、この時代のアメリカ車は、大きなラジエーターグリルと、二つの丸目ヘッドライトが特徴だ。流線型のボディラインは、すでに1930年代くらいから登場している。

トヨタ博物館2-2

 この時代の車が一番車らしい格好をしているように思った。自動車としての威厳がある。
 車が持っている魅力を再認識した。

トヨタ博物館2-3

 ミネルバ30CV タイプAC。
 ベルギー。1925年。
 ベルギー製の車というのは馴染みがない。どこかアメリカ車とは違う気品が感じられる。

トヨタ博物館2-4

 キャデラック・シリーズ452A。
 1931年製。
 カラーリングにも個性があった。

トヨタ博物館2-5

 これもちょっと面白い顔をしている。ライトが3つだ。1つは補助ライトだろうか。
 ロールスロイス 40/50HP ファンタムIII。1933年。
 1930年代前半は、国を超えてこういう顔が時代のスタンダードだったようだ。

トヨタ博物館2-6

 イタリアのランチアアストゥーラ ティーポ233C。1936年。
 イタリア車もよく似た顔をしているけど、フロントが長い。前の車との車間距離を掴むのが難しそうだ。

トヨタ博物館2-7

 イタリアン・ビンテージスポーツカーの最高傑作とされるアルファロメオ 6C1750 グラン・スポルト。1930年。
 ハンチング帽をかぶった粋な白髪のおじいさんが乗っていたらカッコイイ。

トヨタ博物館2-8

 メルセデスベンツ500K。1935年。
 速さと快適性と高級感を高次元でバランス良く融合させたベンツの一台。
 エンブレムは昔も今も変わらない。
 目玉がだんだん増えていくのが面白い。

トヨタ博物館2-9

 時代の異端児か、突然変異か。コード フロント ドライブ モデル812。1937年、アメリカ製。
 思い切った流線型のデザインを採用している。ライトも丸目ではなく、リトラクタブルヘッドライトだ。
 今見ても近未来の車に見えるくらいの斬新さだ。当時のアメリカ人も驚いたことだろう。

トヨタ博物館2-10

 同じ1937年(発売開始は1936年)、イギリスではSSジャガー100という傑作が生み出されていた。
 優美なフェンダーラインを持つこの車は、最も美しいスポーツカーの一つといわれている。

トヨタ博物館2-11

 エンブレムを制作していた人の彫刻作品かなと思ったけど、実際のところはよく分からない。こんな彫刻がたくさん展示されている一角があった。
 つづく。

トヨタ博物館のオールドカーたち <第1回>

美術館・博物館(Museum)
トヨタ博物館1-1

PENTAX K-7+TAMRON 28-78mm f2.8



 初めてトヨタ博物館へ行ったのは、去年の夏だった。季節に関係のないネタだからと後回しにしていたら、半年近く経ってしまった。ネタ切れを起こしたときのための在庫にしようという考えもあったのだけど。
 1989年、トヨタ自動車の創立50周年記念として作られたのがトヨタ博物館だ。
 名前からしてトヨタ自動車に関する博物館と思いがちだけど、実際はそうではなく、19世紀末から20世紀にかけての世界の自動車を集めて展示している。
 ここのすごいところは、100台を超えるオールドカーのほとんどを動態保存していることだ。毎年、神宮外苑でも走行イベントをやっているから、関東の人にはお馴染みかもしれない。トヨタ博物館のイベントでも、ちょくちょく走らせている。博物館の中に整備施設も備えているそうだ。
 クラシックカーにはあまり興味がない私ではあるけど、スーパーカーブームを体験し、自分でも80年代末から90年代初頭の走り屋ブームに少しだけ乗っかった世代なので、そのあたりの車を楽しみにしていた。目玉の一つ、トヨタ2000GTを間近で見られたのは感激した。小学生以来の再会だったかもしれない。
 今日から何回かに分けて、撮ってきた写真を紹介することにしたい。
 一枚目はトヨタの古い車(AA型)だ。豊田の漢字エンブレムが渋い。
 この頃は、トヨタではなくトヨダなので、ローマ字表記は、TOYODAになっている。

トヨタ博物館1-2

 入り口からすぐのところに吹き抜けのエントランスがあり、黒のAA型が置かれている。これはトヨタ初の量産乗用車で、展示されているのは復元車とのことだ。
 2階には古い外国車、3階に日本車が置かれている。番号のプレートがあって、だいたい年代順に並んでいるから、古いものから見ていくと自動車の変遷を知ることができる。

トヨタ博物館1-3

 最初期の車は、車であって車じゃない。走る芸術作品というか工芸品のようで、現在の自動車とはまったく違う概念で作られている。
 1909年アメリカ・スタンレー社のスチーマー・モデルE2。
 フロントにボイラー装置が置かれて、蒸気で走る。蒸気なのに最高速度205キロをたたき出したスーパーカーだ。このやわなボディで200キロオーバーって、怖すぎる。

トヨタ博物館1-4

 手作り感満点で、テイストは工業製品というより発明品に近い。
 ボンベがむきだしだし、警笛はパフパフってやつだ。
 クラシックカーに興味がないといいつつも、ここまで時代をさかのぼると車とは違う別のものを眺めているようで、見入ってしまう。
 カッコイイというかなんというか、面白い。

トヨタ博物館1-5

 スポークは木製で、タイヤはゴムっぽい。チューブが入っていそうなタイヤだ。
 このあたりを見ると、初期の車が馬車の延長線上にあったことがうかがえる。
 今でも馬力という言葉を使うくらいだから、馬車の名残はある。

トヨタ博物館1-6

 このときの特別展は、はたらく自動車特集だった。
 消防車やパトカー、救急車、ハイウェイパトロールカーなどが展示されていた。

トヨタ博物館1-7

 カッコイイといえばすごくカッコイイのだけど、なんか笑ってしまう。ゴージャスすぎるだろうと思う。こんな車、叶姉妹くらいしか乗りこなせない。
 ロールスロイス40/50HPシルバーゴースト。
 1910年製だ。
 イギリスのロールスロイス社が誕生して間もない頃に製造された。
 日本でいうと明治の終わりに、欧米ではすでにこんな車が走っていたのだ。

トヨタ博物館1-8

 この頃の自動車メーカーは、どこもエンブレムに凝っていた。どれもすごく誇らしげだ。
 船首につける守り神のようでもある。

トヨタ博物館1-9

 シェルのスタンドはこんな時代からすでにあったらしい。
 昔は昭和シェルが好きでよく行っていた。セナがCMをしていた頃は、いつもハイオクのスーパーXだった。

トヨタ博物館1-10

 RED CROWNのガソリンポンプ。
 ガロン表示だから、たぶんアメリカだと思う。

トヨタ博物館1-11

 ドイツ・フォルクスワーゲン・38プロトタイプ。
 いきなり年代が1938年に飛んでしまった。気まぐれに目に付いたものだけ撮っていたので、半分近くは撮っていないかもしれない。
 ワーゲンの1号機にしてすでにデザインが完成されている。現在に至るまで、大きくは変わっていない。日本の自動車メーカーにも、これくらいの理念が欲しい。ずっと受け継ぐべき名車もたくさんあったのに。

トヨタ博物館1-12

 フォードもエンブレムは馬だ。彫刻のような立体感がある。
 車は、1934年式のモデル40だったと思う。

トヨタ博物館1-13

 客層はかなり幅広い。親子連れやカップル、スーツ姿の男性、女の子二人組、一人男子など。
 人がわんさか訪れるようなところではないから、写真を撮るにも向いている。ただし、館内の照明は暗めなので、明るいレンズじゃないとちょっと苦しい。
 このときは汎用性が高そうということで28-75mmズームを選んだけど、次に行く機会があったとしたら、16-45mmの広角ズームと50mm f1.4を持っていく。
 つづく。

飛鳥で開放感を味わう <第四回>

奈良(Nara)
飛鳥4-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 飛鳥坐神社をあとにした頃、ようやく雨があがった。
 飛鳥の地は、山に囲まれているものの、空間的な広がりを感じる。高い建物がなく、民家も密集していない。田んぼも多く、何もないような土地も広がっていて、心地よい開放感がある。久しぶりに建物の圧迫感がない自由さを感じた。
 サイクリングの効率性も捨て難いけど、やはり飛鳥は歩きが合っているように思う。時間をかけてゆっくり歩いていると、飛鳥時間とでもいうべきのんびりしたリズムに少しずつ体が馴染んでいく。
 初めて訪れたのが、冬の雨の日だったというのは、かえって幸運だったかもしれない。良い季節の晴れた日に訪れていたら、自転車で回っただろうから、今回感じたようなことを知らずに終わっただろう。
 飛鳥の旅も、ここから終盤に入る。

飛鳥4-2

 歩いている途中で、水落遺跡の案内標識があったので、ちょっと足を伸ばして寄っていくことにした。
 660年に、中大兄皇子が日本で初めての水時計(漏剋)を作ったとされる場所だ。日本書紀に記述があり、場所が書かれていなかったものが、1981年に飛鳥寺の北西で見つかった。
 飛鳥川から水路で引いてきた水を吸い上げ、段々に流れ落ちる装置から水を流して時間を知るというものだ。
 時計台も備えられており、鐘や太鼓で都の人々に時を知らせたようだ。
 日本が律令国家となっていくために、時を支配することもまた必要なことだった。人々が日々の暮らしの中で時間に縛られるようになったのは、このあたりの時代からだ。

飛鳥4-3

 飛鳥寺の北あたりは少し民家が集まっている。寺町っぽい路地もあり、風情が感じられる。

飛鳥4-4

 酒屋さんが簡易郵便局を兼ねている。
 飛鳥の遺跡が点在しているエリアには、便利な店や娯楽施設のようなものはほとんどない。歩いた道では喫茶店さえ見かけなかったような気がする。
 明日香村には規制があるのかもしれない。村境を超えて町に入ると、がらりと様相が変る。普通の住宅地になり、店もある。近鉄の駅前は、他の地方都市と変わりはない。

飛鳥4-5

 飛鳥川の流れ。昔はもっと川幅や水量があったのではないかと思う。

飛鳥4-6

 甘樫丘(あまかしのおか)を登っていく途中に、桜がわっと咲いていて、一瞬目を疑った。
 フユザクラやジュウガツザクラはよく見るけど、こんなにたくさんの花をつけない。
 木にかけられたプレートを見ると、ひまらや桜とある。帰ってから調べたら、ネパールの皇太子から贈られた桜ということで、ヒマラヤザクラと名付けられたそうだ。
 この時期に咲くのは間違いではなくて、12月が最盛期らしい。

飛鳥4-8

 甘樫丘から飛鳥の地を見渡す。
 標高148メートルほどの小山で、この丘の麓と中腹に、蘇我蝦夷、入鹿親子の邸があったとされている。どうやら東の麓だったようで、邸の一部と見られる遺跡も発掘されている。

飛鳥4-7

 甘樫丘からは、香具山(かぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)の大和三山が見える。
 上の写真に写っているのは、畝傍山のはずだ。
 百人一首の「春過ぎて 夏来たるらし白たへの 衣干したり天の香具山」という持統天皇の歌を覚えている人も多いと思う。
 飛鳥行きは、これまで教科書や歴史書の中にだけ出てくる縁遠かった人たちを、身近に感じさせてくれる旅となった。

飛鳥4-9

 もしかしたら雨上がりの夕焼け空が見られるのではないかと期待したのだけど、そこまではいかなかった。もう一度、飛鳥の地と空を見渡して、これでもう帰ることにした。

飛鳥4-10

 上の写真は、帰り道の途中、どこかの池で撮ったものだ。水没した鳥居に十字架が乗っているように見えた。
 甘樫丘から橿原神宮前駅までの道のりは遠く感じた。道に迷ったこともあって、1時間近くかかってしまった。途中に見所らしいものはなかった。
 時間があれば橿原神宮も寄る予定だったけど、日没で断念した。
 今回はあえてすべて回らず、もう一度行きたくなるように、ある程度残した。
 一番見たいのは、秋の飛鳥だ。稲が黄金色に輝き、彼岸花が咲く田んぼ風景というのが、自分の中の飛鳥風景としてある。もう一度飛鳥は自分を呼んでくれるだろうか。
 終わり。

奈良のホテルの口コミ
奈良のホテルの口コミ

飛鳥で昔に思いを馳せる <第三回>

奈良(Nara)
飛鳥3-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 桐島ローランドととよた真帆が飛鳥を旅するというテレビ番組で、桐島ローランドが撮った酒船石の写真がすごく格好良くて印象に残った。あの写真も、私を飛鳥へと向かわせる要因の一つとなった。
 案内標識から石段を登った小高い丘の上にそれはあった。周りを竹林で囲まれており、雨ということもあって薄暗く、ひっそりとしている。雨音だけが響いていた。
 不思議といえば不思議なものだ。東西の長さは5.3メートル、南北の幅は2.3メートル、高さは1メートルの花崗岩だ。想像していたよりも巨大なものではなかった。
 もっと神秘的なものかとも思っていたのだけど、そんな感じではない。
 あたりをぐるぐる周りながら、いろんな角度から眺めてみる。一番格好良い角度がどこかを探しながら。
 遺跡巡りが主目的ではなかった今回の旅ではあるけど、これだけは行く前から楽しみにしていた。だから、見ることができて嬉しかったし、感慨深くもあった。これを見終わったところで満足してしまって、もう帰ってもいいような気持ちになったほどだ。

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 石にはミステリーサークルのような円と線の溝が彫られている。
 酒を造る道具として使われたのではないという想像からこの名が付けられた。他にもいろいろな説があって、はっきりはしていない。庭園に置かれた設備で、水を流していたとか、太陽の観測に使われたなど、意見は分かれる。
 他にもよく似た溝が彫られた石があることから、何か目的を持って作られたことは間違いなさそうだ。この時代の人がこの模様を見れば、一目瞭然で何の石か分かるものなのだろう。
 石の両脇に切り取られた跡が残っていて、もともとの姿を完全にはとどめていない。高取城築城の際、石垣用として切り取ったともいわれている。すでに室町時代の人間にも何の石か分からなくなっていたのかもしれない。

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 酒船石がある丘から北へ50メートルほど下ったところに、一つの遺跡がある。
 亀形石造物と呼ばれるもので、名前の通り亀のような形をしている。
 こちらは有料で、おまけに年末休みに入っていて、近づくことができなかった。遠くからでは今ひとつ様子が分からない。
 全長2.4メートル、幅2メートルほどを石垣で囲み、鉢状に掘って、石を敷き詰めている。円形の穴があって、沸きだした水をそこへ溜めたと考えられている。
 斉明天皇時代から平安後期まで250年くらい使われた形跡があるとのことで、こちらも何のために作られたものかは分かっていない。酒船石との関連性も不明だ。
 水利用のためだけのものなら、わざわざ加工が大変な石で作る必要はなさそうだ。祭事用というには、逆に施設が小規模すぎるように思う。
 実は我々の考えすぎて、単にエクステリアとしての格好良さを追求して趣味的に作っただけかもしれない。貴族が暇と金に任せて職人に作らせて、他の貴族を呼んで自慢していただけとか。私たちが理解できないものを見つけると、そこに必要以上の意味を持たせようとする。何でも祭祀用なわけじゃない。どの時代の人間にも美意識というものがあるし、趣味や遊びも考える。女の人ならきれいな石を集めたいと思うだろうし、絵が上手い人間なら壁画を描きたくもなる。子供のためのおもちゃだって必要だ。

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 酒船石から南西300メートルほどのところに、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)跡とされる場所がある。一部が保存され、井戸の跡などが展示されている。
 はっきりそうと分かったわけではないので、伝承地というのにとどまっている。しかし、遺跡が発掘されたことは確かで、最近の調査研究で、天武天皇の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)があった場所の可能性が高いといわれてる。その下に飛鳥板蓋宮の跡が眠っているという話もある。
 どちらも本当だとすると、これはとても歴史的な場所だ。大化の改新の発端となった乙巳の変(いっしのへん)が起こったのがまさにここということになる。のちの天智天皇となる中大兄皇子が自ら蘇我入鹿の首を切り飛ばしたとされるあの事件の現場だ。
 この時期は、天皇が変わるたびに宮があっちこっちに移った。少し話を整理しよう。
 642年に舒明天皇が亡くなったあと、後継者が決まらず、とりあえずという形で皇后が皇極天皇になった。中大兄皇子や大海人皇子(のちの天武天皇)の母親だ(大海人皇子が本当に皇極天皇の息子だったかどうかという話は置いておく)。
 このとき、実質的に政権を握っていたのが、蘇我氏だった。舒明天皇は、父の蘇我蝦夷と息子の入鹿を重用して、政治を任せた。
 板蓋宮は、舒明天皇が蝦夷に命じて3ヶ月で建設させたものだった。宮が板葺きだったことから、この名前で呼ばれたようだ。翌643年に岡本宮(飛鳥の岡)から、移っている。
 その後、天皇家を超えるほどの権力を握った蘇我家に対して危機感を抱いた中大兄皇子の一派は、クーデーターを起こす。乙巳の変であり、あとに続く大化の改新だった。645年のことだ。
 この事件で皇極天皇は退位して、すったもんだの末に、弟の軽皇子に譲位して、孝徳天皇として即位することになった。天皇が生きている間に天皇位を譲ったのは、これが最初とされている。息子であり、クーデーターの首謀者である中大兄皇子に譲らなかったのは、いろいろ差し障りもあったのだろう。
 孝徳天皇は、飛鳥から離れたかったようで、難波長柄豊碕(今の大阪市)に都を移している。
 しかしそれも短い間で、654年に孝徳天皇が没すると、皇極上皇は再び天皇の座に返り咲き、もう一度板蓋宮に移って、斉明天皇として即位することになる。
 ただ、板蓋宮は翌年火事で燃えてしまったため、川原宮へ移った。その後も、また舒明天皇の岡本宮に戻り、後半は唐・新羅との戦争を睨んで、北九州の朝倉宮へと移った。
 斉明天皇が没したのが661年で、中大兄皇子が天智天皇として即位したのが668年とされている。この期間も謎となっている。
 その後、壬申の乱が起きて、天武天皇が誕生したのが、672年だった。その即位が行われたのが、ここ、飛鳥浄御原宮というわけだ。
 現在は、そんな血なまぐさい歴史の舞台になったとは思えないほど、のんびりした雰囲気の場所となっている。

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 敷き詰められている石が当時のものなのか、最近復元したものなのかは知らないけど、この地に中大兄皇子や天武天皇が立っていたのかと考えると、なんだか不思議なような、信じられないような気持ちになる。

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 飛鳥の旅も後半から終盤に入った。雨はまだ降り止まない。
 遠くの山は、うっすら雪化粧をしているようだった。

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 通常なら、飛鳥寺も寄っていくところだろうけど、今回はそれもパスして、路地をいく。
 次に向かったのは、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)だった。

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 あすかにいますじんじゃって名前が面白い。あすかにいますじんじゃなう、とつぶやいているみたいだ。
 歴史のある神社で、延喜式にも載っている。
 氏子がいない個人所有の神社らしいけど、境内で掃除をしていたのがここの夫婦さんだろうか。飾り付けなどをしたあと、横の社務所に入っていった。

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 延喜式には、飛鳥坐神社四座とある。
 今の祭神は、事代主神、高皇産靈神、飛鳥神奈備三日女神、大物主神となっているけど、書物によって顔ぶれが違っている。途中で入れ替わったのか、本来はどうだったのか。
 社殿は、吉野の丹生川上神社上社が大滝ダム建設で沈むことになって、ここもだいぶ古くなってきたから、それをいただきましょうということで、移築されてきた(2001年)。その前のものは、江戸時代の1781年に再建されたものだったとのことだ。

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 それほど大きくはないけど、なかなかいい神社さんだった。

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 境内社もたくさんあって、寄り合い所帯になっている。

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 フユザクラが雨に濡れながら咲いていた。

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 早くもロウバイが咲き始めている。年末なのに、少し春の気分だった。

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 屋根の上の苔がすごいことになっている。盆栽でもしてるようだ。

 飛鳥坐神社が、今回の旅の北限地だった。進路を西に変えて、甘樫丘を目指す。
 次回が飛鳥の旅最終回となる。
 つづく。

奈良のホテルの口コミ
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2011年新春サンデー料理

料理(Cooking)
新春サンデー1

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 今日が2011年最初のサンデー料理となった。おせち料理を作るには時機を逸したということで、普通の料理になった。
 今年も週に一度の料理は続けていくつもりでいる。その中で、もう一つ、二つ、新機軸と呼べるような料理をレパートリーに加えたいところだ。オレ流料理の殻を破りたい。ミキサー導入で幅を広げるというのも考えたい。
 今回のサンデーも、これといったテーマはなく、冷蔵庫の食材を見つつ、食べたいもの優先で作った。
 グラタンは、サンデー料理では初登場かもしれない。

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 カボチャとほうれん草の卵とじ。
 カボチャを下茹でする。
 ほうれん草も軽くゆでて、絞る。
 タマネギ、カボチャ、ほうれん草を、オリーブオイルで炒める。
 白ワイン、マヨネーズ、しょう油、マスタード、コンソメの素、砂糖、塩、コショウで味付けをする。
 最後に溶き卵を回し入れて、半熟になったら完成だ。
 和洋折衷な感じで、甘みもあり、辛味もありで、美味しいのでオススメしたい。

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 鯛と野菜蒸し。
 鯛に塩、コショウ、酒を振って、しばらく置く。
 シメジなどのキノコ類、長ネギ、トマト、ニンジンを、蒸し器に入れて、酒を振って、沸騰した状態で10分ほど蒸す。
 たれは、酒、しょう油、みりん、砂糖、白だし、塩、コショウ、唐辛子、水をひと煮立ちさせて作る。
 蒸し料理は素材の旨みを逃がさないから、シンプルだけど美味しい。具材を放り込んだらあとは待つだけだから、煮たり焼いたりするより手間がかからない。

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 エビ入りポテトグラタン。
 久しぶりにグラタンを食べたくなって作ってみたのだけど、思った以上に時間と手間がかかった。今日の調理時間の3分の2くらいはグラタン作りに費やされた。
 まずはバター、小麦粉、牛乳でホワイトソースを作る。それぞれを少しずつ足しながら加熱していく。ダマにならないようにかき混ぜ続けないといけない。レンジでやるとある程度時間は短縮できる。
 ジャガイモは皮をむいて適当な大きさに切って、茹でてつぶす。これもレンジでやった方が早い。
 オリーブオイルでタマネギ、キャベツ、エビを炒め、つぶしたポテト、ホワイトソースを加える。
 コンソメの素、塩、コショウで味付けをして、かき混ぜながらしばらく煮込む。
 皿に移し入れ、上にとろけるチーズを乗せ、更にパン粉で表面を覆う。
 オーブントースターで10分ほど加熱したら出来上がりだ。途中でパン粉に焦げ目がついてきたら、アルミホイルをかぶせる。
 グラタンは普通に美味しい。パン粉のカリカリが効いている。また食べたいけど、作るのが面倒なのが難点だ。

 そんわけで、今年もサンデー料理をよろしくお願いします。

冬の雨の中、飛鳥を歩く <第二回>

奈良(Nara)
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 鬼の石、亀石を見たあとは、石舞台古墳がある東エリアへと向かった。
 空がだんだん厚い雲に覆われ始め、わずかな隙間から光が差して明日香の地を照らした。ほどなくして、その光も消え、ポツリ、ポツリと雨が落ち始めた。

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 お寺の入り口のようなものが見えたので近づいてみると、聖徳皇太子御誕生所と彫られた石柱が立っていた。その前には下馬の文字も見える。
 石柱をくぐった先にお寺があると思いきや、一面田んぼが広がっている。どういうことだとあたりを見渡し、左手に目を移すと、やや離れたところに寺のお堂が見える。どうやらあれが橘寺のようだ。
 聖徳太子こと厩戸皇子が生まれた場所に建てたとされるのが橘寺だ。実際にそうだったのかは分からない。
 聖徳太子は、ヤマトタケルのように、『日本書紀』の中で作り上げられた架空のヒーローとする説がある。個人的にはもう少し実在寄りの人物であったと考えたい。後世の日本人が聖徳太子に対して抱く親しみの感情は、架空の存在に向けられたものとは思えない。

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 飛鳥の中でも、この眺めはとても印象深いものだった。飛鳥らしい風景の一つといってよさそうだ。
 夏の風景もきっと美しいだろう。
 
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 遺跡や寺社から少し外れると普通の田舎風景に見える。けど、今自分が踏みしめている地のどこもかしこも、飛鳥時代には日本の都だった場所だということを思うと、じわりと感慨深い気持ちになる。
 1400年は遠い昔ではあるけど、神話の時代というほど遠くはない。当時も今も、人間の基本的な部分は何も変わっていない。彼らは確かにここで生きていた。

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 飛鳥の駅前には、現在169号線となっている中街道(古代官道のひとつ)が南北に走っていて、その道はそれなりの広さを持っているものの、他には幹線道路のようなものはなく、どこも道は狭い。飛鳥盆地は山に囲まれているから、東西の道が発展せず、結果的にこの地の遺跡は残った。もともと都を置くには不便な場所だった。海も遠く、大きな川もない。道を造るにも、地形的に難しい。律令国家の中心地とするには、流通の部分で向いていなかった。

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 空は水墨画の色になった。私が覚えている飛鳥の空はこんな色だった。

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 石舞台古墳も、中には入らず、少し離れた高台から見ただけだった。
 遺跡巡りは次の機会に残しておいた。
 古墳というからには元々古墳の形をしていたはずで、これは中の玄室がむき出しになった状態だ。最初からこうだったわけではない。
 古墳の形は円形だったのか八角形だったのか、はっきりしない。
 被葬者は、蘇我馬子という説が有力のようだ。蘇我稲目という説もある。
 蘇我氏に対する懲罰的な意味合いでこんな姿にされたといわれているけど、本当のところは分からない。
 一時は天皇家に匹敵するほど強大な力を持っていた蘇我氏は、大化の改新以降、勢力を弱めていくことになる。
『日本書紀』や『古事記』などは、勝者の側に都合良く書かれた歴史書だから、すべてをそのまま信じることはできない。蘇我氏も、書かれているほど悪かったとは考えにくい。
 蘇我馬子と聖徳太子が編さんしたとされる『天皇記』や『国記』が、もし現存していれば、日本の歴史書は大きく変わることになる。『日本書紀』は、日本最古の歴史書ではなく、現存する最古にすぎない。それ以前にも『帝皇日継』や『帝紀』があったとされる。
 乙巳の変で、蘇我蝦夷の家が燃やされたとき、『天皇記』は燃えて、『国記』は燃える炎の中から取り出されて中大兄皇子に献上されたとなっている。しかし、それも怪しい話だ。オリジナルが1冊ずつ、天皇家ではなく蘇我家にだけにあったなんてことがあるだろうか。都合の悪いことが書かれていたから、全部燃やしてしまったと考える方が自然だ。
 2005年に蘇我入鹿の邸宅跡が発見されたというニュースがあった。あるいはと期待した人も多かっただろうけど、今のところ世紀の大発見があったという続報はない。

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 どこに行っても、いい廃屋があれば撮る。これもなかなかのものだった。

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 石舞台古墳から北上して、岡寺を目指した。
 途中にあった坂乃茶屋は、年末休みに入っていたようで、やっていなかった。

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 岡寺も、前まで行って中には入らなかった。
 創建はかなり古く、日本最初の厄除け寺だそうだ。
 見えている仁王門は、1612年再建のもので、重文指定になっている。

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 岡寺の前に治田神社というのがあったので、ちょっと寄ってみた。
 治田氏の祖神を祀る古い神社で、式内社だそうだ。
 もともとは別の場所にあったものが、ここに移されたという。なんとなく敷地の隅っこの方に間借りしているみたいに建っている。

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 二宮金次郎像かと思ったけど、なんとなく髪型が違うような気がする。

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 岡寺から出たあと、道に迷ってしばらくさまよった。人に尋ねようにも、誰も歩いちゃいない。気がつくと、田んぼのあぜ道に立っていた。一体ここはどこでしょう?
 あちこち行ったり来たりしていたら、天理教のところに出た。次の目的地は、板葺宮跡だった。
 つづく。

奈良のホテルの口コミ
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飛鳥の地に立つ <第一回>

奈良(Nara)
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 飛鳥を見たくて、年末に旅をしてきた。
 12月の冷たい雨が降る中、歩き歩いた6時間半。飛鳥の地に立ち、空気に触れ、息吹を感じて、私の目に映る飛鳥を写してきた。
 ずっと行きたいと思っていてなかなか行けず、ようやく行くことができた。自分にとって特別な場所は、しかるべき時期が来ないと呼んでもらえないらしい。こちらの片思いだけでは、その場所と同調することができない。今回行けたのは、その時期が来たからだと思う。
 たとえば田植えが終わった初夏、あるいは実りの秋に訪れていたら、飛鳥は美しい場所として記憶されただろう。けど、私の見た飛鳥は、12月の雨に打たれる枯れた田んぼの風景だった。あるのはかつての都の残像だけで、そこに繁栄の面影を見いだすのは難しかった。
 飛鳥は、京都や奈良、鎌倉といった古都とはまるで違う趣をしている。あるのは飛鳥時代の名残と、現代の暮らしだけで、その中間がぽっかり抜け落ちている。昭和や江戸はもちろん、平安や奈良の時代さえもそこにはない。古い寺社はあっても、不思議と時間の連続性みたいなものが希薄に感じられる。
 撮ってきた写真をあらためて見ると、飛鳥の魅力をあまり伝えられないような気がして、少し不安な気持ちになる。季節柄ということを別にしても、華やかさといったものに欠ける土地ではある。
 それでも人々が飛鳥へと向かうのは、やはり何か惹きつける魅力があるからだろう。行けば分かる、行かなければ分からないというのは、行ってきた人間としては無責任な言いぐさになってしまうのだけど。
 奈良といえば大仏と鹿だけじゃない。奈良には飛鳥がある。飛鳥こそが日本という国の始まりの場所であり、古代と近代との架け橋になった時代の舞台だ。
 今日から何回かに分けて飛鳥の旅を紹介することにしたい。
 今回の目的は、あくまでも飛鳥の空気を写すことだったので、遺跡や寺巡りは軽くなぞっただけだった。できるだけたくさんの距離を歩いて、飛鳥という土地のスケール感を掴みたかったというのもあった。
 晴れていたらレンタサイクルの方が距離を稼げてよかっただろうけど、この日は午後から雨の予報で、実際、6時間半のうち4時間が雨降りだったから、自転車を避けたのは正解だった。歩きでしか見えない風景や感じられないこともある。雨に濡れる飛鳥の風景を撮るというのも、おそらくこれが最初で最後だろう。
 前置きが長くなった。そろそろ飛鳥を巡る旅に出よう。

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 飛鳥盆地は奈良市内よりも冬の気温は低いだろうに、早くも菜の花が少し咲き始めていた。
 ところで飛鳥という地名はどこかというと、そういうところはあるようでない。明日香村はあっても飛鳥村はない。このへんはちょっとややこしいので説明が必要かもしれない。
 飛鳥という言葉が昔からあったことは確かなようで、万葉集にもいくつか歌が載っている。いずれも、飛鳥を「とぶとり」と読ませ、明日香の枕詞として使っている。たとえば、「飛鳥(とぶとり)の 明日香の里を置きて去(い)なば君が辺は見えずかもあらむ」などがそうだ。
 飛鳥という言葉の語源はよく分かっていない。明日香が先にあって、あとから飛鳥と当てたのかもしれない。
 地名としての飛鳥ということでは、飛鳥盆地や飛鳥川などが今でも使われている。明日香村が合併で誕生したのが1956年で、それまでは飛鳥村が存在していた。
 大阪にも飛鳥という地名があり、奈良を大和飛鳥(遠つ飛鳥)、大阪を河内飛鳥(近つ飛鳥)と呼んで区別している。遠い近いというのは、難波宮があったところから見てということだ。
 現在、一般的に飛鳥といえば、奈良の明日香村を中心としたあたりを指すことが多い。飛鳥時代に都があった場所で、年代でいうと推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位した592年から、持統天皇が藤原京へ移転した694年までの約100年間を指す。現在までに発見された遺跡なども、その時代のものが中心となっている。
 古代においてこの土地がどうして都になったかというと、単純に言えば、有力者がこの地に集まっていたからだ。朝鮮半島や大陸からの渡来人が住み着いた場所でもあり、そういう人たちが新しい文化や技術などを持ち込んだことも大きかった。それに加えて、ちょうど仏教が入ってきた時期でもあり、寺院がたくさん建てられて、政治や文化の中心地となっていった。

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 冬枯れの木々と冬の空。着いた午前中はまだ青空も見えていた。

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 枯れヒマワリの姿。
 春や夏に訪れていたら、飛鳥の印象はずいぶん違ったものになっただろう。

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 駅から歩いて最初に訪れたのは、高松塚古墳があるエリアだった。
 一帯は公園のようになっていて、文武天皇や中尾山古墳も隣接している。

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 高松塚古墳? こんな姿だっけ? 写真で見たのとはだいぶ違う。はげ山というのか、盛り土というのか、最近できたばっかりみたいだ。
 なんでも、2009年に外観の復元工事を行って、元の姿に戻したんだそうだ。今は冬で芝が枯れていて、春になれば緑色に戻るのかもしれない。

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 高松塚古墳というと、教科書にも載っていた女子群像を覚えている人も多いと思う。あれだけではなく、男子の像や四神、天井には月や星なども描かれている。
 発掘調査によって見つかったのは、1972年のことで、当時は大変な話題になった。
 現在はカビが生えたり、絵が消えかけたりで、保存復元作業が行われていて、本来の様子のまま近くで見ることはできない。隣の壁画館で復元されたものなどが見られるようだ。
 古墳自体は直径23メートルと、小振りなものだ。高さ5メートルで、二段の円墳になっている。
 古墳時代末期の7世紀終わりから8世紀初期にかけてのもので、被葬者は分かっていない。四神や星座など中国思想が色濃いことから渡来人の王族の墓などという説もあるようだけど、素直に考えれば天武天皇の皇子のうちの誰か、たとえば弓削皇子あたりだろうか。あるいは、石上麻呂と言われればそのような気もする。
 鎌倉時代に盗掘にあっており、発掘調査が行われたときはすでに副葬品の多くは持ち去られて残っていなかったらしい。

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 飛鳥の今は、山々に囲まれた田園風景で、民家があちこちに散在している。地図で見ると遺跡だらけという感じだけど、その地に立ってみると、普通の田舎風景とあまり変わらない。住宅地の中に入っていってしまうと、遺跡なんてどこにあるんだと思うほどだ。

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 道沿いから少し入ったところに、こんもりとした小山があった。なにやら古墳っぽいけど、案内標識のたぐいがない。手持ちのイラストマップでは天武天皇・持統天皇陵っぽい。でも、違うような気がする。
 釈然としないまま先へ進んでしまったら、やはり天武・持統陵だった。ちゃんと寄ればよかった。
 飛鳥はあまり案内が親切とはいえないので、しっかりした散策マップを持参していった方がよさそうだ。駅に置いてあったものはイラストマップは今ひとつ分かりづらかった。地形が入り組んでいるというのも分かりづらい理由だ。
 この古墳は鎌倉時代に盗掘された記録が残っており、両天皇の墓ということがはっきりしている。実は天皇の墓と分かっている古墳はほとんどない。大部分は推定にすぎない。
 盗掘されたときに副葬品はほとんど奪い去られ、骨は近くに捨てられてしまったという。
 オリジナルの姿は、5段の八角形をしていたそうだ。現在は直径58メートルの円墳状になっている。

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 だんだん雲行きが怪しくなってきた。電線に止まる雀たちも落ち着きがないように見えた。

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 次にやって来たのが、鬼の俎(まないた)と呼ばれる石のところだった。
 飛鳥には不思議な巨石がたくさんある。当時は大きな石に対する信仰のようなものがあったのだろうか。
 鬼がこの石の上で料理をしたという伝説から名付けられたそうだ。
 この時代すでに、花崗岩をかなり精巧に加工する技術を持っていた。
 道を隔てたところに、鬼の雪隠(せっちん)という石もある。元々は古墳の石室で、俎が底石、雪隠が蓋石だったものが、分離して散らばってしまったというのが定説のようだ。扉石は見つかっていない。

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 こちらが鬼の雪隠だ。鬼のトイレにしては大きさが中途半端だし、形もそれっぽくはない。
 それにしても何故、これほど大きくて重いものが25メートル以上も離れた場所に離れて転がっているのかという謎は残る。
 鬼の俎は小さく割って流用しようした跡が残っている。

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 亀石と呼ばれる巨石だけど、亀に見えるだろうか。
 自然石ではなく、加工されてこんな形をしているそうだ。いつ、何の目的で作られたのかは分かっていない。割られてこうなったのか、本来この大きさだったのか。

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 完全に廃屋だと思ったら、まだ営業している酒造店だった。
 明日香の酒とかなんとかがあったような気がする。

 ここから雨が降り始めた。旅はまだ続く。

奈良のホテルの口コミ
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受験合格祈願は山田天満宮へ

神社仏閣(Shrines and temples)
山田八幡宮拝殿




 初詣と大学受験の合格祈願を兼ねて名古屋市北区にある山田天満宮に行ってきた。
 といっても、私が今更大学に入り直すわけではない。知り合いの子供のためのお願いだった。初詣は挨拶だけで済ます。

 名古屋には三天神というのがある。あとの二つのは桜天神上野天満宮ということになっている。
 山田天満宮は、1672年、尾張徳川二代藩主の徳川光友が建てた神社だ。
 江戸では徳川四代将軍・家綱が、教育や学問に力を入れる政治を行っていた頃で、尾張徳川家もそれにならい、太宰府天満宮から勧請して天満宮を建てた。
 光友は、神社仏閣の創建や再建に力を入れた藩主でもあった。尾張徳川家の菩提寺である建中寺もそうだし、熱田神宮の修繕なども行っている。現在の徳川園は、光友の隠居のために建てた大曽根屋敷があった場所に作られている。
 天満宮をこの場所にしたのは、名古屋城から見て鬼門に当たる場所で、名古屋の町を守るという意味合いもあった。
 それにしても、怨霊化した人間の霊を神として祀り、守護神にしてしまうという発想は日本人特有のものだろう。怨霊としての霊力が強ければ強いほど、神としての力を発揮する。
 菅原道真を祀る天満宮は、21世紀の現在でも、全国で1万数千社あるといわれる。



山田八幡宮絵馬

 初詣客と受験合格祈願のシーズンで、絵馬は満載となっている。近隣ではわりと知名度のある神社で、訪れる人も多い。聞いた話では、名古屋では合格率の高い神社とされていて県外から祈願に訪れる親御さんもいるのだとか。
 6日の今日でも境内はそこそこ賑わっていた。10日の成人の日あたりまでは、訪れる人がけっこういるのだろう。



山田八幡宮蕃塀

 この神社にも蕃塀がある。



山田八幡宮卯年

 今年が卯年。春にはもう今年って何年だっけ、となりそうだ。



山田八幡宮おみくじ

 おみくじ入れは招き猫とダルマの2種類ある。



山田八幡宮おみくじと巫女

 結ばれたおみくじもいっぱいだ。
 お札の授与所には、期間限定の巫女さんもいた。



山田八幡宮神職

 神職さんは裏でお掃除中。



山田八幡宮-7

 山田天満宮の人気があるもう一つの理由は、境内社として金神社(こがねじんじゃ)があるからだ。
 岐阜にある金神社とはどうやら関係がないらしい。
 ここはお金にまつわる御利益に特化した神社で、その筋ではけっこう有名なようだ。
 江戸時代中期の1746年、近くの山田村に創建された神社で、村人たちの守護神として祀られていた。
 その後、感王寺と習合したものの、神仏分離で捨て置かれるような状態になり、昭和58年に山田天満宮に合祀されて復活した。
 小さいながらも社は金ピカに塗られている。



山田八幡宮銭洗い恵比寿

 隣には、銭洗いの恵比須さんと大国天がいて、ここでお金を洗うと、お金持ちになれるんだとか。
 小銭だけは満足せず、一万円札を洗ったり、宝くじを洗ったりする人もいるそうだ。ジャンボで1等を当てた人がお礼参りに奉納したひしゃくがあったりもする。



山田八幡宮祈願の鈴

 祈願の鈴でかんじがらめになっている石仏。
 着ぶくれしているようにも見える。



山田八幡宮ウメの蕾

 気の早い梅が、早くもちらほら咲き始めていた。ここはちょっとした梅の名所となっている。天満宮といえば、やはり桜よりも梅がよく似合う。



山田八幡宮瀬戸電赤列車

 場所は、大曽根駅から北へ500メートルほど行ったところで、駅から歩いても10分ちょっとだ。高架沿いに進んで左手にある。
 織田信長でさえ、桶狭間の戦いの前には熱田神宮に参拝してから行っていることを思えば、普通の人間が神社で神頼みをするのはちっとも恥ずかしいことじゃない。ひねくれた人間よりも素直な心を持った人間を手助けしてあげたいと思うのは、人も神も同じなはずだ。

 追記
 無事、受験合格しました。

【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線、JR中央本線、ゆとりーとラインの「大曽根駅」から徒歩約12分。
 ・無料駐車場 あり
 ・拝観時間 終日

 山田天満宮webサイト
 

夕暮れどきの川原町は雨 <岐阜旅第二弾・その6>

観光地(Tourist spot)
川原町-1

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 岐阜城をあとにして、この日最後の目的地の川原町へとやってきた。
 本降りの雨の中、傘も差さずに自転車を押しながら写真を撮っている人というのもどうかと思ったけど、次の機会がいつ訪れるか分からないとなると、ここまで来て寄らないわけにはいかなかった。
 雨に濡れてしっとりとした川原町の風情はなかなかよかった。ただ、撮影には厳しすぎる条件で、三脚を立てる心の余裕も持てず、通り一遍の写真になってしまったのが惜しまれる。ここはけっこう楽しみにしていたところだっただけに残念だった。

川原町-2

 川原町という町名を地図で探しても見つからない。長良橋南の湊町、玉井町、元浜町一帯を総称して、川原町(かわらまち)と呼んでいるだけだ。
 長良川の水運を利用した川湊として栄えたところで、濃尾地震で火が出ず、岐阜空襲も逃れたことで、古くからの町並みが残った。
 最盛期には、美濃和紙や木材を扱う問屋が建ち並び、舟が忙しく行き来する活気ある町だったという。
 近年、あらたにこの町の魅力を見直そうと、電線の地中化などの整備が行われた。新しい店などもオープンして、観光客も増え、活気が戻ってきている。

川原町-3

 メインの通りは500メートルほどで、川原町全体としてもさほど広くはない。ざっと見て回るだけなら30分程度だろうか。
 夕焼けから夜にかけての町並みを撮りたいと思っていたのだけど、このときは通りを往復しただけだった。

川原町-4

 老舗旅館の十八楼だと思うのだけど、ちょっと自信がない。

川原町-5

 川湊の灯台らしきもの。昔からのものではなく、観光用に作られたものかもしれない。
 この先に、鵜飼いの舟乗り場がある。
 向こうに見えているのが長良橋だ。
 ここで引き返して、もう帰ることにした。

川原町-6

 今回はこれで満足しておくことにした。川原町も、一応、撮ったには撮った。寄らずに帰っていたら、もっと心残りは大きかった。
 岐阜旅第二弾は、こうして雨の中で終わりを迎えることになった。
 岐阜旅第三弾は、大垣を予定している。春の樽見鉄道にも乗ってみたいから、そのときあわせて行くことにしようか。
 できれば、冬の白川郷も撮ってみたいのだけど、それはどうなるかまだ分からない。

旧名鉄美濃駅に立ち寄る

飛行機(Airplane)
名鉄美濃駅-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 長良川鉄道で美濃市へ行ったとき、名鉄の旧美濃駅に立ち寄ってきた。
 駅といっても、すでに廃線になったところで、駅舎と旧車両が保存されているところだ。美濃市駅から歩いて3分ほどのところにある。
 岐阜旅第一弾シリーズの本編に組み込めなかったので、番外編として紹介することにした。

名鉄美濃駅-2

 かつて名鉄に、美濃町線(みのまちせん)という路線があった。岐阜市の徹明町駅(てつめいちょうえき)と関駅、さらに美濃市までを結んでいた。
 開業は1911年(明治44年)で、当初は柳ヶ瀬が起点だった。
 時代の流れで乗客が減り、越美南線と平行してることもあって、部分的に廃線にしつつなんとか持たせていたのだけど、最終的には2005年に全線が廃止となった。
 新関駅と美濃駅の間は、1999年に廃止されている。
 その後、何か少しは残そうという運動が起こり、美濃駅の駅舎と線路の一部が保存されることになった。
 翌2000年に、観光施設として旧名鉄美濃駅が完成した。
 駅舎は、1923年(大正12年)に建てられたものだ。

名鉄美濃駅-3

 少し離れたところから駅舎を見る。
 丸ポストがあったりして、往時の面影を残している。
 手前の小屋はトイレだ。
 入場は無料で、鉄道グッズも売られている。

名鉄美濃駅-4

 古い車両が3台半、静態保存されている。
 半というのは、一番左の車両が切られて半分しかないからだ。理由はよく知らない。

名鉄美濃駅-5

 実際に乗ったことがあるわけでもなく、鉄っちゃんでもないので、車両自体に思い入れはない。ああ、古いやつだなと思うくらいだ。
 モ510形512号、モ600形601号、モ590形593号、モ870形876号、だそうだ。

名鉄美濃駅-6

 牧歌的な時代の、素朴な車両だ。顔を見てるだけでものんきな感じがする。絶対200キロとか出そうにない。

名鉄美濃駅-7

 中にも入ることができる。

名鉄美濃駅-8

 鉄道好きの人なら楽しめると思う。私はそれなりに楽しんだ。

夕焼けのち雨の岐阜城登城 <岐阜旅第二弾・その5>

城(Castle)
岐阜城-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 閉館間際の岐阜城天守閣に飛び込んで、急な階段を駆け上がって最上階から外眺めたとき、空は暗雲とオレンジに分割され、長良川は夕焼け色に染まっていた。
 おお、これは。
 こんなときは平凡な言葉しか出てこない。美しい。
 まだ若く、天下取りの野望に燃える34歳の信長は、ここからの眺めに何を思ったか。やっとここまできたかという感慨か、まだまだこれからという思いだったか。難攻不落とされた稲葉山城を足がかりにできたところで、上洛までの道のりは見えたに違いない。あるいは、もうこの時点で天下統一からその先まで見据えていたのだろうか。

岐阜城-2

 岐阜城は、標高329メートルの金華山山頂近くにある。その麓には、岐阜公園が整備されている。
 天守閣へ行くには、いくつかの登山道がある。きつい登りからゆるやかなものまで、30分から1時間くらいのコースだ。
 一般的にはロープウェイを使う。それなら3分で行ける。
 大手口の前には、天下第一の門がある。これは復元というか模擬門で、当時もこんな門があったかどうかは分からない。

岐阜城-3

 入り口から入ってすぐのところに、信長の居館跡がある。
 その後の本丸御殿のようなもので、信長は天主と呼んでいたようだ。安土城は天守閣のことを天主としていたけど、その原形がここにあったと見てよさそうだ。
 4層の華麗な建築物だったと伝わっている。
 現在もまだ発掘調査が続いていて、一般公開もされている。このときはすでに公開時間が終わっていた。

岐阜城-4

 ロープウェイ乗り場近くに三重塔が建っている。
 これは信長とは関係がなくて、大正天皇が訪れた記念として大正5年に建造されたものだ。
 それでももう100年近く経っているから、なかなか風合いが出てきている。

岐阜城-5

 ロープウェイは15分置きに運行されていて、往復で1,050円。
 岐阜の街を眺めながら登っていく景色がいい。3分間だからあっけないのだけど。

岐阜城-6

 現在の天守閣は、昭和31年に造られた模擬天守だ。
 実はこれは2代目の復興天守で、初代は明治43年に造られている。それは日本で最初の観光用天守で、木造トタン葺きの3層3階だった。木材は長良橋の廃材利用、屋根はトタン葺き。工事は保存会や建築関係の人たちの労働奉仕で行われたんだとか。
 昭和18年に火が出て、あっけなく燃えてしまった。
 昭和に再建されたものは、3層4階建ての鉄筋コンクリートで、当時の櫓の図面などを参考に設計されたというから、姿はオリジナルにわりと近いかもしれない。ただ、実物はこんなおとなしいものではなかったはずだ。瓦まで金箔だったというし、ルイス・フロイスが地上の天国とまで書いているくらいだから、安土城に通じるようなものだったのだろう。信長という人間がありきたりなもので満足するとは思えない。
 岐阜城が最も注目を浴びたのは、NHK大河「国盗り物語」が放映された昭和48年だった。斎藤道三と織田信長の攻防を描いた作品で、ここ稲葉山城(岐阜城)が舞台となったことで、年間入場者は43万人を超えた。
 昭和50年には、川島紡績の社長が6,000万円を出して模擬隅櫓を造った。そこは資料館になっている。
 平成22年の去年、国指定の史跡になるという話だったけど、あれは本決まりになったのだろうか。

 鎌倉時代初期の1201年、二階堂行政(源頼朝の親戚)が、稲葉山に砦を築いたのが始まりとされている。
 いったん廃城になったあと、室町時代になって美濃の守護代だった斎藤利永が、修復して城を建てて、居城とした。
 戦国時代になって、斎藤道三があらたに山頂に稲葉山城を築いた。蝮(まむし)の道三の異名を持つ斎藤道三が造った稲葉山城は、難攻不落といわれた。織田軍も何度も攻め込んでは撃退されている。
 しかし、斉藤親子の争いで道三が討たれ、義龍の急死によって龍興が13歳で家督を継いだことで斉藤家は弱体化し、家臣の竹中半兵衛や安藤守就が謀反を起こした隙を突いて、信長はようやく稲葉山城を攻略することができたのだった。それが1567年のことだ。
 信長はそれまでの居城だった小牧山城から稲葉山城に移り、町の名前を井ノ口から岐阜と改め、稲葉山城も岐阜城とした。
 安土城完成が1576年、信長43歳のときだ。
 岐阜城を嫡男の信忠に譲り、自分は安土城に移った。
 1582年、本能寺の変で信長と共に信忠が倒れると、家臣の斎藤利堯によって岐阜城は乗っ取られてしまう。
 それもつかの間、明智光秀が秀吉に討たれると、斎藤利堯は織田信孝(信忠の弟)に降伏。
 清洲会議において、信孝が城主と決まる。
 信孝は自分こそが信長の後継者になるべきと思っていたので、秀吉に刃向かった。しかし、最後は秀吉との争いに敗れて、切腹させられることになる。
 その後は、池田元助や池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信などが城主となり、関ヶ原では西軍について敗れ、関ヶ原のあとに廃城とされた。
 家康は奥平信昌に美濃を与え、あらたに加納城を築城させた。その際に、岐阜城の天守、櫓、石垣を移築したとされる。
 加納城の天守は、江戸時代(1728年)に落雷によって燃え落ちてしまった。

岐阜城-7

 4時15分のロープウェイに乗ったので、山上駅に着いたときには、天守の閉館時間まで10分ちょっとしかなかった。
 通常、駅を降りてから歩いて10分弱の上り階段を、5分で駆け上がった。それでも、天守に入城してから見学時間は7分くらいしかなかった。

岐阜城-8

 非常にせわしない見学ならびに撮影となってしまったのだけど、日没近くということで、夕焼け風景を見ることができたのはよかった。この時間帯の眺めを見られるのは、冬場の一番日没が早い時期だけだ。あとは、ナイター営業のときと。

岐阜城-9

 よく晴れていれば、眼下の長良川から御嶽山、乗鞍、アルプス、伊吹山、鈴鹿山脈、伊勢湾まで360度のパノラマ風景を楽しむことができる。
 このときは、上空に不穏な黒い雲がかかって、遠くまで見渡せなかった。まさかこのあと、本降りの雨になるとは、このときは思いもしなかった。

岐阜城-10

 光のシャワーにカラスが舞う。

岐阜城-11

 東の空はとんでもなくかすんでいる。霧なのか靄なのか、同じ場所からの眺めとは思えない。長良川の影響もあるのだろうか。

岐阜城-12

 これはこれで幻想的な風景で美しいと喜ぶ。

岐阜城-13

 突然、ワッと雨が降ってきた。
 私の晴れ男伝説はいよいよ終わった。それまで連戦連勝で晴れていたのに、去年の秋くらいから雨が増え始めて、ここのところの雨確率はとても高くなっている。実は次の旅でも雨に降られることになる。
 このときは、まさか雨なんて考えもしなくて、雨具は一切持っていっていなかった。レンタサイクルで、傘もなく、このあとずぶ濡れになりながら自転車で観光を続行した自分に自分で感心した。

岐阜城-14

 長良川の流れ。

岐阜城-15

 南の方角は晴れて、街に日が当たっている。
 左端に小さく名古屋駅のタワーが見えている。

岐阜城-16

 かなりドタバタしたけど、なんとか天守まで登って、写真も撮ることができた。
 残す予定は川原町だけとなったものの、雨はますます強くなる。にわか雨で済んでくれる様子はない。
 どうしようか迷いつつも、自転車まで戻って、川原町へ向かうことにした。
 つづく。

男前の伊奈波神社と微笑みの岐阜大仏 <岐阜旅第二弾・その4>

神社仏閣(Shrines and temples)
伊奈波神社-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 岐阜市内で随一の歴史と格式のある伊奈波神社(いなばじんじゃ)は、とてもカッコイイ神社だ。
 昨日も書いたように、金神社に祀られているのがお母さんの渟熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)で、橿森神社の祭神・市隼雄命(いちはやおのみこと)は子供、この伊奈波神社がお父さんの五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)ということになる。
 キリッとした男前の佇まいで、みんなに自慢したくなるような理想のお父さん像のような神社だと思った。厳かというよりダンディで、神仏習合だった時代の名残だろう、お寺の包み込むような空気感も併せ持っているように感じられた。
 創建は今から1900年以上前の景行天皇十四年ということになっている。まあ、そのまま信じるわけにはいかないとしても、かなり古い神社であることは確かなようだ。
 祭神の五十瓊敷入彦命は、第11代垂仁天皇の長男で、第12代景行天皇の兄に当たる。
 どうして長男なのに、天皇になれなかったのだろうか。能力がなかったわけではなさそうで、武勇と政治に優れ、各地に派遣されてその地を治めたとされている。伊奈波神社が建てられたのも、死後にその偉功をたたえ、祀るためということになっている。
 各地の反乱を収めるべくあちこちにやられたというのは、なんとなくヤマトタケルに通じるものを感じる。ヤマトタケルも天皇の父を持ち、自分の息子も天皇になったのに(第14代・仲哀天皇)、自分は天皇になれず、討伐に次ぐ討伐の人生を送り、最後は負けて命を落とした。ヤマトタケルの父は、五十瓊敷入彦命の弟である景行天皇だ。叔父と甥の関係になる。因果は巡るというのか、息子は父の姿を見て育つものだ。
 五十瓊敷入彦命も、朝廷の命で奥州を平定したあと、同行した陸奥守豊益が成功をねたんで、謀反の疑いありと朝廷に嘘の告げ口をしたために朝敵とされ、朝廷軍によって攻められて岐阜のこの地で果てたとされる。
 そんな古い歴史を持つ伊奈波神社なわけだけど、どういうわけか平安時代の延喜式には載っていない。1900年前というのはともかく、平安時代に創建されていなかったはずはなく、由緒からしても延喜式に載らないのはおかしい。この地の神社で載っているのは、物部神社だけで、伊奈波神社の名はない。しかし、『美濃国神名帳』には正一位 伊奈波大神とあり、物部明神は従五位下となっている。このあたりについてはいくつか説があるようで、はっきりしたことは分かっていない。
 伊奈波神社はもともと、稲葉山(今の金華山)の中腹、椿原(今の丸山)に建てられた。斎藤道三が稲葉山城を築城する際に、神様を足元に置くのは申し訳ないということで、現在の場所に移された。
 延喜式の物部神社は伊奈波神社のことだったのか、違う理由があるのか。のちに物部神社は、伊奈波神社に合祀されている。
 壬申の乱のとき、大海人皇子(のちの天武天皇)がこの神社を訪れ、戦勝祈願をしたと伝わっている。ということはやはり、五十瓊敷入彦命は武勇に優れた神として祀られていたということだろう。

伊奈波神社-2

 神社前は広めの道で、どこから神社が始まるのか、やや判然としない。鳥居の前には善光寺があって、少し不思議な感覚だ。
 最初の鳥居をくぐって、ようやく神域に足を踏み入れた実感が沸く。

伊奈波神社-3

 緩やかに弧を描きながら登る参道が優美だ。すぐには社殿までたどり着けない、この演出がいい。演出じゃないけど。

伊奈波神社-4

 二つ目の鳥居をくぐって先へ進む。
 ここから見えているのは拝殿ではなく楼門だ。

伊奈波神社-5

 両側に石灯籠が並び、石造りの神橋が架かっている。
 残念ながら神橋を渡ることはできない。

伊奈波神社-6

 神橋を横から見たところ。かなりの反り具合だ。ほとんど半円状になっている。

伊奈波神社-7

 楼門を過ぎて、更に石段を上がると神門がある。その先に拝殿と本殿があるのだけど、神門より先には進めないので、ここで参拝をする。
 かなり雰囲気のある社殿だ。江戸時代あたりの建築だろうか。もっと古いかもしれない。

伊奈波神社-8

 神門から振り返って見る楼門。

伊奈波神社-9

 最近のパワースポットブームで、神社に若い女の人の姿をよく見るようになった。
 動機はどうであれ、若い世代が神社に親しむことはいいことだ。神頼みというのは他人任せとは違う。人智を越えた力に対する敬いだ。

伊奈波神社-10

 境内社の一つ、黒竜神社が最高のパワースポットという話もある。伊奈波神社が遷座してくる前から、この地の守り神だったといわれている。

伊奈波神社-11

 神社の入り口にある善光寺。
 信州善光寺の本尊は、織田軍が武田家を滅ぼしたときに信長によって、伊奈波神社の近くに運ばれてきた。
 信長が本能寺の変で討たれると、本尊は息子の織田信雄によって尾張の甚目寺に移され、更に家康によって遠江の鴨長寺へ運ばれていった。その後、秀吉の手に渡り、京都方広寺の本尊とされ、1598年にようやく信濃善光寺に戻ることになった。
 この地に善光寺が建立されたのは、織田秀信が岐阜城主だった1600年頃とされている。一時、本尊があった場所に分身を祀るための寺を建てた。
 美濃四国第1番札所で、現在の本堂は大正元年(1912年)に再建されたものだ。以前のものは明治24年(1891年)の濃尾地震で全焼してしまった。

伊奈波神社-12

 ところ変わってこちらは正法寺。
 自称日本三大仏の岐阜大仏があるというので、自分の目で確かめるべくやって来た。
 大仏殿は中国風だ。この建物はさほど大きいという感じはしない。早速200円払って中に入ってみる。
 と、何の前置きもなく、大仏は唐突に目の前に座っている。

伊奈波神社-13

 写真では大きさが伝わらないと思うけど、実際にそんな大きいとは思えない。
 奈良の大仏が14.98メートル。鎌倉の大仏が11.35メートル。岐阜大仏は13.63メートルというから鎌倉よりも大きく、奈良の大仏に迫るくらいの大きさだ。ただ、その数字を聞いても、ホントかいなと思う。
 狭い大仏殿の中でちょっと窮屈そうに背中を丸めている。そのせいもあるだろうか。

伊奈波神社-14

 乾漆造(かんしつぞう)と呼ばれる仏像で、大イチョウを直柱として、骨格を木材で組んで、竹材と粘土で固めて形を作る。その上から経典を糊張りして、漆を塗り、最後に金箔を施して完成となる。
 本体は釈迦如来の大仏で、胎内に薬師如来が祀られているそうだ。
 江戸時代後期の1790年頃、相次ぐ地震や飢饉に見舞われたことに心を痛めた正法寺の第11代推中和尚は、ここはひとつ大仏を建立して鎮めるしかないと思い立つ。
 まずは大仏造りのための経本集めを行うがままならず、各地を托鉢して回るもなかなか資金は貯まらなかったという。1800年にようやくお堂が完成したものの、肝心の大仏は頭の部分しかできなかった。
 1815年に和尚は志半ばで亡くなり、一時中断を挟んで第12代肯宗和尚があとを継いで、ようやく完成したのが1832年だった。足かけ40年近くかかったことになる。

伊奈波神社-15

 周囲には五百羅漢像が並ぶ。

伊奈波神社-16

 正面やや左から見上げると、優しく微笑んでいるように見える。オールオーケイ、何も心配いらないネ、と言っているように見えた。

 伊奈波神社と岐阜大仏を見て、かなり満足した。とはいえ、岐阜へ行って岐阜城を見ないわけにはいかない。時間的に押してしまって、かなりギリギリだったのだけど、このあと急いで岐阜城がある金華山へと向かった。
 そのときの話はまた次回。
 つづく。

金にまつわる信長と神社の話 <岐阜旅第二弾・その3>

神社仏閣(Shrines and temples)
岐阜旅3-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 岐阜駅前に、金ピカの信長像が建っている。去年できた。
 甲冑を身につけ、マントを羽織り、手には西洋風のカブトと火縄銃を持っている。評判はあまり芳しくないようだけど、話題にはなった。
 背後の高層ビルは、シティタワー45だ。展望台に登ろうかと思っていたのだけど、結局行けなかった。
 この地は、もともと、井ノ口と呼ばれていた。斉藤氏の稲葉山城を攻略して、信長がここを拠点としたとき、岐阜と改められた。天下布武の印を使うようになったのは、そのときからだ。
 駅前の信長像は、岐阜市制120周年記念として作られたものだ。3,000万円もかかったらしい。

岐阜旅3-2

 訪れたのは11月の終わりということで、駅前はイルミネーションの準備中だった。
 クリスマスは終わってしまったけど、2月14日までのロングランということで、まだ続いている。

岐阜旅3-3

 岐阜の神社巡りは金神社から始まった。
 のつもりだったのだけど、場所を間違えて、違う神社に着いてしまった。これは近くの八幡神社だったと思う。
 落ち葉がワッと舞って、ちょっといいシーンだった。

岐阜旅3-4

 賽銭箱に挟まった折り鶴が一つ。
 お願い事をするのに、必ずしも現金でなくてもいいのかもしれないと思った。

岐阜旅3-5

 金神社はこちらだった。
 金(こがね)神社と読む。お金好きの人がお願いに来そうな名前だ。
 岐阜市内で一番大きな神社は、伊奈波神社で、美濃三宮とされている(美濃一宮は垂井の南宮大社)。
 金神社、橿森神社、伊奈波神社はなにやら深い関係がありそうで、3つセットで回る必要があった。

岐阜旅3-6

 東の鳥居から入ったものの、なんとなくしっくりこないので、いったん出て、南の鳥居から入り直した。やはりこちらから入るのが筋だろう。

岐阜旅3-7

 なかなか立派な神社で、神職さんだけでなく、巫女衣装の女の人も常駐している。

岐阜旅3-8

 主祭神は、金大神(こがねのおおかみ)。他に渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)、市隼雄命(いちはやおのみこと)、五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)、日葉酢姫命(ひばすひめのみこと)の4柱を祀っている。
 どの神様も聞き覚えがない。金大神というのはどんな神様だろう。
 それぞれの関係性がややこしくて覚えられそうにないのだけど、一応説明するとこういうことだ。
 伊奈波神社の祭神が五十瓊敷入彦命で、橿森神社の祭神が市隼雄命、日葉酢媛命は垂仁天皇の皇后で、景行天皇を産んだ。渟熨斗姫命は景行天皇の皇女で、垂仁天皇の第一皇子である五十瓊敷入彦命の妃となり、市隼雄命を産んでいる。
 そんなわけで、関係者をまとめて祭神にしているのだけど、じゃあ金大神はそれら4柱とどんな関係かというと、よく分からない。これら4柱の総称的な呼び名という話もある。
 朝廷の命令で奥州を平定した五十瓊敷入彦命は、ねたみからこの地で討たれてしまい、それを嘆いた妃の渟熨斗姫命がここへやって来て、五十瓊敷入彦命の霊を慰めつつ、私財をなげうってこの土地の発展に寄与したことから、のちに金大神として祀られるようになり、国府が定められたときに社殿が創建されたという。
 古い社殿は明治24年の濃尾地震で焼け落ち、昭和20年の岐阜大空襲でも焼け、昭和33年に再建された。現在のものは昭和63年に建て替えられたものだ。 

岐阜旅3-9

 近くには商店街や公園があり、周囲が賑やかだ。深閑とした感じの神社ではない。

岐阜旅3-10

 道を隔てたところにある金公園に、古い路面電車の車両(D51470)が静態保存されている。

岐阜旅3-11

 続いて橿森神社(かしもりじんじゃ)へとやって来た。
 懐かしの紅葉風景だ。

岐阜旅3-12

 主祭神は市隼雄命で、先ほども書いたように五十瓊敷入彦命と淳熨斗媛命の間の子供だ。
 だから夫婦和合、子供の守り神として古くから信仰されてきた。
 裏は上加納山(水道山)で、神社はその南端近くの麓に建っている。
 鳥居の後ろにあるのは、駒の爪岩と名付けられた大きな岩だ。神が駒に乗ってこの地に降り立ったという伝説から名付けられたという。

岐阜旅3-13

 金神社とはだいぶ趣が違って、こぢんまりとした静かな神社だった。
 隣には公園があって、神社の裏が上加納山の登山口になっている。
 入り口に少し違和感があると思ったら、鳥居が建っていなかったからだ。平成10年の台風で鳥居が倒壊したまま今に至っているらしい。写真を見ると朱塗りの両部鳥居だったようだ。建て直すとなると、けっこうなお金がかかりそうだ。金神社にお願いしないといけない。

岐阜旅3-14

 境内には信長を祀った建勲神社(岐阜信長神社)がある。
 神社を出てすぐのところに御園の榎と名付けられた木がある。信長が楽市楽座を開いたときに市神をその榎の元に祀ったと伝わっている(現在のものは三代目)。そんな関係もあっても、ここに信長神社が建てられたのだろう。

岐阜旅3-15

 途中でちょっとお寺などに寄りつつ、伊奈波神社を目指した。

岐阜旅3-16

 圓龍寺の大イチョウ。
 もうだいぶ葉を落としていた。

岐阜旅3-17

 岐阜にも東別院があった。
 正確には真宗大谷派岐阜別院で、西本願寺別院の本願寺岐阜別院もあるようだ。それは見なかった。

 伊奈波神社はちょっと別格なので、次回あらためて紹介することにしたい。
 つづく。
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