
PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4
飛鳥を見たくて、年末に旅をしてきた。
12月の冷たい雨が降る中、歩き歩いた6時間半。飛鳥の地に立ち、空気に触れ、息吹を感じて、私の目に映る飛鳥を写してきた。
ずっと行きたいと思っていてなかなか行けず、ようやく行くことができた。自分にとって特別な場所は、しかるべき時期が来ないと呼んでもらえないらしい。こちらの片思いだけでは、その場所と同調することができない。今回行けたのは、その時期が来たからだと思う。
たとえば田植えが終わった初夏、あるいは実りの秋に訪れていたら、飛鳥は美しい場所として記憶されただろう。けど、私の見た飛鳥は、12月の雨に打たれる枯れた田んぼの風景だった。あるのはかつての都の残像だけで、そこに繁栄の面影を見いだすのは難しかった。
飛鳥は、京都や奈良、鎌倉といった古都とはまるで違う趣をしている。あるのは飛鳥時代の名残と、現代の暮らしだけで、その中間がぽっかり抜け落ちている。昭和や江戸はもちろん、平安や奈良の時代さえもそこにはない。古い寺社はあっても、不思議と時間の連続性みたいなものが希薄に感じられる。
撮ってきた写真をあらためて見ると、飛鳥の魅力をあまり伝えられないような気がして、少し不安な気持ちになる。季節柄ということを別にしても、華やかさといったものに欠ける土地ではある。
それでも人々が飛鳥へと向かうのは、やはり何か惹きつける魅力があるからだろう。行けば分かる、行かなければ分からないというのは、行ってきた人間としては無責任な言いぐさになってしまうのだけど。
奈良といえば大仏と鹿だけじゃない。奈良には飛鳥がある。飛鳥こそが日本という国の始まりの場所であり、古代と近代との架け橋になった時代の舞台だ。
今日から何回かに分けて飛鳥の旅を紹介することにしたい。
今回の目的は、あくまでも飛鳥の空気を写すことだったので、遺跡や寺巡りは軽くなぞっただけだった。できるだけたくさんの距離を歩いて、飛鳥という土地のスケール感を掴みたかったというのもあった。
晴れていたらレンタサイクルの方が距離を稼げてよかっただろうけど、この日は午後から雨の予報で、実際、6時間半のうち4時間が雨降りだったから、自転車を避けたのは正解だった。歩きでしか見えない風景や感じられないこともある。雨に濡れる飛鳥の風景を撮るというのも、おそらくこれが最初で最後だろう。
前置きが長くなった。そろそろ飛鳥を巡る旅に出よう。

飛鳥盆地は奈良市内よりも冬の気温は低いだろうに、早くも菜の花が少し咲き始めていた。
ところで飛鳥という地名はどこかというと、そういうところはあるようでない。明日香村はあっても飛鳥村はない。このへんはちょっとややこしいので説明が必要かもしれない。
飛鳥という言葉が昔からあったことは確かなようで、万葉集にもいくつか歌が載っている。いずれも、飛鳥を「とぶとり」と読ませ、明日香の枕詞として使っている。たとえば、「飛鳥(とぶとり)の 明日香の里を置きて去(い)なば君が辺は見えずかもあらむ」などがそうだ。
飛鳥という言葉の語源はよく分かっていない。明日香が先にあって、あとから飛鳥と当てたのかもしれない。
地名としての飛鳥ということでは、飛鳥盆地や飛鳥川などが今でも使われている。明日香村が合併で誕生したのが1956年で、それまでは飛鳥村が存在していた。
大阪にも飛鳥という地名があり、奈良を大和飛鳥(遠つ飛鳥)、大阪を河内飛鳥(近つ飛鳥)と呼んで区別している。遠い近いというのは、難波宮があったところから見てということだ。
現在、一般的に飛鳥といえば、奈良の明日香村を中心としたあたりを指すことが多い。飛鳥時代に都があった場所で、年代でいうと推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位した592年から、持統天皇が藤原京へ移転した694年までの約100年間を指す。現在までに発見された遺跡なども、その時代のものが中心となっている。
古代においてこの土地がどうして都になったかというと、単純に言えば、有力者がこの地に集まっていたからだ。朝鮮半島や大陸からの渡来人が住み着いた場所でもあり、そういう人たちが新しい文化や技術などを持ち込んだことも大きかった。それに加えて、ちょうど仏教が入ってきた時期でもあり、寺院がたくさん建てられて、政治や文化の中心地となっていった。

冬枯れの木々と冬の空。着いた午前中はまだ青空も見えていた。

枯れヒマワリの姿。
春や夏に訪れていたら、飛鳥の印象はずいぶん違ったものになっただろう。

駅から歩いて最初に訪れたのは、高松塚古墳があるエリアだった。
一帯は公園のようになっていて、文武天皇や中尾山古墳も隣接している。

高松塚古墳? こんな姿だっけ? 写真で見たのとはだいぶ違う。はげ山というのか、盛り土というのか、最近できたばっかりみたいだ。
なんでも、2009年に外観の復元工事を行って、元の姿に戻したんだそうだ。今は冬で芝が枯れていて、春になれば緑色に戻るのかもしれない。

高松塚古墳というと、教科書にも載っていた女子群像を覚えている人も多いと思う。あれだけではなく、男子の像や四神、天井には月や星なども描かれている。
発掘調査によって見つかったのは、1972年のことで、当時は大変な話題になった。
現在はカビが生えたり、絵が消えかけたりで、保存復元作業が行われていて、本来の様子のまま近くで見ることはできない。隣の壁画館で復元されたものなどが見られるようだ。
古墳自体は直径23メートルと、小振りなものだ。高さ5メートルで、二段の円墳になっている。
古墳時代末期の7世紀終わりから8世紀初期にかけてのもので、被葬者は分かっていない。四神や星座など中国思想が色濃いことから渡来人の王族の墓などという説もあるようだけど、素直に考えれば天武天皇の皇子のうちの誰か、たとえば弓削皇子あたりだろうか。あるいは、石上麻呂と言われればそのような気もする。
鎌倉時代に盗掘にあっており、発掘調査が行われたときはすでに副葬品の多くは持ち去られて残っていなかったらしい。

飛鳥の今は、山々に囲まれた田園風景で、民家があちこちに散在している。地図で見ると遺跡だらけという感じだけど、その地に立ってみると、普通の田舎風景とあまり変わらない。住宅地の中に入っていってしまうと、遺跡なんてどこにあるんだと思うほどだ。

道沿いから少し入ったところに、こんもりとした小山があった。なにやら古墳っぽいけど、案内標識のたぐいがない。手持ちのイラストマップでは天武天皇・持統天皇陵っぽい。でも、違うような気がする。
釈然としないまま先へ進んでしまったら、やはり天武・持統陵だった。ちゃんと寄ればよかった。
飛鳥はあまり案内が親切とはいえないので、しっかりした散策マップを持参していった方がよさそうだ。駅に置いてあったものはイラストマップは今ひとつ分かりづらかった。地形が入り組んでいるというのも分かりづらい理由だ。
この古墳は鎌倉時代に盗掘された記録が残っており、両天皇の墓ということがはっきりしている。実は天皇の墓と分かっている古墳はほとんどない。大部分は推定にすぎない。
盗掘されたときに副葬品はほとんど奪い去られ、骨は近くに捨てられてしまったという。
オリジナルの姿は、5段の八角形をしていたそうだ。現在は直径58メートルの円墳状になっている。

だんだん雲行きが怪しくなってきた。電線に止まる雀たちも落ち着きがないように見えた。

次にやって来たのが、鬼の俎(まないた)と呼ばれる石のところだった。
飛鳥には不思議な巨石がたくさんある。当時は大きな石に対する信仰のようなものがあったのだろうか。
鬼がこの石の上で料理をしたという伝説から名付けられたそうだ。
この時代すでに、花崗岩をかなり精巧に加工する技術を持っていた。
道を隔てたところに、鬼の雪隠(せっちん)という石もある。元々は古墳の石室で、俎が底石、雪隠が蓋石だったものが、分離して散らばってしまったというのが定説のようだ。扉石は見つかっていない。

こちらが鬼の雪隠だ。鬼のトイレにしては大きさが中途半端だし、形もそれっぽくはない。
それにしても何故、これほど大きくて重いものが25メートル以上も離れた場所に離れて転がっているのかという謎は残る。
鬼の俎は小さく割って流用しようした跡が残っている。

亀石と呼ばれる巨石だけど、亀に見えるだろうか。
自然石ではなく、加工されてこんな形をしているそうだ。いつ、何の目的で作られたのかは分かっていない。割られてこうなったのか、本来この大きさだったのか。

完全に廃屋だと思ったら、まだ営業している酒造店だった。
明日香の酒とかなんとかがあったような気がする。
ここから雨が降り始めた。旅はまだ続く。
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