
PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4
過去の旅で、いくつか置き去りになっているネタがある。調べ物が多くて先送りにしたり、長いシリーズになりそうなので後回しにしたもので、三保の松原の話もその一つだ。旬のネタではないから、放置したまま安心していたら、夏が終わりそうになっていた。海の風景もたくさん出てくる旅で、そろそろ出しておかないと季節外れになってしまう。ということで、今日から3回シリーズでお届けすることにしたい。
三保の松原といえば、日本三大松原の一つであり、羽衣伝説でもよく知られている。大正5年には、日本新三景の一つとして選ばれたこともある。
ちなみに、三大松原の残り二つは、去年行ってこのブログでも紹介した気比の松原(福井県敦賀)と、虹の松原(九州唐津)で、日本新三景は、北海道大沼公園と九州耶馬溪となっている。どこも渋いラインナップで、すべて制覇したという人は少なそうだ。
どうして私がここを選んだかといえば、特に深い理由はない。1/1ガンダムを見るために静岡へ行こうと決めたとき、適当な距離感にあるところでどこかないかと探していて見つけたのが三保の松原だった。清水港も見てみたかったし、三保の松原といえば富士山が見られるというのも決め手になった。
清水駅からはバスに乗って行くことになる。羽衣の松入り口というバス停で降りて歩いていくと、御穂神社(みほじんじゃ)の裏口前に出た。まずはここで挨拶をしてから行くのがいいだろうということで、参拝することにした。裏口から入ることになったのが、ちょっとどうかと思ったのだけど。

神社入り口の向かいに、昔ながらのたばこ屋兼雑貨屋さんがあった。うちの田舎の神社前にもよく似た店があって、懐かしく感じられた。こういう店がまだ営業しているのを見ると嬉しくなる。
この日は夏休みで子供たちの姿はなかったけど、近くに小学校があるから、平日の夕方は小学生たちで賑わっているんじゃないだろうか。

参道の日だまりとコケなどを撮りつつ、奥へ進む。

ここが境内の入り口だ。北西から入る格好になったから、少し方向感覚がおかしくなったのだけど、社殿は南を向いているから、南から入っていれば不自然なことは何もない。ほぼ南向き、やや東寄りの羽衣の松がある方向を向いている。
以前は、ここから200メートルほど離れた天神森というところにあって、1522年に戦で焼けて、現在の地に移されたそうだ。
三保の松原がある三保半島は、駿河湾から細長く突き出した砂嘴(さし)と呼ばれる地形をしている。ずっと昔は、ここは離島だったという話もある。半島の先が3つに分かれていることから、三保という名がつけられたといわれている。
御穂神社の表記が元々そうだったのか、途中で変わったのか、詳しいことは調べがつなかった。神社に祀られている三穂津姫(みほつひめ)から来ていると考えるのが自然だろうか。
御廬神社と記されている記録もあるようで、廬(いおり)は仮の小屋といった意味だから、神社の本体とは離れた仮の宮だったのかもしれない。山車や御輿などを運んで神様に休んでもらうところを仮宮(かりみや)とか、御旅所(おたびしょ)などというけど、ああいう感じに近かった可能性もある。かつて離れ小島だったとすれば、なおさらだ。
創建はかなり古いようで、ヤマトタケルが東征したときに参ったという話もあり、平安時代の延喜式にも載っている。

拝殿を見て、のけぞった。なんで、ピンクに塗っちゃったんだろう。
天女をイメージしたのだろうか、鉄製の階段がピンク色のペンキで塗られている。反対意見は出なかったのだろうか。いろんな神社を見てきたけど、ピンクがイメージカラーの神社は初めて見た。
社殿は江戸中期に再建されたのものということで、なかなかに風格がある。だからこそ、ピンクの階段とのギャップが激しい。
現在の祭神は、大己貴命(オホナムチ・オオクニヌシの別名)と、三穂津姫命となっている。もともとは土地の神や海の神を祀る素朴な信仰から始まったと考えられる。
祭神がオオクニヌシになった経緯はこうだ。
アマテラスの孫であるニニギが天孫降臨したとき、地上を支配するオオクニヌシは、ニニギに国を譲れと迫られて、すったもんだのあげく、結果的に話を飲むことになり、地上の支配は天孫系のニニギ一族に移ることになった。
一般的には、その後、オオクニヌシは出雲大社に祀られることになるのだけど、いろんな別バージョンの話がある。たくさんの別名があることが示すように、オオクニヌシというのは地上を支配していた神の総合的なイメージのようなもので、そういう意味ではヤマトタケルに近いものがある。御穂神社に伝わる話もその中の一つだ。
すんなり国を譲ったオオクニヌシに対して、アマテラスは素直な良いヤツだと褒め、高皇産霊神(タカミムスビ)の娘の中から一番の美人である三穂津姫を嫁として与えた。アマテラスの息子・天忍穂耳命(アメノオシホミミ)と、タカミムスビの娘の間にできた子供がニニギなので、このへんはみんな親戚関係だ。
喜んだオオクニヌシは、三穂津姫と手に手を取って、羽車に乗って新婚旅行に出かけ、風光明媚な三保に降り立ち、ここで国を守ると決めたという美談仕上げとなっている。
別の話として、内心では国譲りに納得していなかったオオクニヌシに対して、タカミムスビが、おまえが本心から国を譲って反抗する気がないなら、うちの娘をもらえるだろう。三穂津姫と結婚して、永久に国を守るがいいと、無理矢理押しつけたというバージョンもある。
アマテラスとオオクニヌシの国譲りの話は、アメリカ建国を思い起こさせる。新大陸発見って、もうそこには先住民がいたではないか。オオクニヌシも、無抵抗に譲ったわけではなかったはずだ。アマテラスの天孫系は、祟りを恐れたからこそ、当時の日本で一番巨大な神社となる出雲大社を建てて、オオクニヌシを祀ったのだともいわれている。

呉服之神社や胡夫大夫神社、磯前神社などの境内社があり、その中で子安神社の柄杓(ひしゃく)が印象に残った。
安産祈願に、穴の空いた柄杓を奉納するのがならわしらしい。どうして穴が空いているのかと思ったら、水がつかえないような楽なお産ができますようにという願掛けだそうだ。
祭神として、オオクニヌシの両親である、スサノオと稲田姫命が祀られている。

こちらが表の入り口である南の鳥居だ。
ここから羽衣の松まで、長い参道がずっと続いている。

両側に松が並ぶ参道は、神の道と呼ばれている。
少し前に、何億円だかをかけて木道を造った。
松は大変立派なもので、龍のようにうねうねに曲がっているものもある。
樹齢は200年とか300年とかのものが多いそうだ。

三保の松原は、海岸沿い約7kmに渡って、5万4千本の松が立ち並んでいる。
富士山が見えるということもあって、古くからよく知られた景勝地だったようだ。万葉の歌人たちも、この地のことを詠んでいる。
入り口は昭和の観光地風情だった。古くからの観光地は、どこも似たような雰囲気を持っている。ここは控えめな方といえるだろう。

ここまで来れば、海はもうすぐだ。私はどちらかというと、松を見にいったのではなく、富士山を見にいったのだ。気比の松原も行っているけど、松原が好きとかそういうことではない。

あ、海が見えた。駿河湾の青い海だ。

海岸にはそれなりの人がいた。わりと流行っているらしい。

さあ、いよいよ、お待ちかねの富士山が目の前に、どーんと、って、あれ? 富士山はどこですか? 白っぽいのがそうかと思ったけど、あれは雲だ。第一、真夏に富士山が白いはずがない。夏の富士は青黒い色をしている。
左右を見渡し、目をこらしてみるも、まったく富士山は見えない。富士山、消えちゃった?
このときの私は、目をぐっと細めて、苦笑いのような半笑いの表情をしていたと思う。人が見たら、堺雅人のモノマネでもしてるのかと思ったかもしれない。
しかし、どれだけ頑張っても、富士山の輪郭さえ見えなかった。望遠レンズでも見えない。空は晴れているのに、ここまできれいに消えているとは思わなかった。
夏場は地元の人でもなかなか見えないというから、むしろ見えた方がラッキーと思った方がいいようだ。前に河口湖でも目の前の富士山を見ることができなかった。日本平では絵に描いたような富士山を見たけど、1勝2敗となると、富士山運はあまり良い方ではなさそうだ。今回は残念だった。それもまた富士山ということだろう。
冬場なら晴れていればここからくっきり見られるはずだけど、冬枯れの景色は少し寂しい。春先あたりが三保の松原のベストシーズンということになりそうだ。

これが羽衣伝説の松だ。
近くの村に住んでいた漁師の伯梁は、夜、浜に出てみると、松の木に見たこともないような美しい衣がかかっているのを発見した。あたりを見渡しても誰もいない。誰かの忘れ物だろうかと思いつつ、手に取ってみる。そのあまりの美しさに思わず持って帰ろうとしたとき、どこからともなく天女が現れた。
それは私のものです、返してくださいな。
いや、これはオレが拾ったお宝だから返すわけにはいかない。返してほしければ一割よこせ。
その言葉を聞いて、嘆き悲しみ、途方に暮れる天女。その衣がないと天に帰れないのですのと、泣いて訴えた。
よし、分かった。それじゃあ、これを着て天の舞を踊って見せてくれたら返してもいいと、伯梁。
ありがとうございます、それではごらんにいれましょうと、羽衣を身にまとい、月世界の舞を見せる天女。
その舞に見入っていると、天女はみるみる空高く舞い上がり、空の彼方に消え去ったのであった。
十五夜の美しい宵であったという。
あとには羽衣の一部が残り、それが現在まで御穂神社に伝わっている。
天女は宇宙人で、羽衣は宇宙服、UFOに乗って月に帰ったというエピソードだとすれば、かぐや姫にも通じる話だ。
羽衣の松は、樹齢650年の老松で、つっかえ棒に支えられて、痛々しいような姿で立っている。それでも、この老木の姿には心動かされるものがある。

海の方から羽衣の松を見る。
砂浜は白砂というより黒砂で、波打ち際は小石が多い。
年々浸食が進み、解決策が見いだせないまま、どうしたものかと手をこまねいている状況のようだ。
松も病気が進行しているそうで、美しい三保の松原も、永遠のものではない。
このあと、半島の先を目指してずっと歩いていったのだけど、三保半島は思いの外、大きく、途中で断念することになる。その話は、また次回ということにしたい。
つづく。