
PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4
川越町の高松海岸へ行くとき、JR富田駅から歩いていったと、前に書いた。それは単なる移動ではなく、寄りたいところがあったからだった。
行く前はまだ町の成り立ちを知らず、地図を見て、聖武天皇社と飛鳥神社というのに目をつけた。それと、海から少し入った運河の脇に住吉町というのがあって、何か古い湊町の予感がしたので、そこも行ってみようと思っていた。そして、この歩きは予想以上の収穫をもたらすことになる。
JR富田駅は、用事もなく降りる駅ではないと思う。位置的には悪くない。四日市と桑名のちょうど中間あたりで、名古屋へも普通列車ながら40分ほどで行くことができる。充分名古屋への通勤圏内だ。
人口も増えているようで、富田駅の乗客数も、2003年の670人から2008年には770人に増えている。
駅前には大きなイオン四日市北ショッピングセンターがある。東洋紡績富田工場跡地に、2001年に建てられた。
地元商店街の反対運動を抑え込んだのは、岡田一族だった。この地区出身の岡田卓也は、三重県ではよく知られた人物だ。四日市の老舗呉服店「岡田屋」の7代目で、ジャスコを設立して、現在のイオングループの基礎を作った。その次男が、現在外務大臣をしている岡田克也だ。富田地区は選挙の地盤の一つでもある。イオンは長男の岡田元也が継いでいる。
そんなわけだから、ここにイオンがあるのは当然といえば当然のことだ。
まず最初に向かったのは、イオンの北西にある聖武天皇社だった。

駅から少し歩いた踏切そばに、格子の古い家があった。やはり予想は間違いじゃないかもしれないと、期待がふくらんだ。

山車曳きを見て、驚く。祭りが行われていることをまったく知らなかったから、思いがけない光景に喜んだ。
帰ってきたから知ったのだけど、このときちょうど向かっている聖武天皇社の松原石取祭というものだった。
7月の16日から18日の3日間、行われたものだ。ネタとしてすっかり古くなってしまった。
18日には5台の山車が町内を練り歩いたそうだ。
江戸時代は木と木の間に太鼓を下げて、枝に鉦(かね)を吊す祭りだったものが、大正から昭和にかけて山車を曳く祭りに変わり、その後山車も増えて、現在に至っている。平成5年の皇太子成婚をきっかけに、それまでの土日開催から金、土、日の3日間になったらしい。

聖武天皇社は、少し奥まったところにあって、やや分かりづらい。松原郵便局と四日市北署の間の細い道を入っていったところだ。

狭い境内に、たくさんの提灯がつり下げられていた。提灯が混雑している。

740年、聖武天皇は突然、「われ関東に往かむ」と宣言した。
周囲の者たちは、初め、本気とは取らなかっただろう。天皇が職務を放り出して突然、旅に出ると言い出したのだ。にわかには信じられない。しかも、奈良時代の関東といえば、都から遠く離れた辺境の地だ。何事かとみんなは驚いたに違いない。
しかし、天皇は本当に旅立ってしまった。もちろん、ふらりと一人旅というわけにはいかないから、お付きの者たちが従ってお世話をしたはずだ。
10月26日に大和を出立して、伊勢の朝明郡を通りかかったのは、11月23日だった。
奈良時代、聖武天皇治世のとき、世の中は騒然として落ち着かなかった。聖武天皇には幼少期から暗い影がつきまとっていた。
文武天皇の第一皇子として生まれたものの、7歳のとき父はこの世を去り、母親は精神を病んでいて会うことさえできなかった。母と初めて会ったのは37歳のときだった。
こういう経緯もあって、天皇の即位もすんなりいかず、天皇は父・文武天皇のお母さんである元明天皇が継ぎ、さらに文武天皇の姉である元正天皇がつないで、ようやく24歳のときに首皇子(おびとのみこ)が天皇位を継いで、聖武天皇となった。
この頃、藤原氏が天皇家に匹敵するほどの力を持つようになり、何かとモメ事が起きていた。
一方で、若い天皇に成り代わって実権を握っていたのが長屋王(ながやのおおきみ)だった。長屋王は、天皇に近い血筋で、もしかしたら天皇にもなれていたかもしれない人物だ。
この長屋王と藤原氏がぶつかった。聖武天皇の后である光明子は、藤原不比等の娘で、皇族でないことから、長屋王は光明子が皇后になることを反対した。かつて皇族以外の后が皇后になったことはない。皇后になると、夫である天皇が亡くなったとき、天皇を継ぐ可能性があるからだ。
娘を天皇家に嫁がせた次は、自分の一族から天皇を出すことを目標にしたのは藤原氏としては当然のことだったろう。長屋王の存在は邪魔だった。
729年、長屋王の変が起きる。濡れ衣を着せられた長屋王は、兵隊に屋敷を囲まれて自害して果てた。おそらくは、藤原氏の陰謀だったのだろう。光明子の兄弟である藤原四兄弟が裏で糸を引いたといわれている。
こうして、光明子は光明皇后になった。のちに聖武天皇と光明皇后の娘が孝謙天皇として即位することになる。
皇室でのゴタゴタだけでなく、国内では天然痘などの疫病が流行り、国民はバタバタ死んでいった。天災が続き、田畑も荒れ、略奪や争いも各地で頻発した。
そんな中(737年)、藤原四兄弟が相次いで天然痘にやられて命を落とすことになった。人々は長屋王のたたりだと噂し合ったという。
この状況をなんとかしたいと願った聖武天皇は、仏教に走った。仏教に深く帰依し、僧侶たちに祈祷をさせ、効き目がないとなると罰を与えたりした。
そして、極めつけとして思いついたのが、東大寺大仏建立だった。大きな災厄を打ち負かすには、巨大な大仏を造るしかないと思ったのだろう。
一説によると、仏教に熱心だったのは光明皇后の方で、後ろから天皇の背中を押していたのは光明皇后だったという話もある。
1940年9月3日。九州の太宰府で、藤原広嗣が反乱を起こしたという知らせが都に届いた。
2年前に太宰府への赴任を命じられた広嗣は、それを左遷と感じていて腹を立てていた。この頃、都で中心となって政治を行っていたのは、吉備真備(きびのまきび)だった。吉備真備の政治は間違っていると訴えたものの、聞き入れられないと、広嗣はついに挙兵した。
それに対して聖武天皇は、各地から兵を集めさせ、藤原広嗣の反乱を収めるべく、九州に向かわせた。
9月22日、戦いが始まる。情勢は終始、朝廷軍優位で進んだ。
10月9日、投降するようにという呼びかけに対し、広嗣は馬に乗って現れ、自分は反乱を起こしてるんじゃない、吉備真備たちの処分を求めているだけだと言い訳をした。それじゃあ、何故挙兵して戦っているのかと問われ、返す言葉をなくして、また自陣に引き返していった。
その後、広嗣軍は敗走を始め、新羅へ逃れようとして失敗し、潜伏していたところを捕まってしまう。
これが10月23日のことだ。
この日付に注意してほしい。聖武天皇が突然、「われ関東に往かむ」といって旅立ったのが、10月26日だ。まだ反乱が鎮圧されたという知らせは都まで届いていない。にもかかわらず、聖武天皇は旅に出てしまった。周りの人たちは唖然としただろう。
11月1日、藤原広嗣は、唐津で斬られた。そのとき、聖武天皇は旅の空だ。
11月24日、伊勢の朝明郡松原村を歩いていたとき、ふいに強い風が吹いて聖武天皇がかぶっていた笠が池に落ちた。近くで洗濯をしていた娘が、それを拾って渡すと、天皇はいたく喜び、今夜はおまえの家に泊めてもらおうということになった。田舎に泊まろうの奈良時代版だ。
しかし、まさか天皇が伊勢あたりの海岸をうろついてるとは思わない。家の人たちもさぞかしびっくりしたことだろう。天皇は何か記念の品を与えたようで、家宝として代々伝わっていたそうだけど、火事で焼けてしまったんだとか。
翌日、天皇は松原村をあとにした。そして、こんな歌を残している(万葉集に収録)。
「妹に恋ひ、吾の松原見渡せば、潮干の潟に、鶴なき渡る」
都では大変なことが起きていて、九州の反乱も収まったかどうかというときなのに、ずいぶんのんきな歌を詠んでいたものだ。
鎌倉時代の1227年に、聖武天皇が泊まった記念として、聖武天皇社が創建された。
ただ、かなり歳月も流れていて、実際に天皇が泊まった場所は特定できず、一応ここの可能性が高いということで決められたという経緯があったようだ。
その後の聖武天皇はというと、結局、関東までは行かず、伊勢のあと、美濃まで行って引き返して、近江を通って山城に帰って行った。51日間の旅だった。
旅の間にいろいろ思うこともあったのだろう。仏教への傾倒はますます強まり、ここからは大仏建造、国分寺建立と、急ピッチに進め、さらには遷都を繰り返した。
749年、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位したのも、唐突な出来事だったようだ。勝手に出家して、天皇位を放り出してしまったという話もある。
752年の大仏開眼供養にはどうにか間に合った。聖武太上天皇(このときすでに天皇ではない)がこの世を去るのは、その4年後のことだ。
開眼供養のとき、大仏はまだ完成していなかった。鍍金も中途で、光背はまだなかったという。大仏殿も工事中だったのに開眼供養を急いだのは、聖武太上天皇が病気だったからともいわれている。
大仏がすべて完成したのは、771年だった。
鑑真が来日したのは、754年で、聖武太上天皇や光明皇后も会っている。仏教好きの二人にしたら、これは大変な感激だったんじゃないだろうか。
仏教一筋に生きた聖武天皇が神社で神として祀られているのも、皮肉というのではないにしても、本人としてやや複雑かもしれない。全国的にも聖武天皇関係の神社は珍しいそうだ。

稲荷の鳥居は、光と影でドラマチックになる。

神社前の松原公園には、出店も出ていた。
かつては公園でカラオケ大会があったそうだけど、最近はなくなってしまったらしい。
聖武天皇は苦笑いをしているか、歌好きだったから喜んでいるだろうか。

お祭りがあり、家族がいる平和な世界。
逃れるように旅をしていた聖武天皇が見た松原村は、海辺の寒村だった。聖武天皇の心の中は寒々しいものだったかもしれない。

富田一色町へとやってきた。
ここは埋め立て地で、多くの人がよそから移り住んでできた町だそうだ。
作られた町ということで、整然と区画割りがされている。
江戸時代に大きな火事があって、家をたくさん焼いたことから、飛鳥神社前に広小路通りを通して、火事対策をしたという。狭い町に、不自然に広い道が通っているのは、そういう理由だ。
このあたりは昔の家並みというより、昭和の風情を少し残している。

飛鳥神社は、思っていたよりも立派な神社だった。

神社だけど寺っぽい門があったりもする。

飛鳥神社というから、奈良の飛鳥と関係があるのかと想像したら、それは全然違っていた。飛鳥神社の名前の由来は調べがつなかった。
どこか寺っぽいところがあると思ったらやはりそうで、742年に漁師の網に千住観音像が引っかかって以来、村人はそれを拝んでいて、観浄寺が創建された。
やがて、それはきっと諏訪大明神が姿を変えたものに違いないと誰かが言い出し、それじゃあというので824年に建御名方命(タケミナカタ)を勧請して、観浄寺の鎮守として祀った。これが飛鳥神社の前身とされている。
時が流れて、神社としての色合いを強め、祭神も事代主命や大山祇命、厳島姫命が加わった。
コトシロヌシは、オオクニヌシの息子で、タケミナカタの兄だ。建御雷神(タケミカヅチ)がオオクニヌシに葦原中国の国譲りを迫ると、息子のコトシロヌシが了解したら譲ると約束した。コトシロヌシはあっさり了承するも、弟のタケミナカタはうんとは言わなかった。そこでタケミカヅチと戦うことになり、あっけなく負けて、国譲りをすることになった。
1907年に厳島神社を合祀している。
ここに祀られている神は、戦の神の意味合いが強い。水にも関係しているから、漁の成功を願うなら適した神かもしれない。

大きな木々が森を作り、神社を異空間にしている。
間口は狭く、奥行きのある境内だ。

雰囲気のあるいい拝殿だ。1860年に建立されたものだそうだ。

狛犬もいまどきのものではなく、歴史を感じさせる古い形のものだ。
明日、あさっての8月14日(土)、15日(日)は、飛鳥神社前で富田一色けんか祭りが行われる。
先祖を供養するための祭事で、町内が3組に分かれて、直径1メートル、重さ100キロの鉦(かね)と太鼓を担いで、競い合って境内に練り込むという祭りだそうだ。
けんか祭りの名前の通り、なかなか荒々しいもののようだ。
次回、住吉編につづく。