月別:2010年08月

記事一覧
  • 大工事中の八幡神社と答志の浜辺 <答志島・第6回>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 答志島の守護神は八幡神社だ。それは答志地区の南東の離れ小島にある。八幡鼻と呼ばれる突端のすぐ目の前にあり、島とは30メートルほどの八幡橋によってつながっている。ずっと昔は、橋もかかってなくて、舟で行き来をしていたのだろう。 マルハチマークは、この神社から来ている。だいぶ後回しになってしまったけど、答志島を訪れたなら、ここだけは挨拶をしておかなければいけないといった神...

    2010/08/31

    観光地(Tourist spot)

  • 暑い夏にみんなで踊るどまつり ~初めましてとまた来年

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / DA 16-45mm f4 日曜日、どまつりに行ってきた。 といっても、全国的な知名度はまだまだ低いだろうし、名古屋市民にも浸透しているとは言えないから、どまつりといっても何のことか分からないという人が多いかもしれない。 正式名称を「にっぽんど真ん中祭り」といい、通称「どまつり」と呼ばれている。 1999年に第一回が開催され、今年2010年は第12回目となった。 栄や名古屋駅など...

    2010/08/31

    イベント(Event)

  • 曲がらない変化球サンデー料理

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 今週のサンデー料理も、私にとってのノーマル料理に終始した。良く言えば自分のスタイルを確立したということだし、悪く言えばマンネリに陥っているということになる。 そんな中でも、少しは変化をつけて、これまで作ったものとまったく同じものは作らないように心がけている。曲がらないスライダーのような変化球を、本人はカットボールと言い張っているようなものかもしれないけど。 今回、...

    2010/08/30

    料理(Cooking)

  • 提灯の大きさより人の多さが印象に残る一色大提灯まつり

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / PENTAX-M 50mm f1.4 8月の26日、27日に、一色の大提灯まつり(おおぢょうちんまつり)が行われた。土日ではないのは、昔から毎年この日にやることが決まっているからだそうだ。 この祭りの名物は、名前の通り巨大な提灯だ。秋田県の竿灯まつり、福島県の提灯祭りととともに日本三大提灯祭の一つとされているとか。 特に提灯が好きというわけではないのだけど、物珍しさに惹かれたのもあって...

    2010/08/29

    風物詩/行事(Event)

  • 答志地区で路地歩きを堪能する <答志島・第5回>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 答志島シリーズも後半から終盤へと入った。他の旅ネタもたくさんあるから先を急ぎたい気持ちもありつつ、なるべく答志島を優先していきたい。旬の祭りネタもあるのだけれど。 5回目となった今回は、答志地区の路地風景を中心にお届けします。 離島といえば路地がつきものではあるけど、味わい深さは島によっても、地域によっても違ってくる。答志島では、答志地区が一番心惹かれる路地だった...

    2010/08/28

    観光地(Tourist spot)

  • 名古屋の夜写真だけど中途半端な簡単更新

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 今日はくたびれて余力が残っていないので、つなぎネタで簡単更新としたい。 名古屋城の宵祭りへ行った帰り、栄の方を回って帰って、そのとき少しだけ写真を撮った。時間が遅かったので、ライトアップが終わっていたりして、ちょっとだけしか撮れなかったのが残念だった。 名古屋市市政資料館は、一枚撮って、場所を移動しようとしたら、ブレーカーが落ちたように唐突に真っ黒になって驚いた。...

    2010/08/27

    夜景(Night view)

  • 答志島の歴史に触れるためには山歩きが必要 <答志島・第4回>

     答志島(地図)4回目の今日は、和具と答志地区の間にある美多羅志神社(みたらしじんじゃ/地図)からの再開となる。 位置的には答志寄りではあるけど、答志には八幡神社があり、和具には他に神社がない。ということは、和具の神社ということになるのだろうか。 創建は不明。なかなか古い神社のようだ。 隣には潮音寺がある。そちらはあとから行くことにして、まずは美多羅志神社に挨拶に寄ることにした。 島の地理的な事情か...

    2010/08/25

    観光地(Tourist spot)

  • こうた夏まつりへ手筒花火を撮りに行く

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / DA 16-45mm f4 / 50mm f1.4 手筒花火を一度撮ってみたいと思っていたとき、ちょうどタイミングよく幸田町で行われることを知って、行ってみることにした。先週の土曜日、8月21日のことだ。 ところで、幸田町ってどこでしょうか? 幸田町という町名を目にしたとき、それがどこにあるのか、まるでピンと来なかった。愛知県のどのあたりに位置するのかさえ知らなかった。名古屋市民にとっ...

    2010/08/25

    風物詩/行事(Event)

  • 1/1ガンダムは夢の巨大プラモデル

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8 東静岡駅前に立つ1/1等身大ガンダムを見てきた。 3月までここにいるというから、そのうち行けばいいやと油断していたら、どうやらもろもろのイベントが8月いっぱいで一段落してしまうらしいので、それなら8月中に行っておいた方がいいだろうということになった。 2009年の去年、7月から8月にかけてお台場で披露されたのが、この1/1ガンダムだった。かなり話題になり、ひ...

    2010/08/24

    イベント(Event)

  • 日本の夕飯サンデー料理

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 今日は普通のサンデー料理だった。普通の料理ではないかもしれないけど、ノンテーマなときはノーマルなサンデーということになる。今日はあれこれ考えず、残り物の食材を見ながら思いついたものを作った。まかない料理みたいなものだ。 左手前は、エビと白はんぺんを焼いたものだ。こういうのをよく作るのだけど、なんと呼べばいいのだろう。 エビは下処理をして刻んで、叩く。 刻みタマネギ...

    2010/08/23

    料理(Cooking)

  • スカイラインを歩いて分かった東西分断の訳 <答志島・第3回>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 答志島の第三回は、桃取地区から和具地区へ向かう道すがらの写真です。 桃取地区と和具、答志地区を結ぶのは、島の中央を横断する答志島スカイラインで、この道が西と東をつなぐ唯一の道となっている。歩いていく場合も、この道をテクテク行くしかない。海岸沿いに道はない。 この道は名前からして嫌な予感がしたのだ。スカイラインといえば、たいていは山道と相場が決まっている。そしてここ...

    2010/08/22

    観光地(Tourist spot)

  • 桃取地区の路地を迷い歩く <答志島・第2回>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 答志島の二回目は、桃取地区の路地風景をお届けします。 前回も書いたように、答志島には桃取、和具、答志の3つの地区がある。 少し古い資料によると、770世帯のうち、一番多いのが答志地区で356世帯、和具が153世帯で、桃取は261世帯となっている。男女比は、女性の方が少し多い。 世代別のくわしい資料は見ていないからはっきりしたことは分からないけど、子供もけっこういて、過疎の島と...

    2010/08/20

    観光地(Tourist spot)

  • 離島が私を呼んでいる(?) <答志島・第1回>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8 7月の終わりのある日、答志島(とうしじま)へ行ってきた。三重県鳥羽市の沖合すぐに浮かぶ離島だ。 離島という響きに異国情緒にも似た憧れのようなものを感じて、これまでいくつかの島へ渡った。どの島にも島らしさというのがあって、それはやはり本土からするとどこか非日常的を感じるさせるものである。陸続きでないことの独自性と、海に守られていることによる自己完...

    2010/08/20

    観光地(Tourist spot)

  • 廃校になった学校の教室が撮りたくて ~多米民俗資料収蔵室

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / PENTAX-M 50mm f1.4 ずっと前からそうだったわけではない。気づいたら廃墟めいたものに惹かれる自分を発見した。いつ何がきかっけでそうなったのかという自覚はない。自分では気づいていなかっただけで、昔からそういう部分はあったのかもしれない。 私はそれを、未来を先取りしたノスタルジーだと自己分析している。今を生きながら昔を懐かしんでいるというよりも、未来から見た現在の姿を...

    2010/08/19

    施設/公園(Park)

  • 夜の名古屋城だから出会えた光景と撮れた写真 <後編>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / DA 16-45mm f4 / 50mm f1.4 お父さんに肩車をしてもらって、おもてなし武将隊のステージを見る女の子。この日の記憶は、彼女たちが大人になっても残っているだろうか。 うちは両親がお祭り好きじゃなかったから、家族でこういう祭りに出かけたという記憶がほとんどない。いつも友達と一緒に行っていた。お祭り会場で好きな女の子が浴衣姿でいるところを見て嬉しかった思い出が残ってい...

    2010/08/18

    風物詩/行事(Event)

  • 名古屋城宵まつりで鉄砲隊の演舞を撮る <前編>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / DA 16-45mm f4 名古屋城宵まつりは昨日15日(日曜日)が最終日で、行こうかどうしようか迷っていた。行きたい気持ちが6割、行かなくもいいかなという思いが4割といった感じで、なかなか決めかねていた。最終的にやっぱり行こうとなったのは、火縄銃の実演があったからだった。 基本的に銃刀関係は苦手で、なるべく近づきたくもないし見たくないという気持ちなのだけど、写真を撮るとな...

    2010/08/17

    風物詩/行事(Event)

  • ポテトサラダに対する認識が変わったサンデー

     今週のサンデー料理で一番手間と時間がかかったのは、ポテトサラダだった。鯛料理の付け合わせとして脇に乗っているやつだ。 今まで、ポテトサラダなんて、まったく重要視していなかったし、嫌いではないけど特別好きでもなかった。それが作ってみたら思った以上に大変で、こんなにも手間取らせるやつなのかと、再認識させられた。脇役のくせに。 これからは、ポテトサラダを見る目が変わる。そうそう軽々しく扱えない。コンビ...

    2010/08/16

    料理(Cooking)

  • 住吉町の発見は思いがけず嬉しいオマケとなった

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 四日市の住吉町は、三方を運河に囲まれた、ちょっと変わった地形だ。堀で囲った城のようになっている。ここは昭和になって埋め立てられた土地で、その後、東西を更に大きく埋め立てたことで、運河に取り囲まれるような格好になった。 運河を挟んで西側が富田一色町、あとの三方は天ヶ須賀町が広がり、住吉町はごく狭い。かつてこの土地は、芸者の置屋や遊郭が集まる歓楽街だったという。 富田...

    2010/08/15

    観光地(Tourist spot)

  • 聖武天皇もふらりと訪れた四日市の富田

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 川越町の高松海岸へ行くとき、JR富田駅から歩いていったと、前に書いた。それは単なる移動ではなく、寄りたいところがあったからだった。 行く前はまだ町の成り立ちを知らず、地図を見て、聖武天皇社と飛鳥神社というのに目をつけた。それと、海から少し入った運河の脇に住吉町というのがあって、何か古い湊町の予感がしたので、そこも行ってみようと思っていた。そして、この歩きは予想以上の...

    2010/08/14

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 御油神社に挨拶に行ったけどイザナミは留守だった <後編>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / 55-300mm f4-5.8 御油の夏まつりは、御油神社の祭事ということで、やはり神社にも参っておかないといけないだろうと、御油神社に向かった。 けれど、祭神であるイザナミを御輿に乗せて町内を練り歩くのが御油の夏まつりなわけで、ということは、神社に行っても神様はお留守なのではないかと、あとになって気がついた。挨拶に行ったつもりが、留守宅の玄関先で名を名乗って独り言を言ってるお...

    2010/08/13

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 老いも若きもみんなで守り伝える御油夏まつり <前編>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 安城の七夕と岡崎の花火を見に行った日、一番最初に行ったのが御油(ごゆ)の夏まつりだった。 この旅の計画を立てているときにこの祭りの存在を知って、方角的にはついでと言えなくもないし、行けるものなら見てみたいと思った。ただ、御油は東海道の宿場町歩きで6月に行ったばかりだし、これをねじ込むとスケジュールがタイトになるということで、直前までどうしようか迷っていた。当日...

    2010/08/12

    風物詩/行事(Event)

  • 安城七夕まつりへ行く

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 岡崎の花火を見に行く前に、安城(あんじょう)の七夕まつりを見に行った。一宮の七夕まつりを見た勢いに乗って、安城も見ておこうという気持ちになったのだった。 駅前祭り会場のメインストリート。 土曜日ということもあって、なかなかの人出だった。3日間で100万人以上の人が訪れるそうだ。 祭りが始まったのは昭和29年で、今年で57回目という。 何をしにいったというわけではなく、漠然...

    2010/08/11

    風物詩/行事(Event)

  • 着地点はともかくご当地グルメマンデー

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 昨日はサンデー料理ができず、今日にずれ込んで、マンデー料理となった。ここのところ、ややパターンがずれつつある中で、なんとか週に一度は趣味の料理を作っていきたいという気持ちは失っていない。 今日のテーマは、ご当地グルメだった。しかし、跡形もなく崩れ去った。久々に大きな失敗をやらかして、途中でしばらく途方に暮れた。最終的にはどうにかまとめたものの、当初の予定とは大きく...

    2010/08/10

    食べ物(Food)

  • 岡崎花火大会の消極的な楽しみ方 <後編>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / PENTAX-M 50mm f1.4 岡崎の花火会場に到着したのは、始まって少し経った7時15分頃だった。 すでに見物客はスタンバイを完了していたものの、やはりここは人が少ない。穴場情報は本当だった。 岡崎の花火は、乙川河畔と矢作川と、2ヶ所で同時に打ち上がる。メインの会場は乙川の方で、あちらはものすごく大混雑をするという話を聞いて尻込みした。以前、戸田橋花火でえらい目にあったことが...

    2010/08/09

    花火(Fireworks)

  • もっとうまく撮れると思っていた岡崎花火

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / PENTAX-M 50mm f1.4 岡崎の花火を撮りに行ってきた。 その前に、御油の祭りへ行き、豊橋をあちこち巡り、安城の七夕まつりにも行って、最後に岡崎の花火で締めくくった。帰宅したときには、体力と気力は残りわずかとなっていた。花火の写真を半分くらい現像したところで力尽きそうになったので、撮りたて花火写真を並べるだけ並べて、今日はおしまいとしたい。 これまで打ち上げ花火は4、5...

    2010/08/08

    花火(Fireworks)

  • 瀬戸電沿線風景---東エリア編

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 大森に天王祭を見に行ったとき、途中で山車曳きから離れて、尾張旭まで自転車を走らせながら瀬戸電沿線の風景を撮った。 以前、金城学院前から栄までの沿線を写真に撮った。金城学院前から尾張瀬戸にかけては、馴染みがある場所とそうじゃないところがまだらにあって、それらを一度線としてつないでおきたいと思っていた。 というわけで、今回は瀬戸電風景・東エリア編ということでお届...

    2010/08/06

    飛行機(Airplane)

  • 私の目に映った夏の高松海岸の光景

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / 55-300mm f4-5.8 三重県の高松海岸と聞いてすぐに分かる人は少ないと思う。その海岸は、四日市の隣、三重郡川越町にある。川越町を知ってる人もあまり多くないだろうけど。 どうしてそんなマイナーな場所を訪れたかといえば、ここには伊勢湾では貴重になった天然の干潟が残っていることを知ったからだった。四日市あたりの伊勢湾は、埋め立てが繰り返されて、高松海岸が北勢に残された唯一の...

    2010/08/06

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • 松坂城の二つの神社を見たら見学終了

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 松坂城跡の裏手あたりに、本居宣長を祀った本居宣長ノ宮と、松阪神社と、二つの神社がある。 元からあったのは松阪神社の方で、当時は城内の守り神だった。本居宣長ノ宮は大正になってこの地に移されてきた。 順番からいくと松阪神社から紹介した方が分かりやすいのだけど、城の方から来ると、本居宣長ノ宮から参ることになる。 松坂城が築かれた小高い丘は、かつて意非の森(おいのもり)と...

    2010/08/05

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 超優等生の蒲生氏郷が築いた松坂城

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 三重県松阪市は、1588年に蒲生氏郷(がもううじさと)によって城下町として整備されたのを始まりとしている。江戸時代には伊勢神宮へ向かう旅人たちの宿場町として発展し、松阪商人と呼ばれる多くの豪商を生み出した。その後、昭和にかけて商業の町として栄えることになる。 その松阪を紹介する上で、やはり松坂城跡は外せない。 個人的には子供の頃連れられて訪れてから一度も行っていないか...

    2010/08/04

    城(Castle)

  • 尾張の一宮真清田神社を巡る謎を考える

     一宮の七夕まつりへ行ったことだし、今回は真清田神社(ますみだじんじゃ)について少し書いてみることにしたい。 真清田神社は尾張国の一宮でありながら、愛知県民の認知度はあまり高くないような気がする。愛知を代表する神社といえば、やはり熱田神宮ということになるだろう。それに比べると真清田神社の存在感はそれほどでもない。ただ、熱田神宮は尾張国の三宮でしかない(二宮は犬山にある大縣神社(おおあがたじんじゃ)...

    2010/08/03

    神社仏閣(Shrines and temples)

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大工事中の八幡神社と答志の浜辺 <答志島・第6回>

観光地(Tourist spot)
答志島6-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 答志島の守護神は八幡神社だ。それは答志地区の南東の離れ小島にある。八幡鼻と呼ばれる突端のすぐ目の前にあり、島とは30メートルほどの八幡橋によってつながっている。ずっと昔は、橋もかかってなくて、舟で行き来をしていたのだろう。
 マルハチマークは、この神社から来ている。だいぶ後回しになってしまったけど、答志島を訪れたなら、ここだけは挨拶をしておかなければいけないといった神社だ。

答志島6-2

 朱塗りの橋のたもとに咲く花。
 島の上空にはたくさんのトンビが輪を描くように飛んでいる。

答志島6-3

 八幡神社の入り口。
 鳥居の前に柿本人麻呂の歌碑が建っているようだけど、見逃した。
 持統天皇が伊勢を訪れたとき、奈良の都にいる柿本人麻呂は、持統天皇のことを思いながら答志島のことを詠んでいる。
「釧著く 手節の崎に今日もかも 大宮人の玉藻刈るらむ」(万葉集 第一巻)
 釧(くしろ)は、古代の腕飾りのこと。手節(たふし)は答志を指し、大宮人は宮中に仕える人たち。玉藻刈るは海草を刈り取る様子から海辺の地名にかかる枕詞として使われる。
 直訳すれば、美しい答志の浜で宮中の人たちが海草を刈っていることだろう、といったところか。イメージとしては、きれいな浜辺で高貴な人たちが優雅に戯れているといったものだろう。
 柿本人麻呂が答志島を訪れたという記録はない。想像しながら詠んだに違いない。それだけ古代から答志島というのは美しい島として遠くまで知られていたということになる。

答志島6-4

 鳥居をくぐって先に進むと石段がある。
 なんだこりゃ? 石段全体に土嚢が積まれている。崩れた石段の補修工事でもしてるのかと思ったけど、どうもそうではなさそうだ。
 不審に思いながらも石段を上がっていった。しかし、歩きづらくてしょうがない。

答志島6-5

 うわっ、なんだ、なんだ。
 境内だったと思われる場所が工事現場になっている。
 真新しい小屋があるものの、神社としてあるべき社殿が何もない。場所を間違えたかと思った。
 どうやら全面的に神社を建て直してる最中だったようだ。それにしても、建物が跡形もない。
 これではお参りどこではなく、早々にこの場をあとにするしかなかった。
 階段を下りながら、重機をどうやってあそこまで上げたんだろうと考えて、はたと思いついた。なるほど、石段に土嚢を積んで重機を登らせたのか。よくひっくり返らずに登れたものだ。

 八幡神社がいつ創建されたのかは分からない。調べがつかなかった。
 この島は戦国時代、信長の水軍大将だった九鬼嘉隆の拠点地だったから、戦の神である八幡神社というのはふさわしい。九鬼氏が勧請して建てたものなのか、それ以前からあったものなのか。
 答志島の歴史は古く、数々の古墳が見つかっているだけでなく、縄文時代から人が住んでいた痕跡も発見されている。
 古代には志摩国の国衙があったという話もある。地理的に見ても、伊勢神宮との関わりも深い。
 答志島の歴史に関しては、もっと調査、研究される余地がある。

答志島6-6

 八幡神社のある島の南は、堤防を兼ねた道路によって答志島本島とつながっている。囲まれた湾は穏やかで、船がたくさんつながれている。

答志島6-7

 港でのんびり仕事をする島の漁師さんたち。
 魚を捕ることを漁をするといい、農民が作業することを農作業という。漁師が陸でする作業をどう呼べばいいんだろう。漁作業という言葉は聞かない。

答志島6-8

 地元の人が犬を連れて港に散歩にやってきた。犬はためらうことなく海に飛び込み、バシャバシャと走り回っていた。

答志島6-9

 まだ使われていそうな井戸と、向こうに並んでいるネットは海産物を干すためのものだろう。
 ちりめんじゃこも答志島の名産の一つだから、そのあたりだろうか。ひじき干しにも使われるのだろう。

答志島6-10

 答志小学校の横に、大間の浜という海水浴場がある。そこへ行くには小学校の横を通っていくしかない。
 海水浴シーズンの間は夏休みだから、特に問題はないか。

答志島6-11

 砂浜はなかなかきれいで、海も空も青い。ただ、防波堤で波の勢いはない。安全重視は分かるけど、波が浜辺でちゃぷちゃぷしてるだけの海は、雰囲が出ない。

答志島6-12

 NDフィルターとレリーズケーブルで長時間露光。
 このあと訪れる二見浦を撮るための練習をする。
 ここでは波が穏やかすぎて面白い絵にはならない。

答志島6-13

 答志地区の散策はこれで終わって、このあとは最後に残った和具地区へ移動することになる。
 断続的に続いた答志島シリーズも、残り2回となった。
 つづく。

暑い夏にみんなで踊るどまつり ~初めましてとまた来年

イベント(Event)
どまつり-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / DA 16-45mm f4



 日曜日、どまつりに行ってきた。
 といっても、全国的な知名度はまだまだ低いだろうし、名古屋市民にも浸透しているとは言えないから、どまつりといっても何のことか分からないという人が多いかもしれない。
 正式名称を「にっぽんど真ん中祭り」といい、通称「どまつり」と呼ばれている。
 1999年に第一回が開催され、今年2010年は第12回目となった。
 栄や名古屋駅など、名古屋の中心を封鎖して行われる大がかりな踊りの祭典だ。
 一度見に行こうと思いつつ、なかなか腰が重くて行けずにいた。今年は祭りづいていて、この流れに乗ってようやく出向くことができた。想像していた以上に大規模なもので、観客もものすごく多くて驚いた。
 最初の年は35万人だったものが、2002年には100万人を突破して、今年はとうとう3日間あわせて210万人となった。名古屋の夏の風物詩として、かなり浸透してきたようだ。名古屋まつりに匹敵するくらいのイベントになりつつある。
 北海道で行われているYOSAKOIソーラン祭りのパクリという批判もあるけど、もともとはYOSAKOIソーラン祭りに参加した名古屋の学生チーム「鯱」が、名古屋でも同じようなイベントをしたいと活動して実現したものだから、同じような祭りなのは当然といえば当然のことだ。
 毎年踊りのレベルも上がっているようで、参加チームや人数も増え続けている。
 メイン会場の久屋大通公園をはじめ、大津通や名駅、円頓寺などの他、鳴海や安城など計20会場で同時に祭りイベントが開催された。
 ダンスチームはパレードをしたり、会場で踊ったりしながら、コンテスト形式になっていて、最終日に決勝ステージで踊って順位を決める。
 名古屋ローカルの各テレビ局で、チームの紹介をしたり、生中継をしたりする。私もそれらを見て、少しだけ予習していった。去年初優勝したD.D.M&暁を見たいと思っていたのだけど、見ることができなかったのは残念だった。このイベントを少し軽く見過ぎていて、すべてにおいて読みが甘く、行動が裏目に出た。写真も思っていたように撮れず、もどかしい思いが残った。

どまつり-2

 ダンスパレードは、一宮の七夕まつりのときに少しだけ撮った。あれで難しさを知って、多少なりとも予行演習になったつもりでいたけど、やっぱり難しい。
 撮りどころのポイントがよく分からない。撮っているうちに調子も出てくるだろうと、とりあえず前半は深く考えずにパチパチ撮っていった。
 これと決めた人物にポイントを絞って撮らなければどうしょうもないことだけは分かっていた。

どまつり-3

 踊っているのは若者ばかりではない。おばさまたちも元気に踊っていた。
 しかし、一日に何度も踊らなくてならず、それが3日連続だから、最後はかなりヨレヨレになるらしい。今年は特に暑かったから大変だっただろう。

どまつり-4

 旗振り役もいる。
 第1回は参加26チームだったのが、今年は過去最多の221チームとなった。
 東海三県をはじめ、全国からチームが参加している。
 彼らのことを、拡声器で「踊り子さん」と呼んでいた。ダンサーとは少しニュアンスが違うから、そういう呼び名になるか。

どまつり-5

 これがSKE48だろうか。細っ、と思う。さすがだと、感心する。
 AKB48の名古屋版で、SaKaEの頭文字を取っている。
 もちろん、誰一人知らない。もしかしたらSKE48でない可能性もある。

どまつり-6

 予備知識が足りなくて、目の前を通ったチームを漠然と撮るしかない。知ってるチームといえば、D.D.M&暁や、笑゛、鳴海商工会 猩々くらいで、もっと知っていれば、タイムテーブルを見てどのチームが何時にどこを通るかで狙って撮れたのだけど。

どまつり-7

 これが、どまつりの基礎を築いたチーム鯱だ。
 元は学生チームだったから、10年以上経ってメンバーは総代わりしてることだろう。

どまつり-8

 自転車移動だったので、他の会場も見に行くことにした。
 名古屋駅前に着いたときは、駅前パレードはすでに終わっていて、タワーズガーデンで続いてるようだった。
 パレードが終わっていたのは失敗だった。ちゃんと調べてこなければいけなかった。
 タワーズガーデンは遠目で見ても入っていく余地がなさそうだったので、あきらめた。

どまつり-9

 円頓寺アーケードも、到着したらもぬけの殻だった。ここは人が少なくて撮りやすいだろうと思っていたのに、道に迷って着くのが遅すぎた。動いて、動いて、全部裏目に出た。
 円頓寺商店街は、すっかりいつもの寂しい状態に戻っていた。少し前まで祭りが行われていたとは思えないほど。

どまつり-10

 大津通に戻ったときには、沿道の人は更に増え、場所によっては前にも後ろにも進めないくらいになっていた。
 自転車を押して歩くのも困難になり、自転車は置いて、歩きにした。
 とりあえず空いていた場所に陣取って、もう少し写真を撮ることにした。

どまつり-11

 主だったダンスパレードは終わってしまったようで、通りはやや弛緩した空気感となった。名古屋駅や円頓寺をうろついていた時間が無駄になった。
 少し時間を持てあまして、成人式の女子みたいな集団を撮る。

どまつり-12

 プレスの面々も、一部が帰り始めた。
 テレビや雑誌、新聞社、関係カメラマンなど、かなりの人数が映像を撮っていた。機材どうこうよりも、場所取りの段階で勝負にならない。

どまつり-13

 最後は決勝ステージに進出したチームが、メイン会場でダンスバトルを繰り広げるというもので、これも見るつもりでいたら、当日券は完売で、会場に入ることができなかった。ここでも見通しの甘さが出た。見たかった。
 優勝は2年連続でD.D.M&暁だったようだ。準優勝は笑"と信州大学YOSAKOI祭りサークル和っしょいとなった。

どまつり-14

 パレード会場での最後は、名古屋開府400年を記念した目玉イベントとして、鳴子を持って一度に踊る人数世界一を目指す総踊りが行われた。
 飛び入り参加は不可の事前申請のみで9,481人というのが公式記録となった。ギネスに申請するらしい。

どまつり-15

 手に鳴子を持って踊ることが、どまつりの決まり事の一つになっている。

どまつり-16

 日没時間が近づき、太陽はビルの陰に隠れ、シャッタースピードが上がらずに厳しい条件となった。
 けど、かえって躍動感が出てよかったとも言える。

どまつり-17

 戦い済んで日が暮れて。参加チームのメンバーは、それぞれの家路についた。

 楽しさ半分、残念な気持ち半分の、どまつり初撮りとなった。
 撮っている最中はまったく手応えがなくてこりゃ駄目だと思っていたけど、帰ってきて写真を見たら、思ったより撮れていた部分もあった。
 来年は満を持して参加しようという気になっている。状況は分かった。ちゃんと下調べをして、むやみに動かないことだ。「どまつりWalker」なんていう雑誌もあるそうだし、メイン会場の前売り券も買っておかないといけない。
 早くも来年が楽しみになった。

 写真がまだあるので、追記に載せることにする。

曲がらない変化球サンデー料理

料理(Cooking)
いつものサンデー

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 今週のサンデー料理も、私にとってのノーマル料理に終始した。良く言えば自分のスタイルを確立したということだし、悪く言えばマンネリに陥っているということになる。
 そんな中でも、少しは変化をつけて、これまで作ったものとまったく同じものは作らないように心がけている。曲がらないスライダーのような変化球を、本人はカットボールと言い張っているようなものかもしれないけど。

 今回、メインで作りたかったのが、スイートチリのエビ料理だった。100円ショップで売っていたスイートチリソースというのを買ったので、それを使った料理を作ってみたかった。
 エビの下処理をして、塩、コショウ、白ワインを振って、しばらく置く。
 ショウガ、ニンニクをごま油で炒め、刻みタマネギと豆板醤を投入する。
 しばらく炒めたあと、エビを追加する。白ワイン、みりん、塩、コショウ、砂糖、中華の素、スイートチリソースを入れる。
 後半で、絹ごし豆腐、トマト、アスパラを追加する。豆腐は水切りしないで、サイコロ切りしたものを使う。
 全体にソースを絡め、弱火で少し煮込んだら完成だ。
 スイートチリソース特有の甘くてピリ辛な味がよく合った。豆板醤を使わなくても辛みは出るから、豆板醤抜きのバージョンでもいい。

 右は失敗した白身魚団子のなれの果てだ。
 魚を刻んで叩いて、細かく刻んだしめじと混ぜ合わせる。刻み長ネギ、片栗粉、塩、コショウ、唐辛子で下味をつける。
 あとは団子状にして揚げ焼きすればできあがりのはずが、つなぎが足りなかったのか、焼いている最中にすっかり形が崩れてしまった。またいつものパターンだ。ひっくり返したら、ますますぐずぐずになってしまったので、団子はあきらめて、崩しながら焼いた。
 なんと形容していいのか分からないけど、焼いたものをレタスに乗せて食べた。これが意外と美味しかった。料理としては失敗も、味は失敗じゃなかった。食べられればいいというわけではないけれど。

 奥はジャガイモとニンジンのチーズマヨネーズ和えみたいなものだ。
 ジャガイモは乱切りにして、水にさらす。
 ジャガイモとニンジンを柔らかくなるまで下茹でする。
 オリーブオイルで鶏肉を炒める。
 ジャガイモとニンジンを加え、白ワインと塩、コショウ、コンソメの素で炒める。
 ソースは、バター、とろけるチーズ、マヨネーズ、コンソメの素、マスタード、カレー粉、塩、黒コショウ、砂糖、青のりを混ぜ合わせて作る。
 美味しいのでオススメできる。

 夏まつりシーズンは、今週末の名古屋ど真ん中まつりで一段落した。9月に少し延長戦があるけど、もうほぼ祭りは終わった。気づけば8月も残りわずかとなった。
 今月は週末に遠出することが多くて、サンデー料理に力を入れられなかった。来月以降は、もう少し趣味の料理らしいものを作っていきたいと思っている。ズバリ、直球勝負のような料理も作れるようになりたい。

提灯の大きさより人の多さが印象に残る一色大提灯まつり

風物詩/行事(Event)
一色大提灯まつりへ向かう人たち

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / PENTAX-M 50mm f1.4



 8月の26日、27日に、一色の大提灯まつり(おおぢょうちんまつり)が行われた。土日ではないのは、昔から毎年この日にやることが決まっているからだそうだ。
 この祭りの名物は、名前の通り巨大な提灯だ。秋田県の竿灯まつり、福島県の提灯祭りととともに日本三大提灯祭の一つとされているとか。
 特に提灯が好きというわけではないのだけど、物珍しさに惹かれたのもあって、一度見に行ってみることにした。下調べをしてみると、なんだか知らないけど妙に人気のある祭りのようで、人も大勢訪れるらしい。そんな提灯好きはたくさんいないだろうと高をくくっていたのだけど、現地に着いて大いに驚くことになる。
 一色といっても県外の人はあまり知らないだろうか。うなぎの町として有名で、少し前に偽装表示で話題になったから覚えている人もいるかもしれない。
 地理的にいうと、西尾の南、吉良の西で、鉄道がないから名古屋から行くには不便なところだ。しかし、一色には個人的に用があった。三河湾に浮かぶ離島、佐久島へ行きたいとずっと思っていて、その船が出るのが一色からだった。こうなったら、二つまとめて行くしかないということで、やや強引に佐久島と一色大提灯まつりの二本立てとした。
 最終的に深いダメージを負うことになるのだけど、佐久島の話はいずれゆっくりするとして、今日は一色の大提灯まつりについて紹介することにしたい。



日暮れ前の諏訪神社の様子

 祭りが行われる諏訪神社に到着したのは、夕方の6時半すぎだった。この時間ですでに境内は大混雑している。なんという盛り上がり。想像を超えていた。
 諏訪神社は、戦国時代の1564年、信州の諏訪大社から勧請して建てられた。桶狭間の戦いが1560年だから、それくらいの時代だ。
 現在でこそ諏訪大社系の祭神はタケミカヅチということになっているけど、この頃は神仏習合で、諏訪大明神として祀っていたといわれている。
 どうして諏訪神社にしたかといえば、やっつけて欲しい悪者がこの地で暴れていたからだ。
 今は埋め立てによって海まで2キロほど離れた場所になっているけど、当時、諏訪神社は海の近くの州にあり、このあたりは間浜と呼ばれていた。戸数は27ほどだったというから人里離れた海辺の寒村だ。
 毎年この時期になると、その村を海魔(かいま)が襲った。田畑を荒らし、人や家畜に害を与えたという。
 海の魔物というと巨大なタコやイカなどを連想するけど、時期的に考えると台風のことだろうか。
 その海魔を鎮めるために、諏訪神社に魔鎮剣(ましずめのつるぎ)を奉じ、大きなかがり火をたいて祈ったところ、海魔はおとなしくなったそうだ。以来、毎年この時期にかがり火をたくことが習わしとなり、それが100年ほど続いたらしい。
 江戸時代に入ると、かがり火は提灯となり、時代が進むにつれて、氏子同士で提灯の大きさを競うようになっていく。
 争いはエスカレートし、ついには10メートルの大提灯が登場したことで、お上からお叱りが来た。これ以上提灯を大きくしたらきついお仕置きを与えるからそのつもりで、と。
 現在、提灯は全部で12張りとなっている。間浜、上、中、大宝、宮前、諏訪の6組がそれぞれ2張りずつ出している。
 一番大きなものは、間浜組の大提灯で、高さ10メートル、直径5.6メートル、重さは1トンある。つり下げるだけで大仕事になる。
 これは和紙で作られた提灯としては日本一の大きさで、浅草寺の雷門にかかっているあの提灯を作った京都の高橋提燈が手がけたものだ。これだけの提灯を作れる職人はごく限られているのだろう。
 それぞれの提灯には絵が描かれている。すべてに物語があり、大提灯による絵巻物となっている。



日暮れ頃の境内

 7時前の様子。まだこの頃はましだった。境内にも多少スペースがあり、親子が記念撮影を撮ったりもできたし、少し隅っこの方にいけば三脚も立てられた。
 混雑が増してきたのは提灯に明かりがともされた7時すぎで、その頃にはもう三脚を立ててのんきに撮っていられるような状況ではなくなった。



大混雑する一色大提灯まつり

 スローシャッターで人の軌跡を写し込むというのは考えていた。もう少しスペースや状況に余裕があればNDフィルターを使うこともできたのだけど、それどころではなくなった。
 満員電車のような境内に耐えられなくなり、人波にもまれながら逃げるように境内から出た。とんでもない人混みだ。まさかこんなに人気があるとは思わなかった。みんな、そんなに提灯が好きなのか。



屋台の風景

 いったん境内から出て、体勢を立て直すことにした。
 光る飾りおもちゃを売る屋台でも撮って気持ちを落ち着かせる。最近、この手のおもちゃがすごく増えた。頭につけるやつとか、子供たちがあちこちでピカピカさせている。



大提灯

 境内の外の仕切りみたいなところに乗って、安住の地を見いだした。ベストポジションとはほど遠いけど、とにかく一息つける場所に逃れたかった。
 行く前のイメージとしては、暗い境内に幻想的に浮かび上がる大提灯といったものが頭の中にあったのだけど、現場は大きく違っていた。屋台の明かりが煌々と境内を照らし、あふれかえる人混みが押すなおすなの大盛況で、とんでもなく賑やかな場所だった。
 提灯の中には1メートルの巨大ロウソクがあって、そこに火がついているのだけど、屋台の明かりが強すぎて、まったく火がともっているようには見えない。提灯は暗いままで、明るく見えるのは外の光によるものだ。雰囲気としては期待以上ではなかった。
 深夜までロウソクの明かりが入っていて、夜の10時くらいには屋台が店じまいして暗くなるから、そのあとに行くと幻想的な提灯の明かりが見られるそうだ。
 私は8時台のバスに乗らないと家に帰り着けなかったので、少し物足りない気持ちを抱えつつ、家路につくことになった。



大提灯と境内の風景

 境内の人波を見たら、ちょっと笑えた。この夏、いろいろな祭りに出向いたけど、混雑度ではここが一番だった。打ち上げ花火大会が終わった直後の花火会場の出口くらい混んでいた。恐るべし、一色の大提灯まつり。大提灯の威力を侮ってはいけなかった。



一色風景

 大提灯まつりでの写真の収穫が少なかったので、時間を戻して一色歩きの写真との合わせ技でひとネタとしたい。
 佐久島から戻ったとき、すでに西尾駅行きのバスはなかった。そのことは分かっていた。佐久島を3時台に出る船に乗らないと、駅まで歩いて行くことになる。私が佐久島をあとにしたのは5時台の船だった。
 諏訪神社までは2キロちょっとなので、それくらいなら歩いていける。佐久島で7時間近く歩いたあとだったから、もう歩きたくない気持ちもあったのだけど、交通機関はないのでわがままは言えない。歩きながら写真が撮れたので、気が紛れたというのはあった。
 上の写真は一色港の建物だ。半分、廃墟のようになっていて、心惹かれるものがあった。ここは行く前に少し写真を撮った。



一色農道風景

 この日も暑い一日だったけど、日がだいぶ短くなった。伸びる影の長さからも、秋が近づいていることを感じる。



農作業の風景

 日没近くまで農作業をするお母さん。



係留される船

 川港に係留される船。みんなお揃いみたいによく揃っていた。
 一日の仕事を終え、西日に照らされていた。



錆びたトタンの倉庫

 港の倉庫。トタンが茶色く錆びている。



トタン倉庫

 まだ使われているのか、もう使われていないのか、外観からでは判断が難しい。



タンクのシルエット




ファミリーショップ

 ファミリーショップ。
 スーパーでもコンビニでもない、ファミリーショップというカテゴリーの店がたまにある。



沈む夕陽

 赤くて大きな夕日が、町の向こうに沈んでいった。



祭りの少年たち

 祭り帰りと思われる子供たちが向こうから歩いてきた。
 すれ違うときに大きな声で、一斉にこんにちは! と挨拶されて、慌ててこちらもこんにちはと返した。



軒先の提灯

 家の軒先にも提灯がかかっていた。



LPガス

 LPガス容器置き場。

 一色大提灯祭りの印象は、とにかく混んでいたというものだった。提灯が大きかったとかそんなことよりも、人の多さばかりが記憶に残る。考えていたよりもずっとメジャーな祭りのようで、県外からも訪れる人がいるのだろう。一色近辺だけであれほどの人数は集まらない。
 いつか機会があれば深夜の提灯も撮ってみたいと思うけど、出会いはいつも一期一会だから、二度目があると思わない方がいい。
 まだ見ぬ別のお祭りに、気持ちはすでに向かっている。
 

答志地区で路地歩きを堪能する <答志島・第5回>

観光地(Tourist spot)
答志島5-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 答志島シリーズも後半から終盤へと入った。他の旅ネタもたくさんあるから先を急ぎたい気持ちもありつつ、なるべく答志島を優先していきたい。旬の祭りネタもあるのだけれど。
 5回目となった今回は、答志地区の路地風景を中心にお届けします。
 離島といえば路地がつきものではあるけど、味わい深さは島によっても、地域によっても違ってくる。答志島では、答志地区が一番心惹かれる路地だった。写真もたくさん撮った。
 潮風で錆びたじんじろ車は、四輪のバランスが悪く、一輪が浮いている。そんなところもまた、味わいの一つとなる。
 島というのはどこでもそうだけど、決して完璧な優等生タイプではなく、どこか抜けているけど魅力的な人物みたいなところがある。至らなさは多々あれど、駄目な部分が魅力につながっている。だから訪れる人はホッとするのだと思う。整いすぎた観光地に息苦しさを感じることがある。あれの対極が離島という場所だ。

答志島5-2

 島で原付に乗っている人は、ほぼ100パーセントがノーヘルだ。答志島に限ったことではなく、これまで訪れたどの島でもそうだった。ヘルメットをかぶっている人を見たことがない。かぶっているのはせいぜい帽子までだ。島でフルフェイスのヘルメットなんてかぶっていたら、逆に不審に思われてしまうんじゃないか。
 そういえば、答志島には派出所もない。

答志島5-3

 これはすごいな、と思う。いい路地だ。家と家の隙間なのか、路地なのか、区別がつかないほど細い。体が大きな人同士ではすれ違えない。前から好きな子が歩いてきたら、ドッキリしてしまいそうだ。

答志島5-4

 家々にはマルの中に八というマルハチマークが書かれている。
 マルハチといえば名古屋市の市章で、あれは尾張徳川家から来ているものだ。ここも関係があるのかと思ったらまったく違った。島の守り神である八幡神宮の八から来ているとのことだ。
 年に一度、八幡神宮の大漁祈願際(旧1月18日)で、神聖な墨を男たちが奪い合うという神事があって、その墨で書かれたのがこのマルハチの印だそうだ。魔除けの意味らしい。
 あと、家の軒先に「蘇民将来子孫家門」と護符に書かれた注連飾り(しめなわ)がかかっている。
 牛頭天王関連のもので、これも魔除けのためにかけられている。

答志島5-5

 こんな路地には野良猫がよく似合うのだけど、残念ながら答志島では猫と出会えなかった。たまたまだったのか、猫が少ない島なのか。

答志島5-6

 少しお店の気配が感じられる一角。たばこ屋や自販機があり、元電気屋らしき建物がある。
 このあたりの路地は非常にゴタゴタしていて、地図上に書かれた店を探し当てるのにも苦労する。自分がどの道筋を歩いているのかを見失いがちだ。

答志島5-7

 いったん路地を抜けることにした。海沿いの道はやや広めで、開けているから、自分がどのあたりを歩いていたのかという確認ができる。
 表に出ても、特にこれといった店があるわけでもない。

答志島5-8

 もっと路地を味わおうと、再び細い道に入っていった。
 二階から二階にはしごを渡せば充分行き来できる。いっそのこと、屋根の部分をつないで覆ってしまって、アーケードみたいにするという手もある。

答志島5-9

 路地は狭いながらも、庭というものがないから、少しでもスペースに余裕があれば、私物化して何かを置いてしまう。洗濯機とか、鉢植えとか、ゴミ箱とか。
 私有地と公道との境界線は曖昧だ。気心の知れた同士だから、トラブルにはならないのだろうけど。

答志島5-10

 なんとなく懐かしさを感じた風景だった。自分が小学生のときに見たことがあるような錯覚を覚えた。

答志島5-11

 住宅密集エリアはほぼ平坦な土地だから、こんなふうに坂の路地は珍しい。
 起伏のある路地とない路地では生活がかなり違ってくるはずで、いくら狭くても平坦なら自転車が使えるけど、階段があると自転車が役立たずになる。その違いは大きい。

答志島5-12

 路地がずっと続くと、少し息が詰まるような感じになってくる。ちょっとした空き地に出て、ふと胸が軽くなった。
 手前にあるのは井戸のポンプだろうか。もう使われていないようだ。

答志島5-13

 答志地区の路地歩きを堪能したところで、次のエリアに移ることにした。
 答志の北の突端も行きたい気持ちがあったのだけど、少し距離があるのでやめておいた。大答志トンネルのところに西行法師の歌碑もあるようだ。
 このあとは引き返す形で八幡神宮へ行き、和具に戻った。そのときの話はまた次回ということにする。
 つづく。

名古屋の夜写真だけど中途半端な簡単更新

夜景(Night view)
名古屋の夜-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 今日はくたびれて余力が残っていないので、つなぎネタで簡単更新としたい。
 名古屋城の宵祭りへ行った帰り、栄の方を回って帰って、そのとき少しだけ写真を撮った。時間が遅かったので、ライトアップが終わっていたりして、ちょっとだけしか撮れなかったのが残念だった。
 名古屋市市政資料館は、一枚撮って、場所を移動しようとしたら、ブレーカーが落ちたように唐突に真っ黒になって驚いた。タイマーで夜の9時ちょうどに消える仕組みになっているようだ。

名古屋の夜-2

 名古屋市役所もライトアップされている。ここも夜の9時だと思うけど、詳しくは知らない。
 愛知県庁はライトアップしてただろうか。

名古屋の夜-3

 この日一番撮りたかったのが、オアシス21だったのだけど、着いたときにはもうライトアップされていなかった。夜の9時までなのか、もっと早い時間までなのか。

名古屋の夜-4

 テレビ塔のライトアップは10時までだ。
 東京タワーのように、深夜0時に明かりが消える瞬間をカップルで見ると幸せになれる、といったような伝説はない。

名古屋の夜-5

 オアシス21のライトアップは、また機会を作って撮りに行きたい。

 今日はここまでとしよう。
 また明日。

答志島の歴史に触れるためには山歩きが必要 <答志島・第4回>

観光地(Tourist spot)
美多羅志神社入り口

 答志島(地図)4回目の今日は、和具と答志地区の間にある美多羅志神社(みたらしじんじゃ/地図)からの再開となる。
 位置的には答志寄りではあるけど、答志には八幡神社があり、和具には他に神社がない。ということは、和具の神社ということになるのだろうか。
 創建は不明。なかなか古い神社のようだ。
 隣には潮音寺がある。そちらはあとから行くことにして、まずは美多羅志神社に挨拶に寄ることにした。



参道から境内へ

 島の地理的な事情か、東の鳥居から入り、参道を南西に進んだあと、直角に折れ曲がる。社殿は南東を向いている。昔からこうだったのか、改築などでこうなったのかはよく分からない。
 境内は神社らしい雰囲気を持っている。



屋根付き拝殿

 一応、これが拝殿ということになるのだろう。桃取の八幡神社と造りが似ている。公園などにある東屋みたいだ。伝統的なスタイルよりも、実用性を重視してこういう建物になったのではないかと思う。



本殿の姿

 本殿は小さいながら伝統的な神明造りで、けっこう古そうだ。この一角の空気感はいい。
 狛犬は江戸中期のものだそうだ。
 祭神は美多羅志神で、八王子神(五男三女神)の親神らしいけど、初めて聞く名前だ。
 帯一族(たらしいちぞく)に由来する神という。
 子だくさんの神ということで、子宝に恵まれる御利益があるとして島では崇拝されているとそうだ。妊娠中にアワビをお供えすると目のきれいな子供が生まれるという言い伝えがあるんだとか。
 あと、浜から白石を12個拾ってお供えするといいことがあるらしい。
 正月には獅子舞神事が行われる。



潮音寺外観

 潮音寺は三門の外から挨拶だけしておいた。
 建立は平安時代前期の834年というから歴史がある。
 行基作と伝わる本尊の薬師瑠璃光如来座像の他、室町時代の仏像なども持っている。
 本堂の扉は閉まっていたから、普段は見られないだろうか。
 関ヶ原の戦いで敗れた九鬼嘉隆をかくまっていたのがこの寺だったと伝わる。



島の古墳

 せっかくだから島の主立った見所を巡ろうと決めていたので、古墳も見ていくことにした。
 山道を少し行ったところに、蟹穴古墳がある。
 7世紀頃に作られたものというから、古墳時代末のものだ。この島を治めていた豪族の墓なのだろう。
 直径11メートル、高さ1.5メートルの円墳で、天井の石はなくなっていて、現在は横穴式石室が残るだけとなっている。
 発掘された須恵器(台付長頸壺)は奈良時代のもので、国の重要文化財に指定されて、今は東京国立博物館に収蔵されているようだ。



山道の様子

 先へ進むと岩屋古墳があると案内にあったので、そちらも行くことにする。
 だんだん山道が険しくなり、島を歩いているんだか、山を登っているんだか、分からなくなる。
 スカイラインから始まり、ここでの山歩き、更には首塚と、島では半分くらい登りの道を歩いていた印象が残った。



モンキアゲハ

 島にはこのモンキアゲハがとてもたくさん飛んでいた。名古屋近郊ではあまり見かけないクロアゲハで、最初は物珍しく見ていたのだけど、あまりにも数が多いのですぐに見飽きたほどだ。島で大繁殖しているようだ。



蟷螂の子供

 ハラビロカマキリの子供だろうか。
 たまたまかもしれないけど、トカゲの気配はあまり感じなかった。生息している生物にも偏りがありそうだ。



高台から見下ろす和具港

 和具の港が見渡せるくらい高いところまで登ってきていた。山歩きに来たわけじゃないのに、と思う。岩屋古墳までは、そこそこある。



岩屋古墳外観

 古墳は標高80メートルの山頂にあった。
 こちらは横穴式石室がほぼ完全な形で残っている。直径22メートル、高さ2.5メートルの円墳で、蟹穴古墳より大きくて、高い場所にあるということで、おそらく向こうよりも上の人物が葬られた古墳と推察できる。



古墳入り口

 少し前までは石室の中まで入っていくのが自由だったようだけど、現在は立ち入り禁止となっていた。
 副葬品は残っていないというから、誰かが持っていったのか。



入り口のロープ

 近づいて中をのぞきこんでみるも、暗くてよく見えなかった。
 下りていくためのロープは残っている。



竹林風景

 お寺の横手あたりだったか、竹林のいい風景があった。

 このあとは答志地区へ移動して、路地歩きをした。そのときのことはまた次回ということにしよう。

 つづく。

こうた夏まつりへ手筒花火を撮りに行く

風物詩/行事(Event)
こうた夏まつり-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / DA 16-45mm f4 / 50mm f1.4



 手筒花火を一度撮ってみたいと思っていたとき、ちょうどタイミングよく幸田町で行われることを知って、行ってみることにした。先週の土曜日、8月21日のことだ。
 ところで、幸田町ってどこでしょうか?
 幸田町という町名を目にしたとき、それがどこにあるのか、まるでピンと来なかった。愛知県のどのあたりに位置するのかさえ知らなかった。名古屋市民にとって、幸田町の存在感は薄く、これといって話題になることも少なく、有名な観光地があるわけでもない。特別な用事がなければ出向いていくことはないところだ。個人的に縁があってよく知っているという人もいるだろうけど、一般的な名古屋人の感覚として、幸田町は決してよく知られた町ではない。
 地図を見て、岡崎と蒲郡の間にあることを初めて知って、へぇーっと思う。何がへぇーなのか、自分でもよく分からないけど、こんなところにあったんだと、今更ながらの発見だった。
「こうた夏まつり」という名前だったから、「こうたちょう」で、駅名も「こうた」なのだと思っていたら、駅は「こうだ」だったので、少し戸惑った。どっちがホントなの? と。
 昔は「こうだちょう」だったのが、戦後に隣の豊坂村と合併したときに「こうた」となり、駅名だけは「こうだ」のままで現在に至っているとのことだ。
 存在感が薄いといったけど、自動車工業などの製造業が盛んで、工業団地の誘致に成功して以来、町の財政は潤っているそうだ。岡崎との合併話があったときも、うちはけっこうお金あるし、特に合併しなくてもいいやってことになったらしい。
 幸田駅も、新快速や快速の一部がとまるくらいだから、それほどローカルというわけではない。

こうた夏まつり-2

 祭りは午後2時から行われていて、お目当ての手筒花火は夜の8時からだった。
 会場は駅から2キロちょっと離れたところにあるハッピネスヒル幸田というところだった。
 図書館や会館、プールなどが集まる町の文化複合施設だ。
 町役場前から臨時運行するシャトルバスに乗ろうと思っていたら、乗り遅れた。最終が6時半で、6時35分に役場前に着いたときには、バスは影も形もなかった。人影もなかった。もしかしたらちょっとくらい待っていてくれるかもという淡い期待は弾けて消えた。
 会場までの40分の歩きが遠く感じられた。帰りもバスはないから、同じ道を40分かけて戻ることになった。
 せめて歩きながら駅前の風景でも撮ってみる。こんなところを撮っていたからバスに遅れたとも言える。

こうた夏まつり-3

 昔ながらの八百屋さん。昭和の生き残りの店だ。

こうた夏まつり-4

 道路脇に取り残されたように建つ蔵。後ろには新しいマンションが建っている。
 かつての幸田町の面影を少しだけ見ることができた。

こうた夏まつり-5

 会場に着いたときにはすっかり暗くなり、祭りは大いに盛り上がっていた。
 去年は町の財政難で、この祭りは中止だったそうだ。しかし、市民からの要望が強く、町は今年、350万円の予算を計上して復活させた。
 屋台もたくさん出て、想像していた以上に人が多かった。幸田町民はそれだけこの祭りを楽しみにしていたのだろう。

こうた夏まつり-6

 80年代のツッパリバンドみたいな人たちが演奏していた。幸田の横浜銀蝿と呼ばれているかもしれない。いや、今どきの人は横浜銀蝿を知らないか。
 昼間は戦隊ショーやフリーマーケットなど、いろいろなイベントがあったようだ。

こうた夏まつり-7

 30分も前に場所取りをしたら、やることがなくて退屈になった。
 夜空の星を撮ってみる。けど、周囲が明るすぎて、星はあまり写らなかった。

こうた夏まつり-8

 お目当ての手筒花火が始まった。
 がしかし、なんで、そこでするのだー、と心の中でツッコミを入れた。ガードレールというか、歩道の手すり越しでやっては、どうやっても写り込んでしまうではないか。手前には街路樹もあって、まともに撮れない。
 これは私の場所取りが悪かったわけではなく、どの位置からでもこうなってしまう。火の粉がかかるくらい近くでやるのだと思ったら、安全第一でやけに離れたところで行われたのだった。うーん、残念。事情を知っていたら、もっと近くのいいポジションがあったのだろうか。

こうた夏まつり-9

 大丈夫だろうかと心配になるくらい火の粉を浴びている。邪魔者さえなければいい写真になっていたのに、惜しい。
 この日は風が強くて、花火にはあまり向かない条件だった。

こうた夏まつり-10

 最後にボンっと弾けたところ。
 けっこう大きな音がして、ビクッとする。

こうた夏まつり-11

 手筒花火は5人が横に並んで4回行われたんだったか。合計20本だったと思う。
 続いて打ち上げ花火が始まった。
 しかし、今度は距離が近すぎた。手筒花火用に望遠で撮っていて、打ち上げ花火もそのままいこうと思ったら、近すぎて花火が全然入らない。あわててバッグから広角を取り出して、暗がりで交換している中、花火はどんどん上がっていく。

こうた夏まつり-12

 レンズは交換したものの、まったく体勢は整わず、レリーズケーブルでのんびり撮っていては間に合わなかった。
 三脚につけたまま手持ちで撮ると、花火は中心に収まらず、手ブレしまくりになった。

こうた夏まつり-13

 100発の打ち上げ花火は、わずか10分足らずであっけなく終わった。なんてこった。
 一枚もまともに撮れなかった。自分でも驚いた。というか、短すぎ。これにて終了ですというアナウンスが流れたとき、周囲からはあまりの早さに軽く笑いが起こったほどだ。ええーっ、と。打ち上げ花火の100発なんて、実にあっけないものだ。
 手筒花火は初めてで上手くいかなかったのは仕方がないとして、多少慣れているはずの打ち上げ花火でこんなにも惨敗になるとは思ってなかった。手筒花火はもっと近くから撮らなくてはならず、打ち上げ花火は近すぎてはいけないという教訓を得ることになった。
 かなり物足りない思いを抱きつつも、祭りはこれで終わった。鉄道の時間もあって、ハッピネス幸田をあとにすることになった。
 手筒花火は是非、再挑戦したい。このままでは終われない。この夏の間にもう一回はチャンスがある。今回を練習と思って、次はもう少しちゃんとしたものを撮りたい。

1/1ガンダムは夢の巨大プラモデル

イベント(Event)
静岡ガンダム-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 東静岡駅前に立つ1/1等身大ガンダムを見てきた。
 3月までここにいるというから、そのうち行けばいいやと油断していたら、どうやらもろもろのイベントが8月いっぱいで一段落してしまうらしいので、それなら8月中に行っておいた方がいいだろうということになった。
 2009年の去年、7月から8月にかけてお台場で披露されたのが、この1/1ガンダムだった。かなり話題になり、ひと月で415万人の見学者が訪れたという。
 ファーストガンダムのオンタイム世代でもあり、一番最初に発売されたガンダムのプラモデルをオモチャ屋に並んで買った私としては、見に行きたい気持ちもありつつ、行きそびれてしまった。心の中の言い訳としては、自分はガンダムよりマクロス派だからさ、というものだった。バルキリーの等身大が作られたら飛んでいくかといわれると微妙だけど。
 あのガンダムが、静岡に来ることが決まったときは、それなら行こうと心は決まった。欲を言えば浜松くらいにしてもらえると近くて助かるのになどと思いつつ、東静岡なら充分行ける距離だ。
 静岡駅ではなく東静岡駅になったのは、駅前の土地を市が所有していて、近々建てる何か(何を建てるかは知らない)のためのスペースが空いていたからという事情だったようだ。静岡で乗り換えをしないといけないから面倒なのと、東静岡にはこれといった見所がないのが難点だ。
 それはともかくとして、東静岡駅前では、静岡ホビーフェアというものも開催されている。
 静岡には、タミヤ、ハセガワ、アオシマ、フジミなどのメーカーが集まり、国内生産のプラモデルの8割近くが静岡で生産されているという。静岡は模型の世界首都を名乗っている。
 ガンプラを発売しているバンダイの本社は東京(浅草発祥)ではあるけど、企画から生産まで一貫して行ってきたのは、静岡にあるバンダイホビーセンターだった。
 静岡ホビーショーの歴史は古く、昭和34年(1959年)に第一回が開催されている。当時は生産者見本市という名称で、業者相手のおもちゃ見本市だった。場所は15代将軍徳川慶喜の旧住居である浮月楼だったというから、歴史を感じさせる。
 翌年は模型船舶見本市という名称で、初めて一般公開された。
 昭和37年の第4回からプラモデルがメインの見本市となり、今年が49回目となる。
 2010年はガンプラの発売30周年ということで、静岡で開かれるホビーフェアに等身大ガンダムが立つというのは、ふさわしいイベントといえるだろう。
 1/1ガンダムは、ホビーフェア期間中の2011年3月27日までここにいる。その後、他の県に行く予定もあるそうで、名古屋も立候補しているらしい。名古屋とガンダムには実は深い縁があって、アニメのガンダムは、名古屋テレビ(メ~テレ)をキー局として全国に放映していたのだった(制作は日本サンライズ)。だから、ガンダムが名古屋にやって来る可能性はあり得る。
 最終的にはバンダイホビーセンターの敷地内で保存されることになるそうだ。

静岡ガンダム-2

 東静岡駅から見るガンダム。
 全長は18メートルだから、ビルでいうと6階建てくらいの高さになる(台に乗っているからもう少し高い)。
 大きいといえば大きいし、意外とそうでもないという感想を持つ人も多いようだ。
 こうして街中に立っている姿を遠巻きに眺めてみると、とてもリアリティーのある大きさだということが分かる。現実離れした超巨大なものでもなく、拍子抜けするほど小さくもない。程よいサイズに、あらためて設定の正しさを知る。
 新幹線や東海道本線の列車の中からもよく見える。車内では、あっ、ガンダムだという声があちこちから聞こえた。ファーストコンタクトということもあり、もしかしたら列車から見るガンダムが一番感動的かもしれない。
 静岡といえば富士山で、位置的には富士山をバックにしたガンダムというのが期待されるところではあるのだけど、夏場はかすんでほとんど富士山は見えないそうだ。この日もまったく見えなかった。夏にくっきり見えるのは数えるほどというから、富士山バックに写真を撮れたらかなり運がいい。

静岡ガンダム-3

 ガンダムに特別な思い入れはなくても、物珍しいものだから、とりあえず写真を撮りたいという気持ちになるのだろう。
 隣にはアルソックのビルが建っている。井上康生がガンダムの周りを走り、レスリングの吉田沙保里が出てきてガンダムを肩車するような演出があるといい。

静岡ガンダム-4

 土曜日ということもあり、なかなかの集まり具合だった。始まったのが7月24日だったから、そろそろ一月になろうとしている。夏休みということもあるだろうけど、まだまだ人気は継続しているようだ。
 会場に着いたとき、ちょうどショータイムの時間だった。1時間ごとに首が動いたり、ミストを出したりという演出が行われる。
 夕方からはライトアップも行われ、内蔵したライトが光ったりもするそうだ。ライトアップは8月いっぱいのようだから、夜に行く予定があるなら8月中に行くべきだろう。
 9月からは演出やイベントなどが夕方6時までとなり(8月中は夜8時まで)、10月、11月はそれらは休止状態に入る。12月から演出などは再開して、1月10日まで行われる予定となっている。 

静岡ガンダム-5

 あ、目が合った。
 お台場のときとの一番大きな違いは、右手にビームサーベルを持っているところだ。だから、背中の片方のビームサーベルは当然ない。
 写真で見比べたところ、貼られているシールなど、細かい部分でマイナーチェンジしている。あちこち手を加えているようだ。

静岡ガンダム-6

 どの角度から撮るとカッコイイのかを探りつつ、一周回ってみることにする。
 昼間の光だから、今ひとつ面白くない。午後は正面からは順光で、後ろからは逆行になる。
 この写真はラッカーで着色したプラモデル風に仕上げてみた。

静岡ガンダム-7

 周囲に高いビルは、アルソックと、このNTTドコモ静岡ビルくらいなのだけど、他にも障害物が多くて、撮影のロケーションとしてはあまりよくない。お台場の潮風公園では、開けた空間にポツンと立っている感じだったから、あちらの方が写真は撮りやすかったに違いない。
 行列に並ぶと、撮影台からの撮影と、近くまで行ってのタッチ&ウォークというのができる。けれど、撮影台に行くと強制的に記念写真を撮られ、半強制的にその写真を買わされるという遊園地のジェットコースター商売のようなことをやっていたので、それはパスした。足の下まで行っての撮影やお触りも、長い列を見たらその気になれなかった。

静岡ガンダム-8

 後ろ姿も、もちろん、手を抜いていない。しっかり作り込んでいる。
 けど、後ろへ回って悟ったのは、これは等身大でガンダムというロボットを再現したものではなく、ガンダムのプラモデルを1/1に大きくしたものなんだ、ということだった。同じことのようで、全然違う。
 1/1ガンダムを近くで見て、意外とリアリティがないと感じた人も多かったんじゃないだろうか。けど、これは大きなプラモデルなんだと思って見たとき、なるほどそういうことかと、妙に納得した。腑に落ちたと言ってもいい。これは夢のガンプラだったのだ。

静岡ガンダム-9

 太陽を正面から受けてシルエットになるガンダム。

静岡ガンダム-10

 会場には富士宮焼きそばをはじめとして、いろんな屋台が出ていた。まるっきりのお祭りムードで、家族連れや友達同士、カップルから一人撮影の人まで、客層は幅広い。ガンダムを見に来たとは思えないような人たちもたくさんいた。お祭り会場の中央に立つガンダムというのも、なんだかシュールな光景に思えた。

静岡ガンダム-11

 できることなら、夕焼け時間からライトアップされる夜にかけて写真を撮りたかったのだけど、他にも行く予定の場所があって、それは実現しなかった。
 一つイメージしたのは、雨降りの夜というシーンだった。ライトアップされる中、降る雨がガンダムに当たって弾けるところを望遠で撮りたい。最高にカッコイイはずだ。
 来年3月までこの場所に立っているということだから、それまでにはもう一度くらい行けるチャンスもあるだろう。ライトアップの雨降りが無理なら、夕日を浴びる富士山をバックにしたガンダムがいい。冠雪した富士山とガンダムがピンク色に染まっていたら言うことはない。

日本の夕飯サンデー料理

料理(Cooking)
ノンジャンルサンデー

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 今日は普通のサンデー料理だった。普通の料理ではないかもしれないけど、ノンテーマなときはノーマルなサンデーということになる。今日はあれこれ考えず、残り物の食材を見ながら思いついたものを作った。まかない料理みたいなものだ。

 左手前は、エビと白はんぺんを焼いたものだ。こういうのをよく作るのだけど、なんと呼べばいいのだろう。
 エビは下処理をして刻んで、叩く。
 刻みタマネギをオリーブオイルで炒める。
 白はんぺんを刻んでつぶす。
 それらをよく混ぜ合わせながら、塩、コショウ、だしの素、片栗粉を加え、最後に卵白を混ぜて作ったメレンゲを足して、全体に混ぜ合わせる。
 これを多めのオリーブオイルで焼く。
 ソースは、卵黄にマヨネーズ、マスタード、コンソメの素、塩、コショウ、砂糖、オリーブオイルを混ぜて作る。
 これはとても美味しかったからオススメしたい。白はんぺんとメレンゲが生み出すふわふわ感がいい。エビはあえて食感を残す方向で形が残るくらいに刻む。

 右は豆板醤のジャガイモ版みたいなものだ。
 ごま油、ショウガ、ニンニク、豆板醤をよく炒める。そこに刻みタマネギと鶏肉を加える。
 ニンジンは、刻んで下ゆでする。
 ジャガイモは、乱切りにしたあとしばらく水にさらし、レンジで5分加熱する。
 ニンジン、ジャガイモ、ツナ缶を入れ、炒めていく。
 酒、みりん、しょう油、塩、コショウ、中華の素、ラー油で味付けをして、最後に水溶き片栗でとろみをつける。
 刻み長ネギを乗せて完成だ。
 麻婆豆腐とはまったく違った方向性の料理になったけど、これはこれで成立している。ジャガイモは和洋中、何にでも使える優秀な食材だ。

 奥は山芋の甘辛炒めだ。
 山芋を短冊切りにして、アスパラ、しめじとともにごま油で炒める。
 酒、みりん、しょう油、白だし、塩、コショウ、唐辛子で味付けをする。
 紫タマネギは薄切りにして、水にさらす。
 最後に、青のりとかつお節を振りかけたらできあがりとなる。
 山芋はすり下ろすだけでなく、こんなふうに食材としても使える。

 和食とも中華ともいえないような料理となったけど、日本の夕飯としては合格だった。あれこれ凝らない方がかえって美味しい料理になるという結果オーライのパターンだ。偶然頼みでは安定感を欠くから、本当は作る前のイメージが大切だ。完成図さえ見えれば、そこへ向かっていくことは難しいことではない。
 8月も残り少なくなる中、来週は祭りが立て込んでいるので、料理ができるかどうか微妙なところだ。時間がなければ丼ものに逃げるかもしれない。

スカイラインを歩いて分かった東西分断の訳 <答志島・第3回>

観光地(Tourist spot)
答志島3-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 答志島の第三回は、桃取地区から和具地区へ向かう道すがらの写真です。
 桃取地区と和具、答志地区を結ぶのは、島の中央を横断する答志島スカイラインで、この道が西と東をつなぐ唯一の道となっている。歩いていく場合も、この道をテクテク行くしかない。海岸沿いに道はない。
 この道は名前からして嫌な予感がしたのだ。スカイラインといえば、たいていは山道と相場が決まっている。そしてここも例外ではなかった。
 約4キロのくねくね曲がった道で、どちから行っても前半はダラダラ上り坂が続き、後半は緩やかな下り道となる。
 桃取地区から和具地区までは5キロちょっとあって、1時間半以上かかった。桃取地区の中学生が、和具地区にある答志中学ではなく、船で鳥羽に渡って鳥羽東中学に通う理由が分かった。あんな4キロ以上のアップダウンの道を毎日通うのは無理だ。自転車で行こうにも、長く上り坂が続くから途中で降りて押さなくてはいけない。実際問題として、歩きにしても自転車にしても、現実的ではない。
 同じ島に生まれながら、違う小学校に入学し、別の中学に進むとなると、西と東ではあまり交流がないのではないだろうか。そうならないための東西揃っての行事などをやっているのかもしれない。
 桃取のロミオと答志のジュリエットは、答志島スカイラインの上で待ち合わせをしてデートをしているのだろうか。恋のパワーがあれば、あの上り坂も一気に駆け上がれるのか。

答志島3-2

 一般の住居なのか、農作業のための小屋なのか、トタンのパッチワークが芸術の域に達している。
 島のところどころで米を作っている。商売ができるほどの作付面積ではないから、自分たちで食べる分を作っているのだろう。
 山の暮らしは貧しいとなると食べ物にダイレクトに響いてくるけど、海の場合はとりあえず魚には困らないから、あとは米と野菜を作れば食べ物はなんとかなる。

答志島3-3

 答志島スカイラインは車用に整備されたアスファルトの道路だから、散歩するには楽しくない道だ。
 両脇の草むらを見ながら歩く。
 昔懐かしいタイプの小さいカタツムリを見つけた。雨上がりによくいたやつだ。カタツムリも、町中では本当に見かけなくなった。

答志島3-4

 チキチキバッタと呼んでいたやつ。正式にはショウリョウバッタで、飛ぶときにチキチキ音を出すのはオスだけだ。
 緑が一般的だけど、昔から茶色いやつもよく見た。種類が違うのか、色が違うだけなのか、詳しいことはよく知らない。

答志島3-5

 夏ということで全体に花は少なかった。撮りたくなるようなものがなかったので、ムラサキカタバミでも撮ってみる。
 南米原産で明治に入ってきて以来、すっかり日本が気に入ったようで、帰化して昔からいたような顔をして咲いている。
 この島はあまり野草は多くないような印象を受けた。本土に比べたら、離島はよそから飛んできたり運ばれたりする可能性は低い。当たり前に咲いているような野草も咲かなかったりするんじゃないだろうか。

答志島3-6

 まあ、そういうこともあるよねと、妙に納得してしまった光景。
 島の人が困っていなければとりあえず大丈夫。

答志島3-7

 島の幹線道路ということで、交通量は多い。宅急便の車も走っていた。
 この道はロードレーサーの自転車なら登れるのだろうか。電動アシストつきならいけそうな気がする。

答志島3-8

 撮るものもあまりなくて退屈なので、海をバックにカーブミラーで記念写真を撮る。

答志島3-9

 ところどころ視界が開けて、遠くの海を見渡すことができる。手前の木が邪魔なのがもどかしい。

答志島3-10

 ようやく下りてきて、答志中学の前に出た。ここまで来ればもう和具はすぐそこだろうと思ったら、まだここから1.3キロくらいあった。なんでこんな外れに中学を作ったのだろう。答志地区に住んでる子供たちにしたら、けっこう距離がある。広い敷地を確保できるのがここだけだったのだろうか。

答志島3-11

 自然と同化しつつある廃車その2。
 なかなかいい感じだ。あと50年も寝かせたら自然に還るかもしれない。

答志島3-12

 海岸でお母さんたちが火をたいて暖をとっていた。海女漁をしているのだろうか。

答志島3-13

 何が落ちているのか分からず、一瞬、ギョッとした。花火をして後始末をしなかった灰が大量に落ちているのかと思った。
 答志島といえば干したひじきが有名だそうで、最盛期の5月には島中が干しひじきで埋まるくらいなんだとか。
 けど、これは見るからにひじきではない気がする。昆布とかだろうか。
 何にしても、道ばたに干して誰も見張っていないのに誰も持っていないのが島ならではだ。

答志島3-14

 ちょっとした砂浜の海岸があったので、水辺まで行って少し歩いてみた。
 水遊びに来た親子がいた。これがこの日初めて見た観光客らしい姿だった。

答志島3-15

 そのまま海沿いを進むと、海水浴場らしい景色になった。ここがサンシャインビーチのようだ。
 プールもあって、それなりに海水浴客もいた。やはり観光で答志島を訪れる人たちは、桃取ではなく和具や答志に上陸するようだ。

 今日のところはこのへんにして、また次回に続く。

桃取地区の路地を迷い歩く <答志島・第2回>

観光地(Tourist spot)
答志島2-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 答志島の二回目は、桃取地区の路地風景をお届けします。
 前回も書いたように、答志島には桃取、和具、答志の3つの地区がある。
 少し古い資料によると、770世帯のうち、一番多いのが答志地区で356世帯、和具が153世帯で、桃取は261世帯となっている。男女比は、女性の方が少し多い。
 世代別のくわしい資料は見ていないからはっきりしたことは分からないけど、子供もけっこういて、過疎の島といった感じではない。昔に比べたら高齢化は進んでいるにしても、働き盛りのお父さんもたくさんいて、わりとバランスはよさそうだ。高校、大学はないから、若者世代は外へ出て行く人が多いのだろうけど、Uターン組もけっこういるんじゃないだろうか。
 お店の数は少ない。もちろん、コンビニも、大型スーパーもなく、個人の商店がわずかにあるくらいで、娯楽施設のたぐいはなさそうだった。スナックや喫茶店なども数軒見かけただけだった。
 とはいえ、船で鳥羽まで行けばたいていのものは揃うだろうし、船便も一日に何度も来るから、山奥の村のような不便さはない。
 上の写真は味わいのある家屋だった。昔は雑貨屋か駄菓子屋をしていたところのようだ。

答志島2-2

 離島の路地は入り組んでいて迷いがちだ。方向感覚も狂い、地図を持っていてもどちらへ向かっているか分からなくなる。それでも、しばらく歩いていると、だんだん掴めてくる。海がある方という絶対的な方向性があるし、島の中だから迷うといっても致命的なものにはならない。
 少し奥へ入ったところに、桃源寺というお寺があった。いわれはよく知らない。表から挨拶だけしておいた。

答志島2-3

 市立の診療所があった。3,000人近くの住人がいる島だから、病院は必要だ。
 和具に個人病院が一つ、答志に歯科医が一つある。
 本土まで近いというのは、安心要素となっているに違いない。

答志島2-4

 答志地区の離れ小島に八幡神宮があって、そこが島の守護神となっている。
 桃取地区にある八幡神社は、そこから分祀したものだろうと思われる。
 せっかくだからちょっと寄っていくことにした。

答志島2-5

 真新しい白い鳥居と、集会所のような拝殿がある。かなり最近建て直したもののようだ。
 拝殿は靴を脱いで上がって、正座をして参拝するような格好になっている。なんだか不思議な感じだった。

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 神社がある高台から家並みを見下ろす。
 とてもいい感じだ。低空飛行で島の上空をゆっくり飛びながら、家並みの写真を撮ってみたい。

答志島2-7

 答志島名物、じんじろ車に大きなカゴを乗せて押していくお母さん。
 車輪のついた台車で、昔、島で鍛冶屋をやっている甚次郎さんが考案したことから、そう呼ばれるようになったそうだ。狭い路地が多い答志島では、今でもじんじろ車が活躍している。

答志島2-8

 島の中で家が建てられる場所はごく限られていて、そのエリアでの人口密度は高い。空き地のようなところは少なく、土地が無駄なく使われている。
 家は密集して建てざるを得ず、どの家も庭付きというわけにはいかない。隣同士の家はぴったりくっつき、お向かいの家に向かってホップステップジャンプをすれば居間まで届いてしまう。
 こうなると隣近所のつき合いなしには暮らしは成り立たず、各家庭の個人情報も筒抜けになりがちだ。ここで生まれ育った人にとっては当たり前のことでも、町暮らしをしていた人間があとから入っていって馴染むのは少し大変かもしれない。
 答志島には、寝屋子制度という変わった風習が今でも続いているそうだ。
 一定の年齢になった男子を何人かまとめて世話をする制度で、寝屋子は食事のときだけ実家に戻り、あとは寝屋で過ごし、生涯に渡って兄弟以上のつながりを持つのだという。
 ただ、かつては島全体で行われていたその制度も、近年は答志地区で続くのみになったという。昭和60年に市の無形民俗文化財に指定された。

答志島2-9

 船着き場と家並み風景。
 理髪店のくるくる看板が見えている。どんなに田舎の村にも、理髪店というのは必ずある。それも必要以上にある。島でも桃取地区だけで2軒ある。1軒だと地区の住民全員が同じ髪型になってしまいがちだから、少なくとも2軒は必要ということかもしれない。

答志島2-10

 島のスケール感を掴まないまま一ヶ所に長居するのは危険だったので、桃取地区の散策は早めに切り上げた。桃取をあとにして、和具へ向かうことにする。

答志島2-11

 島の油断というのは、一人暮らしの男の部屋に似ている。よそ者に対して体裁を整えようという気持ちが希薄で、結果、それが油断につながる。

答志島2-12

 8と書かれたケースが積まれていて気になった。答志島といえば、マルに八でマルハチマークがよく知られているのだけど、それとはまた別の記号か。

答志島2-13

 筏の上で作業をする人たち。何かを養殖しているのか。

 答志島編はまだ桃取を出たところで、先は長い。焦ってもすぐには終わりそうにないから、今日はここまでにしておく。
 このあと答志島スカイラインをとぼとぼ歩いて和具に向かった。ここから長い歩きが始まる。

離島が私を呼んでいる(?) <答志島・第1回>

観光地(Tourist spot)
答志島集落の風景

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 7月の終わりのある日、答志島(とうしじま)へ行ってきた。三重県鳥羽市の沖合すぐに浮かぶ離島だ。
 離島という響きに異国情緒にも似た憧れのようなものを感じて、これまでいくつかの島へ渡った。どの島にも島らしさというのがあって、それはやはり本土からするとどこか非日常的を感じるさせるものである。陸続きでないことの独自性と、海に守られていることによる自己完結。人里離れた山村とは違った開放感があり、訪れる旅人を大らかに受け入れてくれるのが心地いい。だから時々、無性に離島へ行きたくなる。
 鳥羽沖には大小多くの島が浮かんでいる。一番大きなものが答志島で、他には菅島、坂手島、神島などがある。
 最初は、欲張って4島を巡ろうと考えていた。けど、船のルートと運行時間からして、どう考えても無理だった。住人にとって最適な時間割になっているのだろう。観光客にとっては乗り継ぎがとても難しい。神島はやや遠いものの、それぞれの距離は30分もかからない程度だから、一つの島を2時間くらい散策して巡っていくことができれば、充分一日で回れる位置関係にある。なんとか無理してでも回れないかと、時間や順番を変えて検討してみたけど、やはりダメであきらめた。
 まあ、あまり欲張っても中途半端になるということで、今回は答志島だけにして、最後に二見浦をくっつけるというスケジュールを組んだ。そしてまた、島での歩きはとてもハードなものとなったのだった。まさか答志島があんな山島だとは思っていなかった。島の中をほとんど休むことなく、何も食べずに6時間も歩き回ったと知ったら、島の人は驚くんじゃないだろうか。
 今日から何回かに分けて、私が見た答志島の風景を紹介していくことにしたい。



鳥羽の街

 鳥羽に降り立ったのは何年ぶりだろう。子供の時以来だからはっきりとは覚えていないけど、なんだかとてもさびれている印象を受けた。いかにも昭和の観光地といった風情で、かつて賑わっていた頃の面影をわずかに残すのみとなっている。以前は確かにもっと活気があった。
 駅前の大きなショップ兼レストランも、閉鎖して久しいようだ。
 鳥羽水族館は、一つ先の中之郷の駅前だから、あちらはここよりもう少し賑わっていると思われる。
 ミキモト真珠島も、昔のようではないのだろう。真珠も最近は売れなくなったと聞く。



佐田浜の船着き場

 駅から歩いて5分くらいのところに、船乗り場の佐田浜がある。どういうわけか鳥羽の船着き場は佐田浜という名前で、最初よく分からず戸惑った。中之郷にも乗り場あって、紛らわしくなるからか、どちらも鳥羽の名前を使っていない。
 答志島にも桃取、答志、和具という3つの船着き場があって、どこへ行けばいいのか迷った。順番にとまるわけではなく、桃取行きと答志行きでは航路が違っている。和具と答志は、両方とまる便もあり、片方しかとまらないものもある。理解するまでにちょっと時間がかかった。
 私は島を横断するつもりだったから、どちらへ行ってもよかったのだけど、行きは手前の桃取行きに乗って、帰りは和具から乗って戻ってきた。念のために書いておくと、普通、桃取と和具の間は歩いて移動するような距離ではないから、私のコース設定はあまり参考にならない。どの集落を中心に回るかを考えて、行き先を決めた方がいいと思う。



定期船の姿

 こういう離島では珍しく、市の定期船が運航している。一般企業だと採算が合わないとやめてしまったりすることがある。市がやっているなら当面は安心だ。
 島への上陸が許されるのは人のみで、車では渡れない。犬とかバイクとかはどうなのか、そのあたりまではよく知らない。犬くらいはいいと思うけどどうだろう。
 桃取までは10分ちょっと、答志までは25分くらいだ。運賃は桃取までが430円、和具と答志までは530円となっている。
 島巡りのお得なチケットも発売されているけど、最初に書いたように日帰りでは事実上不可能なので、泊まりで行く場合に限られる。
 神島へ行くなら、愛知の伊良湖岬から行く方が近い。



船の波しぶき

 出発してほどなくすると、左前方に目的の答志島が見えてくる。
 想像していたよりずっと標高が高い山の島で、気持ちがひるむ。あれの端から端まで歩いて、頂上にも登らなくてはいけないと考えると、ちょっと心配になった。のちにその危うい予感は現実のものとなる。
 答志島の面積は、約7平方キロ。東西6キロ、南北1.5キロの横広の島だ。
 三重県では最大の島で、人口は3,000人足らず。
 北西の桃取、東南の和具、東北の答志と、3つの地区からなっている。好きで3ヶ所に固まっているわけではなく、平地が海に近いその部分しかないから否応なくそこに集まっているだけだ。そしてこの島は、東西二つにくっきりと分かれている。予備知識としてそのことは知っていたのだけど、実際に島を横断してみてその理由を納得することになった。



船の内部

 船の中。このときの乗客数は、定員の2割から3割くらいだっただろうか。朝島へ向かう便ということで、そんなものだろう。それに、桃取行きは答志行きに比べるとマイナーということもある。
 年間18万人ほどが、この島を観光目的で訪れているという。観光島として知られる日間賀島でも25万人というから、思ったよりも多い。釣りのために訪れる人か、あとは食べ物目的か。観光資源はあまり多くない島ではある。



島の港風景

 島の住人の多くは、漁業関係の仕事についているそうで、港の風景もそんな感じだった。宿の経営をしているところも、半分は漁業で生計を立てているのだろう。
 遠くに見えている小さな灯台は、答志灯台だ。



桃取小学校の校庭

 桃取地区のはずれに桃取小学校があり、島の東、答志と和具の間あたりに答志小学校がある。2つも小学校があるところからもこの島の大きさが分かる。
 すぐ目の前には砂浜があり、さほど遠くない向こうには鳥羽が見えている。離島といっても、周囲に何も見えないところと本土が見えているところとでは、島民の感覚はずいぶん違ったものとなるだろう。360度海に囲まれて、陸が見えない島に生まれ育つ感覚というのは、想像ができない。



ビーチの風景

 小学校前のサンビーチ桃取。
 小さな男の子とお父さんが、ポツリと、波打ち際で腰を下ろしている姿があった。夏休みに入っていたから、浜辺は水着の若者たちで埋め尽くされているかもしれないという想像は、まったく外れだった。年間18万人の観光客は、いつどこを訪れているのか。
 浜辺を歩きながら思ったのだけど、島にいると海というのはごく当たり前な存在で、ありがたみをあまり感じない。内陸で暮らしていて海へ行くと、わー、海だと、気持ちが高ぶるものだけど、自分が島の人になってみると海は周囲のどこにでもあるもので、だからどうしたという感じになる。
 陸から見る海は遠い世界とつながっていることを思わせてくれるけど、島から見た海は自分を閉じ込めている壁のように思える。内陸の人間は離島に憧れを抱き、島の人間はどこへでも行ける本土を夢見るものかもしれない。



岩場の風景

 遠く近くにいろんな島や岩、内陸や半島が見える。
 これは何だろう。地図を見ると近くに弁天島というのがあるけど、この岩ではないだろう。向こうの大きな島影が浮島だろうか。



観光船

 城のような格好をした船が浮かんでいた。たぶん観光船だろう。鳥羽の周辺を遊覧している船かもしれない。
 こちらの方向にイルカ島があるはずだ。イルカ島は観光島で、イルカのショーなどが行われている。
 鳥羽一帯はどこをとっても、時代に取り残された昭和の観光地の色合いが強い。



釣り船

 漁船か釣り船か。手前を飛んでいるのはカワウ。
 タカの渡りといえば伊良湖がよく知られているけど、答志島あたりでも上空を飛ぶ姿が見られるんじゃないだろうか。10月のはじめ、このあたりの海の上を大量のタカたちが渡っていく。



桃取の路地風景

 海を見たあとは、桃取地区の散策へと移った。離島といえばなんといっても路地だ。路地が撮りたくて離島へ行っていると言ってもいい。この島にもたくさんのいい路地があった。



狭い路地

 細い。これぞ島の路地だ。
 次回は桃取の路地風景を紹介することにして、第一回目はここまでとしたい。

 つづく。

廃校になった学校の教室が撮りたくて ~多米民俗資料収蔵室

施設/公園(Park)
民俗資料収蔵室-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / PENTAX-M 50mm f1.4



 ずっと前からそうだったわけではない。気づいたら廃墟めいたものに惹かれる自分を発見した。いつ何がきかっけでそうなったのかという自覚はない。自分では気づいていなかっただけで、昔からそういう部分はあったのかもしれない。
 私はそれを、未来を先取りしたノスタルジーだと自己分析している。今を生きながら昔を懐かしんでいるというよりも、未来から見た現在の姿を廃墟に投影して見ているといった方が合っている。
 あらゆるものは古び、色あせ、崩れ去り、やがては消えるさだめを持っている。今最先端のものでも、やがては過去の遺物となる日がやってくる。そう考えたとき、今見ている廃墟の姿は、未来から見た現在の姿と重なるのだ。古き良き時代に戻りたいとかいう懐古趣味とは違う。
 廃校になった古い木造の校舎を撮ってみたいと思っていた。そうは思っても、そう簡単にあるものではない。田舎の方に行けばあるのだろうけど、何の手がかりもなしに探して見つかるものではなく、あったとしても一般の立ち入りが禁止されているところがほとんどだろう。合法的に入れるところといえば、観光用に保存展示してあるようなところになる。そういうところはいくつか見たことがある。
 豊橋の多米民俗資料収蔵室の存在を知ったのは、御油夏まつりについて調べていたときだった。豊橋でもう少し見て回るものがないかと探していて、ネットでここのことを知った。名前の通り、現在は民俗資料を収蔵展示している施設ではあるのだけど、廃校になった多米小学校の木造校舎がそのまま使われている。是非行こうと、すぐに心は決まった。

民俗資料収蔵室-2

 廃校になった校舎を資料室として一般公開したのは、昭和53年のことだそうだから、ずいぶん昔からあったのだ。
 2006年に公開された映画『早咲きの花』のロケに使われたことで、少し知名度が上がったらしい。
 監督は菅原浩志、主演は浅丘ルリ子で、第二次大戦中の豊橋を舞台にした映画だ。ほとんど愛知県内でしか上映されなかったようだから、知られたといっても全国に知れ渡ったわけではない。
 豊橋も昭和20年の空襲でひどくやられて、市街地の7割を消失している。その中で、多米小学校は、焼け残り、市内で唯一現存する木造校舎となっている。
 公開は土日のみ(9時半~4時)で、無料。
 豊橋駅前で市電に乗って、終点の赤岩口まで行き、そこからバスで柳原団地までいく。あとは歩いて5分くらいだ。

民俗資料収蔵室-3

 懐かしいというには私にとっては時代が古すぎる。古い学校のセットみたいというには、荒れている。
 良く言えば手つかず、悪く言えば整備不良といったどっちつかずで、当時のままと言うには手が入っているし、観光用にきちんと体裁を整えているかといえばそうとは言えない。
 けど、この感じ、決して悪くない。トリップ感を味わうには少し時間がかかるけど、この空間の中でしばらく過ごしていると、だんだん空気感に馴染んでくる。思い描いていた廃墟に近い廃校というのとは違うけど、観光用でないところがいい。

民俗資料収蔵室-4

 校舎全体が当時に近い形で残されているのかと思ったらそうではなかった。教室はこの一室のみで、あとは展示室として使われている。音楽室などもない。それが少し物足りなくも感じた。
 机や椅子は当時のままで、椅子が揃いじゃなかったり、机の高さが微妙に違ったり、机に刻まれた落書きがあったりと、とてもリアリティーがある。
 こういう教室を見ていつも感じるのは、机と椅子があまりにも小さいことだ。自分も小学生のときはこんなにも小さかったのかと思うと、少し愕然とした思いに囚われる。思えば長い旅をしてきたのだとも。
 教室ゆっくり歩いて回り、しばし感慨にふける。

民俗資料収蔵室-5

 民俗資料とは何かといえば、昔の生活用品とか、道具とか、器具とか、そういったようなものだ。
 東三河を中心に集めたそれらを、5つのテーマごとに分けて展示している。全部で3,500点ほど集めた中から1,000点ほどを展示してあるそうだ。
 しかし、整然と並べてあるのは一部で、あとは教室や廊下に雑然と積み上げられていたり、なかば物置状態と化しているところもある。
 私の目的は、あくまでも木造校舎と教室を撮ることなので、展示物に関してはざっと眺めただけだった。目に付いたものをいくつか撮った。

民俗資料収蔵室-6

 廊下の板張りが補修されて色が変わっている。こんな感じも好きだ。

民俗資料収蔵室-7

 茶の間を再現した一角がある。これはまた古い。私の子供の頃の時代ではない。昭和30年代くらいだろうか。
 世代的には、現在の50代、60代より上の人たちが見て懐かしいと感じるものが多そうだ。

民俗資料収蔵室-8

 うちの田舎にあったのは、こんな冷蔵庫だった。
 田舎の冷蔵庫の中身が思い出された。

民俗資料収蔵室-9

 電気掃除機の走りくらいのときのものだ。
 どれもお宝になりそうなものではあるのだけど、たいていは保存状態がよくない。とりあえず手当たり次第集めてきて、そのまま置いてあるといった感じだ。
 展示物にしても、展示方法に関しても、もう少しなんとかできそうに思う。

民俗資料収蔵室-10

 古いPanaColorのテレビ。昭和40年代の初期のカラーテレビだ。
 発売当時は夢の電化製品で、庶民のあこがれだった。当時は最新のデザインで、みんなはこれをカッコイイと思っていたのだろうけど、今見るととんでもなくデザインが古くさい。
 こんな小さなブラウン管を、家族全員が張り付くように見ていた時代は、貧しくもあり、心豊かでもあった。チャンネル争いなんて言葉も、最近すっかり聞かなくなった。家族がバラバラになったのは、子供部屋にもテレビが置かれるようになってからかもしれないと思ったりもする。

民俗資料収蔵室-11

 下駄と草履が並ぶ、かつての日本の玄関風景。

民俗資料収蔵室-12

 これは懐かしい。板に釘を打ち付けて作ったパチンコ台だ。私も子供の頃、似たようなものを作った覚えがある。
 思えば昔はそんなにたくさんのおもちゃはなくて、けっこういろんなものを考え出して手作りしたものだ。
 素朴なおもちゃでも、想像力で補うことで楽しくなった。

民俗資料収蔵室-13

 シンガーミシン。
 かつては一家に一台、必ずといっていいほどミシンがあった。お母さんは日常的にミシンで縫い物をしたものだ。今はミシンを持っている家は少なくなったのだろう。ましてや、足踏みミシンなどは絶滅に近いんじゃないか。

民俗資料収蔵室-14

 柱時計はたくさん集まったようだ。まとめて壁にかけられていた。
 振り子時計も、一般家庭では見なくなったものの一つだ。

民俗資料収蔵室-15

 木造校舎を撮りに来たつもりが、いつの間にか昭和の懐かし製品撮りに変わっていた。こんな自転車も昔あった。

民俗資料収蔵室-16

 ピッキングなんて言葉がなかった時代、家の鍵はこんな程度で充分だった。ぐりぐり回すねじ式のこんな鍵を知らない世代も増えたのだろう。

 木造校舎を撮るという点においては、大満足とはいかなかったものの、昭和の製品をあれこれ見ることができたのは予想外の収穫だった。
 一見の価値がある場所として、オススメできる。
 私は更なる廃校を求めて、もう少し調べを進めることにしたい。どこかにひょっこり、思い描いているような廃校があるような気がする。かつて子供たちが発した残響が聞こえるような写真を撮りたい。

夜の名古屋城だから出会えた光景と撮れた写真 <後編>

風物詩/行事(Event)
名古屋城宵2-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / DA 16-45mm f4 / 50mm f1.4



 お父さんに肩車をしてもらって、おもてなし武将隊のステージを見る女の子。この日の記憶は、彼女たちが大人になっても残っているだろうか。
 うちは両親がお祭り好きじゃなかったから、家族でこういう祭りに出かけたという記憶がほとんどない。いつも友達と一緒に行っていた。お祭り会場で好きな女の子が浴衣姿でいるところを見て嬉しかった思い出が残っている。
 でも、なんとなく、祭りというのは私にとって気恥ずかしいものだった。素直にはしゃぐことができなかったのは、ひねくれていたわけではなく、照れくさかったからだ。今でもそんなところが少し残っている。
 祭りというのは、参加して楽しむところで、写真を撮りに行くところではないかもしれない。写真を撮るために訪れていると、疎外感とまではいかないまでも、ちょっとだけ浮いてしまっているような気がする。ちょっとだけではない可能性もある。
 鉄砲隊の演舞が終わって、そのあとはぐるりと会場を巡りつつ、特別公開の東南隅櫓と、夜間公開の天守閣を見ようと決めていた。東南隅櫓は普段非公開で、中に入るチャンスは少ないから、並んでも行っておくべきだった。天守閣は登ったことがあるけど、夜間となるとめったに登れない。

名古屋城宵2-2

 おもてなし武将隊というのは、名古屋開府400年の今年、名古屋の魅力を伝えるために結成された武将隊のことだ。どうやって選ばれたのかはよく知らない。オーディションなのか、タレントなのか。
 愛知出身の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、加藤清正、前田利家、前田慶次の6武将と、4人の陣笠隊に扮した10人がメンバー構成となる。
 名古屋城を訪れた人を出迎えたり、いろいろなイベントに参加したりと、今年一年、あちこちで活躍している。
 いい男揃いということで、ファンもだいぶ増えているようだ。全国的な知名度はまだ低いのだろうけど。
 祭りの期間中、いろいろなステージやイベントが行われて、ちょっとした有名人なども来ていたようだ。
 今年初の試みとして、外堀にまきわら船を浮かべるイベントがあった。それを見られなかったのは残念だった。

名古屋城宵2-3

 信長も怒る気をなくすほどの信長風船人形。
 すべてが茶化されてしまうような時代になった。それだけ平和とも言える。

名古屋城宵2-4

 名古屋城には3つの櫓(やぐら)が現存している。南東の辰巳櫓、南西の未申櫓、西北の戌亥櫓(清須櫓)で、すべて重要文化財に指定されている。
 これらは空襲で焼けなかったので、創建当時に近い形で残っている。普段は非公開で、ときどき一般公開される。
 上の写真は、南西の未申櫓だ。これは濃尾地震で崩壊したのを再建したものなので、そのままの現存とは言えないかもしれない。

名古屋城宵2-5

 東南隅櫓の夜間公開は初めてということで、終始行列ができていた。
 しかし、夜間公開は失敗だった。暗い。暗すぎる。暗すぎて何も見えない。
 明かりといえば外から漏れ入る祭りの明かりと、櫓内に展示してある学生が作った光のオブジェだけだ。歩くのもやっとという暗さでは、櫓内部の構造がどうなっているかなど、肝心の部分がまったく見えないのであった。
 こういうものは昼間の公開のときに見なければどうしようもないことが分かった。

名古屋城宵2-6

 天守閣のライトアップは普段もやっていることで、何度も撮ったことはあるけど、名古屋城内からライトに照らされた天守閣を撮るのは初めてだから、なんだかとても新鮮に感じた。
 みんなもそうだったようで、写真を撮っていた。

名古屋城宵2-7

 天守閣を照らすライトの明かり。

名古屋城宵2-8

 天守閣の隣では、本丸御殿の再建が進んでいる。高いフェンスに覆われていて、外からは見えないようになっているのだけど、昼間は中に入って工事を見学することができる。宵まつりの時間帯は工事もしていないし、中に入ることもできなかった。
 来年には玄関の一部が先行公開されることになっている。完成はまだまだ先で、2023年頃になるとのことだ。
 天下普請でもっと早く進められないものか。

名古屋城宵2-9

 名古屋城の天守閣は、空襲で燃え落ちて、戦後にコンクリートで再建されたものだから、内部は近代的になっている。昼間でも電気がついているし、夜間でもあまり印象は変わらなかった。
 展示品は前に一通り見たので、軽く流して、一番上まで上がった。
 ここで一番多く聞かれた言葉が、わー、窓が汚い-、だった。確かに汚れきっていて、外がよく見えない。昼間は表が明るいからそれほど感じなくても、夜になると窓の汚れが目立つ。夜景もかすみがちだ。

名古屋城宵2-10

 お土産コーナーもなかなか賑わっていた。
 昔ここで、ペナントと、金色に塗られた名古屋城の置物を買ってもらった気がするのだけど、あれはどこへいってしまったのか。今でもそんなものは売っているのだろうか。

名古屋城宵2-11

 夜の名古屋城天守閣から見るライトアップされたテレビ塔もなかなかいい。
 名古屋城は4時半までだから、冬の一番日没が早いときでも、この光景は見ることができない。

名古屋城宵2-12

 天守閣の階段。
 特別近代的というわけでもないのに、夜のマジックで不思議な写りになった。

名古屋城宵2-13

 盆踊りもだいぶ佳境にさしかかっていた。何重にも輪ができて、たくさんの人たちが踊っていた。
 俯瞰で上から全体を撮るイメージをしていたのだけど、そんな都合のいい場所はなかった。見物客の頭で視界を遮られて、肝心の踊っている人の姿が撮れなかった。
 公開されたのが西南の櫓だったら、上から撮れただろう。

名古屋城宵2-14

 これは8時半前の様子。だいぶ人も少なくなった。

名古屋城宵2-15

 名古屋城をあとにしたのは、8時45分くらいだったろうか。すでに盆踊りは終わっていた。
 もう一度振り返って、照らされた天守閣と櫓を見る。
 チャンスがあれば、また訪れたい。

名古屋城宵2-16

 思った以上に楽しめて、写真の収穫もあった。迷ったけど行っておいてよかった。
 お盆を過ぎて、祭りも残り少なくなった。今年の夏は祭りづいてるから、こうなったら行けるだけ行っておこうと思っている。来週も再来週も、どこかで祭りは行われている。

名古屋城宵まつりで鉄砲隊の演舞を撮る <前編>

風物詩/行事(Event)
名古屋城宵1-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / DA 16-45mm f4



 名古屋城宵まつりは昨日15日(日曜日)が最終日で、行こうかどうしようか迷っていた。行きたい気持ちが6割、行かなくもいいかなという思いが4割といった感じで、なかなか決めかねていた。最終的にやっぱり行こうとなったのは、火縄銃の実演があったからだった。
 基本的に銃刀関係は苦手で、なるべく近づきたくもないし見たくないという気持ちなのだけど、写真を撮るとなると話は別だ。火縄銃を撃つところを一度撮ってみたいと思っていて、今回そのチャンスが巡ってきた。それほど過度な期待をしていたわけではないのだけど、予想を上回る迫力で、いい写真も撮れて大満足だった。上の写真を撮れただけでも、行ったかいがあったというものだ。
 今日、明日と、二回に分けて、名古屋城宵まつりの様子を紹介することにしたい。

名古屋城宵1-2

 最終日の日曜日、しかもお盆ということで、城内外は大盛況だった。チケットをあらかじめコンビニで買っていったにもかかわらず、入るだけで行列に並ぶことになった。チケットを窓口で買っていた人は二度並ぶことになった。
 前に並んでいた彼の背中にアブラゼミがとまっていた。最初、わざとつけているのかと思ったけど、終始さりげなかったから、本人は気づいていなかったのだろう。彼女がイタズラでつけていたとかだったら面白い。

名古屋城宵1-3

 名古屋城の通常営業は午後4時半までで、宵まつりは午後5時から始まる。夜の9時まで続く。
 今年でまだ5回目と、歴史は浅いものの、名古屋の夏まつりとして定着しつつある。
 毎年7万人以上が訪れるそうだけど、今年は名古屋開府400年記念ということで、特別イベントなどもあり、いつもの年より来場者は多かったようだ。
 こういうまつりとしては異例の10日間続く。
 メインイベントの一つ、名古屋城大盆おどりを待つ人たち。おばさまたちはこれを楽しみにしていたのだろう。地域の盆踊りが少なくなっていることもあって、これだけ大きな規模な盆踊りは貴重だ。

名古屋城宵1-4

 たくさんの出店が並び、ビアガーデンは満員御礼だった。子供から大人まで、とにかく人が多かった。

名古屋城宵1-5

 お城のゆるキャラ大集合で、見覚えのあるキャラたちがいた。子供たちは一緒に記念撮影をして喜んでいた。
 お城のキャラだけど、足が出てちゃまずいだろうと思う。しゃがんだ方がよかったんじゃないか。

名古屋城宵1-6

 火縄銃の実演は、夕方の6時からと6時40分からの2回行われた。まつりの期間中、日曜日だけだったから、チャンスは2日しかなかった。
 最初なので、まったく勝手が分からず、とりあえず一番端っこの後ろに陣取って、望遠で狙ってみることにする。
 鉄砲隊の皆さんが入ってきた。
 甲冑も実物ということで、なかなかに本物感が漂う。
 甲冑も旗もバラバラなのは、みんなマイ甲冑だからだろうか。

名古屋城宵1-7

 皆さん、趣味で集まってやっている戦国野郎とかではなく、プロのパフォーマーとかでもない。名古屋城刀美会会員の有志で組織された尾張田付流古式砲術保存研究会のメンバーの人たちだそうだ。
 ただの見せ物とかでもなく、古くから伝わる古文書を研究して、かつて行われていた実戦の様子を再現することを目指しているのだという。なので、火縄銃の実演というよりも、鉄砲隊の演舞と呼ぶのが正しい。
 全国にはこういう鉄砲隊のグループがいくつかあって、それぞれのスタイルがあり、こういうイベントで砲術演舞を披露している。

名古屋城宵1-8

 始まる前の説明で、しつこいほどに音が大きいから気をつけてくださいと言っていて、そうはいってもたいしたことはないだろうと思っていたら、最初の一撃でビクッとして、激しい手ブレ写真になった。心構えの5倍くらいの大音量で、子供は泣き出していた。
 人でさえたじろぐような大きな音だから、デリケートな馬など、一目散に逃げ出すだろう。武田の騎馬隊が信長の鉄砲隊に負けた理由が分かった。弾が当たる前に馬が言うことを聞かなくなる。
 数人程度であの大きさということは、数百単位だととんでもない音になる。テレビなどでは伝わらない、心臓に直撃する音だ。

名古屋城宵1-9

 音にはなんとか慣れたものの、位置取りを完全に間違えたことに気づく。
 弾は入っていないとはいえ、人に向かって撃つわけにはいかないから、背中を向けて撃つ格好になる。観客はこちら側で半円に囲んで見ている状態だ。
 それにしても、横からも顔が見えないのはよくない。次回は反対側に回ることにした。

名古屋城宵1-10

 演舞自体は10分程度で終了するので、次の回まで30分近くあった。そこらをふらっと一回りして、早めに戻ってきて、場所取りをした。やはりこういうものは位置取りで決まってしまう部分が大きい。今度は逆側の一番前に陣取って、しゃがんで三脚を構えた。1回目は明るさが残っていたから手持ちでもいけたけど、2回目は暗くなるから手持ちでは無理があった。
 鉄砲隊のマスコットガール(?)を撮ってみる。

名古屋城宵1-11

 2回目は思った以上に暗くなった。三脚で手ブレは防げても、シャッタースピードが遅すぎて被写体ブレしてしまう。マニュアルモードに切り替えて、シャッタースピードを1/8から1/10くらいにした。露出がアンダーになるのを覚悟で、これくらいにしないとブレブレになってしまう。
 暗い仕上がりがかえって雰囲気のある写真になったのは、計算外の幸運だった。その幸運が一枚目の写真にもつながった。

名古屋城宵1-12

 1回目は明るくて火薬の爆発ははっきり見えなかったけど、2回目は火花がはっきり写って、カッコイイ。
 撃ったあとの反動で被写体ブレを起こしているけど、これはこれで動きが伝わるからいい。

名古屋城宵1-13

 隊長の号令に従って、各個撃ちから二段撃ち、一斉射撃まで、いくつかのパターンがある。
 一発撃つと、掃除をして、火薬を詰めて、縄に着火して、それを火薬の導線につないで、構えて、ようやく発射することができる。豪快な砲撃と、その間のちまちました作業のギャップがちょっと面白かった。
 あの時代、火縄銃はずば抜けた威力を持っていたけど、まだまだ欠点も多かった。撃つのに時間がかかるし、雨が降っていると使えない。精度もよくない。
 それが幕末になって、外国から新式の銃がたくさん入ってきたことで、戦争は変わってしまった。土方歳三が嘆いたように、もう刀の時代ではなくなっていた。
 名古屋城鉄砲隊が使っているのは、尾張藩のものだそうだけど、どれくらいの時代のものなのだろう。

名古屋城宵1-14

 ファイヤーっという感じで、手元でかなりの爆発が起きている。当時は自爆でやられた兵士もたくさんいたことだろう。
 それにしても、夜の部の方が断然、面白い。シャッタースピードが上げられない難しさはあるものの、撮れる写真の迫力が全然違う。消防関係が厳しくなって、日没後の鉄砲演舞はなかなか許可が下りないそうだから、今回はそういう意味でも運がよかった。宵まつりだからこそ撮れた写真だった。

名古屋城宵1-15

 一人が撃つ弾数は一回で10発なかったくらいだっただろうか。夢中になって撮っていたけど、終わってみたらあっけなかった。でも、考えていたより楽しいもので、また機会があれば挑戦してみたいと思った。だいぶコツは掴んだ。

 宵まつり後編につづく。

ポテトサラダに対する認識が変わったサンデー

料理(Cooking)
ノーマルサンデー

 今週のサンデー料理で一番手間と時間がかかったのは、ポテトサラダだった。鯛料理の付け合わせとして脇に乗っているやつだ。
 今まで、ポテトサラダなんて、まったく重要視していなかったし、嫌いではないけど特別好きでもなかった。それが作ってみたら思った以上に大変で、こんなにも手間取らせるやつなのかと、再認識させられた。脇役のくせに。
 これからは、ポテトサラダを見る目が変わる。そうそう軽々しく扱えない。コンビニ弁当についているやつだって、大事に食べないといけないと思う。
 今回はノンジャンル、ノンテーマの、ノーマルなサンデー料理だった。頭に浮かんだ食べたいものを作った。どうしてふいにポテトサラダを作ってみようと思ったのかは分からない。人が作ったポテトサラダにどうも納得できないところがあって、それがずっと心のどこかに引っかかっていたというのがあったかもしれない。自分ならもっと自分好みのポテトサラダが作れるはずだ。

 まずはジャガイモをつぶさないといけない。皮ごとレンジで加熱して、皮をむく。適当な大きさまでつぶして、牛乳を加えながら混ぜる。それを更にレンジで加熱する。
 柔らかくなったところで、しっかり念入りにつぶして、なめらかにする。この時点で、こいつは思ったよりもやっかいかもしれないと気づいた。
 ゆで卵を作って、それを刻む。ニンジンは細かく刻んでからゆがく。
 それらもろもろを加えて、コンソメの元、塩、黒コショウ、砂糖、マスタード、レモン汁、カレー粉、マヨネーズで味付けをして、よくこねる。いい感じに混ざったら完成だ。
 これでもまだ理想のポテトサラダには遠いと感じた。けど、これまで食べたやつよりは自分好みに近いのは間違いない。いずれ理想のポテトサラダを作れるように、これからもチャンスがあれば作ってみたい。問題は、味見を繰り返しているうちにおなかがいっぱいになってしまうところだ。

 鯛はラップに包んでレンジで加熱する。
 タマネギ、トマト、アスパラは、オリーブオイル、白ワイン、みりん、しょう油、塩、コショウ、カレー粉で味付けをしながら炒める。

 右はナスの素揚げツナ乗せだ。
 ナスは輪切りにして、しばらく水にさらす。
 小麦粉をまぶして、素揚げする。当初は具を挟んでフライにしようと思っていたのだけど、面倒なので楽な調理法に逃げてしまった。
 ツナ缶とタマネギの刻みをごま油で炒め、酒、みりん、しょう油、塩、コショウ、砂糖、めんつゆで味をつける。
 最後にとろけるチーズも加える。

 奥は麻婆豆腐の変形みたいなものだ。
 ごま油でショウガ、ニンニク、豆板醤を炒める。
 大きめに刻んだエビと鶏肉を入れて、酒、みりん、しょう油で炒める。
 塩、コショウ、中華の元、砂糖で味を調え、後半で絹ごし豆腐を入れて、煮込んでいく。
 最後に水溶き片栗粉でとろみをつける。

 趣味の料理とはいえないような普通の夕飯になってしまったけど、食べたいと思っていたものを美味しく食べられたからよしとしたい。
 そういえばお盆だったのに、お盆らしさは一切なかった。食べ終わってしばらくしてから気づいた。ナスで動物をかたどったりすべきだったかもしれない。
 8月は週末が慌ただしくて、のんびり料理ができないでいる。今週は名古屋城の宵まつりだったし、来週も出かけるから、またテーマ性のないサンデー料理になってしまいそうだ。

住吉町の発見は思いがけず嬉しいオマケとなった

観光地(Tourist spot)
住吉-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 四日市の住吉町は、三方を運河に囲まれた、ちょっと変わった地形だ。堀で囲った城のようになっている。ここは昭和になって埋め立てられた土地で、その後、東西を更に大きく埋め立てたことで、運河に取り囲まれるような格好になった。
 運河を挟んで西側が富田一色町、あとの三方は天ヶ須賀町が広がり、住吉町はごく狭い。かつてこの土地は、芸者の置屋や遊郭が集まる歓楽街だったという。
 富田一色町などに点在していたそれらの店を、新しく埋め立てた土地に全部集めてしまえということでできあがったのが住吉町だった。現在は住宅街になっているものの、ところどころに往時の面影を残している。
 これらの知識は帰ってきてから知ったことで、歩いたときは何も知らなかった。思いがけず古い家がたくさん残っていて、予想外の収穫となったのだった。今日はそのとき撮った写真を紹介することにしたい。
 上の写真は運河につながれていたボートだ。これは川港になるのだろうか。運河の名前などは地図に載っていないから、実際に港と名付けられているのかどうかは分からない。

住吉-2

 これは飛鳥神社の前の通りだから、富田一色町の町並みだ。少し写真が前後している。
 昭和の雰囲気が色濃い。

住吉-3

 ベンガラ色の壁がかつての賑わいを忍ばせる。京都の一力を思い出した。
 看板の文字は、お茶のみしま園だろうか。かつては料理屋を営業していた建物のようだ。現在はお茶の店もやっていないみたいだった。

住吉-4

 外の塀から玄関までのアプローチが、とても昭和チックだ。懐かしさを覚えた。
 昔の個人病院のようでもある。

住吉-5

 板壁というのだろうか。部分的に昭和のまま時が止まっているようだった。
 古い町並みはたくさんあるし、けっこう写真も撮っているけど、ここはそれらのどこにも似ていない、一種独特の空気感を持っていた。

住吉-6

 もちろん、家並み保存地区でもなんでもなく、町ぐるみで古い町並みを守っていこうというのでもない。ただ、当たり前のように昭和を続けている感じだ。
 出島のような地形になったせいで開発も進まず、時がゆっくり流れたのだろう。

住吉-7

 これほどたくさんの古い日本家屋を見られるとは思ってなかったから、とても得をした気分だった。
 観光客などめったに訪れるようなところでもないだろうから、ここの存在はあまり一般的には知られていないはずだ。生活臭しかしないところがいいと感じた点かもしれない。観光地化されると、町の空気感が多少なりとも変わってくる。

住吉-8

 格子の美しさをあらためて思う。

住吉-9

 ここも料理屋だったところのようだ。
 置屋だった建物も残っているようだけど、どれがそうかは分からなかった。

住吉-10

 丸窓が印象に残る。かつては、丸窓の店などと呼ばれていたんじゃないだろうか。

住吉-11

 このあと、橋を渡って、天ヶ須賀を抜けて、高松海岸まで歩いていった。そのときのことはすでに書いた。
 写真の順序が逆になるけど、ここから富田駅までの間の風景を紹介しておくことにする。
 上の写真は、富田一色町の水門だったと思う。

住吉-12

 駅を出てすぐの線路沿いの道。
 昔はこちらが正面だったのじゃないかと思うけど、今は東口を出た目の前にイオンがあるから、そちらの方が賑やかになっている。
 右の建物は、駄菓子屋だったか、雑貨屋だったか。営業をやめてしばらく経つ感じだった。
 今更ながら、イオンができる前の富田を訪れてみたかった。

住吉-13

 JR富田駅は、三岐鉄道三岐線の駅でもある。貨物専門の線路が何本もあり、貨物列車もたくさんとまっている。

住吉-14

 時間は飛んで、夜。
 四日市ポートビルで、コンビナートの夜景を撮り、富田浜駅まで歩いて戻った。

住吉-15

 さすがにくたびれて、ベンチに腰掛けて電車を待つ。
 いかにも地方の駅という雰囲気がよくて、写真を撮った。
 名古屋方面か、……って、こっちで待ってちゃダメじゃん。名古屋に帰るんだから、向こうで待たないと。あやうく電車を逃すところだった。

 こうして松阪の旅は終わった。ずっと気になっていた行き止まりの伊勢奥津駅にも行ったし、松阪の町歩きもして、富田、高松海岸も見ることができた。四日市コンビナートも撮って、メニューはすべてこなした。
 あれからまた別の旅をしたのだけど、そのときの話はまた近いうちにしたいと思っている。
 完。

聖武天皇もふらりと訪れた四日市の富田

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
富田1-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 川越町の高松海岸へ行くとき、JR富田駅から歩いていったと、前に書いた。それは単なる移動ではなく、寄りたいところがあったからだった。
 行く前はまだ町の成り立ちを知らず、地図を見て、聖武天皇社と飛鳥神社というのに目をつけた。それと、海から少し入った運河の脇に住吉町というのがあって、何か古い湊町の予感がしたので、そこも行ってみようと思っていた。そして、この歩きは予想以上の収穫をもたらすことになる。
 JR富田駅は、用事もなく降りる駅ではないと思う。位置的には悪くない。四日市と桑名のちょうど中間あたりで、名古屋へも普通列車ながら40分ほどで行くことができる。充分名古屋への通勤圏内だ。
 人口も増えているようで、富田駅の乗客数も、2003年の670人から2008年には770人に増えている。
 駅前には大きなイオン四日市北ショッピングセンターがある。東洋紡績富田工場跡地に、2001年に建てられた。
 地元商店街の反対運動を抑え込んだのは、岡田一族だった。この地区出身の岡田卓也は、三重県ではよく知られた人物だ。四日市の老舗呉服店「岡田屋」の7代目で、ジャスコを設立して、現在のイオングループの基礎を作った。その次男が、現在外務大臣をしている岡田克也だ。富田地区は選挙の地盤の一つでもある。イオンは長男の岡田元也が継いでいる。
 そんなわけだから、ここにイオンがあるのは当然といえば当然のことだ。
 まず最初に向かったのは、イオンの北西にある聖武天皇社だった。

富田1-2

 駅から少し歩いた踏切そばに、格子の古い家があった。やはり予想は間違いじゃないかもしれないと、期待がふくらんだ。

富田1-3

 山車曳きを見て、驚く。祭りが行われていることをまったく知らなかったから、思いがけない光景に喜んだ。
 帰ってきたから知ったのだけど、このときちょうど向かっている聖武天皇社の松原石取祭というものだった。
 7月の16日から18日の3日間、行われたものだ。ネタとしてすっかり古くなってしまった。
 18日には5台の山車が町内を練り歩いたそうだ。
 江戸時代は木と木の間に太鼓を下げて、枝に鉦(かね)を吊す祭りだったものが、大正から昭和にかけて山車を曳く祭りに変わり、その後山車も増えて、現在に至っている。平成5年の皇太子成婚をきっかけに、それまでの土日開催から金、土、日の3日間になったらしい。

富田1-4

 聖武天皇社は、少し奥まったところにあって、やや分かりづらい。松原郵便局と四日市北署の間の細い道を入っていったところだ。

富田1-5

 狭い境内に、たくさんの提灯がつり下げられていた。提灯が混雑している。

富田1-6

 740年、聖武天皇は突然、「われ関東に往かむ」と宣言した。
 周囲の者たちは、初め、本気とは取らなかっただろう。天皇が職務を放り出して突然、旅に出ると言い出したのだ。にわかには信じられない。しかも、奈良時代の関東といえば、都から遠く離れた辺境の地だ。何事かとみんなは驚いたに違いない。
 しかし、天皇は本当に旅立ってしまった。もちろん、ふらりと一人旅というわけにはいかないから、お付きの者たちが従ってお世話をしたはずだ。
 10月26日に大和を出立して、伊勢の朝明郡を通りかかったのは、11月23日だった。

 奈良時代、聖武天皇治世のとき、世の中は騒然として落ち着かなかった。聖武天皇には幼少期から暗い影がつきまとっていた。
 文武天皇の第一皇子として生まれたものの、7歳のとき父はこの世を去り、母親は精神を病んでいて会うことさえできなかった。母と初めて会ったのは37歳のときだった。
 こういう経緯もあって、天皇の即位もすんなりいかず、天皇は父・文武天皇のお母さんである元明天皇が継ぎ、さらに文武天皇の姉である元正天皇がつないで、ようやく24歳のときに首皇子(おびとのみこ)が天皇位を継いで、聖武天皇となった。
 この頃、藤原氏が天皇家に匹敵するほどの力を持つようになり、何かとモメ事が起きていた。
 一方で、若い天皇に成り代わって実権を握っていたのが長屋王(ながやのおおきみ)だった。長屋王は、天皇に近い血筋で、もしかしたら天皇にもなれていたかもしれない人物だ。
 この長屋王と藤原氏がぶつかった。聖武天皇の后である光明子は、藤原不比等の娘で、皇族でないことから、長屋王は光明子が皇后になることを反対した。かつて皇族以外の后が皇后になったことはない。皇后になると、夫である天皇が亡くなったとき、天皇を継ぐ可能性があるからだ。
 娘を天皇家に嫁がせた次は、自分の一族から天皇を出すことを目標にしたのは藤原氏としては当然のことだったろう。長屋王の存在は邪魔だった。
 729年、長屋王の変が起きる。濡れ衣を着せられた長屋王は、兵隊に屋敷を囲まれて自害して果てた。おそらくは、藤原氏の陰謀だったのだろう。光明子の兄弟である藤原四兄弟が裏で糸を引いたといわれている。
 こうして、光明子は光明皇后になった。のちに聖武天皇と光明皇后の娘が孝謙天皇として即位することになる。
 皇室でのゴタゴタだけでなく、国内では天然痘などの疫病が流行り、国民はバタバタ死んでいった。天災が続き、田畑も荒れ、略奪や争いも各地で頻発した。
 そんな中(737年)、藤原四兄弟が相次いで天然痘にやられて命を落とすことになった。人々は長屋王のたたりだと噂し合ったという。
 この状況をなんとかしたいと願った聖武天皇は、仏教に走った。仏教に深く帰依し、僧侶たちに祈祷をさせ、効き目がないとなると罰を与えたりした。
 そして、極めつけとして思いついたのが、東大寺大仏建立だった。大きな災厄を打ち負かすには、巨大な大仏を造るしかないと思ったのだろう。
 一説によると、仏教に熱心だったのは光明皇后の方で、後ろから天皇の背中を押していたのは光明皇后だったという話もある。
 1940年9月3日。九州の太宰府で、藤原広嗣が反乱を起こしたという知らせが都に届いた。
 2年前に太宰府への赴任を命じられた広嗣は、それを左遷と感じていて腹を立てていた。この頃、都で中心となって政治を行っていたのは、吉備真備(きびのまきび)だった。吉備真備の政治は間違っていると訴えたものの、聞き入れられないと、広嗣はついに挙兵した。
 それに対して聖武天皇は、各地から兵を集めさせ、藤原広嗣の反乱を収めるべく、九州に向かわせた。
 9月22日、戦いが始まる。情勢は終始、朝廷軍優位で進んだ。
 10月9日、投降するようにという呼びかけに対し、広嗣は馬に乗って現れ、自分は反乱を起こしてるんじゃない、吉備真備たちの処分を求めているだけだと言い訳をした。それじゃあ、何故挙兵して戦っているのかと問われ、返す言葉をなくして、また自陣に引き返していった。
 その後、広嗣軍は敗走を始め、新羅へ逃れようとして失敗し、潜伏していたところを捕まってしまう。
 これが10月23日のことだ。
 この日付に注意してほしい。聖武天皇が突然、「われ関東に往かむ」といって旅立ったのが、10月26日だ。まだ反乱が鎮圧されたという知らせは都まで届いていない。にもかかわらず、聖武天皇は旅に出てしまった。周りの人たちは唖然としただろう。
 11月1日、藤原広嗣は、唐津で斬られた。そのとき、聖武天皇は旅の空だ。
 11月24日、伊勢の朝明郡松原村を歩いていたとき、ふいに強い風が吹いて聖武天皇がかぶっていた笠が池に落ちた。近くで洗濯をしていた娘が、それを拾って渡すと、天皇はいたく喜び、今夜はおまえの家に泊めてもらおうということになった。田舎に泊まろうの奈良時代版だ。
 しかし、まさか天皇が伊勢あたりの海岸をうろついてるとは思わない。家の人たちもさぞかしびっくりしたことだろう。天皇は何か記念の品を与えたようで、家宝として代々伝わっていたそうだけど、火事で焼けてしまったんだとか。
 翌日、天皇は松原村をあとにした。そして、こんな歌を残している(万葉集に収録)。
「妹に恋ひ、吾の松原見渡せば、潮干の潟に、鶴なき渡る」
 都では大変なことが起きていて、九州の反乱も収まったかどうかというときなのに、ずいぶんのんきな歌を詠んでいたものだ。
 鎌倉時代の1227年に、聖武天皇が泊まった記念として、聖武天皇社が創建された。
 ただ、かなり歳月も流れていて、実際に天皇が泊まった場所は特定できず、一応ここの可能性が高いということで決められたという経緯があったようだ。

 その後の聖武天皇はというと、結局、関東までは行かず、伊勢のあと、美濃まで行って引き返して、近江を通って山城に帰って行った。51日間の旅だった。
 旅の間にいろいろ思うこともあったのだろう。仏教への傾倒はますます強まり、ここからは大仏建造、国分寺建立と、急ピッチに進め、さらには遷都を繰り返した。
 749年、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位したのも、唐突な出来事だったようだ。勝手に出家して、天皇位を放り出してしまったという話もある。
 752年の大仏開眼供養にはどうにか間に合った。聖武太上天皇(このときすでに天皇ではない)がこの世を去るのは、その4年後のことだ。
 開眼供養のとき、大仏はまだ完成していなかった。鍍金も中途で、光背はまだなかったという。大仏殿も工事中だったのに開眼供養を急いだのは、聖武太上天皇が病気だったからともいわれている。
 大仏がすべて完成したのは、771年だった。
 鑑真が来日したのは、754年で、聖武太上天皇や光明皇后も会っている。仏教好きの二人にしたら、これは大変な感激だったんじゃないだろうか。
 仏教一筋に生きた聖武天皇が神社で神として祀られているのも、皮肉というのではないにしても、本人としてやや複雑かもしれない。全国的にも聖武天皇関係の神社は珍しいそうだ。

富田1-7

 稲荷の鳥居は、光と影でドラマチックになる。

富田1-8

 神社前の松原公園には、出店も出ていた。
 かつては公園でカラオケ大会があったそうだけど、最近はなくなってしまったらしい。
 聖武天皇は苦笑いをしているか、歌好きだったから喜んでいるだろうか。

富田1-9

 お祭りがあり、家族がいる平和な世界。
 逃れるように旅をしていた聖武天皇が見た松原村は、海辺の寒村だった。聖武天皇の心の中は寒々しいものだったかもしれない。

富田1-10

 富田一色町へとやってきた。
 ここは埋め立て地で、多くの人がよそから移り住んでできた町だそうだ。
 作られた町ということで、整然と区画割りがされている。
 江戸時代に大きな火事があって、家をたくさん焼いたことから、飛鳥神社前に広小路通りを通して、火事対策をしたという。狭い町に、不自然に広い道が通っているのは、そういう理由だ。
 このあたりは昔の家並みというより、昭和の風情を少し残している。

富田1-11

 飛鳥神社は、思っていたよりも立派な神社だった。

富田1-12

 神社だけど寺っぽい門があったりもする。

富田1-13

 飛鳥神社というから、奈良の飛鳥と関係があるのかと想像したら、それは全然違っていた。飛鳥神社の名前の由来は調べがつなかった。
 どこか寺っぽいところがあると思ったらやはりそうで、742年に漁師の網に千住観音像が引っかかって以来、村人はそれを拝んでいて、観浄寺が創建された。
 やがて、それはきっと諏訪大明神が姿を変えたものに違いないと誰かが言い出し、それじゃあというので824年に建御名方命(タケミナカタ)を勧請して、観浄寺の鎮守として祀った。これが飛鳥神社の前身とされている。 
 時が流れて、神社としての色合いを強め、祭神も事代主命や大山祇命、厳島姫命が加わった。
 コトシロヌシは、オオクニヌシの息子で、タケミナカタの兄だ。建御雷神(タケミカヅチ)がオオクニヌシに葦原中国の国譲りを迫ると、息子のコトシロヌシが了解したら譲ると約束した。コトシロヌシはあっさり了承するも、弟のタケミナカタはうんとは言わなかった。そこでタケミカヅチと戦うことになり、あっけなく負けて、国譲りをすることになった。
 1907年に厳島神社を合祀している。
 ここに祀られている神は、戦の神の意味合いが強い。水にも関係しているから、漁の成功を願うなら適した神かもしれない。

富田1-14

 大きな木々が森を作り、神社を異空間にしている。
 間口は狭く、奥行きのある境内だ。

富田1-16

 雰囲気のあるいい拝殿だ。1860年に建立されたものだそうだ。

富田1-15

 狛犬もいまどきのものではなく、歴史を感じさせる古い形のものだ。

 明日、あさっての8月14日(土)、15日(日)は、飛鳥神社前で富田一色けんか祭りが行われる。
 先祖を供養するための祭事で、町内が3組に分かれて、直径1メートル、重さ100キロの鉦(かね)と太鼓を担いで、競い合って境内に練り込むという祭りだそうだ。
 けんか祭りの名前の通り、なかなか荒々しいもののようだ。

 次回、住吉編につづく。

御油神社に挨拶に行ったけどイザナミは留守だった <後編>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
御油夏まつり2-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / 55-300mm f4-5.8



 御油の夏まつりは、御油神社の祭事ということで、やはり神社にも参っておかないといけないだろうと、御油神社に向かった。
 けれど、祭神であるイザナミを御輿に乗せて町内を練り歩くのが御油の夏まつりなわけで、ということは、神社に行っても神様はお留守なのではないかと、あとになって気がついた。挨拶に行ったつもりが、留守宅の玄関先で名を名乗って独り言を言ってるおかしな訪問者となっていたようだ。山車が目の前を通ったときは写真を撮ることに気を取られて挨拶も忘れていた。イザナミはあの金ピカの御輿に乗っていたのだろうか。

御油夏まつり2-2

 街道筋の多くの家の玄関先に、これと同じ提灯が吊られていた。祭りのものなのか、祭礼関係のものなのか。
 日の丸提灯というと、祝日に掲げる国旗と同じような意味合いがあるようにも思える。

御油夏まつり2-3

 とても昭和チックな玄関。
 うちの田舎もこんな感じだった。

御油夏まつり2-4

 御油小学校。
 小さな町のわりには校舎が大きい。増築されたような建物もある。
 この地区は思っているより世帯数が多くて、子供もたくさんいるのかもしれない。
 土曜日でもあり、夏休みでもあるということで、学校に人影はなかった。この日はお祭りで、先生たちも学校よりお祭りにかり出されていたんじゃないだろうか。

御油夏まつり2-5

 御油神社前には立派な幟(のぼり)が立てられていた。御油橋にも同じものがあった。神社のものも、祭りの間だけだろうと思う。

御油夏まつり2-6

 駅からは1.5キロくらい離れていて、わりと遠かった。ふらふら歩いていたら20分以上かかった。
 誰か参拝してるか、関係者でもいるだろうと思ったら、あたりにはまったく人影はなく、深閑と静まりかえっていた。まさにもぬけの殻といった様子だった。

御油夏まつり2-7

 御油神社に関しては何の予備知識もなかった。このときは祭神がイザナミということも知らなかった。
 古い神社なのか、新しい神社なのかも分からないまま、苔むした石灯籠がいい感じなので撮ってみる。

御油夏まつり2-8

 室町時代の中期、1444年に、熊野族の稲石五郎蔵光朝が紀伊国からこの地に移ってきて、御油城を築いた。
 その後、林と名乗り、代々、今川、徳川と仕え、林光正は1563年の御油台合戦で討ち死にして、御油城は廃城になったようだ。御油小学校校舎の東が城跡といわれている。
 御油神社は、林氏が熊野権現から若一王子(にゃくいちおうじ)を勧請して祀ったのが始まりという。
 もしくは、もっと以前の1200年頃、三河国国主の藤原俊成郷が那智から勧請して社を造り、1444年に御油に移されたという話もある。初めは若一王子社と呼ばれていて、のちに地名から踊山神社という名になったらしい。
 情報が少なくて、はっきりしたことは分からなかった。
 はっきりしているのは、熊野信仰と深い関わりがありそうだということだ。
 熊野三山は神仏習合の霊地で、十二の権現が祀られている。権現というのは、日本の神は仏が仮の姿で現れたものであるという思想(本地垂迹思想)で、どちらかというと仏教寄りの信仰だ。
 三所権現、五所王子、四所明神に分けられ、若一王子は五所王子の第一位とされている。
 若一王子の本地仏は十一面観音で、アマテラス、もしくはニニギと同一視された。
 ついでに書くと、本地仏というのは、日本の神はどういう仏かという話で、たとえば、スサノオは牛頭天皇、オオクニヌシは大黒様といったふうに、神と仏を一対にした考え方をいう。
 ただ、ややこしいのは、いろいろかぶっていて、十一面観音も大日如来もアマテラスだったり、八幡神も熊野権現も、本地仏は阿弥陀如来だったりして分かりづらい。
 そもそも、日本の神様の数に対して仏の数が全然足りない。だから、この本地垂迹思想というのは、最初から無理がある。日本に仏教が入ってきたとき、仏教を広めるためにこの思想が生み出されて、悪く言えば庶民を言いくるめるための方便として利用して、仏教を信仰させたという歴史がある。
 ところで、もともとは若一王子を祀っていたのに、どうして現在、祭神はイザナミということになっているのか。そのあたりも詳しい事情は調べがつかなかった。
 明治の神仏分離令で、若一王子を祀っていた神社は、アマテラスやニニギノミコトを祀るようになったろころが多いという。
 御油神社では何故、ニニギでも、アマテラスでもなく、イザナミになったのか。もっと以前の段階、たとえば戦国時代にはすでにイザナミになっていた可能性もある。 
 イザナミと熊野は、深い関係にある。熊野本宮大社では第一殿で祀られているし、島根県松江の熊野大社などでも祭神となっている。紀伊の熊野本宮大社と松江の熊野大社の関係はよく分かっていない。別系列という説もある。
 若一王子も、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社で祀られていて、これはアマテラスのこととしている。
 どこかで、若一王子とイザナミが入れ替わったらしい。

御油夏まつり2-9

 神様不在ということで、拝殿の中は引っ越し準備中のように雑然としていた。賽銭箱も奥の脇に追いやられていて、賽銭を入れることもできなかった。
 それでも挨拶をして、満足げな私を、イザナミさんは遠くで笑っていたかもしれない。誰か留守番をしている神もいただろうか。

御油夏まつり2-10

 石段の光と影のまだら模様がきれいだった。
 祭りのクライマックス神輿還御では、松明で照らされたこの石段を、御輿を担いだ男たちが一気に駆け上がっていく。

御油夏まつり2-11

 境内にあった古い建物。かつては誰かがここに住んでいたのだろうか。

御油夏まつり2-12

 戻ってくると、河原では何かの準備をしていた。ここが花火の会場だったかもしれない。打ち上げ花火だけでなく、三河の伝統、手筒花火も行われたそうだ。手筒花火も一度撮ってみたい。

御油夏まつり2-13

 自然と一体化しつつある屋根瓦風景。

御油夏まつり2-14

 山車曳きも撮って、御油神社にもお参りしたところで満足した。
 次の予定が控えているので、御油をあとにした。

老いも若きもみんなで守り伝える御油夏まつり <前編>

風物詩/行事(Event)
御油夏まつり1-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 安城の七夕と岡崎の花火を見に行った日、一番最初に行ったのが御油(ごゆ)の夏まつりだった。
 この旅の計画を立てているときにこの祭りの存在を知って、方角的にはついでと言えなくもないし、行けるものなら見てみたいと思った。ただ、御油は東海道の宿場町歩きで6月に行ったばかりだし、これをねじ込むとスケジュールがタイトになるということで、直前までどうしようか迷っていた。当日になってもまだ決めかねていて、豊橋に着いたところでようやく行くと心が決まった。
 その判断は正しかった。思った以上に立派なもので、見ておいてよかったと思ったのだった。

御油夏まつり1-2

 名鉄御油駅は、名鉄名古屋本線の中で利用客が特に少ないところとして一部で知られている。一日の乗車人数は300人ほどで、平成18年は55駅中52位だったそうだ(一番少ないのは、豊川の小田渕駅で200人ちょっと)。
 この日は祭りが行われている土曜日の午前中ということで、もしかしたらワッと降りるんじゃないかと思ったけど、私の他に降りたのは3人だった。祭りはすでに始まっている時間だったとはいえ、日にちを間違えたのかと、ちょっと心配になったくらいだ。
 駅から出たら、ちょうど駅前に山車が来ていて、安心する。
 ちびっこたちが爆竹を鳴らしたり、ロケット花火をやったりして、やたら賑やかだ。遠くからはどんどんという煙火(えんか)の音も聞こえてくる。
 前回訪れたときは、人も歩いていないような静かな宿場町跡だったのに、この日はまったく別の町のように騒然としていた。

御油夏まつり1-3

 近くにある御油神社の神事で、ご神体を神輿に乗せて、町内を一泊二日で練り歩き、厄払いをするというものだ。6地区から6台の山車と巫女車が出て、町内中を歩きながら、御油橋のたもとにある御旅所で一泊して、翌日の夕方、また同じように町を歩いて御油神社に戻っていく。
 夜には奉納花火も打ち上げられ、この2日間、御油の町は夏まつり一色に染まるのだった。
 知名度がどれくらいあるのかはよく知らないのだけど、かなり本格的なもので、町内会のお祭りというレベルではない。
 観光客の姿は多くなかった。写真を撮っている人も何人かはいたものの、列をなして場所取りをしているといったふうではない。これだけのものだから、もっと知名度があってもよさそうだ。

御油夏まつり1-4

 暑いさなか、山車を曳き回すだけでも大変なのに、御神輿もある。厄年の男たちが担いでいるそうだけど、25歳はともかく、42はちょっときつい。61歳ももしかしたらいただろうか。神輿の重量は1トンもあるという。

御油夏まつり1-5

 屋台の上には女の人や子供たちが乗って、笛を吹いたり、三味線を弾いたりしている。
 とても情緒があり、日本らしさを感じさせる。今年の夏は、あちこちで日本の夏を実感している。

御油夏まつり1-6

 山車によっては、若手が中心になって元気に曳いている。
 地区によって若者が多いところとそうじゃないところの差があるのかもしれない。

御油夏まつり1-7

 鼓担当の女の子たちも楽しそうだ。
 中には無理矢理参加させられて嫌な思いをしている子供もいるだろうけど、こういう伝統的なお祭りや行事が地域に根付いているというのはいいことだ。大人になったとき、きっといい思い出になっていることだろう。

御油夏まつり1-8

 彫り物が立派な山車。
 明治時代の山車もあって、どれも古そうだった。この狭い地区に6台も山車が残っているのは立派なことだ。

御油夏まつり1-9

 山車の車輪。
 木製で、重たいものを支えているから、傷みも早いのだろう。古くなった車輪が御油神社に積まれていた。

御油夏まつり1-10

 白装束のおじいさんとおばあさんの人形が曳かれている。
 何か意味があるのだろうけど、何を象徴しているのか分からなかった。御油神社の祭神はイザナミノミコトだ。だとしたら、年を取ったイザナミとイザナギということか。

<追記>
 能で演じられる「高砂」の老夫婦だと教えていただいた。

御油夏まつり1-11

 とにかくたくさんの若者と子供が参加していて、そこに感心した。地区がどれくらいの範囲なのか知らないけど、あれだけ大勢の若手がいるとは驚いた。今どきの若者はこんな祭りは嫌がりそうなのに、地区を挙げてみんなで伝統行事を守っていこうという姿勢が見えて、好感が持てた。

御油夏まつり1-12

 子供たちは若干疲れ気味というか、退屈していたかもしれない。
 朝の8時半から12時までが初日で、2日目は夕方の4時から夜の8時半までという長丁場だ。暑さもこたえるだろう。
 祭りのクライマックスは、松明に照らされた御油神社の石段を、男たちが神輿を担いで、うぉーっと叫びながら一気に駆け上がっていくシーンだ。
 御油の花火もバラエティに富んでいてなかなかいいそうだから、機会があれば次は夜の部を見に行きたい。

御油夏まつり1-13

 祭りを撮るというのは実質今年が初めてのようなもので、最初は何をどう撮っていいのか分からず戸惑ったけど、結局のところ、人を撮ればいいのだと分かった。全体を説明的に撮らなくても、参加している人を撮れば、祭りの雰囲気は伝わる。

御油夏まつり1-14

 巫女さんの衣装を着た女の子かと思ったら、男の子だった。
 男の子が巫女さんをやるというのは、他でもけっこうあるようだ。

御油夏まつり1-15

 山車曳きはこんな様子。みんなでぞろぞろ練り歩く。

 御油神社は前回の宿場歩きのときに行かなかったので、今回挨拶に行ってきた。
 その様子は次回の後編で紹介することにしたい。
 つづく。

安城七夕まつりへ行く

風物詩/行事(Event)
安城七夕-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 岡崎の花火を見に行く前に、安城(あんじょう)の七夕まつりを見に行った。一宮の七夕まつりを見た勢いに乗って、安城も見ておこうという気持ちになったのだった。




安城七夕-2

 駅前祭り会場のメインストリート。
 土曜日ということもあって、なかなかの人出だった。3日間で100万人以上の人が訪れるそうだ。
 祭りが始まったのは昭和29年で、今年で57回目という。


安城七夕-3



安城七夕-4

 何をしにいったというわけではなく、漠然と七夕まつりを見に行っただけなので、現地に着いて何をすればいいのか思いつかず、しばらく立ち尽くしてしまった。とにかく飾り付けのある道を歩いてみるしかない。買い食いをするわけでもなく、パレードの時間でもなく、目標とすべき神社もない。


安城七夕-5



安城七夕-6



安城七夕-7

 縦だけでなく横にも竹飾りの通りがある。せっかくなので、縦も横も、端から端まで歩いてみた。
 とにかく屋台の数が多い。人も多くて、立ち止まったりするので、歩くだけでも大変だ。想像以上の賑わいだった。


安城七夕-8

 願いごと広場の短冊ロードと名付けられたところには、たくさんの短冊が結ばれていた。全部で5万枚も飾られているんだとか。
 願い事イベントとして、願いを書いた5,000個の風船を一斉に空に向かって飛ばすイベントがあって、実はこれが一番撮りたかったのだけど、時間が合わずに見ることができなかったのは残念だった。


安城七夕-9

 広場には仮説の鳥居と社があった。安城神社の境内社である七夕神社が祭りの期間だけ引っ越してくるのだそうだ。
 安城神社の存在は知らなかった。帰ってきてから地図で調べたら、会場から少し離れるものの、歩いていける距離にあった。知っていれば行っていたのに。


安城七夕-10



安城七夕-11



安城七夕-12

 餅投げをしていたのは、ミス七夕の人たちだっただろうか。
 パレードや踊りなんかを見ることができれば、もっと楽しめただろうけど、タイミングがあまりよくなかった。もう少し粘れば、暗くなってライトアップが始まったり、盆踊りがあったりしたのだけど、このあと岡崎の花火を見に行かなくてはいけなかった。


安城七夕-13

 岡崎の花火は同じ週に行われるから、二本立てで両方見るという人も多いようだった。電車には浴衣の女の子やカップルが大勢いた。
 鉄道の職員たちも総出といった感じで忙しそうにしていた。
 安城から岡崎への移動パターンはいくつある。私は南安城まで歩いて名鉄で新安城、新安城から矢作橋まで行くというルートを選んだ。岡崎の花火の様子は、すでに紹介した。

 間の悪さもあって、安城の七夕まつりの魅力を充分味わえなかったのが心残りだ。機会があれば再訪してみたい。

着地点はともかくご当地グルメマンデー

食べ物(Food)
ご当地くずれサンデー

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 昨日はサンデー料理ができず、今日にずれ込んで、マンデー料理となった。ここのところ、ややパターンがずれつつある中で、なんとか週に一度は趣味の料理を作っていきたいという気持ちは失っていない。
 今日のテーマは、ご当地グルメだった。しかし、跡形もなく崩れ去った。久々に大きな失敗をやらかして、途中でしばらく途方に暮れた。最終的にはどうにかまとめたものの、当初の予定とは大きくずれた仕上がりになった。
 ご当地グルメは最近よく話題になっていて、ご当地B級グルメの祭典、B-1グランプリも行われている。第一回、第二回グランプリで連続優勝したのは、富士宮焼きそばだった。ご当地グルメの代表格としてよく知られた存在だ。
 第三回は、厚木シロコロ・ホルモン、第四回は横手やきそばが優勝した。今年もまた9月に厚木市で開催されるようだ。
 エントリーの中から何かを選んで作ろうと思ったのだけど、麺類や酒のつまみみたいなものが多くて、サンデー料理のおかずには向かないものがほとんどだった。
 あれこれ調べて選んだのが、ゼリーフライ、とうふちくわ、たまごふわふわだった。それぞれを知っている人から見れば、上の写真の3品が原形をとどめていないことが分かると思う。
 これらの3つは、B級グルメというよりも、郷土料理に近いものかもしれない。

 一番遠く離れたのが左手前のものだ。一見すると美味しそうに見えるけど、とうふちくわが変形したものだとは思えない。
 すごく致命的な失敗として、豆腐とジャガイモと、それぞれ混ぜ合わせる相手を間違えてしまった。白身魚のすり身と木綿豆腐を混ぜ合わせなければいけないのに、白身魚にジャガイモを合わせてしまったのだった。
 本来は白身魚と木綿豆腐を混ぜて、棒に巻いて、蒸して、ちくわにするのが、とうふちくわというものだ。鳥取などで伝統的に食べられているものらしい。
 とりあえず団子にして蒸し器で蒸してみたところ、鍋の中で崩壊して、ぐずぐずになってしまった。白身とつぶしたジャガイモでは蒸しても固まるはずがない。
 急遽路線変更して、フライパンで焼くことにした。それで、なんとかお焼きみたいにすることはできた。
 ソースは、酒、みりん、しょう油、塩、マヨネーズ、からし、砂糖をひと煮立ちさせて作った。
 とうふちくわということを忘れれば、これはこれで美味しい料理だった。怪我の功名といえるかどうかは微妙だけど、味に関しては結果オーライだった。

 右はゼリーフライだけど、これもペアも間違えているので、正当なゼリーフライではない。
 埼玉県行田市の名物で、パン粉を使わずに素揚げしたコロッケで、おからを使うことを特徴としている。関東では知られた存在なんだろうか。
 ジャガイモをつぶしたものと、おからを混ぜ、卵と小麦粉をつなぎにして、コロッケ状にしたものをそのまま揚げる。
 ぷるぷるデザートのゼリーではなく、形が大判、小判みたいで、銭フライから変化した呼び名とされている。
 豆腐とおからを混ぜたものではヘルシーすぎるし、味気ない。タマネギとニンジンの刻みを加え、ダシの素、塩、コショウで下味をつけた。それでもかなりあっさり味だったから、美味しく食べるにはソースに工夫が必要だった。今回はソースが思いつかずにしょう油で食べてみたけど、トマトソースやタルタルソースでもよさそうだ。
 本来の形である、ジャガイモとおからだったら、また違う味と食感になっていたのだろう。

 奥はたまごふわふわという袋井で作られているものだ。
 江戸時代にはすでに食べられていたもののようで、袋井はこれを名物にしようと、あちこちで作ってすすめているそうだ。
 私が作ったものはかなり型くずれしてしまって、本家からは遠いものとなっているけど、ちゃんと作ればもっと美味しそうな見た目になる。
 まずはだし汁を作る。お吸い物の汁のようなものだ。
 酒、みりん、しょう油、ダシの素、白だし、塩、水で基本のだし汁を作る。そこにエビを入れて、煮立たせる。
 その間に卵を混ぜる。ケーキのスポンジを作る要領で、ふわふわの状態までかき混ぜる。このとき、少し砂糖を加える。
 だし汁が煮立ったら火を止めて、ふわふわ卵を流し込み、ふたをして、火をつける。
 卵がふっくらふくらんできたら火を止めて、しばらく置く。卵を入れてからはあまり加熱しない。
 これはふわふわで面白い食感だ。だし汁と一緒に食べるのが美味しい。卵料理の定番の一つとして定着していいものだと思う。
 ふたつきの小さな土鍋があるときちんとしたものが作れる。100円ショップで売ってる土鍋で充分だ。

 最初に考えていたのとはずいぶん違うところに着地してしまったけど、なんとか強引にまとめて、食べられる料理に仕上がった。再現度は別にして、ご当地グルメという方向性に間違いはなかった。失敗からあらたな料理が生まれることはよくあることだ。
 郷土料理やご当地グルメは、まだまだ知らないものがたくさんあるから、また調べて作ってみよう。

岡崎花火大会の消極的な楽しみ方 <後編>

花火(Fireworks)
岡崎花火2-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / PENTAX-M 50mm f1.4



 岡崎の花火会場に到着したのは、始まって少し経った7時15分頃だった。
 すでに見物客はスタンバイを完了していたものの、やはりここは人が少ない。穴場情報は本当だった。
 岡崎の花火は、乙川河畔と矢作川と、2ヶ所で同時に打ち上がる。メインの会場は乙川の方で、あちらはものすごく大混雑をするという話を聞いて尻込みした。以前、戸田橋花火でえらい目にあったことがあって、もう一度あんな体験をするのは避けたかった。混雑は行きよりもむしろ帰りが強烈で、怒声が飛び交う殺伐とした雰囲気に包まれるのがなんとも嫌だ。せっかくなら花火を近くで撮りたいけど、なるべく平和に見たいという気持ちの方が強かった。
 矢作川河畔は、比較的空いていて、両方の花火が見えつつ、ゆったりしているというので、そちらで見ると決めていた。
 右岸でも左岸でも見えるということだったけど、帰りのことを考えて左岸にした。地図で見ると川の右側だ。
 できるだけ混雑を避けることを優先して、行きの電車は名鉄の矢作橋で降りた。東岡崎の混雑は猛烈らしいので、あそこだけはやめた方がいい。特に帰りが危険だ。
 矢作橋から見物ポイントまでは2キロくらいあって、少し時間がかかった。私が見たのは、町名でいうと八帖南町1の土手だった。もっと南まで行くと、矢作川の打ち上げポイントに近くなるけど、たぶん、近づくほどに混んでいるのだと思う。
 帰りは花火大会が終わる20分前に腰を上げた。終わった直後に帰ろうとすると、人の渋滞と電車に乗るための待ちですごく時間がかかる。とにかく名鉄は混雑がひどいので、中岡崎駅から愛知環状鉄道に乗って岡崎まで行き、岡崎からJRに乗り換えて名古屋に帰った。それでも、愛知環状鉄道は朝のラッシュ並みのすし詰めだった。JRまで出てしまえば、普段と変わらない。
 岡崎の花火は8月の第一土曜日の一日限りで、今年はもう終わってしまったけど、来年以降の参考にしてもらえればと思う。こんな消極的な楽しみ方もあるということで。

岡崎花火2-2

 まだ空に明るさが少し残っている頃の花火。撮るにはやはり空が暗くならないとよくない。
 岡崎の花火は、夕方の6時50分から9時までの2時間10分、ほぼ休みなしに淡々と打ち上がる。ナレーションや音楽などの演出が増える中、昔ながらのスタイルを守っている。
 打ち上げの数は、今年は未公開だった。毎年のように見ている人の話では、昔の方がもっとすごくて、最近はだいぶおとなしくなったとのことだ。打ち上げ花火も景気に左右されるものだ。

岡崎花火2-3

 今どきは、たまや~、かぎや~、などとかけ声をかける人はいない。カップルがふざけて言うくらいだ。
 玉屋の方がよく知られているけど、本家は鍵屋だった。江戸時代の初期、奈良県吉野出身の初代鍵屋が江戸に出て成功して、江戸の花火を一手に担った。玉屋はのれん分けをしてもらった番頭の清七が名乗ったもので、たちまち人気が出て、鍵屋を追い抜いてしまった。隅田川の上流と下流で、それぞれが競うように打ち上げ花火を上げて、見物人たちはひいきの方の名前を叫んだ。たまや~、かぎや~、と。
 玉屋も鍵屋も、直系は途絶えてしまったものの、両方とものれん分けで現在まで続いているそうだ。
 花火は鉄砲などの火薬が発展したもので、最初に花火見学をしたのは徳川家康と言われている。当初は単純に吹き出し花火で、その名残が手筒花火として三河地方に今でも伝わっている。岡崎は家康の出身地で、三河花火の本場だ。
 岡崎の花火大会は、戦後まもない昭和23年に始まって、今年で62回目を迎えた。
 日本最古の花火大会は、言うまでもなく両国の花火(隅田川花火大会)だ。今年も相変わらずの大人気だったことだろう。一度見てみたいけど、岡崎の45万人に対して倍以上の95万人と聞くと、それだけで気力が萎えそうだ。

岡崎花火2-4

 こちらは矢作川河畔から見る乙川の花火。建物が邪魔で街明かりも写り込んでしまうから撮影向きではないけど、見るだけなら充分見られる。
 すぐ横を名鉄本線が走っているから、電車も一緒に写し込みたかった。長時間露光で光の線になってしまったけど、工夫次第では電車と花火の両立はできるかもしれない。

岡崎花火2-5

 乙川の方が色遣いが多彩で、凝った花火が多い。花火重視なら、やはり乙川近くに陣取るべきだろう。

岡崎花火2-6

 連続する花火を長時間露光で撮ると、露出オーバーで光が単色の白になってしまう。
 今回でいろいろ掴んだ部分もあったから、これを次回にいかしたい。

岡崎花火2-7

 露光時間は必要最低限で短い方がいい。そのために絞りを調節する必要がある。基本はF8くらいでも、固定していていいわけではない。花火によって開放に近いくらいにした方がいい場合もある。
 露光時間が短い方が暗闇の部分の黒が締まる。街明かりも少なくなる。

岡崎花火2-8

 花火撮りは通常、横位置で撮るものだけど、花火だけを撮る場合、縦位置の方が向いていることに気づいた。花火は丸いという思い込みは必ずしも正しいものではなくて、打ち上がる軌跡も入れると縦長になる。そうなると、横位置では左右に無駄なスペースができる。縦位置の方が無駄がない。

岡崎花火2-9

 縦位置に気づくのがやや遅かったものの、気づいたのは収穫だった。これも次にいかせそうだ。

岡崎花火2-10

 花火は当然、煙が出る。煙も味といえばそうなのだけど、どういう条件が良い条件なのだろう。風はある程度強い方がいいのか、まったく無風の方がいいのか。
 ときどき、煙が光に照らされて、オーロラのようにきれいだった。

岡崎花火2-11

 朧の花火。
 余裕が出てきたら、わざとアウトフォーカスにするとか、いろんな表現方法を試すのもいい。
 花火撮影はわりと単調でだんだん飽きてくるから、いろいろアイディアを持っている方が楽しめる。
 黒い紙で覆う多重露光のやり方も、今後の課題として残った。

岡崎花火2-12

 写真として成立するぎりぎりの暗さ。絞り染めの模様のようだ。

岡崎花火2-13

 そろそろ切り上げる時間になった。名残惜しい気持ちを残しつつ、会場をあとにした。

岡崎花火2-14

 帰り道に手持ちで撮った一枚。
 近所の人たちは家の前に椅子を並べて、家族や友達たちと花火見物をしていた。そういう光景も含めて、日本の夏を感じた花火大会だった。
 ちょっと大変だったけど、面白かった。また行きたいという気持ちになった。この夏にもう一度くらいどこかへ撮りに行きたいと考えている。

もっとうまく撮れると思っていた岡崎花火

花火(Fireworks)
岡崎花火1-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / PENTAX-M 50mm f1.4



 岡崎の花火を撮りに行ってきた。
 その前に、御油の祭りへ行き、豊橋をあちこち巡り、安城の七夕まつりにも行って、最後に岡崎の花火で締めくくった。帰宅したときには、体力と気力は残りわずかとなっていた。花火の写真を半分くらい現像したところで力尽きそうになったので、撮りたて花火写真を並べるだけ並べて、今日はおしまいとしたい。
 これまで打ち上げ花火は4、5回撮ったことがあるのだけど、いつも手持ちだった。今回初めて三脚とレリーズを使って、しっかりきれいに撮れるはずと臨んだところ、思った以上の難しさに打ちのめされ、力不足を痛感することになった。手持ちだからうまく撮れないのは当たり前で、三脚とレリーズさえ使えば撮れるに決まっているという思い込みは間違っていた。もっと経験を重ねないことには、普通のきれいな花火さえ撮れないことを思い知った。

岡崎花火1-2

 単発で上がる花火を撮るだけなら撮れる。でも、これだけじゃ面白くない。何かもう一工夫必要だ。

岡崎花火1-3

 アップで普通に撮るとこうなる。手持ちで撮ったときもこんな感じだ。

岡崎花火1-4

 岡崎の花火は乙川と矢作川の2箇所で上がる。これは乙川の方。こちらの方が派手な仕掛け花火が多い。

岡崎花火1-5

 後半になって、ようやく少し掴んだ。欲張りすぎてはいけないということと、好みの問題として、繊細に撮った方が自分は好きだということが分かった。

岡崎花火1-6

 少し離れて距離がある方が閃光の軌跡が繊細に写る。シャッタースピードも長ければいいというわけではない。

岡崎花火1-7

 派手に広がる花火だけが打ち上げ花火の魅力じゃない。空に上がった線香花火のような可憐さもまたいい。

岡崎花火1-8

 あえて地味に仕上げるのもありだ。

岡崎花火1-9

 花火にもわびさびの世界観がある。

岡崎花火1-10

 連続で打ち上がる花火を一枚の画面に全部納めようと長時間露光をすると、光が真っ白になって、爆発したみたいになる。たくさんの花火が上がって開いているときはずっとシャッターを開けていれば、すべての花火が多重露光のように写り込むのだと思っていた。実際はそうじゃなかった。
 だから、花火撮りを知っている人たちはみんな、多重露光をしているのかと、納得した。
 普通にカメラの設定で2枚重ね、3枚重ねしても、うまくいかなかった。シャッターを開けっ放しにしつつ、途中でレンズを黒い紙で隠して、何個もの花火を写すという方法がベストのようだ。

岡崎花火1-11

 少し足りない感じ。欲張ってもいけないし、控えめすぎてもいけない。
 絞りの基準はF8、ISO感度は100で、レリーズを使って打ち上がりから開いて消えるまでシャッターを開けるというのが基本ではあるのだけど、花火の明るさによっては明るすぎたり暗すぎたりする。
 花火写真はたくさん撮って、その中でいいのがあればよしとするしかない。ベテランでもすべてが狙い通りというわけではないはずだ。

岡崎花火1-12

 次にどんな花火が上がるか分からないし、見た目がきれいでも写真に撮るとそうでもなかったり、その逆もある。
 ありふれたアップ写真でも、たまにいいのがある。

岡崎花火1-13

 わりとうまくいった方。

 今日はここまで。
 次回に続く。

瀬戸電沿線風景---東エリア編

飛行機(Airplane)
瀬戸電風景-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 大森に天王祭を見に行ったとき、途中で山車曳きから離れて、尾張旭まで自転車を走らせながら瀬戸電沿線の風景を撮った。
 以前、金城学院前から栄までの沿線を写真に撮った。金城学院前から尾張瀬戸にかけては、馴染みがある場所とそうじゃないところがまだらにあって、それらを一度線としてつないでおきたいと思っていた。
 というわけで、今回は瀬戸電風景・東エリア編ということでお届けします。
 まずは旭前から。跨線橋(こせんきょう)がいい感じに古びている。田舎のローカル駅といった風情だ。
 旭前は、駅の東の通りは数え切れないほど通っているけど、駅周辺はまったく知らない。駅は初めて見た気がする。特に何もない。商店街があるわけでもなく、住宅街があるだけだ。
 瀬戸電の途中の駅はどこもそうで、駅を中心に発展している町はほとんどない。かつては多少なりとも賑わっていた駅前も、今ではすっかりさびれている。
 乗客が少ないからではなく、名鉄の路線の中ではドル箱路線で、朝夕のラッシュはものすごく、昼間でも10分に1本くらい電車の本数がある。にもかかわらず、駅周辺がまったく賑わっていないというのも、不思議な話だ。

瀬戸電風景-2

 一つ手前の印場駅の裏手に、良福寺というお寺がある。なかなか雰囲気のある三門で、惹かれるものがあったのだけど、このときは中に入らなかった。
 どこかで聞いたことがある名前だと思ったら、尾張三弘法のひとつがあるところだった。機会があればあらためて参拝したい。

瀬戸電風景-3

 瀬戸電沿線で私がもっとも馴染みがあるのは、城山公園南の田んぼだ。前を通ったので、田んぼの様子を見ておくことにした。
 ケリの姿はなく、丸々と大きくなったツバメが何匹か、伸びた稲の上を飛んでいた。相変わらずの高速飛行で、このときも捉えられなかった。飛んでいるツバメを撮るのは、本当に難しい。
 その代わりにはならないけど、群れているスズメでも撮っておく。

瀬戸電風景-4

 町中では見られない微笑ましいようなシーン。
 おじいちゃんの着ているのはタンクトップではない。ランニングシャツだ。走り出したりはしないだろうから、ただの袖無し下着と言うべきかもしれない。

瀬戸電風景-5

 尾張旭は散々行っていても、瀬戸電の尾張旭駅はまったく行かない。昔行ったことがあったとしても、まるで記憶がない。こぎれいになっていたけど、どんなふうに変わったのか、変わっていないのかも分からない。水野良春の像があるのも、初めて知った。
 水野良春は、南北朝時代の武将で、尾張旭の基礎を作った人物だ。もともとは瀬戸の水野や守山区の志段味を拠点にしていて、のちに尾張旭に移ってきて新居城を築いた。現在城山公園になっているのが新居城跡だ。

瀬戸電風景-6

 尾張旭駅のホーム風景。日曜日らしい雰囲気だった。

瀬戸電風景-7

 細い川と、短い鉄橋。
 通ったことがない道ではあらたな発見がある。

瀬戸電風景-8

 線路沿いに建つ民家。塀もないからうるさそうだ。
 民家の裏庭と線路のエリアと、境界線が曖昧で、庭の花が線路脇で咲いていたりする。こんなふうに電車と暮らしが混じり合っているようなところがあって、なかなか面白いなと思う。

瀬戸電風景-9

 路地と狭い踏切。
 警報機はあるものの、遮断機はない。踏切が狭すぎて、車は通れない。
 瀬戸電の東エリアはこういう踏切がたくさんある。

瀬戸電風景-10

 夏の線路風景。
 レールを西日が照らす。

瀬戸電風景-11

 三郷の手前あたりから線路脇の道がなくなって、自転車でも線路沿いを行けなくなる。三郷駅から600メートルほどいくと、また線路脇の道が復活する。
 上の写真は、廃屋となった倉庫のような建物。

瀬戸電風景-12

 お姉さんの後ろ姿を隠し撮りしたかったからではない。遮断機に書かれた言葉が気になった。
「サオを車で」「押して出る」とある。
 どういう意味だろうと、考えてしまった。降りている遮断機を突破することを勧めているのかと考えたけど、それはもちろん違う。
 たぶん、踏切に進入した時点で遮断機が降りてしまったら、そのまま進んで遮断機を押し出せということなのだろう。七五調で、途中で区切って、しかも標語っぽいから、分かりづらい。

瀬戸電風景-13

 錆びたトタンの建物と赤い電車。これが昔ながらの瀬戸電風景だ。

瀬戸電風景-14

 三郷から先、尾張瀬戸までの区間はほとんど知らない。車で通ったことさえあまりない。
 水野駅は存在だけは知っていたけど、見るのは初めてだった。
 このあとは、新瀬戸、瀬戸市役所前、尾張瀬戸となる。
 日没時間が近づいて、大森天王祭の山車を見るために戻らなくてはいけなかった。ということで、水野駅で引き返した。この先はいずれチャンスがあれば行きたいと思う。

瀬戸電風景-15

 夕暮れ時の住宅地上空を群れで飛ぶ鳥たち。シルエットで正体はよく分からなかった。時期的にヒヨドリではないとすると、ムクドリあたりだろうか。

瀬戸電風景-16

 オレンジに染まるレールとホーム。
 鉄道にしか出せない色というものもある。どこか、センチメンタルで、ノスタルジックだ。
 今後も折に触れて、鉄道にまつわる風景を撮っていきたい。

私の目に映った夏の高松海岸の光景

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
高松海岸-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / 55-300mm f4-5.8



 三重県の高松海岸と聞いてすぐに分かる人は少ないと思う。その海岸は、四日市の隣、三重郡川越町にある。川越町を知ってる人もあまり多くないだろうけど。
 どうしてそんなマイナーな場所を訪れたかといえば、ここには伊勢湾では貴重になった天然の干潟が残っていることを知ったからだった。四日市あたりの伊勢湾は、埋め立てが繰り返されて、高松海岸が北勢に残された唯一の自然海岸となった。何故かここだけ砂浜が残された。
 愛知県では藤前干潟が有名になった。ゴミの埋め立て場を作る計画を市民運動が阻止して、ラムサール条約に登録されたことで守られた。高松海岸は一般的にはあまり知られていないところだけに、今後が少し心配だ。この50年の間に、日本の干潟は50パーセント近くが失われた。
 高松海岸は鈴鹿山脈の羽鳥峰(はとみね)を源流とする朝明川(あさけがわ)の河口に広がっている。広さは約28ヘクタール、海岸線は約500メートルの長さがある。
 伊勢湾台風の前は、干潮になると1キロ先まで干潟ができたそうだ。その頃に比べると、今は狭くなってしまった。
 それでも春にはアサリやハマグリ、マテガイなどが採れ、砂浜にはハマヒルガオが咲き乱れ、冬には多くの渡り鳥たちが訪れる魅力的な海岸であり続けている。かつては日本中どこでも当たり前にあったそんな海岸も、今では珍しく貴重なものとなった。
 そんな干潟の海岸を見てみたくて訪れた私の目に飛び込んできたのは、意外な光景だった。

高松海岸-2

 なんだこりゃ?
 ほとんどひとけもないであろう干潟で、エサを食べに訪れた野鳥を撮ろうと思っていたのに、目の前に広がっていたのはマリンスポーツで賑わう海だった。あまりの予想外の光景に、場所を間違えたのかと思った。
 パラグライダーのサーフィン版だから、パラサーフィンというのだろうか。よく分からないけど初めて目にするものだ。私が知らないだけでメジャーなマリンスポーツなんだろうか。
 全員が知り合いの同じ仲間で訪れているのか、それとも愛好家がバラバラにやってきて思いおもいに楽しんでいるのか。砂浜にいた人たちも仲間だとすると、30人くらいいたんじゃないだろうか。
 どうやらこの場所は、パラサーフィンに適した条件のところらしい。

高松海岸-6

 小さいボードを足につけて、パラシュートみたいなので風をとらえながら水の上を滑ったり、ときにジャンプしたりする。理屈は分かるし、楽しみ方もなんとなく想像できる。やってみたら楽しそうだとも思った。
 ただ、風任せなところがあって、初心者らしき人はコントロールに苦労していたから、見た目以上に難しいものなのかもしれない。沖の方まで飛んでいって、風が止まったら帰ってこられなくなるんじゃないのか。

高松海岸-5

 海岸の砂質は、固くもあり、深くもある。足を取られて歩きづらい。鈴鹿山脈の花崗岩の流出土砂が主な成分になっているようだ。
 波打ち際の砂浜はきれいだけど、海岸には無数のゴミや木ぎれなどが散乱している。保存会の人たちが清掃作業をしているそうだけど、やってもやってもキリがないだろう。

高松海岸-3

 海岸だけが異空間で、周囲は埋め立てられた完全な臨海工業地帯だ。夕焼けや夜に訪れれば、工場萌えの写真が撮れそうでもある。
 すぐ近くには中部電力川越火力発電所がある。これのおかげで川越町は三重県でも有数のお金持ちの町となっている。だから、四日市と合併する気はないだろう。
 
高松海岸-4

 時折、船が通ったりもする。
 どこを見渡しても、思い描いていた天然海岸の干潟風景ではなかった。

高松海岸-7

 海岸の突端あたりで何を採っている人がいた。素人が趣味で貝拾いをしているふうではなかった。お父さんとお母さんともう一人女の人と3人いた。漁師さんなんだろうと思う。
 ようやくちょっと干潟らしい光景を見ることができた。

高松海岸-8

 写真のお仲間の女の人がいた。自分以外にこんなところに写真を撮りに来る人がいたのも意外だった。
 海を撮りに来たのか、パラサーフィンを撮っていたのだろうか。

高松海岸-9

 私が訪れたのは、干潮から1時間くらい経ったときだった。しばらく過ごしているうちに、だんだん潮が満ちてきた。
 干潮時の姿が見られたのかどうか分からない。

高松海岸-10

 やっと鳥を見つけた、と思ったら、スズメだった。
 結局、このときは干潟を訪れるような野鳥はまったく見ることができなかった。

高松海岸-11

 なんだか思ってもいないようなものや人が次々に現れて、退屈しなかった。高松海岸というのは、面白い海岸だった。

高松海岸-12

 足跡と、砂浜の小さな芽。こんなところでうまく育つんだろうか。

高松海岸-13

 見たことがあるようなないような花。海岸の花はなじみのないものが多い。
 砂地と潮風という悪条件でも咲ける花は強い。
 ハマヒルガオの群生というのも見てみたい。

高松海岸-14

 逆行とシルエット。
 夕焼けまで待つには時間がありすぎた。
 ここまで富田駅から3キロ歩いてきて、ここから四日市ポートビルまで歩いていった。この旅で、このときの歩きが一番しんどかった。

高松海岸-15

 海岸から見た風景を、水彩画風に仕上げてみた。夏の日のスケッチみたいになった。

 私が見た高松海岸は、こんな場所だった。

松坂城の二つの神社を見たら見学終了

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
松阪最終回-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 松坂城跡の裏手あたりに、本居宣長を祀った本居宣長ノ宮と、松阪神社と、二つの神社がある。
 元からあったのは松阪神社の方で、当時は城内の守り神だった。本居宣長ノ宮は大正になってこの地に移されてきた。
 順番からいくと松阪神社から紹介した方が分かりやすいのだけど、城の方から来ると、本居宣長ノ宮から参ることになる。

松阪最終回-2

 松坂城が築かれた小高い丘は、かつて意非の森(おいのもり)と呼ばれていて、意非神社(おいじんじゃ)があった。
 そこには、潮田長助が築いた砦があり、蒲生氏郷はそれを流用した。城跡に松坂城を築き、意非神社を城の鎮守とした。四五百の森(よいほのもり)というのは、そのとき氏郷がつけた名前といわれている。
 二つの神社があるあたりは、鬱蒼とした木々が茂り、当時の面影を一番よく残していると思われる。
 大木の枝葉が太陽の光を遮り、蝉の鳴き声があたりを包んでいる。神域らしい空気感をたたえていた。

松阪最終回-3

 本居宣長ノ宮の本殿は、横長のちょっと変わった建物だった。拝殿はなく、直接本殿と向き合うことになる。
 本居宣長が祀られるようになった経緯は、菅原道真などとは全然違っていて、怨霊とかそういったことではない。武将でも天下人でも天皇でもない、一人の人間が神として祀られる例は少ない。菅原道真や安倍晴明などは例外として、他にはパッと思い浮かばない。東郷平八郎とかの軍人の例はある。
 本居宣長を祀ろうと言い出したのは、国学を学んだ神職の川口常文や野呂万次郎たちだった。本居宣長は神道にも深く関わった人だから、そういう意味では神社の祭神になってもおかしくはない。
 明治4年、山室山に作られた本居宣長の奥墓 (おくつき)の横に、祠を建てたのが始まりだった。
 明治7年には、神社として認めてもらう運動をして、それが認められたことで、山室山神社と名付けられた。
 このとき、野呂万次郎が平田篤胤も合祀するよう要求して、結果的にそれが通った。反論はかなりあったようだ。
 平田篤胤は、本居宣長の後継者といえる国学者で、本居宣長以上に神道寄りの人物だった。神道第一主義で、仏教との神仏習合はけしからんといって、その思想は幕末の尊皇攘夷にもつながることになった。明治になってからの神仏分離や廃仏毀釈にも影響を与えることになる。
 本居宣長以降の国学というのは、のちの軍国主義にもつながっていくもので、今の時代からすると危うい思想に思えるのだけど、思想として純粋だったものが軍国主義に利用されたという言い方の方が正しいかもしれない。
 明治22年、社殿を大きくするには奥墓では手狭ということで、殿町の奉行所跡(今の松坂市役所所)に移された。
 大正4年に現在地に鎮座し、昭和6年に本居神社と改称。平成7年に本居宣長ノ宮と改められた。
 氏子がいない神社ということで、全国的にも珍しい存在となっている。

松阪最終回-4

 白袴の神職がいたけど、どちらの神社の人だろう。二つの神社は隣接していて、境界線はよく分からない。
 成り立ちはまったく違う神社だから、神職も別々にいるのだろうけど。

松阪最終回-5

 こちらが松阪神社の社殿。思ったほど大きな神社ではなかった。
 個人的な関わりがある神社なので、今回ぜひ挨拶に訪れなくてはいけないと思っていた。これが初めての参拝となる。
 元々の意悲神社は、延喜式にも乗っている古くて格式のある式内社だった。この地の国司だった飯高氏が産土神として崇敬していたという。創建年ははっきりしない。
 蒲生氏郷が松坂城を築城したとき、この神社に八幡神(誉田別命)を合祀して、城の守り神とした。江戸時代までは御城八幡と呼ばれていたそうだ。
 吉田重勝が城主だったとき、宇迦之御魂命(ウカノミタマ)を合祀した。
 ウカノミタマは、スサノオの子供で、大年神(年神様)の弟とされる神だ。本来は穀物の神だったようだけど、稲荷神社で祀られるようになってからは、商売繁盛の神とされるようになった。京都伏見稲荷大社の祭神が、このウカノミタマだ。
 創建当時の意悲神社がどんな神を祀っていたのは分からない。土地の神様だったのだろうか。その後、戦の神となり、商売の神となった。
 明治41年には近隣の17神社33柱の神を合祀して、松阪神社と改名した。今ではアマテラスからイザナギ、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシ、住吉三神など、あらゆる神様が揃っているから、願い事をしたら誰かが聞いてくれそうな気がする。

松阪最終回-6

 南東の松阪工業がある方に降りていったら、本来の入り口があった。こちらから入った方がよかった。

松阪最終回-7

 松坂城の見学を終えたところで、駅に帰ることにした。時間を食いすぎて電車の時間が迫っていた。このあとまだ回るところがあって、のんびりしている暇はなかった。

松阪最終回-8

 早足で歩きつつ、ときどき目についた風景を撮る。
 煙突と、ぽっかり浮かんだ雲。

松阪最終回-9

 金髪の女の人は、松阪あたりでは珍しいいんじゃないか。それとも、時代が変わってここも外国人が増えたんだろうか。
 見とれている場合ではない。先を急がなくては。

松阪最終回-10

 松阪の名産を表しているらしいプレートが埋められている。
 よいほモール1590、1990とある。松阪の町が始まった年と、商店街をよいほモールと名付けた年だろうか。昔はそんな名前はついていなかったと思う。

松阪最終回-11

 松阪で一番の老舗牛肉店「和田金」。しばらく見ない間に、こんなビルになっていて驚いた。昔の店の趣はすっかり失われてしまって、ちょっと寂しいような気もした。

松阪最終回-12

 こちらも松阪牛の有名店、三松。ステーキハウス三松と、しぐれ煮の三松があって、これはしぐれ煮本店のようだ。
 三重テレビで野球中継を見ていて、ランナーがホームインすると、「ステーキハウス三松」のテロップが入るのでもお馴染みだ。

松阪最終回-13

 この店は知らなかったけど、佇まいがよかったので撮ってみた。
 鯛屋という老舗の旅館で、夕飯は松阪牛なんだとか。

松阪最終回-14

 駅に戻ってくる頃には、松阪祇園祭の準備がだいぶ進んでいた。太鼓もスタンバイ完了だ。

松阪最終回-15

 松阪生まれなのに、松阪祇園祭なんてものがあることを、このときまでまったく知らなかった。かなり古くからやっている祭りのようで、何故知らなかったのか不思議なくらいだ。
 名前の通り、牛頭天皇の祭りだ。元々は平安時代に京都で始まった御霊会(ごりょうえ)に由来している。
 松阪では八雲神社、雨竜神社、御厨神社、四天王社が行っていた祇園会(ぎおんえ)が始まりだった。それぞれ牛頭天皇を祀る四天王と呼ばれていたそうだ。
 それらの神社が松阪神社に合祀されたことで、現在は松阪神社、御厨神社、八雲神社の祭礼として祇園祭が行われている。「三社みこし」の由来はここからきているのかとようやく理解した。三つの神社がそれぞれ御輿(みこし)を出して、町を練り歩くそうだ。

松阪最終回-16

 駅前の商店街にずらりと出店が並ぶようで、かなり大規模な祭りらしい。人出も相当なものだとか。
 このあと伊勢奥津へ行って帰ってきたとき、駅のホームから外を見たら、けっこうな人混みになっていた。せっかくだから見てみたい気もしたけど、残念ながら予定には組み込まれていなかった。
 伊勢奥津についてはすでに紹介した。次回は、四日市の富田編となる。

超優等生の蒲生氏郷が築いた松坂城

城(Castle)
松阪城-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 三重県松阪市は、1588年に蒲生氏郷(がもううじさと)によって城下町として整備されたのを始まりとしている。江戸時代には伊勢神宮へ向かう旅人たちの宿場町として発展し、松阪商人と呼ばれる多くの豪商を生み出した。その後、昭和にかけて商業の町として栄えることになる。
 その松阪を紹介する上で、やはり松坂城跡は外せない。
 個人的には子供の頃連れられて訪れてから一度も行っていないから、ぼんやりとした記憶しか残っていなかった。久しぶりの再訪となった今回、あらためて城跡の広大さと、石垣の立派さに驚くことになった。もっと陰気くさくて荒れた公園という印象があったから、ちょっと意外にも感じた。もしかしたら、当時は今よりも荒れていたかもしれない。
 上の写真は、大手門の表門跡を過ぎてすぐのところだ。光と木々が作り出すまだらのコントラストが美しかった。
 建物は何も残っていないことは分かっていた。とりあえず天守があった場所を目指して歩いていくことにした。いきなりの上り坂で、城が小高い丘の上に建っていたことが分かる。天守へもぐるりと回り込まないとたどり着けないようになっていて、戦国時代に築かれた守り重視の城ということを実感する。

松坂城-2
 石垣が当時の状態でかなり残っている。子供の頃は石垣なんか見ても、面白くも何ともなかったけど、今見るとけっこう感動する。生まれ故郷にこんなに立派な城跡があったとは、これまでまったく意識することなく過ごしてきた。
 若い女の子が何人か訪れていて、石垣の写真を撮ったり、記念撮影をしたりしていた。最近はけっこうな歴史ブームで、神社仏閣や城でも若い子たちをよく見かけるようになった。入り口はどうであれ、日本の古いものに興味を持つことはよいことだ。

松坂城-3

 子供の頃の松坂城の思い出で一番覚えているのが、檻に入れられたサルだった。ものすごく唐突にサルがいて、なんでこんなところに、と驚いた。まさか今でもいるのだろうかと思いつつ探してみたけど、やっぱりいなくなっていた。城跡にサルって、どう考えても変だ。訪れる人たちを楽しませようという考えだったのか、関係者が単にサル好きだったのか。

松坂城-4

 城内に松阪市立歴史民俗資料館がある。訪れた日は、たまたま展示品の入れ替えとかで閉まっていた。開いていたとしても時間がなくて入らなかっただろうけど、やってないとなるとなんとなく残念な気持ちになった。
 明治45年に建てられたものだそうから、ここもかなりの歴史がある。

松坂城-5

 月見櫓跡など、いくつかの跡がそのまま残っている。遺構としてこれだけ残っていればたいしたものだ。往事の姿を思い浮かべるための手がかりは多い。

松坂城-6

 梶井基次郎の文学碑が建っている。
「今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍を並べていた。白亜の小学校。土蔵作りの銀行。寺の屋根。そしてそこここ。西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。」で始まる小説『城のある町にて』の一説が刻まれている。
 東京帝大に入学した年の夏、23歳の基次郎は肺結核を患い、病気の療養をかねて松阪殿町に住む姉の嫁ぎ先の家で一夏を過ごすことになる。大正13年のことだ。
 翌年、そのときのことを書いて同人誌に発表したのが『城のある町にて』だった。31歳で早死にして佳作だった基次郎にとって、この作品は代表作の一つとなった。
 非公開ながら、現在でもお姉さんの家は残っている。
 毎日のように散歩して、城跡に登ったというから、基次郎もこの場所に立って松阪の町並みを見下ろしていたことだろう。

松坂城-7

 戦国時代の城にしては、本丸がとても広い。大きな城郭でも本丸は意外と狭いことが多いのだけど、松坂城は例外と言えるんじゃないだろうか。
 さらに、本丸が上段部と下段部と二段に分かれているのも珍しい。

松坂城-8

 天守が乗っていた天守台は、さすがに狭い。これはどこも共通している。家を取り壊したあとの更地が驚くほど狭く感じるようなものだ。安土城の天主跡も狭かった。
 かつてこの場所に、三層の天守閣が建っていた。

 蒲生氏郷は、近江の蒲生郡日野にて、名門・六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれた。六角家が織田信長に滅ぼされると、父の賢秀は信長に降伏し、息子の氏郷は人質として岐阜の信長の元に送られることになった。
 信長は少年の氏郷を一目見るなり、この者はただ者にあらず、我が娘の婿にすると宣言して、15歳で冬姫と結婚させた。
 頭脳明晰だけでなく、武勇にも優れ、戦で数々の殊勲を上げる。
 信長亡きあとは、秀吉に仕えることになった。伊勢松ヶ島12万石を与えられて松坂へやってくることになったのは、その時代だ。
 それまで伊勢・松ヶ島城は信長の次男・信雄の本城だった。小牧長久手の戦いで信雄を攻略したのが氏郷で、その褒美としてここを与えられたのだった。
 しかし、松ヶ島城は海に近すぎて統治にも不便で、城下町としての発展性も見込めないということで、氏郷は松ヶ島城をあっさり捨てて、丘陵地帯にあった四五百森(よいほのもり)に新しく城を築くことにした。それが松坂城だ。
 松坂の名前は、縁起のいい松の字と、秀吉の本拠だった大坂の坂を組み合わせてつけたとされている。だから、この当時の松坂城は松阪ではなく松坂と表記すべきだ。
 北と南に流れる川を天然の堀として、城全域を石垣で固めた。かなり実践を想定した造りになっている。城造りの名手でもあった氏郷は、おそらく信長の安土城を参考にしたはずだ。
 廃城にした松ヶ島城を解体したり、近隣の寺社を取り壊して建材を確保して、急ピッチで城造りは進められたという。
 のちに会津若松へ移封となって築城したのが、白虎隊で有名となった会津若松城(鶴ヶ城)で、あちらでも名城を築いている。
 氏郷は城下町の整備も積極的に進め、楽市楽座を奨励したり、海岸近くを通っていた参宮街道を城下に引き入れたりして、城下町の発展にも努めた。地元の近江日野から商人たちを呼び寄せ、そこから松坂の豪商が生まれることになる。
 のちに氏郷は茶道の道でもひとかどの人物となり、千利休の高弟である利休七哲の筆頭にまでなっている。古田織部や細川忠興より上というのだからすごい。和歌にも優れ、高山右近とも親しかったことからキリシタンとなり、レオンという洗礼名も持っていた。
 人望も厚く、風流人で、賢くて、武勇にも優れているなんて、ちょっと出来過ぎのような気もするけど、怪談好きだったというエピソードが人間くさくていい。気に入った部下には蒲生の名前をじゃんじゃん与えてしまうから、家臣が蒲生だらけになってしまって、前田利家に叱られている。そんなお調子者の一面もあったようだ。
 松坂の城と城下町を手塩にかけて育てた氏郷だったけど、小田原合戦で功をあげたことで、会津に移封されることになってしまう。42万石という大出世だったにもかかわらず、氏郷は行きたくないと嘆いたという。都からあんなに離れてしまっては天下も取れないではないかと。
 松坂にいたのは、わずか2年でしかない。けれど、大きな置き土産をしていってくれた。
 会津若松でも城を築いて町の基礎を作ったものの、40歳の若さで病死してしまった。関ヶ原の戦いの5年前だった。もし氏郷が関ヶ原のときに健在だったら、戦いの様相は少し違ったものとなっていたかもしれない。伊達政宗や上杉景勝との戦いはどういったものとなっていただろう。氏郷は家康の側についたのだろうか。
 氏郷が去ったあとの松坂城はパッとしない。小大名が入ってきて問題を起こして去ったり、天守は大風で倒れてそのままになったりで、とうとう城主もいなくなり、紀州藩の松阪城代が置かれて、そのまま明治を迎えることになった。
 明治に入ると外堀は埋められ、わずかに残っていた建物も取り壊された。ただ、石垣などはそのまま残され、明治14年という早い段階で城跡公園として一般公開されている。石垣だけでも残ったのは幸運というべきだろう。

松坂城-9

 城内には本居宣長の旧宅が移築されて、一般公開されている。鈴が好きで鈴コレクションをしていた本居宣長だったから、書斎は「鈴屋」と名付けられた。
 松阪名物「鈴もなか」は鈴の形をしていたり、実際の鈴が入ってたりする。お土産をもらったことがある人は知ってると思うけど、あれは松阪が生んだ偉人・本居宣長から来ている。松阪駅前の大きな鈴を見て、なんで鈴なんだろうと疑問に思った人も多いかもしれない。

松坂城-10

 見学料は300円。
 私は時間がなくて、外から建物を見ただけだった。松阪の町歩きで道に迷ったのが響いて、このあと時間が足りなくなって焦ることになる。松阪城跡は思いの外広かった。

松坂城-11

 城跡から見下ろす御城番屋敷の屋根風景も、名物の一つなのに、このときは屋根の大がかりな葺き替え作業をしていて、ブルーシートが風情を台無しにしていた。この風景を楽しみにしていたから、とても残念だった。早く終わらせて、本来の情緒ある風景を取り戻して欲しい。

松坂城-12

 石畳の道ときれいに刈り込まれた槙垣。当時の城下町の風景を今に伝えている。
 城主のいなくなった松坂城を警備するため、紀州藩士とその家族が住むために建てた組屋敷が御城番屋敷だ。今は城外のようになっているけど、当時は城内三の丸だったところだ。
 明治維新のあと取り壊されなかったのは、地元の士族たちが中心となって買い取り、管理維持をしてきたからだ。武士の長屋建築としては貴重ということで、重要文化財に指定されている。
 長らく一般に貸し出されて、今でも住居として使われている。重文指定とはいえ、老朽化が激しくなって、大がかりな修繕をしているところだ。

松坂城-13

 一軒を松阪市が借りて、中を一般公開している。
 無料だから文句は言えないけど、もう少し見せ方に工夫が欲しいところだ。何も置かれていなくて寂しい。

松坂城-14

 野面積みの完成型といっていい美しい石垣だ。氏郷は近江出身だし、地元から穴太衆を呼んだ可能性もある。安土城などの石積み技術を参考にしたのは間違いないだろう。

松坂城-15

 御城番屋敷を抜けて少し行ったところに、松阪工業高校があり、ここに赤壁(せきへき)と呼ばれる建物がある。それも見に行こうと決めていた。

松坂城-16

 ちょっとお邪魔して写真を撮らせてもらった。
 明治41年に工業学校の製図室として建てられたもので、木造建築の外観に赤い塗料が塗られている。化学の実験で黒く変色することを避けるために、変色しない硫化水銀を塗ったんだそうだ。
 明治の建物としては大変ハイカラなものだったろう。赤壁校舎と呼ばれて親しまれたという。

 松阪編は、この続きがもう一回分ある。

尾張の一宮真清田神社を巡る謎を考える

神社仏閣(Shrines and temples)
楼門前


 一宮の七夕まつりへ行ったことだし、今回は真清田神社(ますみだじんじゃ)について少し書いてみることにしたい。
 真清田神社は尾張国の一宮でありながら、愛知県民の認知度はあまり高くないような気がする。愛知を代表する神社といえば、やはり熱田神宮ということになるだろう。それに比べると真清田神社の存在感はそれほどでもない。ただ、熱田神宮は尾張国の三宮でしかない(二宮は犬山にある大縣神社(おおあがたじんじゃ))。
 何故、熱田神宮が三宮で、真清田神社が一宮になったのか、はっきりした理由はよく分からない。地理的に真清田神社から大縣神社、熱田神宮と回った方が効率がよかったからじゃないかという説もあるけど、そんな理由で一宮を決めるとは思えない。時の権力者との結びつきだとかそういうこともある。真清田神社の方が古代の国の中心である国衙(こくが)に近かったからという説もあるけど、それもあまり納得はできない。
 同じく一宮市内に大神神社(おおみわじんじゃ)というのがあり、これが一宮だったという話もある。熱田神宮との関係が深かった神社で、熱田神宮は伊勢の神宮同様、別格とされていて、その代わりとして大神神社が一宮の役割を果たしていたとも考えられるとか。
 真清田神社と大縣神社はライバル関係にあって、一時は同格で、大縣神社が一宮になったこともあった。その後、真清田神社が一宮の地位を奪い返した。
 誰がどのような目的で全国の一宮の格付けを始めたのかはよく分かっていない。国司が任地に赴任したとき、一番最初に参拝するのが一宮だったといわれている。一宮、二宮、三宮がそれぞれ2つあったりするのは、時代の変遷の中で交代などがあったということを表している。
 そんな一宮・真清田神社だけど、愛知県民でも訪れたことがない人がけっこういるんじゃないだろうか。そもそも存在自体を知らない人も少なからずいると思う。私も今回が初めての訪問だった。

 入り口では立派な楼門が出迎えてくれる。
 真清田神社は、鳥居をのぞいてすべてが空襲で焼けてしまったので、社殿は戦後に再建されたものばかりだ。楼門も昭和36年に建て直された。
 歴史はないものの、総桧造り、銅板葺きの姿は見事なものだ。あと100年もたてば立派な歴史的建造物になるだろう。



吹き流しと境内の風景

 普段のしっとりと落ち着いた雰囲気とは打って変わって、七夕まつりの期間中は真清田神社境内も大変な賑わいとなる。七夕まつりの主役は、境内社の服織神社(はとりじんじゃ)の神様だから、ここがメイン会場とも言える。
 吹き流しなどの飾り付けだけでなく、屋台もたくさん出ていた。



拝殿と神職

 真清田神社の祭神は、尾張氏の祖神である天火明命(アメノホアカリ)とされているけど、実ははっきりしていない。正式にそう決められたのは明治に入ってからで、それまでは諸説あった。
 大己貴命(オオナムチ)だったり、国之常立神(クニノトコタチ)だったり、天照大神(アマテラス)だったり、いろいろなことが言われていた。
 オオナムチは、大国主(オオクニヌシ)の別名ともされる神で、地上の王だ。クニノトコタチは、神代七代の一番目に現れた神とされる根源神で、非常に古い神様といえる。
 尾張氏の一部がこの地に移住したとき、祖神である天火明命を祀ったのが始まりという説はうなずけるものがあるのに、何故祭神がはっきりしないのかがよく分からない。神社の起源はもっと古く、土着の神への素朴な信仰があったところに、あとから尾張氏が乗っかったということかもしれない。
 それにしても、どこからクニノトコタチが登場したのか、ちょっと謎ではある。もともとは尾張氏とはまったく関係のない神社だったのではないか。
 真清田神社の名前の由来は、このあたり一帯が清らかな水をたたえた水田が広がる土地だったからとされている。けど、延喜式には「眞墨田神社」と表記されていることからして、それはどうなんだろうとも思う。
 真清田神社は分からないことが多い神社であり、歴史的な事件やエピソードが少ないところでもある。熱田神宮にあるような興味深い話は、ここには伝わっていない。
 熱田神宮の成り立ちは思うほど単純じゃない



茅の輪くぐりの光景

 火のついた茅の輪くぐりをしていた。厄払いの神事だろう。
 祭神の天火明命は、名前からしても太陽とか火の神様を想像させる。
 天火明命は、アメノオシホミミ(天忍穂耳命)とヨロヅハタトヨアキツシヒメ(栲幡千千姫命)の子供で、アメノオシホミミは天照大神の子供だ。だから、天火明命は、アマテラスの孫に当たる。弟にニニギノミコトがいる。
 ということは、この系列は天孫降臨系の天津神ということだ。それに対して、もともとの祭神とされるオオクニヌシは地上を支配する国津神だ。クニノトコタチも、地上を造った神とされている。
 この別系統の神がどこで入れ替わったのかというのも、真清田神社を考える上での重要なキーとなる。
 尾張国のもう一つの一宮とされる大神神社は、奈良県(大和)に古くからある神社の系列で、オオクニヌシ(大物主大神)を祀っている。
 地上を支配していたオオクニヌシは、天孫降臨のアマテラス系との争いに敗れて、国を譲ったとされる。尾張の国でも、それに似た交代劇があったのだろうか。尾張氏とは別に、尾張には物部氏の勢力もあって、物部一族はどうやら尾張氏に負けたらしいから、そのあたりも絡めて考えてみると面白い。
 そういえば、この日の主役であるはずの服織神社を撮り忘れた。簡単に挨拶だけはしたのだけど。
 祭神の萬幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)は、天火明命の母神で、織物の神とされている。一宮が織物で栄えるのを支えたとして大切にされてきた。一宮の七夕まつりは、この神様に対する感謝の祭りとして始まった。



お化け屋敷

 境内にお化け屋敷というのもなかなか斬新だ。



太鼓演技

 特設ステージも設けられていて、このときはちびっこ太鼓の演技が披露されていた。



境内の外の古い商店

 境内の中に、常設の古い店舗が並んでいる。服屋や道具屋などのようだ。
 この日だから休みだったのか、もう廃業してしまったのか。



御衣奉献大行列

 御衣奉献大行列(おんぞほうけんだいぎょうれつ)は、総勢250人が、平安から江戸時代までの衣装を身にまとって行進する時代行列だ。
 織物を真清田神社まで運んで、繊維産業の発展を願う神事でもある。



古式行列

 かなり本格的なもので、これを見ただけでも行ったかいがあったと思えた。
 少年から少女、おじさん、お姉さんまで、様々な装束で楽しませてくれる。



笙を吹く人々

 衣装とアーケードの風景が合ってないのだけど、それは仕方がないところだ。



行列は続く

 見物人はさほどではないから、多少移動しながら撮ることもできる。場所取りに負けたら終わりといった厳しい状況ではなかった。



上下姿の人たち

 衣装をそろえるだけでも大変だし、お金もかかっている。
 御衣奉献大行列は特に期待もしていなかっただけに、いいものを見られたと喜んだ。



吹き流しと行列

 後ろ姿の方がそれっぽい。この衣装で東海道の古い宿場町を歩いたら、参勤交代みたいになるんじゃないだろうか。

 七夕まつりという特別な日に行ったことで普段の姿を見られなかったのだけど、またいつか普通の日に再訪する機会はあるかもしれない。とりあえず一言でも挨拶に行けたことで、心の引っかかりが取れたのでよしとしたい。
 
【アクセス】
 ・JR東海道本線「尾張一宮駅」または名鉄名古屋本線「名鉄一宮駅」下車。徒歩約12分。
 ・駐車場 30分まで無料。1時間200円。
 ・拝観時間 終日

 真清田神社webサイト
 
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