
名鉄名古屋本線「本宿駅」(
地図)から南東方向に歩いて15分ほどのところに法蔵寺(
地図)というお寺がある。
ここへどうしても行きたかったのは、近藤勇の首塚があるというのを知ったからだった。何故三河あたりに近藤勇の首塚があるのかという疑問を抱きつつ、行ってみれば何か分かることもあるだろうし、行かなければ何も分からないと思いつつ出向いていった。
小山を背にして、雰囲気のある寺が見えてきた。どうやらここがそうらしい。
創建は701年というから、飛鳥時代の終わりだ。開山は行基と伝わっている。
行基が諸国を行脚している途中、法蔵寺裏山の二村山の麓に一本の大杉を見つけた。近づいてみるとひとりの童子が出てきて、この地はヤマトタケルも戦勝祈願をしていった霊験あらたかなる場所なのだよと教えてくれたらしい。更には、この杉の木で観音様を彫るといいことあると言う。それならばと行基は早速観音像を彫り上げた。
それからほどなくして、都で淳仁天皇の后がお産で悩んでいるという噂を耳にした。行基が観音像に祈ったところ、無事に男子が産まれたという。その話を伝え聞いた淳仁天皇は喜び、行基に使いを出して、二村山にお堂を建てるようにと命じた。そのときの名を、出生寺という。これが法蔵寺のはじまりとされている。

三河を本拠にしていた松平家初代の親氏(松平郷の銅像になっているあのオヤジ)が、このお寺をとても大事にして、お堂などをいろいろ建てたそうだ。
もともとは法相宗だった出生寺を、浄土宗に改宗して法蔵寺と名を改めたのもこの頃だったようだ(1385-1387年頃)。
伯父の教翁上人がこの寺にいたこともあって、子供時代の竹千代(のちの家康)もここを何度か訪れて、手習いなどをしたらしい。遺品もあれこれ残っている。
上の写真は、御草紙掛松と名づけられた松だ。竹千代が勉強のときに草紙(そうし)をかけたというエピソードがあるのだとか。本を松にかけるというのがどういう状況なのかよく分からないのだけど。
当時のものは1983年に枯れてしまって、今のは二代目の松とのことだ。
桶狭間の合戦ののちに三河で独立した家康も、このお寺を大事にしたと伝わっている。

朱塗りの橋を渡ると三門がある。さほど大きなものではないものの、そこそこ古いものではないかと思う。

石段を登ったところに、鐘門がある。こんなふうにお堂の正面に門を兼ねた鐘楼があるのは珍しい。
本堂はなかなか立派だ。親氏が建てたものを明治に改築したものという。
石段の途中にある祠はヤマトタケルを祀ったものだ。ヤマトタケルが二村山に武運を祈願したとき、鉾で岩石を突いたら水が湧き出してきたので、それを賀勝水と名づけたのだとか。
東海道を行き来する武将たちもヤマトタケルにあやかろうと、みんなここの賀勝水を飲んでいったという。江戸時代に東海道を通った旅人達も同じようにしたはずだ。
法蔵寺には他にも法蔵寺団子と法蔵寺草履という名物があった。ここで団子を食べながら一休みして、水を飲んで、新しい草履に履き替えて、また旅を再開したのだろう。

外観は渋くても、中はきらびやかだ。

木造の渡り廊下の下をくぐって奥へ進む。

石段の上に社殿の屋根が見えている。奥へ行くと唐突に神社になるのでちょっと戸惑う。
いろいろ分からないことがありつつも、とりあえず進んでみる。

近くで社殿を見てなるほどと納得した。これは東照宮だ。
家康ゆかりの地ということで、東照宮があるのは当然と言えば当然だ。お寺と神社の混在ぶりは日光でも見ている。
日光ほどド派手ではないものの、東照宮のエッセンスは充分に感じられる社殿だ。
建てられた時代は意外に遅く、江戸時代の後期らしい。


立派なイヌマキ。法蔵寺のイヌマキといえば、ちょっと知られた存在なんだとか。

六角堂。これも親氏の時代に建てられたもののようだ。

踏切の音が聞こえて、線路方向を見てみると、下の方で列車が行き違うところだった。
だいぶ高台に来ていることが分かる。

ようやく近藤勇の首塚に辿り着くことができた。
近藤勇、土方歳三、沖田総司らが浪士隊に参加して、江戸を出発して京都に着いたのが1863年2月。最初は浪士組と呼ばれていた。
江戸に戻った一派と、京都に残留した一派とに分かれ、京都組は壬生浪士組となった。そこで、近藤勇一派と水戸派の芹沢鴨と二つの派閥ができる。
京都守護職だった会津の松平容保は、京都の倒幕派の取り締まりを壬生浪士組に任せることにする。このとき、容保から新撰組という名をもらったとされている(別の説もあり)。
同年8月、八月十八日の政変で活躍。
同年9月、近藤勇一派は芹沢一派を襲撃して粛清。
1864年6月、池田屋事件。
名を上げて、伊東甲子太郎、藤堂平助、斎藤一などの隊士も増えていく。所帯が大きくなるにつれ、いろいろ問題も起こり、隊士の暗殺や切腹などが続く。
1866年12月、一橋慶喜が15代将軍に就任。
1867年10月、大政奉還。この年、新撰組は幕臣に取り立てられる。近藤たちは憧れていた武士になることができた。
同年11月、坂本龍馬暗殺。
同年12月18日、近藤勇は伏見街道で御陵衛士の残党に銃で狙撃されて負傷。翌年始まる鳥羽伏見の戦いに参加できず、大坂城で療養。
1868年(9月に明治元年と改元)1月、鳥羽伏見の戦い始まる。
薩長を中心とする新政府軍の銃器による猛攻を受け、新撰組が参加する幕府軍は敗走を重ねる。
3月、鳥羽伏見の戦いに敗れた新撰組は、幕府の軍艦で江戸に戻る。
甲府奪還の幕府命令を受けた近藤勇(大久保剛と改名)は、甲陽鎮撫隊として甲府へ出陣。甲州勝沼の戦いで板垣退助率いる新政府軍に大敗。
永倉新八、原田左之助らは意見の相違により、靖兵隊を結成して新撰組を離脱。
4月2日、近藤勇率いる本隊は、流山に入り、陣を構える。
3日、勝ち目がないことを悟り、土方歳三などを逃がした上で、大久保大和と改名していた近藤勇は、新政府軍に投降。
4日、越谷宿に連行される。伊藤甲子太郎一派の生き残りが面通しをして、近藤勇と見破られた。
板橋の新政府軍の本営に移される。
土方歳三は、残った新撰組本隊を会津に向かわせ、自分は近藤の助命嘆願のため、江戸に走った。大久保一翁、勝海舟と会う。
翌5日、助命の願いは聞き入れられなかったものの、近藤宛の書簡をもらい、それを相馬主計に託して、板橋の近藤の元に届けさせた。しかし、その相馬主計も板橋で捕まってしまう。
11日、江戸城無血開城。
12日、土方は旧幕府軍に加わり、戦を続ける。
13日、板橋の平尾宿に移された近藤は、ここで処遇を待つ。京都へ移して正式な裁きを受けさせるべきという薩摩に対して、坂本龍馬を暗殺されたと思い込んで恨んでいる土佐と意見が対立する。
しかし、考えてみれば、近藤勇を罪人とするのは、薩長の新政府軍から見た一方的な決めつけで、新撰組は幕府公認で京都の警護をしていただけだ。倒幕派の人間をたくさん斬ったからといって、幕府から見ればそれは罪にならない。
罪状としては、官軍である新政府軍に抵抗したのは朝敵ということである、というものだった。要するに、旧勢力に対する見せしめとして殺されたということになる。
19日、土方ら、宇都宮城の戦い。
24日、近藤、滝野川村三軒家の石山亀吉方に移送。結局、土佐のごり押しという形で斬首刑に決まる。
25日、見物人が集まる中、板橋の刑場にて近藤勇、斬首。
武士の身分を与えられても、武士として切腹することは許されず、罪人として首を切られた。
享年35歳。満でいえば33歳だった。
5月30日 沖田総司、肺結核により死亡。
1869年5月11日、函館五稜郭の戦いで土方歳三、戦死。
板橋で斬首された近藤の首が、果たしてどこへいったのかというのが、今日のテーマだ。ここまでは長い前置きだった。
板橋で晒された近藤の首は、塩漬けにされて京都へ運ばれた。京都の前に大坂の千日前に晒されたという話もあるけど、はっきりしない。
京都の三条河原で晒し首になった近藤の首は、三晩目に何者かが盗み出して、その後の行方は知れないということになっている。
体の方はわりとはっきりしている。28日に遺族が人夫に頼んで掘り起こして、近藤家の菩提寺である龍源寺(東京都三鷹市)で弔ったとされている。
どうして、近藤とは縁もゆかりもない三河の寺に近藤の首塚があるかといえば、話はこうだ。
近藤が晩年に親しくしていた人物に、京都誓願寺の住職、称空義天大(弥空義天大?)という和尚がいた。この人物がキーパーソンとなっている。
近藤の首を奪還するように命じたのが誰で、誰が実行したのか、詳しいことは分からない。会津藩主の松平容保かもしれないし、土方歳三かもしれない。あるいは同志の独断かもしれない。
近藤の戒名、貫天院殿純忠誠義大居士は松平容保によるものだ。近藤が晒し首になっていることに何も感じなかったということはないだろう。
土方歳三が山口二郎(斎藤一)に命じたという話もあるけど、この頃山口二郎は新撰組本隊の隊長として会津で転戦している頃だ。直接自分が京都まで走って首を取り返したということはないはずだ。命を受けた山口二郎が誰かに命じたというなら可能性はあるか。
実行したのが誰だったかは置いておくとして、とにかくその人物は誓願寺の称空義天大に弔ってもらうように命じられていたらしい。それで誓願寺へ首を持っていったところ、称空義天大は半年前に三河の法蔵寺(誓願寺の末寺)に移ったという。
そのことを知らなかったというのもおかしな話だとは思うけど、それじゃあというので、わざわざ三河まで行って、首を弔ってもらったというのだ。誓願寺が断ったからとも言われている。
和尚は世間をはばかって、当初は石碑を土で覆って、ひっそり弔っていたらしい。それがいつしか忘れられて、時が流れることになる。
昭和33年、誓願寺で埋葬の由来が書かれた記録が見つかり、法蔵寺でそれらしい場所を掘り返してみたところ、土方歳三たちの名が刻まれた台座が出てきて、これはどうやら本当らしいということになった。近藤勇の遺品も見つかったという。
しかしながら、これで近藤の首がここに埋まっていることが決定したかといえばそうではない。あくまでそういう伝承があって、土方歳三の名が刻まれた台座が見つかったというだけだ。
その台座に刻まれた名前にも謎があった。新撰組隊士のものではなく、伝習隊や回天隊数名の名前なのだ。これらは、宇都宮で土方歳三とともに戦った旧幕府軍の生き残りだ。何故、それらの名が台座に刻まれていたのか。
年数も慶応三年と刻まれていたという。近藤が斬首されたのは慶応四年だ。
だったら近藤とは関係ない人物の墓なのではないかというと、必ずしもそうではない可能性がある。首をここに持ってきて埋めたかどうかはともかくとして、土方が人に頼んで法蔵寺の称空義天大に近藤勇の供養をして欲しいと頼んだのかもしれない。手ぶらでというわけにはいかないから、いくらかは包んだだろう。それが宇都宮で戦っているときで、一緒に戦っていた伝習隊の隊士たちが、じゃあ自分もと少しずつ出し合ったということもあり得る。そこで署名された書状が法蔵寺に届き、石碑を造るときに名前を刻んだのではないか。
結局、近藤勇の首はどうなってしまったのか、それは分からない。法蔵寺が何か決定的な証拠を持っているのなら、それを公表すれば話は早い。けど、そういうたぐいのものはないのだろう。
あるいは、石碑の下を掘り返して出てきた頭蓋骨のアゴが、ゲンコツが入るくらいよく開いたら、それは近藤さんのものと言っていい。
京都の山中に埋められたという説もありそうな話ではある。
個人的な感覚を言うなら、この場所に立ってみて、足元に近藤勇の頭蓋骨が埋まっているような感じはしなかった。私が鈍いだけだろうか。
それでも、近藤勇ゆかりの場所が愛知県にあるというのは、嬉しいことだ。首があってもなくても、これからもこの地を訪れる人が絶えることはないだろう。供えられている花も新鮮なものだった。
しばしここに佇み、手を合わせて、この場をあとにした。