月別:2010年05月

記事一覧
  • 和食にならなかった日本食サンデー料理

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 今日のサンデー料理は、つくねをメインとして、あとは豆腐と野菜が食材だったから、出発時点では和食の予定だった。それが作っているうちにどんどん和食から離れていき、結果的には何食だか分からない仕上がりになった。こんなメニューは日本以外のどの国へ行っても出てきそうにないから、和食といえば和食ではある。それ以外に分類のしようがない。日本食という大きなくくりでいいのかもしれな...

    2010/05/30

    料理(Cooking)

  • 猪高緑地の残り写真と帰り道の風景 <後編>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 今日は猪高緑地の後編です。 一回に収めるには写真がはみ出してしまうし、二回に分けようとすると水増し感が強まるという中途半端な枚数で、やっぱり一回にしておけばよかったかなと思いつつ、二回目をお届けします。 名東スポーツセンターの横に、すり鉢池がある。これは小さな溜め池で、ちびっこたちがザリガニ釣りをしたり、フナか何かを釣っている人がいたりといった、のどかな風景...

    2010/05/30

    施設/公園(Park)

  • 花も虫も少ない猪高緑地だけど <前編>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 このところ、向かう先がネイチャー寄りになっている。意識的にそうなっているわけではないのだけど、5月の新緑がそうさせているようだ。緑色の水の映り込みが一年で一番きれいなのがこの時期だ。だから、水と緑があるところへ行きたくなる。 今回は猪高緑地へちょっと行ってきた。去年の7月以来だから、けっこう久しぶりになる。 家から近い範囲にあるいくつかの緑地の中で、猪高緑地は...

    2010/05/29

    施設/公園(Park)

  • バラ好きの男なんてと思っていたけど <王子製紙・後編>

    PENTAX K10D+SIGMA 50mm f2.8 Macro 王子バラ園の続きで、後編をお送りします。 このときは50mmマクロ一本ですべて撮ったわけだけど、50mmマクロと90mmマクロ(もしくは100mmマクロ)との一番の違いは、マクロ撮影以外のときの画角だ。花のアップを撮っていても、人がいたらそちらも撮りたいし、ときにはチョウやトンボが目の前を通ったりもする。そのとき、どれだけ広範囲を写せるか、どれだけ遠くのものを写せるかという点で、...

    2010/05/28

    花/植物(Flower/plant)

  • 50mmマクロでバラにぐぐっと迫ってみる <王子バラ園・前編>

    PENTAX K10D+SIGMA 50mm f2.8 Macro 春バラシーズンも後半に入った。鶴舞公園でバラ風景は撮ったものの、バラの花はまだ撮っていなかった。一年に一度はバラも撮っておかないと、あとあとまで心に引っかかることになる。近場でまとまった種類があるところといえば、春日井の王子バラ園だ。今年で6年連続になった。 今回は50mmマクロ一本でいってみた。相変わらずの三脚なしの手持ちで、この日は風が強くてかなり苦戦した。300枚...

    2010/05/27

    花/植物(Flower/plant)

  • 初夏から夏へ向かう森林公園の風景

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 森林公園は去年の10月以来だから、約半年ぶりとなった。 今回の目的は一応、虫撮りをメインに考えていた。けれど、思ったよりも全然いなくて、撮る以前に姿をあまり見かけなかった。今年の春は蝶が少ないような気がするのは気のせいだろうか。 今の時期は花がいったん休みになるときで、全般的に撮るものがあまりなかった。一年の中で花のピークは4月で、あとは段々少なくなっていく。考...

    2010/05/26

    施設/公園(Park)

  • 夏が近づくと動物たちの動きは鈍くなる <東山動物園・後編>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 今日は東山動物園の後編をお送りします。 この日のテーマの一つとして、動物の肖像画というものをイメージしていたのだけど、思うほどは上手くいかなかった。 その中では、これはまずまず成功した方だと思う。 300mmだと届かないもどかしさを感じる。できれば500mmが欲しい。170-500mmとか。 暑くなってくると、もうライオンはいけない。まったくもってやる気が出ませんといった感じで...

    2010/05/25

    動物園(Zoo)

  • 改良の余地を残す洋食寄りサンデー

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 今日は洋食寄りの気分だった。定番のメニューを少しだけアレンジするつもりが、思った以上に実験的な料理になった。というよりも、見込みの甘さから詰めの甘い料理になってしまったという方が正しいか。失敗ではないにしても、成功とも言い切れない。 左手前は、コロッケっぽいけど中身が違う。マグロを使ったミンチカツ風の料理だ。 マグロの切り身をそぎ落としのようにして細かくする。多少...

    2010/05/24

    料理(Cooking)

  • 動物園に一番たくさんいるのはヒト科のホモ・サピエンス<前編>

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 動物園は動物がいるだけの場所じゃない。そこを訪れる人間がいる。 動物園ほど邪気のない場所はめったにない。園内にいれば、悪意に晒されることはほとんどなく、安心して身を委ねていられる。 動物だけでなく、動物園の持つ空気感みたいなものまで撮れるといい。 私の視点は、楽屋裏的なものかもしれない。人々が演じる人生模様を、正面からではなく後ろから撮っている。そこに幸せの...

    2010/05/23

    動物園(Zoo)

  • 時代に取り残された昭和の温もり ---筒井町商店街

    FUJIFILM S2pro+NIKKOR 55-200mm VR 城下町というのは、多少例外はあるものの、基本的には文字通り城の下、つまり南に町は広がっている。 名古屋城は清洲越しによって作られた城下だ。信長の時代まで、尾張の首府は清洲にあり、清洲城下に町が形成されていた。 江戸時代になって、廃城になっていた那古野城あとに、家康はあらたに名古屋城を築いた。清洲では手狭するぎというのが主な理由だったといわれている。 当時はまだ大...

    2010/05/22

    名古屋(Nagoya)

  • 自転車散策は行き帰りも撮影チャンス

    FUJIFILM S2pro+NIKKOR 70-300mm f4-5.6 VR / 55-200mm VR 旅シリーズがすっかり終わったところで、これからまたしばらく小ネタが続くことになりそうだ。次の旅は今月末か来月の初めになる。それまでなんとかつないでいこう。 今日は鶴舞公園へ行ったときの行き帰りの風景編をお送りします。 自転車散策のいいところは、移動中も無駄にならないことで、街を自転車で走っていれば、何かは視界に入ってくる。撮りたい被写体との出...

    2010/05/21

    日常写真(Everyday life)

  • 浮き沈みの激しかった福井城に桜の木は残った<第8回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8 福井市は、第二次大戦の空襲によって、市街地の95パーセントを消失した。 もし、福井が戦火に遭っていなければ、今頃は金沢のようなしっとりとした城下町の風情を残していただろう。昭和23年の福井地震と九頭竜川堤防決壊が、それに追い打ちをかけた。現在の福井に古い城下町の面影を見つけるのは難しい。 福井市は、柴田勝家が築いた北ノ庄城とその城下町に始まる。それを引き...

    2010/05/20

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 5月の鶴舞公園といえばやはりバラが主役

    FUJIFILM S2pro+NIKKOR 50mm f1.8 / NIKKOR 70-300mm f4-5.6 VR / 55-200mm 鶴舞公園のバラが見頃だというニュースを見て、ちょっと行ってきた。 鶴舞公園は、近いようで遠く、位置的にもついでに寄るようなところではないので、意外と行っていない。写真を撮りに行ったのは、3回か4回くらいのものだ。よく似たタイプの庄内緑地に方がよく行っている。 直線距離で8.5キロ。ちょこちょこ寄り道しながら、ちんたら自転車を漕いで...

    2010/05/19

    施設/公園(Park)

  • 北ノ庄で散った勝家の名残はわずか <第7回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8 北ノ庄城址は、商店街のただ中にひっそりと埋もれるようにわずかにその痕跡をとどめている。地図には小さく柴田神社とあり、よく探さないと見つからない。人々の記憶からも薄れ、県外からあえてこの地を訪れようというのは、少数の戦国好きくらいだろうか。 かつて安土城に匹敵するほどの九層の天守を持つ壮麗な城がそびえていたと言われても、その姿をこの地に想像するのは難し...

    2010/05/18

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 福井の郷土料理を作ろうとして思いが届かなかったサンデー

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 久々にちょっとやってしまった感のあるサンデー料理となった。全体的に茶色が支配した。しょう油を少なめにして白だしを使ったから、やや薄色になってはいるものの、カラフルさからは遠かった。 実はこの料理、福井県の郷土料理から出発しているといったら、福井県民からお叱りを受けてしまうだろうか。途中で予定変更が相次いで、福井上空できりもみ状態のまま落下して、岐阜の山奥あたりに墜...

    2010/05/17

    料理(Cooking)

  • 商店街と路面電車と桜の福井駅 <第6回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8 三国湊をあとにして、この日の最終目的地、福井駅へとやって来た。 ここでの目的は、駅前をぶらぶらして福井の街を見ることと、福井城へ行くことだった。まずは北ノ庄城址を目指すことにした。 上の写真は、駅前のスクランブル交差点だ。見知らぬ土地に降り立ったとき、まずはその街の東西南北を知りたいわけだけど、いきなりスクランブル交差点ではどちらへ進んでいいのか分か...

    2010/05/16

    観光地(Tourist spot)

  • ついでに寄って欲しい三国湊の町並み <第5回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8 ああ、この感じいいな、と思う三国湊の町並み。昭和っぽいというよりも、昭和そのものとさえ言える。自分が小学生に戻って、この町に迷い込んでしまったみたいに感じた。 現在は三国港と表記して「みくにみなと」と読ませているけれど、この町並みを見ると、昔ながらの書き方である三国湊の方が合っている。 三国湊は古くから良港として知られたところで、江戸時代に北前船で栄...

    2010/05/15

    観光地(Tourist spot)

  • 三国湊本編の前のプロローグ <第4回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8 東尋坊から三国駅までの帰り道は、バスに乗った。帰りも歩くのはさすがに厳しかったし、三国駅から福井駅へ行く電車の時間もあった。ただ、バスの時間まで15分ほどあったので、最後に荒磯遊歩道でもう少しだけ写真を撮ることにした。 午後の太陽に照らされた日本海は、白くきらめいて、眼を細めないと見られないくらい眩しかった。これが日本海の見納めというわけではないだろう...

    2010/05/14

    観光地(Tourist spot)

  • 自分の身を守るのでいっぱいいっぱいの東尋坊 <第3回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8 東尋坊は自殺の名所だから行きたくない、などと考えている人がけっこういるかもしれない。実は私もちょっとそんな気持ちがあった。少なくとも、体調が悪いときに行くのはやめておこうと思っていた。今回行く気になったのは、気力、体力ともに問題ないと判断したからだ。 実際に行ってみると、東尋坊は拍子抜けするくらいあっけらかんとした陽気な観光地だった。私が鈍いだけとい...

    2010/05/13

    観光地(Tourist spot)

  • 穏やかに見える春の日本海も内に激しさを秘める <第2回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8 横殴りの吹雪が、海岸に咲く越前水仙を大きく揺らし、激しく打ちつける波が、黒い岩場に当たって白く砕ける。灰色の空と海が溶け合い、吹き来る風で遠くが霞んでよく見えない。そんな真冬の日本海のイメージが頭の中にあった。 訪れたのは4月初頭。春が少し遅い北陸とはいえ、越前の海はすっかり春の顔をしていた。不良少年が歳を取ってただの穏やかなオヤジになってしまったみ...

    2010/05/11

    観光地(Tourist spot)

  • 三国港から始まる春の東尋坊行き <第1回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8 東尋坊は、10年くらい前に車で直前まで行きながら時間切れで引き返したということがあって、あれから月日が流れる中で、いつか行きたいという気持ちが心の片隅にずっとあった。本当は冬に行きたいと思っていたのだけど、高山やら京都やらを巡っている内に春になってしまった。でも、やはり行きたいという気持ちが高まり、4月のはじめに行ってきたのだった。 福井は、去年の夏に...

    2010/05/11

    観光地(Tourist spot)

  • まあこんなもんだろう的なサンデー

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 今日のサンデー料理も、テーマのない雑多な料理になった。一応の方向性としては中華の方を向いていた。 買ってきた安売りの鯛をどうにかして食べようというところからまずは始まった。 鯛はよく使う食材で、過去にもいろいろな料理をしてきた。白身の中でもクセがなくて、和食にも洋食にも使える便利な食材として重宝している。ただ、中華風にアレンジしたことはなかったはずだから、今回は中...

    2010/05/10

    料理(Cooking)

  • 二子山古墳と継体天皇と季節外れの桜写真

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 春日井市南西部の味美(あじよし)に、二子山古墳(ふたごやまこふん)というのがある。今日はその話を少ししたいと思う。 春日井から名古屋市東北部にかけてのエリアに、たくさんの古墳が密集している。何故こんな内陸なのかと不思議に思うけど、かつての伊勢湾はこの近くが海岸線だったことを思えば理解できる。 その中でも、二子山古墳は最大の前方後円墳で、全長は94メートルある。...

    2010/05/09

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 東海道の宿場つながりで去年訪れた二川宿の話

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 やや唐突ではあるけれど、今日は二川宿を紹介することにした。 ここを訪れたのは去年の9月のことだった。蒲郡から豊橋、浜名湖と回ったとき、二川宿にも少し寄っておいた。それをここまで出さなかったのは、出すタイミングを失ったまま時が流れてしまったからだった。大事に温めていたとかそういうことではない。 ではどうしてこのタイミングだったかといえば、関宿、亀山宿を訪れて、東海道の宿場つ...

    2010/05/08

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 自転車で行く瀬戸電沿線風景

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 瀬戸電沿線の風景をあらためて見てみようと、何年か前から考えていた。車だと狭い道は入っていけないし、歩くには距離がある。こんなとき便利なのが自転車だ。自転車でしか出会えない風景がたくさんあることを最近知った。 名城公園に藤を見に行った日、瀬戸電の線路沿いをずっと行ってみた。途中、少し道が途切れる場所があるものの、大部分は線路に沿って道が続いている。車もあまり来...

    2010/05/07

    飛行機(Airplane)

  • 名城公園に藤を撮りに行く

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 今年は藤をどうしようと思っていた。ちょこちょこ近所で見かけるし、わざわざ藤だけを撮りにいかなくてもいいんじゃないかと考えていたのだけど、年に一度のことだし、来年も見られるという保証はないし、やっぱり行っておこうと思い直した。 藤名所はそこここにあるようで意外と少なく、名古屋市内となると名城公園くらいしか思いつかない。愛知県まで範囲を広げると、津島市の天王川公...

    2010/05/05

    施設/公園(Park)

  • 亀山宿歩きで伊賀上野方面の旅は完結

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8 亀山城跡は、亀山駅の北、約600メートルほどにあり、その中間あたりを東西に旧東海道が通っている。亀山宿は、東の露心庵という寺から西の京口門までの約2.5キロの間にあった。江戸から数えて46番目の宿場町である。 熱田の宿から舟に乗った旅人は、桑名の渡しで降りたあと、四日市宿、石薬師宿、庄野宿を通り、亀山宿に辿り着く。 桑名から亀山までは40キロ弱。健脚の持ち主で...

    2010/05/05

    観光地(Tourist spot)

  • 何はなくとも石垣と多聞櫓が残る亀山城跡

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8 関宿をあとにして、一つ東の亀山駅に降り立った。伊賀上野、関、亀山というのが、この日のセットメニューだった。 訪れたのは4月6日だった。もううひと月くらい前のことになる。今頃桜の写真を出すのもどうかと思うけど、東北や北海道の人がこれを見たなら、ちょうどいい感じに思ってくれるだろう。 亀山での目的は二つ、亀山城跡を見ることと、東海道の亀山宿を歩くことだった...

    2010/05/03

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 無難でなんとなくな感じのサンデー料理

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 今日のサンデー料理は、ほぼノープランのノンテーマ料理だった。方向性も、完成図もないまま、漠然と作ってできたのが写真の3品だった。 週に一度にもかからず、たまにメニューを考えるのが面倒になる。今日はそんな日だった。子供の日や憲法記念日を料理として形にするのは難しい。鯉は食べたくないし。みどりの日にちなんで緑色の料理をするという手はあるにはあったけど、それもいいアイディ...

    2010/05/03

    料理(Cooking)

  • 瀬戸川を北上しながら目に映った風景

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 昨日の矢田川北上の続きで、今日は瀬戸川北上編をお送りします。 瀬戸川は三郷の南あたりで矢田川に合流する支流で、尾張瀬戸駅近辺ではお馴染みの川ではあるのだけど、それ以外の部分をほとんど知らない。地図を見ると、品野の手前で途切れている。一方には馬ヶ城ダムというのがあるものの、水源自体は地図ではよく分からない。馬ヶ城という山間部のどこかに水源がありそうだ。 それ以...

    2010/05/02

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

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和食にならなかった日本食サンデー料理

料理(Cooking)
和食になれずサンデー

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 今日のサンデー料理は、つくねをメインとして、あとは豆腐と野菜が食材だったから、出発時点では和食の予定だった。それが作っているうちにどんどん和食から離れていき、結果的には何食だか分からない仕上がりになった。こんなメニューは日本以外のどの国へ行っても出てきそうにないから、和食といえば和食ではある。それ以外に分類のしようがない。日本食という大きなくくりでいいのかもしれない。
 そんなこんなで、完成したのが上の3品だった。

 つくねの詳しい定義は知らない。つみれとの違いもよく分かっていない。これがつくねと呼べるものなのかどうかも疑問ではある。作り方はこうだ。
 白身魚を細かく刻む。
 長ネギの白い部分を刻み、ショウガ、卵、小麦粉、塩、コショウと一緒によく混ぜて、ある程度粘りが出るまでこねる。ひき肉のようにはならないので、適当なところで切り上げて、少し休ませる。
 手で丸めて団子にするには柔らかすぎるから、スプーンですくって、低めの油でじっくり揚げる。
 こんがりしたら取り出して、油切りをする。
 フライパンに移し、ごま油、酒、みりん、しょう油、塩、コショウ、砂糖、唐辛子を混ぜたたれを絡めながら炒める。
 単品で食べるとちょっと辛めなので、レタスと一緒に食べてちょうどいい。
 焼くと固くなるけど、揚げるとフワフワ食感になるから、面倒でも揚げた方が美味しい。

 右は、一見すると野菜のクリームスープっぽけど、中身はだいぶ違う。
 カットして下茹でしたジャガイモと、鶏肉をオリーブオイルで炒める。
 そこへ、下茹でしたほうれん草、ブロッコリーを加え、更にアスパラ、トマト、シーチキン缶も入れる。
 あとは、マヨネーズ、チーズ、コンソメの素、塩、黒コショウ、砂糖、からしで味を調えたら完成だ。
 何と呼んでいいのか分からない料理になった。

 奥は豆腐とエビの和風カレー味となっている。
 タマネギとエビをごま油で炒める。そのときエビが固くならないように、強火で一気に火を通す。
 サイコロ切りした絹ごし豆腐を加え、酒、みりん、しょう油、白だし、塩、コショウ、砂糖、カレー粉で味付けをして、最後に溶き卵を回し入れたら出来上がりだ。
 簡単で美味しいし、応用も利くからオススメしたい。和風だしとカレー味というのもよく合う。

 今回は結果的には安定志向の料理になった。冒険はしていないから、安心感のある味に仕上がった。それでは面白くないという気持ちもありつつ、失敗するより成功した方が美味しく食べられるのは事実だ。
 5月もこれで終わって、次週はもう6月だ。夏らしい料理というのも、そろそろ考える季節になった。

猪高緑地の残り写真と帰り道の風景 <後編>

施設/公園(Park)
猪高緑地2-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 今日は猪高緑地の後編です。
 一回に収めるには写真がはみ出してしまうし、二回に分けようとすると水増し感が強まるという中途半端な枚数で、やっぱり一回にしておけばよかったかなと思いつつ、二回目をお届けします。
 名東スポーツセンターの横に、すり鉢池がある。これは小さな溜め池で、ちびっこたちがザリガニ釣りをしたり、フナか何かを釣っている人がいたりといった、のどかな風景が広がる。大きな塚ノ杁池で釣りをしている人たちはブラックバス狙いのようだ。

猪高緑地2-2

 南側のエリアは一般の公園に近い雰囲気で、北の雑木林は森に近い。二つのエリアは性格が違っていて、それぞれ歩いている人の種類も違う。私はもっぱら北エリア専門なので、南へ行くとなんとなく場違いな感じがして居心地が悪い。

猪高緑地2-3

 この日、唯一撮れたチョウがこれ。暗い森の中で飛んでいるところを撮るのは至難の業で、止まっているところを撮るのがやっとだった。
 タテハチョウの仲間だと思うけど、詳しくは分からない。ツマグロヒョウモンあたりだろうか。なんとなく模様が違う気もする。

猪高緑地2-4

 竹林の様子。
 タケノコ採取禁止という立て札が目立つ。

猪高緑地2-6

 竹林の別の姿。
 竹はいつでも撮りたい被写体だけど、これだというのが撮れたことはない。頭の中にあるイメージがまだぼんやりとしていて、はっきり固まっていないせいもある。静けさが感じられる端正な姿を撮りたい。
 これからも挑戦していきたい対象だ。

猪高緑地2-5

 犬の散歩にも最適な場所だ。地面は土だし、草むらには突っ込み放題だし、犬にとっては嬉しい散歩コースだろう。

猪高緑地2-7

 池の中に金魚藻が生えている。マツモか、カボンバか。うちの熱帯魚水槽にも入れているやつだ。
 外国産の草だと思っていたら、自然にも普通に生えているものらしい。

猪高緑地2-8

 水中から何か飛び出してきて、わっ、なんかへんな生物が出てきた、と驚いたら、隣の茂みで釣りをしている人のワームだった。
 バスがかかった瞬間を撮れたらよかったけど、ずっと待つほど根気強くはない。

猪高緑地2-9

 上空を飛んだヘリコプターを撮る。緑地風景とはまったく関係ない水増し用の写真だ。

猪高緑地2-10

 ここからは帰り道の写真になる。
 香流川の護岸壁に咲く初夏の花。この黄色は何だろう。

猪高緑地2-11

 これも川沿い風景。
 風が吹いて草をなびかせる様子が涼やかだった。

猪高緑地2-12

 雲が多い空。今年の5月は涼しすぎる。衣替えにはまだ早い。

花も虫も少ない猪高緑地だけど <前編>

施設/公園(Park)
猪高緑地1-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 このところ、向かう先がネイチャー寄りになっている。意識的にそうなっているわけではないのだけど、5月の新緑がそうさせているようだ。緑色の水の映り込みが一年で一番きれいなのがこの時期だ。だから、水と緑があるところへ行きたくなる。
 今回は猪高緑地へちょっと行ってきた。去年の7月以来だから、けっこう久しぶりになる。
 家から近い範囲にあるいくつかの緑地の中で、猪高緑地はあまり行かない。ここは相性がもう一つよくないようで、行ってもあまり収穫がない。花が少ないというのが一番の理由で、そうなると必然的に虫も少なくなる。今回も撮るものは多くなかった。
 とはいうものの、行けば何かしら撮るわけで、写真の枚数もそこそこになった。一回では収まらなかったので、二回に分けて紹介することにしたい。

猪高緑地1-2

 緑地内にある一番大きな池が、塚ノ杁池だ。たぶん、全部溜め池だったと思う。
 池にはヒツジグサが咲き始めていた。
 ヒツジグサはスイレンの仲間で、日本で自生する唯一のスイレンだ。こういう自然の池に咲いているは、たいていはヒツジグサと思っていい。
 ただ、ヒツジグサとスイレンの区別がついているかといえば怪しく、あまり自信は持てない。

猪高緑地1-3

 この浮き草は何だろう。ジュンサイとかだろうか。びっしり水面を覆っていた。
 池の浮き草風景を見ると、いよいよ夏が来たと思う。

猪高緑地1-4

 猪高緑地の雑木林は、名古屋市内とは思えないほどのワイルドさを見せる。簡単には踏みいることができないほど森は深い。海上の森と変わらないくらいだ。

猪高緑地1-5

 苔むす幹と、芽吹く若葉。違う木の種が着生して、幹から芽を出しているのだろうか。

猪高緑地1-6

 地面の野草も、木に咲く花も少ない中で、この花はよく咲いていた。見たことがあるようなないような。似たようなやつがいろいろあるから紛らわしい。
 イボタノキか、ネズミモチか、違うやつか。

猪高緑地1-7

 たくさん落ちていた花が、咲いていたものと同一なのかどうかも分からなかった。
 この日の目当ては、虫だったのに、いっこうに虫とは出会えず、とりあえず花などを撮ってみる。

猪高緑地1-8

 初夏になっても立ち枯れたままの木もある。
 でも、姿がなんとなくよかった。

猪高緑地1-9

 緑地の中で特別扱いになっている井堀の大クス。
 以前は近くまで自由に行けたのに、いつの間にか柵ができて近づけないようになっていた。木のためにはその方がいいには違いないけど、触れなくなったのはちょっと残念だ。

猪高緑地1-10

 井堀上池のアオサギ。この池は人が近寄れないから、サギたちも安心して過ごしている。
 すぐ近くに井堀下池もある。
 このあと棚田まで行ってみたものの、そこでも収穫はなし。田植えも終わってなくて、ツバメの姿もなかった。

猪高緑地1-11

 クモが本格的に活動を開始した。立派な巣が完成している。
 写真に撮るような虫はほとんど見かけなかったけど、小さな羽虫はたくさん飛んでいた。
 木についた白い泡みたいなのもあちこちにあった。何かの卵だろうと思う。カエルとかだろうか。

猪高緑地1-12

 クモも虫といえば虫だ。チョウやトンボばかりが虫じゃない。
 とはいえ、クモを撮ってもなぁ、と思う。

 後編につづく。

バラ好きの男なんてと思っていたけど <王子製紙・後編>

花/植物(Flower/plant)
王子バラ園2-1

PENTAX K10D+SIGMA 50mm f2.8 Macro



 王子バラ園の続きで、後編をお送りします。
 このときは50mmマクロ一本ですべて撮ったわけだけど、50mmマクロと90mmマクロ(もしくは100mmマクロ)との一番の違いは、マクロ撮影以外のときの画角だ。花のアップを撮っていても、人がいたらそちらも撮りたいし、ときにはチョウやトンボが目の前を通ったりもする。そのとき、どれだけ広範囲を写せるか、どれだけ遠くのものを写せるかという点で、50mmと90mmでは大きな違いが出る。
 個人的に、50mmマクロのメリットは小さいと感じている。コンパクトで軽量なのは助かるし、90mmに比べると手ブレも少ないという強みはあるものの、とにかく届かないのが致命的だ。特に私の場合、常に人入り写真を撮りたいというのがあって、遠くにいる人を大きく撮れないのがもどかしい。必要以上に近寄ると怪しまれそうだし。
 動きの少ないコガネムシ程度なら近づいて撮れるにしても、チョウなどはそこまでの接近を許してくれない。
 そういうもろもろを考えると、やはり90mmの方が何かと使い勝手がいいという結論になる。標準レンズのように風景撮りとしても使うなら、50mmという選択肢もあると思うのだけど。
 もしくは、マクロレンズは必要ではないかもしれないけど一応持っておきたいといったようなときは、50mmをカバンに放り込んでおくというのはありだ。

王子バラ園2-2

 バラ好きの男なんて絶対怪しい、そんなやつホントにいるのかよ、と昔の私は思っていた。その頃はまさか自分がバラの写真を撮って喜んでいる男になるとは思いもよらなかった。
 バラ名所へ行くと、意外と中高年の夫婦さんが多く訪れている。ふたりでバラを愛でている姿を見ると、奥さんの教育がいいんだなと思う。

王子バラ園2-3

 清楚な黄色。
 バラの色は、女の人が着る服に通じるものがある。赤いドレスが似合う人もいれば、白いワンピースがぴったりの人もいる。こんな上品な黄色のブラウスを着こなしている人がいたら、お金持ちの奥様という感じがする。

王子バラ園2-4

 黄色とオレンジ色は思っている以上に近い色で、黄色ともオレンジとも言える色のバラがけっこうある。
 バラを見ると、ソフトクリームが食べたくなるのは、私だけではないはずだ。

王子バラ園2-5

 たまには普通に撮ってみる。充分きれいだけど、これじゃあ面白くないんだよなと思う。

王子バラ園2-6

 これも好きなバラ。ピエール・ド・ロンサール。カップ咲きの決定版と言っていいんじゃないか。
 あまり状態のいい花がなかったのが残念だったけど、きれいに咲いているものは、それはもう見事なものだ。

王子バラ園2-7

 名前のプレートを見忘れた。その姿の美しさに見とれてしまって。こういうのはもう、あるがままに撮るのが一番だ。下手な小細工はいらない。

王子バラ園2-8

 とろけるピンク。その優しいグラデーションにやられる。
 バラはやっぱり花の女王だ。

王子バラ園2-9

 ハナアブにピントが合わずに失敗だけど、ピントが合ったしべのうねうね感が面白い。
 この写真からも、バラの可能性をまだまだ感じた。もっとよく見れば、もっといろんなフォルムが見つかるはずだ。

王子バラ園2-11

 50mmマクロでハチに接近するのは危険だ。怖かったので、手を伸ばしてファインダーを見ずに撮った。それでもここまでしか近づけず、やっぱり90mmマクロにしようと思うのだった。

王子バラ園2-10

 ちょっとした花畑もあって、こちらも毎年楽しみにしている。その年によって少しずつ花が違っている。これは何だろう。

王子バラ園2-12

 ここは王子製紙の工場と社宅内なので、バラ園の外はこんな風景が広がっている。
 いつ行っても花の手入れをしている人たちが何人もいる。無料で見せてもらえるのはありがたいことだ。花粉症とアレルギー鼻炎の私だから、ティッシュは人よりたくさん使っている。それで多少は王子製紙に貢献できているだろうか。
 チャンスがあれば秋バラも撮りに行きたい。今年のバラ撮りはこれで終わりになりそうだ。

50mmマクロでバラにぐぐっと迫ってみる <王子バラ園・前編>

花/植物(Flower/plant)
王子バラ園1-1

PENTAX K10D+SIGMA 50mm f2.8 Macro



 春バラシーズンも後半に入った。鶴舞公園でバラ風景は撮ったものの、バラの花はまだ撮っていなかった。一年に一度はバラも撮っておかないと、あとあとまで心に引っかかることになる。近場でまとまった種類があるところといえば、春日井の王子バラ園だ。今年で6年連続になった。
 今回は50mmマクロ一本でいってみた。相変わらずの三脚なしの手持ちで、この日は風が強くてかなり苦戦した。300枚以上撮って使える写真が30枚以下というのだから、相当に確率が低い。手ブレ、ピンぼけ、被写体ブレの三重苦で、こんなことならやっぱり三脚を持っていけばよかったと思うのも、毎年のことだ。
 バラに関しては、いまだに確信を持って撮ることができない。バラの撮り方がよく分からない。分からないながらも毎年試行錯誤をしてはいる。今年のテーマは、近づけるだけ近づいてみるというものだった。
 バラは見てもきれいだし、普通に撮ってもきれいには違いないのだけど、普通に撮るだけではどうも面白くない。バラの可能性を侮ってはいけないと思う。私の知らないバラの美しさの可能性はまだまだあるはずなのだ。
 バラの色とフォルムを求めて、できる限り迫ってみた。そこにはあらたな可能性があり、虫たちがいた。

王子バラ園1-2

 私が好きなマダム・ヴィオレ。品のある姿と色を手に入れた代わりに、香りを失ったバラだ。
 花びらの輪郭を出しつつ、周囲をとろかす。エッジを効かせることを心掛けた。
 必ずしも上手くいったとは思ってないけど、方向性としては少し見えたものがある。
 バラが持つ独特のフォルムを活かしたい。
 そのためにはまず、いい部分を見つけることが大切になる。

王子バラ園1-3

 マダム・ヴィオレと同じ寺西菊雄作出の荒城の月。
 ほとんどの花が終わりかけていた中で、残っていた蕾を撮る。
 イエロー・オン・イエロー。

王子バラ園1-4

 波打つように重なる花びらのフォルムとリズムも、バラの特徴の一つだ。
 赤といっても多種多様の赤があり、光によっても色の表情は変わる。

王子バラ園1-5

 バラの中でちょこまか動くヒメカメノコテントウに翻弄され、追いかけて、追いかけて、やっとピントが合った一枚。
 バラの花に近づいてみたら、そこにはいろいろな虫たちがいることを発見した。途中からバラ撮りではなく虫撮りになった。

王子バラ園1-6

 花の奥をのぞいてみたら、先客のハナムグリがいた。
 近くから見ると毛深さがちょっと気持ち悪い。

王子バラ園1-7

 ルリイロナガハナアブかなと思うけど、自信はない。
 眼がモアレみたいな模様をしている。

王子バラ園1-9

 撮るときはホソヒラタアブのつもりだったけど、写真であらためて見てみると確信が持てなくなった。なんとなくちょっと違うような気もする。

王子バラ園1-8

 すごく小さいテントウムシみたいなやつ。2ミリか3ミリくらいだから、マクロで目一杯寄ってもこの大きさにしか写らない。
 テントウムシの一種なのか、違う種類の虫なのか。

王子バラ園1-10

 虫ばかり撮ってる場合じゃないと、ちょっと花から離れてみた。
 逆光で背景に葉っぱを持ってくるとキラキラの光を作ることができる。キラキラが丸くなるように、絞りは開放で。
 普通に撮るとバラが暗くなるから、フラッシュを光らせて日中シンクロさせている。

王子バラ園1-11

 花びらが散ったあとの姿。これはこれで成立しているように見える。

王子バラ園1-12

 桜やモミジほどではないけれど、散りバラも被写体になる。

 後編につづく。

初夏から夏へ向かう森林公園の風景

施設/公園(Park)
森林公園-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 森林公園は去年の10月以来だから、約半年ぶりとなった。
 今回の目的は一応、虫撮りをメインに考えていた。けれど、思ったよりも全然いなくて、撮る以前に姿をあまり見かけなかった。今年の春は蝶が少ないような気がするのは気のせいだろうか。
 今の時期は花がいったん休みになるときで、全般的に撮るものがあまりなかった。一年の中で花のピークは4月で、あとは段々少なくなっていく。考えてみるとあっけないものだ3月、4月の花を待って、待って、やっと咲いたと思ったらすぐに終わって、また10ヶ月待つことになる。だからこそ、春はもっとしっかり花を追いかけないといけないのだけど。
 光はだいぶ強くなってきた。夏が近いことを思わせる。森の新緑は濃くなり、季節は初夏から夏へ向かっていることを実感する。
 スイレンの池は、葉っぱがだいぶ増えてきていた。花を咲かせる準備を進めているところだろう。

森林公園-2

 スイレン池の奥にカキツバタが咲いていた。ここに咲いているとは知らなかった。
 今年は結局、小堤西池に行けなかった。ここ数年欠かさず行っていたのに残念に思っていたら、思いがけないところでカキツバタと出会うことができた。
 状況的には小堤西池には遠く及ばないものの、カキツバタだけを撮るなら森林公園でも事足りる。
 背景に水があったのでキラキラを作りつつ、逆光で日中シンクロさせている。
 逆光で撮ると被写体は暗くなってしまう。こういうときは昼間でもフラッシュを光らせることで被写体を明るくすることができる。人物でも使えるし、青空を白く飛ばさないためのテクニックでもある。光が強すぎる場合は、フラッシュの光部分にティッシュを被せるというのが古典的で有効な手段だ。

森林公園-3

 見覚えのある花だ。ミヤマザクラあたりかと思うけど、違うかもしれない。
 蜜を吸っているのはハナアブだろう。それ以上詳しい種類は知らない。

森林公園-4

 葉っぱの向こうから顔を出した虫。虫としか分からないのが情けない。
 虫の種類の多さったらない。知っているのはごく一部で、その他大部分の名前を知らない。全部知るのはとうてい無理でも、もう少し詳しくなりたい。

森林公園-5

 トンボがぼちぼち出てきた。
 こいつはシオカラトンボかと思わせてシオヤトンボかもしれない。裏をかかずに素直にシオカラトンボなのか。
 もしかして、どちらも違ったりして。
 トンボの見分け方も、すっかり疑心暗鬼になってしまって、何一つ断定できない。はっきり分かるのはハッチョウトンボくらいだ。

森林公園-6

 シオカラトンボに見える。シオカラだ、シオヤだと惑わされていると、オオシオカラトンボという可能性もあるから油断はできない。

森林公園-7

 これはメス。シオカラか、シオヤか、どっちかだけど、メスも判別できない。
 今年の夏の目標の一つに、シオカラトンボとシオヤトンボを見分けられるようになること、というのを掲げよう。余裕があれば、赤トンボの判別までいきたい。

森林公園-8

 アシナガバチとスズメバチの違いもよく分かってない。これはどっちか知らないけど、凶暴な雰囲気を漂わせていたのは確かだ。
 まがまがしい感じに恐れをなしてしまい、ここまでしか近づけず、おまけにチビって手ブレを起こしている。
 去年同じ場所でマムシを激写している。森林公園は少しだけデンジャーだ。

森林公園-9

 そろそろクモの巣も張られ始めた。
 クモの巣が顔に引っかかるのはすごく不愉快だけど、クモの巣は被写体としての魅力がある。

森林公園-10

 光に透ける若葉の黄緑は、とても爽やかな印象を与える。

森林公園-11

 鳥も全然撮れなかった。鳴き声だけで姿を見つけられず。これだけ葉が生い茂ってしまうと、撮るのは難しくなる。
 たぶんスズメだと思うけど、唯一のチャンスだったので撮っておいた。

森林公園-12

 ここから先の写真は、帰りの尾張旭風景となる。
 水が張られると、カルガモもやって来る。

森林公園-13

 尾張旭はどういうわけか、周辺の地域と比べても特別田植えが遅い。何か理由があるのだろう。他はもう終わっているところが多いのに、ここはやっと始まったばかりだ。

森林公園-14

 子育て中のケリが、警戒パトロールでケンカ腰に突っかかってくる。大声で鳴いて巣に近づく者を威嚇する。やつらはカラスにも一歩も引かない。

森林公園-15

 ケリの卵を初めて見た。うずらの卵に似ている。
 先に生まれてだいぶ育ったヒナもいるようで、この卵ももう孵る頃だろう。

森林公園-16

 農作業をしながらおしゃべり。楽しそうだけど、大変そう。

森林公園-17

 田んぼや畑の中の道は、犬の散歩には最適だ。ここらは犬連れの人が多い。

森林公園-18

 尾張旭ではあまり見かけない和装の人。

 森林公園と尾張旭田んぼ風景とあわせて一回で終わってしまった。
 来月になればもっと虫も増えてくるだろうから、また近いうちに行くことにしよう。

夏が近づくと動物たちの動きは鈍くなる <東山動物園・後編>

動物園(Zoo)
東山動物園2-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 今日は東山動物園の後編をお送りします。

東山動物園2-2

 この日のテーマの一つとして、動物の肖像画というものをイメージしていたのだけど、思うほどは上手くいかなかった。
 その中では、これはまずまず成功した方だと思う。
 300mmだと届かないもどかしさを感じる。できれば500mmが欲しい。170-500mmとか。

東山動物園2-3

 暑くなってくると、もうライオンはいけない。まったくもってやる気が出ませんといった感じで、ぐったり寝ている。
 動物園の動物たちは、寒いときの方が元気に動き回っているから、夏場は楽しさが少し減る。

東山動物園2-4

 ラクダのハマコさんも、横になってゴロゴロしていた。
 ラクダは砂漠でも生きられるくらい暑いのは大丈夫だから、暑さにやられたというわけではないと思う。体のどこかがかゆかったのかもしれない。

東山動物園2-5

 サイがほへっ? みたいな顔をして、こっちを見ていた。とぼけた顔をしている。
 普段はおとなしいサイだけど、怒ると凶暴になるらしい。

東山動物園2-6

 お気に入りのコビトカバ。一般にはあまり人気がなく、動物園でも端っこにいるから、あまり人が来ない。来てもすぐに立ち去ってゆく。
 ムーミンに似ている。

東山動物園2-7

 シンリンオオカミも、楽しみとなっている。
 遠吠えの姿を撮ってみたいけど、動物園ではそんなことをする必要がないからしないのだろうか。それとも、夜になったらしてるのだろうか。

東山動物園2-8

 猫科の何か。
 姿形はトラ猫っぽくても、目つきの鋭さが違う。体もかなり大きい。

東山動物園2-9

 アクシスジカはいつみてもきれいだと思う。
 何頭かで揃って同じ方向を見ながらじっとしていることがある。

東山動物園2-10

 ダチョウがコブラのような低い構えのまま、ひょこひょこ歩いていた。頭を下げるのはどういうときなんだろう。

東山動物園2-11

 寝起きのぶちゃいくな顔みたいなゴマフアザラシ。

東山動物園2-12

 セクシーなヒップライン。

東山動物園2-13

 ゾウのうぶ毛。

東山動物園2-14

 ベニイロフラミンゴのサーモンピンクと、新緑が映り込んだ池の緑のコントラストがきれいだった。

 今回の動物園行きは、全体的にはやや低調だったものの、少しだけ収穫があった。
 また来月行こう。

改良の余地を残す洋食寄りサンデー

料理(Cooking)
洋食系サンデー

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 今日は洋食寄りの気分だった。定番のメニューを少しだけアレンジするつもりが、思った以上に実験的な料理になった。というよりも、見込みの甘さから詰めの甘い料理になってしまったという方が正しいか。失敗ではないにしても、成功とも言い切れない。
 左手前は、コロッケっぽいけど中身が違う。マグロを使ったミンチカツ風の料理だ。
 マグロの切り身をそぎ落としのようにして細かくする。多少形を残す程度にして、叩かない。
 水切りした木綿豆腐と、マグロをよく混ぜる。このときタマネギのみじん切りを入れるかどうか迷って、結局入れなかった。入れていたら少し食感が変わっていたはずだ。
 塩、コショウ、マヨネーズを入れて、更にこねていく。
 あとは、小麦粉、卵、パン粉の順番につけて揚げる。温度はやや低めにして、じっくり時間をかける方がいい。高温だと外がすぐに焦げて中まで火が通らないから。
 たれはしょう油をベースに、酒、みりん、塩、コショウ、白だし、ごま油、からし、砂糖を混ぜて、ひと煮立ちさせる。
 豆腐を加えたことである程度ふっくら感は出たものの、まだパサつき感が強い。肉汁の代わりになる何かを封じ込めたいところだ。何を入れればじゅわっとなるのか、思いつかなかった。
 マグロのカツ風揚げというアイディアそのものは悪くない。これは改良の余地があるから、機会があればまた作ってみたい。

 右は、ハーフクリーム、ハーフトマトのソーススープだ。
 バター、小麦粉、牛乳、トマト、塩、コショウ、コンソメの素でトマトクリームソースを作る。
 ジャガイモ、タマネギ、ニンジン、鶏肉を、オリーブオイルと白ワインで炒める。
 そこへ水、酒、みりん、しょう油、白だし、塩、コショウ、砂糖を加えて煮込んでいく。途中でトマトクリームソースを加え、コンソメの素、とろけるチーズ、ケチャップ、しょう油で味を調える。
 新ジャガを丸のまま使う場合は、あらかじめレンジで加熱して火を通しておくと、その後の煮込み時間が短く済む。
 トマトの優しい酸味とクリームソースのまろやかさがマッチして、なかなか美味しく仕上がった。これは成功だった。

 奥は野菜と豆腐炒めのポーチドエッグ乗せだ。
 ポーチドエッグを作りたいということが先行して、野菜炒めがちょっと適当な感じになってしまった。見た目も雑で、料理としての完成度は低い。
 タマネギ、ニンジン、木綿豆腐、アスパラをオリーブオイルで炒める。
 酒、みりん、中華の素。塩、コショウ、しょう油で味付けをする。
 ポーチドエッグは、沸騰したお湯にお酢と塩を入れて、割った卵をそっと流し入れる。散らばろうとする白身を集めつつ、3分ほど湯がいたらあげる。柔らかいのが好きなら、白身が固まったらすぐにあげてもいい。
 この料理ももうひとひねり欲しかった。ポーチドエッグをどうやって食べるのが一番いいのか、今後も探していきたい。

 今回は見た目は悪くなかったわりに味のインパクトが弱めで、全体としては65点止まりといったところだった。手間暇をかければ必ず美味しくなるというわけではない。ただ、実験的な試みをしたことは無駄じゃなかった。失敗した方が次につながるということもある。
 作って楽しく、見た目に品があって、食べて美味しいというのが理想だ。いつでもそこを目指したいと思っている。

動物園に一番たくさんいるのはヒト科のホモ・サピエンス<前編>

動物園(Zoo)
東山動物園1-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 動物園は動物がいるだけの場所じゃない。そこを訪れる人間がいる。
 動物園ほど邪気のない場所はめったにない。園内にいれば、悪意に晒されることはほとんどなく、安心して身を委ねていられる。
 動物だけでなく、動物園の持つ空気感みたいなものまで撮れるといい。
 私の視点は、楽屋裏的なものかもしれない。人々が演じる人生模様を、正面からではなく後ろから撮っている。そこに幸せの姿が写っていたとしたら嬉しい。背中の方から見える幸せというのもある。それを写し取るのも写真の役割だと思っている。

東山動物園1-2

 園児の群れ。とにかく騒がしい。勝手に走り回っているやつもいる。
 これも動物園の風景を作っている大事な要素の一つで、子供たちがいなくなると、とたんに静かになって、なんだか火が消えたように寂しくなる。
 中学生以下はタダだから、動物園側としてはいくら来てもらっても儲からない。けど、彼らはエキストラとしての役割を果たしているから、あれはあれで役に立っているのだ。

東山動物園1-3

 集団で大騒ぎしていた園児たちとは一線を画すちびっこたち。行儀よくアシカを見物していた。制服も品があるし、私立の幼稚園生だろうか。

東山動物園1-5

 ガラス越しにクマを観察する女の子とお母さん。
 ガラスがあるから安全だけど、森でこの距離で出くわしたらもう駄目かもしれない。
 森や山へよく行く私としては、一度はクマに出会って激写したいなどと考えているけど、実際目の前にしたらシャッターを切れるものだろうか。カメラを構えて後ずさりしても襲ってくるものなのか。フラッシュで驚かせることができるのか、かえって刺激してしまうのか、どうなんだろう。

東山動物園1-4

 昼間は眠ってばかりいるコアラも、メシの時間になると起きてくる。眠たそうな目をしながらも、ユーカリをむしゃむしゃ食べていた。
 コアラを触らせてくれるサービスを始めたら、すごくお客が来るようになると思うけど、実現不可能なのだろうか。コアラというのはそんなに神経質な生き物なのか。オーストラリアではコアラのだっこまでさせていることを思うと、やってやれないことはなさそうなのに。

東山動物園1-6

 ゴリラのにらみ合い。オスがメスに怒って、とっくみあい寸前のケンカになっていた。メスが逃げていってたいしたことにはならなかったからよかったものの、この二頭はいつ見てもあまり仲が良くなさそうだ。年が離れすぎているせいもあるかもしれない。

東山動物園1-8

 こちらは仲良しチンパンジー。微笑ましくてホッとする光景だ。

東山動物園1-7

 新しいサル舎が完成していた。作りが甘くてサルが逃げ出したりなんかして、一般公開までに時間がかかった。この施設を野生のサルが見に来たというのもニュースになった。

東山動物園1-9

 退屈を絵に描いたような態度のオランウータン。金製のバケツを頭にかぶって、ふてくされていた。

東山動物園1-10

 しゃがんだまま、ヌーボーとして、置物のようにぴくりともしないカピバラさん。人間はこんなふうに何分間も動かずにはいられない。へたしたらこいつは何時間でもこうしてそうだ。

東山動物園1-11

 リス舎のリスは、勝手気ままに動き回っていて、人間をさほど恐れてはいないのだけど、いかんせん人になついていない。リス用のエサを売って、お客がエサをあげるようになればもっとなつくはずだ。人の肩や頭に乗ってる写真とか撮りたいけど、現状ではそういうことはまず起こらない。

東山動物園1-12

 金髪の親子。外国の人たちもけっこう訪れている。動物に国境はない。

東山動物園1-13

 昔に比べて国際色豊かになった。
 子供の頃、家の近所で見かける外人さんといえば、自転車に乗ったモルモン教の二人組くらいのものだった。その後、中国人、フィリピン人、イラン人が増えて、今はまた勢力図が変わりつつある。

東山動物園1-14

 閉園時間が近づくと、飼育員さんたちは動物を宿舎に戻し、掃除を始める。お客の姿もまばらになり、動物園はけだるい空気感に包まれる。その感じがけっこう好きだ。

 後編につづく。

時代に取り残された昭和の温もり ---筒井町商店街

名古屋(Nagoya)
東区散策-1

FUJIFILM S2pro+NIKKOR 55-200mm VR



 城下町というのは、多少例外はあるものの、基本的には文字通り城の下、つまり南に町は広がっている。
 名古屋城は清洲越しによって作られた城下だ。信長の時代まで、尾張の首府は清洲にあり、清洲城下に町が形成されていた。
 江戸時代になって、廃城になっていた那古野城あとに、家康はあらたに名古屋城を築いた。清洲では手狭するぎというのが主な理由だったといわれている。
 当時はまだ大坂に強大な力を持った豊臣家がいて、それに対する備えとして尾張に強固な城を築く必要があった。新しくできた名古屋城には、家康九男の義直がやって来ることになった。
 そういう経緯があったため、名古屋城の城下は計画的に作られた都市だった。京都ほどではないものの、碁盤の目に近い整然とした区割りを行って、町作りが進められた。
 城の南の三の丸には、成瀬家などの家老の大きな邸宅が建ち並び、すぐ東の白壁あたりには上級藩士の屋敷が並んでいた。白壁地区は今でもその頃の名残を残しており、町並保存地区に指定されている。
 山口町から徳川園、建中寺の北が、上・中藩士の屋敷が集まっていた場所だ。
 今回、自転車で巡ったのは、筒井町から百人町にかけての一帯で、このへんは下級藩士の組屋敷がびっしり固まっていたところだった。下町という言葉が正しいのかどうかは分からないのだけど、昭和の名残を残す商店街などがあって、街の雰囲気としては下町っぽさを感じさせる。
 尾張徳川家の菩提寺として建中寺が建てられて以降、周辺の町は寺町として発展していくことになる。
 明治に入ると職布工場ができて、商店街が発達していった。昭和初期には、広小路や大須に匹敵するくらいの賑わいを見せたという。しかし、今の姿からその頃の様子を想像するのは難しい。
 戦災を免れて戦後も賑わいは続いたものの、昭和40年代後半から街は急速に衰退していった。時代の移り変わりに対応できないまま、再開発も進まず、ただ古びるにまかせて時代遅れになってしまった。
 昭和30年代、40年代といえば、まだ記憶に新しい人たちも大勢いる。現状をあらためて見てみると、呆然とするような思いがするんじゃないだろうか。
 6月の第1土日に行われる筒井町天王祭は、山車が繰り出し、人も大勢集まり、なかなかの活況を呈すそうだ。出店も出て、いっとき昔の姿を取り戻すのだとか。

東区散策-2

 ガラス屋さんというのは、けっこうな確率で生き延びている。
 何かの拍子に家のガラスを割ってしまったとき、ホームセンターでガラスを買ってきて自分ではめるというわけにもいかず、大手のガラスメーカーに電話しようなどとは思わず、近所のガラス屋さんを呼んで直してもらうことになる。
 こんな時代でも、町のガラス屋さんというのは必要な存在だ。 

東区散策-3

 純昭和といった趣の看板と店構えだ。
 手作り感の強い看板とか、木の扉とか、カーテンの模様とか。

東区散策-4

 昔ながらの時計屋さんを、たまに見かける。商売として成り立っているんだろうかと不思議に思うけど、店売りだけではない需要と供給があるのかもしれない。

東区散策-5

 ちょっと歴史のありそうな酒屋の看板。
 でも、字が左書きだから、そんなに古いものではない。

東区散策-6

 今はもうやっていないお寿司屋さん。
 回転寿司全盛の時代だから、中途半端な寿司屋は生き残るのが難しい。寿司の出前がどれくらいあるのか。

東区散策-7

 古い町の洋食屋さん。
 かつてはご馳走としての洋食を食べるために家族揃って行ったものだけど、今や時代は変わった。
 個人の洋食屋を続けていくのは大変だろうけど、続いているということはそれだけお客がいるということで、フラッと入って食べてみたらきっと美味しいのだろう。

東区散策-8

 薄汚れたノラも、のんきに歩く下町の路地。

東区散策-9

 筒井町商店街を抜けると、すぐに代官町商店街が始まる。どちらもそれほど違いはない。
 大代官の太田九左衛門の屋敷がこのあたりにあったことから代官町という名がついたという。

東区散策-10

 表で休憩中のコックさんと、近所の顔見知りの奥さんとの立ち話。
 昭和そのものの小さな本屋さんも、まだしっかり店を続けている。
 古い家屋などがそれほど多く残っているわけではないのだけど、通りの雰囲気が懐かしくて暖かい。

東区散策-11

 豊前町にある弘法湯。
 表からは古いところなのか新しいところなのか、判断がつかない。大きな煙突を見ると、昔ながらの銭湯かもしれない。

東区散策-12

 中央線の電車が通ったので撮ってみる。
 中央線の線路を越えてしまうと、今回の散策エリアから外れる。もう一度引き返して、黒門町の方へ行く。

東区散策-13

 百人町の交差点。
 百人町というと東京が有名だけど、名古屋と東京の百人町はちょっとした縁がある。両方とも百人組が町名の由来になっている。
 名古屋の場合は、家康に仕えた渡辺守綱(半蔵)の下屋敷がここにあり、渡辺半蔵百人組と呼ばれていた。
 東京の百人町は、内藤清成率いる伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことから名づけられた。この内藤清成は、三河国岡崎の生まれで、家康の家臣だった。
 百人町のすぐ東にある戸山公園は、もともと尾張藩の下屋敷だった場所で、尾張二代藩主・光友が造った回数式庭園・戸山山荘があった。百人町には尾張藩関係者の屋敷も建っていた。
 東京の百人町には外国人がたくさん住んでいるそうだけど、名古屋の百人町はひなびた住宅地といった風情となっている。ここは商店街ではない。

東区散策-14

 金魚、小鳥の店を見て、ちょっと感動する。かなり年季の入った店だ。この手の店はほぼ全滅している中、まだ生き残っているのはすごい。

東区散策-15

 看板の文字が部分的に抜け落ちて、暗号みたいになっている。
「 と 品 泉 商」
 推理で正確に文字を埋めるのは難しい。

東区散策-16

 全国仲人連合会なるものが存在するらしい。
 うっかりその会合に紛れ込んでしまったら、大変なことになりそうで怖い。

東区散策-17

 砂糖の卸をやっているところのようだ。ここもなかなか古そう。

 鶴舞公園とその行き帰りはこれでおしまいなのだけど、番外編として八幡山古墳と物部神社のネタがある。それについても、近いうちに書こうと思っている。

自転車散策は行き帰りも撮影チャンス

日常写真(Everyday life)
鶴舞行き帰り-1

FUJIFILM S2pro+NIKKOR 70-300mm f4-5.6 VR / 55-200mm VR



 旅シリーズがすっかり終わったところで、これからまたしばらく小ネタが続くことになりそうだ。次の旅は今月末か来月の初めになる。それまでなんとかつないでいこう。
 今日は鶴舞公園へ行ったときの行き帰りの風景編をお送りします。
 自転車散策のいいところは、移動中も無駄にならないことで、街を自転車で走っていれば、何かは視界に入ってくる。撮りたい被写体との出会いもある。あっと思ったときにすぐ立ち止まったり、引き返したりできるから、チャンスを逃すことも少ない。そんなことをしてると、立ちゴケして植え込みの茂みに自ら飛び込んでいったりすることもたまにあるけど、そんなことはまだ一回しかないから大丈夫だ。人に失笑を買ってもいいから、カメラもろとも自爆するのだけは避けたい。

鶴舞行き帰り-2

 愛知工業大学名電高等学校。
 前身は名古屋電気学校。名前からすると、とても男っぽい学校のようだけど、男女共学で工業高校とは違う。
 イチローの出身校ということで全国区になっている。工藤とか山崎とかも出てる。
 地元ではみんな「あいこーだいめいでん」と呼んでいる。

鶴舞行き帰り-3

 東山給水塔が見えた。昭和5年に完成した古い給水塔で、いい雰囲気の外観をしている。
 今はもう使われていなくて、春分の日と8月8日だけ一般公開される。

鶴舞行き帰り-4

 ロングで茶髪ストレートの郵便配達のお姉さん。こういうタイプの配達人はあまり見たことがない。民営化したことだし、もっと増えるとゆうちょ銀行のイメージも更によくなるんじゃないか。配達レディの部隊を作るとか。

鶴舞行き帰り-5

 昼下がりの公園。ベンチで書類のようなものを読む勤め人風。脇にはコンビニの袋が置かれている。

鶴舞行き帰り-6

 なかなかの門構えの法蔵寺。
 建中寺の何かを移築しているらしいけど、この門がそうかどうかは分からない。

鶴舞行き帰り-7

 灰色っぽいトラ猫もかわいい。
 下半身がどてっとしていたけど、妊娠中か、ただぽっちゃり体型なだけか。

鶴舞行き帰り-8

 鶴舞公園の北東に、吹上公園(ふきあげこうえん)というのがあったので、ちょっと寄っていった。
 昭和37年までは名古屋刑務所があったところで、刑務所が三好町に引っ越していったあと、鶴舞公園の分園として整備された。
 かつては茶臼山古墳と太郎塚の2つの古墳があったそうだけど、刑務所を作るときに壊してしまった。そんなことをして大丈夫だったんだろうかと、ちょっと心配になるようなエピソードだ。現在は古墳を示すようなものは何も残っていない。

鶴舞行き帰り-9

 公園内には特に何があるというわけではないものの、たくさんあるベンチがほとんど埋まるほどの盛況だった。遊びに訪れた親子や、お年寄り、カップル、仕事中の人や、ベンチに寝てる人など、それぞれ思いおもいの過ごし方をしていた。
 昭和スポーツセンターやテニスコート、野球場などもあり、隣には吹上ホール(名古屋市中小企業振興会館)がある。吹上ホールの設計は黒川紀章が担当した。

鶴舞行き帰り-10

 中央線の高架下。何軒か店が並んでいる。昼間は閉まっている店も多く、賑わいは感じられない。夜になるともう少し人通りが増えるんだろうか。

鶴舞行き帰り-11

 ここからは帰り道。
 名古屋高速の高架下風景。児童公園などもありつつ、ブルーシートも共存する。
 名古屋も昔に比べるとホームレス事情が厳しくなった。

鶴舞行き帰り-12

 ビルの外に何かがたくさん貼り付いている。なんだろうと思ったら、エアコンの室外機のようだ。
 ベランダがないから一般の住宅ではないのかもしれない。なんとなく不思議な光景だった。

鶴舞行き帰り-13

 しみぬきを前面に押し出した店だったらしい。

鶴舞行き帰り-14

 ウェットスーツの製造と直販、修理をやっている店。

鶴舞行き帰り-15

 このあと車道から百人町あたりを巡りながら帰った。そのときの話は、また次回ということにしたい。

浮き沈みの激しかった福井城に桜の木は残った<第8回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
福井城-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 福井市は、第二次大戦の空襲によって、市街地の95パーセントを消失した。
 もし、福井が戦火に遭っていなければ、今頃は金沢のようなしっとりとした城下町の風情を残していただろう。昭和23年の福井地震と九頭竜川堤防決壊が、それに追い打ちをかけた。現在の福井に古い城下町の面影を見つけるのは難しい。
 福井市は、柴田勝家が築いた北ノ庄城とその城下町に始まる。それを引き継いだのが、関ヶ原の戦いあと、この地にやってきた結城秀康だった。

 柴田勝家が天守とともに命を落とした後、織田家家老で秀吉側についた丹羽長秀が北ノ庄に入る。そのあと、堀秀政、青木秀以と城主が変わり、関ヶ原の戦いで青木秀以は西軍についたため、戦後に所領を没収され、家康の次男である結城秀康が68万石で送り込まれることになった(1601年)。
 今の柴田神社がある古い北ノ庄城址と、福井城の本丸があった場所とは、直線距離で600メートルほど離れている。だから、これが同じ城跡だったと言われてもピンと来ない。それだけ元の北ノ庄城が広大な城郭だったということなのだけど、街に埋もれる北ノ庄城址からそれを想像するのは難しい。
 新しい北ノ庄城は、家康が本丸と二の丸の縄張りをしたといわれている。家康ならではの計算や思惑があったのだろうけど、本丸の位置をかなり北にずらしている。
 結城秀康が来たとき、古い北ノ庄城はかなり荒れていてそのままでは使えなかったようだ。徹底的に壊して、ほとんど一から作り直すことになった。おかげで古い北ノ庄城の遺構はほとんど残っていない。天守があった位置さえもはっきりとは分かっていない。
 結城秀康があらたに建てた城も、北ノ庄城という名前のままだった。福井城と名を変えたのは、三代藩主・松平忠昌の時代で、北は敗北に通じるから不吉だというので、福居と改め、のちに福井とされた。
 68万石というのは大変なもので、加賀藩の前田家、薩摩藩の島津家に次ぐものだった。徳川御三家筆頭の尾張家でさえ61万石で、福井藩は他の大名とは別格の制外の家とされ、御三家に匹敵する影響力を持っていた。
 1604年に秀康は松平の性を名乗ることを許され、新・北ノ庄城は、全国諸大名に命じられた天下普請によって6年の歳月をかけて築城された。城郭は2キロ四方で、5重の水堀が囲む4重5階(もしくは6階)の天守が建てられた。
 しかし、1669年に消失してしまい、藩の財政悪化もあって天守が再建されることはなかった。その頃には戦もなくなっていて、天守は不要で幕府の許可が下りなかったともいわれている。
 本丸の南西にあった2重巽櫓を3重に再建して天守の代わりとした。
 その後の福井藩は、浮き沈みを繰り返し、幕末の頃にはやや盛り返して32万石の城下町として、かなりの賑わいを見せていたという。
 あまり藩主に恵まれなかったということもあった。ただ、最後に来て幕末三名君といわれた松平慶永(春嶽は近居後の号)を輩出することになった。
 田安徳川家から養子に入った慶永は、将軍一橋慶喜の擁立などにも深く関わっている。
 先週の「龍馬伝」で、龍馬が千両を借りに行ったのが、その福井藩の松平慶永だ。
 明治に入ると、福井城は早々に取り壊しが始まった。まずは外堀が埋められ、残った建物なども壊されていった。あとには内堀と天守台だけが残った。
 今は本丸の跡に福井県庁と福井警察本部が建っている。堀の外に官公庁が建ち並んでいるところは多いけど、本丸址にでんと居座っているところはあまりないんじゃないか。内堀の外は散歩コースになっているものの、城内の跡は観光地という趣ではない。
 それでも、4月は桜がよく咲いていた。

福井城-2

 本丸への西の出入り口にあたる御廊下橋(おろうかばし)は、屋根付きの橋になっている。
 藩主が本丸と西三の丸御座所を往復するための専用の橋で、普通の人は渡れなかった橋のようだ。
 2008年に屋根の部分が復元された。
 本丸にあった巽櫓も復元しようという動きがあるようだ。実現すれば福井城を訪れる人も増えることだろう。今は見にいっても、石垣と堀しかないから、一般受けはしない。石垣を見て、見事な切り込みハギですなぁなどと感心するのは、一部の人に限られる。
 本丸御殿にあった小座敷・御座之間が瑞源寺に移築されて、本堂・書院として使われているそうだ。

福井城-3

 見所が少ないということは撮るものも少ないということで、上空を飛んでいたトンビでも撮ってみる。

福井城-4

 撮るものに事欠いて、スズメなんかも撮ったりした。

福井城-5

 歩いてる親子の後ろ姿を撮ったり。

福井城-6

 なかなか見事な桜で、このあたりはよかった。

福井城-7

 城跡に桜という組み合わせは多い。城には桜がよく似合う。

福井城-8

 結城秀康の像。
 秀康は家康の次男として、浜松で生まれた。
 母親は、家康の正室・築山殿の奥女中をしていた於万の方で、生まれるとすぐ本多重次に預けられている。
 築山殿というのはキツい人で、家康はかなり恐れていたという。
 築山殿の産んだ子供が長男の信康で、のちに信康は武田と通じた疑いをかけられて信長に切腹を命じられた。母親の築山殿もそれに関わったということで殺されている。
 次男だから本来なら家康の跡を継いで二代将軍になってもよさそうなところだけど、家康はどうも秀康を嫌っていたようだ。産まれたのを喜ばず、初めて対面したのは5歳のときだったともいわれている。
 母親が奥女中をしていた身分が低い女性だったこともあるだろう。弟の秀忠の母親も側室ながら、有力な菊池氏一族の西郷局だったから、信康亡き後は早くから秀忠が嫡子として育てられることになる。
 跡取りになれなかった秀康は、小牧長久手の戦いののちの和平交渉で、秀吉の養子として大坂に送られることになった。実質的には人質だ。
 ただ、秀康は折り合いの悪かった家康よりも秀吉になついていたそうだ。秀康という名前は、秀吉の秀と家康の康からとったものだ。
 14歳のとき、秀吉の九州遠征に従って初陣を飾る。武将としての実力はなかりのものだったようで、関東の名門・結城晴朝がぜひうちに欲しいという話になり、秀康は晴朝の姪と結婚して、結城氏の家督と11万1,000石を継ぐことになった。以降、合戦で武勲をあげ、名を高めていく。
 1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦となった上杉征伐に秀康も加わることになった。石田三成が挙兵したことで家康の本隊はとって返し、秀康は宇都宮で上杉ににらみを効かせるために残されることになった。弟の秀忠では頼りないから自分も西に向かわせて欲しいと訴えたものの、本多正信に説得されて聞き入れられなかった。秀忠は真田親子に散々おちょくられて関ヶ原の合戦に遅刻して間に合わなかったけど、もし秀康が参加していたらそうはならなかったかもしれない。
 それでも、関ヶ原前後の活躍で家康は秀康に対する評価を改めたようで、結果的には北ノ庄67万石を与えられることになった。それでめでたしめでたしとなるかと思いきや、1607年にはわずらっていた病が悪化して、あっけなく死んでしまう。まだ34歳だった。

福井城-9

 福井城の歴史は知らなくても、季節は巡り、4月になれば桜は咲く。
 戦国の武将たちは、戦国の世を終わらせるために戦って命を散らせた。桜咲く平和な城跡を見て、彼らは満足してくれるだろうか。

福井城-10

 御廊下橋をもう一度。渡っていくのは孫の手を引くおばあちゃん。

福井城-11

 駅に向かって歩く頃、日はだいぶ西に傾きかけていた。
 こうして福井の旅は無事に終わった。

福井城-12

 おみやげは福井名物、羽二重餅。基本のプレーンなやつ。
 福井では羽二重織りがよく織られていたということで、そこから名物が生まれた。スタンダードな美味しさだ。
 これにて福井シリーズは完結となった。

5月の鶴舞公園といえばやはりバラが主役

施設/公園(Park)
鶴舞公園-1

FUJIFILM S2pro+NIKKOR 50mm f1.8 / NIKKOR 70-300mm f4-5.6 VR / 55-200mm



 鶴舞公園のバラが見頃だというニュースを見て、ちょっと行ってきた。
 鶴舞公園は、近いようで遠く、位置的にもついでに寄るようなところではないので、意外と行っていない。写真を撮りに行ったのは、3回か4回くらいのものだ。よく似たタイプの庄内緑地に方がよく行っている。
 直線距離で8.5キロ。ちょこちょこ寄り道しながら、ちんたら自転車を漕いで、1時間ちょっとだった。やっぱり近いようで遠い。
 自転車だから、駐車場の代金を気にしなくていいのはよかった。公園内もずっと自転車に乗って移動できるから楽だ。
 バラはちょうどベストタイミングだった。ほぼ全開に咲き切っていて、枯れ始めているものもまだ少ない。バラは次々に咲いて長く楽しめるとはいえ、本当にいい時期は短い。1週間から10日くらいだろうか。写真を撮るなら、満開より少し早い時期の方がいい。バラも開ききってしまうと品がなくなる。
 80品種1,700株と、さほど多くはないものの、市内の無料公園でこれだけ咲かせていれば立派なものだ。名古屋ではよく知られている場所で、けっこうな見学者が訪れていた。週末はイベントなどもあったようだし、賑わっていたことだろう。

鶴舞公園-2

 シーンとしての美しさを感じさせる光景だった。

鶴舞公園-3

 エキゾチックな感じ。
 バラそのものを撮るよりも、人とバラの組み合わせばかり探していた。バラを脇役にして、人がいる風景を撮りたい。

鶴舞公園-4

 熟年カップルのバラ見物というのもなかなかいいもので、桜の風情とはまた違ったよさがある。

鶴舞公園-5

 撮る人は撮られる人でもある。

鶴舞公園-6

 公園にすみつくノラもバラ見物か。
 猫にとってバラの甘い香りは心地よいのだろうか。食べられないから鼻につくだけなのかもしれない。

鶴舞公園-7

 離れたところからはシバザクラに見えて、近づいてみたら違う花だった。どういう花かは知らない。

鶴舞公園-8

 ハナショウブは、ポツポツ咲き始めたところで、シーズンはまだもう少し先だ。6月の前半くらいだろう。

鶴舞公園-9

 キショウブもこれくらいの時期に咲くのは知ってるけど、最盛期はいつなんだろう。ここの花はだいぶくたびれていた。
 小堤西池のカキツバタが見頃を迎えたようだ。毎年のように行っていたけど、自転車で行くには遠い。片道15キロの往復というのは未知のゾーンで、ちょっと自信が持てない。10キロちょっとでも限界まではいっていないから、挑戦してみる価値はあるのだろうけど、もう少し鍛えてからの方がよさそうな気がする。15キロまで延ばせると、名古屋市内を完全に網羅して、かなり行動範囲が広がる。

鶴舞公園-10

 赤青黄色というヴィヴィッドないでたちをした少年が、池で何かを捕まえていた。ザリガニでも捕れるのだろうか。

鶴舞公園-11

 青空将棋というと、大阪をイメージする。名古屋ではあまり見かけない光景で、鶴舞公園のここだけで見る。いつ行ってもおじさんたちが集まっている。

鶴舞公園-12

 木漏れ日の林と、立ち話のおばさまたち。

鶴舞公園-13

 手前が噴水塔で、奥が名古屋市公会堂。

鶴舞公園-14

 こちらは音楽堂。

鶴舞公園-15

 噴水塔を横から。

鶴舞公園-16

 公園の西に、JR中央線の鶴舞駅がある。
 駅名は「つるまい」になっているけど、本来は「つるま」だ。公園の名前は今でも「つるまこうえん」となっている。元々ひらがなで「つるま公園」だったのを、鶴舞という字を当てたことで混乱してしまった。鶴舞と名の付く施設や店も、それぞれ好きな方を使っているから、今となってはどちらが正しいということでもなくなった。

 とりあえずこれで、今年もバラはクリアした。もう少しどこかでバラの花を撮りたいとは思っている。バラもなかなか手強い被写体で、どう撮ればいいのか、掴めていない。イメージトレーニングをして、バラ撮りに臨みたい。

北ノ庄で散った勝家の名残はわずか <第7回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
柴田神社入り口鳥居

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 北ノ庄城址は、商店街のただ中にひっそりと埋もれるようにわずかにその痕跡をとどめている。地図には小さく柴田神社とあり、よく探さないと見つからない。人々の記憶からも薄れ、県外からあえてこの地を訪れようというのは、少数の戦国好きくらいだろうか。
 かつて安土城に匹敵するほどの九層の天守を持つ壮麗な城がそびえていたと言われても、その姿をこの地に想像するのは難しい。今はただ、小さな公園にある小さな神社にすぎない。

 柴田勝家は、尾張(名古屋市名東区)に生まれ、若い頃から信長の父親、織田信秀に仕えていた。
 信秀なきあと、信長の異母弟にあたる信行に仕えて、信長をやっつけようとして逆に負けてしまい、頭を丸めて信長に降伏した。以降は、信長に従い、最後まで織田家の重鎮として戦国の世を戦い続けていくことになる。
 勝家が北ノ庄にやって来たのは1575年。信長はその2年前に宿敵だった朝倉氏を滅ぼしたものの、一向一揆の激しい抵抗にあい、北ノ庄を乗っ取られてしまう。それをもう一度取り返すために送り込んだのが、勇猛な武将として知られ、信長の信頼も厚い鬼柴田こと勝家だった。
 山間にあった朝倉氏の本拠、一乗谷を捨てて、平地に新たに城を築くように命じ、自ら城の縄張りまでしたという。
 足羽川(あすわがわ)を背に、あえて背水の陣に城を築いたのは、北の上杉謙信を意識してのことだろう。
 北ノ庄の名前の由来は、このあたりが伊勢神宮の荘園で、足羽川の北岸にあった足羽北庄から来ているといわれている。長く朝倉氏の支配する土地だった。
 三万を超える大軍によって、越前の一向一揆は平定される。
 それと同時に、北ノ庄城の築城も進められた。少し遅れて、安土城の築城も始まっている。
 北国の軍団長を任せられた勝家は、上杉攻略のため北へと進軍する。一方の上杉もこれを迎え撃つべく南下を始めた。手取川の戦いでは上杉軍が勝利している。この当時の上杉軍は強かった。織田軍など相手にもならないくらいだった。
 しかし、1578年に上杉謙信が急死したことで事態は一変する。混乱した上杉軍を突いて勝家が打って出る。加賀、能登、越中まで軍を進め、上杉を追い詰めた。
 ところがここでまたしても思いがけないことが起きる。本能寺の変だ(1582年)。魚津城攻めの最中に勝家はその報告を受ける。
 信長の後継者を決めるため、主だった家臣たちが尾張の本拠、清洲城に集まった。世に言う清洲会議だ。
 このときの話は以前にも少し書いたことがあるし、書くと長くなるので省略したい。結論から言うと、秀吉にちょろまかされた。後継者争いの主流側に入れず反対側に回った勝家は、賤ヶ岳で秀吉と戦うことになり敗北。北ノ庄城に逃げ帰ることになった。
 ほどなくして北ノ庄城は秀吉の大軍に囲まれ、勝家は自ら城に火を放ち、自決。城とともに燃え落ちた。4年の歳月をかけて築いた壮麗な城は、わずか5年で幻と消えた。もうひとつの安土城とも呼べる城が福井にあったのだ。



柴田神社外観

 柴田神社は、北ノ庄城の本丸があったと考えられる場所に鎮座している。
 落城後、福井城を建て直す際に、北ノ庄城は徹底的に壊れたため、遺構や記録がほとんど残っておらず、詳しいことは分からないという。 
 江戸時代から勝家とお市の方のために石祠があったようで、明治23年になって、旧福井藩主の松平春嶽たちによって柴田神社が創建された。



お市の方の像

 どちらが表でどちらが裏手なのかはよく分からないのだけど、南は広い通りに面している。私は北の商店街の方から入ったから、ビルの谷間にこそっとはまり込んでいるような印象を受けた。もし、南から入って北から出ていなければ、印象は違ったものになっただろう。
 写真を撮っていたら、南から来た子供が神社の中を猛スピードで駆け抜けていったので、ちょっと驚いた。



北ノ庄城跡

 南側から見るとこんなふうになっている。こちらは神社というより公園だ。
 左手には資料館が併設されている。
 何度か行われた発掘調査で見つかったものや資料などが展示されている。
 左端に写っている橋は、勝家が足羽川を整備するときに架けた九十九橋を再現したものだ。半石半木のユニークな造りになっている。欄干の一部は当時のものらしい。
 勝家は城下町を発展させ、善政をした殿様の一面も持ち合わせていた。



神社拝殿

 社殿はごく新しいと思ったら、2002年に再建されたものだそうだ。何度か火事で焼けて建て直されている。



柴田勝家の像

 手前が勝家像で、奥がお市の方の像だ。
 勝家の悲劇性を高めているのは、お市の方の存在があったからこそだ。
 信長の妹で、戦国一の美女といわれたお市の方は、織田家と浅井家が同盟を結ぶために、信長の命によって浅井長政と政略結婚させられた。
 ただ、この二人は相性がよかったようで、とても仲が良かったと伝わっている。子供も5人生まれている(異説あり)。
 しかし、浅井と織田家との同盟が破られ、浅井長政が信長によって滅ぼされてしまう。落城直前、夫に諭されたお市の方は、子供たちを連れて城を逃げ延び、織田家に保護されることになる。長男は殺され、次男は仏門に入れられたものの、三姉妹は助けられ、織田家で育つことになった。
 本能寺の変で信長がいなくなると、織田家も安泰ではなくなった。織田信孝(信長の三男)の仲介で、勝家との再婚をすすめられ、お市の方はこれを受ける。一説では秀吉がこの話をすすめたともされているが、真相は明らかではない。
 無骨で戦いに明け暮れた印象がある勝家だけど、人間的な魅力もあったようだ。幼い三姉妹も勝家になついていたという。
 このとき勝家62歳、お市の方37歳。北ノ庄での結婚生活が、わずか半年で終わることになるとは、このときはまだ二人は思いもしなかっただろう。
 北ノ庄城が落城するとき、勝家は当然のことながらお市の方に城から出るように説得した。しかし、お市の方は、このときばかりは言うことを聞かなかった。二度までも夫を捨てて自分だけ助かるのをよしとしなかったとも、自分を狙っている秀吉の手に落ちることを嫌がったともいわれている。
 三人の娘だけを逃がして、自分は勝家と共に死を選んだ。
 その後、三姉妹の長女、茶々は秀吉の側室になり淀殿と呼ばれ、秀頼を産んだ。その淀殿も大坂の陣で大坂城と運命を共にすることとなる。
 お初は若狭小浜藩主、京極高次の夫人になり、お江は二度の別離ののち、徳川二代将軍秀忠の正室になった。
 お江の長女が千姫で秀頼の正室となり、三女の勝姫は越前二代藩主松平忠直の正室になって北ノ庄に戻ることになる。末娘の和子姫は、御水尾天皇の皇后として天皇家に嫁ぐことになった。
 画家の平山郁夫は柴田勝家の子孫だそうだ。



佐佳枝廻社

 柴田神社をあとにして、福井城へ向かった。
 途中でよさそうな神社があったので、ちょっと立ち寄っていくことにする。
 佐佳枝廻社とあったけど、何と読むのか、このときは分からなかった。さかえのやしろと読むそうだ。



灯籠と桜

 福井の街は桜が多いところ、福井城の他、桜の風景が印象に残った。



拝殿前の参拝者

 1628年、福井城内に家康を祀るための東照宮として建てたのが始まりで、明治6年に福井藩祖の結城秀康(松平秀康)を祀るとなったとき、松平春嶽が佐佳枝廻社と命名した。明治24年には松平春嶽も合祀されている。明治29年に、現在地に移された。
 昭和20年に戦災で消失。昭和23年には福井地震で壊滅し、翌年、京都下鴨の三井家祖霊社を移築して拝殿とした。本殿は昭和30年に再建された。その後老朽化が進み、現在の姿になったのは、平成4年のことだそうだ。



左近の桜

 左近の桜というのがあった。島左近は福井とは関係ないだろうにと、このときは思っていた。
 左近の桜というのは、もともと平安京にあった桜で、紫宸殿の左にあったことからそう名づけられたものだそうだ。最初は梅だったらしい。
 今の京都御所にも左近の桜が植えられている。ここはそれと関係があるのだろうか。この神社には戦前、天皇の勅使も訪れたというから、枝分けしてもらったものかもしれない。



岡倉天心の像

 福井城の西に隣接する中央公園に、岡倉天心の像が建っていた。
 父親が福井藩士だった関係で、ここに像が建てられているようだ。岡倉天心は横浜で生まれて、東京で過ごし、駒込の染井墓地に眠っている。永平寺を心のふるさとと言っていたそうだから、何度か訪れたことがあったのだろうか。
 他にも由利公正の像などもあるようだ。



福井神社

 福井神社という名前からしてぜひ挨拶に行かねばなるまいと、前まで行って入るのがためらわれた。なんとも変わった神社で、不思議な感じがした。まるで神社らしくない。
 なんとなく拍子抜けして、中まで入らず、外から頭を下げるだけになってしまった。
 松平春嶽が祀られているようだ。
 継体天皇ゆかりの足羽神社は、ちょっと遠くて行けなかったのが残念だった。

 東尋坊から始まった福井シリーズは、次回の福井城編で最終回となる。
 つづく。

福井の郷土料理を作ろうとして思いが届かなかったサンデー

料理(Cooking)
久々茶色サンデー

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 久々にちょっとやってしまった感のあるサンデー料理となった。全体的に茶色が支配した。しょう油を少なめにして白だしを使ったから、やや薄色になってはいるものの、カラフルさからは遠かった。
 実はこの料理、福井県の郷土料理から出発しているといったら、福井県民からお叱りを受けてしまうだろうか。途中で予定変更が相次いで、福井上空できりもみ状態のまま落下して、岐阜の山奥あたりに墜落したような料理になった(などというと、今度は岐阜の人に怒られそう)。結果的に福井料理になっていないことだけははっきりさせておいた方がいいだろう。少し前から福井シリーズをやっていて、この機にもっと福井に近づくために福井の料理を作ってみたかったのだけれど。
 左手前のやつは、一応、こじわりというものをベースに作っているといったら、福井県民もなるほどと思ってくれるだろうか。全然違うぞと言われてしまうかもしれない。

 福井の郷土料理というと、魚を塩漬けにした「へしこ」だとか、鯛の切り身のお茶漬け「鯛まま」などがよく知られているもののようだ。他には、ソースカツ丼とか、殿様料理とか、煮たくあんとかもあるそうだけど、サンデー料理のメニューとしては採用しづらかった。
 ところで、こじわりというのは福井県で本当に広く認知されているものなのだろうか。大豆と野菜を炒めて煮たもので、昔は冠婚葬祭でよく出た料理らしいのだけど、ネットで検索してもヒットする情報が少なすぎる。現在の福井県ではあまり一般的な料理ではないのかもしれない。
 少ない情報で作ったのはこんな料理だ。
 大根を下茹でする。糠や米のとぎ汁がないときは、米かご飯をひとつまみ入れると同じようなあく抜き効果があるらしい。
 ニンジン、ジャガイモ、しいたけを、ショウガとともに軽く炒める。里芋の方が合っていると思う。
 水をひたひたにかぶるくらい入れて、大根、ゆで大豆、ちくわ、油揚げも加え、中火で煮ていく。
 酒、みりん、しょう油、白だし、塩、コショウ、唐辛子で味付けをして、弱火にして煮込む。時間に余裕があれば、いったん冷ましてから再度煮直すと味がよく染み込む。
 これがこじわりかどうかは別にして、煮物料理としては悪くなかった。

 右は鯛のカニ缶野菜あんかけだ。
 福井といえば越前ガニだ。けれど、越前ガニなんて近所のスーパーには売っていない。売ってたとしてもサンデー料理に使う食材としては贅沢すぎる。足一本とか売ってくれないだろうし。
 カニといえばカニ缶か、カニかまだろうということで、今回はカニ缶で妥協した。
 鯛の切り身に塩、コショウ、酒を振ってしばらく置いたあと、小麦粉をまぶしてごま油で焼く。ここではあまり焼きすぎない。
 タマネギ、しめじ、ニンジン、白菜をごま油で炒め、酒、みりん、しょうゆ、白だし、塩、コショウで味付けをして、カニ缶を入れる。
 水溶きカタクリ粉でとろみをつけつつ味を調え、焼いた鯛を入れて、しばらく煮る。
 ここに越前ガニの足が入っていたら、もっと美味しくなっただろうし、福井料理と言えなくもなかったのに。

 奥は、普通の冷や奴に見える。実際にそうだ。
 ここでは、本当はごま豆腐を使う予定だった。ごま豆腐というと福井にある永平寺のものが有名で、大豆ではなく葛粉を使って作っているから、精進料理として作って食べられてきた。
 スーパーで探したら、もう時季外れで置いてないという。どうやら冬のものらしい。
 仕方がないので、普通の絹ごし豆腐にした。その時点で福井とは縁もゆかりもなくなってしまった。
 たれは、酒、みりん、しょう油、砂糖、塩、コショウ、合わせ味噌、白だし、白ごま、唐辛子を煮立てて作った。

 とまあ、気持ちだけは福井の方を向いていたことは間違いない。思いが届かなかっただけだ。
 こんなことなら、福井へ行ったときに料理に使える特産物でも買ってくればよかった。羽二重餅を買って満足してしまって、そこまで頭が回らなかった。次にどこかへ旅をしたときは、サンデー料理のことを思い出すことにしよう。
 心残りはあったものの、もう一度福井の郷土料理に挑戦する可能性は低そうだ。忘れなければ、ごま豆腐だけは一度食べてみたいと思う。あ、もちろん、越前ガニも。

商店街と路面電車と桜の福井駅 <第6回>

観光地(Tourist spot)
福井駅-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 三国湊をあとにして、この日の最終目的地、福井駅へとやって来た。
 ここでの目的は、駅前をぶらぶらして福井の街を見ることと、福井城へ行くことだった。まずは北ノ庄城址を目指すことにした。
 上の写真は、駅前のスクランブル交差点だ。見知らぬ土地に降り立ったとき、まずはその街の東西南北を知りたいわけだけど、いきなりスクランブル交差点ではどちらへ進んでいいのか分からず、戸惑うことになった。右も左も分からない迷子の大人となり、やたらキョロキョロして挙動が怪しくなる。自分は決して方向感覚を失っているわけではないのだということを誰にともなくアピールするように写真を撮って誤魔化してみる。そしたら、いい感じに人が入って、これはさい先がいいぞとなった。人と街との間でも、第一印象というのは大事だ。
 街の中心部を蛇行して流れる足羽川(あすわがわ)のせいもあって、福井の街の東西南北のラインは傾いている。それで最初は少し方向感覚が掴めなかった。ある程度歩いているとだんだん分かってくる。
 北ノ庄城址は、駅の西南300メートルほどのところにある。うちの近所の名東区生まれの武将、柴田勝家が築き、お市の方とともに最期を迎えた城だ。
 越前国は、もともと朝倉氏が支配する土地だった。朝倉氏の居城、一乗谷城は、福井駅の南東約10キロほどの内陸にあり、かつての越前国の中心はそちらにあった。
 朝倉氏が織田信長との争いに敗れ、柴田勝家がこの地に移ってきたとき、勝家は山の一乗谷ではなく足羽川沿いの平地にあらたに城を築いた。その城下町が現在の福井市の基礎となっている。
 勝家も秀吉との争いに負け、関ヶ原の合戦のあと、家康の次男の結城秀康が北ノ庄城の跡地に福井城を築くことになる。そのあたりの詳しい話は、またいずれということにしよう。

福井駅-2

 JR福井駅の西口。福井はこちらが表玄関となる。
 管轄がJR西日本というのがやや意外だった。滋賀県の米原を起点とする北陸本線は、新潟県上越市の直江津駅まで行っている。
 現在、北陸新幹線が建設中だ。完成は2014年の予定となっている。全線がつながったら福井ももっと賑やかになるだろうか。首都圏から北陸がずいぶん近くなる。東京から金沢まで2時間半を切る。
 駅ビルがかなり新しい。ここ最近、建て替えたもののようだ。天窓のデザインは、越前海岸の岩と、九頭竜川の河岸段丘をイメージしたものだそうだ。

福井駅-4

 福井駅前はやたら商店街が多いという印象を受けた。シャッターが閉まっているところもあるものの、わりと全体的に活気がある。こんなに商業の街とは思っていなかった。
 西武百貨店が福井県内で唯一の百貨店らしい。だから、個人の店がやっていけるのだろう。全国チェーンの大型店も少ない気がした。そういうところが入り込みにくい土地柄なのかもしれない。

福井駅-3

 味のある外観のビル。味があるなぁと思いながら写真を撮る。かつてのオフィスビルか、店舗のビルか。

福井駅-5

 標識がスタイリッシュ。名古屋にはない感覚のデザインだ。
 歩行者信号にカウントダウン表示があるところからしても、文化圏としては関西寄りなのだろうかと思ったりもした。福井は言葉にほとんど訛りがない。
 街並みの様子も、静岡あたりと比べてもだいぶ違う感じがする。

福井駅-6

 大小の通りにはそれぞれ名前がつけられている。ここは北の庄通り商店街だろうか。
 なかなか洒落てるし、きれいに整備されていて気持ちがいい通りだ。

福井駅-7

 ガレリア元町商店街。このアーケードは昭和の香りを残していそうだ。
 魅力的な通りが他にもたくさんありそうだったけど、時間の都合であまり歩けなかった。

福井駅-8

 女湯って、銭湯の女湯じゃないようなぁと思いつつ、外壁のペイントに惹かれて撮ってみる。
 この近くに北ノ庄城址があったはずだ。今回はそこは飛ばして、次へ行く。

福井駅-9

 北ノ庄城址を南に抜けて、城の橋通りを西へ進むと、大きな通りに出た。
 路面電車が走っていて驚く。福井に路面電車があるという知識がまったくなかったのだ。下調べをしたとき、何故かその情報が引っかかってこなかった。全面的に路面電車ではなくて、駅前の一部分だけが路面電車になっているようだ。
 福井鉄道は、福井駅前駅を起点としていて、JR福井駅から少し離れている。えちぜん鉄道も駅の東口を出たところにあった。いっそのこと、北陸新幹線と全部あわせて合体させればもっと便利になるのに。
 この中央大通りは道幅が広い。中央に線路が二本通っているのに、片側三車線ある。

福井駅-10

 路面電車と高校生の二人組。
 いろんなタイプの車両が次々にやって来て面白い。

福井駅-11

 どこかで見たことがあるような電車だ。

福井駅-12

 足羽川が桜の名所だということは福井県民やその周辺の人たちにとっては常識なのだろうけど、私は福井を訪れるまでまったくその存在を知らなかった。駅に桜祭りをしているという案内があったから、それじゃあちょっと見ていくかと寄ったのだった。
 日本一の桜とうたっているけど、見た感じそれほどでもない。全長2.2キロ、600本という数字もたいしたことはない。それなら地元の五条川の1,600本、7.6キロの方がずっと上だ。どうやら一本いっぽんの桜が大木で、スケール感が日本一ということらしい。本当か?

福井駅-13

 川沿いに桜がずっと並んでいる。ただ、川幅が広いところは川を挟んで桜のトンネルにならないから、情緒という点でももう一つ物足りない。桜の木は確かに立派だ。

福井駅-14

 しばらく川沿いを歩いてみようかとも思ったのだけど、あまり深入りすると福井城見物の時間が足りなくなりそうだったので、少しだけ歩いて引き返した。遊歩道も整備されていて、歩きやすそうだった。

福井駅-15

 このへんの風景はとてもいい感じ。桜並木と自転車の高校生の組み合わせは絵になる。

福井駅-16

 河原のバイオリニスト。
 わーお、素敵。

福井駅-17

 福井を訪れたのは4月9日で、ちょうど桜が満開だった。
 5月15日の今日、札幌でもようやく満開を迎えたというニュースがあった。今年は桜を長く楽しめたところが多かったんじゃないだろうか。
 私もあちこちで桜を見て、また今年も桜の思い出ができた。

 東尋坊・福井シリーズも、北ノ庄城址編と福井城編の残り2回となった。
 つづく。

ついでに寄って欲しい三国湊の町並み <第5回>

観光地(Tourist spot)
三国湊-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 ああ、この感じいいな、と思う三国湊の町並み。昭和っぽいというよりも、昭和そのものとさえ言える。自分が小学生に戻って、この町に迷い込んでしまったみたいに感じた。
 現在は三国港と表記して「みくにみなと」と読ませているけれど、この町並みを見ると、昔ながらの書き方である三国湊の方が合っている。
 三国湊は古くから良港として知られたところで、江戸時代に北前船で栄え、明治とともに急速に勢いを失っていった。今でもかつての繁栄の名残が残っているものの、町の活気は消えたまま戻ってはいない。
 町並保存と観光客を呼ぼうというという姿勢は伝わる。知名度の高さはよく分からないのだけど、行ってみればその良さを知ることになる。
 今回は電車の都合で正味30分という駆け足での散策になってしまったのだけど、それでもこの町の魅力の一端には触れられたと思う。今日はそのとき撮った写真を紹介したい。

三国湊-2

 三国湊町屋館という建物。
 三国湊の観光案内所みたいなところで、ボランティアガイドさんが常駐していたり、散策マップを置いてあったりするそうだ。
 私は駆け足散策なので、中を見ている時間もなく、目についた建物の写真をササッと撮って、先を急ぐといったふうだった。
 そもそも最初は、高見順の生家を探すという目的で歩き始めたのだった。それが、途中からこれはいいぞということであちこち歩き回ることになり、結局、その目的は果たせずじまいになってしまった。どこにあったんだろうか。

三国湊-3

 店内に三味線の音色が流れる「ライブ茶屋」らしい。
 のれんには、「江戸小唄 竹よし」とある。
 古い家屋を改築してカフェや雑貨屋をやるというのが最近の定番になっている。

三国湊-4

 旧森田銀行のモダンで重厚な建物。
 手前はレンタサイクルの観光客のようだ。
 森田家は三国湊を代表する豪商の一つで、時代の流れを先読みして、廻船業に早々に見切りをつけ、金融業に職替えして成功した。
 その後、森田銀行は福井銀行と合併して、少し前まで福井銀行の支店として使われていたそうだ。
 この建物は、大正9年に建てられた。
 現在は資料館として保存展示されていて、内部は無料で見学することができる。

三国湊-5

 大木道具店。骨董や古美術を扱っていた店のようだ。
 現在は廃業して久しいようで、昭和初期に建てられたこの建物が骨董的価値を持つに至った。

三国湊-6

 往時はこんな白壁の蔵がずらりと建ち並んでいたのだろう。今となっては無用の長物で、残っているものも少ない。

三国湊-7

 松ヶ下山車収納蔵。
 三国祭りの山車を収めてある蔵で、それほど古いものではなさそうだけど、高さからいってかなり立派な山車がしまわれているのだろう。

三国湊-8

 古い看板がいくつかかかったままになっている。ここは竹澤履物店。
 残念ながら、これらの建物は過去の遺産で、現在は生活が営まれていないところがほとんどだ。歴史遺産と現在の暮らしが渾然一体となっていたら、観光地としてもっと魅力的になるだろうにと思った。
 古い建物が点在している一方で、新しい家はそれらと分離してしまっている。

三国湊-9

 そば処盛安。
 ここも古い家屋を改築したところかと思ったら、100年近く続いている老舗のそば屋さんだった。
 建物も築80年くらいになるそうだ。

三国湊-10

 なかなかの古さで、看板もはっきり読めない。ここも骨董店だろうか。

三国湊-11

 大衆食堂という響きも懐かしいものとなった。
 ここはまだやっていそうな雰囲気がある。

三国湊-12

 かつて出村遊廓というのあったそうで、この建物なんかそれっぽいと思ったけど、どうやら違ったようだ。
 三国湊を代表する豪商だった旧岸名家の建物も、撮り逃したらしい。

三国湊-13

 このあたりはそれほど古い町並みというところではない。ただ、路地に猫がいるこの感じがよかった。港町には猫がよく似合う。

三国湊-14

 古い看板と、昭和の文具店。
 時代が変わって文房具屋に商売替えしたものの、それさえも時代遅れになってしまった店というのをたまに見かける。ここもそうだったようだ。

三国湊-15

 電車の時間ぎりぎりまで粘ったものの、30分そこそこではさすがに短すぎた。1時間半あれば、もう少しじっくり見て回って、写真ももっと撮れたのに。二度と訪れないような場所だから、少し心残りだった。
 東尋坊を訪れる人は、永平寺とセットで回ることが多いのかもしれない。泊まりなら、芦原温泉あたりだろうか。
 三国湊はついでに寄ることができる場所にあるから、時間の余裕があれば、ここも立ち寄っておくことをオススメしたい。
 個人的には思いがけない収穫だったこともあって、忘れがたい印象を残した。

三国湊本編の前のプロローグ <第4回>

観光地(Tourist spot)
三国1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 東尋坊から三国駅までの帰り道は、バスに乗った。帰りも歩くのはさすがに厳しかったし、三国駅から福井駅へ行く電車の時間もあった。ただ、バスの時間まで15分ほどあったので、最後に荒磯遊歩道でもう少しだけ写真を撮ることにした。
 午後の太陽に照らされた日本海は、白くきらめいて、眼を細めないと見られないくらい眩しかった。これが日本海の見納めというわけではないだろうけど、東尋坊を再び訪れる機会があるかどうかは分からない。忘れないようにしっかり見ておこうと思った。

三国1-2

 岩場に打ちつける波が白く尾を引くように写したいと、NDフィルターとPLフィルターを重ねてシャッタースピードを落とそうと試みてはみたものの、この日は日差しが強くて明るすぎた。波も荒っぽさが足りず、これが精一杯だった。
 それを撮るために三脚を持っていったのに、今ひとつ使い切れず、肩に重さがのしかかった。
 そうこうしているうちにバスの時間になった。本数が少ないから、一本逃すと致命傷になる。バスはわりと時間通りに来た。三国駅までは15分足らずの道のりだ。

三国1-3

 三国駅の駅前風景。
 電車の時間まで45分くらいあって、待ち時間をどうしようかと考えた。せっかくだから三国駅周辺を散策しようと歩き始めたところ、思いがけず趣のある古い町並みに出会って驚くことになった。
 三国駅前散策はまったく予定になくて、下調べもしてなかったから、古い町が残っていることを知らなかった。もし知っていたとしてもスケジュールは動かしようがなかっただろうけど、多少なりとも予備知識があれば効率よく回れただろうに、このときは行き当たりばったりになってしまった。途中からこれはいいぞということになって、早足でできるだけ歩き回ることになる。
 遠くの上の方に見えている丸屋根は、龍翔館(りゅうしょうかん)という建物だ。
 エッセル堤を設計したエッセルが担当した建築物で、かつては龍翔小学校として使われていたらしい。
 現在は博物館となっていて、三国の文化や歴史、文学などの展示をしているそうだ。

三国1-4

 駅から少し歩いたところにある氷川神社。このときは由緒も歴史も何も知らないまま、とりあえず挨拶しに立ち寄った。
 創建はけっこう古いようで、別の場所にあった式内社の枚岡神社が元になっているという話もあるようだ。
 昔は神仏混合で、薬師堂と呼ばれていた時代もあったとか。
 江戸時代にこの地に移されて、明治に入ってから氷川神社と改称したという。

三国1-5

 こういう光景を見ると、いつも切なさを伴う。
 いいことだと思う半面、泣き笑いのような複雑な気持ちになる。

三国1-6

 格子と一階と、二階は昭和の趣を有している。

三国1-7

 わっ、細っ、と思った家。
 下が店舗で、上が住居という造りだろうか。

三国1-8

 私が撮る写真はどうしてこんなものばかりになってしまうのだろうと、ときどき自分でも反省心が起きる。
 でも、惹かれるんだからしょうがないじゃん、ともう一人の私が反論する。

三国1-9

 なんとなく面白い感じの造りになっている家。
 違う設計の二軒の家が合体しているみたいだ。前の部分が後ろの家にめり込んでしまったみたいにも見える。

三国1-10

 花輪と提灯の店のようだ。花輪と提灯というのは共通項があるのだろうかと考えて、あるようなないような、あると言われればなるほどありますよねと納得しそうな気もする。
 提灯というのも、様々な時と場所で需要がありそうではある。具体的に自分が提灯を必要としたことはこれまでにないのだけれど、折りたためる携帯用の提灯を一つくらい持っていてもいいかなと思ったりもする。明かりがない真っ暗なところで、みんな誰もライトとか持ってなくて困り果てているところに、実はオレ、提灯持ってるんだよねと、懐から取り出したら、みんなの尊敬を集められそうな気がする。ロウソクと火打ち石も忘れないように持参しなくてはいけない。

三国1-11

 道端を歩いていた猫。首輪をしていたんだったか、していなかったんだったか。
 写真を撮ろうとカメラを構えたら、カメラ目線をくれた。なかなか心得たやつだ。

三国1-12

 軒先の物干し台に、荒縄で干物をぶら下げている。
 うちの近所では見かけない光景だ。港町の片鱗を見た。

三国1-13

 なんとなく微笑みが漏れる貼り紙だった。別に面白いことを書いているわけではないのに、なんだかちょっと笑えた。只今を漢字で書いているのに達筆ではない字のアンバランスさかもしれない。

 歴史のある町並みは、このあたりのことではない。もっとそれっぽい建物が残っていて、かつての繁栄を偲ばせる。三国湊の町並みを撮りに行って、私みたいなところを喜んで撮ってる人は少ないと思う。
 次回は三国湊本編ということで、ちゃんとした(?)古い家屋の写真を中心にお届けしたい。
 つづく。

自分の身を守るのでいっぱいいっぱいの東尋坊 <第3回>

観光地(Tourist spot)
東尋坊-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 東尋坊は自殺の名所だから行きたくない、などと考えている人がけっこういるかもしれない。実は私もちょっとそんな気持ちがあった。少なくとも、体調が悪いときに行くのはやめておこうと思っていた。今回行く気になったのは、気力、体力ともに問題ないと判断したからだ。
 実際に行ってみると、東尋坊は拍子抜けするくらいあっけらかんとした陽気な観光地だった。私が鈍いだけというのはあるにしても、まったく陰気さのようなものは感じられなかった。というよりも、高所恐怖症との戦いの方が厳しくて、霊がどうとかこうとかいう気持ちの余裕がなかったとも言える。写真を撮りながらもかなりの及び腰になっていたと思う。
 東尋坊も春になってしまえば荒っぽさは影を潜め、岩に打ちつける波も弱々しい。東映映画のオープニングのような光景を見ることはできない。
 せっかく訪れた東尋坊ではあったけど、真冬に訪れなければその真の姿を見たとは言えないのではないかと思った。冬の夕暮れ時などに行けば、期待以上のおどろおどろしい雰囲気に満ちているのかもしれない。

 今から1200~1300年ほど前に起きた火山活動によって、マグマがぐぐぐっと地中から盛り上がってきて、それが五角形、六角形の形で固まって(柱状節理)、長い年月の間に風や波によって削られて、現在の地形が出来上がった。
 これらの岩は、輝石安山岩と呼ばれるもので、非常に固いという特徴を持っている。溶岩が地表で固まった石というと軽石みたいなのを想像するけど、これはそう簡単に削れそうにない。この固さを削って砕くというのだから、日本海のすごさが知れる。
 こういう光景は世界的にも貴重で、他には北朝鮮の金剛山(クムガンさん)とノルウェーの西海岸にしかないそうだ。
 約1キロに渡って続く断崖絶壁は、国の名勝および天然記念物に指定されている。
 東尋坊の名前の由来はこうだ。
 平泉寺(勝山市)にものすごく暴れん坊の東尋坊という僧がいた。平安時代当時、平泉寺には数千人からの僧侶がいて、その中の誰もがいさめることができず、好き放題にしていた東尋坊をみんなは持て余していた。
 ある日、僧侶たちは相談をして、東尋坊を亡き者にしようと計画を立てる。三国見物と称して東尋坊を誘い出し、この岩場でみんなして酒盛りを始めた。いい頃合いに酔っぱらったところを見計らって、決行犯と決められていた真柄覚念が思い切り東尋坊を海に突き落とした。あーれー、と岩場を落下していく東尋坊。しかし、タダで死んでなるものかと数人を捕まえて道連れとし、海に落ちたあと念力で真柄覚念まで引きずり込んだ。
 それからというもの、四十九日の間、この海は荒れ狂ったという。更に毎年、この時期になると海が荒れて漁ができずに困った漁師が、東光寺の和尚さんに相談して、念仏を唱えてもらってやっと海が静まったのだとか。
 どこまでが事実で、どこから伝説のお話なのかよく分からないけど、1182年の4月5日という日付まで伝わっていることからして、案外事実なのかもしれない。東尋坊と真柄覚念は恋敵で、真柄覚念が一方的に東尋坊を騙して突き落としたという説もある。
 私が東尋坊を訪れたのは、4月9日だった。行ったときはまだこのエピソードを知らない。

東尋坊-2

 中央の細長い岩は、屏風岩と名づけられている。ローソク岩以上に似ていないと思うけど、どうだろう。

東尋坊-3

 奇岩好きにはたまらない光景だ。これまでの人生で自分は奇岩好きだと公言してはばからない人間に出会ったことはないけど、たぶん世の中には私が思う以上に奇岩好きの人がたくさんいるのだと思う。
 私は、うーん、ちょっと、これは萌え要素じゃない。

東尋坊-4

 こんな細く入り組んだ入り江でも、水の透明度は素晴らしい。
 東尋坊は全体として清潔感のあるところで、ゴミとかも落ちていないし、海もきれいだし、フナムシとかもいない。そういう点ではとても好印象だった。

東尋坊-5

 千畳敷と呼ばれる岩場。
 軽い高所恐怖症の私は、これ以上進むのがためらわれた。火曜サスペンスドラマのラストシーンの舞台にもなるところらしい。
 私はここまで追い詰められてしまったら、やっていないことでも白状してしまいそうだ。

東尋坊-6

 遊覧船がひっきりなしに出ていた。スピーカーからも盛んに呼び込みのアナウンスが流れる。
 海面から見上げる奇岩風景もまた違った魅力がありそうだったのだけど、帰りのバスの時間があったので、乗れなかった。30分で1,200円。 

東尋坊-7

 橋でつながった雄島(おしま)が見えている。
 周囲約2キロ、越前海岸では一番大きな島で、昔から地元の人は神の島と呼んでいるそうだ。島には大湊神社がある。
 東尋坊から1キロちょっと離れているということで、あちらも行けずじまいだった。
 半日くらい時間があれば、三国駅でレンタサイクルを借りて、町並みや東尋坊、雄島を巡りつつ、その向こうの越前松島まで足を伸ばしてみるのもよさそうだ。

東尋坊-8

 勇気のある人は、断崖絶壁のぎりぎりまで行って下をのぞき込んでいる。
 写真では高さやスケール感があまり伝わらないかもしれない。海面までは25メートルほどあって、ビルの8階くらいに相当するから、やっぱり怖い。

東尋坊-9

 引いて広く撮るとこんな感じ。

東尋坊-10

 高い断崖と、深い青緑色の海。
 過保護すぎるくらい安全に気を遣う日本の観光地の中で、これほど安全対策をしていないところは珍しいんじゃないだろうか。危険なの重々承知だけど、自分でなんとかしてくださいという放置ぶり。ロープなんか張っていたらすごく白けてしまうから、これが本来の姿なのだろうけど、ここは本気で自分で自分の身を守らないと危ない。死ぬつもりなど一切なくても、足を滑らせたら助からないと思われる。

東尋坊-11

 このあたりの岩場が、東尋坊のクライマックスで、一番の見所だ。
 あらためて写真で見てみると、他にはちょっとない奇岩風景だということを再認識する。現地に立っていると、すぐに見慣れた光景になって、あまり面白みを感じないのだけど。

東尋坊-12

 断崖の先端に立つ男たち。
 海の模様を見ると、流れが複雑に入り組んでいるのが見て取れる。
 深いところでは水深が17メートルにもなるそうだ。

東尋坊-13

 少し離れた海岸に目をやると、東尋坊とはまた違った断崖風景となっていることが分かる。どうして東尋坊だけがこんな景観になったのか、不思議だ。

東尋坊-14

 舞台のようになっている広場。
 ここは西向きだから、沈む夕陽がきれいだろう。

東尋坊-15

 道路沿いの入口から東尋坊までは、典型的なおみやげ物屋ストリートとなっている。昭和の観光地風情が色濃い。ペナントとかキーホルダーがまだ売ってそうだ。金メッキの東尋坊模型とかもあるだろうか。

東尋坊-16

 東尋坊タワーは、時間があっても登らなかった。遠くの海や山はよく見えるにしても、肝心の東尋坊は離れてスケールダウンしてしまうだけだ。

 東尋坊を見たことですっかり満足してしまったのだけど、福井の旅はこれでまだ半分だ。ここから三国に引き返して、そのあと福井の街を見ながら福井城跡へ行くというコースだった。
 ということで、次回の三国湊編につづく。

穏やかに見える春の日本海も内に激しさを秘める <第2回>

観光地(Tourist spot)
三国2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 横殴りの吹雪が、海岸に咲く越前水仙を大きく揺らし、激しく打ちつける波が、黒い岩場に当たって白く砕ける。灰色の空と海が溶け合い、吹き来る風で遠くが霞んでよく見えない。そんな真冬の日本海のイメージが頭の中にあった。
 訪れたのは4月初頭。春が少し遅い北陸とはいえ、越前の海はすっかり春の顔をしていた。不良少年が歳を取ってただの穏やかなオヤジになってしまったみたいに、まるで何事もなかったかのような表情でこちらを眺めていやがる。春の日本海はどこまでも穏やかで、内心、ちぇっ、なんだよ、と言いたくなるのであった。
 やはり、日本海らしい日本海を見るためには、冬に訪れるしかないらしい。

三国2-2

 海面から顔を出した岩場の上で、何かを採っている人の姿も見られた。これも春になったからなのだろう。冬場の波が荒いときは、のんきにこんなところにはいられないはずだ。

三国2-3

 カワウだろうと思うけど、岩でのんびり毛繕いをしていた。
 なんだか、どこまでも平和な風景で、少し拍子抜けする。

三国2-4

 越前水仙の時期は早く、12月から収穫が始まり、1月の中旬くらいには最盛期を迎える。正月用の生花としても使われることが多い。
 春は黄水仙が少しだけ咲いていた。

三国2-5

 東尋坊が近づくと、少しずつ岩場がそれらしくなってくる。

三国2-6

 流れ着いた大量のゴミがたまっている。ロシヤや中国、朝鮮半島で捨てられたものも多いという。
 日本海へ行くと、いろいろな部分でカルチャーショックを受ける。太平洋側の内陸で暮らしていると、海の向こうに外国があるということをほとんど意識することがない。
 日本海側は向こうの大陸というものを実感として感じることになる。こういうゴミなんかもそうだし、密航などという普段は頭の片隅にもないことが、こちらでは日常に近いところに存在している。自分がもし日本海側に生まれ育っていたら、外国に対して今とは違う精神性を持っていたように思う。

三国2-7

 かがやけ!!三国。そうだ、頑張れと私も応援したくなる。
 けど、ここの人はどうしてしまったのだろう。

三国2-8

 荒磯ふれあい公園を過ぎたあたりから、海岸沿いに荒磯遊歩道(ありそゆうほどう)という散策路が始まる。東尋坊を経て、雄島手前までの4キロほどのコースとなっており、その間には三国ゆかりの詩人や俳人たちの碑が建てられている。
 高見順は、三国で生まれた。
 父親は時の福井県知事、阪本之助。三国を視察に訪れた阪本は、評判の美人だった高間古代に手をつける。その二人の間に私生児として生まれたのが高見順だった。
 このことは狭い港町でたちまち噂となり、住みづらくなった一家は夜逃げ同然で東京へ引っ越すことなった。
 自分は望まれずに生まれてきた者だという意識が生涯つきまとい、高見順の人生に暗い影を落とすことになる。
 阪本之助は永井荷風の父方の叔父で、高見順と永井荷風はいとこに当たる。しかし、高見順の故郷や出生への複雑な思いもあって、二人は最後までいがみ合う仲だった。
 タレントの高見恭子は、高見順が愛人に産ませた子供だ。自分の出生を恨みながら、自分の父親と同じことをしてしまうのは、宿命なのか何なのか。
 長く故郷に背を向けていた高見順も、がんとの戦いの病床で、故郷三国のことを強く思うようになる。最後に自分の出生ともう一度向き合う気持ちになったのだろうか。
「おれは荒磯の生まれなのだ おれの生まれた冬の朝 黒い日本海ははげしく荒れていたのだ 怒涛に雪が横なぐりに吹きつけていたのだ おれが死ぬときもきっと どどんどどんととどろく波音が おれの誕生のときと同じように おれの枕もとを訪れてくるのだ」
 石碑にはこんな句が刻まれている。
 三国ゆかりの文人でもう一人印象深いのが詩人の三好達治だ。
 大阪で印刷業を営んでいた父親の長男として生まれるも、破産して、やがて父親は蒸発。自身も小学生から神経衰弱になり、学校を入ったり出たりを繰り返したのち、文学を志すようになる。梶井基次郎たちの文芸誌に参加したり、萩原朔太郎と知り合ったりする。
 朔太郎の妹アイに惚れ、結婚を申し込むも、向こうの両親に反対され、断念。
 しかし、アイの夫が亡くなると、結婚していた妻(佐藤春夫の姪)と離婚して、アイと再婚。アイとともに移り住んだのが三国だった。ほどなくアイは三好達治のもとを去ってしまうものの、5年をこの地で過ごしている。
 他にも、高浜虚子や山口誓子などの碑がある。

三国2-9

 遠くに見えている防波堤が、昨日出てきたエッセル堤だ。だいぶ歩いてきたことが分かる。

三国2-10

 オブジェのように立ち尽くす一本の木。潮風と雪にやられてしまったのだろうか。日本海の海岸沿いは、植物たちが生きていくにはなかなか過酷な環境だ。

三国2-11

 このあたりの海は、あまり船が行き交っていない。

三国2-12

 どこから東尋坊が始まるのかよく分からないのだけど、このあたりはもうエリアに入っているのかもしれない。

三国2-13

 特徴的な姿をしている岩には名前がつけられている。
 これはたぶん、ローソク岩というやつだと思う。それほどロウソクっぽくはないけどなと思ったら、もう少し低い位置からこの岩の上に沈んでいく夕陽を見ると、ロウソクに炎がともっているように見えるところから来ているんだそうだ。なるほどと、ちょっと納得した。

三国2-14

 遊歩道を歩いて行くと、突然人がたくさんいて驚いた。唐突に東尋坊が始まったという感じだった。
 というわけで、やっと東尋坊に辿り着くことができたところで、今回はおしまいとなる。
 次回の東尋坊本編につづく。

三国港から始まる春の東尋坊行き <第1回>

観光地(Tourist spot)
三国港-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 東尋坊は、10年くらい前に車で直前まで行きながら時間切れで引き返したということがあって、あれから月日が流れる中で、いつか行きたいという気持ちが心の片隅にずっとあった。本当は冬に行きたいと思っていたのだけど、高山やら京都やらを巡っている内に春になってしまった。でも、やはり行きたいという気持ちが高まり、4月のはじめに行ってきたのだった。
 福井は、去年の夏に、三方五湖と敦賀湾を旅した。福井県は縦に長い県で、中部の敦賀と北の福井は普通電車で1時間ほど離れた場所にあって、文化なども少し違っているように思う。東尋坊は更に北へ1時間ほど行ったところに位置している。あと少し北上すれば石川県だ。
 今回の旅は、まず先に東尋坊へ行って、そのあと福井見物をするというものだった。
 福井シリーズ第1回は、えちぜん鉄道から三国港編ということでお送りします。

 えちぜん鉄道は、京福電鉄が運営していた越前本線と三国芦原線を引き継いだ第三セクターの会社だ。
 ただでさえ赤字路線だったところに、半年で2度も正面衝突事故を起こしてしまった京福電鉄が、もう駄目です、これ以上やれませんと投げ出したのを、福井県がなんとか存続させるために第三セクターで復活させた。
 福井の重要な観光地である東尋坊と永平寺へ行くにはこの路線しかないわけで、バスでは限界がある。えちぜん鉄道になってからもなかなか厳しいようだけど、なんとか頑張って続けて欲しいと思う。
 えちぜん鉄道は、切符が窓口での手売りのみとなっている。混んでいるときはけっこう並ぶことになりそうだ。福井駅をいったん出て、少し歩くので、乗り換えは5分くらい見ておいた方がいい。
 列車内には、朝夕をのぞき女性アテンダントが乗車している。サービスの一環のようだけど、乗客が5人くらいに対してアテンダントが乗っているというのもなかなか贅沢な話で、赤字が増えないかとちょっと心配になったりもする。
 東尋坊へ行くときは、終点の三国港駅の一つ手前の三国駅で降りて、バスに乗るのが一般的だ。三国港駅からバスに乗ってもいいのだろうけど、三国駅の方がバス停は分かりやすい。

三国港-2

 車窓の風景は、地方の田園風景で、眺めていて特別楽しいというものでもない。海からも遠く、観光列車の情緒はない。東尋坊へ行く人以外は、近隣住民といった様子だった。
 遠くに見えた白い山並みは、白山連峰だっただろうか。

三国港-3

 終点の三国港駅(みくにみなとえき)に到着した。行きはここから東尋坊まで歩いて行くと決めていた。港や海沿いの風景を撮りながらぷらぷら歩いて行っても、3キロ弱で1時間くらいだった。まあ、そんな物好きは私以外に見かけなかったけれど。
 三国港駅の駅舎は、大正時代のものを改修して使っているとかで、レトロ感がある。
 それにしても、まわりに人が歩いていない。

三国港-4

 三国港は、今でこそ地方のなんでもない小さな港となっているけど、かつては北前船の寄港地として日本海沿岸で最も栄えた港町だった。
 大阪と北海道を結ぶ交易の中継地として、港には多くの巨大和船が行き交い、町には商家や問屋や遊郭などが建ち並び、大勢の人で活気溢れる港町風景が広がっていたという。
 その頃の名残は、三国港駅近辺よりも三国駅前に色濃く残っている。古い家屋や建物が点在する魅力的な町並みを撮り歩くことができたのは、今回の旅の思いがけない収穫となった。
 少し南へ行ったところに近代的で大きな福井港があり、港町の中心はそちらに移ったようだ。

三国港-5

 カーブを描きながら長く伸びる防波堤がある。
 明治のはじめに起きた九頭竜川の氾濫によって港が土砂で埋まって機能が停止してしまったことがあり、その対策として防波堤を作るために、オランダから技師を招くことになった。
 そのとき設計を担当したのがエッセルで、そこからエッセル堤と名づけられた。
 ちなみに、このエッセルという人は、だまし絵で知られるエッシャーのオヤジさんなんだそうだ。そう言われてあらためて見てみると、優雅に弧を描く姿は芸術的であるようにも思える。
 100年以上も現役で役割を全うしているということもあって、国の重要文化財に指定されている。

三国港-6

 海と遠くの白い山並み。このときは春霞で遠くまで見渡せなかったけど、冬に訪れていたらもっときれいな風景だったことだろう。青空と日本海と白い山並みという組み合わせは、それを見るためだけでも訪れる価値がある。

三国港-7

 ウィンドサーファーが、気持ちよさそうに春の海の上を滑っていた。思いのほか、そのスピードは速い。この日は風が強かった。

三国港-8

 何故か浜辺にみかんが一つ。冬の忘れ物だろうか。傷みながら海を見ていた。

三国港-9

 三国海水浴場、通称三国サンセットビーチ。
 海は文句なくきれいで、遠浅のため、海水浴に向いている。夏場は大いに賑わうそうで、三国花火大会の会場でもある。
 砂地は柔らかいというか、重たくて、歩くのが大変だった。

三国港-10

 砂浜で待機中のボード。
 遠浅という地形もあって、このあたりの波はいたって穏やかだ。普通の波乗りサーフィンはできそうにない。少ししか離れていない東尋坊へ行くと、様相はがらりと一変する。

三国港-11

 部分的にきれいな風紋ができていた。

三国港-12

 海岸の岩場にいたのはウミネコだろうか。
 ユリカモメは、もう北へ渡っていってしまったはずだ。

三国港-13

 こいつはなんだろう。カモメっぽいけど、よく分からない。海の鳥はあまり見ないから区別がついていない。

三国港-14

 このあたりに老舗旅館の望洋楼があったはずだ。これかと思ったのだけど、違ったようだ。荒磯亭かもしれない。
 廻船問屋から旅館に生まれ変わった望洋楼は、幕末四賢侯の一人といわれた越前藩主・松平春嶽がひいきにした宿だったそうだ。
 おじさんが岩場で何かを採っていた。

三国港-15

 漁業関係のあれこれが雑然と置かれていたり、いろんな金属がことごとく錆びている様子が、いかにも港町といった風情だった。
 海水浴場の北は、東尋坊からは少し離れているから、民宿が数軒あるくらいで、観光地然としていない。それが、東尋坊の手前まで行くと、突然観光地になるから面白い。

三国港-16

 東尋坊タワーがだいぶ近づいてきた。
 荒磯遊歩道という海岸沿いの道を通って東尋坊を目指す。
 ここから先は、また次回ということにしよう。
 つづく。

まあこんなもんだろう的なサンデー

料理(Cooking)
中洋サンデー

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 今日のサンデー料理も、テーマのない雑多な料理になった。一応の方向性としては中華の方を向いていた。
 買ってきた安売りの鯛をどうにかして食べようというところからまずは始まった。
 鯛はよく使う食材で、過去にもいろいろな料理をしてきた。白身の中でもクセがなくて、和食にも洋食にも使える便利な食材として重宝している。ただ、中華風にアレンジしたことはなかったはずだから、今回は中華風の甘辛あんかけにしてみた。
 鯛に塩、コショウ、酒を振ってしばらく置いたあと、小麦粉をまぶして、油で揚げる。
 あんかけは、湯がいたタマネギとニンジン、酒、みりん、しょう油、塩、コショウ、砂糖、酢、ケチャップ、豆板醤、ショウガ、中華の素、ごま油、唐辛子を煮詰めて、水溶きカタクリ粉でとろみをつける。
 これが鯛の一番美味しい食べ方ではないけど、こういう食べ方もあるということで、一つバリエーションは増えた。

 右は、ジャガイモ炒めだ。
 ジャガイモを短冊切りにして、10分ほど水に浸しておく。こうするとでんぷん質が落ちて、シャキシャキの歯ごたえになる。
 水から出してそのまま炒めるとシャキシャキ食感になるのは分かっていたのだけど、もう少し柔らかい方が好きなので、軽く茹でてから炒めた。そうするともちもち感が出る。
 オリーブオイルとバターで鶏肉を炒め、ジャガイモとアスパラを加える。
 コンソメの素、からし、塩、黒コショウ、砂糖、マヨネーズ、とろけるチーズ、パセリ粉で味をつけたら完成だ。
 これは当然のように美味しい。ジャガイモはどんな味付けにしてもたいてい美味しいもので、よほど濃すぎたり薄すぎたりしない限り失敗することはない。今回のように、バターとチーズの組み合わせでは間違いようがない。

 奥は、豆腐のシューマイだ。
 豆腐をレンジで水切りして、刻んだタマネギ、白はんぺん、刻んで叩いたエビとよく混ぜ合わせる。肉を使わないヘルシーシューマイだ。
 中華の素、塩、コショウで下味をつける。
 たれは、酒、みりん、しょう油、ごま油、白だし、中華の素、砂糖、からし、唐辛子、ショウガを混ぜて煮立たせて作る。
 シューマイの皮を2ミリくらいに切り、タネを丸めて、シューマイの皮を全体にまぶしつける。
 湯気が立った蒸し器に並べ入れ、強火で8分ほど蒸し上げたら出来上がりだ。
 味はあっさり系だけど、白はんぺんが効いていて、ふわふわの歯ごたえがいい。
 蒸すのは面倒と思いがちだけど、やってみると煮たり焼いたりするより簡単だったりする。蒸し器がない場合は、フタ付きの鍋に水を入れて、どんぶりとかの台を置いて、その上に皿を置けば蒸し器代わりになる。
 豆腐ふわふわシューマイはオススメしたい。

 完成品を見て野菜がちょっと足りなかったとは思ったものの、色合いとしてはなかなかよかった。油断した茶色料理になっていないし、全体としてのバランスも悪くなかった。
 とまあ、今週はこんな感じのサンデーだった。

二子山古墳と継体天皇と季節外れの桜写真

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
二子山古墳-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 春日井市南西部の味美(あじよし)に、二子山古墳(ふたごやまこふん)というのがある。今日はその話を少ししたいと思う。
 春日井から名古屋市東北部にかけてのエリアに、たくさんの古墳が密集している。何故こんな内陸なのかと不思議に思うけど、かつての伊勢湾はこの近くが海岸線だったことを思えば理解できる。
 その中でも、二子山古墳は最大の前方後円墳で、全長は94メートルある。
 すぐそばには、白山神社古墳(84メートルの前方後円墳)と、御旅所古墳(31メートルの円墳)が隣接している。
 作られたのは、6世紀初めと見られている。前方後円墳は、6世紀に入ると規模が縮小していったから、二子山古墳は末期の大きな前方後円墳ということになる。
 東海地方最大の前方後円墳は、熱田にある断夫山古墳(だんぷさんこふん・151メートル)で、これも6世紀初めと考えられている。
 東海地方にあるこれより以前の古墳はどれも規模が小さく、6世紀入って突如巨大な前方後円墳が作られるようになった。それには越前から出た継体天皇(けいたいてんのう)の存在が関わっているという説がある。前置きとして、継体天皇について書いておくことにしたい。

 現在の皇室の系譜をさかのぼっていくと、第26代天皇の継体天皇に辿り着く。そこまでは血縁が確認できるものの、そこから先についてはよく分かっていないという。
 この継体天皇というのは、福井(越前)出身という異色の天皇で、謎に満ちた存在である。
 父親は、彦主人王(ひこうしおう)という皇族で、越前国坂井郡に振媛(ふるひめ)という美人さんがいると聞きつけ、それはぜひ妃にせねばと人を呼びにやって、近江国高島郡の三尾(みお・滋賀県高島市)に別荘を建てて、一緒に暮らすことになった。
 そこで生まれたのがのちに継体天皇となる男大迹王(おほどのおう)だった。しかし、間もなくして父親の彦主人王は死んでしまう。見知らぬ国で赤ん坊を抱えて一人になってしまった振媛は、ここでは子供は育てられないということで、故郷の越前に帰っていった。まさか自分の小さな息子がのちに天皇になるとは思いもしなかったはずだ。そもそも普通ならその可能性さえない。父親も祖父も天皇ではなく、宮から遠く離れた越前で育つことになるのだから。
 時は流れて507年。第25代天皇の武烈天皇崩御。子供がおらず、後継を決めないまま亡くなったため、跡継ぎ問題でモメることになる。
 このとき、どういう経緯で誰が男大迹王(継体天皇)の名前を出してきたのか、詳しいいきさつは分からない。天皇の系譜でいうと、第15第の応神天皇5世の孫というのだけど、それも本当かどうか。5世の孫まで範囲を広げなくても、他にも天皇候補は何人もいたはずだ。
 しかも、このとき男大迹王はすでに58歳で、40歳の息子もいる。今でこそ58歳といえばまだまだ元気だけど、この時代ではとっくに平均寿命を越えたおじいちゃんだ。何故そんな縁も薄く、年もいっている男大迹王に天皇になってくださいとお願いしなければならなかったのか。
 ここで王権の交代劇があったのではないかという説もある。詳しく書くと長くなるので省略するけど、ヤマト王権とはまったく別の勢力が武力で天皇を乗っ取ったということはないと思う。基本的にはそれまでのヤマト王権のやり方を踏襲しているし、継体天皇以降は、ヤマト王権の権力がより強固になり、中央集権国家へと移っていくことになるから。
 一つには、男大迹王が持つ強力なネットワークが後ろ盾になったということがありそうだ。8人の妃がいた中で、尾張で強い力を持っていた尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘、目子媛(めのこひめ)をめとっている。この二人の間にできた子供が、のちに第27代安閑天皇、第28代宣化天皇にもなっている。
 他にも近江の三尾、息長、和珥、美濃の根王など、有力な地方豪族の娘たちを妃に持ち、大和から東国にかけての広い支持を取り付けていた。それらの勢力に担ぎ出される恰好で即位することになったのだろうと考えられている。
 ただ、即位が決まってからもすんなりはいかなかった。継体天皇として河内国交野郡の樟葉宮(くずはのみや・大阪府枚方市)で即位するも、その後、宮を転々と移し、本拠である大和に入ることができたのは、即位してから20年後のことだった。
 この間の事情についても詳しいことは書かれていない。大和の中心に抵抗勢力があったのか、何か他に理由があったのか。
 時期としての6世紀初頭というのは、ヤマト王権の支配力が弱まっている時期で、朝鮮半島情勢も含めてゴタゴタしていた。その頃起きたのが、磐井の乱(いわいのらん)だ。
 九州に強い勢力を持っていた磐井(九州王朝だったという説もある)と、ヤマト王権の朝鮮半島の利権を巡る争いで、結果的にはヤマト王権が勝利した戦いだ。
 こののち、ヤマト王権は力を取り戻し、時代は物部氏と蘇我氏の争いを経て、推古天皇や聖徳太子が登場する飛鳥時代へと移っていくことになる。大化の改新から壬申の乱、天智天皇、天武天皇ときて、『日本書紀』が編さんされ、新たな天皇家が作られていくことになるのだけど、それはまた別の話だ。

 前置きが長くなった。というか、前置きが本編になってしまった感もある。そろそろ二子山古墳に話を戻そう。
 熱田の断夫山古墳は、尾張連草香の墓という説が有力だ。6世紀になって突然巨大な前方後円墳が作られたのは、尾張氏の首長が天皇の義理の父親になったからといえば納得がいく。
 継体天皇の墓とされる大阪府高槻市の今城塚古墳(いましろつかこふん・190メートル)と、断夫山古墳、それから二子山古墳は、その形状や出土物に共通点が多いことが指摘されている。そのことから、二子山古墳は、尾張連草香の娘で、継体天皇の后である目子媛ではないかと考えている人もいるようだ。あるいは、尾張氏と同盟関係にある別の豪族(物部氏あたり)が春日井にいたのかもしれない。
 春日井にはかつて90基ほどの古墳があったそうだ(現存は34基)。古墳は3世紀後半から7世紀末にかけて作られていたのだけど、春日井では5世紀から6世紀にかけてに集中している。それ以前には強力な勢力がおらず、6世紀以降は中央のヤマト王権に取り込まれていったのだろうか。

二子山古墳-2

 二子山古墳があるエリアは、二子山公園として整備されて、国の史跡に指定されている。
 公園内には、「ハニワの館」というのがあって、ハニワや資料などの展示を行っている。
 ちびっこたちは、ここが昔の豪族の墓ということを、たぶん分かっていない。
 10月だか11月だかに、ハニワまつりというのが行われる。土をこねて作ったハニワを素焼きするらしい。その話を聞いたら、なんだかハニワが欲しくなってきた。もし万が一、埋まっているハニワを見つけたら自分のものにしていいのだろうか。それとも、国に届けるのか?
 昔の人はどういう気持ちでハニワを作っていたのだろう。祭祀用だけではないような気もする。現代人がフィギュアを集めて喜ぶように、昔の人もいろんなハニワを集めて楽しんでいたのかもしれない。お、いいハニワ持ってるね、とか見せ合ったり自慢し合ったりして。

二子山古墳-3

 名古屋ではもう桜は昔話になってしまったけど、まだ出していない桜の写真をたくさん持っている。もう居直って順番に出していくことにする。時季はずれもここまで来ると思い出写真だ。
 今年は東北地方や北海道の桜が遅れたそうだから、まだ北海道では咲いていないところもあるだろうか。

二子山古墳-4

 今こうして桜の写真を見ていると、もっとたくさん桜を見にいっておけばよかったと思う。
 やっぱり桜はいいものだ。桜を愛でる人たちの姿も。

二子山古墳-5

 少数ながら出店も出ていた。平日の夕方では訪れる人はまばらだった。

二子山古墳-6

 二子山古墳の北にある白山神社古墳の上に、白山神社が建てられている。
 白山神社古墳が誰の墓かはよく分からない。どうも物部氏との関係が深そうだ。
 かつて味鋺村(名古屋市北区楠町)にあった白山神社を、1659年にこの地に移し、そのとき二子山古墳の墳丘にあった物部神社(式内社)と合祀して建てられた。
 白山神社古墳は、5世紀末から6世紀はじめに作られたということだから、二子山古墳より先ということになる。
 物部氏と尾張氏との関係はどうだったのか。尾張氏は尾張の豪族なのに対して、物部氏は出自が古く、中央から地方にかけて広く散らばっている。蘇我氏との争いに敗れるまでは、各地で力を持っていたのだろうと思われる。
 継体天皇が磐井の乱を平定するように命じたのが物部氏だった。ということは、どちらも継体天王側ということになり、尾張においても尾張氏と物部氏は対立していたわけではなさそうだ。

二子山古墳-7

 ここにも蕃塀(ばんべい)があった。
 尾張地方特有のもので、神社の入口正面にある衝立みたいなものだ。
 さかのぼれば伊勢神宮にその起源を見ることができるものなのに、どういうわけか尾張だけで流行って、他の地方では採用されなかった。理由はよく分からない。

二子山古墳-8

 祭神として、伊邪那岐命(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)の他、物部氏の祖とされる可美真手命(うましまでのみこと)などが祀られている。
 賽銭箱には三つ葉葵のマークがある。何の関係があるのだろう。

二子山古墳-9

 社殿がいつの時代のものなのか、はっきりしたことは調べがつかなかった。古いといえば古いけど、そんなに昔のものでもない。

二子山古墳-10

 お札授与所が最近建て替えられたようで、ピカピカに新しかった。

二子山古墳-11

 絵馬の数だけで神社の人気度をはかってはいけないのかもしれないけど、数は決して多くなかった。
 合格祈願ののぼりがある。これは誰にお願いしてるのだろう。イザナギやイザナミは関係ないし、物部氏の祖先は戦の神だ。他の祭神でも、山の神の菊理比売命も違うし、可能性としては、藤原氏の氏神で、祝詞や出世の神とされる天児屋根命だろうか。あとから合祀された春日神社の春日の神も受験とは縁がなさそうだ。

 二子山古墳へ行ったのは、黒川や洗堰に桜を見にいった帰りだった。紹介が遅くなったのは、下調べに時間がかかったからだった。というか、書くと長くなるのは分かっていたから、後回しにしたかったというのが本音だ。
 来週からは福井・東尋坊シリーズを始めることになるから、その前に越前出身の継体天皇について少し勉強しておきたかったというのもある。福井のどこかでまた継体天皇とつながることがあるかもしれない。
 尾張地方の古墳事情に関してもまだまだ理解していないところが多々あって気になるところではあるけど、今日のところはここまでとしたい。

東海道の宿場つながりで去年訪れた二川宿の話

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
二川宿-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 やや唐突ではあるけれど、今日は二川宿を紹介することにした。
 ここを訪れたのは去年の9月のことだった。蒲郡から豊橋、浜名湖と回ったとき、二川宿にも少し寄っておいた。それをここまで出さなかったのは、出すタイミングを失ったまま時が流れてしまったからだった。大事に温めていたとかそういうことではない。
 ではどうしてこのタイミングだったかといえば、関宿、亀山宿を訪れて、東海道の宿場つながりとしてちょうどいいと思ったからだ。この機を逃すと次はまたいつになってしまうか分からないから、ここで挟むことにした。

 二川宿は東海道五十三次の中で、品川から数えて33番目の宿場に当たる。遠江国から三河国へ入って最初の宿場がここだった。
 このあと、吉田宿、御油宿、赤坂宿、藤川宿、岡崎宿、池鯉鮒宿と続き、尾張国に入って鳴海宿、そして熱田神宮の宮宿となる。
 二川宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠約30、町並みも1.3キロ程度の小さな宿場だった。宿泊客も少なく、本陣の財政も非常に厳しかったという。
 当初、二川村だけで問屋をやっていたのだけど、負担が大きすぎるということで隣村の大岩村も共同して行うようにという幕府からのお達しが来た。しかし、二つの村は1キロ以上も離れていたため、問屋の業務が大変すぎた。そこで幕府は次の一手として二川村を西に、大岩村を東に移動させて、くっつけるという荒技をやった。宿場は二川村だけにして、問屋を大岩村に置いた。
 宿場というのは何をするところかというと、人を泊めるための宿場町というだけではなく、人と荷物を次の宿場へ送ることがもっと大事な業務だった。人馬の継ぎ立てといい、それを行っていたのが問屋だった。
 問屋には、年寄、帳付(ちょうつけ)、馬指(うまさし)、人足指(にんそくさし)、定使(じょうつかい)などといった役職があり、東海道の場合は人足100人、馬100頭を常に待機させておくことが定められていた。これが宿場の大きな負担となった。それでも足りないときは、助郷(すけごう)に指定された村から人や馬を借りることになる。ここでもよくモメて、出すの出さないのというケンカもしばしば起こったという。
 そんなわけで、人気がなかった二川宿は、宿場をやっていくのがとても大変だったようだ。たびたび起こった火事がそれに追い打ちをかけた。
 本陣の職は当初後藤家の五左衛門が務めていたのだけど、何度も火事にあって家が没落してしまい、引き継いだ紅林権左衛門も火事で立て直すことができず、最後は馬場彦十郎が嫌々引き受けて明治を迎えることになる。
 ついでに書くと、本陣というのは大名や役人、公家などが泊まる家で、その宿場で一番大きくて格式がある家がその役を務めた。一般人が泊まる宿屋ではない。
 脇本陣は、本陣が一杯のときに使う臨時の宿だ。
 旅籠が武士や一般の旅人が泊まる宿で、これは食事付きだった。素泊まりするなら木賃宿で、そこでは旅人が自炊をした。
 宿場町制度は、明治5年に廃止されて、その後、宿場町は急速に衰退していくことになる。

二川宿-2

 ここは二川駅の裏手、南口の風景だ。二川駅付近では、東海道本線と新幹線の線路が隣り合わせに走っているから、新幹線が通過していくのがよく見える。
 南側には動物園の「のんほいパーク」があって、歩いていける。二川宿は駅の北側にある。
 駅舎は2002年に新しくなった。その前は木造の味のある駅舎だったそうだ。
 マンホール蓋には、豊橋名物の手筒花火と吉田城が描かれている。

二川宿-3

 屏から出ている松の木などは、かつての街道の雰囲気を持っている。
 ただ、古い家屋は少なく、宿場町の面影はあまり残っていない。少し前の写真を見ると古い家が写っていたりするから、ここ数年で昔の家屋は減ってしまったようだ。
 枡形の道など、当時の町割はほぼそのまま残っている。

二川宿-4

 宿場の名残がなければ、昭和の名残を探す。なんだか昔ながらの感じに心が和む。

二川宿-5

 さりげなく丸ポストがあったりもする。
 それにしても、道が狭い。狭いのに車の往来が激しい。歩道もなく、人が歩くスペースさえないところもある。道の真ん中で写真なんて撮っていたらひかれそうになる。ここではのんびり町散策とはいかない。
 駅から二川本陣跡までは約1キロ。普段なら近い距離なのに、このときはなんだか遠く感じられた。二川に来るまでにさんざん歩いたあとだったのと、車をよけたり立ち止まったりを繰り返したからだろう。

二川宿-6

 うば車店というのを初めて見た。田舎の方では、お年寄りが乳母車を押して歩いている姿をよく見かける。杖代わりにもなり、歩くのが楽なんだそうだ。そういう需要が多くて、こういう店がやっていけるのだと思われる。この町が特別子供が多くて、乳母車が飛ぶように売れるというわけではあるまい。

二川宿-7

 古い家風の新しい店。
 こんなところでも撮らないと、他に撮るところが見つからなかったのだ。

二川宿-8

 東海道の宿場町で、本陣の建物が残っているのは、ここ二川宿と、滋賀県の草津宿の二つだけとなっている。
 現存する本陣の建物は、馬場家が1807年に再建したものだ。
 代々馬場家当主が引き継いだのち、昭和60年に豊橋市に寄贈され、昭和63年からは資料館として一般公開されるようになった(400円)。

二川宿-9

 開館は16時30分までということで、私が行ったときはもう閉まっていた。
 本陣建物内部や資料などが展示されている。
 平成17年(2005年)には旅籠を再現した清明屋も建てられた。

二川宿-10

 表から中がちょこっと見えたので、のぞき撮りする。
 本陣資料館を見られなかったのは残念だったものの、宿場町の雰囲気は味わったからよしとする。

二川宿-11

 時間に余裕があれば、もう少し東まで足を伸ばして、西の大岩町も歩いてみるところだったけど、このあとまだ弁天島へ行かなくていけなかった。日没も近づいてきたところで、引き返して駅へ向かうことした。
 機会を見つけて、また他の宿場町も歩いてみることにしよう。

自転車で行く瀬戸電沿線風景

飛行機(Airplane)
瀬戸電風景-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 瀬戸電沿線の風景をあらためて見てみようと、何年か前から考えていた。車だと狭い道は入っていけないし、歩くには距離がある。こんなとき便利なのが自転車だ。自転車でしか出会えない風景がたくさんあることを最近知った。
 名城公園に藤を見に行った日、瀬戸電の線路沿いをずっと行ってみた。途中、少し道が途切れる場所があるものの、大部分は線路に沿って道が続いている。車もあまり来ないし、のんびり自転車を漕ぐのにはいい道だ。
 大森・金城学院前駅から出発して、栄の手前の東大手付近まで行った。
 線路脇には、野草や、誰かが植えた花や、民家の庭から飛んできて芽吹いた園芸品種など、様々な春の花が咲いている。そんな雑多な感じも、線路沿いの魅力の一つだ。人工物と、自然と、人の暮らしとが渾然一体となって風景を作っている。人によってそれは日常であり、別の人にとっては非日常である。あるいは、旅情だったりもする。

瀬戸電風景-2

 喜多山駅前の風景を見て、しばし愕然とする。
 こんなふうだったか……。
 目を閉じて子供の頃のかすかな記憶を手探りしてみると、そこにはもっとゴタゴタ、ガチャガチャして、雑然とした町並み風景が見える。スーパーや個人商店、古い民家などが雑多に固まって、道行く人も多かった思い出がある。こんなこざっぱりはしてなかったはずだ。
 あまりにも長い間訪れなかった間に、時代が二週くらいしてしまった感もある。古いものが取り壊されて新しく生まれ変わったあと、もう一度古びてしまったようだ。

瀬戸電風景-3

 喜多山の隣の小幡駅は、表の方をよく通るから変わったのは知っていた。ターミナル駅になって、立派な駅舎も建った。以前の姿はほとんど覚えていない。
 上の写真は瓢箪山駅だ。喜多山の風景とよく似ている。
 このあたりまでは子供の頃は来なかったから、昔の印象も薄い。おそらく、喜多山と同じような変遷を辿って今に至っているのであろうと思われる。
 駅前でありながら、賑わいとは無縁な様子だ。

瀬戸電風景-4

 水色のアパートを見て、ちょっとのけぞった。この立地条件は過酷すぎやしないか。
 朝夕は上りも下りも5分おきくらいに電車が走ってるし、昼間でも10分間隔くらいでどちらかから電車がやって来る。そのたびにカンカンカンカンと踏切の警報音が鳴り響く。それが朝の5時半から夜の11時半まで続く。慣れれば大丈夫なのかもしれないけど、それにしても過酷そうだ。
 メリットは警報機が鳴ってきてから家を飛び出しても電車に間に合うことくらいだ。

瀬戸電風景-5

 もじゃハウスは、5月になって、だいぶもじゃもじゃしてきた。
 地球温暖化防止のために、どこの家ももじゃハウスになることが義務づけられる日も来るかもしれない。

瀬戸電風景-6

 守山自衛隊前駅。古びて味を出しているのは、駅舎だ。けっこう古そうだ。
 近くに陸上自衛隊の駐屯地があることから、この名がつけられている。
 電車が来たので駅舎と絡めて撮ろうと構えていたら、電車が駅に止まらず通過したから驚いた。瀬戸電は全部各駅停車かと思っていた。急行か何かあって、止まらない駅もあるようだ。このとき初めて知った。

瀬戸電風景-7

 守山自衛隊前駅を出ると、矢田川を渡るためにゆるやかなS字を描いて進んでいく。
 このあたりまで来ると、名駅のビルがやや大きく見えるようになる。

瀬戸電風景-8

 藤というと、人の手で藤棚に巻き付くように仕立てられたものが一般的になっているけど、少し山の方に入っていくと、わりと普通に自生している。多くは、ノダフジという品種で、たまにヤマフジもあるようだ。
 河原の土手に咲いていたこの藤はどうだろう。この状況からすると、人の手で植えられたノダフジだろうか。

瀬戸電風景-9

 矢田川に架かる鉄橋を行く瀬戸電。向こうに見えているのはナゴヤドームだ。

瀬戸電風景-10

 この鉄橋の上の飾りみたいなのは、なんという名称のものだろう。どういう役割があるのかも分かっていない。そもそもこれは鉄橋ではないのか。

瀬戸電風景-11

 大曽根の手前から瀬戸電は高架になってしまい、電車を見ることができなくなる。上の方だけちらっと見えるだけだ。ちら電が楽しいという人もいるらしいけど、私としては楽しくない。
 清水駅を過ぎて、東大手駅の手前で、今度は地下にもぐっていく。この先はまったく見えなくなる。東大手の次が終点の栄町となる。
 このあと、名古屋市役所の横を通って、名城公園を目指すことになった。

瀬戸電風景-12

 おまけその1。黒塗りの土蔵造りの建物。

瀬戸電風景-13

 おまけその2。古い商店の名残。理容店の隣は、スナック十五夜。

 瀬戸電は馴染み深いようで、実際に乗り降りしないから、駅前の様子などはずっと知らないままだった。前から気になっていて、今回一応、線路沿いをずっと行ったことである程度様子を知って、気持ち的にはすっきりした。その変貌ぶりは想像を超えていたけれど。
 大森から東は、ある程度馴染みがある。空白部分は、印場から旭前や、三郷から水野あたりか。そのあたりも機会があれば自転車で行ってみたい。
 線路沿いは、川沿いシリーズのように本数がないからシリーズ化するのは難しい。特に自転車で行ける範囲となると限られる。他には愛知環状鉄道くらいだ。リニモ沿いを走っても面白くなさそうだし。
 次は栄方面から逆走してみると、また違った風景が見つかるかもしれない。

名城公園に藤を撮りに行く

施設/公園(Park)
名城公園藤棚

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 今年は藤をどうしようと思っていた。ちょこちょこ近所で見かけるし、わざわざ藤だけを撮りにいかなくてもいいんじゃないかと考えていたのだけど、年に一度のことだし、来年も見られるという保証はないし、やっぱり行っておこうと思い直した。
 藤名所はそこここにあるようで意外と少なく、名古屋市内となると名城公園くらいしか思いつかない。愛知県まで範囲を広げると、津島市の天王川公園や、江南市の曼荼羅寺などは有名どころだ。どちらも行ったことがある。小牧市の岩崎清流亭にある藤の銘木も一度見てみたいと思いつつ、自転車で行くにはちょっと遠い。
 咲き具合としては、見頃の後半といったところだった。やや出遅れた感はある。品種によるバラつきがあって、白藤などはこれからだろうけど、満開を過ぎた木からだいぶ花を散らし始めていた。
 出かける前のイメージ不足につき、あまり撮れなかったのが残念ではあった。




藤棚と見物人

 ゴールデンウィークということで、なかなかの賑わいを見せていた。それでも、津島や江南のような混雑さはなく、普通に歩いて、立ち止まって撮ったりもできたから、嫌な感じはなかった。ほどよい混み具合といったところだ。




九尺藤

 長く垂れ下がる藤の花は確かにきれいではあるのだけど、そのまま撮ったのでは面白みがない。面白くないと思いつつ、ありきたりの撮り方以外に思いつかない。どう工夫したらいい写真になるのか、この日は最後まで見えなかった。藤は簡単そうで難しい。




白藤

 白藤はこれから。




藤を撮るひと

 みなさん、どんなレンズで、どこをどういうふうに撮ってるんだろうと、気になった。




記念撮影

 藤の楽しみ方というのは結局こういうことかもしれない。




カップルとノラ

 名城公園はノラが多い。




風車と子供たち

 北の公園エリアに回ってみるも、こちらでもあまり収穫はなかった。




くつろぐ外国人

 芝生では外国人がのんびりくつろいでいた。




空堀の風景

 空堀もいつの間にか鮮やかな緑色に覆われていた。藤が終われば、もう初夏はすぐそこだ。
 名城公園の藤棚は、今週いっぱいくらいまで見頃が続きそうだ。雨が降れば花もまただいぶ落ちてしまうだろうか。
 
 

亀山宿歩きで伊賀上野方面の旅は完結

観光地(Tourist spot)
亀山宿-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 亀山城跡は、亀山駅の北、約600メートルほどにあり、その中間あたりを東西に旧東海道が通っている。亀山宿は、東の露心庵という寺から西の京口門までの約2.5キロの間にあった。江戸から数えて46番目の宿場町である。
 熱田の宿から舟に乗った旅人は、桑名の渡しで降りたあと、四日市宿、石薬師宿、庄野宿を通り、亀山宿に辿り着く。
 桑名から亀山までは40キロ弱。健脚の持ち主でもそろそろこのあたりで泊まりたいところだ。ただ、亀山城には将軍の宿泊所があり、藩の領内には幕府直轄の宿場が置かれたため、参勤交代の大名たちは亀山泊まりを遠慮したという。ちょっと堅苦しい雰囲気を嫌い、あと5キロ歩いて関宿まで行って泊まった旅人もいたかもしれない。
 歌川広重の東海道五十三次、亀山宿「雪晴」は、亀山城下にあった京口門が描かれている。一面雪景色の中、急峻な坂を旅人たちは門を目指して登っていっている。広重が実際に旅をして自分の目で見たのかどうかはともかくとして、広重のイメージする亀山は坂の上の宿場というものだったようだ。
 実際に駅から亀山宿、亀山城へ向かって歩いてみると、かなりの勾配で登っているのを実感する。曲がりくねった道も多い。亀山宿は、宿場町でもあり、城下町でもあった。
 駅から北上すると、上の写真の場所で旧東海道とぶつかる。かつて問屋場があった跡で、西町と東町と二つに分けていた境でもある。

亀山宿-2

 西町では、昨日の白い土塀や武家屋敷跡を撮った。今日は東町を紹介したい。
 分かりやすくするために、旧東海道の道をカラー舗装している。雰囲気的にはどうだろう。味気ないアスファルトの色よりは土色っぽくていいといえばいい。

亀山宿-3

 なかなかの荒れっぷりに反応する。宿場町の風情とは関係なく、こういうのは見つけたら撮る。

亀山宿-4

 亀山のマンホール蓋。やはり亀山城の石垣と多聞櫓が描かれている。

亀山宿-5

 関宿のお隣とは思えないほど、宿場町としての面影をまったく残していない。近年、急速に古い家が減っていったそうだ。国道一号線は宿場や亀山城跡よりも北を通っているから、条件としては関宿と変わらないはずなのに、この違いは何なんだろうか。関宿の残り方がむしろ不自然といえるかもしれない。
 せめてこれくらいはしようということで、それぞれの家にはかつての屋号の木札がかけられている。それでわずかに往時を偲ぶしかない。
 よろずやといえば、銀ちゃんだ。神楽や定春がいるところを想像して楽しむ。

亀山宿-6

 レトロモダンな感じのパン屋さん。ふじっこぱん。
 閉店して久しい感じだけど、昭和の名残のような優しい光景だった。

亀山宿-7

 遍照寺の鐘楼門だったと思う。眼下に町並みが見えている。
 17世紀に創建された古刹で、本堂は亀山城の二之丸御殿玄関部分を移築したものだそうだ。そんなことは知らないから、中までは行っていない。

亀山宿-8

 こういうクランク状の道を枡形(ますがた)と呼んでいる。城下町ではよくある作りの道だ。大勢の敵が一気に攻めてくるのを防ぐためのものだそうだけど、どれくらいの効果があったのだろうか。

亀山宿-9

 元々は白壁の土蔵だったのだろう。トタンっぽいものを白と黒に塗って、それっぽい外観になるように補修してある。

亀山宿-10

 少し広い道路に出た。この先は旧東海道の名残もあまり残っていないようだ。地方都市のさびれた商店街風景となる。
 予定のコースを歩き終わって、日没も近づいてきた。そろそろ帰ることにする。

亀山宿-11

 これまたすごいことになっている民家。台風の直撃を食らって、そのまま古びてしまったかのようだ。

亀山宿-12

 池の側と名づけられた池は、かつて亀山城の外堀だったところだ。
 このもじゃハウスも、今頃は新緑になっているだろうか。
 池のほとりには、石井兄弟敵討ちの碑というのが建っている。父と兄のカタキを追いかけること28年。ようやくこの地で仇討ちを成し遂げたのだそうだ。翌年に起きた赤穂浪士の討ち入りと並び称されたというけど、こちらのエピソードはあまり後年まで伝わらなかったようだ。

亀山宿-13

 なかなか大きなクツ兼カバン屋さん。近頃はこういう個人のクツ屋さんも少なくなった。

亀山宿-14

 スポーツ用品店の店先で、完全に油断して眠りこける犬。この町の平和さがうかがわれる。

亀山宿-15

 駅前に能褒野神社(のぼのじんじゃ)の鳥居が建っている。直線距離で5キロも離れているのに、それだけ神社の重要さを示しているということか。
 能褒野神社は、ヤマトタケルが東国を平定して故郷の大和を目指す途中に命を落としたとされる場所で、全長90メートルの前方後円墳がある場所だ。
 なんとかして行きたいと思ったのだけど、結局行けなかった。行くには、一つ東の井田川駅まで行って30分歩くか、亀山駅から市バスで行くかしかない。しかし、市バスはとっくに終わっており、井田川駅から歩くと日没までに間に合いそうになくてあきらめた。それが今回の旅の心残りとなった。
 なにはともあれ、こうして伊賀上野から関宿、亀山の旅は無事に終わった。なかなか楽しくもあり、収穫もある旅となった。

何はなくとも石垣と多聞櫓が残る亀山城跡

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
亀山1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / DA 55-300mm f4-5.8



 関宿をあとにして、一つ東の亀山駅に降り立った。伊賀上野、関、亀山というのが、この日のセットメニューだった。
 訪れたのは4月6日だった。もううひと月くらい前のことになる。今頃桜の写真を出すのもどうかと思うけど、東北や北海道の人がこれを見たなら、ちょうどいい感じに思ってくれるだろう。
 亀山での目的は二つ、亀山城跡を見ることと、東海道の亀山宿を歩くことだった。今日はまず亀山城編からいってみたい。
 手前は城下にある亀山中学で、桜の向こうに見えているのが天守台の石垣と多聞櫓(たもんやぐら)だ。天守はもう残っていない。

 1265年に、伊勢平氏の末裔で、関氏の祖である関実忠が築いた若山城(丹稜城)が、亀山城の始まりとされている。のちの亀山城のすぐ北西あたりの丘陵地にあったようだ。古い城を近世亀山城と区別するために亀山古城とも呼んでいる。
 1360年代には、5人の子供がそれぞれ神戸、国府、鹿伏兎、峯、関に分家し、亀山古城はその本家の居城として代々関氏が守っていくことになる。
 戦国時代になると争いは激しくなり、信長への降伏を拒んだ関盛信は幽閉され、城もたびたび戦火に巻き込まれることとなる。そういうこともあって、現在の城跡になっている場所に亀山城は移されることになった。
 秀吉の時代に、岡本宗憲が入城して(1580年)、大改築を行った。天守が造られたのはこのときが初めてのようだ。
 岡本氏は関ヶ原で西軍側だったために、合戦のあと領地は没収された。その後、美濃に移っていた関一政がもう一度戻ってくることになった。
 その関一政も1610年に伯耆国黒坂に転封となったあとは、徳川譜代大名の城主がめまぐるしく入れ替わり、落ち着くことがなかった。一時は天領になったりもしている。
 ただ、亀山城がないがしろにされたというわけではなく、徳川家の宿泊所とされ、家康や秀忠、家光などがたびたび宿泊に使っている。
 1632年、三宅康盛が藩主のとき、亀山城の解体を幕府に命じられた堀尾忠晴は、丹波の亀山城と伊勢の亀山城を間違えて、伊勢の亀山城の天守を解体してしまった。命を受けたのは丹波の方だと気づいたときには手遅れで、天守の再建を幕府は認めず、その後もとうとう天守が造られることはなかった。
 1636年に本多俊次が城主となると、城の大改修が行われ、三重櫓など9基の櫓と7棟の多聞櫓が造られた。その姿は蝶が舞うように優雅だということで、粉蝶城(こちょうじょう)と呼ばれたと伝わっている。
 1744年に備中松山から石川総慶が移ってきて、ようやく藩主家が定まり、石川氏11代で明治を迎えることになる。
 明治の廃城令によって亀山城もほとんどが壊され、天守台の石垣や多聞櫓などが残るだけとなった。

亀山1-2

 亀山城は新城、古城跡とあわせて亀山公園として整備され、桜の名所となっている。本数は多くないものの、やはり城跡には桜がよく似合う。平和な時代だからこそ、桜を愛でる心のゆとりも持つことができる。

亀山1-3

 亀山城天守台の石垣は、江戸時代の初期に、穴太衆(あのうしゅう)によって築かれたものだ。
 穴太衆というのは、もともと滋賀県大津の比叡山延暦寺や日吉大社の門前にいた石工集団で、朝鮮系の渡来人だったといわれている。
 高い技術力を持っていて、信長や秀吉などに重用されたことで名を上げ、末裔たちも各地で石垣作りなどに活躍した。戦国時代に組まれた古い石垣でも未だに崩れていないのが確かな技術力の証だ。
 穴太衆に限らず、地震の多い日本で、組んだ石が崩れてこないというのはすごいものだと感心する。

亀山1-4

 トントントントン、高い音が響いていて、桜の木を見上げると、コゲラさんが盛んに木をつついていた。
 桜とコゲラの組み合わせはなかなか幸運なので、喜んで撮りまくった。

亀山1-5

 天守台に登って遠くの山並みを眺める。見えたのは鈴鹿山脈だろうか。

亀山1-6

 児童公園に、SLのC58 359号が保存展示されていた。
 城跡に蒸気機関車は唐突な印象を受けるけど、どんな場所であれ、実物の蒸気機関車を目にすることができるのは良いことだ。

亀山1-7

 これもどういう経緯でここに置かれることになったのかよく分からないけど、小型のプロペラ飛行機が展示されている。
 セスナ170B(JA3015)というものらしい。

亀山1-8

 公園内に亀山神社がある。
 明治に城が解体されたあと、周囲のいくつかの神社を合祀するとともに、歴代藩主を祀る神社として創建されたもののようだ。
 一応、ご挨拶ということで寄っておいた。

亀山1-9

 大久保神官邸宅門。関実忠の時代(1265年)に、城の鎮守として勧請した南崎権現社の神官・大久保但馬守邸の門だそうだ。

亀山1-10

 公園の北側にも行ってみた。
 地図では池になっているところが干からびて水がない。工事でもしていたのか、荒れた感じになっていた。朱塗りの橋と桜はちょっとよかったのだけど。

亀山1-11

 亀山城跡の見所は多くない。ざっと見るだけなら15分くらいで終わってしまう。
 城をあとにして、旧東海道へとやって来た。ここは西町だ。ところどころにかつての面影が残っている。白塀と石畳の歩道がいい雰囲気だ。

亀山1-12

 このあたりも武家屋敷の跡なんじゃないかと思う。

亀山1-13

 路地なんかも撮る。
 宿場町の面影があまり残っていないと感じたのは、関宿のあとだったこともある。あちらで古い町並みをたっぷり見てきた。

亀山1-14

 マンホールのフタかと思ったら違った。東海道の案内らしい。亀屋の象徴である石垣と多聞櫓が描かれている。

 亀山後編につづく。

無難でなんとなくな感じのサンデー料理

料理(Cooking)
ノンテーマサンデー

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 今日のサンデー料理は、ほぼノープランのノンテーマ料理だった。方向性も、完成図もないまま、漠然と作ってできたのが写真の3品だった。
 週に一度にもかからず、たまにメニューを考えるのが面倒になる。今日はそんな日だった。子供の日や憲法記念日を料理として形にするのは難しい。鯉は食べたくないし。みどりの日にちなんで緑色の料理をするという手はあるにはあったけど、それもいいアイディアが思い浮かばなかった。
 というわけで、結局、普通の料理になってしまった。

 ナスは一年中出回っているからあまり季節を考えることはないのだけど、秋茄子は嫁に食わすなという言葉があるくらいだから、やはり旬は秋なのだろう。今回は季節感も無視するようなおかずだった。
 ナスをスライスして水にさらし、水気を拭く。
 ビニールに入れて、カタクリ粉をまぶしたら、オリーブオイルとごま油の混合で揚げ焼きにする。トマトも焼く。
 ソースは、酒、みりん、しょう油、酢、砂糖、塩、コショウ、白だし、めんつゆ、水溶きカタクリを煮立たせて作る。
 ナスは天ぷらが一番美味しいと思う。面倒なときは揚げ焼きにしてしまうけど、やっぱり天ぷらにはかなわない。手間を惜しまず天ぷらにした方がよかった。

 右は豆腐とエビの豆板醤煮込みみたいな料理だ。
 エビの下処理をして、よく洗い、水気を拭く。
 酒、みりん、しょう油、白だし、ショウガ、ごま油、砂糖、塩、コショウ、豆板醤、唐辛子、ケチャップ、白ごま、カタクリ粉で、たれの素を作る。そこにエビを入れて、絡める。
 たれに絡めたエビを、ごま油で炒める。ざっと強火で炒めたら、いったん取り出す。
 みじん切りにしたタマネギとニンジンを炒め、たれを加えて、煮込んでいく。
 タマネギ、ニンジンが柔らかくなったら、絹ごし豆腐と、エビを入れて、しばらく煮たら完成だ。千切りしたレタスの上に乗せて、一緒に食べる。

 奥は写真では分かりづらくなってしまった。
 ジャガイモをサイコロ切りにして、しばらく水にさらしたあと、タッパーに入れてレンジで3分加熱する。
 ベーコン、鶏肉をオリーブオイルで炒め、さっと煮たほうれん草、ツナ缶、ジャガイモを加える。
 後半でアスパラと、とろけるチーズを加え、コンソメの素、塩、黒コショウ、砂糖、マヨネーズ、カレー粉で味を調えながら炒める。
 ツナ缶の代わりにコンビーフを入れるパターンもありだ。

 なんとなく作ったわりには成功だった。味も、バランスも、悪くなかった。でもやっぱり、なんとなくな感じは残った。テーマ不足で、作り手としての満足度は低かった。
 次回はもう少し何か新しい試みなどをしつつ、楽しく作りたい。変わったことをやると失敗する可能性は高くなるけど、失敗は失敗で面白いし、次につながる。無難に作っているだけでは上達もしない。サンデー料理は趣味の料理だということを忘れないようにしたい。

瀬戸川を北上しながら目に映った風景

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
瀬戸川北上-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 昨日の矢田川北上の続きで、今日は瀬戸川北上編をお送りします。
 瀬戸川は三郷の南あたりで矢田川に合流する支流で、尾張瀬戸駅近辺ではお馴染みの川ではあるのだけど、それ以外の部分をほとんど知らない。地図を見ると、品野の手前で途切れている。一方には馬ヶ城ダムというのがあるものの、水源自体は地図ではよく分からない。馬ヶ城という山間部のどこかに水源がありそうだ。
 それ以外にもいくつかの流れがあって、瀬戸川に注ぎ込んでいる。
 瀬戸駅前では、いつも川の工事をしている印象がある。万博の前にかなり大がかりな工事をしていたし、去年あたりもまたやっていた。何をそんなにいじることがあるのかと思うほどだ。水量はあまりないものの、川幅が狭いから、大雨になると洪水の恐れがあるからだろうか。
 春は菜の花風景になって、車で通るのが楽しみになっていた。車からは写真が撮れず、いつも撮りたいと思っていたので、いい機会になった。
 中央あたりで飛んでいるツバメを捉えたのだけど、見えるだろうか。ツバメの飛行はものすごく速いから、引きつけて撮るのは難しい。
 そんなわけで、とりあえずさかのぼれるだけさかのぼってみようということで、川沿いを北を目指すことにした。

瀬戸川北上-2

 瀬戸といえば瀬戸電で、瀬戸電といえばやっぱり昔ながらの赤い列車が風景によく馴染む。
 少しずつシルバーの車両が増えて、情緒がなくなりつつある。赤い車両も、近い将来、昔語りになりそうだ。

瀬戸川北上-3

 崩れつつある家屋が、唐突な場所に、取り残されたように建っている。前後左右に建物はなく、何故こんな形で残ってしまったのか不思議だ。
 瀬戸は歴史のある古い町だから、昔ながらの家屋がけっこう残っている。人が住んでいる家もあるし、廃屋もある。隣の尾張旭には、こういう家屋は少ない。尾張旭は新しいベッドタウンだから、瀬戸とはずいぶん性格が違っていて、それが町並みにも表れている。

瀬戸川北上-4

 いい感じに崩れてきている。これはけっこうきている。

瀬戸川北上-5

 信号待ちで川を見ていたら、砂地にコチドリがいた。千鳥足といっても、ジグザグ高速移動で、酔っぱらいとは足の運びの機敏さが違う。
 そういえば、コチドリも夏鳥だ。冬の間は北で過ごし、春になると日本に渡ってきて、こちらで子供を産んで育てる。
 河口や海辺にいる印象が強いけど、町中の川でもたまに見ることがある。
 エサは主に昆虫類らしい。河原では水辺の虫でも食べているのだろうか。

瀬戸川北上-6

 瀬戸川まんじゅうで知られる老舗の和菓子屋、川村屋。店の外観も雰囲気がある。

瀬戸川北上-7

 瀬戸銀座商店街は、相変わらずな感じだった。それでもここはまだ頑張って店を開けているところが多い。それを見るとちょっと安心する。

瀬戸川北上-8

 こんなところに氷店があったとは気づかなかった。
 氷屋というのは、今でもそれなりに需要があるようだ。店によってはいい氷を必要とするところもある。

瀬戸川北上-9

 前から気になっていた古い家屋が残る一角があって、ようやく撮る機会がやって来た。車をとめられないところだから、前を通るたびにここ撮りたいと思っていたのだった。
 錆の模様といい、パッチワーク的な感じといい、アートの域になりつつある。面白がるものではないのかもしれないけど、実に面白いと感じる。

瀬戸川北上-10

 こういう建物が残されているから、瀬戸の風景は変化があって魅力的だ。新しい住宅ばかりでは、風景としての面白みがない。古いものと新しいものが混在してこそ、町本来の姿となる。

瀬戸川北上-11

 瀬戸の路地も以前に何度か歩いて、写真を撮った。今回は川沿いがメインということで奥までは入っていかなかったけど、機会があればまた別の道も歩いてみたい。

瀬戸川北上-12

 仲良しのチビ猫2匹。じゃれつきながら、もつれるように歩いていた。きっと兄弟だろう。

瀬戸川北上-13

 帰り道に見つけたシーン。あ、カッコイイ、と思った。人も犬も。

瀬戸川北上-14

 再び矢田川沿い。
 日暮れ近く、小学生たちが集まって、川沿いに座って何かしていた。昔なら、お母さんが呼びに来るようなシチュエーションだ。

瀬戸川北上-15

 結局、馬ヶ城ダムまで行き着けず、引き返すことになった。手前で道を間違えてダムを見つけられなかった。
 それでも、矢田川から瀬戸川北上の自転車散策は、思った以上に楽しくて満足した。写真の収穫もあった。やはり川沿いは面白い。
 小さな川は他にもまだあるし、大物の庄内川もある。これはシリーズ化できそうだ。また近いうちにやることにしよう。
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