
PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8
春日井市南西部の味美(あじよし)に、二子山古墳(ふたごやまこふん)というのがある。今日はその話を少ししたいと思う。
春日井から名古屋市東北部にかけてのエリアに、たくさんの古墳が密集している。何故こんな内陸なのかと不思議に思うけど、かつての伊勢湾はこの近くが海岸線だったことを思えば理解できる。
その中でも、二子山古墳は最大の前方後円墳で、全長は94メートルある。
すぐそばには、白山神社古墳(84メートルの前方後円墳)と、御旅所古墳(31メートルの円墳)が隣接している。
作られたのは、6世紀初めと見られている。前方後円墳は、6世紀に入ると規模が縮小していったから、二子山古墳は末期の大きな前方後円墳ということになる。
東海地方最大の前方後円墳は、熱田にある断夫山古墳(だんぷさんこふん・151メートル)で、これも6世紀初めと考えられている。
東海地方にあるこれより以前の古墳はどれも規模が小さく、6世紀入って突如巨大な前方後円墳が作られるようになった。それには越前から出た継体天皇(けいたいてんのう)の存在が関わっているという説がある。前置きとして、継体天皇について書いておくことにしたい。
現在の皇室の系譜をさかのぼっていくと、第26代天皇の継体天皇に辿り着く。そこまでは血縁が確認できるものの、そこから先についてはよく分かっていないという。
この継体天皇というのは、福井(越前)出身という異色の天皇で、謎に満ちた存在である。
父親は、彦主人王(ひこうしおう)という皇族で、越前国坂井郡に振媛(ふるひめ)という美人さんがいると聞きつけ、それはぜひ妃にせねばと人を呼びにやって、近江国高島郡の三尾(みお・滋賀県高島市)に別荘を建てて、一緒に暮らすことになった。
そこで生まれたのがのちに継体天皇となる男大迹王(おほどのおう)だった。しかし、間もなくして父親の彦主人王は死んでしまう。見知らぬ国で赤ん坊を抱えて一人になってしまった振媛は、ここでは子供は育てられないということで、故郷の越前に帰っていった。まさか自分の小さな息子がのちに天皇になるとは思いもしなかったはずだ。そもそも普通ならその可能性さえない。父親も祖父も天皇ではなく、宮から遠く離れた越前で育つことになるのだから。
時は流れて507年。第25代天皇の武烈天皇崩御。子供がおらず、後継を決めないまま亡くなったため、跡継ぎ問題でモメることになる。
このとき、どういう経緯で誰が男大迹王(継体天皇)の名前を出してきたのか、詳しいいきさつは分からない。天皇の系譜でいうと、第15第の応神天皇5世の孫というのだけど、それも本当かどうか。5世の孫まで範囲を広げなくても、他にも天皇候補は何人もいたはずだ。
しかも、このとき男大迹王はすでに58歳で、40歳の息子もいる。今でこそ58歳といえばまだまだ元気だけど、この時代ではとっくに平均寿命を越えたおじいちゃんだ。何故そんな縁も薄く、年もいっている男大迹王に天皇になってくださいとお願いしなければならなかったのか。
ここで王権の交代劇があったのではないかという説もある。詳しく書くと長くなるので省略するけど、ヤマト王権とはまったく別の勢力が武力で天皇を乗っ取ったということはないと思う。基本的にはそれまでのヤマト王権のやり方を踏襲しているし、継体天皇以降は、ヤマト王権の権力がより強固になり、中央集権国家へと移っていくことになるから。
一つには、男大迹王が持つ強力なネットワークが後ろ盾になったということがありそうだ。8人の妃がいた中で、尾張で強い力を持っていた尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘、目子媛(めのこひめ)をめとっている。この二人の間にできた子供が、のちに第27代安閑天皇、第28代宣化天皇にもなっている。
他にも近江の三尾、息長、和珥、美濃の根王など、有力な地方豪族の娘たちを妃に持ち、大和から東国にかけての広い支持を取り付けていた。それらの勢力に担ぎ出される恰好で即位することになったのだろうと考えられている。
ただ、即位が決まってからもすんなりはいかなかった。継体天皇として河内国交野郡の樟葉宮(くずはのみや・大阪府枚方市)で即位するも、その後、宮を転々と移し、本拠である大和に入ることができたのは、即位してから20年後のことだった。
この間の事情についても詳しいことは書かれていない。大和の中心に抵抗勢力があったのか、何か他に理由があったのか。
時期としての6世紀初頭というのは、ヤマト王権の支配力が弱まっている時期で、朝鮮半島情勢も含めてゴタゴタしていた。その頃起きたのが、磐井の乱(いわいのらん)だ。
九州に強い勢力を持っていた磐井(九州王朝だったという説もある)と、ヤマト王権の朝鮮半島の利権を巡る争いで、結果的にはヤマト王権が勝利した戦いだ。
こののち、ヤマト王権は力を取り戻し、時代は物部氏と蘇我氏の争いを経て、推古天皇や聖徳太子が登場する飛鳥時代へと移っていくことになる。大化の改新から壬申の乱、天智天皇、天武天皇ときて、『日本書紀』が編さんされ、新たな天皇家が作られていくことになるのだけど、それはまた別の話だ。
前置きが長くなった。というか、前置きが本編になってしまった感もある。そろそろ二子山古墳に話を戻そう。
熱田の断夫山古墳は、尾張連草香の墓という説が有力だ。6世紀になって突然巨大な前方後円墳が作られたのは、尾張氏の首長が天皇の義理の父親になったからといえば納得がいく。
継体天皇の墓とされる大阪府高槻市の今城塚古墳(いましろつかこふん・190メートル)と、断夫山古墳、それから二子山古墳は、その形状や出土物に共通点が多いことが指摘されている。そのことから、二子山古墳は、尾張連草香の娘で、継体天皇の后である目子媛ではないかと考えている人もいるようだ。あるいは、尾張氏と同盟関係にある別の豪族(物部氏あたり)が春日井にいたのかもしれない。
春日井にはかつて90基ほどの古墳があったそうだ(現存は34基)。古墳は3世紀後半から7世紀末にかけて作られていたのだけど、春日井では5世紀から6世紀にかけてに集中している。それ以前には強力な勢力がおらず、6世紀以降は中央のヤマト王権に取り込まれていったのだろうか。

二子山古墳があるエリアは、二子山公園として整備されて、国の史跡に指定されている。
公園内には、「ハニワの館」というのがあって、ハニワや資料などの展示を行っている。
ちびっこたちは、ここが昔の豪族の墓ということを、たぶん分かっていない。
10月だか11月だかに、ハニワまつりというのが行われる。土をこねて作ったハニワを素焼きするらしい。その話を聞いたら、なんだかハニワが欲しくなってきた。もし万が一、埋まっているハニワを見つけたら自分のものにしていいのだろうか。それとも、国に届けるのか?
昔の人はどういう気持ちでハニワを作っていたのだろう。祭祀用だけではないような気もする。現代人がフィギュアを集めて喜ぶように、昔の人もいろんなハニワを集めて楽しんでいたのかもしれない。お、いいハニワ持ってるね、とか見せ合ったり自慢し合ったりして。

名古屋ではもう桜は昔話になってしまったけど、まだ出していない桜の写真をたくさん持っている。もう居直って順番に出していくことにする。時季はずれもここまで来ると思い出写真だ。
今年は東北地方や北海道の桜が遅れたそうだから、まだ北海道では咲いていないところもあるだろうか。

今こうして桜の写真を見ていると、もっとたくさん桜を見にいっておけばよかったと思う。
やっぱり桜はいいものだ。桜を愛でる人たちの姿も。

少数ながら出店も出ていた。平日の夕方では訪れる人はまばらだった。

二子山古墳の北にある白山神社古墳の上に、白山神社が建てられている。
白山神社古墳が誰の墓かはよく分からない。どうも物部氏との関係が深そうだ。
かつて味鋺村(名古屋市北区楠町)にあった白山神社を、1659年にこの地に移し、そのとき二子山古墳の墳丘にあった物部神社(式内社)と合祀して建てられた。
白山神社古墳は、5世紀末から6世紀はじめに作られたということだから、二子山古墳より先ということになる。
物部氏と尾張氏との関係はどうだったのか。尾張氏は尾張の豪族なのに対して、物部氏は出自が古く、中央から地方にかけて広く散らばっている。蘇我氏との争いに敗れるまでは、各地で力を持っていたのだろうと思われる。
継体天皇が磐井の乱を平定するように命じたのが物部氏だった。ということは、どちらも継体天王側ということになり、尾張においても尾張氏と物部氏は対立していたわけではなさそうだ。

ここにも蕃塀(ばんべい)があった。
尾張地方特有のもので、神社の入口正面にある衝立みたいなものだ。
さかのぼれば伊勢神宮にその起源を見ることができるものなのに、どういうわけか尾張だけで流行って、他の地方では採用されなかった。理由はよく分からない。

祭神として、伊邪那岐命(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)の他、物部氏の祖とされる可美真手命(うましまでのみこと)などが祀られている。
賽銭箱には三つ葉葵のマークがある。何の関係があるのだろう。

社殿がいつの時代のものなのか、はっきりしたことは調べがつかなかった。古いといえば古いけど、そんなに昔のものでもない。

お札授与所が最近建て替えられたようで、ピカピカに新しかった。

絵馬の数だけで神社の人気度をはかってはいけないのかもしれないけど、数は決して多くなかった。
合格祈願ののぼりがある。これは誰にお願いしてるのだろう。イザナギやイザナミは関係ないし、物部氏の祖先は戦の神だ。他の祭神でも、山の神の菊理比売命も違うし、可能性としては、藤原氏の氏神で、祝詞や出世の神とされる天児屋根命だろうか。あとから合祀された春日神社の春日の神も受験とは縁がなさそうだ。
二子山古墳へ行ったのは、黒川や洗堰に桜を見にいった帰りだった。紹介が遅くなったのは、下調べに時間がかかったからだった。というか、書くと長くなるのは分かっていたから、後回しにしたかったというのが本音だ。
来週からは福井・東尋坊シリーズを始めることになるから、その前に越前出身の継体天皇について少し勉強しておきたかったというのもある。福井のどこかでまた継体天皇とつながることがあるかもしれない。
尾張地方の古墳事情に関してもまだまだ理解していないところが多々あって気になるところではあるけど、今日のところはここまでとしたい。