月別:2010年02月

記事一覧
  • セピア調の矢田川風景

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 今日は昨日の続き。残った写真を出し切ってしまうことにする。矢田川沿いを歩きながら撮った写真だ。 私の目に映る光景が他の誰かにとって意味があるのかどうかは分からないけど、私が共感した風景を他の人も共感を共有してくれたら嬉しい。写真は誰かと共有することで完結するものだと思うから。 団地を西日が照らす。夕焼けの団地はなんとなくノルタルジックな感じがする。 河原の土...

    2010/02/28

    日常写真(Everyday life)

  • それぞれが生きるそれぞれの季節

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 歳月不待人。 歳月人を待たず。そう歌った陶淵明は、29歳で仕官してから、いくつかの職につき、41歳で田舎に戻り、以降隠遁生活を送った。427年、63歳で死去。歳月と上手くつき合えたと感じていただろうか。 人は過ぎ去った季節を懐かしむ。あの頃に戻りたいと願いもする。時は優しくも残酷だ。時を止めることもできないし、時を追い越すこともできない。私たちは一所懸命走っているつも...

    2010/02/27

    人物(Person)

  • 400年も経てば往時の面影が消えるのも必然

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 高台にある大覚寺というお寺の境内から金谷の町を見下ろす。低い屋根の家が遠くまでびっしり詰まっている。もっと閑散とした町並みを想像していた。地図を見ていたときは、このあたりまで来れば遠くの方に大きく曲がる線路や走るSLの姿が見えるものと思っていた。右手に流れている大代川を越えるあたりまで行かないと列車は撮れないようだ。 金谷は室町の頃から宿場町として発展してきたところだ。 ...

    2010/02/26

    観光地(Tourist spot)

  • SL撮り不完全燃焼の大井川鐵道1時間紀行

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 慌ただしくも短い滞在で終わった焼津をあとにして、大井川鐵道と連絡している金谷駅(かなやえき)で降りた。見えている線路は東海道本線で、その隣にくっつくようにして大井川鐵道の金谷駅がある。ここが大井川本線の始発駅ということになる。 あとから考えると、金谷での計画もだいぶ無理があった。11時33分に到着して、大井川鐵道の目玉であるSLが発車するのが11時48分。正味15分の間に、撮影ポイ...

    2010/02/25

    鉄道(Railroad)

  • 焼津45分滞在記

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 ここのところご近所散歩写真が続いたから、そろそろ静岡シリーズに戻りたい。 中田島砂丘へ行くと決まったとき、一ヶ所では面白くないということで、あわせて行ける場所を探した。すぐに大井川鐵道のSLを撮りたいというのは決まったものの、ダイヤの関係でどうにもスケジュールが組みづらい。砂丘とSLの二本立てという構想は崩れ、大井川鐵道の割合を減らしてもう一ヶ所組み込むことにした。それが焼...

    2010/02/24

    観光地(Tourist spot)

  • 雨池とは相性がいいらしい

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 雨池は被写体としてなかなか魅力的なところなのだけど、池の周りの散歩コースを歩いている人が多くて、落ち着いて撮れないのが難点だ。自分の他に写真を撮っている人もおらず、散歩組と写真組では写真組が圧倒的不利となる。この人何を撮ってはるんだろうという目で見られてしまうため、人目が気になって集中できない。たとえ早朝に行ったとしても、きっと夜明け前から散歩している人がい...

    2010/02/23

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • カナダ料理を見つけられなかったサンデー

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 バンクーバーオリンピック開催記念として、今週はカナダ料理を作った。というか、作るつもりだった。しかし、調べてみるとカナダ料理というのはあるようでないということが判明して、軌道修正を余儀なくされることになった。何故カナダ料理はないかというと、それはカナダの歴史に関係がある。 教科書でカナダについてどれくらい出てきたのか、ほとんど覚えていない。有名なカナダ人を三人挙げ...

    2010/02/22

    料理(Cooking)

  • 小さいようで大きい中望遠域の15mm

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 ずっと欲しいと思っていたPENTAXの55-300mmを買って、それ一本をつけて近所に散歩に出かけた。 これまで望遠ズームはTAMRONの70-300mmを使ってきて、ほぼ不満のない性能で活躍してくれていたのだけど、やはりつけっぱなしでは広角側が入らないことがあって、もどかしい思いが少なからずあった。PENTAXの望遠ズームは、描写より何より広角側55mmという一点に存在価値を見いだすことができ...

    2010/02/21

    日常写真(Everyday life)

  • 15年間にありがとうと、さよならを

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 15年乗ったインテグラが満身創痍に陥り、手放すことになった。ここ数回の車検の時の修理代が高くなりすぎて、2年ごとの出費がきつくなりすぎた。とても愛着があり、名残惜しくもあったのだけど、少し車から離れたい気持ちもあって、思い切って一区切りつけることにした。 すっきりした部分もあるものの、やはり寂しい気持ちが強い。車がないということはこんなにも不便なものかとあらためて思い...

    2010/02/20

    車(Car)

  • 雨上がりの河原にて <後編>

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 今日は昨日の続きで、雨上がりの河原編をお送りします。 雨上がりの雰囲気が伝わるだろうか。 学校帰りのボーイ。中学生だろうか。 河原には変な形のベンチやらオブジェやらが点在している。これは用途が分かりやすい方だ。  子供の頃は、水たまりを見ると意味もなくジャブジャブ入りたくなった。大人の今は、水たまりを見つけると撮りたくなる。  雲は多く残ったものの、夕焼け空になっ...

    2010/02/19

    日常写真(Everyday life)

  • センチメンタルでもありノスタルジーでもあり <雨上がり・前編>

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 雨上がりの近所を歩く。歩くことで見えることもあり、撮れる写真もある。見知らぬ街で撮るのも楽しいけど、近所もなかなか捨てたもんじゃない。特に雨上がりなんてのはチャンス到来だ。何でもない風景にちょっとした味付けをしてくれる。 この日は降り続いた小雨が夕方にやんで、日没前には日差しが戻った。そのときに撮った写真を前後編の2回に分けてお届けしたい。 猫が顔を洗うと次の日は雨...

    2010/02/18

    日常写真(Everyday life)

  • ご近所香流川散歩写真で一息

    PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 静岡シリーズはいったん中断して、今日はご近所散歩写真で一息入れたい。香流川沿いを歩きながら撮った写真をお届けします。 正面に見えている電波塔みたいなのは何だろう。あのあたりにそんな施設はあっただろうか。 右手に見えているのは、猪高の配水塔だ。高さは48メートルある。 毎年、春分の日と8月8日の2回、一般公開している。どうして8月8日かというと、○に八の丸八が名古屋の市章...

    2010/02/17

    日常写真(Everyday life)

  • 神社レーダーが反応した五社神社

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 これだけたくさん神社を巡っていると、神社レーダー探知機のようなものが脳内に内蔵されて、よさそうな神社が近くにあるとピピピと反応するようになる。自分の興味がある店は目に入るけど、興味がない店は見てても見えないのと同じような仕組みだろう。あるいは、神社の方があいつは神社好きだから呼んでやろうと気を利かせてくれるのかもしれない。 浜松の五社神社もそうだった。浜松城に向かって歩...

    2010/02/16

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 和食に統一しきれなかったサンデー

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 最初に決まったのは、がんもどきだった。かんもどきを作って食べてみたいと思った。 次に浮かんだのが、何故か甘エビだった。ふいに甘エビのことを思い出したら食べたくなった。 2つはあっさり決まって、残る1品がなかなか決まらない。がんもどきは完全な和食だし、甘エビはカルパッチョ風にするつもりだったから、和食とは言い難い。途中で考えるのが面倒になって、なんとなくきんぴらごぼう...

    2010/02/15

    料理(Cooking)

  • 浜松城公園から東照宮へ向かって歩く

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 浜松城と日本庭園を見た後は、浜松城公園も少し歩いてみた。それなりに広い公園で、美術館などもある。 昭和25年に子供博覧会というのをこの場所で行うために整理したのが始まりで、その跡地に動物園が作られた。 昭和52年には、昭和天皇在位50年記念公園として再整備され、翌年市民プールができた。動物園は昭和58年に舘山寺に移って、今はこの場所にはない。あちらで浜松市フラワーパークと合体し...

    2010/02/14

    観光地(Tourist spot)

  • 浜松城に登って自分も出世したいと願うべきか

     やや小高い丘の上に建つ浜松城の天守。このあたりは高い建物があまりないため、少し離れたところからもその姿を見ることができる。 浜松駅からゆっくり歩いて30分ほどだろうか。 旧東海道の大手町通を挟んで、北西に浜松城があり、南東に浜松駅がある。城下町と、宿場町と、鉄道の駅と、この関係性というか歴史的な流れはよく分からない。駅はもっと南西の城の真南に作った方が街の区画としてはすっきりしたような気もするけど...

    2010/02/13

    城(Castle)

  • 浜松は想像以上に都会だった

     浜松といえば浜名湖。その他はというと、うなぎパイ? 浜名湖パルパル? くらいの知識とイメージしかなく、実際に行ってみたら想像以上に都会で驚いた。申し訳ない、浜松と謝りたいくらいだった。 掛川は花鳥園によく行っていたのだけど、浜松は昔、浜名湖に行ったことがあるくらいで、実質、このときが初めてのようなものだった。 浜松市が政令指定都市だというのも帰ってきて初めて知ったことだった。人口80万人を超えてい...

    2010/02/12

    観光地(Tourist spot)

  • 中田島砂丘はいいところだったと思う <第2回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 旅先ではあまりものを食べずにひたすら歩き続ける私だけど、このときは珍しく買い食いをした。バス停を降りて、帰りのバスの時間を確認しようと道を渡った先に、たい焼き100円とあって、久しぶりに食べたくなったのだった。たい焼きなんて、ここ10年くらい食べてない。 中田島砂丘の手前にあった小公園のベンチに座って食べることにした。あ、写真を撮るのを忘れたと思い、...

    2010/02/11

    観光地(Tourist spot)

  • 日本三大砂丘の一つが浜松にあるとは知らなかった <第1回>

     日本三大砂丘の一つが静岡県の浜松市にあるということを知ったのは、つい先日のことだった。隣の愛知県に長く暮らしていながら、ただの一度もそんな話を耳にしたことはなかった。中田島砂丘(なかたじまさきゅう)というのだけど、みなさんはご存じだろうか。 三大砂丘のもう二つはといえば、一つは言わずと知れた鳥取砂丘で、もう一つは千葉県の九十九里浜なんだそうだ。九十九里浜が砂丘だったというのも知らなかった。鹿児島...

    2010/02/10

    観光地(Tourist spot)

  • 京都シリーズ最後は日没の御所と二条城 <京都歩き第9回>

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 京都シリーズも今回が最終回となった。残った写真を紹介して終わりにしようと思う。 時刻は日没間際。下鴨神社をあとにして、京都御所へ向かった。 上の写真は、途中にあったアーケードの商店街。時間があれば寄りたかったところだけど、先を急ぐ必要があった。 寺町通かその近くだっただろうか、あまりよく覚えていない。新京極通商店街というのがこれかどうか。違うかもしれない。 雰囲気...

    2010/02/09

    未分類

  • 食べたいもの優先でバランスの取れたサンデー

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 先週は病み上がりで体調が戻りきらずにサンデー料理は休みにした。今週は治ったので再開した。でも、体調はまだ100パーセントまで戻っていない。咳も残っているし、なんとなく口が気持ちが悪くてすっきりしない。 こんなときは、食べやすくて、しっかりした味付けの料理が食べたい。生ものとか、固いものとかはあまり食べる気がしない。 手持ちの食材と相談しつつ、今日食べたい料理を作った。...

    2010/02/08

    料理(Cooking)

  • 賀茂でも鴨でもどちらでもいいのかよくないのか <京都歩き第8回>

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 哲学の道を最後まで歩いて、銀閣寺には寄らず、下鴨神社に向かった。 今出川通は左右に京大の建物がたくさん集まっている。道行く学生がみんな賢そうに見えたのは気のせいだろう。あの道沿いを歩いている若者が全員京大生というわけでもあるまい。そういえば、うちの親戚の子も通っているけど、それほど賢そうには見えない。 吉田神道の本部である吉田神社はできれば行きたかったのだけど、行...

    2010/02/07

    未分類

  • 大豊神社に立ち寄りつつ哲学の道を歩く <京都歩き第7回>

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 平安神宮をあとにして、次に向かったのは銀閣寺方面の哲学の道だった。 丸太町通をとぼとぼ歩いていると道の反対側に立派な神社があった。表から見てもなかなか雰囲気のある神社で、由緒ありげだったのだけど、まだ先は長いということで、外から写真を撮っただけだった。ちょうどいいタイミングで親子が出てきてくれて、この写真を撮れただけで満足してしまったというのもある。 平安遷都をし...

    2010/02/06

    未分類

  • セリバオウレンで野草プレシーズンマッチ開幕

    PENTAX K10D+TAMRON 90mm f2.8 セリバオウレンを撮るのも今年で4回目になる。 撮るのがとても難しい花で、毎年敗北感を引きづったまま現地を後にすることになるのだけど、今年は少しだけ撮れたような気がした。毎年、ちょっとずつでも成長しなければ情けないし、セリバオウレンにも申し訳ない。 場所は例によって、岩屋堂の浄源寺裏だ。ここ以外では見たことがなくて、でもここに行けば必ず見られる。 まだピークは先だろう。...

    2010/02/05

    花/植物(Flower/plant)

  • 瀬戸で雪に降られる節分の日

    PENTAX K10D+TAMRON 90mm f2.8 家を出てほどなくして、晴れから少し曇り始め、途中で雨がポツリポツリと降ってきた。セリバオウレンは雨中での撮影になるのかと思いきや、瀬戸に入ったとたん、雨は雪に変わった。次第に激しさを増し、瀬戸駅近辺で最高潮の猛烈な降りになった。雪中ドライブもめったにしないけど、雪降る中の撮影はもっとしない。不安を感じつつ、ここまで来たからにはとりあえず現地に行って様子を見てみるしかな...

    2010/02/05

    雨/雪/天候(Weather)

  • 祇園から平安神宮までまだまだ歩く <京都歩き第6回>

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 祇園へ行って、祇園を見たい、と思っていた。けど、具体的にどこへ行けば祇園らしい光景が見られるのかは、よく分からなかった。八坂神社の西前に、祇園交差点があって、西の鴨川沿いに祇園四条駅がある。そのあたりだろうということだけは見当をつけて、あとは現地に行って歩いて探すしかないと考えていた。 実際に歩いてみて、四条通を挟んで南側は花見小路沿い、北側は白川沿いが祇園らしさ...

    2010/02/04

    京都(Kyoto)

  • 京都の観光地は期待を裏切らない <京都歩き 第5回>

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 今日は昨日の続きで、清水寺をあとにしてからの話だ。 昨日も書いたように、しばらく自分の位置を見失ってさまようことになる。清水寺周辺は、碁盤の目状になっていないから、少し道が分かりづらい。ここまで来たからには産寧坂と二寧坂も見ておきたくて、少し探すことになった。 ウロウロしている間に、八坂まで出てしまった。上の写真は法観寺の五重塔で、もっぱら八坂の塔と呼ばれている。...

    2010/02/02

    京都(Kyoto)

  • 清水寺あたりを歩き回っていたとき <京都歩き 第4回>

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 いきなり雪の写真だけど、これも京都行きのときに撮ったものだ。ご存じの方も多いと思うけど、とにかく関ヶ原というのはやたら雪が降るところなのだ。名古屋も京都もよく晴れていたのに、関ヶ原が近づくとにわかに雪国になっていき、米原を過ぎるとまた雪など影も形もなくなってしまった。地形の関係なのだろうけど、冬場にあのあたりを通ると不思議な感覚になる。 高山で雪を見てなければ感動...

    2010/02/02

    京都(Kyoto)

  • 京都らしさとらしくなさ <京都歩き第3回>

    PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8 私たちは多かれ少なかれ、京都に対して幻想を抱いている。勝手にイメージを抱いているのみならず、それを京都に押しつけようとするところがある。京都らしいものを見て喜び、京都らしくない部分を見て不満を口にする。それは異国の人が日本に対して間違ったイメージを持っているのと違いがない。京都にしてみたら迷惑な話だろう。 今回、京都の街を歩きながら感じたのは、私たちが思い描く京都...

    2010/02/01

    京都(Kyoto)

セピア調の矢田川風景

日常写真(Everyday life)
矢田川風景2-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 今日は昨日の続き。残った写真を出し切ってしまうことにする。矢田川沿いを歩きながら撮った写真だ。
 私の目に映る光景が他の誰かにとって意味があるのかどうかは分からないけど、私が共感した風景を他の人も共感を共有してくれたら嬉しい。写真は誰かと共有することで完結するものだと思うから。

矢田川風景2-2

 団地を西日が照らす。夕焼けの団地はなんとなくノルタルジックな感じがする。

矢田川風景2-3

 河原の土手はまだ冬枯れ風景。緑に変わるのはまだしばらく先だ。春の花が一通り咲き終わる頃にならないと緑の世界は戻ってこない。

矢田川風景2-4

 土手道を行く自転車通学の女子高生。自分が絵になる存在だという自覚はたぶんないだろう。

矢田川風景2-5

 昔に比べて矢田川はずいぶんきれいになった。前は洗剤の泡が浮いていたり、土手もゴミがたくさん落ちていて汚かった。
 きれいになったら魚も戻り、サギも増え、人も帰ってきた。
 土手は緑地として整備され、川沿いの風景はずいぶん変わった。高い建物が増えたし、名駅の高層ビルもここ10年のことだ。

矢田川風景2-6

 流れの中で足を踏ん張って羽を広げるコサギ。
 サギは本当に増えた。たくさんのサギを養えるくらい魚も多くなっているということだ。

矢田川風景2-7

 たぶんスズメだったと思うけど、シルエットになってよく確認できなかった。

矢田川風景2-8

 ホオジロが低い草の上でさえずっていた。これだけ低いところに降りてくるとなると、ホオジロもそろそろ春が近いことを感じているようだ。
 もうしばらくするとカモたちも北へ渡り始める。代わって夏鳥立ちがやって来る。

矢田川風景2-9

 小さいのがホオジロで、大きいのはヒヨドリだったと思う。
 シルエットが切り絵みたいだった。

矢田川風景2-10

 雲の間に見え隠れする太陽が、銅のメダルのよう。これくらいの鈍い光だと太陽も直視できる。

矢田川風景2-11

 河原の夕焼け風景。

矢田川風景2-12

 川沿いは工場も似合う。
 工場風景に惹かれるのは、縦横斜めのラインや曲線、曲面などが組み合わさった模様が面白くもあり、美しくもあるからだ。偶然出来上がった風景は、必然でもある。自然の美がそうであるように。

矢田川風景2-13

 工場と住宅と電線と電柱。沈みゆく鈍い夕陽。
 前時代の名残の風景は、まだ当分変わりそうにない。すでに懐かしさを感じるものとなりつつあるけれど。

 川沿いは人の営みと自然の営みとが共存している。そして、そこに集う人たちの人生の断片がある。それらはどれも撮るに値する。

それぞれが生きるそれぞれの季節

人物(Person)
矢田川風景-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 歳月不待人。
 歳月人を待たず。そう歌った陶淵明は、29歳で仕官してから、いくつかの職につき、41歳で田舎に戻り、以降隠遁生活を送った。427年、63歳で死去。歳月と上手くつき合えたと感じていただろうか。
 人は過ぎ去った季節を懐かしむ。あの頃に戻りたいと願いもする。時は優しくも残酷だ。時を止めることもできないし、時を追い越すこともできない。私たちは一所懸命走っているつもりで時に流される。気がついたときには、多くの季節が過ぎ去ってしまっている。
 春夏秋冬を生きた人はすべての季節を知っているけど、春の中に生きている人は春しか知らない。ずっとあとになって知ることになる、春という季節がどれほど素晴らしいものだったかということを。
 それでも人生は続いてゆく。生まれて、生きて、死んで、また生まれる。それが繰り返される。いつか終わってしまうなんて思いもせず、当たり前のように日々を生きている。
 喜びも、悲しみも、涙も、笑いも、今日という日に置き忘れたまま、明日へ向かう。忘れ物を取りに戻ることはできない。
 振り返ればそこには自分の残像が見える。今はもういないけど、確かにあのときあそこに自分はいた。目を閉じれば、心のシャッターを切ったシーンが思い浮かぶ。
 今、カメラをもって街へ出て、人を撮る。それは自分の心象風景であり、写っている人々は自分自身を投影させた姿でもある。
 自分で自分の姿は撮れないし、自分の人生以外の人生を送ることもできない。だから、彼らの姿に思いを託しているのだろう。
 幸せそうな家族の風景もいいけど、どちらかというと悲しみを感じさせるような姿の方が好きだ。少し寂しげな方が共感できる。その背中を見て、頑張ってと応援したくもなるし、生きていることを愛おしくも思える。
 道行く人それぞれに生きてきた歳月がある。ほんの短い一瞬でも、自分が共感を抱いた対象に向けてシャッターを切っている。
 生きるってこういうことだよねと思える写真が撮れればいいと思う。日々の暮らしの中に人生はある。特別ではない光景の中にそれを見いだしたい。

矢田川風景-2

 やるべきことをやって、死なずに生き延びた人間には、人生の晩年に孫というご褒美が待っている。
 幸福とは何かと頭で考えなくても、幸せはすぐそこにある。
 なんとしてでも死なないことが大事なのだ。

矢田川風景-3

 子供というのは無駄な動きが多い。意味もなく走ったり転げ回ったりする。大人になると理由なしに走ったりしなくなる。道を歩いているビジネスマンが突然太陽に向かって跳ね始めたら、おかしな人と思われる。子供ならそれが許されるし、不自然でもない。
 小さな彼女は、夕陽に向かって飛んだり、回転したり、手を打ち鳴らしたりしていた。ダンスとも思えなかったし、何をしたかったのかは分からない。前世は太陽信仰の祈祷師か何かだったのかもしれない。

矢田川風景-4

 昔と比べたら、大人も子供もいろいろな面で変わってしまったし、失われてしまったものも多い。でも、変わらない部分は確かにあって、子供はやっぱり子供らしくもある。しゃがんで手に持っているのがマンガではなく携帯ゲーム機だったとしても、その姿は小学生そのものだ。私たちの頃と何も変わっていないように見える。

矢田川風景-5

 子供たちは走る。走らされているのもあるだろうけど、それでも走る。
 体育の授業でも、テニス部でも、長距離ランニングは嫌いだったけど、もし子供時代に帰ることができたとしたら、思い切り全力疾走したい。マラソンでもなんでも走りたいと、今は思う。
 歳を取ると走れなくなるというのがどういう感覚なのかは歳を取ってみるまで分からなかった。少年時代のように気持ちよく走りたい。

矢田川風景-6

 体育系の少女も走る。
 一つの競技に前半生のすべてを費やすという生き方がある。オリンピックで脚光を浴びる選手たちを見て、単純にうらやましいなどとは思えない。毎日の練習や、犠牲にした様々なこと。得られるものが多くても失ったものは小さくない。結果として報われるのはごく一部に限られることを思うと尚更だ。
 ヴェルレーヌの選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にありという言葉が浮かぶ。才能というのは望んで得られるものではないし、選ばれてしまったらそれに殉じることを強いられる。天才が幸せかどうかは難しい問題だ。

矢田川風景-7

 大きな箱の中にたくさんの小箱が入っていて、その一つ一つに家族が暮らし、一人ひとりに人生がある。
 来る日も来る日も郵便を運び続ける郵便配達人は、離れた人同士をつなぐ連絡係だ。それぞれの人生の一部を運んでいる。
 中には一生の大事を左右するラブレターがあるかもしれない。それを間違えて配達したことで二人は永遠にすれ違ってしまうなんてことも可能性としてはある。
 イタリアでは第二次大戦中に出した手紙が今頃届くなどということもあるそうで、困ったものではあるけど、それはそれでちょっとドラマチックでもある。

矢田川風景-8

 夕陽のガードマン。
 ガードマン一筋40年という人は少ないだろう。過去にはいろいろあってとりあえず今はここに落ち着きましたという感じが漂う。
 一日の終わりに夕陽を見て、思うところもあるだろう。

矢田川風景-9

 川でフライフィッシングをしていた。まさかここでフライでは釣れないだろうと驚いたけど、様子を見ていたら投げる練習をしていたようで、なるほどと納得した。
 河原にはいろんな人が集まってくる。橋にもたれてオカリナを吹いていたおばさまを見たこともある。

矢田川風景-10

 夕焼けの河原で石投げをするカップル。絵に描いたような光景で、こんなシーンに当たることはめったにない。
 二人で長い年月を生きることのよさは、あとになって思い出話ができることだ。昔あの川で石投げしたの覚えてる、といった会話ができるのは、ずっと一緒に生きてこそだ。
 二人で過ごす何気ない日々を輝かせて意味のあるものにしてくれるのは、歳月だけだ。

矢田川風景-11

 若い頃は長生きなんてしたくない、そんなことは無意味でくだらないことだと思いがちだけど、長生きしてみるとこれがなかなかいいもので、ここまできたらもっと長く生きたいと欲が出る。でも病気では意味がない。健康であることが必要条件となる。
 そんな思いから、ある程度年がいくと人は歩こうとしたがる。歩くことは健康にいいと頑なに信じて。
 実際、歩くことはいいようで、歩けるということそのものが健康のバロメーターでもある。あるお年寄りが言っていた。エリート年寄りの条件は自力歩行ができることだ、と。歩けなくなってしまうと人生はかなり退屈なものになりそうだから、ある程度足腰を鍛えておくのは必要だ。

矢田川風景-12

 冬の河原で黄昏れる。
 もっと若い頃の私なら、この光景を見て寂しい老人と思っただろう。今は違う。長く生き延びた人間こそが勝者だと思っている。特にこの世代は戦争があって、その後の激動の時代を生き抜いてきたのだ。私たちの世代が老人になるよりもずっと価値がある。

矢田川風景-13

 これまで二人で歩いてきた道を、これからも二人で行きましょう。言葉にしなくても、そんな思いはお互いに通じているはずだ。
 シーンは先頭に戻って、また繰り返される。二つの季節が交差して、行く人があり、来る人がある。
 人は経験し得るすべての人生を生きられるわけではないから、人の人生と共感して、それを自らの人生に取り込む。他人の人生の中にも学びがあり、感じることがある。みんなで人生のエッセンスを共有しているという言い方もできる。
 小説や映画や音楽などと共に、写真もその一端を担っている。写真でしか表現できないこともあるはずだし、写真だから伝わることもある。
 自分の中に撮りたい写真のイメージがぼんやりとあって、今回はその一つの答えになったと思う。もっとイメージを育てて強いものにしていきたい。

400年も経てば往時の面影が消えるのも必然

観光地(Tourist spot)
金谷-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 高台にある大覚寺というお寺の境内から金谷の町を見下ろす。低い屋根の家が遠くまでびっしり詰まっている。もっと閑散とした町並みを想像していた。地図を見ていたときは、このあたりまで来れば遠くの方に大きく曲がる線路や走るSLの姿が見えるものと思っていた。右手に流れている大代川を越えるあたりまで行かないと列車は撮れないようだ。
 金谷は室町の頃から宿場町として発展してきたところだ。
 本格的な宿場町となったのは、江戸時代に東海道が整備されてからで、江戸から24番目、遠江の東端の宿場だった。
 西に難所の中山峠があり、すぐ東には大井川が流れている。箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川とうたわれたあの川だ。
 大井川には橋が架けられていなかったため、川越役の人足が人力で旅人を渡していた。雨が降って川が増水すると、たちまち渡れなくなってしまう。旅人はしばしばここで足止めをされ、金谷宿は流行ることになる。川向こうの島田宿もそうだ。雨が多い時期は大変な賑わいだったという。
 島田宿側に、大井川川越遺跡というのが残っている。

金谷-2

 現在の473号線が旧東海道で、線路のガード下をくぐって進むと石畳の道がある。一部のみ残っていたものを、平成3年に地元の人たちが石を置いて430メートル復元した。今回は時間がなくてそちらまでは行けなかった。
 それにしても、このあたりはやたら坂道が多い。牧ノ原台地のキワに当たるのだろうか。キワ好きのタモさんがいればすぐに教えてくれるのだけど。

金谷-3

 宿場町の面影はもうほとんど残っていない。
 書店の前に本陣跡と書かれたものがあるくらいのもので、古い建物などもない。
 書店は本陣佐塚屋の15代目に当たるそうだ。 
 最盛期には本陣が3軒、脇本陣1軒に旅籠が51軒もあったという。この場所でその規模は、かなり立派だ。

金谷-4

 建物が新しくなっても、看板は古い。こうじ屋というもごくたまに見かけるけど、今どきはなかなかない。
 麹(こうじ)は、米とか大豆、糠なんかに、コウジカビをつけて作るもので、日本酒や味噌を作るときに使う。個人の専門店でもけっこう需要はあるのだろうか。
 糀という字が当てられることもある。

金谷-5

 行ったのは1月20日のことだけど、店先のプランターに福寿草が咲いていた。名古屋では今頃ちょうど咲く時期だから、やはり静岡は暖かいようだ。

金谷-6

 表通りから中に入って狭い路地を行く。車が行き交う道よりも、こういう裏通りの方が楽しい。写真に撮りたい風景にも出会える。

金谷-7

 廃屋はやっぱり撮ってしまう。心惹かれるものがある。

金谷-8

 スリムハウス。狭い土地に建てたからこんなふうになったのだろうけど、道沿いに玄関を作ると奥行きが狭くなりすぎるから、横に入口を作って、奥行きを2部屋分確保したのだろう。
 でもなんとなく不思議な感じだ。オレンジと白のコントラスがよく目立つ。

金谷-9

 角に建つ家と、くねった細い道が、魅力的な風景を作り出している。味わいがある。

金谷-10

 金谷での滞在時間は1時間ということで、無理せずほどほどのところで引き返した。
 さわりだけでもSLと列車と金谷宿を撮って、とりあえず満足することにした。

金谷-11

 自転車・カブ預り所。
 あえてカブ限定なのか? と思ったら、スクーターが見えていた。この町ではスクーターよりもカブの方がメイン車種なのだろうか。カブはホンダのバイク名で一般名詞ではないのだけど。

金谷-12

 駅前にあった巌室神社。
 初めて訪れる土地の神様に挨拶するのが礼儀ではあるのだけど、時間がなくてここも寄れなかった。
 このあとのことはもう書いた。浜松へ移動して、浜松城へ行き、中田島砂丘で締めくくった。これで静岡シリーズはおしまいとなる。
 明日からはまたご近所ネタでつなぐことになりそうだ。3月になったら、電車の旅に出よう。

SL撮り不完全燃焼の大井川鐵道1時間紀行

鉄道(Railroad)
大井川鐵道-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 慌ただしくも短い滞在で終わった焼津をあとにして、大井川鐵道と連絡している金谷駅(かなやえき)で降りた。見えている線路は東海道本線で、その隣にくっつくようにして大井川鐵道の金谷駅がある。ここが大井川本線の始発駅ということになる。
 あとから考えると、金谷での計画もだいぶ無理があった。11時33分に到着して、大井川鐵道の目玉であるSLが発車するのが11時48分。正味15分の間に、撮影ポイントに移動して、一発でSLをカッコ良く撮ろうなんて、とんでもなく無理な話だった。地図では分からない現地の事情というものがあって、地図の上で立てた計画は机上の空論として、現場でもろくも崩れるのだった。まさか、あれほど視界が開けてないない場所だとは思わなかった。
 金谷での持ち時間はちょうど1時間。焼津とほとんど変わらない余裕のなさだった。
 最初の計画では、SLにも乗って、途中下車して、帰りのSLを撮るというのを考えていた。しかし、これは他の場所との両立に無理不可ということが判明した。この日のメインはあくまでも中田島砂丘で、SLにこだわると中田島砂丘へ行く時間がなくなってしまう。
 大井川鐵道のSLは平日でも毎日一往復しているのだけど、片道1時間ちょっとかかり、停車駅も少ない。時間も中途半端だから、丸一日費やさないと乗ることと撮ることの両方は難しい。
 たとえば、11時48分発のSLに乗って、12時29分に家山で降りたとする。すると、SLが戻ってくるのは15時48分ということになり、その間3時間もある。他に止まる駅としても、下泉、徳山駿河、終点の千頭しかなく、終点まで行ったとしても2時間近く待たなくてはならない。待つ間に普通電車に乗り換えて路線沿いの観光をするという手はあるけど、そうなるともう他のところへは行けなくない。
 というわけで、乗るのはあきらめて、ちょっとでも撮るという方向に方針を切り替えるしかなかった。それにしても、15分では移動もままならず、撮影ポイントに付く前にSLが行ってしまうという事態に陥るのは必然的な結果だっった。

大井川鐵道-2

 接続しているといっても東海道本線と大井川鐵道はまったく別の会社で、一度東海道線の駅舎から外に出なくてはいけない。やや不便ではあるけど、観光客以外にこの路線を乗り継ぐ人はそれほど多くなさそうだ。
 かなり意外だったのだけど、大井川鐵道は名鉄グループなのだ。大井川鐵道株式会社という私鉄で、大井川本線の他に中部電力から運営を任されている井川線というのがある。
 名鉄というと名古屋の殿様商売で、赤字になるとすぐに嫌になって放り出そうとするところだから、大井川鐵道などというのを抱えているのにはちょっと驚いた。それなりに安定した営業をしているようだから、当面は大丈夫そうだけど。

大井川鐵道-3

 駅から出たときにはすでにSLはホームにいて、出発準備をしていた。普通の電車とは違って石炭の用意したり、ロートルだけにゆっくり温めてやらないといけない。
 大井川鐵道は、1976年に日本で初めて蒸気機関車の動態保存をするようになったところで、現在のSL復活の立役者のような鉄道だ。
 SLに乗りたい撮りたいと思ったとき、秩父鉄道とここが一番簡単に実現できるところとなっている。大井川鐵道は東海道本線と連絡しているので、こちらの方がより身近だ。
 SLに乗る場合は事前予約が必要なので、お忘れなく。
 映画やドラマなどでもよく使われている。

大井川鐵道-4

 高架下のトンネルをくぐって線路の反対側に出た。実はこれが最大のミスで、駅を出たらそのまま広い道を右に進むのが正解だった。こちらは急な上り坂になっていて、進むと民家に入っていきそうになり、道も途中で行き止まりになっているような雰囲気だった。
 おかげでホームに止まっているSLの姿だけは撮れたのでよしとしたい。反対側からは見上げる恰好になって全体像が撮れないし、正解の道を行っていても、10分やそこらで視界が開けた撮影ポイントに到着したかどうか分からない。たぶん、無理だっただろう。

大井川鐵道-5

 だいぶ高いところまで登って、いい感じに見下ろして撮れた。
 ただ、大井川本線は電化路線なので、どうやっても架線が入り込んでしまう。それがちょっと残念なところではあるけど、これはもうどうしようもない。風景の電柱や電線よりも避けがたい。
 蒸気機関車はC10形やC11形など、5台くらい所有しているようだ。メインで走っているのはC10形C10 8というやつだろうか。写真に写ってるのがそうかもしれない。
 その他、臨時ダイヤで走ることもあるから、他のSLも見られるチャンスはあるのだろう。
 戦時中タイに渡っていて出戻ってきたC56形というのもある。タイ国鉄カラーで走っているようで、貴重といえばそうだ。
 この写真を撮っている時点ですでに発車5分前くらいになってしまったので、走っているところを撮るのはあきらめた。
 とはいえ、次の電車まではまだ45分くらいはあったので、少し金谷の街を歩くことにした。

大井川鐵道-6

 少しでも線路沿いを歩こうと、細い道に入っていったら、ふいに線路にまで出てしまった。宇布賣神社(うぶめじんじゃ)という小さな神社の裏手を登ったところだ。
 完全に踏み跡で道ができていたから、撮り鉄の撮影ポイントになっているに違いない。その気になれば触れるくらいの距離で撮れるけど、ここは危険だ。急に飛び出したら、運転士もびっくりして急ブレーキを踏むことになるだろう。
 電車が来ないときは、線路が撮り放題となる。

大井川鐵道-7

 そろそろ帰ろうと、線路をあとにしたとき、電車が走ってきた。慌てて土手を登って、電車の後ろ姿を撮りに戻った。

大井川鐵道-8

 だいぶ行ってしまっていたけど、なんとか後ろ姿を捉えた。これくらい距離があれば危険はないだろう。
 SL以外にここの路線がユニークなのは、各地で使われなくなったお下がりの車両をもらってきて、カラーリングもそのままに走らせているところだ。
 上の写真は、京阪本線の特急3000系だ。大阪や京都の人には懐かしい車両だろう。かつてテレビカーと呼ばれていたものだそうだ。今はテレビはついておらず、台車は営団地下鉄5000系のものが使われている。
 近鉄名古屋線の特急421系なんかもあって、たまに走ることがあるらしい。
 他にも近鉄南大阪線・吉野線の特急16000系や、南海高野線の急行21001系など、昔からの鉄道ファンには懐かしい列車が走っている。
 ローカル路線を特急車両が各駅で止まりながら走っているというのも面白い。スピードは遅いらしいけど。

大井川鐵道-9

 これは東海道本線だ。金谷駅を出てしばらくは東海道本線と大井川本線が平行して走っている。
 このあと大井川鐵道は左に大きく曲がって新金谷へ向かう。この大カーブが撮りどころの一つとなっているようで、予定ではそこで走っているSLを撮るつもりだった。
 大井川鐵道撮りはまた行く機会があるような気がしている。さすがにこれだけでは撮った気分にはなれない。一度乗ってもみたいし、次は一日しっかり時間を確保して行きたい。

 次回、金谷編へと続く。

焼津45分滞在記

観光地(Tourist spot)
焼津-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 ここのところご近所散歩写真が続いたから、そろそろ静岡シリーズに戻りたい。
 中田島砂丘へ行くと決まったとき、一ヶ所では面白くないということで、あわせて行ける場所を探した。すぐに大井川鐵道のSLを撮りたいというのは決まったものの、ダイヤの関係でどうにもスケジュールが組みづらい。砂丘とSLの二本立てという構想は崩れ、大井川鐵道の割合を減らしてもう一ヶ所組み込むことにした。それが焼津(やいづ)だった。
 この計画もかなり無理があって、焼津での滞在時間は45分しか確保できなかったのだけど、地図を見ると港までは1キロ弱だし、港で富士山を撮って、急いで戻れば間に合うだろうという考えで行くことを決めた。
 しかし、初めての場所で計算通りにいかないのはありがちなことで、45分といっても電車を降りて駅を出て、また戻ってきて改札を通ってホームまで行くことを考えると実質的には30分そこそこしかなかった。それでも確かに行ったことは行った。私は焼津に行ったことがあると言うことができる。行けば帰ってきてから勉強もするし、そこで知ることもたくさんあって、行くだけで終わったとしても決して無駄には終わらない。
 それにしても、道を間違えたのは致命的だった。

 駅を出てすぐのところに足湯があって、何人か足を入れてなごんでいる。その光景にややのけぞりつつ、次に見つけたのが小泉八雲の記念碑だった。説明文を読んでいる時間はないので、写真だけ撮って港へ向かった。焼津と小泉八雲がどう関係しているのか、このときはまだ知らない。
 足湯は、焼津黒潮温泉という名前までついた本格的なもので、地下1,500メートルからわき出す海水成分が入った50度の源泉だそうだ。
 小泉八雲と焼津の関わりについては、帰ってきてから調べて初めて知った。
 ギリシャ生まれでアイルランド育ちのラフカディオ・ハーンは、アメリカに渡って新聞記者になり、明治23年、40歳のときに来日した。
 最初、松江中学で英語教師になり、翌年、松江に住む小泉節子(松江の士族小泉湊の娘)と結婚。
 熊本での教師生活を経て、神戸でジャパンクロニクル社に入り、明治29年に東京帝国大学の英文学講師に招かれ、日本に帰化して小泉八雲と名乗った。
 雑司ヶ谷の鬼子母神が大好きだった八雲は、境内の駄菓子屋で子供たちのためにいつもお菓子をおみやげに買っていったという。
 明治36年、53歳のときに東京帝大を退職。その後釜が夏目漱石で、そのときの生徒に藤村操がいる。「巌頭之感」と題した遺言を木に刻んで華厳の滝から飛び降りたあの人物だ。このあたりのことは以前に書いたことがある。
 八雲が焼津を訪れたのは、東京へ移った翌年、明治30年のことだった。
 夏の避暑地を探していて、たまたまこの地を訪れた八雲はここの海が気に入り、滞在先の宿を探していたところ、魚屋の山口乙吉が泊めてくれることになった。それからは毎年のように家族とともに夏の焼津を訪れるのが慣わしとなった。
 そのときの家が明治村に移築されている。駄菓子屋になっているあの小さな二階建ての日本家屋といえば、明治村を訪れたことがある人なら分かるだろう。
 熱海ではほぼ一夏を過ごしていたから、駅前や熱海の街を歩いている姿がよく目撃されている。海で泳いだり、神社やお寺などを訪ねたりしていたそうだ。新川橋から南へ延びる道は、八雲通りと名づけられている。
 そのあたりのことを、「焼津にて」、「漂流」、「乙吉の達磨」、「海辺」などの作品で描いている。

焼津-2

 駅を出て、目の前に道が2本、左右斜め前に伸びている。さて、どっちへ行ったものか。駅舎は南東を向いていて、感覚的に右が正解に思えた。だからそちらに進んだのだけど、結果的にこれは間違いだった。左に行くのが正解で、45分しかないのにこの間違いは致命的だった。
 のんきに古びたレコード店など撮って喜んでる場合ではなかった。

焼津-3

 自転車を売ってるのかと思ったら、自転車を預かっているところのようだ。
 何故か、後ろの荷台に大根が無造作に置かれている。なんだか笑えた。

焼津-4

 焼津といえばマグロが有名だ。マンホールもカラフルなマグロの絵が描かれている。
 うちのアイも「焼津のまぐろ」というカリカリが好きで、よく食べている。時間があればアイのお土産でも買うところだけど、そんな余裕はない。
 
焼津-5

 しびれる居酒屋。二匹の海月。
 なんか、しびれる飲み物とか出てきそうだ。

焼津-6

 道を完全に間違えていると気づいたのは、焼津1の交差点に出たときだ。あ、違う、とはっきり分かって、めまいがしそうになった。
 慌てて左に折れて、本町2の交差点まで来た。ここは駅と港とのほぼ中間地点。残り時間は20分を切っていた。
 富士山どころか、焼津でほとんど何も見ていないから、このままでは帰れない。けど、もし電車に乗り遅れたら、その後の予定が総崩れになる。この日もかっちり組み上げたスケジュールで、すべての電車を1本たりとも逃すわけにはいかなかった。
 迷いはしたけど、迷っている時間もない。とりあえず残り10分を切るところまで行ってみて、そこから引き返すことにした。

焼津-7

 道沿いにある青木神社のことは分かっていたから、帰りに寄るつもりだった。けど、表から写真を撮ることしかできなかった。
 村社とあるから、このあたりの中心の神社のはずだ。
 駅から南西1キロくらいのところに、焼津神社がある。創建は409年と伝えられている歴史のある神社だ。
 焼津の地名は、ヤマトタケルと関係がある。ヤマトタケルが東征したとき、このあたりの豪族に追い詰められた。野原にいたヤマトタケルは放たれた火に囲まれ絶体絶命のピンチ。そのとき身を救ったのが、伊勢のヤマトヒメから預かった天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で、この剣で草をなぎ払って難を逃れたのだった。
 以来、その剣を草薙の剣と呼ぶようになり、のちに三種の神器の一つとなって、熱田神宮で祀られるようになる。そのあたりの話も前に何度か書いた。
 焼津というのはこのときのエピソードが地名として残ったとされる。ヤマトタケル絡みの地名はけっこうあって、醒ヶ井や三重などもそうだ。
 焼津神社もヤマトタケルが祭神として祀られている。

焼津-8

 なんとかぎりぎり港の入口まで到着した。
 さあ、富士山を撮って帰るぞ、って、あれ? 富士山はどこ? まったくどこにも見あたらないんだけど。唖然呆然とする私。
 方角的には、焼津からみて北東のはずだ。こちら方向ではないのか。
 どうやらもっと左手だったようなのだけど、そちらは建物があって視界がふさがれていた。どれくらいの大きさで見えるのかも、感覚的によく分からない。
 もっと港の奥まで行けば見えたのかもしれなかったけど、もう時間切れだ。電車の時間まで10分を切っている。あきらめて戻ることにした。

焼津-9

 この方角でもないのか。薄い雲がかかっていたから、それで姿が隠れていたという可能性もあるのかどうか。
 日本平では見事な富士山を見ることができて感動したのに、焼津での富士山運はなかった。焼津まで行って富士山を見られずに帰るなんて、なんとも残念というか間抜けな話だ。

焼津-10

 魚の街らしい光景。日本料亭か寿司屋あたりの裏方。

焼津-11

 駅前の商店街はシャッターを下ろしたところが多くて、ちょっと寂しい感じだった。
 これといった観光資源はないとはいえ、美味しい魚が食べられるところだから、昭和の時代にはここらも活気があったに違いない。
 港で働く人たちも多いはずなのに、こんなに寂れてしまうものだろうか。

焼津-14

 開いている店はレトロ感満載だ。道は化粧直しですごくきれいになっているのだけど、店は昔のままでギャップがある。はきもの店など、今どきなかなかない。
 もっと歩いていたら、昭和の面影をあちこちで見かけることになっただろう。

焼津-12

 運河沿いのような雰囲気のある風景。流れているのは、小石川という川だ。

焼津-13

 ホタテに腰掛けた人魚をはじめ、カメ、エビ、タツノオトシゴなど、いろんなオブジェがごた混ぜに張り付けられている。焼津の海の豊かさを表現したかったのだろうか。

焼津-15

 急ぎ足で歩いたから、3分前に駅に戻ることができた。道を間違えずに真っ直ぐ歩いていたら、港でけっこう余裕があったではないか。富士山の写真も撮れたかもしれない。
 もう一度焼津に行くことがあるかどうか、微妙なところだ。これっきりになる可能性は高い。たった45分の滞在で焼津の何が分かったというわけではない。けど、一度も行ったことがないのと一度でも行ったことがあるのとでは大違いで、やっぱり行っておいてよかったと今では思っている。小泉八雲のことも、少し知ることができた。明治村がここにつながるとも思わなかった。
 焼津から引き返す恰好で、大井川鐵道の始発である金谷へ向かった。その話はまた次回ということにしたい。

雨池とは相性がいいらしい

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
雨池周辺-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 雨池は被写体としてなかなか魅力的なところなのだけど、池の周りの散歩コースを歩いている人が多くて、落ち着いて撮れないのが難点だ。自分の他に写真を撮っている人もおらず、散歩組と写真組では写真組が圧倒的不利となる。この人何を撮ってはるんだろうという目で見られてしまうため、人目が気になって集中できない。たとえ早朝に行ったとしても、きっと夜明け前から散歩している人がいる。今まで人がいなかったためしがない。
 それでもときどきふっと思い出して行きたくなるのは、行けば必ず何かしら撮れると分かっているからだ。特に何があるわけでもないのに、なんだかんだで撮るものがある。相性がいいのだろう。この日もそうだった。

雨池周辺-2

 今シーズンも雨池でミコアイサに出会えた。律儀というか、よほどこの小さな池がお気に入りのようで、毎年忘れずにやって来る。
 牧野ヶ池にもいるし、今年も見てはいるけど、あそこはあまりにも遠すぎて小さな粒にしか見えない。雨池なら比較的近くから撮ることができる。
 とはいえ、警戒心は強く、少しでも距離を詰めるとさりげなく泳いで離れていくのが小憎らしい。数メートルとかいう近距離まで近づけたことがない。
 オス、メスあわせて6羽くらい見た。

雨池周辺-3

 油絵調の風景。少し暗いトーン。
 光と色とシルエットと水面の模様に惹かれるものがあった。
 絵に描くとしたらどの場面をどんな風に描くだろうと想像して、それを写真で再現すれば、それが正解ということになるのだろう。
 イメージを頭の中で完成させる力が足りないのを自覚していて、そこが大きな課題となっている。少しずつは見えてきているのだけど、まだまだだとも感じている。
 今月号の「デジタルカメラマガジン」の添削コーナーに、私の写真(光のトンネル)が出ている。そこでも指摘されていることだけど、写真は撮る前にすでに頭の中で完成していることが理想だ。シャッターを押してから始まるのではなくて、シャッターを押すという行為をもって完結しなけばならない。トリミングに対する安易な考え方も改める必要がありそうだ。

雨池周辺-4

 撮りたい写真のイメージが見つかりつつある。だいぶ分かってきた。
 絵画的であることも、その一つだ。

雨池周辺-5

 水のある場所へ行けば、水風景はいつも狙う。
 魅力的な水紋を見つけたときの喜びは大きい。
 光の加減がよくて、いい感じの水紋風景ができていたので、バチバチたくさん撮った。こういうのは一発でイメージ通りにいくわけではなくて、撮ってみないとどう写っているか分からない。だからたくさん撮るのは間違いじゃないと思う。

雨池周辺-6

 なんて劇的な水紋風景。
 こんなのはなかなか見られない。肉眼で見るより写真に撮った方がずっとドラマチックになる。

雨池周辺-7

 変哲のない濁った池の水が、光と影の演出でこんなにも魅惑的な光景になる。光の偉大さを再認識する。

雨池周辺-8

 逆光のスズメ。
 桜のつぼみはまだ小さく固い。
 今週は15度以上の日が続くようで、かなり暖かくなってきた。もう梅シーズンに入ったと言っていいし、桜もそう遠くない。
 春の野草撮りにも出かけなくては。

雨池周辺-9

 冬鳥のツグミは、春になればまたカムチャツカの方へ渡っていく。
 季節を感じさせてくれる鳥はいろいろいるけど、その年最初にツグミを見ると冬の訪れを感じる。春になってウグイスやツバメなどに気を取られていると、いつの間にかツグミの姿がなくなっている。
 行く鳥来る鳥、鳥もいろいろ。

雨池周辺-10

 冬のシルエット。
 これはこれで美しいと感じる。

雨池周辺-11

 フォトジェニックな金城学院ランドルフ記念講堂の鐘の塔。
 夕陽をバックにした姿は特に絵になる。

雨池周辺-12

 雨池のS字コーナー。峠道みたいでなんとなくここの感じが好き。

雨池周辺-13

 光を受けてプラチナシルバーに光る線路を見て、なんてきれいなんだと写真を撮っている私は、もうほぼ鉄の人になりかけている。電車を撮るために線路に入って電車を止めるようなことはしないようにしたい。

雨池周辺-14

 最近、団地とか給水塔とかに目がいきがちだ。工場萌えはすでに自覚してるし、だんだんマニアック路線に進みつつある。

雨池周辺-15

 夕暮れを行く瀬戸電。ちょっと撮るタイミングが遅れた。被写体ブレもある。けど、好きな雰囲気だ。流し撮りしてもよかったか。
 ご近所散歩写真も楽しいから、今後も続けていこう。

カナダ料理を見つけられなかったサンデー

料理(Cooking)
カナダ風のつもり料理

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 バンクーバーオリンピック開催記念として、今週はカナダ料理を作った。というか、作るつもりだった。しかし、調べてみるとカナダ料理というのはあるようでないということが判明して、軌道修正を余儀なくされることになった。何故カナダ料理はないかというと、それはカナダの歴史に関係がある。
 教科書でカナダについてどれくらい出てきたのか、ほとんど覚えていない。有名なカナダ人を三人挙げろと言われてもすぐに解答できないし、カナダで起こった重大な歴史的事件といっても何も思いつかない。日本人はカナダという国に対してどれくらいの基礎知識を持っているのだろう。知っているようでよく知らないという人が多いんじゃないだろうか。
 ずっと歴史をさかのぼれば、今から4万年ほど前の氷河期に、シベリアあたりから移動してきたインディアンが住みついたのが始まりと言われている。その頃はまだベーリング海峡が陸続きだったらしいのだけど、それにしてもものすごい移動距離だ。渡り鳥でもあるまいし、どうしてそんな長距離を移動しようと思ったのだろう。冒険心や好奇心からか、何か必要に迫られる事情があったというのか。
 カナダは北米大陸の北部から東部にかけての地域で、いわゆる新大陸だ。アメリカ大陸を発見したとされるコロンブスが南アメリカ北部に到達したのが1498年で、1502年に中央アメリカまで行っている。日本でいうと、戦国時代の初期だ。
 北米大陸はというと、1000年くらいには北欧のヴァイキングたちが東部のニューファンドランド島から上陸したあと南下して、しばらく住んでいたそうだ。
 正式な発見となるとそれは西欧から見たものとなるわけだけど、イギリスのヘンリー7世に派遣されたイタリア人探検家のジョン・カボットということになる。1497年のことだ。
 1534年にはフランス国王フランソワ1世の命を受けたジャック・カルティエが、プリンス・エドワード島やセントローレンス河口を発見した。
 その後カナダはイギリスとフランスによる長い植民地時代が続くことになる。その間もめ事などもいろいろあり、最後は戦争でイギリスが勝って、イギリス領となった。それで公用語が英語とフランス語の二ヶ国語になっている。
 更にカナダは移民を大らかに受け入れ続け、結果的に非常に多彩な人種が暮らす国となった。イギリス系、フランス系、先住民以外が全人口の5分の2なんだそうだ。人種のモザイクという言われ方もする。
 カナダの本質は何かと訊ねると、多くのカナダ人は多様性と答えるかもしれない。ただ、アメリカとはいろいろな部分で違っているように思える。人種差別が問題になっているという話もあまり聞かない。
 同じ大陸を共有する隣同士ながらアメリカに併合されなかったのは、当時はまだイギリスに力があったからだ。イギリスの後ろ盾で独立して、カナダはアメリカに飲み込まれることを拒んだ。カナダ人はアメリカのことをあまりよく思っていないという話も聞く。
 そんなわけで、伝統的なカナダ料理というものはほとんどないとされている。インディアンやエスキモーが食べていた料理が伝統的なカナダ料理というわけではない。イギリスとフランスが融合しつつ、多彩な民族や人種を受け入れたことで料理も多くの影響を受けてきた。それをカナダ料理として一つに体系化しようとはしなかったあたりが日本との国民性の違いを感じる。
 もちろん、アメリカからもファーストフードなどたくさんの料理は入ってきているし、中国からの移民も多いから中華もカナダでは一般的なものになっている。日本料理も普通に食べられるという。家庭料理もレストランも、料理は美味しくて、旅行へ行って食事に困ることはないという。
 地域ごとの特色はあるだろうし、海に近ければ海産物を多く食べ、内陸なら山のものを食べるというのは日本でも他の国でも同じだろう。
 カナダを代表する料理は何かという問いに答えるのも難しい。いろいろ調べてはみたけど、これといった具体的な料理名は見つけられなかった。ピエロギ、もしくはペローギと呼ばれる料理もカナダオリジナルのものではなくて、世界のいろいろなところでアレンジされて食べられているものだ。特産物というと、国旗にもなっているメープルシロップなどだろうか。それもあまり料理に使うものではない。
 そんなわけで、カナダ料理を作ろうとして困ってしまったわけだけど、せっかくカナダについて少し勉強したことだし、バンクーバーオリンピックがなければカナダ料理を作ろうとも思わなかっただろうから、とりあえずそれっぽいものを想像して作ってみることにした。それが上の写真の3品だ。たぶん、全然カナダっぽくはないと思う。

 カナダというとサーモンというイメージがあった。実際、よく食べられているらしい。
 カナダらしいソースとか調味料もよく分からなかったので、味付けなどは自分の好みを優先した。
 サーモンに白ワイン、塩、コショウを振って、魚焼きグリルでホイル焼きする。
 ソースは、オリーブオイル、白ワイン、マヨネーズ、マスタード、コンソメ、塩、コショウ、砂糖、トマトの刻みをひと煮立ちさせて作った。
 付け合わせのブロッコリーはカナダで食べられているのかどうか。

 右側がピエロギとかいうものだ。
 基本はジャガイモをつぶして、チーズなどをあわせつつ、ギョーザの皮みたいなもので包む料理らしい。そんなイメージで自分なりにアレンジしてみた。
 ジャガイモをレンジで加熱してつぶして、刻みタマネギ、ツナ缶、チーズ、卵、塩、コショウ、コンソメをよく混ぜてこねてタネを作る。
 それをギョーザの皮で包んで焼く。途中で水を入れてフタをして蒸し焼きにするのは普通のギョーザと同じ。水ギョーザ風にしてもよかったかもしれない。
 ソースは、オリーブオイル、白ワイン、バルサミコ酢、しょう油、ソース、塩、コショウ、砂糖をひと煮立ちさせる。
 ジャガイモギョーザは当たり前のように美味しかったからオススメしたい。これが今回一番の収穫だった。

 奥はシチューというかホワイトクリームスープだ。
 特に変わったことはしてなくて、魚介類ということでホタテを入れた。他の具材としては、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、ベーコン、鶏肉を使っている。
 寒い国だし、スープ類はよく食べられているに違いない。これもカナダ料理と言って言えなくはない。

 カナディアン再現度はかなり低いにしても、カナダに少しだけ近づけたような気がして、今回の試みは無駄ではなかったと思う。
 バンクーバーオリンピックも残り少なくなった。メダルの可能性としては最後のフィギュアくらいだろうか。
 今回もまた、小林さんの解説でカーリングを楽しんでいる。ここはカマーランドですねという解説を聞くたびに、KABA.ちゃんやおすぎとピーコたちが白い砂浜を女の子走りで楽しそうに駆け回っている映像が目に浮かぶ。ここにはないけど世界のどこかにあるかもしれないカマーランド。それが実は、手前のストーンを避けて回り込むように投げる投法、カムアラウンドだったと知ったとき、夢の国カマーランドは儚く夢と消えた。
 そのことを前回のオリンピックでも指摘されたであろう小林さんだけど、今回も4年前と変わらずカマーランドと言っているように私には聞こえる。やや興奮気味に、ナイスショット! と嬉しそうに連発している小林さん。
 私の希望としては、なんとか日本に準決勝に進んでもらって、もう一度イギリスと対戦するのを見たい。スキップのエバ・ミュアヘッドが可愛いから。19歳の若き司令塔は、世界トップクラスの技術でも魅了してくれる。

小さいようで大きい中望遠域の15mm

日常写真(Everyday life)
ご近所散歩-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 ずっと欲しいと思っていたPENTAXの55-300mmを買って、それ一本をつけて近所に散歩に出かけた。
 これまで望遠ズームはTAMRONの70-300mmを使ってきて、ほぼ不満のない性能で活躍してくれていたのだけど、やはりつけっぱなしでは広角側が入らないことがあって、もどかしい思いが少なからずあった。PENTAXの望遠ズームは、描写より何より広角側55mmという一点に存在価値を見いだすことができる。今後のメインレンズはこれで決まりだ。ほとんどのシーンはこのレンズでまかなえる。
 もっと高倍率の18-200mmとか28-300mmなども使ったことはあるけど、どうもしっくりこなかった。あれは広角に望遠を追加したもので望遠レンズではない。実質的にも200mmとか300mmとかはない。私には望遠ズームの方が合っている。
 実際に使ってみると、55mmは使い勝手がいい。Takumarレンズで50mmの単焦点を使ってきたから、その感覚だ。スナップだけでなく、風景にも使える。横で入りきらないときは縦撮りをすると、ほぼ不満はなくなる。
 望遠ズームを基本として、どうしても広角を撮りたいときだけレンズ交換するというスタイルの方がチャンスを逃すことは少ない。望遠が必要なときはとっさのチャンスのときが多くて、たとえば、目の前にパッと鳥が現れたときなど、広角レンズでは撮れず、レンズを交換している時間的な余裕はない。道の反対側にカップルが通ったときなどもそうだ。望遠では入りきらない場合でも、まったく撮れないわけではない。そんなときのことを考えても、広角側が55mmというのは可能性を広げてくれる。
 描写性能としては、大きな違いは感じられない。TAMRONも基本性能は高い。
 TAMRONは強い光を撮ると盛大にパープルの偽色が出たから、あれが少ないとありがたい。
 色味は少し違う。暖色系のTAMRONに対して、SIGMAほど寒色系ではなく、ニュートラルだ。
 マクロ性能はTAMRONが断然上で、180-300mmの範囲に限定されるものの1:2の大写しができるから、簡易マクロレンズとしても使えた。PENTAXは寄れないし、倍率も低い。ここがこのレンズの一番惜しいところで、マクロ性能が高ければ文句なしだった。
 とりあえずしばらく使ってみて、よさそうなら完全に切り替えることになる。

ご近所散歩-2

 昔よく通った道を歩いてみる。もう何年も歩いてなくて、風景も変わったのか変わってないのか、判断がつかない。
 懐かしいという感情ではなく、なんとなく複雑な気分もする。昔を振り返りたくないような。流れた月日の多さにたじろいでしまいそうで、過去を直視したくない。

ご近所散歩-3

 歳月とか、風化とか、老朽化とか、廃屋とか、自分の中で少しテーマが見えかけている。
 写真というのは今の一瞬を写すものだけど、そこに時間の経過というものを写し取れるものだとも思う。
 私たちは昔撮られた古びた写真に懐かしさやノスタルジーのようなものを感じる。それとよく似た感覚を、今撮った写真から感じることもできるのではないか。
 人の中には、未来から今を見て切ない予感を抱くという能力がある。やがて失われる予感というのは、何においてもつきまとう感覚だ。だから、写真の中に過去と現在と未来の3つの時間軸を写しとめることができるはずだ。

ご近所散歩-4

 住宅街の中に畑がある。自分のところで食べる分にしては多く、売り物にするには少ない。
 大根、長ネギと、アブラナの花。暖かいところではもう菜の花が満開になっていることだろう。まだ冬のつもりでいると、もう春はすっかり始まっている。

ご近所散歩-5

 もう何十年続いているのだろう。ここは昔から本当に変わっていない。街の文具屋が儲かる商売とは思えないけど、こういう店も必要だ。
 スーパーでも百貨店でも100円ショップでも文房具は買えるけど、あとになって思い出に残るのはこういう街の個人商店だ。

ご近所散歩-6

 一時期、カラーランドセルが大流行したことがあった。みんないろんな色のランドセルを背負ってたけど、最近はまた赤・黒が主流に戻っている。
 昔はカラーランドセルなんて欲しいどうこうより思いもしなかった。時代が変わって、いろんな色があるならそれぞれ好きな色を選んでいいと思う。カラフルでかわいいし、集団登下校しているカラーランドセル軍団の小学生を撮ってみたい。

ご近所散歩-7

 面白い。誰が最初に思いついて始めたのだろう。
 クリーニングをあえてドライブスルーにする必要はないけど、ドライブスルーで済ませられるならそれは全然悪くない。
 これはけっこういいアイディアだ。あちこちにできているんだろうか。

ご近所散歩-8

 大森橋から河原を見下ろす。
 雨上がりの写真を撮ったのと同じあたりだ。光によって写真はずいぶん違ったものになる。

ご近所散歩-9

 名駅のビル群。この場所からの角度だとテレビ塔が見えない。もっと左側か。
 撮るなら矢田川大橋の方が障害物が少なくていい。人目さえ気にしなければ、三脚を立てて夜景も撮れる。

ご近所散歩-10

 わりと大きめな桜の木。毎年、車で前を通りすぎるだけで、今まで一度も撮ったことがない。今年は歩いて撮りに行こう。
 道路の反対側では、ユキヤナギとレンギョウの白黄色の競演も見ることができる。

ご近所散歩-11

 千代田街道の歩道橋の上から。
 まぶしい西日が道路を染める。

ご近所散歩-12

 何かの電波塔か何かか。
 DAブルーが気持ちいい。
 私がPENTAX好きなのは、青空の青が一番自分の感覚に合っているからだ。私のイメージする青は、CanonでもNikonでもMINOLTAでもOLYMPUSでもSONYでもFUJIFILMでもなく、PENTAXの青だ。かつてのKodackの青に近い。

ご近所散歩-13

 枯れたエノコログサが夕陽を浴びて、黄金色に輝いていた。
 エノコログサは一般的には何の役にも立たないただの雑草だけど、写真を撮る人間にとってはけっこうフォトジェニックな草だ。特に逆光によく映える。

ご近所散歩-14

 瀬戸電を撮りに行ったわけではなくて、瀬戸電が通ったから撮っただけ。行為としては同じでも、自分の中では違うと思っている。どっちにしても、客観的に見たら電車の人だ。

ご近所散歩-15

 線路も西日に照らされ輝く。曲線が美しい。
 ここを超えれば雨池で、一応の目的は雨池でミコアイサを撮るというものだった。
 その様子はまた次回ということにしたい。

15年間にありがとうと、さよならを

車(Car)
尾張旭-1

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 15年乗ったインテグラが満身創痍に陥り、手放すことになった。ここ数回の車検の時の修理代が高くなりすぎて、2年ごとの出費がきつくなりすぎた。とても愛着があり、名残惜しくもあったのだけど、少し車から離れたい気持ちもあって、思い切って一区切りつけることにした。
 すっきりした部分もあるものの、やはり寂しい気持ちが強い。車がないということはこんなにも不便なものかとあらためて思い知った。ただ、いろいろ考えて、必然的だったかなとも感じている。また出直そう。
 というわけで、しばらくはご近所ネタが多くなる。電車の旅行シリーズと日常写真の二本立てのようになって、中間がごっそり抜けそうだ。季節ものを追いかけるのもちょっと難しくなる。撮影行きの新たなパターンを模索していかなくてはならない。
 今日の写真は、手放す前、最後に撮ったインテグラの写真だ。ずっと昔から車で行ってる尾張旭の田んぼが最も適した場所だということで、最後の記念撮影はここにした。よくこんなふうに車をとめて佇んだものだ。
 感傷的になってしまうととめどがない。未来のことを考えたい。

尾張旭-2

 尾張旭ではあまり猫を見かけないのだけど、このときはよく見た。私の沈んだ気持ちを慰めるために集まってくれたのか。
 尾張旭もしばらくは行けそうにない。

尾張旭-3

 西日を浴びてまどろむノラ。
 持たざる者の幸福というものもある。

尾張旭-4

 引いてみるとこんなにもいた。写っていない範囲にもう2匹いた。ちょっとした集会をしていたようだ。

尾張旭-5

 野球のグラウンドでサッカーをする子供たち。
 昔は決して見られなかった光景だ。ここもかつては野球をする子供たちの声が響いていた。
 時は流れて、時代は移り変わってゆく。
 丸目四灯のデザインが好きだったけど、平成7年のインテグラは時代遅れとなり、ほぼクラシックカーにかりかけていた。

尾張旭-6

 田んぼのケリ。
 去年の春に生まれた子供はもう大人と変わらないくらい成長しただろう。
 今年の春もまた、ケリはここで子供を産んで子育てをする。季節は巡る。

尾張旭-7

 春が少しずつ近づいてきているとはいえ、田植えまではまだしばらく時間がある。もう少し休みながら初夏を待つ。

尾張旭-8

 人生の半分は失うことだ。失うことを嘆くのは、人生の本質を否定すること。なくすことを悲しむまい。
 インテグちゃん、今まで長い間、ごくろうさん。この車で悪いことは何もなかった。たくさん、思い出もある。
 さよなら。ありがとう。

雨上がりの河原にて <後編>

日常写真(Everyday life)
雨上がり河原-1

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 今日は昨日の続きで、雨上がりの河原編をお送りします。
 雨上がりの雰囲気が伝わるだろうか。

雨上がり河原-2

 学校帰りのボーイ。中学生だろうか。

雨上がり河原-3

 河原には変な形のベンチやらオブジェやらが点在している。これは用途が分かりやすい方だ。 

雨上がり河原-4

 子供の頃は、水たまりを見ると意味もなくジャブジャブ入りたくなった。大人の今は、水たまりを見つけると撮りたくなる。 

雨上がり河原-5

 雲は多く残ったものの、夕焼け空になった。少し前まで雨降りだったとは思えないほど。

雨上がり河原-6

 夫婦で赤ん坊でもあやしているのかと思ったら、抱いた子犬を見ていただけだった。

雨上がり河原-7

 濡れた道が夕陽を反射して、夕焼け色に染まる。雨上がりに晴れたからこそ撮れる写真。

雨上がり河原-8

 葉を落とした枝のシルエットも、冬になると撮りたくなる被写体の一つだ。

雨上がり河原-9

 橋を渡る下校中の女子中学生二人。
 自分が中学生のとき、夕焼け空を眺めてきれいだなどと見入ったような記憶はない。夕焼けのよさを知るには、少し歳を取る必要があるのかもしれない。

雨上がり河原-10

 オレンジに染まる空と川面。

雨上がり河原-11

 河原の穴ぼこコンクリートは何のために作ってあるのか、日頃から疑問に思っていた。
 こういう造形美のためでないことは確かだけど、偶然出現した美しさ。 

雨上がり河原-12

 歩道橋の坂道を立ち漕ぎで登れる高校時代。今は伝導アシスト付きの自転車じゃないと無理だ。

雨上がり河原-13

 コンクリートの穴ぼこは、川が決壊したときに水の勢いを弱めるためとかかもしれない。全然違うかもしれない。
 上から見ても面白い風景だった。

雨上がり河原-14

 倉庫前の光の色が変わっていて、惹かれるものがあった。緑がかった黄色というのはどういう電球の光だろう。

 こんな雨上がりの夕方の風景。けっこう貴重な時間だったと、あとになって思った。またこんなチャンスがあれば、逃さず撮りたい。

センチメンタルでもありノスタルジーでもあり <雨上がり・前編>

日常写真(Everyday life)
雨上がり-1

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 雨上がりの近所を歩く。歩くことで見えることもあり、撮れる写真もある。見知らぬ街で撮るのも楽しいけど、近所もなかなか捨てたもんじゃない。特に雨上がりなんてのはチャンス到来だ。何でもない風景にちょっとした味付けをしてくれる。
 この日は降り続いた小雨が夕方にやんで、日没前には日差しが戻った。そのときに撮った写真を前後編の2回に分けてお届けしたい。

雨上がり-2

 猫が顔を洗うと次の日は雨と言うけど、こいつは雨上がりに顔を洗っていた。
 猫は湿気が嫌いで、湿度が高くなるとムズムズしてきて顔を洗うような動作をすることから、そう言われるようになったらしい。このときは雨上がりで空気が湿気てたから、外に出てみたら顔を洗いたくなったのかもしれない。
 首輪をしていたから飼い猫だ。

雨上がり-3

 梅がポツポツ花を咲かせ始めていた。
 今年は梅の動向をあまり気にしていなくて、各地でどれくらい進んでいるのか掴んでいない。
 まだ見たことがなくて行ってみたい梅名所としては、津の結城神社がある。あそこのしだれ梅は有名だ。満開は2月の終わりか、3月のはじめくらいだろうか。
 農業センターのしだれ梅も、行けたら行きたい。

雨上がり-5

 柿の実が落ちて、地面に転がっていた。たぶん、柿の実だと思うけど、2月のこんな時期まで柿は実っているものだろうか。ふいに自信がなくなった。

雨上がり-6

 面白い造形の木だ。何かの理由で枝を切り落としてこんな恰好になったのだろう。

雨上がり-7

 懐かしい感じの看板。古いトタン張りの家に、重ねるように看板を張り付けている。
 どの看板も色褪せて、文字も消えかけている。この中のどれくらいが現在も続いているのか。

雨上がり-8

 昔ながらの団地らしい団地。昭和の面影が色濃い。
 団地ゾーンというのは、公道ではあっても住人の専用エリアみたいな空気感があって、よそ者はちょっと入って行きづらい。中に入り込んで写真を撮っている人なんて、まずいない。団地萌えの人くらいだろう。
 団地の建物そのものにはさほど興味はないけど、その中で見られる人々の風景というのは常々撮りたいと思っている。日常のドラマが垣間見えたりするから。

雨上がり-9

 団地といえば子供がよく似合う。昔は団地にたくさんの子供がいて、公園はいつも賑やかな声が響いていた。最近はそういう光景が少なくなって、少し寂しい。
 でも子供はやっぱり子供らしくもあり、元気に駆けている。
 すれ違いざまにこんにちはと大きな声で挨拶されたので少し驚きつつ、こんにちはと挨拶を返した。

雨上がり-10

 団地近くの駄菓子屋から集団で出てきた子供たち。昔とあまり変わらない風景も残っている。
 あの頃に戻りたいとは決して思わないけど、懐かしい。

雨上がり-11

 月日は流れ、風雨に晒され、建物は朽ち、希望は色褪せる。
 風化した建物を見るとよく思い出すのは、中原中也が訳したランボーの詩の一節だ。
「季節(とき)が流れる 城塞(おしろ)が見える  無疵(むきず)な魂(もの)なぞ何處(どこ)にあらう」
 私が感じているのは、センチメンタルなのか、ノスタルジーなのか、あるいは別の感情なのだろうか。

雨上がり-12

 自分の気持ちが惹かれたものを被写体として真っ直ぐ素直に撮る。そこに意味とか理由付けは必要ないのかもしれない。
 工場の古びたドアなんかに何の意味があるのかと問われて、理屈で答えることはできるけど、たぶんそれはしなくていいのだ。

雨上がり-13

 手に持っている傘が間抜けなくらい空が晴れてきた。こうなると傘は邪魔でしかない。
 夕焼け空が撮れそうだったから、河原まで出ることにした。
 後編は雨上がりの河原風景をお送りします。
 つづく。

ご近所香流川散歩写真で一息

日常写真(Everyday life)
香流川沿い-1

PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6



 静岡シリーズはいったん中断して、今日はご近所散歩写真で一息入れたい。香流川沿いを歩きながら撮った写真をお届けします。
 正面に見えている電波塔みたいなのは何だろう。あのあたりにそんな施設はあっただろうか。
 右手に見えているのは、猪高の配水塔だ。高さは48メートルある。
 毎年、春分の日と8月8日の2回、一般公開している。どうして8月8日かというと、○に八の丸八が名古屋の市章で、もともとは尾張徳川家の合印として使っていたところから来ていて、名古屋では8日というのはいろいろイベントがあったりして特別な一日なのだ。ドニチエコきっぷという週末の市バス・地下鉄乗り放題切符が8日も使えたりする。
 東山給水塔も同じ日に一般公開されている。どちらかというと、あちらの方が見てみたい。

香流川沿い-2

 夏に見たら夏らしい雲だなと思うような雲が、2月のこの時期にも出ることがある。
 白いもくもくが分厚くて、力強い。

香流川沿い-3

 いつもは上から見ている丘の上の住宅。地上レベルで見るとこんなふうに見えるのか。この位置からは初めて見た。
 あれくらい高いところにあれば、香流川が氾濫しても、地球温暖化で海面が10メートル上昇しても大丈夫だ。
 自転車で登っていくのは大変そうだけど。

香流川沿い-4

 川を見つめる犬。何か嫌なことでもあって脱走してきたのかと思ったら、近くに飼い主さんがいた。
 犬は思い詰めたりすることはないのだろうか。

香流川沿い-5

 ススキも枯れて、冬の終わりが近いことを知らせる。
 まだ少し寒い日が続いて、春を実感することはあまりない。それでも、季節は着実に前進している。

香流川沿い-6

 水面の模様と色合いがよかった。
 水彩のようでもあり、油絵のようでもある。
 ごく身近にも風景はある。

香流川沿い-7

 自転車通学の学校帰り。
 サイクリングロードは車も通らないし、安心して走れる。ただ、犬のフンが落ちてることがあるから、よそ見運転は危険だ。

香流川沿い-8

 烏の行水という言葉があるけど、このカラスはしつこいほど水浴びをしていた。よほど体がかゆかったりしたんだろうか。
 カラスは冬でもあまり寒そうにしてないし、夏でも暑さでまいっているような感じがない。北海道や沖縄にもカラスはいるんだろうか。
 気になったから調べてみたところ、ハシブトカラスはサハリンが北限の南方系で、ハシボソカラスは九州を南限とする北方系なんだそうだ。
 都市部で見るのはハシブトが多くて、農村にはハシボソが多いというのも、系統の違いというのがありそうだ。

香流川沿い-9

 花の季節を待つ桜並木。あとひと月半でまた桜の季節がやって来る。
 今年から気象庁は開花予想をやめた。毎年あまりにも外して、抗議が来て、修正してというのに嫌気が差したのだろうか。
 日本気象協会、ウェザーニュース、ウェザーマップがそれぞれ予想を発表したけど、けっこうバラツキがあった。どこが一番当たるか競って、それぞれが精度を上げればいいと思う。
 名古屋の開花は3月25日前後になりそうだ。

香流川沿い-10

 かなりきてます。まだ稼働中のようで、人が入っていくのが見えた。
 外観からすると、かなり不安な感じがする。

香流川沿い-11

 ノラ仕様の体型をした猫。
 冬を乗り切って、もうすぐ春だ。

香流川沿い-12

 夕暮れの空をいく。

 しばらくご近所小ネタシリーズが続くかもしれない。

神社レーダーが反応した五社神社

神社仏閣(Shrines and temples)
五社神社-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 これだけたくさん神社を巡っていると、神社レーダー探知機のようなものが脳内に内蔵されて、よさそうな神社が近くにあるとピピピと反応するようになる。自分の興味がある店は目に入るけど、興味がない店は見てても見えないのと同じような仕組みだろう。あるいは、神社の方があいつは神社好きだから呼んでやろうと気を利かせてくれるのかもしれない。
 浜松の五社神社もそうだった。浜松城に向かって歩いているとき、遠くに赤い鳥居が見えて、あそこは行っておいた方がよさそうだと感じたのだった。実際、ここは寄っておくべき神社だった。
 浜松の総鎮守で、三が日の初詣客は10万人を超えるというから、浜松市民にはお馴染みの神社だろう。このときも途切れることなく参拝客が訪れていた。
 石柱には、五社神社・諏訪神社と並んで彫られているけど、この時点ではどういうことか分かっていない。浜松の総鎮守ということも知らなかった。

五社神社-2

 消火栓のマンホール蓋が面白かったので撮ってみる。ご当地ものシリーズとは違う。本来こんなカラーリングを施す必要はないのに、とても趣味的で、クスッと笑えた。
 場所からして、神社の消火用だろうか。

五社神社-3

 手水舎の水に光が反射しているのがいい感じ。

五社神社-4

 昭和20年の浜松空襲で焼けるまで社殿は国宝だったそうだ。残念。是非国宝の社殿を見てみたかった。
 国宝の社殿は、1641年に家光の命で再建されたものだった。
 現在の社殿も立派なのだけど、昭和57年再建と新しい。
 社殿は燃えても神社としての格はあって、旧県社で、現在は別表神社となっている。

五社神社-5

 五社神社は、戦国時代の初期に、曳馬城の城主だった久野越中守が、城内に勧請したのが始まりとされている。
 祭神は、太玉命(ふとたまのみこと)と、春日神四柱の武雷命(たけみかづちのみこと)、斎主命(いわいぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、姫大神(ひめのみこと)の五柱となっている。
 太玉命は、タカミムスビの子で、アマテラスの岩戸隠れのときに、アメノコヤネと共に鏡を差し出した神だ。ニニギノミコトの天孫降臨のときに付き添って天降っている。
 占いを司る神様らしいのだけど、どういう理由でこの神様を勧請したのか、よく分からない。
 全国に五社神社や五所神社というのがいくつかある。同じ系統かと思うとそうではない。5柱の神様を祀っていたり、5つの神社を統合して五社になってそう名づけられたりで、顔ぶれは共通ではない。
 ちなみに、神様は、一柱(はしら)、二柱というふうに数える。
 曳馬城を家康が攻略したのが1568年。浜松城として拡張したのが1570年以降で、このとき五社神社はどうなっていたのか、詳しいところまで調べがつかなかった。この時点ではまだ城内にはある。
 1579年に家康の三男でのちの二代将軍秀忠が生まれると、五社神社を産土神(うぶすながみ)として、翌年現在地に社殿を建てて移した。
 1634年には家光が上洛の際に参拝して、家康を合祀している。家光は1641年に社殿の造営を命じて、このときの建物がのちの国宝に指定された社殿だ。
 一方の諏訪神社はまた別もので、こちらの方が歴史がある。
 奈良時代末期の791年、坂上田村麻呂が東征するとき、敷智郡上中島村(今の浜松市天神町)に祀ったのが始まりといわれている。
 祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)、八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)。
 建御名方命は、建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神の一柱とされる神様だ。征夷大将軍の坂上田村麻呂が信仰したのもうなずける。
 大国主の子で、建御雷神が大国主に国譲りを迫ったときに反抗した神様といえば、あああれかと思う人もいるだろう。
 大国主は、息子の事代主がいいと言ったら譲るよと答えて、事代主はあっさり承諾するも、もう一人の息子である建御名方命はオレは納得できねえ、オレ様と力比べをして負かせてみろと言った。すると建御雷神は怒って襲いかかってきたもんだから、びっくりしてこりゃいけねえとあわてて逃げる建御名方命。とうとう追い詰められてまいった降参ですと拝み倒すように謝り、なんとか命だけは助けてもらった。その後、一切反抗しませんと約束させられて、自身は諏訪大社に祀られることになった。
 エピソードとしてはあまり軍神っぽくないけど、元々は強い神様だったらしい。
 諏訪神社は、1556年に一度場所を移り、家康が1579年に社殿を造営している。
 1615年に秀忠がもう一度別の場所に遷座して、最終的には1641年に家光が五社神社の隣に移して社殿を造営した。このときはまだ別々の社殿にそれぞれの神が祀られていたそうだ。両方とも国宝指定になっていた。
 1960年(昭和35年)に合祀されて、五社神社・諏訪神社となった。現在は一つの社殿となっている。神様も増えて、家康の他、応神天皇、菅原道真、素戔嗚命なども祀られている。

五社神社-6

 秀忠の産土神だったことで、子守り、子育てにご利益があることになっているようで、女性の参拝客が多かった。
 巫女さんも常駐しているようだ。
 なかなか歴史もあり、立派な神社で、いいところだった。

 浜松シリーズはこれでおしまいで、次回からは静岡の別エリアを紹介したい。

和食に統一しきれなかったサンデー

料理(Cooking)
和食になりきらずサンデー

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 最初に決まったのは、がんもどきだった。かんもどきを作って食べてみたいと思った。
 次に浮かんだのが、何故か甘エビだった。ふいに甘エビのことを思い出したら食べたくなった。
 2つはあっさり決まって、残る1品がなかなか決まらない。がんもどきは完全な和食だし、甘エビはカルパッチョ風にするつもりだったから、和食とは言い難い。途中で考えるのが面倒になって、なんとなくきんぴらごぼうになった。特に理由はない。
 で、完成したのがこの3品だ。思った以上に統一感を欠いた仕上がりになった。どんなレストランへ行っても、食堂へ行っても、この組み合わせの料理は出てきそうにない。一般家庭の食卓のメニューとしても異色のトリオだ。単品としてはそれぞれ美味しかったのだけど。

 甘エビは寿司で食べるくらいで、普段はほとんど食べない。回転寿司とかの甘エビが好きで、昔はよく食べた。
 ただ、一度刺身で当たって救急車で運ばれて以来、生ものに対する恐怖感が消えない。甘エビも本来なら生で食べた方が美味しいのだろうけど、魚焼きグリルで火を通した。あれから何年も経ってたぶんもう大丈夫だろうとは思いつつも、あんなひどい目には二度と遭いたくないという気持ちが強い。リスクを冒すほど生ものが好きなわけでもない。
 ソースは、白ワイン、オリーブオイル、ワインビネガー、しょう油、みりん、砂糖、塩、コショウ、コンソメの素、マスタード、マヨネーズをあわせてひと煮立ちさせて作った。私の定番ソースの一つ。

 がんもどきは自分で作った方が美味しいことを知った。揚げ物は揚げたてが一番だ。
 木綿豆腐を沸騰したお湯で2分くらいゆでて、その後しっかり水切りする。砕いて水分をなるべく絞って、裏ごしする。
 刻んだしいたけ、ニンジン、とき卵、すり下ろした山芋、カタクリ粉、塩、コショウ、ダシの素を加えてよく混ぜてこねる。
 団子に丸めて、低めの油でじっくり揚げる。温度が高いと焦げやすい。
 青のりを振って、めんつゆで食べた。エビとかを入れてもいい。
 煮物にもできるし、味付けとソースを変えれば洋風にもアレンジできる。自家製がんもどきはオススメだ。

 きんぴらごぼうは少し変則的なものになっている。
 山芋、ごぼう、レンコン、ニンジンの根菜類は野菜は切って水にさらす。それに鶏肉を加えて、だし汁で煮る。
 次にごま油で炒めていく。酒、みりん、しょう油、白だし、砂糖、塩、コショウ、白ごま、唐辛子で味付けをする。
 煮物のようでもあるけど、ごまとごま油の風味が効いた炒め物でもある。見た目は茶色で上品ではないけど、こういう素朴な料理も美味しい。
 ちなみに、きんぴらというのは、金平と書き、金太郎のモデルとなった坂田金平から来ている。昔、ごぼうは精のつく食べ物とされていて、力持ちの金太郎にあやかって金平ごぼうと名づけられたのだった。

 統一感を欠いたのは、甘エビの仕上がりが思ったよりも洋風寄りになってしまったからだ。生のカルパッチョサラダにしていれば、もう少し和食寄りになっていただろう。ただ、それにしても甘エビの鮮やかな色合いは、どうやっても他の茶色系とは合わなかったか。
 料理としてのテーマ性がなかった点も、反省してまーすと軽い感じで反省しつつ、あらたな試みもあったし、今後につなげていくことにしたい。
 せっかくバンクーバーオリンピックも始まったことだし、来週はカナダ料理に挑戦してみることにしよう。カナダの人が普段何を食べているのかまったく思いつかないから、来週までに勉強しないといけない。

浜松城公園から東照宮へ向かって歩く

観光地(Tourist spot)
浜松2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 浜松城と日本庭園を見た後は、浜松城公園も少し歩いてみた。それなりに広い公園で、美術館などもある。
 昭和25年に子供博覧会というのをこの場所で行うために整理したのが始まりで、その跡地に動物園が作られた。
 昭和52年には、昭和天皇在位50年記念公園として再整備され、翌年市民プールができた。動物園は昭和58年に舘山寺に移って、今はこの場所にはない。あちらで浜松市フラワーパークと合体した恰好になっている。
 浜松の中心地には他に大きな公園や緑地はないから、この公園が浜松市民の憩いの場になっているのだろう。上の写真は桜並木だろうか。
 そういえば、タイワンリスが繁殖して公園にすみついていると書いてあったけど、姿を見ることはできなかった。

浜松2-3

 ムラサキカタバミがもう咲いていて驚く。5月くらいから夏にかけて咲く花なのに、1月はいくらなんでも早すぎる。それだけ浜松の気候が温暖ということか。
 南米原産の帰化植物だから、もともとは暖かいのが好きなはずだ。長く日本で世代を重ねることで寒さにも強くなったのだろう。

浜松2-4

 工場萌えの次は団地萌えか。
 むき出しのパイプがうねりながら外壁を這っている様子に惹かれた。
 何のパイプだろう。普通の団地ではないのか。

浜松2-5

 半僧坊別院正福寺。有名どころかもしれないと思って一応撮っておいたけど、それほどでもなかったようだ。
 浜松は城下町でもあり、宿場町でもあったから、寺社は多く点在している。

浜松2-2

 普通の民家の前に鳥居が建っている。一般の民家ではないのか?
 道の反対側に東照宮があるから、東照宮の鳥居かもしれない。境内が縮小されて、もともと入口だったところのすぐ外に民家が建てられて鳥居は残ったという可能性はありそうだ。
 普通の家に鳥居を建てることは合法なのだろうか。魔除けのために鳥居を建てることが許されるなら、もっと見かけることになりそうではあるけど。

浜松2-6

 奥まった分かりづらい場所に東照宮はある。小さな神社で、地図にもはっきり載っていないくらいだ。東照宮前というバス停があって、やっと分かった。案内標識のようなものは見なかった。

浜松2-7

 入口の脇に、曳馬城跡という石碑が建っているようだけど、意識してなかったせいもあって、目に入らなかった。
 場所としては間違いなくここに浜松城の前身である曳馬城があったようだ。
 パッと見て、特にこれといった特徴のない街の神社だ。日光東照宮のような華やかさはなく、きらびやかでもない。訪れる人も多いようには思えない。

浜松2-8

 創建は明治17年と新しい。浜松藩代だった旧幕臣の井上八郎が発起人となり建てられた。
 当時はどれくらいの大きさがあったのか、よく分からない。
 昭和20年の空襲で社殿などはすべて燃えてしまい、現在の社殿は昭和34年に再建されたものだ。
 浜松は軍の施設がたくさんあったところでもあったのだけど、地理的な理由の方が大きかった。名古屋や東京を空襲するついでに爆弾を落とされて、ひどい目にあった。名古屋や東京を空襲したあと、余った爆弾を浜松に捨てるように落としていったという。海に近いこともあって、海岸線は艦砲射撃でやられた。おかげで浜松は焼け野原となって、古い建物はほとんど残っていない。

浜松2-9

 拝殿脇に東照宮らしさの片鱗を見た。漆喰の狛犬は、色がはげ落ちてよく分からなくなっている。
 梁には猫の彫刻もあるらしいけど、気がつかなかった。

浜松2-10

 樹皮がべろべろにはがれ落ちて、木肌がむき出しツルツルになった木。どうしてこんなことになってるのだろう。冬だから寒そうだった。

 五社神社もまとめて紹介しようと思っていたけど、ちょっと収まり切らなくなった。また次回ということにしたい。

浜松城に登って自分も出世したいと願うべきか

城(Castle)
浜松城遠望




 やや小高い丘の上に建つ浜松城の天守。このあたりは高い建物があまりないため、少し離れたところからもその姿を見ることができる。
 浜松駅からゆっくり歩いて30分ほどだろうか。
 旧東海道の大手町通を挟んで、北西に浜松城があり、南東に浜松駅がある。城下町と、宿場町と、鉄道の駅と、この関係性というか歴史的な流れはよく分からない。駅はもっと南西の城の真南に作った方が街の区画としてはすっきりしたような気もするけど、いろいろな事情があったのだろう。
 大雑把な感覚として、駅の北口を出て左前方に歩いていけば、浜松城が見えてくる。案内標識はあまりなく、浜松は浜松城をさほど重視していないようにも感じた。昔ながらの天守でもなく、街が城で持っているとかそういうことではないというのもあるだろうか。
 考えてみると、家康が城主だった城で完全な形で残っているものは一つもないことに気づく。駿府城も堀と石垣くらいしか残ってないし、岡崎城も復元天守しかない。ここ浜松城もそうだ。江戸城はついに再建されなかった。明治新政府が反徳川だったからというのがあるにしても、一つくらいは残っていてほしかった。



浜松城野面積みの石垣

 浜松城跡の一番の見所は、野面積みの石垣だ。戦国時代特有の素朴な石積みで、関ヶ原以降のものとはかなり趣が違う。これだけ古い石垣がしっかり残っているところはあまりないから貴重だ。
 無造作に積み上げられているようだけど、これで400年以上持っているのだから、理にかなっているのだろう。



浜松城家康像

 若き日の家康像がある。
 家康が浜松城に入ったのが29歳のときで、出ていったのが45歳。45歳のときをモデルにしていたら若き日というタイトルにはならないはずだし、いくら昔の人が老けていたからといっても、若い日の家康はもう少し若々しかっただろうと思う。
 家康というとどうしてもタヌキじじいという印象が強くて、若武者だった頃の姿をあまりイメージできない。そのせいもあるのか、どの家康像もおやじくさい。20代の家康青年はどんな風貌だったのだろう。



浜松城模擬天守

 最初から模擬天守と分かっていればがっかりすることはない。鉄筋コンクリート造りにしては、外観は木造っぽくてなかなか悪くない。
 現在の天守は、戦後の昭和33年に、浜松市民の熱い想いで再建されたものだ。残念ながら予算が集まりきらず、当初予定していた半分程度の大きさになってしまった。土台の天守台を見ると、3分の1くらい余っているのが分かる。昔のものはこれの倍くらいの大きさだったのだ。



浜松城ボランティアガイド

 ボランティアガイドの人が観光客に説明しているのを少しだけ横から聞いていた。確か、四国の松江城をモデルにした模擬天守だとか言ってたような気がする。写真を見比べると、確かに似ている。それに、松江城なら根拠はある。
 江戸時代中期以降は天守がなかったようで、はっきりした資料が残っていないため、再建ではなく模擬天守ということになる。
 浜松城は家康が建てた城で、家康が駿府城に移ったあとは、秀吉の家臣だった堀尾吉晴と次男の堀尾忠氏が11年間城主を務めている。その堀尾氏は関ヶ原の戦いで功績をあげて、出雲の松江に移封となった。そのとき、浜松城を参考に松江城を建てたとされている。ということは、松江城に似せて浜松城を建てれば結果的に元の浜松城に近いものができるはず、というわけだ。松江城は木造天守が今も現存している。
※2015年、松江城天守が国宝に指定された。

 浜松城の元になったのは、現在の浜松城の東北300メートルほどにあった曳馬城(ひくまじょう)だ。現在そこには東照宮が建っている。
 浜松城公園から東照宮へ向かって歩く
 曳馬城を築城したのは、今川貞相ではないかと言われている。はっきりはしないらしい。
 この頃の分布図としては、名門の斯波氏が没落寸前で、今川氏と勢力争いをいていた。応仁の乱の頃には、越前を朝倉氏に奪われ、遠江国を今川氏に取られ、尾張だけをかろうじて持っていたものの、守護代の織田氏の台頭によってそれももはや危うい状況にあった。
 曳馬城を中心とした地域は、大河内貞綱が支配していたのだけど、斯波氏に味方したのが失敗で、今川氏に敗れて領地を奪われてしまう。その後、移ってきたのが今川氏配下の飯尾乗連だった。
 その後、登場するのが今川義元で、飯尾家は引き続き今川家に仕えることになる。
 少し話が脱線するけど、この時期、秀吉はこの地にいた。曳馬城の支城である頭陀寺城の城主・松下嘉兵衛に小姓として仕えていた。1551年というから、秀吉14歳のときだ。名古屋の中村生まれだった秀吉は、母親の再婚相手と折り合いが悪く、家を飛び出して浜松あたりまで流れてきていた。まだ木下藤吉郎と名乗っていた頃だ。
 そこからどういうわけか、今川氏のところを飛び出し、今度は信長に仕えることになる。1554年だから、桶狭間の戦いの6年前だ。信長はこの頃、尾張のおおうつけと呼ばれ、暴れん坊の跡取り息子で、一族の持て余し者だった。この時期に信長の将来性に目をつけていたとしたら、藤吉郎少年の眼力はただ事ではない。
 1560年に桶狭間の戦いが起こり、今川氏は急速に力を失うことになった。結果的に秀吉の選択は正しかったことになる。もし今川にいたままなら、おそらく歴史に埋もれて無名のまま終わっただろう。あるいは、秀でた才覚というのはそう簡単に埋もれるものではないのか。
 桶狭間ののち、曳馬城城主の飯尾連竜は今がチャンスと、今川義元の息子、氏真に反逆するも、あっさり大軍に潰されてしまう。連竜亡き後、未亡人のお田鶴の方が城守っていたけど、家康に目をつけられ1568年には落城してしまう。
 岡崎城を本拠としていた家康は、次の敵は甲斐の武田信玄と定める。西は同盟を結んだ信長がいるから心配はない。本拠地を遠江に移すことにした。
 最初、見付(今の磐田市)あたりに城を築くつもりだったようだけど、地理的にあまりよくないということで、とりあえず曳馬城を活用することにした。家康くらいリサイクルが得意だった武将はいない。まったく新しい土地に新しい城を作るということはなく、いつも元々あったものを利用して城作りをした。浜松も駿府も江戸も名古屋もそうだ。側室には未亡人が多かった。
 結局、29歳から45歳までの17年間を浜松城で過ごすことになる。三方ヶ原の戦いをはじめ、姉川、長篠、小牧長久手などの激戦を戦い抜いたのが浜松城時代だ。
 三方ヶ原の戦いで武田軍に完敗したことで、手狭で守りの弱い曳馬城では危ないということになり、西南に拡張する恰好で、新たに浜松城を築城することになる。曳馬というのは敗北を意味する馬を引くにつながるから縁起が悪いということで、かつての荘園、濱松荘にちなんで、城と地名を濱松とした。
 家康が駿府に移ったあとは、先ほども書いたように堀尾吉晴が城主となり、江戸時代は譜代大名を中心に有力な人物が代々城主を務めた。
 老中にまで登り詰めた水野忠邦をはじめ、多くの城主が出世したことで出世城と呼ばれることになる。
 明治の廃藩置県で廃城となり、戦後の昭和25年に整備されて浜松城公園となった。模擬天守が再建されたのが昭和34年。その後、いろいろな設備も増え、現在に至っている。



浜松城天守台を見下ろす

 天守の内部は資料館となっている。150円と安いし、せっかくなので入ってみることにした。
 最上階から天守台を見下ろす。だいぶ余っているのが分かる。



浜松城天守からの眺め

 遠くに白いものが見えたから雪山かと思ったら、何かの建物だった。あんな山の上に固まって建っているのは何だろう。



東海道五十三次濱松

 広重「東海道五十三次」の濱松だ。
 鎧なども展示されているものの、どれも複製だった。銃器類は恐ろしいから見ずに飛ばす。いろいろ貴重な資料的もあるようだけど、興味がないとあまり楽しめないかもしれない。



浜松城井戸の跡

 地下に掘られた井戸の跡。
 家康は本気で信玄を恐れていたのだろう。籠城戦も覚悟していたに違いない。この井戸はそのときのためのものだ。
 信玄は三方原の戦いの同じ年に死んでいる。もし信玄がもう少し長生きしていたら、浜松城や家康の運命は違ったものとなっていただろう。



浜松城日本庭園

 天守の北に日本庭園があったので寄っていくことにする。
 かつて城の北側には西池という大きな池があって、天然の堀になっていたようだ。本格的な水堀はなかったらしく、堀跡も残っていない。



浜松城日本庭園の滝

 日本庭園は戦後に造られたものだろう。歴史的な史跡というわけではなさそうだ。



浜松城西池の名残

 庭園の中の川というか池がある。これが西池の名残だろうか。



浜松城公園の梅

 浜松城がある浜松公園は桜の名所だそうだから、3月の終わりには大勢の人で賑わうことになるのだろう。

 家康ファンというわけではないけど、気づけば家康の足跡をかなり辿ってきた。
 徳川のルーツである松平郷をはじめ、岡崎城清洲城名古屋城浜松城駿府城江戸城久能山日光東照宮と、主だったところを巡った。合戦場としても、桶狭間から小牧長久手長篠関ヶ原と回った。大阪城はまだ行っていないから、いずれ行かないといけないだろう。東照宮もけっこう行っている。日光、久能山、鳳来寺、松平、名古屋、日吉、上野、と。今回の浜松でもちゃんと行ってきた。
 なんだかんだで、私は家康が好きなのかもしれない。若い頃よりは家康の偉さが分かるようにはなった。
 浜松城も行っておいてよかった。

【アクセス】
 ・JR東海道本線/東海道新幹線「浜松駅」から徒歩約30分。
 ・遠鉄バス JR浜松駅バスターミナル13・14乗り場発のバスに乗り「浜松城公園停留所」下車。
 ・天守 8時30分-16時30分 150円 定休日なし
 ・無料駐車場 あり(8時30分-21時)

 浜松城webサイト
 

浜松は想像以上に都会だった

観光地(Tourist spot)
浜松交差点の四人

 浜松といえば浜名湖。その他はというと、うなぎパイ? 浜名湖パルパル? くらいの知識とイメージしかなく、実際に行ってみたら想像以上に都会で驚いた。申し訳ない、浜松と謝りたいくらいだった。
 掛川は花鳥園によく行っていたのだけど、浜松は昔、浜名湖に行ったことがあるくらいで、実質、このときが初めてのようなものだった。
 浜松市が政令指定都市だというのも帰ってきて初めて知ったことだった。人口80万人を超えている。50万人を超えて政令指定都市になっているのは日本全国でも20市しかない。その中の一つとなれば、それはもう立派な大都会だ。
 この日、浜松での主な目的は中田島砂丘(地図)へ行くことだったのだけど、その前に少し時間があったので、浜松城(地図)へ行ってみることにした。街を見ながらぷらぷら歩いていくにはちょうどいい距離だ。ゆっくり歩いて30分くらいだろう。

 浜松の街は外国人が多い。名古屋よりも多い印象だった。白人から黒人まで幅広く、観光客という感じではない。浜松在住といった風情だから、この街で仕事をしている人たちだろうか。電車の中では日本人に仕事についての説明を受けている黒人のアメリカ人らしき人もいた。
 浜松といえばなんといってもピアノが有名だ。ピアノ生産全国シェア100パーセントというから驚く。ヤマハと河合楽器とローランドの三大メーカーが浜松に集中している。
 ホンダが浜松でオートバイを作っていて、オートバイ産業の中心地だった時期もある(今はそうでもなくなったようだ)。
 江戸時代以降は綿織物の産地として栄えた。
 歴史的に見ると、縄文時代の早い時期から人が住み始めた土地で、家康が浜松城を築いて以降は城下町となり、江戸時代は東海道の宿場町となって、現在に至っている。
 駿府城があった静岡市と、浜松城があった浜松と、今日の静岡の基礎は家康に負うところが大きい。そのあたりについては、浜松城のときにもう少し詳しく書きたい。

 浜松城に登って自分も出世したいと願うべきか



浜松の街並み

 赤いバスは、まちなか循環バスくるるだ。最近、こういう観光スポットを巡るバスが増えた。一乗車100円とか200円のものがほとんどで、上手に活用すると旅先での移動が便利になる。
 北エリアの右回りと左回りと南エリアコースがあるようで、中央を縦断している遠州鉄道が行かない周辺部を補完している。これで行けば浜松城も近い。
 右奥に見えている高い建物は、浜松のランドマークとなっているアクトタワーだ。アクトシティ浜松という複合施設の一部で、ハーモニカをモチーフにしているらしい。
 212メートルのタワーで、1994年にできている。



旧東海道の案内板

 駅の西を縦に走っている広い道路が旧東海道。現在は152号線となっている。
 交通量が多い普通の道路で、宿場町としての面影はほとんど残っていない。跡地に説明板が立っているだけだ。
 往時は本陣が6軒、旅籠が94軒もあったというから、大きな宿場町だった。写真の場所も本陣の一つがあった場所という。



商店街の風景

 駅の西側に何本か商店街というのか、繁華街の通りがある。
 浜松城の城下町と駅周辺の区画はあまり整備されていないようで、東西南北の感覚がやや分かりづらい。歪んでいるというか傾いている。少し道に迷った。



繁華街の通り

 行き帰りで繁華街の通りを歩いてみた。
 昔ながらの商店街が寂れているというふうではなく、それなりに新しい店舗が並び、賑やかさと華やかさを感じさせる。それでもバブルが弾けて以降、活気がなくなったという。



小学生たち

 浜松の小学生と、向こうを走っていくのは、たぶん遠鉄バスだ。



浜松松竹ビル

 浜松松竹ビル。あの松竹のビルなのだろうか。
 銀座ライオンが入っている。
 東京にある浜松町は、あのあたりの名主をしていた人物が浜松(遠州)出身だったことから来ている。最初、芝浜松町と名づけられ、のちに浜松町となった。



路地の風景

 どの町へ行っても、いい路地裏があると反射的に撮る。細ければ細いほどよく、生活感があれば尚よい。


古いビル

 歴史的建造物のような耳鼻科の建物。
 まだやっているんだろうかと近づいたら貼り紙があって、建物老朽化のため他に移ったと書かれていた。



細いビル

 すごく細い四階建てのビル。部屋はどうなっているのだろう。



柳川鍋の店

 柳川鍋と鰻蒲焼きの店らしい。
 浜松は浜名湖があってうなぎが名産品だというのは分かるけど、柳川鍋も名物なんだろうか。どじょう鍋というと、江戸の名物で、今でも東京には「駒形どぜう」などの有名店がある。
 この通りは、五社神社の参道だから、この店は歴史のあるところかもしれない。
 五社神社についてはあらめてとしたい。

 神社レーダーが反応した五社神社



閉鎖した店

 商店街からは外れたところにある銃砲火薬店。もう営業はしていないようだ。こんな場所で商売になったのだろうか。そもそも何を売ってたんだろう。普通に鉄砲類を売っていたのか、火薬類で何か需要があったのか。



遠州教会

 教会を見つけたので撮ってみる。遠州教会というところらしい。

 今回の写真だけでは浜松の姿はほんの一部しか伝わらないだろうけど、私が見た浜松はこんな街だった。もう少し都会度を強調すればよかったと、あとになって思ったけど、訪れたときはこんなに都会だとは思ってないからちょっと面食らったというのもあった。
 浜松城や神社関係についても続けて紹介していくことにしたい。
  
【アクセス】
 ・JR東海道本線/東海道新幹線「浜松駅」下車。
 
 浜松市webサイト
 浜松市観光情報サイト
 井伊直虎「おんな城主 直虎」NHKサイト
 

中田島砂丘はいいところだったと思う <第2回>

観光地(Tourist spot)
中田島砂丘2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / TAMRON 70-300mm f4-5.6



 旅先ではあまりものを食べずにひたすら歩き続ける私だけど、このときは珍しく買い食いをした。バス停を降りて、帰りのバスの時間を確認しようと道を渡った先に、たい焼き100円とあって、久しぶりに食べたくなったのだった。たい焼きなんて、ここ10年くらい食べてない。
 中田島砂丘の手前にあった小公園のベンチに座って食べることにした。あ、写真を撮るのを忘れたと思い、二口かじったところで記念撮影をする。おかなも空いていたし、疲れていたことを差し引いても美味しいたい焼きだと思う。砂丘で食べると口に砂が入りそうだから、手前で食べることをおすすめする。
 砂丘は浜松駅からバスで15分くらいのところにある。歩いて行くにはちょっと遠い。このバスは市民の生活路線バスのようで本数も多く、帰りも夜まで30分ごとにあるから安心だ。車の場合は、広い無料駐車場がある。

中田島砂丘2-2

 ところどころ、人に踏まれていないきれいな風紋が残っている。せっかくだから、踏まずに遠回りする。
 通えるものなら、何度も訪れていろんな表情を撮れたら面白いだろう。朝日、夕陽に照らされたら、もっと魅力的な被写体になるはずだ。
 ここは比較的手軽に砂丘での撮影ができるということで、映画、CM、プロモーションビデオなどでよく使われているようだ。東京からは千葉の九十九里浜の方が近いけど、あちらは幅というか広さが足りない。見渡す限り視界の中に砂と海しか入らない場所というのは貴重だ。
 福山雅治のキューピーマヨネーズのCMもここで撮影したらしいけど、うっすらとしか思い出せない。今度何かの映像で出てきたら、ああ、ここ、ここ、と思うだろう。

中田島砂丘2-3

 足跡が風に吹かれて面白い模様になった。

中田島砂丘2-4

 砂浜の一部に石がゴロゴロ転がっている。砂丘としては、これはよくない傾向らしい。
 天竜川の上流にダムを造ったことで、上流から運ばれてきていた砂の量が減って、砂丘が痩せてきているんだとか。波の浸食で毎年5メートルも海岸線が後退しているというから、かなり深刻だ。30年前に海岸から180メートルのところに埋め立てたゴミのところまで海が迫ってきて問題になっている。
 ダムは河口や干潟にも重大な影響を与えることが分かってきているし、これ以上新しいダムは造らない方がいいんじゃないか。結果的に自然を守るためにあとから莫大なお金がかかることにもなる。

中田島砂丘2-5

 波の模様と海の色。
 形を変えながらうねる波を見ながら、中也の詩を思い出す。海にいるのは、あれは波ばかり。

中田島砂丘2-6

 望遠で撮る海の表情が好きだ。広角で撮ってもあまり楽しくない。
 海を訪れるたびに思うのは、やっぱり海はいいということだ。ふと、加山雄三のことも思い出す。

中田島砂丘2-7

 浜辺で砕ける波の音。
 青白い泡のよう。

中田島砂丘2-8

 浜に打ち上げられた石一つ。どこか遠くから運ばれてきたものだろうか。

中田島砂丘2-9

 波が思ったよりも来て、慌てて飛び逃げる。イソシギなのか、シロチドリなのか、他の鳥なのか、区別がついていない。

中田島砂丘2-10

 焼けきらなかった夕空。

中田島砂丘2-11

 歩いてきた足跡を振り返る。真っ直ぐ歩いているつもりが、よろめいて曲がりくねっている。

中田島砂丘2-12

 誰かが浜に差した白旗が、強い風にはためく。

中田島砂丘2-13

 風紋の接写。
 砂浜にカメラを置いて撮ってみる。

中田島砂丘2-14

 太陽が沈んだあとの海辺風景。寂しくもあり、優しくもある。

中田島砂丘2-15

 帰り際、もう一度振り向いてみると、砂丘の上に誰かが立っている。いつどこから来たのだろう。
 最後に人入りの写真が撮れたことで満足して帰ることにする。
 中田島砂丘に来てよかった、と思った。

日本三大砂丘の一つが浜松にあるとは知らなかった <第1回>

観光地(Tourist spot)
中田島砂丘全景




 日本三大砂丘の一つが静岡県の浜松市にあるということを知ったのは、つい先日のことだった。隣の愛知県に長く暮らしていながら、ただの一度もそんな話を耳にしたことはなかった。中田島砂丘(なかたじまさきゅう)というのだけど、みなさんはご存じだろうか。
 三大砂丘のもう二つはといえば、一つは言わずと知れた鳥取砂丘で、もう一つは千葉県の九十九里浜なんだそうだ。九十九里浜が砂丘だったというのも知らなかった。鹿児島の吹上浜も三大砂丘の一つに数えることがあるとか。
 鳥取砂丘は一度見てみたいと思っていたけど何しろ遠くてそう簡単に行ける場所じゃないからあきらめていた。けど、浜松となれば話は違う。行こうと思えば昼過ぎに起きて支度を始めても行ける距離だ。
 そんなわけで、1月の終わりに行ってきた。焼津大井川鐵道なども行ってきたので、そのあたりはあたらめて紹介したいと思う。
 写真から砂丘らしさを感じてもらえるといいけど、砂丘っぽく撮るのは難しいと感じた。砂丘は読んで字の如く砂の丘だ。起伏があるから砂丘と呼ばれるわけだけど、その起伏は思ったほどではなかった。砂丘と砂漠は違う。砂の惑星みたいなイメージで撮れるといいなと考えていたけど、あまりそんな感じにはならなかった。
 1月の寒い時期の夕方ということで訪れている人は少なかった。泳げるような海ではないにしても、春夏は大勢の人がやってくる観光地なのだろうか。



中田島砂丘足跡

 砂浜のうねり具合はこんな感じ。やはり普通の砂浜とはだいぶ様子が違っている。どうしてこんな地形になるのか、仕組みはよく分からない。そばを流れている天竜川や馬込川が上流から土砂を運んでくることが要因なのだろうけど、砂丘になる可能性の低さを考えると、風や地形といった特殊な仕組みがあるのだろう。
 中田島砂丘の全体は相当な広さがある。縦に600メートル、左右は米津の浜まで入れると4キロもある。砂地を端から端まで歩こうと思ったらけっこう大変だ。ただ、砂丘っぽいところは一部分なので、イメージしたよりも狭く感じられた。見渡す限りの砂丘風景といったものではなかった。
 砂地は柔らかくて深い。砂場の砂のようで、足が取られてすごく歩きづらい。トレーニングにはよさそうだ。



中田島砂丘風紋

 中田島砂丘名物の一つ、風紋。
 吹きつける遠州のからっ風によって作り出される砂浜の模様は、枯山水の庭園のように美しい。
 条件によって美しい模様ができる季節があるようで、春がいいとどこかに書いてあった。
 昼間は観光客の足跡で荒れてしまうから、強い風が吹いた翌日の早朝が条件としてはいいんじゃないかと思う。海は南向きで開けているから、朝日も夕陽も見られる。
 それにしても風が強い。猛烈といっていいほど吹いている。冬場はかなり寒さを覚悟していった方がいいと思う。



中田島砂丘起伏

 一番高い山になっているあたり。ちょっと砂漠っぽいじゃないかと思う。エジプトに沈む夕陽みたいに見えなくもない。
「月の沙漠」という歌があったけど、月と砂丘というのは絵になるんじゃないだろうか。周りに明かりが少ない分、星撮りもよさそうだけど、風対策が必要になりそうだ。



中田島砂丘波打ち際

 砂丘自体はあまり撮りどころがなくて、わりと早い段階で海辺まで出てしまった。せっかく砂丘に来て砂丘を撮らずに海ばかり撮っていてはもったいないだろうとは思いつつ、海の方が変化があって撮るのが楽しいから仕方ない。
 障害物や人工物がほとんどない自然のままの海を見たのは久しぶりだ。水平線がずっと見えて気持ちがいい。砂丘だけでなく、遠州灘の海も魅力的だった。



中田島砂丘米津の浜

 西野方角に広がる米津の浜に目をやると、いきなり風景が一変する。冬の日本海みたいだ。



中田島砂丘夕焼け

 この日は夕方から雲が出てきて、きれいな夕焼けは見られなかった。それでも、淡い焼け色にもよさはある。優しい海の夕焼け風景だ。



中田島砂丘浜辺のオレンジ

 波が引いたあとを夕陽が淡いオレンジに染める。
 寄せては返す波の音がいつ果てるともなく響き続ける。



中田島砂丘千鳥

 波打ち際をちょこまかと走り回る水鳥たち。
 シロチドリとかハマシギとか、そのへんのやつだろうと思う。



中田島砂丘カワウ

 夕焼け空をいくのは、カモメかウミネコか。
 強い風に少し流されつつ、どこへともなく飛び去っていった。



中田島砂丘波消しブロック

 少し沖合に積まれた波消しブロック。
 そこにとまって焼ける空を仰ぎ見ていた鵜たち。海にいてもカワウだろうと思うけど、もしかしたらウミウだったかもしれない。



中田島砂丘夕景

 ときどき雲が薄くなって、光が差した。このまま晴れて欲しいと願ったけど、また厚い雲に隠れて太陽は見えなくなった。
 私にとって非日常である海は、いつまでも見ていたいと思わせる。



中田島砂丘流木

 枯れ木のオブジェ。



中田島砂丘夕陽

 太陽が水平線に沈む前、わずかに赤い光を放った。
 このあとまた雲に覆われて、光が戻ることはなかった。海も浜辺も、みるみる暗くなっていった。



中田島砂丘夕暮れ

 犬の散歩に来ていたおふたりさんも帰っていった。
 私も帰る時間となった。

 中田島砂丘はいいところだったと思う <第2回>

 追記。
 2016年8月に再訪。
 浜松名物のひとつとして中田島砂丘をおすすめしたい <1>

【アクセス】
 ・JR東海道本線「浜松駅」から通鉄バス「中田島」行きに乗って「中田島砂丘」下車(約15分)。徒歩約1分。
 ・無料駐車場あり(遠州灘海浜公園)
 
 浜松市公式webサイト
 浜松・浜名湖観光情報webサイト
 

京都シリーズ最後は日没の御所と二条城 <京都歩き第9回>

未分類
京都歩き9-1

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 京都シリーズも今回が最終回となった。残った写真を紹介して終わりにしようと思う。
 時刻は日没間際。下鴨神社をあとにして、京都御所へ向かった。
 上の写真は、途中にあったアーケードの商店街。時間があれば寄りたかったところだけど、先を急ぐ必要があった。
 寺町通かその近くだっただろうか、あまりよく覚えていない。新京極通商店街というのがこれかどうか。違うかもしれない。
 雰囲気としては、大須の商店街にちょっと似てる感じがした。

京都歩き9-2

 御所に入る前に、同志社大を表から撮る。このあたりは同志社の学校が集まっている。写真は同志社女子大のキャンパスのようだ。
 同志社大学はすぐ西に隣接している。

京都歩き9-3

 御所に着いたときはもう日没を過ぎて、暗くなりかけていた。
 御所は平安京から江戸時代まで天皇が住まいにしていたところだから、さぞかし警備が厳しいだろうと思いきや、想像に反してかなりオープンマインドで開放的なところだった。さすがにコアな部分は普段閉ざされているものの、その周囲の御苑は自由に出入りできる。閉門時間というのはあるのかどうか知らないけど、夜まで開いていたのは確かだ。
 御所の中も、春と秋の2回、一般公開される。普段も事前に宮内庁に申し込めば見学できるらしいのだけど、その資格とか基準とかがどれほど厳しいものなのかは知らない。
 上の写真は、北側の今出川御門だ。暗くなってしまっては写真も見学もあったものではないとは思いつつ、せっかくここまで来たのだから中に入って歩いてみることにする。

京都歩き9-4

 いきなり広い道がどんと目の前に現れる。これは相当広そうだ。
 南北1.2キロ、東西800メートルもある。ここまでかなり歩いてきて、更に1キロ以上の砂利道はきつかった。歩きづらくてスピードが上がらない。それでも、歩かないと帰れないわけで、ここから二条城までがやけに遠く感じられた。

京都歩き9-5

 御所の北門である朔平門。
 ここまで暗くなってしまうと、もうほとんど写真は撮れない。肉眼ではもっと暗くて、御所の建物がどうなっているのか、よく見えなかった。
 どっちみち明るいときに来ていても中は見られなかったから、御所を訪れるなら一般公開の時期にまた来たい。

京都歩き9-6

 猿ヶ辻あたり。水路に夕暮れ空が映ってきれいだった。
 ここは御所の北東で、鬼門の方角に当たることから、築地塀がくぼんだ恰好になっている。鬼の角を取る、という意味らしい。
 築地塀の上では猿が守っている。魔が猿(去る)というのは、日吉大社の発想だ。この猿も、日吉大社の神猿(まさるさん)が呼ばれてきていることになっている。
 幕末の頃は、このあたりは公家の屋敷が集まった場所で、道の辻だったらしい。そこから猿ヶ辻という呼び名が来ている。
 1863年、この猿ヶ辻で尊皇攘夷派だった公卿の姉小路公知が暗殺されている。犯人の一人として幕末の人斬りとして有名な薩摩藩の田中新兵衛が逮捕されるも、取調中に自殺して真相は謎のままとなった。姉小路公知の屋敷は、ここから南に100メートくらいのところだった。享年25。
 考えてみると、平安京は怨霊がひしめく都だったのだ。暗くなってから、あんまりのんきに歩いているとちょっと危ないかもしれない。

京都歩き9-7

 御所の南門、建礼門。
 わずかにライトアップはあるものの、こう暗いと手持ちでは撮れない。ベンチに置いて長時間露光で撮る。
 やっぱり電車の旅でも三脚が必要だろうということで、最近、スリックのトラベルスプリントを買った。次からはそれを持っていくことにする。少しは可能性も広がるはずだ。

京都歩き9-8

 こんな暗くなってから御所を訪れて写真を撮ってる観光客もめったにいないだろう。
 このあたりは屋敷跡や小さな神社などが集まっている。昼間なら見られるものも、夜では見えないし撮れない。
 やっと南端まで辿り着いて、御所を出ることができた。

京都歩き9-9

 この日の最終目的地となった二条城へとやって来た。こんなに遅い時間では開いているはずもなく、表から写真を撮るだけで終わった。これだけ明るくライトアップしてると、手持ちでも充分撮ることができる。
 これは、二条城の表門に当たる東大手門だ。重文指定。
 二条城は時代によっていくつかあって、現在のものは徳川家康によって建て直されたものが基本となっている。
 国宝指定の二の丸御殿は見ておきたかったけど、しょうがない。またいつか再訪する機会もあるだろう。二条城についての勉強は、そのときあらためてしたい。

京都歩き9-10

 東南隅櫓と、向こうは東大手門。
 水が入った外堀もしっかり残っていて、いい感じだ。

京都歩き9-11

 なんとなく明かりがきれいで撮ってみる。

京都歩き9-12

 二条駅に到着。もう歩くのは嫌だということで、ここからは電車で帰った。

 実に久しぶりの京都行きになった。今回はいろいろ収穫も多くて満足した。これは京都再訪への足がかりで、また近いうちに行けるような気がしている。
 中心部の地理や広さもだいぶ掴んだところで、東西南北に広げていきたい。今度からは歩きにこだわらず、電車を利用して効率よく回ることにしよう。

食べたいもの優先でバランスの取れたサンデー

料理(Cooking)
中洋サンデー

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 先週は病み上がりで体調が戻りきらずにサンデー料理は休みにした。今週は治ったので再開した。でも、体調はまだ100パーセントまで戻っていない。咳も残っているし、なんとなく口が気持ちが悪くてすっきりしない。
 こんなときは、食べやすくて、しっかりした味付けの料理が食べたい。生ものとか、固いものとかはあまり食べる気がしない。
 手持ちの食材と相談しつつ、今日食べたい料理を作った。テーマは特にない。結果的に、中華と洋食が融合した料理になった。どれも美味しく食べられたから、夕飯作りとしては成功だったと言える。

 左手前は、マグロの竜田揚げだ。
 これは和食になるのだろうか。中華料理のような気もするけど、紅葉で有名な奈良県の竜田川が語源になっているという説もあるし、そうなると日本食ということになる。
 唐揚げとの違いは、竜田揚げはしょう油などに漬け込んで下味をつけたあとカタクリ粉をまぶして揚げるという点だ。唐揚げは、下味をつけない場合とつける場合があり、粉は小麦粉だったりカタクリ粉だったりもする。要するに、広い定義でいえば唐揚げだし、狭い定義の中に収まるのが竜田揚げと言っていいかもしれない。
 私の竜田揚げは、やや定義から外れ気味になっている。
 しょう油、酒、みりん、ニンニク、ショウガのたれに1時間ほど漬け込んで、カタクリ粉をまぶして、フライパンに多めの油で揚げ焼きにする。
 漬け込んだたれに、塩、コショウ、豆板醤、唐辛子、砂糖、マヨネーズを加えてひと煮立ちさせる。これをソースとしてかけて食べる。
 中華風でもありつつ、マヨネーズを使っているから中華からははみ出している。
 ジャンルはともかく、マグロの食べ方としてこの調理はオススメできる。魚嫌いの子供でもまず食べると思う。味は甘辛で美味しいし、マグロを揚げると魚臭さが消える。食感は肉に近くなるし、ひとくちヒレカツにも負けてない。

 右は、中華味の肉じゃがのようなものだ。
 洋風肉じゃがは作ったことがあったけど、中華風肉じゃがは初めて作る。
 タマネギ、鶏肉、ジャガイモ、ニンジン、長ネギをごま油と酒で炒める。
 鍋に少なめのお湯を沸かし、炒めた具材を投入する。
 水はひたひたくらいで、中華の素を加えて、アルミで作った落としぶたを置いて、弱火で煮ていく。
 ある程度煮込んだところで、しょう油、みりん、塩、コショウ、唐辛子、砂糖、白ごまで味を調え、更に弱火で煮込む。
 中華風肉じゃがもいける。中華料理の一品としても成立する。

 奥は、キャベツのトマト煮込みだ。
 最初は、ロールキャベツのトマト煮を作ろうと思っていたのだけど、半キャベツでは包めないことに気づいて路線変更した。
 キャベツをざっくり切って、お湯で湯がく。
 お湯をある程度切って、タマネギ、ニンジン、トマト、シーチキン、白ワイン、コンソメの素を加えて、あとはじっくり煮込むだけ。
 後半で、しょう油、塩、コショウ、ケチャップ、砂糖で味付けをして、もっと煮込む。今回は圧力鍋を使って、具材が柔らかくなるまで煮込んだ。
 これはシーチキンがかなり効いていて、味のポイントになっている。トマトスープとシーチキンの相性はいい。
 仕上げに、パセリ粉と、粉チーズを振る。
 エビも入れるつもりが、冷凍庫から出すのを忘れたので、省略した。エビが入れば、少し豪華版になる。伊勢エビが丸ごと入れば、贅沢トマトスープだ。

 冷蔵庫にある食材を使って、食べたいもの優先で無計画に作ったわりには、まとまった料理になった。行き当たりばったりに作るとバランスの悪い料理になりがちなのに、今回はたまたま上手くいった。そういうこともある。
 来週までには体調も戻るだろうから、何かテーマを決めて作るようにしたい。

賀茂でも鴨でもどちらでもいいのかよくないのか <京都歩き第8回>

未分類
京都歩き8-1

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 哲学の道を最後まで歩いて、銀閣寺には寄らず、下鴨神社に向かった。
 今出川通は左右に京大の建物がたくさん集まっている。道行く学生がみんな賢そうに見えたのは気のせいだろう。あの道沿いを歩いている若者が全員京大生というわけでもあるまい。そういえば、うちの親戚の子も通っているけど、それほど賢そうには見えない。
 吉田神道の本部である吉田神社はできれば行きたかったのだけど、行けなかった。上の写真の鳥居は、入口の一つだ。小山の奥まったところにあって、体力も時間も余裕がなかった。もうこのときは少し暗くなりかけていて、先を急ぐ必要があった。吉田神社か下鴨神社かという選択なら、下鴨神社を選ぶ。

京都歩き8-2

 道行く途中に天皇陵があったので寄ってみることにした。
 後二條天皇の北白川陵というのだけど、後二條天皇がどんな天皇だったのか、まったく知らない。
 帰ってきてから調べたところ、鎌倉時代の天皇だった。在位中に大きな事件もなく、知る人は少ないと思う。
 京都市内や郊外にはたくさんの天皇陵がある。しかしながら、はっきり断定できるものは少なく、多くは宮内庁が一応そう決めたというだけだ。実在しないような天皇陵まで存在するから、全面的に信用するわけにはいかない。
 何しろ天皇陵に関しては学術調査も認めていないから、はっきりさせようがない。宮内庁自身もはっきりさせるつもりはまったくないようだ。

京都歩き8-3

 出町柳の駅を過ぎて、高野川と賀茂川の合流点近くの河合橋を渡る。向こうに見えているのは賀茂大橋だ。
 今気づいたけど、地図上では高野川と合流する前は「賀茂川」と表記してある。それが合流後からは鴨川になる。
 賀茂と鴨の関係でいくと、下鴨神社(しもがもじんじゃ)と上賀茂神社(かみがもじんじゃ)もそうだ。
 昔の書物の中でも混在していて、どちらが正式とかいうことではないようだけど、使い分ける必然的な理由が何かあったのだろう。

京都歩き8-4

 石柱にもある通り、下鴨神社の正式名は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)だ。
 上賀茂神社は、賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)が正式名となる。
 直線距離で2.5キロくらい離れている二つの神社の関係性がどうなのか、よく知らない。どちらも古代の賀茂氏の氏神を祀る神社で、二つセットになっているところもある。葵祭は両方の祭事だ。二つあわせて山城国の一宮ということになっている。
 だから、本来なら二つまとめて参拝すべきなのだろうけど、下鴨神社で限界だった。体力的な問題よりも、下鴨神社の最後にはもう日没で暗くなってしまった。下鴨神社だけでも端から端まで500メートルくらいあって、往復するだけでもしんどかった。

京都歩き8-5

 境内の空気感は、想像していたよりもまろやかだった。もっとピリピリムードの神域を想像していたから、がっかりというのではないけど、少し肩の力が抜けた。落ち着いた穏やかな神社という印象を持った。

京都歩き8-6

 江戸時代初期の1628年に建てられた楼門。重文指定。
 現存している建物は江戸時代に再建されたものが多いものの、そのほとんどが重文で、本殿は国宝指定となっている。
 境内には糺の森(ただすのもり)があり、下鴨神社全域が世界文化遺産に登録されている。

京都歩き8-7

 右手の舞殿も、1628年に建て替えられたもので、重文指定。
 境内を掃く巫女さん。これだけ大きな神社だから、数人が常駐している。

京都歩き8-8

 建物はどれをとっても品格があって、格好いい。ビシッとした正統派といった趣だ。

京都歩き8-9

 祭神は、玉依姫命(タマヨリビメ)と、その父である賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)で、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命(カモワケイカヅチノミコト)はタマヨリビメの子供ということで、賀茂御祖神社と名づけられている。
 カモワケイカヅチは記紀には登場しない。『山城国風土記』に出てくる神で、山城ローカルの神と言えるかもしれない。ただ、その母であるタマヨリビメは記紀に出てきていて、初代天皇である神武天皇(カムヤマトイワレビコ)などを産んでいる。
 ということは、カモワケイカヅチと神武天皇は兄弟なのかといえば、ちょっと違うような気もする。このあたり私自身がよく分かっていないのだけど、異父兄弟なのか、もしくは、記紀のタマヨリビメと『山城国風土記』のタマヨリビメは別人なのか。
 タマヨリビメの父であるカモタケツヌミは、八咫烏(やたがらす)に化身して神武天皇を導いたとされている。
 何しろ、上賀茂神社、下鴨神社ともに古い神社で、崇神天皇の時代に瑞垣の修造が行われたという記録があるという話があり、となるとそれは紀元前90年頃ということになる。創建はもっと昔ということか。
 少なくとも、天武天皇の時代には社殿が建てられたというし、それ以前の500年頃には創建されたという説もある。
 いつか上賀茂神社へ行ったら、もう少し詳しく勉強したい。

京都歩き8-12

 太鼓橋の手前に、「光琳の梅」と名づけられた梅の木がある。
 尾形光琳が、この梅を見て、国宝の「紅白梅図二曲屏風」を描いたという話が本当かどうかはともかく、なかなかいいエピソードだ。琳派は江戸時代の京都で花開いた芸術だし、そういう部分の京都を意識すると、京都巡りがもっと楽しくなりそうだ。

京都歩き8-11

 御手洗社(みたらししゃ)と、みたらしの池。
 さほど大きな社ではないけど、印象的な風景だった。下鴨神社の中でここが一番気に入った。
 毎年7月の土用の丑の日に、この池に足を入れて厄除け祈願をする神事があるそうだ。
 この池に浮かんだ水泡から想を得て、人の形の団子を作ったのが、みたらし団子の始まりと言われている。
 だんごの輪島も、一度くらいお参りに来ているだろうか。

京都歩き8-13

 巫女さんではない女性の神職の人はちょっと珍しい。しかも、紫の袴をつけた女性神職となると、かなり少ないから、私は初めて見た。
 神職の身分制度はちょっと複雑で、外部の人間は分かりづらいところもある。
 役職としては、宮司や権宮司、禰宜、権禰宜などがあり、身分制度として特級、一級から四級まである。階位として、浄階、明階、正階、権正階、直階というのもあるらしい。
 階級によってなれる役職が決まってきて、平の神職は浅葱色(水色みたいなやつ)を履いている。その上が紫で、更に一段上になると紋付きの紫になる。一番上は紋付きの白だ。ただ、若いのに白を履いていてすごいと思うのは早とちりで、無地の白は学生とか実習生が履いている。
 どうやって階級が上がっていくか知らないけど、紫袴の人を見たら、なかなかの出世と思っていい。

 今回の京都歩きでは寺社はなるべく飛ばして、歩くことに重点を置こうと考えていたのに、後半はなんだかんだで神社巡りになった。
 京都シリーズは残りは1回で、最後は御所と二条城を紹介して終わりとなる。

大豊神社に立ち寄りつつ哲学の道を歩く <京都歩き第7回>

未分類
京都歩き7-1

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 平安神宮をあとにして、次に向かったのは銀閣寺方面の哲学の道だった。
 丸太町通をとぼとぼ歩いていると道の反対側に立派な神社があった。表から見てもなかなか雰囲気のある神社で、由緒ありげだったのだけど、まだ先は長いということで、外から写真を撮っただけだった。ちょうどいいタイミングで親子が出てきてくれて、この写真を撮れただけで満足してしまったというのもある。
 平安遷都をしたとき、桓武天皇が平安京の守りを固めるため四方に造らせた神社の一つで、東方面担当だったとのことだ。やはり歴史のある神社だったかと、帰ってきてから調べて納得した。
 祭神はスサノオ。
 昔はこのあたりは野原のようなところでウサギがたくさんいたとのことで、ウサギがこの神社の使いとなっている。境内にはウサギの像などがいるようだ。
 ウサギの神社といえば、大津の三尾神社もそうだった。卯年には大勢の参拝客が訪れるに違いない。
 子授けや安産のご利益があることでも有名なんだとか。

京都歩き7-2

 哲学の道に辿り着いてすぐ、また神社を見つけた。入るかやめるか考えて、ここは入ることにした。なんとなく気まぐれで。
 大豊神社とある。中日の大豊を思い出したけど、読み方は「たいほう」ではなく「おおとよ」だった。一本足打法とは関係がない。

京都歩き7-3

 参道脇に店があって、食べ物屋さんかと思ったら和服が店先に出ている。何屋さんかよく分からないけど、食べ物屋ではなさそうだ。
 すぐ隣にノートルダム女学院の中学、高校がある。そこの生徒さん目当ての店かもしれない。

京都歩き7-4

 哲学の道の南端に近いところで、哲学の道はそれなりに人が歩いているけど、奥まった神社を訪れる人は少ないようだ。私の他には誰もいなかった。このあたりまで来ると、もう観光地からはだいぶ外れている。
 人がいないというだけでなく、境内は静かで落ち着いた雰囲気だった。こういう空気感の神社は好きだ。

京都歩き7-5

 椿ヶ峰を御神体として、平安時代前期の887年に山中に創建されたのが始まりだそうだ。その頃は、椿ヶ峰天神と称していたらしい。
 平安中期に今の地に移されて、大豊神社となった。なかなか古い歴史を持つ神社だ。
 祭神はスクナヒコナ(少彦名命)。
 オオクニヌシが国作りをするとき、海の彼方から頼まれもしないのにやって来て手伝った神様だ。
 どういう経緯でスクナヒコナが祭神として選ばれたのか、そのあたりの調べがつかなかった。
 スクナヒコナを祀る神社は、関西に集中している。関東にもいくつかあるけど、中部地方では馴染みがない。

京都歩き7-6

 スクナヒコナの盟友ということで、大国社にオオクニヌシが祀られている。
 ここでは狛犬の代わりにネズミが守っている。狛鼠だ。
 オオクニヌシはピンチでネズミに助けられたことがあり、以来ネズミがオオクニヌシの守り神になった。
 オオクニヌシは地上の王となった神だけど、もともとは大勢の兄貴たちにいじめられるいじめられっ子だった。因幡の白兎の話は有名だから知ってる人も多いと思う。
 オオクニヌシの兄貴たちは、因幡に八上比売(ヤガミヒメ)という絶世の美女がいると聞き、みんな揃ってプロポーズをするために因幡へ向かうことにする。そのとき、弟のオオクニヌシは荷物持ちとして連れていかれることになった。
 現地に着くと、砂浜でサメに皮をはがれたウサギが瀕死で転がっていた。ウサギは兄貴たちに助けを求めるが、からかって嘘を教え、更に傷が悪化してしまう。
 遅れてきたオオクニヌシがその様子を見て、本当の治療方法を教えてあげるとウサギはすっかりよくなり、ヤガミヒメは兄貴たちではなくあなたを選ぶでしょうと言い、実際その通りになる。
 しかし、怒った兄貴たちはオオクニヌシを袋だたきにして殺してしまう。嘆いた母親が神様に頼んで復活する方法を教えてもらい、オオクニヌシは生き返る。
 けど、このままではまた身が危ないということで、オオクニヌシは黄泉の国にいるスサノオに助けを求めに行く。
 そこで出会ったのがスサノオの娘、須勢理毘売(スセリビメ)だった。たちまち恋に落ちる二人。意外とちゃっかりしているオオクニヌシは、スセリビメと結ばれてしまう。
 これにはオヤジのスサノオが腹を立てた。オオクニヌシはいくつもの意地悪い試練を与えられることになる。それに救いの手を差し出すスセリビメ。スセリビメの機転でなんとか難を逃れるオオクニヌシ。更に追い打ちをかけるスサノオのオヤジ。あわや絶体絶命というところで救ったのがネズミだった。
 助かったオオクニヌシはスセリビメと共に地上世界に駆け落ち。やれやれよかったと喜んだのも束の間、次に待っていたのはヤガミヒメとの泥沼の三角関係だったのだけど、それはまた別の話だ。
 とまあ、そんなわけで、オオクニヌシといえばネズミ、というのはこんなエピソードから来ているのだった。

京都歩き7-7

 このとき、ロウバイの蕾が開きかけていた。今頃はもうすっかり咲いている頃だろう。
 椿ヶ峰の名前の通り、椿もたくさん植えられているようだ。他には梅や桜、紅葉のちょっとした名所にもなっているそうだ。

京都歩き7-8

 黄色い実は何だろう。あまり見覚えがない。

京都歩き7-9

 哲学の道では、カップルがみんな手を繋いで歩いている。
 たまたまだったのか、5組見て5組とも繋いでいた。京都では手を繋ぐことがスタンダードなのか、哲学の道で流行っているだけなのか、よく分からない。
 散歩するにはいい道だ。

京都歩き7-10

 ベンチで本を読む人。哲学っぽい。
 のちに哲学者となる西田幾多郎がいつもこの道を考え事をしながら歩いていたことから哲学の道と名づけられたとされている。昔は思索の小径とも呼ばれていたらしい。
 桜並木になっているから、やはり季節は春が最高だろう。

京都歩き7-11

 カップル率高し。

京都歩き7-12

 ランニングをしている学生もいる。

京都歩き7-13

 北上して、銀閣寺に近づくにつれて観光客の姿も増えていく。
 銀閣寺前はけっこうな賑わいを見せていた。私は銀閣寺には寄らず。
 このあとの目的地は、下鴨神社だった。時間的にもそこが北上の限界だった。
 この京都シリーズも残り2回となった。

セリバオウレンで野草プレシーズンマッチ開幕

花/植物(Flower/plant)
セリバオウレン-1

PENTAX K10D+TAMRON 90mm f2.8



 セリバオウレンを撮るのも今年で4回目になる。
 撮るのがとても難しい花で、毎年敗北感を引きづったまま現地を後にすることになるのだけど、今年は少しだけ撮れたような気がした。毎年、ちょっとずつでも成長しなければ情けないし、セリバオウレンにも申し訳ない。
 場所は例によって、岩屋堂の浄源寺裏だ。ここ以外では見たことがなくて、でもここに行けば必ず見られる。
 まだピークは先だろう。今年は少し早めに出向いた。2月の半ばくらいが見頃なんじゃないかと思う。それでも、ポツポツ咲き始めていたから、写真に撮るなら早めの方がいい。
 私の場合、春の野草シーズン開幕を告げる花は、オオイヌノフグリとホトケノザだ。この二つを見ると、野草シーズンが始まったことを実感する。
 その前に咲くセリバオウレンは、プレシーズンマッチのようなものだ。シーズンインの前の試運転のような感じがある。春野草の本番は、もうすぐそこだ。
 ということで、今日は撮ってきたセリバオウレンの写真を紹介したいと思う。この花の魅力が伝わるといいのだけど。

セリバオウレン-2

 いつもどうやって撮ろうとかということに頭がいってしまって、雄花と雌花を探して撮ることを忘れてしまう。
 一番多いのが雄花で、次に両生花で、雌花はとても少ない。
 上の写真でいうと、先端に丸がついたヒゲみたいのが雄しべで、中央の緑色がめしべだ。だからこれは両生花ということになる。
 緑色の部分が赤っぽいのもあり、茎の色も緑があり、赤系がある。
 一枚目の写真のは、雄花のようであり、赤い部分がめしべなら両生花ということになる。
 なかなか区別をつけるのは難しい。
 雌花は今回、撮れていなかった。おしべがないものが雌花だ。

セリバオウレン-3

 基本的にセリバオウレンはハイキー気味の方が似合うけど、光と影のコントラストがあるシーンではローキーでもいける。
 枯れ葉の斜面に咲いている花だから、工夫なく撮ると背景が赤茶色になってしまって、あまり面白くない。

セリバオウレン-4

 真っ白な個体。ウェディング衣装のような白。
 こういう花は暗いバックが似合う。

セリバオウレン-5

 ピンク色っぽいのもある。
 雄花だけど、これはこれで可憐だ。

セリバオウレン-6

 1センチにも満たない小さな花だから、小ささを表現したいと思うのだけど、これがなかなか難しい。
 大きさを比較する対象がないし、離れて小さく撮ると、背景が雑然としてしまう。背景が上手く抜けている場所に咲いているといいのだけど、この日はそういうシチュエーションを発見できなかった。
 ここでの撮影は、かなり自由度が低いから、そういう意味でも難易度が高い。

セリバオウレン-7

 1時間ほどかけてかなりの枚数を撮ったものの、そうそう変化をつけられるものでもない。
 三脚も使える状況ではないから、手ぶれ、ピンぼけ写真の大量生産になる。微妙に位置をずらしながら、数を撮るしかない。

セリバオウレン-8

 三輪ほど咲いていたバイカオウレン。
 咲いていることは分かっていたのに毎年見つけることができなくて、今年初めて発見した。庭の中央に近い石の影にひっそり咲いていた。
 セリバオウレンよりは大きい。

セリバオウレン-9

 苔らしきやつも撮ってみる。ツンツンした芽がかわいい。

セリバオウレン-10

 赤い実。何者かは知らない。
 よく見かける青いやつもあった。

セリバオウレン-11

 水路に沈む枯れ葉。
 春になれば枯れ葉はいつの間にかなくなってしまう。どこかへ吹き飛ばされるのか、土に還るのか。

 セリバオウレンは、思ったほど撮れてなかったけど、去年よりは手応えがあった。少し掴んだものもある。
 今年は野草写真も多少変わるんじゃないかという予感がある。花なんて誰が撮ってもそんなに違わないと思っていたけど、やっぱり違うといえば違う。
 大事なのは、背景の選び方と光の回し方だ。
 野草撮りが今から楽しみになってきた。場所によってはそろそろオオイヌノフグリも咲き始めているんじゃないか。来週あたりから始動していきたい。

瀬戸で雪に降られる節分の日

雨/雪/天候(Weather)
瀬戸車窓-1

PENTAX K10D+TAMRON 90mm f2.8



 家を出てほどなくして、晴れから少し曇り始め、途中で雨がポツリポツリと降ってきた。セリバオウレンは雨中での撮影になるのかと思いきや、瀬戸に入ったとたん、雨は雪に変わった。次第に激しさを増し、瀬戸駅近辺で最高潮の猛烈な降りになった。雪中ドライブもめったにしないけど、雪降る中の撮影はもっとしない。不安を感じつつ、ここまで来たからにはとりあえず現地に行って様子を見てみるしかないということで、予定通り岩屋堂へ向かうことにした。
 ここしばらく京都シリーズがしばらく続くいたから、いったん中断して、今日は季節の話題を二つお届けしたいと思う。
 一本目は雪の車窓風景だ。これは昨日のことで、ここらで節分の日に雪が降るのは珍しい。めったに見られない雪だから、嬉しくなって車の中から写真をたくさん撮った。
 今日は立春だというのに、昨日以上に寒かった。春は近いようでまだ少し遠い。

瀬戸車窓-2

 ファッションセンターしまむらの前もこの雪。シマラーもびっくり。

瀬戸車窓-3

 瀬戸駅前。このときが一番よく降っていた。
 その後、10分くらいしたら突然雪はやんだ。結局、降っていたのは20分くらいで、通り雨ならぬ通り雪だったようだ。
 岩屋堂へ近づくと、地面は濡れてもおらず、雪も雨も降った形跡はなかった。同じ時間の名古屋も降ってなかったようだし、この雪はかなり局地的で、短時間の出来事だったようだ。

瀬戸車窓-4

 雪の予報など出ていなかったはずだ。誰も傘など持っていなかった。
 2月の午後に、にわか雪が降るなんてのは、本当に珍しい。

瀬戸車窓-5

 瀬戸の有名な陶器店。
 雪が似合う建物で、北陸あたりの風景みたいだ。金沢とかを連想させる。

瀬戸車窓-6

 ここからは帰り道の写真になる。
 雪がやんでほどなくして晴れ間が戻り、夕方は夕焼け空になったほどだった。
 晴れから始まって、曇り、雨、雪、また晴れと、コロコロと天気が変わる一日だった。

瀬戸車窓-7

 同じ場所の数時間後とは思えないほどの変わり身だ。地面が乾けば、雪が降った痕跡さえ残らなかった。

瀬戸車窓-8

 古い家屋。渋い。壁の赤色のグラデーションがいい。

瀬戸車窓-9

 煙を吐く煙突と、縦横に走る電線。
 20世紀の名残のような風景。

瀬戸車窓-10

 自転車通学の帰り道。高校生の頃を思い出す。

瀬戸車窓-11

 暮れかけの空に薄いちぎれ雲が風に流されていた。
 思いがけず雪が見られて喜んだ。そんな節分の一日。

祇園から平安神宮までまだまだ歩く <京都歩き第6回>

京都(Kyoto)
京都歩き6-1

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 祇園へ行って、祇園を見たい、と思っていた。けど、具体的にどこへ行けば祇園らしい光景が見られるのかは、よく分からなかった。八坂神社の西前に、祇園交差点があって、西の鴨川沿いに祇園四条駅がある。そのあたりだろうということだけは見当をつけて、あとは現地に行って歩いて探すしかないと考えていた。
 実際に歩いてみて、四条通を挟んで南側は花見小路沿い、北側は白川沿いが祇園らしさが感じられる場所だということを知った。他にもあるのかもしれないけど、たぶんこのあたりが祇園を代表する光景なのだと思う。上の写真は白川沿いの風景だ。テレビなどで見覚えがあるという人も多いんじゃないだろうか。
 おあつらえ向きに登場すべき人物が登場している。映画かドラマの撮影でもしてるのかと思ったほど出来すぎの光景だ。
 帰ってきて調べたところ、祇園は八坂神社の門前町として発展した街なんだそうだ。西の四条通沿いに飲食店などが集まったのが始まりで、そこからだんだん花街と呼ばれるような歓楽街へと変貌していったという流れのようだ。
 舞妓さんと芸子さんの違いなどもよく分からなかったので少し勉強してみた。
 簡単に言うと、若い見習が舞妓で、一人前になると芸子になる。ただ、ちょっとややこしいのは、舞妓、芸子というのは関西風の呼び名で、関東では芸者になるということだ。関東での見習いは半玉と呼ぶそうだ。芸子も、関西では芸妓(げいこ)という字が使われることが多いらしい。
 一般的にそれらの人々の総称として、芸妓(げいぎ)という呼び名が使われている。
 地方によってもいろいろ違いがあって、京都では中学を卒業するくらいから踊りや楽器の稽古を初めて、20歳くらいになるとお披露目をして芸子になるとのことだ。たまたまこの前テレビでやっていたのだけど、名古屋にも舞妓、芸子はいて、名古屋の場合は18歳から始めても舞妓になれるんだとか。
 舞妓と芸子の見た目の違いとしては、単純に派手な衣装を着ていたら舞妓さんで、おとなしい着物なら芸子さんと思っておけば大きく間違わないと思う。舞妓は自前の髪の毛で、芸子はカツラという違いもあるらしい。
 ということで、上の写真は芸子さんだと思う。

京都歩き6-2

 白川の流れとお茶屋さんが並ぶ風景。
 ここはなんといっても桜の季節だ。特に夜桜がいい。シーズンになるとテレビで紹介されることも多い。
 すごい人混みだとは思うけど、一度見てみたい。

京都歩き6-3

 別の芸妓さん登場。
 舞妓さんか、芸子さんか、どちらだろう。派手か地味かといえば、どちらとも言えるけど、たぶん芸子さんだ。
 この左手に有名な辰巳神社がある。

京都歩き6-4

 白川南通から一本北に入った新橋通。
 ここもなかなか雰囲気があっていい通りだ。白川通とともに町並景観保存地区に指定されている。
 お宅の方が雑巾で拭き掃除をしていた。ご苦労様ですと声をかけたくなる光景だった。

京都歩き6-5

 和を感じさせる屏と影の風景。最近、よくこういうのを撮っている。

京都歩き6-6

 お寺のような民家なのか、やっぱりお寺なのか。
 20年くらい前なら、こういう家屋ももっとたくさん残っていただろうに。

京都歩き6-7

 間口が狭く、奥行きがあるところから、うなぎの寝床と呼ばれる京都の町屋。
 間口の広さで税金が決められたから、わざと間口を狭くした造りにした、とよく言われる。けど、これは俗説で、本当はそんなことはないらしい。密集地にたくさん家を建てるために必然的にこうなっただけのようだ。
 京都の町屋も、年に1,000軒くらいずつ減っていっているそうだ。京都もだんだん京都らしさを失いつつある。

京都歩き6-8

 祇園から北東に向かって歩き、京都市動物園の前を通りつつ、平安神宮の大鳥居の前へとやって来た。南禅寺も見たかったのだけど、今回はパスした。

京都歩き6-9

 100年やそこらでは神社仏閣としてはまだまだ若い。塗り直しもしているのだろうけど、まだ新しささえ感じさせる。 
 応天門を模した神門は、かなり立派なものだ。あと200年もしたら、もっと風格が出ていい感じになるだろう。

京都歩き6-10

 敷地はかなり広い。門をくぐって遠くに拝殿が見える。
 この拝殿は平安京大極殿を8分の5の大きさで再現したものだ。原寸大の本家は大迫力だっただろう。
「雲太、和二、京三」という言葉がある。当時日本でベストスリーの建物のことで、雲太は出雲大社、和二は東大寺大仏殿、京三が京都平安京の大極殿だった。
 大極殿は何度も焼けたり再建したりを繰り返して、最後は1177年の火事で焼けてそのままになった。

京都歩き6-11

 平安神宮は、平安遷都1100年記念として、明治28年(1895年)に創建された。京都の中でも新参の神社だ。
 祭神は、平安京に遷都した桓武天皇。
 昭和15年に、孝明天皇も合祀された。なんで孝明天皇なんだろうと思ったら、幕末の天皇で、明治からは皇居が東京に移ったから、京都最後の天皇ということで平安神宮に祀られることになったのだった。

京都歩き6-12

 山肌がはげていて、大の字が見える。大文字焼きの大だ。

京都歩き6-13

 鴟尾といってすぐに思い浮かぶのは、東大寺大仏殿だ。
 平安神宮にもいた。他にはどこで見ただろうか。
 中国から渡ってきたものが変化したもので、飛鳥時代にはすでに造られていたという。ここから更に変化して鯱になっていった。

 私の京都歩きは、ここらで半分を過ぎたあたりになる。あとは哲学の道から下鴨神社へ行って、御所から二条城というコースだった。
 まだもう少し京都シリーズは続く。

京都の観光地は期待を裏切らない <京都歩き 第5回>

京都(Kyoto)
京都歩き5-1

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 今日は昨日の続きで、清水寺をあとにしてからの話だ。
 昨日も書いたように、しばらく自分の位置を見失ってさまようことになる。清水寺周辺は、碁盤の目状になっていないから、少し道が分かりづらい。ここまで来たからには産寧坂と二寧坂も見ておきたくて、少し探すことになった。
 ウロウロしている間に、八坂まで出てしまった。上の写真は法観寺の五重塔で、もっぱら八坂の塔と呼ばれている。有名な場所だから、写真や映像で見たことがあるという人も多いと思う。私もこの場に立ってみて、なるほどここかと納得した。路地の雰囲気や家々の間から寺社の建物が見えている感じが、とても京都らしい風景だと思う。
 八坂の塔は聖徳太子が建立したという話もあるけど、実際はそうじゃなく、でも平安遷都以前に建てられた古いお寺といわれている。渡来系の八坂氏の氏寺だったという説が一般的だ。
 五重塔は何度か焼けて、そのたびに再建されてきた。鎌倉時代に頼朝も再建している。
 現在のものは、室町時代に足利義教が再建したものだ。義教といえば、くじで将軍になったことから、くじ引き将軍と呼ばれた将軍だけど、こんなところでも足跡を残している。

京都歩き5-2

 私と同じように道に迷っていた彼女。看板を見たり、ガイドブックを見たり、進んだり戻ったりしていた。
 どうやら同じく二寧坂が見つからなかったようだ。その後、別の場所で4回くらい見かけることになる。見つけては、あ、またいた、とか思って笑えそうだった。向こうも同じだったかもしれない。

京都歩き5-3

 これが産寧坂だと思うのだけど、あまり自信がない。北側にあるのが二寧坂で、その南の産寧坂を進むといつの間にか八坂になる。そのつながりがはっきり掴めずじまいだった。

京都歩き5-4

 これも産寧坂の続きか。
 看板の前にいた彼女が前を歩いているのが写っている。

京都歩き5-5

 すだれも京都らしさを演出する小道具の一つだ。
 粋な感じというか、無粋じゃない。町並保存地区でなくても、何が日本の美かということを京都の人たちはよく知っている。時代が移り変わっても、変わらないものもある。

京都歩き5-6

 二寧坂を抜けた先。右手は桜並木か。
 清水寺への北入口のような場所だろうか。人力車も控えていて、観光地っぽい雰囲気だった。
 左手に見えている塔のようなものは何か知らない。

京都歩き5-7

 人力車と外国人カップル。
 思い描いていた京都らしさは、ここにあっただろうか。

京都歩き5-8

 舞妓さんとすれ違う外国人カップルは、舞妓さんを見て大喜びしていた。オー、ワンダフル、とか言ってた。こういうのを見たかったんだと思っていただろうか。

京都歩き5-9

 八坂神社の入口に突き当たった。南側のこちら側が正面の鳥居ということになるのだろうけど、西の四条通りに面した楼門の方が有名かもしれない。楼門は重文でもあり、あちらかの方が絵になる。
 八坂神社も古い神社で、もともとは神仏混合の寺院色が強いところだった。明治の神仏分離令で八坂神社と改称される前は、祇園社や祇園感神院などと称していた。
 祭神はスサノオだけど、それはあとからで、本来は牛頭天王を祀ったのが始まりだろう。
 創建も古く、先ほど出てきた法観寺とも関係がありそうだ。

京都歩き5-10

 西楼門から四条通を見る。帰りはこちらから出た。

京都歩き5-11

 次に祇園へとやって来た。祇園は行ったことがなかったから、今回楽しみにしていた。
 花見小路の入口だ。さすがに祇園は華やいだ雰囲気がある。観光客もそこそこ歩いていた。

京都歩き5-12

 花見小路の様子。
 少し観光地化されすぎているようにも感じたけど、こういう場所も必要だ。観光地はあくまでも観光地らしくあるべしというのを体現している。

京都歩き5-13

 花見小路の突き当たりに建仁寺があった。せっかくなので、少しだけ寄っていくことにする。

京都歩き5-14

 本堂らしき伽藍を見て、境内の雰囲気を味わって、早々に後にする。
 まだ先は長い。今日はここまでとしたい。

清水寺あたりを歩き回っていたとき <京都歩き 第4回>

京都(Kyoto)
京都歩き4-1

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 いきなり雪の写真だけど、これも京都行きのときに撮ったものだ。ご存じの方も多いと思うけど、とにかく関ヶ原というのはやたら雪が降るところなのだ。名古屋も京都もよく晴れていたのに、関ヶ原が近づくとにわかに雪国になっていき、米原を過ぎるとまた雪など影も形もなくなってしまった。地形の関係なのだろうけど、冬場にあのあたりを通ると不思議な感覚になる。
 高山で雪を見てなければ感動的な車窓風景だっただろう。それにしてもよく積もっていて驚いた。

京都歩き4-2

 雪景色をもう一枚。
 地理的にはそれほど山奥でもないのに、冬は雪国めいてしまう関ヶ原。関ヶ原の合戦が雪の中で行われていたら、勝敗の行方は違ったものになっただろうか。
 雪が降ると新幹線は関ヶ原あたりで止まったり遅れたりする。本当は関ヶ原は避けたかったようだけど、地図を見てもこのルート以外には考えられない。南には養老山脈、北には伊吹山がある。三重県ルートを取ると、岐阜が全部飛んでしまうし、北陸との連絡も悪くなる。
 リニアは、今のところ三重県北部を横断して真っ直ぐ大阪へ向かうルートが計画されている。東京、大阪が1時間ちょっとの時代がもうすぐ本当に来るんだろうか。

京都歩き4-3

 京都駅ビルの中は初めて入った。
 完成したのは1997年というから、もう13年になるのか。1994年の平安遷都1200年記念事業の一環だったというのは知らなかった。
 外観も洒落てるけど、内部のデザインも斬新だ。贅沢な空間がデザインされている。

京都歩き4-4

 京都シリーズも今回が4回目となる。
 ここからは歩いた順番に振り返りながら写真を並べていくことにしたい。もう使った写真もだいぶあるから、少し飛び飛びな感じになる。
 橋は五条大橋だ。鴨川はもっと狭い川のように思っていたけど、実際川幅は広い。水量はあまり多くない。
 見えている山はどこの山か分からない。方角的には大文字焼きの大文字山のような気もするけど、違うだろうか。
 天智天皇陵はもう少し右手か。

京都歩き4-5

 鴨川は、特にこれといった特徴のない川に見えた。街中を流れる川の典型的な姿だ。
 鴨川名物等間隔のカップルというのはどのあたりにいるのだろう。冬場はあまり出没しないのだろうか。

京都歩き4-6

 五条大橋を渡って、清水寺へ向かう道。少しずつ観光客の姿を見えてきて、ようやく観光気分になってくる。

京都歩き4-7

 こんなところに若宮八幡宮があった。時間がなくて中に入らなかったのだけど、あとから思うと入って挨拶くらいはしてくるべきだった。
 1053年に後冷泉天皇勅願で、源頼義が創建している。源頼義は、鎌倉の鶴岡八幡宮を創建した、河内源氏初代の武将だ。
 名古屋にも若宮八幡社があるけど、あれはこことは直接関係ない。名古屋城内に創建されたのが700年頃というから、もっと古い。

京都歩き4-8

 駐輪中の人力車。この日は観光客も少なく、客を乗せて走っているのを見ることはできなかった。乗っていたら恰好の被写体になってしまう。
 向こうに見えている家の二階のオブジェもちょっと気になった。バンザイをしているマネキンや、大きなお面のようなものが飾られている。

京都歩き4-9

 清水寺さえ拝観するつもりはなかった。とりあえず仁王門をくぐって、西門、三重塔あたりまでは無料エリアなので、そのあたりまでは進入してみる。

京都歩き4-10

 清水寺は坂を登り詰めた先にあるから、高台から振り返ってみると京都の街並みを見下ろすことになる。
 こうしてみると京都タワーも存在感がある。地上レベルにいるとあまり姿を見ない。
 京都が山に囲まれた盆地だということがよく分かる。

京都歩き4-11

 清水寺の建物はほとんどが江戸時代に再建されたものだ。仁王門は、室町時代後期再建なので、主要な建物の中ではこれが一番古いということになるだろうか。有名な清水の舞台がある本堂も、国宝ではあるけど江戸時代再建のものだ。 
 三重塔も江戸時代初期で、高さは30メートルちょっと。もともとは847年に建てられているから、それが残っていればと思わずにはいられない。

京都歩き4-12

 茶碗坂だか、五条坂だか、そのあたり。ここは人気スポットで、大勢歩いていた。急にどこから湧いてきたんだろうというくらい、清水寺周辺は人が多かった。京都を代表する観光スポットだから当然か。オンシーズンは大渋滞になるのだろう。

京都歩き4-13

 最初、産寧坂と二寧坂の場所が分からなくて、少しさまよった。気づいたら八坂のあたりをウロウロしていた。
 写真を見ても、これが産寧坂だったのか二寧坂だったのか、よく分からない。
 このあともしばらく迷いながら歩き回ることになるのだけど、それはまた次回ということにする。

京都らしさとらしくなさ <京都歩き第3回>

京都(Kyoto)
京都らしさ-1

PENTAX K10D+TAMRON 28-75mm f2.8



 私たちは多かれ少なかれ、京都に対して幻想を抱いている。勝手にイメージを抱いているのみならず、それを京都に押しつけようとするところがある。京都らしいものを見て喜び、京都らしくない部分を見て不満を口にする。それは異国の人が日本に対して間違ったイメージを持っているのと違いがない。京都にしてみたら迷惑な話だろう。
 今回、京都の街を歩きながら感じたのは、私たちが思い描く京都というのが案外狭い範囲内に封じ込められていることだった。確かに観光エリアに入ればそこはイメージの中にある京都には違いないのだけど、街中は地方の都市とほとんど変わらない没個性的な姿をしている。京都の街もまた、急速な変化を免れられずにいるようだ。ある時期を境にして、古い部分と新しい部分との二極化を受け入れたと言った方がいいのかもしれない。その象徴が巨大な駅ビルだろう。
 歴史のある場所は残しつつ、京都も立ち止まってはいられないといったところだろうか。きちんと訪れたのが20年ぶりということで、余計にそういうことを感じたに違いない。
 いくつか考えていた撮影テーマの一つとして、京都らしさと京都らしくなさ、というのがあった。京都らしい部分は必然的に撮ることになるだろうから、京都らしくない部分を意識的に撮っていこうと考えていた。京都らしくなくてなおかつ魅力的な被写体というのがどういうものなのか、行ってみるまでよく分かってはいなかったのだけど、撮り歩いているうちに自分が京都らしくないと感じる部分がだんだん見えてきた。
 今日はそんなテーマで写真を集めてみた。観光地ではない京都を撮りつつ、被写体としての京都の魅力を探っていきたい。

京都らしさ-2

 京都駅北西の裏手あたり。やや道に迷っている最中。しばらくは街の感覚が掴めなかった。
 平安京があった位置は、現在の京都市街地とほぼ重なっている。それより少し狭い範囲だ。北は一条から南は九条まで、地名としても残っているから分かりやすい。京都駅は南の端に近い部分だから、かつての都の中心はそこからもっと北ということになる。
 北の端に大内裏を作り、そこをぐるりと囲んで南の出入り口に朱雀門を置いた。そこから真っ直ぐ南に朱雀大路を伸ばし、南端は羅城門が守りを固める。
 京都は確かに歴史のある街で古い建物もたくさん残ってはいるけど、さすがに平安時代のものは少ない。長い歴史の中で何度も戦火や火災で焼けた。第二次大戦の空襲で焼かれなかったのは不幸中の幸いだった。戦争があのまま続いていたら京都もただでは済まなかった可能性もある。
 奈良の平城宮がやったように、京都も朱雀門か羅城門あたりを復元しないだろうか。奈良とは違って京都は完全に街中だから、当時の場所に復元するのは難しいだろうけど。

京都らしさ-3

 京都だってこんなところがあってもいい。むしろ、あまり小綺麗に体裁を整えずに、こういうところも見せていっていいんじゃないか。私はこういう姿の方が安心する。歳月が生み出すありのままの光景だから。

京都らしさ-5

 広い五条通。現在の国道1号線でもある。
 旧東海道はどこの通りだったのだろう。このときは何も意識していなかった。
 東海道と中山道の終点は、三条大橋だ。五条通からもっと北へ行ったところだ。

京都らしさ-6

 よく見かける提灯型の花を咲かせるやつ。いつも名前を忘れる。
 京都の格子に咲いていると、なんだか風情のある花のようだ。

京都らしさ-7

 松影と障子窓と渋い壁。和の心。
 京都に限った光景ではないけど、京都によく似合う。

京都らしさ-9

 京都にも昭和レトロはあちこちに残っている。昭和の風景と京都は必ずしもイコールではなく、昭和っぽい店や建物を見ると、なんとなく京都らしくないと思ってしまう。

京都らしさ-8

 懐かしい感じの店構え。老舗の紙屋さんだろうか。時代と共に文房具屋さんに変化していったようだ。最近はこういう個人の店でハガキや切手を扱っているところが少なくなった。

京都らしさ-10

 たまたま前を通りかかった中学。生徒が門から入っていったので、ちょっと撮らせてもらった。
 京都の学校が他と何か違ったことをしているのかどうか知らない。神社仏閣に対する特別授業なんてものがあるわけではないだろう。
 顔だって京都っぽいとかそんなことは見分けがつかない。違うのは言葉遣いくらいだろうか。

京都らしさ-11

 銀閣寺荘。こんなものは早い者勝ちだ。

京都らしさ-12

 伝統味溢れる建物。個人の運送店というのは、いまどき珍しいんじゃないだろうか。昔からのお得意さんで成り立っているのだとしたら、古い街京都ならではと言えそうだ。

京都らしさ-13

 日の出の勢いはなくなっても、まだまだ頑張っている個人の薬局。これだけドラッグストアが増えても、薬局というのは案外どこも続いている。個人経営ならではの部分があるらしい。

京都らしさ-14

 京都に団地は似合わないと思った。実際はどうなんだろう。市街地にもたくさん団地は建っているのだろうか。

 今回は京都らしくない写真が並ぶことになった。何を撮ってるんだと自分でもちょっと思ったけど、これらも京都で撮ってきた写真だ。
 京都らしい写真もあるから、次回からは普通の記念写真なども紹介していきたいと思う。