
PENTAX K10D+SIGMA 30mm f1.4
少し前に土門拳の特集番組を観て感銘を受けて、機会があれば一度見てみたいと思っていたら、思いがけずすぐに叶うことになった。
愛知県美術館で開催されている「日本の自画像 写真が描く戦後 1945-1964」の中で、土門拳の写真も数点展示されていることを知って、早速チケットを手に入れて見に行ってきた。
流れというか、こういう連鎖というのはあるもので、それまで縁がなかったものに一点足がかりができると、そこから横も縦にも縁が広がっていく。何事にも時期というものがある。
サルガドの写真展が東京都写真美術館でやっていてこれもぜひ見たいところではあるのだけど、13日までということで今回はちょっと実現しそうにない。もう一週間早く知っていれば行けなくはなかったのに。
写真展「日本の自画像」は、2009年4月に世田谷美術館で始まって、愛知県美術館は13日までで、2年間で日本国内を回り、その後欧米にいくそうだ。
土門拳、林忠彦、石元泰博、川田喜久治、木村伊兵衛、田沼武能、東松照明、長野重一、奈良原一高、濱谷浩、細江英公と、戦後を代表する写真家の作品168点が展示されている。テーマは、戦後の日本。
終戦直後の復員兵や戦争孤児、焼け野原の情景から復興してゆく日本の姿を捉えた作品群は、見る世代によっていろいろと感じるものも違うだろうと思う。
私は写真の内容よりも、どういうふうに撮られているかに興味があった。優れた写真というのはどういうものかを知りたいと思ったのだ。
端から順番に見ていったわけだけど、やはり土門拳の作品には立ち止まらせる力がある。土門拳の写真が他の写真とは違うことが分かる。ただ、どこがどう違うのかは分かりそうで分からない。
問題は、撮り手と被写体との関係性ということなのだとは思う。土門拳自身はそれを、「カメラとモチーフの直結」、「絶対非演出の絶対スナップ」と呼んでいた。
たとえば戦争孤児のような子供を撮った写真で、撮られた子供は異様な力強い瞳でカメラをにらみつけている。あんな写真はスナップやポートレート感覚では絶対に撮れない。ある意味では遠慮というのがない。普通は入り込めない個人の領域にまでずかずかと土足で踏み込んでいるような写真だ。それゆえに、撮り手と被写体との緊張感が尋常ではないことになっている。
かと思うと、大勢が集まってどんちゃん騒ぎをしている人々を写した写真では、土門拳はまるでそこにないかのように存在感を消している。人々はカメラを意識するでもなく、わざと無視しているわけでもなく、気づいていないわけでもないのに、カメラがその場の空気感と同化して撮られている。
雰囲気を捉えるといった生半可なものではなく、空気まで丸ごと捉えるというのはこういうことなのかと思った。
どうやったらそういう写真が撮れるのかはよく分からないし、土門拳も人に教えることはできないだろう。構図やレンズだけ真似ても同じ写真は撮れない。
土門拳の写真が嫌いという人もいるけど、その理由もちょっと分かったような気がした。私は単純にすごいと感心した。あんな写真が撮りたいというのではなく。
奈良原一高という写真家を知ることができたのも収穫となった。そのまま現代に通じる感覚で撮られた写真は、当時としては斬新に映ったんじゃないだろうか。ユニークな視点と構図は、勉強にもなり、お手本にもなる。まだ健在なので、最近の作品も見てみたい。
写真展のチケットで、絵画の展示も見ることができたので、ついでに見ていくことにした。
しかし、ついでというには失礼な展示品の数々で、見ておいてよかった。
いきなりピカソの「青い肩掛けの女」があって、本物か? と、疑ってしまった。なんでも鑑定団の悪い影響だ。
のちのキュビスムの時代のピカソは分からないけど、初期の作品や青の時代のものは分かりやすくて好きだ。
この作品も、非常に力がある。本物が持つ吸引力は、一度その前で立ち止まったら魅入られたように動けなくなる。暗く沈んだ青で描かれた女の絵は、これといった特徴はないのに、じっと見つめずにはいられない。
本物ってこういうことなんだと、腑に落ちる思いがした。
アンディ・ウォーホルの「レディース・アンド・ジェントルメン」や、クリムトの「黄金の騎士」なんかもあって、強い感銘を受ける。
クリムトの主題は愛と女と死の官能で、黒い馬に乗った甲冑の騎士というのは非常に珍しいモチーフなのだけど、これはこれでものすごく力のある作品だった。写真で見ているよりずっと大きな絵で、近くで見ると繊細で、離れて見ると力強い。
当時としてはスキャンダラスな絵でたくさんの人々に攻撃されたクリムトだったけど、今見ると正統派の堂々とした立派な作品だと思う。金色の使い方などは琳派を連想させるし、王道をゆく巨人がなした仕事といったようなもので、凡百がいくら努力してもとうてい追いつけない領域に思える。
もう一人、今回見ておいてよかったと思ったのは、長谷川利行だった(としゆき、では雰囲気が出ないから、やはり、りこう、と呼びたい)。
「酒売場」のイメージは黒い絵の具で、色調も暗いのに、暗さを感じない。重たいけど重厚とは違う。
近寄って見るとタッチが乱暴で、いい加減に書き殴られたように見えるのに、ある一定の距離から見ると、暴れていると見えたタッチは収まるところに収まり、絵は整然としている。
不思議な魅力を持った作品だ。ちょっと日本人離れしたところもある。
生き様は破天荒で、アウトサイダーではなくアウトローだった。友人にも見放され、最後はのたれ死んだ。
「ノアノアの少女」もあって、こちらはもっと明るい作品になっている。
展示はなかったけど、他にも「 伊豆大島」、「霊岸島の倉庫」、「パンジー」を愛知県美術館は所蔵している。好んで集めたのか、たまたま集まったのか、機会があれば見てみたい。
ありきたりな感想を言えば、生で実物を見ることで得られるものは大きい、ということになる。
ただ、良い作品を見たからといって明日から自分も急に腕が上がるわけではないし、突然芸術家になれるわけでもない。見ることは刺激にはなるとしても、本物現物至上主義に偏重したくないという気持ちもある。
とはいえ、また何かの機会があれば写真展や美術展は行ってみようという気にはなった。しかし、何故展示物は撮影禁止なのだろう。海外の美術館では撮影可能なところが多いそうなのに。撮影を許可してしまうと色々と問題が出てくるから、面倒を避けるためにいっそのこと禁止にしておいた方が無難ということなのだろうけど、これだけ写真というものが人々の生活に浸透してきている時代なのだから、写真撮影を可能とするためにはどういう展示にしたらいいのかという方向性で考えていってもいいのではないか。
写真撮影可能となれば、もっと多くの人が美術館や博物館へ行くようになるはずだし、そうなれば様々な面で美術界に活気も出てくる。私もブログのネタが増えて助かるし。
著作権やら肖像権やらがうるさくなったこのご時世に、第二の土門拳はもう出てこないかもしれないな、なんてことを思いつつ、美術館をあとにしたのだった。