
Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS
愛知県には、瀬戸と常滑(とこなめ)という二つの陶器の町がある。
瀬戸はうちから近いから、何度も行っているし、このブログにもたびたび登場している。窯垣の小径なども紹介した。
常滑は、知多半島の北西部に位置していて、東隣に半田市がある。半田も古い町並みが残る魅力的な町で、散策したときの様子をブログに書いた。常滑も一度行きたいとずっと思っていて、今回ようやく実現した。知多の海へ行く前に寄って、散策路を歩いてきた。
知多半島というのは、鉄道が途中で終わっているから、車以外で行こうとすると不便なところだ。名鉄に任せたのがいけなかった。西は常滑で途切れ、東経由で河和と内海までは伸ばしたものの、ここでもうやめたとなってしまった。環状線にしなくても、せめて師崎までは行くべきだったんじゃないか。
JRは採算が取れないと早々に見切ったようで、半田の南の武豊までしかいっていない。
なので、知多半島の南に住んでいる人にとってはずいぶん不便を感じてるだろうし、こちらから行く場合も行きづらいところになっている。豊橋鉄道が田原までしかいってない渥美半島よりましといえばましだけど。
1995年に開港した中部国際空港は、常滑沖の埋め立て地にある。人工の離島ながら、住所としては常滑市になる。
鉄道は、名鉄の常滑線を延長して、名鉄空港線とした。
これで常滑も大きく様変わりしたかといえばそうでもないようだ。大がかりな再開発されることもなく、古い町並みが残った。
線路は常滑の町の手前でぐぐっとカーブして、空港に向かう。空港の利用客が常滑で途中下車して、ここに立ち寄るということはあまりないんじゃないか。常滑への行き来に関しても、特に便利になったわけでもない。電車の本数が増えたことくらいだ。
空港ができたらもっと発展するだろうと期待してがっかりした住人もいただろうし、町並みが壊されずに残って喜んでいる人もいるだろう。いずれにしても、上空がすごくうるさくなったことは確かだと思う。それだけは想像以上だったんじゃないか。小牧の人たちは静かになって喜んでいる。
常滑焼きといえば、赤い急須を思い浮かべる人が多いかもしれない。常滑焼きの歴史は古く、平安時代後期にまでさかのぼる。
知多半島のこのあたりは粘土が豊富にあったため、早くから陶器が作られるようになった。
瀬戸、越前、信楽、丹波、備前と並んで日本六古窯の一つとされ、その中でも最も歴史がある。常滑焼きは日本全国で出土されていることから、鎌倉、室町までに日本中に広まっていたことが分かっている。
ただ、茶の湯の流行に乗り遅れ、戦国から江戸時代初期にかけていったんすたれた。
再興したのは江戸時代後期のことだ。窯元を一ヶ所に集め、中国から導入した連房式登り窯で大量生産をするようになったことで復活を遂げた。
現在の常滑の町は明治初期にかけて作られた町並みが元になっている。
あまり知られていないけど、招き猫の生産量が日本一で、日本の招き猫の8割は常滑で作られている。
タイルメーカーとして世界的に有名なINAXの本社も常滑にある。
予習はこれくらいにして、そろそろ常滑散策を始めよう。

散策の出発点は、陶磁器会館が便利だ。名鉄常滑駅から歩いて10分弱で、車も無料で駐車させてくれる。散策マップももらえる。
散策路はA、B二つのコースが用意されていて、途中にプレートなども設置されている。マップも案内もやや分かりづらくて少し迷ったけど、路地が入り組んでいるからしょうがない。
Aコースは約1.5キロで1時間コースとあるけど、それはスタコラ歩いたときの所要時間だ。写真を撮ったり、横道に逸れたりしながらのんびり散策していたら、たっぷり2時間はかかる。
Bコースは大回りの4キロだから、倍以上かかる。今回私はAコースプラスアルファを歩いてきた。

ここは作られた景観地区ではなく生活空間で、仕事場としての窯元と、居住空間としての家屋が混在している。散策路はほどよく整備されていて歩きやすい。ただ、観光地のようでいて観光地ではないという微妙な感じだから、歩いているとよそ者が他人の町にお邪魔しているという感覚がある。
この感覚は一種独特のものだと思った。瀬戸とは町の空気感がずいぶん違っている。

混在といえば、動と静の混在といったようなものもある。過去と現代が混じり合うことなく同居していて、古い部分を放置したまま新しい営みがあるというのか、この感じは写真と言葉では伝わりづらいかもしれない。
常滑の町を象徴する赤煉瓦煙突にしても、現役で使われているものはもうなくて、多くが上半分を切られたまま放り出されている。傷んだものは崩れてくると危ないから半分にしてるのだろうけど、町の景観を守るという意味では撤去できず、観光資源としてきっちり整備するところまではいっていない。これらをどうやって保存していくか難しい問題だと関係者がテレビで語っていた。
町として完全にさびれているわけでもなく、古い家屋を再利用して現代的な再生を目指すという意志はあまり強くなさそうだ。古民家を再利用して店舗にしているところもあることはあるけど、瀬戸のように町ぐるみで積極的に取り組んでいるというふうでもない。
良くも悪くも、あがいていない感じとでもいおうか。そこまで切羽詰まって困っていないということかもしれない。
陶器以外にも製造業としての一面も持ち合わせてきた町で、商業の町でなかったことが今の雰囲気を作り出しているというのはありそうだ。商業都市が衰退した姿は、アーケードのシャッター通りのように、もののあわれみたいなものを感じるけど、製造業が駄目になってしまったあとの町というのは、なんというか静かな諦観のようなものがある。商業ならなんとか盛り返そうと頑張る余地はあるけど、製造業は時代が違ってしまうともはやどうしようもない。
常滑は現在でも陶器の町として生き延びている。工場などはたくさん閉鎖されたようだけど、散策路にも陶器の小さな店やギャラリーなどが点在していた。
それにしても、とらえどころのない不思議な感覚は、最後までつきまとうことになる。

細く入り組んだ路地が方向感覚を失わせる。
路地を挟んで建物と建物を繋ぐ渡り廊下を何ヶ所かで見た。
使われていない家と、人が住んでいる家とが混じっていて、どこからどこまでが公道で、どこから私道が始まっているのか、その境目も分からない。
昭和の名残というか、昭和そのものと言えるようなところもある。

このへんの建物は眠りについている。使われなくなってから久しい。かと思うと、奥から人の声が聞こえてきたり、路地から急に車が出てきたりして驚く。
夕暮れどきに訪れたら、どこか異空間に紛れ込んでしまいそうな感じさえする。
ここは死んだ町なのか、生きている町なのかと、何度も思った。

さほど起伏に富んでいるわけではないものの、短い坂がいくつもあって、坂の多い町という印象が残った。
日間賀島の雰囲気に似ているところがある。港町というわけではないけど、そんな感じもある。

どこを指して土管坂というのかよく分からない。道や屏に陶器類が埋め込まれているところがたくさんある。土管坂というのは特定の場所ではなくて、これら一帯を指しているのだろうか。
景観を重視したわけではなく、実用本位でこういう光景になっただけだ。壊れた陶器や余ったものなどで道や屏を作った。
それが今では常滑を象徴する景観になっている。

古い家並みと木漏れ日。
散策路周辺は、古い家屋がよく残っている。このあたりは空襲であまり焼かれなかったのだろうか。
名古屋港からも離れていたため、海岸線も埋め立てられることがなかった。大きな再開発もなかったから、古い町並みが残った。
景観保存地区といっても、よく紹介される一角だけしか残っていないところが多いけど、常滑のこの一帯はぽっかり時代に取り残されたようになっている。下手に整備してないだけに印象がいい。
もちろん、駅前や通りに面したところは、ごく普通の地方都市の表情をしている。

唯一残された登り窯の煙突。
内部も見ることができるようになっている。そのあたりの様子はまた次回。

なんだかすごいと思った光景。
大きな木造日本家屋が奇妙な恰好で連結されていて、トタンで継ぎ接ぎだらけになっている。つっかえ棒もしてある。
廃屋になっているのかどうか。かなり頑張って延命措置を施した様子が見て取れる。
連結部分の一部がトンネルになっている。そして、その向こうには車が見える。ひょっとして、この狭いトンネルを出入りしているのだろうか。
なんだかすごい。

煙突が建ち並ぶ風景。昭和30年代までは400本ほどの煙突が林立していたそうだ。
これらの煙突も、どんどん数を減らして、今では完全な形で残っているのが50本ほどあり、全部で90本ほどとなっている。
10年前、20年前に訪れていたら、今とどれくらい違った風景が見られただろう。
写真はリアルタイムを写すものであり、同時に記録でもある。10年後に訪れて、今回の写真を見返したとき、どんな感慨を抱くことになるだろうか。

少し高台から見下ろした町並み。
赤煉瓦の煙突と、昔ながらの瓦屋根の組み合わせが美しい。
忘れかけていた日本の風景がまだ少し残っている。

古くなって歪んだカーブミラーに、古い家並みを入れつつ、記念写真を撮った。
10年後にはこの風景もなくなっているかもしれないと思いながら。
行って、歩いて、写真を撮って、帰ってきて、写真を整理して、ブログを書いた。でもまだ常滑に対する印象は固まっていない。写真も残っている。もう少し回数を重ねていくことで見えてくるものがあると思う。
ということで、次回に続く。