月別:2009年06月

記事一覧
  • 桑名寺特集その1 ~蛤や薩摩義士や別院 <桑名13回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 桑名行きもだいぶ遠い日の出来事となって、そろそろ終わらせたい気持ちになっているところではあるけど、まだ写真が残っているから、出し切らないことには終われない。 神社特集の次はお寺特集だ。また渋いネタが戻ってきた。写真も神社以上にモノトーン調になる。 ただ、寺についてはあまり書くことがない。表から写真を撮っただけで通りすぎたところもいくつかある。せっかく撮ったから写真だけは...

    2009/06/30

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 料理の三原色は赤黄緑だと思うサンデー

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 色の三原色といえばRGBの赤緑青ということになるけど、料理の三原色は赤黄緑だと思う。素材もその三色のものが多いし、色の存在感としても強く、見た目が食欲をそそるということもある。青い料理というのはほとんどない。 今回はその三色を意識した三品を作ってみた。しかしながら、もう一歩徹底しきれなかったのが惜しまれる。特に緑が弱かった。ただ、発想としては悪くなかったと思う。...

    2009/06/28

    料理(Cooking)

  • 人の思惑とは関係なく森は生きている <海上の森後編>

    PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f2.8 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 今日は海上の森の続きで、残った写真を集めて並べる。 この日は曇りがちの蒸し暑い日で、日没前になって日差しが戻ってきた。ふいに森の中が明るくなり、うねる一筋の光の道を作った。 光が写真に与える影響の大きさを、何度となく思い知らされる。だから、いつも光を探している。 たぶん吉田池だと思うのだけど、高台から見下ろすだけで、近くまで行ったことがない...

    2009/06/28

    森/山(Forest/Mountain)

  • 6月の森の主役は花から虫へ <海上の森前編>

    PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f2.8 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 前回の海上の森行きは5月の終わりだった。それからひと月もしないうちの再訪となったわけだけど、これほど短い間隔で行くことは珍しい。特にこれといった目的意識があったわけではなくて、梅雨の合間の晴れ間で、往復2時間で何か撮れるところと考えたとき、思いついたのが海上の森しかなかっただけだ。 今は神社仏閣の気分ではなく、街中へ撮りに行くには気力不足だっ...

    2009/06/27

    森/山(Forest/Mountain)

  • 6月のグリーンピア早足写真

    Canon EOS 20D+Canon EF100mm f2.8 Macro 築水池とグリーンピアは私にとってはセットになっていて、どちらか一方しか行かないということはない。グリーンピアは閉館時間があるから先に行って、築水池は日没まで大丈夫だから後回しというのがいつものパターンだ。 ただ、今回は時間がなかったので、グリーンピアは軽く寄っただけだった。園内の池の周りを一周歩きながら写真を撮って、すぐに築水池に移動した。温室も入っていない...

    2009/06/26

    施設/公園(Park)

  • 収穫は少なくても6月に築水池に行っておくとすっきりする

    Canon EOS 20D+Canon EF100mm f2.8 Macro しばらく神社ネタが続いて、写真もあまり撮りに行っていなかったから、久しぶりに春日井の築水池湿地を歩いてきた。 毎年決まった月だけに訪れる場所というのがあって、6月といえば築水池というのが定番になっている。ここ数年はほとんど毎年行っているはずだ。 お目当ては、トキソウだった。ササユリとカキランも見たいと思っていたけど、今年は少しで遅れたからもう終わってしまった...

    2009/06/25

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • 桑名神社特集その3~天武・持統天皇の足跡編 <桑名12回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 桑名には天武天皇と持統天皇の足跡を伝える伝承が残っていて、それにまつわる神社が二つある。今日はそれを紹介しつつ、壬申の乱とそれ以降についても少し書いてみたい。 天智天皇とその弟とされる天武天皇、そして天智の息子の大友皇子との関係性について、ある程度は大津編のときに書いたものの、私自身まだいくつかの疑問が解消されずに残っていて、自分の中で整理がついていない。 天智と天武が...

    2009/06/23

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 桑名神社特集その2~地図にあってもなくても <桑名11回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 桑名神社特集2回目は、一目連神社(いちもくれんじんじゃ)からの再開となる。 前回もちらっと出てきたように、一目連神社は多度大社の別宮が有名で、天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)を祀っている。 天目一箇神は、天津彦根命(アマツヒコネ)の子で、アマテラス岩戸隠れのときに、刀斧や鉄鐸を造った神とされている。 桑名は本多忠勝が奨励した鋳物が発展した町だから、金属や鍛冶関係の神様を...

    2009/06/23

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 皿を間違えたサンデー

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 今日のサンデー料理は、料理自体の失敗ではなく、皿の選択を間違えた。 料理の量に対して皿が小さすぎる。料理がやけに混み合ってしまっている。色合いとのバランスもよくなかった。料理って、こういう失敗もあるんだと知ったサンデーだった。 彩りと盛りつけという二大課題を相変わらず克服できないでいる。ノーイメージで作り始めて、行き当たりばったりで盛りつけてしまうから、成功と...

    2009/06/21

    料理(Cooking)

  • 桑名神社特集その1~とりあえず片っ端から回る <桑名10回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 桑名では神社仏閣を巡りに巡った。狭い地域にたくさんの寺社があるのは、東海道沿いであり、桑名城の城下町として発展した歴史故だろう。伊勢の玄関口でもあり、更に歴史を遡れば、かなり早くから人が住み始めた地域でもある。 ただ、数は多いものの大きな寺社は少なく、一神社一ネタになるほどではない。なので、いくつかまとめて、何回かに分けて紹介していこうと思う。 順番としては、まず桑名総...

    2009/06/21

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 人がいない桑名の町並み写真---インターミッション <桑名9回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 桑名観光のメインどころの紹介が終わって、残すところは神社仏閣のみとなったのだけど、ちょっと準備が間に合わなかった。他の小ネタでつなぐか、神社を小出しにするか迷って、桑名の番外編を先にやってしまうことにした。写真の現像だけは終わっていて、これは調べ物がないから写真を並べるだけで済む。 というわけで、今日は桑名インターミッションをお送りします。 一枚目は、桑名駅を降りてすぐ...

    2009/06/20

    観光地(Tourist spot)

  • 鎮国守国神社でふたり力を合わせて桑名を守る <桑名8回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 桑名城本丸の天守があったあたりには、現在、鎮国守国神社(ちんこくしゅこくじんじゃ)が建っている。どういう神社か、少し説明が必要だ。 護国神社というのが全国にたくさんあるから、それと似たようなものかと思ったら違った。桑名城に関係する二人の人物が祀られている。鎮国に松平定綱、守国神社に松平定信と、二つの神社があわさって鎮国守国神社となっている。 という説明だけで分かる人は相...

    2009/06/19

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 本多忠勝は強いだけじゃなく桑名の恩人でもある<桑名7回>

     桑名城を発展させて、今日の桑名の城下町の基礎を築いたのは誰か。戦国野郎や戦国お嬢なら百も承知かもしれないけど、一般的にはあまり有名ではないんじゃないか。三重県松阪市生まれの私でさえ行くまで桑名城といえば誰というはっきりしたイメージは持っていなかった。 徳川家臣団最強の呼び声も高い徳川四天王のひとり、本多平八郎忠勝と聞けば、戦国にちょっと興味がある人なら知っているだろう。生涯で57度の戦に参加して一...

    2009/06/17

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 七里の渡し跡から旧東海道にかけて残るぼんやりとした面影<桑名6回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 桑名名物といえば、蛤(はまぐり)と七里の渡しと、昔から相場が決まっている。その手は桑名の焼き蛤と言う人がいなくなっても、桑名と聞いて蛤を連想する人は多いはずだ。逆に言えば、それくらいしか桑名名物は知られていないということもでもある。 蛤は結局食べなかったので、今日は七里の渡しについて書きたいと思う。 七里の渡しといえば、熱田の宮の渡しを思い浮かべる人の方が多いかもしれな...

    2009/06/16

    観光地(Tourist spot)

  • 諸戸氏庭園後半も外から見てるだけ状態が続く <桑名5回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 今日は諸戸氏庭園後半部分の紹介です。 純和風の屋敷に、唐突に現れる赤煉瓦の建物。なんで赤煉瓦なんだろうと思ったら、最初は木造だったのが火事で焼けてしまって、その対策として赤煉瓦にしたようだ。確かに昔も今も火事は怖い。何もかもなくしてしまう。だから、蔵は燃えにくいように白壁だったわけだ。 明治28年(1887年)には赤煉瓦倉庫が5棟あったという。屋敷の前が運河になっていて、そこで...

    2009/06/16

    観光地(Tourist spot)

  • いろんな意味で失敗なサンデーに反省

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 今日のサンデー料理は失敗だった。完成図を見ると特に失敗した感じではないのだけど、作る過程でいろいろな失敗や思惑違いが重なって、がっかりな感じが強くなってしまった。 一番の失敗というか危なかったのは、魚焼きグリルの火を付けっぱなしにしていて、中の油が燃えだしてあやうく火事になりそうだったことだ。これで一気にやる気がしぼんだ。アルミホイルにオリーブオイルをたらして...

    2009/06/14

    料理(Cooking)

  • 諸戸氏庭園は入れないあがれない見てるだけのもどかしさ <桑名4回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 六華苑をあとにして、次は諸戸氏庭園(もろとしていえん)へとやって来た。 昨日も書いたように、六華苑も諸戸氏庭園も、もともとは初代諸戸清六が邸宅として買い取ったひとつづきの広大な庭園付き邸宅だった。今は分かれてしまっているため、いったん外に出て、別の入口から入り直さないといけない。六華苑から行く場合は、桑名リバーサイドボウルの横の細い道を通って南から回り込むことになる。歩...

    2009/06/14

    観光地(Tourist spot)

  • 六華苑の和洋合体ぶりは明治の日本そのものを思わせる <桑名3回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 今日は六華苑(ろっかえん)の後半、洋館二階部分から再開します。 六華苑や諸戸清六親子については昨日ほぼ書いたつもりだから、あまり加えることはない。洋館の写真を並べつつ、庭園へと移っていこう。 暖炉とマントルピース。 マントルピースって何だろうと思ったら、暖炉の周りの飾りや上の飾り棚のことらしい。今まで暖炉のことをマントルピースというのかと勘違いしていた。 洋館部分は主な...

    2009/06/12

    観光地(Tourist spot)

  • 偉かったのは初代清六で六華苑は二代目清六の邸宅 <桑名2回>

     三重県桑名市の観光といえば七里の渡しであり、桑名宿なのだろうけど、それに先だって今回は六華苑(ろっかえん)を紹介することにしたい。 ところで六華苑って何だろうというのが行く前の私の素朴な疑問だった。ジョサイア・コンドルが設計した洋館があることは下調べで分かっていた。まずはそれが見たいというのが最初にあったのだけど、その洋館の名前が六華苑というのではないらしいというので混乱した。 六華苑とは別に、...

    2009/06/12

    観光地(Tourist spot)

  • これで桑名をイメージできるとは思わないけれど <桑名1回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 今日からしばらく桑名シリーズが続くので、まずは第一回目として桑名プロローグをお送りします。 私の目に映った桑名がどんなところだったのかを見てもらおうという趣旨で、まずはざっと写真を並べてみることにしたい。これが一般的な桑名の実体とどれほど同調していて、どれくらい離れているのか、私には判断がつかない。どこへ行ってもだいたい神社仏閣巡りをしている私だから、普通の桑名観光とは...

    2009/06/11

    観光地(Tourist spot)

  • 熱田界隈街歩きスケッチ写真<後編>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 熱田界隈スケッチ写真後編は、西高蔵からの再開となる。 上の写真は、地下鉄・西高蔵駅を出て少し西へ歩いたところだ。「ゆ」という看板があり、「この奥50M」とある。どうやら路地を奥へ進んでいくと銭湯があるようだ。こんなところにという場所だから、知ってる地元の人しか入っていけないのではないか。 裏から見てみると、確かに煙突がある。 帰ってきてから調べてみたら、今も営業を続けている...

    2009/06/10

    街(Cityscape)

  • 大須近辺街歩きスケッチ写真<前編>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 ゴールデンウィークに地下鉄沿線の街歩きをして、熱田神宮や東西別院、金山あたりを紹介した。そのとき、本編に入りきらなかった写真がけっこう余ったので、今日は余りもの写真を集めてひとネタとしたい。それが2回分になったから、まずは前半として、白川公園から大須を通って、熱田の高座結御子神社周辺まで行くことにしよう。 スナップ写真に属するのだろうけど、感覚的にはスケッチに近い。スケッ...

    2009/06/08

    街(Cityscape)

  • 夏色サンデーは少し重ためでバランスの大切さを再認識する

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 今日の名古屋は29度と、だいぶ夏らしくなってきた。だんだん暑くなってきて、この時期は食欲も落ちがちだ。そんなときは、あえて攻撃的な色合いの料理を作って食欲を刺激したい。夏場の茶色い料理は食欲減退の元だから、なるべく避けたい。 ということで、今回は夏色とでも言うべき暖色系の料理を目指した。結果的にやや黄色に偏ってしまって、大成功とはいかなかったものの、明るく元気な...

    2009/06/07

    料理(Cooking)

  • ちょっと苦手意識のある金山の街を歩いて少し馴染みになった

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 名古屋に金山(かなやま)という街がある。個人的に苦手な印象がある街の一つだ。 人が集まっている場所が必ずしも嫌いというわけではないのだけど、ゴミゴミしてるというか雑多な雰囲気の街に対する苦手意識が少しある。 たとえば、今池とか、大曽根とか、大須などがそうだ。嫌いというわけではなくて、なんとなく居心地が悪いというか、その街に対して自分が馴染んでいないような感覚を抱いてしま...

    2009/06/06

    名古屋(Nagoya)

  • 6月に田植えの終わった田んぼを見るとそういえばアマサギと思う

    Canon EOS 20D+Canon EF80-200mm f2.8L /PENTAX K10D+SIGMA 400mm f5.6 田植えが終わるとアマサギを思い出す。そういえば、そろそろアマサギを撮りにいかなくてはと思う。 夏鳥として4月の終わりから5月の始めにかけて日本に渡ってくるアマサギだけど、私の中では6月始めの鳥という印象が強い。この時期は、田植えが終わった田んぼでエサを探しているから、見つけるのも簡単だ。 うちの近所では、尾張旭に少なく、長久手に多い...

    2009/06/05

    野鳥(Wild bird)

  • 古渡城は東別院になりメ~テレにもなった

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 昨日の西別院に続いて今日は東別院を紹介します。 東別院というのは通称で、東本願寺名古屋別院といった方が混乱せずに済むかもしれない。正式名は、真宗大谷派名古屋別院ということになる。 昨日も書いたように、京都で本願寺が二つに分かれて、東本願寺と西本願寺になった。うしろで糸を引いたのは徳川家康だった。 もともと内部でいろいろな分裂や争いが続き、いったんは秀吉の仲介で収まったの...

    2009/06/05

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 西から来た新しい仏教を受け入れた東の神国

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 名古屋の大須に、東別院と西別院がある。東別院の方が規模も大きくて地名にもなっているから知名度は高い。西別院は名古屋人でもあまり馴染みがないかもしれない。 ここのところ神社ネタが続いたから、今日は寺の話をしようと思う。同じようなものだって? いやいや、神社とお寺はやっぱり別物なのですよ。色合いが似てるからといって同じものとは限らないのだ。 一言で言えば、神社は国産で、お寺...

    2009/06/03

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 草薙剣があってもなくても熱田にはたくさんの神がいる <第三回>

     熱田神宮シリーズ第3回。最終回の今回は、境内社をまとめて紹介することにしたい。 南鳥居近くの上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)と別宮・八剣宮。 ここは南の鳥居から入ってすぐ左手だから、正門から参拝した場合は本宮よりも先にお参りすることになるかもしれない。 社殿も大きくて、他の小さな摂社、末社とは別格の扱いになっている。 授与所も独立したものがあって、巫女さんも常駐している。 上知我麻神社では、ヤ...

    2009/06/03

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 草薙剣をめぐる右往左往物語 <熱田神宮第二回>

     前回に続いて熱田神宮の第2回をお送りします。 1回目は熱田神宮の御神体で、三種の神器の一つである草薙剣の謎について考えてみた。今回、その続きをもう少しやってみようと思う。 宝物館というから、ひょっとして三種の神器の草薙剣が見られるんじゃないかと期待した人がいたかもしれない。実は私もそうだ。でも、そんなわけはない。天皇ゆかりの神器であり、御神体でもあるのだから、国宝とは比較にならない貴重さだ。皇居に...

    2009/06/02

    神社仏閣(Shrines and temples)

桑名寺特集その1 ~蛤や薩摩義士や別院 <桑名13回>

神社仏閣(Shrines and temples)
桑名寺特集1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 桑名行きもだいぶ遠い日の出来事となって、そろそろ終わらせたい気持ちになっているところではあるけど、まだ写真が残っているから、出し切らないことには終われない。
 神社特集の次はお寺特集だ。また渋いネタが戻ってきた。写真も神社以上にモノトーン調になる。
 ただ、寺についてはあまり書くことがない。表から写真を撮っただけで通りすぎたところもいくつかある。せっかく撮ったから写真だけは載せるにしても、紹介は少々駆け足となる。基本的には回った順番になりそうだ。

 まずは専正寺(せんしょうじ)というお寺さんから。
 ここは蛤(ハマグリ)の寺として知られている。
 江戸時代のこのあたりは浜辺の漁村で、辺り一面はハマグリの貝殻で覆われているほどだったという。それくらい無尽蔵にハマグリが獲れていたということだ。
 近年の埋め立てに次ぐ埋めたてで、今は漁村といった面影はまったく残っていない。ハマグリもどれくらい獲れているんだろうか。
 獲るだけ獲って貝殻を捨てっぱなしではよくないと思った谷という人が、供養のための蛤墳(コウフン)を建てようと思いついた(1823年)。今でもそれは境内に残っている。

桑名寺特集1-2

 山号を三龍山といい、浄土真宗本願寺派に属している。
 江戸時代は称念寺と称していたそうだ。のちに正念寺と改称している。
 戦争で伽藍を消失し、戦後の昭和22年に萱町の専久寺と合併して専正寺となった。
 写真の本堂は鈴鹿市柳の寺から移築したものらしい。

桑名寺特集1-3

 蛤墳の説明板がある。石碑もあったはずだけど、後ろのらせん階段に気を取られて見逃した。
 もともとは1メートルくらいのささやかなものだったのを、大正12年に改築したそうだ。
 墓地には鳥居強右衛門(とりいすねえもん)一族の墓が7基ある。
 すねえもんといえば、長篠の戦いに詳しい人なら知っているんじゃないだろうか。長篠古戦場跡の案内看板ではりつけになっている人の絵があるけど、あれがすねえもんだ。
 長篠城が武田勝頼の大軍に取り囲まれて落城寸前になったとき、岡崎の家康に援軍を頼むため、すねえもんは単独で城を脱出することに成功する。
 援軍の約束を取り付け、その結果を知らせるべく長篠城にこっそり戻ろうとしたところで捕まってしまった、すねえもん。武田軍に、援軍は来ないとと大きな声で知らせろと命じられ、すねえもんは、すぐに味方が駆けつけるぞと大声でわめき、その場で殺されてしまった。
 この後、家康と信長の連合軍が到着し、設楽原の戦いへとなだれ込んでいくことになる。
 強右衛門という名は代々受け継がれ、新屋敷の桃林寺に葬られていたのを、のちに専正寺に移し、今に至っている。

桑名寺特集1-4

 薩摩義士の墓があることで知られる曹洞宗法性山海蔵寺へとやってきた。ここも桑名の寺社巡りでは必ずといっていいほど紹介されるところだ。
 宝暦の治水で命を落とした薩摩義士たちの墓がある。
 1753年、九代将軍家重のとき、幕府は薩摩の力を恐れ、突然、桑名の木曽三川工事を命じる。
 青天の霹靂とはこのことで、薩摩の人たちは驚き慌てた。どうして自分たちが縁もゆかりもない遠く桑名の川の工事をしなければいけないのか。しかも、この頃の木曽三川は大変な暴れ川で、命がけの工事だった。
 それでも幕府に逆らえばただでは済まないということで、薩摩の地から平田靭負(ひらたゆきえ)を奉行とする総勢900人以上が工事のために桑名まで出向くこととなった。もちろん、費用は全額薩摩藩持ちだ。
 工事は難航を極め、多数の病死者や自殺者を出し、費用は予想を超える莫大なものとなった。
 どうにか工事を完成されたとき、責任を取って平田靭負は自ら腹を切った。
 その死者を葬るのを、幕府の目を恐れて多くの寺が断ったという。その中で海蔵寺が受け入れて、ここに葬られることとなった。この地で果てた薩摩隼人は、故郷に帰ることも叶わなかった。

桑名寺特集1-5

 丸に十の字の紋は薩摩島津家のものだろう。左は知らない。
 元の寺は、西方村にあった東明山海善寺だったとも言われているのだけど、はっきりしたことは分かっていない。
 ここも空襲でやられて、本堂は戦後の昭和31年に再建されたものだ。

桑名寺特集1-6

 ここは大きなお寺だった。桑名別院・本統寺(ほんとうじ)。
 徳川家茂や明治天皇も宿泊した寺で、桑名御坊、あるいはご坊さんと呼ばれている。

桑名寺特集1-7

 どこから入るのがいいのか、あちこち入口を探して回る。
 この門自体はけっこう古そうだったけど、正門という感じではない。

桑名寺特集1-8

 更に回り込んでみる。生い茂った木がいい感じ。

桑名寺特集1-9

 結局、最初の門から入り直すことになった。なかなか立派な本堂だ。
 歴史を読んだのだけど、いろいろややこしくて書くのも面倒になったので要点だけ書くと、戦国時代の信長と石山本願寺が争っていたとき、本願寺の宗徒が本山との連絡用に水陸交通の要所だった桑名に今寺という集会所を作ったのが始まりだった。
 桑名は浄土真宗の宗徒が多いところでもあり、戦略上重要な拠点でもあったため、信長によって散々攻め立てられた。
 石山本願寺と信長の争いは11年も続き、結局決着がつかず、最後は本願寺側が石山を出るということで話し合いがついた。
 その後、本願寺第12代教如は京都の石山本願寺の住職となり、桑名には教如の娘の長姫(おさひめ)を派遣して、桑名別院を開基することになる。長姫はこのときまだ9歳だった。
 秀吉、家康の時代に、本願寺は東と西に分かれたというのは、名古屋の東別院のときに書いた。桑名別院もそのときどっちにつくかという話し合いになって、結局東につくことになった。
 というわけで、桑名別院の正式名は、真宗大谷派桑名別院本統寺ということになる。
 途中の紆余曲折をすっ飛ばした説明は以上。

桑名寺特集1-10

 境内の中には何かの会館があって、車もたくさんとまっているから、ちょっと散漫な空気感になっている。
 左手に見えているのは親鸞像だと思う。右手には鐘楼が写っている。
 ここの建物も全部新しいもののようだ。

桑名寺特集1-11

 松尾芭蕉の「野ざらし紀行」の句碑が建っている。昭和12年に建てられたものだ。
 芭蕉もこの寺を訪れて泊まっている。
「冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす」
 本来、夏に咲く花の牡丹が冬に咲いているのを見て、遠くに聞こえる千鳥の声を夏のホトトギスになぞらえたといった意味らしいけど、桑名には関係がない。
 桑名にちなんだ芭蕉の句としては、「奥の細道」の最後、大垣で詠んだ「蛤の ふたみへ別れ 行く秋ぞ」がある。

桑名寺特集1-12

 桑名別院のすぐ横は、寺町通商店街というアーケードになっている。
 ご覧の通りの閑散とした様子だけど、三八市のときは打って変わって大賑わいとなる。
 3と8のつく日は、80以上の露店が並び、大勢の買い物客が訪れる。テレビでその様子を見ていたので、それ以外の日がここまで静まりかえっているとは思わなかった。
 もともとは、桑名別院などの門前町として発展した歴史がある。

 桑名寺特集の1回目はここまでとしたい。
 つづく。

料理の三原色は赤黄緑だと思うサンデー

料理(Cooking)
赤黄緑サンデー

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8



 色の三原色といえばRGBの赤緑青ということになるけど、料理の三原色は赤黄緑だと思う。素材もその三色のものが多いし、色の存在感としても強く、見た目が食欲をそそるということもある。青い料理というのはほとんどない。
 今回はその三色を意識した三品を作ってみた。しかしながら、もう一歩徹底しきれなかったのが惜しまれる。特に緑が弱かった。ただ、発想としては悪くなかったと思う。

 赤の代表といえば、ニンジンであり、トマトだろう。エビも調理すると赤になる。
 左は、八宝菜的な料理で、私らしい一品だとも思う。何事においても、砕くか、小さく切るのが特徴だ。その方がいろんな種類のものをたくさん食べられるから好きなのだ。
 白身魚、エビ、鶏肉、ナス、ニンジン、アスパラ、トマトをそれぞれ小さなサイコロ切りにする。白身、エビ、鶏肉は塩、コショウ、酒を振り、野菜類は塩水に浸ける。ニンジンは湯がく。
 たっぷりのオリーブオイルで炒めて、酒、みりん、白しょう油、ケチャップ、砂糖、鶏ガラの素、コンソメの素、酢、豆板醤、唐辛子を混ぜてひと煮立ちさせたものを絡めて出来上がりだ。
 いろんな素材の旨みが凝縮して美味しい野菜海鮮炒めとなった。

 右の料理は一応黄色を意識している。
 絹ごし豆腐をだし汁で湯がく。
 タマネギをごま油で炒めて、シーチキンを投入する。酒、みりん、しょう油、カレー粉、砂糖、白だし、塩、コショウで味付けをする。
 最後に刻んだ長ネギ入りの溶き卵を回し入れて半熟で火を止めて、豆腐に乗せる。
 これはやっぱり冷や奴でなく湯豆腐の方が合う。
 シーチキンの代わりにコンビーフを使ったらどんな味になるのか興味がある。

 奥はジャガイモとブロッコリーのカラシマヨネーズあえだ。
 ブロッコリーを思い切って砕いて、ジャガイモにまぶせば、もっと緑が強い料理になっただろう。
 ジャガイモは皮ごとラップしてレンジで4分ほど加熱する。
 皮をむいて、適当な大きさに切って、カタクリ粉をまぶす。
 ブロッコリーはゆがいて、柔らかくする。
 あとはオリーブオイルとバターでジャガイモとブロッコリーを炒めて、塩、黒コショウを振りかけ、マヨネーズとカラシをあえれば完成となる。
 青のりも振りかけた。
 粉チーズを振ったらもっと美味しくなったかもしれない。

 一つひとつの味も、三品のバランスもよかった。今回は無難な成功と言っていい。味付けに関しては冒険していないから、失敗のしようがない。
 料理の三原色というのは基本だから、今後とも意識して続けていきたいと思う。食材は絵の具とは違って色が限られるから、その中でバランスを取っていくのは難しい。単色になってしまうことも多い。そういうときは添え物の緑が効くことがある。緑色の使い方が一つの重要なポイントとなることに気づく。
 もっと美味しい料理を作りたいというよりも、もっと見た目が美味しそうな料理が作りたいという気持ちの方が強い。まだまだ課題は多い。

人の思惑とは関係なく森は生きている <海上の森後編>

森/山(Forest/Mountain)
海上の森6月2-1

PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f2.8 / TAMRON 70-300mm f4-5.6



 今日は海上の森の続きで、残った写真を集めて並べる。
 この日は曇りがちの蒸し暑い日で、日没前になって日差しが戻ってきた。ふいに森の中が明るくなり、うねる一筋の光の道を作った。
 光が写真に与える影響の大きさを、何度となく思い知らされる。だから、いつも光を探している。

海上の森6月2-2

 たぶん吉田池だと思うのだけど、高台から見下ろすだけで、近くまで行ったことがない。森のはずれの民家に近いところのはずだ。どこから行けば辿り着けるのか、分からない。
 スイレンの葉で水面が覆われていた。ただ、花は一つも見えなかった。夕方だったから、もう閉じてしまっていたのか、今は咲いていない時期なのか。
 スイレンの和名はヒツジグサという。未(ひつじ)の刻に咲くからということで名づけられた。今の時間でいうと午後の2時を指す。実際はもっと早い午前中の明るい時間から咲き始めて、夕方になると閉じる。

海上の森6月2-3

 ウスキクロテンヒメシャクか、マエキヒメシャクか、そのへんのやつだ。
 森にはよくいる。他にも白っぽい蛾はあちこちで飛んでいる。いちいち撮らないけど、撮っていけばちょっとしたコレクションになりそうだ。
 けど、蛾の場合、撮っても撮っても手応えがないというか、ちっとも嬉しくないのが難点だ。中にはきれいな蛾もいるのだけど。

海上の森6月2-4

 アブだと思うけど、刺されるとすごく痛いらしいから、怖くてこれ以上近づけなかった。
 アブというのもよく分からない生き物だ。ハエは分かるし、ハチも分かる。それぞれ役割とか意味があると納得できる。アブはいらないだろうと思う。特に必要ないというだけでなく、人を刺すなんて、必要以上に存在感を示しすぎだ。
 それとも、私の知らないところでアブはこの世界の役に立っているのだろうか。

海上の森6月2-5

 吉田川沿いでタツナミソウが咲くのを知っている。何年か前に見つけた。いつもとは違う少し離れた場所に今年も咲いていた。
 ホトケノザの紫版みたいだけど、希少価値が違う。街中では見かけない野草だから、森で見つけるとちょっと嬉しい。

海上の森6月2-6

 ノボロギクっぽくてもっと小さいやつ。仲間なんだろうけど、詳しくは知らない。ひとかたまりが1センチくらいと、ごく小さい花だ。
 しかし、ボロ菊とはまた気の毒な名前をつけられたものだ。

海上の森6月2-7

 これは野草じゃない。護岸工事の壁に咲いていたもので、人の手で植えられたものだと分かる。
 花びらと葉っぱに特徴があるから調べればすぐ判明すると思ったのに、調べがつかなかった。
 花はサクラソウとかシバザクラに似ているものの、葉っぱが全然違う。
 ハーブ系かもしれない。
 保留にしよう。

海上の森6月2-8

 帰り道。大きな夕陽が沈んでいった。

海上の森6月2-9

 電線に鳥の群れのシルエット。
 うるさく鳴いてなかったから、ムクドリだろうか。ヒヨドリなら大騒ぎになっているはずだ。

海上の森6月2-10

 月齢3日の月。三日月だ。
 優しい夕焼け色の空に白く浮かんでいた。

 6月の海上の森写真はこれでおしまい。
 7月も行けたら行きたい。次はセミの季節になっているだろう。

6月の森の主役は花から虫へ <海上の森前編>

森/山(Forest/Mountain)
海上の森6月1-1

PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f2.8 / TAMRON 70-300mm f4-5.6



 前回の海上の森行きは5月の終わりだった。それからひと月もしないうちの再訪となったわけだけど、これほど短い間隔で行くことは珍しい。特にこれといった目的意識があったわけではなくて、梅雨の合間の晴れ間で、往復2時間で何か撮れるところと考えたとき、思いついたのが海上の森しかなかっただけだ。
 今は神社仏閣の気分ではなく、街中へ撮りに行くには気力不足だった。マクロレンズで撮るものがあるところといえば行き先は限られる。近場の公園や緑地へ行っても、今の時期は撮るものがあまりない。
 本命は豊田市自然観察の森だったのだけど、往復だけでも2時間以上かかるし、せっかく行くなら現地時間が2時間は欲しいということで、今回は見送りとなった。あそこか5月から7月にかけてが一番いい時期だから、できれば近いうちに一度行きたいと思っている。
 で、海上の森だ。前回は赤池方面の入口から入って、赤池、湿地と回った。今回は屋戸橋を渡って四ツ沢へ向かうすぐ右の入口から入って、湿地を目指すコースを取った。
 この道は、はっきり言っておすすめできない。道がワイルドすぎる。夏場は特にすごいことになっていて、肩くらいある草をかきわけ、かきわけ進み、蜘蛛の糸攻撃に晒され、激しいアップダウンに悪戦苦闘しながら進むことになる。急勾配の下りに、身の危険を感じた。

海上の森6月1-2

 たぶん、アザミのつぼみ。
 花は咲いているときだけが被写体じゃないことに気づく。つぼみもそうだし、枯れたあとも面白かったりする。
 自然界の造形と色彩は多様で奥深い。

海上の森6月1-3

 アザミの花。パンクヘアーの後頭部にも見える。
 アザミは種類が多いから、詳しい名前までは知らない。一般的なのはノアザミだけど、日本だけで100種類以上のアザミがあるそうだ。
 たくさんアザミの種類を知っていても、自慢する場がないから、アザミに詳しい人は悔しい思いをしているかもしれない。

海上の森6月1-4

 6月終わりの森は、野草も少なくなって、主役は花から虫へと移る。
 これはこの時期の海上の森にたくさんいるキイトトンボだ。
 水に近いところが好みで、街中ではほとんど見かけない。昔は田んぼなんかによくいたけど、最近は見なくなった。でも、いるところにはたくさんいる。
 目が点でとぼけているように見せかけて、口元は凶暴さを見せる。小さな虫を捕まえて、むしゃむしゃ食べる。蚊とか小さな羽虫なんかを食べるから、人間にとっては益虫の部類だ。

海上の森6月1-5

 カマキリの子供も久しぶりに見た。
 昔は学校の校庭とかにも普通にいたけど、最近は街の公園などでもあまり見ない。身のまわりに普通にいるものが近い将来珍しい生き物になるなんて、あの頃は思いもしなかった。

海上の森6月1-6

 夏の湿地といえば、なんといってもハッチョウトンボだ。
 前回は会えなかったけど、ひと月後の今日はたくさんいた。今年もちゃんと生まれてくれたかと安心する。
 日本で一番小さなトンボのハッチョウトンボは、一生を数メートルの範囲内で過ごす。だから、毎年いるところにはいるし、いないところには決していない。
 ハッチョウトンボを見たことがないというのが人生においてどれくらいの損失なのかは分からないけど、見られるものなら一度でも見て欲しいと思う。日本にはこんなにかわいいトンボがいるんだということを自分の目で見て知って欲しい。

海上の森6月1-7

 警戒心というのがほとんどないハッチョウトンボは、どれだけ近づいてもほとんど逃げない。たまに飛んでも、またすぐに元の場所に戻ってくる。何しろ縄張りが狭いから。
 だから、モデルとしてはこんなに撮りやすいやつはいない。

海上の森6月1-8

 赤いオスに対してメスはオレンジっぽい縞模様なのだけど、未成熟のオスもよく似ているので、判断は難しい。これはメスじゃないかと思うけど、確信は持てない。
 ハッチョウトンボはオスの方が多くて、メスは少ない。目立たないから見つけにくいという点を差し引いても、割合がかなり違う。

海上の森6月1-9

 シオヤトンボのメスと見たけど、どうだろう。
 トンボの判別も難しい。もっと勉強しよう。

海上の森6月1-10

 アメンボウ。
 水に浮いて水上を移動できるというのはよくぞ思いついたアイディアだ。地表、地中、水中、空中はそれぞに生き物がいるけど、水面というのは盲点だ。
 アメンボウは、実はカメムシの仲間だ。あるとき、チャレンジ精神を持ったカメムシが水面に浮くことを思いついて挑戦してみたところからアメンボウは生まれたのかもしれない。
 アメンボウという名前は、なんとなく雨上がりの水たまりにいるところから名づけられたと思い込んでいる人が多いかもしれない。実際は、カメムシ同様匂いを持っていて、それが飴に似ているというんで飴んぼと呼ばれるようになったとされている。
 興味がある人は、捕まえて匂いを嗅いでみるといいかもしれない。

海上の森6月1-11

 空に向かってホオジロが高らかに鳴いていた。相変わらずいい声でさえずる。

海上の森6月1-12

 うーん、これはなんだろう。分かりそうで分からない。
 大きさはツグミくらいだけど、ツグミはもう渡っていった。アオジかなと思いつつ、それも違う気がする。
 夏の野鳥を撮るのは難しいけど、チャンスがあればもっと撮りたい。

 6月の海上の森写真は、後編につづく。

6月のグリーンピア早足写真

施設/公園(Park)
グリーンピア-1

Canon EOS 20D+Canon EF100mm f2.8 Macro



 築水池とグリーンピアは私にとってはセットになっていて、どちらか一方しか行かないということはない。グリーンピアは閉館時間があるから先に行って、築水池は日没まで大丈夫だから後回しというのがいつものパターンだ。
 ただ、今回は時間がなかったので、グリーンピアは軽く寄っただけだった。園内の池の周りを一周歩きながら写真を撮って、すぐに築水池に移動した。温室も入っていないし、隣接する大きな池にも行っていない。
 ということで、写真の枚数も少なかった。それでも、ひとネタにはなるから、今日はその写真でつなぐことにする。

グリーンピア-2

 6月の後半ともなると、さすがに花菖蒲は終わっていた。
 それでも、桑名で花菖蒲は見たから、心残りはない。カキツバタを見に行かなかったのは、やはりちょっと悔いが残った。

グリーンピア-3

 コシアキトンボが飛んでいた。
 腹の中央部分が白くて腰が空いているように見えるというので名づけられた名前だ。あまりいいネーミングとは思えない。
 コシアキトンボは、あまりとまらないからとまっている姿を撮る方が難しい。飛んでいるときはホバリングする瞬間があるから、その方がチャンスが多い。

グリーンピア-4

 ヘメロカリス。
 ノカンゾウやユウスゲなどがヨーロッパに渡って、向こうで品種改良されて戻ってきたものをヘメロカリスと呼んでいる。
 形はユリに似ているけどユリの仲間ではない。カンゾウ類やキスゲなどの仲間だ。
 日本と欧米の花の美に対する感覚の違いは、逆輸入された花を見ると分かる。

グリーンピア-5

 カワラナデシコっぽいのだけど、どうなんだろう。自生のものは秋の花だ。ナデシコの園芸種があるのか、これは違う種類なのか。

グリーンピア-6

 よく見かける気はするけど名前は知らない。
 ペンタスか、違うか。

グリーンピア-7

 アジサイも最盛期はもう過ぎただろう。それでも花期が長いから、まだしばらくは楽しめる。
 どこかへアジサイを撮りに行きたいと思いつつ、まだ実現できていない。アジサイだけを撮っても楽しくないから、風景と絡めて撮りたい。頑張って雨の日に撮りたい気持ちも少しだけある。

グリーンピア-8

 バラはもう終盤だ。まだ少し咲いているのもあるけど、全体としてはすっかり寂しくなった。
 春バラをあまり撮れなかったから、今年は秋バラをどこかへ撮りに行こうか。

グリーンピア-9

 グリーンピアの滞在時間は15分くらいだった。この場所はけっこう遠くてあまり頻繁に行きたいところではないから、できればもう少しじっくり回りたかった。
 みろくの森散策も絡めると、数時間コースになる。もっと時間と体力に余裕があれば、小山登りもできる。
 8月になれば築水池ではサギソウが咲く。再訪するとすればその時期だろうけど、サギソウなら近場の森林公園でも見られるから、やはりまた来年の6月ということになってしまうだろうか。
 何はともあれ、これで6月の恒例イベントを一つ終えた。ぼちぼちヒマワリの便りが届き始めた。夏本番はもうすぐそこだ。海も恋しくなってきた。

収穫は少なくても6月に築水池に行っておくとすっきりする

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
築水池-1

Canon EOS 20D+Canon EF100mm f2.8 Macro



 しばらく神社ネタが続いて、写真もあまり撮りに行っていなかったから、久しぶりに春日井の築水池湿地を歩いてきた。
 毎年決まった月だけに訪れる場所というのがあって、6月といえば築水池というのが定番になっている。ここ数年はほとんど毎年行っているはずだ。
 お目当ては、トキソウだった。ササユリとカキランも見たいと思っていたけど、今年は少しで遅れたからもう終わってしまったかもしれないという予感はあった。去年は6月18日だったから、1週間遅れだ。
 駐車場からアップダウンのきつい15分歩きは、近いようで遠い。この時期は蒸し暑いから、気持ちいい汗をかけない。

築水池-2

 散策路は草刈をしたようで、えらくすっきりしていた。夏場のこの道は、両脇の草が背の高さくらいに伸びて、ものすごいことになるのに、刈られてしまっていた。夏草の匂いがして好きだったのに、これでは面白くない。歩きやすくていいという人が大半なんだろうけど。

築水池-3

 今年もトキソウと再会できた。初夏の湿地のヒロインはトキソウで決まりだ。
 形がトキに似ているからではなくては、うす桃色の花色が鴇色(ときいろ)に似ているところから名づけられた。
 けど、今年はトキソウが少なかった。きれいに咲いているのも数輪だったし、遠くの群生もちらほらだった。たまたま少ないタイミングだったのか、環境に変化があったのか。
 カキランには遅刻してしまったのか、見つけることができなかった。

築水池-4

 ノカンゾウ自体はそれほど珍しい花じゃないけど、築水池で見たのは初めてだ。
 花期は7月から9月にかけてだから、今年は野草も全体的に前倒しになっているのかもしれない。いつもなら6月後半でも咲いているはずのカキランが終わっていて、6月には咲いていないはずのノカンゾウが咲いていたということか。
 民家の庭や花壇なんかでも咲いているのを見るから園芸種か外来種かと思わせて、実は日本に自生する花だ。容姿は南国っぽい。
 八重咲きはヤブカンゾウで、そっちを見かけることが多い。

築水池-5

 いつもの場所に、いつものライトブルーのアジサイが今年も咲いていた。
 こんなところに園芸種っぽいアジサイが自生しているとは思えないのだけど、わざわざ誰かがここに植えたとも考えにくい。
 日本にもともと自生していたアジサイはガクアジサイで、こんなふうにガクが発達しているのは園芸種だ。
 だから、何からの形で人によってここに持ち込まれたということだろうと思う。

築水池-6

 たぶん、クチナシ。
 クチナシというと、若き日の渡哲也が歌っていた、くちなしの花を思い出す。
 ♪くちなしの花~の~ 花のかお~りが~
  旅路のはてまで ついてくる~
  くちなしの~白い花~ おまえの~ような~
  花~だっ~た~♪
 マグロ、二夜連続。
 時間は流れた。

築水池-7

 トウカイコモウセンゴケのちょっとした群生。
 当然、夕方では花も咲いているはずはない。よく晴れた午前中にしか咲かない花を、私はいつになったら見られるだろう。

築水池-8

 何かの実。
 実については、調べる気力も、覚えようという情熱も持ち得ない。
 花さえ覚えきれないのに、実や木の名前まで手が回らない。

築水池-9

 ネムノキ。これもいつもの場所で咲いていた。そうそう、毎年ここで咲いてるんだったと、再確認する。

築水池-10

 これも紅葉なのだろうか。同じ葉っぱの半分が緑で、半分が赤い。
 まだ夏も来てないのに、紅葉のことを思い出すのは早すぎる。

築水池-11

 朽ちた切り株に、苔が生え、そこに落ちた種から新芽が生える。
 生と死のサイクルがぐるぐる回って続いていく。

築水池-12

 夏の散策で嫌なのは、蚊に刺されることと、クモの糸が顔にかかることだ。暑いのは我慢できても、蚊とクモの糸は気力が萎える。
 でも、こういうクモの巣は被写体となるからありがたい。
 これもまた、実用の美と言えるだろうか。

築水池-13

 池で小さな魚がやたらパシャパシャ跳ねていた。どんな種類の魚かはよく分からない。フナより小さいやつだ。
 確か、築水池は魚釣り禁止だったはずだ。何か理由があったと思うけど忘れてしまった。

築水池-14

 結局、ササユリやハッチョウトンボは見つからず、湿地が途切れるところで引き返した。一周してもあまり収穫はない。
 これといった珍しい出会いもなく、写真的な収穫ももう一つだったのだけど、今回は最初から軽い散策のつもりだったから、これくらいでいい。
 グリーンピアも少し寄ってきたから、そちらの写真も近いうちに紹介したいと思っている。

桑名神社特集その3~天武・持統天皇の足跡編 <桑名12回>

神社仏閣(Shrines and temples)
桑名神社3-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 桑名には天武天皇と持統天皇の足跡を伝える伝承が残っていて、それにまつわる神社が二つある。今日はそれを紹介しつつ、壬申の乱とそれ以降についても少し書いてみたい。
 天智天皇とその弟とされる天武天皇、そして天智の息子の大友皇子との関係性について、ある程度は大津編のときに書いたものの、私自身まだいくつかの疑問が解消されずに残っていて、自分の中で整理がついていない。
 天智と天武が血のつながった兄弟でないのはまず間違いないだろうとは思っている。では天武天皇とは何者だったのかといえば、はっきりしたことは予想としても言い切れない。天皇家と縁もゆかりもない渡来系の人間が天皇家を乗っ取ったわけでもないだろうし、漢皇子というのもありそうでなさそうだ。
 天智天皇の娘4人と結婚していることや、白村江の戦いで登場してないこと、「日本書紀」の年齢隠しなど、釈然としないことがいくつかある。
 律令制の基礎を築いた名君といっていいほどなのに、どうも後世の評価が低いのも気になるところだ。壬申の乱自体、戦前の義務教育では教科書に載せなかったという。
 当時は暗黙の了解だった天智と天武の関係をうやむやにしたまま時が流れて、実際のところが伝わらなかったような感じだ。
 ところで天皇の名前というのは、死後につけられた諡号(しごう)で、生前にそんな名前で呼ばれたことは一度もない。乱暴に言ってしまえば戒名のようなものだ。だから、もしタイムトリップして天智天皇や天武天皇に会うことができたとして、天智や天武と呼ばれても本人は何のことかさっぱり分からない。
「おくりな」には、漢風諡号と和風諡号(国風諡号)があって、一般的な天皇名になっているのは漢風諡号の方だ。和風諡号は持統天皇から始まったという説があるけど、はっきりはしていない。持統天皇は「大倭根子天之広野日女(おおやまとねこあめのひろのひめ)」というのだけど、こちらはほとんど一般的な馴染みはない。
 神武天皇から元正天皇までの漢風諡号は、淡海三船(おうみのみふね)という人が全部つけた。奈良時代後期の文人で、大友皇子の曽孫に当たる。
 おくりなによってその天皇がどんな人物だったのかを研究している人たちもいる。森鴎外も研究していた。
 それによると、天智を暴君だった中国の殷の紂王に、天武を殷を滅ぼした周の武王になぞらえたのではないかと言っている。
 天智というのは、紂王が武王に負けて自害するとき身につけていた天智玉のことで、天智というのはすわなち暴君を意味するのだとか。
 天智天皇は天武天皇に暗殺されたという説がある。「扶桑略記」にそれをにおわせる記述がある。少なくとも、淡海三船はそのことを意識してつけたのだろう。
 天武天皇の死後、奥さんだった持統天皇は天武系を排除して天智系に天皇の血筋を戻そうとしてかなり無理なことをした。
 おくりなの持統というのは、継体持統から来ているとされている。継体というのは天皇を継ぐことで、要するに天皇家の系統を持続させたということだろう。
 こういうことから考えると、天武天皇というのは天皇になれないほど部外者ではなく、正当な血筋とは言えないところに位置する人物だったのではないかと考えられる。
 それぞれいろんな人がいろんな説を唱えているけど、決定打はないようだ。それぞれ自分こそ正しいと思っている。「天皇記(てんのうき)」でも見つからない限り、真相は分からずじまいだろう。御陵の発掘が許可されればものすごくたくさんのことが分かるに違いないけど、その可能性は今のところほとんどなさそうだ。

 天武天皇が天智天皇を暗殺したという説はひとまず置いておいて、「日本書紀」によると、先が長くないと悟った天智天皇は、弟である大海人皇子(のちの天武天皇)に天皇を譲ると伝えた。しかし、それを罠だと思った大海人皇子は申し出を辞退して、自分は出家するといい、身の回りの数人だけ連れて、吉野の山に逃げるように去った。
 翌年、天智天皇死去。このあと大友皇子が天皇に即位したのかしなかったのかは分かっていない。
 大海人皇子も、どこまで本気で出家したのか分からない。天智天皇死去から壬申の乱が始まるまで約半年。その間に大海人皇子は数万の兵を集めて、大友皇子軍に勝利することになる。
 分からないといえば、どうして尾張氏をはじめとして、尾張、美濃、伊勢の豪族たちは大海人皇子側についたのかという点だ。
 出家してまったく兵力を持たない大海人皇子と、天智天皇の息子・大友皇子という図式で考えると、天皇家の側がどう考えても官軍で、大海人皇子は賊軍だ。賊軍に味方して負けたらただでは済まない。尾張氏にはどんな大義名分とメリットがあったのだろう。
 白村江の戦いで負けて、中央集権を進めようとしていた天智天皇に対して地方の豪族が不満を抱いていたからという説があるけど、それを言うならのちの天武天皇はより強力な中央集権制を推し進めて、地方豪族の立場を弱くしていった。政治面では、百済につくか、新羅につくかという対立は確かにあった。天智・百済系と天武・新羅系の戦いだったといえばそうなのかもしれない。
 大海人皇子がどの時点で戦いを決意していたのかは分からない。ただ、正当防衛というには、大友皇子に対してあまりにも先手、先手を打ちすぎている感がある。
 最初の段階で、天智のお墓を作るという名目で大友皇子はたくさんの兵隊を集めたとされている。実際のところは分からない。大海人皇子はそのことを伝え聞いて、戦う決意をしたのだという。けど、本当に出家して天皇になる気がなかったのなら、まだ攻められてもいない段階で対抗手段を講じるというのも変な話だ。本気で仏門に入ったというなら、抵抗せずに殺されているはずだし、そもそも出家さえしてなかったのではないか。

 吉野を脱した大海人皇子一行は、伊賀を越えて3日後に桑名郡家に到着している。
 供の数は数十人程度だったとしても、奈良の山奥である吉野から、伊賀の山を越えて三重県の桑名まで3日というのはいかにも早い。一行の中にはのちに持統天皇となる鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)も加わっている。お付きの侍女などもいただろう。不眠不休の強行軍だったに違いない。
 とにかく大海人皇子の行動は素早かった。翌日には、鵜野讃良皇女を桑名に置いて、自らは美濃に向かっている。
 しかし、何故、鵜野讃良皇女を一緒に連れていったのかもよく分からない。他にも奥さんは何人もいるのに、鵜野讃良皇女だけが特別だったのかどうか。
 このとき、鵜野讃良皇女は桑名に70日ほど滞在したと伝えられている。その跡地に建てられたのが北桑名神社というのだけど、とりあえずその話は後回しにする。
 尾張氏は2万の大軍を引き連れてはせ参じた。大海人皇子が挙兵したと聞いた大友近江軍は、それだけで恐れをなしてかなりの人数が逃げたと言われている。尾張氏はそれだけ恐れられていたということだろうか。
 あらかじめ美濃に派兵していた家臣たちによって不破の関を封鎖することに成功した。これで大友軍は東国との連絡が取れなくなり、兵は近江の近辺でかき集めるしかなくなった。吉備や九州方面にも助けを求めたものの、それも先回りした大海人皇子側によって阻止されてしまう。
 態勢は整ったということで、大海人軍は軍勢を二つに分けて、大和と近江の二方面から攻め込んだ。
 当初は一進一退だったのが、途中から近江軍は総崩れとなり、最後は瀬田橋の戦いで勝敗は決した。大友皇子は近江宮で自害して、壬申の乱は集結した。天智天皇の死から7ヶ月後のことだ。
 翌年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)に遷都して、即位した。
 それ以降のことに関しては、いずれどこかで書くこともあるだろう。今回は桑名の足跡について書くにとどめたい。といいつつ、すでに大きく脱線してしまっている。

桑名神社3-2

 大海人が立ち寄り、鵜野讃良皇女が滞在したとされる桑名郡家がどこにあったのかは、分かっていない。
 郡家というのは地方の役所みたいなもので、多くは有力豪族が管理していた。官公の宿泊所のようなものも兼ねていたのだろう。
 本願寺がある本願寺村がそうだったのではないかという説もあるけど、当時このあたりはまだ海だったんじゃないか。
 その北に、あとから出てくる天武天皇社もあるけど、これも本来のゆかりの地とは思えない。
 北桑名神社は、鵜野讃良皇女が宝物を収めていた倉があったところに建てられたとされる。それが少し東の宝殿町だったという話も、ちょっと信じられない。とにかく海岸線は今よりもずっと内陸だったはずで、今の桑名市街地にある跡地はその通り信じるわけにはいかない。
 いろんな史跡は、駅西だったのではないか。尾野神社は歴史のある式内社だし、古墳もこちら側に集中している。あるいは、もっと北かもしれない。
 江戸時代には三崎神明社とも呼ばれていたといい、明治41年に式内社の佐乃富神社、中臣神社、太一丸神明社などを合祀して、北桑名総社・北桑名神社となった。
 紆余曲折の歴史があり、いろんな神社を合祀したりしてるから、祭神が多い。
 スサノオや持統天皇、応神天皇や天児屋命(あめのこやねのみこと)、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、泣澤女神(なきさわめのかみ)、倉稲魂尊(うがのみたまのみこと)、火産靈神(ほむすびのかみ)、高水上命(たかみなかみのみこと)と多様で、馴染みのない神もいる。
 持統天皇とは直接関係ない神社のようにも思える。どこかで持統天皇の足跡を付け加えただけのような気もする。それもだいぶ後世になってから。

桑名神社3-3

 桜だと思うけど、かなりの老木だ。咲いている時期に訪れていたら、ここの印象も違ったものになったかもしれない。
 神社は移動しているから、この場所自体に特別なものは感じられない。大通りから入った住宅地の中に、やや居心地が悪そうに建っている。
 鳥居をくぐってすぐ、参道は直角に曲がっているあたりにも、無理矢理この一角に押し込めてしまったような印象を受ける。
 本殿は昭和44年に再建されたものだそうだ。

桑名神社3-4

 本殿横に、新しい鳥居と赤い社が建っている。
 八天宮(火産靈神)、稲荷大明神(宇迦御魂神)、金比羅宮(大物主神)、天神社(菅原道真)、船魂社(神功皇后)とある。
 このあたりをみると、神仏習合の歴史も感じられる。

桑名神社3-5

 道沿いではあるけど、境内の中に地蔵堂まである。
 この神社は大変な寄り合い所帯だ。

桑名神社3-6

 桑名行きを決めた理由の何割かに、この天武天皇社を訪れるためというのがあった。
 大津へ行って弘文天皇陵や天智天皇関係と縁ができて、そこから興味が広がり、壬申の乱にとりつかれもした。その流れで、天武天皇ゆかりの地も訪れたいと思ったのだ。
 すべての天皇は御陵に葬られているという原則はあるけど、神社に祀られている天皇というのは意外と少ない。天智天皇を祀った近江神宮も、桓武天皇を祀った平安神宮も、明治に建てられたものだ。明治天皇が祀られている明治神宮も大正時代だし、八幡宮の応神天皇は例外として、基本的に天皇を神社で祀るという発想は昔はなかったようだ。
 天武天王社も、明治天皇がこの地を訪れたとき、大海人皇子の故事を聞いて、それならここにそういう神社を創建すべきだということで建てられたものだ。
 天武天皇を主祭神とする神社は全国でここだけだという。
 昔は新屋敷にあって、そこを武家屋敷とするということで、1635年に鍋屋町の南に移され、更に鍋屋町北の現在地に移されてきた。

桑名神社3-7

 北桑名神社と比べると、こちらの方が境内の雰囲気はある。古い神社の空気感をたたえていて、なかなかいい感じだ。個人的に好きな神社と言える。

桑名神社3-8

 社殿の形式はなんとも言えない。あまり見ない形だ。民家のようでもあり、そうでもない。
 すごく古くはないにしても、戦後のものには見えない。
 祭神は天武天皇と、持統天皇だ。
 天武と持統は同じ御陵に入っている。天武亡き後、遺志を継いで国作りを進めたということで、おしどり夫婦のように言われる二人だけど、果たしてそうだっただろうか。
 天武天皇が死去したとき、二人の子供である草壁皇子はすでに24歳だったにもかかわらず、皇位を継がせていない。これは何故だったのか。二人の間に男子は草壁ただ一人だった。
 鵜野讃良皇女は、自ら権力を握って政治を行い、姉・大田皇女の皇子・大津皇子を謀反の疑いをかけて殺した。
 このあと、息子の草壁を皇太子にしてたものの、草壁皇子は3年後に病死にしてしまう。そして、自ら即位した。
 順番でいけば、天武天皇の長男である高市皇子が即位するのが自然だ。それを高市皇子は断っている。壬申の乱のときの事情を知っていて、身の危険を感じて辞退とも言われている。
 しかし、持統天皇は天武系に天皇の流れがいってしまうことを恐れ、自分のところで流れを戻したい思っていたフシがある。結局、草壁皇子の子供で、自分の直系の孫になる軽皇子を15歳で皇太子にして、譲位した。これが文武天皇だ。
 この先も、母親の元明天皇が即位したり、奥さんの元正天皇がつないだり、いろいろ複雑な経緯を辿るのだけど、それはまた別の話だ。
 天武、持統の両天皇によって律令制は完成に近づき、中央集権制と天皇の権威は確立されていった。
 伊勢神宮の式年遷宮など、この時代から始まった古代の制度というのもけっこうあって、壬申の乱というのは、日本史の中で一つの大きなターニングポイントとなったことにあらためて気づかされる。
「日本書紀」の編さんも、天武の命で始められたものだから、私たちが知る日本史というのは、天武以降に書かれたものという言い方もできる。
 実際に「日本書紀」が完成したのは元明天皇の時代の720年だから、持統王朝と藤原不比等によって作られた日本史と見るべきか。
 このあたりについても、また機会があれば書きたいと思う。

桑名神社3-9

 古い狛犬も気になったのだけど、それより狛犬の股の間でもぞもぞしているカラスに目がいった。
 中でごそごそしていたから、ここに巣でも作っていたのかもしれない。こちらを警戒しつつ、狛犬の中から離れようとしなかった。

桑名神社3-10

 天武天皇とお稲荷さんはあまり関係ないと思うけど、どこか別のところにあったものを一緒にしたのだろうか。

 桑名の神社特集は、とりあえず今回で一区切りとなる。駅西で寄ったところもあったのだけど、それはまた駅西エリアを紹介するときにでも書くことにする。
 しかし、まだ安心するのは早い。終わったのは神社だけだ。寺はまだ出てきていない。当然、寺もたくさん回ってきたから、次は桑名の寺特集ということになる。
 桑名の神社仏閣シリーズはまだ終わらないのであった。

桑名神社特集その2~地図にあってもなくても <桑名11回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
桑名神社2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 桑名神社特集2回目は、一目連神社(いちもくれんじんじゃ)からの再開となる。
 前回もちらっと出てきたように、一目連神社は多度大社の別宮が有名で、天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)を祀っている。
 天目一箇神は、天津彦根命(アマツヒコネ)の子で、アマテラス岩戸隠れのときに、刀斧や鉄鐸を造った神とされている。
 桑名は本多忠勝が奨励した鋳物が発展した町だから、金属や鍛冶関係の神様を呼んだのだろう。ただ、この神社の創建は江戸時代後期の1800年代というから、時代的には新しい。多度大社の別宮から勧請したのだと思う。
 一目連は、素直に読むと「いちもくれん」だ。ただ、「ひとつめのむらじ」という読み方もするようで、連(むらじ)はヤマト王権においては最高位の姓(かばね)だから、そのあたりの関係も考えられる。
 主に軍事関係を司る氏族が連となり、大伴氏や物部氏が代表的だ。
 片目になった龍神のことを指すという説もあり、あるいは、目を持つ台風のことで、そこから転じて雨乞いの神でもあるらしい。
 ダイダラボッチとの関係を指摘する人もいる。
 なかなか興味深い存在で、今後とも別のところで会う可能性を感じる。

桑名神社2-2

 神館神社と書いて、「こうたてじんじゃ」と読む。
 倭姫命(ヤマトヒメ)が神宮(伊勢)の地を定めるために各地を巡っていたとき、ここに休憩所として館を建てたのが起源とされている。それで、神の館というわけだ。
 神館神明宮や神館明神などともいい、地元では若宮さんとして通っているそうだ。すぐ北に若宮公園がある。
 一説によると、ヤマトヒメの仮宮があったのは多度町の野志里神社(のじりじんじゃ)だったとも言われている。
 少し離れた城南神社にも同じような話が伝わっているらしいのだけど、そちらは神社自体を見つけることができなかった。
 創建年はよく分からない。ヤマトヒメに関係があるというからには古そうではある。延喜式に載っているという話もあるのだけど、一覧表を見るとそれらしい名前は出ていない。鳥居の横の石柱には郷社とあるだけで式内社とは出ていない。
 三重県の松阪市に神戸神館神明社(かんべこうたちしんめいしゃ)があって、そちらは延喜式に載っている。どういう関係性なのだろう。

桑名神社2-3

 神宮との関係が深いということで、祭神は当然アマテラスということになる。ヤマトヒメも祀られているようだ。
 桑名市太夫町に伊勢太神楽という二人立獅子舞(ふたりだちししまい)の伝統があって、北陸から近畿、中国地方を巡行しているそうだけど、出発の前にはこの神社にまず参拝していくという。
 いずれにしても、桑名では重要な神社の一つと言えそうだ。

桑名神社2-4

 神社の周囲をぐるりと水路で囲んでいて、境内には鏡ヶ池がある。
 池のほとりには白竜明神が祀られている。
 神明社は農耕の神という性格も併せ持っていて、豊作のためには水は必要不可欠で、龍神とも結びついていったのだろう。
 現在でも神宮とのつながりがあって、神宮斎主が訪れたりもしている。
 社宝として掛け軸や刀などの文化財を保管しているという。室町時代の村正も持っているらしい。
 村正は桑名出身の刀匠で、千子村正(せんごむらまさ)ともいい、桑名で代々受け継がれたとされる。
 村正といえば妖刀というイメージがつきまとう。
 家康の祖父・清康と父・広忠は共に家臣の裏切りによって命を落としているのだけど、そのときの刀が両方とも村正だったり、家康嫡男の信康が謀反の疑いで死罪になるとき使われたのも村正だったりと、徳川家と因縁浅からぬものがあり、そのあたりから不吉な刀というイメージが作られていったようだ。
 それは後の世の作り話で、家康も家臣たちも村正を持っていたとも言われているけど、当時から反徳川の象徴とされていたのは確かなようで、家康に逆らった真田幸村は村正をあえて選んだというし、幕府に敵対した由井正雪や、倒幕の志士たちも村正を好んで持っていたという。西郷隆盛も村正を愛用していたらしい。
 その後、偽物が多く出回ったこともあり、現存している本物の村正は少ないそうだ。

桑名神社2-5

 ずっと南にも鳥居が建っている。こちらが一の鳥居ということになるのだろうか。
 ここから先が参道だとすると、昔は相当大きな神社だったようだ。

桑名神社2-6

 国道一号線を挟んで反対側に鳥居が見えた。八重垣神社というらしい。
 地図には載ってない予定外の神社だったけど、見つけたからには寄って行かなくてはなるまい。

桑名神社2-7

 軽トラが境内に入っていて何か作業をしていて、境内は古さと新しさが混在していて、なんとなく落ち着かない感じだった。
 狛犬が妙に新しくて周りと調和していない。
 拝殿は1808年に建てられたものだそうだ。鳥居もけっこう年季が入っている。

桑名神社2-8

 このあたりの町名は八重垣町だから、神社の名前はそれにちなんだものかと思ったら、祭神がスサノオで、「八雲立つ 出雲八重垣妻籠めに 八重垣つくる その八重垣を」という詩から名づけられたというから、先に神社があって町名があとだったのだろう。
 もとはこの地にあった大福田寺の鎮守として牛頭天王(ごづてんのう)を祀っていて、明治の神仏分離によって大福田寺が他に移って、神社だけが残り、牛頭天王と同一視されるスサノオを祀ったという流れだったのだろうか。

桑名神社2-9

 立坂神社(たちさかじんじゃ)の一の鳥居も現境内からずいぶん離れて建っている。神社自体は遠くに小さく見えている。

桑名神社2-10

 真っ直ぐ北に向かって歩いて、二の鳥居前に来た。
 その向こうには門がある。
 青銅の鳥居もどこかにあったらしいけど、見逃した。
 この神社は古いものだということが分かっている。平安時代の延喜式に載っている。
 もともとはここから北西1キロほどにあったようだ。桑名高校の北西にある桑陽保育園の敷地内に石碑があるらしい。そちらは見に行っていない。
 ごく古い神社だとすると、当時の海岸線は今の近鉄名古屋線あたりだというから、駅より西にあったのは当然のことだ。現在の桑名市街は昔は海だった。
 創建や由緒については、はっきりしていない。
 昔は矢田八幡社という名前だったようだ。立坂神社というのは明治に入ってからの名称で、明治41年には、旧地の1キロほど北にある尾野神社に合祀されていたという。
 尾野神社も式内社で行きたかったのだけど、体力と時間が許さなかった。
 初代桑名藩主の本多忠勝もこの神社を大事にしたと伝わっている。忠勝出陣姿の肖像画や村正を所蔵しているそうだ。

桑名神社2-11

 いくつかの社殿が縦横に配置されていて、撮ってきた写真を見てもどれがどんなふうに建っていたのか思い出せない。
 上の写真は本殿の拝殿だと思う。
 祭神は、大日霊貴命(オオヒルメノミチノミコト)らしいのだけど、どういう経緯でそうなったのかよく分からない。
 大日霊貴は、大日靈貴とも書き、アマテラスのことだと言われている。大日霊貴神社というのも各地にある。
 ただ、もともとは八幡神社だったわけで、それがどうしてアマテラスを祀るようになったのかは定かではない。八幡神社ならホムタワケ(応神天皇)が一般的だ。
 応神天皇は、神功皇后、玉依姫などとともに配祀されている。どこかで入れ替わったのだろうか。

桑名神社2-12

 応神天応や神功皇后を祀っていたのはどこだったか、思い出せない。

桑名神社2-13

 八天宮と菅原神社とある。境内社だろうか。
 八天宮は八天狗のことか違うのか。菅原神社は菅原道真のはずだ。
 他にも子安稲荷神社がある。

桑名神社2-14

 夕方近かったというのもあるけど、境内は昼なお暗いといった感じだった。
 ここは空襲で焼けていないというから、昔の空気感をとどめているのだろう。カラリとしていない、やや湿っぽい雰囲気を感じた。

桑名神社2-15

 たくさんのニワトリが小屋で暴れていた。入口は開いていて、自由で出入りして追いかけっこをしたりもしていた。
 それにしても数が多い。写真に写ってる倍くらいいた。しかも、普通のニワトリじゃない。白い体に黒い顔といえば烏骨鶏(うこっけい)ではないのか。そんな高級ニワトリを神社で飼っているだろうか。卵をいただいたりしてるのか。
 ニワトリといえば神宮の神使だ。祭神がアマテラスといい、やはりどこかで八幡宮から神宮系に切り替わったらしい。尾野神社に合祀された前後だろうか。

 桑名の神社特集第2回はここまでとする。
 次回第3回に続く。

皿を間違えたサンデー

料理(Cooking)
和食寄りサンデー

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8



 今日のサンデー料理は、料理自体の失敗ではなく、皿の選択を間違えた。
 料理の量に対して皿が小さすぎる。料理がやけに混み合ってしまっている。色合いとのバランスもよくなかった。料理って、こういう失敗もあるんだと知ったサンデーだった。
 彩りと盛りつけという二大課題を相変わらず克服できないでいる。ノーイメージで作り始めて、行き当たりばったりで盛りつけてしまうから、成功と失敗が結果論になってしまう。たまたま上手くいくこともあるし、たいていは上手くいかない。やはり、完成図から逆算していかないといけないということだろう。
 料理としては失敗ではなく美味しく食べられたから、その点ではよかった。3品の味バランスも悪くなかった。
 ただ、統一感の問題もある。和食で揃えるつもりが、黄色いソースが見た目のアンバランスさを生んだ。ここは素直に和風ダレにしておけばよかっただろうか。

 手前は、マグロとナスの黄金ソースだ。
 マグロに塩コショウ、酒を振り、カタクリ粉をまぶす。
 ナスは切って塩水に浸けたあと、オリーブオイルで炒める。マグロも追加で炒めて、表面に焼き色がついたところで止める。
 ソースは、卵黄、マヨネーズ、マスタード、塩、コショウ、白しょう油、オリーブオイル、砂糖を混ぜて作る。
 最後に青のりを振りかける。
 今日一番食べたかったのがこれで、イメージ通りに美味しかった。

 右は湯豆腐の変化球のようなものだ。
 水にダシの素、塩、白しょう油、白だしを入れて沸騰させ、鶏肉、エビ、絹ごし豆腐を入れて、弱火で煮ていく。最後にトマトも入れる。
 たれは、酒、しょう油、みりん、豆板醤、唐辛子、砂糖を混ぜてひと煮立ちさせて作る。
 ピリ辛のあっさり味は、夏の暑いときにもよさそうだ。

 奥は、カボチャと、ニンジン、タマネギ、ジャガイモの天ぷらだ。
 しっかり揚げすぎて、品のない色になってしまった。衣作りのところで失敗した感がある。粉が足りなくて、カリッと揚がらなかった。
 天ぷらはやっぱり難しい。料理上手かどうかの判断として天ぷら作りというのは分かりやすい。天ぷらを上手に揚げられる人なら、たいていの料理はできる。
 家庭の場合、天ぷらだけを作るわけにはいかず、他の料理と同時進行だから、食べる頃には多少冷めてべちゃっとなってしまうのは仕方がないというのはある。揚げたそばからどんどん食べていけばそれが一番美味しいに決まっている。
 でも、カボチャの天ぷらは好きだから、美味しく食べられた。天ぷらではナスとカボチャが好きなのだ。

 今回の収穫は、皿の選択ミスも料理の失敗につながるということが分かったところだ。皿によって料理が美味しく見えることもあるし、まずく見えることもある。洋食なら白い皿を使えば失敗はないけど、和食に白磁というのもおかしい。逆に、和食器に洋食というのも合わない。
 一つのアプローチとして、皿を最初に決めて、そこに盛りつける料理をイメージしてから作り始めるという方法もある。
 皿を買い集め始めると深みにはまりそうだからこれまで控えてきたけど、料理の幅を広げるという意味で皿のバリエーションを増やすというのはありだ。今後そのあたりもちょっと追求していきたいと思う。

桑名神社特集その1~とりあえず片っ端から回る <桑名10回>

神社仏閣(Shrines and temples)
桑名神社1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 桑名では神社仏閣を巡りに巡った。狭い地域にたくさんの寺社があるのは、東海道沿いであり、桑名城の城下町として発展した歴史故だろう。伊勢の玄関口でもあり、更に歴史を遡れば、かなり早くから人が住み始めた地域でもある。
 ただ、数は多いものの大きな寺社は少なく、一神社一ネタになるほどではない。なので、いくつかまとめて、何回かに分けて紹介していこうと思う。
 順番としては、まず桑名総鎮守である桑名宗社(くわなそうじゃ)から始めるのが妥当なところだろう。一般的には春日神社の方が通りがいいようだ。
 ここの名物はなんといっても大きな青銅の鳥居だ。
 桑名が埼玉の川口市と並んで鋳物の一大産地なのは、初代桑名城藩主・本多忠勝によるところが大きかったといわれている。築城の際に鋳造技術が必要ということで、鋳物師を呼び、そこから歴史が生まれた。
 1667年に、7代藩主の松平定重が、桑名鋳物師の辻内善右衛門に命じて建立させた青銅鳥居は、高さは7メートル弱、柱の周りは60センチ近くある。
 何度も天災に遭いながら持ちこたえ、空襲にも耐えた。しかしながら、昭和34年の伊勢湾台風のとき、流された船が激突してついに倒壊してしまう。それでも、もう一度立て直して、現在に至っている。
 青銅鳥居では日本一だそうだ。
 鳥居の足元には、古い「しるべ石」が建っている。
 行方不明になった人を捜すための伝言板のようなもので、尋ね人の情報を紙に書いてここに貼ったという。今でいうところの、迷子の猫を探してますと電柱に張り紙をするのに近い。
 昔は寺社の門前に、このしるべ石というのがよくあったそうだけど、今でも残っているのは珍しいという。
 東海道は少し東だけど、桑名の総鎮守ということで、旅人の多くはこの神社に寄っていったことだろう。

桑名神社1-2

 青銅鳥居の先では、立派な楼門が出迎えてくれる。
 ただしこれは、平成7年に再建されたごく新しいものだ。古いものは空襲でやれてしまった。
 最初に建てられたのは1833年で、15代藩主・松平定永(寛政の改革の定信の嫡子)が寄進した。
 当時の随神門なら相当なものだったろう。

桑名神社1-3

 手水舎で手を洗っていると、いきなりおじさんが説教を食らわせてきた。突然のことで戸惑っていると、作法がなっていないと怒り、嫌味を言って去っていった。何事かと唖然とする。
 門のところでホウキで追い払われた人もいるそうだ。気にくわない人間を見つけると、片っ端から因縁をつけているのかもしれない。それっぽいおじさんが境内にいたらお気をつけを。おちゃらけていると追い出されかねない。
 ちょっと動揺しつつ、気を取り直して参拝することにした。
 一つの拝殿に二つの賽銭箱が置かれ、左右では別の神様を祀っているらしい。ほとんど予習もしていかなかったので、このときはどういうことかよく分からなかった。とりあえず左側にお参りしたのだけど、それは片参りだったことをあとから知る。別の神様だから、両方お参りしないといけなかったのだ。
 ここの神様も少しややこしいことになっている。
 まずは二つの神社、桑名神社と中臣神社が合体して、桑名宗社となっているということを知る必要がある。
 古株は桑名神社の方で、景行天皇の時代の110年に、宮町あたりあった三崎大明神が元になっているという。
 その後、宝殿町に移り、115年に今のところに移ってきたらしい。
 しかし、にわかには信じられない。それはいくらなんでも古すぎる。卑弥呼でさえ175年頃の生まれとされているのだ。
 第一、古代の海岸線は今よりもずっと内陸で、ここは海の底だったはずだ。
 平安時代の延喜式に載っているから平安時代にすでにあったことは確実だけど、その時代でさえここはまだ海だ。
 祭神は、この地方の有力豪族だった桑名首(くわなのおびと)との関わりが深く、駅のずっと西の高塚町に桑名首のものと思われる高塚山古墳がある。だから、本来の場所はもっと西だったのではないだろうか。古墳は前方後円墳だから、神社の成立も、早くて4世紀から5世紀くらいかもしれない。
 祭神は、天津彦根命(アマツヒコネ)。
 アマテラスとスサノオの誓約で生まれたアマテラスの三男とされている神だ。
 同じく桑名の多度山にある多度神社の祭神も天津彦根命だから、二つの神社が関係あることは間違いなさそうだ。
 もう一柱の祭神は、天津彦根命の子供で、桑名首の祖神である天久々斯比乃命(アメノクグシビ)とされる。こちらはメジャーな神様ではなく、桑名開拓の神とされる地方神だ。
 中臣神社はまた別の歴史を辿っている。
 769年に、奈良の平城京に春日大社を建てるとき、中臣氏が常陸国の鹿島神宮から建雷命(タケミカヅチ)を連れてきた。そのときに通過した地に神社を建てたのが始まりとされている。
 ただ、主祭神はタケミカヅチではなく、天日別命(アメノヒワケ)となっている。これは、神武天皇が国を治めるときに活躍した功臣で、伊勢国造の遠祖とされる神だ。
 最初は今より2キロほど西の山の上にあったらしい。
 1290年に桑名神社の境内に移し、1297年に奈良の春日大社から春日四柱神を勧進した。このときから春日大明神と呼ばれるようになり、今でも春日さんと親しまれている。
 タケミカヅチや、中臣の祖神・天児屋根命(アメノコヤネ)や、その妃神・比売神(ヒメガミ)も相殿に祀られている。
 というのが、桑名宗社の成り立ちだ。代々、有力者に保護され、歴代将軍や信長、家康も神領を寄進したりしている。
 明治になって京都御所から東京の皇居へ移るとき、明治天皇もここに宿泊している。
 空襲で社殿はことごとく焼け、昭和29年に拝殿、昭和59年に本殿と幣殿が再建された。

桑名神社1-4

 境内社には、皇大神宮御分霊社、八重垣神社、稲荷神社がある。
 さっきのおじさんが向こうで作業をしていたので近づけず。参拝の仕方にさえイチャモンをつけられそうだったから、遠くから写真を撮って、ここをあとにした。
 結局、写真は4枚しか撮ってなかった。もっとゆっくり見て回りたかった。
 あとから考えると、私の作法も気持ちがこもってなかったと、反省はした。

桑名神社1-5

 所変わって、ここは住吉神社。七里の渡し跡から少し北へ行った揖斐川沿いに建っている。
 川沿いの吹きさらしのようなところにあって、ちょっと唐突な印象を受ける。神社はもう少し囲まないと神域と日常空間との区切りができない。
 昔はもっと趣があったのだろうけど、伊勢湾台風のあとの堤防工事で風景は一変してしまった。昔の面影は残っていない。
 社殿もずいぶん新しい感じだったから、近年建て直したものだろう。
 常夜灯は江戸時代の1788年に建てられたものだそうだ。
 神社は1715年の創建という。
 住吉神社といえば、大阪の住吉大社で、海の神様だ。桑名も海や川の物流拠点として発展した土地だから、住吉神社を建てるのは理にかなっている。住吉神社は尾張氏との関係も深いところだから、場所柄も合う。

桑名神社1-6

 太一丸堤の上にあった神明社が合祀されているそうだ。
 12月中旬から正月過ぎまで、ここの鳥居から朝日が昇るということで、初日の出スポットとしても有名らしい。

桑名神社1-7

 赤須賀神明社。
 ここを探し当てるのに苦労した。
 桑名城跡の南東にあって、昔ながらの混み合った町並みが続く行き止まりのようなところに建っていた。
 通称、猫とび横丁。家と家との間隔が狭く、屋根から屋根へ猫が飛び移れるくらいだというところからそう呼ばれるようになったんだとか。
 1561年に、愛知県幸田町からの移住者が住みついて漁師町として発展したという歴史を持っている。
 ここは住吉神社ではなく、神明社を建てた。神明社というのは、伊勢神宮のアマテラスだから、まあ万能の神ではある。
 赤須賀新田(現在の地蔵)に住民が移転させられ、一時は武家屋敷が建ち並んでいたというから、その頃建てられたものだろうか。
 ここから南西150メートルあたりに赤須賀城があったと伝わっている。
 築城は水谷正吉で、1560年前後らしいのだけど、幸田町からの移住の前なのか後なのか。神明社が創建されたのもその頃だそうだから、何か関係があったかもしれない。
 この神社に関しては、詳しいことは調べがつかなかった。分かっているのは、明治19年から始まった木曽三川の改修工事のときに、赤須賀神明社も現在の場所に移転してきたということくらいだ。

桑名神社1-8

 祭神はアマテラスでいいとして、別宮に一目連社を合祀しているとのことだ。
 一目連神社は次回登場予定なのだけど、桑名の神社はいろいろなところでリンクしていて面白い。別の場所に一目連神社があり、多度大社の別宮にも一目連社がある。
 ここで祀られる天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)というのも変わっているというか多彩な神で、金属の神とされたり、水の神とされたり、農耕の神とされたりと忙しい。一つ目だから妖怪ではないかとか、多度大社の場合守り神がヘビだったり、太陽との関連を指摘されたりもする。伝説の巨人、ダイダラボッチのことだという説もある。
 詳しくはまた一目連神社のところで書くとして、赤須賀神明社では水難除けの神様として祀られているようだ。一つ目になった龍だという話もある。

桑名神社1-9

 御神木と狛犬。

桑名神社1-10

 これが別宮だろうか。だとしたら、隣の建物は何だろう。神馬とかがいそうな感じだけど、中には何もなかったような気もする。

桑名神社1-11

 お稲荷さんも参っておく。
 ここは全般的に新しい。明治というより昭和の香りが色濃い。こんな金属製の賽銭箱も昔はなかったはずだ。

桑名神社1-12

 ほとんど意地のように地図上に出ているすべての神社を回っていった。
 これは東野神明社だ。
 写真に写っているのがほぼ全域の小さな神社だった。
 調べたけど、ネットには情報らしい情報が出ていなかった。

桑名神社1-13

 ここも小さな神社だった。泡州崎八幡社(あわすざきはちまんしゃ)。
 地図には出てないところで、歩いていてたまたま見つけた。
 本多忠勝が町割りをして城下を整備する以前、このあたりは町屋川の流れで、自凝洲崎(おのころすざき)、加良洲崎(からすざき)、泡洲崎(あわすざき)の三洲に分かれていて、この一帯を泡洲崎と称していたんだそうだ。神社の名前はそこから来ている。
 泡州崎八幡社はこの地区の鎮守で、一色町の光徳寺にあったようだ。
 明治41年にいったんは桑名宗社に合祀され、戦後の昭和25年に新町の産土神として今の地に分祀されたらしい。
 八幡社ということで、祭神は誉田別命(ホムタワケ)で、応神天皇ということになる。
 相殿にはアマテラスと、天児屋根命(アメノコヤネ)が祀られている。アメノコヤネは、桑名宗社の春日神社から連れてきたのだろう。

 桑名神社編の第一回はこれくらいにしておこう。
 全部で3回になるか、収まらずに4回になるか。

人がいない桑名の町並み写真---インターミッション <桑名9回>

観光地(Tourist spot)
桑名インターミッション-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 桑名観光のメインどころの紹介が終わって、残すところは神社仏閣のみとなったのだけど、ちょっと準備が間に合わなかった。他の小ネタでつなぐか、神社を小出しにするか迷って、桑名の番外編を先にやってしまうことにした。写真の現像だけは終わっていて、これは調べ物がないから写真を並べるだけで済む。
 というわけで、今日は桑名インターミッションをお送りします。
 一枚目は、桑名駅を降りてすぐの裏道。早朝みたいな雰囲気に写ってるけど、そんなに早い時間じゃない。10時くらいにはなっていた。
 桑名駅周辺も、あまり活気があるという感じではない。駅のすぐ東を通っている国道1号線は交通量が多いのだけど。

桑名インターミッション-2

 古い建物や、閉鎖した店を見つけると、とりあえず撮る。自分でもよく分からない条件反射のようなものだ。
 昭和という時代の名残に反応しているのかもしれない。
 ここは自転車兼バイク屋だったようだ。

桑名インターミッション-3

 食堂という響きもいつの間にか懐かしいものとなった。
 母方の祖母が食堂をやっていたから、食堂というと夏休みのかき氷を思い出す。業務用のかき氷機と氷を使って、シロップかけ放題なのが嬉しかった。
 個人経営の大衆食堂というのも少なくなった。

桑名インターミッション-4

 古い蔵を利用した最近の店か、昔ながらの老舗なのか、外からでは判断がつかなかった。
 古民家カフェみたいなのが最近増えた。あれはいいことだと思う。せっかくの古くていい建物を遊ばせておくのももったいないし、町の活性化にもつながる。

桑名インターミッション-5

 土間のある家。町屋風だけど、昔は商売をしていたところだろうか。
 玄関前に置かれた植木鉢が生活の潤いを感じさせる。植木が並んでなければ、ここを撮ろうとは思わなかっただろう。

桑名インターミッション-6

 段々家。
 曲がっていく道に合わせて、家の並びが段々奥になっていっているのが面白いと思った。
 微妙な生活感があるようでないような、人が住んでいるのかどうか判断がつかない。

桑名インターミッション-7

 この店は現役で商売をしていた。ただ、商店というのは分かるにしても、何を売っている店なのか、表からだけでは分からない。観光客をターゲットにはしてないだろうから、地元の人が分かっていればそれでいい。
 左にたばこ屋の窓があるから、雑貨屋さんのようなものだろうか。

桑名インターミッション-8

 川沿いの裏手のような家の並び。この右手が揖斐川だっただろうか。
 神明社と貝塚公園を探して道に迷っているときで、これがどのあたりだったのか覚えていない。
 迷子になっている最中でも、昭和アンテナに引っかかった風景には反応する。

桑名インターミッション-9

 そういえば、人入り写真を撮っていなかったと、あわてて撮った一枚。
 何しろ、桑名の町はあまり人が歩いていない。風景の中に人がいるべき場所でも無人写真になってしまう。
 後半は風景探しに加えて人探しの散策となった。

桑名インターミッション-10

 こちらの自転車屋さんも、今はもう営業していないようだ。店の前にある自転車はどれも走りそうにない。
 自転車の需要はそんなに激減しているとは思わないのだけど、やはりチェーン店や大型店との価格競争に負けてしまったのだろう。
 パンク修理とか、故障対応のための町の自転車屋さんも必要だろうに。

桑名インターミッション-11

 あ、人発見。でもまた自転車だ。歩いている人はどこへ行った。

桑名インターミッション-12

 お嫁入りふとんというのを見て、ああ、なるほどと、思った。
 嫁入り道具の一つとして、確かに布団は必要だった。最近はベッドが多いから、どうなんだろう。今でもお嫁さんの実家が嫁入り道具として布団一式持たせるという習慣は残っているんだろうか。
 この店ももうやっていないようだ。

桑名インターミッション-13

 ついに歩いている人入り写真は撮れず、歩いていたのは猫だけだった。
 人を入れられるものなら積極的に入れて撮る私の写真で、これほど人が出てこないというのも珍しい。もちろん、まったく人がいないわけではないのだけど、写真を撮るとそこに人はいないのだった。
 

鎮国守国神社でふたり力を合わせて桑名を守る <桑名8回>

神社仏閣(Shrines and temples)
桑名城2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 桑名城本丸の天守があったあたりには、現在、鎮国守国神社(ちんこくしゅこくじんじゃ)が建っている。どういう神社か、少し説明が必要だ。
 護国神社というのが全国にたくさんあるから、それと似たようなものかと思ったら違った。桑名城に関係する二人の人物が祀られている。鎮国に松平定綱、守国神社に松平定信と、二つの神社があわさって鎮国守国神社となっている。
 という説明だけで分かる人は相当歴史に詳しい人で、普通は知らない。松平定信が寛政の改革の中心的人物だったと覚えている人はいるかもしれない。
 松平定信は、1758年、御三家に次ぐ御三卿の田安徳川家・田安宗武の七男として生まれた。
 8代将軍徳川吉宗の孫とはいえ、七男ではまず家督を継ぐことはないし、出世も望めない。しかし、定信という人は相当出来が良かった。家を継いだ兄が病弱だったこともあり、兄に代わって田安家を継ぐべきだという声もあったという。あるいは、10代将軍家治の次の将軍候補という話も出たらしい。
 このとき、田沼意次全盛時代、将軍家は賄賂まみれになっていて、それを定信は激しく非難したことで目を付けられてしまう。
 そこで、陸奥国の白河藩へ養子に出されることになる。養父は白川藩2代藩主・松平定邦で、その後、白川藩を継いだ。
 ここで天明の大飢饉を乗り切ったり、藩政の手腕を認められたりで、ついに幕閣入りを果たすことになる。天敵の田沼意次は死去していた。
 幼かった11代将軍家斉を補佐すべく老中首座・将軍輔佐となり、田沼派を一掃して、清い政治を目指した。このとき行ったのが寛政の改革で、祖父・吉宗の享保の改革を手本にしたとされている。そして、それは一応の成功を収めることになる。
 ただし、誰もが納得する政治というのはあり得ないことで、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」という大田南畝の歌にもあるように、倹約ばかりで面白くないという人々も少なくなかっただろう。禁止事項も多く、庶民や大奥にはとても評判が悪かったという。
 さて、鎮国守国神社の話はどうなったかというと、定信が白河城内で松平定綱を鎮国大明神として祀ったことに始まる(1784年)。
 松平定綱は定信の祖先で、桑名藩5代藩主を務めた人物だ。本多忠勝が築城した桑名城を改修し、桑名の城下を発展させた人ではあるけど、どうしてこの人を特別視したのか、よく分からない。
 本多忠勝親子に代わって入城したのが松平定勝で、次が定行、定綱はその弟に当たる。定信は定綱を特に高く評価していたのか、何か特別な共感があったのか。定綱が飛び抜けて優れた藩主だったという話は伝わっていない。
 1823年、定信の嫡男・定永が桑名へ移ってきたのを機に、鎮国大明神も一緒に桑名城内に移された。そのとき定信が守国公として祀られ、鎮国守国神社となったというわけだ。
 私もさっき勉強して知ったことで、これでようやくすっきりした。

桑名城2-2

 明治維新のあと、しばらく本丸の外に移っていたらしい。今の場所に移ったのは明治40年のことだそうだ。
 明治8年には村社、明治13年には県社に格が上がっている。
 大正8年に拝殿が建てられたというけど、今あるのがそうなのだろうか。けっこう新しいように見えた。空襲では焼けなかったのか。
 賽銭箱はもっと新しいものに見える。何故か天満宮印が入っている。

桑名城2-3

 横には天満宮でお馴染みの牛さんがいる。摂社の日吉菅原社のようだ。
 久松松平家の祖神が天満天神らしく、昭和天皇がどうとかという説明があったのだけど、経緯はよく分からない。
 もう一つの摂社、旭八幡社はどこにあったのだろう。
 信定百年祭記念で建てられたという宝物館も見つからなかった。

桑名城2-4

 一応撮っておこうと撮っておいたものの、説明板のアップ写真を撮り忘れて、どういうものだったか忘れてしまった。

桑名城2-5

 横にももう一つの鳥居があったので、いったん出て、別の鳥居から入り直す。

桑名城2-6

 定綱が本丸に井戸を掘ったとき、龍神を祀るために建てた神社らしい。

桑名城2-7

 九華招魂社。
 戊辰戦争から第二次大戦までの桑名出身の戦没者を祀っている。

桑名城2-9

 更に隣のお稲荷さん。

桑名城2-10

 最近、どこかで妙に背の低いお稲荷さんの鳥居をくぐったのだけど、それがここだっただろうか。頭を低くしないと歩けなかった。もしかしたら、別のお稲荷さんだったかもしれない。

桑名城2-11

 鎮國稲荷神社と額にはある。地図では宮光稲荷大明神として載っている。

桑名城2-12

 手こぎ井戸がある。もう出なくなって久しい感じだ。
 このあたりは揖斐川の河口沿いだから、井戸水も塩分が混じっていたんじゃないだろうか。

 鎮国守国神社といえば、地元では金魚まつりが有名のようだ。
 江戸時代に、大和郡山から江戸の将軍家に金魚を運ぶ途中に寄った桑名の殿様が金魚を気に入って、それ以来桑名城下でも金魚がもてはやされるようになったんだとか。
 そんな話が伝わって、明治に入ってから例大祭で金魚市がひらかれるようになり、今でもそれが続いているらしい。
 昔はたいそうな賑わいだったそうだけど、今は金魚すくいもあまり流行らなくなった。

 桑名城紹介もこれで終わって、桑名観光に関する持ちネタは、神社仏閣だけとなった。次回からはまたしばらく神社ネタが続きそうだ。

本多忠勝は強いだけじゃなく桑名の恩人でもある<桑名7回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
本多忠勝の像




 桑名城を発展させて、今日の桑名の城下町の基礎を築いたのは誰か。戦国野郎や戦国お嬢なら百も承知かもしれないけど、一般的にはあまり有名ではないんじゃないか。三重県松阪市生まれの私でさえ行くまで桑名城といえば誰というはっきりしたイメージは持っていなかった。
 徳川家臣団最強の呼び声も高い徳川四天王のひとり、本多平八郎忠勝と聞けば、戦国にちょっと興味がある人なら知っているだろう。生涯で57度の戦に参加して一度も負けたことがなく、傷ひとつ負ったことさえないといわれた天下無双の槍使いだった。あまりにも強かったという伝説から、「戦国BASARA」では平八郎メカになっていた。「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛したのは武田軍の小杉左近だった。
 忠勝は関ヶ原の合戦でも活躍して、そのあと、10万石で桑名入りした。
 桑名の歴史を遡ると、鎌倉時代初期の1186年に、幕府の命を受けた伊勢平氏の桑名三郎行綱が城館を築いたのが始まりとされている。
 戦国時代には、伊藤武左衛門の東城、樋口内蔵の西城、矢部右馬允の三崎城と、3つの城があり、桑名三城と呼ばれていた。
 信長が伊勢桑名一帯を支配下に収めてからは、滝川一益が3つの城を任されることになる。一益は長島城を改修してそちらに移り、3城は家臣に守らせていたという。
 その後、秀吉時代には神戸、天野、服部など城主は頻繁に交代している。一時は徳川家臣の酒井忠次や石川数正も桑名城を守っていた。
 関ヶ原の前までは、氏家ト全の長男・氏家行広が2万2千石で城主をつとめていたものの、関ヶ原で西軍についたため没収され、それに代わって入城したのが本多忠勝だった。
 地方の一支城ながら東海道の要所に位置するということで、家康も重視していたのだろう。10万石はちょっとしたものだ。
 1601年。忠勝は東城があったところに本格的な天守を持った城郭を築き、同時に城下町を整備していった。徳川四天王のひとりでライバルの井伊直政も、家臣を動員して普請を手伝ったという。
 世の中が平和になると、忠勝のような人間は次第に活躍の場がなくなり、影が薄くなっていく。息子の忠政に家督を譲って、自分は隠居生活に入り、結局桑名で最期を迎えることになった。浄土寺に墓がある。
 3代忠刻(忠勝の孫)が家康の孫娘で豊臣秀頼の正室だった千姫と結婚しているから、千姫もしばらく桑名城に住んでいた。
 2代忠政が姫路藩に移封となり、一家が姫路に移っていったのは1617年のことだ。桑名城と姫路城にこんなつながりがあったとは知らなかった。
 代わって入ったのが松平定勝で、その後は松平家が代々継ぐことになる。
 1701年に桑名城下で大規模な火事が起こり、天守もこのとき消失してしまう。財政が厳しかったのか、時代的にもう必要ないと判断したのか、こののち天守が再建されることはなかった。
 松平家といえば、徳川の本家筋で、当然のことながら幕府側ということになる。幕末の頃は、松平容保の弟・松平定敬が藩主をつとめていたこともあり、戊辰戦争では完全に幕府側に組み込まれてしまった。
 松平定敬は初め京都所司代として京都で薩長軍と戦い、大政奉還ののちは、敗れた幕府軍とともに江戸に向かう。
 その頃藩主がいない桑名城では、薩長軍に降伏するか戦うかでモメにモメて、最後は鎮国守国神社のくじを引いて決めようということになり、抗戦と出たものの、家臣団が絶対反対と譲らず、最終的には城を明け渡すことになった。
 それで死者は出ずに済んだのだけど、城は焼き払われてしまう。天守の代わりに使っていた辰巳櫓(たつみやぐら)を焼くことで降伏の証とした。
 藩主の定敬はというと、流れながれて函館の五稜郭での戦いに参戦していた。土方歳三や榎本孝明とともに戦っていたのだろうか。
 それでも最後まで生き残って、降伏をしたあと、江戸時代は日光東照宮の宮司をしていたというから人の命運というのも分からない。
 51の櫓と46の多聞、4重6階の天守を持つ大城郭だった頃の面影は何も残っていない。水堀の一部が姿をとどめているのみとなっている。
 残っている建造物も少なく、了順寺に城門が移築されたり、壊された石垣が四日市築港の資材として使われたりしたくらいだった。



九華公園入り口

 桑名城跡は現在、九華公園(きゅうかこうえん)として整備され、一般開放されている。
 九華というのは二重の引っ掛けで、ひとつは九華と書いて「くはな」、「くわな」と読ませ、桑名の別名として使われていたこと、もうひとつは桑名城は揖斐川に面して扇を開いたような形から「扇城」と呼ばれていて、中国に九華扇という扇があり、扇城と九華で九華公園と名づけられたというわけだ。
 という説明を聞かないとどういう意味かよく分からないような名前だ。
 しばらく荒れていたものを、昭和3年(1928年)に松平定信没後100年を記念して公園として整備され、現在に至っている。
 松平定信については、鎮国守国神社(ちんこくしゅこくじんじゃ)のところで書きたいと思う。



三の丸堀跡

 一番外側に三の丸堀があり、橋を渡って内側に二の丸堀がある。どちらもけっこう残っている。
 このあたりは駅前から外れたところで、官庁街でもないから、多くを残すことができたというのもあっただろう。
 戦前までは今の立教小学校あたりまで堀が残っていたようだ。南側は戦後に埋められてしまって残っていない。
 それにしても、流れがないのか水がかなり淀んでいる。地図を見ると揖斐川と細くつながっているようだけど、流入と排水はどういう処理をしているのだろう。堀川というより、ほとんど池に近い。もう少し水がきれいだと気持ちいいのだけど。



吉之丸堀

 堀をしっかり残している分、本丸周囲の陸地は小さく飛び地になっている。
 本丸周辺は、吉之丸堀という名前がついている。
 なかなかに攻めづらい構造の城だ。背面の川から攻められたらもろそうではある。



亀の甲羅干し

 カメの甲羅干し風景。
 カワウも参戦。



キンクロハジロ

 おいおい、6月なのに、今頃、キミ、こんなところにいていいのか。
 渡らなかったキンクロハジロがポツンと浮かんでいた。春に渡らなかったやつだろう。自分の意志で渡らないことにしたのか、怪我でもしていて渡れなかったのか。
 日本の暑い夏に耐えられるのだろうか。秋に仲間が渡ってくるまで、あと4ヶ月くらい孤独に耐えないといけない。



ハナショウブ祭り

 花菖蒲まつりが行われていた。約4000株が植えられているそうだ。
 桜とツツジの名所としてもそれなりに知られているらしい。



桑名城1-8

 せっかくなのでハナショウブも撮っておく。



大砲

 本丸があった南東角に、大砲が置かれている。もともとは辰巳櫓があった場所だ。
 どういういわれのものなのか、よく分からないそうだ。戊辰戦争のときに使われたものなら、そういう言い伝えが残っているだろうに。



桑名城跡石碑

 本丸跡入口に立つ桑名城跡の石碑。
 これは西側だったか。



本丸跡

 広場になっている部分が本丸跡ということになるだろう。
 右手に見えている鳥居が鎮国守国神社で、そこに天守があった。

 写真が思ったよりも多くて、神社関係がはみ出してしまった。一回では収まらなかったから、2回に分けることにする。
 次回は桑名城関連の神社編ということになる。
 つづく。

 鎮国守国神社でふたり力を合わせて桑名を守る

七里の渡し跡から旧東海道にかけて残るぼんやりとした面影<桑名6回>

観光地(Tourist spot)
七里の渡し-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 桑名名物といえば、蛤(はまぐり)と七里の渡しと、昔から相場が決まっている。その手は桑名の焼き蛤と言う人がいなくなっても、桑名と聞いて蛤を連想する人は多いはずだ。逆に言えば、それくらいしか桑名名物は知られていないということもでもある。
 蛤は結局食べなかったので、今日は七里の渡しについて書きたいと思う。
 七里の渡しといえば、熱田の宮の渡しを思い浮かべる人の方が多いかもしれない。江戸から京都に向かう東海道で唯一の水路が、熱田の宮と桑名をむすぶ七里の行程だった。一里は約4キロ弱だから、28キロ弱の距離ということになる。
 ちなみに、江戸から京都までは約500キロで、江戸時代の旅人は10日から15日で歩いたそうだ。一日30キロ以上というから恐ろしく丈夫な人たちだ。私の10時間歩きくらいは子供同然と言える。
 今の時代、熱田から桑名まで船で行こうと思うと、ものすごく遠い。堀川を下って名古屋港に出て、ずずずっと南下して金城ふ頭の南を通り、大回りしてナガシマスパーランドまで行き、そこから揖斐川をのぼってようやく辿り着く。こんな海路を手こぎの帆船で行けと言われても絶対断る。
 けど、昔の人はすごかったなと感心するのは早い。当時の海岸線は今よりもずっと北にあって、熱田から左斜め下にほぼ直線上に進むのが七里の渡しの航路だった。つまりは、海岸線をものすごく埋め立てしたということだ。
 現在の地図でいうと、白鳥公園あたりを出発して名古屋競馬場、荒子川公園を通り、日光側公園から飛島村、弥富市、木曽三崎町を横断して、長島スポーツランドの北あたりに出るといった感じだ。江戸時代から400年の間にこんなにも広い範囲を埋め立てたのかとあらためて驚かされる。
 干潮満潮や潮の流れ、風などでコースは微妙に変わったそうだけど、だいたい3時間から4時間の船旅だったらしい。思ったよりも早い。
 船が苦手な人のために、佐屋宿まで川路3里を行って、そこから佐屋街道を歩くというコースも用意されていた。
 当時の五街道というのは単に幕府が道を整備してどうぞみなさん歩いてくださいといったようなものではなくて、人の行き来を厳しく管理するためのものだから、幕府が東海道の宮から桑名までは海路と定めたならそこを通らなくてはいけない。勝手に好き勝手な道を歩いていけばいいというものではない。
 当然のことながら東海道の難所の一つとして、しばしば海難事故も起こったようだ。
 上の写真の鳥居は、伊勢神宮の一の鳥居として、1780年ごろに建てられた。伊勢神宮の遷宮ごとにこの鳥居も建て替えられる。
 江戸時代、庶民のお伊勢参りが流行すると、桑名にも大勢の人たちがやってきた。
 それ以前の桑名は、桑名城の城下町としてそれなりの発展を見せており、江戸時代に桑名宿ができると、ますます賑わうようになる。
 東海道五十三次42番目の宿場として、宮宿(熱田)に次いで旅籠数が多かったという。
 熱田がダントツの248軒で、桑名は120軒あったというから、相当な人出だったのだろう。
 1800年代には桑名宿の人口は8,000人を超え、本陣が2軒、脇本陣が4軒もあったというから、大規模な宿場町だったことが分かる。今はその面影はない。
 桑名の街は空襲でほぼ全滅に近いくらいの被害を受けているから、本当に古い建物はごくわずかしか残っていない。空襲でやられていなければ、馬篭や妻篭宿のような観光地になっていただろうか。
 写真右手に櫓(やぐら)の恰好をした建物が写っている。
 実際は水門統合管理所という川を管理する事務所なのだけど、桑名城の蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)を模して建てられている。
 桑名城はよく知られた海城で、七里の渡しの船着き場近くに建っていたこの蟠龍櫓は、よく目立つ目印だったようで、歌川広重も東海道五十三次の中で描いている。
 空襲だけでなく、伊勢湾台風(昭和34年)で壊滅的な被害を被っている。現在の蟠龍櫓は、そのあとに建てられたものだ。
 鳥居の脇に立っている常夜燈は江戸時代の古いもので、伊勢湾台風で倒れて上の部分が壊れてしまったので、多度大社から上だけもらってきて乗せている。
 伊勢湾台風というのは本当に強烈なやつで、あれ以前とあれ以降では水辺の景色が一変してしまった。大がかりな防波堤が築かれ、残されていた昔の面影も失われてしまった。

七里の渡し-3

 川沿いに出て、揖斐川から遠く熱田方面を見やる。
 右に見えている丸い頭の並びは、例の長良川河口堰(ながらがわかこうぜき)というやつだ。
 長良川の治水と利水を目的に作られた堰で、地元の反対を押し切って強引に作られた。案の定、生態系は破壊され、それ見たことかとなったけど、あとの祭りだった。
 いくら魚道を作ったところで、あんな堰を作って流れを食い止めてしまったら漁業にも深刻な影響が出るに決まっている。
 正面に見えている長い橋は、現在の東海道、国道一号線でもある伊勢大橋だ。
 七里の渡し跡は、文字通り跡地があるだけで、他にはこれといった見所もない。蛤を売ってるみやげ物屋の一つでもあればよさそうなのに、そういう観光地めいた雰囲気は一切ない。こんなところで店を出しても儲かるとは思えないけど、それにしても愛想がない。
 一般的に三重県は、伊勢、志摩、鳥羽に代表される観光地としてのイメージがあると思う。しかし、桑名にはそれがない。もう少し頑張れるような気もするのだけど。

七里の渡し-4

 蟠龍櫓は二階建てになっていて、二階に登ることができるようになっている。せっかくなので入ってみることにした。
 が、特に何もない。パネルが少し架かっているくらいで、興味を惹くようなものはなかった。
 展望といっても窓は小さいし、所詮二階なので、何が見えるというわけでもない。
 蟠龍というのは、龍が天に昇る前のうずくまった姿なんだそうだ。櫓は完全な再現というわけではなく、描かれた絵などから想像して復元されたものだそうだ。
 桑名城は1701年に天主が焼け落ちてから再建されることはなかった。

七里の渡し-2

 七里の渡しは、桑名城のすぐ外にあって、かつての外堀は現在船着き場(船溜まり)として利用されている。
 このあたりの石垣は、桑名城があった頃のもので、昔を偲ぶことができる数少ない遺構の一つだ。
 ずらりと船がつながれ、石垣の上に民家が並んでいる様子は、なかなか趣がある。

七里の渡し-5

 明治42年、小説家の泉鏡花は伊勢神宮へ参拝に向かう途中、桑名に立ち寄り、船津屋に一泊した。
 このときに想を得て、のちに「歌行燈(うたあんどん)」を書いた。いまどき泉鏡花を読む人は少ないと思うけど、代表作の一つだから読んだという人もいるかもしれない。もしくは、市川雷蔵主演の映画を観た人もいるだろうか。
 作中では湊屋として登場している。もともとは桑名宿の大塚本陣があったところだ。今でも船津屋は続いていて、懐石料理屋になっている。
 フラッと一人で入っていけるような感じではなかった。

七里の渡し-6

 のちに久保田万太郎が昭和の初めにここを訪れ、宿に泊まって「歌行燈」の戯曲を書いた。
 入口横には、久保田万太郎の句碑が建っている。
「かわをそに 火をぬすまれて あけやすき」
 作品の中に、湊屋の裏の石垣を登ってカワウソが入り込んで悪さをするという話が出てくる。そのカワウソが廊下や便所の灯りを消して回るイタズラをするといったような句だ。

七里の渡し-7

 船津屋の並びにある料理旅館「山月」。
 4軒あった脇本陣の中で最も格式が高かった駿河屋がこの場所にあったらしい。残りの3軒はどこにあったのか分からなくなっている。
 少し南に行ったところに、問屋場跡と丹羽本陣跡の碑が建っている。建物そのものは何も残っていない。

七里の渡し-8

 このあと私は北上して六華苑へ行ったのだけど、そのときのことはもう書いた。船津屋から南へ行ったあたりを紹介することにする。

七里の渡し-9

「歌行燈」といううどん屋がある。泉鏡花の「歌行燈」の中で出てくる「饂飩屋」は、ここがモデルとなっていると言われている。
 当時はまだ「志満や」という店名のうどん屋だった。
 創業は明治10年(1877年)と、かなり古い。
 志満やが歌行燈に店名を変えたのはずっとあとのことで、昭和55年になってからだった。モデルになった店ということは知られていただろうから、もっと早くにあやかって改名していてもよさそうなのに。
 歌行燈はその後チェーン店になっているから、うどん屋としてはけっこう知られているのかもしれない。その本店が桑名のここということはどれくらい知られているんだろう。
 釜揚げうどんがなかなか美味しいと評判なので、桑名に行くことがあればここはよさそうだ。蛤料理もある。

七里の渡し-10

 旧東海道沿いにあるビジネス旅館初音。ビジネス旅館という響きが古いんだか新しいんだかよく分からない。
 表からは8室もあるようには見えないのだけど、意外と奥が深いのか。それとも、一部屋が思った以上に狭いのか。
 2食付きで一泊6,000円~というのも、なかなかに興味深い。

七里の渡し-11

 東海道沿いからは外れていたかもしれないけど、中日新聞の販売所もこの通り。
 外観はごく最近のものながら、この気遣いと同調性は好感が持てる。特に景観保存地区ではないものの、こうやって住民がみんな協力していくと、桑名ももっといい街になるんじゃないだろうか。

七里の渡し-12

 桑名名物とらや饅頭の店、「とらや老舗」。
 創業は赤福よりも4年早い1704年。
 建物は空襲で焼けてしまったものの、木彫りの虎看板は残った。
 桑名名物らしいけど、私はとらや饅頭を食べたことがない。酒素饅頭だそうだから、食べてみれば、なるほどこれねと思いそうだ。

七里の渡し-13

 はきものの店。かなり古そうだけど、相当立派な建物だ。はきもの屋というのが商売として成り立つ時代は終わったかもしれない。今はもう、街の靴屋さんというのが本当に少なくなった。

 旧東海道は、この先も南の方に続いている。ただ、桑名城跡を離れると、どんどん面影もなくなっていって、撮りどころも少なくなる。
 そのあたりの写真は番外編で載せるとして、七里の渡し編はこのあたりで終わりとする。
 伊勢神宮の一の鳥居から船溜まり、船津屋、歌行燈あたりは見ておいて損はない。それに加えて、北の六華苑、南の桑名城までが桑名観光のメインどころとなるだろう。
 次回は桑名城跡を紹介する予定です。

諸戸氏庭園後半も外から見てるだけ状態が続く <桑名5回>

観光地(Tourist spot)
諸戸氏庭園2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 今日は諸戸氏庭園後半部分の紹介です。
 純和風の屋敷に、唐突に現れる赤煉瓦の建物。なんで赤煉瓦なんだろうと思ったら、最初は木造だったのが火事で焼けてしまって、その対策として赤煉瓦にしたようだ。確かに昔も今も火事は怖い。何もかもなくしてしまう。だから、蔵は燃えにくいように白壁だったわけだ。
 明治28年(1887年)には赤煉瓦倉庫が5棟あったという。屋敷の前が運河になっていて、そこで荷下ろしをして、米などをこの中に保存していたらしい。
 空襲で2棟焼かれて、今は3棟しか残っていない。
 赤煉瓦はイギリス積みという手法なんだとか。

諸戸氏庭園2-2

 本宅の庭には当然ながら神社がある。見た目は神社というより寺のお堂のようだ。少し前の写真を見ると、二重の鳥居が建っている。老朽化して撤去されたのはここ数年のことかもしれない。それで神社らしくなくなってしまった。鳥居は外界と神の領域を分ける結界だから、形だけでも必要だと思うのだけど。
 金比羅神社、住吉神社、伏見稲荷、玉船稲荷、菅原神社を合祀している。関係各位の神様をたくさん集めたものだ。山田家時代の神様も一緒に祀っているから、たくさん増えてしまった。それにしても、海の神や商売の神、学問の神まで家に呼んでしまうというアグレッシブさを見せる。自分一人の力で成功できたわけではないという謙虚さの裏返しとも取れる。
 

諸戸氏庭園2-5

 裏手には水路というか堀のようなものがある。揖斐川から引っ張ってきたものなのか、溜め池のようなものか、よく分からなかった。
 黄葉の季節はこのあたりもいい雰囲気になるんじゃないだろうか。

諸戸氏庭園2-3

 西側の御殿の前には、第二の庭園がある。
 敷地の西側は諸戸氏時代になってから拡張した部分で、その前は水田だったそうだ。
 そこを埋めて庭園を造り、池には揖斐川から水を引き入れて、満潮干潮によって池の推移が上下する汐入りの池となっていたらしい。今は水門が閉じられていて、そういう趣向にはなっていない。
 池の周りには青石で築かれた築山があって、その隙間を木の根が這い回っている。自然と人間のせめぎ合いのような、妙な迫力を感じさせるワンシーンだ。

諸戸氏庭園2-4

 迫力といえば、水面にせり出していっている松の姿もなかなかのものだ。

諸戸氏庭園2-6

 御殿は、商売が上手くいかず、奥さんを亡くして落ち込んでいた初代清六が、佐野常民子爵のアドバイスで建てたもので、明治24年(1891年)に完成した。
 西本願寺をモデルにしたらしい。
 洋館があるのもこの奥で、賓客をもてなすときにはそちらも使われていたようだ。

諸戸氏庭園2-7

 御殿も中に入ることができず、もどかしさが募る。

諸戸氏庭園2-8

 左手が玄関で、棟続きの途中の部分にも広い部屋がある。こちらだけでもけっこうな広さだ。
 これで見られる部分は一通り見たことになると思う。あとは御殿玄関前に出て、本邸の入口まで戻って、そこが出口を兼ねている。もう少し何かあるんじゃないかと思ったけど、なかった。

諸戸氏庭園2-9

 本邸を出た正面に、揖斐川とつながっている運河がある。赤煉瓦倉庫とあわせるためにレンガ風に改造したのだろう。昔はこんなふうではなかったはずで、改装されたのはきっと最近のことだ。
 でも、こういう気遣いはいいと思う。諸戸氏庭園とよくマッチしている。

諸戸氏庭園2-10

 表から見た赤煉瓦倉庫。よく補修されているのか、そんなに古いものには見えない。
 赤煉瓦の建物は今でも通用するデザインなのだけど、いかんせん地震国日本には向かない。今ではずいぶん数が少なくなった。

諸戸氏庭園2-11

 邸宅を囲う塀と門。
 諸戸氏庭園と六華苑部分が一体だった当時は、さぞかし広かったことだろう。移動だけで大変すぎて、効率が悪い。なんて発想は、根っからの貧乏人的なものだ。でも、こんな広い屋敷の使用人は嫌だとも思う。

 諸戸氏庭園と六花亭と、個人的には六花亭の方が好印象だったけど、両方一緒に見ることで全体の広さを実感することができるし、歴史も理解しやすくなるから、せっかく行くなら諸戸氏庭園が公開している時期をオススメしたい。
 もう少し中まであがらせて見せてくれると嬉しいのだけど、なかなか難しいところもあるのだろうか。
 さほど見所が多いとは言えない桑名だけに、これは貴重な文化遺産だ。更に整備を進めつつ宣伝もして、もっと全国から人を呼びたいところだ。対岸にある「なばなの里」と水上バスで結んだらどうだろう。直線距離で1キロくらいだから、水上バスで行けばすぐに行けて便利だ。
 六華苑以外の桑名の魅力を私もお伝えできればいいのだけど、神社仏閣紹介がメインではそれもあまり自信がない。次回は、七里の渡しと旧東海道編を予定している。

いろんな意味で失敗なサンデーに反省

料理(Cooking)
バタバタサンデー

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8



 今日のサンデー料理は失敗だった。完成図を見ると特に失敗した感じではないのだけど、作る過程でいろいろな失敗や思惑違いが重なって、がっかりな感じが強くなってしまった。
 一番の失敗というか危なかったのは、魚焼きグリルの火を付けっぱなしにしていて、中の油が燃えだしてあやうく火事になりそうだったことだ。これで一気にやる気がしぼんだ。アルミホイルにオリーブオイルをたらして温めていたのを忘れて別の作業をしていたら火がついて燃えだしたので焦った。
 今日は簡単なメニューだと思ったのに、作り始めたらいろいろ手間がかかって、同時進行していたら混乱した。白身魚用に作ったタルタルソールを乗せ忘れて写真を撮ってしまったり、飾り付けまで気が回らず盛りつけがいい加減になってしまったりと、最後までドタバタ続きで嫌になった。また料理に対する自信が一気に後退した。妙に疲れもした。
 というわけで、今日は簡単なコメントを添えてブログも早々に終わりとしたい。

 手前は、白身魚のマヨネーズ焼きだ。フライのように見えてフライじゃない。
 タイに塩、コショウ、酒を振り、マヨネーズであえて、パン粉をまぶす。
 それを魚焼きグリルで焼く。マヨネーズの作用で、簡易フライのような仕上がりになる。けっこう美味しくできるからオススメしたい。
 右は、豆腐とエビ、野菜の豆板醤炒めだ。
 豆腐を水切りして、エビと共にカタクリ粉をまぶす。
 ナス、豆腐、エビ、アスパラを炒め、酒、みりん、しょう油、砂糖、豆板醤で味付けをする。
 最初は普通に炒めて、最後に水溶きカタクリ粉でとろみをつけてもよかった。
 奥は、山芋揚げ。
 山芋をすり下ろして、刻んだタマネギ、ニンジン、卵、小麦粉を混ぜ、塩、コショウ、ダシの素で下味を付ける。
 これを低めの温度の天ぷら油で揚げる。柔らかいからスプーンで掬って落とす。
 揚がったものに軽く天つゆをかける。
 本当は味付け海苔と長ネギの刻みを乗せるつもりだったのに、全部が完成したときには力尽きて、そんなことはすっかり忘れていた。

 救いは美味しく食べられたことだ。味は問題なかったからそういう意味では失敗ではなかったのだけど、作り手の気持ちとしては完全な失敗だった。今日のことは忘れて、もう次へ行きたい。
 来週はもう少しまともなものを作らないといけない。今日は苦い反省だけが残った。

諸戸氏庭園は入れないあがれない見てるだけのもどかしさ <桑名4回>

観光地(Tourist spot)
諸戸氏庭園1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 六華苑をあとにして、次は諸戸氏庭園(もろとしていえん)へとやって来た。
 昨日も書いたように、六華苑も諸戸氏庭園も、もともとは初代諸戸清六が邸宅として買い取ったひとつづきの広大な庭園付き邸宅だった。今は分かれてしまっているため、いったん外に出て、別の入口から入り直さないといけない。六華苑から行く場合は、桑名リバーサイドボウルの横の細い道を通って南から回り込むことになる。歩いて5分以上かかる。
 六華苑は二代目清六が邸宅としてあらたに建てたもので、それ以前はこちらの諸戸氏庭園に本宅があった。上の写真は、本宅と店舗を兼ねた本邸と呼ばれる建物だ。
 手前の丸ポストがいつここに置かれたのかは知らない。かなり中途半端な場所にあって、ここにしなくてもよかっただろうと思わせる。もう少しどちかに寄せてもよかったんじゃないか。昔からここにポストがあったのか、昭和に入ってからここに置かれたのか。諸戸家の人々が住んでいるわけでもないし、あえてこの場所に残しておく必要もないと思うのだけど、関係者にとっては重宝しているのかもしれない。

 この場所が歴史上最初に登場するのは、鎌倉時代の1260年頃のことだ。贄左京之助という人物の所領となり、柚野庵を創建したことに始まる。
 戦国時代は織田家家臣の矢部氏の館となり、当時は江の奥殿と呼ばれていたという。
 矢部氏が何代か続いたあと家が断絶し、江戸時代になって、桑名藩の御用商人だった山田彦左衛門が隠居所として買い取ることになる(1686年)。
 このとき、かなり手を加えて庭園や屋敷などが整備されたようだ。
 初代諸戸清六が山田邸を買い取ったのが1884年(明治17年)というから、200年は山田家の屋敷としての歴史がある。山田家が没落して、そこに米で儲けた新興の諸戸氏が買収したというところに時代の移り変わりを感じさせる。諸戸氏も、代々庄屋だった家系だから、必ずしも成金というわけではないのだけど。
 清六、このとき38歳。18歳で家督を継いで、大借金から20年で大邸宅を買収したというのだから、やはり並みの商才ではない。
 8,000坪の敷地に、あらたに御殿や洋館、庭園、赤煉瓦倉庫などを、次々に増設していった。その結果、ややとりとめのない印象を与えるものとなっている。

 予習が済んだところで、そろそろ中に入っていくことにしよう。
 春と秋の限定公開ということで、行くときは事前にやっているかどうか調べていった方がよさそうだ。
 今年の春公開は、4月15日から6月30日までとなっている。秋は10月下旬から12月上旬にかけてのようだ。
 ここの残念なところは、非公開部分が多いことだ。建物の中にもほとんど入れない。
 本邸も、和室、洋室とも見ることができない。何か事情があるのだろうけど、もう少し見せて欲しいというのが正直な感想だった。庭を一周回って、え、これで終わり、って感じだった。

諸戸氏庭園1-2

 本邸向かって左手に大門がある。こちらが本来の表門だったようだ。
 薬医門と呼ばれる様式の門で、明治27年(1894年)頃に建てられたとされている。
 本邸や大門、御殿など、主だった建物は重文指定になっている。

諸戸氏庭園1-3

 本邸が入口で、玄関からいったん外に出て、左の庭から回るのが順路になっている。
 うねった芝生の丘に、大きな岩がいくつか置かれている。何故か、砲弾も飾ってあった。前衛芸術みたいだ。砲弾は何かの記念とか何とかという説明書きがあったような気がする。
 遠くに見えている赤煉瓦煙突も目をひいた。屋根は日本家屋のようだけど、場所的に見て洋館部分だろうか。

諸戸氏庭園1-4

 御殿前の玄関と車寄せで、さあここから見学かと思ったら、いきなり立ち入り禁止だった。外から中をのぞくことはできるけど、部屋にあがることはできない。ある意味、使用人気分を味わうことになる。旦那さま、お入れくだせえ。
 御殿玄関の寄木張りの床が当時の外務省を真似て作られたというのだけど、近くから見ないことにはよく分からない。
 マップを見ると、この奥には玉突場もあるらしい。当時はビリヤードというのが一種のステータスシンボルだったのだろう。岩崎邸は、離れとして玉突場を持っていた。もしかしたら、それを見て自分ちにも欲しくなったのかもしれない。

諸戸氏庭園1-5

 苔むした庭と飛び石。好きな風情だ。苔萌えとしてはたまらん。

諸戸氏庭園1-6

 このあたりは本邸の裏手にあたるから、勝手口に通じる道だろうか。

諸戸氏庭園1-7

 白壁の蔵らしき建物。

諸戸氏庭園1-8

 菖蒲池に出た。庭の中心となる場所で、山田家時代からの歴史があるものだそうだ。ちょうど花菖蒲が見頃を迎えていた。約20種800株の花菖蒲が植えられている。
 江戸時代はカキツバタだったようで、だからこの橋も八ツ橋と名づけられているのかと納得した。個人的にはカキツバタの方が好きだけど、手入れの大変さと難しさが全然違うだろうから仕方のないところか。
 今は花菖蒲の花盛りで池庭の様子がはっきり把握できないけど、本来は琵琶湖を模して造られた池庭らしい。宮内省から技師の小平義近を招いて設計されたという。
 岩を竹生島、石橋を天橋立に見立ててるそうだけど、言われなければ気づかない。

諸戸氏庭園1-9

 菖蒲池のほとりに建つ推敲亭(すいこうてい)。
 山田家時代に建てられたもので、覚々斎原叟(かくかくさいげんそう)が建てた草庵と伝わっている。
 ここからカキツバタや月を眺めながら詩歌を推敲したことから名づけられたらしい。

諸戸氏庭園1-10

 庭の一番奥まったところにある藤茶屋。これも江戸時代の山田氏が建てたもので、代々の桑名藩主が藤を見にやって来たという。
 昔のものは空襲で焼かれてしまって、現在のものは昭和43年(1968年)に再建されたものだ。
 ここもあがらせてはくれない。重文でもない新しい建物なのに。藤の季節だけあがれるということはあるのだろうか。

諸戸氏庭園1-11

 写真の枚数が多くなって、一回には収まらなかった。ということで、前後半の二回に分けることにする。
 つづきはまた次回。

六華苑の和洋合体ぶりは明治の日本そのものを思わせる <桑名3回>

観光地(Tourist spot)
六華苑2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 今日は六華苑(ろっかえん)の後半、洋館二階部分から再開します。
 六華苑や諸戸清六親子については昨日ほぼ書いたつもりだから、あまり加えることはない。洋館の写真を並べつつ、庭園へと移っていこう。

六華苑2-2

 暖炉とマントルピース。
 マントルピースって何だろうと思ったら、暖炉の周りの飾りや上の飾り棚のことらしい。今まで暖炉のことをマントルピースというのかと勘違いしていた。
 洋館部分は主な生活の場ではなかったというから、暖炉もあまり使われなかったのかもしれない。
 言われてみると、生活に必要な施設は揃っているけど、あまり生活感がなかった。生活の場として使われていた洋館は、もっと実用本位に造ってあるし、生活のあとが色濃く残るものだ。
 内装が華美ではないのはコンドルの設計によるものなのか、家主の趣味なのかどちらだったんだろう。
 山県有朋や大隈重信などもこの邸を訪れているというから、そういう賓客をもてなすのが洋館の目的だったんじゃないかと思う。
 それにしても、中央からわざわざ桑名まで大物たちがやって来たということは、二代目諸戸清六もかなりの実力者だったらしい。

六華苑2-3

 洋館の前に、ウェディングレストランRoccaというのが建っていて、六華苑も使った結婚式ができるようになっているらしい。
 このときは二階のサンテラスで、結婚式を控えたカップルの写真撮影とリハーサルのようなことが行われていた。
 邪魔にならないようにちょこっとだけ陰から撮らせてもらった。

六華苑2-4

 洋館のテラスから隣の和館の屋根を撮ってみる。
 しかし、このギャップは面白い。まったく違う文化のものが合体していて、不自然といえばこれ以上不自然なものはないし、でも当たり前に受け入れられる感覚もある。
 関係はないけど、安土城というのはこういう異文化合体天主だったからみんなが驚いたんじゃないかと思う。
 和洋折衷という言葉があるけど、それとは違う。混合させずに単純合体させているところが明治時代の人間のユニークなところだ。

六華苑2-6

 全体はこんな感じになっている。こちら側から見ると、岩崎邸と雰囲気がよく似ている。
 桑名も空襲がひどかったところで、市街地の90パーセントが焼かれたそうだ。名古屋に近い工業地帯で港もあるということで標的にされたのだろう。
 六華苑の建物が一部を除いて焼け残ったのは幸運だった。わざと外したわけではなくてたまたまだろう。

六華苑2-7

 当時は周囲を赤レンガで囲っていたようで、一部が今も残っている。
 整備はこちらまで手が回っておらず、かなり傷んでいる。

六華苑2-8

 庭園は、洋館前が芝生広場になっていて、和館の前は日本庭園が造られている。ここにも和洋の合体があり、面白い。
 庭園はかなり改修が加えられていて、当時からはだいぶ変わってしまっているようだ。
 以前あった茶室も昭和の改修のときに撤去された。松尾流十世・松尾宗吾の監修だったとか。
 芝生広場の東には、コンドル設計の噴水円形バラ園もあったそうだ。古河庭園にあったようなものだろう。それも今はない。

六華苑2-9

 庭園見学ならやはり紅葉の時期が一番よさそうだ。その代わり、今は芝生の緑がきれいだ。それぞれの季節のよさがある。

六華苑2-10

 自宅の庭に神社を建てる習慣が廃れたのはいつからだろう。江戸時代に一般的となり、明治時代もけっこう続いていたはずだ。昔の大きな邸宅には、神社があるところが多い。流行らなくなったのは戦後になってからか、それとももっと前からだろうか。
 諸戸家は商売人だから、当然お稲荷さんだ。玉舟稲荷社という名がついている。

六華苑2-11

 池沿いを歩いていたら、和館の裏庭の方に出てきた。
 庭全体が回遊式になっていて、ぐるりと一周歩いて回れるようになっている。こちらまで来る人はあまりいないようだけど。

六華苑2-12

 左手が旧高須御殿で、右奥が番蔵棟だと思う。
 旧高須御殿は、高須藩の御殿の一部を移築したものだそうだ。
 番蔵棟は、四番蔵から七番蔵が並んだ棟ということでこう呼ばれている。米や衣類、道具類などを収めていたという。

六華苑2-13

 ツツジが終わりかけで、アジサイはこれからといったところだ。
 庭の奥はあまり手が行き届いていないところもあって、魅力のある庭園というにはあと一歩という印象を受けた。古河庭園や岩崎邸などはきちんと整備されて洗練されているから、あれらが参考になると思う。
 場所柄、全国的な知名度が低くて、あまり人が訪れず、それほどお金をかけられないというのはあるかもしれない。入園料の300円は良心的だ。個人的にはこれだけのものだから、500円でもいいんじゃないかと思った。諸戸氏庭園の方が500円で、あちらの方が高く感じた。
 両方行くときは、共通券が650円だから、それを買った方がいい。

 ここだけで遠方から桑名を訪れる理由にはちょっと弱いと思うけど、桑名へ行ったときはぜひ立ち寄ることをおすすめしたい。洋館好きなら行って間違いはない。
 諸戸氏庭園は別扱いながら、ネタとしてひとくくりなので、次回は続けてそちらを紹介することにしたい。

偉かったのは初代清六で六華苑は二代目清六の邸宅 <桑名2回>

観光地(Tourist spot)
六華苑1-1




 三重県桑名市の観光といえば七里の渡しであり、桑名宿なのだろうけど、それに先だって今回は六華苑(ろっかえん)を紹介することにしたい。
 ところで六華苑って何だろうというのが行く前の私の素朴な疑問だった。ジョサイア・コンドルが設計した洋館があることは下調べで分かっていた。まずはそれが見たいというのが最初にあったのだけど、その洋館の名前が六華苑というのではないらしいというので混乱した。
 六華苑とは別に、諸戸氏庭園(もろとしていえん)というのが隣にあって、そこは春と秋の季節限定の公開だという。それぞれ入場料が必要というから、同じものではないようだ。地図を詳しい表記がなくてよく分からない。今ひとつ両者の関係性が理解できないまま出向くことになった。
 両方行ってみて、帰ってから復習をして、ようやくどういうことか分かった。話は単純なようで意外と複雑で、行く前に理解できなかったのも無理はなかった。順序立てて説明するとこうだ。

 まず登場人物は4人いる。初代諸戸清六(もろとせいろく)と二人の息子、そしてジョサイア・コンドルだ。
 初代清六は、幕末に木曾岬町の庄屋の長男として生まれた。もともと家は裕福だったのだけど、父親が塩の取引に失敗して莫大な借金を作り、一家で各地を転々するはめになってしまう。
 しかし、この初代清六という人は、人並み外れた商才があった。父の跡を継いだ18歳の清六は、米取引や西南戦争の軍需物資調達などで利益を上げ、わずか3年ほどで千両以上あった借金を完済してしまう。幕末から維新にかけての混乱も味方した。
 もちろん、大変な努力家でもあった。寝る間も惜しんで働き、メシは熱いと食べるのに時間がかかるから冷めてから食べるべしだとか、仕事があるときはメシなど食ってる場合じゃないとか、威張っても一銭にもならないから人にはへりくだれとか、その人生訓は徹底している。
 そうして財をなして買ったのが、現在諸戸氏庭園と呼ばれる庭園付きの大邸宅だった。桑名藩の御用商人だった山田彦左衛門が隠居所として建てたものを買い取ったのが明治17年(1884年)のことだ。
 ここを拠点として、屋敷前の運河を利用して米などを関西や伊勢に運び、更に財産を殖やしていった。それだけではなく、田畑を開墾し、水道施設を作って市民に無料提供したり、植林をして山林王とも呼ばれた。
 さらには関東にまで進出する。最盛期には東京の恵比寿や渋谷などにあわせて30万坪の宅地を所有していたそうで、日本一の大地主と称されるまでになった。
 中央政界の大物や岩崎弥太郎にも接近して顔を売り、ジョサイア・コンドルとの縁もそのときにできたものだったと言われている。
 その清六が亡くなったのが明治39年。このときどういう事情と話し合いがあったのか、詳しいことは分からない。屋敷と土地を次男と四男で半分ずつ分けることになった。
 西半分の屋敷のある諸戸氏庭園を次男清太が相続し、東半分の敷地を四男の清吾が継いだ。四男の出来がよほどよかったのか、当時まだ早稲田の学生だったにもかかわらず呼び戻され、18歳で二代目清六を襲名して家業も引き継ぐことになる。
 長男や三男はどうなったのだろう。
 洋館があるのは東エリアで、こちらに邸宅を建てのは二代目清六だ。
 結婚して23歳になった二代目清六は、屋敷の設計をジョサイア・コンドルに依頼する。コンドルというのは国がイギリスから呼び寄せた国お抱えの建築家で、日本現代建築の父と呼ばれる人物だ。どういう経緯で依頼がいって、どうしてそれに応じたのか、そのあたりの詳しいいきさつはよく分からない。
 25歳で来日したコンドルは、67歳で死去するまでに70余りの建築物を設計したと言われている。このブログでも、旧古河庭園ニコライ堂岩崎邸などを紹介している。
 ほとんどが東京近辺の仕事だったコンドルが、どうして桑名からの依頼を受けたのか。コンドルこのとき59歳。もう晩年といっていいときだ。
 地方に現存するコンドル作品は、桑名の六華苑だけとなっている。
 ということで、つまりは、初代清六の屋敷を半分に割って、本宅があった方を受け継いだのが次男で現在諸戸氏庭園となっていて、二代目清六を襲名した四男がコンドルに依頼して建てたのが六華苑ということになる。六華苑というのは、洋館と日本家屋、庭園をあわせた全体を指す。
 諸戸氏庭園の方は季節限定公開ということもあって、両方はつながっていない。どちらを先に行くにしても、いったん外に出て、別の入口から入り直さなければいけない。何しろ広い邸宅だから、もう一方の入口まで歩いて5分以上かかる。
 諸戸氏庭園はあらためて紹介するとして、まずは六華苑から紹介していくことにしたい。それも1回では収まらなかったから前後半の2回になる。



コンドル設計の六華苑洋館

 なるほど、コンドルらしいと一目見て思った。どの建物もオリジナリティがあるけど、どれにも共通した雰囲気がある。
 岩崎邸は白く、ニコライ堂は白い本体にブルーのドーム屋根が乗っかっていた。これはそれらを組み合わせてアレンジしたものとも言える。けど、古河庭園のように黒い建物もあるから、コンドル建築は面白い。今はもうない鹿鳴館はどんな建物だったのだろう。
 明治の洋館建築の特徴として、洋館と和館のドッキングというのがある。岩崎邸もそうだった。ここのはがっちり組み合わされているのが特色となっている。和館と洋館の建築が同時進行だったというのもあるだろう。
 洋館部分はコンドル設計で明治44年(1911年)に着工して、大正2年(1913年)に完成した。和館は諸戸家お抱え大工の伊藤末次郎が棟梁を務め、一年早い大正元年(1912年)に出来上がっている。
 家族の生活の場はもっぱら和館の方で、洋館はお客をもてなすためのものだったようだ。
 その後、諸戸家は桑名市内に別邸を建ててそちらに生活の場所を移し、ここは戦中戦後に会社の事務所として使われていたという。
 平成2年(1990年)に、桑名市に寄贈されて、市が整備したあと、1993年から一般公開が始まった。
 建物は重要文化財に指定されている。



日本屋敷廊下

 玄関棟から入って、まずは和館の方を見て回ることにした。こちらもかなり広い。畳の部屋がつながっている。
 ちょっと面白いと思ったのは、板廊下と畳廊下が並んでいることだ。どういう意味があるのだろうと思ったら、板の方を家族が歩き、お客が来たときに畳廊下を歩いてもらうという趣向なんだそうだ。
 ここの家の人たちは、ただのお金持ちや成金ではない。なんというか、わざとらしくない庶民への思いやりみたいなものが感じられる。苦労をした初代の教えがよかったのだろう。
 桑名は河口にある街で、井戸を掘ると水に塩が混じっていて水事情が悪かった。そこで清六は私財で上水道を作り、桑名の各家庭に無料で水を分けていた。昭和の初期まで諸戸の上水が使用されていたそうだ。



古いガラス越しに見る庭

 当時の歪みのあるガラスを通して外を見ると、景色までも時間のフィルターをかけたようになる。
 古いガラス窓のうねうねした感じが好きだ。



六華苑和室

 障子も畳も当時のままではないだろう。
 それにしても、中は思いのほかシンプルだ。内装を必要以上に飾る趣味人ではなかったらしい。欄間なども凝ったものではない。
 あまりにも何も置かれていなくて、昔の暮らしを想像するのは難しい。もう少し小道具があった方がイメージが湧く。



和室から見る庭

 障子で切り取る庭の風景。今は新緑が美しい。一番いい季節は、やはり秋の紅葉だろうか。



六華苑蔵

 突き当たりに一番蔵の入口があった。
 中には接客用の調度品などを収納していたというけど、なんだか暗い雰囲気で牢屋を思わせた。蔵の中というのは暗くてけっこう怖いイメージもある。



六華苑蔵の外観

 外に出て見た蔵。ここの蔵は黒色をしている。白が普通なのか、黒は防火のための何かが塗ってあるのか、蔵を持ってないから知らない。



木製の流し台

 大正時代に、こんな水道の蛇口や流し台があるのは、一般的なことではなかったんじゃないだろうか。特にここは大都市ではなく地方の桑名だ。諸戸家がいち早く水道事業に着手したおかげで、近隣住民は早い時期に上水道の恩恵にあずかれたと思われる。
 井戸の水を汲むのと、蛇口をひねったら水が出るのとでは、家事全般の労力がまったく違ってくる。



六華苑洋館室内

 洋館エリアに移動した。玄関ホールを右に行けば和館で、左へ行けば洋館だから、中にいると棟を移っているという感覚はほとんどない。シームレスで和から洋への移動となる感じを、当時の家人たちはどう思っていたのだろう。とても斬新な感じがしたんじゃないだろうか。
 家具類は当時のものではなく、市がアンティークを調達して備え付けたものだそうだ。雰囲気を盛り上げる役には立っているけど、これ自体がありたいわけではない。
 洋館はいろいろ見学しているし、当時そのままの内装も体感している。それらと比べると、やはりどこか本物感がない。明治村の西郷邸とかの方がそれっぽい。
 横浜でもたくさん洋館を見て回ったし、鳩山兄弟が育った鳩山会館はよかった。



六華苑塔内部

 塔部分の一階はこんな感じになっている。
 塔は4階建てで、二階までしか公開されていない。三階、四階が非公開なのはちょっと残念だった。もともとコンドルの設計では三階建てだったのを、清六が揖斐川が見たいといってわざわざ四階建てに変更してもらっている。せっかくだから四階からの眺めも見てみたかった。



電気のスイッチ

 遊び心というかお洒落心のある電気のスイッチ。
 大正ロマンという言葉があるけど、私たちは大正時代に対するイメージを正確には持っていないのではないか。15年という短い時間の中でも、大正にしかなかった特色というのがあったはずだ。
 華やかな外国文化を猛スピードで取り込んだ明治と、近代化が進んで豊かになった昭和の間に挟まれた大正という時代は、一体どんなものだったのだろう。もう少し大正時代のあれこれに触れて、大正時代に対する感触を掴みたい。
 明治時代の洋館と大正時代のものとではどこか違っているのかどうか。



電球

 裸電球も、傘次第でレトロモダンな感じを受ける。今になってみるとこれはむしろ新しい。貧乏の象徴ではない。
 近年、灯りというものも見直されてきている。白くて明るければいいとされた蛍光灯一辺倒の時代は終わった。寒々しい蛍光灯から温かみのある電球への回帰というのは、反動的な必然だ。
 機能性とコスト重視で面白みのない建て売り住宅ばかりになってしまった今、もう一度明治の洋館デザインが見直されたもいい。

 六華苑前半はここまでとしたい。後半は、洋館の二階部分と庭園を紹介します。

 六華苑の和洋合体ぶりは明治の日本そのものを思わせる <桑名3回>
 諸戸氏庭園は入れないあがれない見てるだけのもどかしさ <桑名4回>
 諸戸氏庭園後半も外から見てるだけ状態が続く <桑名5回>

【アクセス】
 ・JR関西本線または近鉄名古屋線「桑名駅」下車。徒歩約25分。
 ・三交バスまたはKバス
 ・駐車場 無料

 ・六華苑 入苑料 310円
 ・開苑時間 9時-17時
 ・月曜日定休

 ・旧諸戸氏庭園 春と秋に一般公開 500円

 六華苑webサイト
 旧諸戸氏庭園webサイト
 

これで桑名をイメージできるとは思わないけれど <桑名1回>

観光地(Tourist spot)
桑名1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 今日からしばらく桑名シリーズが続くので、まずは第一回目として桑名プロローグをお送りします。
 私の目に映った桑名がどんなところだったのかを見てもらおうという趣旨で、まずはざっと写真を並べてみることにしたい。これが一般的な桑名の実体とどれほど同調していて、どれくらい離れているのか、私には判断がつかない。どこへ行ってもだいたい神社仏閣巡りをしている私だから、普通の桑名観光とは違うことは確かだ。
 今日のところはまだ神社仏閣は登場しない。それは次回以降にまとめて紹介することにしたい。
 このシリーズ全体を通じて、自分も桑名に行ってみたいと思ってもらえるといいのだけど、さてどうなることか。

桑名1-2

 ごく一部を除いて、日本中のアーケードは苦戦している。
 平日の午前中ということで、普通なら店を閉めている時間帯ではないのに、シャッターが目立った。たまに通る人も、買い物客ではなく、ただの通行人だ。
 桑名は三八市というのがちょっと有名で、毎月三と八のつく日に市が開かれて、その日はけっこうな賑わいを見せるらしい。行った日は9日ということで、どのアーケードもひっそりしていた。前日ならまったく違った姿が見られたんじゃないだろうか。

桑名1-3

 桑名はマンホール蓋のデザインが凝っている。いろんな絵柄のものがあって、着色もされていた。
 桑名といえばなんといってもハマグリが有名だし、七里の渡しという旧跡もある。花のデザインは、花菖蒲だろうか。いくつかの場所で花菖蒲を見たから、桑名は花菖蒲に力を入れているようだ。市の花になっていたりするかもしれない。

桑名1-7

 マンホールコレクションその3。
 これは消火栓で、一枚目とは違う舟のデザインになっている。やはり七里の渡しにちなんだものだろう。

桑名1-4

 古くなって使われなくなった家屋がたくさん放置されていた。歴史的町並保存というわけではなく、昔の家や店がそのまま残っているという風情で、私としては嫌いじゃない。
 朽ちていくに任せた家と、その前で力一杯元気に咲いている花とのコントラストが面白く感じた。
 旧東海道沿いには今でも使われている古い家屋がたくさんあって、それらも写真に撮ってきた。七里の渡しや旧東海道を紹介するときにまとめて出したい。

桑名1-5

 雑貨屋さんというか、なんでも屋さんというのか、日用雑貨全般を扱っている祖父江という店。
 道路状況に合わせた建物のデザインがなかなか斬新だ。
 うちの田舎にも昔こういう雑貨店があったけど、今はもうなくなった。営業を続けていることがすごい。

桑名1-6

 非常にレトロな雰囲気のボーリング場があった。桑名リバーサイドボウル。まさに昭和の生き残りといった感じだ。
 けど、実はここ、2006年に閉鎖されてしまったらしい。それは残念。
 そのわりには駐車場に車もとまっているし、人が出入りしている姿も見た。なんだろうと思ったら、中の回転寿司店だけがいまだに営業を続けていて、そこのお客だったようだ。

桑名1-8

 桑名は揖斐川と長良川が合流する河口沿いの街で、少し行くともう伊勢湾だ。だから、水際は港町のような感じが強い。
 かつての桑名城外堀も、河口付近の海から水を流し込んだのだろうか。水は塩分を含み、潮風も吹くということで、なんとなく街が錆っぽい。
 船をつなぎ止めている港の看板を見て、ちょっと吹きだした。
「湾港、河川を美しくしましょう」というのは普通として、「塵芥や沈廃船を捨てないで下さい!」というのは新鮮だった。我々などは捨てようにも沈廃船を持ち合わせていない。
 初めて福井へ行ったとき、「許すな密航!」という看板を見てカルチャーショックを受けたことがあったけど、海沿いというのは陸の人間には無縁のことがたくさんあるのだということを思い知る。密輸や不審船を見かけたときは118番通報するというのを初めて知ったのも、日間賀島へ行くために乗る船着き場だった。

桑名1-9

 街のいろんなところでツバメが飛び交っていて、巣のチビツバメも見ることができた。
 ヒーヨ、ヒーヨと力弱く鳴いている声が聞こえて見上げると、親にエサをねだるチビたちが口を開けていた。
 ここの家の人は、ツバメが巣を作りやすいように土台を作ってあげている。

桑名1-10

 桑名城跡の九華公園で花菖蒲祭りをしていたので、ちらっと見ていく。
 花撮り用のレンズも持っていっていないし、花菖蒲そのものにあまり興味がないので、軽く撮るにとどまった。

桑名1-11

 桑名駅は、JR関西本線と近鉄、養老鐵道、三岐鉄道北勢線が集まるターミナル駅としての性格も持っている。三重県の北の玄関口でもある。
 上の写真は、三岐鉄道北勢線の電車だ。けっこうローカルっぽいいい味を持っている。
 軽便電車というもので、最高速度は45kmとのことだ。
 時間の余裕があれば一駅でも乗っておけばよかったか。
 桑名散策では、電車はまったく役に立たない。移動の交通機関としてはバスということになるのだけど、知らない土地で路線バスを乗りこなすのは難しい。桑名コミュニティバスという100円バスがあるものの、ルートが細かく分割されている上に、2時間に1本しかないから、散策のお供としてはあまり役立ちそうにない。
 結局歩くしかないということで歩き通すこととなった。レンタサイクルくらいはあったのだろうか。

桑名1-12

 県立桑名高校前。
 下校中や部活動中の生徒を見ると、いかにも県立高校生といった感じで、県立高出身の私としては懐かしかった。
 三重県の県立で一、二の進学率とのことだ。東大合格も毎年いるというから、私が行ってたところよりすっと賢い。

桑名1-13

 旅先でのノラとの出会いも楽しみの一つだ。ちょこちょこあちこちで見かけた。

 今回の写真だけで桑名がどういうところか伝わったとは思えないけど、これ以上に桑名らしい写真を持っているかといえば持っていない。ここからイメージを膨らませてもらうしかない。今後は桑名の神社仏閣紹介へと移っていくことになる。
 名所、旧跡としては、庭園や洋館、旧東海道や桑名城跡を巡ってきたから、そのあたりが桑名観光のポイントとなるだろう。
 明日から順番に紹介していく予定だ。

熱田界隈街歩きスケッチ写真<後編>

街(Cityscape)
スケッチ写真2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 熱田界隈スケッチ写真後編は、西高蔵からの再開となる。
 上の写真は、地下鉄・西高蔵駅を出て少し西へ歩いたところだ。
「ゆ」という看板があり、「この奥50M」とある。どうやら路地を奥へ進んでいくと銭湯があるようだ。こんなところにという場所だから、知ってる地元の人しか入っていけないのではないか。

スケッチ写真2-2

 裏から見てみると、確かに煙突がある。
 帰ってきてから調べてみたら、今も営業を続けているようだ。
 名前は、草津温泉というらしい。大胆なネーミングだ。
 なんでも草津から湯の花を取り寄せているとかで、お湯も濁り湯になっているという。
 創業は大正5年ということですごくレトロなのかと思ったら、写真を見ると内装は改築されてかなり現代的になっている。逆にちょっと残念な気もする。
 最近は銭湯も380円する。コーヒーより高い。

スケッチ写真2-3

 堀川の流れ。水がずいぶんきれいになった印象がある。もちろん、飛び込んで泳ごうとは思わないけど、見ていて恥ずかしいほどの汚さではない。
 もっときれいになるものなら多少お金をかけてやれば、人もまた川に戻ってくる。イベントで七里の渡しも復活したらいいのにと思うけどどうだろう。

スケッチ写真2-4

 熱田のこのあたりだと、名駅のビル群がこれくらいの大きさで見えている。
 すごく近いわけでもなく、遠くもない。
 それにしても、熱田というところはあまり発展しなかった。金山とは微妙な距離感だし、名古屋港自体が賑わっていないから、中継点としての役割も果たせていない。
 名古屋というのは発展するには地形がよくない。名古屋城の城下町の設計に失敗したのか。
 ようやく名城線が環状線になったものの、街の真ん中を小回りに囲んでいるだけだから、人の流れをぐるぐる回すのには役立っていない。
 円形にこだわらずに、名古屋駅から栄、大須、金山、熱田、瑞穂、千種、東山、藤が丘、大曽根、名城公園のように主要ポイントをつないだ方がよかったんじゃないか。その方が観光客にとっても便利で分かりやすい。

スケッチ写真2-5

 船が停泊していたけど、お客が集まってくるふうでもなく、営業しているのかどうか分からなかった。
 このあたりはクルージングとかやってるのだろうか。やってもあまりお客はいないか。観光地としても魅力があるところではないし、交通手段としての使い道もあまりない。
 堀川は隅田川を見習って、花見と花火と船旅という観光名所にしたらいい。

スケッチ写真2-6

 白鳥公園でのんきに寝ていた猫。
 近づいて写真を撮っても起きる様子がなかった。

スケッチ写真2-7

 名古屋国際会議場。
 1989年に開催された世界デザイン博のときに建てられたもので、今は多目的ホールとして使われている。 
 写真正面に白い馬が写っている。この距離でもそれなりに大きさが分かると思うけど、近づくと冗談のように大きい。全長、高さとも8メートルを超える。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの幻の作品といわれるスフォルツァ騎馬像を再現したもので、ブロンズでは重たすぎるということでFRPで製作された。
 実物が残っていれば当然世界的に有名になっているはずだけど、残っていないからあまり知られていない。見つかった草稿を元に再現されたものだから、復元とも言えない。

スケッチ写真2-8

 この日はこの界隈のあちこちで集団踊りの練習が行われていた。何かの祭りの準備だったのだろうか。
 名古屋どまつりは8月で、それにはまだ間がある。

スケッチ写真2-9

 お寺のような、神社のような、民家のような、建物。
 早鐘らしきものが吊られているから、地域の消防団か何かか。

スケッチ写真2-10

 熱田で出会ったノラ。
 まだ小さかったから、今年の春に生まれたチビだろう。
 このあたりの人がメシをあげているんじゃないかと思う。慣れていて逃げなかった。

スケッチ写真2-11

 どこのお寺か忘れてしまった。何故ここを撮ったのかも覚えていない。何らかの理由があったと思うのだけど。

スケッチ写真2-12

 なんで撮ったのか分からないのはこれも同じ。この家のどこに惹かれるものがあったのだろう。

スケッチ写真2-13

 金山を歩いているとき、遠くに電車が通って撮った一枚。電車のある町並みというのは、自分にとって非日常的なものだから、なんとなく撮りたくなる。あとから見てみると、特に意味はないことに気づく。

 ゴールデンウィークに、ドニチエコきっぷを使って巡った地下鉄散策シリーズも、これで終わりとなった。その前の大津シリーズも最後は一ヶ月以上のタイムラグとなり、これもそうなった。ただ、これでリアルタイムに戻る。
 次回からは桑名シリーズが始まる。巡りも巡った8時間半で24ヶ所。例によってほとんどは神社仏閣だ。ただし、今回は大物不在で、いくつかまとめての紹介になるだろうから、それほどロングランにはならないはずだ。焦らず、でものんびりしすぎず、ほどよい回数に収めたい。

大須近辺街歩きスケッチ写真<前編>

街(Cityscape)
街スケッチ1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 ゴールデンウィークに地下鉄沿線の街歩きをして、熱田神宮や東西別院、金山あたりを紹介した。そのとき、本編に入りきらなかった写真がけっこう余ったので、今日は余りもの写真を集めてひとネタとしたい。それが2回分になったから、まずは前半として、白川公園から大須を通って、熱田の高座結御子神社周辺まで行くことにしよう。
 スナップ写真に属するのだろうけど、感覚的にはスケッチに近い。スケッチ写真という分野があるのかどうかは知らないけど、昔から絵の中では写生が一番好きだったから、今でもその嗜好は残っているのかもしれない。
 歩きながら目について心惹かれたものにレンズを向けてシャッターを切るというのが写真の基本だ。そこには奇をてらうような狙いや、これ見よがしのテクニックは必要ない。

街スケッチ1-2

 白川公園を訪れたのは何年ぶりだったろう。小学生以来じゃないか。
 街中の大きな公園にしては魅力不足というか、これといった見所がない。
 敷地内には名古屋市美術館と名古屋市科学館が入っている。正面に見えているのが科学館で、右の丸い屋根はプラネタリウムだ。小学生のときに、遠足だか社会見学だかで来たような気がする。
 右手に美術館があって、ゴールデンウィークの午後というのに長蛇の列ができていた。開催中の「だまし絵展」が評判だったから、たぶんそれを見に来ていた人たちだったのだろうと思う。
 散策して面白いようなところでもないので、そのまま外周を歩いて素通りした。せっかく恵まれたロケーションなのだから、もう少し魅力的な公園にできないものだろうか。

街スケッチ1-3

 大須演芸場も、連休中ということでたくさん人が訪れていた。こんなときくらい客が入らないと本当に閉鎖してしまいかねない。
 名古屋で一番伝統のある演芸場で、たけしもさんまも出たことがあるところだから、なんとか存続していって欲しい。

街スケッチ1-4

 大須のアーケードを少し歩いて、大須観音も境内を斜めに横切って、軽く挨拶だけしておいた。
 ここらは相変わらず賑わっていて、活気がある。
 大須の神社仏閣については、大須巡りシリーズのとき詳しく書いた。

街スケッチ1-5

 私がよく行っていた小中学生のときは、大須スケートリンクだった。昔も今も、一年を通じて営業している数少ないスケート場だ。いつからか、名古屋スポーツセンターなどいう名前になっていた。
 伊藤みどりや安藤美姫、浅田真央もみんなチビの頃からここで練習していた。伊藤みどりは実物を見たこともある。レオタードを着た小学生が、リンクの中央でくるくる回っていた。
 開業は昭和28年と、古い。かつてはこのあたりに大須球場があった。
 もっと遡れば、大須二子山古墳があった。断夫山古墳に次ぐ規模の前方後円墳だったそうだ。

街スケッチ1-6

 なかなか古そうな家並みだ。昭和の面影が濃い。
 アパートのような、長屋のような、こういう家屋が昔はたくさんあった。平成20年を過ぎた今こういう風景を見ると、とても懐かしく感じられる。

街スケッチ1-7

 昭和に昭和の風景を見ても懐かしくないのは当たり前で、今見るから愛おしく思える。
 昭和に青春時代を過ごした身としては、昭和というのはやっぱりいい時代だったのだなとあらためて思う。古き良き時代の最後を体験することができた。
 平成が終わって次の時代になったとき、私たちは平成をどういうふうに振り返ることになるのだろう。

街スケッチ1-8

 昔ながらのお茶屋さん。
 お茶というのは今でも変わらず需要があるものだけど、個人経営の店はなかなか大変なのだろう。
 裏通りで立地条件がいいとは言えないこういう店が生き残っているのは、常連さんが支えているからに違いない。

街スケッチ1-9

 寺の門があって、中は幼稚園になっているようだ。本堂はどこかにあったのだろうか。
 かつてこのあたりは、尾張藩の刑場があったところで、この栄国寺はその跡地に建てられた寺らしい。
 隠れキリシタンも大勢処刑された関係で、切支丹跡博物館が建てられているそうだ。ということは、門だけでなくお寺もあるということだ。せっかくだから入ってみればよかった。

街スケッチ1-10

 街の共存というのはこういうことだ。
 寺の三門とくっつくように背の低いビルが建っていて、門の後ろに覆い被さるようにアカシアらしき木があり、門の前の狭いスペースにびっちり車と自転車が置かれている。
 なんだか、ものすごく狭苦しい一角になっている。それがちょっとおかしくて笑えた。

街スケッチ1-11

 共存といえば、新旧の共存もある。
 古い家屋と新しい家屋が並び、古い家も一階部分だけが改築されて新しくなっている。古くて新しい、これも21世紀的な光景と言える。

街スケッチ1-12

 これは昔ながらの外観をほぼそのまま残している。単に古いというだけではない、旧家の雰囲気が漂う。
 こういう家屋も、だんだん少なくなっていくことだろう。後継者の問題もあるし、やはり古い家というのは何かと不便なものだから。

 観光地じゃなくても、街を歩ければ何かしら惹かれる風景との出会いがある。スケッチ写真も楽しい。今後も機会を見つけて積極的に街歩きをしていきたい。
 続き物ではないけど、街スケッチ写真の後編へと続く。

夏色サンデーは少し重ためでバランスの大切さを再認識する

料理(Cooking)
夏色サンデー

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8



 今日の名古屋は29度と、だいぶ夏らしくなってきた。だんだん暑くなってきて、この時期は食欲も落ちがちだ。そんなときは、あえて攻撃的な色合いの料理を作って食欲を刺激したい。夏場の茶色い料理は食欲減退の元だから、なるべく避けたい。
 ということで、今回は夏色とでも言うべき暖色系の料理を目指した。結果的にやや黄色に偏ってしまって、大成功とはいかなかったものの、明るく元気な色の料理にはなった。もう少し赤と緑の色合いを多くできたらもっとよかった。

 左手前は、豆腐と白身魚のパテ的な一品で、なんと呼んでいいのかよく分からない。お好み焼きの洋風変化球といえばそうかもしれない。
 絹ごし豆腐、刻んだ白身魚、卵、山芋のすり下ろし、小麦粉、塩、コショウ、白しょう油を混ぜ、卵焼きフライパンに流し入れて、弱火で両面をじっくり焼く。
 焼き上がったところに、タマネギとニンジンのみじん切り炒めを乗せ、ごま油、酒、みりん、白しょう油、白だし、塩、コショウ、唐辛子、豆板醤、砂糖をひと煮立ちさせたソースをかけて出来上がりとなる。青のりも振った。
 山芋と絹ごし豆腐のふんわり食感で、これなら食欲のないときでもすんなり入っていきそうだ。

 右手は、ジャガイモと野菜のマスタードマヨネーズ和えだ。
 ジャガイモを皮ごとをラップでくるんでレンジで5分加熱。更に熱湯でしばらくゆがいて皮をむく。
 適当な大きさに切り分けて、ビニール袋の中にカタクリ粉と一緒に入れてよく振って粉をまぶす。
 それをオリーブオイルとバターで炒め、トマトとブロッコリーを追加する。
 白ワイン、塩、コショウ、コンソメの素で下味をつける。
 マヨネーズ、マスタード、白しょう油を混ぜ合わせたものを入れて、全体に絡めれば完成だ。
 最後に黒コショウも振りかける。
 一つの皿の中に、黄色、赤、緑が揃うと華やかな印象の料理になる。

 奥は、野菜炒めの半スープみたいな料理だ。
 鶏肉、エビ、ハムをごま油で炒め、白菜、レタス、キャベツを刻んだものを追加して、白ワイン、塩、コショウ、中華の素、白しょう油で味付けをする。
 最後に溶き卵を回し入れて、半熟くらいまで固める。
 シンプルで特に工夫のない一品ではあるけど、もう一つ追加したいときに便利な料理だ。
 野菜は生で固いと気が滅入るけど、小さくて柔らかくて好きな味付けがしてあれば美味しく食べられる。生野菜にこだわらずに、たくさんの種類を多く食べた方がいいんじゃないかと思う。調理で逃げる栄養素を考えても、数種類を美味しく食べた方が気分的にいい。

 今日は一品ずつを見るとどれも美味しくできて成功だった。ただし、全体としての評価はそれほど高くない。3つ合わせるとちょっと重かった。どれか1つはもっと軽くすべきだった。一回の食事というトータルで考えたとき、重すぎても軽すぎても充分な満足は得られない。何事もバランスが大切ということだ。
 色合いについてはあと一歩のところまで見えた気がした。それも全体のバランスということなのだけど、料理も服もコーディネイトの大切さという点で共通項がある。互いを打ち消さず、高め合う関係の3品というのが理想となる。
 いろんな部分でまだまだ課題は多い。
 毎回、テーマと向上心を持ちつつ、今後もサンデー料理を作っていたいと思う。

ちょっと苦手意識のある金山の街を歩いて少し馴染みになった

名古屋(Nagoya)
金山-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 名古屋に金山(かなやま)という街がある。個人的に苦手な印象がある街の一つだ。
 人が集まっている場所が必ずしも嫌いというわけではないのだけど、ゴミゴミしてるというか雑多な雰囲気の街に対する苦手意識が少しある。
 たとえば、今池とか、大曽根とか、大須などがそうだ。嫌いというわけではなくて、なんとなく居心地が悪いというか、その街に対して自分が馴染んでいないような感覚を抱いてしまう。波長が合わないというか、リズムがかみ合わないというか、そんな違和感だ。
 そういう街には特に用事はないから、普段めったに行くことはないのだけど、たまに苦手意識克服のためにあえて行ってみたくなることがある。大須は何度か行って、かなり克服した。次は金山だということで、この前行って、駅周辺を少し歩いてきた。今日はそのときの様子を紹介したいと思う。
 金山総合駅は、JRと名鉄、地下鉄が乗り合わせる名古屋でも名駅、栄に次ぐくらいの駅に発展した。大きく変わったのは、平成元年(1989年)の名古屋デザイン博がきっかけだった。これに合わせる形で、総合駅に生まれ変わり、交通網の発展とともに駅周辺も様変わりした。今や名古屋の副都心と言っていいかもしれない。全国的な知名度はほとんどないと思うけど。
 ここ最近では、地下鉄名城線が環状線になって、中部国際空港への乗り入れ線完成など、便利になって恩恵を受けている人も大勢いるだろう。乗客数では栄を抜いたんだとか。
 まずは金山の地名の元になった金山神社へ向かうことにした。その土地の神様に挨拶するのが筋というものだ。

金山-2

 総合駅として整備されたとはいえ、家で言えば増改築のようなものだから、駅周辺はかなりとっちらかった印象を受ける。何より方向感覚が分かりづらい。地下鉄の駅は北東南西で、在来線は西北東南でクロスしている。駅の出口を出て、自分が歩き出したのがどの方角か分からない。JRも金山駅を出たところで東海道線と中央線に分かれているから、線路沿いを歩いていると思わぬ方向に行ってしまいがちだ。金山も駅も街もまったく馴染みがない私としては、いきなり迷子のようになってしまった。
 なんとなく南方向に向かって歩いていた道が正解だったようだ。やや広めの八熊通(29号線)に出て、左へ曲がってすぐ右手を入っていったところに金山神社はあった。少し奥まっているから、注意していないと通りすぎてしまう。車で行ってたら見つけるのに苦労しただろう。

金山-3

 もっと大きな神社を想像していたら、こぢんまりしたところだった。
 上の写真に写っているので全体の半分くらいだろうか。いかにも街中に取り残された神社といった感じだ。
 名前からして、鍛冶や金属関係の神社だろうということが分かる。
 昔は鉄山明神といったそうだけど、いつから金山神社になったのかは調べがつかなかった。
 神社縁起によると、平安時代の840年前後に、熱田神宮鍛冶職の尾崎彦四郎の祖・善光が自分の屋敷に金山彦神を勧請したのが始まりということになっているそうだ。
 あるいは、熱田神宮の境内社だったという話もある。
 祭神は金山彦神(かなやまひこのかみ)だから、岐阜県垂井町の南宮大社から勧請したのではないかと思う。金山彦神などについては、南宮大社のときに書いた。
 那古野神社境内にも金山神社があった。直接的な関係はないだろうけど、尾張にも古くから鍛冶の歴史があって、金山神を祀っていたことが伺える。
 尾張では、ここ金山が尾張鍛冶発祥の地とされている。
 神社としての体裁が整ったのは、1390年代ではないかとのことだ。
 配祀は、金山姫彦(金山毘売神)、石凝姫命、、天目一箇神、天津真浦命となっている。
 石凝姫命は八咫鏡を造ったとされる女神、天目一箇神は岩戸隠れのときに刀斧、鉄鐸を造った神、天津真浦命も鍛冶の神ということで、みんな鍛冶や鋳造などに関係した神様だ。
 昔も今も、そちら方面の業種の人たちが多く訪れるという。
 例祭も「ふいごまつり」という名前で、毎年11月8日に行われるという。ふいごというのは、火をおこしたりするときに鍛冶屋が使う送風機みたいなものだ。

金山-4

 狭い境内に寄り合い所帯となっている。
 神明社が入っているけど、もともとここにあったわけではないだろう。歴史の流れのどこかで近所の神明社が合祀されたんじゃないかと思う。

金山-5

 並びには金山龍神社というのがある。
 なんとなく墓地っぽい感じだけど、昔からあったのだろうか。それにしては、お社が新しい。名前が刻まれた石柱も古いものではなさそうだ。
 龍というから水に関係した神様を祀っているのだろう。

金山-6

 金山神社の見所としてはこんなものだ。
 御神木の樹齢700年の大イチョウというのは、拝殿の左手にあったやつだろうか。
 上の写真は八熊通。
 とりあえず大津通を目指して歩く。

金山-7

 大通りから一本中に入ると、少し古い家屋が残っている。
 ここは米屋さんだったようだ。ひょっとしたら今でも営業してるだろうか。
 金山は空襲はどうだったのだろう。昔の金山も、今の金山も両方知らないから、変遷も想像できない。総合駅ができる前に何度か車で通っているはずだけど、これといった印象は残っていない。

金山-8

 金山という街はどうにもとらえどころがない。駅周辺は移動の人間が多いけど、観光客という人種はほとんどいない感じだ。これといった観光名所も歴史的な史跡もほとんどない。
 栄のような繁華街とも違うし、今池のように飲食店がたくさん集まる街というのとも違うようだ。
 駅近くを歩いていたら、キャバクラの呼び込みをされてしまった。「昼キャバラいいですよ」と言われても、こっちはカメラを持って神社を巡っている。昼から一人でフラッとキャバクラに入ってる場合じゃない。
 これも金山らしさなのかと思いつつ、散策を続けることにする。
 地図を見てもこれといったポイントが見つからないまま、高座橋を渡って、駅の東側へ行ってみることにした。

金山-9

 名鉄の金山駅と、背の高いビルは名古屋ボストン美術館が入った金山南ビルだ。
 鳴り物入りでやって来たボストン美術館だったけど、何しろ客が入らない。来た当初は話題になって大勢が訪れたものの、飽きっぽい名古屋人の気質を読めなかった。その後は赤字続きとなり、今や完全にお荷物になってしまっている。閉館の噂も絶えない。なんとか持ち直そうと頑張っているようだけど、前途は厳しそうだ。
 セントラルタワーズの展望台とか、イタリア村とか、中部国際空港などもそうだけど、名古屋人の飽きっぽさを甘く見てはいけない。珍しいものには飛びついても、そのあと続かないのだ。
 サンシャイン栄のラーメンテーマパークもなくなってしまったし、大須ビルの中華街も近々終わるそうだ。最初は飛行機に乗る人より観光客の方が多かったセントレアも、すっかり人が少なくなってしまった。名古屋というのは客商売をするには難しい土地柄で、逆に言えば名古屋で成功したノウハウは全国のどこでも通用すると言えるかもしれない。世界の山ちゃんとか。

金山-10

 駅東も少しだけ昔の町並みが残っている。
 昭和の家屋に、無理矢理駐車した車。上空を縦横に走る伝線に、衛星のアンテナと、昭和と平成がミックスされた典型的な風景だ。
 どの街も路地裏歩きは楽しい。

金山-11

 駐車スペースらしき場所にお稲荷さんを持ってきているところがあって、これちょっとすごいなと思う。
 もともと稲荷神社があったところに家を建てたのか、家を建てたあとにお稲荷さんを作ってしまったのか、どっちだろう。

金山-12

 波寄神社というのを見つけた。
 ちょうど通りかかったおばあさんに話しかけられて、少し立ち話をした。
 この神社はなんていうんですかと訊ねたら、なみよせ神社だと教えてくれた。ここらは波寄町だからだそうだ。昔は今とは別の場所にあったらしい。
 右に写っている大きなマンションができて、その下を通る電車の音が反響してうるさくなってしまったんだとか。

金山-13

 波寄神社は民家の庭先を間借りしたように建っていて、町内会を守っている。
 ネットで調べてもまったく情報が載っていないから、どんな神様を祀っているのか分からない。波寄というくらいだから、かつてはもっと海辺にあって、海の神様でも祀っていたのだろうか。

金山-14

 中央線の電車が走っていく。その前に何故か靴が片方置かれている。捨てられたというほど古びてはいない。履いている靴をキックで飛ばして天気占いをしてそのまま置いていってしまったような感じだ。横向きは曇りだったか。

 地図を見ると、もう少し右へ行くと桜田神社というのがあったけど、時間切れでここまでにした。
 この程度では金山を見たことにも入らないくらいだろうけど、多少なりとも歩いて、駅周辺の様子が分かったのでよしとしよう。金山神社も行くことができたし、少しは馴染みもできた。
 次に金山へ行くのは何年後になるのか見当もつかない。名古屋ボストン美術館がいよいよ閉館ということになれば、一度くらいは行っておいてもいいかもしれない。
 今回は駅北へ行けなかったから、次は北エリアも歩いてみることにしよう。
 苦手な街克服シリーズとしては、次は大曽根へ行ってみたいと思う。

6月に田植えの終わった田んぼを見るとそういえばアマサギと思う

野鳥(Wild bird)
アマサギ-1

Canon EOS 20D+Canon EF80-200mm f2.8L /PENTAX K10D+SIGMA 400mm f5.6



 田植えが終わるとアマサギを思い出す。そういえば、そろそろアマサギを撮りにいかなくてはと思う。
 夏鳥として4月の終わりから5月の始めにかけて日本に渡ってくるアマサギだけど、私の中では6月始めの鳥という印象が強い。この時期は、田植えが終わった田んぼでエサを探しているから、見つけるのも簡単だ。
 うちの近所では、尾張旭に少なく、長久手に多い。他のサギのように川にはいない。乾いた土地にもいるというけど、私の中では完全に田んぼの鳥だ。それ以外の場所で見たことがない。
 2006年に初めて見て、それからだいたい毎年この時期に見にいっている。桜、藤、カキツバタ、バラと続いて、次のアジサイまで少し間があるから、この期間を埋める季節の風物詩がアマサギというわけだ。
 今年もまた、変わらず長久手の田んぼにいてくれた。渡り鳥の律儀さにはいつも感心する。毎年忘れずに決まった時期にやって来るなんて、なんと義理堅いことだろう。今年は面倒だから休もうかななんてことはない。
 来ているのが去年と同じ顔ぶれとは限らないけど、中には続けて来ているやつもいるんじゃないだろうか。

アマサギ-2

 写りの良さでいえばCanonの200mmLレンズだけど、やはり200mmでは届かない。アマサギは意外と警戒心が強いから、近づくとすぐに逃げてしまう。撮るのは車の中からということになる。
 ということで、SIGMAの400mmに持ち替えた。倍とはいかないまでも、1.5倍くらいにはなる。写りもまずまずそんなに悪くない。
 このときは2台のデジで交互に撮った。

アマサギ-3

 あ、と思ったら飛び立った。こちらに気づいたらしい。
 このときは20Dと200mmの組み合わせで、AFだったから間に合った。K10Dとマニュアルレンズなら間に合ってない。
 距離を取るか、速さを重視するか、鳥撮りの判断は迷う。

アマサギ-4

 この日はあまりアマサギを見なかった。たまたま少なかっただけなのか、飛来数が少ないのか、私が見つけられなかっただけなのか。
 あたり一帯の田んぼをぐるぐる回ったけど、結局、あと一ヶ所で3羽見ただけだったから、全部で4羽しか見なかった。いつもだいたい7、8羽はいる。
 アマサギが飛んでいってしまったから、ケリでも撮ることにする。
 この春生まれた子供もそろそろ大きくなったことだろう。親鳥は散歩の犬が近づくと威嚇していたくらいで、それ意外はあまり警戒していた様子がなかったから、子供もだいぶ育ったんじゃないだろうか。残念ながら子供の姿は見つけられなかった。

アマサギ-5

 田んぼの水に浸かっていたケリが突然水面で暴れ出した。水浴びでもしてたのか、水中のエサでもさぐっていたのか。
 水中逆立ちをしながら一人で大騒ぎになっていた。

アマサギ-6

 地面にいるときはドバトのように地味なケリも、空を飛んでいるときは白黒ツートンの翼が美しい。
 距離がありすぎて上手く撮れなかった。ケリは飛びもの撮影の初級だけど、実際に上手に撮るとなるとなかなか難しい。当然ながら距離が近いほど難易度が上がる。

アマサギ-7

 田植えされて間もない田んぼはアーティスティックだ。歪みがあるし、等間隔でもないけど、これがまっすぐ一列じゃないところに味がある。
 これからしばらくの間、田んぼそのものが被写体になる。稲が伸びて水面が見えなくなってしまうと面白くない。

アマサギ-8

 あきらめて帰ろうとしている最後にもう一度会うことができた。
 飴色はあまり出ていないけど、クチバシの婚姻色がきれいに出ている。もうペアは決まっただろうか。
 アマサギは雌雄同色で、オスとメスの区別をつけるのは難しい。これもペアかどうか私には分からない。なんとなくいい感じではあったけど。
 婚姻色が進むと、クチバシの付け根あたりがもっと濃い赤紫色になってくる。アマサギの子育ては初夏から夏にかけてだ。
 恋の季節が終わると、普通のサギのように白くなってしまう。そして、9月か10月頃にまた渡っていく。その前に、稲刈りの車の後ろをついて回るアマサギが見られるかもしれない。驚いて跳ねた虫やカエルなどをいただくために狙っている。それを撮るのも楽しい。

 季節は進み、こちらの都合など待ってはくれない。5月の始めでいったん緩んだ花の速度も、6月の半ばを過ぎるとまた少し再加速する。真夏は花が少なくなるから、その前に季節の花から遅れないようにしたい。
 アジサイももう少しだ。場所によってはもう見頃を迎えているという。アジサイはそこらでも見られる花だから、周りの状況と絡めて撮りたい。今年はどこへ撮りにいこうか。
 夏鳥の目標は今年もオオルリで変わらない。豊田の奥で一度だけ見上げる腹の部分だけ撮ったことがある。次はルリ色の背中側から撮りたい。
 ホタルや昆虫も出てくるし、初夏には初夏の楽しみがいろいろある。怠けず、こちらから出向いていかなければ。

古渡城は東別院になりメ~テレにもなった

神社仏閣(Shrines and temples)
東別院-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 昨日の西別院に続いて今日は東別院を紹介します。
 東別院というのは通称で、東本願寺名古屋別院といった方が混乱せずに済むかもしれない。正式名は、真宗大谷派名古屋別院ということになる。
 昨日も書いたように、京都で本願寺が二つに分かれて、東本願寺と西本願寺になった。うしろで糸を引いたのは徳川家康だった。
 もともと内部でいろいろな分裂や争いが続き、いったんは秀吉の仲介で収まったのが、秀吉の死後、後継者問題でモメて、一方に家康が肩入れをして、新しく別の本願寺を建てさせたのが東本願寺だ。
 西が本家で東が分家といったようなものではないようで、今は仲良くやっているとのことだ。
 名古屋においては、東別院の方が大きくてよく知られているというのも昨日書いた。東別院は地下鉄の駅名にもなってい。隣にはメ~テレがあるから、行ったことはなくても東別院がどこにあるかは知ってる人が多いんじゃないだろうか。東別院駅はメ~テレ前とも呼ばれている。西別院は知らない人が多いと思うけどどうだろう。

東別院-2

 この場所にはかつて、織田信秀(信長の父)の居城・古渡城(ふるわたりじょう)があった。
 築城は1534年と伝えられている。
 今川から奪い取った那古野城を息子の信長に譲り渡し、自分は古渡城に移った。
 1546年に、13歳になった信長はこの城で元服したと言われている。
 その後、信秀は末森城(今の城山八幡宮)を築城して移り、信長も清洲城に入城したことで、古渡城は廃城となった(1548年)
 1690年、尾張徳川二代目藩主の徳川光友が、古渡城跡地の1万坪を寺の敷地にするため寄進した。
 その地に、東本願寺第16代門主・一如が名古屋御坊を建てたのが東別院の始まりだ。
 1805年には、五代惣兵衛が再建に尽力し、1823年にも新たな本堂が建てられた。
 最盛期の本堂は名古屋城天守閣に匹敵するほど巨大なものだったという。
 明治には、名古屋本願寺になったり、名古屋管刹になったりしつつ、最終的にには名古屋別院となる(1876年)。

東別院-3

 三門を入って正面に本堂が建っている。境内は相当な広さだ。全体的な規模は縮小されたとはいえ、真宗大谷派の別院としては全国最大を誇っているという。
 昔の建物はほとんど全部が第二次大戦の空襲で焼かれてしまって残っていない。
 現在の本堂は、1962年(昭和37年)に再建が始まり、1966年に完成したものだ。
 そうえば、ここの本堂は南西向きに建てられている。浄土真宗のお寺は東向きというのは、必ずしもそうではないようだ。
 
東別院-4

 本堂の向かって右隣に建っているのは対面所という建物のようだ。
 ここで説法が行われたり、事務所のようなものが置かれているらしい。

東別院-5

 本堂近くから境内と三門を眺めたところ。
 三門も本堂から少し遅れて1968年(昭和43年)に再建された。
 明治時代にはこの広い敷地がいろいろと活用された。明治7年(1874年)には、名古屋博覧会会場にもなった。名古屋城から金鯱を降ろしてきて展示したり、名古屋の名産などが展示されたそうで、一ヶ月の予定が10日間延期されたというから、評判はよかったのだろう。
 愛知県庁の機関がここに移されたり、軍隊の演習に使用されたり、戦中は収容所として使われたこともあった。

東別院-6

 多宝塔か二重塔かと思ったら、納骨堂だった。

東別院-7

 古渡城址の石碑と説明板が立っている。
 城の遺構はほとんど残っていない。東北に少し城跡を思わせる部分があるそうだけど、そちらは見に行かなかった。
 別院新御殿の北庭だった場所が下茶屋公園(しもちゃやこうえん)として整備されている。そこも空襲で焼かれて、戦後になってから造ったものだから、当時のままというわけではない。
 信長の時代からわずか500年足らずの間にずいぶんいろんなことがあって、すべてが変わってしまった。那古野城も、清洲城も今は残っていない。あの時代に築かれた天守閣が残っているのは、このあたりで犬山城くらいだ。どこに城があったか分からなくなっている支城もたくさんある。

東別院-8

 明治天皇行在所旧址碑と、明治天皇名古屋大本営碑が建っている。
 明治天皇がこの地方を訪れたとき、東別院に滞在したそうだ。
 大本営というのは、明治23年(1890年)に陸軍と海軍が名古屋で軍事演習をしたときに、ここに大本営が設置されたということらしい。
 昭和8年(1933年)に、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づいて史蹟指定された。
 史蹟名勝天然紀念物保存法というのは、現在の文化財保護法の前身の法律で、大正8年に施行された。明治は古いものをどんどん破戒した時代で、そのまま開発を進めてしまうと歴史的なものが消えて分からなくなってしまうからということで、この法律が定められた。
 国宝保存法や重要美術品等ノ保存ニ関スル法律も、戦後になって文化財保護法に一本化されて現在に至っている。昔は国宝だったのに、今は重要文化財に格下げされたというものがちょくちょくあるけど、あれも法律の改正に伴うものだ。
 国宝、重文指定というのもなかなか難しい問題があって、ありがた迷惑だったりして、所有者にとっては悩ましいものらしい。

東別院-9

 鐘楼も見たところ新しいもののようだ。
 ただ、鐘は1692年鋳造の古いもので、名古屋市の文化財に指定されている。
 西別院の鐘楼と組み合わせれば立派なものになりそうだけど、それが実現することはまずないだろう。

東別院-10

 右側の別の門から出る。
 外から対面所を見たらちょっといい感じだったので撮ってみる。

東別院-11

 左手に見えているのは東別院会館というものだろうか。
 右はメ~テレの電波塔だ。外で張っていれば、矢野きよ実や宮地佑紀生に会えるかもしれない。
 メ~テレの新社屋も旧社屋も、もともとは東別院の敷地だったところで、最初は読売新聞が名古屋進出のときに東別院から買った土地だそうだ。
 昔からこのあたりを知っている人は、住宅パーク東別院を覚えているだろうか。

 東別院の他に名古屋を代表する大きな寺院としては、覚王山日泰寺、大須観音、八事山興正寺、建中寺などがある。
 建中寺以外はブログに紹介した。建中寺もだいぶ前に行って写真も撮ってきた。あとは書くだけだから、近いうちに登場すると思う。
 それ以外にもお寺はたくさんある。神社だけでなくお寺もちょくちょく巡っていきたい。

西から来た新しい仏教を受け入れた東の神国

神社仏閣(Shrines and temples)
西別院-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 名古屋の大須に、東別院と西別院がある。東別院の方が規模も大きくて地名にもなっているから知名度は高い。西別院は名古屋人でもあまり馴染みがないかもしれない。
 ここのところ神社ネタが続いたから、今日は寺の話をしようと思う。同じようなものだって? いやいや、神社とお寺はやっぱり別物なのですよ。色合いが似てるからといって同じものとは限らないのだ。
 一言で言えば、神社は国産で、お寺は外国製のものだと言える。仏教というと日本古来のものと思ってる人もいるかもしれないけど、日本における仏教の歴史は神道に比べると浅い。仏教伝来は、飛鳥時代の538年(もしくは552年)のことだ。外国から輸入したものだという認識が必要となる。
 東別院、西別院とは何かということも含めて、今日は仏教の宗派について少し勉強したいと思う。日本の学校では仏教についても神道についてもちゃんと教えていないから、知っているようで知らないことが多い。仏教の宗派と開祖も、空海、最澄、日蓮くらいは知っていても、それ以上詳しい知識を持ち合わせている人は多くないと思う。あまり知っているとかえって変と思われてしまうような風潮さえある。でも、日本人の一般常識として、ある程度は知っておいてもいいんじゃないかと思う。

『日本書紀』によると、仏教が公式に伝来したのは、欽明天皇時代の552年となっている。その他の資料によると、538年という記録もあり、現在はこちらの方が支持されているようだ。
 仏教が誕生したのはインドだ。ゴータマ・シッダールタ(のちの釈迦)が悟りを開いたのが紀元前5世紀というから、キリスト教よりもずっと古い。
 仏教自体の歴史を説明すると長くなるので省略して、今回は日本伝来以降についてだけ書くことにする。
 仏教はシルクロードを通り、朝鮮半島経由で日本に入ってきた。百済から入ってきたのは間違いないようで、向こうからすすめられたのか、こちから呼んだのかははっきりしていない。蘇我氏が熱心に輸入したという説もある。
 500年代といえば、ヤマト王権も時代が進んでいるし、それまでに多数の渡来人がやって来ていたはずだから、知識や情報としての仏教はすでにあっただろう。500年代というのはむしろ遅すぎるように思う。
 欽明天皇は、仏教をどう扱うべきか迷った。日本には古来からの神がいる。臣下の間でもモメて、それは天皇の即位問題にも波及していくことになる。一種の宗教戦争とも言えるし、宗教にかこつけた権力争いにも利用された。
 結果的に仏教賛成派の蘇我氏が勝ち、日本も仏教も取り入れるということになった。争いに敗れた物部氏などは急速に力を失っていくことになる。
 そんな中、最初に日本に仏教を定着させたのが蘇我氏系の聖徳太子だった。
 四天王寺や法隆寺などを建て、仏教を日本に浸透させていこうと試みた。
 仏教というと今では年寄りくさいイメージがあるけど、当時にしてみたら、日本より進んだ外国から来た最先端の知識であり、文化であり、ファッションだった。システムだったと言ってもいい。上流階級が流行ものに飛びついたのは、仏教がカッコいいものだったということもあったのだと思う。見たこともない仏像を見て、私たちがロボットやメカを見るように興奮しただろうし、等身大フィギュアのような仏像を見て、これ自分も絶対欲しいと思ったとしても変じゃない。
 飛鳥時代から奈良時代にかけて、全国でたくさんの寺が建てられた。第一次お寺ブーム到来だ。
 天武天皇、持統天皇と仏教保護に力を入れ、聖武天皇のときに建てられた奈良東大寺の大仏殿で一つのピークを迎えた。
 この頃までに仏教は、国家安泰のための国教的な地位になっている。国家事業として全国各地に国分寺や国分尼寺が建てられ、招聘した鑑真が唐招提寺を建てたのもこの時代だ。神仏習合が始まったのも、この頃と考えてていい。
 平安時代は密教の時代だ。空海、最澄が唐へ留学して、密教を持ち帰ってきた。それも国家プロジェクトだった。空海が興したのが真言宗(高野山)で、最澄は天台宗(比叡山)だ。
 都も奈良から京都に移り、旧仏教の奈良と、密教との対立構造が生まれてくる。
 密教というのは秘密主義的で、修行の要素も強い。呪術的でもある。陰陽道が一番流行っていたのが平安時代で、あれも密教との関係が深い。
 平安後期になると、世の中が非常に乱れてくる。災害、疫病、飢饉などが重なり、人々も激しい不安の中で暮らしていた。そういう情勢の中、仏教も時代に合わせたものへと変化していく。
 それまで国家安泰を祈願するための仏教だったものが、庶民を救うための仏教へと変容していった。民衆は生きているのがつらいから、せめて死んだら極楽浄土へ行きたいと願い、それを仏教に求めた。その象徴的な存在が宇治の平等院鳳凰堂だった。あれは極楽浄土をイメージして建てられたものだった。
 お寺はお寺で、宗教対立が激しくなり、自らを守るという名目で武装集団になっていった。僧兵と呼ばれる存在が生まれたのは平安時代の後期のことだ。
 鎌倉時代は武家が初めて天下を取った時代で、この時代の仏教は急速に民衆化していくことになる。
 都は鎌倉に移り、何かともめ事や騒動はあったものの、内戦も収まって一応の平和が訪れた。
 そんな中で出てきたのが、日蓮宗と浄土宗だ。
「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗と、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで浄土へ行けるという浄土宗が民衆の心を掴んだ。
 一方、武家にもてはやされたのが禅宗だった。鎌倉五山といえば、あれは禅宗の寺だ。
 座禅を基本とした修行によってのみ心の平安が得られるというストイックさが武家に受けた。その代表が、臨済宗(栄西)と曹洞宗(道元)だ。
 その他にもたくさんの宗派が生まれ、鎌倉時代は仏教宗派乱立の時代だった。民衆に広く浸透したという意味で第二次仏教ブームと言える。
 この時代の仏教は極端だった。厳しい修行と克己心を要求される禅宗あり、他の宗派を一切認めず激しく攻撃する日蓮宗あり、ただただ念仏を唱えていれば救われるという浄土宗ありで、日本人同士が最も宗教的に対立した時代だったかもしれない。
 悪人でさえ念仏を唱えれば救われるという浄土真宗も生まれ、これは他の宗派からかなり悪く言われた。一向宗とも呼ばれ、のちに一向一揆へとつながっていく。
 鎌倉幕府が倒されて、南北朝時代から室町時代は、また都が京都へ戻った。
 仏教の流れは前の時代を引き継ぐものとなり、各宗派間の溝も深まっていった。僧兵と化した各宗派は戦争となり、政治問題にも発展していく。
 庶民や地方では曹洞宗が流行り、都市部では日蓮宗が支持された。
 今日紹介する本願寺は、この頃京都で一大勢力を築き上げることになる浄土真宗の一派だ。
 戦国時代には日本最大の宗教武力集団へと成長していた本願寺は、石山合戦に代表されるように、信長を激しく戦ったりもした。信長軍と互角に戦えたことを見ても、僧兵というのがどういうものだったか想像がつく。
 各地で起きた一向一揆も、農民一揆とは別物で、一向宗と戦国武将との争いだった。上杉謙信も、信長も苦しめられた。長島一向一揆などはよく知られている。
 江戸時代になると仏教は庶民の生活にすっかり根ざしたものとなり、神仏習合も疑いなく受け入れた。幕府の体制がしっかりすれば宗教戦争のようなものもあまり起きる余地がなくなり、民衆は檀家制度によって把握されることになる。
 明治の神仏分離令や廃仏毀釈については、折に触れて書いてきた。昭和の新興宗教に関しても今日の趣旨からは外れる。
 現在、古くからの仏教を、十三宗五十六派としている。
 奈良系(南都六宗系)の華厳宗、法相宗、律宗、平安密教系の真言宗、天台宗、鎌倉の日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、禅宗の曹洞宗、臨済宗、黄檗宗が十三宗ということになる。

 日本における仏教の歴史をざっと説明するとこんな感じだ。
 まだ言葉足らずの気がするけど、前置きとしてはずいぶん長くなったから、そろそろ本編に入りたいと思う。

西別院-2

 どうやら裏口というか通用門の方から入ってしまったようだ。裏をぐるりと回って、ようやく本堂の前に出てきた。
 最初、新興宗教の教団に迷い込んでしまったのかと思った。本堂のデザインがなかなかエキセントリックだ。
 でもこれどこかで見たことがある建物に似ている。そうか、築地本願寺だと思い出した。
 築地の方がもっとインド的なものものしい感じで、こちらは近代的で、よく言えばハイカラだ。築地本願寺の屋根は夜になるとオレンジとブルーに光るようだけど、名古屋の西別院にはそんな仕掛けはないのだろうか。
 1972年に建てられたものだというから、築地本願寺を意識したのは間違いなさそうだ。

西別院-3

 左に見えているのは、親鸞(しんらん)の像らしい。
 浄土宗の開祖は法然(ほうねん)だ。親鸞はその弟子に当たる。
 南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀仏に帰依しますという意味で、とにかくすべてを阿弥陀如来に委ねてしまおうというものだ。
 それを更に進めたのが親鸞の浄土真宗で、悪人さえも南無阿弥陀仏を唱えれば救われると教えた。
 他力本願といっても、他人任せで何もしなくても救われるというわけではなくて、他力というのは阿弥陀如来の力、もしくは意志という意味で、言葉を変えるなら、自分の努力では救われることはないということらしい。だから、阿弥陀の慈悲を信じて信仰しなさいということになる。
 実際はもっと深い意味の教えなのだろうけど、民衆としては自分に都合よく解釈して、何もしなくていいのだと浄土真宗を信仰するようになったという部分はあっただろう。他の宗派が、その生ぬるさに反感を抱いたというのも理解できる。

 今日紹介している西別院は浄土真宗本願寺派の名古屋別院で、近いうちに紹介するはずの東別院は真宗大谷派の名古屋別院ということになる。ちょっとややこしくて、私も最初は混乱した。
 本願寺というのは、親鸞の廟堂に、亀山天皇が与えた名前(久遠実成阿弥陀本願寺)から来ていて、浄土真宗の一派だ。これが内部で対立を起こし、のちに分裂した。
 京都に西本願寺と東本願寺がある。
 もともとは西本願寺がある場所に本願寺があり、江戸時代に分裂して、そのすぐ東にもう一つの本願寺を建てた。こが東本願寺で、区別をはっきりさせるために元の本願寺を西本願寺と称するようになった。
 西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山で、正式名称は本願寺となる。
 一方の東本願寺は、真宗大谷派の本山で、真宗本廟が正式名称だ。
 真宗というのは浄土真宗のことで、よく略されるのも混乱の元となっている。
 今は平和的に共存しているそうだけど、室町時代から内部の対立があって、江戸時代に分かれたあとは、別の一派ということになった。
 で、名古屋の西別院は、西本願寺の側に属するということになる。
 これですっきりしたかといえばそうでもなく、名古屋西別院には独自の歴史がある。
 元を辿ると、伊勢国長島にあった願証寺に辿り着く。
 これがいったん断絶したあと、本願寺の顕如が織田信行に願い出て、尾張の首府だった清洲に再興した。
 その後、名古屋城築城に伴う清洲越しで現在地に移転してきた。
 江戸時代の1715年に、真宗高田派に宗旨替えするという混乱があり、そのゴタゴタでいったんは江戸幕府に没収されてしまう。
 住職の琢誓は追放となり、寺は返却されて、本願寺の末寺に組み入れられることになり、空襲で焼けたりしつつも、今に至っている。

西別院-4

 まったくのよそ者としては堂の中まで入っていきづらい雰囲気だったので、外から手を合わせて写真を撮らせてもらうだけにした。
 私は神社がホームで、お寺にいくとアウェイとなってしまって、ちょっと小さくなりがちなのだ。

西別院-5

 すべてが近代的な様相の境内にあって、焼け残った鐘楼だけが激しく異彩を放っている。これはなかなかいいものだ。何しろ足が多い。こんなたこ足の鐘楼は見たことがない。
 江戸時代初期の1658年に建てられたもので、重文指定になっていないのが不思議なほどだ。
 釣り鐘が昭和34年に鋳造されたもので新しいからだろうか。
 誰でも除夜の鐘をつけるそうで、108回以上鳴らせるというから大晦日は狙い目かもしれない。

西別院-6

 1817年に葛飾北斎がこの寺を訪れ、120畳敷の紙に達磨の画を描いたという説明板が立っている。
 たいそうな評判になったそうだけど、それも空襲で焼けてしまったらしい。もったいないことをした。
 名古屋の大須地区は特に空襲が激しかったところで、ほとんど何も残っていない。今でも復興した寺がたくさん集まっている場所だから、もし焼けずに残っていたら、全国有数の寺社町として知られる存在になっていたことだろう。
 隣には、名古屋大学医学部の前身となった医学講習場跡の説明板が立っている。

西別院-7

 どうやら東のこちらが正門だったようだ。
 そういえば、本願寺はお堂が東向きに建っているという話を聞いた気がする。すべてがそうではないけど、西方浄土に向かって拝むために、本堂は東向きに建てられていることが多いそうだ。

西別院-8

 西別院を出てすぐの通りは、門前町通という名前で、仏壇店がずらりと並んでいる。
 世の中にこんなにも仏壇店が必要なのかと思うほど、どこまでも仏壇店が軒を連ねている。
 大須というと電気街、オタク街というイメージが定着しているけど、もとは寺社町であり、仏壇と家具で有名な町だった。今でもその名残は色濃い。

西別院-9

 ゴールデンウィーク中の午後とは思えない風景だ。平日の夜明けみたいに見える。
 連休中は店を休んでいるところも多かったのか、連休中くらい仏壇のことは忘れようとみんなは思ったのか、人も車もほとんど通っていなかった。

西別院-10

 西別院の南400メートルほどのところに東別院がある。大須観音駅に戻るよりも歩いた方が早そうだったので、ぷらぷら歩いていくことにした。
 その途中、たくさんの寺があったけど、いちいちどういう寺か見て回らなかった。多くは清洲越しのときに移ってきたものだろうと思う。この天寧寺もその一つだ。
 本堂は右手にあって、写真に写っているのは三宝殿という建物だ。織田信長の守本尊だったという行基作の三宝荒神が本尊になっているらしい。

西別院-11

 手前が功徳院で、奥が金仙寺だと思う。
 特に意味はないけど、なんとなく撮ってみた。

西別院-12

 公園の中にも小さな社があって、この地区は本当に神社仏閣と仏壇店の密度が濃いなと思う。
 モノトーンに近い写真ばかりだったから、最後くらいは緑の写真を入れてみたけど、今回も全体の印象はやっぱり神社仏閣カラーだった。
 私としては、仏教の宗派の流れをおさらいできたからよかった。でも最初の長文で早々に力尽きた人もいただろうなぁ。
 この話は、次回の東別院へとつながっていく。

草薙剣があってもなくても熱田にはたくさんの神がいる <第三回>

神社仏閣(Shrines and temples)
熱田神宮上知我麻神社




 熱田神宮シリーズ第3回。最終回の今回は、境内社をまとめて紹介することにしたい。
 南鳥居近くの上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)と別宮・八剣宮。
 ここは南の鳥居から入ってすぐ左手だから、正門から参拝した場合は本宮よりも先にお参りすることになるかもしれない。
 社殿も大きくて、他の小さな摂社、末社とは別格の扱いになっている。
 授与所も独立したものがあって、巫女さんも常駐している。



熱田神宮上知我麻神社拝殿

 上知我麻神社では、ヤマトタケルの奥さんであるミヤズヒメ(宮簀媛命)の父・オトヨ(乎止與命)を祀っている。
 オトヨは、尾張氏の祖神・天火明命(アメノホアカリ)の子孫で、尾張国造(おわりくにのみやつこ)とされる人物だ。いわゆる神の系統ではない。
 国造というのは、その地方の首長のようなものだ。大和朝廷と尾張は、微妙な従属関係にあったようで、ときには反抗的な態度も示していたとも言われている。
 景行天皇の息子であるヤマトタケルに対しては全面協力をしているとはいえ、完全に飲み込まれているという感じではなく、独立に近い形の友好関係だっただろうか。
 それにしても、オトヨの待遇はいい。独立した立派な神社で祀られているのだから。上知我麻神社は、延喜式にも載る式内社だ。



熱田神宮オトヨを祀る

 どういう経緯があったのか、古くから知恵の神様とされていて、受験シーズンになると合格祈願の人たちで大いに賑わうという。
 オトヨに関してはあまり資料もなく、よく分からない。この神社は知恵の文殊さまと呼ばれているくらいだから、賢い人だったのだろうか。
 ここでは、名氏子(なうじこ)というならわしがあって、神託で名前の一字をもらうことができるんだそうだ。いまどきちょっと珍しいんじゃないだろうか。名古屋っ子の中には、熱田神宮で一字もらった名前を持つ人が意外といるのかもしれない。



熱田神宮大黒と恵比寿

 ここのもう一つユニークな点は、左右に大黒と恵比寿を従えていることだ。
 向かって右が大国主社(おおくにぬししゃ)で、オオクニヌシ=大黒様を祀っている。
 日本に仏教が伝来したとき、僧はなんとか一般庶民に仏教を広めようと、日本の神を仏にたとえて説得して回った。それを、本地垂迹(ほんじすいじゃく)という。
 その思想では、日本の神々は仏が化身として現れた権現(ごんげん)なのだということになる。
 たとえば、最高神のアマテラスは最高の仏である大日如来(だいにちにょらい)であり、八幡神は阿弥陀如来、スサノオは牛頭天王といったように、それぞれ対比させている。
 熱田神宮も神仏習合の歴史があるから、これはその名残だろう。



熱田神宮事代主社

 向かって左手には、事代主社(ことしろぬししゃ)があり、コトシロヌシ=恵比寿を祀っている。
 上知我麻神社のことを「えびすさま」と呼んだりもするのはここから来ている。



熱田神宮八剣宮

 別宮・八剣宮(はっけんぐう)。
 708年。元明天皇から新たな神剣を造るようにという勅命があり、その剣を収めるために建てたのがこの別宮だ。
 何故そんな命が下ったのか? 草薙剣が天武天皇に祟ったということで熱田に戻ったのが686年。宮廷にはまだレプリカの天叢雲剣があるはずだ。ひょっとしてもう一度オリジナルの草薙剣を渡すようにということにでもなったのか。そんな話はないけど、怪しくはある。
 元明天皇は、天智天皇の皇女だ。天智、天武の一族は熱田の剣に強いこだわりを見せている。神剣新造勅命にも何か裏があるんじゃないかと疑いたくなる。
 天武天皇亡き後、その妻である持統天皇が皇位を継承し、普通ならその夫婦の息子である草壁皇子や人親王、大津皇子などに皇位が移るはずが、いろいろ謎の若死になどもあり、持統天皇は強引に天智天皇系の孫の文武天皇を即位させている。まるで天武系から無理矢理に天智系へ血統を戻そうとするかのように。
 更に不自然なことに、文武天皇をあとを、その母親で天智天皇の娘である元明天皇が継いでいる。子供から母親への皇位継承など普通じゃ考えられない。元明天皇は皇后にもなっていない。夫が天皇ではない初めての女性天皇だった。
 この元明天皇が、奈良の平城京に都を移した奈良時代初代天皇ということになる(710年遷都)。『古事記』を完成させたのも元明天皇だ。
 新たな神剣が祀られているということで、この別宮は特別扱いとなっていて、社殿も神事も本宮に準じるものとなっている。祭神も本宮と同じく熱田大神だ。
 信長、家康、綱吉などが本殿その他の改修や造営を行ったという記録も残っている。本宮に近いくらい大事にされてきたようだ。
 江戸時代には神剣盗難未遂事件も起こっている。



熱田神宮鳥居

 これが確か南の鳥居だったと思うけど、ちょっと自信がない。
 一通り見て回ったので、そろそろ熱田神宮をあとにすることにした。



熱田神宮下知我麻神社

 境内の中にありながら、一度鳥居をくぐると行けない下知我麻神社(しもちかまじんじゃ)。一番北西にあって、行くなら外から行くしかない。地下鉄神宮西駅を出てすぐ目の前だ。
 乎止與命の奥さんで、ミヤズヒメのお母さんの眞敷刀媛命(マシキトベノミコト)が祀られている。
 こちらは旅の神様だそうで、旅行の安全を祈願するといいらしい。その理由はよく分からない。
 小さな神社だけど、これも式内社だ。



熱田神宮金比羅神社

 19号線を挟んで向こう側に、金比羅神社と、福重寺が並んでいる。ぐるっと回って行くのが面倒だったので、こちらから写真を撮るだけにしておいた。
 少し左には源頼朝生誕地とされる誓願寺がある。それについては以前書いた。
 源頼朝が名古屋人であろうとなかろうと---前編



蓬莱軒

 名古屋で一番歴史があって有名な、ひつまぶしの店「あつた蓬莱軒(ほうらいけん)」。創業は明治6年(1873年)。
 写真は南鳥居を出てすぐにある神宮店だ。本店はここから南へ100メートルほど行ったところにある。そちらは陣屋になっていて雰囲気があるから、せっかくならそちらで食べた方が雰囲気は出る。ただし、どちらもいつも混んでいて行列ができている。
 熱田のこのあたりは昔、伊勢湾に近いうっそうとした森で、蓬莱島とも呼ばれていた。蓬莱というのは、古代中国で東の海にある仙人が住んでいるとされる山のことだ。店の名前はそこから取られているのだろう。



松ゴ神社

 地下鉄伝馬町の駅を目指して歩いている途中、熱田神宮摂社松ゴ神社(ゴ=女后)というのがあったので、寄っていくことにした。
 なんだか、すごいシチュエーションにある。ビルとビルの間の細い路地が参道になっていて、途中で直角に折れているようだ。



民家脇の小さな社

 民家がひしめいているところに、こそっと入り込むようにして小さな社があった。
 人の家の庭に入り込んでしまったような感じだ。



熱田神宮境外社

 境外摂社は3つかと思ったら4つあった。高座結御子神社は前に紹介して、氷上姉子神社は大高だから別としても、白鳥にある青衾神社は寄っておくべきだった。このときはまだ存在を知らなかった。

 現時点で私が熱田神宮について書けるのはここまでのようだ。
 草薙剣や熱田神宮の本当の歴史についてはまだ完全にすっきりしたわけではないけど、またこの話がどこか別のところにつながっていくことだろう。

 熱田神宮の成り立ちは思うほど単純じゃない <第一回>
 草薙剣をめぐる右往左往物語 <熱田神宮第二回>
 
【アクセス】
 ・地下鉄名城線「神宮西駅」下車。徒歩約5分。
 ・地下鉄名城線「伝馬町駅」下車。徒歩約6分。
 ・名鉄名古屋本線「神宮前駅」下車。徒歩約5分。
 ・JR東海道本線「熱田駅」下車。徒歩約12分。
 ・無料駐車場あり(400台分) 17時閉鎖(年末年始は使用不可)
 ・参拝時間 終日(無料)
 ・宝物館 300円 9時-16時半 最終水曜日定休(年末休館)
 
 熱田神宮webサイト
 

草薙剣をめぐる右往左往物語 <熱田神宮第二回>

神社仏閣(Shrines and temples)
熱田神宮境内の風景




 前回に続いて熱田神宮の第2回をお送りします。
 1回目は熱田神宮の御神体で、三種の神器の一つである草薙剣の謎について考えてみた。今回、その続きをもう少しやってみようと思う。



熱田神宮宝物館

 宝物館というから、ひょっとして三種の神器の草薙剣が見られるんじゃないかと期待した人がいたかもしれない。実は私もそうだ。でも、そんなわけはない。天皇ゆかりの神器であり、御神体でもあるのだから、国宝とは比較にならない貴重さだ。皇居にあるものも、皇位を継承した天皇でさえ見ることができないという。即位式では草薙剣が入っているとされる箱を受け取るだけなのだとか。中に何が入っているのか、それは誰も知らないのかもしれない。
 ただ、江戸時代に、熱田神宮の大宮司社家数人が盗み見たという記録が残っている。それによると、長さは80センチちょっとで、錆びてはおらず、ずんぐりとして全体的に白っぽかったらしい。
 それが鉄製なのか銅製なのか、専門家の間でも議論が分かれているようだけど、そもそもそれもおかしな話だ。ヤマトタケル伝説や熱田神宮創建は、伝承によると西暦100年代で、そんな時代に鉄製の剣など日本にあっただろうか。日本で剣が作られるようになったのは、せいぜい古墳時代に入ってからのはずで、時代的に大きなズレがある。
 日本より技術が進歩していた朝鮮半島や大陸ならすでに作られていただろう。だとすれば、ヤマタノオロチは朝鮮半島の集団か、もしくはそちらからの渡来系のことで、草薙剣は外国人から奪い取ったものということになるのか。
 江戸時代に盗み見たという話が本当かどうかは分からないし、それが本当に草薙剣だったと決まったわけでもないから、このあたりのことは確かめようがない。
 熱田神宮にはすでに草薙剣はないのではないかなどと、意地悪な見方をする人もいる。確かに、歴史上いろんなことがあって、その過程で失われたり、他のものとすり替わったり、作り直されたりなどということがあったとしてもおかしくはない。そのあたりの経緯については、このあと書きたい。

 熱田神宮は、皇室や将軍家、藩主などから寄進された4,000点以上のお宝を所蔵しているそうだ。
 宝物館にそれらがずらりと並べられているのかと思ったら、中は思いのほか狭く、全部で100点もないくらいだった。期待して初めて入ったから、けっこうがっかりしてしまった。順番に展示物を変えながら展示しているそうだ。
 入館料300円という時点で予感すべきだった。ドニチエコきっぷを使って250円で入れたし、一番見たかった南北朝時代に写された『日本書紀』の一部(重文指定)を見ることができたので、まずは満足することにしよう。
 刀剣が充実していて、剣ファンには好評らしいけど、私は刀剣関係は苦手なので、なるべくそちから目を背けつつ展示物を見て回った。撮影禁止なので、中の写真はない。



熱田神宮参道の露天

 特に祭りの日とかではなかったけど、この日はゴールデンウィーク中ということで、少しだけ露店が出ていた。普段はこういうのは出ていない。



熱田神宮二十五丁橋

 二十五丁橋(にじゅうごちょうばし)。
 名古屋最古の石造りの太鼓橋で、優雅な姿をしている。残念ながらこの上を歩いて渡ることはできない。
 昔から評判の石橋だったようで、「尾張名所図会」(1844年に前編刊行)にも載っている。
 板石を25枚並べて作ってあることから、この名が付けられた。



熱田神宮徹社

 徹社(とおすのやしろ)。とおるしゃ、と読むのかと思ったら違った。
 祭神は、天照大神の和魂。
 和魂(にぎたま)というのは、荒魂(あらみたま)に対する平和的な面を祀るもので、山宮で荒魂を祀り、里宮で和魂を祀ることが多い。
 荒魂というのは必ずしも荒っぽい面というわけではなく、顕著な面、つまり神の意志の顕れという意味だ。天変地異に代表されるように、それは人間側からすると荒っぽく映ったりもするから勘違いされやすい。



熱田神宮境内社

 南鳥居近くにいくつかの摂社、末社が集まっている。西門から入るとこのエリアは飛ばしてしまいがちなのだけど、重要なものもあるので、熱田神宮参拝の折りにはこちらも立ち寄ってみることをオススメしたい。



熱田神宮楠之御前社

 楠之御前社(くすのみまえしゃ)。
 祭神は、イザナギ(伊弉諾尊)、イザナミ(伊弉册尊)で、絵馬がけっこうかかっているところを見ると、なかなか人気のあるところらしい。
 神生みの夫婦の神様ということで、安産のご利益があるんだとか。
 垣の内側にクスノキが植えられている。そこから名前が来ているのか、逆に先に名前があってあとからクスノキが植えられたのかは分からない。



熱田神宮清雪門

 清雪門(せいせつもん)の前まで来たから、草薙剣の話をしたい。
 アマテラスが天孫降臨するニニギに、剣と玉と鏡の三種の神器を渡し、そのうち剣は熱田神宮に、鏡は伊勢神宮に祀られ、玉だけは天皇所有となったと、前回書いた。
 でもこれは、ちょっと考えてみると不思議な話だということに気づくはずだ。建前上、皇位継承に必要とされる三種の神器のうち、二つが外で祀られていて、天皇の手元には玉しかない。皇位継承のときはどうしていたのか? 答えは合理的なもので、レプリカを作っていた、というものだ。
 ただし、これはニセモノというのとは違う。たとえば神社などで勧請して全国に多くの神社を作るけど、あとから作ったものがニセモノかといえばそうじゃないのと同じ理屈だ。分霊のように分身を作ったというだけのことで、神道では無限に本体が分裂することができるという考え方がある。
 807年に編さんされた『古語拾遺』には、崇神天皇(すじんてんのう)が、あらたに天叢雲剣と鏡を作らせたとある。崇神天皇は第10代天皇で、紀元前100年前後の天皇ということになっているけど、その実在はよく分かっていない。
 それによると、ヤマタノオロチから奪ったオリジナルの剣を伊勢神宮に移し、レプリカを宮中にとどめおいたらしい。ということは、ヤマトタケルが伊勢神宮のヤマトヒメから借り受けたのがオリジナルの天叢雲剣で、のちに草薙剣と名前を変え、熱田神宮の御神体になり、天皇家所有の神剣はレプリカ天叢雲剣と言うべきかもしれない。
 ともかく、剣と鏡に関しては、それぞれ少なくとも二つずつ本物があったということになる。

 668年、新羅の僧(とされる)動行が、熱田神宮から草薙剣を盗み出すという事件が起きた。
 そのとき、本宮の北門だった清雪門を通ったことから不吉な門ということで二度と開けないようにしたとも、剣が戻ってきたときに二度と外に出ないようにするため閉ざされたともいわれ、以降、清雪門は開かずの門とされてきた。
 草薙剣を持ち去った動行だったけど、新羅へ渡ろうとしたところ、暴風雨で乗った船が難破して遭難し、あえなく浜に打ち上げられて捕まってしまったという。
 しかし、このエピソードには続きと裏がある。
 本来なら御神体である神剣を盗み出した外国の僧侶は、当然死罪ということになるはずが、そうはならなかった。捕まえてみたところ、修行を積んだ立派な僧ということが分かり、天智天皇の病気平癒祈願を行ったら天智天皇の病気が治って、許されたというのだ。おまけに、愛知県の知多市に、法海寺を建てることまで許可されている。かなり怪しい。
 その後、草薙剣のオリジナルが、天智天皇の所有となり、次の天武天皇のとき、天武が病気になって占ったところ、草薙剣が祟っていると出て、剣は熱田神宮に戻されることになる。それが686年のことだという。つまり、20年近くの間、オリジナル草薙剣は熱田になくて、宮中にあったことになる。
 これは普通に考えて、天智天皇が奪ったと考えるのが自然ではないだろうか。奪った僧を捕まえて剣を取り戻したら、当然すぐに熱田神宮に返されるべきだ。
 そもそも、新羅の僧だという動行が、熱田神宮の御神体である草薙剣を欲しがる理由もよく分からない。盗んで新羅に持ち去ろうとしたというけど、新羅国がそんなものを本当に必要としたかどうか。
 盗難事件があった668年は、天智天皇が即位した年に当たる。新羅の僧としたのは、白村江の戦いで新羅と戦い、百済系とされる天智天皇が命じたことを誤魔化すためではなかったか。まんまと盗み出すことに成功したから、動行に褒美として寺を与えたとも考えられる。
 この時代の前まで、三種の神器が天皇の皇位継承に必要不可欠なものではなかったのではないだろうか。
 のちに続く天皇システムとも呼べるものを作り上げたのは、天智天皇、天武天皇、持統天皇あたりからのことだ。その前は天皇ではなく大王(おおきみ)という称号だったとも言われている。
 大化の改新(乙巳の変)で、それまで横暴を極めていた蘇我入鹿を暗殺して、実権を握った天智天皇こと中大兄皇子だったわけだけど、実は蘇我家こそが大王家だったという説もある。天智天皇は天皇家を乗っ取ったのだと。そのための権威付けとして、神剣とされる草薙剣を必要としたのではなかったのか。
 鏡と玉を加えて三種の神器としたのは持統天皇のときからだったとも言われている。
 伊勢の神宮の式年遷宮も、大昔から行われているように思われているけど、実際は天武天皇が決めて、持統天皇の時代に第一回目が行われている(690年)。もしくは、伊勢の神宮に現在のような社殿を建てたのが持統天皇かもしれない。
 私たちは古代史を、『古事記』や『日本書紀』で考えるから、なんとなくそのあたりから歴史を考えがちだけど、『古事記』、『日本書紀』は最古の歴史書ではなく、現存している最古の歴史書に過ぎないことを忘れてはいけない。
 620年には、聖徳太子と蘇我馬子が編さんしたとされる『天皇記』(てんのうき、すめらみことのふみ)や、『国記』(こっき、くにつふみ)がある。
 これらは、645年の乙巳の変のとき、蘇我蝦夷の家にあって、家ごと焼かれてしまったとされている。『国記』だけは救い出されて天智天皇に渡されたという話もあるけど、今はどちらも残っていない。
 天皇家の系図や歴史書が蘇我氏の自宅にあったということは、蘇我氏が天皇家(大王家)だったという証拠ではないのか。焼けたにしても救い出されたにしても、天智天皇にとっては都合の悪い記録だとすれば、焼いてしまうのは当然のことだ。
 草薙剣がもともとは三種の神器ではなかったのではないかという証拠として、平安時代初期(806年頃)まで奉幣(ほうべい)がなかったということがある。
 奉幣というのは、天皇の命によって神社などにお金や物資を奉献することをいう。それがなかったということは、熱田神宮は天皇家と直接関係がなかった神社ということになるのではないか。
 しかし、平安時代に入ってから熱田神宮は突然出世する。822年はまだ従四位下だったのが、966年には正一位にまでなっている。
『延喜式』が完成した927年には名神大社となっていることから、それまで尾張氏の剣だったものが天皇家の神剣として格上げされて、御神体として祀っていた熱田神宮も大出世したとは考えられないだろうか。
『日本書紀』の編さんを命じたのは天武天皇で、そのとき草薙剣を神剣とする物語が作られたとしても、後世の人間には話の前後が分からない。どこかで混乱や矛盾もあるのだろうけど、私もよく分かっていない部分が多々ある。実際にどうだったのかは、今となっては知りようもない。
 天武天皇の病気が草薙剣の祟りだと書かれているのは『日本書紀』だ。これはどういうことだろう。正当な持ち主だというなら、祟られることはないだろう。もし祟ったのだとしても、あえて都合の悪いことを書いたのは何故か。
 深読みするなら、すでに『日本書紀』後半で、時代は奥さんの持統天皇に移っていて、持統天皇は天智天皇系に血筋を戻そうとしていたから、天武天皇をかばう必要がなくなったのかもしれない。
 天武系というのは後年、ずいぶん不遇な扱いを受けていることは確かで、天皇家の菩提寺にも弔われていないし、天武天皇を祀った神社というのも三重県の桑名に一社あるのみとなっている。あれだけ実績を上げた有能な天皇なのに、後年の扱いがよくないというのも何かあるのではないかと思わせる。

 三種の神器は、源平合戦のとき、壇ノ浦で水没して見つかっていないから失われたままになっていると言われる。
 源氏に追い詰められた平家と天皇家は、壇ノ浦の戦いのとき、二位尼が安徳天皇と草薙剣、玉(八尺瓊勾玉)を抱いて海に身を沈めたとされている。
 そのとき、どういうわけか鏡は船に残された。玉は、入れ物の箱ごとすぐに浮いてきたところを回収されて、鏡とともに京に戻ったということになっている。
 問題の剣は、海に沈んだままとうとう見つからなかった。ただしこれは、普通に考えるなら、宮中にあったレプリカ天叢雲剣の方だ。熱田神宮の草薙剣ではない。
 レプリカとはいえ、この頃までには三種の神器が持つ意味は定まっていたのだろう。源頼朝は、義経に対して三種の神器奪還を絶対命令として出したと言われている。けど、どうしても剣を見つけられなかった義経は焦った。もしこのとき、義経が三種の神器奪還に成功していたとしたら、その後の歴史は変わっていたかもしれない。頼朝はあそこまで義経を邪険にできなかったのではないか。けど、見つけられなかった義経に対して頼朝は激怒した。
 源平の間で暗躍していた後白河法皇も大捜索の命令を出している。こちらはこちらで天皇家の必需品というこで必死だっただろう。海女さんを大動員したり、僧に占わせたりと大騒ぎをして、結局見つけることができなかった。のちに神器なしで即位した後鳥羽天皇も探したけど見つからずじまいとなった。
 仕方なく剣は新しいものを作ったのだろう。その後、南北朝時代などのごたごたもあり、三種の神器もどうなったのか、ややうやむやになった部分もある。南朝が持っていたものを合併したとき北朝が取り返したけど、それは偽物だったという話だ。
 面白いといったら失礼だけど、こんなエピソードがある。
 空襲が激しくなり、敗戦濃厚となった1945年。御神体である草薙剣を疎開させようという話になった。飛騨国一宮の水無神社へ一時移すということが決まったものの、終戦となってその計画は中止となった。
 しかし、今度は上陸したアメリカの進駐軍が御神体を奪いに来るのではないかと恐れて、やっぱり水無神社へ移すことにした。このときは帝国陸軍が運んでいったという。
 アメリカ軍が草薙剣を欲しがるとは思えないのだけど、当時としては真剣に恐れたのだろう。このあたりにも日本とアメリカとの感覚的なズレがある。当時のアメリカ人が神社というのもについてどこまで理解していたか。
 8月21日に移された草薙剣は、どうやら大丈夫そうだということが分かって、9月19日に取り戻しに行っている。鬼畜英米というくらいだから、日本人もアメリカ人を正しく理解していなかった。
 草薙剣を一時預かりした飛騨一ノ宮の水無神社
 毎年5月4日に行われている酔笑人神事(えようどしんじ)という変わった祭りがある。夜暗くなってきた7時から、神職が半円になって高笑いをするという不思議な行事だ。
 天武天皇のところから戻ってきた剣を祝って始まったとされるもので、別名おほほ祭とも言う。剣が帰ってきて熱田神宮の人たちは嬉しくて笑いが止まらなかったらしい。

 このように、一つの剣をめぐって、様々な紆余曲折があり、現在に至っている。熱田神宮は本当に剣を持ってるのかどうかなんていう単純な話ではない。
 何も持ってないということはないはずだ。ただ、その剣の過去を辿っていって、どこまで辿り着けるかどうか。熱田神宮はどこまで真実を知っているのだろう。

熱田神宮南新宮社

 右手に見えているのが、熱田神宮で唯一朱塗り(丹塗り)の南新宮社(みなみしんぐうしゃ)だ。
 スサノオを祀っている。
 6月5日に、京都祇園祭と同じく疫病退散の祭りが行われている。



熱田神宮孫若御子神社

 あまり人も訪れないような奥深いところにひっそり建っている孫若御子神社(ひこわかみこじんじゃ)。
 なんだか妙に雰囲気があると思ったら、ここも『延喜式』に載っている式内社だった。一説によると、名神大だったとも言われている。
 祭神は尾張氏の祖神とされる天火明命(あまのほあかりのみこと)。
 尾張氏との関係が深い熱田神宮だから、本来なら天火明命が主神となっていてもよかったのかもしれない。



熱田神宮日割御子神社

 こちらも式内社の日割御子神社(ひさきのみこじんじゃ)。
 祭神は、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)。
 天火明命のお父さんで、アマテラス、もしくはスサノオの子供とされる。
 アマテラスに天孫降臨を命じられて断った神で、代わりに息子のニニギが天孫降臨した。

 第3回につづく。

 草薙剣があってもなくても熱田にはたくさんの神がいる <第三回>
 熱田神宮の成り立ちは思うほど単純じゃない <第一回>
 
【アクセス】
 ・地下鉄名城線「神宮西駅」下車。徒歩約5分。
 ・地下鉄名城線「伝馬町駅」下車。徒歩約6分。
 ・名鉄名古屋本線「神宮前駅」下車。徒歩約5分。
 ・JR東海道本線「熱田駅」下車。徒歩約12分。
 ・無料駐車場あり(400台分) 17時閉鎖(年末年始は使用不可)
  ・参拝時間 終日(無料)
  ・宝物館 300円 9時-16時半 最終水曜日定休(年末休館)
 
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