
PENTAX K10D+DA 16-45mm f4
名古屋の大須に、東別院と西別院がある。東別院の方が規模も大きくて地名にもなっているから知名度は高い。西別院は名古屋人でもあまり馴染みがないかもしれない。
ここのところ神社ネタが続いたから、今日は寺の話をしようと思う。同じようなものだって? いやいや、神社とお寺はやっぱり別物なのですよ。色合いが似てるからといって同じものとは限らないのだ。
一言で言えば、神社は国産で、お寺は外国製のものだと言える。仏教というと日本古来のものと思ってる人もいるかもしれないけど、日本における仏教の歴史は神道に比べると浅い。仏教伝来は、飛鳥時代の538年(もしくは552年)のことだ。外国から輸入したものだという認識が必要となる。
東別院、西別院とは何かということも含めて、今日は仏教の宗派について少し勉強したいと思う。日本の学校では仏教についても神道についてもちゃんと教えていないから、知っているようで知らないことが多い。仏教の宗派と開祖も、空海、最澄、日蓮くらいは知っていても、それ以上詳しい知識を持ち合わせている人は多くないと思う。あまり知っているとかえって変と思われてしまうような風潮さえある。でも、日本人の一般常識として、ある程度は知っておいてもいいんじゃないかと思う。
『日本書紀』によると、仏教が公式に伝来したのは、欽明天皇時代の552年となっている。その他の資料によると、538年という記録もあり、現在はこちらの方が支持されているようだ。
仏教が誕生したのはインドだ。ゴータマ・シッダールタ(のちの釈迦)が悟りを開いたのが紀元前5世紀というから、キリスト教よりもずっと古い。
仏教自体の歴史を説明すると長くなるので省略して、今回は日本伝来以降についてだけ書くことにする。
仏教はシルクロードを通り、朝鮮半島経由で日本に入ってきた。百済から入ってきたのは間違いないようで、向こうからすすめられたのか、こちから呼んだのかははっきりしていない。蘇我氏が熱心に輸入したという説もある。
500年代といえば、ヤマト王権も時代が進んでいるし、それまでに多数の渡来人がやって来ていたはずだから、知識や情報としての仏教はすでにあっただろう。500年代というのはむしろ遅すぎるように思う。
欽明天皇は、仏教をどう扱うべきか迷った。日本には古来からの神がいる。臣下の間でもモメて、それは天皇の即位問題にも波及していくことになる。一種の宗教戦争とも言えるし、宗教にかこつけた権力争いにも利用された。
結果的に仏教賛成派の蘇我氏が勝ち、日本も仏教も取り入れるということになった。争いに敗れた物部氏などは急速に力を失っていくことになる。
そんな中、最初に日本に仏教を定着させたのが蘇我氏系の聖徳太子だった。
四天王寺や法隆寺などを建て、仏教を日本に浸透させていこうと試みた。
仏教というと今では年寄りくさいイメージがあるけど、当時にしてみたら、日本より進んだ外国から来た最先端の知識であり、文化であり、ファッションだった。システムだったと言ってもいい。上流階級が流行ものに飛びついたのは、仏教がカッコいいものだったということもあったのだと思う。見たこともない仏像を見て、私たちがロボットやメカを見るように興奮しただろうし、等身大フィギュアのような仏像を見て、これ自分も絶対欲しいと思ったとしても変じゃない。
飛鳥時代から奈良時代にかけて、全国でたくさんの寺が建てられた。第一次お寺ブーム到来だ。
天武天皇、持統天皇と仏教保護に力を入れ、聖武天皇のときに建てられた奈良東大寺の大仏殿で一つのピークを迎えた。
この頃までに仏教は、国家安泰のための国教的な地位になっている。国家事業として全国各地に国分寺や国分尼寺が建てられ、招聘した鑑真が唐招提寺を建てたのもこの時代だ。神仏習合が始まったのも、この頃と考えてていい。
平安時代は密教の時代だ。空海、最澄が唐へ留学して、密教を持ち帰ってきた。それも国家プロジェクトだった。空海が興したのが真言宗(高野山)で、最澄は天台宗(比叡山)だ。
都も奈良から京都に移り、旧仏教の奈良と、密教との対立構造が生まれてくる。
密教というのは秘密主義的で、修行の要素も強い。呪術的でもある。陰陽道が一番流行っていたのが平安時代で、あれも密教との関係が深い。
平安後期になると、世の中が非常に乱れてくる。災害、疫病、飢饉などが重なり、人々も激しい不安の中で暮らしていた。そういう情勢の中、仏教も時代に合わせたものへと変化していく。
それまで国家安泰を祈願するための仏教だったものが、庶民を救うための仏教へと変容していった。民衆は生きているのがつらいから、せめて死んだら極楽浄土へ行きたいと願い、それを仏教に求めた。その象徴的な存在が宇治の平等院鳳凰堂だった。あれは極楽浄土をイメージして建てられたものだった。
お寺はお寺で、宗教対立が激しくなり、自らを守るという名目で武装集団になっていった。僧兵と呼ばれる存在が生まれたのは平安時代の後期のことだ。
鎌倉時代は武家が初めて天下を取った時代で、この時代の仏教は急速に民衆化していくことになる。
都は鎌倉に移り、何かともめ事や騒動はあったものの、内戦も収まって一応の平和が訪れた。
そんな中で出てきたのが、日蓮宗と浄土宗だ。
「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗と、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで浄土へ行けるという浄土宗が民衆の心を掴んだ。
一方、武家にもてはやされたのが禅宗だった。鎌倉五山といえば、あれは禅宗の寺だ。
座禅を基本とした修行によってのみ心の平安が得られるというストイックさが武家に受けた。その代表が、臨済宗(栄西)と曹洞宗(道元)だ。
その他にもたくさんの宗派が生まれ、鎌倉時代は仏教宗派乱立の時代だった。民衆に広く浸透したという意味で第二次仏教ブームと言える。
この時代の仏教は極端だった。厳しい修行と克己心を要求される禅宗あり、他の宗派を一切認めず激しく攻撃する日蓮宗あり、ただただ念仏を唱えていれば救われるという浄土宗ありで、日本人同士が最も宗教的に対立した時代だったかもしれない。
悪人でさえ念仏を唱えれば救われるという浄土真宗も生まれ、これは他の宗派からかなり悪く言われた。一向宗とも呼ばれ、のちに一向一揆へとつながっていく。
鎌倉幕府が倒されて、南北朝時代から室町時代は、また都が京都へ戻った。
仏教の流れは前の時代を引き継ぐものとなり、各宗派間の溝も深まっていった。僧兵と化した各宗派は戦争となり、政治問題にも発展していく。
庶民や地方では曹洞宗が流行り、都市部では日蓮宗が支持された。
今日紹介する本願寺は、この頃京都で一大勢力を築き上げることになる浄土真宗の一派だ。
戦国時代には日本最大の宗教武力集団へと成長していた本願寺は、石山合戦に代表されるように、信長を激しく戦ったりもした。信長軍と互角に戦えたことを見ても、僧兵というのがどういうものだったか想像がつく。
各地で起きた一向一揆も、農民一揆とは別物で、一向宗と戦国武将との争いだった。上杉謙信も、信長も苦しめられた。長島一向一揆などはよく知られている。
江戸時代になると仏教は庶民の生活にすっかり根ざしたものとなり、神仏習合も疑いなく受け入れた。幕府の体制がしっかりすれば宗教戦争のようなものもあまり起きる余地がなくなり、民衆は檀家制度によって把握されることになる。
明治の神仏分離令や廃仏毀釈については、折に触れて書いてきた。昭和の新興宗教に関しても今日の趣旨からは外れる。
現在、古くからの仏教を、十三宗五十六派としている。
奈良系(南都六宗系)の華厳宗、法相宗、律宗、平安密教系の真言宗、天台宗、鎌倉の日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、禅宗の曹洞宗、臨済宗、黄檗宗が十三宗ということになる。
日本における仏教の歴史をざっと説明するとこんな感じだ。
まだ言葉足らずの気がするけど、前置きとしてはずいぶん長くなったから、そろそろ本編に入りたいと思う。

どうやら裏口というか通用門の方から入ってしまったようだ。裏をぐるりと回って、ようやく本堂の前に出てきた。
最初、新興宗教の教団に迷い込んでしまったのかと思った。本堂のデザインがなかなかエキセントリックだ。
でもこれどこかで見たことがある建物に似ている。そうか、築地本願寺だと思い出した。
築地の方がもっとインド的なものものしい感じで、こちらは近代的で、よく言えばハイカラだ。築地本願寺の屋根は夜になるとオレンジとブルーに光るようだけど、名古屋の西別院にはそんな仕掛けはないのだろうか。
1972年に建てられたものだというから、築地本願寺を意識したのは間違いなさそうだ。

左に見えているのは、親鸞(しんらん)の像らしい。
浄土宗の開祖は法然(ほうねん)だ。親鸞はその弟子に当たる。
南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀仏に帰依しますという意味で、とにかくすべてを阿弥陀如来に委ねてしまおうというものだ。
それを更に進めたのが親鸞の浄土真宗で、悪人さえも南無阿弥陀仏を唱えれば救われると教えた。
他力本願といっても、他人任せで何もしなくても救われるというわけではなくて、他力というのは阿弥陀如来の力、もしくは意志という意味で、言葉を変えるなら、自分の努力では救われることはないということらしい。だから、阿弥陀の慈悲を信じて信仰しなさいということになる。
実際はもっと深い意味の教えなのだろうけど、民衆としては自分に都合よく解釈して、何もしなくていいのだと浄土真宗を信仰するようになったという部分はあっただろう。他の宗派が、その生ぬるさに反感を抱いたというのも理解できる。
今日紹介している西別院は浄土真宗本願寺派の名古屋別院で、近いうちに紹介するはずの東別院は真宗大谷派の名古屋別院ということになる。ちょっとややこしくて、私も最初は混乱した。
本願寺というのは、親鸞の廟堂に、亀山天皇が与えた名前(久遠実成阿弥陀本願寺)から来ていて、浄土真宗の一派だ。これが内部で対立を起こし、のちに分裂した。
京都に西本願寺と東本願寺がある。
もともとは西本願寺がある場所に本願寺があり、江戸時代に分裂して、そのすぐ東にもう一つの本願寺を建てた。こが東本願寺で、区別をはっきりさせるために元の本願寺を西本願寺と称するようになった。
西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山で、正式名称は本願寺となる。
一方の東本願寺は、真宗大谷派の本山で、真宗本廟が正式名称だ。
真宗というのは浄土真宗のことで、よく略されるのも混乱の元となっている。
今は平和的に共存しているそうだけど、室町時代から内部の対立があって、江戸時代に分かれたあとは、別の一派ということになった。
で、名古屋の西別院は、西本願寺の側に属するということになる。
これですっきりしたかといえばそうでもなく、名古屋西別院には独自の歴史がある。
元を辿ると、伊勢国長島にあった願証寺に辿り着く。
これがいったん断絶したあと、本願寺の顕如が織田信行に願い出て、尾張の首府だった清洲に再興した。
その後、名古屋城築城に伴う清洲越しで現在地に移転してきた。
江戸時代の1715年に、真宗高田派に宗旨替えするという混乱があり、そのゴタゴタでいったんは江戸幕府に没収されてしまう。
住職の琢誓は追放となり、寺は返却されて、本願寺の末寺に組み入れられることになり、空襲で焼けたりしつつも、今に至っている。

まったくのよそ者としては堂の中まで入っていきづらい雰囲気だったので、外から手を合わせて写真を撮らせてもらうだけにした。
私は神社がホームで、お寺にいくとアウェイとなってしまって、ちょっと小さくなりがちなのだ。

すべてが近代的な様相の境内にあって、焼け残った鐘楼だけが激しく異彩を放っている。これはなかなかいいものだ。何しろ足が多い。こんなたこ足の鐘楼は見たことがない。
江戸時代初期の1658年に建てられたもので、重文指定になっていないのが不思議なほどだ。
釣り鐘が昭和34年に鋳造されたもので新しいからだろうか。
誰でも除夜の鐘をつけるそうで、108回以上鳴らせるというから大晦日は狙い目かもしれない。

1817年に葛飾北斎がこの寺を訪れ、120畳敷の紙に達磨の画を描いたという説明板が立っている。
たいそうな評判になったそうだけど、それも空襲で焼けてしまったらしい。もったいないことをした。
名古屋の大須地区は特に空襲が激しかったところで、ほとんど何も残っていない。今でも復興した寺がたくさん集まっている場所だから、もし焼けずに残っていたら、全国有数の寺社町として知られる存在になっていたことだろう。
隣には、名古屋大学医学部の前身となった医学講習場跡の説明板が立っている。

どうやら東のこちらが正門だったようだ。
そういえば、本願寺はお堂が東向きに建っているという話を聞いた気がする。すべてがそうではないけど、西方浄土に向かって拝むために、本堂は東向きに建てられていることが多いそうだ。

西別院を出てすぐの通りは、門前町通という名前で、仏壇店がずらりと並んでいる。
世の中にこんなにも仏壇店が必要なのかと思うほど、どこまでも仏壇店が軒を連ねている。
大須というと電気街、オタク街というイメージが定着しているけど、もとは寺社町であり、仏壇と家具で有名な町だった。今でもその名残は色濃い。

ゴールデンウィーク中の午後とは思えない風景だ。平日の夜明けみたいに見える。
連休中は店を休んでいるところも多かったのか、連休中くらい仏壇のことは忘れようとみんなは思ったのか、人も車もほとんど通っていなかった。

西別院の南400メートルほどのところに東別院がある。大須観音駅に戻るよりも歩いた方が早そうだったので、ぷらぷら歩いていくことにした。
その途中、たくさんの寺があったけど、いちいちどういう寺か見て回らなかった。多くは清洲越しのときに移ってきたものだろうと思う。この天寧寺もその一つだ。
本堂は右手にあって、写真に写っているのは三宝殿という建物だ。織田信長の守本尊だったという行基作の三宝荒神が本尊になっているらしい。

手前が功徳院で、奥が金仙寺だと思う。
特に意味はないけど、なんとなく撮ってみた。

公園の中にも小さな社があって、この地区は本当に神社仏閣と仏壇店の密度が濃いなと思う。
モノトーンに近い写真ばかりだったから、最後くらいは緑の写真を入れてみたけど、今回も全体の印象はやっぱり神社仏閣カラーだった。
私としては、仏教の宗派の流れをおさらいできたからよかった。でも最初の長文で早々に力尽きた人もいただろうなぁ。
この話は、次回の東別院へとつながっていく。