月別:2009年05月

記事一覧
  • 即興サンデー料理は一応成功したけれど

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 今日のサンデー料理は、完全にアイディア不足で、何も思いつかないままの見切り発車となった。 まったくメニューが決まらず、使えそうな食材を目の前に並べて、とにかく作り始めてみることにした。ここまで行き当たりばったりの調理になったのは初めてかもしれない。 まずは野菜を切りつつ、漠然と組み合わせを考える。メインになりそうなのは、白身魚と豆腐くらいで、あとは野菜が何種類...

    2009/05/31

    料理(Cooking)

  • 熱田神宮の成り立ちは思うほど単純じゃない <第一回>

     名古屋一の神社といえば熱田神宮(webサイト/地図)ということでおおむね異論はないと思う。尾張国ではどういうわけか三宮の地位に甘んじたものの、歴史からしても、格式からしても、規模からしても、愛知県第一のお宮は、やはり熱田さんということにしておきたい。 以前に一度、熱田神宮のことをこのブログで書いたことがある。あれは2006年のことだから、もうだいぶ前のことだ。あのときは表面をざっとなぞったような内容で、...

    2009/05/31

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 5月終わりの森は夏に向けての準備中 <海上の森-3>

    PENTAX K10D+Tamron SP 90mm f2.8 今日は5月の海上の森3回目で最終回となります。 今回歩いたのは、海上の森センター近くの入口から、赤池まで行って、そこで引き返して湿地までというコースだった。本当は海上の里まで行こうと思ったのだけど、道を間違えて行けなかった。もう10回以上行っているし、近頃は分かれ道に案内標識も立っているものの、海上の森は地図も持たずにフラッと行って隅々まで歩けるようなところじゃない。...

    2009/05/30

    森/山(Forest/Mountain)

  • 森に咲く花を見て季節を後追いしたり先取りしたり <海上の森-2>

    PENTAX K10D+Tamron SP 90mm f2.8 今日は、海上の森写真の続きをお届けします。 一枚目は、この時期の海上の森でよく見る花だ。何度も見てるのに名前を知らない。ウツギなのかなと思いつつ確信が持てない。違うような気もする。 知っている花より知らない花の方がまだまだ多い。 ドクダミが少し咲き始めていた。シーズンは6月からだろうけど、気の早いやつもいる。 この花を見ると、どうしても爽健美茶のCMソングが頭の中で繰...

    2009/05/28

    森/山(Forest/Mountain)

  • 5月終わりの森は夏の始まり <海上の森-1>

    PENTAX K10D+Tamron SP 90mm f2.8 森に入ると夏の匂いがした。 野草は春のラッシュが終わり、ちょっと一休みといったところだ。 夏の始まりは虫たちが活動を始める季節でもある。 高いところでオオルリの澄んだ声が響き渡り、吹き来る風の音が聞こえる。 クモも準備完了。 あとは獲物が引っかかるのを待つだけ。 食虫植物に捕まった小さな虫たち。 モウセンゴケは、葉っぱの先にたくさんのヒゲが生えていて、そこから虫を...

    2009/05/28

    森/山(Forest/Mountain)

  • 高座結御子神社と熱田神宮のつながりがもう一つよく分からない

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 熱田で「たかくらさん」といえば、高倉健さんのことではなく、高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)のことをいう。名古屋で「めいだい」といえば、明治大学ではなく名古屋大学のことを指すのと同じだ。 熱田神宮の北800メートルほどの場所に、高座結御子神社はある。三つある熱田神宮境外摂社の一つだ。あとの二つは、緑区の火上姉子神社(ひかみあねこじんじゃ)と、熱田区白鳥の青衾神社(...

    2009/05/27

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 子供たちの遊び場と化している式内社の和爾良神社

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 王子バラ園の300メートルほど東の上条町に、和爾良神社(かにらじんじゃ)がある。 名東区の神社巡りで和示良神社を紹介したとき、春日井の和爾良神社についても少し触れた。 ここを訪れるのは二度目になる。2005年に近くの大竜院のしだれ桜を探している途中で迷い込んだことがあった。神社の前へ行ったら、そうだそうだ、ここだったと思い出した。 この神社は、朝宮町にある朝宮神社とセットで紹介...

    2009/05/26

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • アドリア海近辺に軟着陸サンデー

     先週は中華寄りだったから、今週はイタリアン寄りでいってみた。 のだけど、結果的にイタリア着地に失敗して、どこの国ともつかない料理が出来上がった。ここはどこ? ただ、イタリアではないにしても、和食でも中華でもなく、いわゆる洋食でもなく、一般の家庭料理とも違から、ヨーロッパ近辺のどこかには入れて欲しい。無理矢理どこかのジャンルに組み入れようとしても、どこからも断られてしまうだろうか。 マケドニアとか...

    2009/05/25

    料理(Cooking)

  • ヤマトタケルとミヤズヒメが隣り合わせに眠っている方がロマンチックだけど

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 古墳を写真に収めるのは難しい。地上レベルでは超広角レンズをもってしても一部しか写すことができず、古墳と説明しなければ何を撮ったのかさえ分からないくらいだ。 現代の古墳はたいていがこんもり茂った雑木林のようになってしまっている。特に大きな前方後円墳などはそうだ。個人の趣味で空撮などできない。古墳を上から撮るためだけにヘリコプターをチャーターするなんてのは、重度の古墳マニア...

    2009/05/24

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 意味はなくても惹かれるものを惹かれるままに ---王子バラ園後編

    PENTAX K10D+Tamron SP 90mm f2.8 王子バラ園後編は、バラ以外の写真を中心にお届けします。 バラ園の奥に、ワイルドフラワー畑みたいなのも作ってあって、ここも楽しみの一つとなっている。今年は特によく咲いているような印象を受けた。 名古屋港のブルーボネットを思い出す。あそのこワイルドフラワー畑は感動した。 隣のポピー畑。花の数は少なかったものの、ちょうど光と影のコントラストができていて、いい感じだった。...

    2009/05/23

    花/植物(Flower/plant)

  • バラ写真過渡期 ---王子バラ園<前編>

    PENTAX K10D+Tamron SP 90mm f2.8 ここ最近、神社やら城やら歴史やらと、渋いネタがしばらく続いた。写真も華やかさに欠けていたから、今日は久々に潤いと彩りのあるバラ写真をお届けしようと思う。 気づけば5月も半ばを過ぎて、今年もまた春バラの季節がやって来た。少し出遅れた感もある。今年はどの花も早い。カキツバタも時機を逸してしまたようだ。 名古屋近辺のバラ名所といえば、なんといっても世界一を自任する花フェス...

    2009/05/22

    花/植物(Flower/plant)

  • 名古屋人もあまり知らない名古屋総鎮守の若宮八幡社

     あなたがもし、ふいに神社を好きになって、いろんな神社をめぐってみたいと思ったとき、どこへ行けばいいのかを決めるためのとっかかりとなるものがいくつかある。 たとえば、その地区の一宮、二宮、三宮だったり、平安時代の「延喜式神名帳」(えんぎしき じんみょうちょう/しんめいちょう)に載っている式内社だったり、社格廃止後の別表神社(べっぴょうじんじゃ)といったあたりがまずは手がかりとなるだろう。そこへとりあ...

    2009/05/21

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 石垣と堀しか残ってないけど堀がいい駿府城跡<静岡シリーズ最終回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 静岡駅の表玄関、歩いて10分ほどのところに駿府城(すんぷじょう)の跡地がある。 天守閣などの建物は何も残っていないものの、堀と石垣がかなり残り、往時の面影をとどめている。周囲は官公庁や学校が取り囲む一等地の場所に、これだけしっかり城跡を残した静岡の判断を称えたい。明治、大正、昭和と時代は移り変わっても、静岡は大御所様が作った駿府の町という誇りがあったのだろう。城郭は何も残...

    2009/05/20

    城(Castle)

  • ありがとう大津、また会う日まで <大津巡り24回・最終回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 大津巡りシリーズは、3回の予定だった番外編を2回にして、今回が最終回ということなった。必要がなさそうな写真を削ったら1回分に収まったので、もうこれで終わりにする。本編が終わったら、気分的にもだいぶ遠い出来事になってしまった。 今日は唐橋前駅の南西エリアから再開する。このときは御霊神社へ行ったのだった。 右に写っている初田酒店は昔からの店だろうか。家はけっこう古そうだった。 ...

    2009/05/18

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 着地点は予想と少し違った中華寄りサンデー

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 今日は中華寄りサンデー。中華料理というほど中華ではなく、かとって和食でも洋食でもなく、中華に近い料理に仕上がった。家庭料理なんだから、境界線をはっきりさせる必要もない。 最初は卵そぼろを食べたいというところから始まったのだけど、いつの間にか卵そぼろは消えていた。最終的には、シーチキン入りのスクランブルエッグとして、わずかに痕跡を残すにとどまった。 魚も、マグロ...

    2009/05/17

    料理(Cooking)

  • 旅の思い出を振り返りつつ番外編その1 <大津巡り23回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 大津巡りシリーズは本編が終わって、あとは番外編だけとなった。本編に入りきらず、捨てるには惜しい写真を集めてみたら、3回分になった。せっかくだから、全部載せてしまうことにする。旅の思い出を振り返りつつ。 石山坂本線は、大津散策と最高の相性だった。見所が沿線沿いにあり、電車の本数も多く、一日乗り放題500円と安い。主だったところはだいたい回ったつもりだけど、取りこぼしもある。も...

    2009/05/17

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 三尾神社はただのウサギの神社じゃない

     ウサギの神社としてウサギ好きの間ではちょっと知られた神社がある。滋賀県大津市の三井寺の入り口に建つ三尾神社(みおじんじゃ)だ。 この神社についての扱いをどうするか迷って、決めかねたまま最後になってしまった。簡単に説明しようとするとあまり書くことがないのだけど、滋賀(高島市)のもう一つの三尾神社や水尾神社、三尾氏と継体天皇、神代文字で書かれた謎の古史古伝「ホツマツタヘ(秀真伝)」などを絡めて書こう...

    2009/05/17

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 作り道の坂本町並み断片風景 <大津巡り21回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 坂本町並み散策3回目は、「作り道」周辺の風景紹介となる。 日吉大社へ行くとき、坂本の町を見てみたいと思って、坂本駅ではなく一つ手前の松ノ馬場駅で降りて歩いた。写真はそのときのものだ。 時間と歩く方向が前後するけど、とりあえず先にこちらの写真を出しておく。 駅を出て、北西方向へと進むと、早くも古い家並みが登場して出迎えてくれた。これはよさそうだとすぐに分かった。 古いといっ...

    2009/05/15

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 坂本歩きは寺社巡りから古い町並み散策へ <大津巡り20回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 滋賀院門跡(しがいんもんぜき)あたりをうろついていたときは、もう5時半くらいになっていただろうか。4月はじめのことで、そろそろ日没時間も近づき、石畳は西日に染まっていた。 穴太積みの石垣と白壁に囲まれているあたりは、もう滋賀院門跡の敷地内だろう。このあたりまで来ると歩いている観光客の姿も少なく、寺町特有の静かな雰囲気が漂っている。 とりあえず、門の前まで行ってみることにし...

    2009/05/15

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 坂本の町をぷらぷら歩いて雰囲気を味わいながら撮る<大津巡り19回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 坂本駅から日吉大社へと続く広い参道と、一歩中に入った細い路地は、昔の光景を残す味わい深い町並となっている。 穴太積みと呼ばれる石垣が連なり、たくさんの寺社が点在している。これはぜひ歩いてみなければなるまいと思わせる。 比叡山延暦寺や日吉大社の門前町として発展し、坂本城の城下町としての顔も併せ持っている。琵琶湖畔でもあり、早くから人が住み始めた土地で、渡来人の痕跡も残る。...

    2009/05/13

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 義仲と芭蕉が眠る義仲寺は静かに訪れる人を待つ <大津巡り18回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 平家打倒に立ち上がった木曾義仲(きそよしなか)は、頼朝よりも早く京都上洛を果たし、平家をあと一歩のところまで追い詰めることに成功する。 しかし、ここから先、義仲の敵は平家ではなく、頼朝となっていく。 義経率いる頼朝軍が、義仲を討つべく京都に迫る。雌雄を決する宇治川の戦いで、義仲軍は惨敗。京都脱出を計るも、六条河原の戦いでも敗れてしまう。 生き残ったのは、腹心の配下である...

    2009/05/13

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • これで日吉大社に関して書き残したことはないはず<大津巡り17回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 日吉大社第3回は、東本宮の楼門前から始まる。前回までで私が書けることについてはだいたい書いたと思う。最終回の今日は補足的な内容になる。 まずは楼門から中に入っていくことにしよう。 西本宮の楼門が1586年に建てられたとほぼ分かっているのに対して、東本宮は1573年から1593年の間と、はっきりしていないらしい。 東本宮は、西本宮に遅れること9年、1595年に建造されたという。西本宮は秀吉...

    2009/05/12

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 母の日にちなんでおふくろサンデー

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 今日は母の日ということで、おふくろサンデーと銘打って作ってみた。何がおふくろさんかというと、おふくろの味っぽいおかずという意味でのおふくろさんだ。なるべくそれっぽい感じを目指したのだけど、そう見えるだろうか。 おふくろの味といっても、一昔前とは違って今は多様化していてこれだというものがあまりない。基本的には煮物だったり、魚の塩焼きなんかだろうか。 子供の頃母親...

    2009/05/10

    料理(Cooking)

  • 歴史とはつながった時間と人の思い <大津巡り16回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 今日は日吉大社の第2回になるわけだけど、成り立ちについてもう一度整理しておこうと思う。 天智天皇がこの地に大神神社から大己貴神を勧請して、西本宮を建てたとすれば、それは686年ということになる。 元々日枝山の神だった大山咋神よりも大己貴神の方が格上の神様ということで、西本宮を大宮と称したという話もあるから、天智天皇創建説というのもあながち作り話とは言えないような気もする。 ...

    2009/05/10

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 日吉大社の成り立ちを把握するのに時間がかかった <大津巡り15回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 大津シリーズはまだしばらく続く予定だけど、最後の大物である日吉大社(ひよしたいしゃ)を終わらせれば、先は見えてきそうだ。行く前から、三井寺、石山寺、日吉大社がメインポイントだと思っていた。 今回も全3回になると思う。たくさんある社殿を片っ端から撮っていったら写真が多くなった。 だいたい、歩いた順番通りに紹介していくことになりそうだ。順路としても、西から東に回るのが自然な流...

    2009/05/09

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 家康は日本を守護するために神となった <久能山東照宮3回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 今日は久能山東照宮の3回目で最終回となる。思ったよりも見所があって写真も多くなった。最後は家康が眠る神廟(しんびょう)へ向かうことにしよう。 写真は唐門から楼門を見たところだ。唐灯籠の頭もちらっと見えている。 本殿の屋根がちらりと顔をのぞかせている。神社の本殿は拝殿の背後にあって、こんなふうに隠れてしまっているところが多いのだけど、久能山東照宮は左右に回り込めるから、側面...

    2009/05/08

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 家康はこんなに派手好みじゃなかったはずだけど<久能山東照宮2回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 久能山東照宮の2回目は、楼門をくぐったところから再開となる。 かつての東照宮は、神仏習合の寺社で、やや特殊な性格を持っていた。徳川家康を神として祀る神社でもあり、家康を埋葬する寺院でもあった。当時は神社と寺院が一体となっていることに何の違和感もなかったのだろう。今のように何が何でも分離していなければならないという発想は日本的ではないとも言える。明治政府の神仏分離令によって...

    2009/05/07

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 久能山の長い石段は家康の人生訓のごとし <久能山東照宮1回>

     今日から3回シリーズで久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)について紹介します。 今回の静岡行きの一番の目的は、久能山東照宮を見ることだった。日本平で富士山を眺めたり、駿府城跡を撮ったりしたのはついでのようなものだった。 静岡は坂の少ない街といわれる。急坂がまったくないわけはないのだろうけど、静岡市の中心は確かに平坦な土地という印象を受けた。地図を見ても、駿河湾の海岸沿いや安倍川下流域は平野が...

    2009/05/06

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 名城公園の藤に間に合わずノラを撮る <名古屋メトロ編-1>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 ゴールデンウィークのお出かけは、とても安上がりなドニチエコきっぷでの名古屋市内巡りだった。600円で地下鉄と市バスが乗り放題なので、時間と体力の許す限りあちこちを回ってきた。最後は体力が私を許さなくなって終わった。くたびれた、もう歩きたくない、どこかに座らせろとものすごい苦情が出て、気持ちが折れた。7時間の間に座っていた時間は30分くらいだったろうか。そりゃあ文句も出ようとい...

    2009/05/05

    名古屋(Nagoya)

  • 子供が喜ぶおかずを大人用にアレンジしたサンデー

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 ゴールデンウィーク中でも、何気なく普通にサンデー料理を作って食べている。今年は新型インフルエンザもあるし、高速道路は渋滞してるし、家でおとなしくしてるに限る。 なんていうのは負け惜しみで、やっぱり休みはみんなと同じように出かけて、なんでこんな混んでるんだよとぼやき、疲れ切って帰宅するというのが正しい日本人の姿のようにも思う。考えることはみんな一緒だよねなどと言...

    2009/05/03

    料理(Cooking)

  • ホーム
  • 次 ›

即興サンデー料理は一応成功したけれど

料理(Cooking)
即興サンデー

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8



 今日のサンデー料理は、完全にアイディア不足で、何も思いつかないままの見切り発車となった。 まったくメニューが決まらず、使えそうな食材を目の前に並べて、とにかく作り始めてみることにした。ここまで行き当たりばったりの調理になったのは初めてかもしれない。
 まずは野菜を切りつつ、漠然と組み合わせを考える。メインになりそうなのは、白身魚と豆腐くらいで、あとは野菜が何種類かという状況だった。
 それで思ったのは、料理ってのは要するに、材料を切り刻んで、焼くなり煮るなりして、味を付けたものだという結論に達した。居直ったとも言える。最終的になんとなく完成したのが上の3品だった。
 全部適当に作ったから、料理の名前はない。

 左手前は、白身魚の団子を作ろうとして、なんだかへんてこりんなものになった。でもこれが思いがけず美味しくなるんだから料理というのもよく分からない。
 白身魚とタマネギを刻んで、すり下ろした山芋を混ぜ、カタクリ粉と小麦粉で固さを調整する。
 下味として、塩、コショウ、しょう油、ダシの素を入れる。
 かなりドロドロの状態なので、いったん、スプーンですくって熱湯で湯がいてみた。ある程度固まったところで、フライパンに移してオリーブオイルで炒めた。
 大葉を刻んでまぶし、最後に水溶きカタクリ粉を回し入れて、表面に膜を作って完成とした。
 ソースは、白しょう油、マヨネーズ、酒、みりん、マスタードを混ぜて、ひと煮立ちさせて作った。
 ふわとろ食感と、マヨネーズベースのからし味ソースの相性もよく、美味しいおかずになった。偶然の産物だけど、これは定番の一品に加えたい。もう少し形よく仕上がるともっとよかったけど。
 
 右は、豆腐と大根の卵とじだ。
 作り方も味もシンプルだけど、もう一品増やしたいときに便利な料理になる。
 タマネギの刻みをオリーブオイルで炒め、湯通しした薄切り大根と、サイコロ切りした絹ごし豆腐を加えて炒める。
 酒、みりん、白しょう油、白だし、塩、コショウでやや濃いめの味付けをして最後に溶き卵を回し入れて半熟にする。長ネギの刻みも入れる。

 奥は、洋風の野菜煮込みのようなものだ。
 残った野菜を全部切り刻んで、いったん湯がいたあと、フライパンで炒めていく。
 使ったのは、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、鶏肉、ほうれん草、白菜、ナス、ブロッコリーだった。
 塩、コショウ、酢、砂糖、白しょう油、コンソメの素、白ワイン、煮汁で味付けをした。
 見た目はあまり上品とは言えないけど、個人的な好みとしてかなりトロトロまで煮込んだ状態になっている。全部の野菜が煮崩れするくらい柔らかくなっている方が好きなので。

 今回の料理は、主婦的な方法論と言えばそうかもしれない。最初にメニューありきではなく、冷蔵庫の中に入っているものを使っておかずを作るというのは、毎日料理をしてる人なら当たり前のやり方だろう。
 料理の何が大変かといえば、メニューを考えることが一番大変に違いなくて、旦那さんや子供が毎日食べたいものを言ってくれれば、お母さんの手間は半減すると言っていいくらいだ。私など、週に一度でも行き詰まりがちになっている。
 それでも、こういう作り方ができるようになったというのは、私としては成長の証と言っていいのではないか。即興で作れれば、いつでも料理できるということになる。たまにはこんな風にしてサンデー料理を作ってみるのも悪くない。
 とはいえ、来週はもっとテーマ性のあるものを考えよう。趣味の料理なんだし、せっかく続けるならもっと上手くなりたいから。
 しばらく前から、越えられない壁を感じている。

熱田神宮の成り立ちは思うほど単純じゃない <第一回>

神社仏閣(Shrines and temples)
熱田神宮西鳥居



 名古屋一の神社といえば熱田神宮(webサイト/地図)ということでおおむね異論はないと思う。尾張国ではどういうわけか三宮の地位に甘んじたものの、歴史からしても、格式からしても、規模からしても、愛知県第一のお宮は、やはり熱田さんということにしておきたい。
 以前に一度、熱田神宮のことをこのブログで書いたことがある。あれは2006年のことだから、もうだいぶ前のことだ。あのときは表面をざっとなぞったような内容で、もう一度ちゃんと回っておかないといけないとずっと思っていた。今回は現時点での集大成として、3回に分けて熱田神宮全体について紹介したいと思う。

 いつものように19号線沿いの西の鳥居から入った。本来は南の鳥居から入るのが正式な参拝手順なのだろうけど、あまりこだわらなければ西から入ると本宮までの距離が近くなる。



熱田神宮菅原社

 西の鳥居をくぐってすぐ左手に、菅原社(すがはらしゃ)がある。小さい社だけど、学問の神様・菅原道真(すがわらのみちざね)を祀ったところということで、合格祈願などの絵馬がかかっている。
 熱田神宮と菅原道真は直接の関係はないと思う。でも、内外に43の摂末社を持つ大所帯だから、有名どころの神様はたいていいる。神様の百貨店のようなもので、ここに来ればどんなご利益も揃っている。



熱田神宮参道

 熱田神宮の空気は相変わらず軽い。この不思議な軽やかさはなんだろうと、いつも思う。歴史のある大きな神社で、これほど重々しさのないところは他にあまりないんじゃないか。
 逆に言えば、高圧的でない分、親しみが持てるというか、気軽に参拝することができる。本当に偉い人間が無闇に威張らないように、熱田神宮は威張ってないのがいい。



境内の名古屋コーチン

 熱田神宮に特定の神の使いというのはいない。せっかくヤマトタケルゆかりの地で、白鳥伝説があるんだから、池に白鳥を飼えばいいのにと思うけどどうだろう。
 放し飼いのニワトリは、一応神の使いということになるだろうか。伊勢の神宮にもいるから、熱田神宮でも飼っておこうということかもしれない。
 これはきっと、名古屋コーチンだ。ご当地ものとして、なかなか気が利いている。



熱田神宮大楠

 境内にはたくさんの大きな木があって、これは御神木になっている大楠だ。樹齢は1000年を超えるという。
 空海が熱田神宮を訪れたときに植えたという伝説が残っている。



熱田神宮西八百萬神社

 西八百萬神社だったか。祭神は西国坐八百万神という馴染みのない神だ。
 熱田神宮も江戸時代までは神仏習合していて境内には神宮寺があった。本尊が薬師如来ということで大薬師などとも呼ばれた。
 八百万神というのは今よりももっと多くあった境内社の神様を集めたものだろうか。
 東八百萬神社は撮り逃したようだ。



熱田神宮拝殿前

 拝殿前まで行ったところ、普段とは様子が違っている。拝殿が完全にシートで覆われてて、なんだこりゃと思う。かなり大がかりな工事中だ。
 なんでも創建1900年に向けて本宮その他の本格的な修繕中とのことで、2007年から2009年にかけて行われているとのことだ。知らなかった。確か、去年、夜ちらっと寄ったときは工事中ではなかったと思うのだけど、あれはもうおととしのことになるのだろうか。
 総工事費の35億円は高いのか安いのか。



熱田神宮特別参拝

 拝殿から拝めないということで、普段は入れない本宮前まで特別に入ることができた。これはかえって運がよかった。
 撮影禁止で残念ながら写真はないのだけど、さすがに本宮手前まで踏み込むと、緊張感が満ちている。明らかに境内とは空気感が違って、張り詰めていた。いいものを見せてもらった。

 ここで熱田神宮についてざっとおさらいしてみたい。
 祭神は熱田大神(あつたのおおかみ)で、この見解については意見が分かれている。
 一般に熱田神宮の御神体は、日本武尊(ヤマトタケル)が置いていって命を落とした草薙剣(くさなぎのつるぎ)そのものとされている。けど、熱田神宮側は草薙剣を御神体とした天照大神(アマテラスオオミカミ)としている。
 草薙剣は天皇の三種の神器の一つであり、天皇家の氏神である伊勢の神宮と熱田神宮は同格なのだから、祭神もアマテラスであるべきだというのが熱田神宮側の見解だ。
 あるいは、草薙剣はヤマトタケルのものだから、ヤマトタケルこそが祭神だという説もある。
 熱田神宮については、いろいろややこしいところがあるというか、歴史的に屈折している部分があって、謎も多く、詳しく説明しようとすると長くなる。そもそも草薙剣とはどういう剣で、それが誰のもので、どういう経緯で三種の神器の一つとなったのかというところから考える必要がある。
 神話の物語では、草薙剣は、ヤマタノオロチの尾から出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)だったということになっている。
 神生みのイザナギとイザナミの子供がアマテラスであり、スサノオ(須佐之男命)であり、正確に言うと、イザナミを追いかけて黄泉の国(よみのくに/根の国)から逃げ帰ったイザナギが、黄泉のケガレを洗い流したときに左目から生まれたのがアマテラスで、右目から生まれたのがツクヨミで、ツクヨミは夜を支配する神となったと『古事記』にはある。更に鼻からスサノオが生まれる。
 アマテラスはスサノオに、高天原(たかあまはら/天上界)を治めるように命じたのだけど、スサノオは母親恋しさにふてくされて大暴れしてアマテラスを困らせてしまう。高天原もちっとも治めようとしない。
 アマテラスは悲しんで天岩戸に隠れてしまい、世界は暗くなり、スサノオは高天原を追放されてしまった。
  葦原中国(あしはらのなかつくに/地上界)に追放されたスサノオは、このあと改心する。出雲の国に辿り着いたとき、ヤマタノオロチの生け贄になろうとしていたクシナダヒメを助けるべくヤマタノオロチと戦い、これを打ち破り、そのとき尾から出てきたのがのちに草薙剣となる天叢雲剣だった。
 ヤマタノオロチというのはもちろん象徴で、出雲の国にいた豪族なり、のちに天皇家となったアマテラス側から見て敵ということになると思う。だとすれば、ちょっとおかしくないだろうか。敵を倒してぶんどった剣が、何故のちに天皇の継承に必要な三種の神器になったのか。それがどうして尾張の熱田神宮の御神体となっているのか。
 このへんは非常に複雑な事情や経緯があるから、次回あらためて書くことにしたい。
 ヤマタノオロチを退治したスサノオは、クシナダヒメと結婚し、戦利品の天叢雲剣をアマテラスに献上した。
 それからしばらくはアマテラスの元にあった天叢雲剣だけど、天孫降臨の際に、アマテラスの孫であるニニギ(瓊瓊杵尊)に渡されて、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)とともにアマテラスの御神体ということになった。
 その後も天皇家所有となっていた剣は、崇神天皇(紀元前148年~紀元前30年)の時代に、天皇家を離れて外で祀った方がいいということになり、紆余曲折があって、八咫鏡と一緒に伊勢の神宮に祀られることになった。どういうわけか、このとき八尺瓊勾玉は持ち出されず、のちのちまで天皇家所有となり、神社で祀られることもなかった。
 伊勢神宮の地が定まるまでに60年が費やされているのも不思議といえば不思議な話だ。
 垂仁天皇(紀元前69年~70年)の皇女ヤマトヒメ(倭姫命)がこれを受け持つこととなり、景行天皇の命を受けたヤマトタケルが東征へ行くときに借り受けて持っていくことになる。
 東征途中の駿河で、炎に包まれてピンチになったとき、天叢雲剣で草をなぎ払って助かったことから、草薙剣と呼ばれるようになった。
 故郷に帰る途中、尾張に寄って、婚約していたミヤズヒメと結婚をしたあと、伊吹山の怪物退治に素手で向かって命を落とし、残った草薙剣を祀るためにミヤズヒメが熱田に社を建てたのが113年のこととされている。
 とまあ、これが表向きの熱田神宮創建にまつわる物語だ。次回は、これを踏まえた上で、もう少し突っ込んで草薙剣や三種の神器について考えてみたい。
 こういう経緯があって、相殿には、アマテラス(天照大神)、スサノオ(素盞鳴尊)、ヤマトタケル(日本武尊)、ミヤズヒメ(宮簀媛命)、タケイナダネ(建稲種命)が祀られている。関係者総出演といったところだ。
 タケイナダネというのは、ミヤズヒメの兄で、ヤマトタケルが東征へ行くときに副将軍として参加し、駿河の海で命を落としている。
 そのとき、ヤマトタケルはああ、うつつかな、うつつかなとつぶやいたという話を春日井の内々神社(うつつじんじゃ)を紹介したときに書いた。
 夢かうつつか内々神社とヤマトタケルとタケイナダネの話

 熱田神宮本宮の社殿は、かつて尾張造というこの地方特有の建築様式で建てられていた。現在残っているものとしては、津島神社の社殿が尾張造だ。
 信長、秀吉も大事にした津島神社へ行ってスサノオと友達になっておこう
 実は、熱田神宮と天皇家との関係性もなかなかに複雑なものがあって、歴史的にもやや謎めいている。
 現在の熱田神宮は、伊勢の神宮に次ぐ日本第二の神宮ということになっている。それほど高い格式の神社という認識はあまり一般的ではないと思うのだけど、それも明治に入ってからそうなっただけだ。
 熱田神宮という名称になったのは、明治元年のことで、それまでは熱田神社だった。このとき、官幣大社に格が上がり、熱田神宮側も強気になった。三種の神器の一つを持っているのだから、伊勢の神宮と同格であるべきと主張したのだ。しかし、このときは却下されている。
 その後、明治22年に再び国に訴えて、それが聞き届けられることとなる。とはいえ、同格というと何かと不都合も出てくるので、伊勢の神宮に準じるということになり、それなら社殿も伊勢の神宮と同じく神明造に建て替えようということになった。
 社殿は明治26年に完成するも、第二次大戦の空襲で消失してしまった。現在の社殿は昭和30年に再建されたものだ。
 明治まで社殿が尾張造だったことを見ても、熱田神宮と天皇家の関係性は微妙なものが感じられる。草薙剣の物語が今に伝わるようなものだというなら、熱田神宮創建のときにもっと皇室色が強いものとなっていたのではないだろうか。どうも熱田神宮というのは、この地方の豪族・尾張氏との関係の方が強いように感じる。近くの古墳群などからしてもそうだ。
 もしかしたら、草薙剣とアマテラスの物語は、草薙剣を天皇家の三種の神器として取り込む過程で、あとから作られた話だったのかもしれない。
 少なくとも、最初は天皇継承に必要な神器という性格のものではなかった。アマテラスの御神体というなら、いくら天皇の息子とはいえ、実戦用に気軽に貸し出すとは思えないし、ヤマトタケルも、それを置いて出かけたりはしないだろう。ヤマトタケルが景行天皇の継承者として認められた形跡もない。
 これが天皇家の象徴的な存在となっていくのは、天智天皇、天武天皇あたりからなのだけど、そのあたりのことは、また次回に続くということにしたい。



熱田神宮授与所

 授与所も工事中で、拝殿前の広場に仮小屋を建てていた。



熱田神宮神楽殿

 これはたぶん、神楽殿のあるあたりだと思ったのだけど、工事中でフェンスもあって、近づくことができなかった。
 この奥に清水社というのがあって、そのそばに楊貴妃の墓があったという話が伝わっている。かなり突飛な話で信じがたくはあるのだけど、楊貴妃が日本に渡ってきていたという伝説は確かにあって、それなら熱田に墓があってもいいんじゃないかと思わないでもない。日本各地にそういう話がけっこうある。



熱田神宮西楽所

 西楽所。
 1686年に5代将軍綱吉が再建したもので、かつては向かいに東楽所も建っていたらしい。今は西楽所しか残っていない。
 5月1日の神楽神事はここで行われているそうだ。



熱田神宮信長塀

 信長塀。
 桶狭間の戦いの前に、熱田神宮で戦勝祈願をした信長は、もし戦に勝ったら屏を奉納すると約束して戦いに望み、勝利のあと実際に奉納したのがこの屏だと言われている。
 同じような屏が何ヶ所かにあるのだけど、全部がそうなのか、ここだけなのかはよく分からない。
 兵庫西宮神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つとされている。




 大幸田神社(おおさきだじんじゃ)。
 祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。五穀の神。
 別名、大福田。



熱田神宮内天神社

 内天神社(うちてんじん)。
 少彦名命(スクナビコナノミコト)を祀っている。
 オオクニヌシが国造りをするときに力を貸した小さな神様で、海の向こうから天乃羅摩船に乗って現れた。
 なんとなく、UFOに乗ってやってきた小さな宇宙人を思わせるエピソードだ。



熱田神宮六末社

 六末社。
 乙子社(おとごしゃ)は弟彦連。姉子神社(あねごじんじゃ)は宮簀媛命。今彦神社(いまひこじんじゃ)は建稲種命。水向神社(みかじんじゃ)は弟橘媛命。素盞鳴神社(すさのおじんじゃ)は素盞嗚尊。日長神社(ひながじんじゃ)は日長命。

 第一回目はこれくらいにしておこう。まだ先は長い。
 つづく。

 草薙剣をめぐる右往左往物語 <熱田神宮第二回>
 草薙剣があってもなくても熱田にはたくさんの神がいる <第三回>


 歴史その他について更に詳しく名古屋神社ガイド熱田神宮のページに書いたので、興味のある方はお読みいただければと思います。
 

【アクセス】
 ・地下鉄名城線「神宮西駅」下車。徒歩約5分。
 ・地下鉄名城線「伝馬町駅」下車。徒歩約6分。
 ・名鉄名古屋本線「神宮前駅」下車。徒歩約5分。
 ・JR東海道本線「熱田駅」下車。徒歩約12分。
 ・無料駐車場あり(400台分) 17時閉鎖(年末年始は使用不可)
 ・参拝時間 終日(無料)
 ・宝物館 300円 9時-16時半 最終水曜日定休(年末休館)
 
 熱田神宮webサイト
 

5月終わりの森は夏に向けての準備中 <海上の森-3>

森/山(Forest/Mountain)
5月海上の森3-1

PENTAX K10D+Tamron SP 90mm f2.8



 今日は5月の海上の森3回目で最終回となります。
 今回歩いたのは、海上の森センター近くの入口から、赤池まで行って、そこで引き返して湿地までというコースだった。本当は海上の里まで行こうと思ったのだけど、道を間違えて行けなかった。もう10回以上行っているし、近頃は分かれ道に案内標識も立っているものの、海上の森は地図も持たずにフラッと行って隅々まで歩けるようなところじゃない。散策路は整備されているとはいえ、歩ける部分は森全体の数パーセントだろう。ツワモノはキャンプまでして、道なき道を歩くらしいけど、私はそんな上級者ではない。
 歩くコースがだいたい決まっているから、出会える花も限られるというのがある。一度観察会とかに参加してみると、違うコースを知ることができて出会える花も増えるんじゃないかと思う。珍しい鳥が見られるポイントなんかもあるに違いない。

5月海上の森3-2

 面白いシーンに遭遇した。2匹のトカゲがにらみ合いをしてるところに、トンボが参戦してきた。互いに意識しているのかいないのか。
 このとき、左側のトカゲが何かを食べていた。口をさかんにむしゃむしゃさせていたから、もしかしたら他のやつはそれを狙っていたのかもしれない。
 トカゲもトンボも虫のようなものを食べているのだと思うけど、エサが共通だったりするのだろうか。

5月海上の森3-3

 銀色のトンボがいつもシオカラトンボとは限らなくて、写真のこいつはシオヤトンボだ。腹が平べったいところで区別ができる。
 しかし、シオヤトンボがいつも銀色かといえばそうではなく、メスは黄色と黒のツートンカラーをしている。
 で、それを見てシオヤトンボのメスかと思うと、ハラビロトンボの未成熟のオスだったりすることがあるので、油断はできない。
 またトンボの見分けに頭を悩ませる時期がやってきた。いつまでたっても難しい。

5月海上の森3-4

 世の中には蛾の図鑑というものもあるのだろうけど、それを買ってまで蛾の勉強をしたいとは思わない。蛾を見分けることにそれほど情熱を傾けられない。
 この白いやつはよく見かけるからポピュラーなやつだと思う。前に一度か二度調べたこともあったはずだ。もう覚えていない。
 蛾は夜の生き物かといえば必ずしもそうではなくて、昼間に活動しているやつもけっこういる。基本的に、蛾と蝶の違いは、夜飛ぶか昼飛ぶかの違いだけだったりする。
 羽を広げてとまれば蛾で、閉じて止まれば蝶という分け方も、絶対的なものではない。ギフチョウなどは羽を開いてとまる。

5月海上の森3-5

 クロヒカゲかなと思ったけど、羽の紋がよく見えてないから、自信は持てない。
 ジャノメチョウの仲間も、そろそろ出てくる頃だろう。

5月海上の森3-6

 赤池に珍しくカルガモがいた。ここでカモを見たのは初めてだ。渡りのカモも見たことがない。どこから迷い込んできたのだろう。
 5月の終わりだというのに、赤池はなんだか寂しい感じで、スイレンもまったく姿がない。浮き草も浮いていなくて、いつとは違った様相だった。

5月海上の森3-7

 カルガモも、ここに人がやって来るとは思ってなかったのだろう。私に気づくと、慌てて飛び去っていった。こちらもびっくりして、ピントを合わせきれなかった。

5月海上の森3-9

 海上の里へ向かっているつもりが、気づいたら物見山のコースに入り込んでしまっていた。どんどん見晴らしがよくなっていって、途中でこれは間違えたなと気づいて引き返した。
 昔ここに武田信玄の砦があったという伝説がある。物見山の名前もそこからつけられたのだとかどうとか。
 確かに、開けたところはそれなりに見晴らしはいいけど、こんな森の近くをどこかの軍が歩いているとも思えない。
 上洛の途中、具合が悪くなって海上の森あたりで息を引き取ったという話もあるけど、それはちょっとにわかには信じられない。それならもっとはっきりした形で伝承が残っているだろうから。

5月海上の森3-10

 森の中ではウグイスの声がよく聞こえていた。初夏でもまだまだ元気に鳴いている。
 ただ、声はすれども姿は見えずで、写真を撮る以前に見つけることもできなかった。たくさんの鳥たちがいるに違いないけど、葉が生い茂っている夏場に撮るのは難しい。300mm程度の望遠レンズで撮れるようなところにひょっこり出てきてくれたら、相当運がいい。たまにそういうこともあるのだけど。

5月海上の森3-11

 海上の森の中にも何本もの小川が流れている。ただ、あまり印象的な流れはない。魚がいるような川も少なくて、釣り人というのも見たことがない。町に近いということもあって、山奥の渓流といったようなものはない。

5月海上の森3-8

 森の外の溝に、たくさんタニシかカワニナみたいなやつがいた。久しぶりにこういう光景を見た。昔は田んぼによくいたけど、最近は少なくなってるんじゃないだろうか。
 これは自然発生だろうか。ホタルの幼虫がこういうのを食べるから、ホタルの幼虫を放流したとき、これらも一緒に蒔いたとも考えられる。
 これが自然発生なら、野生のゲンジボタルもけっこう生息してるんじゃないだろうか。

 5月の海上の森はこんな感じだった。少し時期的に中途半端だったかもしれない。6月の半ばを過ぎると、更に夏模様となって、いろいろな虫や花が出てきて賑やかになる。ただ、その頃になると、顔にかかるクモの巣攻撃が激しさを増すから、少し行くのがためらわれる。
 今年は春を休んでしまったから、できれば来月もう一度行きたいと思っている。

森に咲く花を見て季節を後追いしたり先取りしたり <海上の森-2>

森/山(Forest/Mountain)
5月海上の森2-1

PENTAX K10D+Tamron SP 90mm f2.8



 今日は、海上の森写真の続きをお届けします。
 一枚目は、この時期の海上の森でよく見る花だ。何度も見てるのに名前を知らない。ウツギなのかなと思いつつ確信が持てない。違うような気もする。
 知っている花より知らない花の方がまだまだ多い。

5月海上の森2-2

 ドクダミが少し咲き始めていた。シーズンは6月からだろうけど、気の早いやつもいる。
 この花を見ると、どうしても爽健美茶のCMソングが頭の中で繰り返し流れるから、ちょっと嫌だ。毒ダミとハブ茶にプーアールなる謎の物質がプラスされた不吉な飲み物を連想しがちな私なのであった。

5月海上の森2-3

 とても小さな花で、今まで目にしていたはずなのに見逃していた。
 一見するとヒメオドリコソウの小さいやつという感じで、近づいてよく見てみると明らかに違う花だ。
 トウバナかなと思うけど、どうだろう。自信はない。

5月海上の森2-4

 たぶん、テイカカズラでいいと思う。
 藤原定家(ふじわらのさだいえ)が死後も式子内親王を忘れられず、この花に生まれ変わって彼女の墓に絡みついたというエピソードから名づけられたという。
 でも、定家は鎌倉時代の人で、それ以前にこの花が日本になかったのかどうか。

5月海上の森2-5

 ミツバツツジの最後の花が少しだけ咲いていた。
 この花の蜜を吸いに春先にはギフチョウが訪れていたはずだ。念願叶ってモリコロパークで初めて撮ることができた。もちろん、今の季節はもういない。
 10月には今年こそアサギマダラを撮りたいと思っている。

5月海上の森2-6

 トウカイコモウセンゴケのつぼみを見つけた。
 これも食虫植物で、夏にはピンクの可憐な花を咲かせる。
 しかし、晴れた日の午前中しか花が開かないから、いまだに一度も咲いているところを見たことがない。一度くらいは見たいものだ。

5月海上の森2-7

 ツルの中につぼみを守るようにしている姿が面白かった。
 これもトウカイコモウセンゴケだと思うけど、コモウセンゴケかもしれない。コモウセンゴケなら白色の花を咲かせる。

5月海上の森2-8

 この日も意味のない写真を撮ろうといろいろ試みてはみたものの、成功したとは言えない。
 意味のある写真ばかりを求めすぎて、意味のない写真を撮ることが難しくなってしまった。
 意味も価値もない写真なら、それこそ意味はない。

5月海上の森2-9

 枯れ葉と黄葉と新芽と、三世代が一堂に会した。小さな赤い木の実と苔も参加した。

5月海上の森2-10

 これはなんだろう。茎に張りついた黄色の物質。
 虫の卵か何かだろうか。正体は分からない。
 色がけっこう不気味で、触ると悪いことが起きそうな予感がする。

5月海上の森2-11

 切り株の脇から若葉が一つ、ピョコリを顔を出した。
 世代交代という言葉が思い浮かんだ。

5月海上の森2-12

 森の外の里では田植えが始まっていた。そろそろ5月も終わりだから、どこでも田植えのシーズンを迎えていることだろう。
 水が張られた田んぼは絵になるし、撮りたくなる被写体でもある。
 田植えが終わると、アマサギのことを思い出す。また長久手の田んぼに撮りに行こう。

 海上の森写真はもう一回続きます。

5月終わりの森は夏の始まり <海上の森-1>

森/山(Forest/Mountain)
5月海上の森1-1

PENTAX K10D+Tamron SP 90mm f2.8



 森に入ると夏の匂いがした。
 野草は春のラッシュが終わり、ちょっと一休みといったところだ。
 夏の始まりは虫たちが活動を始める季節でもある。
 高いところでオオルリの澄んだ声が響き渡り、吹き来る風の音が聞こえる。

5月海上の森1-2

 クモも準備完了。
 あとは獲物が引っかかるのを待つだけ。

5月海上の森1-3

 食虫植物に捕まった小さな虫たち。
 モウセンゴケは、葉っぱの先にたくさんのヒゲが生えていて、そこから虫を誘う甘い分泌液を出す。その香りに誘われた虫が葉っぱに止まると、粘着質になっていて離れることができない。捕らえた虫の養分を吸い取って、自らの栄養にする。
 小さな自然の驚異だ。

5月海上の森1-4

 トンボの目はどこを見ているかよく分からないけど、くりくりしてかわいい。
 でも、毛むくじゃらの手足はかわいくない。というか、アップで撮るとちょっとグロテスクだ。

5月海上の森1-5

 平凡の美を見逃さないようにしよう。
 ありふれているからといって、それが無価値なわけじゃない。

5月海上の森1-6

 歩く先々の足元でガサゴソと音がして、何かが逃げていく。きっと、トカゲたちだ。
 町中では見ることが稀になったトカゲも、森へ行けばまだまだたくさんいて安心する。
 住みやすい場所は少なくなっただろうけど、森の中の方が安全だ。小学生に捕まってしっぽをちぎられることもない。

5月海上の森1-7

 虫食いという言葉を日常的にはほとんど使わなくなった。タンスにしまっておいた服が虫に食われたなんてことも久しくない。
 この葉っぱを見て、わぁ、すごい虫食いだなと、久々に虫食いという言葉を思い出した。

5月海上の森1-8

 自然の中にもこんな色がある。パステルピンクなんてのは人工のものしかないと思うとそうじゃない。
 人がすることは全部自然をお手本としていて、人間の力だけで生み出したと思っているものも、自然のどこかに存在しているんじゃないだろうか。

5月海上の森1-9

 水たまりに咲く花。
 地面に落ちたものより一日か二日、長生きできるかもしれない。

5月海上の森1-10

 淀んだ小さな池に、雲間から顔を出した太陽が鈍く反射する。
 森のすべてが清らかなわけじゃない。森にも淀みや吹きだまりがある。

5月海上の森1-11

 動きが止まったような静かな一角。
 風も吹かず、水面も動かない。

5月海上の森1-12

 今の時期の森を支配している色は、やはり緑だ。新緑から少し色が深くなりつつある。
 森散策に一番いいのは、なんといっても4月だろう。一年で一番賑やかな季節で、撮るものもたくさんある。5月から6月にかけては、意外と撮るものが少ない。むしろ7月に入ってからの方が虫がいて面白い。ただ歩くだけなら5月が一番だけど。
 春先に行こうと思いながら行けなかった海上の森に、5月の終わりにようやく行くことができた。案の定、大遅刻だったけど、それなりに撮るものはあった。
 写真はまだ残っているから、明日以降のどこかで紹介していこうと思っている。

高座結御子神社と熱田神宮のつながりがもう一つよく分からない

神社仏閣(Shrines and temples)
高座神社-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 熱田で「たかくらさん」といえば、高倉健さんのことではなく、高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)のことをいう。名古屋で「めいだい」といえば、明治大学ではなく名古屋大学のことを指すのと同じだ。
 熱田神宮の北800メートルほどの場所に、高座結御子神社はある。三つある熱田神宮境外摂社の一つだ。あとの二つは、緑区の火上姉子神社(ひかみあねこじんじゃ)と、熱田区白鳥の青衾神社(あおぶすまじんじゃ)で、まだどちらも行ってないから近いうちに行かなければいけないと思っている。
 摂社というのは、本家の神社と関係の深い神様を祀った神社で、境内にあるものを境内摂社、外にあるものを境外摂社という。末社というのは、祭神に直接的な関係はないものの、本家の管理下に入っている神社をいう。
 この神社が尾張氏に深く関係していることはまず間違いない。けど、ちょっと分からないところがいくつかある。
 たとえば、祭神は尾張氏の祖神である高倉下命(タカクラジノミコト)というのだけど、一般的に尾張氏の祖神といえば、天火明命(アメノホアカリノミコト)ではないのか。
 天火明命は、尾張国の一宮・真清田神社(ますみだじんじゃ)の祭神として祀られているし、かつては熱田神宮に次ぐ大社だった東谷山山頂の尾張戸神社(おわりべじんじゃ)もそうだ。
 ちなみに、熱田神宮が尾張国の三宮とされているのは国衙から遠かったのがその理由とされているようだけど、格式からいえば断然一宮になってもいいはずなのに、このあたりもちょっと謎だ。
 天火明命は、アマテラスの孫に当たる。お父さんは天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)で、その弟が天孫降臨したニニギノミコトになる。
 高倉下命は、アマテラスのひ孫の世代に当たるようだけど、関係ははっきりしていない。
 初代天皇である神武天皇(カムヤマトイワレビコ)が東征中、熊野で苦戦しているとき、タケミカヅチ(建御雷神)の分身である霊剣フツノミタマ(布都御魂)を持って颯爽と現れたのが、高倉下命だったという。高倉下命は夢のお告げによってアマテラスや高木神からこの霊剣をさずかったとされている。
 その後、霊剣フツノミタマは奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)に運ばれ、ここの御神体となっている。
 石上神宮は、物部氏とのゆかりが深い神社で、高倉下というのは高い倉の下、つまり武器を管理する物部氏との関連も考えられる。
 創建年は意外に新しく、平安時代前期の835年とされている。
 天武天皇の時代に創建されたという説もあるようで、どちらかといえばそちらの方が納得がいく。壬申の乱が672年で、この時代の方が尾張氏の力は強かっただろうから。
 それにしても、熱田神宮の創建が113年とすると、年代的な開きが大きすぎるようにも思う。もう一つの境外摂社である火上姉子神社の創建は195年とされている。
 この神社があるあたりは弥生時代から人が住んでいたことが分かっている。古墳も多数見つかっていることから、古くから尾張氏の拠点地だったと考えられる。とすれば、神社の成立ももっと古いんじゃないだろうか。
 ただ、どうして祭神が高倉下命になったのかはよく分からない。高倉下命は、古くからこのあたりの鎮守神、産土神として大事にされてきたようだ。いつどういう経緯で熱田神宮の摂社になったのかも、調べがつかなかった。最初から摂社として創建されたとは思えない。
 そんなこんなで、もやもやした気持ちを抱えつつ、先へ進むことにする。

高座神社-2

 参道はしんとして、なかなか悪くない。いい意味で暗くて静かだ。本家の熱田神宮より雰囲気がある。
 この神社は子育ての神様として知られているところで、特に毎年6月1日の例祭のときは、大勢の子供連れ参拝客で賑わうそうだ。 
 境内にある御井社の井戸をのぞくと、子供の虫封じになるといわれていて、みんなこれを目当てにやって来るらしい。
 その他、4月3日の子預け祭や、7月の御井社祭などもある。

高座神社-3

 地下鉄の最寄り駅は西高蔵で、そちらから歩いたから西の鳥居から入ることになった。
 社殿は南向きで、南にも鳥居がある。西から入った方が長い参道があって気分は出るだろうけど、南からも入り直してみた。
 元はもっと広かったに違いなくて、南鳥居が正面で、昔はもっと南にあったんじゃないだろうか。南向きの神社なら南の鳥居から入る方が自然だ。

高座神社-4

 尾張造の本殿を織田信長が造営したというのだけど、その話もにわかには信じられない。
 1571年といえば、信長にとってはとても多忙な時期だ。前年に姉川の合戦で浅井・朝倉連合を破り、天下統一が少し見え始めたところで、1571年は比叡山焼き討ちを行っている。
 どんなに合戦に忙しくても、寺社の造営くらいは人に命じればできるとはいえ、あえてこの時期に熱田神宮の一摂社にすぎない高座結御子神社の造営に着手するかといえばちょっと疑問だ。
 桶狭間の戦いのとき、熱田神宮で必勝祈願をして勝利した義理があったとしても、それはもう10年以上前のことになる。社殿が完成してから信長がこの神社を訪れたという記録はない。
 何の根拠もなく信長の名前が出てくることはないだろうから、信長にお伺いを立てて許しを得たといったあたりだろうか。援助金くらいはくれたのかもしれない。
 江戸時代に入った1618年には、蜂須賀家政が修繕を行っている。蜂須賀正勝(小六)の息子で、徳島藩祖となった人物だ。
 ただ、この話も少し引っかかる。蜂須賀正勝といえば秀吉の説得で家臣になり、墨俣一夜城の築城に力を貸したことでも知られる武将だ。息子も秀吉に仕え、数々の武勲をあげている。
 だから、関ヶ原の戦いのときはどちらにもつききれなかったし、大阪の陣のときも西軍につこうかどうしようか迷って戦闘に参加していない。しかし、息子が徳川方について活躍したことで家康に許されて、蜂須賀家は淡路国25万7,000石に加増されて移っている。それが1615年のことだ。
 にもかかわらず、その3年後の1618年に、どういう話の流れで熱田の高座結御子神社を修繕することになったのか。もしかすると、天下普請でお金を使わせるために徳川家が命じたのだろうか。
 江戸時代を通じて徳川家も大事にしたようで、1686年には江戸幕府が修復を行っている。
 当時の社殿は、昭和20年の空襲で焼かれてしまって残っていない。アメリカ人は今も昔も、世界中の神にケンカを売っている。
 現在の社殿は、昭和38年(1963年)に、尾張造を元に改良した形で建てたものだ。どうしてオリジナルのスタイルを踏襲しなかったのだろう。
 尾張造というのは、拝殿、祭文殿、本殿を回廊でつないだ左右対称の様式で、津島神社や国府宮神社に残っている。

高座神社-5

 祭神は、高倉下命ではなく、ヤマトタケルの子供である仲哀天皇や、ヤマトタケルの異母弟・成務天皇ではないかという説もあるそうだ。
 いずれにしても、この神社の成り立ちには謎がある。

高座神社-6

 こういうお守りとかを売っているところを、授与所(じゅよしょ)と呼ぶらしい。つい最近知った。よく神社へ行っていても、知らない専門用語などはたくさんある。

高座神社-7

 高座稲荷社。
 豊臣秀吉の母・なか(のちの大政所)が、まだチビだった息子の秀吉を連れて、立身出世を祈ったとされる稲荷神社で、太閤出世稲荷とも呼ばれている。
 最初からすべてを疑っているわけではないけど、この話もどうなんだろうと思う。
 秀吉が生まれたのは中村区で、名古屋駅のだいぶ西だ。直線距離でも10キロは離れている。幼い秀吉を連れて、わざわざここまで歩いてきただろうか。熱田神宮へ参拝したとき、ついでに寄ったと考えるならあり得るか。
 秀吉の出自についても、実は農家ではなかったという話もあるし、よく分からないことも多い。手紙の字や内容を見ると、貧乏な農家の息子とは思えないほど教養を感じる。本当に貧乏な農家の息子なら、読み書きもできなかったはずだ。

高座神社-8

 お稲荷さんに来ると、必ず朱塗りの鳥居が撮りたくなる。
 伏見稲荷の千本鳥居もいつか撮ってみたい。

高座神社-9

 御神木となっている大楠。かなり大きい。
 根元に木製の小さな鳥居がいくつも置かれている。何かの祈願だろうか。

高座神社-10

 神社や公園の周辺では、たくさんの古墳や貝塚などが見つかっている。
 弥生時代中期にはそこそこの規模の環濠集落が形成されていたようだ。その周りにはたくさんの墓があったことも分かっている。当時は伊勢湾に近い海のそばで、生活するにはいい場所だったのだろう。 
 彩文土器や有彩立壷なども多数出土している。
 古墳時代になると、人々は竪穴式住居で暮らしてたようだ。その跡地も見つかっている。 
 5世紀後半から7世紀にかけては、小型方墳や円墳も築かれていた。明治時代の発掘では7つの円墳が見つかり、現在は4つが確認できるのみとなっている。最大で20基ほどがあったのではないかと考えられている。
 時期的に6世紀あたりのものは、近くの断夫山古墳との関連もあるのだろう。
 現在は神社や公園となっているため、当時の姿を想像するのは難しい。

 近いうちに熱田神宮についても総まとめとして書くつもりでいる。できれば、火上姉子神社と青衾神社にも行っておきたいところだ。
 そのあたりについて調べていくことで、高座結御子神社についての疑問点も解明していくかもしれない。
 神社は横のつながりと時代的な考証を同時にやらないと見えてこない部分もあって、たくさん回るほどこれがあそこにつながるんだという発見があったりして面白い。
 あなたの趣味はなんですかと訊かれて神社巡りと答えるのはちょっと嫌だけど、これだけ巡ってしまうともはや趣味ではないと言い張るのは難しい。

子供たちの遊び場と化している式内社の和爾良神社

神社仏閣(Shrines and temples)
和爾良神社-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 王子バラ園の300メートルほど東の上条町に、和爾良神社(かにらじんじゃ)がある。
 名東区の神社巡りで和示良神社を紹介したとき、春日井の和爾良神社についても少し触れた。
 ここを訪れるのは二度目になる。2005年に近くの大竜院のしだれ桜を探している途中で迷い込んだことがあった。神社の前へ行ったら、そうだそうだ、ここだったと思い出した。
 この神社は、朝宮町にある朝宮神社とセットで紹介すべきなのだけど、あちらへはまだ行っていないから、とりあえず和爾良神社について先に書いてしまう。和爾良神社は、もともと朝宮神社をこの地へ移してきたもので、話はやや入り組んでいる。
 朝宮神社の創建は不明ながら、延喜式に和爾良神社として載っているから、平安時代の初期にはすでにあったのは確かだ。
 鎌倉時代始めの1218年に、男阪孫九郎光善(おざかまごくろうみつよし)が、上条町の領主となってこの地に来て、荒れている和爾良神社を見て、現在の場所に移して再建したと伝えられている。
 男阪光善は、木曾義仲の家臣・今井兼平の子孫なんだとか。
 現在地に移したとき、加賀白山から白山神を合祀して、和爾良白山社としたらしい。なんでも、祖先の中原信濃守兼遠(今井兼平、樋口兼光の父)が木曾義仲とともに加賀白山に戦勝祈願をして平氏を破ったことから、白山神を守護神としてあがめていたのだとか。
 ややこしいのはここからで、神社を移したというなら元あった場所は跡地になるはずなのに、そこにも神社は残った。元の場所にも、加賀白山を合祀して、朝宮白山宮としたという。
 だから、移したというよりも分霊したということになるだろうか。
 現在は、朝宮神社も、和爾良神社も、どちらも式内社を名乗っている。元々は同じ神社だったわけだから、間違いではない。ただし、一応、延喜式に載っている和爾良神社は、上条町の方ということになっているようだ。
 なのだけど、尾張徳川家は、朝宮神社の方を大事にした。
 尾張初代藩主の徳川義直は朝宮町によく鷹狩りに来て、近くに休憩所の朝宮御殿を建てているし、二代藩主・光友も社殿を造営したり、亡き母・貞松院の祈願所として、三ツ葉葵紋の使用を許可したりしている。
 1642年に徳川源敬が修繕して、名前を朝宮神社と改めた。
 前置きはこれくらいにして、そろそろ境内に入っていくことにしよう。

和爾良神社-2

 前回は桜の季節で、参道は桜並木だった。今はすっかり新緑になっている。

和爾良神社-3

 参道脇に小さな祠がある。どういうものか分からない。朱塗りだからお稲荷さんだろうか。
 横には庚申と彫られた石がある。江戸時代に流行した庚申の祈念碑か。
 庚申信仰というのは、中国から伝わった道教のもので、庚申の日に人の体の中にいる虫(三尸虫)が天の神に人間の悪事を報告にいくというので、その日は寝ないで夜通しお祈りするというものだ。のちに、朝まで騒いで酒を飲むための大義名分となったりもした。

和爾良神社-4

 境内はバタバタと慌ただしく落ち着かない雰囲気だった。というのも、小学生の軍団が境内で走り回って暴れていたからだ。
 蕃塀(ばんべい)の前が自転車置き場になっている。
 それがなかったとしても、深閑とした雰囲気からは遠い感じだった。社殿の背後は小さな森になっているものの、神聖な空気感はとどめていない。800年近くの歴史を重ねているとは思えないほどあっけらかんとしている。

和爾良神社-5

 小振りな拝殿は最近のもののようだ。江戸とか明治とかではない。昭和に入ってから建て直されたものだろう。
 社殿の右手には子供用の遊具があり、ちびっこのたまり場になっている。
 左隣が町の集会所で、人の出入りもあって、参拝客の私はよそ者として完全に浮いていた。
 典型的な町内の神社といった趣で、式内社の由緒正しい神社とは思えない。
 こういう賑やかな方が、現代の神社の有り様としては正しい姿と言えるかもしれないけど。

和爾良神社-6

 祭神は、阿太賀田須命(アタガタスノミコト)、建手和爾命(タケタワニノミコト)、伊弉册命(イザナギノミコト)となっている。
 阿太賀田須命というのは、オオクニヌシの6世孫というのだけど、よく分からない。赤坂比古命と同一神という説もある。
 阿太賀田須命を祀っている神社は地域に偏りがあって、福岡、奈良、愛知の春日井、新潟、群馬となっている。
 建手和爾命というのは、名前からしても和爾氏(わにうじ)の祖神ということが分かる。
 和爾氏の存在はあまりメジャーではないのだけど、古代においては蘇我氏、葛城氏と並ぶほどの有力な渡来系豪族で、応神から敏達天皇あたりにかけては娘を天皇に嫁がせる外戚氏族だったという。
 奈良盆地北部を本拠地として、山城、近江から遠くは敦賀、伊豆まで勢力を伸ばしていたようだ。
 尾張も一時勢力下に収めていたようで、その後、尾張氏との勢力争いに敗れたらしい。
 和爾氏は、春日、柿本、小野、大宅、栗田など16系統に分かれたとも伝わっていて、その系列からは小野妹子、柿本人麻呂、小野道風などの有名人を輩出している。
 本家の和爾氏は、春日氏となっていったようだ。
 和爾氏を祀る神社が、天理の和爾座赤阪比古神社や大和郡山市の和爾下神社などに残っている。

和爾良神社-7

 本殿も新しいもので、ちょっとなぁんだと思ってしまう。
 建物に関してはありがたみはあまりない。
 江戸時代に、瀬戸の加藤小兵衛作が奉納したという陶製狛犬はどこにあったのだろう。本殿の前だろうか。それらしいものは見えなかった。

和爾良神社-9

 大きなクスノキが御神木となっていた。
 これはなかなか立派なものだ。

和爾良神社-10

 隣り合わせに大光寺というお寺が建っている。
 元々は朝宮神社の神宮寺で、1218年に和爾良神社と一緒にこの地に移されてきたものだそうだ。
 尾張西国33番札所の第10番礼となっている。
 小牧長久手の戦いのとき焼けて、その後再建されたらしい。
 室町時代に造られた元三大師堂厨子というのが堂内にあるそうだけど、あまり気軽に入っていけるような雰囲気ではなかったので、外から写真を撮るだけにしておいた。

和爾良神社-11

 昔ある人が、大光寺にあった石を自宅に持ち帰ったところ、夜ごとにしくしく泣く声が庭から聞こえてきて、石に近づいてよく聞いてみると、大光寺へ帰りたい、帰りたいと泣いていて、あわてて元に戻したという話が伝わる夜泣石。左に見えている大きな石がそれだ。こんな大きな石はとても一人では持ち上げられないと思うけど。
 右手に小野道風(おののとうふう)生誕地と彫られた石碑が建っている。
 小野道風といえば、平安の三蹟として有名な人物で、春日井が誇る郷土の偉人だ。
 松河戸にも生誕地とされるところがあって、そちらには小野道風記念館がある。ずっとそちらが本当と思っていて、こんなところにも伝承地があるのは知らなかった。こちらの方が本命という説も根強いらしい。

 春日井の神社巡りもすっかり中断していたけど、ぼちぼち再開していこうと思っている。朝宮神社も一度行っておかないといけないし、春日井は古墳地帯でもあるから、そちらも同時進行していくことにしよう。
 ブログの内容がどんどん渋くなっていっているけど大丈夫だろうか。

アドリア海近辺に軟着陸サンデー

料理(Cooking)
イタリア寄りサンデー

 先週は中華寄りだったから、今週はイタリアン寄りでいってみた。
 のだけど、結果的にイタリア着地に失敗して、どこの国ともつかない料理が出来上がった。ここはどこ?
 ただ、イタリアではないにしても、和食でも中華でもなく、いわゆる洋食でもなく、一般の家庭料理とも違から、ヨーロッパ近辺のどこかには入れて欲しい。無理矢理どこかのジャンルに組み入れようとしても、どこからも断られてしまうだろうか。
 マケドニアとかアルバニア料理ですといって出されたら、へぇ、そうなんだと納得して食べてしまいそうな料理ではある。
 久々に無国籍な料理を作ってしまった。

 手前の料理は何と呼べばいいのか、作った本人でも分からない。漠然としたイメージで取りかかって、結果的にこういうことになった。
 エビ、白身魚、ナス、タマネギ、トマトを、それぞれ小さなサイコロ切りのようにして、タマネギから順番にオリーブオイルと白ワインで炒める。
 塩、コショウ、コンソメの素、砂糖、酢、カタクリ粉を入れて、味を調えたら、最後に青ネギの刻みを入れて混ぜたら出来上がりとなる。
 気分でバジル粉を振りかけてみた。
 名前は分からなくても味はよかった。美味しかったから応用を効かせてまた作りたい。こういう小さなブロック料理は好きだ。
 料理は素材で決まるといえばそうなのだろうけど、味が何で決まるかといえばやっぱりソースだ。自分の好きなソースをたくさん見つければ、それだけ好物が増えると言っていい。嫌いなものでも好きなソースで食べれば、たいていのものは食べられる。

 右奥はトマトスープなのだけど、一つ大きな失敗をした。
 最初は、残り物のワンタンの皮を食べるためにトマトスープを作ったのに、ワンタンの皮を入れるのをすっかり忘れていた。食べるときも思い出さず、今これを書いていて思い出した。しまった。
 トマトスープは普段作っているトマトソースを水で伸ばしたものだ。
 タマネギのみじん切りと鶏肉をオリーブオイルと赤ワインで炒め、トマト、トマトピューレ、ケチャップ、コンソメの素、塩、コショウ、砂糖、しょう油、ソース、豆板醤、唐辛子で味付けをする。
 具材は、しめじ、キャベツ、アスパラを使った。このへんは冷蔵庫にあるものなら何でもいい。

 左奥は、ニョッキを作るはずが、違うものができた。
 ジャガイモとニンジンをレンジで加熱してつぶしたあと、牛乳、塩、コショウ、卵、とろけるチーズ、コンソメの素、カタクリ粉、しょう油を混ぜてよくこねる。
 少し柔らかめなので、スプーンですくって熱湯に入れて、5分ほど茹でる。
 カタクリ粉ではなく小麦粉を多めに使うと、プリプリ食感のニョッキになったのかもしれない。これはフワフワでちょっと粉っぽいニョッキもどきになった。まあ、これはこれで料理としては成り立っている。
 スープはコンソメスープで、白菜が入っている。
 最後にパセリ粉を振る。

 ハーブなどの小道具があれば、もっとイタリアンっぽくなっていたかもしれない。彩りとしてもあと一歩足りなかったように感じた。緑色のワンポイントがあればもっとよかった。
 実はこのメニュー、バルサミコ酢を買ってきて作ろうと思っていたもので、買いに行けなかったことでイタリア料理になりきれなかったところがある。バルサミコ酢は一度使ってみたいから、近いうちに買ってくることにしよう。
 名前も国籍もはっきりしない料理となったものの、夕飯のおかずとしては問題なく成立していた。毎日食べたい料理ではないけど、たまに食べるならこんなのもいい。サンデー料理だから、まずは成功と言っていい。
 まだ見ぬ外国料理シリーズも、またやりたい。どの国の人が普段どんな料理を食べているのかを意外と知らない。外国料理を自分で作って食べてみると、その国の人に少しだけ近づけるような気がする。

ヤマトタケルとミヤズヒメが隣り合わせに眠っている方がロマンチックだけど

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
熱田の古墳-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 古墳を写真に収めるのは難しい。地上レベルでは超広角レンズをもってしても一部しか写すことができず、古墳と説明しなければ何を撮ったのかさえ分からないくらいだ。
 現代の古墳はたいていがこんもり茂った雑木林のようになってしまっている。特に大きな前方後円墳などはそうだ。個人の趣味で空撮などできない。古墳を上から撮るためだけにヘリコプターをチャーターするなんてのは、重度の古墳マニアくらいなものだ。
 愛知県地方にもいくつかの大きな古墳が残っている。今日紹介するのは、東海地方最大といわれる断夫山古墳(だんぷさんこふん)だ。
 熱田神宮の北西500メートルほどにあり、古くからヤマトタケルの奥さんである宮簀媛(ミヤズヒメ)の墓ではないかとされてきた。しかし、発掘調査と最近の研究によって、6世紀前半に造られた尾張氏の墓だろうというのが定説になっている。
 話は少しややこしいから、順を追って説明した方がよさそうだ。

 前方後円墳というのは昔教科書に出てきた懐かしい言葉だという人が多いだろうと思う。日常生活で前方後円墳と口にしたり目にしたりする機会はめったにない。下手したら卒業後一度もその存在を思い出さずに終わってしまう可能性もある。
 しかし、この前方後円墳というやつは意外とあちこちに残されていて、特に関西の人たちにとっては馴染み深いはずだ。
 日本の時代区分は、紀元前10世紀中頃から3世紀中頃にかけてを弥生時代としている。
 邪馬台国の卑弥呼が女王だったのが200年前後のことだから、区分でいうと弥生時代後期となる。
 卑弥呼の墓ではないかとされる奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)が造られたのが3世紀中頃(後期とも)とされていて、このあたりが前方後円墳の最初ではないかと考えられている。
 古墳時代は、3世紀後半から7世紀末までで、前期、中期、後期では古墳の形が変わったり、全国的な広がりを見せたりする。
 最初は大和から始まり、大和王朝が成立していく中で広がりを見せていくことになる。大和王朝の支配が全国に及ぶことで、その地方でも大きな前方後円墳が造られるようになった。
 どうして突然、そんなに大きな墓が造られるようになったのか、何故あんな形をしているのか、はっきりしたことは分かっていない。権力の象徴といえばそうなのだろうけど、首長の生前に造られたのか、死後に造られたのかでも意味は違ってくる。かなりの労力と時間がかかったはずだから、その墓に葬られた首長は相当な権力者だったのは間違いない。
 畿内の古墳と北九州の古墳の違いなどについて書き出すとまた長くなってとりとめがなくなるから、今日のところはやめておいて話を先へ進めたい。
 古墳造りはその後、段々すたれていく。大きな前方後円墳は造られなくなり、方墳や円墳がしばらく造られたあと、6世紀末には全国的に前方後円墳は造られなくなった。8世紀頃まで少し造られて、古墳ブームはそこで終わりを告げる。
 高松塚古墳やキトラ古墳などが、古墳時代末期のものということになる。
 という古墳の復習を終えたところで、断夫山古墳についての話に移っていきたい。

熱田の古墳-2

 断夫山古墳は、南東の方に頭の部分がある。そちらには熱田神宮があるのだけど、やはり関係があるのだろうか。
 前方後円墳という名前の通り、円が後ろで、四角い方が前ということになる。誰が決めたんだ。普通の感覚だと丸い方が頭に思う。
 前方後円という言葉は、江戸時代の国学者・蒲生君平が初めで使ったのだそうだけど、もともとは丸い部分に墓があって、四角い方で儀式のようなことが行われていたらしい。ただ、のちに四角い部分にも埋葬されるようになったりして、結局のところよく分からない。いろんな人がいろんな説をとなえている。朝鮮半島との関係を指摘する人もいる。
 大和王朝成立には多数の渡来人が関わっているわけだし、突然こういうものが造られるようになった背景には何か事情なり影響なりがあったのだろうとは予想できる。前方後円墳という形は日本オリジナルのものとされているようだけど、似たようなものが朝鮮半島にもあったという話もある。

 最初に書いたように、断夫山古墳はヤマトタケルの奥さんミヤズヒメと長らく言い伝えられてきた。
 ヤマトタケルと熱田神宮の話は以前にも書いた。草薙剣を持って東征から帰ってきたヤマトタケルは、尾張の地でミヤズヒメと結婚し、あろうことか草薙剣を置いたまま伊吹山に荒ぶる神を退治にしに行って、逆に返り討ちにあって命を落としてしまう。
 その後、草薙剣を祀るために建てたのが熱田神宮とされている。ヤマトタケルの死は113年ということになっていて、2世紀初めといえば、まだ古墳は造られていない。
 ミヤズヒメが死後に断夫山古墳に葬られたというのも年代的に合わない。
 ただし、この断夫山古墳の隣にはヤマトタケルの墓とされてきた白鳥御陵がある。
 江戸時代の国学者で、『古事記』研究でも知られる本居宣長も、この地を訪れ、ヤマトタケルを思う歌を残しているから、少なくとも江戸時代までは、ここにヤマトタケルとミヤズヒメの墓が並んでいたと信じられてきたようだ。
 熱田神宮との関係を考えれば、自然な連想とも言えるし、実際に何らかの伝承の反映と考えられなくもない。そもそもヤマトタケル自体がいろんな人物のエピソードを寄せ集めて作られた架空のヒーロー像とも言われている。小碓命(おうすのみこと)だけがヤマトタケルではないかもしれない。
 断夫山古墳の名前は、ヤマトタケルと死別したあとミヤズヒメが再婚しなかったことから来ているという。
 熱田神宮の境外摂社に、火上姉子神社というのがあり、ここでミヤズヒメが祀られている。創建は195年と伝わっている。
 白鳥御陵がヤマトタケルの墓で、断夫山古墳はミヤズヒメの墓でいいじゃないかとも思うのだけど、実際のところそうもいかないようだ。
 造られたのは6世紀初頭ではないかとされている。前方後円墳としては後期のものだ。この時代に100メートルを超えるものはあまりない。
 全長151メートル、高さ16メートル。後円の直径は80メートルある。
 大和から始まった前方後円墳は、大和朝廷の象徴的なものだろうから、地方の豪族が許可なく勝手に造れたとは思えない。この時期、尾張も大和朝廷の支配下に入ったということだろう。
 有力なのは、尾張氏の首長だった尾張連草香(おわりのむらじくさか)とされている。
 娘を継体天皇に嫁がせたことで天皇の外戚となり、大和朝廷とも密接に結びついたのではないかと考えられている。
 ミヤズヒメも、尾張国造の乎止与命(オトヨノミコト)の娘だったことから、このあたりの伝説がごっちゃになってしまった可能性はある。
 現在の断夫山古墳は、周囲に空堀(周濠)がめぐらせてあるけど、これは戦後に整備されたもので元々の姿ではない。かつてはもっと広かったようだ。おそらく水も張られていたのではないか。
 古墳というと木々が生い茂っているというイメージだけど、これは長い年月放置されたからそうなってるだけで、本来はきれいに整地された丘だった。
 二段、または三段になっていて、周囲には円筒埴輪が並べられていたことが調査で分かっている。須恵器(すえき)とともに1,000個を超える円筒埴輪が見つかっている。
 丘の表面にはきれいに石(葺石)が敷き詰められていただろう。造りたての古墳を見たら、イメージとはかけ離れていて驚くに違いない。

熱田の古墳-3

 少し離れたところから見ても、全体像を撮ることはできない。実物を目にすると、その大きさにけっこう驚くと思う。
 とはいえ、大阪堺市にある仁徳天皇陵と伝えられる大仙古墳は486メートルだから、規模が違う。
 一つ付け加えておくこととして、当時熱田は海の近くだったということがある。伊勢湾岸は今よりもずっと内陸にあって、断夫山古墳は海岸線のそばに造られていた。
 尾張氏と海人一族(あまいちぞく)との関係はよく指摘されることで、今でも海部郡などに名を残している。
 大海人皇子こと天武天皇は、乳母が海部郷の大海氏の娘で、そこから名前がつけられている。その関係もあって、壬申の乱のときは尾張の軍勢が大海人皇子に味方したというのがあった。
 歴史はいろんなところでつながっている。

熱田の古墳-4

 断夫山古墳から南に500メートルほど行ったところに白鳥御陵がある。せっかくだから、こちらも訪れてみた。
 ここは断夫山古墳以上に荒れているというか、放置されている感が強い。あまりの荒れっぷりに笑ってしまったほどだ。

熱田の古墳-5

 御陵の隣はちょっとした広場になっていて、ベンチも置いてあるから公園のようになっていたのだろう。
 しかし、めったに訪れる人もいないようで、雑草が伸び放題に伸びている。人が足を踏み入れている感じがない。半分自然に帰っている。
 正面に見えている雑木林が白鳥御陵だ。全然形は分からない。
 ここもかなり気の毒なことになっている。公園整備や道路を敷いたり寺を建てたりする中で、あっちを削られ、こっちを壊され、もはや原形はとどめていない。前方後円墳だったと言われなければ気づかない。
 幅10メートルほどの周濠があったというけど、それも残っていない。
 全長74メートル、高さ7メートルほどだったとされている。

熱田の古墳-6

 いかに人が訪れていないかは、このタンポポの綿毛の群生でも分かる。ものすごいことになっている。せっかく自然に帰りかけているのに、足を踏み入れるのが申し訳ないくらいだった。

熱田の古墳-7

 どうやら私はアプローチを間違えていたらしい。西の堀川沿いのカフェ横から入っていくのが、正規のルートのようだ。こちらはちゃんと道も舗装されているし、荒れた様子もない。
 正面から見た様子も、御陵らしい体裁をしている。
 どうしてここがヤマトタケルの墓とされたのかはよく分からない。ヤマトタケルは、三重県亀山の能煩野(のぼの)で果てて、白鳥になって飛び立ったという伝説がある。
 その後、奈良県御所市の琴原(ことはら)、大阪府羽曳野市の志幾(しき)にもとどまったため、能煩野とあわせて3つの御陵が造られた。
 熱田には来ていないはずなのだけど、この地にも白鳥として舞い降りたという話があったらしい。残した奥さんのところに舞い戻るというのはある意味自然な考えではある。草薙剣もここに残していることだし、故郷へ戻る前に寄ったとしても不思議はないか。

熱田の古墳-8

 古墳がある方向を撮ってみたものの、何がどうなっているんだかさっぱり分からない。
「尾張名所図絵」によると、1837年の台風で木々がなぎ倒されて、石室が剥き出しになったとある。
 石室は全長3.7メートル、幅1.5メートル、深さ1.8メートルほどで、直刀や鉄鉾などが入っていたという。
 横穴式石室だったことから、やはり6世紀前半のもので、尾張氏の有力者の墓だろうということになっている。
 ただし、長い間、熱田にヤマトタケルとミヤズヒメの墓があると信じられてきたという事実の方が重要に思う。1000年以上の間、そういう言い伝えを信じるだけの根拠が何かあったはずだから。
 古墳や御陵の調査はもっと行われてもいい。何か都合が悪いものが出てくるからあえてしないようにしてるんじゃないかと考えたくもなる。

熱田の古墳-10

 本居宣長の歌碑。
「尾張熱田なる白鳥御陵にまうでて

 しきしまのやまとこひしみ白鳥の
 かけりいまししあとところけれ」

 本居宣長は私の故郷三重県松阪が生んだ自慢の偉人だ。
 江戸時代にはすでに『古事記』の原文を誰も読めなくなっていた。本居宣長は35年かけて解読して、『古事記伝』にまとめた。
 そんな人だから、ヤマトタケルの墓とされるこの地を訪れたときは感慨深かったことだろう。

熱田の古墳-9

 入口付近の様子。こちらから行っていれば、荒れ放題の公園も気にならなかったかもしれない。

熱田の古墳-11

 白鳥御陵の裏手に、白鳥山法持寺がある。
 830年頃、空海が熱田神宮を訪れたとき、ヤマトタケルを敬い、延命地蔵菩薩を彫って小祠を建てたのが始まりとされる寺だ。
 平安時代の空海が、白鳥御陵をヤマトタケルの墓と思っていたというなら、やはりそれは本当ではないのかと思いたくなる。寺伝自体がのちの世の作り話だといえばそうなのかもしれないけど。
 もとは、白鳥御陵の宝物を守り持つということで宝持寺と称していたという。
 松尾芭蕉も、「野ざらし紀行」のとき、熱田神宮とこの法持寺に立ち寄っている。そのときは、熱田神宮が荒れ果てていて、それでもやっぱり荘厳でいいものだと書いている。白鳥御陵も見たに違いない。

 飛鳥時代のことでも分からないことはたくさんあるのに、その前の古墳時代となると分かっていることの方が少ないくらいだ。それでも、その時代から今の時代まで古墳というものが残されていることは価値がある。たとえ手がかりは少なくても、その時代に思いを馳せることができる。
 それにしても、古墳というのは一般的に人気がない。興味がない人にとっては、神社以上に面白くない場所だ。これといった見所がないし、ご利益も期待できない。
 私は少し興味が出てきたから、これからちょっと本腰を入れて回ってみようと思っている。名古屋市内や近郊にそこそこ残っているから、折に触れて訪ねてみよう。
 いつか、箸墓古墳や大仙古墳も見に行きたい。

意味はなくても惹かれるものを惹かれるままに ---王子バラ園後編

花/植物(Flower/plant)
王子バラ園2-1

PENTAX K10D+Tamron SP 90mm f2.8



 王子バラ園後編は、バラ以外の写真を中心にお届けします。
 バラ園の奥に、ワイルドフラワー畑みたいなのも作ってあって、ここも楽しみの一つとなっている。今年は特によく咲いているような印象を受けた。
 名古屋港のブルーボネットを思い出す。あそのこワイルドフラワー畑は感動した。

王子バラ園2-2

 隣のポピー畑。花の数は少なかったものの、ちょうど光と影のコントラストができていて、いい感じだった。
 ポピー畑といえば、花フェスタ記念公園の池の周りが印象に残っている。今頃よく咲いてるんじゃないだろうか。

王子バラ園2-3

 美しいものにはトゲがあるという言い回しを最近あまり聞かない。美人に対する認識が少し違ってきているのかもしれない。今は昔ほどステレオタイプではない。
 たとえや言い回しは時代と共に変わっていく。こいつは一本取られたなぁとか、近頃言ってる人はあまりいない。

王子バラ園2-4

 バラのつぼみに造形美の可能性を感じた。きれいに咲いている花にばかりとらわれず、いいつぼみを探していくと面白い被写体が見つかりそうだ。

王子バラ園2-5

 新緑の季節はただの葉っぱも絵になる。
 光を帯びた新緑色は、人の美意識に訴えるものがある。

王子バラ園2-6

 色とりどりに花を咲かせている下の地面には、色とりどりの花びらが落ちている。

王子バラ園2-7

 アスファルトの切れ目から、小さなクローバーが顔を出していた。
 雑草は咲く場所を選ばず、たくましく、したたかに生きる。別にそこに何か教訓めいたものを感じ取る必要もない。

王子バラ園2-8

 ベルベットのような質感の花。名前は知らない。近くにナデシコっぽいやつが咲いていたけど、仲間なのかどうか。

王子バラ園2-9

 かくれんぼをするように撮ろうとする私から逃げるテントウムシ。追いかけて、追いかけて、最後は逃げられた。
 背中に赤い星が二つあるからフタツボシテントウムシ、と思うとそれは間違いだ。一番よく見かけるテントウムシはナナホシテントウムシなのだけど、分類上では星が七つという方が特別扱いで、星が二つのやつを普通のテントウムシと呼んでいる。ちょっと紛らわしいからナミテントウムシといったりもする。ナミはナミアゲハと同じように、並みという意味だ。
 それじゃあ、ナミトンボやナミバッタもいるかというと、それはいない。

王子バラ園2-10

 何かの模様やシミが人の顔や他のものに見えたりするのは悪い傾向なんじゃないかと思って極力そういう想像はしないようにしている。子供の頃やらされたロールシャッハテストの弊害かもしれない。
 写真の世界においては、イマジネーションは豊かな方がいい写真が撮れる可能性が高くなる。いい写真家は、もしかしたら要注意とされる子供だったかもしれない。
 学校教育というのも、ある意味では人の可能性を奪ってしまう部分がある。
 上の写真は、花びらの色が面白くて撮ったのだけど、写真で見ると仮面を連想させた。撮るときに気づいていれば、もっとそれらしく撮れたかもしれない。

王子バラ園2-11

 地表に浮き出た木の根の造形にも惹かれるものがある。
 歳を取ったら、木の根のカタマリを掘り出して、ぴかぴかに磨いて喜んでいるじいさんになってしまうのだろうか。

王子バラ園2-12

 ハルジオンか、ヒメジョオンか。
 最近、もっと淡い色調の写真が撮りたいと思う。そういう表現なら、デジタルよりもフィルムが向いている。久々に銀塩を持ち出してみようか。

王子バラ園2-13

 なんとなく撮ってみた松ぼっくりのアップ。
 ありふれたものでもマクロで撮ると別のものになる。マクロには私の知らない可能性がまだまだある。

王子バラ園2-14

 王子バラ園に行くと必ず撮る煙突と煙の風景。
 思えば煙突風景というのも身近なものではなくなった。銭湯が消え、煙突工場もなくなった。煙突がある風景も、昭和を代表するものだったのだと、今になって再認識する。

 バラは他の花に比べると花期が長いから、まだしばらく撮る機会がありそうだ。
 次は花菖蒲と紫陽花か。それまでには少しある。
 季節がここまで進むと、花のペースも落ち着いて、だんだん花そのものも少なくなっていく。一番慌ただしい4月、5月が終わって、今度は虫の季節になる。
 どの季節にも、半分の寂しさと、半分の楽しみがある。写真を撮っていくことで、その両方を味わっていければいい。

バラ写真過渡期 ---王子バラ園<前編>

花/植物(Flower/plant)
王子バラ園1-1

PENTAX K10D+Tamron SP 90mm f2.8



 ここ最近、神社やら城やら歴史やらと、渋いネタがしばらく続いた。写真も華やかさに欠けていたから、今日は久々に潤いと彩りのあるバラ写真をお届けしようと思う。
 気づけば5月も半ばを過ぎて、今年もまた春バラの季節がやって来た。少し出遅れた感もある。今年はどの花も早い。カキツバタも時機を逸してしまたようだ。
 名古屋近辺のバラ名所といえば、なんといっても世界一を自任する花フェスタ記念公園がある。でも、ちと遠い。近場でたくさん咲いているところといえば、鶴舞公園とか東山植物園とかになるだろう。愛知県一という西尾のバラ園も一度行ってみたいと思いつつ、あそこも交通が不便で遠いからなかなか行けずにいる。
 そんなこんなでどこへ行こうかと考えて、結局一番近場で無料の王子バラ園になった。ここもかれこれ4、5年毎年通っているから、シーズン中に一度は行っておかないと気になる場所ではある。
 今回の写真のテーマは、意味のない写真を撮る、というものだった。意味のある写真、意味のある写真と思いすぎて、意味に飽きたというのがあって、たまには無意味な写真を撮ってみようと思ったのだ。
 しかし、撮り始めて早々にそれは無理があることに気づいた。バラを被写体にして意味を打ち消すなんてなかなかできるものではない。抽象的に撮ろうとしても、この花には存在感がありすぎる。以前バラの形ではなくバラの色を撮るというテーマで撮ったことがあったけど、そうなると近づくしかなくて、写真が画一的になってしまう。
 当たり前に撮っても面白くないと思いつつ、バラはやっぱりバラだと思い知らされることになった。下手に奇をてらうより、正面から普通に撮るのが一番というのが結論なのかもしれない。あらためてバラ撮りの難しさを思った。
 いろいろ撮ってきた中で、今日は前編としてバラの写真を集めた。バラ以外の写真は後編で紹介するとにする。

王子バラ園1-2

 抽象的に撮れないなら、幻想的に、もしくはセンチメンタルにと思ったのに、それさえも成功しなかった。せめてもの救いとして、バラが持つ美しさを写し取れているだろうか。

王子バラ園1-3

 撮りたいイメージに近かった一枚。
 花が開ききってしまうと品がない。バラもつぼみの方が絵になる。

王子バラ園1-4

 一番好きなマダム・ヴィオレ。状態のいいやつを探してやっと見つけた一輪。
 もう少しつぼみに近い方が好みではあるけど、全体的に花が進んでいて状態のいいものが少なかった。
 状態のいいマダムはどこかにいませんかと、心の中でつぶやきながらバラ園をぐるぐる歩きまわった。その独り言が漏れていて人に聞かれていたら、変な誤解を与えてしまっただろう。

王子バラ園1-5

 マダム・ヴィオレのよさは、その独特の紫色にある。
 華やかさと品を兼ね備えていて、毒々しくなく、きらびやかすぎない。紫色を上手に着こなすのが難しいように、バラにとっても紫というのは難しい色だ。ありふれているようで、ピタリとはまることはめったにない。

王子バラ園1-6

 荒城の月が一本だけあって、何年かぶりで咲いている花を見た。いつ行っても咲いてなくて、あそこでこの花を見たのは二度目のことだ。
 花の状態は悪かったものの、久しぶりに見られてよかった。最初に出会ったときはきれいに咲いていて、あのときの様子が忘れられない。

王子バラ園1-7

 ごく平凡な一枚も載せておく。
 こう撮るなら、もっと引いた方がよかったかもしれない。

王子バラ園1-8

 2色の色を持つバラもたまにあるとはいえ、これだけくっきりツートンカラーというのは珍しい。面白いと思った。
 名前のプレートを見たのに思い出せない。今回は名前を気にせず、花を撮ることに専念した。バラの種類の勉強も進んでいない。

王子バラ園1-9

 前回はピンク色のバラをたくさん撮った。今回は無意識に黄色が多かった。そのときの精神状態で惹かれる花色というのがあるのだろうか。

王子バラ園1-10

 なんだかんだいっても、バラはやっぱり赤が基本だ。たくさんのバラを見たあと、もう一度赤いバラを見ると、これが王道だなと再認識する。

王子バラ園1-11

 ピンク色というのは自分の人生の中でほとんど無縁の色ではあるのだけど、バラのピンクだけは素直にきれいだと思う。
 ピンクのバラといえば、マダム・ヴィオレと同じくらい好きなピエール・ド・ロンサールを撮るのを忘れた。王子バラ園にもあったはずなのに、今日は目につかなかった。咲いていたのを見逃したのか、今日は咲いていなかったのか。
 一つ心残りを残してしまった。どこかでピエール・ド・ロンサールを撮らなくてはいけない。
 もし自分でバラを育てるとなったら、最初に買うのはピエール・ド・ロンサールと決めている。

王子バラ園1-12

 明るい曇り空で、ときどき弱い太陽が顔をのぞかせるという今日の天候は、バラ撮りには最適だったんじゃないだろうか。日差しが強すぎると色が飛んでしまったり、ぎらぎらしすぎてしまう。

 あらためて撮ってきた写真を見直して、毎年少しは進歩してるにしても、まだまだバラ撮りのコツを掴んだとかそういうところまではいっていないことを思い知る。もう一歩、あと一ひねり必要だと感じる。
 秋バラ以来、半年ぶりにバラを撮って、難しさと面白さをまた知った。夏くらいまでバラは咲いているから、どこかで撮る機会もあるだろう。
 抽象的で幻想的でセンチメンタルなバラ写真をいつか撮りたい。

名古屋人もあまり知らない名古屋総鎮守の若宮八幡社

神社仏閣(Shrines and temples)
若宮八幡鳥居前


 あなたがもし、ふいに神社を好きになって、いろんな神社をめぐってみたいと思ったとき、どこへ行けばいいのかを決めるためのとっかかりとなるものがいくつかある。
 たとえば、その地区の一宮、二宮、三宮だったり、平安時代の「延喜式神名帳」(えんぎしき じんみょうちょう/しんめいちょう)に載っている式内社だったり、社格廃止後の別表神社(べっぴょうじんじゃ)といったあたりがまずは手がかりとなるだろう。そこへとりあえず行っておけば間違いないという定番神社だ。
 しきないしゃと聞いてすぐにピンと来る人はあまり多くないかもしれない。多少なりとも神社に詳しくなれば、しきないしゃと聞けば反射的に式内社という漢字が思い浮かぶようになる。
「延喜式神名帳」というのは、927年にまとめられた神社の一覧表のことで(施行は967年)、これに載っている神社は一般的に格式の高いものとされた。
 官幣大社、国幣大社、官幣小社、国幣小社があり、全部合わせて3,000社ほどだった。当時すでにあって「神名帳」に載っていないものは式外社となるのだけど、その中で六国史(りっこくし/日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代実録)に名前が出てくる神社が391あり、それを国史現在社(こくしげんざいしゃ)という。
 ついでに書くと、『延喜式』というのは全50巻から成る律令制度に関する様々な取り決めなどが書かれたもので、9巻と10巻が「神名帳」になっている。
 明治維新後は、式内社に代わるものとして、近代社格制度というのが制定された。
 詳しく説明するととてもややこしいから省略するけど、官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、官幣小社、国幣小社、別格官幣社とあり、その下に、府社、県社、藩社、郷社、村社と、細かく分類されていた。無社格のところもたくさんあった。
 このように、昭和21年(1946年)まで、神社は国が管理していたと聞くと、意外に思った人が多いんじゃないだろうか。神社を国が管理していたと思わなかった人もいるだろうし、今でも国が管理してると思っている人もいるかもしれない。
 現在は神社本庁という宗教法人が管理していて、全国の大部分の神社はこの管理下に入っている。ただし、有名どころでも、靖国神社日光東照宮伏見稲荷大社などのように単独の管理、運営となっているところもある。
 国の管理の廃止に伴って、公的な社格は廃止され、伊勢の神宮を除くすべての神社は建前上、平等ということになっている。
 ただし、それではいろいろ都合の悪いことも出てくるからということで、特別な神社として別表神社というのがある。主に人事に関して特別な決まりを設けたものなのだけど、事実上、これに載っている神社は格が高いということになる。

 長い前置きで一体何の話をしてるんだと思ったかもしれない。今日は名古屋の別表神社の一つである、若宮八幡社(わかみやはちまんしゃ)を紹介しようと思って、まずはこの話から始めたのだった。
 名古屋には別表神社が3つある。3つしかないと言った方がいいだろうか。熱田神宮愛知縣護國神社、そして若宮八幡社だ。
 愛知県となると、尾張国一宮の真清田神社(一宮市)、二宮の大縣神社(犬山市)、三河国一宮の砥鹿神社(豊川市)、三河国二宮の知立神社(知立市)、尾張国総社の尾張大國霊神社(国府宮神社)(稲沢市)、天王総本社の津島神社(津島市)となる。
 三河国三宮の猿投神社は入っていない。別表神社と式内社が重なっていなかったりということもある。
 これであなたも今日から神社通。初詣デートで神社へ行ったときなどに、さりげなく社格の歴史などを披露してみるといいかもしれない。そのネタに食いついてくる女性はあまりいないだろうし、女子がそんな話を熱く語り出したら一般男子は引くだろうけど。



拝殿

 若宮八幡社が名古屋の総鎮守だということを知っている人はどれくらいいるだろう。ガイドブックに書かれているのを見たことがないし、名古屋在住の人でもあまり知らないんじゃないだろうか。
 そもそも若宮八幡社の存在自体が、熱田神宮などに比べたらマイナーだ。どこにあるかもあまり知られていないような気がする。
 白川公園とパルコの間といえば名古屋人なら分かるだろうか。住所でいうと、矢場町になる。
 若宮大通は、この若宮八幡社から名づけられている。



拝殿前

 創建の詳しいいきさつについては伝わっていない。文武天皇(もんむてんのう)の時代というから、701年から704年の間ということになる。飛鳥時代の末期だ。
 文武天皇というのは持統天皇の孫に当たる。
 若宮八幡というのは、八幡宮の祭神である応神天皇の息子・仁徳天皇を祀ることから来ている。宇佐神宮石清水八幡宮鶴岡八幡宮などにある若宮を勧請して建てた若宮八幡が全国にある。
 名古屋の若宮八幡社がどこから勧請したのかは調べがつかなかった。最初はさほど重視された神社ではなかったのかもしれない。のちに名古屋城や尾張藩主との関わりが深くなったことで崇敬を集めるようになっていったのではないか。
 名古屋がまだ名護野だった頃、今市場に建てられたのが始まりとされている。現在の名古屋城の三の丸に当たる。
 そののちの911年に天王社(現在の那古野神社)が勧請され、隣り合っていたという。
 延喜年間(901-923年)に再興され、室町時代はこの地の支配者だった斯波氏が大事にしたようだ。
 古い社殿は、1533年の名護野合戦(織田と今川の争い)のときにほとんどが焼けてしまったとされ、その後、信長の父の信秀が1540年に再建している。
 秀吉も、1585年に社殿の改修を行っている。このときは名古屋城はまだ建っておらず、那古野城は廃城になって久しい。当時の尾張の首府は清洲城のある清洲だった。今の名古屋城のあたりはかなり荒れていたのではないかと思われる。
 ここに目を付けたのが関ヶ原のあとの家康で、1609年に名古屋城を建てるとなったとき、天王社のみを三の丸の中に取り込み、若宮八幡社は城外に出されることになった。このあたりのいきさつもよくは分からない。天王社を城内の総鎮守、若宮八幡社を城下町の氏神とした。
 祭神は応神天皇と仁徳天皇、何故か武内宿禰(たけのうちのすくね)も祀られている。景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇に仕えたという伝説の人物だから、お仲間に入れてしまおうということになったのか。
 昭和20年の空襲で社殿は焼失。江戸時代のものもなくなってしまった。
 現在の社殿は昭和32年に再建されたものだ。
 毎年、5月15日から16日にかけて、若宮まつりが行われる。
 若宮まつりの試楽祭を撮りにいく
 江戸時代、天王社の天王祭、名古屋東照宮の東照宮祭と並んで名古屋三大祭と呼ばれたひとつで、山車7両が神輿とともに、名古屋城三の丸の天王社と若宮八幡社を往復したそうだ。
 現在は、唯一残った山車1両(福禄寿車)と神輿が、那古野神社との間を練り歩く。



本殿後ろから

 激しい交通量の大通りから一歩入っただけとは思えないほど緑が豊かで、静かな境内だ。都会の雑音が遠ざかって聞こえない。木々が音を遮断するという効果もあるのだろう。



若宮恵美須神社

 摂社、末社がたくさん並んでいる。祠だけというところが多い中、ここは境内社でもそれぞれが鳥居を持っていたりして、独立感が強い。
 いちいち由緒などは分からない。これは若宮恵美須神社というものだ。
 えびすというから、神仏習合の名残だろう。



連理稲荷大明神

 連理稲荷大明神。
 連理というのは、連理木のように途中で別れたものがもう一度つながるというような意味があって、そう思うとこれは縁結びのお稲荷さんということになるのだろうか。



連理稲荷社奥之院

 こちらにもお稲荷さんがある。鳥居の別の入口かと思ったら、こちらはこちらで社がある。
 連理稲荷社奥之院のようだ。



摂社末社

 ここにも鳥居があって、5つの神社が集まってひとつになっている。
 熊野社、日吉社、香良洲社、天神社、秋葉社。
 香良洲社というのは馴染みがない。三重県の津市に香良洲というところがあるけど、そことの関係はあるのかないのか。
 カラスということで、カラスを神の使いとした神様なのだろうか。



御衣神社

 御衣神社。
 衣の神様で、針供養まつりをすることで関係者にはちょっと知られた存在なんだとか。
 もともとは海部郡立田村にあった神社のようだ。



御衣神社

 御衣神社の社。
 小さな狛犬二体がかわいらしい。



宮産住吉神社

 宮産住吉神社。
 御神体が400年くらい前のからくり人形の頭らしい。
 住吉神社というと海の神様というイメージがあるけど、必ずしもそうではないようだ。



北側鳥居

 北側の鳥居。
 こちらは裏通りということで雰囲気としては静かなのだけど、やけに人通りが多かった。少し東へ行くとパルコなどがある百貨店街だから、抜け道になっていたりするのだろうか。



若宮龍神社

 若宮龍神社。



神前結婚式

 境内にはびっちり車がとまっている。月極駐車場でもやってるのかと思ったら、そうではないらしい。
 隣が結婚式の披露宴会場になってるからその客と、一般の駐車客のようだ。
 一日1,000円ということで、栄や大須で遊ぶ人がここにとめて歩いて移動するというのが知る人ぞ知る裏技なんだとか。このあたりの民間駐車場は30分250円くらいだから、長く駐車する人にしたら一日1,000円は安い。



若宮大通

 片側4車線の若宮大通。いわゆる100m道路というやつで、日本に三本ある。一本がこの若宮大通で、名古屋にあるもう一本は久屋大通。広島にも平和大通りというのがあるそうだ。小型飛行機なら緊急着陸できるくらいの広さがある。
 若宮大通が若宮八幡社から名付けられていることを知っていると、ちょっと名古屋通といえるかもしれない。
 
【アクセス】
 ・名古屋市営地下鉄鶴舞線「大須観音駅」から徒歩7分
 ・名古屋市営地下鉄名城線「矢場町駅」から徒歩5分
 ・名古屋市バス「名古屋市美術館東」から徒歩5分
 ・名鉄バス「矢場町」から徒歩5分
 ・駐車場 有料
 ・拝観時間 終日

 若宮八幡社webサイト
 

石垣と堀しか残ってないけど堀がいい駿府城跡<静岡シリーズ最終回>

城(Castle)
駿府城-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 静岡駅の表玄関、歩いて10分ほどのところに駿府城(すんぷじょう)の跡地がある。
 天守閣などの建物は何も残っていないものの、堀と石垣がかなり残り、往時の面影をとどめている。周囲は官公庁や学校が取り囲む一等地の場所に、これだけしっかり城跡を残した静岡の判断を称えたい。明治、大正、昭和と時代は移り変わっても、静岡は大御所様が作った駿府の町という誇りがあったのだろう。城郭は何も残っていないと聞いていてあまり期待していなかったけど、これだけ堀を残していたらそれだけで充分という気がした。本丸、二の丸の跡も、城跡公園として当時のスケールのまま整備されている。
 行ったのは静岡まつりが始まる前日だったから、4月2日のことだ。もうずいぶん前のような気がする。
 日本平と久能山東照宮についてはすでに紹介して、静岡シリーズは今日の駿府城で最終回となる。途中だいぶ飛んでしまったけど、今日で終わらせて気分的にもすっきりさせておきたい。桜の写真は、さすがにもう季節はずれとなった。

駿府城-2

 駿府城跡の見所はあまり多くない。城に興味があるとか、歴史が好きだとかいう人は放っておいても勝手に想像で楽しめるにしても、一般的に観光客を引きつけるものはほとんどない。
 上の写真は、二の丸巽櫓(たつみやぐら)と東御門で、いずれも平成に入ってから復元されたものだ。巽櫓は市制100年を記念して平成元年に、東御門は平成8年に再建された。両方で30億円かかったそうだ。
 一時、天守を再建するという運動が起こっていたようだけど、まったく進んでいないところをみると断念したのだろうか。
 巽櫓は二の丸東南の角にあり、辰巳の方角ということで巽櫓と呼ばれていた。西南には坤櫓(ひつじさるやぐら)もあったそうだけど、今は残っていない。
 巽櫓だけは有料で、城跡公園に入るだけなら無料だ。このときはもう閉まっていて、巽櫓に入ることはできなかった。中は展示室になっている。

駿府城-3

 誰の像かと思ったら、『東海道中膝栗毛』の、弥次さん喜多さんだった。
 なんでこんなところにと思ったら、作者の十返舎一九が静岡(府中)の生まれだったからという理由だった。弥次さん喜多さんも、作中で府中に泊まったことになっているんだとか。江戸に住む二人がお伊勢参りに行くときの珍道中のお話だ。

駿府城-4

 左が南多門櫓、真ん中が櫓門(一の門)で、右が高麗門(二の門)だと思う。

駿府城-5

 東御門二ノ門の高麗門。
 東西南北一つずつ入口はあるけど、やはりここから入るのが一番気分が出る。

駿府城-6

 東御門。
 人の大きさと比べてかなり立派なものだということが分かると思う。
 正確に復元したというから、外観は当時のものに近いんじゃないだろうか。
 家臣たちの主要な出入り口でもあり、戦闘仕様にもなっている。堅牢な造りで、鉄砲狭間や石落としなども備えられているのは、大坂方との戦を想定してのことだろう。
 この門は、1635年の失火で天守閣や巽櫓などとともに消失し、3年後に再建された。
 しかし、それも宝永大地震(1707年)や安政大地震(1854年)で倒壊してしまった。

駿府城-7

 本丸堀の一部が復元されている。ここは明治時代に、陸軍が歩兵連隊を置くために埋めてしまっていた。

駿府城-8

 公園はかなり広く、天守跡を探すのにちょっと手間取ったくらいだ。
 ちょうど花見シーズンで、花見客がいたり、翌日の静岡まつりに備えて慌ただしく準備が進められていた。それでなんだかザワザワして落ち着かない雰囲気だったけど、普段はもっと静かな市民の憩いの場なんだろうと思う。

駿府城-9

 家康の銅像発見。
 このあたりが天守閣が建っていたところのはずだ。近くに城跡の石碑を見たはずだけど、写真には撮っていない。
 家康はどうして駿河を自分の隠居の場所と決めたのか?
 一つには、自分が幼少期を過ごしたところというのもあっただろう。19歳までの12年間、今川家の人質として駿府で成長した。それは決して楽しいものではなかったに違いないけど、ここで培った忍耐が天下人にまで登り詰める原動力となったのだろうし、最後は故郷に帰りたいと思うのが人情かもしれない。生まれ故郷の岡崎では江戸から遠すぎる。
 温暖な気候や環境もお気に入りだったのだろうし、久能山というのもわりと早くから意識していた可能性がある。
 それから、風水というのも強く意識していたようだ。江戸城を作るときに利用して、一応の成功を見たという手応えがあったのだろう。
 東に青龍の巴川、西に白虎の東海道、北には玄武の龍爪山、南には朱雀の安倍川がある。駿河城のこの場所は、風水思想にのっとった街作りのためには最適の場所だったと思われる。大雨のために氾濫する安倍川は、その後大改修された。
 どうして駿河にしたのかと訊ねられた家康は、駿河は富士山がよく見えて、鷹狩りによい場所があって、ナスが名物で初ナスが美味しいからだと答えたというエピソードがある。たぶん作り話だろうけど、ここから初夢に見ると縁起がよいとされる一富士二鷹三茄子が来ているという説もある。 

 家康以前に、駿河の地を支配していたのは今川氏だった。室町時代、駿河守護だった今川氏がここに今川館を築いていた。ただ、城郭と呼べるようなものではなかったようだ。
 その後、武田信玄が駿河に攻め込み、その館は失われ、のちに武田を滅ぼした家康がこの地を支配下に収めた(1582年)。
 1585年から築城が始まり、段階的に工事が進められて、1586年には家康も浜松城から移ってきた。最終的な完成は1589年で、そのとき初めて天守が建てられたと考えられている。
 しかし翌1590年、北条氏が滅亡し、秀吉の命で家康は関東移封となってしまう。ようやく完成させた駿河城には、秀吉家臣の中村一氏が14万石で入城してきた。
 一説によると、駿府城があまりにも立派だったため、秀吉が嫉妬したからだという話もある。
 関ヶ原の戦いののちは、中村氏は米子に改昜となり、代わりに家康家臣の内藤信成が駿府城主となった。
 江戸幕府を開いたのが関ヶ原の3年後、1603年で、1605年には将軍職を息子の秀忠に譲って、家康は引退して大御所となった。しかし、これは表向きのことで、実質的な支配は依然として家康にあった。
 隠居所というよりも大御所政治をするために選んだのが駿府で、大がかりな改修工事と、城下町の整備を進められた。いわゆる天下普請というやつで、工事は急ピッチで進められることになる。
 1607年には主だった部分が完成し、家康が駿府に移ってきた。
 いまだ健在の大坂豊臣家に対する前線基地という意味合いもあったのだろう。1609年には名古屋城が同じく天下普請で築城されている。
 しかし、同年1607年12月、完成間際の駿府城から火が出て、天守や本丸御殿など、大部分が燃え落ちてしまう。大奥からの失火が原因だった。家康もあやうく難を逃れている。
 明けて正月から再建工事が始まり、8月には本丸御殿が完成したと伝わっている。まずは住むところが優先で、天守の完成は1610年だった。
 それにしても、駿府城の配置はちょっと変わっている。天守は普通、北の角などに建っているものなのに、駿府城は城内の中央付近にある。火事のあとの再建でこんなことになってしまったのかもしれない。
 1609年に、第十子の頼宣に駿府城主を譲り、家康は引退した。結局、1616年、74歳まで生きることになった。
 その後城がどうなったかといえば、1635年に、奥女中の燭台からの失火でまたもや全焼。すでに家康はなく、天守は再建されずじまいになってしまった。1615年の大坂の陣で豊臣家も滅び、敵はもういなくなったという安心感もあったのだろう。
 完成当時の天守は、金ピカでものすごく豪華だったというから、もう少し長く建っていたら、後世に史料なども残ったかもしれない。再建しようにも、詳しい資料がないので難しいという。

 1619年に頼宣が和歌山城主に移封されたあと、秀忠の二男・忠長が城主となる。
 長男の家光よりも出来がいいということで、家督争いになり、家光の乳母だった春日局が家康に直談判して、結局家光が三代将軍になったという、時代劇でよく見るあの弟だ。
 このあと、忠長は坂道を転がるように転落して、乱心を起こしたかどで捕まり、蟄居先の高崎城で自刃して果てた。
 以降、しばらく城主不在となり、駿府城は幕府直轄となった。
 明治の大政奉還で慶喜の養嗣子である家達が城主になるも、廃藩置県で城はもう無用の長物となってしまった。駿府も静岡に改名された。
 明治22年に静岡市に払い下げられ、しばらくは陸軍などが使っていた。
 公園として整備されたのは戦後、昭和24年のことだ。

駿府城-10

 桜の季節だけに桜を撮る。

駿府城-11

 内堀の桜。
 せっかくだから、内堀を半周くらい歩いてみた。いい石垣も残っているし、堀自体の風情は名古屋城より上だ。

駿府城-12

 大手御門の跡。
 このあたりも当時の面影をとどめている部分だ。
 向こうに見えている高い建物は、静岡県庁で、最上階を無料解放しているから、登れば駿府城跡を見下ろしたり、静岡市内を一望できたりする。

駿府城-13

 あんなところに教会があるではないかと近づいていったら、市役所だった。なんで、このデザイン。
 昭和9年築というから、歴史的建造物と言ってもいい。

 大津巡りシリーズに続いて、静岡シリーズも終わった。
 そろそろ地元ネタに戻ろうと思う。ゴールデンウィークに、地下鉄に乗ってあちこちふらついてきたので、地下鉄シリーズを始めたい。
 ぼちぼち電車の旅も行きたいところではあるのだけど、しばらく西に向かうのは避けた方がよさそうだ。

ありがとう大津、また会う日まで <大津巡り24回・最終回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
大津番外編2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 大津巡りシリーズは、3回の予定だった番外編を2回にして、今回が最終回ということなった。必要がなさそうな写真を削ったら1回分に収まったので、もうこれで終わりにする。本編が終わったら、気分的にもだいぶ遠い出来事になってしまった。
 今日は唐橋前駅の南西エリアから再開する。このときは御霊神社へ行ったのだった。
 右に写っている初田酒店は昔からの店だろうか。家はけっこう古そうだった。
 この地域は川が二股に分かれた中州になっている場所だ。昔からこういう地形だったのだろうか。何川かは知らない。瀬田川に流れ込んでいるのか、瀬田川から分岐しているのか、どちらだろう。

大津番外編2-2

 御霊神社横の水路と桜。
 桜は満開を過ぎていたものの、最後の桜を見ることができてよかった。欲を言えば、もう一週間早ければ言うことなしだった。滋賀は名古屋より寒いというイメージがあって、ちょっと読み違えた。

大津番外編2-3

 古い町並みには必ずある、閉店した美容院。小さな町にも驚くほど美容院はあるのだけど、閉鎖して久しいようなところも多い。
 こういう店舗跡には、昭和の夢が破れたロマンのようなものを感じて、見ると撮らずにはいられない。

大津番外編2-4

 川とも言えないような水路だけど、小さな橋がたくさん架かっていて面白い。各家庭に一本というような感じかもしれない。ふと、醒ヶ井を思い出す。
 こんなところでも、大雨で増水すると危なそうだ。

大津番外編2-5

 御霊神社を超えた先に大きな桜の木が見えたから、そちらまで行ってみることにした。
 地図で見ると、地蔵寺というところのようだ。
 なかなか立派な、いい桜の木だった。

大津番外編2-6

 駅近くにあった長徳寺。
 入るつもりはなかったけど、門が閉まっていたから入りたくても入れない。
 大津の寺は、観光地になっているところ以外は、けっこう閉鎖的な感じがした。

大津番外編2-7

 ここはどこだろう。写真を見ても、まったく思い出せない。
 何徳院だろうか。よく見えない。

大津番外編2-8

 これもたぶん、場所は飛んでいる。膳所あたりだったか。ちょっと覚えていない。大津で教会は珍しいと思って撮った一枚だ。他の教会は見かけなかった。たまたまかもしれないし、この地区ではキリスト教が流行ってないのかもしれない。実際は、大津にもたくさん教会はあるのだろうけど。

大津番外編2-9

 思い返せば、大津巡りの第一回目は、弘文天皇陵だった。特に重視していたわけではなかったのに、帰ってきてみれば大友皇子を連れてきてしまったのではないかというくらい、しばらく壬申の乱にとりつかれることになった。
 上の写真は弘文天皇陵へ向かう道で、今見るとまた感慨深いものがある。
 今回の大津行きが非常に意義深いものになったのも、ここへ行ったことが大きかった。もし飛ばしていたら、大津巡りシリーズも違ったものとなっていたんじゃないだろうか。
 偶然か、縁か、呼ばれたのか、いずれにしても弘文天皇陵行きは正解だった。

大津番外編2-10

 この風景には見覚えがある。ここも遠くから桜が見えたから近くまで行ったのだった。
 ただ、どこで見たのだったかは、まるで思い出せない。弘文天皇陵の帰りだろうか。とすると、西念寺あたりかもしれない。

大津番外編2-11

 石山坂本線は、半分無人駅のような感じで、ところどころでフリーパスのようなことになった。
 私は一日乗車券を持っていたから駅員がいてもいなくてもあまり関係はなかったのだけど、なんだかスルーしてしまっているようでちょっと不安な感じがした。
 かなりの赤字路線らしいから、人件費を削減しているのだろうか。

大津番外編2-12

 大津歴史巡りとはまったく関係ないけど、古い二階建てアパートも撮ってみる。
 いかにも昭和のアパートといった風情がけっこう好きなのだ。

大津番外編2-13

 時間も場所もけっこう飛んで、最後は三井寺のライトアップを見に行ったときの、琵琶湖疎水(疏水)風景で締めくくる。
 明治時代に、琵琶湖の水を京都へ引っ張っていくために作った水路で、今もその面影を残している。
 かつては上水だけでなく物資を運ぶ舟も行き来していたそうだ。
 三井寺前の琵琶湖疎水沿いは桜の名所となっている。ここはかなり早めで、もう終わりかけだった。

大津番外編2-14

 部活帰りっぽい女子高生が携帯で桜を撮っていた。
 その後ろ姿を見て、しずちゃんみたいだなと、ふと思う。
 ここは鹿関橋の上で、桜見物や写真を撮る人が集まっていた。

大津番外編2-15

 これでやっと、大津巡りシリーズは完結となった。全24回。長々とおつき合いいただきありがとうございました。
 電車の旅は毎回強い印象を残すのだけど、大津巡りは特に強く記憶に刻まれる旅となった。奈良、滋賀方面は相性がいいようだ。町の空気とよく馴染む。
 巡ってきた場所に関しては、ほぼ書き切れたと思う。もちろん、一見さんでは見えなかったところや理解不足も多々あるだろうけど、きっかけとしては申し分ない。次回以降につながる旅だった。
 大津は必ず近い将来、再訪しなければならない場所となった。今回の流れの中では、天智天皇陵はどうしても行っておかないといけないし、取りこぼした寺社がいくつかある。
 夏は暑いから、紅葉の秋なんかがよさそうだ。またきっと行こう、大津。

着地点は予想と少し違った中華寄りサンデー

料理(Cooking)
中華寄りサンデー

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8



 今日は中華寄りサンデー。中華料理というほど中華ではなく、かとって和食でも洋食でもなく、中華に近い料理に仕上がった。家庭料理なんだから、境界線をはっきりさせる必要もない。
 最初は卵そぼろを食べたいというところから始まったのだけど、いつの間にか卵そぼろは消えていた。最終的には、シーチキン入りのスクランブルエッグとして、わずかに痕跡を残すにとどまった。
 魚も、マグロのコロコロステーキにするつもりが、なんとなく白身のメカジキになってしまったり、味付けも豆板醤のピリ辛の予定が酢豚っぽくなったりと、当初の思惑とはずれたものとなった。結果的に美味しければ成功ということでいいのだけど。

 左手前は、酢豚っぽいけどだいぶ違う。
 ごま油でタマネギとニンジンを炒め、塩、コショウとカタクリ粉をまぶしたメカジキを入れて、酒、みりん、白しょう油、酢、砂糖、唐辛子、中華の素、トマト、豆板醤を加えて更に炒める。
 少し水を追加してとろみ具合を調整して、大葉の刻みを振って混ぜれば完成だ。
 豚肉でやれば酢豚だろうけど、魚でも充分に美味しくできる。
 右奥が、卵そぼろから出発した料理だった。
 大根は下茹でして、豆腐と一緒に白だしをかけて、魚焼きグリルで両面を焼く。
 そぼろは、シーチキンを炒めて、そこに卵を割り入れ、かき混ぜつつ、塩、コショウ、カレー粉、白しょう油、みりん、酒を入れて、そぼろにする。
 ちょっと炒めすぎたか。半熟くらいの感じだともっとよかったかもしれない。
 奥は、ワンタンだ。
 ギョーザとシューマイとワンタンでは、ワンタンが一番好きだ。皮の感じが全部違っていて、ワンタンが一番ツルッとした歯ごたえがあって美味しい。水餃子はまた別物だ。
 中華の素でスープを作り、鶏肉、白菜を煮込む。ごま油とラー油と唐辛子でピリ辛にする。
 ワンタンの具は、エビと長ネギにした。ギョウザのように具をたくさん詰めず、少なくして皮を味わう。
 肉を使わなくても美味しいワンタンができる。

 着地点こそ予想とは違うものとなったものの、料理としては成功だったと言える。何もかも予定通りいってしまったら、かえって面白くない。作ってみなければ何ができるか分からない方が楽しみがある。
 なんて負け惜しみのようなことを言ってると上達しない。イメージ通り作れた方がやっぱりいい。平凡な料理が嫌なら、イメージを工夫すればいいだけのことだ。まだまだ料理のイメージ力が弱い。
 白しょう油、白だしもすっかり定着したし、驚きもなくなってきた。そろそろまた別の調味料を試してみたい。次はバルサミコ酢なんかよさそうだ。本物はびっくりするくらい高いから、バルサミコ酢もどきを買ってきて、次はイタリアンにしようか。

旅の思い出を振り返りつつ番外編その1 <大津巡り23回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
大津番外編1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 大津巡りシリーズは本編が終わって、あとは番外編だけとなった。本編に入りきらず、捨てるには惜しい写真を集めてみたら、3回分になった。せっかくだから、全部載せてしまうことにする。旅の思い出を振り返りつつ。
 石山坂本線は、大津散策と最高の相性だった。見所が沿線沿いにあり、電車の本数も多く、一日乗り放題500円と安い。主だったところはだいたい回ったつもりだけど、取りこぼしもある。もう一回行っても丸一日楽しめるはずだ。次回があれば、途中で枝分かれしている京津線沿線の散策もしたい。

大津番外編1-11

 ここから先は巡った順番に振り返ってみよう。
 これは石山寺でのワンシーン。
 石山寺では、光と影のコントラストが印象的だった。

大津番外編1-3

 唐橋前駅を降りて、唐橋を目指して歩いている途中に、古い家が並んでいるところがあった。
 この通りが旧東海道だろうか。

大津番外編1-4

 同じ通りの並び。
 車通りの激しい通りに古い町並みが残っていて、その隣では高いマンションが建設中だったりする。
 大津を代表するのがどのあたりの風景なのかはちょっと分からないのだけど、京都とも奈良とも、同じ滋賀県の別の町とも違う独特の感じがある。

大津番外編1-5

 見ると嬉しくなる細い路地。
 中に入っていきたくなる気持ちを抑えて先を急ぐ。大津巡りはまだ始まったばかりだった。

大津番外編1-6

 古い家だから撮ったというのもあるのだけど、それより「瀬田しじみ最中」というのが気になった。
 それは文字通り、しじみが入ったもなかなんだろうか。どう考えても美味しそうじゃない。
 この店は閉めて久しい感じだったけど、帰ってきてネットで検索したら見つかった。なるほど、しじみが入ったもなかではなく、しじみの恰好をしたもなかだ。
 おそらく、昔、瀬田のこのあたりはしじみがよく採れて名物だったのだろう。今でも琵琶湖でしじみは採れるんだろうか。

大津番外編1-7

 道沿いに小さな祠がある。愛宕神社というから、京都の愛宕山から勧請したものだろうか。
 火伏せの神とされているようだから、名古屋でいうところの秋葉山のような神様かもしれない。

大津番外編1-8

 ちょっとハイカラな洋館風。
 明治、大正というほど古そうではなく、昭和に入ってからの建物だろう。

大津番外編1-9

 建部大社へ行った帰り、安養寺も寄っていこうと思っていたのだけど、遠くから見て、まあいいかと引き返した。

大津番外編1-10

 八景山正法寺も道の反対側から見ただけ。ここはたまたま道に迷っている最中に見ただけだ。

大津番外編1-11

 瀬田の唐橋を渡っているところ。向こうに新幹線が見えている。
 ということは、新幹線の中から瀬田の唐橋が見えるのか。今まで知らなかったから、意識して見ることはなかった。
 一度行ったところとは縁ができて、そこをまた通るだけでも楽しみになる。

 旅の行程としては、これでまだ全体の4分の1くらいだっただろうか。この続きは、明日以降ということになる。
 つづく。

三尾神社はただのウサギの神社じゃない

神社仏閣(Shrines and temples)
三尾神社入り口




 ウサギの神社としてウサギ好きの間ではちょっと知られた神社がある。滋賀県大津市の三井寺の入り口に建つ三尾神社(みおじんじゃ)だ。
 この神社についての扱いをどうするか迷って、決めかねたまま最後になってしまった。簡単に説明しようとするとあまり書くことがないのだけど、滋賀(高島市)のもう一つの三尾神社や水尾神社、三尾氏と継体天皇、神代文字で書かれた謎の古史古伝「ホツマツタヘ(秀真伝)」などを絡めて書こうとすると、それはちょっと大変なことになる。
 軽く勉強はしてみたものの、全体を把握して要点を書くにはまだ理解が足りないと判断して、今回は見送ることにした。まだ機は熟していない。こういうのも縁だから、いずれ機会があると思う。
 というわけで、今回は三尾神社について、ウサギの神社という一般的な紹介をするにとどめたい。




神楽殿

 この神社のことはまったく知らず、三井寺のライトアップを見に行ったとき、入口近くにあったからついでに寄ってみただけだった。ライトアップが始まるまでまだ20分ほどあったから、時間調整にちょうどいいと思ったのだ。
 境内に入ると、いたるところにウサギ関連のものがある。この神社の関係の人がウサギ好きで、ウサギを神社のマスコットにしてるのかなどと考えたりしたけどもちろんそんなことはない。
 帰ってきてから調べてみたところ、ウサギは神の使いで、選ばれたのにはちゃんとした理由があったことを知ったのだった。
 起源は伊邪那岐命(イザナギノミコト)の時代まで遡る。
 イザナギノミコトが、三井寺(圓城寺)の西にある長等山にやってきて、この山の神(地主神)となったことが始まりだった。
 でも、ちょっと待て。いつ、イザナギはこの山にやって来たのか。イザナギといえば、死んだイザナミを追いかけて黄泉国へ行って、後ろを振り返ってはいけないというのを振り返ってしまったばっかりにひどいことになって、その後、近江の多賀へ逃げ込んで隠れたのではなかったか。淡路島の多賀という説もあるけど、近江の多賀といえば琵琶湖の東で、イザナギは多賀大社に祀られている。ということは、イザナミが死ぬ前に、長等山に来て地主神になったということだろうか。
 三尾神社の祭神はイザナギともいい、三尾明神ともいう。途中で三井寺に取り込まれてしまった関係で、イザナギと三尾明神は同一視されたということなのか。
 三尾の名前の由来は、イザナギが腰に赤、白、黒の3本の腰帯をつけていて、それが3つの尾のように見えたことから来ているという。
 その腰帯はやがて神格化され、赤尾神、白尾神、黒尾神となり、そのうち三尾神社の神は赤神で、三井寺山中の琴緒谷(ことおだに)に現れた。白尾神が今の三尾神社があるところに、黒尾神は鹿関(かせぎ)にそれぞれ降り立った。
 赤は赤尾天照太神、黒は黒尾新羅太神、白は白尾白山権現だという。
 赤尾神が現れたのが、 卯年の卯月卯日、卯の刻、卯の方角からだったため、ウサギが神の使いに選ばれたということになっている。
 その後、859年に円珍が園城寺とともに再興し、更に室町時代に足利将軍家が復興させたとされている。秀吉も社殿の修理を命じている。
 というのだけど、この説明では今ひとつよく分からないし、納得できない部分もある。三神が天皇家の始祖であるアマテラスと、朝鮮の新羅の神と、仏の白山権現と、すごい混ざり方をしている。有力豪族だった三尾氏や渡来人などが関わったもっと複雑な歴史が隠れていそうだ。ウサギを神の使いとしたのも、もう少し深い意味があったんじゃないだろうか。
 明治の神仏分離令によって、三井寺にあった三尾神社は現在の地に移され、早尾社、新日吉社(長等神社)と合祀された。少し南にある長等神社との関係はどうなっているのだろう。あちらは寄ってないから、よく知らない。
 その後、この神社は明治に入ってトントン拍子に出世していく。この地に移ったのが明治9年で、14年には郷社、明治22年には内務省から資金が与えられ、明治43年には県社に昇格している。寺の中の一つの守護神にすぎなかったのに、もともとこの神社は力を持っていたということか。




拝殿前

 訪れたのが日没直後ということで、提灯に明かりが入っていい雰囲気だった。昼間訪れていたら、少し印象が違ったかもしれない。




檻の中のウサギ

 ウサギの予備知識がまったくない状態で訪れているから、いきなりウサギの口から水が出ているのを見たら笑う。なんでウサギなんだろうと誰だって不思議に思うだろう。
 何故か檻に囲まれているし、このウサギは何か悪いことでもしたのだろうかと考えたとしても無理はなかった。




拝殿

 思ったよりも奥行きがあって立派な社殿が建っていた。
 最近の調査で、本殿は室町時代に建てられたことが判明したそうだ。

 追記。
 2012年(平成24年)に本殿が重要文化財に指定された。



拝殿前と灯籠

 いろんなところにウサギがいる。
 のれん(?)にもウサギの絵が描かれていて、誰かの手書きだろうかなどと思った。よほどウサギが好きらしいというのがこのときの印象だった。
 神紋も「真向きのうさぎ」というウサギをかたどったものだから、かなり初期の段階からウサギが神の使いと定まっていたようだ。
 ウサギの神社というのは全国的にも珍しいんじゃないかと調べてみたら、埼玉浦和に調神社(つきじんじゃ)というのがあり、京都にも岡崎神社がある。他にもウサギ関連の神社はあるのかもしれない。




兎の置物

 イザナギ、イザナミの関係で、縁結びのご利益もうたっている。
 卯年生まれの人の守り神でもあり、卯年には大勢の参拝客が訪れるんだとか。
 ウサギ好きの人にとってはなかなか楽しい神社と言えそうだ。




境内の様子

 境内は掃き清められていて、清潔感がある。静かで落ち着いた雰囲気は好感が持てる。




境内社

 境内社の一つ。日御前神社(ひのごぜんじんじゃ)。
 天武天皇の長子である大津皇子(おおつのみこ)の姫・瓜生姫(うりうひめ)が創建したと伝わる神社で、もともとは別の場所にあったものを明治の終わりにこの地に移され、三尾神社の末社となった。
 アメノミナカヌシ(天之御中主神)、タカミムスビ(高御産巣日神)、カミムスビ(神産巣日神)と、天地開闢の際、最初に現れたとされる三神を祀っている。
 本殿の前に置かれた朝瓜に似た石に拝むと赤ん坊の夜泣きがやむとかいう話で、安産祈願などで訪れる人も多いという。



境内社三社

 白鬚神社夷子神社、天満宮、白山神社愛宕神社。

 三尾神社についてはまだ心残りもあるから、またどこか別のところでつながって欲しい。そのときまでにもっと勉強して、継体天皇についても理解を深めておきたい。となると、越前へ行かなければいけないか。
 滋賀のもう一つの三尾神社は、今はもう姿を消している。水尾神社は今もあって、あちらが三尾氏の本拠だろうから、機会があれば高島方面も行ってみたい。その南には、小野一族を生んだ小野の里もある。
 近江の歴史もなかなかに興味深い。
 
【アクセス】
 ・京阪電気鉄道坂本石山本線「三井寺駅」下車。徒歩約10分。
 ・JR東海道本線(琵琶湖線) 「大津駅」 下車。徒歩約30分。
 ・駐車場(三井寺) 有料(500円)
 ・拝観時間 終日
 
 三井寺webサイト
 

作り道の坂本町並み断片風景 <大津巡り21回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
坂本町並3-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 坂本町並み散策3回目は、「作り道」周辺の風景紹介となる。
 日吉大社へ行くとき、坂本の町を見てみたいと思って、坂本駅ではなく一つ手前の松ノ馬場駅で降りて歩いた。写真はそのときのものだ。
 時間と歩く方向が前後するけど、とりあえず先にこちらの写真を出しておく。
 駅を出て、北西方向へと進むと、早くも古い家並みが登場して出迎えてくれた。これはよさそうだとすぐに分かった。
 古いといっても、昭和初期くらいのものだろうか。中には明治期のものもあるのかもしれない。
 写真からも上り坂が始まっていることが分かる。

坂本町並3-2

 棟続きになっているように見えるこの家は、一軒なのか、数軒がくっついて並んでいるのか。
 昔は長屋というものがけっこう残っていた。昭和50年代以降は急速に姿を消すことになったけど、このへんはその名残だろうか。

坂本町並3-3

 のっぽの桜が、大変な状況の中で頑張って生きている。
 横に枝を広げられないから、真っ直ぐに伸びている。それでも電線に絡みそうになっていて、大丈夫なのかと思わせる。

坂本町並3-5

 曲がり角に、白い土蔵の建物があって、松井歯科医院という看板がついている。この中で治療が行われているのだろうか。
 このへんまで歩いてくると、遠くの琵琶湖がかなり下の方に見える。

坂本町並3-5

 毘沙門堂という小さな堂が建っている。
 坂本は寺社町で、神や仏だらけだ。これだけたくさんに守られていたら大丈夫だろうという安心感がある。
 
坂本町並3-4

 作り道に入ったところだと思うけど、どうだったろう。
 作り道の名前の由来はよく分からない。日吉大社や延暦寺の参道として発展していた道で、造り酒屋や醤油屋、菓子屋などの製造関係の商店が並んでいたから地元でそう呼ばれるようになったのではないかという説があるらしい。
 旅人のための旅籠も並んでいたというけど、今はもうそういう家は残っていない。古い家屋と、新しい家屋が混在して建ち並んでいる。

坂本町並3-15

 これは面白いと思った。石垣をくり抜いて、中に祠を埋め込んでいる。いいアイディアだ。発想の転換が賢いと感心した。

坂本町並3-7

 写真の並び順がおかしい。どういう順番で写したんだか、思い出せない。
 これも坂本のどこかで撮ったような気がするのだけど、もしかしたら違っているかもしれない。

坂本町並3-9

 町屋風の建物。何かの商売屋さんをしていたところだろうか。二階に窓がないから、旅籠ではなさそうだ。
 この通りは純然たる観光地ではないから、説明板のようなものは立っていない。

坂本町並3-10

 古い家が残る町並みとしてはお馴染みの感じだ。
 戦後、大きく様変わりしたあと、少しずつ姿を変えてきたのだろう。こういう町並みも、変わらないようでいて、10年、20年経つとけっこう変化がある。30年後などに再訪すると、昔の面影がまったくなくなっているなんてこともあり得る。

坂本町並3-11

 この通りにもいくつか神社があった。
 地図で見ると、福成神社と、徳永神社というのがある。そのどちらかか、別のものか。

坂本町並3-12

 これも何神社か確認していない。
 看板の文字は榊宮社か。

坂本町並3-13

 古いマンダムの看板がかかっていたから、化粧品屋さんか、薬屋さんか。
 そういえば、現役の商店はほとんどなかった。周囲にはコンビニも、スーパーもなさそうだ。住民の人たちは日常の買い物をどこでしてるのだろう。

坂本町並3-14

 毘沙門天の字を見て上杉謙信を思い出しつつ、このへんも素通り。

坂本町並3-8

 こんな調子で、結局、行きも帰りも松ノ馬場駅と日吉大社を往復することになった。それなりに距離があるから、往復はオススメしないけど、片道は歩いてみるといいと思う。なかなか魅力的な町並みだった。

 坂本散策編もこれで終わり、残すは三尾神社と番外編だけとなった。
 シリーズは20回を超えたし、行ってきてからひと月半経ったから、そろそろ終わりにしてもいい。あと2回か、3回か。

坂本歩きは寺社巡りから古い町並み散策へ <大津巡り20回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
坂本町並2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 滋賀院門跡(しがいんもんぜき)あたりをうろついていたときは、もう5時半くらいになっていただろうか。4月はじめのことで、そろそろ日没時間も近づき、石畳は西日に染まっていた。
 穴太積みの石垣と白壁に囲まれているあたりは、もう滋賀院門跡の敷地内だろう。このあたりまで来ると歩いている観光客の姿も少なく、寺町特有の静かな雰囲気が漂っている。
 とりあえず、門の前まで行ってみることにした。

坂本町並2-2

 門が開いている。入っていいのだろうかと迷いつつ、やめておいた。拝観は午後4時半までのはずだし、中から人の声も聞こえていたから、勝手に入っていくのはまずいと思って。
 延暦寺事務所、通用門と書かれているから、観光客と関係者と両方の通用門になっているのだろう。参拝者用の入口は更に中に入ったところにあるんじゃないかと思う。
 滋賀院門跡というから行く前はお寺の跡地か何かかと思っていたら違った。どういうところなのかを知ったのは、帰ってきて勉強したあとのことだった。
 江戸時代まで天台座主の里坊だったところで、もともとは天海が後陽成天皇から京都の法勝寺を下賜されてここに移築し(1615年)、後水尾天皇から滋賀院の名を下賜された(1655年)。
 という説明を読んですぐに理解できた人は、かなりお寺関係に詳しい人だ。私は最初、どういうことかさっぱり理解できなかった。
 まずは用語の意味を知って、その上で話の流れを理解しないとよく分からないと思う。それはこういうことだ。
 まず、天台座主というのは、天台宗延暦寺派の総本山である比叡山延暦寺の貫主をいう。要するに一番のお偉いさんだ。
 当然ながら人徳があって人間としても僧侶としても優れた人がその役職につく。はずなのだけど、平安時代以降は、皇族の人間が出家してこの役につくことが多くなった。そういう人たちのことを法親王(ほっしんのう)という。
 それから、里坊というのは山坊に対する言葉で、60歳を過ぎた僧侶が暮らすために建てられた寺のことだ。延暦寺の僧はひとたび山に入ったら一生比叡の山で生きるのが決まりだったのだけど、比叡山の冬は厳しいからということで、修行を終えた老僧はもう許してあげようという思いやりから里坊が生まれた。日吉大社の参道に並んでいるのは、そういうお寺だ。
 中でも滋賀院門跡は、一番偉い天台座主の里坊ということで、総里坊、あるいは本坊と呼ばれていた。
 で、どうして門跡なのかということなのだけど、まず京都に法勝寺というお寺があって、これは歴代天皇の授戒の寺という格式の高い寺だった。
 授戒というのは、戒律を授けるということで、出家しようという人を僧侶として認める儀式をいう。僧としての心構えを教えて、僧として認めますという権限だ。
 天皇が息子などに天皇位を譲位すると上皇(じょうこう)になる。このとき出家すると、法皇(ほうおう)と呼ばれる。後白河法皇などがそうだ。天皇が出家するとき授戒する寺となれば、当然、位が高いということになる。
 その歴代天皇の授戒寺である法勝寺を、後陽成天皇から天海がもらった。天海といえば家康のブレーンであり、のちに天台座主にもなっている。
 その後、1655年に、後水尾天皇がこの寺に滋賀院という名を与えた。それ以降、中にあった御殿のことを滋賀院御殿と称するようになる。
 しかし、1878年(明治11年)に火事でこの建物が全焼してしまった。ということで、それからこの寺は、滋賀院門跡と呼ばれるようになったというわけだ。
 かなりまわりくどい説明になったけど、これでどうして門跡という名前になっているのかが分かったと思う。
 火事で焼失後は、比叡山無動寺谷法曼院から建物3棟を移築して再建した。
 約2万平方メートルという広大な敷地には、内仏殿、宸殿、書院、庫裏、土蔵などが建ち並び、庭園からは天海の廟所である慈眼堂を眺めることができる。
 一歩も中に入っていないのに、滋賀院門跡についてこんなに詳しい人間はそういないと思う。当然、中の写真は一枚もない。せめて外観の写真だけでも何枚か紹介しよう。

坂本町並2-3

 桜はかなり散りかけていた。ときおり、風に吹かれた桜の花びらが舞って、風情のあるいい風景だった。
 でもここはやはり秋の方がよさそうだ。

坂本町並2-4

 これが勅使門だろうか。
 5本筋壁があるところらしいから、たぶんここがそうなのだろう。
 勅使(ちょくし)というのは、天皇からの使いという意味だ。今はどうか知らないけど、昔は普通の人間が出入りできる門ではない。
 上皇の使者は院使(いんし)、皇后の使者は皇后宮使(こうごうぐうし)など、それぞれ呼び名があって、ややこしい。
 勅(ちょく)は、天皇の言葉や命令のことで、文書の場合は勅書(ちょくしょ)、口頭によるものを勅語(ちょくご)という。現在は、天皇「おことば」のように表現されるようになった。

坂本町並2-5

 坂本だけでなく、大津の町は琵琶湖のほとりということで、水の流れが至る所にあって、全般的に清浄な感じがある。
 寺社などでも、水の流れは外界と神域を分けるための装置として使っているし、日吉神社では主だった社殿のすべてを水の流れで囲っていた。
 水とともにある町は、空気の淀みが少なくなる。そういう気がするというだけではない、実質的な効果もあるんじゃないだろう。マイナスイオンとかそういうことでもあるかもしれない。

坂本町並2-6

 小さな神社は表から写真を撮っただけだった。
 これはどこの神社だったろう。大将軍神社だったか。
 大将軍というくらいだから名のある将軍を祀った神社かと思ったのだけど、詳しいことはよく分からなかった。

坂本町並2-7

 坂本名物、日吉そばとある。なかなか古い店構えで歴史がありそうだ。坂本には有名なそば店が2軒あって、これがその一つらしい。
 日吉そばというそばが名物なのか、日吉そばという店名なのか、今ひとつよく分からなかった。信州そばとかとは違うのか。

坂本町並2-8

 今度は北の路地を少し散策してみることにした。
 立派なしだれ桜が植えられていたのは薬樹院だったか。ちょうど見頃で、いいものを見せてもらった。

坂本町並2-9

 ここにも小さな神社があった。
 地図で見ると、市殿神社か。
 鳥居の額に屋根がついているというのは珍しい。

坂本町並2-10

 北の路地も、古い家屋が残り、落ち着いた雰囲気の町並みとなっている。
 時間があれば、このあたりの路地もくまなく歩いてみたかった。古い家がかなり残っていそうだ。

坂本町並2-11

 日本家屋の格子というのは、なんだか心惹かれるものがある。
 懐かしいという感情なのか、それだけではない特別な感覚なのか。
 ある程度日本人共通の感覚だろうに、現在の建築デザインに格子は活かされていない。格子はノスタルジックなものというのが共通認識なんだろうか。

坂本町並2-12

 白壁の土蔵も、こういう町並みにはつきものだ。
 滋賀は京都の隣だから、空襲の被害も少なかったのだろう。彦根城も助かっている。

坂本町並2-13

 昔ながらの家が続く。
 古いことは古いけど、きれいではある。古さを残しながら修繕して住んでいるのだろう。町並保存地区にはなってないだろうに。

坂本町並2-14

 奥へ進むと、観光地の雰囲気は消えて、普通の町の空気になる。特に歴史的な建造物があるわけでもないこんなところまで入っていく観光客はあまりいないだろう。私はこういうところが好きだから、入っていけるところは入っていきたい。路地には目がないのだ。

坂本町並2-15

 もう一つの有名そば店、鶴喜そばを発見。こちらは創業250年の老舗らしい。
 建物は1887年築ということで、登録有形文化財に指定されている。

 坂本町並み散策第2回はここまで。
 次回3回目が最終回で、大津シリーズも終わりが近い。
 つづく。

坂本の町をぷらぷら歩いて雰囲気を味わいながら撮る<大津巡り19回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
坂本町並1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 坂本駅から日吉大社へと続く広い参道と、一歩中に入った細い路地は、昔の光景を残す味わい深い町並となっている。
 穴太積みと呼ばれる石垣が連なり、たくさんの寺社が点在している。これはぜひ歩いてみなければなるまいと思わせる。
 比叡山延暦寺や日吉大社の門前町として発展し、坂本城の城下町としての顔も併せ持っている。琵琶湖畔でもあり、早くから人が住み始めた土地で、渡来人の痕跡も残る。
 滋賀県にはいくつか古い町並みがあるけど、そういうところと似ているようで似ていない。ちょっと独特の風情のようなものを感じた。
 目についたものをやたら撮っていったら、写真の枚数が多くなった。せっかく撮ったから全部出してしまおうということで、3回に分けて紹介することにしたい。これが終われば、ようやく大津シリーズも終わりが近づく。

坂本町並1-2

 日吉大社の前あたりまで来ると、かなり登っていることが分かる。遠くの琵琶湖が下の方に見える。
 このときはまだ桜が残っていた。大津シリーズが断続的にひと月以上続いていることが分かる。

坂本町並1-3

 日吉大社参道の両側には、いくつもの里坊が並んでいる。
 里坊というのは、比叡山で修行を積んだ坊さんたちの隠居所のことで、全部で50以上あるそうだ。
 ここは、観光地でもあり、寺社関係の人たちの町でもあり、同時に市民が暮らす住宅地でもある。そういう渾然一体となった感じが特有の空気感を作り出しているのだろう。

坂本町並1-4

 参道から少し入ったところには比叡山中学と比叡山高校があり、夕方の下校時には多くの学生が歩いている。初めて見る風景なのに懐かしく感じるのはどうしてだろう。大林宣彦作品に出てくる尾道のイメージが重なっているのかもしれない。

坂本町並1-5

 赤白横断幕と桜。横断幕の意味は分からない。寺の前に道路を挟んで舞台のようなものがあり、物見台が組み立てられていた。舞台で何か出し物をやって、それを見物するためのものだろうか。

坂本町並1-6

 舞台裏から撮ってみる。光と影と桜。

坂本町並1-7

 お寺だけでなく、小さな神社もたくさんある。
 地図にも載っていないようなものが多くて、帰ってきてからも調べがつかなかった。

坂本町並1-8

 これは恵光院だったか。
 里坊は一般開放していないところが多い。このあたりは観光のための寺ではなく、生活のための寺だからだろう。

坂本町並1-9

 門の外から庭の中をのぞいてみる。

坂本町並1-10

 隣の律院か、実蔵坊か、そのあたり。
 住職らしき人が外に出てきて、竹ぼうきで掃除をしていた。

坂本町並1-11

 滋賀院門跡が閉まっている時間だというのは分かっていたのだけど、前だけでも行ってみようということで、参道を南側に入っていった。
 比叡山中学の校門からして普通とは違う。

坂本町並1-12

 石畳の町並は風情があっていい。
 というのは部外者の感想で、実際に暮らすとなると不便なところも多いのかもしれない。坂の多い町だし、道は狭いし、初心者ドライバーには厳しい町だ。歩行者としても気をつけてないと、けっこう車が走ってくる。

坂本町並1-13

 このあたりの風景も雰囲気がある。桜の季節もいいけど、秋はもっとよさそうだ。雨の日もしっとりしていいのだろう。

坂本町並1-14

 小さな神社も手入れが行き届いていて気持ちがいい。神職の人が管理しているというより、近所の住人たちがお世話をしてるんじゃないだろうか。

坂本町並1-15

 石畳の道は新しそうだけど、穴太積み(あのうづみ)の石垣は古い。苔むしていて、当時のものがそのまま残っているところが多そうだ。
 渡来人の穴太衆がこの坂本に住んでいて、彼らは石積みのプロ集団だった。 
 自然の石を加工しないで積み上げる手法で、戦国時代の城造りの際、大いに活躍した。
 この地方では彦根城や近江幡山城がそうだし、信長の安土城や秀吉の大坂城も彼らによって石垣が築かれたという。
 ただ、江戸時代以降は石垣の見た目も重視されるようになり、打込み接ぎ(うちこみはぎ)や切込み接ぎ(きりこみはぎ)が主流となって、穴太積みなどの野面積み(のづらづみ)は少なくなっていった。

 坂本の町並み第1回はこれくらいにしておこう。
 次回につづく。

義仲と芭蕉が眠る義仲寺は静かに訪れる人を待つ <大津巡り18回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
義仲寺-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 平家打倒に立ち上がった木曾義仲(きそよしなか)は、頼朝よりも早く京都上洛を果たし、平家をあと一歩のところまで追い詰めることに成功する。
 しかし、ここから先、義仲の敵は平家ではなく、頼朝となっていく。
 義経率いる頼朝軍が、義仲を討つべく京都に迫る。雌雄を決する宇治川の戦いで、義仲軍は惨敗。京都脱出を計るも、六条河原の戦いでも敗れてしまう。
 生き残ったのは、腹心の配下である今井兼平らわずか数名。態勢を立て直すために北陸へと逃れる途中、近江国粟津(あわづ)に追い詰められ討ち死に。
 義仲このとき31歳。今井兼平も自害して果てた。
 氷が張った田んぼに馬で乗り入れたところ、思わず深く、馬が足を取られて身動きできなくなっているところを矢で射られた。1184年1月20日、寒い日だった。
 歳月は流れ、一人の尼僧がこの地にやって来て義仲の墓近くに庵を結び、供養の日々を送った。その女性こそ、義仲の愛妾であり、勇猛な女武者としても知られた巴御前(ともえごぜん)だったという伝説がある。
 これが義仲寺(ぎちゅうじ)の始まりとされている。
 その後、草庵は荒れ、それを見かねて整備したのは、室町末期に近江守護をつとめていた佐々木六角氏だった。当時はまだ小さな寺で、石山寺の配下に入った。江戸時代になると園城寺に属することになる。
 江戸時代初期の俳人である松尾芭蕉は、義仲寺と近江を愛し、たびたびこの地を訪れ長逗留している。そして、遺言通り、木曾義仲の墓の隣に葬られた。
 江戸時代中期以降、再び荒れた義仲寺を、京都の俳僧・蝶夢が復興させた。
 戦後みたび荒れ、篤志家の寄進により三度目の再興を果たし、園城寺から独立した。
 江戸時代、この地は粟津ヶ原と呼ばれ、琵琶湖に面した東海道沿いの景勝地だった。
 現在は、琵琶湖が大きく埋め立てられて湖岸線は遠ざかり、義仲寺は住宅地の中に埋もれるようにしてひっそり建っている。京阪膳所駅から歩いて10分ほどではあるのだけど、場所が分かりづらくて迷った。このあたり一帯、往時の面影はほとんどとどめていないのではないかと思われる。

義仲寺-2

 あまりにもささやかすぎると思えるほどこぢんまりした自然石が芭蕉の墓石になっている。古写真で見る姿と今の様子を見比べてみても、ほとんど変わらない。
 芭蕉が大津の地に眠っているということを知っている人は少ないんじゃないだろうか。たまたま偶然ではなく、芭蕉自らがこの地を選んだのだった。
 どうしてそうなったのかを説明する前に、芭蕉の話を少し書きたいと思う。

 芭蕉は武士に憧れていた。それも悲劇的な武将に共感し、自分も戦いの中で華々しく散りたいと願っていたフシがある。
 風流に身を置き、一生俳句を作って暮らした枯れたじいさんと思っていると芭蕉像を捉え間違える。
 芭蕉が生まれたのは江戸時代前期の1644年だから、関ヶ原の戦いからまだ40年ちょっとしか経っていない頃だ。物心ついた頃でも関ヶ原は60年ちょっと前の出来事だから、私たちでいうと第二次大戦くらいの距離感といえばそう遠くないと思う。
 生まれは三重県伊賀で、農民に近い下級武士の家だった。伊賀出身ということもあって、奥の細道絡みで忍者説というのが生まれてくるわけだけど、それはまた別の機会にしよう。
 若い頃は一応、武士の端くれだった芭蕉は、武士の道を見限って、俳諧で食べていくことを決意する。
 大志を抱いて江戸に出たのは29歳のときだった。
 武士で大成する道がないとなってからは、芭蕉にとってのヒーローは西行となった。
 西行は、北面の武士というエリートの道を捨てて出家して、旅の中で生き、歌を作ることに一生を賭けた歌人だった。
 奥の細道の旅も、西行が歩いた道を自分で歩くための旅だった。その中で、もう一人の悲劇のヒーロー義経に思いを寄せ、涙したりもした。
 奥州で詠んだ「夏草や 兵どもが 夢の跡」と、最後の句となった「旅に病んで 夢は枯れ野を 駆け廻る」という二つの句は、悲劇的武将に対する共感と、武士への憧れと、旅に生き旅に死すという決意という三つの重要な要素をよく表している。一般的によく知られている「古池や 蛙飛び込む 水の音」などは、俳句の新境地を開いたという意味では重要な句ではあるけど、芭蕉の本質的な部分からは少し外れているようにも思う。
 芭蕉は、世間的な評価よりもずっとアウトローで、破滅的な人間だ。半分自暴自棄になって、旅に死にたいと願っているような人間がまっとうなはずがない。だからこそ、あの時代にあれだけ新しい俳句というものを生み出すこともできた。
 芭蕉は自らが望んだ通り、旅に生き、旅に死んだ。その中でも特に近江(大津)の地がお気に入りだった。
「行く春を あふみ(近江)の人と おしみける」など、大津で90近い句を作った。生涯あわせて約980句というから、1割近い。
 義仲の墓の前では「木曾の情 雪や生えぬく 春の草」と詠み、奥の細道の途中では「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」という句を残した。
 生前から死んだら義仲の隣に葬ってくれるよう弟子たちに頼んでいた。
 1694年10月12日。旅先の大坂で病死。享年51歳。
 遺言に従い、芭蕉の遺骸は、舟で淀川を上り、深夜になって伏見に着き、翌日、義仲寺に運ばれ、葬儀のあと埋葬された。

義仲寺-3

 木曾義仲の墓石の方が立派だ。これも昔の姿と変わっていない。
 木曾義仲の本名は、当然の如く、源義仲だ。
 源氏というのは、もともと天皇家の流れを汲んでいる。皇族以外の母親から生まれて天皇や皇太子になる可能性がない子供たちを、皇室の籍から抜いて(臣籍降下)誕生した一族だった。
 その中で、源氏の嫡流は清和源氏一族で、河内源氏の末裔だ。たどっていくと、八幡太郎義家がいる。この前新羅善神堂で出てきた新羅三郎義光のお兄さんだ。
 義仲は義賢(よしたか)の二男で、頼朝や義経の父・義朝(よしとも)の弟になる。つまり、頼朝と義仲はイトコ同士というわけだ。
 義仲は、今の埼玉県嵐山町で生まれたとされている。これは義朝とその父である為義が対立したことでとばっちりを受けた恰好でそうなった。本来、源氏の本拠は京都で、頼朝は京都で育っている。この育ちの違いものちに影響してくる。
 義仲の父・義賢は、身内の争いに巻き込まれ、義朝の長男で頼朝の長兄にあたる義平(よしひら)によって討たれてしまう。義仲がまだ赤ん坊だったときだ。
 ちょっと複雑なのだけど、その後の展開を理解するためにこのたりの人間関係は大事になる。
 頼朝の上には二人の兄貴がいたわけだけど、早くから頼朝が嫡男となっていた。それは、母親の出自の問題で、上の二人の母は身分が低かったのに対して、頼朝の母は熱田神宮神官の娘だったからだ。
 義仲はその後、斎藤実盛(さねもり)に助けられ、木曽谷の豪族・中原兼遠(かねとお・乳母の夫)に養育されることになる。それで、木曾義仲(次郎)と呼ばれている。
 1159年。平治の乱が起きる。義朝たちが平清盛を倒そうとして返り討ちにあった戦だ。義朝は戦に敗れ、愛知県の知多半島に逃れていく途中で、配下の裏切りにあって惨殺されてしまう。
 長男の義平は、父の敵を討とうと単独で京都に入るも、捕まって六条河原で斬首。
 義仲にとっては、父の敵を平家に討ってもらったことになる。このあたりも心情的に複雑なものがあって、源平の合戦というのは平家と源氏の戦いという単純なものではなかった。平家でも源氏と共に戦った一派がある。
 二男の朝長は、東国へ落ちる途中で落ち武者狩りにあって負傷したのちに死亡。
 三男の少年頼朝は、父とはぐれて美濃をさまよっていたところを捕まってしまう。
 本来なら嫡男でもあり、当然斬首だったのを、清盛の継母・池禅尼の嘆願によって命を助けられ、伊豆へ島流しとなった。歴史ではときどきこういうことが起きる。強運というか、天命というか、このとき頼朝が普通に処刑されていたら、その後の歴史は大きく違っていた。
 9男坊の義経はといえば、鞍馬寺を逃げ出して、奥州藤原氏の元へ走っていった。頼朝はそのことを知っていたかどうか。知っていたとしてもほとんど興味はなかっただろう。母親も違えば会ったこともない弟だ。
 それでもこれで源氏の力は弱まり、平家の支配体制は固まった。しばらくの間、平清盛はこの世の春を謳歌することになる。
 歴史が動くのは、これより20年先のことだ。

 無期限謹慎中の頼朝は、伊豆で案外のんきに暮らしていた。地元の有力者の娘と内緒で子供を作ってオヤジさんに殺されそうになったり、北条政子と恋に落ちて結婚もしていた。頼朝も、源氏再興というのはほとんど考えなくなっていたんじゃないだろうか。14歳だった少年も、今や34歳になっていた。
 しかし、平家の世がいつまでも続くわけではなかった。武士だった平家が貴族化し、地方では不満が爆発寸前まで高まっていた。機は熟した。
 1180年、以仁王(もちひとおう・後白河天皇の第三皇子)が、全国に平家打倒の令旨(りょうじ)を発し、義仲の叔父・行家が全国を回って挙兵を呼びかけた。
 その前年の1179年にはクーデターに失敗した後白河法皇が幽閉されるという事件があり、以仁王は領地没収、皇族籍剥奪、土佐配流と決まっていたから、半ばやけっぱちの一か八かの大勝負だった。
 この時点で、源氏が平家を倒せると信じていた人間はほとんどいなかったと言われている。兵力も財力も違いすぎていたし、いくら貴族化したとはいえ、平家ももとは武士の出だ。戦となれば兵の数が物をいうし、実戦経験から遠ざかっているという点では源氏も平家も違いはない。実際、局地戦では平家が勝っている戦いがいくつかある。天才軍略家・義経の存在がなければ、源氏は平家に負けていたかもしれないくらいだ。
 それでも源氏が立ち上がったのは、クーデター失敗により、平家が源氏を討伐するという名目を与えてしまったからだ。黙っていてもやられるなら、戦った方がましというだけのことだった。勝算など誰も持っていない。
 最初に戦ったのは、義仲の兄貴の仲家だった。頼政の養子となっていた仲家は以仁王の挙兵に参戦していち早く戦い、養父の頼政とともに真っ先に戦死してしまう。
 まともに戦ったのでは勝てないと踏んだ義仲は、平家と戦いつつ兵を集め、北陸方面へと向かう。挙兵したとき、義仲は27歳だった。
 源氏挙兵から2年後の1182年。北陸に逃れてきた以仁王の息子・北陸宮と合流。 
 翌年、頼朝と敵対した志田義広と、頼朝と不仲になって逃れてきた行家を、義仲が助けたことで、頼朝と敵対関係に陥ってしまう。前面衝突を避けるために、義仲は嫡男の義高を頼朝の元に送ることでなんとかその場は収まった。
 一方の頼朝はというと、初戦の石橋山の戦いで散々な敗北を喫し、命からがら山の中に逃げ込んでどうにか助かった。
 わずかな配下を連れて舟で房総半島の端っこの安房国へ逃れた。ここでもう一度力を蓄え、反撃の機会をうかがうことになる。
 それからの3年間は、攻めるよりも守りの戦いが続き、それでも戦に勝って少しずつ勢力を伸ばしていき、3年後には関東を平定することに成功する。
 その間に、兄のピンチを聞きつけた義経も奥州からはせ参じてきていた。

 1183年。義仲は平家だけでなく頼朝という敵との戦いに巻き込まれていくことになる。
 倶利伽羅峠の戦いで大勝利を収めたのちは、勢いに乗って平家との戦いには連戦連勝で一気に京都への上洛を果たした。
 その少し前、もう駄目だと悟った平家は、幼い安徳天皇たちを連れて西国へ落ちていった。
 このとき、平家は後白河法皇も連れていくつもりだったのだけど、法皇は比叡山に逃げ込んでしまう。もし、後白河法皇が平家と命運を共にすることになっていたら、その後の展開は違うものとなっただろう。
 源平合戦は後白河法皇によってさんざん引っかき回されてしまったという一面があって、この存在が良い方にも悪いほうにもいろいろと影響を与えた。
 京都を落とし、平家打倒にあと一歩まで迫った義仲だったけど、ここから先は坂道を転がるように転落していくことになる。悪い流れを変えられないまま最後は討ち死にという結果を迎える。直接攻撃したのは頼朝であり、義経などの頼朝軍だったとしても、それがすべてではなかったようにも思う。義仲の役割はここまでだった。
 寄せ集めの兵たちは、京都でさんざん暴れて悪さをして、京都の人々に嫌われてしまう。ちょうど飢饉が続いて食糧事情が悪かったという不運もあった。義仲の育ちが悪くて都での振る舞いを知らなかったせいだと言う人もいる。
 皇位継承問題に口を出したのもまずかった。自分が保護した北陸宮を天皇にしようとして後白河法皇の不興を買ってしまう。
 朝廷や京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇も頼朝に京へ来るように命じる。義仲には西国の平家打倒を指示し、その間に頼朝を上洛させてしまうという考えだった。
 最初は断っていた頼朝も、所領を戻してもらったり、官位を与えたりという懐柔策によって承諾する。といっても、まずは義経たちを京へ向かわせた。
 焦った義仲は京へ引き返し、義経たちを迎え撃つ準備を始める。西国での戦いも苦戦続きで負けが込んでいた。その上、せっかくここまで自分たちの力で手に入れた京を、頼朝に横取りされてはたまらない。自分の立場も失ってしまう。義仲にとって、頼朝というのは途中から同じ勢力ではなく、平家よりもやっかいな敵となっていた。強烈なライバル心と言ってもいいかもしれない。
 結局、義経率いる頼朝軍に敗れ、大津で最期を迎えることとなった。31歳といえば、義経が頼朝に攻められて奥州平泉で死んだのと同じ歳だ。
 最後に勝った頼朝にしても、親子三代で途絶えてしまい、権力は北条へ移っていく。
 芭蕉が詠ったように、兵どもが夢の跡、だ。
 どうして芭蕉があそこまで木曾義仲に思い入れを抱いたのかは分からない。悲劇の武将というだけではないような気もする。考えられるとすれば、自分の中に義仲と同じ資質を見ていたからではないだろうか。自分もせめてもう100年早く生まれていればと思ったこともあっただろう。やっぱり芭蕉は武将になりたかったんだと私は思う。

義仲寺-4
 境内にはたくさんの句碑がある。芭蕉本人のものや、ゆかりの人のものなど、20ほどあるらしい。全部は見つけられなかった。
 中でも有名なのはこれだろう。
「木曾殿と 背中合わせの 寒さかな」
 芭蕉が滞在中に、弟子の又玄(ゆうげん)が詠んだ句だ。

義仲寺-5

 右側の小さな石が、巴御前の塚とされているものだ。
 左の赤い石は、佐渡の赤石というもので、佐渡の赤玉地区にしかないものらしい。日本三大銘石の一つなんだとか。

義仲寺-6

 翁堂(おきなどう)。
 祭壇には芭蕉の座像が安置されている。
 江戸時代の画家・伊藤若冲が描いた天井画「四季花卉図」がデジタル復元されたらしい。

義仲寺-7

 誰かの句碑だったか、石碑だったか、墓だったか。
 境内にはごちゃごちゃっとたくさんのものがあって、どれがなにやら分からなかったりもする。
 左手に見えているのは、無名庵(むみょうあん)だったか。かつて芭蕉が滞在したのは、この建物だろう。
 その他、粟津文庫や史料観なども建っている。

義仲寺-8

 本堂にあたる朝日堂(ちょうじつどう)。
 木曾義仲が朝日将軍と呼ばれたことから名づけられている。
 本尊は、聖観世音菩薩。
 義仲や、今井兼平、芭蕉などの位牌を安置している。
 建物自体は、1979年(昭和54年)に改築されたもので新しい。

義仲寺-9

 奥に保田與重郎の墓があった。
 奈良県桜井市出身の文芸評論家だけど、知らない人も多いだろう。
『日本の橋』あたりはちょっと知られているか。
 義仲寺再興に尽力したということで、分骨してここにも墓があるんだそうだ。

義仲寺-10

 芭蕉の供養塔で、右が二百年記念のもので、左が三百年記念のものだ。
 この色の違いに100年の歳月を見る。
 四百年記念を見られるかどうか。
 芭蕉を偲ぶ時雨忌は11月、義仲忌は1月に行われている。

義仲寺-11

 境内には、木曽八幡社なんてのもある。
 昔は寺の守り神としてあったのだろう。明治以降はいったん消え、昭和になって復活した。
 このお寺は、旧家の庭くらいの広さの中に、いろんな要素がぎゅっと詰め込まれている。芭蕉が眠る寺とは思えないほど小さなお寺だ。
 狭いところだからざっと見るだけなら10分もあれば見終わってしまうけど、少し時間をかけてゆっくり過ごしながら、昔の光景に思いを馳せたりするのがいいんじゃないかと思う。
 私は、義仲については表面的なことしか知らなくて、帰ってきてからあらためて勉強してみて、なるほどこういうことだったんだと分かって感慨深いものがあった。
 源平合戦というと、義経ばかりが悲劇のヒーローとしてスポットが当たっているけど、もう一人ヒーローがいたのだ。夏の朝日の如く昇り、秋の夕陽のように沈んだ時代の寵児、木曾義仲のことを私も忘れないでおこう。

これで日吉大社に関して書き残したことはないはず<大津巡り17回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
日吉大社3-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 日吉大社第3回は、東本宮の楼門前から始まる。前回までで私が書けることについてはだいたい書いたと思う。最終回の今日は補足的な内容になる。
 まずは楼門から中に入っていくことにしよう。

日吉大社3-2

 西本宮の楼門が1586年に建てられたとほぼ分かっているのに対して、東本宮は1573年から1593年の間と、はっきりしていないらしい。
 東本宮は、西本宮に遅れること9年、1595年に建造されたという。西本宮は秀吉の再建とされているのに、こちらはそうではないようだ。あとから建てられたにも関わらず、東本宮の方が古い形式で建てているのも謎とされている。このあたりの事情はちょっとよく分からない。
 明治の神仏分離令で、どういうわけか、西本宮と東本宮の神様を入れ替えている。昭和の初期までは、東本宮は大神神社本殿と呼ばれていたそうだ。
 もともと東本宮は日枝の山の大山咋神を祀っていた方だ。現在はまた元に戻している。

日吉大社3-3

 東本宮社殿の配置も不思議な感じを受ける。
 楼門をくぐって正面に東本宮の拝殿と本殿があるのだけど、微妙にずれている。直線上に配置されていないのは何か理由があるのだろうか。
 そして、左右というか東西に樹下宮(じゅげぐう)の本殿と拝殿という位置関係になっている。これも楼門から見て左右対称の位置にない。
 このずれ具合に違和感を持ったのは私だけではないと思うけどどうだろう。A型の人などは特に気になったんじゃないか。

日吉大社3-4

 樹下宮の拝殿。宇佐宮や白山宮の拝殿と造りは似ている。
 四方に格子が入っているのはここだけの特徴だ。

日吉大社3-6

 樹下宮の本殿。 
 これも東本宮と同じ1595年に建造されたそうだ。
 他の社殿よりも装飾が派手できらびやかなのは、女の神様を祀っているからだろうか。
 前も書いたように、日吉大社の始まりは、牛尾山の神である大山咋神と、その妻である鴨玉依比売神(かもたまよりひめのかみ)の荒魂(あらみたま)だった。
 その山宮(奥宮)に対する里宮として、大山咋神の和魂(にぎたま)を祀ったのが東本宮であり、鴨玉依比売の和魂を祀ったのが樹下宮だった。
 現実問題として、参拝のたびに山登りをするのは大変だから麓の里に参拝所を設けようというのがあったというのもあるのだけど、神の怒りを静め、荒魂を和魂に変えるための祭祀を行うために里宮が必要だったというのもある。
 日本人は昔から神に二面性を見ていた。荒魂というのは神の荒っぽい部分、天変地異を起こしたり、人間に対する攻撃的な面をいう。
 それに対して和魂というのは、人に恵みを与えたり世の中を平和に保つ側面のことだ。
 神というのは畏れ敬うべき対象、つまりある種の恐怖を感じる存在という発想がある。
 更に、これは日本人特有のものだけど、悪霊や怨霊さえも神にしてしまう。恐ろしい敵でも祀って味方にしてしまえば自分たちの守り神となるという考えがある。平将門や菅原道真などがその典型だ。
 外国から入って来た神や仏もどんどん取り込んで、八百万の神というほどたくさんの神を持つようにもなった。
 昔に比べたら神への畏れというものはずいぶん弱くなっているものの、今でも完全に消えたわけではない。子供が生まれればお宮参りに行くし、超高層ビルを建てるときでも神主を呼んでお祓いをする。
 そのあたりの精神性は、外国人にとっては理解しづらいところではないだろうか。

日吉大社3-5

 東本宮の拝殿。
 拝殿、本殿ともに1595年建造。拝殿が重文で、本殿は西本宮同様、国宝指定となっている。
 実は、本殿の写真を撮り忘れたらしい。撮ったつもりだったのに、探しても見つからない。西本宮とよく似た日吉造だったのは確かなのだけど。

日吉大社3-7

 大物忌神社。
 大山咋神のお父さんの大年神を祀っている。
 東本宮の中にも小さな社がいくつかあって、全部は撮りきれなかった。

日吉大社3-8

 奥に見えているのが巌龍社で、右手前は霊石の夢妙幢。
 祇園石など、ここにはたくさんの霊石がある。石信仰といったものがもともとあったのだろうか。

日吉大社3-9

 やや気まぐれに社を撮ってみたりもした。
 これは氏神神社だったと思う。
 祭神は鴨建角身神(かもたけつぬみのかみ)。
 鴨玉依姫の父親ということで、ここの呼ばれてきたのだろう。
 主だった神の関係者が一堂に集められて祀られている。昔は、たくさんの仏も一緒にいたから、さぞかし賑やかだったことだろう。

日吉大社3-10

 これでだいたい見たと納得、満足して、東本宮をあとにした。
 右に写っているのは、猿の霊石と呼ばれるものだ。

日吉大社3-11

 東受付の外に出ると、二宮橋が架かっている。この橋は通行止めになっていて普段は渡ることができない。祭りのときなどは渡れるそうだ。
 日吉三橋はすべて秀吉の寄進で、重文指定になっている。

日吉大社3-12

 大宮川に降りて、下から走井橋を見てみる。横から見ると単純な造りで、少し頼りない。
 渡れるようになっている大宮橋は、もっと複雑でしっかりした造りになっている。日本最古の石造の橋とされている。

日吉大社3-13

 全3回で日吉大社編も終わって、長々と続いている大津シリーズもようやく終わりが見えてきた。といっても、まだ3回や4回はかかりそうだ。本編で使い切れていない写真もたくさんあるから、それらも番外編で載せておきたい。
 それでも、そろそろ終わりたいという気持ちにもなってきている。これが終わらないと、次の電車の旅へ行けない。
 そんなわけで、まだもうしばらく大津シリーズにおつき合いください。

母の日にちなんでおふくろサンデー

料理(Cooking)
おふくろサンデー

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8



 今日は母の日ということで、おふくろサンデーと銘打って作ってみた。何がおふくろさんかというと、おふくろの味っぽいおかずという意味でのおふくろさんだ。なるべくそれっぽい感じを目指したのだけど、そう見えるだろうか。
 おふくろの味といっても、一昔前とは違って今は多様化していてこれだというものがあまりない。基本的には煮物だったり、魚の塩焼きなんかだろうか。
 子供の頃母親が作ってくれたおかずの思い出はそれぞれにしても、いわゆるおくふくの味というとやはり昔ながらの和食ということになる。
 ということで、今回はある程度基本線を守りつつ、多少アレンジして自分が食べたいおくふく料理というのを作ってみた。あくまでもイメージで、うちの母親がいつもこういう料理を作っていたというわけではない。私自身、子供の頃は和食より洋食、魚より肉の方が好きだったから、純和食のおかずは少なかった。だいたい、母親のことをおふくろなんて呼んでないし。

 左手前は、鯛の塩しょう油焼きだ。
 鯛に塩、コショウ、酒を振って、くしゃくしゃにしたアルミホイルにオリーブオイルを塗り、大葉を敷いて、上に鯛を載せて、魚焼きグリルで焼く。
 途中、白だしを振りかけ、ひっくり返して白ごまと長ネギの刻みを乗せ、白しょう油をかけて、ある程度焦げ目がつくくらいまで焼く。
 素材の美味しさをそのままいかす料理で、もうひとひねり欲しかったかと、あとから思った。
 味噌汁も白だしを使って作ってみた。お吸い物に味噌を加えた感じで、しっかりだしが効いた美味しい味噌汁になった。
 具には、ナス、油揚げ、豆腐、長ネギを入れた。
 左奥は、肉じゃがの変形煮物料理だ。
 オリーブオイルでエビ、ジャガイモ、湯通しした大根、シイタケ、豆腐を炒め、白ワインを加える。
 白だし、みりん、塩、コショウ、カラシ、白しょう油、水を入れて味を調え、圧力鍋で煮込む。
終盤にレタスも追加する。
 右奥はきんぴらごぼうのようなものだ。
 ごぼうをささがきにして水に浸け、細切りしたニンジン、コンニャク、鶏肉をオリーブオイルで炒める。ごま油でもよかったかもしれない。
 味付けはこれも白だしがベースで、砂糖、唐辛子、白ごまなども使っている。

 おふくろ料理は、ハンバーグや焼き肉なんかに比べると嬉しくない料理だ。また煮物かと思ったり、弁当のおかずに入ってたりするとちょっと恥ずかしかったりもする。
 けど、自分で作って食べてみると、これはこれでなかなか悪くないということに気づく。きんぴらごぼうなんかも、味わって食べてみるとけっこう美味しいものだと見直した。洋食ばかりだと体によくなさそうだから、栄養バランスのいい野菜中心の和食を食べさせようというのが親心だ。子供の頃はそんなことに気づきはしないけど。
 母の日は、何かプレゼントしていいことをした気になっているだけでは充分じゃない。母親のありがたみをあらためて知るための日でもある。そういう意味では、今日のサンデーはいいテーマを選んだ。
 とはいえ、ありがたがりさえすればそれでいいかといえばそうもいかず、しっかりプレゼントの請求は来た。やはり、感謝の気持ちは物で表せということか。
 大人になると子供の日には何ももらえなくなるけど、どれだけ歳を取っても母の日はずっと母の日だということに今更気づく。それでも、毎年無事にこの日を迎えられることはありがたいことでもあり、ホッとする。
 そんな母の日の一日だった。

歴史とはつながった時間と人の思い <大津巡り16回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
日吉大社2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 今日は日吉大社の第2回になるわけだけど、成り立ちについてもう一度整理しておこうと思う。
 天智天皇がこの地に大神神社から大己貴神を勧請して、西本宮を建てたとすれば、それは686年ということになる。
 元々日枝山の神だった大山咋神よりも大己貴神の方が格上の神様ということで、西本宮を大宮と称したという話もあるから、天智天皇創建説というのもあながち作り話とは言えないような気もする。
 そうではなく、最澄が日枝山に延暦寺の前身となる一乗止観院を建てたとき、守り神として日吉大社を創建したというなら、それは奈良時代末期の788年となる。
 いずれにしても、一度にこれほど大きな寺社となったわけではなく、当初はささやかな規模だったのだろう。大寺社として成長できたのは、天台宗の布教活動によるところが大きかった。
 672年に天智天皇が没し、壬申の乱で勝利した大海人皇子は、673年に都を飛鳥に戻している。つまり、大津の都は捨てられたのだから、いくら牛尾山(八王子山)が聖なる山だったとしても、日吉大社だけでここまで大きくなることはなかったのではないか。
 ただ、一つの転機として、平安遷都があった。都が平城京から長岡京、平安京へと移り、日吉大社は平安京から見て東北の鬼門に当たるということで、鬼門除けとして重要視されるようになる。
 最澄は、出家する前の名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、渡来系の子孫だった。先祖は後漢の孝献帝(こうけんてい)につながる登萬貴王(とまきおう)と言われており、3世紀初頭に日本に渡ってきたという。坂本の地は渡来人の多いところで、日枝山を選んだのもそういうことがあったからかもしれない。
 最澄は若い頃から才能を発揮したエリート僧侶だった。804年に、天台教を学ぶために、留学生として唐に派遣された。このとき空海も一緒に行っているのだけど、空海はまだそれほど目立つ存在ではなく、その他大勢の一人に過ぎなかった。
 しかし、帰国後、二人の立場は逆転する。密教をより深く学び取った空海に、短期間で呼び戻された最澄はかなわなくなり、教えを請うたものの最後は仲違いしてしまう。
 そのあたりの詳しいいきさつについては、またどこかで書くことがあるだろうから今回は端折って、先を急ぐ。
 帰国後、最澄は比叡の山に草庵を作り、そこから比叡山延暦寺の歴史は始まった。そのとき日吉大社がどこまで整備されていたのかは分からないけど、最澄が最初からここを天台宗の守り神にしようと決めていたのは確かのようだ。
 自らの教義の中に日吉大社の神を取り込み、天台宗を全国に広めるときにも日吉の神と共に民衆に訴えていくことになる。
 当時、仏教や密教はまだ一般大衆に受け入れられてはいなかった。奈良の大仏が建造されたのは752年で、あの大きさには度肝を抜かれただろうけど、仏教そのものはまだ浸透していない時代だ。外国から入って来た新しい宗教を人々はさほど必要としてなかったのだろう。日本には元々たくさんの神がいたからそれで充分だった。
 そこで、最澄たちは、仏と神は本来一緒のもので姿を変えて現れているだけだと、民衆を説得して回った。その神仏習合の理論が山王神信仰(さんのうしんしんこう)で、最澄はじめ、円仁、円珍、天海へと受け継がれ、江戸時代まで発展していくことになる。日吉大社と日光などの東照宮が似ているのは当然で、同じ系列のものだからだ。
 天台宗が広まっていくと同時に、全国各地に日吉神社や日枝神社が建てられるようになり、今でも3,000を超える日吉系の神社があると言われている。
 明治の神仏分離令が出されるまでは、日吉信仰と天台宗は同じものといっていいくらいのものだった。江戸幕府と強く結びついていたこともあり、朝廷の天照大神・伊勢神宮系と、幕府の日吉天台宗系という二大勢力となっていたという見方もできる。
 と、復習はこれくらにして、社殿巡りを再開しよう。

日吉大社2-2

 西本宮エリアは、主に西本宮、宇佐宮、白山宮の3つから成り立っている。
 西本宮の隣に宇佐宮があり、上の写真はその拝殿だ。どれが宇佐宮でどれが白山宮か、写真だけではよく分からない。どれもパッと見よく似ている。
 宇佐宮と白山宮の成立はやや遅く、平安時代はじめとされている。拝殿、本殿とも、1598年に再建されたもので、どちらの重文指定になっている。
 祭神は、田心姫(タゴリヒメ)というのだけど、よく分からない。
 宇佐神宮といえば八幡の神で、応神天皇、比売大神(ひめのおおかみ)、神功皇后が祀られている。田心姫は、アマテラスとスサノオの子で、宗像三女神(むなかたさんじょじん)のひとり(湍津姫と市杵嶋姫)として祀られることはあっても、単独で祀られることは珍しい。どこからどういう経緯で勧請したのだろう。

日吉大社2-3

 宇佐宮の隣にいくつか社が並んでいる。
 宇佐若宮社、宇佐竈殿社、気比社あたりだと思うけど自信はない。

日吉大社2-4

 白山宮の本殿だったか、宇佐宮だったか、分からなくなってしまった。

日吉大社2-6

 こちらが白山宮だ、きっと。
 本殿は三間社流造ということで、これは日吉造ではない。再建されたのは同じ1598年なのに、どうしてこれだけ変えたのだろう。元からそうだったのか。客人社(まろうどしゃ)らしいから、そのせいかもしれない。
 加賀国の白山から菊理姫神を勧請して祀っている。天台宗は山岳信仰の密教だから、その関係だろう。

日吉大社2-7

 拝殿は宇佐宮も白山宮もよく似ている。

日吉大社2-8

 雰囲気のある石段。この神社のいいところは、無粋なものを極力排除して、できるだけ昔の姿そのままを見せようという心遣いが感じられるところだ。時代劇の撮影などにもよく使われるそうだけど、なるほどと思わせる。

日吉大社2-9

 木造の狛犬も安土桃山時代のものだろうか。寄木造だと思う。
 山王信仰は北斗七星を重視しているということで、狛犬は七つの尾を持っている。

日吉大社2-10

 救済地蔵と書かれた小さな地蔵堂があった。ここにも神仏習合の名残を見る。

日吉大社2-11

 白山宮を出てしばらく進むと、山王神輿(さんのうみこし)を格納した神輿庫がある。中には七基の古い神輿が保存展示されている。
 791年に、桓武天皇の命で大宮(西本宮)と二宮(東本宮)の神輿が造られたのが始まりとされている。
 その後、865年に客人社、十禅師社、三宮社、聖真子社、八王子社それぞれに対応する神輿が造られ、7基が揃った。
 ただし、それらは延暦寺焼き討ちのときにすべて消失してしまったという。現在あるのは安土桃山時代から江戸時代にかけて造られたものだそうだ。それでもすべて重文指定になっている。
 山王祭のときは7基すべてが出る。
 祭りといっても、3月からひと月半に渡って行われる20以上の神事だから、ワッショイ、ワッショイというのとは違うのだろうか。映像でも見たことがないから、どういうものか想像がつかない。

日吉大社2-12

 三宮宮遥拝所と、牛尾宮遥拝所がある。この階段をえっちらおっちら八王子山の山頂目指して30分ほど登っていったところに、日吉大社の始まりである三宮宮と牛尾宮があるらしい。らしいというのは、見ていないということだ。往復1時間近い山歩きをする気はなかった。
 崖っぷちに舞台造の社殿が建っているそうだから、見られるものなら見ておきたかった。みんなも、ここまではあまり行かないんじゃないかと思う。

日吉大社2-13

 日吉大社の中を歩きながら、小林秀雄は『無常ということ』の決定的な閃きを得たと書いている。
 それはこんなシーンを目にした瞬間だったかもしれない。ここには確かに神が在ると感覚的に信じることができる。人が感じる神々しさといったようなものがつまりは神そのものなのではないか。
 常に変わらないものはなく、しかし常なるものはあると小林秀雄は言った。日吉大社は長い歳月を経ても変わらずここに在るとも言えるし、変わり続けたからこそ今も存在しているという言い方もできる。
 確かなことは、私たちが時間と人によってつながっているということだ。古代から平安、戦国、江戸、昭和、現在にかけて、多くの人々が様々な思いでこの場所を訪れ歩いた。そして、歴史は未来へとつながっていく。大切なのは常なることであり、常ならざることだ。日吉大社を歩いてみれば、そのことが分かる。
 次回は東本宮を中心に紹介して最終回となる。
 つづく。

日吉大社の成り立ちを把握するのに時間がかかった <大津巡り15回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
日吉大社1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 大津シリーズはまだしばらく続く予定だけど、最後の大物である日吉大社(ひよしたいしゃ)を終わらせれば、先は見えてきそうだ。行く前から、三井寺、石山寺、日吉大社がメインポイントだと思っていた。
 今回も全3回になると思う。たくさんある社殿を片っ端から撮っていったら写真が多くなった。
 だいたい、歩いた順番通りに紹介していくことになりそうだ。順路としても、西から東に回るのが自然な流れだと思う。

 終点の坂本駅からは西へ向かって10分ほど歩くことになる。更に西へ行くと比叡山延暦寺があり、延暦寺と日吉大社の関係は深い。地理的には、八王子山(牛尾山)の麓ということになる。
 日吉神社の歴史や社殿についてはいろいろややこしいことが多くて、全部説明しようとするとかえって理解しづらくなる。私も把握するのに時間がかかった。なるべく簡潔に分かりやすく書こうと思っているけど、上手くいくかどうか。
 日吉大社の歴史は、素朴な山岳信仰から始まったとされている。
 牛尾山(八王子山)の上に磐座(いわくら)があり、これが信仰の対象となっていた。つまり聖なる山として、牛尾山を信仰していたというわけだ。
 一つややこしいこととして、この山が牛尾山や八王子山、小比叡山、山王山など、いくつもの名前を持っているという点がある。牛尾宮があるから牛尾山という方が分かりやすいのだけど、現在は八王子山となっているから、とりあえずそう呼んだ方がいいか。
 比叡山は西にあるもっと大きな山で、八王子山とは別だ。のちに深く関わることになるのだけど、このときはまだ関係していない。
『古事記』には、日枝山には大山咋神(おおやまくいのかみ)がいると書かれている。日枝山というのは比叡山の昔の呼び名で、つまりは大山咋神は日枝山や牛尾山の地主神ということになる。もしくは、八王子山も広い意味では比叡の山ということになるのかもしれない。
 山頂の磐座を挟んで牛尾神社と三宮神社の奥宮があり、それぞれ大山咋神の荒魂(あらみたま)と、鴨玉依姫神(かもたまよりひめ)の荒魂を祀っている。これが日吉神社の始まりだ。
 時代的には古墳時代の終わり頃ではないかと言われている。このあたり一帯では横穴式の古墳がたくさん見つかっていて、渡来系民族との関連も指摘されている。
 このあと日吉大社がどのような変遷を辿っていったのかは、社殿の写真と一緒に少しずつ説明していくことにしよう。そのためには東本宮から見ていく方が分かりやすいのだけど、まあしょうがない。西本宮を説明しつつ、東本宮へ移っていくことにする。

日吉大社1-2

 日吉大社は、のちに比叡山延暦寺とがっちり結びついて、神仏習合の見本のような寺社へと発展していくことになる。だから、今でもところどころに寺の名残を残している。

日吉大社1-3

 このあたりの建物はよく分からないまま素通りしてしまった。
 まだ有料ゾーンに入っていない。このすぐ先に受付があって、そこで拝観料を払う。東にも受付がある。

日吉大社1-4

 日吉大社には日吉三橋と呼ばれる三つの橋があり、西受付すぐの場所には大宮橋が架かっている。
 もともとは秀吉が寄進した木橋が架かっていたそうだけど、1669年に石橋に造り替えられた。
 この時代を代表する石造桁橋ということで重文指定になっている。
 信長の比叡山焼き討ちは日吉大社にも及び、ここの社殿もことごとく燃やされてしまった。その再興に尽力したのが秀吉だった。
 幼名を日吉丸といい、猿と呼ばれた秀吉が日吉神社に特別な思い入れを持っていたからだというのだけど、ちょっと怪しい。幼名の日吉丸は後付けのエピソードで自分がそう言ってただけという説もあり、実際のところは分からない。ただ、現実に秀吉が再建に力を貸したことは確かなようだ。

日吉大社1-5

 大宮川に新緑のモミジがかかっていた。ここは紅葉の名所らしいから、秋にはきっといい雰囲気になるのだろう。

日吉大社1-6

 参道の様子。境内はかなり広い。一通り歩くだけでも30分はたっぷりかかる。
 程よい神聖さに満たされていて居心地がいい。落ち着きと品格がある。老舗の余裕というか、高尚だけど威張ってない。いい年の取り方をした大物といった感じだ。

日吉大社1-7

 日吉大社といえば、この山王鳥居が有名だ。破風鳥居などとも呼ばれ、鳥居の上に三角形の屋根のようなものを乗せているのが特徴となっている。
 他の日枝神社などでもこの形の鳥居が建っているところもある。

日吉大社1-8

 入口でもらった略地図には主だった社殿しか書かれていないから、小さいものについては分からないものが多い。全盛期は境内108社、境外108社もあったとか。

日吉大社1-9

 ここにも神の使いの馬がいて、隣には馬の守りとして猿がいる。
 神馬(しんめ)は像だけど、猿は本物で驚いた。神社で猿を飼ってるのは初めて見た。

日吉大社1-10

 神猿と書いて「まさる」と読む。魔が去るとか、勝るに通じるということで縁起がいいとされている。
 こういう神の使いの生き物はいろいろあって、有名なところでは春日大社の鹿や、伊勢神宮の鶏などがいる。天満宮の牛や、稲荷神社の狐もそうだし、八咫烏(やたがらす)などもそうだ。それらを、神使(しんし)という。
 そんな使命などどこ吹く風と、マサルさんたちはノミ取りに夢中なのであった。

日吉大社1-11

 参道を進むと、右手に白山宮と宇佐宮の入口がある。こちらからは入らず、まずは西本宮に挨拶を済ませるの先だろうということで、このまま進むことにする。宇佐宮などは、西本宮の横手からも行けるようになっている。

日吉大社1-12

 西本宮楼門の手前に、祇園石というものがある。少し前の写真を見ると、赤い柵で囲われているのに、このときは特にそんなものもなく、地面から半分頭を晒しているだけだった。取って付けたように小さな賽銭箱が置かれ、そこに祇園石の張り紙がある。
 山王霊石とも呼ばれるこの岩は、祇園の神である牛頭天王(ごずてんのう)が宿る磐境(いわさか)とされて、昔から神聖視されてきたらしい。
 牛頭天王はスサノオノミコトと同一視される神で、京都祇園の八坂神社や、一宮の津島神社などで祀られている。
 牛尾山(八王子山)の神・大山咋神はスサノオの孫とされているから、そのあたりの関係もありそうだ。
 ついで言うと、大山咋神のオヤジさんは大年神(おおとしのかみ)で、正月にやってくるという歳神(年神)さんは、その大年神だ。
 この石に溜まった水で目を洗うと目の病気が治るという言い伝えがあるらしい。

日吉大社1-13

 西本宮の楼門前に到着した。
 だいぶ色あせてはいるものの、立派で風格のある門だ。
 日吉大社の建物は、比叡山焼き討ちあとに再建されたもので、多くは安土桃山時代に建てられている。この楼門も、1586年くらいのものと言われている。重文指定。
 門の左右は、片方が空で、もう一方には酒樽が置かれている。神仏習合の時代は、仁王像か何かが入っていたと思うけどどうだろう。

日吉大社1-14

 門をくぐると、吹き抜けの舞殿のような拝殿があり、その奥に本殿が全身を晒して建っている。こんな造りは珍しい。本殿が守られておらず、ひどく無防備だ。普通、参拝者が近づけるのは拝殿の前までで、本殿までは近づくことはおろか、全体を見ることさえできないことが多い。こんな形式の社殿は他にあまりないんじゃないか。
 本殿の建築様式も日吉造(ひよしづくり)と呼ばれる独特のもので、屋根の庇(ひさし)が前面と両側の三面しかない。
 元になった本殿は、平安時代の初めに延暦寺の相応和尚によって造営されたもので、再建の際も同じ形式で建てられたとされている。
 これも秀吉が1586年に再建したもので、拝殿は重文、本殿は国宝に指定されている。

日吉大社1-15

 元々山の上にあった奥宮が、いつ誰によってこの地に神社として創建されたか、はっきりしたことは分かっていない。
 一説によると、天智天皇が686年に近江大津宮で即位したとき、大津宮の守護のために大和の大神神社(おおみわじんじゃ)から大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請して、西本宮に祀ったという話がある。大己貴神は大物主神(おおものぬしのかみ)の別名ともいう。
 それとは別に、八王子山の奥宮に対する里宮として、大山咋神の和魂(にぎみたま)を祀るための東本宮と、鴨玉依姫神の和魂を祀る樹下宮(じゅげぐう)を建て、それが実質的な日吉大社の最初ともいう。
 荒魂、和魂というのは、その神様の激しい面と穏やかな面をそれぞれ別に祀るという考え方で、伊勢神宮などでもこういうふうに分かれている。
 東本宮、西本宮それぞれの成立過程についはよく分からない。別の説によると、788年に最澄が日枝山寺(のちの延暦寺)を開くときに、日吉の神を守護神として日枝山の麓に祀ったのが始まりという話もある。
 あるいは、中臣鎌足の孫で藤原不比等の長男である藤原武智麻呂(むちまろ)が社殿を造営したという説もあるようだ。
 いずれにしても、早い段階で神仏習合となっていたようで、859年に西本宮に聖真子権現(しょうしんじごんげん)を祀る宇佐宮と、菊理姫神(くくりひめのかみ)を祀る白山姫神社が建てられたことで、山王七社と呼ばれる日吉大社の基本形が完成した。
 北斗七星を重視する天台宗の教義において、七という数字は大切なもので、山王上七社の他に中七社、下七社とあわせて二十一社とし、更に煩悩の数の108社を境内、境外それぞれに抱えていた。

日吉大社1-16

 小さな社は二十一社のうちの一つだろうか。このときもメモ撮りを怠った。

日吉大社1-17

 お守り類の売店というのか何というのか。巫女さんが受付をしていた。
 基本的に巫女という職業はない。女性の神職の人が巫女の姿をしてたら、それは職業巫女と呼べるだろうけど、巫女という資格はない。だから、巫女の恰好をすれば誰でも巫女さんになれると言ってもいいかもしれない。巫女募集という求人広告もたまにあるらしい。正月のバイトはよくある。

 日吉神宮の成り立ちに関する説明はまだ途中でモヤモヤした気持ちは残るのだけど、写真も多くなって、長くもなってきたので、今日のところはここまでとしたい。
 この続きは、2回目、3回目で書くことにしよう。
 つづく。

家康は日本を守護するために神となった <久能山東照宮3回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
久能山東照宮3-

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 今日は久能山東照宮の3回目で最終回となる。思ったよりも見所があって写真も多くなった。最後は家康が眠る神廟(しんびょう)へ向かうことにしよう。
 写真は唐門から楼門を見たところだ。唐灯籠の頭もちらっと見えている。

久能山東照宮3-2

 本殿の屋根がちらりと顔をのぞかせている。神社の本殿は拝殿の背後にあって、こんなふうに隠れてしまっているところが多いのだけど、久能山東照宮は左右に回り込めるから、側面を見ることができる。

久能山東照宮3-4

 右側に回り込んだところ。彩色や彫刻、絵などの様子もよく分かる。
 ただ、権現造ゆえに、本殿の前部分は外から見ることができない。拝殿と本殿が一体化している。

久能山東照宮3-3

 これは左側。
 壁の絵も、社殿の塗り直しのときに着色し直されている。こういう部分も塗り直す前はかなり色あせてしまっていたようだ。オリジナルの色をどこまで再現できているのだろう。

久能山東照宮3-5

 社務所というのか、おみやげ物売り場というのか、札所というのか、神職の人が座っていた。お守りとかを売っているのだろう。
 この手のものにはまったく興味がないから、いつも素通りしてしまう。もう少し興味を持った方がいいのかもしれない。

久能山東照宮3-7

 社務所の横に門があり、ここから神廟へ向かうことになる。
 その向こうにももう一つ門が見えている。

久能山東照宮3-6

 これが廟門で、重文指定となっている。
 家康の廟所は本殿の裏手にある。神社は死の穢れ(ケガレ)を嫌うから、人の死を扱わない。だから、基本的に神社には人のお墓はない。
 家康の墓は東照宮の境内にあるには違いないのだけど、場所としては社殿のある部分とはっきり分けている。門を二つくぐり、石段を登って右に折れた先に神廟はある。

久能山東照宮3-8

 こちら側はだいぶ雰囲気が違っている。
 両側に並ぶ石燈篭は、大名家などが寄贈したものだそうだ。

久能山東照宮3-9

 廟所とはいえ、家康は神となっているということで、鳥居が建っている。

久能山東照宮3-10

 御廟所も重文指定となっている。
 宝塔が建っている下に家康の遺骸が埋葬されている。
 宝塔というのは珍しい形式で、他にあまり例がないという。
 久能山東照宮では、家康は吉田神道の方式で土葬されている。葬儀を任されたのが吉田兼右(よしだかねみぎ)の子で、神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)だった。
 1616年に家康が死去すると、ケガレがつかないようにと、当日久能山に運ばれ、仮殿に埋葬して、家康は神となった。
 家康は遺言で、自分が死んだらいったん久能山に埋葬して、一周忌が過ぎたら日光に小堂を建てて勧請するようにと言っている。自分が神として祀られることで江戸や日本の守り神となるためだった。豪華な社殿を建てて自分を神としてあがめろなどとは一切言っていない。
 ではどうして久能山であり、日光だったのか。それは多くの人が指摘しているように、風水の思想によるものだろう。江戸の町そのものが風水思想による結界都市だったわけで、自分がその守り神になると決めた以上、何の根拠もなく墓所を決めるはずがない。
 久能山東照宮の社殿は南西を向いて建てられている。参拝者は北東を向いて拝むことになり、その直線上に富士山があり、そのまま進むと日光山へと辿り着く。
 一方、神廟は西を向いている。真っ直ぐ西に進むと、鳳来山東照宮があり、生まれ故郷の岡崎がある。更にその先には京都の南禅寺が建っている。
 鳳来寺は家康の母・於大の方(おだいのかた)が子宝に恵まれるようにと願い、家康を身ごもったということでのちに家光が鳳来山東照宮を造営した場所で、南禅寺は家康ブレーンの一人で埋葬にも関わった崇伝の寺だ。
 太陽の道というのを意識していたのかどうかまでは分からないけど、太陽は東から昇って西に沈むから、家康が神として再生するためには西から東へと逆に辿る必要があると考えたのではないか。
 久能山から富士(不死)を通り、日光山へ。日光は江戸から見てほぼ真北に当たる。北は不動の北極星がある方角だ。日光東照宮の社殿は、北斗七星と同じ配置で建てられている。
 現代からするとただの迷信のように思えるこれらのことも、当時は最新の科学であり、知恵でもあった。実際に効果があるかどうか以前に人々が信じていたということが重要なのだ。
 家康の墓は日光東照宮にあると思っている人が多いかもしれないけど、実際は久能山東照宮にある。日光へは神として勧請しただけで、遺骸そのものは移していない。一部は移したかもしれないけど、丸ごとではなかったはずだ。
 当時の常識で高貴な身分の土葬はとても珍しいものだった。将軍や貴族のほとんどは火葬で、土葬は庶民のものとされていた。吉田神道の形式にのっとって土葬にされた。以降、徳川家の将軍はこれに習ってすべて土葬されている。
 日本で火葬が始まったのは7世紀終わりくらいのこととされている。中国の影響で、唐帰りの道昭が最初に行わせたという。
 奈良時代には都の内部に墓を作ることは禁じられ、皇族もすべて郊外に墓を作った。すでに火葬も多くなっていたようで、平安時代になると火葬が流行し、鎌倉以降は武士階級も火葬が一般的なものとなっていった。
 ところで、家康は東照宮権現となっている。これは吉田神道の神の名ではない。
 一周忌を過ぎて、日光に移すとなったとき、梵舜を始めとした崇伝一派と、山王一実神道形式の天海とが対立することになる。吉田神道なら家康は大明神となっていたはずだった。梵舜は豊国神社の創建にも関わっていて、秀吉は大明神として祀られている。
 結果的には天海が論争で勝ち、家康は山王一実神道によって大権現として祀られることとなった。秀吉と同じでは都合が悪いというのもあったのだろう。東照というのは、天皇家の始祖である天照に対するもので、宮中から家康に対して贈られた神号だ。
 ここに家康の神格化が完成し、徳川家は天皇に匹敵する地位を確立したと言えるだろうか。

久能山東照宮3-11

 廟所に樹齢350年以上という大きな杉の木があり、金の成る木という説明書きが立っている。
 家康が家臣たちに金の成る木とは何だと思うかと訊ねて誰も答えなかったら、それは、万事程よき、慈悲深き、正直だと言ったというエピソードから来ている。
 結婚式の3つの袋のスピーチみたいな話だ。きっと家康はこういう話が好きだったのだろう。成功した中小企業の社長を思わせる。
 その話を聞いて感動した家康好きの家光が、ここに三本の杉を植えさせたというエピソードも残っている。

久能山東照宮3-12

 家康さんへの挨拶も終わったところで、ぼちぼち帰ることにする。これで主だったものはだいたい見たはずだ。
 帰りは写真らしい写真を少し撮ろうということで何枚か撮った。

久能山東照宮3-13

 若葉の緑と極彩色の社殿の組み合わせに惹かれるものがあった。
 流れた時間と、繰り返される自然の営みを思う。

久能山東照宮3-14

 お稲荷さんを帰りに見つけた。

久能山東照宮3-15

 入口近くの社務所。こちらには巫女さんがいた。
 左へ行くとロープウェイ乗り場で、後ろは展望が開けていて、眼下の駿河湾がよく見える。

 これで久能山東照宮編は終わりとなる。早く書かなくてはと思ってずっと心に引っかかっていたからホッとした。
 他に行っておくべき東照宮としては、岡崎の滝山東照宮と、群馬の世良田東照宮がある。 そのうち機会を見つけて行きたい。
 静岡シリーズはまだ駿府城編が残っている。一回に収まるかどうか、少し微妙なところだ。近いうちに書きたいとは思ってるけど、大津シリーズもあるし、先送りになってしまうかもしれない。

家康はこんなに派手好みじゃなかったはずだけど<久能山東照宮2回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
久能山東照宮楼門の先の鳥居

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 久能山東照宮の2回目は、楼門をくぐったところから再開となる。
 かつての東照宮は、神仏習合の寺社で、やや特殊な性格を持っていた。徳川家康を神として祀る神社でもあり、家康を埋葬する寺院でもあった。当時は神社と寺院が一体となっていることに何の違和感もなかったのだろう。今のように何が何でも分離していなければならないという発想は日本的ではないとも言える。明治政府の神仏分離令によって日本人の宗教観は歪められてしまったところがある。廃仏毀釈で失われた建物も多い。
 久能山東照宮にも明治初期まで高さ30メートルの五重塔があった。この写真でいうと、鳥居の向かって左側に建っていた。三代家光の造営ということで、豪華絢爛な五重塔だったという。今は跡だけが残っている。



楼門の裏側

 楼門を裏から見たところ。こちらから見てもきらびやかだ。手抜きはない。
 ちょっと小さく見づらいけど、金色の狛犬と獅子が写っている。



神厩

 神厩(しんきゅう)。
 馬は神の使いとされ、こういう神厩がある神社がけっこうある。日光東照宮や伊勢の神宮などでは本物の馬を飼っている。久能山はそこまではできなかったようで、馬の像で代用している。
 がしかし、これが左甚五郎の作という話があり、また本当かよと思ってしまう。何かというと左甚五郎の名前を出してきて、一体どれが本物なのか分からなくなる。眠り猫だって本当かどうか確証はないし、そもそも左甚五郎という天才彫り師が実在したかどうかも疑わしい。
 猿は馬の守り神とされていて、日光の有名な見ザル、言わザル、聞かザルの彫刻は、神厩の建物に施されている。



鼓楼

 鼓楼の装飾は、楼門のものとよく似ていて、セットになっている。
 これも、日光ほどド派手じゃない。
 本来は鐘を吊った鐘楼だったものを、明治の神仏分離令で太鼓に取り替えて、鼓楼とした。
 こういう苦肉の策で生き延びた建物も多かったけど、僧侶もたくさん神職に転職している。廃仏毀釈で苦難の道をたどった寺社や僧侶も少なくない。
 国が神道一本でいくと決める必要が本当にあったのかどうか。結局、天皇家も仏教を捨てる恰好になった。現在の皇室では仏教行事は一切行っていないはずだ。



唐門

 階段の上に唐門が見えてきた。ここを過ぎればいよいよ拝殿なのだけど、ここを通ることはできない。階段のところで通行止めになっている。
 日光も唐門は通れなかった。あちらは扉も閉まっていたはずだ。何か特別な意味があるのかもしれない。
 ぐるりと右から回り込んで拝殿を目指すことになる。



神楽殿

 確か、神楽殿だったと思う。光る廊下の緑の映り込みに気を取られて、建物をしっかり見るのを忘れていた。
 土足禁止とあったから、靴を脱げばあがってよかったのだろう。せっかくだから中まで見ておけばよかった。
 ここの建物はほとんどが重文指定で、この神楽殿もそうだ。明治時代は本殿などが国宝だったようだけど、今は格下げになっている。補修とかをして原形をとどめないとそうなったりすることがある。



神庫

 階段の上に見えているのが神庫で、これも重文。中にはお宝が眠っているはずだ。
 校倉造りで、なかなか渋い造りになっている。
 全般的に日光のものよりも地味目ながら手間もお金もしっかりかけているという印象だ。家光が手がけたものは過剰すぎるくらいだから、これくらいの方が常識の範囲内に収まっていて、素直に感心できるというのはある。



境内社

 神庫の前にあったのは何だったか。厳島社だったか、違ったか。



日枝神社

 拝殿に入る前の日枝神社。
 これも本来は薬師如来像を安置した御本地堂という寺に属する建物だった。神仏分離令のとき、境内の山王社を移してきて、日枝神社とした。祭神は、大山咋神。
 日枝神社関連については、日吉大社のとき詳しく書こうと思っている。



透塀

 久能山東照宮も、当然ながら拝殿、石の間、本殿の三棟がひと続きとなった権現造で、周りをぐるりと透塀が囲っている。
 透塀の彩色や彫刻はいかにも東照宮的なものだ。いくつか東照宮を見てきて、すっかりお馴染みとなった。



拝殿と本殿

 拝殿と本殿でいよいよ本領発揮したといった感じだ。これぞまさに東照宮。東照宮以外の何ものでもない。
 久能山東照宮は50年に一度塗り替えられていて、前回が2006年に完成したということで、まだまだ美しさを保っていた。
 ここは直射日光に晒される山の上で、しかも塩を含んだ潮風に吹かれるから、傷みが早いんだそうだ。きらびやかな状態を見たければ早めの方がいい。
 しかし、こりゃすごいなと思った。日光に負けてない。ピカピカさでは勝ってるくらいだ。

 追記
 私が訪れた翌年 2010年(平成22年)に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。



本殿の中

 家康が1616年に駿府で死去すると、遺体は即日久能山に運ばれ埋葬された。
 それから大急ぎで東照宮の造営に取りかかり、1年7ヶ月後の翌1617年には社殿が完成した。
 同じく1617年には遺言に従って日光に分骨するような恰好で家康は移り、日光東照宮が建てられている。ただし、現在のような豪華絢爛なものになるのは19年後、家光の時代になってからのことだ。
 霊廟はここではなくもっと奥にあり、社殿には神として家康が祀られている。
 ここでも相殿として秀吉と、信長が同時に祀られている。このあたりの事情もよく分からない。当初からそうだったのか、のちの時代にそうなったのか。



拝殿

 手の込んだ彫りと極彩色の着色にしばし見入る。



唐門の裏

 唐門の裏側から。
 こちらの彫りや色彩も懲りまくっている。
 久能山東照宮は、東照宮ナンバーツーであることは間違いない。三大東照宮のもう一つは、それぞれが名乗っておけばいいけど、二大東照宮は日光と久能山で決まりだ。



絵馬

 東照大権現に何を願えばいいのか、私はちょっと思いつかなかった。それでも、若い頃さんざん苦労した末に天下を取って、世の中を平和に導いたという生き様にあやかれるものならあやかりたいとは思う。関ヶ原の戦いのとき、家康は59歳だった。

 第2回はここまでということにしよう。次回第3回が最終回となる。
 つづく。

久能山の長い石段は家康の人生訓のごとし <久能山東照宮1回>

神社仏閣(Shrines and temples)
海岸沿いの路地風景




 今日から3回シリーズで久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)について紹介します。
 今回の静岡行きの一番の目的は、久能山東照宮を見ることだった。日本平で富士山を眺めたり駿府城跡を撮ったりしたのはついでのようなものだった。

 静岡は坂の少ない街といわれる。急坂がまったくないわけはないのだろうけど、静岡市の中心は確かに平坦な土地という印象を受けた。地図を見ても、駿河湾の海岸沿いや安倍川下流域は平野がずっと広がっているのが分かる。坂道が多くて自転車に乗れない人が多いという長崎とは対照的に、静岡の人はみんなよく自転車に乗っているらしい。
 勾配が少ないと階段も少ないようで、静岡市民は階段というものにあまり馴染みがないんだそうだ。ちょっとネタっぽい話だけど、どうやら本当らしい。そんな静岡市民が階段というと思い出すのが久能山の石段なんだとか。何しろ1,000段を越える上り階段だから、県外の人間でも一度歩けば忘れがたい印象を残す。
 久能山東照宮へのアプローチ方法は二つある。久能山下まで行ってそこから石段を登るか、日本平まで車かバスで行ってそこからロープウェイで下るか。個人的には、やはり歩いて登ることをオススメしたい。これを体験するのとしないのとでは思い出が違ってくるはずだから。帰りはロープウェイがおすすめだ。日本平からの富士山の眺めがすばらしい。
 そんなわけで、行きはバスに乗って久能山の下を目指した。こちらから行く人は少数派のようで、バスの本数が絶望的に少ないのがつらいところではある。行く途中に登呂遺跡があって、本当はそちらに寄ってから行こうと思っていたら、電車の到着時間が遅れてバスとの連絡ができず、登呂遺跡を見送ることになってしまった。せっかく静岡まで行って登呂遺跡を見られなかったのは残念だった。ただ、今大がかりな工事をしている最中とのことで、それが終わってから行けるものならもう一度行きたいという気持ちはある。
 このとき、久能山下でバスを降りたのは私を含めて4人だった。これじゃあバスの本数も少なくなるはずだと納得した。石段を歩いている人はけっこういたから、こちらには車で訪れる人が多いのだろう。
 バス停を降りてすぐ入口があると思っていたら、少し戻らないといけなくて、入口が分からずしばらく迷ってしまった。それで、上の写真のような路地をちょっとさまよった。海岸線の路地裏風景も風情があってよかったのだけど、行きも帰りもバスの時間に縛られるから、そんなにのんびりはしてられない。



イチゴ栽培のビニールハウス

 静岡は雪がほとんど降らない温暖な地で、そういう気候がいちご作りに適しているらしく、石垣イチゴというのがこのあたりの名物となっている。
 海岸沿いにビニールハウスが続き、春の太陽に照らされて白く光っていた。
 いちご狩りの看板もたくさん立っていたから、シーズンには観光客も大勢訪れるのだろう。久能石垣いちごこそが観光いちご狩り発祥の地なんだとか。
 石垣いちごというのは、温室もビニールハウスもなかった明治時代に、玉石の間にいちごの苗を植えて、冬でも石の輻射熱でいちごを育てることに成功したところから名づけられたという。
 いちご狩りのシーズン中は、道端に「いちご娘」が立って呼び込みをしてるらしい。シーズンは6月から7月にかけてだ。



久能山東照宮入り口

 道沿いに東照宮へといざなう案内は見かけなかった。地図など見なくても、近くまで行けば分かるだろうと思っていると、うっかり入口を見落としそうだ。
 バスは旧道の細い道を走っているということもあったかもしれない。海岸沿いの大通りには標識が出ているのだろう。
 しかしながら、門前町といえるようなおみやげ物屋などはなく、鳥居の前もいたってそっけない。日光のような観光地を想像していくと拍子抜けする。
 江戸時代は参勤交代で各地の大名が立ち寄ったというから、その頃はもっと賑わっていたのだろうと思う。今や往事の面影はまったく残っていない。



久能山を眺める

 少し離れてみるとこんな感じ。
 鳥居の向こうに見えているのが久能山で、標高は270メートル。
 太古の昔に、海底の隆起によって日本平とともに盛り上がり、長年の浸食作用でぽっこり残されたのが久能山だ。大昔は日本平までずっとつながっていた。
 600年前後というから聖徳太子が生きていた時代、久能忠仁が観音菩薩を安置して補陀落山久能寺を建てたことから、久能山と呼ばれるようになった。
 昔から神聖な山とされていて、行基など多くの僧もこの寺との関わりを持ち、平安末期の全盛期には300を超える坊が立ち並ぶ大寺院になっていたという。
 それが1225年頃、麓で起きた火事の巻き添えを食って焼け、以降再建されることなくかつての面影を失ってしまった。
 次にこの地に目を付けたのが武田信玄で、残った部分の久能寺を清水に移し、山上に砦を築いて久能城と名づけた。
 武田家が滅亡したあと、駿河一帯は徳川の所領地となり、家康は久能城を重視した。隠居後は駿河城に移り、久能山に自らを葬ることを遺言するくらいだから、早くからこの地に何か特別な思い入れを持っていたのだろう。



久能山の石段

 登り始めて間もなく、後ろを振り返ったところ。
 東京タワーの階段が600段だから、あれの倍近いと思えばどれくらいつらいか想像がつくというものだ。おまけにデコボコで歩きづらい。春先だったのに、途中から汗をかいた。夏場は厳しそうだ。
 石段は1,159段あって、「いちいちご苦労さん」と言い合いながらみんな登ったというのは、ロープウェイのガイド嬢の解説ジョークで、実際は1,000段ほど(1,036段?)らしい。それにしても、1,000段以上あるには違いなく、決して楽な道のりではない。ロープウェイができるまではみんなこちらから登っていった。
 人生は重き荷を負うて遠き道を往くが如しと家康は言ったというけど、ここにも家康の人生訓があるのかもしれない。楽して行くより苦労してやりきったことの方が、あとになって楽しい思い出として残る。



徳音院の門

 途中に徳音院というお寺があった。久能寺は結局戻ることはなかったから、江戸時代以降のものだろうか。
 時間がなくて寄れずに先を急ぐ。



つづら折りの石段

 石段はこのようにつづら折りになっている。それでもなだらかとは言えず、わりと急な登りが続く。
 手すりとかがあるわけでもないから、うっかりフラッとよろめいたりすると危ない。実際、写真を撮っていて足を踏み外して、片足がヒザあたりまで溝にはまって怪我をしそうになった。



駿河湾を望む

 階段登りの楽しみは、眼下に広がる駿河湾を眺められることだ。遠くに御前崎や伊豆半島が霞んで見える。
 駿河湾は、空より青い。



一の門

 途中写真を撮るために立ち止まったりした時間を入れて15分ほど歩いただろうか。ようやく一の門に到着した。でもまだここが入口ではない。
 1617年に建てられたもので、当時は櫓門(やぐらもん・二階門)だったものが、明治17年(1884年)の暴風で倒れて、補修のとき平門となった。



門衛所

 門の先には門衛所と呼ばれる建物が建っている。
 江戸時代には、門を守る与力がいて、不埒な者が大御所様の霊廟に近づかないように見張っていた。
 現在の建物は、老朽化したものを解体して復元したものだそうだ。



門に閉じ込めた駿河湾

 後ろを振り返ると、門の中に駿河湾が見えた。



勘助井戸

 少し進むと、勘助井戸というのがあった。信玄が久能城を築城したとき、山本勘助に掘らせた井戸なんだとか。
 本当かどうかは分からない。勘助は水が出ると知っていてここに掘ったともいう。
 今でも使う「山勘」という言葉は、山本勘助が勘を働かせて井戸を掘り当てたことから来ているという説もある。



久能山東照宮入り口

 ようやく入口に到着した。ここで拝観料を払って中に入る。ということはつまり、石段を上り下りするのはタダということだ。好きなだけ何往復でもするがいい。
 拝観料はこの4月から350円が500円に値上がりした。下調べて350円だと思って行ったら500円だったのでびっくりした。値上げが急すぎる。日光東照宮の1,300円よりはましだけど、日光はあれは高すぎるのだ。



見学用のカゴ

 カゴが置かれていて、乗れるサービスでもあるのかと思ったら、見学・撮影用の小道具だった。中に座ることはできる。
 石段登りのカゴサービスがあったら、利用者はいるだろう。ただし、運び手は相当な体力の持ち主じゃないと務まらない。続けて10往復もしたら死んでしまうかもしれない。



楼門

 日光東照宮を思わせる派手な楼門が出迎えてくれる。
 創建から何度も補修や塗り直しはされているものの、基本部分は1617年の創建当時のものだ。
 久能山東照宮は、二代秀忠の造営ということで、三代家光が手がけたものとは少し違っている。これでも充分派手で凝った造りではあるけど、家光の時代のものほどゴテゴテではない。
 重要文化財指定。



勅額御門

「東照大権現」の額は、後水尾天皇の筆だそうだ。それゆえ、勅額御門とも呼ばれている。
 ところで、江戸時代の天皇をどれくらい知っているだろうか。江戸時代ほど天皇の存在感が薄くなったときは他になく、天皇絡みの大きな事件も少ないから知らない人が多いんじゃないかと思う。江戸時代の天皇を5人言えたら大したものだ。
 有名なところでは幕末の孝明天皇あたりだろう。後陽成、後光明、後西、霊元、東山、中御門、桜町、桃園、後桜町、後桃園、光格、仁孝、孝明と続いて、明治天皇となる。江戸時代までは元号と天皇名が一致していない。
 そもそも、元号を決める(改元)のは天皇の特権だったのに、江戸時代になって幕府の力が強まると、改元さえも幕府が勝手にやってしまうようになった。それくらいこの時期は天皇の権威が失墜していたと言える。
 それが大政奉還で突然天皇に丸投げのようになってしまったのだから、幕府にとっても天皇家にとっても大変な戸惑いだったに違いない。



楼門の中の随神

 楼門の表側には左右に随神が控え、裏側には派手な彩色の狛犬と獅子が守りを固めている。
 これは日光の陽明門と同じパターンだったか。だいぶ雰囲気は違うけど。

 全3回に収めるために、1回目から写真が多くなった。2回目以降もこれに近い感じになりそうだ。
 まだようやく楼門に辿り着いただけで、先は長い。次回で本殿まではいきたいと思っている。
 つづく。

 追記
  2010年(平成22年)に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。
 
 家康はこんなに派手好みじゃなかったはずだけど<久能山東照宮2回>
 家康は日本を守護するために神となった <久能山東照宮3回>
 
【アクセス】
 ・JR東海道本線「静岡駅」から久能山下行きのバスで約50分。
 ・JR東海道本線「清水駅」から久能山下行きのバスで約40分。
 本数が少ないので注意。
 ・日本平行きのバス(約50分)で日本平からロープウェイで下るというパターンもあり。

 ・拝観料 社殿400円 博物館500円 共通800円
 ・拝観時間 9時-17時(10月-3月) 9時-16時(11月-2月)
 ・駐車場 有料(500円)

 久能山東照宮webサイト
 

名城公園の藤に間に合わずノラを撮る <名古屋メトロ編-1>

名古屋(Nagoya)
名城公園-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 ゴールデンウィークのお出かけは、とても安上がりなドニチエコきっぷでの名古屋市内巡りだった。600円で地下鉄と市バスが乗り放題なので、時間と体力の許す限りあちこちを回ってきた。最後は体力が私を許さなくなって終わった。くたびれた、もう歩きたくない、どこかに座らせろとものすごい苦情が出て、気持ちが折れた。7時間の間に座っていた時間は30分くらいだったろうか。そりゃあ文句も出ようというものだ。
 そんなわけで、今日はもう体力も気力も残っていないから、写真だけ並べて終わりにしたい。最後に行った名城公園周辺の写真だ。
 一枚目は、とても名古屋らしい風景と言える。左から、市役所、県庁で、右にテレビ塔が見える。今は名駅のビル群が名古屋中心地の風景となったけど、昔はこちらが名古屋を代表する場所だった。栄交差点などもずいぶん様変わりしたから、昔ながらの風景はこのあたりだけになったかもしれない。

名城公園-2

 ゴールデンウィーク中ということで藤棚を楽しみに行ったら、驚いたことに完全に手遅れだった。ほぼすべての花がしなしなになっていた。枯れる間際で、若々しさはまるで残っていない。
 いつもの年だとゴールデンウィーク期間中が一番の見頃で、連休明けに行ってもぎりぎり間に合うというのに、今年は藤も早かったらしい。暖冬はいろんなところで季節感を狂わせるから、やはり冬は冬らしく寒い方がいい。

名城公園-3

 白花は普通の藤に比べて咲くのが遅いから、今ちょうど満開だった。
 とりあえず白花藤だけでも見られてよしとする。

名城公園-4

 堀には渡りのカモも、ユリカモメもいなくなっていた。またいつもの静かなお堀が戻った。
 こちらにツツーッと寄ってくるやつがいると思ったら、アオクビアヒルだった。アオクビは元々いたんだろうか。この場所では初めて見る気がする。

名城公園-5

 お堀の中で、白っぽい鯉が2匹、フッと目の前を横切った。
 慌てて撮ったら、少しブレて幻想的な感じになった。

名城公園-6

 お馴染みの名古屋城。
 特に変わった様子はなく、いつもの姿だったけど、堀端の木々が新緑色になって、春らしいお城風景になっていた。

名城公園-7

 名城公園内は、相変わらずのノラ猫天国だった。
 ここからはしばらく猫撮りになった。猫エサを持っていかなかったのが惜しまれた。

名城公園-8

 雑木林の中で何か動いたと思ったら猫で、1匹を撮っているとどこからともなく別のやつが1匹、2匹と出てくる。

名城公園-9

 猫好きには楽しい場所だ。猫カフェなど行かなくても、ここで猫と思う存分触れ合える。
 よく人に慣れていて、近づいても逃げないやつが多い。慣れすぎていて、無視されることもある。

名城公園-10

 黒猫軍団プラスアルファ。
 クロは兄弟か親子か。

名城公園-11

 ベンチで隣に座ってもしらんぷり。こちらを見ようともしない。

名城公園-12

 バラもだいぶ咲き始めていた。近いうちにどこかへバラを撮りに行こう。

名城公園-13

 だいぶ暗くなってきて、撮影も厳しくなったところで帰ることにする。

 今日はここまで。
 また明日。

子供が喜ぶおかずを大人用にアレンジしたサンデー

料理(Cooking)
子供の日サンデー

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8



 ゴールデンウィーク中でも、何気なく普通にサンデー料理を作って食べている。今年は新型インフルエンザもあるし、高速道路は渋滞してるし、家でおとなしくしてるに限る。
 なんていうのは負け惜しみで、やっぱり休みはみんなと同じように出かけて、なんでこんな混んでるんだよとぼやき、疲れ切って帰宅するというのが正しい日本人の姿のようにも思う。考えることはみんな一緒だよねなどと言いながら。
 ということで、明日はちょっと出かける予定だ。

 今回のサンデー料理は、子供の日サンデーというテーマで作ってみた。
 今どきの子供はどんな料理が好きなのかは知らないけど、私たちの頃は、カレーにハンバーグに卵焼きといったあたりが定番だった。個人的にはそうでもなかったものの、そういったものが世間一般での子供が好きなメニューだったと思う。巨人、大鵬、玉子焼き、というほど昔の子供ではない。
 ただ、そのまま作ったんじゃ芸がないということで、子供が好きな料理を大人が美味しく食べられるようにアレンジしたのが今日の3品だ。
 カレーは一見ノーマルのカレーに見えるけど、カレー粉から作るスープカレーだ。
 刻んだタマネギをじっくり炒めて、鶏肉、エビを追加で入れて、白ワインで炒める。
 ここにカレー粉、小麦粉、水を加えて、カレースープの基本形を作る。
 あとは、コンソメの素、塩、コショウ、白だし、白しょう油、砂糖、ソース、ケチャップ、唐辛子を入れて、煮込んでいく。
 ジャガイモ、タマネギは切り分けてレンジで5分加熱し、タマネギ、ブロッコリーは2分レンジで温める。これをカレーに投入して、煮ていけば完成となる。
 ちょっと柔らかめのカレーといえばそうかもしれない。でも、本格カレー粉で作るカレーだから、かなりのピリ辛仕上げとなっている。子供向きではない。
 白だしを使っているから、名古屋名物カレーうどんに近い味わいになった。もう少しとろみをつければカレーうどんも作れることが分かった。

 手前右は、豆腐と白身の和風ハンバーグだ。
 白身魚を刻んで、木綿豆腐はペーパーにくるんでレンジで2分加熱して水を飛ばし、砕いて白身と混ぜる。
 刻んだタマネギ、卵、小麦粉、パン粉、和風だしを加えて、よくこねる。粘りが出てなめらかになるまでこねると、舌触りのいいハンバーグになる。
 和風だれは、白だし、白しょう油、酒、みりん、塩、コショウ、水、大葉の刻み、長ネギの刻みを合わせて、ひと煮立ちさせる。
 最後に大根おろしを乗せて、たれをかけて食べる。あっさり和風ハンバーグで美味しかった。
 奥は、だし巻き卵の洋風バージョンとなっている。
 卵、白だし、塩、コショウ、牛乳、溶けるチーズ、砂糖、マヨネーズ、長ネギの刻みをよく混ぜて、バターで焼く。
 味はやや洋風寄りで、大人も子供も美味しく食べられる卵焼きに仕上がった。

 全般的に今日は上手くいった方だ。大人の自分も美味しかったし、これなら子供も喜んで食べるんじゃないかと思う。子供の日のご馳走というにはやや物足りないだろうけど。
 難点を言えば、スープカレーの自己主張が強すぎて、他の2品を打ち消し気味だったというのはある。カレーライスのカレーだけというのは、スープにするには味が強すぎるから、カレーライスにするしかないのだ。ビーフシチューはおかずになっても、カレーはおかずになりづらい。スープ仕立てにするなら、もっと薄味にする必要があった。
 そんなこんなで今日も無事、サンデー料理が終わって、ごちそうさま。また来週。
  • ホーム
  • 次 ›