
平家打倒に立ち上がった木曾義仲(きそよしなか)は、頼朝よりも早く京都上洛を果たし、平家をあと一歩のところまで追い詰めることに成功する。
しかし、ここから先、義仲の敵は平家ではなく、頼朝となっていく。
義経率いる頼朝軍が、義仲を討つべく京都に迫る。雌雄を決する宇治川の戦いで、義仲軍は惨敗。京都脱出を計るも、六条河原の戦いでも敗れてしまう。
生き残ったのは腹心の配下である今井兼平らわずか数名。態勢を立て直すために北陸へと逃れる途中、近江国粟津(あわづ)に追い詰められ討ち死に。
義仲このとき31歳。今井兼平も自害して果てた。
氷が張った田んぼに馬で乗り入れたところ、思わず深く、馬が足を取られて身動きできなくなっているところを矢で射られた。1184年1月20日、寒い日だった。
歳月は流れ、一人の尼僧がこの地にやって来て義仲の墓近くに庵を結び、供養の日々を送った。その女性こそ、義仲の愛妾であり、勇猛な女武者としても知られた巴御前(ともえごぜん)だったという伝説がある。
これが義仲寺(ぎちゅうじ)の始まりとされている。
その後、草庵は荒れ、それを見かねて整備したのは、室町末期に近江守護をつとめていた佐々木六角氏だった。当時はまだ小さな寺で、石山寺の配下に入った。江戸時代になると園城寺に属することになる。
江戸時代初期の俳人である松尾芭蕉は、義仲寺と近江を愛し、たびたびこの地を訪れ長逗留している。そして、遺言通り、木曾義仲の墓の隣に葬られた。
江戸時代中期以降、再び荒れた義仲寺を、京都の俳僧・蝶夢が復興させた。
戦後みたび荒れ、篤志家の寄進により三度目の再興を果たし、園城寺から独立した。
江戸時代、この地は粟津ヶ原と呼ばれ、琵琶湖に面した東海道沿いの景勝地だった。
現在は、琵琶湖が大きく埋め立てられて湖岸線は遠ざかり、義仲寺は住宅地の中に埋もれるようにしてひっそり建っている。京阪膳所駅から歩いて10分ほどではあるのだけど、場所が分かりづらくて迷った。このあたり一帯、往時の面影はほとんどとどめていないのではないかと思われる。

あまりにもささやかすぎると思えるほどこぢんまりした自然石が芭蕉の墓石になっている。古写真で見る姿と今の様子を見比べてみても、ほとんど変わらない。
芭蕉が大津の地に眠っているということを知っている人は少ないんじゃないだろうか。たまたま偶然ではなく、芭蕉自らがこの地を選んだのだった。
どうしてそうなったのかを説明する前に、芭蕉の話を少し書きたいと思う。
芭蕉は武士に憧れていた。それも悲劇的な武将に共感し、自分も戦いの中で華々しく散りたいと願っていたところがある。
風流に身を置き、一生俳句を作って暮らした枯れたじいさんと思っていると芭蕉像を捉え間違える。
芭蕉が生まれたのは江戸時代前期の1644年だから、関ヶ原の戦いからまだ40年ちょっとしか経っていない頃だ。物心ついた頃でも関ヶ原は60年ちょっと前の出来事だから、私たちでいうと第二次大戦くらいの距離感といえばそう遠くないと思う。
生まれは三重県伊賀で、農民に近い下級武士の家だった。伊賀出身ということもあって、奥の細道絡みで忍者説というのが生まれてくるわけだけど、その話はまた別の機会にしよう。
若い頃は一応、武士の端くれだった芭蕉は、武士の道を見限って、俳諧で食べていくことを決意する。
大志を抱いて江戸に出たのは29歳のときだった。
武士で大成する道がないとなってからは、芭蕉にとってのヒーローは西行となった。
西行は、北面の武士というエリートの道を捨てて出家して、旅の中で生き、歌を作ることに一生を捧げた歌人だった。
奥の細道の旅も、西行が歩いた道を自分で歩くための旅だった。その中で、もう一人の悲劇のヒーロー義経に思いを寄せ、涙したりもした。
奥州で詠んだ「夏草や 兵どもが 夢の跡」と、最後の句となった「旅に病んで 夢は枯れ野を 駆け廻る」という二つの句は、悲劇的武将に対する共感と、武士への憧れと、旅に生き旅に死すという決意という三つの重要な要素をよく表している。
よく知られている「古池や 蛙飛び込む 水の音」などは、俳句の新境地を開いたという意味では重要な句ではあるけど、芭蕉の本質的な部分からは少し外れているようにも思う。
芭蕉は、世間的な評価よりもずっとアウトローで、破滅的な人間だ。半分自暴自棄になって、旅に死にたいと願っているような人間がまっとうなはずがない。だからこそ、あの時代にあれだけ新しい俳句というものを生み出すこともできた。
芭蕉は自らが望んだ通り、旅に生き、旅に死んだ。その中でも特に近江(大津)の地がお気に入りだった。
「行く春を あふみ(近江)の人と おしみける」など、大津で90近い句を作った。生涯あわせて約980句というから、1割近い。
義仲の墓の前では「木曾の情 雪や生えぬく 春の草」と詠み、奥の細道の途中では「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」という句を残した。
生前から死んだら義仲の隣に葬ってくれるよう弟子たちに頼んでいた。
1694年10月12日。旅先の大坂で病死。享年51歳。
遺言に従い、芭蕉の遺骸は、舟で淀川を上り、深夜になって伏見に着き、翌日、義仲寺に運ばれ、葬儀のあと埋葬された。

木曾義仲の墓石の方が立派だ。これも昔の姿と変わっていない。
木曾義仲の本名は、当然の如く、源義仲だ。
源氏というのは、もともと天皇家の流れを汲んでいる。皇族以外の母親から生まれて天皇や皇太子になる可能性がない子供たちを、皇室の籍から抜いて(臣籍降下)誕生した一族だった。
その中で、源氏の嫡流は清和源氏一族で、河内源氏の末裔だ。たどっていくと、八幡太郎義家がいる。少し前にの新羅善神堂の記事で出てきた新羅三郎義光のお兄さんだ。
義仲は義賢(よしたか)の二男で、頼朝や義経の父・義朝(よしとも)の弟になる。つまり、頼朝と義仲はいとこ同士というわけだ。
義仲は、今の埼玉県嵐山町で生まれたとされている。これは義朝とその父である為義が対立したことでとばっちりを受けた恰好でそうなった。本来、源氏の本拠は京都で、頼朝は京都で育っている。この育ちの違いものちに影響してくる。
義仲の父・義賢は、身内の争いに巻き込まれ、義朝の長男で頼朝の長兄にあたる義平(よしひら)によって討たれてしまう。義仲がまだ赤ん坊だったときだ。
ちょっと複雑なのだけど、その後の展開を理解するためにこの二人の人間関係は大事になる。
頼朝の上には二人の兄貴がいたわけだけど、早くから頼朝が嫡男となっていた。それは、母親の出自の問題で、上の二人の母は身分が低かったのに対して、頼朝の母は熱田社大宮司の娘だったからだ。
義仲はその後、斎藤実盛(さねもり)に助けられ、木曽谷の豪族・中原兼遠(かねとお・乳母の夫)に養育されることになる。それで、木曾義仲(次郎)と呼ばれている。
1159年。平治の乱が起きる。義朝たちが平清盛を倒そうとして返り討ちにあった戦だ。義朝は戦に敗れ、愛知県の知多半島に逃れていく途中で、配下の裏切りにあって惨殺されてしまう。
長男の義平は、父の敵を討とうと単独で京都に入るも、捕まって六条河原で斬首。
義仲にとっては、父の敵を平家に討ってもらったことになる。このあたりも心情的に複雑なものがあって、源平の合戦というのは平家と源氏の戦いという単純なものではなかった。平氏でも源氏と共に戦った一派がある。
二男の朝長は、東国へ落ちる途中で落ち武者狩りにあって負傷したのちに死亡。
三男の少年頼朝は、父とはぐれて美濃をさまよっていたところを捕まってしまう。
本来なら嫡男でもあり、当然斬首だったのを、清盛の継母・池禅尼の嘆願によって命を助けられ、伊豆へ島流しとなった。歴史ではときどきこういうことが起きる。強運というか、天命というか、このとき頼朝が普通に処刑されていたら、その後の歴史は大きく違っていた。
9男坊の義経はといえば、鞍馬寺を逃げ出して、奥州藤原氏の元へ走っていった。頼朝はそのことを知っていたかどうか。知っていたとしてもほとんど興味はなかっただろう。母親も違えば会ったこともない弟だ。
それでもこれで源氏の力は弱まり、平家の支配体制は固まった。しばらくの間、平清盛はこの世の春を謳歌することになる。
歴史が動くのは、これより20年先のことだ。
無期限謹慎中の頼朝は、伊豆で案外のんきに暮らしていた。地元の有力者の娘と内緒で子供を作ってオヤジさんに殺されそうになったり、北条政子と恋に落ちて結婚もしていた。頼朝も、源氏再興というのはほとんど考えなくなっていたんじゃないだろうか。14歳だった少年も、今や34歳になっていた。
しかし、平家の世がいつまでも続くわけではなかった。武士だった平家が貴族化し、地方では不満が爆発寸前まで高まっていた。機は熟した。
1180年、以仁王(もちひとおう・後白河天皇の第三皇子)が、全国に平家打倒の令旨(りょうじ)を発し、義仲の叔父・行家が全国を回って挙兵を呼びかけた。
その前年の1179年にはクーデターに失敗した後白河法皇が幽閉されるという事件があり、以仁王は領地没収、皇族籍剥奪、土佐配流と決まっていたから、半ばやけっぱちの一か八かの大勝負だった。
この時点で、源氏が平家を倒せると信じていた人間はほとんどいなかったと言われている。兵力も財力も違いすぎていたし、いくら貴族化したとはいえ、平家ももとは武士の出だ。戦となれば兵の数が物をいうし、実戦経験から遠ざかっているという点では源氏も平家も違いはない。実際、局地戦では平家が勝っている戦いがいくつかある。天才軍略家・義経の存在がなければ、源氏は平家に負けていたかもしれないくらいだ。
それでも源氏が立ち上がったのは、クーデター失敗により、平家が源氏を討伐するという名目を与えてしまったからだ。黙っていてもやられるなら、戦った方がましというだけのことだった。勝算など誰も持っていない。
最初に戦ったのは、義仲の兄貴の仲家だった。頼政の養子となっていた仲家は以仁王の挙兵に参戦していち早く戦い、養父の頼政とともに真っ先に戦死してしまう。
まともに戦ったのでは勝てないと踏んだ義仲は、平家と戦いつつ兵を集め、北陸方面へと向かう。挙兵したとき、義仲は27歳だった。
源氏挙兵から2年後の1182年。北陸に逃れてきた以仁王の息子・北陸宮と合流。
翌年、頼朝と敵対した志田義広と、頼朝と不仲になって逃れてきた行家を、義仲が助けたことで、頼朝と敵対関係に陥ってしまう。前面衝突を避けるために、義仲は嫡男の義高を頼朝の元に送ることでなんとかその場は収まった。
一方の頼朝はというと、初戦の石橋山の戦いで散々な敗北を喫し、命からがら山の中に逃げ込んでどうにか助かった。
わずかな配下を連れて舟で房総半島の端っこの安房国へ逃れた。ここでもう一度力を蓄え、反撃の機会をうかがうことになる。
それからの3年間は、攻めるよりも守りの戦いが続き、それでも戦に勝って少しずつ勢力を伸ばしていき、3年後には関東を平定することに成功する。
その間に、兄のピンチを聞きつけた義経も奥州からはせ参じてきていた。
1183年。義仲は平家だけでなく頼朝という敵との戦いに巻き込まれていくことになる。
倶利伽羅峠の戦いで大勝利を収めたのちは、勢いに乗って平家との戦いには連戦連勝で一気に京都への上洛を果たした。
その少し前、もう駄目だと悟った平家は、幼い安徳天皇たちを連れて西国へ落ちていった。
このとき、平家は後白河法皇も連れていくつもりだったのだけど、法皇は比叡山に逃げ込んでしまう。もし、後白河法皇が平家と命運を共にすることになっていたら、その後の展開は違うものとなっただろう。
源平合戦は後白河法皇によってさんざん引っかき回されてしまったという一面があって、この存在が良い方にも悪いほうにもいろいろと影響を与えた。
京都を落とし、平家打倒にあと一歩まで迫った義仲だったけど、ここから先は坂道を転がるように転落していくことになる。悪い流れを変えられないまま最後は討ち死にという結果を迎える。直接攻撃したのは頼朝であり、義経などの頼朝軍だったとしても、それがすべてではなかったようにも思う。義仲の役割はここまでだった。
寄せ集めの兵たちは、京都でさんざん暴れて悪さをして、京都の人々に嫌われてしまう。ちょうど飢饉が続いて食糧事情が悪かったという不運もあった。義仲の育ちが悪くて都での振る舞いを知らなかったせいだと言う人もいる。
皇位継承問題に口を出したのもまずかった。自分が保護した北陸宮を天皇にしようとして後白河法皇の不興を買ってしまう。
朝廷や京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇も頼朝に京へ来るように命じる。義仲には西国の平家打倒を指示し、その間に頼朝を上洛させてしまうという考えだった。
最初は断っていた頼朝も、所領を戻してもらったり、官位を与えたりという懐柔策によって承諾する。といっても、まずは義経たちを京へ向かわせた。
焦った義仲は京へ引き返し、義経たちを迎え撃つ準備を始める。西国での戦いも苦戦続きで負けが込んでいた。その上、せっかくここまで自分たちの力で手に入れた京を、頼朝に横取りされてはたまらない。自分の立場も失ってしまう。義仲にとって、頼朝というのは途中から同じ勢力ではなく、平家よりもやっかいな敵となっていた。強烈なライバル心と言ってもいいかもしれない。
結局、義経率いる頼朝軍に敗れ、大津で最期を迎えることとなった。31歳といえば、義経が頼朝に攻められて奥州平泉で死んだのと同じ歳だ。
最後に勝った頼朝にしても、親子三代で途絶えてしまい、権力は北条へ移っていく。
芭蕉が詠ったように、兵どもが夢の跡、だ。
どうして芭蕉があそこまで木曾義仲に思い入れを抱いたのかは分からない。悲劇の武将というだけではないような気もする。考えられるとすれば、自分の中に義仲と同じ資質を見ていたからではないだろうか。自分もせめてもう100年早く生まれていればと思ったこともあっただろう。やっぱり芭蕉は武将になりたかったんだと私は思う。

境内にはたくさんの句碑がある。芭蕉本人のものや、ゆかりの人のものなど、20ほどあるらしい。全部は見つけられなかった。
中でも有名なのはこれだろう。
「木曾殿と 背中合わせの 寒さかな」
芭蕉が滞在中に、弟子の又玄(ゆうげん)が詠んだ句だ。

右側の小さな石が、巴御前の塚とされているものだ。
左の赤い石は、佐渡の赤石というもので、佐渡の赤玉地区にしかないものらしい。日本三大銘石の一つなんだとか。

翁堂(おきなどう)。
祭壇には芭蕉の座像が安置されている。
江戸時代の画家・伊藤若冲が描いた天井画「四季花卉図」がデジタル復元されたらしい。

誰かの句碑だったか、石碑だったか、墓だったか。
境内にはごちゃごちゃっとたくさんのものがあって、どれがなにやら分からなかったりもする。
左手に見えているのは、無名庵(むみょうあん)だったか。かつて芭蕉が滞在したのは、この建物だろう。
その他、粟津文庫や史料観なども建っている。

本堂にあたる朝日堂(ちょうじつどう)。
木曾義仲が朝日将軍と呼ばれたことから名づけられている。
本尊は、聖観世音菩薩。
義仲や、今井兼平、芭蕉などの位牌を安置している。
建物自体は、1979年(昭和54年)に改築されたもので新しい。

奥に保田與重郎の墓があった。
奈良県桜井市出身の文芸評論家だけど、知らない人も多いだろう。
『日本の橋』あたりはちょっと知られているか。
義仲寺再興に尽力したということで、分骨してここにも墓があるんだそうだ。

芭蕉の供養塔で、右が二百年記念のもので、左が三百年記念のものだ。
この色の違いに100年の歳月を見る。
四百年記念を見られるかどうか。
芭蕉を偲ぶ時雨忌は11月、義仲忌は1月に行われている。

境内には、木曽八幡社なんてのもある。
昔は寺の守り神としてあったのだろう。明治以降はいったん消え、昭和になって復活した。
このお寺は、旧家の庭くらいの広さの中に、いろんな要素がぎゅっと詰め込まれている。芭蕉が眠る寺とは思えないほど小さなお寺だ。
狭いところだからざっと見るだけなら10分もあれば見終わってしまうけど、少し時間をかけてゆっくり過ごしながら、昔の光景に思いを馳せたりするのがいいんじゃないかと思う。
私は、義仲については表面的なことしか知らなくて、帰ってきてからあらためて勉強してみて、なるほどこういうことだったんだと分かって感慨深いものがあった。
源平合戦というと、義経ばかりが悲劇のヒーローとしてスポットが当たっているけど、もう一人ヒーローがいたのだ。夏の朝日の如く昇り、秋の夕陽のように沈んだ時代の寵児、木曾義仲のことを私も忘れないでおこう。