月別:2009年05月

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  • 4月終盤の尾張旭風景を紹介して気持ちを5月へ向かわせる

    PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f2.8 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di 大津シリーズはいったん中断して、今日は4月終わりの尾張旭風景写真をお届けします。ここらで出しておかないと、季節はずれの写真になってしまう。 森林公園へ行った帰りだから、4月24日くらいだったろうか。一週間ほど前の写真だから、今は少し様子が違っているはずだ。このときはまだサトザクラがよく咲いていた。5月に入ったから、もうサトザクラも終わりかけて...

    2009/05/03

    風景(Landscape)

  • 日吉東照宮にも行って気づけば東照宮マニア <大津巡り14回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 京阪石山坂本線の北の終点は坂本駅で、ここは比叡山の麓の門前町として栄え、現在も神社仏閣が密集している。東南の琵琶湖畔には、明智光秀の居城だった坂本城もあった。 できるだけたくさん回ろうと思っていたのだけど、時間切れが迫っていて、いくつかに絞り込むしかなかった。一番の目的は日吉大社で、これは外せない。このとき時間は3時半前、ここらの寺社はだいたい4時半で閉まってしまう。大急...

    2009/05/01

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 大津は天智一家の都で、必ずしも昔話ではない <大津巡り13回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 近江神宮に到着したときは、だいぶ日も西に傾いて日没時間が迫っていた。人の姿もない参道は静まりかえり、何やら厳粛といっていいくらいの空気感が漂っている。ここは意外といいぞというのが参道に一歩足を踏み入れたときの第一印象だった。 近江神宮の最寄り駅は、近江神宮前ということになるのだけど、名前ほど前というわけではなく、一つ北の南滋賀駅との中間くらいにあって、どちらから歩いても1...

    2009/05/01

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

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4月終盤の尾張旭風景を紹介して気持ちを5月へ向かわせる

風景(Landscape)
尾張旭の4月-1

PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f2.8 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di



 大津シリーズはいったん中断して、今日は4月終わりの尾張旭風景写真をお届けします。ここらで出しておかないと、季節はずれの写真になってしまう。
 森林公園へ行った帰りだから、4月24日くらいだったろうか。一週間ほど前の写真だから、今は少し様子が違っているはずだ。このときはまだサトザクラがよく咲いていた。5月に入ったから、もうサトザクラも終わりかけていることだろう。
 ソメイヨシノの満開は、ようやく東北を越えて北海道へ移ったようだ。函館が8分咲きくらいというから、ゴールデンウィーク中には間に合わないところもあるんじゃないだろうか。名古屋の感覚からすると、桜はもはや昔話のように遠い出来事となった。

尾張旭の4月-2

 長池の北側も、ずいぶん整備されてきれいになった。以前はどんなふうだったか、覚えていない。でも、こんなふうじゃなかったことは確かだ。
 今回の目的はマメナシと藤だった。春にはソメイヨシノが咲き、冬にはフユザクラも咲く。

尾張旭の4月-3

 長池の畔がマメナシの群生地というのを今年初めて知った。今まで数え切れないほど訪れているのに気づかなかったのが信じられない。普通に見える場所にはないのだろうか。
 シデコブシがあるのも今年になって気づいたくらいだから、ずいぶんうっかりした話だ。マメナシはどのあたりにあるのだろう。ざっと見渡したところ、白い花は見えなかった。このあたりではないのか。

尾張旭の4月-6

 長池は生き物の姿が少ないところで、渡りのカモもほとんど訪れない。シーズンオフになれば、カルガモさえいない。食べ物となる藻が生えていないのだろうか。
 珍しくカワウがいたけど、エサをとっているというより羽を休めているだけのようだった。小魚くらいはいると思うけど、釣りをしている人も見ないから、魚もあまりいないのか。

尾張旭の4月-4

 藤は4月の後半でだいぶ咲いてきていたから、今頃はもう満開になったか、もしかすると見頃を過ぎてしまっただろうか。
 ここの藤はずいぶん前からあるような気がする。昔は特に今日もなかったからあまり気にしてなかったけど、ここに藤があることは知っていた。地元の人くらいしか訪れないようなところではある。

尾張旭の4月-5

 藤棚がいくつか作られていて、それなりに見応えがある。わざわざ遠くの藤名所まで見に行くのは面倒というにはお手軽に楽しめる場所としてオススメできる。
 白花もあって、それは咲き始めるのが遅いから、5月の半ばくらいまで咲いているんじゃないだろうか。藤も満開を過ぎると急速に魅力が褪せていくから、満開前に見るに越したことはない。

尾張旭の4月-7

 近頃は鯉のぼりを出す家も少なくなった。尾張旭は一軒家が多いから、ポツリ、ポツリと出しているところがある。それでも、探さないと見つからないくらいの数だ。
 屋根より高い鯉のぼりを見つけるのは難しいかもしれない。

尾張旭の4月-8

 瀬戸電と全速力で自転車を漕ぐちびっこレーサー。補助輪付き。

尾張旭の4月-9

 尾張旭は田植えが遅い地区で、まだ田んぼには水が張られていない。
 そこではケリが子育ての真っ最中だ。ケケケッと甲高い声を発しながら、親ケリがまわりを威嚇している。よく見ると、母親のそばにはチビのケリがちょこまか歩き回ってエサを探しているのが見つかるはずだ。
 ケリは生まれて間もなく子供は自力でエサを探す。親はそれを見守るのが仕事だ。

尾張旭の4月-10

 モコモコの毛が生えているだけで、当然まだ飛べない。飛べるようになるまでにはひと月以上かかるんだろうか。
 でも、そうこうしてると田んぼに水が張られて田植えが始まるから、そうそうのんびりもしてられない。
 ケリの子供を見ると、今年もまた田植えの季節が近づいたんだと思う。
 あちこちでも鳥のベビーラッシュが始まっていることだろう。

尾張旭の4月-11

 飛ぶツバメは、相変わらず手強い。けっこう粘ってチャレンジしたけど、これが精一杯だった。K10Dでは苦しいから、次は20Dを持っていって再挑戦しよう。
 ツバメもそろそろ子供が生まれる頃なんじゃないか。巣から雛が顔を出して口を大きく開けている様子はまだ撮ったことがないから、チャンスがあればそんなシーンも狙ってみたい。

 4月も終わって、5月が始まった。5月には5月の写真がある。大津巡りシリーズを続けながら、季節ネタも追いかけていくことにしよう。
 次はカキツバタとバラか。

日吉東照宮にも行って気づけば東照宮マニア <大津巡り14回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
日吉東照宮-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 京阪石山坂本線の北の終点は坂本駅で、ここは比叡山の麓の門前町として栄え、現在も神社仏閣が密集している。東南の琵琶湖畔には、明智光秀の居城だった坂本城もあった。
 できるだけたくさん回ろうと思っていたのだけど、時間切れが迫っていて、いくつかに絞り込むしかなかった。一番の目的は日吉大社で、これは外せない。このとき時間は3時半前、ここらの寺社はだいたい4時半で閉まってしまう。大急ぎで滋賀院門跡と日吉東照宮へ行って、ぎりぎり日吉大社に飛び込もうかとも考えたのだけど、肝心の日吉大社の時間が足りなくなってしまってはいけない。
 ぐっと絞り込んで、滋賀院門跡にするか、日吉東照宮にするかという二者択一となり、結局、東照宮を選んだ。けど、考えてみると迷う必要などなかったのだ。私は自分でも意識しないうちに東照宮マニアかというくらいあちこちの東照宮へ行っている。日光はもちろん、松平、名古屋、鳳来寺、上野、それからこの前は久能山にも行ってきた。そのときのことはいずれ近いうちに紹介しようと思っているけど、そんな私が日吉の東照宮を外していいわけがない。
 そんなわけで、今日は日吉東照宮について書こうと思う。

日吉東照宮-2

 日吉東照宮へ行く場合は、一つ手前の松ノ馬場駅で降りて歩いた方が少し近い。ここらは古い家並みや石畳の道などもあるから、行きと帰りで別の駅を利用するのがオススメだ。坂本駅の表参道も、左右の石垣や寺社風景など、見所が多い。
 そのあたりの風景は、大津シリーズ番外編で紹介する予定でいる。

日吉東照宮-3

 行き道はずいぶん上り坂で、境内も石段を登った高台にある。このあたりはそれなりに標高が高そうで、桜も市内より遅い感じだった。
 全然知らなかったのだけど、日吉東照宮は土日しか開いてないそうだ。私が行ったのは平日だったのに何故か開いていた。桜の時期だったからだろうか。
 拝観料は200円。神社は取らないところが多いけど、東照宮は取るところが多い。これも徳川の威光か。

日吉東照宮-4

 東照宮というと、派手な塗りや装飾というイメージが強い。その代表が日光で、久能山もかなりのものだった。
 それは家康の趣味ではなくて、三代将軍・家光の意向によるものだ。家光は家康に対する思いが強かったから、自分の力の限り最高の社殿を建ててみせると思ったのだろう。あとから作られた地方の東照宮も、それにならったものが多かったのではないだろうか。
 日吉東照宮では、まず絢爛な四脚唐門が出迎えてくる。
 周りを透塀で囲み、門や屏は極彩色の装飾や彫刻で飾られている。いかにも東照宮という派手さだ。
 本殿や拝殿をはじめ、唐門や透塀などもすべで国の重要文化財に指定されている。

日吉東照宮-5

 裏へ回ると手抜きのセットみたいになっているのがちょっと残念ではある。日光ほどお金をかけられなかったのだろう。日光東照宮は裏から見てもすごかった。
 朱塗りは歳月ではがれ落ちてしまったのかもしれない。

日吉東照宮-6

 拝殿と本殿いずれも、これぞまさに東照宮という仕上がりになっている。たくさんの彫刻や彩色、金箔が施されている。
 日光東照宮のコンパクト版みたいと思ったら、それもそのはず、日光のモデルとなったのが、ここ日吉東照宮の社殿だったからだ。
 将軍職を息子・秀忠に譲り、自身は駿河で大御所として隠遁生活を送っていた家康が75歳(満73歳)で死去したのが1616年のことだった。
 自分の死後はまず駿河の久能山に葬り、一周忌のあと日光山に移せという遺言の通り、久能山に東照宮を建て、家康をそこで祀った。久能山東照宮は仮の社ということで約半年ほどで建て、その間に日光東照宮の建設にも着手した。
 日光東照宮は1年4ヶ月ほどかけて完成させ、翌1617年に家康の亡骸を日光へと移す。
 1618年に二代将軍秀忠が江戸城内に分祀したのをはじめ、1619年には尾張に名古屋東照宮(尾張東照宮)、1621年に紀伊の紀州東照宮と水戸の水戸東照宮がそれぞれ創建された。上野東照宮は、藤堂高虎が屋敷内に建てたのが始まりで1627年のことだ。
 日吉東照宮のが建てられたのは1623年だった。当時はまだこんな派手な造りの社殿ではなかった。今の姿になるのは、1634年、秀忠亡き後、三代家光の時代だった。
 家光は上洛の途中で比叡山天台宗の天海僧正に日吉に東照宮を建てることを命じる。それは単に東照宮と建てろというのではなく、尊敬する家康にふさわしい立派な社殿を考えろというものだった。
 それで天海が考え出したのが、権現造(ごんげんづくり)と呼ばれる様式の社殿だ。
 本殿と拝殿の2棟を一体として、間に石の間(いしのま)と呼ばれる一段低い建物を挟んでいるのが特徴だ。祭祀のときに祭神であり将軍である家康に背を向けても非礼にならないようにという配慮で考えられたものとされている。
 この社殿を家光は大いに気に入ったようで、同1634年の11月には日光東照宮の再建に乗り出している。金と人員を惜しみなく投入し、当代随一の豪華絢爛な社殿に建て替えた。
 1636年には、早くも日吉東照宮を再建している。寛永の大造替の一環として行われたもので、現在の社殿はそのときのものだ。
 という経緯があって、日吉東照宮は日光東照宮のひな形とされている。

日吉東照宮-7

 かなり色あせて古びてきてはいるものの、まだまだきらびやかさを充分にとどめている。東照宮はこうでなくちゃと思う。
 完成当時は、もっとすごいことになっていたのだろう。江戸時代の町民はびっくりしたんじゃないか。超お金持ちの象徴的な建物でもあったはずだ。
 こういう建物を見ると、もし信長が天下を統一して平和な時代が来ていたとしたら、信長はどんなものを作っただろうと思う。戦時中にさえ安土城を築城したくらいだから、東照宮どころではないものを作ったはずだ。そうしたら、今の日本の風景はずいぶん違ったものとなっていたかもしれない。

日吉東照宮-8

 デザインのどこまでが天海のものだったのか。装飾は天海が考えたのか、家光の指示だったのか、当代一流の建築家や絵師、彫り物師たちが決めたのか、どうだったのだろう。
 もはや建築物の域を超えて美術工芸品とでも呼びたい建造物だ。
 これはそれまでの日本にはなかったもののように思う。元となるデザインが中国かどこかにあったのだろうか。非常に趣味的な建物でもある。日光東照宮などは、やりすぎのデコトラみたいで、続けて見ていると笑えてくるくらいだ。あの美意識は尋常ではない。

日吉東照宮-9

 日吉東照宮の一番の特徴というか、いいところは、拝殿の中まで入れてくれるところだ。受付の人がいろいろ説明をしてくれて、中もゆっくり見ていってくださいと言ってくれた。写真撮影も禁止していない。これはいいものを見せてもらった。
 祭神はどういうわけか、徳川家康と日吉大神に加えて豊臣秀吉が祀られている。受付の人は、それはあまり気にしないでと言っていたけど、気になるといえば気になる。いつ誰が決めたのか。天海と秀吉の関係は見えない。
 日光東照宮では、家康の他に源頼朝と秀吉が祀られている。久能山は秀吉と信長だった。東照宮と秀吉の関係はよく分からない。
 創建が天海ということで、もともとは延暦寺の末寺だったものが、明治の神仏分離令によって今は日吉大社の末社となっている。

 話の流れで、このあと日吉大社について紹介するのがいいのだろうけど、まだ準備が終わっていない。写真の枚数も多いし、調べないといけないこともたくさんあるから、もっと後回しになりそうだ。
 久能山東照宮も静岡編のときのメインだから、そろそろ終わらせておきたい気持ちが強い。
 いずれにしても、大津関係のシリーズはまだしばらく終わりそうにない。気長に地道にいくしかなさそうだ。

大津は天智一家の都で、必ずしも昔話ではない <大津巡り13回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
近江神宮-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 近江神宮に到着したときは、だいぶ日も西に傾いて日没時間が迫っていた。人の姿もない参道は静まりかえり、何やら厳粛といっていいくらいの空気感が漂っている。ここは意外といいぞというのが参道に一歩足を踏み入れたときの第一印象だった。
 近江神宮の最寄り駅は、近江神宮前ということになるのだけど、名前ほど前というわけではなく、一つ北の南滋賀駅との中間くらいにあって、どちらから歩いても15分ほどかかる。
 最初、どこから入っていいか分からず、鳥居も見つからないまま横入りになってしまった。鳥居と社殿は東向きで、私は南から入ったらしかった。本来は線路沿いの東鳥居から入るべきなのだけど、そちらは帰りに回ることにして、とりあえず本殿を目指すことにした。

近江神宮-2

 しばらく歩くと二の鳥居が見えてきた。そこではちびっこたちが階段を上り下りして遊んでいた。ちょっと唐突な登場で、最初、おっと少し驚いた。夕方だし、人はいないだろうと油断していたこともあって。けど、子供が神社で遊ぶというのは、わりと健全でいいことだと思う。昔もそうだたったけど、広くて安全で人が少ないのがいい。神社によっては、ボール遊び禁止と書かれているところもある。多少は大目に見てあげてもいい。

近江神宮-3

 わざとなのか、地形的にそうなってしまっただけなのか、この神社はやけにくねくねしている。一の鳥居をくぐって参道はゆるやかにS字を描き、二の鳥居の先は駐車場からの参道とぶつかって、クランク状になっている。
 次にまた階段があって、登り詰めた上に楼門が建っている。
 門と社殿は真南ではなく、東南を向いているのも何か意味があるのどうか。
 新しい神社だけに、このあたりの意図はよく分からなかった。真っ直ぐのものが傾いているようで、なんとなく落ち着かない。個人的な感覚として、神社は真南を向いていて、北に向かって拝むのが一番しっくりくる。

近江神宮-4

 なかなか立派な門だ。新しさゆえの軽さはない。本格派の造りで、あと200年もすれば歳月を経たいい楼門になるだろう。

近江神宮-5

 近江神宮の創建は昭和15年(1940年)と、ごく新しい。
 その年は皇紀2600年にあたり、天智天皇を祀るため、ゆかりの大津宮跡に建てられたのが、この近江神宮だ。
 皇紀というのは、初代・神武天皇が即位したとされる年から数えて2600年ということで、その日は現在でも建国記念の日として国民の祝日になっている。皇紀という年号は今でも生きている。
 神宮という名の通り、天皇家に関わりが深い。昭和天皇の勅許によって建てられた。
 明治28年(1895年)に、平安遷都1100年を記念して建てられた平安神宮や、大正3年(1914年)に明治天皇と皇后のために建てられた明治神宮などに近い。そういう目で見ると、近江神宮も二つの神宮によく似た雰囲気を持った神社だということに気づく。
 どうして昭和15年などという時期に、忘れられた都とでもいうべき大津に、天智天皇を祀る神社を天皇の勅命で建てる必要があったのか? それは、日中戦争と天智天皇との関連を昭和天皇や当時の日本という国が強く意識していたからに他ならない。
 国威高揚であり、日本は神国であるということをあらためて国民に強く意識させる狙いがあった。日中戦争は3年前の昭和12年に始まり、決着が見えないまま泥沼化していた時期だ。
 この皇紀2600年には、他にも様々な行事があった。橿原神宮や皇族の陵の整備なども行われ、皇室関係の神宮への参拝が奨励された。外地に北京神社などを創建している。万博とオリンピックを同時に行うという計画が立てられるも、これは実現しなかった。
 何故、天智天皇だったのかというのは、敗れたとはいえ朝鮮出兵に乗り出した天皇だったからというのがあったはずだ。白村江の戦いは、朝鮮半島を支配するためというより百済に助けを求められてそれに応じた義戦という認識が当時の日本人にはあったのだと思う。本音はどうであれ、日中戦争というのも、建前としては欧米列強に対抗するためにアジアは一つになるべきだという考えがあってのことだった。中国、朝鮮を支配することが目的ではなく、日本がアジアの盟主となるというのが最初にあった。
 昭和天皇が天智天皇を強く意識していたことは、終戦後間もなく閣僚を集めて、天智天皇は白村江の大敗のあとすぐに兵を引いて、心機一転出直して日本を復興させて国力を増強させたから、我々も今こそその精神でもって戦後復興を成し遂げるべしと語ったという逸話からも明らかだろう。侍従次長が天皇の名代として近江神宮に参拝して、そのことを伝えたという。
 天皇直々の創建ということで、いきなり最高ランクの官幣大社となり、のちに全国で16しかない勅祭社となる。勅祭社というのは、祭礼のとき天皇によって勅使が遣わされる神社のことで、伊勢神宮は別格として、各地の神宮や賀茂神社、春日大社、出雲大社、氷川神社、朝鮮神宮などがそれに当たる。

近江神宮-6

 新しい神宮とはいえ、この狛犬のチョイスはどうだったのだろうと思った。彫刻としてあまり上手ではないように見えるし、あえて白色にする必要があったのかどうか。なんとなくロボット狛犬みたいだ。
 台座のナルト模様は、ラーメンの丼みたいだし。

近江神宮-7

 写真は手前の回廊からで、向こうに見えているのが拝殿だ。ここまでしか進めないようになっていて、拝殿に近づくことさえもできない。
 社殿はぐるりと回廊で囲まれていて、拝殿から本殿まですべて棟続きになっている。昭和を代表する神社形式ということで、昭和造り、あるいは近江造りと呼ばれている。
 歴史が浅いから重文指定とはいかないものの、国の登録有形文化財となっている。
 流れた歳月の短さを思わせないほど、非常に重厚で深閑とした空気感に包まれていて感心する。明治神宮でも感じたことだけど、神社の空気感を作り出すのは歳月だけではないということを知る。ここには確かに神聖さがある。

近江神宮-8

 回廊の様子。こちらから回っても、途中までしか進めない。

近江神宮-9

 本殿は屋根がちらりと見えるだけだった。

近江神宮-10

 楼門を裏側から見たところ。
 こちらから見て右側に、時計博物館というのがある。天智天皇は日本で最初に水時計(漏刻)を設置したとされていて、その関係で世界中から珍しい時計をたくさん集めて展示してあるそうだ。
 私が行ったときはもう閉まっていた。300円というのは興味がある人には安いだろう。興味がない人なら無料でも入らない。
 境内にも昔の復元日時計や火時計などが展示されていたらしいのだけど、全然気づかなかった。天智天皇と時計の話は帰ってきて初めて知ったことだから、目にしていても見えていなかった。

近江神宮-11

 こちらの屋根付き通路は何だったんだろう。立ち入り禁止となっていたから、入れなかった。

近江神宮-12

 参道を東に進んだところに鳥居があった。
 そのすぐ向こうに電車が走っている。電車の中からこの鳥居が見えたからごく近いと思ったら、駅からは案外遠かった。

近江神宮-13

 表から鳥居を撮って、ようやくすっきりした。これで一通り見た気になった。

近江神宮-14

 天智天皇と大津宮の話が出たついでに、大津宮について少し触れておくことにする。
 白村江の戦いに敗れた中大兄皇子は、都をそれまでの飛鳥から近江へと移し、自ら天智天皇として即位した。667年のことだ。
 どうして近江の大津だったのかは、様々なことが言われていて、はっきりしたことは分かっていない。
 通説では、唐・新羅連合軍が攻め込んでくることに備えて、守りやすい琵琶湖畔にしたとされているけど、これは常識的に考えて納得がいかない。九州に上陸されて、近畿まで攻め込まれてしまったとしたら、本拠地が奈良であろうと滋賀であろうとどっちみちもう駄目だ。都を移すということは、莫大な費用もかかるし、労力も時間も必要とする。敵が本当に攻めてくることを恐れていたとしたら、大がかりな遷都などというのんびりしたことはしていられないはずだ。
 天皇が変われば心機一転、都を移すというのが当時の習いだったとしても、大津という土地は唐突すぎる。あえて奈良を出る必然性は感じられない。
 いろいろな説がある中で、もともと大津には百済系の渡来人がたくさん住んでいて、敗戦国百済からの亡命者を中大兄皇子が多数引き連れてきた関係でこの地を選んだという説に説得力を感じた。
 中大兄皇子の息子・大友皇子も、ここ大津の大友郷で育てられたということもあり、大友皇子の母親も、実は近江の出身だったという話もある。
 そうなってくると皇位継承権と壬申の乱、天武天皇と日本書紀のことでまた話がややこしくなるから、ここではこれ以上は書かないけど、百済系渡来人と中大兄皇子一家との関係でここに都が移されたのかもしれないとは思う。
 少し脱線すると、この当時の皇子名は、育てられた場所で呼ばれるのが習慣だったのに、中大兄皇子は違っている。真ん中の大きい兄とは、いうなれば次男坊皇子といった呼び名で、正式の名前ではない。葛城皇子というのが皇子名だ。
「日本書紀」に中大兄皇子とあるから、私たちはそれで覚えているけど、この名で呼ばれたことはなかっただろう。第一王位継承者に古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ・吉野太子)がいた。
 舒明天皇の第一皇子で、母は蘇我馬子の娘だったことから、蘇我入鹿は古人大兄皇子を次期天皇にしようと画策して、聖徳太子(厩戸皇子)の息子である山背大兄王を殺害している。
 しかし、中大兄皇子が乙巳の変で蘇我氏を滅ぼしたことで後ろ盾を失い、吉野へ隠遁したものの謀反を企てたと無実の罪を着せられて古人大兄皇子は中大兄皇子によって攻め殺されてしまう。
 そういういきさつがあったものだから、天武天皇が編さんさせた「日本書紀」では、天智天皇は元々天皇になる資格がなかった次男坊皇子と、あえて書かせたと考えられる。
 天武天皇にしても、自分を正当化するのに必死だから、そのためには利用できるネタは全部利用した。天武天皇こと大海人皇子は、白村江の戦いで戦勝国になった新羅が送り込んできた人間だったという説もある。しかも、皇族ではなく軍人だったのではないかとも言われている。だとすれば、自分の出生を隠し、日本書紀で苦しい弁明をしたというのも納得がいく。

近江神宮-15

 話を戻して大津宮だけど、これは呼び名で少し混乱がある。大津宮といったり、近江宮といったり、大津京といったりして、どれが正しいのかよく分からなくなる。
 京というと、平城京とか平安京とかのように、大きな町割りを持つ都のことをいう。宮というのはその一部で、天皇を初めとした皇族が住む宮殿のことだ。
 日本書紀には近江京と書かれているけど、京といえるほど整備されたものではなかったというのが現在では通説となっている。おうみのみやこという意味で近江京と表記したのだろう。
 のちの歴史学者が大津京という言葉を使ってややこしくなった。結局、今は近江大津宮(おうみのおおつのみや)という表記に落ち着いている。
 近江遷都が行われたのは、白村江の敗戦から4年後のことで、5年半後に壬申の乱が起きているから、都としてはごく短いものだった。天智天皇がもっと長生きしていたら、それこそ近江京と呼ばれるほど整備されていたかもしれない。
 長らく大津宮の存在は忘れられていて、どこにあったのかも分からなくなっていた。南志賀、滋賀里など、いくつかの候補地があって、発掘調査の結果、錦織(にしこうり)で見つかった。昭和49年から53年にかけて断続的に調査が行われ、いくつかの遺構が発見された。
 現在は住宅密集地の中で、数ヶ所の跡地が遺跡として保存されている。近江神宮前駅を出てすぐ前にも第4地点がある。
 住宅地だけにこれ以上の発掘調査が行われることはないだろう。今の風景から往時の様子を思い浮かべるのは難しい。

 大津巡りをしていると、この土地は確かに天智天皇と大友皇子の都だったのだということを知ることとなる。天武天皇についてはほとんど残っていないんじゃないだろうか。
 壬申の乱に勝利したあと、都を飛鳥浄御原宮に移すから、天武天皇としては残っていなくても、本当に中大兄皇子の右腕として長らく活躍したというなら大海人皇子としての足跡が何か残っていてもいいのではないか。少なくとも、日本書紀にあるように同母兄弟だとは思えない。
 ただ、天智が善玉で、天武が悪玉かといえば、そうとは言えない。むしろその逆ではないと思われる部分も多々ある。漢風諡号の天武というのは、中国の故事で悪玉の紂王を滅ばした武王からきているとも言われているし、天武は優れた政治家でもあった。
 今回は大津巡りということで、天智側から歴史を見ているけど、機会があれば飛鳥を訪れて、今度は天武側から壬申の乱などについて考えてみたい。そうすればまた違った側面が見えてくるだろう。
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