月別:2009年04月

記事一覧
  • 三脚の実用性を認めざるを得ないと感じた岩屋堂撮り <後編>

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 + C-PL 昨日に引き続いて岩屋堂三脚写真の後半をお送りします。 まずはお馴染みのポイントから。岩屋堂を代表する風景と私が思っている場所がここで、ほとんど定点観測のようになっている。春先と秋、冬はよく訪れているけど、初夏は初めてかもしれない。この場所で見る新緑風景を新鮮に感じた。 今回は三脚とC-PLフィルタを使いつつ、絞りはだいたいf8で撮った。それ以上絞るとデジカメ...

    2009/04/30

    施設/公園(Park)

  • 今日から三脚使いになると決めて岩屋堂行き<前編>

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 + C-PL BSでやっている「写真家たちの日本紀行」という番組が好きで毎週観ているのだけど、前回の米津光(よねずあきら)さんの回は特に印象的だった。 もともとは画家志望で、現在は主に広告写真を撮っている写真家だそうで、初めてその存在を知った。舞台は西表島の森の中という普段は馴染みのないフィールドでの撮影だったようなのだけど、被写体の見つけ方や写真の作り方に非常に感銘...

    2009/04/29

    風景(Landscape)

  • 新羅善神堂をきっかけにまた壬申の乱が蘇る <大津巡り12回>

     大化の改新から壬申の乱前後については、自分の中で一応の決着がついたつもりでいた。けど、あれからもう少しいろいろ読んで、また頭の中でいくつものハテナ? が浮かび上がってきてしまった。まだおまえは全体像が全然見えていないぞと大友皇子がご立腹なのかもしれない。 弘文天皇陵の近く、三井寺の飛び地に新羅善神堂(しんらぜんしんどう)という堂が建っている。 三井寺は、壬申の乱で命を落とした大友皇子の菩提を弔う...

    2009/04/28

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 白だしも手に入れて白い料理の作り手を目指すサンデー

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 今日のサンデー料理は、白だしサンデーだった。 白しょう油に続いて、白だしも手に入れて、これらが今後の料理の定番となっていきそうだ。色が茶色にならないというのは、それだけでもありがたい。そもそも茶色料理の達人とかは目指していないのだ。 白だしというのは、白しょう油をベースに、カツオなどの旨みを加えたもので、和食のみならず洋食でも万能のダシとして使えるというものだ...

    2009/04/26

    料理(Cooking)

  • これで春の花も終わりかなと思った4月後半 <森林公園後編>

    PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f2.8  今日は森林公園の後編で、花写真をお届けします。 春はこれを見なくちゃ始まらない、ハルリンドウ。ここから湿地の春は始まる。 今年は全体的に花がやや小振りに感じた。それは気候的な条件というよりも、森林公園の環境に変化があったのかもしれない。時期的にもうそろそろ終わりかけというのもあっただろうか。 これでまた一つ、春の花をクリアした。今年はカタクリを見られなくて、それが...

    2009/04/26

    施設/公園(Park)

  • 季節は春から初夏へと移りつつあることを知る <森林公園前編>

    PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f2.8  大津シリーズはまた中断で、今日も季節ネタ優先でいくことにした。神社仏閣ネタは季節はずれになるものではないから、そんなに焦って出し切ろうとしなくてもいいだろう。静岡の久能山東照宮についてもまだ書いてないのだけど、頃合いを見計らってそのあたりもぼちぼち出していくことにする。 ただ、ネタ不足も困るけど、在庫が余っているというのもあまりよくないとうのはある。かえって散策の...

    2009/04/26

    施設/公園(Park)

  • 近江一宮でありながらあっけらんとした建部大社 <大津巡り11回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 唐橋前駅から瀬田の唐橋を渡って、更に10分ほど歩いたところに、建部大社(たけべたいしゃ)がある。駅から少し遠いから行こうかどうしようか迷ったのだけど、近江の一宮と知って、断然行こうということになった。日本各地の一宮は、行ける機会があれば多少無理をしてでも行っておきたい。 一宮(いちのみや)というのは、その地域で最も社格が高いとされる神社のことで、律令制の中で定められたもの...

    2009/04/24

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 膳所城跡を静かに訪れるつもりが桜見物客で大賑わい<大津巡り10回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 膳所神社をあとにして、今度は膳所城跡へ向かった。 私としては物好き以外に訪れる人も少ない城跡公園を想像していたら、まるっきり様相が違っていてかなり驚くことになった。桜の名所になっているとちらっと読んではいたけど、あんな大賑わいになっているとは思いもよらなかった。地元ではけっこう有名なところのようだ。普段はもっと静かなのだろうけど。 大津もところどこに古い家並みが残ってい...

    2009/04/24

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 一度覚えてもすぐに忘れそうな難しい読みの膳所神社 <大津巡り9回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4「膳所」という地名を一発で読めた人は少ないと思う。大津以外の人でも関西圏の人たちにとっては常識なんだろうか。これは「ぜぜ」と読む。普通は読めない。 中大兄皇子が近江大津宮に遷都して天智天皇として即位したとき、この地を御厨所(みりくや)としたことから膳所と呼ばれるようになったのだという。御厨所というのは、天皇を初めとした宮家の食事を作る場所という意味だ。 もう少し詳しく説明...

    2009/04/23

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 寺社シリーズの合間にモリコロの花写真を挟んで潤い補給

    PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f2.8 / TAMRON 75-300mm f4-5.6 Di  この先も大津の寺社ネタが続きそうだから、ここらで一つ息抜きとして季節ネタを挟んでおこうと思う。この前、ギフチョウを撮りにモリコロパークへ行ったときの花写真だ。 4月の花は入れ替わりが目まぐるしいから、早めに出しておかないと旬を過ぎてしまう。一週間単位でどんどん花の顔ぶれが変わっていく。ここで季節に後れを取るというのが、毎年のパターンとな...

    2009/04/22

    花/植物(Flower/plant)

  • 石山寺は有名人御用達のお寺でどこか鎌倉風 <大津巡り8回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 石山寺後編は、本堂からとなる。 昨日も書いたように、この本堂は撮りづらい。木々や他の堂が視界を遮るし、全体を入れて撮るために離れようにも後ろにスペースがない。回り込もうにも回り込めず、横から縣造を撮ろうと思っても、大部分は木々によって隠れてしまっている。最高のポジションで撮ったと思われるパンフレットの写真でさえ、屋根の部分しか写っていない。 そんなわけで、私も外観は堂の...

    2009/04/21

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 石山寺前半は東大門と二つの国宝を遠巻きから <大津巡り7回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 石山坂本線巡りの旅は、始点なのか終点なのか分からないけど石山寺駅から始まった。 JR石山駅で乗り換えて、南へ2つ目が石山駅で、北の終点は坂本駅となる。この沿線沿いで回れるだけ回ろうというのが今回の旅の趣旨だった。 この路線はローカル線にもかかわらず、毎時15分置きくらいに電車が来るので、出たとこ勝負の散策にはありがたかった。何度も乗り降りしたけど10分以上待つことはなかった。 ...

    2009/04/20

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 白しょう油は洋食も上品な色に仕上げる優等生

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 今日のサンデー料理のテーマは、白しょう油を使った洋風料理だった。 私の中の白しょう油ブームはまだ続いていて、いろんな可能性を感じているから、あれこれ試してみたいものがたくさんある。そこで今回は、和の素材を白しょう油を使いながら洋風に仕上げるというものに挑戦してみた。 手前から順番にいくと、まずはタケノコとエビのトマトソースだ。 これは白しょう油を使ってトマトソ...

    2009/04/20

    料理(Cooking)

  • 4年前の面影が少しだけ残るモリコロパークの今

    PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f28 / TAMRON 75-300mm f4-5.6 Di  ギフチョウを撮りに行ったついでにモリコロパークの写真も撮ってきた。今回は北エリアには寄らず、南エリアだけにしておいた。それでもけっこう広くて、行ったり来たりで3時間ほど歩いた。それなりにアップダウンもあって、時間以上に疲労を感じた。 上の写真はお花畑と芝生広場だ。向こうにはリニモと駅が見えている。 万博のときは、暑い中で疲労の極致まで歩い...

    2009/04/19

    施設/公園(Park)

  • モリコロパークで念願のギフチョウに初めまして

    PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f28 / TAMRON 75-300mm f4-5.6 Di  ここのところずっと、寺や歴史ネタが続いて潤いと彩りが不足していたから、今日は二本立ての二本目にチョウの写真を持ってきた。 ここ3年、4年、ギフチョウを見たいとずっと思っていて、それを実現できずにいた。毎年4月になると海上の森を歩き回って探したけど、あの広大な森で見つけるのは至難の業だった。見られる期間もわずかにひと月くらいということで、半ば...

    2009/04/19

    虫/生き物(Insect)

  • 残り物写真を出して三井寺桜ライトアップは完了 <大津巡り6回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 三井寺の最終回は、観音堂からの再開となる。 園城寺三井寺は、西国三十三所観音霊場の第十四番で、この観音堂が札所となっている。なので、巡拝の人たちはみんなここを訪れる。このときも夜間の桜ライトアップにもかかわらず、観音堂前が一番賑わっていた。妙な熱気があってやや押されてしまったくらいだ。 昼間はもっと人気があるのかもしれない。全般的に見て、三井寺は流行ってるなと思わせた。...

    2009/04/18

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 夕方から夜にかけての三井寺手探り参拝 <大津巡り5回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 三井寺第2回は、金堂を過ぎたあとの続きから始めよう。 向こうに三重の塔が見えてくるけど、まだここからは少し距離がある。焦ってそちらに向かわず、見ておくべき堂がいくつかあるから見逃さないようにしたい。 昼間なら左手に天狗杉というのが見えたはずだ。このときは暗くてもう見えなかった。 あらためて写真を調べていたら、霊鐘堂らしい堂が写っているものを見つけた。これが霊鐘堂なら、弁慶...

    2009/04/18

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 三井寺ライトアップで撮りたいのは桜よりも堂 <大津巡り4回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 三井寺駅を降りて、人の流れに従って琵琶湖疎水沿いの桜並木を歩く。皆、向かう先は三井寺のライトアップのようだ。時間は6時を少し回ったところだった。家を出てからすでに12時間が経過していた。 桜並木を撮ったり、手前の三尾神社に寄ったりしながらゆっくり向かう。ライトアップは6時半からだった。 やがて門が見えてきた。どうやらあそこが三井寺の入口らしい。三井寺という名前の寺はなく、園...

    2009/04/17

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 大友皇子関連の場所を巡って皇子を偲ぶ <大津巡り3回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 昨日で壬申の乱について私が書けることはほぼ書いた。頭の中の整理もだいたいついて、これで一応納得ということにしておく。また別の機会に書くこともあるだろう。 書くことに気持ちがいきすぎていて、写真をほとんど使えていなかった。文章だけでもたいがい長くなっているのに、その上写真まで載せると長くなりすぎるというのもあって。それで、今日は大友皇子関連の写真をまとめて載せることにした...

    2009/04/16

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 壬申の乱の真相は分からないことが分かっただけ <大津巡り2回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 壬申の乱にとりつかれて4日目。今日こそ決着を付けて、この呪縛から逃れたい。しかし、いまだに着地点が見えない。壬申の乱の真相がどうにも分からない。 自分の中ではっきりしない点が2点ある。一つは、どうして中部圏の地方豪族が天皇家にたてついてまで出家した大海人皇子に従ったのかということ。もう一つは、大友皇子の人物像だ。この2点をよく理解できていないから、壬申の乱の本質が見えてこな...

    2009/04/15

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 弘文天皇陵へ行って壬申の乱にとりつかれる <大津巡り1回>

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 弘文天皇陵に立ったとき、懐かしいような、切ないような、悲しいような感情が襲ってきて、心がしんとなった。ああ、ここがそうなのか、と。 大友皇子(おおとものみこ)と言った方が通りがいいだろう。天智天皇(てんじてんのう)の息子で、皇位継承を巡って大海人皇子(おおあまのみこ)と壬申の乱で争って敗れた皇子といえば、日本史の教科書を思い出す人も多いんじゃないだろうか。 京阪線の「別...

    2009/04/14

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 白しょう油を使ったら自分らしくない上品な丼になったサンデー

     今日のサンデー料理は、手抜き変化球料理となった。 夕方時間がなくて、手早く作れるもので食べたいものは何かと考えて、丼物にした。何丼が食べたいか思いを巡らせて、作ったのがかき揚げ玉子丼だった。結局、なんだかんだで1時間くらいはかかって、手抜きとは言えない感じになってしまったのだけど。 かき揚げ玉子丼というのがどの程度一般的な丼なのかは知らない。店のメニューにあるのかないのか。家庭ではよく作られてい...

    2009/04/12

    料理(Cooking)

  • 香流川桜の後編で桜気分はひとまずおしまい

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 / EF 135mm f2.8 SOFT 香流川の桜写真が残っていたので、まとめて載せておくことにする。 名古屋は連日の25度で、桜はすっかり葉桜になってしまった。こうなってしまうともう撮る気がしない。散り始めたら本当に早い。最後にもう一ヶ所くらい行きたいと思っていたけど、どうやら間に合わなかったようだ。 それでも、今年もまずまずあちこちで桜を見ることができた。新しい縁もできたし、...

    2009/04/12

    桜(Cherry Blossoms)

  • 桜の下に集う人たちを撮って自分が撮りたい桜の写真が見えた

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 / EF 135mm f2.8 SOFT 近所の香流川サイクリングロードを歩きながら桜を撮ってきた。4月8日だから、3日前の様子だ。 すでにだいぶ散り始めていたから、今日あたりはもう葉が目立ってきていることだろう。 桜だけを狙って撮るのは今年最後になりそうだったから、2009年桜シーズンの集大成のつもりで撮った。去年と比べて少しは成長できただろうか。 たくさん撮った中で、自分らしいと思え...

    2009/04/12

    桜(Cherry Blossoms)

  • 石山坂本線プロローグは本編に入らない写真を並べる

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 滋賀県大津の石山坂本線沿線を、時間と体力の限界まで巡ってきた。 出発から帰宅まで17時間。徒歩9時間。昼食、夕食抜き。座るのは移動の電車の中のみ。 今回も過酷な旅だった。こんな無茶苦茶なスケジュールでは誰もつき合ってくれない。体力があるなしの問題ではない。メシも食わせないから暴動が起きる。なので、今回は一人で行ってきた。 今日から石山坂本線シリーズを始めるわけだけど、写真の...

    2009/04/11

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 去年と今年とセットで松本の旅第一部が完結

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 松本編の最後は、番外編として本編に入りきらなかった写真を集めて紹介したい。 一枚目は、デゴイチからだ。 私の子供の頃はすでに蒸気機関車は走っていなかったと思う。場所によっては走っているところもあったのかもしれないけど、実物を見た記憶はない。現役で走っていたのは、昭和40年代のはじめ頃までだったんじゃないだろうか。電車の人ではない私は、詳しいことはよく知らない。 なのにどう...

    2009/04/09

    観光地(Tourist spot)

  • 松本城登城を終えて満足納得の国宝天守制覇

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 前触れもなく昨日続きから始まる。松本城の天守紹介の後編だ。 板の間をぐるりと回り歩いて、急な階段をどんどん登っていく。階段は急角度で狭く、その上対面通行なので、途中から渋滞が始まった。天守ではよくあることだ。今週末は花見客で混雑するだろうから、下手すると登って下りるまで1時間以上かかるなんてことにもなりかねない。去年の彦根城がそうだった。 階段はかなり危険なので注意が必要...

    2009/04/09

    城(Castle)

  • 念願叶って松本城の天守閣に登る ---前編

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 松本城を訪れるのも、ほぼ一年ぶりとなった。あれからもう一年かとも思うし、まだ一年かという感じもする。松本城に特に変わった様子はなかった。まあ、そりゃそうだ。 前回は開智学校へ行ってからだったから、北の方から入った。今回は正面から入ることにした。やはりこちから入る方が気分が出る。 一年前との違いは、時間帯と光の具合だ。去年は夕方の西日だった。今回は、よく晴れた午後の日差し...

    2009/04/08

    城(Castle)

  • 塩尻・松本先走り桜紀行はこれから訪れる人のための先行情報

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 花が咲きかけている桜の木は桜や否や。 その問いは、少女が女であるかないかという問いに似ているかもしれない。 いずれにしても桜は桜。私たちが松本方面に桜を見に行ったという事実は変わらない。思い出も残った。 完全に一週間先走ってしまったわけだけど、考えようによっては桜開花の先行情報をお届けできるという言い方もできる。みなさん、長野の桜はまだ早いです。もう少し待った方がいいで...

    2009/04/07

    桜(Cherry Blossoms)

  • 松本未桜物語 ~プロローグ

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 去年のちょうどこの時期、松本・安曇野に行った。あのときはまだ桜には早く、いつか桜の咲く松本を見たいという思いを残して帰ってきた。 その機会は思いがけず早く巡ってきた。二年連続二回目の松本行き。しかし、今年こその思いはまたもや空回りし、桜はまだようやくつぼみという状態だった。松本未桜物語。 それでも、今回なりの収穫もいろいろあった。松本の魅力は桜だけじゃない。なんといって...

    2009/04/06

    観光地(Tourist spot)

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三脚の実用性を認めざるを得ないと感じた岩屋堂撮り <後編>

施設/公園(Park)
岩屋堂2-1

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 + C-PL



 昨日に引き続いて岩屋堂三脚写真の後半をお送りします。
 まずはお馴染みのポイントから。岩屋堂を代表する風景と私が思っている場所がここで、ほとんど定点観測のようになっている。春先と秋、冬はよく訪れているけど、初夏は初めてかもしれない。この場所で見る新緑風景を新鮮に感じた。

岩屋堂2-2

 今回は三脚とC-PLフィルタを使いつつ、絞りはだいたいf8で撮った。それ以上絞るとデジカメの場合逆にコントラスが落ちるから、これくらいが一番解像感が高いように思う。
 手持ちだと手ぶれが心配でf8までは絞れないことが多いのだけど、ここまで絞って三脚を使うと、さすがにビシッと締まった写真になる。奥までしっかり解像している。
 ブレそうなときは、タイマーを使って撮ったから、それもよかったのだろう。レリーズケーブルも欲しいといえば欲しいところだ。

岩屋堂2-3

 このあたりの映り込みは、見た目の方がもっと鮮やかで、帰ってから写真を見たらそれほどでもなくて、少しがっかりした。最高の映り込みポイントだという手応えがあったのに。
 C-PLが逆効果だった可能性もある。今回は一番効果が高いところに固定して撮っていたから、次からは回して調整しながら撮る必要がありそうだ。

岩屋堂2-4

 暁明ヶ滝。
 このときのシャッタースピードは、4秒だったか、6秒だったか。手ぶれ補正をもってしても手持ちでは撮影不可能なシチュエーションだ。
 こういう写真が没にならずに残ることが分かってしまうと、やはり三脚は使わないといけないと思う。
 一脚も持ってるから、機会があれば一脚の限界シャッタースピードを実験して確認しておきたい。2秒くらいまで使えるとすれば、三脚に比べて持ち運ぶ負担がずいぶん軽くして済む。

岩屋堂2-5

 奥の瀬戸大滝。
 普段の水量はたいしたことないから、大雨や長雨のあととかに行くと、もう少し迫力のある写真が撮れるんじゃないか。
 広角28mmレンズでは全体が入らない。これ以上、引いて撮る場所もない。

岩屋堂2-6

 滝というか、ただの段差。
 鳥原川は人工的にたくさんの段差を作っている。川幅が細い割には水量が多いのだろうか。
 それにしても、あんなに段差を作ってしまったら、魚は自由に行き来できない。実際、泳いでる魚の姿はほとんど見ない。水はきれいだろうに、もったいない。

岩屋堂2-7

 いかにもという写真。自分の写真ながらあまり好感が持てない。
 でも、これを見ていたら、赤目四十八滝にもう一度行きたくなった。あそこくらい三脚を使うべき場所は他にないというくらいの三脚スポットだ。

岩屋堂2-8

 毘沙門天のお堂。
 夕方で、かなり暗い状況なのに、ここまでカチッと撮れるものなのか。シャッタースピードは8秒くらいだったんじゃないかと思う。
 今まで手持ちでなんとか撮ろうと頑張っていたのに、その頑張りが無駄だったような気さえしてくる。

岩屋堂2-9

 ヤマフジが咲いていた。そろそろ藤の見頃が来ている。早咲きのものはもう終わったくらいだろうか。
 藤は藤棚で咲かせてこそきれいな花で、山で勝手気ままに咲いていると、すごく雑然として魅力が半減する。
 別の木にからまったりして、ごちゃごちゃになって写真を撮るのも難しい。

岩屋堂2-10

 ヤマツツジだと思うけど、白花もあるんだろうか。
 展望コースというかなり山の中の道端に咲いていたから、わざわざこんなところに誰かがツツジを植えたとは思えない。コースの途中、申し訳程度に木の机と椅子が設置されているから、そのとき植えた園芸種のツツジだろうか。

岩屋堂2-11

 落ちて朽ちつつある椿の花。
 これもヤブツバキということになるのか。
 わずかに咲き残っている椿もあった。4月も終わりだというのに、けっこうな粘りを見せている。
 岩屋堂は瀬戸の冷蔵庫というくらい寒いところだからというのもあるかもしれない。この日も、薄手のセーターを着ていってちょうどよかった。

岩屋堂2-12

 枯れアジサイの残骸。
 そうこうしてるうちにアジサイの季節も近づいてきたのに、まだ去年の花が形を残している。自然のドライフラワーみたいだ。ここまで長く形を残す花というのもあまりない。

岩屋堂2-13

 光と影と、緑と赤のコントラスト。

岩屋堂2-14

 そろそろネタ切れで、これでおしまい。

 三脚というやつは、正論を吐くクラスの委員長みたいで長らく敬遠していたのだけど、どうやらその正当性を認めないわけにはいかないときが来たようだ。分かったよ、おまえは優秀だよ、オレが悪かったよ、ちぇっ、って感じだ。素直に改心して、これからは三脚を使います。
 そのためには人前で使っていても恥ずかしくない程度の三脚が欲しい。憂鬱な雨の日でもいい傘を持っているとちょっと気分がいいように、いい三脚を持っていればむしろ人前で使いたくなるかもしれない。
 といっても、あまり重くてごついのは嫌だから、そこそこのものでいい。2キロを超えるようなのは困る。しばらくは三脚選びで楽しめそうだ。
 とりあえず明日からはまた大津巡りシリーズに戻ろう。

今日から三脚使いになると決めて岩屋堂行き<前編>

風景(Landscape)
岩屋堂1-1

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 + C-PL



 BSでやっている「写真家たちの日本紀行」という番組が好きで毎週観ているのだけど、前回の米津光(よねずあきら)さんの回は特に印象的だった。
 もともとは画家志望で、現在は主に広告写真を撮っている写真家だそうで、初めてその存在を知った。舞台は西表島の森の中という普段は馴染みのないフィールドでの撮影だったようなのだけど、被写体の見つけ方や写真の作り方に非常に感銘を受けた。まず自分の頭の中に撮りたいイメージがあって、それを自然の中で見つけたり、ときには作り出すというアプローチにプロのスタイルを見た。目の前の風景をどういう構図で切り取るかを考えるのとはまったく逆の発想で、その方法が具体的で分かりやすかった。
 プロの写真というのは、撮らせてもらうのではなく自分が作るものなのだということをあらためて知った。洋服にたとえるなら、既製品を買って着るのがアマチュアで、着る服を自分でデザインするのがプロという言い方ができるだろう。
 個人的には作為的で抽象的な写真というのはあまり好きではないのだけど、米津光という人の人柄や考え方に共感するところも多くて、写真もとてもいいと素直に思った。
 若い頃にこの人を知っていたら、弟子入りを志願したかもしれない。勝手に師匠と呼ばれてもらおう。
 それでいろいろ感じるところや思うことがあって、私としてはとても珍しいことに三脚を持って写真を撮りに行くことにしたのだった。今の時期、三脚撮りならでは何といえば水と新緑だろうということで、行き先は岩屋堂にした。あそこなら人も少ないから、誰かに見られることもない。
 私はどうも三脚で写真を撮っている姿を見られるのが恥ずかしくて駄目なのだ。そんなことではいい写真は撮れないぞと思うのだけど、いまだに克服できないことの一つになっている。
 いきなり米津さんのような写真は撮れっこない。模倣しようと思ってできるような作風でもないし。
 なので、今回のテーマは三脚に慣れることだった。すごく基礎の基礎のような気がするけど、三脚に関して私はド素人同然なのだ。久々に使う三脚の伸ばし方さえ分からず、強引に引っ張ったら部品が取れてしまったくらだい。三脚って、難しい。なかなか平行にならないし。
 とりあえず撮ってきた写真を並べてみることにする。

岩屋堂1-2

 新緑と水の映り込みの相性の良さは、赤目四十八瀧で知った。
 手持ちでは暗くて撮れないシーンでも、三脚があれば撮れる。持ち歩くのはとにかく邪魔くさいけど、三脚があると写真の可能性が広がることは確かだ。それは認めないわけにはいかない。非三脚派で手ぶれ補正さえあれば充分なんて強がってると、自分が損をする。

岩屋堂1-3

 苔の緑と赤い落ち葉の組み合わせをデザイン的に、なんて慣れないことをすると上手くいかない。
 こういう写真は、きちんと自分の中でイメージを固めてから撮らないと、何が言いたいのかよく分からない独りよがりの写真になってしまう。
 苔の緑が大好きというのは間違いないのだけど。

岩屋堂1-4

 木製の机から新芽が出ていた。
 自分の写真は説明的だという自覚があって、だからこういう写真は苦手意識がある。小物とかを上手に撮れる人に憧れる。
 ブツ撮りに関しても、もっと練習を積まないといけない。

岩屋堂1-5

 ムラサキケマンだろうか。
 岩屋堂は野草が少ないところで、今回も特に変わったものは見られなかった。
 花をデザイン的に撮る勉強ももっとしていきたい。

岩屋堂1-6

 すっかり新緑となった山の中も、一部はまだ冬枯れ色を残す。散策路は落ち葉が敷き詰められていた。
 光と影のコントラストは、常に撮りたい対象だ。

岩屋堂1-7

 苔むした切り株にも心惹かれて、よく撮る。
 屋久島とか、大台ヶ原とかも、一度は行ってみたい。

岩屋堂1-8

 土砂崩れがあったのか、根が剥き出しになって、横になりながらもまだへばりついて生きている木があった。
 このシーンは、超広角ズームでもっと寄って撮りたかった。今回は三脚に慣れるのが目的だったので、レンズは望遠ズーム一本しか持っていかなかった。
 レンズの選択というのも、撮影意図を反映させる重要な要素となる。

岩屋堂1-9

 三脚使いともう一つ、PLフィルタを使ってみるという試みもあった。PLを使うとシャッタースピードが落ちるから、手持ちのときはなかなか使おうという気にならない。三脚なら使える。
 順光で使うと、空の青さが深くなる。その他の色も鮮やかになる。

岩屋堂1-10

 モミジの葉もきれいな緑色になっていた。赤いくれない橋とのコントラストが鮮やかだ。

岩屋堂1-11

 三脚を使った定番写真。
 こういう写真はあざとい気がして好きじゃないのだけど、あざといと思わせてしまうのは、そこにきれいという以上のものがないからだ。
 白い糸引きだけでは面白くもなんともない。

岩屋堂1-12

 水の流れ表現も何枚か撮ってはみたものの、これだというものは見えなかった。何か、もう一つ、二つ、付け加える要素が必要だ。
 このあたりも、もう少し撮っていかないと分からない。

岩屋堂1-13

 今回の収穫は、三脚使いに少し慣れたことと、三脚を使わないと撮れない写真がやっぱりたくさんあることを再確認したことだった。三脚を使えば確実に世界は広がる。
 これからはどこにでも持っていこうとまでは思わないけど、持っていくべきところには持っていって、恥ずかしくても使おうと思った。そのためには、もっといい三脚を買わなくてはなるまい。
 リュックを背負って、帽子をかぶり、三脚で写真を撮るおじさんになる日も近いかもしれない。ポケットがいっぱいついたベストを着たら完成型だ。

新羅善神堂をきっかけにまた壬申の乱が蘇る <大津巡り12回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
新羅善神堂-1




 大化の改新から壬申の乱前後については、自分の中で一応の決着がついたつもりでいた。けど、あれからもう少しいろいろ読んで、また頭の中でいくつものハテナ? が浮かび上がってきてしまった。まだおまえは全体像が全然見えていないぞと大友皇子がご立腹なのかもしれない。
 弘文天皇陵の近く、三井寺の飛び地に新羅善神堂(しんらぜんしんどう)という堂が建っている。
 三井寺は、壬申の乱で命を落とした大友皇子の菩提を弔うために、その息子である大友与多王が建てた寺だ。なのにどうして朝鮮の神である新羅明神を祀る神がいるのか。大友の父である天智天皇は、百済の側の人間で、唐と結んで百済を滅ぼしたのが新羅だったわけで、いわば仇の国の神を父親の菩提寺で守り神にするということは普通では考えられない。このあたりから、見えていたつもりだった全体像がぼやけ始めた。
 そんなわけで今回は、新羅善神堂を紹介しつつ、壬申の乱前後の流れについて、もう少しだけ補足的に考えてみたいと思う。



新羅善神堂-2

 場所は、弘文天皇陵のすぐ近くで、どちらかを見つけることができれば両方行けるし、どちらかを見つけないと両方見つからない可能性がある。三井寺から行こうとすると、けっこう離れていて分かりづらい。仁王門を右に出て、大津商業高校の裏手から入っていけるのかどうか。三井寺で訊ねても分からないと言われたという話もある。
 弘文天皇陵を発見できれば、すぐそばに鳥居が建っている。案内は出ていなかったような気がするけど、ここをくぐっていった先がそうだ。



新羅善神堂-3

 いきなりうっそうとした森が現れる。これがなんとなく不思議な感じがする空間となっている。普通の森ではなく、神社や寺の参道とも少し違う。神聖な感じではなく、なんとなく捨て置かれて荒れている印象を受けた。
 道もかなりデコボコで、苔むしてもいて、訪れる人の少なさを思わせた。三井寺の賑わいとはかけ離れている。



新羅善神堂-4

 2、3分も歩くと、石垣があって、境内へ出る。このあたりは戦国時代の山城跡のような雰囲気だ。
 そもそも、神社なのか、お寺なのかも、判然としない。神様を祀っているし、鳥居もあるのだから一応神社ということになるのだろうけど、所属は三井寺であり、堂という名がついているからお寺のようにも思える。



新羅善神堂-5

 中央にぽっかりと空間があって、その向こうに堂が見えた。どうやらあれらしい。お寺っぽくもあり、神社といわれれば神社にも見える。
 昭和の初め頃までは、広場のところに拝殿が建っていたそうで、台風で崩れたあとは再建されないまま今に至っているという。
 ここまで来ても、なんとなく荒れているという印象は続く。空き家になってしばらく経ったときのあの感じに近い。



新羅善神堂-6

 善神堂というからには本殿ではなく本堂というべきなのだろう。
 1350年頃に、足利尊氏が寄進したとされる堂で、国宝に指定されている。造りは素晴らしい。姿の美しさや存在感は文句なしで、国宝にふさわしいオーラを放っている。
 檜皮葺の三間流造で、室町初期らしい建物だ。
 三井寺は秀吉の廃寺命令で、古い建物が残ってないから、三井寺としては貴重な存在となっているはずなのに、あまり行き届いていないように感じるのはどうしてだろう。新羅の神様ということが関係あるのだろうか。
 中に安置されている祭神の新羅明神坐像は秘仏で、それも国宝指定となっている。

 ここに新羅明神を祀ったのは、三井寺を再興させた智証大師円珍とされている。
 円珍が唐へ留学した帰りの船で嵐に遭い、そこへ新羅の神である新羅明神が現れて救われたことから、三井寺の守り神として祀ったのが始まりなのだとか。
 それが859年以降ということで、三井寺の創建が実際に686年だとすると、200年近い歳月が流れているということになり、今更百済も新羅もなく、大友氏の菩提寺という名目も薄れていたと考えるべきだろうか。
 それにしても、壬申の乱が百済側の天智天皇・大友皇子と新羅側の大海皇子との争いだったとするならば、いくら200年近く経っているとはいえ、大友氏の神経を逆なでするような神をこの場所に祀るだろうかという疑問は残る。
 更に遡って考えるなら、壬申の乱というも、どうにもよく分からない。
 井沢元彦は、唐と結ぼうとしていた天智天皇を、新羅側だった大海人皇子が暗殺して、その息子・大友皇子も壬申の乱でやっつけたという推理をしている。井沢元彦という人は、出身が推理小説家ということで、自分の推理と証拠を強引に結びつけるちょっと悪いクセがあるのだけど、歴史家ではない自由な発想であらたな可能性を提出してくれる面白い存在には違いない。正解かもと思わせることもけっこうある。
 井沢説でいくと、三井寺(本来は園城寺というべきなのだけど三井寺の方が名が通っているので統一する)を与多王に建てさせたのは天武天皇(大海人皇子)で、天智天皇の怨霊を抑えるためだったとしている。新羅の神を祀ったのも、あえて敵対する神でにらみを効かせるためだったのだという。円珍の話は後付けの作り話だというのだ。
 その前後に関する説についても、納得できる部分もあり、できない部分もあって、完全には信用できないものの、あり得る話ではあると思った。
 天智天皇暗殺の実行犯が天武天皇ということになると、壬申の乱についてはもう一度一から考え直さないといけないことになる。その場合、九州に倭王朝があったのかなかったのか、なかったとしても九州勢力と大和との関係はどうだったのかなど、井沢説では触れられていない(のちに別の場所で言及しているのかもしれないけど)。朝鮮との戦いで九州の勢力を抜きには語れないわけで、大和王朝と朝鮮の勢力図だけで壬申の乱の全体像は見えてこない。
 壬申の乱で一番よく分からないのが、壬申の乱が収まったあとの妙な平穏さだ。天智天皇側と天武天王が絶対的に敵対していたわけではないことは、血縁関係でも明らかで、戦のあともそれはあまり変わっていない。大友の息子たちも全員無事で、天智天皇側の一族郎党が厳しい処分をされたという話もない。通常なら、天武天皇が即位したあとは天智天皇カラーを一掃するはずなのに、それが見えない。政策に関しても、天武は天智天皇の路線をそのまま踏襲して進めている。
 にもかかわらずといっていいのかどうか分からないけど、天武の跡を継いだ奥さんの持統天皇は、天武系統に天皇が流れていくのを阻止しようとして、かなり強引なやり方で、天智天皇の血を引く自分の孫を天皇に持っていっている(文武天皇)。実際、その努力があったからこそ、光仁、桓武天皇で血統が天武から天智に戻った。
 必要以上に結びつこうとしながら相容れなかった血縁関係と、敵対しているようでしていない天智と天武の関係性が、壬申の乱の理解を難しくさせている。天武天皇こと大海人皇子は何者だったのかという謎に関しても答えは出ていない。大化の改新前後の流れの中に九州倭王朝が絡んでくると話はますますややこしくなる。
 というわけで、この話はまた保留ということにせざるを得ない。いずれ、天智天皇陵へ行くこともあるだろうから、行ってきたらもう一度別の角度から考え直したいと思う。



新羅善神堂-7

 新羅善神堂はぐるりと塀で取り囲まれていて、中に入ることはできない。新羅明神坐像も、当然見ることは叶わない。
 2008年の去年、大阪市立美術館の特別展示で50年ぶりに公開されたそうだ。
 ただ、写真撮影はもちろん禁止で、ポスターなどにも写真を載せない徹底ぶりが少し引っかかる。三井寺は新羅善神堂をあまり重要視していないか、あえて触れないようにしているようなところが感じられる。朝鮮半島との関係をあまり大っぴらにしたくないとでもいうのだろうか。

 ここ新羅善神堂は、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)との関係が深いことでも知られている。
 平安時代後期の1051年、東北の奥州で争いが起こった。のちに前九年の役、後三年の役と呼ばれるようになる戦だ。
 最初は東方地方の争いだったものに、河内源氏の源頼義が参戦したことで大ごとになった。
 どういう関係があったのか、源頼義はその戦に駆けつける前、新羅善神堂で必勝祈願をしたという。一説によると、源氏は新羅からの渡来系ともいわれている。源氏が氏神とした八幡神も、秦氏との関係が深い新羅の神という話がある。
 その頼義の長男が武勇で知られた源義家で、義光は三男に当たる。
 新羅三郎というのは、新羅善神堂の前で元服をしたからというのだけど、それもまたどうしてここだったのかはよく分からない。
 義家は京都の岩清水八幡宮、次男の義綱は京都の賀茂神社でそれぞれ元服をしている。
 後三年の役のとき、東北で苦戦する兄の義家を助けるために義光は奥州へ駆けつける。
 最終的には源頼義一家が阿倍氏、清原氏を倒し、東北から関東にかけての一大勢力となっていき、これがのちの鎌倉幕府の基礎ともなる。頼朝が鎌倉で平氏打倒のために立ったのは、このとき以来の基盤が鎌倉にあったからだ。
 それと、義経が頼朝に追い詰められて最後に頼っていった奥州藤原氏も、このときの戦で勝ちの側に回った清原清衡から始まっている。
 義光は武勇での活躍はあまりなかったものの、のちに子孫が発展して、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏などへとつながっていくことになる。武田信玄もその中の一人ということになる。
 武田信玄のドラマでは必ずといっていいほど、「御旗・楯無御照覧あれ(みはたたてなしごしょうらんあれ)」というセリフが出てくる。この号令が出たときは、家臣は一切の反論は許されず、従うしかないとされた決めゼリフだ。
 御旗(みはた)というのは、新羅三郎義光の父・頼義が後冷泉天皇からもらった日の丸の御旗で、源氏の直系を表す旗だった。
 楯無(たてなし)は、義光が使っていた鎧のことで、この鎧に勝る楯はないということから名づけられたものだ。
 義光は歳を取ってから出世して、武人としては最高位の刑部少輔従五位上まで登り詰めている。最後は82歳のとき京都で死んだはずなのに、何故か新羅善神堂近くの山の中にも墓がある。この地で死んだという伝説も残っているようだ。



新羅善神堂-9

 帰り際、閉ざされた扉を見ると、牛乳受けがかかっていて、クスッと笑えた。ああ、こんなところに生活感があると思って。やはり奥に人が住んでそうだ。
 弘文天皇陵は宮内庁の管轄になっているものの、新羅善神堂とともに三井寺のはずれに並ぶようにひっそりある。どちらも訪れる人はあまり多くなさそうだ。長い歳月を経た今、新羅の神と日本の天皇は互いに行き来して、今日も人は来ませんなぁなどとのんびり語り合っているのかもしれない。

【アクセス】
 ・京阪電気鉄道石山坂本線「別所駅」下車。徒歩約8分。
 

白だしも手に入れて白い料理の作り手を目指すサンデー

料理(Cooking)
白だしサンデー

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8



 今日のサンデー料理は、白だしサンデーだった。
 白しょう油に続いて、白だしも手に入れて、これらが今後の料理の定番となっていきそうだ。色が茶色にならないというのは、それだけでもありがたい。そもそも茶色料理の達人とかは目指していないのだ。
 白だしというのは、白しょう油をベースに、カツオなどの旨みを加えたもので、和食のみならず洋食でも万能のダシとして使えるというものだ。まろやかな甘みと旨みがあって、クセがない分どんな料理にも合う。何より料理の色が変わらないというのが最大の特徴であり魅力だ。
 今回は白だしを使った料理ということで3品作ってみた。

 手前は、タイのボイル焼き白だし味だ。
 タイの切り身に塩、コショウ、酒を振って少し寝かせて、刻んだタマネギ、ニンジン、長ネギ、エリンギと一緒にアルミホイルに包む。くっつかないように、ホイルに油を塗る。
 ここで白だしを大さじ2杯ほど振りかけて、あとは魚焼きグリルで15分から20分ほど焼く。オーブントースターでもいい。
 タイの美味しさを上品に引き出す料理だ。
 右は定番の茶碗蒸し。
 これまで2回くらい作ったけど、あまり上手くいったとはいえなかったから、もう一度基本に戻ってちゃんと作ってみることにした。
 これも白だしがあると簡単だ。
 卵と白だしを水で割ったものを合わせて、蒸し器で蒸すだけでできる。
 蒸し器がなくても、普通の鍋に水を入れて、碗にアルミで蓋をすれば蒸し器と同じになる。
 茶こしなどで漉すと口触りがなめらかになるから、面倒がらすにやった方がいい。
 具は、エビ、シイタケ、鶏肉を使って、少し塩コショウ、みりん、酒も加えた。
 時間は鍋によって違うけど、最初に強火で2、3分して、そのあとは弱火で15分から20分くらいが目安となる。レンジでもできる。
 今回は上手くいって、美味しい茶碗蒸しができた。白だしなら味付けの失敗もないし、見た目も上品な色白茶碗蒸しに仕上がる。
 天ぷらは、単に食べたかったから作っただけで、白だしはあまり関係ない。下味をつけるのに少し使った。
 旬のタケノコは、天ぷらにしても美味しい。ナスの天ぷらも好きなので、外せない。大葉の天ぷらも好物といっていい。
 温度計付きの天ぷら鍋を買って、天ぷら作りの態勢も整えた。やはり温度計があると便利だ。温度の上下動が分かるから調整ができて失敗が減る。

 今回は珍しく定番料理を基本通りに作るサンデー料理となった。最近では珍しい。
 仕上がりとしては面白みのないものとなったものの、作り手として収穫が多かった。料理の基本は、なんといっても調味料の分量で、これさえ間違わなければ大きな失敗はないということを再認識する。そこを毎回適当にやってしまうから成長が遅れるのだ。基本を踏まえるのは当然のことで、繰り返さないと身につかない。オレ流の限界を最近特に感じていた。
 白だし、白しょう油を使った料理はまだしばらく続くことになる。だし巻き卵とか、吸い物とか、作ってみたい定番料理もいろいろあるし、白しょう油で作る豚の角煮とか焼きそばなどは別の料理のようになる。そういうのも試していきたい。ここで基本料理をマスターしておけば、それが今後の応用にも役に立つ。
 そのうち茶色い料理ばかり作っていた頃が懐かしく感じられる日が来るだろう。

これで春の花も終わりかなと思った4月後半 <森林公園後編>

施設/公園(Park)
森林公園2-1

PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f2.8



 今日は森林公園の後編で、花写真をお届けします。
 春はこれを見なくちゃ始まらない、ハルリンドウ。ここから湿地の春は始まる。
 今年は全体的に花がやや小振りに感じた。それは気候的な条件というよりも、森林公園の環境に変化があったのかもしれない。時期的にもうそろそろ終わりかけというのもあっただろうか。
 これでまた一つ、春の花をクリアした。今年はカタクリを見られなくて、それが少し心残りではあるけど、それ意外はだいたい見たように思う。

森林公園2-2

 うっかりしてる間に、スミレの季節が終わっていた。今回の森林公園でまとめて撮ってこようと思っていたのに、ほとんどなくなっていてちょっと驚いた。スミレって、4月中に姿を消してしまうものだっけ。早いのは2月くらいから咲いてくるから、3月いっぱいと考えておいた方がよさそうだ。春先に海上の森へ行かなかったのが失敗の要因だ。
 普通のスミレより遅いツボスミレだけはまだよく咲いていた。これはソメイヨシノが咲く前後の時期と重なる。
 やや小さめで、うつむきがちということもあって、実際の印象は地味だ。
 もう少し濃い紫やピンクのものもあるらしいけど、ここらで咲いているのは白花がほとんどだと思う。

森林公園2-3

 こういう形をしたよく似た野草がいくつかある。
 最初に覚えたのが、ジロボウエンゴサクで、その名前が面白くてずっと忘れずにいる。ただ、油断するとムラサキケマンだったりするので注意が必要だ。
 写真のように色味が薄いのがジロボウエンゴサクで、もっと濃い紫ならムラサキケマンでいいはずだ。

森林公園2-4

 たぶん、ホウチャクソウでいいと思う。アマドコロはもっと花が短いし、ナルコユリは花のつき方が違う。
 漢字で書くと宝鐸草で、お寺の堂の四隅ぶら下がっている鈴のことを宝鐸といい、それに似ているところから名付けれた。宝鐸は別名、風鐸(ふうたく)ともいう。風鐸草の方がイメージとしては分かりやすかった。

森林公園2-5

 これは何だろう。花を見るとキランソウで、花のつき方はジュウニヒトエのようだ。ただ、ジュウニヒトエはもっと上品な薄紫色をしている。
 ということは、園芸種のヨウシュジュウニヒトエだろうか。野草花壇の中に咲いていたものだから、国産の野草でない可能性はある。
 最初、ウツボグサかと思ったけど、よく見ると花や茎の感じが違う。

森林公園2-6

 ムラサキサギゴケとトキワハゼの区別がはっきりついていない。
 これはたぶん、トキワハゼだと思うけど、ちょっと自信がない。

森林公園2-7

 どこにでもたくさん咲いていると、今更撮ろうという気が起きない。カラスノエンドウもそういう野草の一つだ。撮ってもあまり面白くないというのもある。
 名前の通り、エンドウ豆のような実をつける。
 これより小さいスズメノエンドウという野草もあるけど、それは見たことがない。

森林公園2-8

 よく目にしながら、なんとなくやり過ごしてしまっている野草の一つ。花はヘビイチゴに似ていて、もっと小さい。
 ダイコウソウのたぐいなのか、違うのか。
 タガラシとか、キツネノボタンとか、そのあたりだろうか。
 分からないので保留。

森林公園2-9

 あ、こんなところにワラビが生えている。久しぶりに見た。
 昔は、春になるとちょっと山の方に入っていって、よくワラビやゼンマイを採って食べた。苦くて好きじゃなかったけど、ツクシの次の自前採取山菜としてお馴染みだった。それがいつの間にか食べることはなくなっていた。
 今でも山の方に行けばそれなりに生えているものなんだろうか。

森林公園2-10

 コバノガマズミ。名前の通り、普通のガマズミよりも葉が小さい。
 ガマズミが咲き揃うのは、もう少しあとになるだろうか。
 ミヤマガマズミはまだ見たことがない。

森林公園2-11

 この時期、道ばたでも、公園でも、民家の庭でも、至る所でツツジを目にする。見慣れてしまうと、あえて撮ろうと思わなくなって、つい撮り逃してしまいがちだ。だから、最初くらいは撮っておかないと。
 ツツジも撮りようによっては意外とフォトジェニックな花なのかもしれない。なかなか難しい花ではある。

森林公園2-12

 レンギョウも撮らないままシーズンが終わっていた。最後わずに咲き残っていたのがあったので、それだけでも撮っておく。この花はわっと一面黄色に染まるように咲いている姿がきれいで、こうやって個別に撮るとそれほどでもない。
 レンギョウとユキヤナギの白黄色コントラスト風景を撮りたかった。

森林公園2-13

 今回のお目当ての一つに、マメナシの花があったのだけど、出遅れてもう終わってしまったようだった。しまったことをした。
 これはアズキナシだったか。珍しいものではない。
 マメナシは東海地方にわずかに残った珍しい木で、このあと尾張旭の自生地に行ってみたけど、やはり咲いていなかった。桜と同じくらいに咲く花だから、はやり遅すぎた。

森林公園2-14

 サトザクラはわりと長く咲いているから、今月いっぱいは楽しめそうだ。
 気分としてはもう桜でもないのだけど、今日函館でソメイヨシノが開花したという。北海道はまだこれからで、青森あたりが今見頃を迎えているようだ。毎年のことながら、これだけのズレを不思議に思う。

 春の花は一応これで終わりということになりそうだ。初夏の花が咲き揃うまで、少し間が空く。
 当面の目標は藤で、そのあとはカキツバタなどが続く。野草も顔ぶれがガラッと変わる。
 ややついていききれなくなっている感はあるものの、主だったものくらいは一通り見ていきたい。まだ見たことがない花を見に行くことも心掛けたい。伊吹山も一度行って見たいと思っているけど、今年は実現するだろうか。

季節は春から初夏へと移りつつあることを知る <森林公園前編>

施設/公園(Park)
森林公園1-1

PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f2.8



 大津シリーズはまた中断で、今日も季節ネタ優先でいくことにした。神社仏閣ネタは季節はずれになるものではないから、そんなに焦って出し切ろうとしなくてもいいだろう。静岡の久能山東照宮についてもまだ書いてないのだけど、頃合いを見計らってそのあたりもぼちぼち出していくことにする。
 ただ、ネタ不足も困るけど、在庫が余っているというのもあまりよくないとうのはある。かえって散策の足枷になる。だから、気持ちとしては少し焦りもある。小ネタの場合は二本立てでいくべきだろう。
 今日はこの前、森林公園へ行ったときの写真を並べることにする。春の花は終わりかけで、初夏の花との端境期で小休止だった。野草に関しては、またひと月近く飛ばしてしまった感があった。しまった、出遅れたと思いつつ、目についたものをあれこれ撮ってきた。
 写真の枚数がそこそこになったので、前後半の2回に分けることにした。まずは前半をいってみよう。
 一枚目は、被写体としてはありがちなタンポポの綿毛なのだけど、今まで知っているだけではない造形美の可能性を感じる写真になった。もっと積極的に探していけば、面白い被写体も見つかるはずだ。背景によっても違った印象の写真になる。知ってるつもりにならないことが大切だと、あらためて思い知る。

森林公園1-2

 苔の一種だろうか。
 肉眼で見ても、あ、面白いと思ったけど、写真に撮るとまた違った面白さがある。

森林公園1-3

 スイレンか、ヒツジグサか、違う水草か。
 そろそろスイレンが咲く季節になった。いつも藤とセットで見ることが多いから、5月の花というイメージがある。
 スイレンだけを撮りに行くことはなくても、蓮の花は一度撮りに行きたいと思う。今年は早起きして行ってみようか。

森林公園1-4

 写真を撮るときはいつも、光よ、力を貸しておくれと思いながら撮っている。
 光に味方してもらうためには、影とも仲良しにならないといけない。
 影こそが光を引き立たせてくれる最高の相棒なのだから。

森林公園1-5

 落ちた一輪のハナミズキが水に浮いていた。咲いて早々もう落ちてしまったのかと、上を見上げてもハナミズキの木はない。周囲を見渡しても見あたらない。このハナミズキの花は、どこで落ちて、どこから流れてきたのだろう。

森林公園1-6

 木道が造られて、新しい観察湿地ができていた。
 その代わり、今までの観察湿地が乾いていた。ほとんど水分がなくなっていて、去年まで咲いていたハルリンドウはひとつもなかった。一体どうしてしまったのだろう。心配になった。環境が変わってしまったんだろうか。

森林公園1-7

 落ちた蜂の巣。何蜂のものだろう。
 ミツバチのものだとしたら、ここでもミツバチは逃亡して姿を消してしまったのか。
 ミツバチの受粉頼みの農家さんはたくさんいるから、いなくなったらものすごく困ってしまうのだ。ミツバチが受粉させていた花は実がならなくなってしまう。

森林公園1-8

 あ、ヘビだ、と最初は軽く考えていたのだけど、今まで見たことがないヘビで、頭が三角形をしているのが嫌な予感をさせた。
 そっと近づいて撮ってみたものの、今にも襲いかかろうと身構えている。
 体がちょっと扁平な感じで、正体が分からない。平べったい体に三角の頭って、ツチノコか!?
 家に帰ってきて調べたら、マムシと判明した。えええ。そうとは知らず、1メートルくらいまで近づいたぞ。それ以上は身の危険を感じて近づかなかったのは正解だった。
 それにしても、マムシというのは初めて見た。緑地や森へ行くと、マムシに注意という看板がよく立っているけど、実際に出てきたことはなかった。やはり、いるところにはいるもんな。
 ふむふむ、なるほど、これがマムシね。これからは気をつけなくては。
 ただ、マムシはおとなしい性格で、踏んだり無闇に近づかなければ襲ってくることはないそうだ。毒を持っているものの、死ぬことは稀なのだとか。
 噛まれたときは、慌てず騒がずゆっくり歩いて助けを呼ばなくてはいけない。焦って走ったりすると、毒が全身に回ってしまう。

森林公園1-9

 アメンボウにもいろいろ種類があるんだろうか。もしかしたら、水に浮いてるやつが全部アメンボウというわけではないのかもしれない。
 子供の頃、雨上がりの水たまりによくいたのは、もっと体が黒いやつだった。こんな茶色じゃなかった。
 それにしても、水たまりに現れるアメンボウというのは、それまでどこにいたのだろう。そして、水たまりが干からびたら、またどこへ行ってしまうのだろう。不思議だ。
 アメンボウについてはほとんど何も知らないことに気づく。

森林公園1-10

 確か、ルリタテハだったと思う。ここでもまた出会った。
 ルリタテハは、羽の青いラインがなければ、地味で見所のないただの黒い蝶でしかない。青い筋があるだけで、きれいな名前がついた蝶となった。
 人でも生き物でも、人気者と不人気者とを分けるのは、わずかな差でしかないのかもしれない。そのちょっとの差が決定的なのだけど。

森林公園1-11

 芝生がすっかりきれいな春色になっていた。芝生のグリーンというのは、とても清々しくて気持ちのいい色だ。
 この色が戻ると初夏だと思い、茶色になると秋を感じる。

森林公園1-12

 池には渡りのカモの姿はなくなっていた。みんな無事に渡っていっただろうか。
 またしばらく池には用事がなくなった。いつもいるカワウやカイツブリを撮っても楽しくない。
 今シーズンもあまりカモ撮りができなかったのが少し心残りだ。

森林公園1-13

 空を行くアオサギさん。
 遠い未来では、サギたちさえも今のトキやコウノトリのようになってしまうのだろうか。

 いずれにしても、季節は春から初夏へ。
 これ以上後れを取らないように、なんとか季節のスピードに食いついていきたいと思っている。

近江一宮でありながらあっけらんとした建部大社 <大津巡り11回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
建部大社-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 唐橋前駅から瀬田の唐橋を渡って、更に10分ほど歩いたところに、建部大社(たけべたいしゃ)がある。駅から少し遠いから行こうかどうしようか迷ったのだけど、近江の一宮と知って、断然行こうということになった。日本各地の一宮は、行ける機会があれば多少無理をしてでも行っておきたい。
 一宮(いちのみや)というのは、その地域で最も社格が高いとされる神社のことで、律令制の中で定められたものだった。地方によっては二宮、三宮、四宮まであった。
 現在は社格というのは廃止されているものの、有力神社がそのまま別表神社となっているところも多く、自他共に特別意識は残っている。神社側からすれば、宣伝文句として使わない手はない。
 大社というのは、特に決まり事があるわけではなく、官幣大社や国幣大社などがそのまま神社名につけたり、それ以外でも自分で名乗ったというパターンもある。
 もともと、大社といえば出雲大社のことで、その場合は「おおやしろ」と言っていた。神宮といえば伊勢神宮のことを指したのと同じで、あとからたくさん大社が出てきたので便宜的に出雲大社と名乗っている。
 一宮や二宮が大社と称しているところも多い。同じく大津にあって近いうちに紹介する予定の日吉大社は近江の二宮だし、以前紹介した南宮大社は美濃の一宮だ。他にも、春日大社や諏訪大社などが有名だろう。
 建部大社は、瀬田唐橋の右岸で、やや外れたところにあるけど、もう少し東へ行くと近江国庁跡があったりするから、かつては近江の中心地だったのだろう。

建部大社-2

 大きな一の鳥居をくぐり、一直線の参道を歩いていると、やがて二の鳥居が見えてくる。
 境内は静けさが漂っている。深閑とした感じというよりも、平和な感じと言った方が当たっている。
 古い歴史を持つ一宮ということで重厚な神社を期待したのだけど、実際はあっけらかんとした明るい神社だった。良く言えば、威張っていない。気安い感じで出迎えてくれる。
 とはいえ、やっぱりちょっと物足りなさを感じたのは確かだった。
 この第一印象は、結局最後まで変わらなかった。

建部大社-4

 この神門はなかなか雰囲気があっていい。
 ただ、比較的新しいもののようで、重文指定などにはなっていない。情報を探してもこれといったものが出てこないところをみると、近年に建てられたもののようだ。
 建部大社は、唐橋に近いという立地もあって、過去何度も戦乱で焼けている。社殿などもすべて新しいもののようで、それが歴史の重厚な空気感が抜けているような印象を与える要因となっているかもしれない。
 建物関係で重文指定なのは石灯籠一基しかない。
 二宮だった日吉大社には国宝、重文がごろごろしていて、時代の流れの中で逆転してずいぶん水を空けられてしまったという感がある。続けて回ると、感慨深いものがある。

建部大社-5

 門から中の拝殿を見たところ。

建部大社-6

 拝殿前の三本杉。なんだこれ邪魔だななどと思ってはいけない。大事な御神木なのだから。
 境内の砂利はきれいに掃かれていて、歩いて崩してしまうのが申し訳ないくらいだった。
 全般的に見て、清潔感のある清々しい神社だ。

建部大社-7

 創建年は不明ながら、祭神が日本武尊ということで、タケルの父である景行天皇が創建したという伝説を持っている。そのとき、タケルに建部という名を送り、それがこの建部神社の起源になったのだと。
 実際のところは、この地方の有力豪族だった建部氏が、氏神を祀るために建てたのが始まりということのようだ。建部氏はヤマトタケルを始祖としたという。
 755年には孝謙天皇の詔勅によって、大神神社から大己貴命を勧請している。
 もとは神崎郡建部郷にあったものを、天武天皇の時代にこの地に移したともされる。
 壬申の乱を初め、木曾義仲上洛のときや、承久の乱、応仁の乱などで何度も戦場になったり、焼き払われたりした。
 明治の頃までは建部神社と名乗っていた。官幣中社から明治33年には官幣大社となり、最高の社格まで上り詰めた。
 建部大社と名を改めたのは、戦後の昭和23年のことだ。

建部大社-8

 本殿は、日本武尊を祀る正殿と、大己貴命(おうなむちのみこと)を祀る権殿とが並び、相殿には天明玉命を祀っている。
 重文指定の石灯籠は、写真右端に写っているやつだろうか。
 14歳で伊豆に流されることが決まった源頼朝は、京都から伊豆に向かう途中の1160年3月20日に、この建部大社を訪れている。源氏の再興を願っての参拝だったと、『平治物語』に書かれている。
 月日は流れて30年後の1190年、頼朝は征夷大将軍となって上洛する際、再びここに立ち寄り、かつてのお礼参りをした。
 以降、建部大社は武家にも崇敬されるようになったという。

建部大社-9

 本殿左右にはたくさんの境内社が並んでいる。
 向かって左は、蔵人頭神社、行事神社、大政所神社、聖宮神社だったか。

建部大社-10

 右側が、箭取神社、弓取神社、若宮神社、藤宮神社だったと思う。
 見慣れない、聞き慣れないものばかりだ。このあたりは地方色なのだろう。尾張地方の神社とは顔ぶれが全然違っている。

建部大社-11

 草野姫命(かやのひめのみこと)を祀る大野神社は、縁結びの神様だそうだ。
 この神様のことはよく知らないのだけど、イザナギとイザナミの子供で、名前の如く草の神様らしい。それがどうして縁結びという話になったんだろう。

建部大社-12

 朱塗りの鳥居といえば、お馴染みのお稲荷さんだ。
 祭神の稻倉魂命(うかのみたまのみこと)というのも、知らない。
 よその土地へ行って、知らない神様と顔見知りになることはいいことだ。何かのときに助けてくれるかもしれないし、縁は縁を呼んで、思いがけないところで再会することもある。

建部大社-13

 瀬戸物の町、瀬戸では見たことがあるけど、他では初めて見た焼き物の狛犬さん。
 八柱神社というのはここのことだろうか。檜山神社かもしれない。

建部大社-14

 境内の一番右奥に、寶物殿という宝物殿があって、ここだけは有料(200円)となっている。
 藤原時代の作とされる重文指定の女神像などが展示されているそうだ。
 その他の情報としては、毎年8月17日に行われる船幸祭(せんこうさい)というのが有名らしく、日吉大社の山王祭と、天孫神社の大津祭とあわせて大津三大祭とされているのだとか。
 ヤマトタケルが船団を率いて東方征伐に出かけたのが由来の祭りだという。
 もう一つ雑学知識として、1942年に初めて発行された千円札には、ヤマトタケルと建部大社が描かれたとういうのがある。今となってはかなり珍しいお札だから、実物を目にする機会はあまりないと思うけど、それにしても誰かが想像して描いた半分架空の人物がお札の顔になっているのは、今の感覚からすると不思議で面白い。
 建部大社について私が紹介できるのはこれくらいだ。想像とは違っていたけど、行っておいてよかった。写真や紹介文だけでは分からないこともあって、実際に自分で行ってみれば感じることも多い。
 今後とも各地の一宮巡りを積極的にしていきたいと思っている。何しろ、愛知県にある3つをまだ行っていないのだ。これはいけない。
 そんなこんなで、大津巡りシリーズはまだ当分続くのであった。

膳所城跡を静かに訪れるつもりが桜見物客で大賑わい<大津巡り10回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
膳所城跡-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 膳所神社をあとにして、今度は膳所城跡へ向かった。
 私としては物好き以外に訪れる人も少ない城跡公園を想像していたら、まるっきり様相が違っていてかなり驚くことになった。桜の名所になっているとちらっと読んではいたけど、あんな大賑わいになっているとは思いもよらなかった。地元ではけっこう有名なところのようだ。普段はもっと静かなのだろうけど。

膳所城跡-2

 大津もところどこに古い家並みが残っている。江戸時代は東海道が通っていて、東海道五十三次の最後53三番目の大津宿があったところだから、これくらい残っていても不思議ではない。
 またそのあたりについても写真を交えながら紹介したいと思っている。
 左奥に見えている城のような建物も気になった。帰ってきて調べたところ、大津市生涯学習センターというもののようだ。近江の歴史についての展示物もあるらしく、模擬天守は展望台になっている(250円)。
 お城の建物を作って喜んでるのが名古屋だけじゃないと知ってちょっと安心する。

膳所城跡-3

 桜がきれいそうだという前に、えらく人が多い方が先に目についた。えええ、なんだこりゃと戸惑う。
 狭い駐車場も車がいっぱいで、待ちの列ができている。
 主観的には城跡見物に行ったつもりが、客観的には一人でカメラを持って桜名所を撮りに来た人になってしまった。そんなつもりじゃなかったのに。

膳所城跡-4

 移築門と思わせて、実際はあとから作った摸擬城門のようだ。全般的に見て新しいものだと分かる。
 ただ、木の門そのものは古さを感じさせるもので、ここだけ古いものを流用したのだろうかとも思わせた。

膳所城跡-5

 こういった水堀も、のちの復元だろう。そもそも水深が浅すぎて堀の役割を果たしていない。
 残っている遺構は石垣の一部だけだそうで、それもどこにあったのか、よく分からなかった。

膳所城跡-6

 桜は雑然とした感じで植えられていて、とりとめがない感じがした。
 公園内は思いのほか広く、桜の本数もそこそこ多い。これなら宴会場には最適だ。

膳所城跡-9

 完全に花見ムード一色になっている。
 中学生が大勢訪れていたのは、遠足のたぐいだろうか。賑やかに騒ぎ、走り回っていた。

膳所城跡-7

 何かの祠が建っていたけど、近くで宴会をしていて近づけず。
 城跡の写真を撮りに来ているような人間は私の他に見あたらなかった。私の方がかえって場違いな感じで、落ち着かない気分のまま結局15分ほどで公園をあとにすることになった。

膳所城跡-8

 はしゃぐ中学生たち。彼らにここが膳所城の跡地だという自覚はたぶん、ない。
 後ろに見えているのは近江大橋だ。

膳所城跡-10

 城跡を思わせるようなものは、わずかに天守閣跡の石碑くらいで、他には何もなかった。完全に公園と化している。

 戦国時代の近江は、浅井氏と六角氏の支配する土地だった。南近江の観音寺城下で生まれた浅井長政だったけど、浅井家は六角氏との争いに敗れて、北近江の支配にとどまっていた。長政と信長の話は有名だから知ってる人も多いと思う。
 織田家が支配するようになってからは、琵琶湖の東岸に信長が安土城を築き、東岸の北には秀吉の長浜城があった。西岸は南の坂本に明智光秀が築いた坂本城があった。坂本城は安土城に次いで立派な城だったと言われている。今はほとんど何も残っていない。西岸の北には大溝城などがあった。
 秀吉に代わって家康が天下を取るようになると、また事情も変わってきた。
 関ヶ原の戦いに勝った家康は、京都背後の守りと大坂に対する備えとして、膳所に城を築くことにした。のちに江戸城、大坂城、名古屋城と続く天下普請の第一号がこの膳所城だった。
 この場所を選んだのは、東海道、中山道、北陸道が交わる要所で、瀬田橋に近いということもあったようだ。琵琶湖を制するという意味合いもあっただろう。
 1601年、城造りの名人と言われた藤堂高虎に命じて、大津城を移築して築城させた。
 突き出た陸地に、琵琶湖を背後にして三の丸、二の丸で本丸を囲んだ水城だった。本丸には4重4階の天守がそびえていたという。
 大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ琵琶湖の浮城の一つで、日本三大湖城の一つとされていた(あとの二つは、島根の松江城と長野の高島城)。
 最初は大津城主だった戸田一西が3万石で入り、息子の氏鉄が摂津国尼崎藩に転封したのち、譜代大名が何人が城主を歴任したあと、本多俊次が7万石で入城し、13代220年の間、本多氏の居城となって、明治維新を迎えることになる。
 明治3年(1870年)に解体されることが決まり、城門などが各地に移築された。膳所神社以外では、篠津神社と鞭崎神社にそれぞれ大手門が移され、重要文化財となっている。

 膳所本町散策としては、膳所神社と膳所城跡の二つが見所ということになるだろう。もう少し足を伸ばすなら、和田神社もある。石坐神社は、一つ北の錦駅からの方が近い。
 今回は戦国巡りではなかったから、坂本城跡には寄らなかった。今思えば寄っておけばよかった。まだ比叡山延暦寺に行ってなくて、いずれ行かなくてはいけないだろうから、そのとき坂本城も行くことにしよう。
 大津巡りはまだ続く。

一度覚えてもすぐに忘れそうな難しい読みの膳所神社 <大津巡り9回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
膳所神社-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



「膳所」という地名を一発で読めた人は少ないと思う。大津以外の人でも関西圏の人たちにとっては常識なんだろうか。これは「ぜぜ」と読む。普通は読めない。
 中大兄皇子が近江大津宮に遷都して天智天皇として即位したとき、この地を御厨所(みりくや)としたことから膳所と呼ばれるようになったのだという。御厨所というのは、天皇を初めとした宮家の食事を作る場所という意味だ。
 もう少し詳しく説明すると、もとは阿膳(おもの)の浜田と呼ばれていて、この地に州崎があったことから阿膳の崎、膳の崎、膳の前、膳前(ぜんぜん)となり、それが略されて「ぜぜ」となったということらしい。
 その地に、食事の神である豊受比売命(とようけひめのみこと)を祭神とする神社も建てた。それが今日紹介する膳所神社で、創建は667年と伝えられている。
 豊受比売命といえば伊勢神宮の外宮で祀られている神だ。その関係かと思ったら違っていて、大和からの奉遷(ほうせん)のようだ。
 膳所本町駅を降りてすぐ、徒歩1分ほどのところにある。道を隔てた反対側が膳所高校で、神社を右手に見ながら真っ直ぐ7、8分も歩くと、琵琶湖湖岸の膳所城跡に着く。まずは膳所神社から見ていこう。

膳所神社-2

 明治になって膳所城が解体されたとき、城の門などがあちこちに移築された。以前紹介した御霊神社もその一つで、ここ膳所神社には3つの門が移築されている。
 特に重要視されているのが表門に当たる東門で、二の丸から本丸への入口にあった薬医門(やくいもん)形式の城門がここに移された(1870年)。建てられたのは1655年で、重要文化財に指定されている。 

膳所神社-4

 境内はこんな感じ。中央にぽっかり空間が空いていて、ややガランとした印象を受ける。
 古社にしてはそういう濃密な空気に満たされているという感じではない。個人的な感覚として、気が満ちている神社と、気が抜けている神社がある。相性の問題もあるかもしれない。

膳所神社-5

 これは新しく建て直したふうだった。平成に入ってからといったところだろうか。
 拝殿だろうか、舞殿だろうか。
 本殿はここから離れた更に奥で、この神社はけっこう奥行きがある。
 位置的にというか、方位的に多少違和感があると思ったら、社殿が東向きなのだ。たまにあるけど、それほど数は多くない。大部分は南向きで、御神体が山だったりすると方角に関係なくそちらを向いていることがある。

膳所神社-6

 本殿を透垣 (すいがい)がぐるりと囲んでいる。 この様式は雰囲気があって好きだ。
 ただ、元からこういう様式ではなかったように思う。鎌倉以降は武家の崇敬を集めというから、その時代に建て増ししたものかもしれない。詳しいことは調べがつかなかった。
 室町以降も、秀吉や北の政所、家康などがこの神社を大事にしたという。

膳所神社-7

 横から見るとこんなふうになっている。右奥に見えているのが本殿だ。

膳所神社-8

 本殿右手に、いくつか境内社が並んでいる。
 こちらまではあまり人が訪れないのか、苔むしていい感じになっている。

膳所神社-9

 この北門も膳所城から移築したものらしいのだけど、詳しいことは分からない。
 南門は写真を撮っていない。そんないわれのあるものだとは知らなかったから。

膳所神社-10

 膳所神社横の古い屋根付き商店街。こういうのもアーケード街というのだろうか。
 雨降りの日は、膳所高校生が少し助かることだろう。

 膳所城とセットで一ネタにしようと思ったのだけど、写真が多くなったので2つに分けることにした。
 このあとすぐ、膳所城編へと続く。

寺社シリーズの合間にモリコロの花写真を挟んで潤い補給

花/植物(Flower/plant)
モリコロ花-1

PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f2.8 / TAMRON 75-300mm f4-5.6 Di



 この先も大津の寺社ネタが続きそうだから、ここらで一つ息抜きとして季節ネタを挟んでおこうと思う。この前、ギフチョウを撮りにモリコロパークへ行ったときの花写真だ。
 4月の花は入れ替わりが目まぐるしいから、早めに出しておかないと旬を過ぎてしまう。一週間単位でどんどん花の顔ぶれが変わっていく。ここで季節に後れを取るというのが、毎年のパターンとなっている。ピタリと後ろについていくのは難しい。5月くらいになると、まあいいかと半分投げやりになってしまうのも毎度のことだ。今年はどこまで遅れずについていけるか。
 一枚目はサトザクラの一種だろう。ウコンザクラと思うけどどうだろう。
 ウコンザクラは最初濃い緑色をしていていだんだん色が薄くなっていく。同じウコンザクラでも、ピンク色が濃いものもある。
 名前は鬱金色から来ているのだろうけど、ウコンで染めた色はもっと濃い山吹色のような色で、薄緑とは違う。別名を浅葱桜というものの、浅葱色とも違う。

モリコロ花-2

 これはどうなんだ。ウコンザクラのような、そうではないような。
 盛りを過ぎたギョイコウ(御衣黄)はピンクが出るから、これがそうなんじゃないかとも思う。最初はもっと濃い緑色をしている。
 漢字で書くと御衣黄で、高貴な人が着る衣にたとえて名づけられたそうだ。

モリコロ花-3

 サトザクラもかなり種類があって、品種名まではよく知らない。現存しているものだけでも300種類以上あるという。
 大島桜を元に改良したものが多いそうだ。
 ソメイヨシノより2週間くらいあとに咲いてくるから、桜の延長戦としてもうしばらく楽しめる。大阪造幣局の通り抜けが全国的に有名だろう。

モリコロ花-4

 チューリップの品種も数百種類あるそうだけど、あまり興味がないので品種名までは勉強したことがない。色とりどりのチューリップという大雑把な認識しかない。
 チューリップというとオランダが有名だけど、原産は中近東だ。古代のオスマントルコからヨーロッパに広がったと言われている。
 なばなの里の大チューリップ畑が有名で、一度見てみたいと思いながらなかなか機会がない。

モリコロ花-5

 ツツジもまた種類の多い花で、数種類を見分けられるだけではツツジを知っているとは言えない。
 シャクナゲやサツキもツツジの仲間だし、名前のついた園芸種も多い。
 私はミツバツツジとオオムラサキくらいしか知らない。キリシマツツジというのが豊田のつどいの丘に植えられていてちょっとした名所になっている。今年は見に行けるかどうか。

モリコロ花-6

 たぶん八重咲きの椿だと思うけど、あまり自信はない。
 椿そのものは日本に昔からある花で、万葉集などにも詠まれている。
 江戸時代に品種改良が進んで、たくさんの椿が作られた。江戸椿や尾張椿など、地方ごとの系列もある。
 八重の椿は、バラに負けないくらいの造形美を見せる。

モリコロ花-7

 ガマズミかな。違うかも。
 コデマリならもっと丸まって花が咲くから、たぶんガマズミでいいと思う。
 このあたりは確信を持って名前を言えるようにもっと勉強しないといけない。

モリコロ花-8

 山吹(ヤマブキ)の白バージョンかと思わせて、実はシロヤマブキという違う種類の花という紛らわしいやつ。色が違うだけで見た目はよく似ている。
 決定的な違いは花弁の枚数で、山吹は5枚なのに対してシロヤマブキは4枚だ。
 原産は中国から朝鮮半島にかけてで、広島から福井にかけてのごく一部に自生しているそうだ。

モリコロ花-9

 パッと見で八重山吹と思ったけど、写真を見たら自信がなくなった。葉っぱが小さくて違うような気もしてきた。
 色からしても山吹でいいんじゃないかと思うけど。

モリコロ花-10

 アセビ(馬酔木)はピンク色のイメージが強かったけど、あちらは園芸種で、本来は白色だそうだ。
 これも日本に昔からあった花で、古くから歌に詠まれたりしている。
 もう少し繊細に咲けばきれいな花なのに、雑然と咲くから損をしている。写真に撮るときは切り取りどころが難しい。

モリコロ花-11

 これは初めて見る花だけど、図鑑かネットの写真で見覚えがあった。イカリソウ(錨草)じゃないだろうか。
 きっと園芸種だろうと思ったら、意外にも自生しているんだそうだ。こんなものは野山で見たことがない。どんな場所に咲いてるんだろう。

モリコロ花-12

 シャガの咲く季節になったのか。この花が咲けば、季節はもう初夏だ。
 どこにでもある花だけど、この花を見ると5月の鎌倉を思い出す。
 花は季節を思い出させるものでもあり、思い出と結びつきもする。

モリコロ花-13

 確か、シロバナトキワハゼとプレートにはあったと思うのだけど、プレートを撮ってこなかったので思い出せない。ありがちな失敗だ。
 ムラサキサギゴケだったかもしれない。
 どちらにしても、白花というのは珍しい。野生ではないかもしれない。

モリコロ花-14

 タンポポも花盛りであり、綿毛盛りでもある。
 風に乗って飛んでいって、落ちたところで咲くというのは見事な戦略だ。
 少しの風でも飛ばされて、行きに見た綿毛が帰りに見ると消えているなんてこともあった。

モリコロ花-15

 季節は変わる。主役交代。

 明日からはまた大津の寺社シリーズに戻ります。

石山寺は有名人御用達のお寺でどこか鎌倉風 <大津巡り8回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
石山寺2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 石山寺後編は、本堂からとなる。
 昨日も書いたように、この本堂は撮りづらい。木々や他の堂が視界を遮るし、全体を入れて撮るために離れようにも後ろにスペースがない。回り込もうにも回り込めず、横から縣造を撮ろうと思っても、大部分は木々によって隠れてしまっている。最高のポジションで撮ったと思われるパンフレットの写真でさえ、屋根の部分しか写っていない。
 そんなわけで、私も外観は堂の入口前で撮っただけにとどまった。もしかすると、第一梅園から望遠レンズで撮るとそれなりに撮れるのかもしれない。梅の季節ではなかったから、そちらはパスしてしまった。
 平安時代建築された本堂は、滋賀県最古の木造建築で、多宝塔とともに国宝指定となっている。
 相の間(あいのま)と礼堂(らいどう)がくっついていて、礼堂(外陣)が懸造になっている。礼堂は1602年に淀君の寄進によって増築されたという。考えてみると、豊臣家が滅びる大阪の陣は、1614年と1615年だから、江戸幕府が始まってから10年以上も豊臣家は大きな力を持っていたのだ。その間、秀頼や淀君が何を考え、何をしていたのかということはあまり知らない。家康にいろいろいじめられていたのだろうことは分かるけど。
 そのうち大阪城にも行って、そのあたりのことも勉強しないといけない。

石山寺2-2

 堂内は撮影禁止と書いてあったので、堂外から堂内を撮る。
 堂内撮影禁止というのは、堂内で写真を撮るのを禁止しているのか、堂内を写すのを禁止しているのか、どちらなのだろう。両方禁止か。
 寺によって考え方はそれぞれで、禁止のところは多いけど全部がそうではない。奈良の大仏殿などは撮影を禁止していない。
 寺側の事情や都合などは理解できるし、なんでもありにすると無茶する人間がいるから禁止にしておいた方が無難というのも分かるけど、信仰の対象で畏れ多いものだから撮影不可という理屈には納得いかない。
 そもそも形のない仏を信仰しやすいようにという勝手な理屈で仏像を造るという行為はどうなのだと思う。それを写真に撮るのが冒涜だという論理は正しいというなら、仏像にすることに問題があるんじゃないのか。神社で神の像など彫らない。
 まあしかし、最近は仏像を盗んでいく人間もいるし、自由勝手にさせたら何をされるか分かったもんじゃないという寺の気持ちは理解すべきか。
 個人的には禁止といわれれば撮らないけど、最終的には自分の良心で判断することにしている。禁止じゃなくてもここは撮らない方がいいというのは感覚的に分かる。

石山寺2-3

 これも堂の外から。
 撮影禁止というのは、参拝客の邪魔になるというのも理由の一つだろうから、外から撮る分にはそんなに問題ではないんじゃないかと思う。
 本尊の如意輪観世音菩薩は秘仏だから、撮りたくても撮れない。天皇の勅命による勅封秘仏で、ご開帳は33年に一度だ。
 近年、この仏像の中から如来像など四体の胎内仏が出てきたそうで、古いのは飛鳥時代のものだとか。近いうちに国宝指定になるかもしれない。

石山寺2-4

 本堂横に紫式部源氏の間という小部屋がある。中の人形は紫式部のようだ。
 紫式部も石山寺を訪れて、そのとき『源氏物語』の着想を得たという話が伝わっている。実際のところはどうか分からないのだけど、紫式部とゆかりの深い寺だったことは間違いないようだ。そういう言い伝えがずっと昔からあって、この部屋が造られたのも江戸時代だという。
 去年2008年は源氏物語千年紀ということで、石山寺でもいろいろな催しが行われたようだ。手間に飾られているMURASAKIというのはロボットらしい。どんな動きをするのだろう。
『源氏物語』の作者は、本当は紫式部ではないというような説がいろいろあるけど、基本的な部分はやっぱり紫式部が書いたんだろうと思う。それが年月を経るにつれて他人によって書き加えられたり、変更されたりして今に伝わる形になったと考えるのが自然だ。
 作者がはっきりしないように、作品名も実は分かっていない。便宜的に源氏の物語と称していたものがいつの間にかタイトルのようになったとも言われている。そういうことも考え合わせると、早い段階において何人かが物語を持ち寄った合作のようなものという可能性もある。
 不可解なのは、当時の公式記録や日記に『源氏物語』について書いているものがないということだ。書いているのは紫式部だけで、本当に宮中で話題にになっていたとすれば、たくさんの記録に残っていてもおかしくない。読んだ感想だとか、今こんなものが話題になっているなど、書き記したに違いない。特に紫式部とライバル関係にあった清少納言が源氏物語について書いていないのはどういうことか。宮仕えの時期にずれがあるという話もあるけど、紫式部は自分の日記の中で清少納言の悪口を書いている。それをやり返すような批評が残っていたとしても不思議ではない。
 そんなわけで、源氏物語というのはいろいろと謎が多い物語なのだ。

石山寺2-5

 三十八所権現社の本殿。寺の中の神社で、石山寺の鎮守社の役割を担っている。
 1602年に本堂の礼堂を増築するときにあわせて建てられたものだそうだ。
 神社の神と、寺の仏像が同居することは不思議でもなんでもないという本来の感覚を私たちは忘れている。

石山寺2-6

 日本史の教科書に出てきそうな建物だ。16世紀の建築らしい。
 高床式の校倉造りというと、奈良の正倉院を思い出すけど、あれも聖武天皇の関係品を納めたもので、石山寺はもともと東大寺の末寺なのだから、似たようなものがあるのは当然と言えば当然か。
 経蔵で、大事な教典などを収めてあるそうだ。

石山寺2-7

 ちょっと変わったスタイルをした鐘楼だ。 
 源頼朝の寄進という話もありつつ、様式からすると鎌倉時代後期のものらしいので、頼朝うんぬんというのは違っているかもしれない。鐘は平安時代のものだそうだ。
 これも重文指定となっている。

石山寺2-8

 これが最大の見所といってもいい、国内最古の多宝塔だ。
 なるほど優美さの中にも風格を漂わせている。でも、思ったよりも威圧感はなくて、想像よりもスマートな印象を受けた。
 1194年に頼朝の寄進で建てられたもので、高さは17メートル。日本三大多宝塔の一つだ。
  中を見ることはできないけど、快慶作の大日如来坐像が安置されているそうだ。天井や柱周りなどは、豪華絢爛な彩色が施されていたらしい。今はもう、薄れてしまっているようだけど。
 しばし鑑賞する。ほぉ、これがねぇなどと思いつつ。

石山寺2-9

 主だった建物は見終わって、あとはぐるりと北西の周回コースを辿って帰ることにする。
 朱塗りの堂は心経堂というもののようだ。どういうものかはよく分からない。
 苔の緑と新緑と木漏れ日の風景に心惹かれた。

石山寺2-10

 芭蕉庵と月見亭。
 石山寺といえば、石山の秋月が近江八景の一つとなっているように、月見の名所としても知られている。 
 月見亭は、後白河上皇が参拝に訪れるというので建てられたものだそうで、明治、大正、昭和の天皇もここを訪れている。
 ただし、現在のものは再建されたもので当時のものそのものではない。
 松尾芭蕉は2キロほど離れた幻住庵に住んでいたから、たびたび石山寺を参拝している。
「夕月は二つ有りても瀬田の月」など、いくつかの句を残した。

石山寺2-11

 瀬田川を見下ろすこの風景も、石山寺定番の一つだ。
 歌川広重も、東海道五拾三次などで石山寺を何枚も描いている。「近江八景 石山秋月図」などは、このあたりから見た風景を元にしているんじゃないかと思う。

石山寺2-12

 一番奥まったあたりに豊浄殿という建物があって、その中で紫式部展が開催されていた。
 有料でもあり、時間もなかったので、ここは通りすぎた。たぶん写真撮影も禁止だったろうし。

石山寺2-13

 ソメイヨシノには少し遅かったものの、しだれ桜やツツジなどが咲いていて、参道歩きも楽しむことができた。

石山寺2-14

 夫婦さんらしき二人組が、白レンズでバチバチ何かを撮りまくっている。これは近づいてみるしかあるまい。

石山寺2-15

 なるほど、これを撮っていたんだ。
 見た目はとても印象的な風景だったけど、写真に撮ると手前の木が邪魔で見た目ほどきれいに写っていない。山里の春といった風情で、なかなかよかったのに。
 石山寺は花の寺とも呼ばれていて、四季を通じていろんな花が咲くという。そのあたりもなんとなく鎌倉の寺っぽいなぁと思わせるのだった。

 石山寺について私が紹介できるのはこれくらいのものだ。少し回りきれなかったところもあり、説明できなかったところもあるけど、まずはこんなものだろう。
 大津巡りシリーズはまだ先が長い。焦ってすぐに終わるものでもないし、一ネタずつ着実に終わらせていくしかない。
 まだじばらく神社仏閣ネタが続きそうだ。

石山寺前半は東大門と二つの国宝を遠巻きから <大津巡り7回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
石山寺1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 石山坂本線巡りの旅は、始点なのか終点なのか分からないけど石山寺駅から始まった。
 JR石山駅で乗り換えて、南へ2つ目が石山駅で、北の終点は坂本駅となる。この沿線沿いで回れるだけ回ろうというのが今回の旅の趣旨だった。
 この路線はローカル線にもかかわらず、毎時15分置きくらいに電車が来るので、出たとこ勝負の散策にはありがたかった。何度も乗り降りしたけど10分以上待つことはなかった。
 散策ポイントも、駅から一番遠いところで歩いて15分くらいだったから、一日かけて巡るには最適の場所だ。こんなにいい歴史散策地はそうめったにない。鎌倉の江ノ電より便利だ。
 石山寺まではわりと遠いのだけど、路線バスが出ているから、時間さえ合えばそれに乗ればいい。歩けば15分くらいで、バスなら3分くらいだろう。

石山寺1-2

 駅を出てすぐに赤い鳥居の小さな神社があり、両隣には丸ポストと昔ながらの雑貨屋さんが並んでいる。いきなりレトロな雰囲気でお出迎えだ。
 ただ、門前町のわりには駅から寺までみやげ物屋や食べ物が軒を連ねているという光景は見られない。それなりに参拝客も多いだろうに、これは意外だった。
 一つ屋台が出ているくらいで、あとは普通の道なので歩いていて楽しいということはない。
 桜並木はだいぶ散っていた。大津は思ったよりも暖かい土地のようだ。去年近江八幡へ行ったときは、名古屋よりも桜が遅い印象だったから期待していたのだけど、大津の方が温暖なのだろうか。

石山寺1-3

 瀬田川は広々としていて、遊覧船のリバークルーズも気持ちよさそうだった。
 私はそんなにのんきな旅ではないので、横目で見ながら先を急ぐ。

石山寺1-4

 そろそろ近づいてきたところ。雰囲気がそれっぽくなって、遠くに人の賑わいを感じた。
 駐車場に車がたくさんとまっていたから、電車よりも車で訪れる人の方が多いのかもしれない。駅から歩いている人の姿はあまりなかった。

石山寺1-5

 門前に到着すると、人が大勢いてちょっと驚いた。どこからこんなに湧いて出たんだというくらい、ここだけが妙に賑わっていて、閑散とした周囲とのコントラストに戸惑う。平日の午前中にもかかわらず、参拝客は多かった。この寺は人気があって流行っていることを確信する。
 平安時代には宮廷の女の人もたくさん参拝に訪れたという寺で、昔から人を惹きつける魅力があったのだろう。『蜻蛉日記』や『更級日記』、『枕草子』にも石山寺は登場する。
 西国三十三箇所観音霊場の第13番札所になっているから、巡礼の人の姿もよく見かけた。遠くから来る人は、三井寺とまとめて参拝していくんじゃないだろうか。
 知名度としてはやや低いものの、京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並んで日本有数の観音霊場とされている。
 創建は奈良時代の747年。
 東大寺の大仏を造るとなったとき、メッキのための金が不足して困っていた。そのとき聖武天皇は琵琶湖の南で観音菩薩に祈るといいという夢のお告げを受け、東大寺開山の良弁(ろうべん)にそれを命じた。
 早速良弁はこの地を訪れ、聖徳太子が持っていた如意輪観音像を安置するための草庵を建てたのが石山寺の始まりとされている。
 2年後に陸奥で金脈が発見され、なんとか大仏を完成させることができた。当時の感覚では、それは良弁の祈りが仏に通じたということになったのだろう。
 東大寺の末寺ということで当初は華厳宗だったのが、平安時代になると醍醐寺の開祖・聖宝(しょうぼう)や弟子の観賢などの影響で密教化が進み、中興の祖とされる菅原道真の孫の座主・淳祐内供(しゅんにゅうないく)以降、真言宗のお寺へと宗旨替えをしている。大伽藍が整備されていったのもその頃と言われている。
 三井寺とは違って、ここは兵火で焼けなかったものの、1078年に一度全焼しているため、現在の建物は平安末期から鎌倉時代初期にかけて再建されたものが多い。
 時代が進むにつれて、貴族から武家、庶民と、幅広く信仰されるようになっていく。

石山寺1-6

 一軒が連なっているのか、数軒が並んでいるのか、雑然とした感じでおみやげ物が売られている。新旧取り混ぜて、なんだかすごいことになっていた。じっくり探せば思いがけない掘り出し物とかもありそうだ。

石山寺1-7

 寺の正門である東大門は、1190年に源頼朝が寄進したとされるものだ。
 言われてみると、鎌倉っぽい気がする。なかなか立派なものだ。重要文化財に指定されている。
 1600年前後に一度大規模な修理が行われているというから、当初の姿とは少し違っているかもしれない。

石山寺1-8

 古都には和装がよく似合う。
 昔は宮廷の女性が大勢訪れたというから、門前や参道は華やかなものだったのだろう。旅装束は想像するより地味なんだろうか。

石山寺1-9

 参道の両脇には、大黒堂や法性院、世暮院などの別院が並んで建っている。入れるところもあるし、門が閉ざされているところもある。
 入口からのぞけるところはのぞいて、中までは入らず先を急いだ。最初から時間をかけすぎるとあとから時間がなくなると思って、初めの頃は少し焦り気味だった。
 とはいえ、中は広いから、なんだかんだで1時間近くかかっただろうか。

石山寺1-10

 石山寺は、紫式部や松尾芭蕉ゆかりの寺でもある。時代を超えて人が人を呼び、そうやって引き寄せられた一人に島崎藤村がいる。
 明治26年、東京の明治女学校高等科の英語教師をしていた22歳の島崎藤村は、教え子に恋をして振られ、自身が信仰するキリスト教と教師の職を捨て、関西へ漂泊の旅に出る。
 そのとき立ち寄ったのが石山寺で、愛読していた『ハムレット』を寺に納めた。
 それから更に西へ進み、高知まで行ったところで引き返し、再び石山寺を訪れる。そして、密造院の一間を借りて2ヶ月の間生活していた。小説家になろうと決意したのはこの体験があったからで、このあたりの経緯をのちに小説として書いている。
 今はもう、『破戒』や『夜明け前』など読む人も少なくなったのだろう。私も藤村はほとんど読んでいない。

石山寺1-11

 よく分からないけど水車が回っていたので撮ってみた。特に説明書きもなく、何かの役に立っているというふうでもなかった。

石山寺1-12

 崖の上に建つ懸造(かけづくり)の本堂が見える。清水の舞台などと同じ造りだ。
 前の障害物が多すぎて写真を撮るのは苦しい。この本堂はどの角度からも上手く撮れなかった。

石山寺1-13

 最初の石段を上がって、すぐ右手にあるのが観音堂で、左手が蓮如堂だ。
 写真は観音堂の左にある毘沙門堂だったと思う。

石山寺1-14

 こちらが確か観音堂だ。観音様らしき仏像がたくさん並んでいる。
 西国三十三所巡礼所のすべての観音様が安置されているんだそうだ。

石山寺1-15

 これは御影堂というやつだろう。
 中は見なかったのだけど、良弁、空海、淳祐の遺影が安置されているらしい。
 室町中期の建築物で、これも重文指定になっている。

石山寺1-16

 石山寺で見逃せないのは二つの国宝で、一つは本堂で、もう一つは多宝塔だ。どちらももう少し近づいてから詳しく書きたい。
 手前のうねうねにうねった岩は、珪灰石(けいがいせき)の塊で、こんなに大きなものは珍しいということで国の天然記念物になっている。英語ではウォラストナイトという。
 この寺は、この珪灰石を中心として伽藍が建てられていて、石山寺の名前はこれから来ているとも言われている。

 今日はだいぶ写真も多くなったので、ここまでとしたい。続きは石山寺後編で紹介する。石山寺は前後編の2回にギュッと押し込んだ。まだまだ先は長いから、このあたりでのんびりしてられない。

白しょう油は洋食も上品な色に仕上げる優等生

料理(Cooking)
白しょう油洋風サンデー

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8



 今日のサンデー料理のテーマは、白しょう油を使った洋風料理だった。
 私の中の白しょう油ブームはまだ続いていて、いろんな可能性を感じているから、あれこれ試してみたいものがたくさんある。そこで今回は、和の素材を白しょう油を使いながら洋風に仕上げるというものに挑戦してみた。
 手前から順番にいくと、まずはタケノコとエビのトマトソースだ。
 これは白しょう油を使ってトマトソースを作った。タマネギ、鶏肉をオリーブオイルで炒めて、刻んだトマト、トマトピューレ、ケチャップ、白ワイン、コンソメの素、塩、コショウ、白しょう油、砂糖、豆板醤、オイスタースース、みりん、唐辛子、水を入れて、ある程度煮込む。
 タケノコは下茹でして、エビは塩、コショウ、白ワインを振りかけたあと、ラップしてレンジで1分半加熱する。
 最後にエビとタケノコをトマトソースに投入して、絡めながら温めて出来上がりだ。
 これは白しょう油だからどうこうということはなかったかもしれない。他の調味料が強いから、しょう油味はあまり感じない。普通のしょう油と二つ作って食べ比べたら違いが分かっただろうか。
 料理としての味は申し分なかった。タケノコというと和食と決めつけがちだけど、洋食としても使える素材だ。春の旬素材だから、積極的に使っていきたい。

 右はマグロステーキで、これはソースに白しょう油を使っている。
 マグロは塩、コショウ、白ワインを振ってしばらく置いたあと、ビニール袋にカタクリ粉と一緒に入れてシェイクして衣をまぶす。
 ソースは、卵黄、マヨネーズ、塩、黒コショウ、マスタード、ごま油を混ぜて作る。
 マグロはオリーブオイルで軽くあぶり焼きをする。衣をつけてあるので中まで火が通りにくいから、半生に調整しやすい。
 最後に、粉チーズとパセリ粉を振りかける。
 白しょう油がいきたのは、味よりも見た目だった。普通のしょう油を使うと黒ずんでしまうけど、白しょう油なら卵黄の鮮やかな黄色を保てる。味も白しょう油ならではのまろやかさと甘さがある。
 マグロは刺身で食べるよりも、こういうふうに洋食にすることでごちそう風になる。魚嫌いの子供にすすめたい。

 左奥が今回一番の成功作だった、洋風肉じゃがだ。
 見た目も茶色くならず、味も優しい甘さが出て美味しかった。この肉じゃがは人にも出せる。自分でももう一度作って食べたい。
 まずはベーコンとタマネギをオリーブオイルとバター炒めたあと、鶏肉、ジャガイモ、ニンジンを入れて、白ワインでざっと炒める。
 あとは、水、コンソメの素、白しょう油、みりん、砂糖、塩、コショウ、マスタードを加えて、蓋をして中火でしばらく煮込む。圧力鍋があると早い。もしくは、ジャガイモとニンジンをレンジで加熱しておくという手もある。
 出来上がりの少し前にアスパラも加える。
 バターと白しょう油とベーコンの組み合わせがいい味になったんだと思う。肉を牛肉にしてしまうと少しくどくなるかもしれない。
 これは美味しいから、ぜひ一度作ってみて欲しい。

 白しょう油は洋食でも充分使えることが分かった。味はまろやかで甘みが増すし、なんといっても色で邪魔しないのがいい。しょう油を使うとどうしても茶色くなってしまうという難点がある。
 近いうちに白だしも買ってこよう。そうすると更に手間いらずになる。
 今日は3品とも美味しく食べられて成功だった。毎回こう上手くいくとかえって面白くないから、もう少し冒険していきたいところだ。

4年前の面影が少しだけ残るモリコロパークの今

施設/公園(Park)
モリコロ-1

PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f28 / TAMRON 75-300mm f4-5.6 Di



 ギフチョウを撮りに行ったついでにモリコロパークの写真も撮ってきた。今回は北エリアには寄らず、南エリアだけにしておいた。それでもけっこう広くて、行ったり来たりで3時間ほど歩いた。それなりにアップダウンもあって、時間以上に疲労を感じた。
 上の写真はお花畑と芝生広場だ。向こうにはリニモと駅が見えている。
 万博のときは、暑い中で疲労の極致まで歩いて、芝生広場でへたり込んだのを覚えている。もうこれ以上歩けないと思った。あたりを見回すとそんなお仲間がたくさんいて、完全にダウンして横になっているお父さんなどもいた。あれはもう4年近く前のことになるのか。懐かしいという感情もあるけど、もう一回やって欲しいという気持ちも強い。万博があんなに楽しくて思い出に残るものだとは思わなかった。開催中にもっと行っておけばよかったのだと今更後悔してももう遅い。
 同じことを思ってる人もけっこう多いんじゃないだろうか。特に愛知県民はその気持ちが強い。東京オリンピックも、やらないよりやった方がいい。生きている間に自国開催のオリンピックを見られる機会はめったにないことだから。

モリコロ-2

 芝桜を呼び物にするほどではないけど、そこそこの面積を芝桜畑にしている。
 芝桜まつりのようなものは全国で行われている。このあたりだと鞍ヶ池公園とかでやっていたはずだ。木曽三川公園や、なばなの里あたりはやってなかったか。
 前に一度、秩父へ行こうとして行けなかったことがあった。河口湖の近くでもやっていたんじゃなかったか。

モリコロ-3

 グローバルループが一部復活していた。この風景も懐かしい。万博の面影はあまり残っていないモリコロパークでは、ここが一番思い出に浸れる場所かもしれない。
 この周回コースを2周も歩いたんだった。

モリコロ-4

 床板を補修しているのか、まだ工事中なのか、途中で作業はお休みといった風景だった。
 板の色が違うのはわざとなのか、同じ色の板がなかったのか。

モリコロ-5

 万博のときに使われていた三輪車が今もモリコロパークで活躍している。
 自転車タクシーとか、近未来的な乗り物とか、ああいうやつはまだ使っているんだろうか。
 モリコロパークの整備工事はまだまだ続いていて、現在は部分的に完成しているだけだ。完全完成は2010年だったか、2011年だったか、まだ先になる。
 今の状態ではやや魅力不足だから、もうちょっとなんとかならないものかと思う。もっと人を呼べる施設にしないと、リニモの乗客数も伸びない。

モリコロ-6

 よく分からない銅像みたいなものがたくさん置かれた一角があった。これは初めて見た。前からあったんだろうか。
 万博と関係あるのかないのかは知らない。

モリコロ-7

 特にこれといった楽しみはなくても、もともとが青少年公園だったことを思えば、家族で一日のんびり過ごすにはいいところだ。入園料はかからないし、駐車場も一日500円なら高くない。
 それにしても、平日は訪れる人が少ない印象だった。

モリコロ-8

 子供たちが石に絵を描いたものを集めて並べていた。なかなか面白い。
 モリゾーやキッコロのことを県外の人たちはまだ覚えているだろうか。愛知県民にはけっこう定着しているのだけど。

モリコロ-9

 一部自然なコースを残しつつ、全体的に歩道はよく整備されていて歩きやすい。このあたりはさすがに万博の名残を思わせる。

モリコロ-10

 渡りのカモたちの姿はすでになく、池は静かさを取り戻していた。桜に気を取られている間に、冬鳥たちはさりげなく渡っていってしまう。気づいたときにはもういない。
 これはカイツブリのペアだろうか。彼らはどう思っているんだろう。静かになってやれやれと思っているのか、物足りなくて寂しいと感じているのか。

モリコロ-11

 鯉たちは静かになって喜んでるんじゃないか。あまり関係ないのか。鯉はたくましいし、何を考えているのか分からない。特に何も考えていないようにも見える。

モリコロ-14

 行く季節があれば来る季節があり、行く鳥がいれば来る鳥がいる。
 遠くから海を越えて渡ってきたツバメは、早くも子育てのための巣を作っていた。暖かい日本で子育てをして、秋には親子そろって帰っていく。

モリコロ-12

 ツバメ撮りは相当難易度が高い。とにかくスピードが速いし、動きが読めないから、追いかけると撮れない。粘って待つ方が撮れる確率は少し高い。それでも近距離は至難の業で、ある程度距離がないと難しい。
 また尾張旭の田んぼへ行って練習しないといけない。

モリコロ-13

 たまたま撮れたモズの飛翔。たぶん、モズだったと思うけど違ったかもしれない。
 もう少し背景がよければもっとよかったけど、そんなところまで狙っている余裕はない。

モリコロ-15

 カワウらしき3羽が高く空を飛んでいった。

 今回撮ったモリコロ風景はこんなところだ。
 あと花編が残っているから、どこかで紹介したいと思っている。
 このあと二本目のサンデー料理に続く。

モリコロパークで念願のギフチョウに初めまして

虫/生き物(Insect)
モリコロのチョウ-1

PENTAX K10D+TAMRON SP 90mm f28 / TAMRON 75-300mm f4-5.6 Di



 ここのところずっと、寺や歴史ネタが続いて潤いと彩りが不足していたから、今日は二本立ての二本目にチョウの写真を持ってきた。
 ここ3年、4年、ギフチョウを見たいとずっと思っていて、それを実現できずにいた。毎年4月になると海上の森を歩き回って探したけど、あの広大な森で見つけるのは至難の業だった。見られる期間もわずかにひと月くらいということで、半ばあきらめかけていた。
 そんなとき、愛知万博会場跡地のモリコロパークにいるという情報を掴んだ。あんな整備された公園に本当にいるのかと疑ったけど、確かにそこで撮ったというギフチョウの写真がネットに出ていた。考えてみると、もともとは青少年公園だった場所で、あのエリア全部を整備したわけではない。コンセプトも自然との共栄ということだったから、無闇に自然を壊したりしなかった。
 それなら、一度探しに行ってみようということで出向いていって、ついに出会うことができたのだった。

モリコロのチョウ-2

 探し始めて30分ほど経った頃、目の前を1匹のチョウが早いスピードで過ぎていった。
 あ、ギフチョウだ、とすぐに分かった。実物を見たことはなくても、ネットで写真は何度も見ていた。飛び方も、これまで見たことがあるチョウとは明らかに違っていた。羽はやや黄色がかっていて、直線的で速かった。
 ただ、思っていたよりも小さかったのは意外だった。アゲハチョウのやや小型くらいをイメージしていたけど、実際はモンキチョウと同じくらいの大きさだった。
 それを追いかけてあっちへ行き、こっちへ戻していて、最後は逃げられてしまったのだけど、その先の何ヶ所かで見ることなった。
 やはりポイントはエサのミツバツツジで、ある程度行動範囲は決まっているようだ。縄張りもありそうだ。
 なんだかんだで3時間ほどギフチョウを探したり観察して、だいぶ行動パターンが分かった。訪れる場所さえ見つければ、一時的にいなくなってもしばらく待っていれば戻ってくる。だから、ギフチョウの存在を知っている人にとっては特に珍しいチョウでもないのだろう。ただ、街中にいるようなチョウではないから、一般的な知名度は低いと思う。
 モリコロパークでいえば、お花畑の南エリアの雑木林ゾーンにいる。林床花園の中の、春の女神の丘とか、そのあたりだ。

モリコロのチョウ-3

 見たには見たけど、なかなか近くにとまってくれなかったのは残念だった。普通のチョウよりも警戒心が強い。
 たまに体の近くを飛ぶことはあっても、スピードが速くて至近距離から望遠レンズで撮るのはものすごく難しい。近くの花にとまってくれたらよかったけど、今回はそういうチャンスはなかった。
 羽を広げてとまる蛾スタイルで、地面に伏せるようにとまっている時間も長い。アゲハの仲間ではあるけど、アゲハチョウとはかなり違っている印象を受けた。
 1883年(明治16年)に、名和靖という人が岐阜県郡上郡(現在の下呂市)で見つけたことからギフチョウと名づけられた。
 分布は本州の山口から秋田あたりで、東京などでは絶滅したとされている。
 昔から里山にいたチョウで、里山の減少によって数を減らしてきた。
 チョウ好きの間では人気が高くて、春の女神と呼ばれている。ニュースなどで春の風物詩として紹介されることも多い。
 カタクリやミツバツツジの蜜が好物なのだけど、そういう花があれば必ずいるというわけではなく、幼虫のエサとなるカンアオイがないところには生息していない。葉の裏に卵を産み付けて、ふ化した幼虫はその葉を食べて成長する。

モリコロのチョウ-4

 この日、一番接近できたのがこのときだった。
 2、3メートル先の地面にとまっていて、そっと近づいたけど、すぐに飛んで逃げてしまった。
 このチョウをマクロレンズで撮るのは難しそうだ。撮りに行くときは望遠レンズの方が役に立つ。

モリコロのチョウ-5

 チョウや虫の名前調べの季節がまたやって来た。
 昆虫も種類が多くて、調べるのが大変だ。花以上に区別をつけるのが難しい。
 こいつも初めて見る気がする。羽を広げてとまってるから、蛾の仲間か。
 触角の先が太くなっているのが蛾だったか、チョウだったか、そこからまた覚え直さないといけない。

モリコロのチョウ-6

 たまたまだったかもしれないけど、ルリタテハとよく会った。
 さほど珍しいとはいえないまでも、日常的によく見かけるチョウではない。少し森の方に入っていくとけっこういる。

モリコロのチョウ-7

 ルリタテハは一部が成虫で越冬するから、こいつは去年の生き残りだろう。羽がかなりボロボロになっていた。この春に生まれてひと月ほどでここまでにはならないはずだ。
 それでも元気に飛んでいったから安心した。春はまだ始まったばかりだから、長生きして欲しい。

モリコロのチョウ-8

 どういうわけかモンシロチョウを見なくて、キチョウがたくさん飛んでいた。モンシロチョウの方が遅い季節だろうか。モンシロチョウは畑などでよく見かけるチョウだから、キチョウとは分布が違っているのかもしれない。

モリコロのチョウ-9

 飛ぶチョウ撮りはやっぱり難しい。なかなかフレームに収まらないし、収まったと思ってもピンぼけが多い。こんな小さくて素早い被写体に瞬時にピントを合わせるなんてテクニックは持っていない。
 それでも、飛ぶチョウ撮りは毎年のテーマとなっている。今年こそ青空をバックに飛んでいるチョウの写真を撮りたい。

モリコロのチョウ-10

 ここからはオマケ写真。飛びものつながりで、まずはミツバチから。
 ミツバチが集団で姿を消したというニュースがあったけど、その後追跡調査はどうなったんだろう。どんな理由にしろ、決して良い傾向とは思えない。姿を消すといっても、どこへ行くというのか。
 モリコロでもミツバチの姿は少ないように思った。

モリコロのチョウ-11

 ブーンと不気味な音を立てて飛んでいるから恐ろしいハチのように思うけど、クマバチはいたって温厚で、めったに人を刺すことはない。刺されてもたいしたことにはならないという。
 蜜集めに夢中で、こちらのことなど知ったこっちゃないという感じだ。

モリコロのチョウ-12

 チョウだけでなくトンボまで飛ぶ季節になったのか。トンボは6月くらいからというイメージがあるけど、今年は早いんじゃないか。少し気持ちが焦る。

 何はともあれ、念願のギフチョウを見られたことは喜ばしい。もう見たくなったらいつでも会いに行ける。いる場所は分かった。
 機会があれば海上の森でも探して見つけたい。ミツバツツジが咲いているといえば、物見山の方だろうか。
 秋にはもう一つの念願であるアサギマダラも見たい。国蝶であるオオムラサキはどこに行けば見られるのだろう。
 花に続いて虫の季節も始まった。これから暑くなるまでの2ヶ月くらいが森歩きの一番いい時期だ。

残り物写真を出して三井寺桜ライトアップは完了 <大津巡り6回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
三井寺3-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 三井寺の最終回は、観音堂からの再開となる。
 園城寺三井寺は、西国三十三所観音霊場の第十四番で、この観音堂が札所となっている。なので、巡拝の人たちはみんなここを訪れる。このときも夜間の桜ライトアップにもかかわらず、観音堂前が一番賑わっていた。妙な熱気があってやや押されてしまったくらいだ。
 昼間はもっと人気があるのかもしれない。全般的に見て、三井寺は流行ってるなと思わせた。
 ついでに書くと、観音堂は近江西国観音霊場の第五番札所で、微妙寺は湖国十一面観音霊場の第一番札所、水観寺は西国薬師霊場の第四十八番札所となっている。こういう霊場というのは全国各地にたくさんあって、巡拝者にとっての心の拠り所と言えるだろう。
 人から見たら私のやってることも同じに見えるかもしれないけど、本人にその自覚はない。私は歴史巡りをしているだけで、ご利益を求めて神社仏閣巡りをしてるわけじゃないから。
 ま、そんなに違わないか。

三井寺3-2

 巡拝者じゃなくても、三井寺を訪れたときは観音堂に参拝していくことになるのだろうと思う。金堂が本堂なのだけど、あちらの本尊は秘仏だし、堂内に入ることはできない。確か、賽銭箱もなかったような気がする。
 観音堂の本尊は如意輪観世音菩薩で、これも秘仏ながら33年に一度ご開帳がある。次回は2011年だから、わりともうすぐ見るチャンスが訪れる。
 愛染明王坐像と蓮如上人木像も重文指定になっている。
 堂は1689年に再建されたもので、あまり重要視されていないのか、滋賀県の有形文化財にとどまっている。

三井寺3-3

 左手に見えているのが観月舞台と呼ばれるもので、文字通り月を見るために建てられたものだ。1849年の建立という。
 その右に人が集まっていて何をしてるんだと思ったら、ちょっとした展望スペースになっていた。背後には桜もあって、記念写真を撮ってる人も多かった。
 ここから見渡す大津の町は暗かった。高い建物も、明かりも少ない。滋賀はどのあたりが繁華街なんだろう。

三井寺3-4

 観音寺前のおみやげ物屋さんも、ライトアップに合わせて夜間営業をしていた。
 昼間は参拝者におみやげ物などを売っているのだろう。
 寺社はたくさん回ってる私だけど、こういうグッズものには興味がない。仏像のフィギュアとかも特に欲しいと思わないし、お守りのたぐいも自分では買ったことがない。

三井寺3-5

 お化け屋敷のセットみたいだと、ちょっと罰当たりなことを思った。
 百体堂というお堂で、1753年建立だそうだ。

三井寺3-6

 これでだいたい主だったものは見たと思う。昼間に訪れていたらもう少し見られたものもあったのだろうけど、概ね満足した。
 最後は夜桜を撮りながら帰ることにする。

三井寺3-7

 帰り道の途中で見たこれはなんだったか。
 他には毘沙門堂とか護法善神堂などがあったはずで、そのうちのどちらかだったのか、別のものだったのか。

三井寺3-8

 入口近くでは、少し屋台も出ていた。
 場所柄、子連れは少ないから、あまり賑わっているようではなかった。

三井寺3-10

 駐車場前の大きなおみやげ物屋や食事処も店を開けていた。三井寺の桜ライトアップというのは、けっこうなお祭りイベントなんだと、あらためて知る。

三井寺3-11

 三井寺のライトアップとセットのような形で、琵琶湖疎水沿いの桜並木もライトアップしていた。ここも名所の一つとなっているようで、そこそこ見物人がいた。
 でも、もう桜は散り始めていて、いい時期は過ぎていた。最盛期はもっと大勢の人が見に来ていたのかもしれない。
 これでもう見るものは見たし、あとは駅まで歩いていって、電車に乗って帰るだけとなった。

 気分としては大津シリーズが終わったような気がしているけど、実際はまだ3分の1も終わっていない。石山寺も行ったし、膳所城や日吉大社、近江神宮や建部大社なんかも回ってきた。なので、大津シリーズはまだ当分続くのであった。

夕方から夜にかけての三井寺手探り参拝 <大津巡り5回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
三井寺2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 三井寺第2回は、金堂を過ぎたあとの続きから始めよう。
 向こうに三重の塔が見えてくるけど、まだここからは少し距離がある。焦ってそちらに向かわず、見ておくべき堂がいくつかあるから見逃さないようにしたい。
 昼間なら左手に天狗杉というのが見えたはずだ。このときは暗くてもう見えなかった。

三井寺2-2

 あらためて写真を調べていたら、霊鐘堂らしい堂が写っているものを見つけた。これが霊鐘堂なら、弁慶の引き摺り鐘と弁慶の汁鍋が納められている建物のはずだ。たぶん、そうだと思う。
 ただ、入口は閉まっていたから、たとえ気づいていても鐘は見られなかったんじゃないか。観覧時間はたぶん扉が開いていると思う。
 弁慶の汁鍋は、ちょっとした湯船くらいの大きな鍋で、弁慶がこれを使って鍋料理を食べていたという伝説が残っている。

三井寺2-3

 手前の建物が一切経蔵だと思うのだけど、ちょっと自信がない。
 何しろ暗かったのと、扉がしまっていたので、中を見られないところが多かった。拝観料を払ってないから見られなくても文句は言えない。三井寺はもう一度、昼間に訪れ直さないといけないかもしれない。
 室町時代の建築物で、もともとは山口県の国清寺という寺の経蔵だったものを、毛利輝元の寄進で1602年に移築されたそうだ。
 中には八角輪蔵という教を納める書架が安置されている。それが少し変わった姿をしていて、朝鮮半島との関係も指摘されている。

三井寺2-4

 一切経蔵を過ぎて、三重塔へ向かう途中。少し高台からライトアップされた桜を見下ろす。

三井寺2-5

 たぶん、灌頂堂(かんじょうどう)だと思う。
 この灌頂堂や唐門、三重塔、太子堂、長日護摩堂などがあるエリアを唐院と呼んでいて、三井寺の中では最も重要な場所だそうだ。開祖である智証大師の廟所もある。
 灌頂というのは、密教の儀式のことをいう。
 神聖な場所ということで、このあたりはほとんど中に入ることはできない。建物を遠巻きに眺めるだけだ。昼間もここはそうだと思う。

三井寺2-7

 灌頂堂の左手にあったのが長日護摩堂だろうか。
 灌頂堂の奥に太子堂にあったはずだけど、よく見えなかった。
 勧学院客殿と、光浄院客殿はともに国宝ながら非公開なので見ることはできない。屋根がちらりと見えるだけだ。
 室内は狩野永徳の息子・光信の障壁画などで飾られているらしい。
 太子堂には秘仏の智証大師坐像などもあるそうだけど、三井寺は秘密主義で、あまりいろいろ見せてくれない。国宝指定などは勝手にされただけで自分がしてくれと頼んだわけじゃないと言うだろうけど、国宝というのは国の宝ではなく国民の宝というのが定義だから、もう少し見せて欲しいと思う。

三井寺2-6

 室町時代初期の1392年に建てられた三重塔は、最初奈良の比蘇寺にあったものを、秀吉が伏見城に移築して、1601年に家康がこの地に再移築させた。
 高さは25メートル弱ある。
 木の組み方が複雑精緻で美しい。

三井寺2-8

 三重塔から行くと、唐院の表門である唐院四脚門を裏からくぐることになる。なので、いったん外に出て、表から写真を撮った。
 1624年に建てられたもので、これも重文指定になっている。

三井寺2-9

 ずっと暖色系のライトが続いていて、ここは寒色系のスポットライトだった。こちらの方が桜をきれいに見せる。
 もう村雲橋を渡った先だったか。

三井寺2-10

 三重塔を過ぎると見所はまばらになって、少し間延びする。最後にもう一つの重要スポットである観音寺を目指す。
 十八明神社というのはどこにあったのだろう。気づかないうちに過ぎてしまったのだろうか。

三井寺2-11

 これが観音寺かと思ったら違った。微妙寺というお寺だった。
 三井寺の中には5つの寺があって、その中の一つだ。
 994年に慶祚大阿闍梨が開いた寺というから歴史がある。
 本堂は1776年に再建されたものだそうだ。
 本尊の十一面観世音菩薩は霊験あらたかという評判で、これも重文に指定されている。

三井寺2-12

 やや暗い道が続くも、夜に浮かぶ明かりがきれいで見とれる。写真に撮ると雰囲気が出ないけど、実際はもっといい感じだった。
 この寺は桜はそれほど多くなくて、モミジがたくさん植えられているから、紅葉の名所としての方が有名なのだろう。秋もライトアップをするようだから、そっちの方が人が多そうだ。

三井寺2-13

 明かりに浮かび上がっているのは、水観寺だと思う。
 本尊は薬師瑠璃光如来。
 本堂は1655年に再建されたもののようだ。
 気づいたらあたりは真っ暗になっていた。7時を過ぎて、まだ滋賀県の大津あたりをフラフラ歩いていることに急に不安を感じ始めた。そろそろ帰らないと。

 三井寺2回目は、ここまでとしたい。明日続きの3回目で完結とする。

三井寺ライトアップで撮りたいのは桜よりも堂 <大津巡り4回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
三井寺1-0

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 三井寺駅を降りて、人の流れに従って琵琶湖疎水沿いの桜並木を歩く。皆、向かう先は三井寺のライトアップのようだ。時間は6時を少し回ったところだった。家を出てからすでに12時間が経過していた。
 桜並木を撮ったり、手前の三尾神社に寄ったりしながらゆっくり向かう。ライトアップは6時半からだった。
 やがて門が見えてきた。どうやらあそこが三井寺の入口らしい。三井寺という名前の寺はなく、園城寺(おんじょうじ)というのが正式名称で、寺域が広くてどこからどこまでが敷地なのか、地図上ではよく分からなかった。そんなときは、とりあえず行ってみるしかない。一度行けばだいたい分かる。

三井寺1-1

 入口の門もいくつかあって、どこから入っていいのか少し迷った。最初に現れるのが総門で、ここから入ってもよかったのだけど、みんな素通りしていくので、私もそちらについていくことにした。
 ここから右へ歩いていった先に、三井寺の見所の一つである仁王門があって、そちらから入る人の方が多いようだ。どちらから入ってもかまわないのだけど、参拝の道順を考えると仁王門から回った方が効率的かもしれない。

三井寺1-2

 途中、こんな門もある。
 三井寺は普通5時で閉まって、ライトアップのときだけ夜間の特別無料開放をする。だから、普通はこのへんの門は閉まっているんじゃないか。
 通常の拝観料は500円だから、ライトアップして更に無料というのは嬉しいところだ。大津もほぼすべての寺社で拝観料を取っているから、巡れば巡るほど小銭を失っていく。

三井寺1-3

 仁王門前は賑わっていた。三井寺では大門と呼んでいる。
 桜は満開を過ぎたとはいえまだけっこう残っていて、ぎりぎり間に合った感じだ。
 1451年に建てられたこの門は、もともとは滋賀県湖南市の常楽寺にあったもので、1601年に徳川家康が移築させたそうだ。その前に一度、秀吉が伏見に移したともいう。
 言葉では簡単に移築と言うけど、車も機械もなかった時代に、こんなに大きな建造物をどうやって運んだんだろう。バラバラにして現地で組み直したのだろうけど、口で言うほどたやすい作業ではなかったはずだ。
 入母屋造の楼門で、桧皮葺(ひわだぶき)。名前の通り、両脇には仁王像が立っている。
 当然の如くの重要文化財指定で、いちいち重文というのも面倒なほど重文だらけだ。国宝じゃなければ重要度が低いと錯覚してしまいそうになる。

三井寺1-4

 大門をくぐってすぐ右手に食堂(じきどう)がある。写真を撮っていたら急に明かりがついてびっくりした。6時半になってライトアップが始まった。堂までライトアップしてくれたのはありがたかった。私の目当てとしては桜よりも伽藍の方だったから、手ぶれしながらもなんとか主要な建物を撮ることができた。
 室町時代初期の建築物で、もとは御所の清涼殿だったものをここに移築したとされている。
 檜皮葺の入母屋造で、何度か改築されてたあとがあるようだ。これも重文指定。
 現在は釈迦如来像が安置されていることから釈迦堂と呼ばれている。

三井寺1-5

 大門を裏から見たところ。
 徐々に暗さが増してきて、写真を撮るには厳しくなる。

三井寺1-6

 国宝の一つ、金堂が早々に登場する。ここから三重塔までが三井寺の中心部分で、見所が集まっている。
 現在の金堂は、秀吉の遺志を得て、1599年に夫人の北政所(きたのまんどころ)によって再建されたものだそうだ。
 それ以前にあった金堂は、比叡山に移されて、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。
 入母屋造、檜皮葺きの仏堂で、桃山時代の代表的建築物の一つとされている。そんな知識はなくとも、圧倒的な存在感と優美さに感銘を受ける。これはいいものだ。
 平成16年の台風で屋根が飛んでしまって、長らく工事をしていた。完成したのは平成20年だから、せっかく行ったのにシートに覆われていて見られなかったという人も多かったんじゃないか。
 金堂の本尊は天智天皇の念持仏だった弥勒菩薩像らしいのだけど、絶対秘仏で写真もないそうで、誰も見たことがないのかもしれない。寺の人間でさえ見たことがあるのかどうか。
 三井寺は秘仏だらけで、その中の一部が限定的に公開されるだけだ。
 行基の6体の弥勒菩薩像の他、推古天皇、聖武天皇、陽成天皇、藤原鎌足、藤原道長などが奉納した像もあるという。

三井寺1-7

 三井寺として知られる長等山園城寺は、大友皇子の子・大友与多王が父の菩提を弔うために建てたとされている。
 遡れば、大津宮を作った天智天皇が自分の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建てようとしていて実現できず、息子の大友も壬申の乱で命を落とし、孫の代にようやく念願叶って建てることができたというものだった。
 とはいえ、壬申の乱のときは大友皇子は25歳だから、その小さい息子が寺を建てられるはずもなく、創建は686年になってからのことだった。
 大友皇子の息子・与多王については情報が少なくて何者かよく分からない。第一皇子の葛野王(かどののおおきみ)は有名なのだけど。
 寺の建立にあたっては、天武天皇の許可を得て、そのとき園城寺という寺号を与えてもらったという。園城というのは、与多王が自分の荘園城邑を投げ打って寺を建てたところから来ているとか。
 三井寺の名前の由来として、この寺の中にあった霊泉を、天智・天武・持統3代の天皇の産湯として使ったことから御井(みい)の寺と呼ばれるようになり、それが転じて三井寺になったという話が一般的に語られる。
 けど、これはどうなんだろう。天智天皇が大津に都を移したのは晩年のことで、天武、持統は飛鳥に都を移しているのだから、この地の湧き水を産湯に使うとも思えない。
 それよりも、その湧き水を神聖なものとして御井と称していたというならあり得ることだ。産湯うんぬんというのはあとから付け加えた話じゃないか。三井寺も、智証大師円珍が寺の厳義・三部潅頂の法水に使ったことから来ているのではないかと言っている。
 最初はこれほどの大寺院ではなかったろう。中興の祖とされる智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)が、比叡山での修行のあと、唐での留学を終えて帰ってきて住職になってから、急激に大きくなっていった。東大寺、興福寺、延暦寺と並んで本朝四箇大寺(ほんちょうしかたいじ)と言われるまでになったのは、870年頃のことだ。創建から200年近く経っている。
 円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任し、皇室や貴族、武家など幅広い信仰を得るようになっていく。
 しかし、円珍の没後、三井寺は苦難の歴史を辿ることになる。
 比叡山は、円珍派と慈覚大師円仁派に分裂して、事あるごとにもめるようになっていく。最初は小競り合いだったものがやがて大規模な闘争となり、993年、円仁派の僧たちが円珍派の房舎を打ち壊すという事件が起こり、円珍派は比叡山を下りて三井寺に移ってしまった。
 以降、比叡山延暦寺は山門を名乗り、三井寺は寺門と称して、決定的に対立していく。大小あわせて50回以上も三井寺は焼き討ちにあったという。
 その中には比叡山延暦寺の僧兵をしていた武蔵坊弁慶がいたという話もある。
 争いが続く中、比叡山延暦寺はますます武装を強めていく。
 その一方で、三井寺は朝廷や貴族に支持されたこともあり、歴代の権力者によって保護された。
 鎌倉時代になると、源氏など武家の信仰も集めるようになり、源頼義や源頼政なども戦勝祈願を行っている。その際は平家打倒のために力も貸したという。頼朝や北条政子も再建に力を貸したそうだ。
 ただ、三井寺で僧侶として育った源頼家の子・公暁が、叔父である源実朝を鎌倉の鶴岡八幡宮で暗殺するという事件を起こしたことで一時待遇が悪くなったりもした。
 その後は南北朝時代の北朝を支持したことから鎌倉幕府との関係も良好だったようだ。
 この争乱に大きな動きがあったのが戦国時代で、信長が比叡山延暦寺を完膚無きまでに焼き討ちしたことで、いったん事態は収束する。
 比叡山焼き討ちというと信長の極悪非道ぶりばかりが言われるけど、この頃の比叡山延暦寺は先鋭化した武装集団で、もはや寺とはいえないまでになっていたという一面がある。
 しかし安心したのも束の間、秀吉の怒りに触れた三井寺は、寺領の没収、廃寺を命じられてしまう。
 何があったのか、はっきりしたことは伝わっていない。晩年の秀吉は朝鮮出兵や、千利休切腹など、だいぶおかしくなっていから、これもその一つかもしれない。
 本尊や秘仏なども強制的に他へ移され、金堂などもこのとき移築させられている。
 1598年、死の床にあった秀吉にどんな心境の変化があったのか、この命を取り消し、再興を命じた。三井寺の祟りを恐れたとも言われている。死の前日のことだった。

三井寺1-8

 近江八景の一つに、三井の晩鐘と呼ばれる梵鐘がある。平等院鐘、神護寺鐘とともに日本三名鐘とされている。
 1602年に鋳造されたものというから、それほど古いものではない。その音色のよさで知られている。ひとつき300円を安いと思うか高いと思うかはそれぞれだろう。
 三井寺にはもう一つ、弁慶の引き摺り鐘というのもある。暗くてどこにあるか見つけることができなかった。金堂横の霊鐘堂にあったようだ。
 こちらは奈良時代のものらしく、面白い逸話がある。比叡山の僧兵をしていた弁慶が、三井寺焼き討ちのときこの鐘を奪って持ち帰り鳴らしてみたところ、鐘が「イノー、イノー」と鳴ったので(関西弁で帰りたいようという意味らしい)、怒って谷底に捨ててしまったという。鐘には引きずったときについたというすり傷や傷みが残っている。弁慶がというのはお話としても、比叡山によって強奪されてのちに返還されたというのは本当ではないかと言われている。

三井寺1-9

 ライトアップの主役は桜なのだから、桜も少しは撮ってみる。みんなの目的はこっちだ。暗い中で必死に堂を撮ってる人は少ない。

三井寺1-10

 閼伽井屋(あかいや)と呼ばれる小屋の中には、三井寺の名の由来となった霊泉がある。
 暗い中で内部をのぞき込んでも何も見えなかったのだけど、ゴボッ、ゴボッ、と大きくて不吉な音がしていた。テープでも流してるんじゃないと一瞬思ったけど、寺がそんな仕掛けをするはずもない。いまだにこんこんと水が湧き出ているらしい。
 この建物自体は、1600年に建てられたものだそうだ。
 建物の正面上部には、左甚五郎の作とされる龍の彫刻が刻まれている。暗くて気づかなかった。
 この龍は夜な夜な抜け出して琵琶湖で暴れたため、左甚五郎が龍の目玉に釘を打ち込んで鎮めたという伝説がある。こういう左甚五郎の逸話は多い。
 けどよく考えてみると、左甚五郎が生まれたのは1594年ではないか。6歳かそこらで三井寺の彫刻を任されるはずもない。後年、彫刻だけ依頼されたというのもちょっと考えづらい。

三井寺1-11

 これは何の建物だろう。とりあえず目につくやつは全部撮っておいて、あとから調べればなんとかなるだろうと思ったけど、何とかならないものもある。

 今日のところはこれくらいにしておこう。まだまだ三井寺の写真はあって、全部で3回くらいになりそうだ。
 この調子では大津シリーズはいつまで続くか分からない。これまでのシリーズ最長記録を更新するかもしれない。今月と来月はいつにも増して寺社ネタ確率が高くなる。少しは季節ネタも挟んでいきたい思っている。

大友皇子関連の場所を巡って皇子を偲ぶ <大津巡り3回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
壬申の乱3-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 昨日で壬申の乱について私が書けることはほぼ書いた。頭の中の整理もだいたいついて、これで一応納得ということにしておく。また別の機会に書くこともあるだろう。
 書くことに気持ちがいきすぎていて、写真をほとんど使えていなかった。文章だけでもたいがい長くなっているのに、その上写真まで載せると長くなりすぎるというのもあって。それで、今日は大友皇子関連の写真をまとめて載せることにした。

 弘文天皇陵の場所は少し分かりづらい。電車の最寄り駅は石山坂本線の別所駅で、その真西にあるのだけど、真っ直ぐ行く道はない。市役所と消防署が行く手に立ちふさがっているので、更にその北にある大津財務事務所のところから回り込まないといけない。ぐるっと回ると、上の写真のところに出るので、あとはなんとなく雰囲気で分かるはずだ。
 昔はこのあたりまで三井寺の寺領が広がっていて、現在も三井寺の飛び地に建つ新羅善神堂もこの近くにある。
 大津全般に言えるのだけど、もう少し案内標識を充実させて欲しいところだ。どこへ行くにしても手持ちの地図がないと分からないようなところが多かった。曲がり角に方向と距離を書いた札を立てるくらいならそんなにお金はかからないだろうし、景観を壊したりもしないはずだ。観光地という自覚があまりないのかもしれない。それがもったいないようにも思えた。
 石山坂本線沿線を巡るなら、一日乗り放題の「湖都古都・おおつ1dayきっぷ」がオススメだ。500円で乗り放題は安いし、あちこちの寺社の拝観料が1割引くらいになる。そのときもらえるパンフレットも役に立つ。

壬申の乱3-2

 初代の神武天皇から124代の昭和天皇まで、宮内庁はだいたいの陵を指定している。
 ただ、それが正確なものだと信じている人はたぶんいない。神代、古代の天皇陵など今更分からないし、存在自体が疑わしい天皇の陵まである。一方で、卑弥呼の墓などは特定されていない。
 宮内庁が天皇陵の整備、管理に力を入れるようになったのは明治に入ってからで、それまでは陵も古墳も、捨て置かれて荒れ放題のところが多かったという。
 実際のところ、奈良時代以前のものに関して本当に確定しているのは数ヶ所とだとも言われている。
 その主な要因として、宮内庁は天皇陵への立ち入りや調査を断固拒否しているということがある。ごく例外的に調査が認められたことはあったものの、研究者でさえ立ち入ることが許されない。国を挙げて砂漠を掘り返しまくっているエジプトとは大違いだ。
 そこまで頑なになる理由がよく分からないのだけど、もし調査のための発掘が許されるようになれば、古代天皇にまつわることがかなり分かるんじゃないか。都合の悪いことがたくさん出てくるといえばそうかもしれない。
 戦前までは学校の授業で歴代天皇名前を最初から覚えさせられたというのに、今は天皇の名前を10人言える人間がどれくらいいるかということになってしまっている。日本という国は極端から極端へと向かう面白い国だ。
 天皇問題にしても、思想を植え付けるというのではなく、もう少し一般知識として勉強して覚えた方がいいんじゃないか。日本神話にしても同様のことが言えると思う。歴史と思想は別のものなのだから。

壬申の乱3-3

 弘文天皇こと大友皇子が実際にこの場所で亡くなっていたのかどうかは分からない。ただ、もし違っていたとしても、ここには特別な空気感があった。不思議な静謐さに満ちていた。
 行く前は壬申の乱についても大友皇子についても表面的な知識しかなくて、思い入れを持って出向いていったわけではない。それでも感じるものがあったのだから、やはりこの空間は特別な場所なのではないかと思う。
 機会と時間があったら、ぜひ寄ってみて欲しい。お墓には眠っていなくて千の風に吹かれているのかもしれないけど、死んだあと見知らぬ人でも自分の墓を訪れてくれたら嬉しいだろうと思う。大友皇子などは半ば忘れられた人になっているから、尚更だ。
 天智天皇山科陵は、石山坂本線ではなく、京津線の御陵駅近くにある。けっこう離れているので、今回は行けなかった。次回大津へ行くことがあれば、行きたいと思う。乗り放題チケットであちらの線も乗れたはずだ。

壬申の乱3-4

 別所から南に下った唐橋前で降りてしばらく歩くと、瀬田の唐橋がある。ここまで来ると、琵琶湖は細長くなって、瀬田川と名前を変えている。
 昨日書いたように、壬申の乱の最終決戦地となったところだ。大津宮目前のこの橋を渡らせまいと死守していた大友皇子軍だったけど、それを突破されたことで勝敗は決した。
 今は現代的に橋に架け替えられていて、往時の面影は残っていない。擬宝珠をつけるなど姿はある程度似せているようだけど、昔の情緒を期待していくとがっかりする。現在の橋は、昭和54年(1979年)に架け替えられたものだ。
 当時は、勢多橋と呼ばれていて、今より80メートルほど下流にかかっていたそうだ。その場所で遺構が発見されている。
 この場所に最初に架け替えたのは、織田信長らしい(1575年)。

壬申の乱3-5

 橋の全長は260メートルで、短い西側と、長い東側の二つに分かれている。昔からそうだったんだろうか。
 北には瀬田大橋がかかり、東海道本線が走っている。南は新幹線と高速道路だ。
 琵琶湖は広いから真ん中あたりに橋はなかなか架けられない。北の琵琶湖大橋と、南の近江大橋と、かなり離れているから、行く場所によってはかなり大回りをしないといけないから大変だ。

壬申の乱3-6

 その美しい姿から、かつては宇治橋、山崎橋とともに日本三大名橋と呼ばれていたという。
 「瀬田の夕照」は近江八景の一つにもなっている。
 764年の藤原仲麻呂の乱、1184年の木曽義仲と源範頼・義経の戦い、1221年の承久の乱、1582年の本能寺の変など、幾度も戦いの舞台となり、瀬田橋を制するものは天下を制すと言われるほど重要な場所だったという。
 少し離れて見ると、なかなか雰囲気があっていい感じだ。今も木橋だったら観光名所になっていたことだろう。
 瀬田川はリバークルーズなどの観光遊覧船が出ていて、船での移動もできる。時間に余裕があるなら、のんびり船旅というのも楽しそうだ。桜の季節は特に良かっただろう。

壬申の乱3-7

 橋の上から桜の写真を撮っていたら、前から歩いてきたおばさまがいきなり私の腕を叩き、大きな声で、
「ニイちゃん、頑張ってるか!」
 と声をかけてきた。もちろん、見知らぬ人だ。
 そのとき、ああ、やっぱり滋賀県も関西なんだと思う。

壬申の乱3-8

 唐橋前駅のすぐ西に御霊神社というのがあったので、ついでに寄っていくことにした。ここが大友皇子を祀る神社だと知ったのは、行ってからだった。偶然といえば偶然だし、こういうのも縁だ。ここまで来たんだから寄っていけと呼ばれたのかもしれない。
 大津市内には、大友皇子を祀る御霊神社が3つあるそうで、私が行ったのは鳥居川町にある神社だった。他に、瀬田6丁目と、北大路1丁目にあるようだ。
 ここ鳥居川町の御霊神社は、秋葉台の茶臼山古墳とともに、陵の候補地の一つだったらしい。昔から隠山と呼ばれていたそうだから、その可能性もなきにしもあらずか。ただ、行ったときの印象としてはやや荒れている感じもあって、そういう雰囲気ではなかった。

壬申の乱3-9

 説明書きが薄れていて読めなかったのはここだっただろうか。どの社殿がどういうものかの説明がなくて、よく分からなかった。
 壬申の乱の3年後、大友皇子の子供である与多王(與多王)たちが中心となって、大友皇子の霊を慰めるために御霊宮(もしくは大友宮)を建てたのが始まりだという。
 それは後付けのような気もするし、そこまでの歴史は感じなかったのだけど、もしその話が本当なら、ここが大友皇子最後の地になったというのは本当かもしれない。
 ただ、与多王は三井寺も創建していて、弘文天皇陵はあちらにあるから、やっぱりあちらで正解なのかなとも思う。
 木曾義仲と源範頼の戦いや、承久の乱、応仁の乱などでことごとく社殿は焼け落ちたというから、昔の面影が残っていないのも仕方がない。
 江戸時代にも何度か改築や再建などがあったようだ。
 歴代の有力者に保護されてきたという記録もあるから、重要な神社であったことは間違いなさそうだ。

壬申の乱3-10

 隣には、大友宮という額がかかった鳥居がある。どちらに大友皇子が祀られているんだろう。両方だろうか。

壬申の乱3-11

 大友宮鳥居の先に、唐突に門が建っている。急にここだけ寺になってしまったみたいだ。
 帰ってきてから知ったのだけど、膳所城(ぜぜじょう)の本丸黒門を移築したものだそうだ。どういう経緯でここに移築されることになったのかなどは調べがつかなかった。
 膳所城は江戸時代前に建てられた城だから、大友皇子とは関係がない。膳所城に関してはあらためて紹介する予定だ。

壬申の乱3-12

 境内社に奥宮社、八幡社、大土社、綿津見社があるというのだけど、どれがどれかは分からなかった。
 上の写真の社殿が拝殿と本殿だったかもしれない。

壬申の乱3-13

 稲荷社もあった。こちらは桜がよく咲いていて、華やいだ雰囲気になっていた。

 大友皇子関連としては、まだ三井寺が残っている。当たり前といえば当たり前なのだけど、大津宮というのは天智天皇が作った都で、天武天皇は奈良明日香の飛鳥浄御原宮に遷都してしまったから、天智天皇と大友皇子関係のものが多い。大津宮はわずか5年の短い夢物語だった。
 とはいえ、大津市は滋賀県の県庁所在地となっていることを思えば、天智天皇の功績は大きい。
 壬申の乱はようやく頭から離れた。いくつか疑問は残っているものの、それはそう簡単に解決するものでもない。
 滋賀大津編はまだ始まったばかりだ。今回のシリーズは何回になるのか、全然先が見えない。次回は三井寺を予定しているけど、それも2回で終わるかどうか。一つずつ、勉強しながら書いていくことにしよう。

壬申の乱の真相は分からないことが分かっただけ <大津巡り2回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
弘文天皇陵-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 壬申の乱にとりつかれて4日目。今日こそ決着を付けて、この呪縛から逃れたい。しかし、いまだに着地点が見えない。壬申の乱の真相がどうにも分からない。
 自分の中ではっきりしない点が2点ある。一つは、どうして中部圏の地方豪族が天皇家にたてついてまで出家した大海人皇子に従ったのかということ。もう一つは、大友皇子の人物像だ。この2点をよく理解できていないから、壬申の乱の本質が見えてこないのではないかと思う。人物関係や全体の流れを追っただけでは表面的な理解にとどまる。
 もちろん、今となっては本当のことなど分かるはずもないのだけど、それでも自分の中で一応の落としどころは得たいという気持ちは強い。昨日の続きを最後まで書ききる頃には腑に落ちるところまでいけるだろうか。あまり自信がない。

 疑問点は他にもたくさんある。何故、645年の大化の改新のあと、668年まで中大兄皇子は即位しなかったのかとか、どうしてその前年、飛鳥から大津などに都を移したのかなどがよく分からない。
 もともと天智天皇は百済系だったという説がある。当時の中国、朝鮮は、唐が大勢力を誇っていて、新羅と結びついて、百済を攻め滅ぼそうとしていた。
 このときの朝鮮半島は、西の百済と東の新羅に別れていて、その間に挟まれるようにして伽耶諸国(かやしょこく)があり、ここに日本の出先機関があったという話がある。その頃、日本は百済と強い結びつきがあった。
 その百済が危ないというので、日本に応援要請が来た。歴史の教科書でおなじみの白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で、663年のことだ。
 結果は、日本軍は大敗北を喫し、百済は滅亡への道を辿ることになる。いや、これは正確ではない。百済は660年に、すでに唐・新羅連合軍によって滅亡させられていた。663年の白村江の戦いは、滅亡した百済を復活させるために日本に対して共に立ち上がって欲しいという要請だった。日本は何故、そんなよその国の勝ち目の薄い戦いに5万人近い大軍を送ったのか?
 その疑問はとりあえず置いて、話を先に進めると、この騒動の中で、斉明天皇が急死するという事件が起きている。暗殺されたという説もある。
 当時まだ即位していなかった中大兄皇子ではあるけど、政治の実権はすでに握っていたと思われる。白村江の戦いも、中大兄皇子主導で進められたようだ。
 敗戦後、大勢の百済人が日本に渡ってきている。勝者側の新羅や唐からも訪れていたはずだ。
 この後の展開も不可解なことが多い。中大兄皇子は、唐・新羅の日本侵攻に備えて九州の太宰府に水城(みずき)や西日本各地に山城を築いたり、九州沿岸に防人(さきもり)を配備したりしている。
 そして、667年、都を飛鳥から琵琶湖の西の大津に移した。水路の逃げ道を確保するためだなどと言われているけど、奈良から滋賀に移ったくらいで安全度が増すとは思えない。
 そもそも、都を移すというのは大変な労力もお金もかかる。本当に有事だという認識があるなら、そんなことをしてる場合ではない。どうもこれはポーズくさいところがある。日本側は唐が攻めてくるとは思っていなかったんじゃないか。本気で恐れていたなら、壬申の乱などという国を挙げての大戦争などするはずもない。
 どういう話し合いがついていたのか知らないけど、戦のすぐあとに、唐から日本側の捕虜が送り返されてきたという話もある。

 ここに一つ、すべての謎に答えられるかもしれない説がある。
 この当時の日本は、九州太宰府の倭国と、大和王朝と、二つの大きな国があったという説だ。
 学説としてはほとんど相手にされていないようだけど、この説の信奉者は多い。ある意味ウルトラC的な魅惑的な説で、一度に全部上手く説明できてしまうだけに危うさも感じる。説明がつくからといってそれが真実とは限らない。
 これによると、当時日本の中心で最も栄えていたのは九州太宰府の倭国で、大和政権はまだ遅れた小国に過ぎなかったという。唐の史書にも、倭国と日本は別の国という記録がある。
 邪馬台国も九州にあって、倭国では昔から朝鮮半島との行き来が盛んに行われていたともいう。
 漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)が見つかったのも福岡だ(金印偽物説もある)。
 この説によれば、白村江の戦いで兵を送ったのは九州倭国で、この結果、倭国は壊滅的な打撃を受けて滅亡へと向かい、それに取って代わったのが大和王朝の中大兄皇子たちだったのだという。
 更に言うなら、蘇我氏は倭国の天皇で、それを攻め殺して天皇の位を奪ったのだと。
 ほとんど唯一といっていい現存する歴史書である『日本書紀』は、天智天皇・天武天皇の側から書かれたものだから、なんとでも書きようはある。いろいろな部分で矛盾があるのも、書けない部分があったからといえば納得がいく。
『日本書紀』以前に、聖徳太子たちが推古天皇の命で編さんした天皇記(すめらみことのふみ)と国記(くにつふみ)を、蘇我氏は自宅に保管していたという話もあり、もしそれが本当なら天皇家という証拠ではないのか。
 645年の大化の改新(乙巳の変)で蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子たちは、父親の蝦夷邸を襲わせて、蘇我氏が保管していた膨大な書物や記録を焼いている。国記だけは救い出して中大兄皇子に届けられたという話もあるけど、現在には伝わっていない。
 それらの史書が九州倭国の正当天皇家に関するものであったとするなら、中大兄皇子たちにとっては表に出せないものとなる。その後、『日本書紀』で大きく歴史を書き換えているのだから。
 蘇我家以外の他の古い記録文章も徹底的に焼いたという。
 九州倭国を併合しつつ、都をあらたに大津に移して、自ら天智天皇として即位したというのは、特に深い理由もなく飛鳥から大津に都を移したというのよりも納得しやすい。それまで天皇ではなく大王(おおきみ)という言葉を使っていたのが、天皇という呼び名を使い出したのもここにきっかけがあったということになる。
 遷都に伴って、九州倭国の制度や技術、寺社、人物などが大量に大津京に移されたという。
 と、ここまで書いて、九州倭国説については半信半疑というのが実際のところだ。この説によれば、壬申の乱も関ヶ原や近江ではなく九州で起こったというのだ。そうなるとちょっと信じられなくなる。関ヶ原には不破の関などいろいろな伝承が残っているし、大海人皇子が味方につけたのも美濃や尾張の豪族たちだった。決戦の地が九州だったというのは無理がないか。

 ということで、九州倭国説はいったん保留として、壬申の乱の通説に話を戻したい。
 大津に都を移して4年が経った671年、天智天皇は病に倒れる。
 2年前の669年には中臣鎌足は先に死んでいる(その直前に藤原の性をもらって藤原鎌足となっていて、これが平安時代に栄華を極める藤原家の元だ)。
 ここで後継者は誰になるのかという問題が持ち上がる。順番でいけば皇太子である大海人皇子で決まりということになるのだけど、その少し前から天智天皇は長男の大友皇子に大いに期待をかけ始めた。そこで、太政大臣(だじょうだいじん)という役職を作り、大友皇子をそれに任命した。これはのちに左大臣・右大臣よりも上の最高権力者を意味する役職となる。
 このとき、大友皇子は24歳だった。皇太子になっていたのかどうかは、よく分からない。話の流れからいくと、大海人皇子が吉野へ隠遁していく際、大友皇子に譲ったというのが自然だろう。
 天智天皇が目をかけたくらいだから大友皇子の出来はよかったのだろう。文武に優れた人物だったという評もある。ただし、当時は天皇が息子に皇位を譲るという制度はない。
 しかも、大友皇子の母親は伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)という伊勢の豪族出身の娘だった。この時代、母親も皇室出身者でなければ天皇にはなれなかったとされている。
 采女(うねめ)というのは、天皇や皇后の食事や身の回りの世話をする女官のことだ。それを考えると、大友皇子が天皇になるのは無理があった。
 中臣鎌足が生きていたら、壬申の乱は起きなかったかもしれない。これは、前田利家が生きていれば関ヶ原の合戦が起きていなかったかもしれないというのと重なる。
 いよいよ天智天皇は長くないとなったとき、大海人皇子は天智天皇の部屋に呼び出された。皇位を譲る約束を交わすためということだったけど、大海人皇子は信じなかった。天智天皇は、自分と敵対する勢力をことごとく死に追いやって地位を守ってきた。自分もそれに加担しているから手口はよく分かっていた。
 行けば殺されると悟った大海人皇子は、皇位は大友皇子に譲ってくださいと言い、頭をそって出家することを伝えた。
 このとき、大海人皇子がどんな気持ちで、どんな思惑があったのかは知るよしもない。本気で譲る気だったのか、いったん逃げて戦力を整えて奪取する心づもりだったのか、ただ単に死ぬのが嫌で逃げただけだったのか。いずれにせよ、大海人皇子は吉野の山へ引きこもってしまった。
 天智天皇死去。45歳。病死となっているけど、この死も謎がつきまとっている。狩りに山へ出かけていったきり帰られなかったなどという話があるのだ。そのとき沓だけが見つかり、その場所を天智天皇陵としたなどとも言われている。
 壬申の乱が起きるのはそれから約半年後のことだ。大友皇子は天皇として即位したのかしていないのかということだけど、普通に考えたらしただろう。理由はどうあれ、皇太子の大海人皇子は出家して都にいないのだし、候補者が大友皇子だけなら天皇を空位にしておく理由がない。
 しかし、大友皇子にしたら不安だったのだろう。自分の方が先に動いた。天智天皇の陵を建てるからという理由で大勢の労働者を集め、不穏な動きに対処するためという名目で武装させた。
 それを伝え聞いた大海人皇子は慌てただろう。このままでは殺されてしまうと、自分の領地だった美濃へ行き、豪族や国司たちに声をかけてこちらも武装の準備を始める。
 ここからの動きは大海人皇子の方が早かった。美濃、尾張で兵を集めるように指示して、近江から脱出してきた息子の高市皇子と合流して伊勢に向かった。大津皇子も追いついて、高市皇子を美濃の不破の関へと向かわせた。結果的にここを押さえたのが大きかった。大友皇子軍はこれによって東国の支援を受けられなくなった。
 大友軍は当てにしていた九州からの援助も受けられず、苦戦を強いられる。このあたりのままならなさも、のちの関ヶ原を彷彿とさせる。天下分け目の戦いは、二度とも西軍は東軍に屈することになる。
 ちなみに、天下分け目というのは不破関のことで、ここから西を西国、東を東国という。関ヶ原の合戦以降に生まれた言葉と思うとそれは違う。

瀬田唐橋

 壬申の乱当時の日本の人口が気になって色々調べたのだけど、はっきりしない。600万人という予測がある一方、せいぜい数十万人という説もあって、どちらを信じればいいのか根拠もない。
 通説では、兵士3万人対3万人の戦闘だったというのだけど、本当だろうか。たとえ総人口が600万人だったとしても、内乱状態とは言えない情勢の中、数週間でお互いに3万人の兵士を集められるものだろうか。
 10年ほど前に5万の兵を百済に送って壊滅していることを思っても、常備軍が数万人もいたとは思えないのだけど。
 そもそも、どうして地方の豪族たちが反天皇側にそれほどついたのかという疑問もある。天智天皇の中央集権的な政策で地方豪族の不満が募っていたなどという話もあるけど、もし負けたら余計に事態は悪くなるのだ。最初から勝算があったとも思えない危険な賭けに乗るかどうか。
 ここでまた、大海人皇子の血筋問題というのが出てくる。本当に新羅系の人物だったとするなら、戦勝国側の人間ということになる。それが渡来系の豪族たちに応援を求めたらと考えたとき、それなら自らの命運を賭けて一緒に戦ってくれるかもしれないと思い至る。
 あるいは、大友皇子側は百済系の力を借りたのかもしれない。
 戦いは各地で勝ったり負けたりを繰り返しつつ、徐々に大海人皇子が優勢となっていく。
 最後の決戦の地となったのが、瀬田川の戦いだった。ここで大友皇子軍は完全に敗北して、大津京も焼け落ちたと考えられている。戦いは一ヶ月で終結した。
 大友皇子は山の中に逃げ込み、そこでも追い詰められ、最後は木で首をくくって自殺して果てたとされる。
 当時、貴人の自殺は首つりと決まっていたのだそうだ。最初に切腹したのは、平安時代末期の武士・源為朝とされていて、鎌倉以降武人の死に方として定着していった。
 通説では、大友皇子の首は関ヶ原にある野上行宮に運ばれて、大海人皇子の前へ差し出されたという。
 一方でこういう死には伝説がつきもので、偽の首を差し出した大友皇子一行は房総半島に逃れたという説もある。どういうわけか、千葉県の君津市に痕跡がたくさん残っているのだという。
 その他、関ヶ原に自害峰と呼ばれる場所がある。
 実際に自害した場所ははっきりしていない。『日本書記』には山前(やまさき)で縊(くび)ると書かれているものの、山前というのは山のふもとという意味で場所を特定しているわけではない。遺体がどうなったのかも分からない。
 明治になって弘文天皇としたとき、三井寺前の長等山(ながらやま)ではないかということになって、ここに弘文天皇陵が作られることになった。長等山前陵(ながらやまさきりょう)とも呼ばれている。
 戦に勝った大海人皇子は、都を大津から奈良の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)へ移し、天武天皇として即位した。そのあとのことはまた別の話だ。

 どうにか最後まで辿り着いて、今は少しホッとしている。
 最初に挙げた自分の問いに答えられているかどうか、なんとも言えない。頭の中の整理がまだついていない。もう少し捕捉も必要な気がする。
 とりあえず今日のところはここまでとしたい。これでもう壬申の乱で思い煩うことはなくなるだろうか。

弘文天皇陵へ行って壬申の乱にとりつかれる <大津巡り1回>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
大友皇子-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 弘文天皇陵に立ったとき、懐かしいような、切ないような、悲しいような感情が襲ってきて、心がしんとなった。ああ、ここがそうなのか、と。
 大友皇子(おおとものみこ)と言った方が通りがいいだろう。天智天皇(てんじてんのう)の息子で、皇位継承を巡って大海人皇子(おおあまのみこ)と壬申の乱で争って敗れた皇子といえば、日本史の教科書を思い出す人も多いんじゃないだろうか。
 京阪線の「別所」を降りて、大津市役所をぐるりと回った裏手に、それはひっそりとある。不思議な静謐さに満ちていた。

 今回の滋賀巡りの旅は、わりと漠然としたものだった。石山坂本線沿いに有名な寺社がたくさんあるから、それらをできるだけ巡ってみるというのが目的だった。特にテーマを決めていたわけではない。
 それが期せずして大津宮の旅となったのはたまたまだったのか、何らかの力に導かれたものだったのか。
 帰ってきてから今日までの3日間、壬申の乱を中心として、天智天皇、大友皇子、大海人皇子たちが亡霊のように私の中に居座り、悩ませている。
 一般的には、天智天皇の息子・大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子が争い、大海人が勝って天武天皇となったとされている壬申の乱だけど、調べるほどに話はそう単純なものではないことに気づかされる。けっこうな時間を費やして3日間勉強したけど、みんなそれぞれにいろんな自説を展開していて、どれを信じればいいのか分からなくなった。
 話は古代天皇の出自や東アジアを含めた日本の歴史、外交、渡来人、血脈、記紀の信憑性へと広がり、とりとめがない。
 中途半端な知識を振り回して分かったようなことを書くと怪我をしそうだから、知ったかぶりはしないようにしたい。不勉強を自ら晒せば恥になるだけだ。
 それにしても、どこからどう書けばいいのか迷う。調べたことを全部書けばものすごく長くなってしまうし、古代史に興味がない人にとっては退屈なだけだ。なるべく簡潔に分かりやすく書きたいと思っているのだけど、さて上手くいくかどうか。

 壬申の乱を語るとき、東アジアとの外交問題と、大海人皇子の血筋の問題を避けては通れない。教科書で習った歴史はいったん忘れることにする。
 時代は670年前後、区分でいうと飛鳥時代ということになる。聖徳太子が死んで50年ほどの月日が流れた頃だ。
 その前に645年の大化の改新をおさらいした方がいいだろう。
 蘇我稲目以来、馬子、蝦夷、入鹿の親子四代に渡って政権を握り続け、横暴の限りを尽くしていた蘇我氏を討つべく立ち上がったのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)だった。
 皇極天皇がいる集まりで、蘇我入鹿を惨殺して蘇我氏を実質的に滅ぼしたのが大化の改新の幕開けだった。中大兄皇子はのちに天智天皇となる。
 蘇我氏はもともと渡来系の氏族という説がある。推古天皇などもそれに近いところにいたというし、そうなると甥である聖徳太子も同じだ。蘇我氏との争いに敗れた物部氏は、この頃までにはすでに没落している。
 それでは、天智天皇の出自はどうなのかというと、私はよく分かっていない。父親は推古天皇の次の34代・舒明天皇(じょめいてんのう)、母親は35代・皇極天皇(こうぎょくてんのう)で、現在に続く天皇は天智天皇系だから、天皇家の本筋には違いない。ただし、どこかで渡来系の血が入っていることはほぼ確実で、そうなると日本人というのは何だろうとテーマが大きくなって収まりがつかなくなるから、ここではいったん置いておく。このあたりのことをきちんと理解するためには、オオクニヌシノミコトのアマテラスへの国譲りなどを読み解く必要があるのだけど、すべては神話の世界できちんとした資料がない以上、推測するより他にない。
 大化の改新以降、20年以上に渡って天智天皇は政権を握り、日本を中央集権国家へと作り上げていくことになる。長らく皇太子という地位にあって、天智天皇となったのは668年のことだ(38代)。ちなみに、この時代の皇太子は、天皇の実の息子というのではなく、次期天皇の地位を意味している。聖徳太子こと厩戸皇子も、次期天皇を約束された皇太子だった。天皇になれなかったのは、推古天皇よりも先に死んでしまったからだ。この時代は、生前の天皇譲渡はなくて、死後に継ぐのが決まりだった。
『日本書紀』によると、大海人皇子は天智天皇と同父同母の弟ということになっている。しかし、これは信じられない理由がいくつもある。そもそも『日本書紀』は、天武天皇が自分の子供の舎人親王(とねりしんのう)たちに命じて編さんさせたものだから、自分に都合の悪いことをそのまま記すはずもない。天武の出生年が書かれていないのも、そこに書けない何らかの事情があったに違いない。その他の資料を合わせ見ると、天智よりも天武の方が4つ年上だともいう。
 それに、天智は娘を4人、天武の妃にしている。古代においては同族結婚が当たり前とはいえ、同じ父母から生まれた兄弟で、兄の娘を4人も弟に嫁がせるというのはあまりにも不自然だ。
 実際のところ、大海人皇子はどういう血筋の何者なのか? 朝鮮半島の新羅との関係を指摘する説もある。新羅の王族だとか、母親の皇極天皇と新羅人との間にできた子供だという話もあり、個人的にはそのあたりかなと思ったりもする。はっきりしたことは分からない。どこかに決定的な証拠が残っているのかどうか。
 ただし注意が必要なのは、当時の朝鮮半島や大陸は、日本より進んだ国だったという点だ。現在の日本人から見た東アジアの人たちというのとはまったく違って、むしろ今でいう欧米人の方が近い。進んだ国から来た進んだ文化を持った人たちが渡来人だった。その中には王族関係の人間もいたし、逆に言えば、日本からもたくさん向こうに渡っていっている。
 とはいうものの、いくら進んだ国から来た人とはいえ、天皇の継承となるとまた話は別だ。そのあたりの理解が難しいところでもある。
 それからもう一つの問題は、天智天皇が671年に死んだあと、大友皇子が即位していたのかしてなかったのかということだ。
 天智天皇は大海人皇子に暗殺されたという説もあるけど、今回それは保留とする。いずれどこかで書く機会もあるかもしれない。
 壬申の乱が起きる672年までの約半年間、大友皇子が天皇として即位していたのかしていなかったのかによって、天武天皇は反逆者ともなり得る。当然、『日本書紀』にはしていたとは書かれていない。天武の側からすると、それは都合が悪すぎる。
 けど、現在はしていたということになっている。弘文天皇というのがその諡(おくり名)で、明治に入ってから認定された(とはいいつつ、やっぱり即位はなかったともされている)。それができたのは、天皇家の系統が天武から天智に戻ったからというのもあるかもしれない。
 天武の血筋に疑いの余地があるもう一つの要因として、天皇家の菩提寺である泉涌寺(せんにゅうじ)に、天武系9代の天皇だけが祀られていないという事実がある。南北朝の天皇も入っているにもかかわらずだ。
 では、大海人皇子こと天武天皇は怪しい出自で天智天皇と敵対していたのかといえば、そうではない。天智と天武が日本を律令国家に作り上げた実績は確かで、両者は血縁関係を見ても分かちがたく結びついている。
 大友皇子は、大海人皇子と額田王の娘・十市皇女(とおちのひめみこ)を正妃にしているし、娘たちはあっちにいったりこっちにいったり、複雑なことになっている。
 天智が存命中は右腕として大いに働いたようだし(もっぱら汚れ仕事をやらされていたという話もある)、壬申の乱ののちも、天智系や大友皇子の関係者を排除したりはしていない。
 それじゃあ、大友皇子と大海人皇子と、どちらに正当性があったのか、ということになるわけだけど、これも今となってはなんとも言えない。勝てば官軍の言葉通り、勝った方が正義となる。
 ここで壬申の乱が起きる前から合戦後に何があったのかを、順を追って振り返ってみよう。

 と、思ったのだけど、ちょっと息切れを起こした。このまま続けると長くなってしまうので、ここでいったん中断したい。続きはまた明日ということにしよう。
 それまでにもう少し私の頭の中も整理しておかないといけない。一度にいろんな話を読み過ぎてごちゃごちゃになっている。

白しょう油を使ったら自分らしくない上品な丼になったサンデー

料理(Cooking)
かき揚げ玉子丼

 今日のサンデー料理は、手抜き変化球料理となった。
 夕方時間がなくて、手早く作れるもので食べたいものは何かと考えて、丼物にした。何丼が食べたいか思いを巡らせて、作ったのがかき揚げ玉子丼だった。結局、なんだかんだで1時間くらいはかかって、手抜きとは言えない感じになってしまったのだけど。
 かき揚げ玉子丼というのがどの程度一般的な丼なのかは知らない。店のメニューにあるのかないのか。家庭ではよく作られているんだろうか。いずにしても、天丼でもなく、玉子丼でもない、かき揚げ玉子丼が私の一番好きな丼なのだ。

 タマネギとシイタケの細切りをごま油で炒める。
 そこに酒、みりん、白しょう油、天つゆ、塩、コショウ、唐辛子を混ぜて煮立たせる。
 絹ごし豆腐を小さく切って加える。
 最後に溶き卵2個を回し入れて、半熟まで加熱する。
 かき揚げは、タケノコ、ニンジン、タマネギ、エビをそれぞれ細切りにして、小麦粉をまぶしたあと、天ぷら粉と水、塩、コショウを混ぜた衣に浸して揚げる。
 最後に刻みノリを乗せたら完成だ。
 白しょう油を使ったのは初めてで、やはりだいぶ味が違っていた。普通のしょう油よりもまろやかで甘みが強い。関西風と言えるかもしれない。

 吸い物も少しひねっているというか、味噌汁の味噌なしバージョンみたいなものになっている。
 だし汁、ダシの素、白しょう油、塩、コショウ、みりん、酒を加えて汁を作り、具は、油揚げ、大根、ナス、豆腐、長ネギを使った。
 これまた白しょう油のおかげで上品な味付けになった。

 白しょう油を使うことで見た目も品よくなるし、いつもの自分の料理とは味が違ってくる。普通のしょう油の方が味が濃い分旨みも強いけど、白しょう油には特有の風味がある。どちらが優れているかを決めつけずに、料理によって使い分けていけばいいと思う。自分のバリエーションに加えて損はない。私もかなり気に入ったから、今度は白だしを買ってくるつもりだ。これを使えば味付けがぐんと楽になるし、失敗も減る。
 今後は白しょう油料理のレパートリーを増やしつつ、あらたな調味料探しもしていきたいと思っている。しょう油だけでこれだけ変わるのだから、塩を変えればまた違った料理になる可能性もある。海外特有の調味料もいろいろある。ナンプラーやバルサミコ酢などがすぐに思い浮かぶ。
 そんなこんなで、サンデー料理はまだまだ続いていくのであった。たまに手抜きしつつ。

香流川桜の後編で桜気分はひとまずおしまい

桜(Cherry Blossoms)
香流川桜2-1

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 / EF 135mm f2.8 SOFT



 香流川の桜写真が残っていたので、まとめて載せておくことにする。
 名古屋は連日の25度で、桜はすっかり葉桜になってしまった。こうなってしまうともう撮る気がしない。散り始めたら本当に早い。最後にもう一ヶ所くらい行きたいと思っていたけど、どうやら間に合わなかったようだ。
 それでも、今年もまずまずあちこちで桜を見ることができた。新しい縁もできたし、行こうと思っていけなかったところは来年の楽しみになった。欲を言えばきりがないから、これでまずはよしとする。
 香流川を歩いてしっかり撮れたのもよかった。これがなかったから、どこか物足りない思いが残っただろう。桜撮りに対する苦手意識も、少しだけ克服できた。

香流川桜2-2


香流川桜2-3


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香流川桜2-11


香流川桜2-13


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香流川桜2-14


 桜の季節の終わりは、夏休みの終わりの寂しさに似ている。けれど、センチメンタルになることはない。終わりは新しい始まりで、また一年後を楽しみにすればいい。
 気分的にはこれで桜は終わったけど、まだ大津で撮ってきた写真の中に桜が写っているものがたくさんある。もしかしたら他でも遅い桜を見る機会があるかもしれない。だから、もう少しだけ桜に気持ちを残しておこうか。

桜の下に集う人たちを撮って自分が撮りたい桜の写真が見えた

桜(Cherry Blossoms)
香流川桜1-1

Canon EOS 20D+TAMRON SP 28-78mm f2.8 / EF 135mm f2.8 SOFT



 近所の香流川サイクリングロードを歩きながら桜を撮ってきた。4月8日だから、3日前の様子だ。
 すでにだいぶ散り始めていたから、今日あたりはもう葉が目立ってきていることだろう。
 桜だけを狙って撮るのは今年最後になりそうだったから、2009年桜シーズンの集大成のつもりで撮った。去年と比べて少しは成長できただろうか。
 たくさん撮った中で、自分らしいと思えるものを集めてみた。一枚ずつにコメントをつけるのはやめて、その代わり自分の好きな曲を聴きながら見てもらうといいんじゃないかと思う。写真の力不足を歌の力で補ってもらおうという作戦だ。でもこの作戦、よく効くのだ。ドラマの主題歌がヒットするのも同じ理屈に違いない。

香流川桜1-2


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 毎年、桜を撮るのは楽しみでもあり、ちょっとだけ憂鬱だったりもする。それは、桜というのはとても難しい被写体だから。どう撮っても実物を超えられないもどかしさが残る。
 でも、今年は憂鬱感を少し克服できたかもしれない。自分が撮りたいのは桜と人との関わりだということに気づいたことで、どう撮ればいいのかが分かった気がする。そして出した答えが今日の写真だ。
 桜が美しいのは、桜を美しいと思う人間がいるからだ。桜の下には自然と華やいだ雰囲気が生まれ、そこでは人はみんな楽しそうだ。無関心や無表情を装っていても、そこはかとない喜びがにじみ出る。その姿を撮ることが、私にとって桜を撮るということだ。風景画としての桜なら上手い人がたくさんいるから、そういう人たちに任せておけばいい。
 これからは行く桜を惜しむことになる。そこにまたドラマがある。それを捉えられるといいのだけど、さてどうだろう。桜の季節は残り一週間ほどになった。まだもう少し夢から覚めたくない。

石山坂本線プロローグは本編に入らない写真を並べる

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
石山坂本1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 滋賀県大津の石山坂本線沿線を、時間と体力の限界まで巡ってきた。
 出発から帰宅まで17時間。徒歩9時間。昼食、夕食抜き。座るのは移動の電車の中のみ。
 今回も過酷な旅だった。こんな無茶苦茶なスケジュールでは誰もつき合ってくれない。体力があるなしの問題ではない。メシも食わせないから暴動が起きる。なので、今回は一人で行ってきた。
 今日から石山坂本線シリーズを始めるわけだけど、写真の枚数が多くてまだ整理できてないのと、体力的に厳しいので、今日はプロローグとして本編とは関係ない写真を並べるだけにする。本編は明日以降ということにしたい。まだ全体のプランも決まってないし、復習もしないといけないから、始めるのは来週からということになるかもしれない。

石山坂本1-2

 ローカル線かぶりつき。
 このときはたまたま先頭車両に乗って、車内に一人だったので、これはチャンスと運転席を撮ってみた。もし人に見られていたとしたら、相当電車好きなやつと思われたに違いない。

石山坂本1-3

 石山寺の参道。
 桜はかなり散っていた。滋賀は寒いようなイメージがあったけど、名古屋よりも桜の進行は早かった。湖西は温暖な気候なんだろうか。

石山坂本1-4

 琵琶湖の南の狭くなっていくところ。瀬田唐橋の上。
 どこから瀬田川と名前を変えるんだろう。

石山坂本1-5

 完全な観光地でもなく、完全な住宅地でもない。どっちつかずというよりも、両方の要素を併せ持っている町だった。
 江ノ電沿線と近いようで遠く、遠いようで近い感じもした。

石山坂本1-6

 桜の花びらが風に吹かれてハラハラハラと舞っていたのだけど、このサイズの写真ではよく見えない。
 上手く逆光で捉えたと思ったのに残念。

石山坂本1-7

 今日も暖かいを通り越して暑いくらいの一日だった。
 夕方でもまだ22度あった。日中は25度くらいまで上がってたんじゃないか。

石山坂本1-8

 日吉大社は印象的な神社だった。
 あらためて詳しく書きたい。

石山坂本1-9

 あちこちでいい光に恵まれた。終日快晴だった。

石山坂本1-10

 近江神宮参道。
 ここでもよく歩いた。夕方で一番しんどい時間帯で、歩くのが嫌になっていたときだ。
 それでも今回はこまめに電車移動が挟まったから、歩きの限界を感じるところまではいかなかった。10時間を超えると、歩くのが心底嫌になる。

石山坂本1-11

 坂本は石畳の道と坂の上の町だった。
 至る所から遠くに琵琶湖が見える。

石山坂本1-12

 あちこちに古い家並みが何気なく残っている。
 大津は一時は都があった町だから、いわゆる古都だ。歴史のある町だから、巡っていて面白い。歴史の本筋ではなく、脇道的な楽しさがある。

石山坂本1-13

 水源は琵琶湖なのかどうなのか分からないけど、小さな水路がたくさん通っている。
 水の流れがある町は清浄な気が流れていて心地よい。

石山坂本1-14

 三井寺近く、琵琶湖疎水沿いの桜並木を見ながら、三井寺のライトアップを見に行く。

石山坂本1-15

 せっかくこの時期この場所を訪れているんだから桜のライトアップを見て帰ることにする。
 欲張った分、しんどくもなったし、帰りも遅くなったけど、やっぱり見ておいてよかった。
 かなり散り始めていて、これで今年の桜も見納めかなと思った。名古屋でもう一ヶ所くらい行けるかどうか。

 そんなわけで、今日はこれまで。

去年と今年とセットで松本の旅第一部が完結

観光地(Tourist spot)
松本番外編-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 松本編の最後は、番外編として本編に入りきらなかった写真を集めて紹介したい。
 一枚目は、デゴイチからだ。
 私の子供の頃はすでに蒸気機関車は走っていなかったと思う。場所によっては走っているところもあったのかもしれないけど、実物を見た記憶はない。現役で走っていたのは、昭和40年代のはじめ頃までだったんじゃないだろうか。電車の人ではない私は、詳しいことはよく知らない。
 なのにどうしてデゴイチや機関車にそれなりの馴染みがあるのかといえば、やはり銀河鉄道999の存在が大きいだろう。初めて友達と映画館に行ったのが銀河鉄道999だった。テレビでも欠かさず見ていた。メーテルが好きだったから。
 大人になってからどこかで走ってる機関車を見ただろうかと考えて、実は見ていないということに気づいた。大井川鉄道などで走っているのは知っているし、テレビでは何度も見ているけど、実物は見たことがない。前に秩父鉄道に見に行こうという話があったけど、そのときは行けずに終わった。
 それじゃあ、展示してあるやつは見たことがあるかといえば、その記憶もあやふやだ。見たような気もするし、見てないような気もする。
 上の写真の機関車があったのは、塩尻市役所の敷地内だった。こんなものがあるとは知らなかったから、意外な収穫となった。これぞまさにデゴイチだ。D51155。これでもう、実物の機関車を見たことがあるとはっきり言うことができる。
 中津川あたりを走っていたもので、廃車にするなら譲って欲しいと国鉄にお願いして、昭和48年に譲ってもらったのがこの機関車だそうだ。
 長野県は機関車をけっこう保存展示していて、県内に20台以上あるようだ。

松本番外編-2

 無骨で古いデザインなのに、今見ても斬新でカッコイイと思う。今の時代感覚では、こういうデザインはまず出てこない。洒落た外観にしようという意識で作られたものではないのだろうと思う。機能美というのはこういうことを言うのだろう。
 マニア的な視点ではどうか分からないけど、素人目にはきれいでよく整備されているように見えた。塗装を塗り直したのだろうか。手で触ると油がつきそうなほど油まみれな感じで、各部も動くんじゃないかと思わせる。

松本番外編-3

 塩尻駅で食べた信州そば。
 ちょっと伸び気味だったけど、悪くない。観光客向けの高すぎるそばより好感が持てる。そばなんて1,500円も出して食べるようなものだとは思わない。

松本番外編-4

 三溝駅近くの牧歌的風景。
 色合いがまだ春本番を迎えていない。信州が本格的な春色になるのは、5月に入ってからだろうか。

松本番外編-5

 安養寺の三門。
 華奢な足に比べて屋根が頭でっかちだ。屋根の感じが神社っぽくもある。
 古いんだか新しいんだか、分かりづらい。歴史的建造物という感じはしない。
 本堂もそんなに古い建物ではなさそうだった。

松本番外編-6

 境内では早春の花であるサンシュユが咲いていた。名古屋あたりでは2月の終わりから3月にかけて咲く花だ。
 これがまだ咲いているということは、桜の季節にはなっていないということだ。
 安養寺は、松本から更に山側に入ったところだから、松本市内よりも季節は遅い感じだった。しだれ桜は今頃どれくらい咲いただろう。

松本番外編-7

 三溝駅。
 少年がホームの端に座って電車を待っていた。街中のホームでこんなふうに座っていたらおっかなくてしょうがいないけど、田舎だとのぼかな風景に見える。

松本番外編-8

 単線をのんびり走る電車。
 後ろのドアから乗って整理券を取って、前から下りるときに運賃箱に料金を入れる。バスのような仕組みになっている。
 これは理にかなっていて、このシステムなら改札口が必要ない。ただ、乗客が多いときは時間がかかりすぎる。

松本番外編-9

 松本城でよく咲いていたヒガンザクラ。
 ソメイヨシノよりもピンクが濃くて華やかなのに、やっぱりソメイヨシノの魅力には勝てない。ソメイヨシノというのは、奇跡の桜だとあらためて思う。

松本番外編-10

 まだ咲いていなかったソメイヨシノ。
 松本もここ数日の暖かさで一気に五分先くらいまで進んだそうだ。今週末がちょうど見頃だろう。お城もかなり賑わうんじゃないだろうか。

松本番外編-11

 最後にお馴染みの角度から撮った松本城の写真を載せて、松本の旅の締めくくりとする。
 今回の塩尻・松本行きは、去年の安曇野・松本の旅とのセットのようなものだった。前後編あわせて一回の旅と言ってもいい。そしてまた、次回の松本の旅へとつながっていくことと思う。
 長野は広いし、まだまだ行くところはたくさんある。善光寺参りも一度はしないといけないだろう。
 一つの旅が終わればまた別の旅が始まる。次は琵琶湖西岸歴史巡りだ。これは去年行った滋賀巡りの続編とは少し違って、姉妹編に当たる。

松本城登城を終えて満足納得の国宝天守制覇

城(Castle)
松本城2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 前触れもなく昨日続きから始まる。松本城の天守紹介の後編だ。
 板の間をぐるりと回り歩いて、急な階段をどんどん登っていく。階段は急角度で狭く、その上対面通行なので、途中から渋滞が始まった。天守ではよくあることだ。今週末は花見客で混雑するだろうから、下手すると登って下りるまで1時間以上かかるなんてことにもなりかねない。去年の彦根城がそうだった。
 階段はかなり危険なので注意が必要だ。戦国期に作られた天守は、とにかく戦での守り重視なので、快適性などまるで考えられていない。登りよりも下りが怖い。滑り落ちると笑い話では済まない。
 昔の人は、甲冑を着けたまま階段を駆けていたんだろうか。現代人とは元気さの質が根本的に違う。
 ちなみに、戦国時代の男性の平均身長は160センチ弱くらいだったと言われている(150センチという説もある)。徳川綱吉は125センチくらいしかなかったという。
 食事が貧しかったというのが大きな要因だろうけど、それでもおなかを空かせながら戦場を駆け回っていたんだから、すごい。
 私たちは戦国時代にロマンのようなものを感じるけど、実際自分が戦国の世に放り込まれてしまったと想像してみると、ロマンなんて悠長なことは言ってられない。想像を絶するしんどさだろう。命を賭けて燃えられるものがあったからうらやましいなんてのは幻想で、単純に言って内輪揉めの殺し合いでしかない。あの時代があったからこそ今があるわけだけど、無邪気に賛美するのもどうかと思う。彼らも、平和な時代が来ることを願って戦っていたのだということを忘れないようにしたい。

松本城2-2

 途中の階から見た本丸御殿跡。
 こうして上から見ると、芝生の色がまだ茶色いのがよく分かる。季節はまだ初春で、春になりきっていない。名古屋に比べるとひと月とまではいかないまでも2週間くらいは季節が遅れている感じだった。
 初夏になれば、ここの芝生もきれいな緑色になることだろう。
 冬は松本城あたりもよく雪が積もるんだろうか。

松本城2-3

 6階の最上階に到着。
 城全体の大きさからすると、ここは狭く感じる人が多いかもしれない。意外に狭いねと話す声が聞こえた。
 まあどこもこんなものだろう。標準的な広さじゃないだろうか。
 天守の最上階というのはどういう役割だったのだろうか。安土城のような趣味的な城は別にして、戦のために建てた城の天守閣というのは、特にこれといった役割を持たなかったのではないかと思ったりもする。軍議を開くには狭いし、攻めてくる敵を迎え撃つには遠すぎる。
 松本城は四階に城主御座所というのがある。御簾で囲まれていて、城主の座る場所があったから、いざ戦闘となったときは、そこが本陣のようになったのだろう。
 天守最上階内部の資料は残っていないのだろうか。それがあるなら、もう少し当時の様子を再現して欲しいところだ。どの城も、観光客向けの展望台のようになってしまっていて味気ない。

松本城2-4

 天井の木枠を見上げていたら、高い空間に神棚らしきものを見つけた。あれは何だ。
 帰ってきてから調べたところ、二十六夜社という祠で、1618年に勧請したものだそうだ。
 天守番の川井八郎三郎という武将の前に二十六夜様が現れて、自分を祀るようにと告げたのだとか。
 以来、この神様が松本城の守り神になったという。

松本城2-5

 最上階からの眺め。
 安全策として金網が張られていて、写真撮りには厳しい。
 北アルプスや美ヶ原などを見渡すことができる。ここは周りに高い建物が少ないから、見晴らしがいい。
 最上階は地上22メートルというから、ビルの7階から8階に相当する。現代人の感覚からしてもけっこう高いのだから、昔の人にしたら超高層な建物という感覚だっただろう。

松本城2-6

 屋根に鯱がいた。展示してあったものの後釜か。たぶん小天守に乗っているやつだったと思う。

松本城2-7

 明治に撮られた古写真が飾られていた。絵みたいだけど、ちゃんと写真だ。
 全体的な様子というか雰囲気がけっこう違っている。今の松本城は、二度の大きな修繕があったから、そのときオリジナルから少し離れてしまったようにも思う。外観の黒塗りも、昔の感じとはちょっと違うんじゃないか。

松本城2-8

 階段を下りて、月見櫓に辿り着いた。
 1630年前後に、家光が長野の善光寺へ参拝へ行く途中に松本城にも立ち寄るという話になって、それを迎えるために増築したとされている。
 実際、家光がやって来ることはなかった。どういう経緯で来なかったのか、詳しいことは知らない。

松本城2-9

 天守から出てきて、最後にもう一回外から写真を撮ることにした。
 朱塗りの埋の橋を入れて撮るのが定番で、ここには集合写真用のひな壇も用意されている。
 って、キミ、誰だい? うちの子かってくらいのフレームインではないか。親御さんにこの写真を送ってあげたいくらい、バッチリな記念写真になった。

松本城2-10

 もう少し南に回り込んだ。ここからの角度もなかなか美しい。松本城は周りに障害物が少ないから、絵になりやすい城だ。
 城の右下に見えている赤い部分が月見櫓になる。いかにも増築しましたという感じだ。

松本城2-11

 松本城の桜は、ようやく咲き始めで、まだ五分咲きもいってないようだ。今週末はまだ見頃にはならないか。満開はあと一週間後くらいかもしれない。

松本城2-12

 池の鯉は、色とりどりの錦鯉よりも、黒い鯉が多い。お城が黒だからそれに合わせたというわけでもないのだろうけど。

松本城2-13

 最後にもう一枚、梅と絡めて撮っておく。

 松本城編もこれで前後半が終わって、松本シリーズ自体も、あとは番外編一回を残すのみとなった。
 今回は桜巡りが主で、もう一つが松本城の登城だった。前回のようにあちこち欲張って回らなかった。
 でも、いろいろ収穫もあって、満足もした。満開の安養寺だけはいつか見に行きたいと思っている。そのときは別の場所と絡めて行くことにしよう。
 松本城登城を果たして、国宝4つをすべて回り終わった。姫路城、彦根城、犬山城、松本城と。次の目標は、現存12天守ということになる。そのうち4つが四国だから、四国遠征も考えよう。弘前城の桜が咲くのは、まだしばらく先だろう。

念願叶って松本城の天守閣に登る ---前編

城(Castle)
松本城1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 松本城を訪れるのも、ほぼ一年ぶりとなった。あれからもう一年かとも思うし、まだ一年かという感じもする。松本城に特に変わった様子はなかった。まあ、そりゃそうだ。
 前回は開智学校へ行ってからだったから、北の方から入った。今回は正面から入ることにした。やはりこちから入る方が気分が出る。
 一年前との違いは、時間帯と光の具合だ。去年は夕方の西日だった。今回は、よく晴れた午後の日差しだった。

松本城1-2

 松本城公園自体は、一日中開放されていていつでも入ることができるのだけど、天守閣がある本丸部分は午後4時半までしか入ることができない。去年はここに到着したときにはすでに門が閉まっていた。今回は時間に余裕があったから大丈夫。ようやく念願叶って松本城に登ることができた。

松本城1-3

 写真ではどこか山上の湖のような写りになってしまったけど、実際の堀はもっと汚れていた。この写真は嘘つきだ。
 渡りのカモたちは飛来しないのかどうか。いたのは放し飼いされているコブハクチョウと、留鳥のカルガモだけだった。
 やつらは人を見ると近づいてくる。エサを与えないでくださいという注意書きなど何のその、エサをあげる人たちは多い。鳩とコイが加わって三つどもえの争いになる。その間を塗ってヒヨドリがエサを横取りしていったりもする。
 堀は、内堀と外堀の半分ほどが残っている。まずまず残されている方だ。

松本城1-4

 市立博物館との抱き合わせ入場券は600円と、やや高め。国宝様だぞと言われれば文句は言えない。寺の拝観料を考えると割安とも言えるか。
 黒門が正門で、名前の由来は本丸御殿が黒書院だったところから来ている。
 東にある太鼓門は前回見たので今回はそちらまで行かなかった。どちらも平成に入ってから再建されたものだ。
 黒門を入った先がチケット売り場になっている。

松本城1-5

 一の門。なかなかいいじゃないか。
 石垣なども全部復元なのだろうか。戦国時代と江戸時代との中間的な感じだ。名古屋城や江戸城などのように大きな石がピシッと合わさっているのではなく、大雑把に組んで隙間に小さな石を入れて補強している。戦国時代の初期は、もっと丸みのある石を積み上げている。

松本城1-6

 手前の線で囲っているところが本丸御殿があった場所だ。
 江戸時代の1727年に焼けてしまい、それ以来再建されることはなかった。
 その後は二の丸御殿で政治が執り行われるようになり、明治になってもそれは続いたものの、明治9年に消失してしまった。
 ということで、現在は本丸御殿も二の丸御殿も残っていない。

松本城1-7

 こちらは前回入れなかった場所なので、どこから見ても新鮮に映る。
 離れたところから見る松本城は真っ黒という印象が強いけど、近くから見上げると、白漆喰と黒塗りとのツートンカラーの城だということが分かる。
 手前が小天守で、奥が天守閣だ。
 松本城の歴史については、去年しっかり書いたので、あれ以上書き加えることはない。今回は天守閣の中の写真を紹介するにとどまる。

松本城1-8

 床板はずいぶん年季が入っている。大勢の観光客が歩くところだから、昔のものということはないのだろう。
 明治の大修理と昭和の解体修理が行われているから、そのどちらかのときに張り替えたものなんじゃないだろうか。それとも、戦国時代そのままのものなんだろうか。

松本城1-9

 二階からの眺め。城は六階建てになっている。
 天守から下界を見下ろしていれば、殿様気分になったとしても仕方がない。
 昔は城だけがずば抜けて高い建物で、あとはすべて地面に近い視点しかない。城は権力の絶対的な象徴だった。
 支配者にはこういう舞台装置が必要だったに違いない。城の役割は単に戦のための軍事拠点というだけではない。

松本城1-10

 この黒光りの感じが素晴らしい。古い天守閣の一番いいのはここだ。気持ちは戦国時代に飛ぶ。
 それにしても柱の数がすごいことになっている。天守閣は生活空間としては適さない場所だ。有事のときに使うものだから、普段の暮らしに便利なようには作られていない。
 そもそも穴や隙間だらけだから、冬場は寒くてそんなところで寝泊まりしてられない。天守閣というのは、基本的に戦になったとき籠城戦をするために作られたもので、殿様の家というわけではない。いちいちこんなところを上り下りするのも大変だ。たいていは、本丸御殿などで生活していた。それがない小さな城では、二の丸や三の丸に生活するための屋敷があった。
 城というとどうしても天守閣ばかりがクローズアップされがちだけど、実は本丸御殿というのはとても重要な存在で、だから名古屋城が今やっているように本丸御殿を再建するのは意味があることなのだ。殿様がどんな暮らしをしていたかを知る手がかりとなるし、豪華絢爛さでは天守閣の比ではない。
 現存する本丸御殿は非常に少ない。完全な形で残っているのは高知城くらいだ。

松本城1-11

 以前屋根に乗っていた鯱。対になって飾られている。さほど大きなものではない。2メートルくらいだったか。
 少し金色が残っているところを見ると、もともとは金箔が貼られていたのだろう。名古屋城のように金製ではない。

松本城1-12

 戦国時代の城らしく、戦時に備えてたくさんの矢狭間などが開けられている。
 堀を渡ってきた敵や、石垣をよじのぼる兵士に向かって、ここから弓矢や鉄砲でねらい撃ちをする。ちょっと冗談っぽい気もするけど、実はかなり効果的だ。上から熱湯を浴びせたりもする。
 自分が城に攻め込む兵士の気持ちになってみれば、それがいかに危険なことか想像がつく。籠城戦に勝つためには、守る側より何倍も多い兵が必要というのは当然のことだ。
 ただ、松本城が実際に戦に使われることはなかった。
 石川数正親子が本格的な天守閣を建てたりして現在の姿にしたのは1590年代のことで、あと数年で江戸時代になろうとしていたときだ。関ヶ原の戦いに巻き込まれなければ、ここらあたりで戦が起こることはなくなっていた。松本は、なんといっても、都からも関東からも遠く離れた地だ。

松本城1-13

 これはなんという名前のものだろう。神社の屋根で似たようなのを見かける。
 こんなところに展示してあるくらいだから、昔の松本城に使われていたものなのだろう。
 他には鉄砲などの展示がなかなか充実している。けど、鉄砲や刀関係は怖いので撮らない。甲冑も怖い。

 ちょっと唐突だけど、今日はここまでとする。写真の枚数が多くなってしまったので、前後編に分けることにした。
 明日につづく。

塩尻・松本先走り桜紀行はこれから訪れる人のための先行情報

桜(Cherry Blossoms)
塩尻松本桜-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 花が咲きかけている桜の木は桜や否や。
 その問いは、少女が女であるかないかという問いに似ているかもしれない。
 いずれにしても桜は桜。私たちが松本方面に桜を見に行ったという事実は変わらない。思い出も残った。
 完全に一週間先走ってしまったわけだけど、考えようによっては桜開花の先行情報をお届けできるという言い方もできる。みなさん、長野の桜はまだ早いです。もう少し待った方がいいです。
 まず最初に訪れたのは、塩尻市役所だった。
 といっても、役所に用があったわけではない。そもそも塩尻市民ではない。塩尻市役所にあるしだれ桜を見に行ったのだった。それが上の写真の桜だ。
 おー、これはこれは、なかなか。
 大きさは10メートル近くあって立派だし、左右に広がった枝振りのバランスもいい。
 まだ老木というところまではいってない。推定樹齢は90年ほどだそうだ。なるほど、そんなものだろう。まだまだ長生きして大きくなる。
 長野県東筑摩農学校が、大正13年に現在市役所が建っている場所に移転してきたとき記念に植えた桜らしい(学校は現在、塩尻志学館高校と名前を変えて少し北に移転している)。
 どうして市役所の敷地内にこんな大きな桜が植えられているのだろうと疑問に思っていたけど、このエピソードを知って納得した。

塩尻松本桜-2

 桜のつぼみはあと一歩のところまできていた。惜しい。もうちょっとだった。どこか一輪でも咲いていないかと探したけど、まだ一輪も咲いてはいなかった。
 春先の暖かさで今年は例年より一週間くらい早くなるという予想だったのに、寒の戻りで結局は例年通りとなった。
 見頃は今週末から来週にかけてだろう。長野もこの先は暖かい日が続くようだから、上手くいけば週末ちょうどいい感じになるかもしれない。

塩尻松本桜-3

 満開だったらさぞかしきれいだったろうと思いつつ、ちょっとうらめしい気持ちで見上げる。
 おーい、咲いてこいよと呼びかけても、急に咲いてくるわけもない。

塩尻松本桜-4

 後ろに見えているのが市役所の建物だ。
 順光で撮るとつぼみがかなりピンクがかっていきているのがよく分かる。
 この続きは塩尻の人たちにお任せすることにしよう。駅から歩いて5分くらいだから、近くへ旅行するならついでに寄って見ていくのもいいと思う。
 夜間のライトアップも行われるようだ。

塩尻松本桜-5

 近くの街路樹に見慣れない桜が咲いていた。
 プレートには「南乃桜」と書かれてあったのだけど、そんな品種は聞いたことがない。この花は初めて見る。
 ネットで検索しても出てこないから、この名前は正式のものじゃないのかもしれない。

塩尻松本桜-6

 しだれ桜一本ではなくて、周囲にはソメイヨシノも植えられている。全部が満開になったら、このあたりはさぞかし華やいだ雰囲気になることだろう。
 ここのソメイヨシノは老木が多い。人の手で作られた短命の桜というイメージが強いソメイヨシノだけど、ここまで年輪を重ねてくると自然木としての迫力が出てくる。老俳優のような風格だ。

塩尻松本桜-7

 塩尻から松本へ移動し、更にそこから松電に乗って三溝駅(さみぞえき)に降り立った。
 ここでの目的は、安養寺(あんようじ)というお寺のしだれ桜を見ることだった。
 一部では有名らしいけど、全国区というほどではないだろう。そもそも三溝駅自体がとてもローカルだ。安養寺以外に何があるのか、私は知らない。
 電車や車から大きなしだれ桜が見えるから、近隣の人たちにとっては有名な場所だろう。桜のシーズンには県外からも大勢訪れるようだ。

塩尻松本桜-8

 ここもまだまだこれからだった。だいぶピンクの色は出てきているものの、2日や3日でワッと咲いてくるという感じでもない。今日あたりちらほら咲き始めただろうかといったところだ。
 それにしても、しだれ桜だらけの寺で、全部で20本ほどが植えられている。全部が一斉に満開となった日には、それはもう壮観だろう。写真には収まりきらないに違いない。

塩尻松本桜-9

 浄土真宗本願寺派の諏訪山梓川院安養寺は、武田信玄に寺領を寄進されたという古刹だ。
 石山合戦では信長軍に対抗したという記録があるそうだ。
 三門は古そうだったけど、本堂はけっこう新しい。新しいといえば、ピカピカできたての庫裡が建っていた。

塩尻松本桜-10

 特に目をひく老木が2本あった。途中で幹や枝が切られて痛々しい姿となっているのだけど、そこからまた新しい細い枝を伸ばして、たくさんのつぼみをつけていた。
 樹齢としては300年から500年だそうだけど、その2倍、3倍生きている桜もある。古木ならでは風情というのもあるし、頑張って長生きして欲しい。

塩尻松本桜-11

 こんな時期に訪れるのは我々くらいだろうと思いきや、途中からおじさんたちが加わった。すごくバチバチ撮りまくっていて、気合い負けした。
 ピーク時はどれくらいの人が訪れるのだろう。桜をぐるりと取り囲むくらいの人出なんだろうか。

塩尻松本桜-12

 寺の隣は田んぼで、ちょうど桜が満開になる頃には田んぼに水が張られて、そこに映り込んだ桜を狙うというのが安養寺の定番撮りらしい。
 水田と桜というのも相性のいい取り合わせだ。一本桜でそういうところがいくつかある。

塩尻松本桜-13

 若木も何本かある。若いといっても数十年といったところだろうけど。
 誰がどういうきっかけで、こんなにもしだれ桜ばかりを集めたのかは知らない。ほとんどがしだれだから、よほどしだれ好きだったのだろう。

塩尻松本桜-14

 もうあとちょっとだったのに残念だなぁと言いつつ帰ろうとしていた最後の最後に、わずかに開きかけた花を見つけることができて喜んだ。
 あ、ここ咲いてる、と。
 この小さな贈りものに、気持ちがパッと明るくなった。
 ありがとう、安養寺。いつかきっと、しだれ桜が満開のときに再訪しよう。そのときが必ず来るような予感がしている。

松本未桜物語 ~プロローグ

観光地(Tourist spot)
松本プロローグ-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 去年のちょうどこの時期、松本・安曇野に行った。あのときはまだ桜には早く、いつか桜の咲く松本を見たいという思いを残して帰ってきた。
 その機会は思いがけず早く巡ってきた。二年連続二回目の松本行き。しかし、今年こその思いはまたもや空回りし、桜はまだようやくつぼみという状態だった。松本未桜物語。
 それでも、今回なりの収穫もいろいろあった。松本の魅力は桜だけじゃない。なんといっても国宝松本城がある。去年は時間切れで天守閣に登れなくて、今年はしっかり登城してきた。
 桜下見ツアーのようになった前半と、後半の松本城編と、春の松本シリーズは大きく分けて二本立てということになりそうだ。
 今日は時間不足と寝不足につき、プロローグだけにしておく。本編は明日からというこにしよう。

松本プロローグ-2

 塩尻は東海、北陸、関東が交わるポイントで、たくさんの電車が行き来している駅だ。
 そのわりには駅舎などはローカル然としている。こぎれいで、隣には駅ビルも隣接しているのけど、雰囲気は地方の小都市駅そのものだ。駅前など、ほとんど人も歩いていない。
 今回この駅で降り立った目的は、市役所のしだれ桜を見るというものだったのだ。けど、それもまだ早かった。そのときの様子はまた次回。

松本プロローグ-3

 例によって例の如く、タイトスケジュールの我々にとって、食事をどこでねじ込むかというのは難しい問題だ。最初から食事の時間がスケジュールに組み込まれていないこともよくある。恐ろしいことだ。
 今回は駅そばを10分で食べるということになった。駅前にある遺跡そばというのも気になったのだけど。

松本プロローグ-4

 松本電鉄に乗り換えて、三溝(さみぞ)というところを目指す。そこも目当ては桜だった。
 列車には自転車専用口と書かれた入口があった。そんなに自転車を持ち込む利用客が多いのだろうか。観光客用なのか、自転車と電車を乗り継いで学校へ行く学生のためなのか、詳しい事情はよく分からない。

松本プロローグ-5

 単線の風景。
 松本と新島々を結ぶ一本道で、途中に駅は12。
 行きと帰りの運転士さんが同じ人だったのがちょっと面白かった。交代なしで折り返し運転をしてるらしい。
 ワンマン電車で、整理券を取って、降りるとき運賃箱に料金を入れるバスのような仕組みだった。

松本プロローグ-6

 松本城周辺では、外国人の姿もけっこう多い。欧米が主で、中国、韓国などのアジア勢は少ない印象だった。たまたまかもしれない。
 しかし、国宝ではまだ弱い。これが世界遺産になると、一気に国際色豊かになる。姫路城などは異人さんだらけだ。

松本プロローグ-7

 ソメイヨシノはまだつぼみだったけど、ヒガンザクラなどはけっこう咲いてきていた。これだけでも見られてよかった。
 長野はまだ桜の開花宣言が出ていないんじゃないか。今年は全国的に開花は異常なほど早かったのに、そこから寒さが戻って、どこも足踏みしてしまった。松本も早まって5日くらいがちょうど見頃になるんじゃないかと期待していたのに、結局は例年並みというところに落ち着きそうだ。
 風景を見ても、吹き来る風を受けても、名古屋に比べて2週間以上季節が戻ったような感じがした。

松本プロローグ-8

 加藤清正ゆかりの駒つなぎの桜というのがあって、これはかなり咲き始めていた。
 どういう由来のものか、まだ調べていない。近いうちに調べておこう。

松本プロローグ-9

 梅がまだ咲き残っているところを見ても、季節は3月中旬くらいといったところだ。
 桜はまだ咲いてきていないのに、梅の近くで宴会をしている一団がいた。勢い余ってしまった。

松本プロローグ-10

 松本城の歴史は去年勉強して書いた。特に付け加えることはなりだろう。
 天守閣内部の写真をたくさん撮ってきたから、それは近いうちに紹介できると思う。
 とりあえず今日はここまで。
 明日につづく。
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