
PENTAX K10D+DA 16-45mm f4
尾張旭の神社巡りを終えてしまった今、次はどこにしようかと考えたとき、普通なら住んでいる守山区ということになる。けれど、うちは名東区との境にあって、どちらかというと守山区よりも名東区の方が馴染みが深い。守山区は行ったことがないエリアがけっこうあるのに対して、名東区はほとんどの場所に足を踏み入れている。ということで、神社巡り第二弾は名東区編ということになった。
名東区にいくつ神社があるのか、今のところ正確には把握していない。あまりたくさんあるという印象はなくて、10ということはなくても20はないなんじゃないかと思う。もっと多いんだろうか。
第一回目に選んだのは、和示良神社だった。特に深い理由はなくて、たまたま地図を見ていて近所に行ったことがない神社を見つけたから行ってみたというだけだ。けど、これはいい選択だったかもしれないとあとから思うようになった。ここから名東区全体へと話がつながっていくことになりそうだからだ。
市制施行で名古屋市が誕生したのが1889年(明治22年)で、区政を実施したのが1908年(明治41年)のことだった。当時は、中区、東区、西区、南区の4つしか区はなかった。
その後、周辺の町や村を併合して区は増えていき、戦後は分裂して増え、現在は16区で落ち着いている。全部言えるか試してみたら、15区しか出てこなかった。中川区を忘れていた。
名東区は天白区とともに最も新しい区で、1975年(昭和50年)にできたところだ。名東区は千種区から、天白区は昭和区からそれぞれ分離独立した。その当時、物心ついていたはずの私は、そんなことをまったく覚えていない。けっこうな話題になったことだったんだろうか。
名東区の名前は、名古屋の東に位置していて、東名高速の名古屋インター近くで名古屋の東の玄関口という意味も込めて名づけられたそうだ。
そんな区としては新しい名東区ではあるけど、縄文、弥生の時代からこの地には人が住んでいたことが分かっている。やじりや石器類などがたくさん発見されている。庄内川水系と天白川水系に挟まれた尾張丘陵で、暮らすのに適していたのだろう。
古墳時代から鎌倉時代にかけては、窯業生産地だったという。今はまったくそんな面影は残っていないから、ちょっと意外な歴史の一面だ。
鎌倉から室町時代にかけては、尾張国山田郡と愛知郡との境目あたりになっていたと考えられている。
その後は、尾張守護の土岐氏、斯波氏と支配が移り、信長が生まれたことは守護代の織田氏の支配下にあったようだ。
定かではないものの、一説によると、和示良神社の創建は秀吉の時代の1592年と伝えられている。秀吉の朝鮮出兵などでこのあたりが交通の要所として人の往来が多くなっていたとき、武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫が、安全祈願のために建てたのだという。武内宿禰については、このあと少し書いておきたい。
江戸時代になると、いくつか村ができ、農村地帯としてそれなりに人が住むようになっていたらしい。矢田川水系と天白川水系と、南北はそれぞれ別の地域という認識が強かったようだ。東西の幹線道路はあっても、南北をつなぐ道は整備されていなかった。考えたら、302号線ができたのも最近のことだし、まだそれも大高までつながっていない。
明治になっても田園地帯であることに変わりはなく、養蚕が盛んだったという。明治期には高針地域で亜炭がたくさん採掘されたのだとか。それも昭和20年代に終焉してしまったというから覚えているはずもない。
昭和30年代まではのどかな田園風景で、住んでいる人も少なかった。昭和40年代もまだまだ田舎だったという記憶が残っている。
ようやく発展し始めたのは、地下鉄東山線が開通したり、名古屋駅へ向かう出来町通が整備された以降のことだ。バスレーンはもっとあとで、1985年(昭和60年)のことだった。これはよく覚えている。道に色を塗って何をする気だと思ったものだった。
気がついたら名古屋の住宅地としての地位を確立していて、名古屋の住みたい街上位にランキングされるまでになっていた。確かに駅からもほどよい距離感で、街中と郊外の両方を併せ持っているから、住むにはいいところだ。
とまあ、名東区の歴史をざっと勉強したところで、そろそろ本題に入ることにしよう。

略字で和示良神社と表記されるこの神社だけど、読み方が難しい。素直に「わじら」だと思っていたら、「かにら」と読むらしい。
しかし、正式名称は上の写真にもあるように和爾良と表記して、これは「わにら」と読ませるのだという。
やっかいなことに、春日井に和爾良神社(かにらじんじゃ)というのがあって、こちらは延喜式にも載っている由緒のある神社だ。そちらは和尓良という字も使われている。2005年に和爾良神社に迷い込んだことがあった。そのときからすでに縁はあったということになる。
春日井の和爾良神社と、名東区の和示良神社との関係は、はっきり分かっていない。祀られている神様も違う。春日井のものも、はっきり延喜式の神社だと分かっているわけではなく、一応そうだろうということになっているだけらしいので、話はややこしい。
はっきりしているのは、和示良神社は昔から猪子石原の氏神様として大事にされていて、明治41年に、西ノ切にあった木花開耶姫命を祭る浅間神社と、欠下にあった大山祗命を祭る山ノ神社を合祀して村社にしたということだ。当時は原の天神様と呼ばれていたという。神社の北側に天神下という地名が残っている。

境内に建っているものはほとんどが新しいもので、どれも平成に入ってから再建されたもののようだ。近代的といえば聞こえはいいけど、最近の簡略化されたものばかりで、歴史の趣という点では見所はない。
神様にしてみれば、古っちくてぼろくなった家より新しい家の方が居心地はいいのかもしれないけど。
子供の頃、このあたりも何度か遊びに来た記憶はあるものの、神社に関してはまったく覚えがない。隣の猪子石原中央公園は何度か入ったことがあったけど、ここは学区外で、小中学生のときといえどもよその縄張りであまり踏み込みたくないという気持ちが強かったように思う。
神社は幹線道路から奥まったところにあるから、用事がなければここまで入って来たりはしない。近所にもそういう場所はたくさんある。

拝殿の中をのぞき見たら、草履が脱ぎっぱなしになっていた。神社の生活感を垣間見た。
ガラスにぼんやり映り込んでいるのは亡霊ではなく私の姿だ。

左が本殿で、右が摂社か末社だ。他から移ってきた山ノ神や浅間神社だと思う。
祭神の武内宿禰(たけうちのすくね・たけのうちのすくね)については、これまで書いたことがない。私もよく分かっておらず、まだ消化し切れていないということがあって、書けないというのが実際のところだ。
記紀によれば360年以上も生きて、景行天皇から成務、仲哀、応神、仁徳まで五代の天皇に244年間も仕えたという伝説の人物だ。
しかし、もちろんそんなはずもなく、何代にも渡って活躍した人物をつなぎあわせたものだとか、ヤマトタケルの伝説と重なる部分が多いとか、様々な説があって、よく分からない。
まったく想像上の人物かといえばそうとも言い切れず、奈良県にある宮山古墳は武内宿禰の墓という言い伝えがあったりするから、伝説の元になった人物は存在したのだろう。
鳥取の宇倍神社や福井の気比神宮などが武内宿禰を祀る神社としては有名なところだ。
いつも天皇近くに仕え、景行天皇のときの蝦夷討伐や、神功皇后の朝鮮出兵などの功績が伝えられている。
明治から戦前にかけては、忠臣の代表のように考えられていて、5度もお札の肖像画になっている。どう考えても想像図だけど、誰が考えたのか。
蘇我氏、巨勢氏、波多氏、葛城氏などは、武内宿禰を祖としている。
興味深いと思った説としては、武内の宿禰ではなく、武の内宿禰で、この武は建やタケルに通じることからヤマトタケルと同一の存在だというものだ。日本武尊はもともとは小碓命(オウスノミコト)で、「古事記」では倭建命となっている。これは、ヤマト(倭国)の武勇に優れた人物といった意味で、そう考えると、武内宿禰も、宿禰さんちの武人ということではないか。宿禰というのは大和朝廷における名字のようなもので(姓・かばね)、真人(まひと)や朝臣(あそん)と同じものだ。
となれば、武内宿禰は、宿禰家の武勇伝を集めた総称ということだったとしてもおかしくはない。歌舞伎界の市川團十郎のように襲名していったとも考えられる。おそらく、代々天皇の側近だった一族ではないか。ヤマトタケルと同一人物というのは違うかもしれない。
今後別の場所で出会うことになったら、またそのときにもう少し勉強して書きたいと思う。

反対側では、木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)が祀られている。浅間神社が移されたものだろうけど、由緒書きにはカッコして天照大神と書かれてる。同一神のはずはないから、一緒に祀られているということだろうか。
武内宿禰のところにはカッコして誉田別尊(ホムタワケノミコト)とあって、これもよく分からない。応神天皇(おうじんてんのう)の別名だけど、どの時点で応神天皇が入って来たのか。創建当初からそういうことになっていたのだろうか。

境内は意外と広い。右手のこのスペースも神社の領域だろうか。右の建物は神社の関係なのか、町内の集会所のようなものか。
何にしても、ちょっとしたお祭りなどをするにはいいスペースだ。

隣の猪子石原中央公園には、一段低くなったグラウンドがある。
なんでこんな低くする必要があるのか不思議に思っていたら、矢田川が氾濫したときにここへ水を逃がして、一時貯水池にする空間なんだそうだ。なるほどそういうことかと納得はしたけど、この程度の小手先の対応で実際役に立つのかという疑問は残る。

境内の梅はまだつぼみのままで、一輪も咲いてきてはいなかった。
入り口に植えられていたのは桜の木だろう。

境内から鳥居越しに南を見たら、いつも通っている出来町通が見えた。こんなところに神社があるとは今までまったく意識していなかったから、こちらを見ることもなかった。この神社へ行って以来、あちらからこちらを見るようになった。すると、はっきり鳥居が見えることに気づいた。見るという行為は興味を持って初めて成立するものなのだとあらためて思った。
これもまた一つの縁で、縁は縁を呼び、横へ、縦へと広がっていく。
名東区の神社巡りは、このあと猪子石の地名となった猪子石神社や、柴田勝家の史跡巡りへとつながっていく。東山通りから南の高針エリアは馴染みがないところが多いから、そちらとも縁がつながるのを楽しみにしている。