月別:2009年01月

記事一覧
  • 1月の岩屋堂は私が知っている岩屋堂風景に戻っていた

    Canon EOS 10D+Canon EF100mm f2.8 / EF75-300mm f4-5.6 IS 1月の岩屋堂は、完全なシーズンオフだ。平日の夕方ともなると、歩いているのは住人くらいのもので、他に人影はない。鳥撮りの人は冬でも訪れるのだろうけど、そういう人たちの行動時間はもっと早い。夕方までうろうろしてはいない。 私は去年の紅葉シーズンに二度訪れたので、ますますお馴染み感が強かった。いつ行っても変わり映えがしないのは、必ずしも悪いことでは...

    2009/01/31

    施設/公園(Park)

  • 言い訳をせずにセリバオウレンを撮れるようになりたい

    Canon EOS 10D+Canon EF100mm f2.8 セリバオウレンを撮ると、どうにも言い訳がましくなっていけない。現場でも心の中で言い訳をしながら撮り、帰ってきて写真を現像しながら誰にともなく言い訳をしたくなり、こうして写真を載せる段になっても言い訳をしている。 とにかく、この花は撮るのが難しい。一度でも撮ったことがある人なら、私が言い訳したくなる気持ちも分かってもらえると思う。実力があれば言い訳などせずとも、黙っ...

    2009/01/30

    花/植物(Flower/plant)

  • 空コレ2009第一弾 ---この空を届けたくて

    Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 他 自分の気持ちがすでに春へ向かっているということもあってか、ここのところの空が冬から春へと移り変わってきているように見える。冬の厳しさがやわらいで、春の優しい空を予感させる。 日常的に空を撮っていると、季節による表情の違いがだんだん分かるようになってくる。 今日はそんな空写真を集めて並べることにした。一枚では特に意味がない空写真も、何枚か組み合わせると何か意...

    2009/01/29

    空(Sky)

  • カメとオウムのパラパラマンガ風花鳥園風景 <第4回>

    PENTAX K10D+smc Takumar 135mm f2.5 日頃ヌーボーとして、ほとんど動きを見せない巨大なカメが掛川花鳥園にいる。ケヅメリクガメのガオとラオだ。どうして花鳥園にカメがいるかはよく分からないのだけど、気がついたらそこにいた。最初に行ったときはまだいなかったような気がする。だから、来園したのは去年だったんじゃないだろうか。 中央アフリカの乾燥地帯に生息している彼らは、最大で70センチにもなり、アルダブラゾウガ...

    2009/01/28

    動物園(Zoo)

  • 足元の小さな春はかがまないと見えない <東谷山後編>

    Canon EOS D60+Canon EF100mm f2.8 春は足元からやって来る。お金を落とした人のように、注意深く地面を見ながら歩いていると、お金では買えない喜びをそこに見つけることができる。初春のホトケノザ一株。プライスレス。 地面にかがみ込んでCSI科学捜査班のように写真を撮っている姿は、客観的に見るとちょっと怪しい。でも、世間の冷たい視線に負けていては小さな野草の写真は撮れない。野草撮りの恥はかき捨てくらいの意気込...

    2009/01/27

    花/植物(Flower/plant)

  • 郷土料理でまとめるはずが朝鮮出兵してしまったサンデー

    Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 今日のサンデー料理は、漬け物ステーキに始まり、郷土料理を経由して、日本と韓国の融合料理となった。こんな経路で進む料理もあまりない。韓国料理の店には一度も行ったことがないからよく知らないのだけど、韓国料理店に行ってこの料理が出てきたら、韓国らしい料理だなと感想を持つと思う。オモニの料理っぽい。 テレビの黄金伝説で見た漬け物ステーキというのを作ってみたくて作ったと...

    2009/01/26

    料理(Cooking)

  • 春はもうすぐ目の前まで来ています <東谷山前編>

    Canon EOS D60+Canon EF100mm f2.8 私たちが毎日寒い、寒いと言ってる間に、春は着実に準備を進めて、自分の出番を待っている。待ちきれないやつらがちょっと出てしまってもいる。 1月。冬の渋枯れ風景を最初に彩るのが梅の花だ。早くも花が咲き始めたというニュースを見ていたけど、これほど進んでいるとは思わなかった。もう春は目前まで迫っていた。自然から離れた街中で暮らしていると、季節の移り変わりに気づくのが遅れる...

    2009/01/25

    花/植物(Flower/plant)

  • 最近食べたケーキやバウムクーヘンや肉まんやお菓子の話

    Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 他 誕生日にはケーキを食べる。そんな当たり前だけど当たり前じゃないことを、私たちは特に疑問に思うことなく毎年繰り返している。誰が始めたことかも知らず、いつから当たり前になったのかということを調べようともしないまま。 今年もまたそんな季節がやってきた。ケーキは食べたいけど、この日が来ることはあまり歓迎したくない気持ちが強い。まあ、来てしまうものはしょうがないか。...

    2009/01/24

    食べ物(Food)

  • 落合公園の鳥たちと枯れた池風景

    PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di 落合公園の写真がまだ残っていたから、使える写真を今日で全部出し切ってしまうことにした。花鳥園はいったん中断する。 一枚目は、小さい方の池にかかる太鼓橋と、佇むアオサギさん。ここからもう一歩近づいたところで気配を察して、飛んで逃げていった。こちらとしてはもっとお近づきになりたいと思っていても、向こうはそれを望んでいない。人と野鳥との関係は、いつだって一方通行の...

    2009/01/23

    施設/公園(Park)

  • 撮りきれない難しさともどかしさが次回につながる花鳥園 <第3回>

    PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di / smc Takumar 135mm f2.5 花鳥園シリーズ第3回もノンジャンル、ノンテーマでお届けします。残った写真をあらためて見てみても、今回は狙いが曖昧だったと思う。新たな試みのアイディアがないまま臨んでしまった。でも、次こそはと思えるからこそ何度も行きたくなってしまうというのがあって、撮り切ったと思えない方がいいのかもしれない。 動物園の場合は、一回行くと満足してしまって...

    2009/01/22

    動物園(Zoo)

  • 連続する選択を自分の意志で選択しながら進みたい

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 人生には大きな分岐点や小さな分かれ道がたくさんあって、私たちは意識的に、あるいは感覚的に道を選んでいる。生きることは選択の連続だ。 迷えば曲がるべきタイミングを逸し、選択を放棄すれば道なりに進んでしまう。 常に目の前に道がある。真っ直ぐ行くか、右へ行くか、左へ行くか。もしかしたら次の選択は、人生を左右する重大なものとなるかもしれない。何気なく選んだ道が大きな不幸につなが...

    2009/01/21

    未分類

  • 花鳥園の色を撮るというテーマに気づいたのは帰宅後 <第2回>

    PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di / smc Takumar 135mm f2.5 今日は花鳥園シリーズの第2回をお送りします。 毎回違うデジとレンズを持っていって、新たなテーマを探しているのだけど、今回はそれがちょっと曖昧になってしまった。飛びものを撮るために買ったCanonのLレンズ80-200mm f2.8を持っていく予定だったのが、直前になって思いとどまったことで狙いが中途半端になった。どうしてやめてしまったかというと、その理由...

    2009/01/20

    動物園(Zoo)

  • 豚の角煮とはまだ友達にはなれなかったサンデー

    Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 今日のサンデー料理は、豚の角煮を作ることが目的のほとんどすべてだった。角煮を食べたいというよりも、角煮を作ってみたいという気持ちの方が大きかった。残りの2品は付け足しのようなものだ。 豚の角煮を外で食べたことがあるだろうかと考えて、たぶん一度もないということに気づいた。よくテレビで人が食べているのを見ていて、箸で切れるくらい柔らかいですねとか、口の中で溶けてし...

    2009/01/19

    料理(Cooking)

  • また来たのかとアンソニーも思ったかもね <真冬の花鳥園1回>

    PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di / smc Takumar 135mm f2.5 またまた掛川花鳥園に行ってきた。そして、また開園から閉園までたっぷり楽しんできた。何度行っても飽きないところだ。今回もたくさん写真を撮ってきたので、今日から何回かに分けて紹介していこうと思っている。 まだ写真の現像が途中までしか終わってないので、一回目の今日は、特にテーマを決めずに選んだ10枚を載せることにする。選んだ基準はなんとなく。...

    2009/01/18

    動物園(Zoo)

  • 猫もいろいろ、ノラもいろいろ

    PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di 落合公園の猫たちのたまり場その一。行くと必ずといっていいほど、このあたりにたくさんの猫たちがたむろしている。このシーンを見たときも、あまりにもお約束通りだったので、ちょっと笑ってしまった。 少し距離を詰めてみた。最初はこちらに寄ってきたのだけど、私が食べ物を持ってないと分かるとすぐに離れていって、揃って明後日の方を向いてしゃがんだ。 みんないい体つきをしてい...

    2009/01/17

    猫(Cat)

  • 早寝早起きで時間がないから落合公園の写真を並べて寝る

    PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di 明日は超早起きで、今日は超早寝なので、写真だけ並べて寝てしまう。春日井にある落合公園で撮った写真だ。 みなさん、お先におやすみなさい。 流し撮りには成功したけど、水面の映り込みにまで気が回らなかった。下までちゃんと入ってたら、文句なしの成功だった。 水面の映り込みは、光だけではなく周りの自然物や建物も利用できる。特に光を反射した色つきの建物があると面白い写真...

    2009/01/15

    施設/公園(Park)

  • 変わりゆく故郷の風景と変わらない故郷の思い出

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 この停留所から乗り降りしたことはほとんどない。大昔に何度かあったのだろうか。よく覚えていない。いつも大師前で降りていた。 かつては村にも三重交通の路線バスが走っていた。赤字続きで廃線になったのはいつだったか。もうずいぶんになる。10年か、もっとか。今は村営のバスが走っている。いや、丹生も村ではなく町に組み込まれたから町営か。 前に時刻表を見たときよりも本数が増えているよう...

    2009/01/15

    丹生(Nyu)

  • 完璧には記憶を再現できないから見慣れた光景を撮っておく

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 記憶というのは不確かなもので、頭の中にある思い出を取りだして見てみようとしても上手く再現できない。だから写真を撮るのかもしれない。写真に撮らなかった失われた風景は、もう二度と完璧には再構築できない。 写真は未来の自分に対する贈りものだと気づいたとき、私は見慣れた風景をもっと撮ろうと決めた。ずっと未来で懐かしい光景というのは、旅先で見た感動的な場面ではなく、普段無感動に幾...

    2009/01/14

    丹生(Nyu)

  • 成人の日にタワーズライツを撮りに行って2008年クリスマスが完結

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 名古屋駅のイルミネーション「タワーズライツ」が今日までということで、日没間際、名古屋駅に向けて車を走らせた。クリスマスシーズンはとっくに終わり、正月気分も抜けた今になってイルミネーションもないだろうと思いつつも、毎年見に行っているものだから見ておかないと気持ち的にすっきりしないものが残りそうで、それが嫌だった。テレビの映像やみんなの写真ではさんざん見ていても、自分の目で...

    2009/01/13

    イルミネーション(Illumination)

  • 神事のため10日遅れの松阪帰郷

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 今日は法事というか神事のために、朝から松阪へ行ってきた。 寒い日で、粉雪が舞う中での出発となった。ウインドウも凍り付き、屋根にはうっすら雪が積もっていた。 松阪駅前を表から見るのは久しぶりだった。前はどんなふうだったか思い出せないくらいだ。ロータリーの感じは変わってないけど、駅舎は昔よりきれいになったような気もする。 駅前の商店街はひどくさびれていた。昔からたいがいくた...

    2009/01/12

    風物詩/行事(Event)

  • 日頃目にしている日常風景の写真を並べて小学生並みの早寝

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / Canon EOS D60+EF28mm f2.8 明日は朝っぱらから出かけないといけないので、今日は小学生並みの早寝になる。時間がないので、日常風景写真を並べて、もう寝てしまおう。 ここ最近撮った、日常的な風景写真を集めてみた。 田んぼもすっかり冬色となり、この色彩にも目が慣れた。 この季節の田んぼにはエサもないのだろう、ケリの姿もない。飛んでいるのはセキレイくらいのものだ。 瀬戸電の車庫に...

    2009/01/10

    日常写真(Everyday life)

  • 小幡緑地の渡りガモ写真は日没後のモノトーンな色調

    Canon EOS D60+Canon EF100mm f2.8 /EF75-300mm f4-5.6 IS 今日は昨日の続きで、小幡緑地の鳥編をサラッとお送りします。 今年は渡りのカモの数が少ないように思う。気のせいだろうか。香流川も、矢田川も少ないし、この前行った雨池には一羽もいなかった。日時のタイミングでたまたまそうなっただけだろうか。全国的にはどうなんだろう。 気候としては、ここまではわりと穏やかで暖かいというのはある。ただ、いくら寒さに強い...

    2009/01/10

    野鳥(Wild bird)

  • 冬枯れの小幡緑地の中でかすかに感じた春の気配

    Canon EOS D60+Canon EF28mm f2.8 / EF100mm f2.8 /EF75-300mm f4-5.6 IS 夕焼け鏡面写真を撮ろうと思いついたら、小幡緑地本園の緑ヶ池に行くのが一番手っ取り早い。家からも近く、駐車場から徒歩3分だから、インスタント撮影ができる。冬場は特に日没が早いから、ここは貴重な撮影ポイントになっている。一年を通じてあまり風景に変化がないから、いつ行っても同じような写真になってしまうのが難点なのだけど。 今日は焼けの...

    2009/01/09

    風景(Landscape)

  • 松の内が終わる前に大森八剱神社へ滑り込み初詣

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED 正月気分も抜けたような抜けてないような中、ふと気づけば1月7日、松の内の最終日ではないか。こりゃいけないということで、慌てて近所の大森八剱神社(八剣神社)へ初詣に行ってきた。 どこからどこまでを正月と呼ぶかは判断の分かれるところだ。年末年始のイベントの大部分は歳神様(としがみさま)をめぐるあれこれで、初詣も7日までにしないと初詣とは言えなくなるという面がある。 歳...

    2009/01/08

    風物詩/行事(Event)

  • 赤福だって作れないことはないけど本物は作れない

     白玉粉を使った和菓子作りの第三弾として、赤福作りに挑戦してみた。 しかしながら、独自の手作りは本物にはとうてい及ばないことを思い知らされた。 赤福も単純なようでいて奥が深い菓子だ。赤福なんてものは、白玉粉で作る餅と漉し餡のたった2種類しかパーツがない。にもかかわらず、これを家庭で再現するのは至難の業だった。 まあ考えてみれば、誰でも家で作れたらわざわざお土産に買って帰らないし、簡単に真似できれば...

    2009/01/07

    料理(Cooking)

  • うちから御嶽山が見えることを今まで知らなかったうかつ

    Canon EOS 10D+Canon EF80-200mm f2.8L / PENTAX K10D+16-45mm f4 ED ベランダが西向きということもあって、名駅のビル群がある西方向ばかり撮っているけど、ふと東に目を転じてみれば、遠くに白い雪化粧をした山が見える。あれは木曽の御嶽山(おんたけさん)ではないか。昨日まで気づかなかったとは、自分のあまりのうかつさに驚きあきれた。まさか、御嶽山がこの距離感ではっきり見えるとは思ってなかった。 これは望遠レンズ...

    2009/01/06

    風景(Landscape)

  • 余ったおせち流用料理で2009年サンデー料理開幕

    Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 2009年第一回目のサンデー料理は、おせちの余りもの流用料理となった。 正月3日もおせち料理が続くと、いい加減飽きてくる。そんなときは、おせちの余りを違う味付けの料理にすると、わりと新鮮な気持ちで食べることができる。おせちを放置してカレーに逃げてはいけない。 使ったのは、刺身の余りと、エビの残りと、煮物だ。これだけ食材があれば、充分一食分の料理に変身する。 刺身は...

    2009/01/05

    食べ物(Food)

  • 正月番組ばかり観てたらやっと正月気分になれた

    Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 正月も三日になって、ようやく正月気分が盛り上がってきた。一日や二日はほとんど普段と変わらない気分で、このまま過ぎてしまうのかと心配してたけど、ここへきて正月のよさを思い出すことができた。 何がそうさせたかというと、テレビの正月特番をずっと観ていたせいだ。テレビ番組がここまで正月特番一色になってしまうと、これはもう正月気分にならざるを得ない。箱根駅伝なんかを観る...

    2009/01/04

    室内(Room)

  • 名古屋の雑煮が全国一質素なのには特に理由はない

    Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 名古屋の雑煮は全国一質素らしい。入っている具としては、角餅、かまぼこ、餅菜だけだ。かまぼこも入れず、餅と餅菜だけの家庭も多いという。 餅菜というのは小松菜の仲間で、尾張地方で栽培されているものだ。普段は食べないけど、雑煮のときだけはこれを使う。小松菜で代用してしまうこともある。 だしはカツオだしのすまし汁だ。最後にかつお節をのせるところもある。 うちは三重県の...

    2009/01/03

    風物詩/行事(Event)

  • 2009年はご近所写真からもっさりスタート

    PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / SIGAM 400mm / PENTAX 50mm f1.4 / Canon EOS D60+EF28-90mm 新年一回目の更新は、昨日に続いてのご近所写真だ。新年らしくご来光写真でも載せられるとよかったのだけど、近所にしか出かけてないから非日常的な写真がない。この年末年始はどうにもスピード感がない日々が続いている。 写真は大晦日に撮ったものと、元日の今日撮ったものが混ざっている。どちらも近所の大森あたりで撮ったものなので...

    2009/01/02

    日常写真(Everyday life)

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1月の岩屋堂は私が知っている岩屋堂風景に戻っていた

施設/公園(Park)
1月の岩屋堂-1

Canon EOS 10D+Canon EF100mm f2.8 / EF75-300mm f4-5.6 IS



 1月の岩屋堂は、完全なシーズンオフだ。平日の夕方ともなると、歩いているのは住人くらいのもので、他に人影はない。鳥撮りの人は冬でも訪れるのだろうけど、そういう人たちの行動時間はもっと早い。夕方までうろうろしてはいない。
 私は去年の紅葉シーズンに二度訪れたので、ますますお馴染み感が強かった。いつ行っても変わり映えがしないのは、必ずしも悪いことではない。風景がいつも通りだから、安心感がある。
 紅葉の時期は思った以上の賑わいを見せていて逆に戸惑ってしまったけど、シーズンオフの岩屋堂は私が知っている岩屋堂で、あれが本来の姿に思える。
 今日はそんな1月の岩屋堂風景の写真を紹介したい。セリバオウレンが咲き始めていたとはいえ、まだまだ冬景色で、春は遠いと感じさせた。ここは瀬戸の冷蔵庫。名古屋は15度近い陽気だったのに、岩屋堂を歩いていたら寒くて体が冷え切ってしまった。瀬戸市内から車で10分ほどの距離なのに、気温は5度以上違うんじゃないだろうか。そういえば、去年は雪が積もっていたっけ。

1月の岩屋堂-2

 私の定点観測ポイント。ここの風景が今の岩屋堂を最も象徴するものだと思う。
 最盛期を知らないのが残念だ。観光地として活気があった頃のことを知っていれば、もっと感慨深いものがあっただろう。
 ここはいつの時代に一番流行っていたんだろう。昭和30年代から50年代にかけてだろうか。

1月の岩屋堂-3

 奥の瀬戸大滝まではちょっと距離があるので、手前の暁明ヶ滝を撮るだけにしておいた。
 かなりの暗さで、手ぶれ補正でも止めきれずにブレている。三脚を立てて撮るような大げさなものではない。一脚くらいは持ち歩いてもいいといつも思いつつ、車のトランクに眠りっぱなしだ。

1月の岩屋堂-4

 最近ちょっと凝っている水紋写真。水のうねりがメタリックのような質感になるのが面白い。
 紅葉のときにもっと撮りたかったのに、撮りきれなかった。次は新緑の季節が狙い目だ。

1月の岩屋堂-5

 水底に沈む枯れ葉というのも被写体としての可能性を感じた。ただ、気づくのが遅かった。これも紅葉の終わりの時期に気づいていれば、もっといろいろ探して撮ったのに。
 空の反射と上手く絡めて撮ると面白い写真になりそうだ。

1月の岩屋堂-6

 冬枯れの散策路。
 2ヶ月くらい前までは紅葉で色とりどりに染まっていたのに、今はすっかり葉も落ちて、枯れ木立の道となった。
 時期を変えて同じ場所を訪れると、四季のダイナミックな変化を実感する。また初夏に訪れたら、緑の葉が生い茂って、生き生きとした風景になっている。

1月の岩屋堂-7

 くれない橋から上流を見たところ。ここもよく撮る場所の一つだ。石がごろごろしている様子が、自然な上流の風景で心惹かれる。街中ではもう、こういう川の姿を見ることができなくなった。

1月の岩屋堂-8

 色が乏しい中、わずかに彩りを添えているのが、こういう赤い実だ。南天とか、万両とか、ピラカンサとか、そんなようなもののどれかだ。
 今のところ、赤い実を見分けられる人になりたいという気持ちはない。

1月の岩屋堂-9

 赤い葉だから紅葉といえば紅葉か。どんな樹木の葉っぱかは知らない。
 冬桜もまだ咲いていた。花といえば、それくらいだった。ここは春、夏でも花は多くないところだ。

1月の岩屋堂-10

 陶器製の小さな犬っぽいものが転がっていた。瀬戸だけに瀬戸焼だろうか。
 こんなものを撮ってしまうほど、被写体は少ない。この日はほとんど鳥にも出会えなかった。わずかにセグロセキレイと、シロハラを見ただけで、どちらも撮ったもののブレブレ写真で没となった。

1月の岩屋堂-11

 セリバオウレンが咲いている寺の裏庭に、こんなやつがいた。最初、鹿と思ったのだけど、犬かもしれない。目をむいている。
 古い感じだから前からあったんだろうけど、今回初めて気がついた。
 そういえば少し前に海上の森でニホンカモシカが目撃されたというニュースがあった。東谷山や瀬戸にも生息しているらしいから、もしかしたらどこかで出会えるかもしれない。ぜひ野生のニホンカモシカを撮ってみたい。

1月の岩屋堂-12

 帰り道ではこれもお馴染みとなったパルティせとを撮る。これを撮らないと瀬戸行きは完結しない。
 次に岩屋堂へ行くのは、桜の季節だろうか。桜の木は少ししかないし、名所というほどでもないのだけど、またふた月くらいしたら行きたくなることだろう。

 前のテンプレートは、クリスマスバージョンっぽかったので、模様替えをした。結局、茶色基調のものに戻ってしまった。この色合いが一番落ち着く。
 まだ完成ではないので、もう少しカスタマイズしていきたい。

言い訳をせずにセリバオウレンを撮れるようになりたい

花/植物(Flower/plant)
セリバオウレン-1

Canon EOS 10D+Canon EF100mm f2.8



 セリバオウレンを撮ると、どうにも言い訳がましくなっていけない。現場でも心の中で言い訳をしながら撮り、帰ってきて写真を現像しながら誰にともなく言い訳をしたくなり、こうして写真を載せる段になっても言い訳をしている。
 とにかく、この花は撮るのが難しい。一度でも撮ったことがある人なら、私が言い訳したくなる気持ちも分かってもらえると思う。実力があれば言い訳などせずとも、黙って撮った写真を差し出せばいいのだけど、3度目となった今回もその域にはまったく到達できなかった。
 セリバオウレンが瀬戸の岩屋堂に咲いていると最初に教えてもらったのが2006年で、そのときはどこに咲いているか分からずに帰ってきた。初めて撮ったのがおととし2007年のことで、浄源寺の裏山で念願の対面を果たすことができた。
 しかしながら、被写体としても難しさと、自分の力不足を痛感して、失意のうちに群生地をあとにすることになる。
 去年再挑戦するも、満足とは遠く、今年で3年連続3回目のセリバオウレン撮りとなった。
 去年、おととしは2月の15日、16日に訪れていて、どちらもやや遅めだった。今年はそれより2週間以上も早い1月の終わりだったけど、もうシーズンは開幕していた。まだ咲いている数は少ないものの、群生の様子を撮る花ではないし、固まって咲くわけでもないから、写真を撮るなら早めの方がいい。
 今日は撮ってきた写真を何枚か載せるわけだけど、よかったんだか駄目だったんだか、自分でも判断がつかない。去年、おととしの自分の写真と比べれば進歩してるとは思うけど、まだ上手く撮れているとは言い難い。相変わらず難しいという感想だけが残った。
 ネットの写真を見ると、みんな苦労している様子がうかがえる。誰が撮っても同じような写真になって、あまり工夫の余地がないようにも思う。プロはこの花をどう撮っているのだろう。そういえば写真家が撮ったセリバオウレンの写真というのを見たことがない。チャンスがあれば一度見てみたい。参考になるところがたくさんあるだろうから。

セリバオウレン-2

 とても小さくて目立たない白い花だから、立っている目の高さからではなかなか見つからない。だから、しゃがんで探す必要がある。その視線からなら、あっちにもこっちにも咲いている花を見つけることができる。
 花の大きさは1センチ弱だから、マクロレンズ以外ではまともに撮れない。広角ズームのマクロ機能程度ではそれなりに寄れても倍率が足りない。等倍マクロでさえ、一番上の写真くらいしか大写しにできない。
 ここはでこぼこの斜面なので、三脚を立てる場所がほとんどない。そういう部分での難しさもあって、手ぶれ写真の大量生産となる。手ぶれ補正が欲しいところだけど、それでもブレは止めきれないだろう。
 本気で撮るなら、ビニールシートを持参して、腹ばいになって、肘を地面に固定して撮るという方法がある。他に誰もいなければだけど。
 私がいつも行くのは夕方で、毎回天気が悪くて暗いというのも苦しい。午前中はあの裏山にも陽が当たるのだろうか。一度光の条件がいいときに撮ってみたい。

セリバオウレン-3

 この花は雌雄異株で、雄花と雌花、両性花があるというのはよく知られている。
 大部分が雄花で、真っ白いやつがそうだ。棒状の先に丸いのがついてるのが雄しべで、真ん中に雌しべだけを持つ雌花がわずかにあって、雄しべと雌しべを持った両生花もそこそこある。今回は雌花を見つけることができなかった。
 白い花弁のように見えるのは萼(ガク)だ。
 セリバオウレンは芹葉黄連と書き、セリのような葉っぱと、黄色い根茎が連なって伸びていく様子から名づけられた。

セリバオウレン-4

 なんだかんだで100枚以上撮ったけど、手ぶれ写真ばかりで、残ったのは10枚ちょっとだった。
 それらもどうもすっきりしない。上手く撮れたという手応えがない。本当にどうやって撮ったら一番いいんだろう。
 ポイントは花の数と位置と背景だというのは分かるのだけど、マクロレンズ特有の浅いピントが難しくさせる。絞るとシャッター速度が落ちてますます手ぶれを起こすし、背景もうるさくなる。
 セリバオウレンの季節になると、180mm f2.8のマクロレンズが欲しくなる。そんな高いレンズを買っても、出番は年に数回しかないだろうから、買いたくても買えない。

セリバオウレン-5

 シンプルに一輪をアップで撮るのが一番無難といえば無難だ。これで背景にもう少し明るい色を持ってこられれば、もっとよくなる。逆光の光があれば尚いい。

セリバオウレン-6

 ピントが合ってない写真は失敗写真ではあるのだけど、セリバオウレンの場合はピンぼけも幻想的な雰囲気になって、写真として成立する。
 ソフトフォーカスレンズでも撮りたいところだけど、あれは寄れないし大写しできないから、セリバオウレンを撮るにはまったく向かない。

セリバオウレン-7

 今年のテーマは、アップ写真だったから、似たような写真が多くなった。すべて絞り開放で撮っている。
 もう少し時間の余裕があれば、CanonのEF100mm f2.8とTAMRON 90mm f2.8の撮り比べをしても面白かったのだけど、それはまた別の機会にしよう。

 3回挑戦しても、セリバオウレンは難しいという印象は変わらなかった。シーズンはこれからまだ1ヶ月は続くから、もう一回行ってもいいかもしれない。
 どんな状況が最高だろうと考えたとき、雨上がりの直後に光が差してきたときというのが思い浮かんだ。そんな都合のいい状況はめったにないけど、もしそうなることがあれば千載一遇のチャンス到来だ。もしくは、早朝の日の出時間に行けばいいのか。
 何はともあれ、今年もまたセリバオウレンに再会できたことは喜ばしい。これでまた来年につながる。
 今年はここまで季節の花に対して先手、先手でいけている。去年は遅刻続きだったから、その反省がいきた。遅れるよりは早すぎる方がずっといい。この調子で、せめて春の終わりまでは季節の花に遅れずついていきたい。
 2月は福寿草と、できれば節分草も撮ってみたい。そうこうしてると初春の野草メンバーも顔を揃えてくる。スミレもそろそろ咲いてくるんじゃないか。
 去年は野草の勉強を怠けてしまったから、今年は少しでも進めていきたい。一つでも多くのはじめましてを求めて。

空コレ2009第一弾 ---この空を届けたくて

空(Sky)
空コレ-1

Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 他



 自分の気持ちがすでに春へ向かっているということもあってか、ここのところの空が冬から春へと移り変わってきているように見える。冬の厳しさがやわらいで、春の優しい空を予感させる。
 日常的に空を撮っていると、季節による表情の違いがだんだん分かるようになってくる。
 今日はそんな空写真を集めて並べることにした。一枚では特に意味がない空写真も、何枚か組み合わせると何か意味めいたものが出てくる。日常生活の中で見てる空も、様々な色や模様があることをあらためて知る。

空コレ-2

 空の表情は、色と光と雲の組み合わせによって決まる。
 時間帯によっても光の色は違うし、雲は刻々と姿を変えていく。
 一日中空を見上げていられるほど暇ではないけど、できるだけ気にするようにはしている。あ、いいなと思う瞬間は長く続かない。だから、いつでも写真を撮れるようにしておきたい。でも、撮れずに逃した空も多い。

空コレ-3

 これなどは、冬と春の間にしか見られないような空だ。薄くたなびく雲の感じが春っぽくて、空の高さは冬で、秋空とはどこか違っている。

空コレ-4

 夕焼け色といっても、文字通り色々で、オレンジもあれば黄色もあり、ピンクもあり、赤もある。夜の色が混じる紫も夕焼け色の一つと言える。
 たぶん、人それぞれ、頭の中にある夕焼け色のイメージも違っているのだろう。

空コレ-9

 冬空の楽しみの一つに、遠くの山の稜線がくっきり見えるというのがある。距離があるから、冬の澄んだ空気のときにしか見えない。
 今年になって初めて御嶽山が見えることを知って、毎日今日は見えるかどうか確認するのが楽しみになった。かなり条件がよくないと見えないから、見えると得した気分になる。

空コレ-5

 曇天の空もまた空だ。青空や夕焼けばかりが空じゃない。
 灰色一色だと面白くないけど、こんなふうに立体的な模様があると心惹かれて撮りたくなる。
 稲光を一度撮ってみたいと思いつつ、まだ撮ったことがない。春になればチャンスもあるだろうか。

空コレ-6

 街中へ行けば、空はビルや頭上を走る道路によって小さく切り取られる。
 こんな空を見ると、東京には空がないという高村光太郎の詩を思い出す。
 電線というのもなんとも無粋なもので、空を撮るときの一番の敵となる。

空コレ-7

 ドラマティックな夕焼け空は、郊外や田舎よりも都会の方が似合う。
 人類が築き上げた文明と、自然の驚異とのコントラストが絵になる。どちらも、私たちが今いる世界の現実だ。

空コレ-8

 緑地に沈む夕陽。街で暮らしていると、地平線に沈む夕陽を見ることはできない。
 見渡す限りの地平線の向こうに、大きな夕陽がゆっくり沈んでいく光景を、一生のうちに一度は見てみたいと思う。

空コレ-10

 尾張旭のいつもの場所で。
 広い夕焼け空を見たいときは、河原かここか、どちからへ向かうことが多い。
 今後はもっとたくさんの夕焼けポイントを見つけていきたい。

空コレ-11

 水に映る空。こんなところにも空はある。
 水が張った千枚田に映る夕焼け色というのも、撮ってみたい写真だ。
 春夏秋冬、それぞれの季節に楽しみはある。

空コレ-12

 静かな夕暮れ空。街の喧噪も、深い藍色の空に吸い込まれていきそうだ。

 空コレ2009第一弾はこれくらいにしておこう。これからも日常的に空を撮っていくだろうから、またある程度たまったところで第二弾をやろう。これ以外にもまだまだ空にはいろんな表情がある。
『世界の中心で、愛を叫ぶ』の中で、サクは空の写真を撮っては病室のアキに届けていた。
 アラーキーは、妻のヨーコを亡くしてから、空の写真ばかり撮って、空の写真集を亡き妻に捧げた。
 空の写真というのは、自分のために撮るものではないのかもしれない。私もまた、無意識のうちに、誰かに届けたくて撮っているのだ。この空を共有したくて。

カメとオウムのパラパラマンガ風花鳥園風景 <第4回>

動物園(Zoo)
パラパラ的花鳥園-1

PENTAX K10D+smc Takumar 135mm f2.5



 日頃ヌーボーとして、ほとんど動きを見せない巨大なカメが掛川花鳥園にいる。ケヅメリクガメのガオとラオだ。どうして花鳥園にカメがいるかはよく分からないのだけど、気がついたらそこにいた。最初に行ったときはまだいなかったような気がする。だから、来園したのは去年だったんじゃないだろうか。
 中央アフリカの乾燥地帯に生息している彼らは、最大で70センチにもなり、アルダブラゾウガメやガラパゴスゾウガメなどのゾウガメの次に大きなリクガメだ(三番目の大きさという説もあるらしいけどその場合の二番目を知らない)。
 体重も60~70キロくらいになる。
 花鳥園にいるやつは50センチくらいで、まだもう少し大きくなりそうだ。
 寿命は平均で30年、最高100歳まで生きた例もあるというから、物心ついてから飼い始めても、長生き勝負に勝てない可能性がある。
 寿命というのは言い換えれば心臓の耐久性で、大小にかかわらず鼓動の回数はどの生き物もだいたい同じようなものだと言われている。小さい動物ほど鼓動が早いから長生きできない。
 リクガメなんてちっとも動かないし、きびきびしたところがないから、非常にゆっくり生きていると言える。必然的に寿命は長くなる。人間もせかせかしていては長生きできない。
 名前の由来は、しっぽの付け根に生えている2本か3本の蹴爪状(けづめじょう)の突起から来ている。
 英名のSpurredは、拍車(乗馬靴のかかとのところについているギザギザの金具)をつけたという意味だ。
 普段はホットカーペットの上でぬくぬくすごして、そこから動こうとしない彼らも、エサの時間になると目の色を変えてエサに突進してくる。ゆっくりと、しかし着実に。すごくのろいけど、彼らにしたらあれでも全力疾走なのかもしれない。

パラパラ的花鳥園-2

 あと一歩のところまで迫った。もう少し、もう少しと、運動会で我が子を応援する親のような気持ちになる。
 でも、のっそりと迫り来る様子は、ちょっと不気味だったりもする。自分がエサの立場だったら怖い。わっ、来るな、あっち行けと思う。

パラパラ的花鳥園-3

 ついにファーストコンタクトに成功。一口目はまずトマトにかぶりついた。
 と思ったら、反対側では鳥さんが菜っ葉を盗み食いしてますよ。それに気づいているのかいないのか、一心不乱にむしゃぶりつくケヅメさんであった。

パラパラ的花鳥園-4

 アップで見ると怖い。動作はのろいけど、食らいつく姿は、肉食獣が草食動物の肉を食いちぎっているようだ。固そうなトマトも、イチゴをかじるようにかみ砕いていく。指を差しだしたら持っていかれそうな恐怖を感じる。
 リクガメは思ったよりも凶暴な生き物かもしれない。

パラパラ的花鳥園-5

 どうしてこんなにも連続で写真を撮ったかというと、ケヅメさんの舌がすごく分厚くて、それがチョロチョロのぞくのが不気味で笑えたからだ。口の中いっぱいの大きさのピンク色の舌で、ちょっと気持ち悪くて面白かった。
 トカゲやヘビの細長いような舌とは全然違う。

パラパラ的花鳥園-6

 これがケヅメさんのピンクの分厚い舌だ。トマトを食べているときに、舌がチョロチョロ出てきて、なんとなくおかしくて不気味だった。
 野生では、野草だとかサボテンなんかを食べているそうだ。乾燥地帯に暮らしているということもあって、水はほとんど飲まないという。
 サボテンなんかを噛みちぎれるくらいだから、やはりアゴ力は相当強い。歯はなさそうだ。

パラパラ的花鳥園-7

 キミ、盗み食いしたなと問い詰めて、オイラは食べてないやいととぼけても、口の周りがべちゃべちゃだからすぐにバレてしまう。
 トマトだけでなく菜っ葉もむしゃむしゃ食べていた。
 一回りして戻ってきたときにはほとんど残骸しか残ってなくて、もう一頭は動いた様子がなかったから、こいつがひとりであらかた食べてしまったようだった。あんなに食べたら、そりゃあ体も大きくなるというもんだ。

パラパラ的花鳥園-8

 こちらはオオバタンのサンタくん。毎日午後2時15分くらいになるとバックヤードから出てきて、30分ほどふれ合いタイムとなる。
 かなり人なつっこいオウムで、触らせてもくれるし、一緒に写真を撮ることもできる。サンタに会うのも楽しみの一つとなっている。
 インドネシアのモルッカ諸島南部の固有種で、体長50センチほどの美しいオウムだ。サーモンピンクの毛並みで、羽の内側には鮮やかな黄色やオレンジ色を隠し持っている。
 現地の熱帯雨林では小規模の群れで暮らしているそうだけど、近年は数が減っているらしい。
 大型のオウムだから、こいつもやっぱり30年以上生きるという。

パラパラ的花鳥園-9

 サンタくんは、首の後ろあたりをなでられるのが好きなようで、なでてもらっていると気持ちよさそうにだんだん傾いていく。

パラパラ的花鳥園-10

 ちょい傾き。
 この日は機嫌がよくて、終始おとなしくしていた。機嫌が悪いときは大きな声で鳴き叫ぶ。前にその様子も見たことがある。耳をつんざくような絶叫だった。

パラパラ的花鳥園-11

 傾きは90度。止まり木から落ちるんじゃないかと心配になる。まだいけるか。

パラパラ的花鳥園-12

 ついに90度を超えて、180度までいくんじゃないかと思わせた。
 ザ・ぼんちのおさむちゃんでもこんなに傾いてなかった。おさむちゃんでーす! って、今の人は知らないか。
 サンタくんも、この格好で、サンタくんでーす! と言えば、30代以上の人には受けるはずだ。

パラパラ的花鳥園-13

 うっとり傾きは、とうとう木に頭がつくところまでいってしまった。
 この日は誰に触られてもおとなしくしていたから、相当ご機嫌だったようだ。肩にも乗ってくれて、記念撮影もできた。
 ありがとう、サンタくん。

パラパラ的花鳥園-14

 ひとりになっても、木に頭をすりすりこすりつけていた。この動きは猫っぽい。甘えん坊の猫のような性格をしたオウムだ。気にくわないとヒステリックになるところなどは、うちのアイに似ている。

 今日はパラパラマンガ風に花鳥園風景をお送りしました。連続写真というのも、面白くなることがあるから、今後も意識的に撮っていきたいと思う。
 花鳥園シリーズは飛び飛びにもう少し続きます。

足元の小さな春はかがまないと見えない <東谷山後編>

花/植物(Flower/plant)
東谷山2-1

Canon EOS D60+Canon EF100mm f2.8



 春は足元からやって来る。お金を落とした人のように、注意深く地面を見ながら歩いていると、お金では買えない喜びをそこに見つけることができる。初春のホトケノザ一株。プライスレス。
 地面にかがみ込んでCSI科学捜査班のように写真を撮っている姿は、客観的に見るとちょっと怪しい。でも、世間の冷たい視線に負けていては小さな野草の写真は撮れない。野草撮りの恥はかき捨てくらいの意気込みが必要だ。
 上級者はシート持参で腹ばいになるらしいけど、私はまだそこまで達観できていない。野草王への道のりは遠い。
 今日は東谷山フルーツパークの後編ということで、野草編をお送りします。小さな春は、もうやって来ていることを知ってもらうために。

東谷山2-2

 街中ではまだ見かけることが少ないタンポポも、ここではすでにたくさん咲いていた。東谷山フルーツパークはホントに春が早い。春一番の野草を見に行くのにオススメのところだ。
 農業センターはどうなっているだろうか。東山植物園もそろそろ気になってきた。

東谷山2-3

 花は終わってすでに綿毛になっているのも多かった。タンポポのサイクルはどれくらいの早さなんだろう。芽が出て、花が咲いて、綿毛になって、それが飛んでいくまで何日くらいなのか知らない。タンポポは自分の家で育てるものではないし、そんなにタンポポのことを気にして生きていられない。

東谷山2-4

 これもタンポポだろうか。だとしたら、どの段階なのだろう。花が終わったところなのか、綿毛のあとなのか。
 アップで撮ったら面白い写真になった。これが完成型の植物であってもいい。

東谷山2-5

 春一番の野草の中では、このナズナが一番早いのかもしれない。他の野草はよく探さないと見つけられないけど、こいつは探すまでもなくあちこちに咲いていた。
 七草粥の一員だから、1月7日には咲いていなくてはいけないわけで、そう考えると今咲いているのも当然といえば当然か。
 何度覚えても忘れてしまう春の七草だから、ここでもう一度おさらいして覚え直しておこう。
 セリ、ナズナ、御形(母子草)、ハコベラ(ハコベ)、仏の座(小鬼田平子)、すずな(蕪)、すずしろ(大根)。

東谷山2-6

 ハコベも初春野草の中では初期メンバーの一つだ。
 野草写真の撮り方も鈍っているけど、野草の見分け方も一年ぶりということで勘が戻らない。
 ハコベも、コハコベとミドリハコベの見分け方を忘れてしまっている。ウシハコベやノミノフスマなんてのもあったっけ。
 また一から出直しだ。

東谷山2-7

 スイセンは冬に咲く白くて清潔な花という印象だけど、わりと長く咲いているから、最盛期がいつかというのがはっきりしない。12月くらいから咲き始めて、4月くらいまで咲いている。1月の今はもう終わりかけていたから、一番のピークは12月ということになるのだろうか。
 スイセンの学名ナルキッサスは、池に映る自分の顔に見とれて水に落ちて死んだギリシャ神話の美少年から来ている。水辺でうつむいて咲いているスイセンも、自分の姿に見とれているのだろうか。

東谷山2-8

 これは明らかに野草ではない。原産国では野草なのかもしれないけど、日本では違う。
 名前は知らない。野草でもなく、ポピュラーな園芸種でもなければ、初めから名前を当てることはあきらめている。そこまで手を広げられない。基本的なものでさえ覚え切れてないのに。

東谷山2-9

 こういうキク科の花も多くて、区別は半ばあきらめている。野草っぽくもあるけど、やっぱり園芸種だろう。
 この花を見たら、キクザキイチゲとニリンソウを思い出した。3月の終わりにはまた足助の飯盛山に会いにいこうか。
 毎年見たいと思いつついまだ見たことがないセツブンソウはどうしよう。鳳来寺の石雲寺まで行けば群生しているのは分かっているけど、ちょっと遠い。どこか近場で咲いてないのだろうか。でも、植物園なんかで見ても面白くない。やはり野生で咲いているのを見てこその感動だ。
 完全な山歩きになるけど、鈴鹿の藤原岳で見るというのも念願の一つだ。

東谷山2-10

 おまけはシロハラさん。だと思う。
 茂みでガサゴソ音がするから何だろうと思ったら、シロハラが葉っぱの中を突いてエサを探していた。地面の下では、もう虫たちが動き出しているのだろうか。

 これから少しずつ春も深まっていく中で、野草も増えて賑やかになっていく。2月になればセリバオウレンも咲く。そこで福寿草も見られるかもしれない。
 撮る回数を重ねていけば、野草撮りの勘も戻ってくるだろう。冬の間は休んでいることが多かったマクロレンズの登場回数も多くなる。去年までとは違う野草写真の表現というのも模索していきたい。
 1月もそろそろ終わりが近づいた。暦の上ではまだひと月は冬だけど、冬と春が融合するのが2月という月だ。冬にやり残したことはないか、撮り逃したものはないか、もう一度確認してみる。この季節が行く前に、残り少ない冬を愛おしもう。

郷土料理でまとめるはずが朝鮮出兵してしまったサンデー

料理(Cooking)
郷土料理サンデー

Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8



 今日のサンデー料理は、漬け物ステーキに始まり、郷土料理を経由して、日本と韓国の融合料理となった。こんな経路で進む料理もあまりない。韓国料理の店には一度も行ったことがないからよく知らないのだけど、韓国料理店に行ってこの料理が出てきたら、韓国らしい料理だなと感想を持つと思う。オモニの料理っぽい。
 テレビの黄金伝説で見た漬け物ステーキというのを作ってみたくて作ったところまではよかったのだけど、次になめろうへつないで郷土料理で統一しようとしたところ、日曜は市場が休みで新鮮な青魚が手に入らず、路線変更となって予定が狂った。飛騨高山から房総半島へ行くはずが、間違って朝鮮半島へ向かってしまった。
 カツオのたたきも考えたのだけど、あれは5月から初秋にかけてのものだから、今はシーズンオフだ。で、結局マグロの切り身で作れる料理しかなくて、こうなったのだった。
 そんな思惑外れがありつつ、今日のサンデー料理は始まった。

 まずは漬け物ステーキの話をしよう。なんでも、飛騨高山地方では昔から漬け物を焼いて食べる習慣があったそうで、いつからか漬け物ステーキというのは地元の人間なら誰でも知っているメジャーな料理として定着したらしい。
 知ってただろうか。私はまったく知らなかった。岐阜とはお隣にもかかわらず、名古屋でも三重県でもそんな話は聞かない。テレビの朝市でお母さんが紹介してるのを見て、初めて知った。
 実は私、漬け物全般がとても苦手だ。子供の頃何度か食べて、すっかり嫌いになってしまった。給食で出たたくあんなど、泣きながら食べた記憶がある。大人になっても漬け物は一切食べない。ごく稀に気が向くとカレーに乗っている福神漬けを食べるくらいで、あのすっぱい感じがなんとも嫌だ。
 しかし、漬け物ステーキにすると漬け物嫌いの人でも美味しく食べられるという。何にしても食わず嫌いはよくないし、ここで多少なりとも漬け物を克服できればそれに越したことはないと思って、一度挑戦してみることにした。
 結果は、けっこういけた。しっかり味をつけるから、もはや漬け物の味は飛んでしまっているとも言えるのだけど、こういう食べ方があるというのは新発見だった。
 作り方としては、まずは白菜をぎゅっと手で絞って水分を抜く。地元の人は熟成させた白菜を使うそうだけど、初心者の私は普通の白菜漬けにしておいた。いきなり上級者向けでは厳しいだろうと判断した。
 絞った白菜をごま油で炒めて、しょう油、味噌で味付けをするというのが基本形だ。私は更にダシの素、唐辛子、マヨネーズを加えた。アレンジとしてはバターで炒めるというパターンもある。
 味付けをしたら、溶き卵を回し入れて、半熟まで固めれば完成だ。本当はこのあとかつお節を振りかけるのだけど、今回は忘れてしまった。青のりやごまを振ってもよさそうだ。
 漬け物をあえて焼く必要があるのかという気もするけど、普通の白菜を使ったのではこの風味は出ない。やはりこれはこれで一つの料理として体をなしていると言うべきだろう。熟成したのを使えばもっと深い味わいになるのだろうか。
 白菜の他にもいろいろな漬け物でできるようだから、余った漬け物などがあればそれで一度作ってみるといいと思う。私もこうやって少しずつ漬け物への抵抗感をやわらげていって、60過ぎたくらいには漬け物が食べられるようになっていたい。

 右手前のがマグロのユッケもどきだ。
 マグロのユッケというのもよく分かっていないから、これが本当にマグロのユッケなのかどうか自信はない。ユッケの意味も知らないし、定義は何なんだろう。
 オレ流マグロユッケの作り方はこうだ。
 マグロの切り身を薄切りにして、塩、コショウを振り、刻んだ大葉とよく混ぜる。そこに卵の黄身を混ぜ合わせて、甘辛く味付けをしたたれをかけるだけだ。
 たれは、しょう油、酒、みりん、砂糖、酢、唐辛子、ダシの素、ショウガ、わさびを混ぜて、ひと煮立ちさせて作った。
 刺身もよほど新鮮で高級なものなら生でそのまま食べるのが一番美味しいのだろうけど、普通の切り身はひと工夫した方が美味しく食べられる。ユッケもどきも簡単で美味しいから、オススメしたい。

 左奥は、けんちん汁の脱線版だ。何故脱線かというと、肉を入れるとけんちん汁ではなくなってしまうらしいから。精進料理じゃないんだからということで、鶏肉を使った。作り方はけんちん汁だ。
 ジャガイモ、こんにゃく、ゴボウ、鶏肉をごま油で炒め、お湯を足して湯がいて、ダシの素、酒、しょう油、塩、コショウで味付けをした汁物がけんちん汁だ。味噌を入れるパターンもあるとはいえ、やはりすまし汁の方がけんちん汁らしい。
 建長寺の修行僧が作っていた建長汁が変化してけんちん汁になったというもっともらしい説があって、一応神奈川の郷土料理ということになっている。ただし、実際は中国の巻繊(ケンチェン)という油炒めの料理が元になっているというのが正しいようだ。

 右奥の料理も、今回郷土料理を調べている中で初めて見知ったものだった。山口の郷土料理「けんちょう」というものだ。
 これも色々バリエーションがあるようだけど、大根と豆腐のごま油炒めというのが基本になるらしい。山口では誰もが知っていて、家庭料理としてもよく作られるから、郷土料理と思っていない山口県民も多いんだとか。全国的にありそうでない料理だ。
 考えたら、今日作ったけんちん汁の汁なし料理と言えなくもないか。
 木綿豆腐は水切りをして、大根とニンジンを柔らかくなるまで下茹でする。それに砕いた豆腐を加え入れてごま油で炒め、酒、しょう油、みりん、砂糖、塩、コショウで味付けをしたら出来上がりだ。
 料理としてはいい加減なものだし、見た目も上品とは言えないけど、これが意外と美味しい。家庭料理で一品加えるときもいいし、自炊する学生とかにもよさそうだ。残り物の野菜を付け足してもいい。

 以前に何度かサンデー料理で郷土料理を作ったことがあって、今回あらためてその可能性を感じることとなった。世の中にはまだまだ私の知らない郷土料理がたくさんある。料理名を聞いても、まったく想像できないものも多々ある。おはっすんとか、ハントンライスとかいわれても、何のことやらさっぱり分からない。調べれば面白いものがありそうだ。郷土料理もシリーズ化していきたい。
 料理の基本をないがしろにしてそんな方ばかり向いてるから上達しないのだという内なる声に少し耳を傾けつつ、作って面白いものを今後も作っていこう。それが趣味の料理だ。

春はもうすぐ目の前まで来ています <東谷山前編>

花/植物(Flower/plant)
東谷山1-1

Canon EOS D60+Canon EF100mm f2.8



 私たちが毎日寒い、寒いと言ってる間に、春は着実に準備を進めて、自分の出番を待っている。待ちきれないやつらがちょっと出てしまってもいる。
 1月。冬の渋枯れ風景を最初に彩るのが梅の花だ。早くも花が咲き始めたというニュースを見ていたけど、これほど進んでいるとは思わなかった。もう春は目前まで迫っていた。自然から離れた街中で暮らしていると、季節の移り変わりに気づくのが遅れる。大寒も過ぎて、あと10日もすれば立春だ。そりゃあ春も来る。季節の歩みが早いわけではない、私たちが鈍感なだけなのだ。
 心の準備ができていないまま、いきなり花シーズンが開幕してしまった。秋の終わりには、これでしばらく花も撮れないかと寂しい思いをしていたけど、もう花がやってきてしまったのかと、今はちょっと慌てている。花を撮るという感覚が急には戻らない。頭の中のイメージもできていない。少しの間、準備期間が必要だ。
 新春の野草を撮りに行こうと思ったとき、最初に思い浮かぶのが農業センターと東谷山フルーツパークだ。あとは、グリーンピア春日井というのもちょっとある。
 どこにでも咲くありふれた野草も、場所によって時間差がある。気温よりも土が肥えているかどうかの方が大きくて、木を植えてある土は状態がいいから、野草もそれに便乗して早く咲いてくる。公園や街の空き地などと比べてずいぶん先行する。
 というわけで、手始めに東谷山フルーツパークに行ってきた。去年は名物のしだれ桜を見に行かなかったから、2007年の4月以来ということになる。
 咲いている花はあまり多くなかったけど、そこそこ写真は撮れたから、前後編の2回に分けることにした。前半の今日は、木に咲く花編ということでお送りします。

東谷山1-2

 しっかり咲いていた花も二つや三つではなく、今にも咲き出しそうな蕾もたくさんついていた。開花が例年より2週間早かったというから、満開も普段の年より1週間は早くなりそうだ。うかうかしてるといい時期を逃してしまうから、気をつけないといけない。
 今年はどこへ梅を撮りに行こう。梅の名所はあるようで意外とない。農業センターのしだれ梅は去年も行ったから今年は休みでいいかと思っている。梅はついでに見かけるところがちょくちょくあるし、名所ならではの光景というのもあまりないから、張り切って撮りに行くという感じではない。
 愛知県の梅名所というと、名古屋市内なら大高緑地、県内なら知多の佐布里池といったあたりだろうか。
 三重県津市の結城神社のしだれ梅は一度見てみたい。今年はここ一箇所に絞ってもいいかもしれない。

東谷山1-3

 梅というのもまた、難しい被写体で、何度撮っても撮り方がよく分からない。定番的な構図さえ理解していない。
 花のアップを撮っても面白くないし、梅並木というのもないし、人と絡めて撮るにしてもイメージが見えてこない。
 今年は梅の写真をたくさん見て、自分でもたくさん撮って、梅撮りの練習をしよう。梅の何を伝えたいのかということをまず自覚しないといけない。

東谷山1-4

 今回のお目当ての一つが、このロウバイだった。ポツリ、ポツリと、花を咲かせていて、特有の香りを漂わせていた。
 中心部が赤くないから、ソシンロウバイ(素心蝋梅)だろう。たくさん咲いてくるのは、まだこれからだ。
 もう一つの初春の黄色い花であるマンサクも探したのだけど、見つけることができなかった。マンサクはもう少しあとか。
 見つからなかったといえば、福寿草も見つけることができなかったのは残念だった。サイトには蕾が膨らんでいたという情報が載っていたから、どこかに植えられているはずなのに。
 まだ見ぬ福寿草を見るには、東山植物園に行くのが確実だろう。あそこにはあるらしいから、2月になったら行こう。

東谷山1-5

 パッと見てサザンカ(山茶花)と判断したけど、考えてみると背の低さからカンツバキ(寒椿)のようにも思えてきた。サザンカの花びらの数は多くて10枚ほどで、カンツバキの方は八重咲きで15枚以上になる。
 となると、やはりこれはカンツバキか。
 晩秋から初春まで、粘り強く咲いている花だけど、そろそろ終盤だ。咲いている花も少なくなっていた。

東谷山1-6

 これは背が高い木に咲いていたからサザンカでいいと思う。
 来る花があれば行く花があり、前の季節の花は、次の季節の花に席を譲る。同じ場所に、季節の花が咲いては消え、消えてはまた次の花が咲いてくる。不思議なものだ。
 年間を通じて同じ場所を定点観測して、365枚の写真を並べることができたら、それは面白い連続写真になる。

東谷山1-7

 何かの花芽だろうか。ドウダンツツジだったような気もする。
 この冬芽は花芽と葉芽が一緒になったもののようだ。
 ちびっこたちが元気に手を挙げている姿を連想させた。

東谷山1-8

 何かの葉っぱの紅葉の生き残り。
 春なら見逃してしまうところだけど、色が少なくなっている冬だから目についた。冬風景における華やかな色は、工業高校の女子生徒のように貴重だ。

東谷山1-9

 水の中の枯れ葉風景。
 春が見えてきたところで、今度は冬枯れの風景をもっと撮りたいような気持ちになってきた。冬にしか撮れない枯れた風景をまだしっかり撮っていない。
 冬の茶色は、料理の茶色に似ている。それはそれでいいもんだ。

東谷山1-10

 この時期、外でなっている実はほとんどないのに、キンカンだけはたくさん実をつけていた。今が最盛期のようだ。
 キンカンなんてものはのど飴でしか味わったことがないのだけど、実は皮ごと食べられるそうだ。
 といっても、生で丸ごとかじるというのではなくて、このまま砂糖などで煮詰めて食べるらしい。今度スーパーで見たら一度買って食べてみよう。

東谷山1-11

 いくら春が近づいたとはいえ、しだれ桜の並木はまだまだ冬のままだ。咲いてくるような気配はまったくない。しだれ桜はソメイヨシノより遅くて、4月10日くらいが満開だろう。それまでにはまだしばらく時間がある。季節の歩みは早くとも、一足飛びにいくわけじゃない。休まず着実に歩みを進める中で、いくつもの段階を経ていく。まずは梅が主役になる番だ。
 またこの季節が巡り来て、春の入り口に立つことができたことを喜びたい。

最近食べたケーキやバウムクーヘンや肉まんやお菓子の話

食べ物(Food)
最近食べたもの-1

Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 他



 誕生日にはケーキを食べる。そんな当たり前だけど当たり前じゃないことを、私たちは特に疑問に思うことなく毎年繰り返している。誰が始めたことかも知らず、いつから当たり前になったのかということを調べようともしないまま。
 今年もまたそんな季節がやってきた。ケーキは食べたいけど、この日が来ることはあまり歓迎したくない気持ちが強い。まあ、来てしまうものはしょうがないか。歳月は人を待ってくれないし、歳月から逃れることもできない。
 私の周りにはやたら1月生まれの人間が多くて、12月のクリスマスからケーキラッシュが始まる。バレンタインデー、ホワイトデーまで入れると、月に1度か2度はケーキを食べることになる。だから、もう合同でいいかという話にもなりがちだ。
 ここ最近は自分で作ったり作ってもらったりということが多くなっていたのだけど、今年は店で買うことにした。たまにはちゃんとしたケーキが食べたいぞということで。裏を返せば、私の作るケーキがちゃんとしてないということでもある。
 久々に不二家のケーキを買ってみた。ホワイトチョコ生ケーキのSサイズ、15.5センチで1,800円は、まずまず安いか。
 スポンジはチョコレートスポンジで、ホワイトチョコクリームをサンドしてあり、上面は生クリームに粉砂、刻んだホワイトチョコが散りばめられている。
 これを食べた人間の誰もが口にするであろう第一声は、「甘い!」という言葉だ。久しぶりにこんなに甘いケーキを食べた。甘さ控えめが主流となっている今の時代に真っ向勝負という甘さだ。不二家のケーキといえば昔から甘いという印象が強かったけど、現代まで独自の姿勢を貫いてるところに好感が持てる。消費者にこびていない。ケーキは甘いものなのだという信念がある。これを食べると、ケーキの甘さが与えてくれる幸福感を思い出す。
 それにしても甘いな、これ。

 日本において、誕生日にケーキを食べる習慣が始まったのは、戦後にアメリカ文化が入ってきたあとのことだ。戦前も一部のお金持ち階級では誕生日ケーキが食べられていたのかもしれないけど、庶民にまで誕生日ケーキが一般的になったのは戦後の混乱が収まってのちだ。戦中は当然ケーキなどという贅沢品は口に入らない。
 一説ではマッカーサーが奨励したという話もあるようだ。
 そもそもケーキのたぐいが初めて日本に入ってきたのは、16世紀の室町時代末期に、ポルトガル人宣教師が長崎に持ち込んだカステラが最初だということになっている。
 乳製品を使ったケーキが作られるようになるのは、それからまだずっとあとの時代になってからだ。江戸時代の庶民は牛乳を飲んだりチーズを食べたりなどいう習慣はなかった。時代劇でケーキを食べている殿様もいない。
 ただ、吉宗は酪農場を作らせているから、将軍家では牛乳を飲んでいたのかもしれない。
 今の私たちがイメージするケーキが作られるようになったのは、明治以降のことだ。そう考えると、ケーキの歴史は案外浅い。
 世界を見ると、ケーキの原形はすでに古代ギリシャに存在していたと言われている。
 誕生日ケーキということでは、中世のドイツですでに食べられていたそうだ。
 ヨーロッパでは19世紀以降、かなり一般的なものとなっていたようだ。
 現在の日本ではたくさんのケーキが作られるようになっている一方で、誕生日ケーキというのは先細りの傾向にある。ケーキ屋へ行ってもデコレーションケーキはあまり売っていない。予約してから買いに行くというのが一般的なスタイルになっているようだ。昔は夕方のバスや電車で、お父さんが大きなケーキの箱を抱えている姿をよく見かけたけど、ああいう光景はほとんど見られなくなった。誕生日に家族揃ってケーキを食べるなどというのも、今後はますます減っていくのだろうか。

最近食べたもの-2

 この前の花鳥園での昼食風景。合同ミニ誕生会も兼ねていた。見た感じ、誕生日らしくはないけれど。
 バウムクーヘンというのは、家庭ではなかなか作れないケーキだ。焼くための設備と、棒をくるくる回す台があればできるのか。原理としては単純で、棒に生地を垂らしながらくるくる回転させて何重にも焼き付けていけばできる。
 それにしても、面倒ではある。ドイツ人が考えそうなケーキだ。イタリア人の発想ではない。フランスっぽくもない。

最近食べたもの-3

 焦げて失敗した伊達巻きではない。ロールケーキだ。全然そんなふうに見えなくても、作った私が言うのだから間違いない。これはロールケーキだ。
 初めて挑戦したロールケーキはひどいことになってしまった。丸くならず、ひらべったくなるという典型的な失敗の上に、焼き時間が足りなかったようで、一部が半生のままという危険さをも併せ持っていた。
 本当ならこれを花鳥園に持っていって昼ご飯にするつもりだったのだけど、ハライタになるといけないというのでお蔵入りになってしまったのだった。
 帰ってきたあともう一回焼き直して食べたのは食べた。味は美味しかったから、没にしてしまうには惜しかった。
 中は溶かしたチョコレートで、周囲はココアパウダーと粉糖をまぶしてある。ただ、まだ熱があるときに焦って振ってしまったものだから、粉糖などは溶けてしまった。あれは冷ましてからまぶすものだったのか。
 ロールケーキはもう一回挑戦したい。失敗した卵焼きもどきのままでは終われない。私はロールケーキが焼ける男になりたい。

最近食べたもの-4

 食べ物つながりで、最近食べたものをいくつか便乗して紹介しよう。
 余ったリンゴがあったから、リンゴジャムを作ってみた。けっこう美味しいし、難しいものじゃないからオススメしたい。
 リンゴの皮をむいて、適当な大きさに細かく切ったら、鍋で焼いていく。
 砂糖はリンゴ2個に対して120~150gくらい。
 レモン汁が大さじ1.5くらい必要なのだけど、ポン酢でも代用が利く。
 水を加えなくても汁気が出るから水は使わなくてもいい。ただ、煮汁にアクが出て、それを取っていくとコテコテになってしまうから、水またはワインなどを少し入れてもいい。
 蓋をして、弱火で20分から30分くらい煮れば出来上がりだ。
 煮沸消毒したビンなどに入れて冷蔵庫に保存すれば一年くらいは持つそうだ。
 イチゴとかブルーベリーとかオレンジとか、いろんなものでジャムはできる。

最近食べたもの-5

 市販品の偉大さを再認識するために、たまには店売りのものを買って食べる必要がある。
 やっぱりプロが作ったものはちゃんとしてるなぁと、あらためて思う。
 でも、和菓子にもまた挑戦したい。次は砂糖菓子を作ってみよう。

最近食べたもの-6

 何年ぶりに食べたか思い出せない井村屋の肉まん。記憶の中にある味と変わっていなかった。
 肉まん、あんまんを一番食べていたのは小学生のときだったから、あの頃の感覚が蘇った。寒くなってくると肉まん、あんまんが食べたくなって、みんなで遊んだ帰りとかに駄菓子屋などでよく買って食べた。
 当時は1個50円だった。今は値段も高くなっているけど、物価を考えたら今の方が安いと言えなくもない。
 そのうち、中華まんだとかカレーまんだとかの新製品が登場して、最初はそっちに飛びついたりもしたけど、結局は肉まん、あんまんに戻っていった。今日は肉まんにしようか、あんまんにしようかと迷うのも楽しかった。

最近食べたもの-7

 若い女性に大ヒット中で、おいしさイナズマ級のブラックサンダー。ブラックマンデーは聞いたことがあってもブラックサンダーは知らなかった。訳すと黒い稲妻。そんなものはないけど、なんだか強そうな名前だ。
 北京オリンピックで銀メダルをとった内村航平選手がこのチョコが好きと言ったことで話題になったそうで、箱買いしたという親戚が分けてくれた。
 チョコレートスナック菓子というのか、食べたことがあるような味と食感だけど、何かによく似ているというわけでもなさそうだ。スニッカーズのような粘りはなく、歯ごたえとしてはキットカットに近いだろうか。
 これは確かに美味しい。コンビニやスーパーで見かけたら一度ぜひ。

 今後もちょくちょく手作りしたり、何か面白い食べ物があったら写真に撮って、まとまったところで紹介したいと思っている。
 ケーキ作りもなかなか上達しないから、もっと数を作らないといけない。ふわふわスポンジへの道のりは遠い。

落合公園の鳥たちと枯れた池風景

施設/公園(Park)
落合公園の鳥-1

PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di



 落合公園の写真がまだ残っていたから、使える写真を今日で全部出し切ってしまうことにした。花鳥園はいったん中断する。
 一枚目は、小さい方の池にかかる太鼓橋と、佇むアオサギさん。ここからもう一歩近づいたところで気配を察して、飛んで逃げていった。こちらとしてはもっとお近づきになりたいと思っていても、向こうはそれを望んでいない。人と野鳥との関係は、いつだって一方通行の片思いだ。鳥の人などは、ほとんどストーカーに近い。

落合公園の鳥-2

 池の水は3分の2以上が抜かれていて底が大きく露出していて驚いた。何のために水を抜いたのかと思ったら、去年の夏の暑さでアオコが大量発生したために、水を総入れ替えしているそうだ。なるほど、パイプから水がちょろちょろ流れ込んでいたのは、水を元に戻しているところだったのか。あの水量では満杯になるまではまだかなり時間がかかりそうだ。
 魚もいるだろうし、渡りのカモたちにとっても水は必要不可欠だから、早くなんとかしてあげて欲しい。
 それに何より、池に水がないと風景が殺伐としてしまう。公園の水というのは心にも潤いを与えるものだとあらためて知った。
 水辺でちょこまかしていたのは、セグロセキレイたち。こいつらは水陸両用だから、少々水が減ったくらいではあまり影響はない。

落合公園の鳥-3

 ん? コチドリ? 今どきこんなところにコチドリっているだろうか。夏の渡り鳥というイメージがあるのだけど。これはコチドリじゃない?
 110円切手なんてものはめったに使わないだろうけど、110円切手にはコチドリが描かれている。ついで書くと、120円はモズで、130円はウソ、140円がイカルで、160円がカケスだ。切手のデザインを担当した人は鳥の人かもしれない。他にも、コブハクチョウ、メジロ、オシドリ、シジュウカラ、ヤマセミ、キジバト、カルガモ、銀鶴と、切手は鳥だらけなのであった。

落合公園の鳥-4

 水の少なさが不人気を呼んだか、見かけたカモはカルガモとコガモ数羽のみだった。ちょっと寂しい。
 手前の小さいやつはカイツブリだろうか。毛の色が薄くて、ちょっと違うやつにも見えたのだけど。

落合公園の鳥-5

 完全に干上がっている部分。この光景にはちょっと愕然とした。異常気象がもたらした不吉な光景のようで。
 向こうに見えているのは水の塔という建物で、フォーリーというものらしい。フォーリーってなんだよと思う。よく分からないけど、ポンプで水を汲み上げる仕組みだとかどうとか。
 塔の一番上まで登ることができて、そこは展望台になっている。けれど私が行くのはいつも夕方で、午後4時には閉まってしまうため、まだ一度も登ったことがない。公園を一望できて、遠く御嶽山まで見えるそうだ。

落合公園の鳥-6

 この冬初めてツグミを見た。
 例によって、チョンチョンと跳ねて遠くを眺め、地面を突き、またチョンチョン跳ねては立ち止まって遠くを見るという動作を繰り返していた。
 ツグミは何を見ているのだろう。

落合公園の鳥-7

 謎の遺跡風モニュメント。特に何か意味があるものではなさそうだ。
 夕陽に照らされて、日没時間が近づいたのを知らせた。

落合公園の鳥-8

 夕焼け色に染まる建物と、桜並木を行く人たち。走るお兄さんに学校帰りの女子高生、犬を散歩させるおばさま。
 ここは桜の名所としてもちょっと知られたところで、池の周囲をぐるりと桜並木が囲んでいる。シーズンになると屋台なども出るようだ。桜の季節はまだ一度も行ったことがないから、今年は行ってみようか。
 名古屋は例年より2週間も早く梅が咲いてきた。そろそろ遠くに春の気配が見え隠れしてきた。足元の小さな野草も咲き始める頃だ。

落合公園の鳥-9

 仕事帰りのおじさんたち。どこからともなくワラワラと湧いてきて少し驚いた。

落合公園の鳥-10

 ひとり歩き去るおじさん。どこから来てどこへ行ったのか。
 この公園の客層というのが今ひとつ読めない。どの公園にもそれぞれの特徴というのがあって、一回見ればだいたいどんな感じなのか分かるものなのに、この公園は二度三度と訪れてもよく分からない。何をしに来たのかよく分からない人がちょくちょくいるからだろうか。散歩でもなくどこへ向かうでもなくただ歩いているおじさんとか、池を棒で突いているおじさんとか、不思議な人がいて、印象を掴み損ねる。桜の季節でもないのに写真を撮っている私の存在も浮いていた。

落合公園の鳥-11

 一部だけ切り取ると、サバンナの日暮れみたいな写真になった。

落合公園の鳥-12

 日没で時間切れ。カモもいないし、もう帰るかということになった。
 今回の落合公園シリーズはこれで終わりだ。次回は桜のシーズンにお会いしましょう。そのときまでには池の水も元に戻っていることだろう。少し早めに行って、水の塔にも登りたい。

撮りきれない難しさともどかしさが次回につながる花鳥園 <第3回>

動物園(Zoo)
冬の花鳥園3-1

PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di / smc Takumar 135mm f2.5



 花鳥園シリーズ第3回もノンジャンル、ノンテーマでお届けします。残った写真をあらためて見てみても、今回は狙いが曖昧だったと思う。新たな試みのアイディアがないまま臨んでしまった。でも、次こそはと思えるからこそ何度も行きたくなってしまうというのがあって、撮り切ったと思えない方がいいのかもしれない。
 動物園の場合は、一回行くと満足してしまって、しばらくは行かなくてもいいやと思えるのだけど、花鳥園の場合は行って帰ってくると課題が見つかって、またすぐに行きたくなる。生き物の動きの量と変化の差だろう。動物はいつ行ってもだいたい同じ顔ぶれだし、動きも少なくて決定的な瞬間というのがあまりない。鳥はよく動くし、花鳥園自体が常に新しい要素を追加していっているというのもある。
 飛びものは何度撮っても難しいという思いが残って、毎回満足できない。表のタカショーもだし、温室のコガネメキシコインコもそうだ。
 コガネは横からではなく正面からビシッと撮ってみたい。相当スピードが速いから、オートフォーカスでは追いつけない。引きつけて至近距離から撮りたければ、マニュアルフォーカスの置きピンで撮るのがよさそうだ。それも気づいたのは帰ってきてからのことだった。次回はそのやり方で撮ってみようと、今からイメージトレーニングを始めている。言うほど簡単じゃないのだけど。

冬の花鳥園3-2

 何の前触れもなく突然狭いプールで走り出すフラミンゴさんたち。足元のセイタカシギたちは蹴散らされ、逃げまどう。何がフラミンゴたちを突然の疾走へと駆り立てるのか、人間には分からない。野生の血が騒ぐのだろうか。
 ところで、ピンク色のフラミンゴを見ると、何フラミンゴだったか思い出せず、毎回もどかしい思いをする。モモイロフラミンゴだと思うとベニイロフラミンゴだったり、ベニイロだと思うとチリーフラミンゴだったりして、なかなかやっかいだ。区別の付け方がよく分かってない。
 花鳥園にいるやつはオオフラミンゴだろうか。ヨーロッパフラミンゴとも言うはずだ。
 などということがありつつ、実は全部同じ種類なんじゃないかという話もある。フラミンゴ本人はそのあたりのことをどう思ってるのだろう。チリー? あんなものと一緒にしてくれるな、なんて思ってるのだろうか。

冬の花鳥園3-3

 ミミズクは、太い足で力強く地面を蹴って、パサッと一回翼を羽ばたかせて、フワッと空に浮いたときが美しい。
 表の飛びもの編はそのうち特集したいと思っている。ただ、今回はデジとレンズの力不足でボツ写真続出となって、あまり枚数が残らなかったと、あらかじめ言い訳しておこう。

冬の花鳥園3-4

 キラキラの水面をバックに、ハクチョウは優雅に泳ぐ。
 これはコブハクチョウだったと思う。
 去年の春に生まれた子供たちもだいぶ大きくなって、親とあまり変わらないまでに成長していた。クチバシが黒いところで分かったけど、その色が変わったらもう見分けがつかなくなるんじゃないか。
 そういえば、少し前に東京の石神井公園にオオハクチョウ4羽が飛来したというニュースがあった。そこまで南下するのはかなり珍しい。この冬は特別寒いわけでもないのに、どうしたことだろう。このまま東京で越冬するのだろうか。
 安曇野ではオオハクチョウを見ることができなかったから、いつかどこかで一度見てみたい。

冬の花鳥園3-5

 シロクジャクの羽と、ホワイトプランの女の人のマッチングがよかったので、ちょっと撮らせてもらった。
 花鳥園でモデル撮影会というのはいけるんじゃないか。鳥とたわむれるところはもちろん、背景の組み合わせによっては面白い写真になりそうな予感がある。
 ミス掛川のお姉さんとかにお願いして、夏は浴衣姿とかで撮影会をすると盛り上がりそうだ。ゴスロリと花鳥園は合わなそうだけど。

冬の花鳥園3-6

 羽を広げたインドクジャクの舞台裏。
 自然界も裏は完全に手抜きしているというのが面白い。裏側もきれいな模様があってもかまわないのに、すっかり油断してしまっている。完全に裏地状態だ。
 メスは裏側を見てどう思うのだろう。表は人間が見る以上にきれいに見えているらしい。

冬の花鳥園3-7

 クラハシコウのモロさんは、いつも一羽でちょっと寂しそうにしている。
 けど、ご飯の時間をよく知っていて、ご飯タイムが近づくと、いつもの自分の場所から陸の方にゆっくりあがってきて、スタッフの方に近寄っていく。
 クラハシコウのエサやりもできて、これがなかなか楽しい。ワカサギを顔の前に放ってやると、器用にクチバシでキャッチして食べる。写真もくわえているところなのだけど、小さくて見づらいか。
 アンダースローで投げようと手を下に持ってきたところで足元にいるトキたちがかっさらっていくので注意が必要だ。それで何匹取られたことか。
 クラハシコウはかなり動作がのんびりだけど、泳いでいる魚を捕れるのだろうか。いざとなったらすごく速い動きを見せるのかもしれない。それも見てみたい。

冬の花鳥園3-8

 アフリカワシミミズクの三兄弟。ヤマトとタケルが2004年生まれで、一番左のミコトが去年生まれた末っ子だ。
 実はヤマトとタケルはメスらしい。オスメスの区別はある程度大きくならないと分からないようだ。ミコトはオスではないかという話だった。
 この並び順は決まっていて、別のところに置くとケンカになるのだという。漫才師の立ち位置のようなものだ。

冬の花鳥園3-9

 メンフクロウのケンちゃんも、ずっとオスだと思っていたら、去年卵を産んでメスだったということが発覚した。
 残念ながら子供が生まれることはない。ペアの仲良しであるロックもメスだから。
 このときは午前中で、フクロウたちはみんなまだ眠そうだった。花鳥園のフクロウは夜寝て、昼間起きているから、午前中に行くと寝起きなのだ。

冬の花鳥園3-10

 いつもはどこを見ているのか分からないアンソニーだけど、このときはちょっとカメラ目線になった。いつもは黒目が上の方にあるから、アンソニーはすっとぼけた顔に見える。そこが愛嬌でもあるのだけど。

 こうして写真を並べて見ていたら、もっと動きのある写真を撮りたいということに気づいた。写真は止まっているものだけど、動きに対して意識的であればもっと動きのある写真が撮れるはずだ。興味の対象を絞り込んで、もう少し根気よく狙う必要がある。
 という反省を踏まえつつ、次回の第4回はパラパラマンガ風でいってみようと考えている。

連続する選択を自分の意志で選択しながら進みたい

未分類
分岐点

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 人生には大きな分岐点や小さな分かれ道がたくさんあって、私たちは意識的に、あるいは感覚的に道を選んでいる。生きることは選択の連続だ。
 迷えば曲がるべきタイミングを逸し、選択を放棄すれば道なりに進んでしまう。
 常に目の前に道がある。真っ直ぐ行くか、右へ行くか、左へ行くか。もしかしたら次の選択は、人生を左右する重大なものとなるかもしれない。何気なく選んだ道が大きな不幸につながるかもしれないし、その逆もあり得る。
 運命、宿命、偶然、必然。人の一生にはそれらの要素が複雑に絡み合って一つの結果として表れる。他人と関わることで、複雑さは更に増す。国に支配され、時代に翻弄されることもある。運命がすべてじゃないだろうけど、全部が偶然とも思えない。
 大いなる意志のようなものが見え隠れして、ときどき自分の思惑とは別の方向に導かれていると感じることもある。
 選択は、慎重に、そして、大胆に、確固たる意志を持ってすることが大切だ。
 流されれば悪い結果になったとき人のせいにしたくなる。自分で選択した上での不幸なら誰のせいにもできない。
 人生に正解の道はないのかもしれないけど、行き止まりはある。それは不運ということで片付けていいものではない。道を間違えるにはそれなりの必然がある。
 間違った道を進むことは立ち止まるよりも悪い。当てもなく闇雲にただ進めばいいというわけではない。ときには道を選ばないという選択もある。
 とりたてて選択をしなくても時間が運んでいってくれる人生もある。ただ、それが好結果につながったとしても、あまり価値はない。人生は自分で選択してこそ面白くなるものだから。逆に言えば、選択ということをないがしろにするから楽しめないとも言える。待っているだけでは誰も面白いことなど運んできてはくれない。
 自分で考えて、自分で決めて、自分から出向いていって、自分で経験する。そこに学びがあり、成長がある。習慣に身を委ねてはいけない。いつもの道を意識的に外れてみるところに刺激がある。
 人の可能性は無限でも何でもないけど、選択肢は常にあるものだ。完全な自由はなくても自由度はある。選択の自由は権利だから使わないのはもったいない。
 道は作り出すものでもある。大通りや裏道など、今ある道が道のすべてではない。道なき道を行けば、そこが道になる。
 自分の死後、自分の名前がついた道ができるというのも一つの可能性としてある。
 あの世で神様が問うかもしれない。おまえの選んだ道は正しかったと思うか、と。
 そのときはこう答えたい。正しかったか間違っていたかは分からないけど、自分が選んだ道に後悔はない、と。
 自分で選ばない人生だけは送りたくないとずっと思ってきた。それはこれからも変わらない。

花鳥園の色を撮るというテーマに気づいたのは帰宅後 <第2回>

動物園(Zoo)
冬の花鳥園2-1

PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di / smc Takumar 135mm f2.5



 今日は花鳥園シリーズの第2回をお送りします。
 毎回違うデジとレンズを持っていって、新たなテーマを探しているのだけど、今回はそれがちょっと曖昧になってしまった。飛びものを撮るために買ったCanonのLレンズ80-200mm f2.8を持っていく予定だったのが、直前になって思いとどまったことで狙いが中途半端になった。どうしてやめてしまったかというと、その理由は次の写真にある。

冬の花鳥園2-9

 これは表から温室に戻ってきて撮った一枚で、ソフトフォーカスレンズではなく、普通のレンズで撮っている。10度以下の室外から20度くらいある室内に入ってくると、急激な温度差でレンズが曇ってしまう。花のある温室は湿度も高いので、結露に近いような状態になってしまう。これでは怖くて高いレンズは持っていけない。
 というわけで、今回は最悪カビが生えても大丈夫なレンズを持っていくことになったのだった。次に行くのは早くても春で、その頃はもう外も暖かくなっているだろうから、今度こそ80-200mm f2.8と20Dの組み合わせで飛びものに再挑戦したいと思っている。

冬の花鳥園2-2

 今回ははっきりしたテーマもないまま撮ることになったわけだけど、帰ってきてから写真を見ていてテーマが見つかった。花鳥園の中にあるカラーに注目して撮ればよかったのだと気づいた。
 ただ、気づいたときはもう帰ってきたあとで、それを意識して撮ってないから、カラーに特化した写真は数枚しかない。惜しいことをした。カラーをテーマにして撮っていたら、もっといろんな色のコレクションができた。色とりどりの鳥たちがいる花鳥園では、色彩には事欠かない。
 上の写真でも、フラミンゴとセイタカシギのピンク色の足に注目していれば、もっとピンクを前面に出した写真を撮れたはずだ。

冬の花鳥園2-3

 白というのは無色に近いような感覚があるけど、自然界における白は強烈な個性を持つ色となる。白は目立つし、不利なことも多い。白い生き物というのは、弱いものが多い。
 そのはかなさもあるのか、人は白い生き物を美しいと思う。カラフルなクジャクもきれいだけど、シロクジャクも負けないくらい美しい。

冬の花鳥園2-4

 同じ白色でもハクチョウの白はまた別物だ。質感が違うと印象は違ってくる。防水だけに光沢がある。

冬の花鳥園2-5

 フクロウの目は、動物のような深みを持っている。普通の鳥の目とは全然違う。猫なんかに近い。
 目の色は微妙な個体差があって、オレンジでも黄色に近いものから赤みがかっているものまで色々だ。
 色を撮るなら、マクロレンズも必要不可欠となる。

冬の花鳥園2-6

 色といえば花で、常春の温室では一年中熱帯のスイレンが咲いている。
 ただ、温室の花というのは、どうも撮っていて楽しさが感じられないもので、花に加えてもう一つプラスアルファの要素が欲しい。
 蝶とかトンボとかが飛んでると嬉しいのだけど、やはりそれは鳥のエサになってしまうだろうか。
 水中で泳いでいる魚は、なかなか撮りづらい。

冬の花鳥園2-7

 面白い形をした花があった。フクシアの仲間だろうか。ピンク色も清楚で可憐だ。
 花の名前のプレートがあってもいいのかなと思う。

冬の花鳥園2-8

 今回はあまり人入り写真を撮らなかった。でもやっぱり、人が入っている写真が一番自分らしい写真だと思う。人がいる風景や光景が、私が一番撮りたい写真だから。

 花鳥園写真はたくさんあるようで意外とないかもしれない。枚数は撮っているけど、被写体が重複してるから、使えるものとなると案外少ない。写真の在庫はたっぷり集まったと安心してると、すぐに底を尽きそうだ。
 同じような写真が続くと私も飽きるから、また散策に出かけて写真を撮ってこないといけない。花鳥園シリーズは一気に終わらせようとせず、ぼちぼち続けていくことにしよう。

豚の角煮とはまだ友達にはなれなかったサンデー

料理(Cooking)
角煮サンデー

Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8



 今日のサンデー料理は、豚の角煮を作ることが目的のほとんどすべてだった。角煮を食べたいというよりも、角煮を作ってみたいという気持ちの方が大きかった。残りの2品は付け足しのようなものだ。
 豚の角煮を外で食べたことがあるだろうかと考えて、たぶん一度もないということに気づいた。よくテレビで人が食べているのを見ていて、箸で切れるくらい柔らかいですねとか、口の中で溶けてしまいますとかいうのを聞いて、私も一度そんなふわとろの角煮というものを食べてみたいと思っていた。私が食べたことがある角煮は、家で母親が作った今ひとつ柔らかくない角煮だけだ。噛んでいるとアゴが疲れるくらいの歯ごたえがあるのが常だった。
 そもそも豚の三枚肉というのは、煮込めば煮込むほど柔らかくなるものなのだろうか。それとも、一定以上煮込むと逆に固くなったりするものなのか。柔らかくするには何か秘密があるのかどうか。
 今回、いろいろレシピを見て、圧力鍋で1時間ほど煮込んでみたのだけど、思ったほど柔らかくならなかった。脂肪分のところは当然とろけるようではあるけれど、本体の身の部分はしっかり引き締まったままで、噛み応え充分だった。家庭ではこの程度が限界なのか。
 まずは豚の三枚肉をフライパンで焼くところから始めた。軽く焦げ目がつくまで表面を焼いて、余分な脂を落としつつ、旨みが逃げないように封じ込める。
 その後、鍋に移して、ひたひたまで水を入れて、30分ほど下茹でする。このとき長ネギやショウガを入れるというレシピもあった。肉を柔らかくする効果があるのだろうか。私はこのときはまだ入れず、あとから入れた。
 煮込んだお湯をいったん捨てて、鍋に水、しょう油、酒、みりん、砂糖を入れて煮立たせ、そこに肉を入れて、更に煮込んでいく。通常の鍋なら3時間。圧力鍋なら20分ほどというレシピが多い。
 私もとりあえず圧力鍋で20分煮込み、15分ほど蒸らしてみた。しかし、これではまだ全然柔らかさが足りないということで、更に20分煮るこにした。このとき、大根とゆで卵、長ネギ、ショウガ、はちみつも投入した。
 これでいったん冷まして、味を染み込ませることにする。その後、もう一度20分ほど煮込んでみることにした。煮込めるだけ煮込んでどうなるか知りたかったということもあって。
 その結果が上の写真の完成図だ。色合いはなかなかいい。相当煮込まれて鍛え上げられた色をしている。味もしっかり芯まで染み込んだ。
 ただ、とろける食感には遠い。パイナップルやキュウイを入れると肉が軟らかくなるというから、そういう裏技的なテクニックが必要かもしれない。
 極端な話、三日三晩煮込み続けたらどうなるのだろう。溶けてしまうくらい柔らかくなるのだろうか。それとも、肉汁が抜けきってカスカスになってしまうのか。
 最初からもっと上等な豚肉を使えばそれで済む話といえばそうだけど、そういってしまうと身も蓋もない。
 点数としては60点くらいだから、また挑戦してみないといけない。その前に店で角煮を食べてみるのもいい。そうすれば基準というか目標がはっきりする。けど、豚の角煮って、どういう種類の店にある料理なのか、よく分からない。和食のような中華のような洋食のような、どれも違うようにも思う。居酒屋のメニューなのか。ファミレスにもありそうななさそうな、どっちだろう。
 料理ができることをアピールするとき、よく肉じゃがを作れますという女の人がいるけど、肉じゃがなんて誰でも作れるから、本当に料理ができると言いたければ豚の角煮が得意ですと欲しい。美味しい豚の角煮が作れる人なら、それ以外の料理はたいていできると判断していい。

 肉じゃがといえば、今回は変わり肉じゃがとして、鶏のひき肉そぼろ肉じゃがを作ってみた。奥の料理がそうだ。
 ジャガイモ、ニンジン、タマネギを下茹でして、そこにダシの素、酒、みりん、しょう油、塩、コショウでやや薄めに味付けをする。
 鶏のひき肉は、フライパンで炒める。こちらも、ダシの素、しょう油、酒、みりんで、ちょっと濃いめに味付けする。
 最後に二つをあわせれば完成となる。
 これは味的には申し分なかったのだけど、絡み具合としては今一歩だった。そぼろとジャガイモを一緒に食べるのは難しく、スプーンで食べるほど汁気はない。
 残念ながら、ノーマルの肉じゃがを上回ることはできなかった。
 そぼろは好きだから、何か他にもっといい組み合わせを見つけたい。何にでも合いそうでいて、合うものはなかなかない。

 右のものは、豆腐の卵かけというのか、作る前も、作ったあとも、自分でもよく分からない一品だった。
 絹ごし豆腐は、魚焼きグリルで焼いて、卵は、牛乳、塩、コショウ、チーズ、コンソメの素、タマネギ、ベーコンを混ぜて、弱火でゆっくり焼く。
 豆腐のオムレツ乗せといえばそうかもしれない。

 何はともあれ、ずっと気になる存在だった豚の角煮を作れたことは収穫だった。一度でも自分で作ってみれば、その料理と自分との距離が一気に縮まる。見知らぬ他人も、一度言葉を交わせば知り合いになるのと同じだ。
 豚の角煮以外でも、他人以上知り合い未満のような料理がたくさんある。そういうものを今後とも作っていって、親しい料理を増やしていきたい。そして、親友料理とでもいうようなものを見つけたい。

また来たのかとアンソニーも思ったかもね <真冬の花鳥園1回>

動物園(Zoo)
真冬の花鳥園1-1

PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di / smc Takumar 135mm f2.5



 またまた掛川花鳥園に行ってきた。そして、また開園から閉園までたっぷり楽しんできた。何度行っても飽きないところだ。今回もたくさん写真を撮ってきたので、今日から何回かに分けて紹介していこうと思っている。
 まだ写真の現像が途中までしか終わってないので、一回目の今日は、特にテーマを決めずに選んだ10枚を載せることにする。選んだ基準はなんとなく。これが今回のお気に入りベストテンというわけでもない。雰囲気重視の写真ということになるかもしれない。

真冬の花鳥園1-2

 大温室をけたたましく鳴き叫びながら飛び交うコガネメキシコインコたち。前回行ったときよりも数が増えて、迫力も増した。
 スピードに翻弄されて、ビシッと決まった写真を撮るのは難しいのだけど、この飛びもの撮りは面白い。

真冬の花鳥園1-3

 K10Dでは屋外での飛びものでも苦労した。猛禽の飛行速度にピントスピードがついていかない。後半からマニュアルレンズを使ったら、今度は露出合わせが間に合わなかった。デジの選択を間違えた。

真冬の花鳥園1-4

 エサヒヨをくわえて、猛禽らしい精悍な顔つきをしている。
 ピントの甘さが残念なところ。

真冬の花鳥園1-5

 突然羽をばたつかせながら水上を走り出すハクチョウたち。何があったのかは分からない。何かから追いかけられたわけでも、何かを見つけて追いかけているわけでもない。特に理由もなく走り出したい気持ちになって走り出しただけかもしれない。

真冬の花鳥園1-6

 こちらが勝手にお友達と思っているヨウムのアンソニー。
 相変わらずのおとぼけ顔で、そっけなく迎えてくれた。いつもながらどこを見てるんだか、何を考えてるんだか、さっぱり読めない。
 賢いやつだから、もう私たちのことを覚えてくれただろうか。内心、こいつら、また来たかと思っていたのかも。

真冬の花鳥園1-7

 人気者のポポちゃんはお疲れのご様子。お仕事の時間以外は、常にうとうとしてるような感じだった。人気タレントはつらい。
 ただ、この前見たときよりやさぐれてなくて、全体的にふっくらした感じもあったので、少し安心した。

真冬の花鳥園1-8

 レンカクのチビはいなかった。前見たのはもう大きくなったのだろうか。

真冬の花鳥園1-9

 温室の中で放し飼いになっているヨウムとは心を通じ合えない。態度がよそよそしい。
 右にいるのは、オオハナインコだろうか。違う種類の鳥同士だけど、お互いにどう思っているのだろう。鳥の間ではコミュニケーションが成り立っているのだろうか。

真冬の花鳥園1-10

 名付け親になったミコトと対面が叶った。すっかり大きくなって、もう大人とほとんど変わらない。顔つきを見ても、幼さは残っていない。無事に成長してる姿を見られてよかった。室内の飛行ショーでも活躍しているそうだ。

 真冬の花鳥園シリーズ1回目はこれくらいにしておこう。

猫もいろいろ、ノラもいろいろ

猫(Cat)
落合公園の猫-1

PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di



 落合公園の猫たちのたまり場その一。行くと必ずといっていいほど、このあたりにたくさんの猫たちがたむろしている。このシーンを見たときも、あまりにもお約束通りだったので、ちょっと笑ってしまった。

落合公園の猫-2

 少し距離を詰めてみた。最初はこちらに寄ってきたのだけど、私が食べ物を持ってないと分かるとすぐに離れていって、揃って明後日の方を向いてしゃがんだ。
 みんないい体つきをしていて、健康状態もよさそうだ。私が気まぐれにカリカリをやることもないだろう。

落合公園の猫-3

 猫もグループになると、相性問題や上下関係が生まれてきて、弱い奴は強い奴に追い払われ、仲良し同士はじゃれあっている。
 この2匹は、模様の出方こそ違うものの、どちらも三毛猫ということで兄弟かもしれない。まだ1年にもならない子供たちだ。

落合公園の猫-4

 意地の悪そうな顔をしてるなと思ったら、本当に意地悪で、気の弱そうな猫を追いかけ回していた。
 人間も猫も、性格が顔に出る。顔が性格を作るという部分もあるかもしれない。

落合公園の猫-5

 インパクトのある猫を発見。モサモサの毛並みに極太しっぽ。そして短足。今は亡き根津神社のライオン丸を思い出した。
 もっと近くから撮りたいと近づくも、何か興味のあるものを追いかけて軽やかな足取りで走っていった。重そうな体つきの割に動きは軽快だった。私もあとをついて行ってみることにした。

落合公園の猫-6

 明らかに何かを狙っている。その視線の先を目で追いかけていったら、鳥がいた。本気で捕まえようとしていたようだけど、それはなかなかに難しい。
 しかし、横から見るとタヌキみたいだ。

落合公園の猫-7

 当然ながら鳥はどこかへ飛んでいってしまった。まだあきらめきれずに飛んでいった方をじっと見るノラ。
 その後、土手を降りてどこへともなく去っていった。

落合公園の猫-8

 干上がった池の中に猫たちが集団でいた。
 ちょっと保護色のようになっているけど、この画面の中に5匹いる。周囲にもまだ何匹かいた。

落合公園の猫-9

 戻ってきたときもまだここにいた。
 冬場は寒いだろうけど、無事に生き延びて全員で春を迎えて欲しい。

 今日は鳥とたわむれて、たくさん写真を撮ってきた。明日以降にその写真を出していこうと思っている。落合公園の写真もまだ少し残っているから、それもいずれ改めてまた。
 眠気に負けて、今日はここまで。

早寝早起きで時間がないから落合公園の写真を並べて寝る

施設/公園(Park)
落合公園1-1

PENTAX K10D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di



 明日は超早起きで、今日は超早寝なので、写真だけ並べて寝てしまう。春日井にある落合公園で撮った写真だ。
 みなさん、お先におやすみなさい。

落合公園1-2

 流し撮りには成功したけど、水面の映り込みにまで気が回らなかった。下までちゃんと入ってたら、文句なしの成功だった。

落合公園1-3

 水面の映り込みは、光だけではなく周りの自然物や建物も利用できる。特に光を反射した色つきの建物があると面白い写真になる。
 水紋もポイント。

落合公園1-4

 とても貫禄のある猫。ノラらしいでっぷりした体型をしている。
 でも元々このサイズでなかったであろうことは、顔を見ると分かる。顔のパーツが中央に寄っていて、顔が膨張してしまっている。頬周りの肉付きが余分だ。

落合公園1-5

 冬の夕焼けは、濁りのないきれいなオレンジ色をしている。みかん色と言ってもいい。

落合公園1-6

 池は極端に水が少なくなっていて、半分以上が干上がっていた。どうしたことだろう。何かの理由で抜いたのだろうか。
 水が少ない分、映り込みを撮れる部分は限られていた。

落合公園1-7

 夕焼けのシルエットの場合、葉を落とした冬枯れの木の方が絵になる。これも冬ならではの写真だ。

落合公園1-8

 今日はここまで。
 落合公園の続きは、いずれまた近いうちに。

変わりゆく故郷の風景と変わらない故郷の思い出

丹生(Nyu)
田舎風景2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 この停留所から乗り降りしたことはほとんどない。大昔に何度かあったのだろうか。よく覚えていない。いつも大師前で降りていた。
 かつては村にも三重交通の路線バスが走っていた。赤字続きで廃線になったのはいつだったか。もうずいぶんになる。10年か、もっとか。今は村営のバスが走っている。いや、丹生も村ではなく町に組み込まれたから町営か。
 前に時刻表を見たときよりも本数が増えているような気がしたのは気のせいだろうか。しかし、一本逃すと致命的なのは変わりない。
 子供の頃はこのあたりまで来れば水路の近くを蛍が飛んでいた。溝には魚だけでなく、ドジョウも泳いでいた。今はもうそんな時代ではない。夏休みには家の明かりに向かってカブトムシやクワガタが飛んできたものだけど、それももう大昔の思い出話だ。変わらないのは、蝉の鳴き声くらいのものだろう。

田舎風景2-2

 通い慣れた細い道も、気がつかないうちに左右の風景は移り変わっていった。昔の家並みがどうだったか、今となっては思い出すことができない。昔のアルバムを見ても、このあたりは写真を撮ってないはずだ。
 なんでもない風景の写真を残しておくことの大切さを知るのが遅かった。

田舎風景2-3

 途中、左に折れて登っていく坂道がある。この道はほとんど歩いた記憶がない。もしかしたら一度も歩いていないかもしれない。
 狭い村の中でも行ったことがないところはたくさんある。昔は詳しい地図を持って隅から隅まで歩いてみようなどという発想はなかった。風景をきちんと観察するようになったのも、写真を撮り始めたここ数年のことだ。
 この村で暮らしていたわけではないから知らないところがたくさんあるのも当然なのだけど、今思えば好奇心が足りなかった。どこからどこまでが村の中なのかもよく分かっていない。

田舎風景2-4

 そろそろ遠くにうちが見えてくる。この直線の感じは昔から変わっていない。右手に田んぼが広がり、左には家屋が並ぶ。
 ただし、これらの家の人たちとはまったく交流がなかった。田舎というと世間が狭くて村人全員が知り合いのようなイメージを持っている人が多いと思うけど、実際はそうとも言えない。狭いから動向はすべて筒抜けになるものの、直接的なつき合いは案外限定的なものだ。街中とそんなに違わない。
 子供の頃から毎年、夏休みと冬休みに長期滞在していた私だけど、村の子供と遊んだのは1、2回しかない。大人同士のつき合いも、ごく限られているように見えた。

田舎風景2-5

 家の前の通りまでやって来た。うちの様子はほとんど変わっていない。左の蔵は、外装が変わった。昔は白壁の土蔵だった記憶がある。そこにボール当てをしてよく遊んでいて、たまに叱られた。歴史的建造物に軟式ボールをぶつけてはいけないと、今なら分かる。
 前の家とは交流があって、よく行き来もした。その人たちも亡くなった。

田舎風景2-6

 斜め前の家の人については、何も知らない。子供の頃でさえ住んでいるのかどうか分からないような感じだった。
 家自体は昔の姿そのままに残っている。これだけきれいに保っているということは、今でも誰か住んでいるのだろうか。家は人が住まなくなると、すぐに荒れていくものだ。
 この右手の道は、よく歩いた道だ。上っていくと水路があって、田んぼがあって、雑木林となり、その向こうに池がある。そこは釣り場で、よく連れていってもらった。大人になってから一人で池を見に行こうとしたら、歩けるような道がなくなっていて、途中で断念することとなった。誰も好きこのんであんなところの池まで行こうとしないのかもしれない。

田舎風景2-7

 ここは父の生家で、長らく祖父母が住んでいた。物心ついてから何度となく来た家で、心の故郷でもある。
 祖父が亡くなり、祖母も亡くなって、とうとう住む人がいなくなった。残ったのは思い出だけとなった。
 もうここで年を越すこともなく、お盆を過ごすこともない。今はまだその実感が湧かない。寂しく感じるのは、もっと何年も経ったあとかもしれない。

田舎風景2-8

 主のいなくなった家は、魂が抜けたようなしらけた空気に満たされている。温もりが消えてしまった。
 この家そのものも、いつかなくなってしまう日が来る。
 人が死ぬことで失われるのは命だけじゃないことを、あらためて思い知る。

田舎風景2-9

 そこにあるのが当たり前だったものが消え、記憶にはないものが増えていく。そうやって風景も変わっていく。その場所に関わった私たちもまた。
 悲しいといえばとても悲しく、一方であきらめて受け入れるしかないことも分かっている。

 季節(とき)が流れる 城塞(おしろ)が見える
 無疵(むきず)な魂(もの)なぞ何處(どこ)にあらう?


 中原中也が翻訳したアルチュール・ランボーの詩を久しぶりに思い出した。
 この先も風景は移り変わり、私たちもまた変わり続けていく。前に進むということはそういうことだ。
 ただ、これからも私の心は、幾度となくこの場所に舞い戻ることになるのは間違いない。故郷を完全に失ったわけじゃない。記憶の中には、いつまでも残っていく。そのことの幸福を今こそ思う。

完璧には記憶を再現できないから見慣れた光景を撮っておく

丹生(Nyu)
田舎風景1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 記憶というのは不確かなもので、頭の中にある思い出を取りだして見てみようとしても上手く再現できない。だから写真を撮るのかもしれない。写真に撮らなかった失われた風景は、もう二度と完璧には再構築できない。
 写真は未来の自分に対する贈りものだと気づいたとき、私は見慣れた風景をもっと撮ろうと決めた。ずっと未来で懐かしい光景というのは、旅先で見た感動的な場面ではなく、普段無感動に幾度となく目にしている光景に違いない。
 松阪に行った日に、田舎の丹生にも寄ってきた。あまり時間はなかったのだけど、ざっと一巡りして、写真を撮った。次はいつ行けるか分からないという思いで見る風景は、懐かしくて切ないものだった。

田舎風景1-2

 丹生大師についてはこれまで何度も紹介してきたから、今日は付け足すことはない。
 右手にある丹生神社についても、ある程度書いた。
 普段ならここで初詣をすることが多いけど、今年は地元の八剱神社でしてきてしまったから、大師さんには入らなかった。

田舎風景1-3

 昔はよくこの池に氷が張った。最近はどうなんだろう。
 池には鯉やら亀やらがたくさんいる。子供の頃は、そいつらにかっぱえびせんをあげるのが定番だった。

田舎風景1-4

 大師の門前には駄菓子屋風のお店があった。私がまだ子供の頃だ。
 あまり寄りつかなくなって以来、お店の状況がよく分からない。気づいたらもう店をたたんでいた。
 一番思い出深いのは、店先にあったガチャガチャだ。ミニカーのガチャガチャをさんざんやった。

田舎風景1-5

 子供の頃にはなかった、ふれあいの館。地元の野菜やおみやげ物などを売っている店だ。安いものは安い。高いものは高い。
 今回も弘喜堂のうづらの郷は売ってなかった。もう一般販売は終わってしまったようだ。
 お店の人も歳を取って、後継者がいなければ続いていかない。
 いつ行っても当たり前に買えたうづらの郷がやがて買いたくても買えなくなってしまうなんて、あの頃は想像すらしてなかった。

田舎風景1-6

 実質的な田舎の入り口。ここからの風景を見ると、ああ、田舎に帰ってきたと実感する。
 思い出の原風景の一つだ。ここは昔とほとんど変わってないように思うけどどうだろう。

 この続きは、また明日か、あさってに。
 つづく。

成人の日にタワーズライツを撮りに行って2008年クリスマスが完結

イルミネーション(Illumination)
タワーズライツ-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 名古屋駅のイルミネーション「タワーズライツ」が今日までということで、日没間際、名古屋駅に向けて車を走らせた。クリスマスシーズンはとっくに終わり、正月気分も抜けた今になってイルミネーションもないだろうと思いつつも、毎年見に行っているものだから見ておかないと気持ち的にすっきりしないものが残りそうで、それが嫌だった。テレビの映像やみんなの写真ではさんざん見ていても、自分の目で見るのとは違う。遠巻きでも何でも、実物を自分で撮りさえすれば満足する。
 今日は最初から車を降りるつもりはなかった。車内から撮れるポイントは分かっている。

タワーズライツ-2

 市役所の交差点。右斜め前に名古屋城がある。今日は名古屋城に寄っている時間はなかった。日没が迫って、イルミネーションを見るにはいい時間になってきた。
 もっと早い時間にここを通っていれば、晴れ着姿の新成人をたくさん見ることができたはずだ。おととしだったか、見かけて写真を撮った。今日は残念ながら出会うことはできなかった。名駅でも結局撮れずに終わった。

タワーズライツ-3

 新御園橋交差点。名古屋高速の出入り口付近で、カーブの造形が美しい。
 今日は祝日ということで、このあたりも車が少なかった。いつもなら名古屋駅に近づくにつれて車が増えて渋滞するのに、今日は流れがよすぎて車から写真を撮る余裕がなさすぎるくらいだった。桜通も、列を作っているのはタクシーばかりで、信号で止まらなければ撮れなかった。

タワーズライツ-4

 泥江町(ひじえちょう)の交差点。右折の信号待ちでちょうどいいポジションになった。おお、やってるな、タワーズライツ。
 平日は夕方5時半からで、週末や祝日は5時から始まる。期間中は毎日夜の10時までやっていた。名古屋らしい終了時間の早さだ。この時間になると店も開いてないし、人の数もぐっと減る。深夜まで人がうじゃうじゃいる東京とは違う。

タワーズライツ-5

 桜通の交差点で、ここから撮れば充分だろうと思っていたのだけど、いざ来てみるともっと欲が出てきた。信号機や駐車場案内のボードも邪魔だし、もう少しロケーションのいいところまで近づいてみることにする。

タワーズライツ-6

 車の中からタワーズも含めて全体を撮るにはこのあたりがいいポジションだと思う。駅前の交差点を左折して、斜めになっているところに停車させると、運転席側の窓から撮ることができる。これならガラス越しじゃないから画質の劣化もない。
 難点は人通りも車通りも激しくて、注目を浴びがちだという点だ。とりあえずそこは我慢するしかない。一年の一度の恥はかきすてということで。

タワーズライツ-7

 タワーズガーデンとテラスに向かう光の道。車を降りて歩くとこのあたりも撮れたのだけど、それはあきらめた。ここまで完全に撮ろうとすると大がかりなことになる。

タワーズライツ-8

 タワーズライツも今回で8回目となる。毎年、派手にグレードアップしてきて、今回は「輝きの絵本の世界へ、ようこそ。」というテーマのイルミネーションだった。雰囲気としては去年のバージョンアップといった感じだ。
 100万個のLEDが使われ、動きの演出も増えた。季節によってもバージョンがあって、クリスマス前とクリスマスシーズン、年明けと3つのパターンがあったようだ。今回見たのは、最後の新年バージョンだった。
 スクリーンの大きさは横43メートル、縦22メートル。50メートルプールくらいといえばその大きさのイメージが掴めるだろうか。
 最初にクマが登場してお辞儀をするところから始まる。次に絵本が出てきて、本が開かれるとそこからお城と街が現れる。街に光が灯り、花火が上がる。それが終わると空から雪が降り始め、オーロラが空にかかる。

タワーズライツ-9

 やがて明かりが消え始め、城はみるみる小さくなって、絵本に吸い込まれてゆく。夢から覚めたみたいに。

タワーズライツ-10

 街は色を失い、絵本のページに飲み込まれてしまう。そして、私たちも現実へと引き戻される。クリスマスなんていっときの幻想だったと、ふと我に返る。
 なんだか妙に切なくなるようなイルミネーションだ。このとき、確かにクリスマスは終わったのだということを実感した。絵本が閉じられてしまえば、物語も終わる。2008年の私たちのクリスマスも終わった。
 タワーズライツも終わり、2008冬物語は完結した。

タワーズライツ-11

 絵本は裏表紙となり、私の中でも一つの区切りがついた。時期を外したから行かなくてもいいかと思っていたけど、やっぱり行っておいてよかった。これを見ておかなければ、2008年のクリスマスがひどくぼんやりした印象で終わっていた。
 これで気持ちを切り替えて、すっきりした気持ちで明日から平常に戻れる。
 来年というか、もう今年になってしまってるけど、また見に行こう。今年こそはちゃんとクリスマス前に行かなければいけない。旬のものは旬のうちにというのが、なんといっても鉄則だと、あらためて思ったのだった。

神事のため10日遅れの松阪帰郷

風物詩/行事(Event)
松阪行き-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 今日は法事というか神事のために、朝から松阪へ行ってきた。
 寒い日で、粉雪が舞う中での出発となった。ウインドウも凍り付き、屋根にはうっすら雪が積もっていた。

松阪行き-2

 松阪駅前を表から見るのは久しぶりだった。前はどんなふうだったか思い出せないくらいだ。ロータリーの感じは変わってないけど、駅舎は昔よりきれいになったような気もする。

松阪行き-3

 駅前の商店街はひどくさびれていた。昔からたいがいくたびれてはいたけど、ここまでシャッター通りではなかった。
 どの地方都市でもよく目にする光景ではあるけど、自分の故郷が元気をなくしているのを見るのは、やっぱりちょっと寂しいものだ。今更何をどうすれば活気が戻るというわけでもないと思いつつ。

松阪行き-4

 駅前の裏通りなんてのはほとんど歩いたことがないから、昔の姿も今の姿もまったく馴染みはない。とても味のある風景が続いている。
 松阪駅周辺のことをほとんど何も知らないことをあらためて知った。いつか機会があれば、一度ゆっくり歩いてみたい。松阪城址も大昔に一、二度行ったっきりだ。

松阪行き-5

 精進落としの神前バージョンを何と称するのかは知らないけど、神事のあとの食事を会席料理屋でいただくことになった。

松阪行き-6

 会席料理の始まりの図。
 慣れない席で、コースの全体像が見えないまま、普通に食べ進めた私は、途中で完全に息切れを起こすことになる。小食の私には会席料理は向かない。酒も飲まないから、料理が間延びする。

松阪行き-7

 途中経過。だいぶおなかがいっぱいになっているところ。
 こんなに食べ残すなら、うちのアイのおみやげに持って帰ってやりたかった。美味しい刺身やエビやホタテなんかもあったのに、食べきれなかった。

松阪行き-8

 もう動けないほど満腹の中、更に天ぷらとご飯と味噌汁で畳みかけてくる。そんなに食べられないっての。
 デザートのメロンとイチゴだけは食べておいた。

松阪行き-9

 このあたりでは厄払いの寺として有名らしい岡寺山 継松寺。
 時間がなかったので、外から写真を撮っただけだった。ちゃんと参拝して、内部の写真も撮っていたら、ここだけで一回分のネタになったのに、惜しいことをした。

松阪行き-10

 今日は満月。夕方、低い空に大きな月が浮かんでいた。
 無事に帰宅する。

松阪行き-11

 1月11日は鏡開きということで、その餅を使ってぜんざいを食べた。
 これで正月の行事は一通り終わった。今日の神事は帰郷も兼ねていたから、年末年始に帰らなかった分を取り戻したことにもなった。これで年末年始に思い残したことはない。
 明日は成人の日で祝日だから、明日で一区切りということになるだろう。
 できれば新成人が歩いている街並み風景なども撮りたいところだけど、行く気力があるかどうか。タワーズライツも明日までだから、なんとか名駅方面に行けたらいいと思っている。
 昨日は早寝だったから、今日もこれでおしまい。

日頃目にしている日常風景の写真を並べて小学生並みの早寝

日常写真(Everyday life)
日常の風景-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / Canon EOS D60+EF28mm f2.8



 明日は朝っぱらから出かけないといけないので、今日は小学生並みの早寝になる。時間がないので、日常風景写真を並べて、もう寝てしまおう。
 ここ最近撮った、日常的な風景写真を集めてみた。

日常の風景-2

 田んぼもすっかり冬色となり、この色彩にも目が慣れた。
 この季節の田んぼにはエサもないのだろう、ケリの姿もない。飛んでいるのはセキレイくらいのものだ。
 瀬戸電の車庫に、シルバーの新型が止まっていた。最初は実験的な導入ということで、一日一往復から始まった。最近は往復の回数を増やしているのだろうか。

日常の風景-3

 この写真だけはちょっと古い。大晦日だったか、元日だったか。よく行く名東郵便局の裏だ。
 普段はこんなに配達車が並んでいることはない。これは年賀状用だったかもしれない。
 喪中で年賀状を休んだ私は、今日寒中見舞いの葉書を出して、遅ればせながら一仕事終えた気分になれた。

日常の風景-4

 夕暮れの下校中。
 横断歩道は絵になる可能性を持っているポイントだ。でも、なかなか、これだというシーンには当たらない。

日常の風景-5

 網フェンス越しの夕焼け空。特に意味はないけど、このシーンに惹かれて撮った。

日常の風景-6

 馴染みのセルフスタンド。
 レギュラーは100円を切って、ハイオクも107円くらいになった。一時は200円近くになってどうなるかと思ったけど、ここまで安くなると今度はスタンドがつぶれないか心配になる。仕入れ値が下がって、スタンドの利益というのはあまり変動がないのだろうか。
 値段にしたら小さな差だけど、気分的にはずいぶん違う。ガソリンが高いと、行こうかどうしようか迷ったとき、取りやめてしまいがちだ。安いと遠出にも行きやすくなる。

日常の風景-7

 今夜の月は十四夜。待宵月だ。
 明日は満月。午後から晴れてくるようだから、澄んだ夜空にきれいな月が見られそうだ。

日常の風景-8

 精密なグラデーションが、冬の夕焼け空らしい。空気感が冴え冴えとしている。秋も春も夏も、こんな空にはならない。
 今日は空気の冷たい一日だった。明日の午前中は、名古屋でも雪が舞うかもしれない。
 気をつけて、行って帰ってこよう。

小幡緑地の渡りガモ写真は日没後のモノトーンな色調

野鳥(Wild bird)
小幡緑地鳥編-1

Canon EOS D60+Canon EF100mm f2.8 /EF75-300mm f4-5.6 IS



 今日は昨日の続きで、小幡緑地の鳥編をサラッとお送りします。
 今年は渡りのカモの数が少ないように思う。気のせいだろうか。香流川も、矢田川も少ないし、この前行った雨池には一羽もいなかった。日時のタイミングでたまたまそうなっただけだろうか。全国的にはどうなんだろう。
 気候としては、ここまではわりと穏やかで暖かいというのはある。ただ、いくら寒さに強い冬鳥とはいえ、暖かすぎて嫌ということはないだろうに。渡り鳥の気持ちや事情はよく分からない。

小幡緑地鳥編-2

 この画面の中にいるのを数えると20羽ほどで、全体の3分の2くらいだったから、全部あわせても30羽ちょっとといったところだろうか。ここはこんなに少ないはずはない。いつもの年は、もっとたくさんたむろしている。マガモやコガモの姿が見えなかったから、群れでどこかへ移動していたという可能性はある。
 たぶんエサをやっている人がいるのだろう。人が近づくと、すすーっと静かに寄ってくる。ある程度距離を保ちつつ、エサをくれる人間かどうかを見極めて、くれないと分かるとまたすーっと離れていく。
 何か美味しいものをあげたい気持ちは多々あるけれど、渡りのカモにはあまりエサをやらない方がよさそうだから、我慢している。人間が食べるものはカロリーが高いし、体によくないはずだ。

小幡緑地鳥編-3

 カモが水面を切り裂いて泳ぐときにできるV字水紋が美しい。ある程度高速で泳ぐと、この模様ができるようだ。

小幡緑地鳥編-4

 最もありふれた渡りのカモは、オナガガモだろう。私は最初に覚えたのがマガモで、オナガガモは少しあとになって知ったカモだから、一番メジャーなのはマガモだと思っていた。でも、ずっとカモを見ていると、一番多くて、どこにでもいるのはオナガガモだ。川にも池にも海にもいる。こいつらは、人間に対する警戒心が最も弱いカモでもある。
 ただ、渡りのカモにも分布があって、オナガもいないところにはいないのだろう。東京にはどういうわけか、キンクロハジロがやたらたくさんいる。皇居の堀や、不忍池などにはうじゃうじゃいる。鎌倉でもたくさん見かけた。でも、名古屋のうちの近所にはほとんどいない。逆に東京にはコガモがあまりいない印象がある。

小幡緑地鳥編-5

 ホシハジロは、近所でもいるところといないとこがはっきりしている。流れのある川では見かけず、池に多い。名古屋港でも見た。
 潜水が得意なカモで、潜って水草や藻などを食べる。
 頭が茶色いカモで、ヒドリガモというのもいる。遠くからは区別がつきづらいこともあるけど、写真に撮ってみれば違いは分かる。ヒドリガモは頭の中央にクリーム色のラインが入る。それを見ると、サーキットの狼に出てきたロータス・ヨーロッパ・スペシャルを思い出す。

小幡緑地鳥編-7

 陽が沈んで、池も暗くなった。そうなると、もうそろそろ寝る時間だ。
 カモたちは、首を後ろに回して、羽の中に頭を入れた格好で寝る。
 外敵はカラスということになるのだろうか。岸から離れたところで、何羽か固まって寝てることが多い。

小幡緑地鳥編-8

 おまけのセグロセキレイ。
 他にめぼしい鳥はいなかった。ちょっと見かけたのは、エナガくらいだった。

 今日の写真を見返してみたら、ほとんどモノクロに近い写真ばかりだった。カモポイントに着いたときは日没のあとで、光が残っていなかった。ちょっと暗いけど、たまにはこんなのもいいか。もっとモノトーンを意識して撮っていたら、違う表現もできたかもしれない。
 とりあえず今日はこんなところにしておこう。

冬枯れの小幡緑地の中でかすかに感じた春の気配

風景(Landscape)
小幡緑地1-1

Canon EOS D60+Canon EF28mm f2.8 / EF100mm f2.8 /EF75-300mm f4-5.6 IS



 夕焼け鏡面写真を撮ろうと思いついたら、小幡緑地本園の緑ヶ池に行くのが一番手っ取り早い。家からも近く、駐車場から徒歩3分だから、インスタント撮影ができる。冬場は特に日没が早いから、ここは貴重な撮影ポイントになっている。一年を通じてあまり風景に変化がないから、いつ行っても同じような写真になってしまうのが難点なのだけど。
 今日は焼けの具合がもう一つだった。このあと太陽は雲に隠れてしまって、これ以上焼けることはなかった。風景に変化はなくても、夕焼けの色は変化する。沈む太陽の位置も変わるから、もっとたびたび通えば、変化のある写真が撮れるのかもしれない。
 今回は時間もなくて、池を半周しただけで帰ってきた。暗くなって撮るものがなくなったというのもあるし、駐車場も冬は5時半で閉められてしまう。
 写真はそれなりに枚数を撮ってきたから、前後編に分けて、後編を鳥編、前編をそれ以外ということにする。

小幡緑地1-2

 木々は完全な冬枯れで、葉は落ちて、枝がむき出しになっている。常緑樹もあるけど、冬に葉を落とすのは何故だろう。その方が効率的に生き延びられるからというのが人間の説明だ。葉に栄養を取られないようにして冬の間は力をためておくのだと。確かに理屈ではあるけど、木には木の事情があるようにも思う。木だって毎年リセットしたい気分なのだ、きっと。

小幡緑地1-3

 十二夜の月が夕暮れの空に浮かんでいた。水面には月が映り、ゆらめく。
 3日後はまた満月だ。

小幡緑地1-4

 ひょいと猫が道に飛び出してきた。そう、ここは猫の宝庫でもある。猫を撮りたいときも小幡緑地へ行くのが確実だ。
 あまり人に慣れてなくて、あまり近づけないのがちょっと残念ではある。

小幡緑地1-5

 茂みから音が聞こえたので、そちらをのぞいてみると、別の猫がいた。
 丸くてかわいい顔をしている。体も立派だ。

小幡緑地1-6

 ノラたちの警戒心が強いのは、人通りの多さにも原因がありそうだ。
 池の周回は整備された散策路になっていて、散歩の人や犬連れ、ジョガーなどがたくさんいる。
 緑地の猫と公園の猫は、人との距離感の違いからか、人とのなれ合い度がずいぶん違う。公園の猫の方が人なつっこい。

小幡緑地1-7

 あ、三毛猫。三毛猫は数が少ないから、めったに見かけない。こいつは顔がきれいに三色に分かれていた。
 もっと近づいて撮りたかったのに、人が通って逃げていってしまった。

小幡緑地1-8

 芝桜というと春の花というイメージだけど、こんな時期まで咲いてるものだろうか。花壇にポツリ、ポツリと咲いていて、プレートにもシバザクラとあったから、芝桜なのは間違いない。
 まさか、春を先取りしていち早く咲いてきたというのでもあるまい。一年を通じて咲く花なんだろうか。

小幡緑地1-9

 ヘクソカズラの実はいつまでなってるんだろう。これも秋の印象が強い。
 花を咲かせるのは夏だ。冬から春にかけて実から種がこぼれて、春には芽を出すのだろう。

小幡緑地1-10

 池で大きな魚がバシャリと跳ねて、波紋を作った。これが日没前最後の写真となった。

 これから一段と寒さが増していく季節に入るけど、自然の中を歩いていると、もう春の予感がかすかに感じられる。冬来たりなば春遠からじとはよく行ったものだ。久々に花の写真を撮って、遠ざかっていた春の感覚がよみがえった。総天然色が戻ってくる季節は、そう遠くない。それだけぼやぼやしてられないということでもある。冬の写真は冬のうちに撮っておかなければいけない。
 渡りの鳥たちももっと撮っておこう。木々の葉が落ちた今は、枝にいる鳥を撮るチャンスだ。まだまだ撮ったことがない鳥がたくさんいる。できればまた鍋田干拓とか、藤前干潟の方へも行ってみたいと思っている。
 冬シーズンのうちに一度くらいは雪も積もって欲しい。雪景色も撮りたいから。

松の内が終わる前に大森八剱神社へ滑り込み初詣

風物詩/行事(Event)
大森八剱神社参道下

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 正月気分も抜けたような抜けてないような中、ふと気づけば1月7日、松の内の最終日ではないか。こりゃいけないということで、慌てて近所の大森八剱神社(八剣神社)へ初詣に行ってきた。
 どこからどこまでを正月と呼ぶかは判断の分かれるところだ。年末年始のイベントの大部分は歳神様(としがみさま)をめぐるあれこれで、初詣も7日までにしないと初詣とは言えなくなるという面がある。
 歳神様は、その年の幸運をもたらす神様として、正月から数日間、各家庭に居座っていく。汚い部屋には訪れない歳神様に来てもらうために大掃除をして、目印に門松を置き、歳神様が来ていることを知らせる標縄飾りを飾り、鏡餅をお供えする。
 おせちも、おとそも、雑煮も、書き初めも、みんな歳神様が絡んでいる。お年玉は、もともとは歳神様に供えた餅を神棚から下ろして、御利益を家長から年少者に分け与えたことに始まる。その丸餅を年玉と呼んでいたからだ。
 松の内というのは、門松を飾っておく期間のことで、最近は7日までというのが一般的になっている。本来は小正月の15日までだったのだけど、だんだんみんな忙しくなって、そんなにのんびりもしていられなくなった。
 なので、一応7日までを正月と呼んでいいのだと思う。この間に初詣に行って、年賀状のお返しも済ませるのが習いだ。7日は七草粥を食べる日ということで、区切りをつけるにもいい。
 その後の正月行事としては、鏡開きがある。もともとは20日だったのが、家光の月命日に当たるということで、11日に行うようになった。門松や注連縄などを焼くどんど焼き(左義長)は15日だから、これが年末年始行事の締めくくりということになる。




手水舎

 長い階段は三つに分かれていて、一段目と二段目の間に手水舎がある。
 神社やお寺で、このように途中に平らな休憩所があるのは、着物を着た人が登りで乱れた裾を直すためにわざと作ってあるんだとか。




蕃塀

 階段を登り切ったところではまだ正面に拝殿をはっきり見ることができない。
 この車止めのような塀は、蕃塀(ばんぺい)という尾張地方の神社によく見られるものだ。
 不浄除のためらしいのだけど、どうして尾張地方でだけ一般化したのか、そのあたりの事情はよく分からない。




参道の階段

 この長い階段を上から見下ろす風景が印象に残っている。昔は中央の手すりなどなかったと思うけど、こういう眺めだったのはぼんやり覚えている。




拝殿の様子

 以前紹介した森孝八剱神社と、この大森八剱神社は、場所も近く、名前も同じということで、関係がないわけはない。ただし、創建の年代はかなり離れている。
 森孝が江戸時代(1826年)なのに対して、大森は平安より前の793年とぐっと古い。社格も全然違う。大森はかつて村社だった。詳しいことはよく分からないのだけど、おそらく分祀して森孝八剱神社を建てたのだろうと思う。
 大森八剱神社は、この地方の豪族だった山田の連(むらじ)によって、最初は北八剣に創建されたといわれている。
 今の場所に移ってきたのは昭和2年のことで、その前は現在大森中央公園になっている場所にあったようだ。
 戦国時代、そこには大森城があったと伝わっている。応仁の乱の頃、尾関勘八朗という武将が本拠としていた城で、水野氏の居城である尾張旭の新居城に攻め込んだところ反撃を食らい、慌てて逃げ帰ったところ、次の日水野氏が大森城へ攻めてきて、あっけなく落城してしまったという話だ。遺構は何も残っていない。
 水野氏はこのブログでも以前に何度か登場しているけど、新居城についてはまだちゃんと紹介してなかったかもしれない。私がよく行っている尾張旭の城山がそうだ。城レストランの裏手に、少し遺構が残っている。
 そんなこんながありつつ、八剱神社は大森の鎮守様として昔から崇拝されてきた神社だった。
 私が初めて三重県から名古屋に移り住んだのが大森で、そういう意味ではこの大森八剱神社が氏神様ということになるかもしれない。




拝殿を近くから

 八剱の名前からしても祭神は須佐乃男命(スサノオノミコト)と想像がつく。
 日本武尊(ヤマトタケル)と、天火明命(アメノホアカリ)も祀られている。天火明命は尾張氏の祖神だからということだろう。




賽銭箱

 古めかしくて、なかなか立派な賽銭箱だ。横を見ると、昭和5年贈と書かれていた。
 初詣ということで、100円投げておいた。いつものように特に願い事はしない。挨拶だけだ。
 賽銭は小銭でなければいけない。硬貨を投げ入れて音を立てて、神様に来訪を伝える必要があるからだ。
 柏手を打つのも、来意を告げるという意味がある。




天王社と秋葉山

 長い歳月の間に、場所も移り、時代も移り変わって、あちこちの神社が合祀することになったのだろう。秋葉社や天王社、多賀神社などが境内社として祀られている。
 裏手に回ったところには弁財天もあるようだ。




大森天神社

 拝殿を左へ行くと、大森天神社がある。こちらは境内社というよりも、半ば独立した格好になっている。
 これができた経緯なども、調べはつかなかった。
 大森八剱神社の裏手には金城学院がある。合格祈願に訪れる人もいるだろうか。




天神さんの牛

 牛さんもしっかり注連縄を首にかけられていた。
 鼻の頭などがテカテカになってるから、祈願に訪れる人は思ってる以上に多いのかもしれない。




狛犬

 狛犬は新旧入り交じっていた。こちらは新しいもので、平成元年に奉納されたものだ。
 横の立て札には、石垣、コマ犬等に乗って遊ばないように、という注意書きがあった。

 滑り込みで行った初詣だったけど、これで私の中でも正月が終わった。一通り行事もやって、心の引っかかりもなくなった。
 初夢は思い出せないし、七草粥も食べてないなどということはあるものの、まずは無事に年を越せたことを喜びたい。門松なしでも歳神様はうちにも来てくれただろうか。
 

赤福だって作れないことはないけど本物は作れない

料理(Cooking)
手作り赤福もどき

 白玉粉を使った和菓子作りの第三弾として、赤福作りに挑戦してみた。
 しかしながら、独自の手作りは本物にはとうてい及ばないことを思い知らされた。
 赤福も単純なようでいて奥が深い菓子だ。赤福なんてものは、白玉粉で作る餅と漉し餡のたった2種類しかパーツがない。にもかかわらず、これを家庭で再現するのは至難の業だった。
 まあ考えてみれば、誰でも家で作れたらわざわざお土産に買って帰らないし、簡単に真似できれば同じ菓子が林立している。御福餅はあるものの、赤福はほぼこれ一本勝負で全国トップの地位を守り続けているのだから、それはもう秘伝の技があるに違いないのだ。

 実際に作ってみると、どの部分に差があるのかがはっきりする。単純な話、赤福は餅の軟らかい食感が生命線だということにあらためて気づいた。これを白玉粉だけで再現するのは無理と見た。もっと何か違うものを入れて、蒸し方とかも工夫してるに違いない。単純にこねて、ゆがいただけではあの食感の餅はできない。違いはここだけといってもいいのだけど、このわずかの差が決定的な差として表れる。
 赤福は翌日になると固くなって美味しさが半減するけど、本家でさえそうなのだ。売れ残って固くなった餅を再生していた技術はすごい。私はむしろそこに感心した。あんな特殊技術を失ってしまうのは惜しい。再生赤福でも充分美味しかったし、作りたてと違いは分からなかった。むしろ復活後の赤福は、前より味が落ちたような気さえした。
 もう一つの違いとして、餅と餡の絡み具合というのもあった。餅をゆがいてしまうと表面がつるっとするから、水気を拭いても餡との絡みが悪くなる。やはり蒸して作るべきだったか。そうすれば食感も違ってくるかもしれない。
 漉し餡は作ると大変だから、市販のものを買ってきた。なので、味に失敗はなかった。
 もし、小豆から漉し餡を作ろうと思ったら、相当手間暇がかかる。小豆をゆがいて、丁寧に皮を取ったあと、何度も漉して、砂糖を入れて煮詰め、水飴を加えて、ゆっくりかき混ぜながら更に煮詰めていく。これをやろうとすると半日仕事になりそうだ。

 簡単に作り方を説明すると、まずは白玉粉に少しずつ水を加えながらよくこねて、粘土のようにする。そこに砂糖を加え、更によくこねる。塩も少しだけ入れる。
 粉っぽさがなくなったら、一つ20gくらいに分けて、煮立ったお湯でゆがく。最初は鍋の底にくっつくからはがして、浮いてきたら取りだして、氷水でしめる。水気を拭いたら餅は完成だ。
 あとは餅と同量くらいの漉し餡をまぶせば出来上がりとなる。
 赤福特有の波打つラインを再現するのも意外と難易度が高い。あれは五十鈴川の流れをイメージしているそうだけど、どんな道具を使っているのだろう。ナイフとかスプーンの裏とか、いろいろ試したけど、上手くラインを作れなかった。赤福を食べるときに使う木べらを取っておくべきだったか。

 買ってきた漉し餡だから、美味しいのは最初から分かっていた。赤福再現度となるとどうだろう。甘めの採点で65点から70点くらいだろうか。けっこう赤福っぽい。でも、赤福と思って食べると、餅の固さがどうにも気になる。買ってきて3日目くらいの赤福といえばそんな感じかもしれない。
 赤福作りということでいえば、一回作って納得した。ケーキ作りのように何度も失敗して上手くなるというのではないし、一度で限界も分かった。食べたくなれば、漉し餡と白玉粉を買ってくればいつでも作れる。
 白玉粉で作る和菓子は、これで一区切りとなる。次はもっと別の何かを作りたい。それで思いついたのが、たい焼きだ。もう何年食べてないか。ときどきふっと思い出して食べたいなと思うことがあるけど、わざわざ買いに行ったりはしない。今どきはどういうところで売ってるんだろう。1個だけ買うのも気が引ける。となると、自分で作るしかない。
 ただ、たい焼き作りは道具なしでどうにかなるものではない。あのたい焼き型のプレートがどうしても必要だ。調べたら2,000円くらい出せば買えそうだということが分かった。けど微妙な値段だ。買っても2、3度作ってそれっきりになるのは目に見えている。一回試しに作ってみるだけなら1,000円くらいにおさめたい。100円ショップでは売ってないだろうな。
 買ったらたくさん作って人に配るか。ホットケーキの素で作ったら美味しくできそうな予感がある。よし、次はたい焼きにしよう。
 手作りたい焼き紹介は、意外と早くやって来るかもしれないのでお楽しみに(?)。


※結局、その機会はやってこなかった。
 
 

うちから御嶽山が見えることを今まで知らなかったうかつ

風景(Landscape)
冬日遠景-1

Canon EOS 10D+Canon EF80-200mm f2.8L / PENTAX K10D+16-45mm f4 ED



 ベランダが西向きということもあって、名駅のビル群がある西方向ばかり撮っているけど、ふと東に目を転じてみれば、遠くに白い雪化粧をした山が見える。あれは木曽の御嶽山(おんたけさん)ではないか。昨日まで気づかなかったとは、自分のあまりのうかつさに驚きあきれた。まさか、御嶽山がこの距離感ではっきり見えるとは思ってなかった。
 これは望遠レンズで撮っているから大きくなっているとはいえ、肉眼でもしっかり確認できる。ただし、見えるのは空気が澄んだ日に限られるようで、昨日は見えたのに今日は見えなかった。どれくらいの頻度で見えるのだろう。
 何にしてもこれでまた一つ楽しみが増えた。一日一回は見えるかどうか確認しよう。北東だから、朝の光の中で見るともっときれいかもしれない。

冬日遠景-2

 600mm相当の望遠レンズで更に迫ってみた。かなりの迫力だ。3000mmのデジスコで撮ったら、山肌の細かい様子まで写りそうだ。
 霊峰御嶽山は、富士山、白山、立山の日本三霊山からは漏れたものの、古くから山岳信仰の対象としてあがめられてきた。
 標高は3,067メートル。剣ヶ峰、摩利支天山、継子岳、継母岳の4峰からなり、岐阜県と長野県の県境に位置している。
 開山は600年代はじめというから、聖徳太子が活躍していた時代だ。室町時代には修験者が盛んに山に登るようになる。一般開放されたのは、ようやく江戸時代に入ってからだった。
 現在でも信仰や修行の山という性格が強いようで、白装束の人が山を登っていたりするらしい。山の上には、神社や霊場などが点在している。

 ♪木曽のな~ 中乗りさん~
  木曽の御嶽 なんじゃらほーい
  夏でも寒い ヨイヨイヨイ
  ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ~♪

 いつどこで聴いたのか覚えていないけど、木曽節は今も頭の中に残っている。子供の頃の盆踊りで繰り返し流れていたかもしれない。意味は全然分からないというか、ほとんど意味らしい意味はない。中乗りさんって誰だよ、と思う。夏でも寒いって、そんな重要な情報とも思えないし。

冬日遠景-3

 こちらはいつもの西方面。今日から仕事始めのところが多かっただろう。セントラルタワーズもだいぶ明かりが灯っていた。でも、まだ全開じゃない。
 名駅背後の山並みも、見える日と見えない日がある。この写真では右手にうっすらと稜線が見える。あの山はどこの山だろう。

冬日遠景-4

 東山スカイタワーは、夕暮れになっても暗いままだった。どうしたんだろうと思ったら、今日は月曜日で休みだったのだ。年末年始もけっこう長く休んでいた。ちょっともったいないような気もするけど、動物園と休みを合わせたのだろう。
 昔はよく見えていたテレビ塔が見えなくなってしまったのは残念だ。見えていた当時は、まだ名駅のビル群もなく、周囲に高い建物もなかったから、テレビ塔がニョキッと突き出ていた。そのときの写真を撮っておけばよかったと後悔しても手遅れだ。
 20年後にここから見る風景はどれくらい変わっているのだろう。

冬日遠景-5

 カーマの屋上駐車場から見る風景。ここは惜しい場所で、高さが足りないし、障害物が多すぎる。
 正月が明ければ、店も人の流れも、何事もなかったかのように元通りだ。もっと混んでるかと思ったら、店内は閑散としていた。
 年末になると、どうして人はあんなにもいろんなものを買い込まなければならないと思い込むのだろう。年が明けてみると、そんなに慌てて買わなくてもよかったと毎年気づくはずなのに。

 私も今日から平常通り。のつもりだったけど、完全には切り替えられなかった。特番とレギュラーが入り交じったテレビ番組のように(こんなときのゴールデンタイムに再放送をするテレビ愛知はすごい)。
 今日のブログを見ても分かるように、ネタの在庫が底をついている。年末からなんとか誤魔化しながらここまでつなげてきたけど、そろそろそれも苦しくなってきた。ネタ集めの散策に出かけなくてはならない。
 行き先は遠く、近く、たくさんあるのだから、あとは気持ちを高めていくだけだ。寒いからやめておこうかなどと軟弱なことを考えてはいけない。まだ初詣だって行ってないのだ。
 2009年も残り360日しかない。のんびりしてるとまたすぐに終わってしまう。

余ったおせち流用料理で2009年サンデー料理開幕

食べ物(Food)
ちょい手抜きおせちサンデー

Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8



 2009年第一回目のサンデー料理は、おせちの余りもの流用料理となった。
 正月3日もおせち料理が続くと、いい加減飽きてくる。そんなときは、おせちの余りを違う味付けの料理にすると、わりと新鮮な気持ちで食べることができる。おせちを放置してカレーに逃げてはいけない。
 使ったのは、刺身の余りと、エビの残りと、煮物だ。これだけ食材があれば、充分一食分の料理に変身する。

 刺身は塩と黒コショウを周囲に塗り込んであぶり焼きにして、カルパッチョにした。
 ソースは、オリーブオイル、酢、マスタード、塩、コショウ、コンソメの素、マヨネーズ、卵黄、砂糖で作る。
 最後に粉チーズを振って完成だ。
 エビは定番のエビチリになった。
 まずはエビに塩、カタクリ粉、ごま油、酒を振りかけてよくもむ。熱湯に油を少し入れて、エビを軽くゆでる。取りだしたら、ざるにあげておく。
 ボウルに水、中華の素、酒、ケチャップ、オイスターソース、豆板醤、塩、しょう油、酢を混ぜる。
 フライパンで、砕いたトマト、刻みタマネギ、刻み長ネギを炒める。ここにチリソースを入れ、水を加えながら味を調え、エビを加えたら一気に強火にして、よく絡める。最後にごま油を振って香りづけをしたらできあがりだ。
 一番奥は、煮物を白味噌で煮足して、雑煮もどきに仕立ててみた。もともと雑煮のつもりで作ったのだけど、白い深皿を持ってなくて、浅い皿に盛ったら違う料理みたいになってしまった。白い陶磁器のボウル皿を買ってこないと。
 これは味付けを変えただからから、特に手間はかかってない。
 使ったのは、里いも、大根、ニンジン、こんにゃく、鶏肉、白身魚、豆腐、長ネギ、小松菜だ。
 自分の中では雑煮はすまし汁と決まっているけど、白味噌仕立ても食べてみると美味しい。私は名古屋人でありながら、味噌汁は赤味噌より白味噌の方が好きなのだ。中日ドラゴンズのファンでもない。

 別に手を抜いたわけではなく、今日は余ったおせちの流用料理ということでこういうことになった。明日以降のみなさんの参考になるといいのだけど。
 2009年も、何気なくサラッとサンデー料理は始まった。去年の最後も、やや脱力感を伴う終わり方だったし、この調子では去年の流れを引き継いで惰性になりかねない。どこかでギアチェンジをして、再加速する必要がある。去年の課題を克服しつつ、今年の新しいテーマも見つけたい。
 2009年の世界共通のキーワードは、チェンジだ。イエス、ウィー、キャン。これまでの茶色料理を脱却して、あらたなスタイルを確立したいとも思っている。
 そして、今年もう一つ重要なテーマとしては、レシピに返れ、というものがある。ちゃんと計量スプーンとか使えよ私、と思う。適当に入れてしまうから、作っている最中にやたら味見が必要になって、作り終えた頃にはもうおなかいっぱいなんてことになるのだ。それではせっかく美味しく作っても、美味しく食べられない。味見の回数を減らして、調理時間の短縮も目指したい。
 そんなこんなで、今年もサンデー料理をよろしくお願いします。

正月番組ばかり観てたらやっと正月気分になれた

室内(Room)
テレビ正月

Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8



 正月も三日になって、ようやく正月気分が盛り上がってきた。一日や二日はほとんど普段と変わらない気分で、このまま過ぎてしまうのかと心配してたけど、ここへきて正月のよさを思い出すことができた。
 何がそうさせたかというと、テレビの正月特番をずっと観ていたせいだ。テレビ番組がここまで正月特番一色になってしまうと、これはもう正月気分にならざるを得ない。箱根駅伝なんかを観ると、特にそうだ。高校サッカーも、正月らしいイベントとなっている。
 この年末年始は、歴史ものが面白い。エジプト関係や、たけしが伊勢神宮へ行った番組などが興味深くて、楽しめた。
 そんなわけで、写真も撮りに行けず、ブログの準備もできないまま今日は時間切れとなってしまった。今日はお茶を濁すような更新でうやむやのうちに終わりにしてしまう。
 明日はおせちもどきサンデー料理を予定している。来週からは通常の更新に戻したい。テレビ番組もそろそろレギュラー番組に戻るだろう。
 今日はこれでおしまい。また明日。

名古屋の雑煮が全国一質素なのには特に理由はない

風物詩/行事(Event)
2009年雑煮

Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8



 名古屋の雑煮は全国一質素らしい。入っている具としては、角餅、かまぼこ、餅菜だけだ。かまぼこも入れず、餅と餅菜だけの家庭も多いという。
 餅菜というのは小松菜の仲間で、尾張地方で栽培されているものだ。普段は食べないけど、雑煮のときだけはこれを使う。小松菜で代用してしまうこともある。
 だしはカツオだしのすまし汁だ。最後にかつお節をのせるところもある。
 うちは三重県の松阪で食べてきたものが基本となっているから、名古屋スタンダードとは少し違うかもしれない。三重県も南西部では関西寄りのお雑煮を食べている可能性が高い。

 雑煮の起源は、はっきり分かっていない。大晦日に翌年の歳神様を迎えるために餅を供えて、元日にそれをおろしていただいたのが始まりという説が一般的のようだ。もっと新しい時代に生まれたもので、最初は武家社会の習慣だったものがのちに一般庶民に広がったという説もある。
 それぞれにあったいろんな儀式や習慣が混ざり合って、結果的に今のようなスタイルになったというのが実際のところだろう。江戸時代に入って、古式の京風に対する江戸風が生まれ、全国では昔からのものが伝えられたり、他からの影響を受けて変化していったりと、いろいろだったんじゃないか。江戸時代の参勤交代というのも、全国の雑煮に少なからぬ影響を与えたはずだ。
 その後は、引っ越しや結婚などが繰り返されたことで、必ずしもその地方の伝統的雑煮スタイルが守られているわけではない。昔のように大家族で住んで、お嫁さんが母親に雑煮の作り方を教わるということも少なくなった。

 一般的な傾向として、味噌を使う西日本と、すまし汁の東日本とに分かれる。
 もう一つの分かれ目として、角餅と丸餅というのもある。
 京都の白味噌丸餅と、江戸のすまし汁角餅が対極ということになるだろう。各地でそれがクロスオーバーしたりしている。味噌は白味噌だけでなく、赤味噌を使う地方もある。
 変わり雑煮としては、島根などの小豆雑煮というのがある。小豆を使ったらもはや雑煮ではないだろうと思うのだけど、どこまでを雑煮というのかと考えると、どこまでいっても自由なのかもしれないと思い直す。読んで字の如くとするなら、雑多なものを煮込んだのが雑煮だ。
 豪華な具を入れる地方もけっこうある。長野と広島という離れた地域でありながら、それぞれブリを入れるというのも面白い。里芋や大根を入れるところも多いようだ。海の幸の北海道や、海と山の幸がどっさり入った長崎などは、見ると食べてみたくなる。新潟では鮭とイクラを入れるそうだ。
 そんな話を聞くと、あたらめて名古屋はなんでこんなに質素なのだろうと思う。目に見えるところにお金を使いすぎて、正月には金がなくなってるとでもいうのか。尾張藩は質素倹約を奨励したというけど、おせち料理は普通に豪華だからこの説は当たってない。特に深い理由もなく、なんとなくこんなふうになってしまったというだけかもしれない。

 おせちも食べて、雑煮も食べて、正月料理に飽きてきたらそろそろ正月も終わりだ。ぼちぼち生活も気持ちも通常に戻していく必要がある。でもまだ、正月サンデー料理を作ってない。だから、今週いっぱいは正月気分でもいいか。
 サンデーのおせち料理メニューも考えないといけない。普通のおせち料理はもう食べたから、何か工夫がいる。去年はけっこう凝ったものを作ったけど、今年はあそこまでの気力はない。各地で食べられている変わりおせちを作ってみるなんてのは面白そうだ。変わり雑煮も一つメニューに加えようか。
 そういえば初夢にどんな夢を見たんだか、まったく思い出せない。今年も春から縁起が良くも悪くもない。

2009年はご近所写真からもっさりスタート

日常写真(Everyday life)
大晦日から元日-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4 / SIGAM 400mm / PENTAX 50mm f1.4 / Canon EOS D60+EF28-90mm



 新年一回目の更新は、昨日に続いてのご近所写真だ。新年らしくご来光写真でも載せられるとよかったのだけど、近所にしか出かけてないから非日常的な写真がない。この年末年始はどうにもスピード感がない日々が続いている。
 写真は大晦日に撮ったものと、元日の今日撮ったものが混ざっている。どちらも近所の大森あたりで撮ったものなので、つながりに違和感はない。時間帯も日没間際でほとんど一緒だ。
 今日も一日、なんだか元日らしくない日だった。正月を感じたのは、おせち料理を食べてるときくらいだった。昔は楽しみだった芸能人隠し芸大会も、まったく観なくなって久しい。面白い正月番組もなくなった。そういえば雑煮を食べるのを忘れていた。いかに正月を意識していなかったかということの表れだ。
 この調子では普段と何も変わらないまま三が日があっけなく終わってしまいそうな気がする。一応、初詣くらいはしてこようと思っているのだけど。

大晦日から元日-2

 ミコアイサを撮りに雨池へ行くも、影も形もなかった。カモ類が一切いなくて、いたのはおなじみのバンだけだった。
 すごくマイナーな小さな池なのに、ここには毎年ミコアイサが渡ってくる。初めて見たのは3年前で、去年も来ていた。今年はもう来ているのかどうなのか。この日はタイミングが悪かっただけだったのか、今年は来ないのだろうか。毎年再会するのを楽しみにしてるから、今年もまた会いたい。今後もちょくちょく様子を見に行く必要がある。

大晦日から元日-3

 雨池は大晦日も関係なく、ぞろぞろと大勢の人が歩いている。小さな池の周囲を何周も歩いたり走ったりしてるので、その姿を見てるとなんとなくちょっと笑えそうになる。あの不思議におかしい感覚はなんなんだろう。走ってる人など、何周するんだというくらいぐるぐる走り回っている。
 子連れの散歩人や犬の散歩やお年寄りの散歩や、とにかくあそこは散歩してる人が多い。散歩というのは私が考えている以上に世間では流行ってるらしい。

大晦日から元日-4

 軽いジョギングの人から、部活の練習レベルで走っている人まで様々だ。主婦らしいおばさまがぜえぜえ息を切らしながら走ってるのを見ると、そんなに本気にならなくてもと思ってしまう。健康増進の域を超えている。市民マラソン大会とかに出る人だろうか。

大晦日から元日-5

 撮りたくなるような鳥は全然いなくて、波紋でも撮ってみる。
 波紋は水たまりと共に可能性を感じさせる被写体だ。映り込みや光の反射によっては面白い写真になる。狙って撮るのは難しいから、偶然頼みでたくさん撮っておくと、あとでおっという一枚が見つかったりする。

大晦日から元日-6

 金城学園の尖塔も、雨池ではおなじみの被写体だ。西向きで夕焼けをバックにすると絵になる。
 このときはちょうど鐘が鳴って、しばらくその音に耳を傾けた。しっかり聞いたのは初めてだった。

大晦日から元日-7

 帰ろうとしていたところで猫に遭遇した。そういえばここは猫がたくさんいるスポットだった。
 茶トラとトラと黒猫を見た。他にもいたかもしれない。
 近づくと逃げたからあまり人には慣れていないようだ。でもきっと誰かが世話をしてるのだろう。

大晦日から元日-8

 肉眼で見たとき、サンタクロースの二人乗りバイクが来たと思った。二人とも赤い服を着てたから。
 望遠で見たらペアルックらしきカップル二人乗りだった。サンタクロースはもう時季はずれだ。

大晦日から元日-9

 金城学園駅を出たすぐの踏切。
 赤い瀬戸電も昭和ムードなのだけど、手前の錆びたガードレールとあいまってレトロな感じの写りになった。
 瀬戸電の路線は観光地ではないから、一日乗車券というのは発売されていない。あれば一度くらい乗り降りして端から端まで行ってみたいのに。名鉄全線の一日乗車券は3,000円もするから、瀬戸電だけでは絶対元が取れない。

大晦日から元日-10

 このあたりでは高層マンションの部類に入るマンションが完成してお披露目になった。もう入居は始まってるんだろうか。
 大森あたりには似つかわしくないような高級マンションっぽい。ここは住むには不便なところだから、それほど高くないのか。
 瀬戸街道は名駅方面のバス路線がないのが致命的だ。

大晦日から元日-11

 洋菓子のナポリは、大晦日も元日も開けていた。二日とも前を通ったらお客が入っていたから、年末年始でもけっこう需要があるらしい。私は生まれてこの方、大晦日と正月にケーキを食べた記憶はない。あまり食べたいとは思わない。
 でも、大晦日や元日生まれの人もいる。私の近くにもいる。そういう人たちのためにも、ケーキ屋さんはこんな日でも開いている必要があるのだろう。

大晦日から元日-12

 一年365日、24時間営業してるのが当たり前という感覚になったコンビニだけど、考えてみると大変なことだ。必ず誰かは働いていないといけないし、電気も消えるときがない。
 便利なのはいいことだけど、これが正常な状態とも思えない。
 今日の月齢は5.175。三日月より少し太った。
 今年の7月に皆既日食がある。国内では46年ぶりで、皆既日食が見られるのは屋久島から奄美大島にかけてだ。本州では部分日食になる。

大晦日から元日-13

 信号待ちで何気なくサンクスを見たら、店内に紅白幕がかかっていた。車の中で一人、ちょっと笑った。今日最も正月を感じたのは、この場面だった。
 そんなこんなで、元日も平和のうちに過ぎた。一年の計は元旦にありというけど、これといった計画も立てないまま元旦も終わってしまった。書き初めとかもするべきだったか。初夢は、一日の夜から二日の朝にかけて見るものだから、まだ手遅れじゃない。昨晩の夢見はあまりよくなかった印象が残っている。
 今年もぼちぼちスピードを上げていこう。三が日が過ぎたら、散策にも出かけよう。
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