月別:2008年12月

記事一覧
  • そうだ、生八つ橋、作ろう、と思った年の瀬

    Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 年も押し詰まってきたこの時期に生八つ橋なんか作ってる場合じゃないだろうと思いつつ、どうしても食べたくなって作ることにした。結果的に思った以上に時間がかかってしまい、名古屋駅に買いに行った方が早かった。けど、自分で作ったことに意味がある。生八つ橋も作ろうと思えば家で作ることができるんだと分かった。 しかしながら見た目からも明らかなように、完成度は低い。再現度は40...

    2008/12/31

    料理(Cooking)

  • 超復活した渋川神社再訪で尾張旭神社シリーズは完結<第7弾>

    Canon EOS D60+TAMRON 17-50mm f2.8 渋川神社から始まった尾張旭の神社巡りは、復活した渋川神社で終わる。「急な思いつきで始まった尾張旭神社仏閣巡りの旅第一弾は渋川神社」 ただの復活ではない、超復活を果たした。まさにこれぞ新築の神社だ。本格的な再建ということでは、1663年以来ということになるのだろうか。 火事で焼けたのが平成14年(2002年)。社殿再建までに6年を要した。まだ完全復活ではなく、あと2年ほど工事...

    2008/12/30

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 今年最後は即興料理となってオレ流の限界を思い知ったサンデー

    Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 今年最後のサンデー料理は、今年の集大成として自信作3品を作る予定だった。けれど、実際にはそうならなかった。他の用事に追われていたら、のんびり料理を作っている時間がなくなってしまったのだった。今日あたり暇な方が問題といえば問題か。 メニューも決まっていない状況で、とりあえず食材だけはあった。冷蔵庫にあるものを出して並べて、さあ、この食材で何か作りやがれ、私、とい...

    2008/12/29

    料理(Cooking)

  • 使ってないSIGMAのレンズを発掘して光輪写真を撮って楽しむ

    PENTAX K100D+SIGMA Z 135mm f2.8 Pantel 年末でカメラ関係の整理をしていたら、見慣れないレンズが出てきた。 SIGMA Z 135mm f2.8 Pantel こんなのいつ買ったっけ? かすかな記憶はあるけど、使った覚えがない。自分のブログ内検索をしてみたら、一度も登場していない。買ったときに試し撮りくらいはしただろうけど、その後すっかり存在を忘れてしまっていたらしい。Takumarなんかのレンズを買い集めていたときだろうから、も...

    2008/12/28

    カメラ(Camera)

  • 鳥撮り再開の前に動物園の鳥写真でつないでみる

    Canon EOS 20D+Canon EF80-200mm f2.8L 他 冬真っ盛りで野鳥シーズンなのに、ここのところちゃんと鳥撮りに出かけていない。そろそろまた池や川に鳥を撮りに行くかと考えていて、動物園で撮った鳥写真をまだ出していなかったことを思い出した。ネタに困ったときのために残してあったんだった。そして今日がそのネタに困った日だった。 最近散策にも出かけていないのでネタが底を尽きかけている。在庫は神社仏閣だけで、寺社ネタ...

    2008/12/27

    野鳥(Wild bird)

  • 長らくご無沙汰していた氏神の八剣神社へ挨拶に行ってきた

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED 今日はクリスマスなのに、神社の話になった。ひねくれ精神とかではなく、そのネタしか在庫がなかっただけだ。残り物には福があるやなしや。 私は今、一応喪中ということになっているから、本来なら神社の参拝はしない方がいいのかもしれない。と、あとから気づいたけど、もう行ってしまったあとだからしょうがない。 そもそも、喪中は神社へ行ってはいけないだとか、初詣もひかえた方がい...

    2008/12/26

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 大福を 作って食べて メリークリスマス

    Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8 クリスマスイブに大福を作って喜んでいる男はあまりいないと思うけど、今日の私は大福作りの人だった。どうして今日、大福だったのか、特に深い理由はない。前から一度大福を作りたいと思っていて、少し前に白玉粉を買ってきてあって、たまたま今日作る時間があったというだけだ。世の中のクリスマス騒動に異議を唱える抗議活動とかではない。 もし今夜私の家に遊びに来ていたら、クリスマ...

    2008/12/25

    料理(Cooking)

  • 冬には冬の写真を

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED 12月も後半に入り、年の瀬が近づいてきた。街の中心はイルミネーションがきらめいてクリスマスムードが盛り上がっているだろうけど、郊外では今ひとつ実感が湧かない。クリスマスシーズンにおける街中心部と郊外との温度差は思っている以上に大きい。クリスマスイブの日に郊外と街中の両方へ行ってみるとそれがよく分かる。郊外では本当に今日ってクリスマスイブだっけと思うほどそっけない...

    2008/12/24

    夕焼け(Sunset)

  • 尾張旭の神社巡り第6弾で9つ制覇するもまだ完結に至らず

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 尾張旭の神社巡りは、2007年4月の渋川神社から始まった。あれから一年半以上の月日が流れて、ようやく11月に9つ全部回ることができた。そしては今はもう12月。なんだかんだで残り2つについて書くのが先送りになって、現在に至る。回れば終わりじゃない。復習として調べ物をして、書いたところで完結となる。 ただ、今日紹介する山ノ神神社と白山神社について書くことはあまりない。...

    2008/12/23

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • クリスマスらしい赤色料理を作ったらテーハミングになったサンデー

    Canon EOS D60+Canon EF50mm f1.8 II 今日のサンデー料理のテーマは、クリスマスだった。上の写真を見て、どこがクリスマスなんだよとあなたは思ったかもしれない。理想と現実が一致しないのは世の常で、料理においてもそれは当てはまる。思った通りに作れるとは限らないし、曖昧なイメージのまま見切り発車で作ると思いがけないものに仕上がったりする。今日はイメージと出来上がりのギャップが大きかった。 私はこんなものを作...

    2008/12/22

    料理(Cooking)

  • 人並み以上に信号待ちの車の中から交差点の写真を撮る男

    Canon EOS D60+TAMRON 17-50mm f2.8 名古屋の人なら美宝堂の親子三代の成長ぶりを誰もが知っている。チビは大きくなり、オヤジは歳を取り、じいさんは更にじいさんになった。なんとなく親戚を見ているような感じさえある。 東海地方以外の人は、美宝堂なんてまったく知らないと思う。名古屋人だって美宝堂そのものを知っているわけではない。宝石店だから、興味本位にせよ店に入ったことがあるという人はごく少数だろう。ただ単...

    2008/12/21

    街(Cityscape)

  • まだ名古屋の半分も知らないから残り半分の名古屋も知りたい

    Canon EOS D60+TAMRON 17-50mm f2.8 名古屋の街の何パーセントを私は知っているだろう。一度でも通ったことがある地区を赤く塗りつぶしていったら、名古屋市の地図がどれくらい赤くなるのだろうか。もちろん、半分は赤くならない。3分の1もいくかどうか。この街に長く住んで、写真を撮るためにあちこち出歩いているようでも、空白は多い。区による偏りも大きい。 自分が住んでいる守山区でさえ、半分いってないような気がする。...

    2008/12/20

    名古屋(Nagoya)

  • キラキラとワクワクは空の向こうではなく日々の中で探そう

    Canon EOS D60+Canon EF28mm f2.8 / EF75-300mm f4-5.6 IS よく空の写真を撮るのは、空に憧れているからじゃない。地球の外の世界を忘れないためだ。ここから離れられなくとも、外には広大な世界が広がっていることを思えば、小さな世界でも息苦しくない。 いや、そんなことよりも、空は風景として単純にきれいだということだ。刻々と移り変わる空の色と雲の形。いつ見上げても、そこには違う表情がある。 空を持つことができた...

    2008/12/19

    空(Sky)

  • 1/3ご近所イルミと12月の残りについて

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED 毎年三軒仲良く揃ってイルミネーションで飾っていたのに、今年は一軒だけしかやっていなかった。他の二軒はどうしてしまったのだろう。これも不況の影響だったりするのだろうか。電気代がもったいないとか、そんなのんきなことをやってる余裕がなくなってしまったのか、ひょっとして隣同士仲違いしてしまったのではないかなど、変に勘ぐってしまった。 もう飽きたとか、近所の人が見に来る...

    2008/12/18

    イルミネーション(Illumination)

  • 12月は誰も彼もが慌ただしいから私も便乗してスピードサンデー

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED 年末は誰も彼もが忙しい。普段暇な人も気ぜわしく、普段から忙しい人は超忙しくなる。本来忙しくないはずの人も、周囲のスピード感につられてなんとなく自分も忙しいような気分になったりする。 大掃除もしなくちゃいけないし、部屋の片付けもしたい。お歳暮も贈って、あー、もう年賀状書かなくちゃいけないのかなんて焦ってくる。 そういう私はどうなのかといえば、今年くらい忙しくない...

    2008/12/17

    料理(Cooking)

  • 大きいサイズのデジカメプリントのススメ

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED 注文したデジカメプリントが仕上がって送られてきて、その写真を撮っていたらアイが割り込んできた。最初は、おい、キミ、邪魔だよとか思ったのだけど、せっかくだからアイも入れて撮ってしまおうということになったのがこの写真だ。写真嫌いのアイが珍しくカメラ目線をしたままじっと動かなかった。今日はなんとなく撮られたい気分だったのだろうか。 大きいサイズのプリントは今回が二度...

    2008/12/16

    カメラ(Camera)

  • これまでの総まとめとしてブログ・アンソロジーを作ってみる

     このブログも3年を過ぎて、記事数も1,000を超えた。正確には1189だ。365×3は1,095だから、ほぼ毎日書いてきたことになる。 ここらで一つ、総まとめというか、一度おさらいしてもいいだろうと思い、最初からざっと全部読み返してみた(この作業がかなり大変だった)。その中でちょっと面白いものがいくつかあったので、自選集としてアンソロジーを作ってみた。 断想日記アンソロジー 1,000以上も書いて自分でもいいと思えるも...

    2008/12/15

    未分類

  • 暗闇に浮かぶ希望の明かりに絶望することができない絶望を見る

    PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED 真の闇を失って久しい時代に生きる私たちは、完全なる絶望を持ち得なくなっているのかもしれない。 月の出ない夜にさえ明かりが闇を打ち消す。 私たちは人類史上最も多くの希望に満ちた時代を生きている。 先達が灯してきた明かりが消えることはない。 24時間営業が当たり前となった今でも、暗闇の中にぽっかり浮かぶ明るさに驚異的なものを感じることがある。 夜の帰り道、少し疲れた...

    2008/12/14

    夜景(Night view)

  • ただいま放電中につき写真のみの更新

    PENTAX K10D+SIGMA 400mm f5.6 今日も書く方はお休みします。 気持ちが放電してしまって、ただいま充電中です。 戻り次第、また長々と書くつもりでいます。 少しの間、写真だけの更新になりそうですが、おつき合いください。 また明日。...

    2008/12/13

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • 今日は書くのを休んで眠たい奴らの写真だけ

    Canon EOS 20D+Canon EF80-200mm f2.8L 今日はちょっと休みます。 眠たい奴らの写真でお楽しみください。...

    2008/12/12

    動物園(Zoo)

  • 小牧山周辺を歩きながら400年前の様子を想像してみる <第3回>

     小牧山城シリーズ最終回。 歴史館から下りてきて、桜の馬場を過ぎた右手に小牧山稲荷神社がある。 このお稲荷さんがいつできたのか、調べたけどちょっと分からなかった。なんでも尾張の北をおさめる吉五郎という名のキツネの大親分がいて、それを祀った神社なんだそうだ。200匹の子分を持つ吉五郎は絶世の美女に化けるのが得意で、若い衆から食べ物やお金をかすめとっていたらしい。名鉄小牧線の電車に美女が乗っていたときは...

    2008/12/11

    城(Castle)

  • 小牧市歴史館紹介と小牧長久手の戦いについて <第2回>

     小牧山城の2回目は、歴史館の中の様子を紹介しつつ、後半では小牧長久手の戦いについて少し書いてみたい。 歴史資料館の入館料は100円と安い。 中に入ってかなりきれいだと思ったら、平成19年にリニューアルオープンしたばかりだったらしい。4年前に訪れていれば昔の状態と比較できたのに、惜しいことをした。展示物の追加などもあるそうだから、前に行った人も再び訪れてみる価値がありそうだ。近年、発掘調査も進み、これま...

    2008/12/10

    城(Castle)

  • 一般人目線で見た小牧山城の紹介と桶狭間以降の信長 <第1回>

     愛知県小牧市の小牧山の上にある城のような建物は、天守ではなく資料館(小牧市歴史館)だ。復元された天守ではない。もともと小牧山には天守がなかったとされている。※近年、発掘調査で大規模な石垣が見つかっていることから、天守の原型のような建物があったのではないかという説が出てきた。 あの建物は、1967年(昭和42年)に、名古屋の実業家だった平松茂が自分のお金で建てて、小牧市に寄付したものだ。秀吉が京都に自宅...

    2008/12/09

    城(Castle)

  • 平凡でもいいじゃないかと居直るサンデー

    Canon EOS 20D+Canon EF50mm f1.8 II 平凡であることを嘆くべきかそうではないかの判断は難しい。考え方によって平凡の評価は違ってくる。人より優れていないから劣っているというとも言えるし、人並みなのだから誉められてもいいという考え方もある。 料理における平凡さというのも同じことが言える。カリスマ主婦のハイセンス料理が本当に良い料理なのか、田舎の母親が作るオフクロの味が偉大なのか、家庭の主婦が作る普通の料...

    2008/12/08

    料理(Cooking)

  • 神社仏閣ネタが続いたからちょっと息抜きの日常写真

    PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED ここ最近、神社仏閣ネタの占める割合が高くなっているから、今日は日常写真を並べてちょっと息抜きすることにした。息は吸い込むだけでも、吐き出すだけでも苦しくなる。吸ったり吐いたりをバランスよくしなくてはいけない。 というのが半分の言い訳で、もう半分の言い訳は、小牧山城について書くには準備不足だったということもある。先週行ってきて、写真現像も終わったのだけど、まだ勉...

    2008/12/07

    夕焼け(Sunset)

  • ちょっと地味な東照宮が名古屋にもある

    PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED 私が初めて訪れた東照宮は、のちに徳川家となる松平家発祥の地、豊田市松平郷の松平東照宮だった。このブログでも何度か登場しているけど、しっとりと落ち着いたいい神社だ。 次に見たのが鳳来寺山にある鳳来山東照宮で、そのあと本家の日光東照宮を参拝することになった。そのときの様子は詳しく長々と書いたので、覚えている方もいるかもしれない。 今日紹介する名古屋東照宮(尾張東照...

    2008/12/06

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • ナゴヤでもナゴノでもどっちでもいいけど那古野と名古屋に歴史あり

    PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED 今日はまず初めに、名古屋の地名の話から始めたいと思う。 名古屋はもともと、那古野と表記していた。これでナゴヤと読んでいた。 現在、西区の一部に那古野という地名が残っている。以前紹介した四間道(しけみち)があるあたりで、ここは「ナゴノ」となっている。 いつから那古野という地名になったのかは、はっきりしていない。平安末期の文献にはすでに登場してるというから、かなり...

    2008/12/05

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 間々観音に願い事をしに行ったわけではないけれど

    PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED 小牧山の北西に間々観音(ままかんのん)という寺がある。日本でただ一つのお乳の寺としてけっこう有名なので、知っているという人も多いかもしれない。 正式名を飛車山龍音寺(ひしゃさんりゅうおんじ)というのだけど、この呼び名ではほとんど通用しない。最寄りのバス停も、間々乳観音前(ままちちかんのんまえ)となっているくらい間々観音で通っている。おっぱい観音ともいう。でも、...

    2008/12/04

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 日没間際の短時間散策ながら名城公園の魅力を再発見した

    PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED 名古屋城周辺散策の写真が途中になっていたので、今日はその続きを紹介したい。 一般的に名城公園というと、名古屋城の北にある公園のことを指す。ただ、正式には名古屋城内の二の丸、三の丸すべてをあわせて名城公園ということになっている。広さは76ヘクタール。1ヘクタールがどれくらいの広さなのかがよく分かってないのだけど、全部あわせると相当広いことは間違いない。 城跡公園と...

    2008/12/03

    施設/公園(Park)

  • 2008年の紅葉は岩屋堂の年だったと記憶されることになる

    PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED 今年はここまで紅葉とのシンクロ率が低くて、もどかしい日々が続いている。そうこうしてるうちに12月に入ってしまった。各地からは色あせや落葉の便りが届き始めた。もう駄目だ、今年はいけない。8割方もうあきらめた。 あきらめてどうしたかというと、また岩屋堂へ行ってきた。上の写真はこの前撮ったものの使い回しではない。今日あらたに撮ってきたものだ。車で1時間近くかかる距離で、...

    2008/12/02

    紅葉(Autumn leaves)

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そうだ、生八つ橋、作ろう、と思った年の瀬

料理(Cooking)
生八つ橋作り

Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8



 年も押し詰まってきたこの時期に生八つ橋なんか作ってる場合じゃないだろうと思いつつ、どうしても食べたくなって作ることにした。結果的に思った以上に時間がかかってしまい、名古屋駅に買いに行った方が早かった。けど、自分で作ったことに意味がある。生八つ橋も作ろうと思えば家で作ることができるんだと分かった。
 しかしながら見た目からも明らかなように、完成度は低い。再現度は40パーセントといったところか。単純でありながら奥が深く、なかなか本物にはかなわないというのは、ういろうにも通じるものがある。店で売ってるものと同じレベルのものを作るのは難しい。
 まず皮を薄く均一にできない。あんまり薄っぺらまで伸ばすと、生地のところどころに穴が開いてしまう。米粉は小麦粉のように腰や粘りがない。今は店売りのものも機械を使って薄くのばしてるんじゃないだろうか。
 大福との違いは、白玉粉の他に上新粉を使うという点だ。割合としては上新粉7に対して白玉粉3くらいだろうか。もしくは、6対4くらいでもいいかもしれない。
 作り方は大福と変わらない。白玉粉に少しずつ水かお湯を加えながらこねていって、レンジで加熱して、上新粉と砂糖を混ぜてまたこねるというのを2度、3度と繰り返す。
 生地は麺棒などで伸ばしていくのだけど、早い段階できな粉をまぶした方がいいようだ。私は伸ばしきってしまったところできな粉を振ったので、上手く生地になじまなかった。本格派を目指すならシナモンを加えないといけないらしい。そこまでは持ってなかった。
 中身は通常、つぶあんを使う。最近は変わり種も増えてるし、基本的にはたいていのものは合うから、自分の好みのものを入れればいい。
 今回私は、栗でいってみた。天津甘栗を砕いて、牛乳と砂糖で煮込んで栗餡を作った。これが面倒で時間がかかったのだった。缶詰のあずきにしておけば簡単だった。生チョコもよさそうだ。
 完成度は低いながらも、けっこう美味しく食べられた。一応、生八つ橋っぽくなっている。もともと素朴な和菓子だし、家で作ってもかけ離れたものはできない。失敗の要素としては、皮の固さとか食感というあたりだ。店と同じようなレベルものはそう簡単にできない気がする。
 ギョーザの皮を使うという手もあるらしい。あれは皮自体に味はないから、きな粉に砂糖を入れて、上から振りかけるようにして食べればいいかもしれない。もちろん、茹でないといけないだろうけど。

 ところで京都の生八つ橋は、どこが本家なのだろうと、ふと思った。
 京都へ旅行に行ったときは、よく「おたべ」を買って帰る。私は「おたべ」と生八つ橋とは別のもので、言うなれば赤福と御福のようなライバル関係にあるものとばかり思っていた。ついさっきまで。調べたら全然違っていた。「おたべ」というのは、株式会社おたべが作っている生八つ橋の商品名だということを初めて知った。
 じゃあ元祖はどこのものなのかというと、聖護院八ツ橋総本店というところらしい。
 箏曲(そうきょく)とかいうものの開祖である八橋検校という人がいて、聖護院に葬られたあと、弟子たちが大勢訪れるようになって、それを目当てに聖護院の茶店で売り出したお菓子に八ツ橋という名前をつけたのが始まりなんだとか。1689年のことだという。その場所に現在の聖護院八ツ橋総本店がある。
 もしくは、八橋検校その人がこのお菓子を発明して、弟子たちに振る舞っていたという話もあるようだ。
 西尾為忠商店というところも元祖を名乗っている。写真を見ると、ここのは四角形をしている。こんな生八つ橋は食べたことがない。今度京都へ行ったらこれを買おう。
 井筒屋の「夕子」というのはどうだろう。食べたことがあるんだろうか。京都では20軒ほどが生八つ橋を作っているそうで、そんなことを知らなかった頃の私は、よく分からないままいつも「おたべ」を買っていたような気がする。「おたべ」って、元祖じゃなかったのか。
 ちなみに、京都人にとっての生八つ橋は、あんこの入っていないただの皮のことを指すらしい。なので、京都の人に生八つ橋を送ってくれと頼むと、皮だけ送ってくる可能性がある。いかにも京都人のやりそうなことではある。でも、皮だけもらっても、と普通は思う。

 各地のおみやげものを作ろうシリーズでは、今後もいろんなものに挑戦していきたいと考えている。家では無理なものもあるだろうけど、案外あっさり作れてしまうものもたくさんありそうだ。意外と難しいのはせんべいだろうか。せんべいってどういう状態から焼いていけばいいのか、イメージがわかない。
 今年はケーキで失敗に失敗を重ねたけど、来年は和菓子の年にしよう。甘い砂糖系の和菓子も作ってみたい。菊の花をかたどったようなやつ。あれも原材料の見当がつかない。元となる練り物はどういうふうに作るんだろう。
 手作りすることの良い点は、市販されているものの偉大さをあらためて知ることができるというところにもある。当たり前のように食べているけど、自分で作ってみると売られているものの完成度がいかに高いかということを思い知る。そうすると、コンビニで売ってるショートケーキにも感激できるようになる。
 生八つ橋も、今度食べるときはとても感心することになるだろう。ああ、そうだ、次に作るものが今ひらめいた。今度は赤福だ。正月で餅があるから、それを流用して赤福もどきを作れそうな気がする。どこまで再現できるかやってみよう。

超復活した渋川神社再訪で尾張旭神社シリーズは完結<第7弾>

神社仏閣(Shrines and temples)
渋川神社外観

Canon EOS D60+TAMRON 17-50mm f2.8



 渋川神社から始まった尾張旭の神社巡りは、復活した渋川神社で終わる。
「急な思いつきで始まった尾張旭神社仏閣巡りの旅第一弾は渋川神社」
 ただの復活ではない、超復活を果たした。まさにこれぞ新築の神社だ。本格的な再建ということでは、1663年以来ということになるのだろうか。
 火事で焼けたのが平成14年(2002年)。社殿再建までに6年を要した。まだ完全復活ではなく、あと2年ほど工事は続くらしい。
 2007年の4月に訪れたときはまだ仮本殿で、社殿は覆いをかぶせて建てている最中だった。1年8ヶ月ぶりの再訪でここまできれいになったというのもちょっと感慨深いものがあった。流れた月日のことも思う。
 創建は景行天皇(ヤマトタケルの父)の時代というけど、それはどうだろう。即位元年でも紀元71年ということになる。
 それでも、かなり古くからある神社であることは間違いなく、「延喜式」にも載っている式内社で、尾張旭では最も格式のある神社だ。677年の天武天皇即位にあわせてこの地に移ってきたというから、それ以前にすでにあったことになる。
 渋川神社については以前にだいたい書いたので、今日は繰り返さない。再建がなった社殿の様子を写真で紹介するにとどめたい。




渋川神社鳥居

 焼ける前に撮られた写真を見ると、右手の石造りの鳥居から入った正面に拝殿や本殿があったようだ。新しい社殿は、そこから左にずれたところに建っている。鳥居も白木で新造されている。
 焼ける前の様子を知らないから、以前はどうなっていたのか、ちょっと分からない。それが残念なところだ。江戸時代前期の社殿も一度は見ておきたかった。




手水舎

 境内はけっこう広い。写真に写っている範囲で半分くらいだろうか。




新築の拝殿

 すごいピカピカだ。できたてのホヤホヤ。
 火事で焼けたのにコンクリート造りにしなかったのはよかった。
 これぞ神社本来の姿なのだということをあらためて思った。古びていれば古びているほどありがたいと思いがちだけど、どの神社もできたときはこんなふうな新築だったのだ。
 基本的に建物は新しければ新しいほどいいわけで、当時の人たちにしてみれば古い神社よりも新しくできた神社の方にありがたみを感じていたのかもしれない。




本殿

 拝殿を右手に回って本殿を写したところ。
 建築様式は当時のままなのだろうか。




斎田跡

 昔ここらは広大な田んぼが広がっていて、その中に神社がポツンとあるような状態だったという。
 天武天皇と直接関わりがあったのかどうかは分からないけど、天武天皇のための田んぼを特別に作って、そこで穫れた米を天皇に献上していたらしい。その斎田跡が少し離れたところにあって、区画整理で取り壊されることになったので、石碑だけをここに移してきたのだそうだ。
 写真の場所が、元の社殿が建っていた場所のようにも思う。




渋川稲荷社

 稲荷社や鳥居は焼けていないんじゃないだろうか。こちらは古い雰囲気がそのまま残っている。
 鳥居の前には門松が置かれていた。




狐

 狐さんの像も歴史を感じさせる。向かって左手の狐は耳が欠けていた。




渋川神社再び-9

 境内の摂社や末社。
 八幡社や八剣社、忌名社などがある。これらも全部新調されていた。
 本殿の祭神は、大年大神のようだ。スサノオの子供で、穀物の神様ということらしい。
 渋川神社の名前の由来はよく分からなかった。ネットで検索すると、尾張旭と大阪八尾市にあるものと、二つしか出てこない。そのふたつはたぶん、直接的な関係はないと思われる。




社務所

 社務所のような、事務所のような、集会場のような、この建物は何だろう。神社の社殿なのか、違うものなのか。

 一年8ヶ月かけて、ようやく尾張旭の神社巡りを終えることができた。たった8つだったのに。ん? 8つ? と、ここで疑問がわいた。最初は全部で9つと言っていたはずだ。でも、数えてみると8つにしかならない。
 もう一度調べてみると、何やら小さな社のようなものが桜ヶ丘町西にあるらしい。地図には載っていない。ネットでもあやふやな情報しかない。本当にあるんだろうか。あるとすれば、まだ完結ではないということになる。せっかくすっきりした気持ちで年を越せると思ったのに、モヤモヤが残った。来年に持ち越しとなってしまいそうだ。
 ただ、主だったところは8つすべて回ったから、一応これでよしとしたい。神社は他の街にもまだまだたくさんある。立ち止まってはいられない。まずは地元の守山区を回っていって、その後、名東区、長久手町などに足を伸ばしていきたい。春日井も途中まで進んでいる。
 

今年最後は即興料理となってオレ流の限界を思い知ったサンデー

料理(Cooking)
即興サンデー

Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8



 今年最後のサンデー料理は、今年の集大成として自信作3品を作る予定だった。けれど、実際にはそうならなかった。他の用事に追われていたら、のんびり料理を作っている時間がなくなってしまったのだった。今日あたり暇な方が問題といえば問題か。
 メニューも決まっていない状況で、とりあえず食材だけはあった。冷蔵庫にあるものを出して並べて、さあ、この食材で何か作りやがれ、私、ということになった。持ち時間は1時間半。ここまで即興で作ることになったのは初めてのことだ。ある意味ではこれが検定試験としては最もふさわしい形だったとも言える。
 そしてできたのが写真の3品だった。なんだろう、この微妙な感じ。とても自分らしい茶色料理だなとは思う。彩りまで考えて作る余裕はなかった。
 これが自分のベストとは思わないけど、ここに今の私の限界を見た。完成図がないまま見切り発車で作り始めると、頭の中のぼんやりしたイメージから遠い料理ができ上がる。なんだか知らないけど、おばあちゃんっぽい料理になってしまうのだ。おふくろの味を超えている。ややアジアチックでもある。
 今回で思い知った部分がいろいろあった。オレ流の限界や間違いがある。料理の天才ならともかく、凡才は基礎から反復練習をしなければ上達はおぼつかない。基礎をおろそかにして応用しようとするから腰砕けの料理になるのだ。
 味付けにしても大雑把すぎるし、調理時間も適当すぎる。完成図から逆算していかないからイメージと食い違ってしまう。
 今日は大いに反省したサンデーだった。

 4色豆腐のアイディアはよかったけど、盛りつけに失敗した。どうやって盛りつければもっと美味しそうに見えたんだろう。やはり緑色が必要だったか。
 具材は、鶏肉、ゆで卵、ニンジンを使っている。
 右のはお好み焼きみたいだけど、もちろん違う。白身魚とエビを刻んで、レンジで加熱してつぶしたジャガイモを混ぜ、小麦粉、塩、コショウ、しょう油、酒、みりん、ダシの素、チーズを加えてお焼きにしてある。
 たれは甘酢しょう油味だ。
 奥のは大根と野菜のトマト煮込み和風スープで、これはちょっと変わっていて面白い味だった。
 大根、タマネギ、白菜、長ネギ、トマト、ほうれん草を、酒、しょう油、水、ダシの素、塩、コショウ、みりん、砂糖、唐辛子で味付けして、とろとろに煮込んだ。
 トマト風味で和風で、甘めの味噌汁のような、すき焼きの最後みたいな味になった。
 しかし、見た目に品がない。

 とにもかくにも、今年のサンデー料理はこれでおしまいだ。今年一年でどれくらい上達したのだろう。自分では進歩したような実感がない。年間で50回くらいは作ってるから、それなりには成長してるのだろうか。
 課題は彩りと盛りつけということが今年の後半くらいからはっきりした。最初に盛りつけありきで、そこから作り始めないと上手くならないようにも思う。盛りつけに関しては、来年こそ本を買って勉強する。
 それからなんといっても我流からの脱却もはからないといけない。目指せ、脱・茶色料理。私はもっと薄い色合いの上品な料理が作りたいのだ。おばあちゃんのお総菜風料理を作りたいとは思っていない。
 あまり気取っているのもなんだから、素朴な中にも品がある男の料理という方向性でいきたい。そのためには、何でもかんでも砕いたり刻んだりしてはいけないのだろうということはうすうす気がついている。料理というと、つい刻んでしまうのも私の悪いクセだ。
 見知らぬ外国料理シリーズもずいぶん作ってないから、来年はそのあたりも模索していきたい。イベント料理も積極的に挑戦していこう。
 年明け一回目は、やはりおせち料理ということになるだろう。今年もそれっぽいものを作った。来年に向けて何か考えよう。
 また来年のサンデー料理でお会いしましょう。ブログは31日まで続きます。

使ってないSIGMAのレンズを発掘して光輪写真を撮って楽しむ

カメラ(Camera)
SIGMAで光写真-1

PENTAX K100D+SIGMA Z 135mm f2.8 Pantel



 年末でカメラ関係の整理をしていたら、見慣れないレンズが出てきた。
 SIGMA Z 135mm f2.8 Pantel
 こんなのいつ買ったっけ? かすかな記憶はあるけど、使った覚えがない。自分のブログ内検索をしてみたら、一度も登場していない。買ったときに試し撮りくらいはしただろうけど、その後すっかり存在を忘れてしまっていたらしい。Takumarなんかのレンズを買い集めていたときだろうから、もう2年くらい前になるんじゃないだろうか。
 手放すにしても一度くらいは外に持ち出して使ってみようということで、夜にはなっていたけどK100Dにつけて軽く試し撮りをしてみることにした。
 f2.8と明るめのレンズではあるものの、135mm(200mm換算)の望遠レンズとなると、暗いところはブレて撮れない。とりあえず明るいものを撮ろうと思って街灯を撮ってみたら、不思議な描写になった。なんだ、この光の輪は。これも一種のフレアというかゴーストだろうか。こんな形のものは初めて見る。
 昔からSIGMAのレンズは逆光に弱いというのが定説だったけど、なるほどこういうことかと納得するものがあった。何しろこのレンズ、1975年発売のオールドレンズだ(M42マウント)。マルチコートとはなっているものの、当然デジタルでの使用などは想定されていない。
 個人的にはこういうCGっぽい光は好きなので、面白い効果と思って楽しめる。違う光を撮るとどうなるんだろうと興味がわいて、何枚か写してみた。

SIGMAで光写真-2

 暖色系の光だと赤くなる。光の模様は共通するものがあるようだ。
 太陽を写すとどんなふうになるんだろう。
 都会のイルミネーションを写すともっと面白い描写になるんじゃないか。いろんな光源が混在しているところで撮るとどうなるか試してみたい。

SIGMAで光写真-3

 LEDのような弱い光だと写りは普通だ。やや滲んでいるのは、たぶん手ぶれだろう。
 絞り開放f2.8で撮っているというのもあるかもしれない。今回の写真は全部f2.8で撮っている。

SIGMAで光写真-4

 反射した光を写してもわりと普通で面白みがない。遠くの街灯の光にも光輪はできていない。強めの光を直接画面に入れると光の輪が生まれるようだ。

SIGMAで光写真-6

 車のヘッドライトにもやはり反応している。シチュエーションを選べば他のレンズでは撮れない写真が撮れそうな予感がある。ネオン街とかだとどうなんだろう。
 たとえば人物の後ろに光を入れると、後光を背負ったポートレートなんてのも撮れるんじゃないか。

SIGMAで光写真-5

 運転中に撮ったものなのでかなりブレている。確かシャッタースピードは1/15とかだったと思う。135mmでは手ぶれ補正機能があっても止められない。
 信号の赤い光に弱く光輪が出て、車のテールライトの赤色とつながって輪になっている。
 最近のデジタル対応をうたっているレンズの中には、光学系が共通でコーティングだけデジタル対応にしているものがあるから、この光輪もコーティングが要因なのかもしれない。そのあたりの仕組みはよく分かってないのだけど。

SIGMAで光写真-7

 車のヘッドライトが画面左に入って、逆光で画面全体がフレアっぽくなっている。太陽を正面に入れると相当コントラストが落ちそうだ。上の写真でも、元画像からかなりコントラストを上げている。
 遊びで使うには面白いレンズだけど、常用するには難しい。

SIGMAで光写真-8

 もう時季はずれとなったイルミネーションツリーがまだ飾ってあった。25日でどこもバタリと終わってしまうと寂しいから、こうやって少しくらいは残しておいてくれると嬉しい。年越しまでは続けて欲しいところだ。
 弱い光ではまともな写真になる。昼間でも順光ならまったく普通のレンズとして使えるんじゃないか。
 描写の実力はよく分からない。今回はすべて夜の手持ちで絞り開放という普通の使い方をしていない。
 実はこのレンズにはもう一つ大きな特徴があって、それはパンフォーカスで撮れるというものだ。手前から背景まですべてにピントを合わせることをパンフォーカスといって、携帯のカメラでピント機能がないものなどもそうだ。通常は広角レンズを使って最小絞りで撮る。
 望遠でパンフォーカス撮影というのは普通では考えられないことで、この機能は特殊なものということになる。絞りf22の次にf64というのがあって、4メートルから無限遠まですべてピントが合うようになっている。
 f64などというのはどんなものか想像がつかない。明るい昼間でも手持ちでは無理なのかもしれない。マニュアルモードでもシャッタースピードは最長30秒だから、どれくらいの明るさで撮れるのか見当がつかない。30秒以上の長時間露光をするためのレリーズは持っていない。
 土門拳はパンフォーカスで仏像を撮っていた。大判のカメラだから35mmカメラとは違うけど、土門拳は何時間という露光をしていたらしい。デジカメでf64なんて絞りにすると、光の回折現象でかえって画質が落ちる可能性もある。
 なんにしても一度試してみないと始まらない。

 カメラネタはちょっと久しぶりだったろうか。頻繁にやるとうっとうしいけど、たまにだからご勘弁を。
 ここのところデジの入れ替えが激しくなっている。あまり使わなくなったデジを手放したり、以前に使っていたものを買い戻したりしつつ、一度整理しようとしているところだ。
 PENTAXのK10Dの質感が思ったほどよくないのは残念だ。これが決定打で、こいつをメインにすればしばらく他のものは買わなくてもいいと思っていたのに、ちょっと期待はずれだった。PENTAXのデジは、いまだに初代のistDを超えられていないんじゃないか。本当に中級機と呼べるのはあれだけだ。持ったときの質感もよかったし、何よりシャッター音が最高に気持ちよかった。シャキーン、シャキーンと軽快に響く音が気持ちよくて、何度も空押ししたものだ。K10DはK100Dとほとんど変わらない。カッシャン、カッシャンとショックも大きく、心地よくない。K20Dではそのあたりが改良されているんだろうか。
 サブはCanonにして、NikonとαとOLYMPUSからは撤退する。NikonのD100だけは好きでもう一度買い戻したいと思っているけど、D200が値下がりしたら買ってみたい。
 CanonはD30から始まって10D、20Dと飛んでしまったので、間を埋めるべくD60を買ってみた。digicになる前のナチュラル発色を見てみたくて。確かにこってりした色乗りはいいものの、ノイズが多くて高感度で使えないのはつらい。20Dを使ったあとではいろいろアラも目立つ。ついでに10Dも買い戻してみたところ、やっぱり10Dはいい。軽快で静かなシャッターは20Dより上だ。画質の面でも明るい部分は20Dより粘りがあるので、写真を明るく仕上げることができる。動作のトロささえ我慢できればサブは10Dでもいい。
 いずれにしても、メインとサブの2台に絞りたい。レンズもいろいろ処分して、だいぶ身軽になった。
 そんなこんなのカメラトークでした。

鳥撮り再開の前に動物園の鳥写真でつないでみる

野鳥(Wild bird)
小ネタ鳥写真-1

Canon EOS 20D+Canon EF80-200mm f2.8L 他



 冬真っ盛りで野鳥シーズンなのに、ここのところちゃんと鳥撮りに出かけていない。そろそろまた池や川に鳥を撮りに行くかと考えていて、動物園で撮った鳥写真をまだ出していなかったことを思い出した。ネタに困ったときのために残してあったんだった。そして今日がそのネタに困った日だった。
 最近散策にも出かけていないのでネタが底を尽きかけている。在庫は神社仏閣だけで、寺社ネタばかりが続くのもよくない。イルミネーションも撮りに行かないまま時期を逃してしまった。今日、明日のんびり撮りに行こうかと思ったら、どこもクリスマスまでで終わっていた。そりゃそうか、クリスマスイルミネーションなんだから。クリスマスが過ぎたあとのイルミネーションは、急に安っぽく感じられる。人の気分というのはそんなものだ。
 というわけで、今日は動物園の鳥写真と河原で撮った鳥との合わせ技でつなぐことにした。一羽の鳥について詳しく書くには目新しいやつがいないから、その手は使えない。
 一枚目はジョウビタキのメスだ。ジョウビタキについても以前書いた。あれから付け足すことはほとんどない。野鳥の勉強も進んでない。デジスコもいっこうに買えないでいる。

小ネタ鳥写真-2

 冬羽にはなっているものの、なんとなくみすぼらしいオシドリのオス。覇気がない。
 オシドリというのは自然界で人から離れたところにいると優雅で高貴に見えるのに、動物園なんかの施設にいるやつは野生の輝きを失っている。特に東山の場合は、リスハウスの小さな池で暮らしているから、ストレスもたまっていそうだ。人との距離も近いし、周りではちびっ子が駆け回っていて落ち着かない。
 自然界で野生のオシドリを見たことがある人はあまりいないかもしれないけど、実は意外近くにいるのだ。近所の公園なんかにはめったにいないにしても、名古屋近郊なら牧野ヶ池や、尾張旭の森林公園あたりまで行けば遠くに見ることができる。びっくりするほど珍しい鳥でもない。

小ネタ鳥写真-3

 動物園の中に飛来する野生のオナガガモたち。
 自然界には広くて人が来ない池がたくさんあるのに、どうしてわざわざ狭くてきれいでもない動物園の小さな池にやって来るのか。ここの方が簡単にエサにありつけるから楽でいいという考えなのか。
 オナガガモはカモの中で一番人間を怖がらないやつらだからというのはある。東京の池にもたくさんいた。動物園の中でもすっかり馴染んでいて、まったく違和感はなかった。元々そこの住人であるかのような大きな顔をしている。

小ネタ鳥写真-4

 鳥といってもいろいろで、小鳥や大きなインコ、ワシ、タカ、水鳥、ペリカン、ニワトリ、ペンギンと、その姿や生態は多種多様だ。
 ヒクイドリもまた飛べない鳥の一つで、顔周りだけがやけに派手な面白いやつだ。
 顔と足を手で隠してみると、胴体が人間のカツラみたいに見える。

小ネタ鳥写真-5

 花鳥園ですっかりお馴染みとなったエミューさんだ。とても凛々しい顔をしている。エミューにも個体差があって、顔つきとか髪型とかが違っていて、見慣れると見分けることができるようになりそうだ。
 檻の中にいるやつを離れて見てるとすごく凶暴そうだけど、実際にふれ合ってみるととても穏やかな性格で、心優しいやつらだということが分かる。見た目で損をするタイプだ。

小ネタ鳥写真-6

 バサバサと飛ぶアオサギ。近くで見ると音がしそうな羽ばたきだけど、実際は静かなものだ。羽音は聞こえない。
 サギたちが動物園と自然の池を行き来するのは納得できる。エサの小魚を求めてあちこち探し回るのも当然だ。たまにペンギンのエサも横取りしてしまうのも仕方がない。
 こういうふうに自然界と人工の施設を自由に行ったり来たりできるやつらが一番幸せかもしれない。家と外とを気ままに行き来する半ノラ猫のように。

小ネタ鳥写真-7

 こちらは自然の川にいたオナガガモだ。動物園にいるやつも、ここにいるやつも、同じ野生の渡り鳥だから、見た目の違いはない。
 こいつらが何百キロ、何千キロも旅をして渡ってきたやつらとは思えない。そんなに命がけで頑張ってるような感じがまるでないから。
 それにしても律儀に毎年やって来るものだ。毎年同じ場所に戻ってくるというやつもいるのだろうか。
 今年は面倒だから渡るのはやめておくかというやつがいないのが偉い。中にはいるのかもしれないけど。

小ネタ鳥写真-8

 鳩がもらった食パンを横取りするオナガガモたち。こいつらは半ば野生を失っている。いくら雑食性とはいえ、食パンは体によくない。カロリーが高すぎる。藻や苔より食パンの方が旨いと思って食べているんだろうか。食パンを追いかけて必死な感じがあるから、好んで食べていることは間違いない。

小ネタ鳥写真-9

 夕焼けのシルエットになっているのはカラスだ。カラスもこうして川なんかで暮らしていれば人とのトラブルにもならないのに。
 カラスは都会から郊外から田舎まで、どこにでもいる。日本の中でカラスがいないところはどこなのか。沖合の離島とかにはいないんだろうか。

 今日の鳥小ネタはこんなところだ。
 鳥撮りも年が明けたら再開したいと思っている。近所の池や川だけじゃなく、山や海にも行きたいところだ。そうこうしているうちに庄内緑地のトラフズクも気になってくる。
 まだ見ぬ野鳥がたくさんいる。新しい出会いを期待したい。そのためには出向いていくしかない。近所を漠然とうろついているだけでは遭遇できない鳥もたくさんいる。
 鳥といえば花鳥園もまた行かないといけない。花のない季節は鳥を撮れ。寒さに負けるな、私。

長らくご無沙汰していた氏神の八剣神社へ挨拶に行ってきた

神社仏閣(Shrines and temples)
森孝八剣神社外観

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 今日はクリスマスなのに、神社の話になった。ひねくれ精神とかではなく、そのネタしか在庫がなかっただけだ。残り物には福があるやなしや。
 私は今、一応喪中ということになっているから、本来なら神社の参拝はしない方がいいのかもしれない。と、あとから気づいたけど、もう行ってしまったあとだからしょうがない。
 そもそも、喪中は神社へ行ってはいけないだとか、初詣もひかえた方がいいとか、お寺ならいいんだとか、いやいやどこも行っていいんだとか、いろんな意見があってどれが本当なのか、よく分からない。話を読むと、それぞれに理屈はある。
 たとえば、死はケガレで、そんな状態で行くと神様が嫌がるから神社は駄目なのだとか、仏教において死は成仏だからお寺は大丈夫だとか、ややこしいといえばややこしい。風習といえば風習だし、迷信といえば迷信だ。マナーを持ち出されてしまうと、はぁそうなんですかと納得するしかない。誰の喪中かによっても違いそうだし、宗派による考え方の違いなどもあるようだ。
 私の場合は、離れて暮らしていた祖母なので、どうなのかなというのもある。共通しているのは、仏教なら四十九日、神道なら五十日際を過ぎればいいという考え方があるようだ。
 とりあえず初詣だけは延期しておいた方が無難か。年が明けて1月に五十日際があるから、そのあとにすればいい。




落ち葉絨毯の境内

 今回訪れたのは、家から一番近い神社の森孝八剣神社(やつるぎじんじゃ)だ。正確にいうと八劔神社という字が正式な表記だそうだ。
 子供の頃は何度か境内で遊んだりしたのだけど、大人になってお参りに行くことはほとんどなくなっていた。前の道は数え切れないほど通っていて、そのときに車の中から挨拶だけはしていた。
 こんなに近くに住んでるのに何年来ないつもりだと、八剣神社の神様は怒っていただろうか。

 ところで、自分が住んでいる地域の神社のことを、単純に氏神だというのだと思っていた。調べてみると、そんなに単純な話ではなかった。簡単に説明するとこうだ。
 もともと氏神というのは、読んで字の如く氏(ウヂ)の神のことをいった。だれだれ氏が信仰する神様という意味だ。その土地を支配する豪族の神様といえば分かりやすいだろうか。たとえば、有名なところでは、藤原氏の春日神(春日大社)や秦氏の稲荷神などがその代表だ。伊勢の神宮は、天皇家の氏神だった。
 平安時代以降は、血縁だけでなく、その地域の住民などを含めた土地の神様というように変化していくことになる。
 更に時代が進むと、氏神は鎮守(ちんじゅ)や産土神(うぶすながみ)と同一視されるようになる。
 鎮守というのはその土地を守っている神様で、産土神は生まれた土地の神様のことをいう。
 昔の人はたいていが自分の生まれた土地で一族と共に生き、そこで死んでいったから、氏神も、鎮守様も、産土神も共通であることが多かった。
 それでごっちゃになってしまったのだけど、今は生まれた土地を離れ、家族とは別に暮らすことも多くなった。そうなると氏神と産土神は変わらなくても、鎮守様は別の神様となってくる。
 というわけで、氏神というのは意外とややこしかったりする。今は厳密な区別をつけず、ひっくるめて氏神と称しているので、あまり気にすることはないといえそうだ。
 自分の生まれ故障の神社を氏神と思ってもいいし、自分が暮らしている地域の神社に馴染みが深ければそちらが氏神ということになる。両方を大事にしても神様は怒らないだろう。
 ただ、遠くの身内より近くの友というように、一番近いところの神様と日頃から親しんでおいた方がいざというとき頼りになるかもしれない。




新しい狛犬

 今でも狛犬を彫っている職人さんがいて、狛犬の需要はそれなりにある。めったに交換するものではないにしても、あまりにも古くなってきたらそろそろ交換しようかという話になる。そのときのために誰かが狛犬を彫らないといけない。
 しかしながら近年は既製品も増え、機械彫りの狛犬もいるという。話によると、中国で製造して輸入している狛犬さえいるんだとか。狛犬というのはそういうことではないと思うのだけど。




古びた拝殿

 境内を歩いていると、子供の頃の記憶がぼんやり蘇った。ただ、はっきりとは覚えていない。こんな感じだったなというだけだ。
 拝殿はかなり古びていた。これは昔のままだろうか。
 賽銭箱だけが妙に真新しくて、がっちり鍵がかけられていた。このあたりに時代を感じさせた。
 少し驚いたことに、小学校低学年の女の子二人がお参りをしていた。遊んでいるのかと思ったらそうではなく、ちゃんと頭を下げて柏手を打っていた。
 それはちょっと嬉しい光景だった。神社は子供にとってもっと近しい場であっていい。




本殿

 拝殿裏の本殿は小さい。こちらは柵で囲まれていて入れないようになっていた。昔からそうだっただろうか。
 ここの狛犬はけっこう古そうだ。
 森孝の八剣神社に関しては情報が少なくて、由緒などは全然分からなかった。分かったのは、創建が江戸時代の後期、1826年ということくらいだ。当時は守孝新田八剣神社と称していたようだ。
 ここから少し北へ行った大森にも八剣神社がある。あちらの方が立派で規模も大きく、創建もぐっと古い。793年というから、平安遷都の前年だ。
 大森の八剣神社も子供のとき行ったきりなので、再訪しないといけない。
 八剣神社という名前の神社は全国にいくつかあるようで、名前からしてもスサノオとヤマタノオロチが関係していると思われる。ヤマトタケルや大国主を祭神としているところもあるようだ。




摂社

 何も書いてなくて、どういう摂社か末社か分からなかった(本社の神様とゆかりの深い境内社を摂社といい、直接的なつながりはない境内社を末社という)。




境内全景

 拝殿前から振り返ったところ。この風景の方が見覚えがある。あの頃はけっこう広く思えたけど、今見るとそれほど広いわけじゃない。裏通りで奥行きがあるから、静かは静かだ。夏は蝉がうるさいくらいに鳴いていたのを覚えている。




神社の裏手

 裏手に出てみる。見覚えがあるような、ないようなだ。
 畑があって、低い民家の屋根が並んでいてという光景は、昔からそんなに変わっていないようにも思えるの。




南無大師遍照金剛

 横に回ってみると、空き家のような、お寺のような建物があった。こんなものは知らない。とても人が住んでいるような感じはないものの、お寺っぽいのぼりが立っている。南無大師遍照金剛とある。よく分からない。




鳥居前

 久しぶりに八剣神社を訪れて、なんだか胸のつかえが取れたようにすっきりした。
 

大福を 作って食べて メリークリスマス

料理(Cooking)
大福イブ

Canon EOS 10D+TAMRON SP 28-75mm f2.8



 クリスマスイブに大福を作って喜んでいる男はあまりいないと思うけど、今日の私は大福作りの人だった。どうして今日、大福だったのか、特に深い理由はない。前から一度大福を作りたいと思っていて、少し前に白玉粉を買ってきてあって、たまたま今日作る時間があったというだけだ。世の中のクリスマス騒動に異議を唱える抗議活動とかではない。
 もし今夜私の家に遊びに来ていたら、クリスマスケーキの代わりに大福が出てきていた。日本のクリスマスに和菓子の大福というのも悪くない。なんならロウソクでも立ててみればよかったか。

 大福作りは簡単でありながら奥が深く、意外と難しいものだと感じた。失敗ではなかったものの、成功とも言えない出来上がりになった。一言で言うと、練り不足だった。
 手順はごく単純だ。白玉粉に水を混ぜながらこねて、砂糖を加えて更にこねて、レンジで加熱して、またこねて、またレンジで加熱して、更にこねてというのを3、4回繰り返すだけだ。
 満足がいく仕上がりにならなかったのは、こね足りなくて、生地がやや固く、粉っぽかったところにある。練り込むことでもっとなめらかな舌触りと柔らかさになったのではないかと思う。
 分量に関しては、まだちょっと掴みきれていない部分もある。たとえば白玉粉100gに対して砂糖はどれくらいが適量なのか。レシピによって20gだったり100gだったりと、開きが大きい。今回は間を取って50gとしてみたら、甘みに関しては足りないと感じた。ただ、砂糖の分量によって生地の固さも変わってくるし、あまり増やすとくどくなるようなので、これでも多いくらいなのかもしれない。中身に何を入れるかでも違ってくる。
 水については150ccくらいを目安に、少しずつ加えて練りながら様子を見ていくということになるだろうか。
 中身はお好みで漉し餡でも粒餡でも白餡でもいい。イチゴ大福もけっこう一般的なものとなった。雪見だいふくというアイスを昔よく食べた。夏場なら中身にバニラアイスを使ってもよさそうだ。
 私は一番簡単に思えたチョコにしてみた。生チョコの方が美味しいに決まってるけど面倒なので却下。家にあった板チョコを使った。
 出来上がった大福の生地を伸ばして、中にチョコのカケラを乗せて包む。それにカタクリ粉をまぶして、レンジで30秒から1分ほど加熱すれば出来上がりだ。
 もしくは、この状態で茹でるという手もある。あとから半分やって食べてみたら、ツルッとした食感に変わった。形が崩れてちょっと見た目は悪くなるけど、茹でた方が美味しい。
 もっと本格的にやるなら蒸し器で蒸すのがベストなんだろうと思う。

 クリスマスイブの夜、寒空の中でも恋人たちは心温まる夜を過ごしただろうか。名古屋港の花火の写真を見たけど、部屋で見てる分には暖かいものだ。あの場に行っていたら、寒くて凍えていただろう。去年も猛烈に寒かったし、今日の名古屋もよく冷えた。
 2008年のクリスマスイブの思い出は、大福だった。来年の12月24日まで今日のことを覚えているだろうか。すごく思い出深い出来事でもないから、すっかり忘れてしまっているような気もする。別の日にでも大福を食べると、2008年のクリスマスイブのことを思い出したりするのか。
 なんにしても、平和な一日だった。悪いことがなければそれでよしとしよう。
 まだ白玉粉は残っているから、別のものにも挑戦したい。次は生八つ橋を作る予定だ。そのときはまた報告したいと思っている。
 メリークリスマス。

冬には冬の写真を

夕焼け(Sunset)
冬の一日-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 12月も後半に入り、年の瀬が近づいてきた。街の中心はイルミネーションがきらめいてクリスマスムードが盛り上がっているだろうけど、郊外では今ひとつ実感が湧かない。クリスマスシーズンにおける街中心部と郊外との温度差は思っている以上に大きい。クリスマスイブの日に郊外と街中の両方へ行ってみるとそれがよく分かる。郊外では本当に今日ってクリスマスイブだっけと思うほどそっけないのに、駅前へ行くとカップルで溢れかえっていてまったく違う日のようだ。
 名古屋でいえば、名駅や栄、そしてスターライトレビューのある名古屋港が大変な賑わいを見せる。名古屋の場合は行く場所が限られるから、そういうところへ行くとものすごい数のカップルに圧倒されることになる。
 今年は平日だからどうなんだろう。25日も仕事なら24日の夜にそんなに遅くまで出歩いていられない。代わりに昨日、今日と遊びに出かけたという人たちも多かっただろうか。
 名古屋港のスター☆ライトHANABIは、24日の夜に打ち上げられるようだ。イタリア村がなくなってしまったから、少し寂しくなってしまったことだろう。夕飯を食べる場所にも困りそうだ。

 そんなクリスマスを目前にした冬の日、私はのんきに洗車などをしている。平和といえば平和な過ごし方だ。
 河原へ行ったり、買い物をしたり、用事を済ませたりしつつ、ちょっとだけ写真も撮った。今日はそんな冬の日の写真を並べてみる。
 冬の写真には冬の空気感が写り込む。空の表情も秋とは別物だし、光の色が違う。風景がだんだん色を失っていき、いつしか私たちはモノトーンの色合いに慣れてしまう。そして再び春を迎えたとき、世界はこんなにも色に満ちあふれていたのかと思いをあらたにする。写真を撮っているとそのことを実感する。
 冬にしか撮れない写真もあるから、冬には冬らしい写真を撮っていければいい。

冬の一日-2

 いつもの洗車場にて。
 鈍色の空の破れ目から、薄く焼けたオレンジの空が覗いた。
 私は自らを恐怖の洗車雨乞い男と呼んでいて、めったにしない洗車をした翌日にかなりの確率で雨を降らせることができる。その確率は7割くらいはあるんじゃないかと思う。洗車の最中に雨が降り出したなんてことも2回や3回ではない。
 洗車をしたのは昨日のことで、今日の降水確率は終日0パーセントだったのに、それでも小雨を降らせた。自分でも驚いたけど、天気予報に勝ったと思った。
 この特殊能力を水不足で困っているところの人に役立てたいものだ。優秀なセールスマンは南極でも冷蔵庫を売るというけど、私は砂漠で洗車をして雨を降らせることができる気がする。
 決して雨男というわけではなく、大事な日はほぼ必ず晴れる晴れ男だから、洗車のあとだけ雨が降るというのがすごい。デートやイベントの前日は洗車ができないから、何日か前にしておかないといけない。

冬の一日-3

 金網に巻き付いたヘクソカズラの実がわずかに残り、向こうの地面には落ちて捨て置かれたミカンが転がっている。
 ミカン好きのメジロなども、街中にはいない。腐らせて捨ててしまうのももったいないことだ。
 子供の頃は田舎でよく干し柿を作っていたけど、ああいう風習もなくなりつつある。

冬の一日-4

 春の最初から咲き始めて、冬の最後まで粘っていたタンポポも、ついに寒さに負けた。
 年を越えることができる野草はほとんどない。虫たちもいつの間にか姿を消してしまった。

冬の一日-5

 見上げて、空の一番きれいな部分を切り取ってみる。
 それは嘘の写真ではないけど、本当の姿でもない。都合の良い真実か、不都合な部分を隠したまやかしか。
 この世界のいい部分だけを見て生きていくことが正しいことなのか間違ったことなのか、いまだに判断がつかない。いいところを積極的に肯定したいという気持ちは強いのだけど。

冬の一日-6

 いつもの河原で空を撮る。
 場所は同じでも空は同じじゃない。
 夕焼け空は何度見ても飽きない。

冬の一日-7

 ポツリとたたずむコサギ一羽。
 エサ場では、たいていサギたちは単独行動をしていて、少し寂しそうに見える。
 けれど、寝床に戻ればそこはサギたちのコロニーだから、寂しくない。
 私が立ち去るときに、西の空に向かって飛び去っていった。

冬の一日-8

 みんな今頃せっせと年賀状を書いている頃だろう。気の早い人はもう出してしまっただろうか。
 今年は書かないから、私はなんとなく仲間はずれにされてしまったような感じだ。いつもはけっこう面倒だなと思っているのに、いざ書かないとなると物足りない。年末気分が盛り上がってこない。
 年が明けたら寒中見舞いを書いて送ろう。

冬の一日-11

 日は沈んで、夕刻から夜へ。家路につく車の列だろうか。みんな先を急いでいる。
 私は写真を撮ろうとして、信号が変わったときに出遅れた。それで偶然面白い写真になった。他の車が青信号で走り出した瞬間にスローシャッターで撮っらこうなった。こちらはとまっているのに、動きのある写真になった。この撮り方に可能性を感じた。後ろに車がいるときはクラクションを鳴らされそうだけど、いないときにまたやってみよう。

冬の一日-10

 暗がりに浮かび上がる高速道路の明るさ。
 高速道路というのも、線路とはまた別の旅情のような感情を呼び覚ます。遠くの世界とつながっていて、あれに乗れば遠くまで行けるんだと思う。なんの目的もなくひょいと乗って、行けるところまで行ってみるというようなドライブもできなくなった。ふいに思い立って真夜中の海を見に行くなんてことも、今はできそうにない。それは成長ではなく退化だというならそうかもしれない。

 明日はクリスマスイブ。そこでいいことがなかったとしても、まだあきらめるのは早い。今年はまだ1週間残っている。その中で素敵な思い出を作れるかどうかは自分次第だ。家で待っていてもサンタさんはやって来ない。プレゼントはもらうものではなく、自分で作るものだから。
 何の予定もなく、一緒に過ごす相手がいないのなら、自分がサンタになるというのもある。プレゼントをあげるというのも嬉しいものだ。親でも友達でも同僚でもいい。何かひとつでもいいことをしておけば、それが巡りめぐっていつか自分のところに戻ってくることもあるだろう。
 サンタは嫌だというなら、トナカイの着ぐるみをかぶって街を走るというのでもいい。笑いという幸せを振りまける。

尾張旭の神社巡り第6弾で9つ制覇するもまだ完結に至らず

神社仏閣(Shrines and temples)
尾張旭神社6-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 尾張旭の神社巡りは、2007年4月の渋川神社から始まった。あれから一年半以上の月日が流れて、ようやく11月に9つ全部回ることができた。そしては今はもう12月。なんだかんだで残り2つについて書くのが先送りになって、現在に至る。回れば終わりじゃない。復習として調べ物をして、書いたところで完結となる。
 ただ、今日紹介する山ノ神神社と白山神社について書くことはあまりない。ネットで調べてもほとんど情報がなくて、祭神さえ分からなかった。縁起や由緒も調べがついていない。尾張旭の図書館に行けば、郷土史の資料などはあるだろうから、そのうち機会があれば調べてこようと思っている。今日のところは写真を載せて、こんな雰囲気の神社ですよという紹介にとどまる。
 そういえば神社仏閣ネタはちょっと久しぶりじゃないか。小牧山の番外編のとき以来だ。

尾張旭神社6-2

 これが山ノ神神社のほぼ全景だ。あまり広くないものの、奥行きはある。
 場所は、三郷小学校の裏手で、かなり入り込んだところなので、用事がない人が偶然この神社にたどり着く可能性は低い。偶然見つけたとしたら、それは山ノ神が呼んだのだろう。私は一度見つけられず、出直した二度目でようやく発見できた。

尾張旭神社6-3

 こぢんまりとした本殿ながら、わりと小綺麗でさっぱりしている。社殿は新しそうだ。
 山ノ神神社という名前の神社は全国にいくつかあるようだ。名前からして、地元の山の神様を祀っているのだろうけど、どうして尾張旭の三郷あたりで山の神様を祀っているのかよく分からない。このあたりには山などない。一番近い山というと守山区の東谷山だろうか。あの山は昔から神聖な山ではあるけど、直線距離にして6キロ以上離れている。あえてここに山の神を祀る理由は見あたらない。
 どこかよそから移ってきた可能性はある。

尾張旭神社6-4

 脇に御嶽神社もあった。ということは、本殿も御嶽山信仰と関係があるのだろうか。

尾張旭神社6-5

 表に近いところには、縣ノ神(あがたのかみ)の石碑がある。
 これは横に説明書きがあったので、経緯が少し分かった。
 昔このあたりは瀬戸川と呼ばれる地区で、今の三郷小学校の南西に「あがた木の森」という小さな森があったという。「あがたぬし」という人がこの森にやってきて村の先祖となり、村人はみんな森の木を大事にしたのだそうだ。いつからかその木を神様のようにあがめるようになり、その木の神様を「縣ノ神」として石碑にしてここに移してきたのだそうだ。
 今はもう森などは残っていない。尾張旭も戦後、名古屋のベッドタウンとして急速に宅地開発が進んだ街だ。

尾張旭神社6-6

 三郷小学校の南西に、瀬戸川城跡の石碑が建っている。
 この近くの井田城の城主だった浅井玄藩允の弟・浅井源四郎が1470年代に築城したとされる城だ。
 織田信長が生まれる60年以上前のことだから、詳しいことは分かっていない。
 発掘調査で、約55メートル四方の土塁で囲まれた城だったことが分かったそうだ。深さ1.8メートルの堀もあったというから、戦闘を想定した本格的な城だったようだ。

尾張旭神社6-7

 次に白山神社へとやってきた。山ノ神神社からまっすぐ東に500メートルほど行ったあたりにある。
 ここについてもよく分からなかった。本地ヶ原神社の前身が白山神社といったそうだけど、あちらと関係があるのかないのか。
 白山神社というからには、他の白山神社と同じく白山信仰の神社なのだろう。中部地方を中心に全国2,700社ほどがあるという。
 これまたかなり奥まったところで、周囲を木に囲まれているから、地図を見てここを目指して行かないと辿り着かない。地名でいうと、狩宿町(かりじゅくちょう)にある。
 この地名の由来は、尾張の殿様がよくここで狩りのために宿泊をしたところから来ているらしい。

尾張旭神社6-8

 ここの社殿も比較的新しい。鳥居や狛犬などは年代を感じさせるから、社殿だけ昭和になって再建したものだろうか。
 場所柄ひっそり静かではあるけど、神的な気に満ちているというほどでもない。
 このときはもう日没時間だったから、よけいに寂しく感じたということはありそうだ。夏の昼間に訪れたらもっと違う印象だったんじゃないか。

尾張旭神社6-9

 狛犬は歳月を感じさせる摩耗があって、土台は新しい。
 社殿の造りはなんでこんなスタイルになってしまったのだろう。扉というよりドアだ。

尾張旭神社6-10

 このあたりも明治以降はいろいろな神社が合祀されたのだろう。これはどこの神社か分からなかった。

尾張旭神社6-11

 神社の向かいにちょっとした歴史的建造物らしき建物が建っている。
 狩宿郷倉という村の共同倉庫のようなものらしい。
 江戸末期から明治初期にかけて建てられたもののようで、尾張旭でそういう古いものが残っているのは珍しい。

 そんなわけで、ようやく尾張旭にある9つの神社すべてを回ることができた。思いがけず長くかかってしまったものだ。
 しかしながらこれで完結というわけにはいかない。最初に行った渋川神社の再訪が残っている。あそこは去年行ったときは本殿の再建工事中で、神様も仮住まいだった。それが今年の10月に本殿が完成して、実は一度行ってきたのだけど、うっかり撮ってきた写真を全部消すという間抜けなことをしてしまって、もう一度行かなくてはいけなくなってしまった。非常に立派な社殿になっていたから、その姿を紹介して、尾張旭の神社巡りを完結としたい。
 今年中にはなんとか終わらせようと考えている。総まとめはそのときにしよう。

クリスマスらしい赤色料理を作ったらテーハミングになったサンデー

料理(Cooking)
赤色サンデー

Canon EOS D60+Canon EF50mm f1.8 II



 今日のサンデー料理のテーマは、クリスマスだった。上の写真を見て、どこがクリスマスなんだよとあなたは思ったかもしれない。理想と現実が一致しないのは世の常で、料理においてもそれは当てはまる。思った通りに作れるとは限らないし、曖昧なイメージのまま見切り発車で作ると思いがけないものに仕上がったりする。今日はイメージと出来上がりのギャップが大きかった。
 私はこんなものを作ろうと思ったのではない。クリスマスといえばイメージカラーは赤で、赤色の料理が作りたかったのだ。写真を見ると、赤は赤でも韓国料理みたいになってしまっている。韓国人が「テーハミング!」と叫びながら韓国代表のサッカーチームを応援しながら食べる料理みたいだ。この料理には銀色の箸がよく似合う。
 赤い料理を3品揃えるとどんな感じになるんだろうという発想は間違いではなかったと思いたい。自分の中ではもっとおしゃれなフランス料理風になるはずだった。どこでどう間違ってこんなことになってしまったのか。
 今回はいろいろ失敗が多かった。味は美味しかったのだけど、盛りつけもよくなかったし、デジの選択も誤った。D60は料理向きじゃないことが分かった。

 左手前は、甘エビとサーモンのカルパッチョだったのに、なんだかきたならしい仕上がりになってしまっている。これは完全に盛りつけの失敗だ。ソースの色もよくないし、かけ方も悪かった。
 料理としては単純なもので、甘エビの下ごしらえをして、サーモンとともに塩、コショウ、白ワインを振ったあと、魚焼きグリルで少しあぶり焼きをしただけだ。タマネギは少し湯がいてある。
 ソースは、オリーブオイル、白ワイン、しょう油、からし、砂糖、塩、コショウ、唐辛子、マヨネーズ、酢を混ぜたものをひと煮立ちさせて作った。
 味は素材に依存するから、今回の中では一番美味しかったけど、私のお手柄ではない。

 右手のは豆腐のチリソースだ。写真ではキムチみたいだけど、そうじゃない。
 木綿豆腐を水切りして、一口大に切り分け、カタクリ粉をまぶす。
 フライパンでニンジンの刻んだものとトマトをごま油で炒め、豆腐も投入して、酒、ケチャップ、砂糖、塩、コショウ、豆板醤、唐辛子、しょう油で味付けをした。
 もう一つポイントとしては、ポテトチップスを砕いて振りかけているところだ。豆腐の柔らかい食感と、ポテトチップスのサクサク感と、ニンジンのコリコリ感と、3種類の食感を楽しめるようになっている。

 奥は失敗ボルシチもどきだ。スープ仕立てのつもりが、煮込みすぎて汁気を失ってしまった。本来は赤いスープになるはずだったのに、野菜のゴテゴテ煮になりさがった。これはこれで料理としては成立しているものの、イメージとはかけ離れた仕上がりに自分でも驚いた。
 時間短縮のために、ジャガイモとニンジンをラップでくるんでレンジで5分加熱する。
 鍋でタマネギの刻みと鶏肉をオリーブオイルで炒め、ジャガイモ、ニンジン、キャベツ、えのきを加えて、白ワイン、トマトピューレ、砂糖、塩、コショウ、唐辛子、バター、牛乳、チーズ、ケチャップ、コンソメの素で味付けをして煮込んでいく。
 端的に言って水の量が少なすぎた。ちゃんとスープになっていれば、もう少し違った料理になっていただろう。見た目ももっと美味しそうになっていたはずだ。

 赤い料理というのは、思った以上に難しかった。赤い食材というと今回使ったような顔ぶれで、あと考えられるとすれば赤ピーマンとか、鷹の爪とか、そんなあたりしか思いつかない。赤いスープを作ろうとすると、どうしてもトマトかケチャップに頼ることになって、バリエーションが少ない。ミキサーやジューサーなんかを持っていれば、もう少し可能性は広がったかもしれない。
 それ以前に、クリスマス料理が赤色という発想そのものに問題があったとも言えそうだ。鶏のもも肉とかにしておけばよかったのか。でも、ターキーなんてどこに行けば売ってるんだろう。
 そもそも、なんでクリスマスに七面鳥なんて食べるんだよと疑問に思ったので調べてみると、アメリカ大陸に渡ったヨーロッパ人が、貧しい暮らしの中で野生の七面鳥を捕まえて飢えをしのいでいたという歴史があって、感謝祭などで感謝をしながら七面鳥を食べていたことが、のちにクリスマスでも食べるようになったという経緯だったそうだ。かわいそうな七面鳥。感謝されながらも食べられてしまうなんて。
 日本では七面鳥は一般的ではないからニワトリで代用したというのは分かる。私たちが子供の頃は、クリスマスの食卓にニワトリのもも肉がよく出てきた。手で持つところに銀紙を巻いて食べたのも懐かしい。今どきの家庭でもクリスマスに鶏のもも肉を食べたりするんだろうか。

 今年のサンデー料理も、次回が最後となる。いいアイディアが浮かばないから、これまで作ったものの中から自信作を3つ作ることにしよう。サンデー料理検定試験のつもりで、現状の実力をすべて出しきって作りたいと思う。

人並み以上に信号待ちの車の中から交差点の写真を撮る男

街(Cityscape)
交差点写真-1

Canon EOS D60+TAMRON 17-50mm f2.8



 名古屋の人なら美宝堂の親子三代の成長ぶりを誰もが知っている。チビは大きくなり、オヤジは歳を取り、じいさんは更にじいさんになった。なんとなく親戚を見ているような感じさえある。
 東海地方以外の人は、美宝堂なんてまったく知らないと思う。名古屋人だって美宝堂そのものを知っているわけではない。宝石店だから、興味本位にせよ店に入ったことがあるという人はごく少数だろう。ただ単にCMでお馴染みなだけだ。
 しかしながら清水口の交差点を通るときは背の高いビルが否応なしに視界に入ってしまうため、「名古屋清水口のビホードー!」というCMを反射的に思い出してしまう。経営者の親子三代がCMを私物化して出演し続けるという戦略は、知名度を上げるという点においては大成功を収めていると言えるだろう。
 今日は美宝堂の話をしたいわけじゃない。ちょっと交差点の話をしようと思う。

交差点写真-4

 私くらい信号待ちの車の中から写真を撮っている人間はあまりいないんじゃないか。世の中は広いから私よりも10倍くらい撮ってるという人もいるんだろうけど、信号待ちの隣の車で一眼レフで写真を撮っている人間を私はこれまで一度も目にしたことがない。世間ではあまり一般的な行為ではないらしい。
 何もすることがなくて手持ちぶさたというのもあるのだけど、私は交差点の写真を撮るのが好きなのだ。なんとなくドラマがあるようなないような、何もないんだけど何かあるような気がして撮りたくなる。
 これまでけっこう撮ってきて、あれは良かったというのは特にないのだけど、ドラマの要素はある。小学生たちが手を挙げながら交差点を一列に渡っているところとか、高校生のカップルが自転車の二人乗りをしているところとか、ギャルと腰の曲がったおばあちゃんがすれ違った瞬間とか、いろいろ絵になるシーンがきっとあるはずだ。まだ決定的なチャンスに恵まれていないだけで。
 人間だけでなく、交差点そのものが様々な表情があって面白いというのもある。建物も月日と共に移り変わっていくから、記録画像という意味でも考えている。何年か経って古い交差点の写真を見たら、前はこんなふうだったんだと懐かしく思うこともあるだろう。
 本当に面白い交差点というのはそんなにもない。ただ、個人的に好きな交差点というのはいくつかある。今度好きな交差点の写真を全部撮ってきて、マイベストテンとか作ったら楽しそうだ。誰か一緒に盛り上がってくれる人がいるだろうか。

交差点写真-3

 2枚目の写真も、上の3枚目の写真も、赤塚の交差点を写したものだ。同じ交差点でも方向が違えば表情は全然違ってくる。
 バスレーンの出来町通と国道19号線の交わったこの交差点は、私の中でうちがあるエリアと栄・名駅方面を分けるボーダーラインのような意味合いを持っている。ここから先へ行くと、もう向こう側という感じがあって、手前の山口町まではうちの側のエリアという感覚だ。
 正面に「ひらのや」の看板が見えている。あの「ひらのや」の本店はここだったのか。長久手役場前の店に一度入ったことがある。そばが美味しい店で、あのときは味噌煮込みうどんを食べたんだったか。きしめんだったかもしれない。
 写真でいうと、右斜め後ろの角に神明社がある。外から見てもなかなか立派な神社で、一度は挨拶に寄らないといけないと思いつつ、まだ一度も行ったことがない。大通りの角ということで、思いついてちょっと寄れるというロケーションにない。裏に回れば車をとめておくところがあるだろうか。
 正面右寄りに見えている尖塔は、教会のものではなくて、教会結婚式場のもののようだ。パルティーレ白壁迎賓館というところらしい。

交差点写真-2

 主税町カトリック教会の写真を撮ったとき、振り向いて撮ったのが上の写真だ。交差点としては、主税町3ということになるだろう。このあたりは特にこれといったものはない。
 下の道は国道41号線で、頭上の道路は名古屋高速1号線だ。名古屋も気がついたら名古屋高速がたくさんできていて、どこがどうつながっていてどこへ行っているのか、まったく分からない。めったに利用しないから、たまに乗るとどこで降りていいか迷って、全然思っていたところと違うところで降りてしまったりする。

交差点写真-5

 これは千種近くの交差点だったと思うけど、よく覚えていない。ビルに夕陽が当たってきれいだったから撮った。
 いいタイミングで人が写っていると嬉しい。
 ところでスクランブル交差点って何だろうとふと思った。スクランブル交差点を説明しろと言われても答えられない。
 一番有名なのは渋谷の交差点だろう。「スクランブル交差点では心を閉ざし分かり合うことがない」、尾崎豊が歌ったあの交差点だ。去年初めて見に行って、けっこう感慨深かった。
 人が斜めに渡っていくようになっているのがスクランブル交差点の定義なのかと思ったら、違った。要するに、車が青のときは人間はすべてストップで、人が渡るときには車が全部止まるというように、人と車の動きを分断する交差点がスクランブル交差点ということらしい。
 大きな都市の中で名古屋はスクランブル交差点が少ないんじゃないかと思う。名駅や栄にはあるだろうけど、名古屋の人間はみんな地下を歩くから、そんなに交差点は必要ない。名古屋の場合は、変則的なスクランブル交差点になっているような気もする。
 調べたところ、全国には300ほどあって、日本初のスクランブル交差点は熊本県熊本市の子飼交差点だそうだ(1969年)。ついでに書くと、世界初は1940年代、アメリカのカンザスシティとバンクーバーだったらしい。
 そういえば、「人間交差点(ヒューマンスクランブル)」なんてコミックもあった。
 もう一つ交差点で気になったのが、矢印の右折信号だ。あれはいつからできたのだろう。昔は今ほど一般的なものではなくて、右折信号がある交差点はごく限られていた。最初の頃は右折信号に気づかず、クラクションを鳴らされている車なんてのもよく見かけたものだ。これほど普及したのは、ここ15年とか20年くらいじゃないだろうか。
 右折信号の日本初というのは調べがつかなかった。

交差点写真-6

 布池教会大聖堂の二本の尖塔は、遠くからでもよく見える。夜になると先の方だけライトアップされるから、更に存在感を増す。日本家屋の合間から見えるゴシック建築の尖塔というのは、なかなかにユニークな光景となっている。
 この交差点の名前は知らない。すべての交差点には名前がついているのか、小さな交差点には名前がないものなのか、そのあたりの事情はどうなっているのだろう。名前のない交差点を説明するのは難しく、かといって全部に名前をつけてしまうとかえって混乱しそうでもある。
 芸術創造センター前を東に入って1本目だか、2本目だかのところだ。

 結局この日も交差点でドラマらしいドラマを目撃することもなく、劇的な写真も撮れなかった。これらの場所を知ってる人が見れば、あああそこだなと分かるだろうけど、知らない人にしたら何の思い入れも抱けない写真だろう。交差点写真家としての未熟さを思い知る。
 やはり車の中からだけではいい写真は撮れない。交差点には横断歩道もあるから、上から撮るとまた違った光景を撮ることができる。豊橋の市電風景なんかはとても印象に残っている。
 ねらい目として考えているのは、上社のジャンクションのところとか、原1の楕円形歩道橋があるところなどだ。ちょっと面白い写真が撮れる予感がある。あとはやはり、栄や名駅だろう。ドラマを狙うなら、人がたくさん集まっているところに行かないといけない。
 今後も交差点写真は撮り続けていくことになる。またしばらくして写真がたまってきたら、交差点ネタ第二弾をお届けしよう。

まだ名古屋の半分も知らないから残り半分の名古屋も知りたい

名古屋(Nagoya)
白壁あたり

Canon EOS D60+TAMRON 17-50mm f2.8



 名古屋の街の何パーセントを私は知っているだろう。一度でも通ったことがある地区を赤く塗りつぶしていったら、名古屋市の地図がどれくらい赤くなるのだろうか。もちろん、半分は赤くならない。3分の1もいくかどうか。この街に長く住んで、写真を撮るためにあちこち出歩いているようでも、空白は多い。区による偏りも大きい。
 自分が住んでいる守山区でさえ、半分いってないような気がする。よく行くのは名東区で、あとはバスレーン沿いの千種区、東区、中区はそこそこ。一番行かないのが南区や港区、中川区で、昭和区、瑞穂区、緑区も縁が薄い。北区や西区にも用事はほとんどなく、中村区も名古屋駅周辺くらいしか行かない。
 名古屋の街は、東京と比べるとずっと狭い。にも関わらず住人の行動範囲が狭いのは、東京が電車でどこへでも行けるのに対して名古屋は車社会だからというのがある。単純に言って、道が混んでるところへは行きたくないし、有料駐車場しかないようなところはなるべく避けたいという心情もある。名古屋の鉄道路線も、地下鉄環状線ができてだいぶ便利になったとはいえ、車を持っている人があえて電車を利用することは少ない。東京のようにそれぞれの街が独自性を持っているというわけでもなく、名駅や栄をのぞけばだいたいが横並びで独立しているから、あえて不便な遠くまで行こうという気が起きない。だから、人によって行く場所は限られてくる。
 車を使ったセールスマンやドライバーは別にして、名古屋人は意外と名古屋のことを知らない。デジカメ散策をする前の私もそうだった。名古屋について知るようになったのは、ほんのここ数年のことだ。それでもまだまだ半分も知らない。

 そんなことをぼんやり思いながら、今日はふらっと白壁方面に車を走らせた。明確な目的意識があったというわけでもなく、一応建中寺に行こうかなくらいの曖昧な感じで。
 上の写真は、白壁の武家屋敷跡を探して見つからず、公園脇の道路に車をとめて地図を見ているときに撮った一枚だ。ちょっと久しぶりに紅葉を見た。あれは何という木だろう。
 街路樹のイチョウも、あらかた葉を落としてしまった。今年も桜通のイチョウ並木を見ることができなかった。
 結局、白壁の武家屋敷跡は見つからずじまいだった。バスレーンから奥に入ったところだったはずだけど、どの通りか分からなくなってしまった。前に一度見てるのに。

主税町教会

 白壁はあきらめて、建中寺に向かうことにした。だいぶ日も傾いてきた。
 その前にせっかくここまで来たのだから、主税町カトリック教会(ちからまち)を見ていこうと思いついた。
 自転車のおばさま、思い切りのいいフレームイン。
 去年のクリスマスイブに連れと二人で初めてこの教会に入った。あのときは人っ子一人いなくて、おっかなびっくりの訪問だったことを思い出す。今回は中まで入らず、外から写真を撮るだけにしておいた。ほぼ一年ぶりのこんにちはだ。
 名古屋で最古の教会建築(明治37年)のことは、去年ブログに書いた。
 それほどメジャーな存在ではないから知らない人がほとんどだと思うけど、なかなかいいところなので一度行ってみることをおすすめする。教会堂の中まで入っていって大丈夫。裏手に回ると入り口がある。

建中寺

 建中寺については、いずれあらためてしっかり書こうと思っている。今日は三門の写真だけ。

布池教会

 布池教会をまだ見たことがない名古屋人は損をしている。これはぜひ見ておくべき建物だ。知っていると、よそから名古屋に遊びに来た人を連れて行って自慢できる。名古屋にもこんなに立派なゴシック様式の大聖堂があるんだぞと。
 昭和37年築と、まだ新しいものではあるけど、この教会はいい。名古屋でナンバーワンの教会堂だ。外観だけでなく、大聖堂内部の空気感がいい。命の洗濯ができてしまうくらいの清浄パワーがある。
 ここはこれまでに4度ほど訪れている。おととしのクリスマスイブは連れを伴って入った。クリスチャンでもなんでもないけど、教会というのはなかなかいいものなのだ。

 今日訪れた場所は、どこもすべて再訪の場所だった。これはあまりよくないというか、もったいない。未知のところへもっと積極的に出向いていかないと、あらたな発見はない。
 名古屋市内でさえまだまだ白地図の部分がたくさんあるのだ。そういう部分を埋めていくというのも今後の課題となる。名古屋のことくらい、隅から隅まで一応知ってるよと言えるようにならなければと思う。
 ディテールにこだわる前に、主要な部分でも未知ゾーンが残っている。たとえば白川公園なんてメジャーなところも、小さい頃何度か行ったっきりで大人になってから一度も行ってない。主要な公園、神社仏閣、建物、駅、川、池その他、埋めるべきところがいくつか思い浮かぶ。
 街撮りシリーズも続きをやらないといけない。知ってるようで実はよく知らない街としては、大曽根、覚王山、池下、伏見、本山など、いくつかある。このあたりは車で回るには無理があるから、やはり地下鉄で行くしかない。一度でも歩いてみれば、だいたいの感じは掴めるものだ。もしくは、スクーターを買うか。
 このブログは、HPその他でこれまでやってきたことの集大成という位置づけで考えているから、名古屋の街情報を網羅するというのも一つのテーマとなっている。いずれきちんとジャンル分けして、目次も作らないといけないだろう。その作業を考えるとちょっと気が遠くなりそうだけど。
 名古屋足跡地図をいずれ真っ赤にできるように、今後は未知エリアへもっと積極的に行くことにしよう。目指せ、名古屋の伊能忠敬。伊能忠敬だって地図を作るために歩き始めたのは56歳のときだ。まだまだ全然遅くない。

キラキラとワクワクは空の向こうではなく日々の中で探そう

空(Sky)
いつもの河原にて1

Canon EOS D60+Canon EF28mm f2.8 / EF75-300mm f4-5.6 IS



 よく空の写真を撮るのは、空に憧れているからじゃない。地球の外の世界を忘れないためだ。ここから離れられなくとも、外には広大な世界が広がっていることを思えば、小さな世界でも息苦しくない。
 いや、そんなことよりも、空は風景として単純にきれいだということだ。刻々と移り変わる空の色と雲の形。いつ見上げても、そこには違う表情がある。
 空を持つことができた私たちの幸運を思う。

いつもの河原にて2

 街中よりももっと広い空が見たくなったときは、河原へ出る。そこには電線に遮られない空がある。ビルに切り取られない空が。
 街を流れる川は、人々の生活圏の中にありながら、ほんの少しだけ非日常的な空間だ。河原に降りてみれば、実感として分かる。生活の雑音からフッと開放される感覚がある。
 遠くの橋を車や人が渡っているのが見える。家に帰る人たちだろうか。橋というのは内と外とを隔てる装置の一種で、橋を渡るということはこちら側とあちら側を行き来するということだ。そのことにみんな気づいているだろうか。

いつもの河原にて3

 空を飛んでいけば地球上のたいていのところへ行くことができる。そのことで私たちはどれくらい幸せになれただろう。
 誰もが小さな自分の世界に生きている。仕事で海外を飛び回っている人の世界も、田舎暮らしをしている人の世界も、それほど違いはない。人の世界というのは、経験と想像の総体だから。知れば知るほど、相対的に想像が占める割合は小さくなる。自分の目で見たり、実際に体験するというのは決定的なことだけど、失うものがないわけではない。

 私の中に、入院中の小学5年生の女の子がいる。実際に知っているわけではい。その子の手足の代わりとなり、いろんなものを見聞きして、この世界の素敵を伝えることを使命としているという意味だ。
 生まれつき病気がちで入院中のベッドから窓の外ばかり見ている彼女は、好奇心が旺盛で、たくさん本を読む賢い女の子だ。体さえ丈夫なら、世界中を駆けめぐる冒険家になりたいと夢見ている。
 私にはそんなことはできないけど、この日本という国の日常生活の中にも、たくさんのきらめきがあることを教えてあげたい。季節の花が咲き、数え切れない生き物がいて、人々の歴史があり、移り変わっていく街並みがある。海があり、山があり、川がある。美味しい食べ物も。夕焼け、夜空の星々、雪景色。
 私は彼女の目が輝くような写真やお話を運び続けなくてはならない。つらい病院生活にも頑張って耐えられるように。

 この世界には美しいものや楽しいことがたくさんあって、すべての日は生きるに値する日だ。
 明日という日は、まだ誰も見たことがない真っさらな一日で、何が起こるか分からない。悪いことかもしれないけど、いいことかもしれない。
 今日が駄目な一日だったとしても、嘆くことはない。元気を出して明日に向かえばいいだけだ。太陽は昇り、日は沈み、月が出て、月が沈む。一晩眠って、目を覚ませば、もう目の前には新しい一日が待っている。
 明日もう一度頑張ってみよう。

1/3ご近所イルミと12月の残りについて

イルミネーション(Illumination)
ご近所イルミ

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 毎年三軒仲良く揃ってイルミネーションで飾っていたのに、今年は一軒だけしかやっていなかった。他の二軒はどうしてしまったのだろう。これも不況の影響だったりするのだろうか。電気代がもったいないとか、そんなのんきなことをやってる余裕がなくなってしまったのか、ひょっとして隣同士仲違いしてしまったのではないかなど、変に勘ぐってしまった。
 もう飽きたとか、近所の人が見に来るのが邪魔くさくなったとか、そんな理由だったらいいのだけど。ただ、毎年けっこう楽しみにしていたから、ちょっと残念ではあった。たまたまこの日は家族で出かけていて臨時に休んでいただけったのかもしれない。日を改めてもう一度行ってみよう。

 クリスマスまであと一週間となった。今からそわそわしていたり、焦ってプレゼントを買いに走ったりなんて人もいるだろう。もう完全に居直って忘れた振りをしている人もけっこう多いんじゃないか。私も今年は普通の一日になりそうだ。用意したプレゼントをいつ渡そうかと考えつつ、来年になってしまいそうではある。
 今年は24日も25日も平日だから、会いたくても会えない恋人たちもいるだろう。

 一人でクリスマスイルミネーションを撮りに行っても楽しくもなんともないんだけど、候補地はいくつかある。名駅のタワーズライツだけは一度は見に行っておかないといけない。なばなの里まではちょっと行く気になれない。近場では藤が丘や瀬戸なんかでもちょこっとやっている。リニモ沿線もイルミで飾って、21日から23日まで特別列車を運行するそうだから、それは見てみたい。まあそんなところか。去年は名古屋でも東京でもあちこち見たから、今年は休みでもいい。

 ふとした気まぐれで、テンプレートを変えてみた。落ち着かなければ、またすぐに戻すことになる。なかなか自分のイメージにぴったりのものは見つからなくて、かといって自分で作るほど知識がない。
 クリスマスが終わるくらいまでの期間限定ということにして、それまでにまた何か別のものを探そう。

 今年も残り2週間となった。できることとできないことを見極めて、今年中にやっておくべきことを優先してやろう。焦りすぎず、のんびりしすぎず、ちょっと急ぎながら。

12月は誰も彼もが慌ただしいから私も便乗してスピードサンデー

料理(Cooking)
スピードサンデー

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 年末は誰も彼もが忙しい。普段暇な人も気ぜわしく、普段から忙しい人は超忙しくなる。本来忙しくないはずの人も、周囲のスピード感につられてなんとなく自分も忙しいような気分になったりする。
 大掃除もしなくちゃいけないし、部屋の片付けもしたい。お歳暮も贈って、あー、もう年賀状書かなくちゃいけないのかなんて焦ってくる。
 そういう私はどうなのかといえば、今年くらい忙しくない年は珍しいというほど忙しくない。祖母が亡くなって年賀状は書かないし、年末年始の帰郷もなく、クリスマスも予定がない。なんか、普段の月より暇かも。気持ちを焦らせようとしてみるものの、急いでやらなくてはいけないことが思いつかず、だらだらと部屋の片付けなどをしている。そんな場合でもないとは思いつつ。
 そんなわけで個人的には慌ただしくない私だけど、世間の慌ただしさに便乗した格好で、今回のサンデー料理はスピード重視料理というテーマで挑んでみた。
 目標調理時間は1時間。普段は2時間以上かかってるから、私にしたら1時間でも高速料理ということになる。
 ただ、早ければいいというわけではない。手を抜けばいくらでも時間は短縮できるけど、それでは面白くないし、自分も納得がいかない。なるべく手間暇をかけずに尚かつ手を抜いたことを悟られない料理というのを課題とした。手を省いたことが一目瞭然の料理というのは、目の前に出てきたとたん、がっかりしてしまうものだ。美味しい不味い以前に残念に思わせてしまったら作り手の負けだ。
 ということで出来上がった3品が上の写真のものだった。手を抜いているといえば抜いてるし、一応一手間かけたといえばそうなっている。通常の夕飯レベルにプラスアルファといったところか。
 結局これでも1時間半かかってしまったから、やや中途半端でどっちつかずの出来になった感はあった。

 左手前の豆腐は、なめこソースあんかけになっている。
 酒、みりん、しょうゆと、刻んだなめこを混ぜ合わせて加熱して、とろみをつけたものをかけるだけだ。
 豆腐は魚焼きグリルでじっくり焼いている。
 スピード料理のポイントの一つとして、同時進行というのがある。ガスコンロは2つしかないから、いろんな調理器具で同時に作っていくのがコツだ。レンジもあるし、オーブントースターや炊飯器なんかも利用できる。
 レンジでふかしたジャガイモを付け合わせにした。
 右手前は大根のエビソースがけで、これが一番時間がかかった。
 大根はラップにくるんでレンジで加熱して、白菜、タマネギ、ニンジン、エビはだし汁で煮込む。
 大根はなかなか柔らかくならないから、フライパンで焼き色をつけたあと、他の具材と一緒に更に煮込んで柔らかくする。
 奥はタイのしゃぶしゃぶ甘辛酢ソースがけだ。
 刺身をしょう油で食べるのは料理じゃない。料理だけど趣味の料理としては成り立たない。少しは手を加えないと。
 大根煮込みのスープを利用して、ここでしゃぶしゃぶして半生にする。
 つけだれは、しょう油、酒、みりん、酢、砂糖、からし、唐辛子を混ぜて、ひと煮立ちさせたものだ。
 最後に刻んだ大葉を乗せる。この大葉の風味も効く。

 和食は大怪我をしない。失敗があるとすれば、味付けが濃すぎるくらいだろう。それも試食をすればある程度分かるし、薄める方法もある。スピード料理には和食が向いている。
 余計なことをしていない分、食べ手としても安心感がある。普通に美味しく食べられた。物足りなさがあるとすれば、それは作り手の側だった。
 一番手っ取り早くて、手抜きを感じない料理は、たぶん丼物だ。天ぷらを自分で揚げると手間暇がかかってくるけど、親子丼などはささっと作れて、食べる方としても満足感が高い。牛丼だって、家で高い牛肉を使って作った方が美味しいし、手間もそんなにかからない。趣味の料理としては、丼物は手抜き過ぎて作る気にならないけど。
 今年のサンデー料理も残すところあと2回となった。ラストの集大成に向けて、まだいいアイディアは浮かんでない。単純に、これまで作った中で自己ベストスリーを3作るというのでもいいのかもしれない。もう少し考えてみよう。

大きいサイズのデジカメプリントのススメ

カメラ(Camera)
デジカメプリント

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 注文したデジカメプリントが仕上がって送られてきて、その写真を撮っていたらアイが割り込んできた。最初は、おい、キミ、邪魔だよとか思ったのだけど、せっかくだからアイも入れて撮ってしまおうということになったのがこの写真だ。写真嫌いのアイが珍しくカメラ目線をしたままじっと動かなかった。今日はなんとなく撮られたい気分だったのだろうか。
 大きいサイズのプリントは今回が二度目で、店を変えてみたらこれが思った以上によかった。FUJICOLORプリントというのもあったのか、コントラスト、彩度とも高めで、私の好みに合っていた。
 デジカメプリントん
 値段の安さに惹かれたのだけど、質もなかなか高い。
 A4(210×297)でも220円で、今は10パーセントオフのセールもやっている。
 同じサイズのものをカメラのキタムラでやってもらうと630円だから、送料の200円を足してもこちらの方が安い。
 なんだか半分宣伝のようになってしまったけど、大きいサイズのプリントはとてもいいものなので、やったことがない方はぜひ一度やってみることをオススメしたい。Lサイズなんかとは全然違う。自分の写真ではないみたいに思うはずだ。
 大きいサイズにしてフォトコンに応募するというのもいい。選ばれなくても楽しみが増えるし、もっと写真が上手になりたいと思うようにもなる。
 私は今年まったく駄目だったから、このプリントを年末ジャンボ宝くじのつもりで出してみようと思っている。

これまでの総まとめとしてブログ・アンソロジーを作ってみる

未分類
アンソロジー

 このブログも3年を過ぎて、記事数も1,000を超えた。正確には1189だ。365×3は1,095だから、ほぼ毎日書いてきたことになる。
 ここらで一つ、総まとめというか、一度おさらいしてもいいだろうと思い、最初からざっと全部読み返してみた(この作業がかなり大変だった)。その中でちょっと面白いものがいくつかあったので、自選集としてアンソロジーを作ってみた。

 断想日記アンソロジー

 1,000以上も書いて自分でもいいと思えるものが20そこそこしかないというのもどうかと思うけど、これだけでもないよりはいい。
 古い記事は埋もれていってしまうから、こういう形で抜き出して保存しておくことは悪いことじゃない。自分もまた読み返すことができる。
 よかったら、読んでみてください。長いのもあるから、気持ちと時間の余裕があるときに。

暗闇に浮かぶ希望の明かりに絶望することができない絶望を見る

夜景(Night view)
夜風景-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 真の闇を失って久しい時代に生きる私たちは、完全なる絶望を持ち得なくなっているのかもしれない。
 月の出ない夜にさえ明かりが闇を打ち消す。
 私たちは人類史上最も多くの希望に満ちた時代を生きている。
 先達が灯してきた明かりが消えることはない。

夜風景-2

 24時間営業が当たり前となった今でも、暗闇の中にぽっかり浮かぶ明るさに驚異的なものを感じることがある。

夜風景-3

 夜の帰り道、少し疲れた背中に哀愁を感じる。
 今日も一日お疲れ様。

夜風景-4

 曳光。
 肉眼では見ることができない光の筋。
 時間は瞬間の連続で、途切れないから線になる。
 私たちの人生の軌跡を振り返ったとき、その模様を美しいと感じることができるだろうか。

 ただいまゆっくり充電中。
 もうしばらく半休します。

ただいま放電中につき写真のみの更新

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
矢田川夕景-1

PENTAX K10D+SIGMA 400mm f5.6



 今日も書く方はお休みします。
 気持ちが放電してしまって、ただいま充電中です。
 戻り次第、また長々と書くつもりでいます。
 少しの間、写真だけの更新になりそうですが、おつき合いください。

矢田川夕景-2


矢田川夕景-3


矢田川夕景-4

 また明日。

今日は書くのを休んで眠たい奴らの写真だけ

動物園(Zoo)
眠たい奴ら-1

Canon EOS 20D+Canon EF80-200mm f2.8L



 今日はちょっと休みます。
 眠たい奴らの写真でお楽しみください。

眠たい奴ら-2


眠たい奴ら-3


眠たい奴ら-4


眠たい奴ら-5


眠たい奴ら-6


眠たい奴ら-7


眠たい奴ら-8

小牧山周辺を歩きながら400年前の様子を想像してみる <第3回>

城(Castle)
小牧山稲荷神社


 小牧山城シリーズ最終回。
 歴史館から下りてきて、桜の馬場を過ぎた右手に小牧山稲荷神社がある。
 このお稲荷さんがいつできたのか、調べたけどちょっと分からなかった。なんでも尾張の北をおさめる吉五郎という名のキツネの大親分がいて、それを祀った神社なんだそうだ。200匹の子分を持つ吉五郎は絶世の美女に化けるのが得意で、若い衆から食べ物やお金をかすめとっていたらしい。名鉄小牧線の電車に美女が乗っていたときは、切符に木の葉が混じっていたとかなんとか。
 稲荷神社のキツネは神の使いで、神様そのものではない。ここのようにキツネが神様として祀られている稲荷神社は珍しいんじゃないだろうか。
 稲荷神社は江戸時代に爆発的に流行して、全国各地でたくさん建てられた。現在でも3万社あると言われている。
 小牧山は江戸時代には尾張藩の所有だったから、小牧山稲荷神社が建てられたのは、戦国時代以前か、明治に入ってからかのどちらかなんじゃないかと思う。それとも、江戸時代に尾張藩が創建したのだろうか。



小牧山稲荷神社の朱鳥居

 お稲荷さんといえば朱塗りの鳥居だ。このときはちょうどイチョウの絨毯ができていて、朱色と黄色のコントラストが鮮やかだった。



小牧山稲荷神社狐と拝殿

 狛犬がいるところにキツネがいる。像はけっこう新しい。最近のものだろう。
 拝殿らしき建物も、古びてはいるけど歴史的建造物といったものではない。昭和の木造建築が古くなってしまったといったところだ。
 かつて小牧山にはキツネやタヌキがたくさんいたそうだ。今でも少しは生き残っているのだろうか。



小牧山城初里姫竜王大神

 隣の祠は、小牧山初里姫竜王大神という神様を祀ってあるようだ。これも調べたけどよく分からなかった。



小牧市役所

 小牧市役所まで下りてきた。本館は小牧山のふもとにあって、道を渡った側にあるのは南庁舎になる。車をとめるなら、ここの中だ。
 小牧山の大部分は小牧市の所有になっているから、ここを訪れる人が小牧市役所の駐車場にとめるのは小牧市の公認となっているのだと思う。丸一日とかじゃなければ、たぶん大丈夫。



小牧山八幡神社

 小牧市役所の西に八幡神社があったので、寄っていくことにする。



小牧山八幡神社境内と拝殿

 階段を登っていくと、小さな社が現れた。まさかこれで終わりじゃないよねとあたりを見渡してみるも、他には何もなく雑木林が広がっているだけだ。どうやらこれが八幡社の社殿のすべてということになるらしい。規模としては神社の中の境内社くらいだ。
 ここも由緒などはよく分からない。



史跡小牧山の石碑

 最後に東南エリアにやってきた。かつてここには小牧中学校があって、それが移転したあと、史跡公園として整備されている。
 小牧山お月見まつりが行われるのもこの場所だ。
 中秋の名月には少し早かった小牧のお月見まつり



小牧山城史跡公園の風景

 公園の中はかなりきれいになっていて広い。
 向こうに見えているのが小牧山で、手前には模型とプレートで遺構の説明がされている。



小牧山城合瀬川

 すぐ東には合瀬川(あいせがわ)が流れている。江戸時代の1650年に造られた人工の農業用水だそうだ。
 この川から公園に入る途中に2ヶ所の虎口跡がある。小牧長久手の戦いのときには、そのあたりに深い堀が巡らせてあったという。



小牧山城遺構

 このように、土塁や空堀、曲輪などの跡地が残っていて、一部が復元されている。城にまったく興味がない人にとっては、なんでこんなところに溝があるんだよ、埋めちまえよと思うところだけど、戦国好きの人にしたらこれはなかなかのものと思うことだろう。中世の城跡でこれだけよく残っているところは、あまり多くない。
 信長時代のものは少なく、小牧長久手の戦いに備えて家康が造らせたものがほとんどだそうだ。
 信長の時代は、この場所に家臣たちの屋敷が建ち並んでいたことが分かっている。
 400年ちょっとの歳月は、遠いようで近く、近いようで遠い。この場所に何万もの兵士が集まっている様子を想像するのは難しい。

 一般人目線で見た小牧山城の紹介と桶狭間以降の信長 <第1回>
 小牧歴史資料館紹介と小牧長久手の戦いについて <第2回>

【アクセス】
 ・名鉄小牧線「小牧駅」から徒歩約30分。
 ・名鉄小牧駅(東口バスターミナル)から名鉄バス「岩倉駅行(小牧市役所前経由)」乗車。「小牧市役所前」下車。
 ・無料駐車場 あり

 史跡小牧山webサイト
 小牧市歴史館webサイト
 

小牧市歴史館紹介と小牧長久手の戦いについて <第2回>

城(Castle)
小牧山城歴史館


 小牧山城の2回目は、歴史館の中の様子を紹介しつつ、後半では小牧長久手の戦いについて少し書いてみたい。

 歴史資料館の入館料は100円と安い。
 中に入ってかなりきれいだと思ったら、平成19年にリニューアルオープンしたばかりだったらしい。4年前に訪れていれば昔の状態と比較できたのに、惜しいことをした。展示物の追加などもあるそうだから、前に行った人も再び訪れてみる価値がありそうだ。近年、発掘調査も進み、これまで不明だったこともいろいろ分かってきたという。



小牧市歴史館家康像

 入り口入ってすぐに、家康像が建っている。どこかで見たことがあると思ったら、小牧市に「なんでも鑑定団」が出張鑑定に来たとき出てきたやつだ。
 ケースのプレートを見ると、レプリカとある。ということは、小牧に住む一般の人が本物を持っていて、小牧の歴史資料館にはレプリカしかないということだ。本物は確か数百万という鑑定結果だったはずだ。
 しかし、この半裸の家康はどうなんだ。松平郷では松平親氏像がこんな姿をしてるけど、徳川の人間は前をはだけるイメージなのか。信長像にこんなものはない。



銅造誕生釈迦仏立像

 これもレプリカながらぐっと心を掴む存在感を持つ仏像だ。小牧の正眼寺所蔵の銅造誕生釈迦仏立像のレプリカで、本物は重要文化財で、奈良国立博物館で展示されているという。
 正眼寺は1394年に一宮に建てられた曹洞宗の古刹で、江戸時代になって小牧に移ってきた。機会があれば一度訪ねてみたい。それに、これの本物が見てみたい。



小牧山城歴史館内部

 かなりお金を掛けてリニューアルしたようで、内部は木造を基調とした贅沢な造りになっている。ちびちび100円ずつ貯めてもそんなに儲かるとは思えないし、小牧市がお金を出したのか、寄付が多く集まったのか。



小牧山歴史館展示物

 展示物はフロアやブロックごとに分けられていて、古い時代から戦国、それ以降まで、いろいろな年代の発掘されたものが中心となっている。
 戦国の武器や鎧などがあるかと思ったら、それはなかった。小牧長久手の戦い関係も、ビデオや陣地図がある程度で、ちょっと物足りない。
 ざっと見るだけなら15分か20分くらいだろう。



小牧山城展示物

 発掘品の他には、古地図や書簡なども少しあった。
 パネルも一つずつ読んでいけば興味深い内容もあるのだろうけど、今回は飛ばした。
 一つ気になったものとしては、岸田家がある。江戸時代に入って、小牧山の南西に広がっていた城下町が東に移されて小牧宿というのができたのだけど、わずかにその名残をとどめているのが岸田家だ。時間があったら見に行こうと思っていたら、時間切れで行けなかった。もう一度小牧へ行くことがあれば、そのときは寄りたい(室内見学は予約が必要らしい)。



大山廃寺跡資料

 小牧で気になっているもう一つは、大山廃寺跡だ。小牧市北東の山にあった寺で、創建は600年代半ば、平安から鎌倉にかけて大伽藍を持つ寺に発展し、西の比叡山延暦寺、東の大山寺といわれるほどだったという。
 室町時代の後半には完全に終わり、今は跡地を残すだけとなっている。発掘調査である程度のことまでは分かったようだけど、いまだ謎の多い寺とされている。



小牧山歴史館銅鏡

 銅鏡や曲玉なども発掘されているということは、小牧山は古くから人が住んでいたということになるのだろう。



長久手の戦いの合戦図

 長久手の戦いの合戦図が登場したところで、小牧長久手の戦いについて少し書いてみる。
 小牧長久手の戦いというのは、小牧におけるにらみ合いの前哨戦と、長久手における最終合戦との二段階に分かれた戦いだ。愛知県民なら地理的なことは分かるだろうけど、県外の人にはちょっと分かりづらいところもあると思う。小牧と長久手というのはかなり距離が離れている。直線距離で18キロ。自転車でも1時間半はかかる距離感だ。だから、小牧と長久手とに分かれて戦ったというのではない。
 この戦いは、秀吉と家康が直接対決をした唯一の戦いで、結果的には引き分けのような形で終わった。実質的には家康が勝っていた戦いで、秀吉の方がマイナス面は大きかったとも言える。
 始まりは本能寺の変だった。信長亡きあと、当然のことながら織田家で相続争いが起きた。本来なら嫡男の信忠が継ぐはずだったのが、本能寺の変の際に二条城で明智勢に攻められて自害してしまったことで事情が一変した。評価の高かった信忠が生きていれば、その後の歴史はずいぶん違うものとなっただろう。
 次男の信雄がもっとしっかりしていればなんとかなったのかもしれないけど、彼がちょっと困ったやつだった。
 謀反を起こした明智光秀を討ち取ったことで、秀吉の発言力は一気に大きくなった。ただし、これだけではまだ充分ではない。いくら下克上の戦国時代とはいえ、大名家を継ぐのは世襲制と相場が決まっていて、家臣がいきなり大名になるということはない。結果的に秀吉が天下を取れたのも、謀反を起こして織田家を滅ぼしたからだ。すんなり信長から引き継いだわけではない。
 秀吉が威張っていることが我慢できなかった織田家の家老・柴田勝家は秀吉と対立して、賤ヶ岳の戦いに破れて果てた。この戦いでは次男の信雄は秀吉の側についている。勝家が後継者として推していたのは、信雄よりも出来のいい三男の信孝だった。しかし、信孝も戦のあと自害させられてしまう。
 秀吉と信雄が敵対するのはこのあとだ。
 自分は織田家の後継者と思っている信雄と、実質的な支配者になりかけている秀吉がぶつかるのは必然だった。秀吉はまだ幼い信長の孫の三法師を担ぎ出してきた。嫡男の信忠亡き後を継ぐのはその嫡男の三法師というのは、一応理屈は通っている。
 信雄は秀吉の謀略にさんざん翻弄されて、直接対決を余儀なくされる。けれど、自力では勝てないということで助けを求めたのが家康だった。家康は織田家とは同盟関係にあって、信長の家臣ではない。信長がいなくなったとき、家康にも天下取りの可能性が生まれたと、当然思ったに違いない。渡りに舟とばかりに家康は喜んで求めに応じた。そのケンカ、ワシが買ったとばかりの勢いだった。
 このときの配置は、尾張の清洲に信雄、秀吉は大坂城にいて、家康は浜松城にいる。決戦地は互いの中間である尾張になるというのが両者の目論見だったのだろう。先に動いたのが家康で、秀吉は雑賀衆や根来衆に大坂城を攻められて、完全に出遅れた。このとき家康が本拠を置いたのが信長が城を築いて、その後捨てていった小牧山だった。
 絶好のポジションを取られてしまったことを秀吉はずいぶん悔しがったという。家康は遺構を利用して、周囲に砦や土塁を築かせ、秀吉を迎え撃つ準備を進めた。
 10日以上遅れてやって来た秀吉は、犬山城に陣取った。ここを選んだのは、秀吉に寝返った池田恒興が犬山城を占拠したからというのもあった。
 こうして小牧の役が始まったのだけど、お互い攻め手をかいてしばらくにらみ合いが続く。じれて先に動いたのは秀吉の方だった。家康が留守の間に本拠の岡崎城を落としてしまえと誰かが言い出した。通説では池田恒興の入れ知恵だったとされることが多いけど、近年は秀吉の発案だったという説が主流になっているようだ。
 しかし、この動きは家康側に筒抜けで、先鋒隊のあとを密かに追いかけた家康軍が秀吉軍をさんざん打ち破ることになる。このあたりの経緯は、岩崎城本地ヶ原神社のときに書いた。最終決戦の長久手の戦いに関しても以前少し書いたので、ここは省略してしまう。長久手の戦いは家康側の大勝利で幕を閉じた。
 この後、秀吉本隊は家康の本隊を追いかけるも、するりするりとかわされ、家康は清洲城まで退いてしまう。これ以上の深追いは危険と判断した秀吉も、本拠の大坂城に帰っていった。こう書くと、それならなんで家康が天下を取らずに秀吉が取ったんだと思うだろうけど、そこが秀吉のずる賢いところで、合戦だけが天下取りの方法ではないことを知っていた。
 今度は信雄を個人攻撃し始めた。信雄の所領の伊賀・伊勢を攻め立て、精神的に追い込んでから講和を申し込み、信雄はそれを受けてしまった。これには家康も激怒したという。おまえ、何勝手なことをしてるんだと。信雄と秀吉が仲直りしてしまっては、信雄を助けるという家康の大義名分が失われてしまう。家康は振り上げた手の持っていき場を失い、釈然としないまま戦いはうやむやのうちに終わりとなってしまったのだった。
 浜松城に戻った家康は、秀吉との敵対関係をおさめるべく、次男の結城秀康を秀吉に差し出した。名目は養子ということだったけど、実質は人質だった。家康の長男・信康は信長の命で切腹させられているから、本当なら次男の秀康が徳川家を継ぐはずだった。なのに、あえて家康はこの次男を秀吉の養子にしている。自分の子供ではないのではないかと疑っていたとか、家康は秀康を嫌っていたとか、秀康の悲しい物語については、いずれどこかで書く機会があるかもしれない。
 浮き沈みの激しかった福井城に桜の木は残った
 小牧長久手の戦いで秀吉は大きなものを失っている。家康を討てなかったことによって関東を完全に支配できなかったため、征夷大将軍になれなかったのだ。この時代の決まり事として、関東を支配できないものは征夷大将軍になれず、征夷大将軍になれないということは幕府を開けないということを意味している。源頼朝が鎌倉幕府を開き、徳川家康が江戸幕府を開いたように、秀吉は大坂幕府を開けなかった。地位こそ関白まで上り詰めたものの、幕府を開けなかったことがのちに家康のつけいる隙を与えてしまったということにもなった。

 江戸時代に入ってからの小牧山は、徳川ゆかりの地ということで尾張徳川家のものとなり、小牧代官所が置かれて、一般人は立ち入り禁止とされた。それゆえに現在まで多くの遺構が残ることとなった。
 明治のはじめにいったん県立小牧公園として開放されたあと、再び尾張徳川家の所有となり、次に開放されたのは昭和5年のことだった。



小牧山城模擬天守からの眺め

 四階が展望台になっていて、東西南北ぐるりと見渡すことができる。現代でさえ視界を遮るものがないのだから、戦国時代は本当に遠くまで見ることができたことだろう。馬なんかで近づいてくれば、すぐに分かってしまう。



犬山方面の町並み

 こちらが犬山方面だろうか。肉眼で犬山城を確認することはできない。昔の人の視力がいくらよかったとしても、犬山城で秀吉が動いてるのが見えたはずもない。
 ただ、この距離でも周囲に建物がなければ、ほとんど目と鼻の先といった感覚だったのだろう。現代人とは距離感が全然違う。



小牧山城天守から見る名古屋駅方面

 名古屋駅のタワー群も小さく見えている。こうして見ると、名古屋の街もまだまだ背が低い。
 夜景がすごくきれいだそうだけど、その時間帯には開いてないから関係者以外は見ることができない。たまに何かのイベントで夜間も開いていることがあるので、そのときに見に行くしかない。



小牧山城模擬天守裏から

 裏から見た模擬天守。屋根にはやっぱりシャチホコが乗っている。

 次回は小牧山周辺にある神社なども絡めつつ、史跡公園を紹介したい。

 小牧山周辺を歩きながら400年前の様子を想像してみる <第3回>
 一般人目線で見た小牧山城の紹介と桶狭間以降の信長 <第1回>

【アクセス】
 ・名鉄小牧線「小牧駅」から徒歩約30分。
 ・名鉄小牧駅(東口バスターミナル)から名鉄バス「岩倉駅行(小牧市役所前経由)」乗車。「小牧市役所前」下車。
 ・無料駐車場 あり

【小牧歴史館】
 ・営業時間 9時-16時半 第3木曜日 定休
 ・入館料 100円

 史跡小牧山webサイト
 小牧市歴史館webサイト
 

一般人目線で見た小牧山城の紹介と桶狭間以降の信長 <第1回>

城(Castle)
小牧山の紅葉風景



 愛知県小牧市の小牧山の上にある城のような建物は、天守ではなく資料館(小牧市歴史館)だ。復元された天守ではない。もともと小牧山には天守がなかったとされている。
※近年、発掘調査で大規模な石垣が見つかっていることから、天守の原型のような建物があったのではないかという説が出てきた。
 あの建物は、1967年(昭和42年)に、名古屋の実業家だった平松茂が自分のお金で建てて、小牧市に寄付したものだ。秀吉が京都に自宅として建てた聚楽第(じゅらくだい)の飛雲閣をモデルとしている。どうして飛雲閣だったのか、その理由はよく分からない。秀吉と小牧山城は間接的な関わりしかなく、飛雲閣である必然性はどこにもない。たぶん、デザインが好きだったのだろう。
 小牧山は歴史の表舞台に二度登場する。一度目は信長が初めて自ら築いた城郭として、二度目は小牧長久手の戦いのときに家康が城郭を再利用したときだ。
 それ以前のことについてはよく分かっていない。以前、間々観音を紹介したときに書いたように、間々観音の前身となる観音堂が建てられていたという話は伝わっている。特に神聖な山だったというようなことはなかったようだ。
 とはいえ、天守は模造でも、戦国時代の城郭の遺構としては見るべきものがある。私は戦国マニアというほど知識も思い入れもないので、一般人目線で小牧山について紹介することにしたい。

 駐車場は山の北東の小牧警察署前交差点の信号を南に入ったところにある。2時間まで無料なので、こちらにとめてもいいし、南側の市役所の無料駐車場にとめてもいい。市役所側から行った方が近くて大手道を登っていくので、初めてならそちらがおすすめだ。北の駐車場から行くと道が険しくて倍くらい歩かないといけない。
 以前に一度、南から行ったことがあるので、今回は北側から歩いて登ることにした。



小牧山北にある昭和の食堂

 入り口からいきなり昭和にタイムスリップした感覚を味わうことになる。手前の電話ボックスがなければ、完全に昭和の観光地風景だ。この店がいまだに生き残っているということは、それなりに訪れる人がいるということだろう。



小牧山山頂に続くつづら折りの道

 思いがけず道のりが厳しかった。ちょっとした山歩きだ。北側から行くとこんな道を15分ほど歩くことになる。



小牧山城へと続く道

 小牧山の標高は85.9メートルと、山というよりは小高い丘に近い。大きさも東西600メートル、南北400メートルと、さほど大きなものではない。
 ただし、広大な濃尾平野にぽっかり浮かんだ島のような場所で、周りに高いものがない分、周囲をぐるりと見渡すことができる。信長がここに目をつけたのもなるほどと納得がいく。

 1560年、桶狭間の戦いに勝利した信長は、その余韻に浸る間もなく、美濃攻略に着手する。すでにその頃から京都への上洛ということが頭にあったのだろう。京都への道筋をつけるため、西に向かって強引に道を切り開いていく。
 ここで信長と美濃関連の年表を整理しておきたい。美濃との同盟関係によって斎藤道三の娘である濃姫と結婚したのが1549年。このとき信長15歳。父・信秀死去によって家督を継いだのが1551年のことだった。
 1559年には尾張の統一を成し遂げ、1560年の桶狭間の戦いのときは26歳になっていた。
 その4年前の1556年には、息子・義龍の謀反によって斎藤道三が長良川の合戦で戦死している。このとき、美濃との同盟関係は崩れ、敵対関係へと転じている。
 濃姫についてはほとんど資料が残っていないので、よく分かっていない。美濃との同盟が終わったときに離縁したとか、死んだなどという説もあるけど、定かではない。のちに信長には別の正室らしき女性(生駒吉乃)がいることもあり、濃姫がどうなったのかは謎として残っている。
 そういう状況で美濃攻めを始めたわけだけど、斎藤の本拠である稲葉山城(今の岐阜城)は難攻不落で知られていて、そう簡単には落とせない。信長の本拠である清洲からではちょっと距離が遠すぎたということもあった。
 翌1561年、信長にとってはチャンスが訪れる。斎藤義龍が急死して、嫡男の龍興が後を継ぐと、斎藤家では家臣団がもめて内部分裂を起こし始める。
 これを好機と見た信長は、1562年、桶狭間以降岡崎で独立した徳川家康と清洲城で清洲同盟を結び、東方の憂いを断った。そして、前線を前に押し出すために目をつけたのが小牧山だったというわけだ。
 清洲から北東へ直線距離で約10キロほど移り、稲葉山城との距離は約20キロに迫った。
 このときの有名なエピソードとして、最初はもっと遠いところ(犬山の本宮山)に本拠を移すと家臣に伝えて、それは困るとか嫌だとか不満を漏らした家臣の様子を見つつ、それじゃあもう少し近くて便利な小牧山にしてやろうと言って家臣たちの不満をかわしたというのがある。信長の人心掌握術の巧みさを示すエピソードとして伝えられているものだけど、ちょっとできすぎて作り話っぽくもある。
 ただ、150年も続いた尾張の首府をためらいもなく捨ててしまうあたりは信長らしい。小牧山は美濃攻略のための腰掛けのような城ではあったものの、清洲から城下町のかなりの部分を移している。小牧山の城郭も、天守こそ作らなかったものの、山全体を城塞に見立てて周囲に石垣や堀を築くなど、かなり本格的な城だったとされている。築城は丹羽長秀が担当した。
 小牧山城築城から2年後、北近江の浅井長政と同盟を結んで、斎藤氏包囲網は完成に近づいた。このとき妹のお市を長政と結婚させている。
 結局、稲葉山城を手に入れたのは、1567年のことだった。美濃一国を取るのに信長は7年の歳月をかけたことになる。このとき33歳になっていた。
 前年に斎藤家の有力な武将である稲葉一鉄、安藤守就、氏家直元などを味方につけ、斎藤家を骨抜きにしたことが決定的だった。それと、美濃の天才軍師・竹中半兵衛が龍興を見限って、浅井長政の元に走ったというのも大きかった。信長は竹中半兵衛をどうにか家臣にしようとしたものの聞き入れられず、のちに半兵衛は秀吉の家臣となる。
 稲葉山城を手に入れた信長は、今度は小牧山城をあっさり捨てた。小牧山城が使われたのは4年ほどだった。
 当時井ノ口と呼ばれていたところを岐阜を改名して、稲葉山城も岐阜城と名づけたあたりについては、また岐阜城へ行ってきたときに書くことにしたい。
 夕焼けのち雨の岐阜城登城



小牧山城城跡

 小牧長久手の戦い以降、江戸時代は徳川家管理ということになり、小牧山は一般人立ち入り禁止となっていた。そのため、近年まで荒らされたり開発されたりせず、遺構がかなり残った。本格的な調査も行われ、どういう様子だったか分かっている部分が多い。
 このあたりも荒れた広場のように見えるけど、見る人が見れば城の中でどんな場所だったのか分かるのだろう。私はそういう人ではないのでよく分からない。曲輪(くるわ)やら、土塁やら、虎口やらの跡や、信長時代の石垣も残っているそうだ。



小牧山の紅葉

 紅葉シーズン終盤で、色づいたモミジなどがけっこう残っていた。
 小牧山は桜名所としても知られている。



資料館前の紅葉したモミジ

 資料館前もモミジが何本か植えられていて、なかなか見応えがある。本数は多くないものの、木が立派なのがいい。



小牧山城模擬天守と紅葉

 資料館前に到着。



小牧山下りの道

 資料館については、次回紹介することにして、小牧長久手の戦いも、そのとき書くことにしたい。
 写真はいったん、南へ向かって下っていく。これはその途中の道だ。南からの道は何本かコースがあって、近道をすると勾配がきつい。



桜の馬場のモミジトンネル

 桜の馬場近くにもちょっとしたモミジのトンネルができていた。左下は児童公園になっている。
 その下が大手道で、後年の安土城の原形をここに見ることができる。

 小牧山城第2回に続く。

 小牧歴史資料館紹介と小牧長久手の戦いについて <第2回>
 小牧山周辺を歩きながら400年前の様子を想像してみる <第3回>

【アクセス】
 ・名鉄小牧線「小牧駅」から徒歩約30分。
 ・名鉄小牧駅(東口バスターミナル)から名鉄バス「岩倉駅行(小牧市役所前経由)」乗車。「小牧市役所前」下車。
 ・無料駐車場 あり

 史跡小牧山webサイト
 小牧市歴史館webサイト
 

平凡でもいいじゃないかと居直るサンデー

料理(Cooking)
平凡サンデー

Canon EOS 20D+Canon EF50mm f1.8 II



 平凡であることを嘆くべきかそうではないかの判断は難しい。考え方によって平凡の評価は違ってくる。人より優れていないから劣っているというとも言えるし、人並みなのだから誉められてもいいという考え方もある。
 料理における平凡さというのも同じことが言える。カリスマ主婦のハイセンス料理が本当に良い料理なのか、田舎の母親が作るオフクロの味が偉大なのか、家庭の主婦が作る普通の料理がちょうど良い加減なのか、一概に優劣は決められない。
 私が作っている料理は、あくまでもサンデー料理だ。ウィークデー料理とは異質のものだと、自分でも意識して作っている。毎日こんな調子では作る側としても、食べる側としても疲れてしまう。
 趣味のサンデー料理ということに限定した上で良い料理ということになると、作る過程が楽しくて、見た目が美味しそうで、食べても満足するもの、ということになるだろう。
 週に一度とはいえ、料理歴ももう2年以上になる。自分が作れる範囲のものに関しては、ほとんど失敗しなくなったのだけど、ここ最近の悩みというかテーマは、平凡さからの脱却といったようなところだ。自分のスタイルが確立されて、何を作っても画一的になってしまう。できるだけ創意工夫はしているものの、自分のスタイルを壊せない。現状に満足していればそれでもいいのだろうけど、自分自身が物足りない思いを抱いてモヤモヤしているから、今のままではやっぱり駄目なのだ。もう一段上に上がらないと納得できない。
 一番の弱点が彩りと盛りつけというのは自覚している。思えばこの一年ずっと抱えていた問題はそこだった。センスがないのは言い訳にならない。足りないのはセンスではなく勉強だ。
 今年も残り少なくなってきて、最大のテーマは来年に持ち越すことになりそうだ。

 今日の3品も、これまで作ってきた料理の変化系に過ぎない。味は美味しかったとはいえ、作り手としての満足度は低めだった。思惑通りにいかなかった部分もある。
 方向性としては、やや中華寄りの洋食を目指した。味付けは食べる側の気分が優先する。自分で料理を作る利点は、その日そのとき一番食べたい味付けのものを食べられるという点だ。

 左手前は、白身魚フライの温タルタルソースがけだ。
 白身魚の切り身に、塩、コショウ、酒をふりかけ、スライスチーズを乗せて、味付け海苔で巻く。あとは、普通に小麦粉、卵、パン粉をつけて揚げる。
 付け合わせのジャガイモとニンジンは、ラップにくるんでレンジで3分加熱したあと、軽く小麦粉をまぶしてさっと素揚げにした。
 タルタルソースは、生ではなく加熱してある。刻みタマネギをオリーブオイルで炒め、白ワイン、マヨネーズ、しょう油、塩、コショウ、からし、砂糖、バジル粉、ゆで卵の刻みを混ぜて加熱する。こうすると、マヨネーズの酸味が飛んで、生よりもまろやかになる。

 右は、エビとナスとタマネギのピリ辛炒めになっている。
 エビは背わた、はらわたを取って、塩、コショウ、白ワインを振り、ナスはぶつ切りにして塩水につける。
 これは大雑把で簡単な料理だ。オリーブオイルで、タマネギ、ナス、エビを炒めて、白ワインで香りづけをして、トマトピューレ、ケチャップ、豆板醤、コンソメの素、塩、コショウで味付けをしたら、水溶きカタクリ粉でとろみをつければできあがりとなる。
 エビの代わりに豚肉を使えば、もっと簡単になる。一品追加したいときにもいい。

 奥のはやや失敗気味の卵料理だ。天津飯のご飯抜きというのか、卵焼きの変形というのか、どう名づけていいのかよく分からない。
 まず具となるしめじ、ニンジン、長ネギ、絹ごし豆腐を細かく刻んで、ラップに包んでレンジで5分加熱する。
 溶き卵に塩、コショウ、しょう油、ダシの素、酒、しょう油、みりん、砂糖を加え、さきほどの具が冷めたところで混ぜ入れる。
 これをフライパンで半熟のフワフワ状態まで蒸し焼きにする。
 あんかけのあんは、酒、みりん、しょう油、めんつゆ、ダシの素、酢、砂糖、唐辛子を混ぜたものを煮立たせて、水溶きカタクリ粉でとろみをつける。
 カニ玉のカニが入ってないやつといえばそうかもしれない。

 今日は全般的に味が強めで、入院食には絶対出てこないようなものばかりだった。元気だから食べられる料理とも言える。一つはもう少しあっさり系のものの方がバランスはよくなっただろう。まあでも、これくらいしっかり味が付いたものの方が食べたときの満足感は高い。
 料理は、考えているだけでも、漠然と作っているだけでも上達しない。向上心を持って勉強して、実践して、復習するという3つの要素を積み重ねていくことで少しずつ成長していく。写真でも勉強でもスポーツでもそうだ。一足飛びに進歩はない。
 これからも平凡さの中でもがきながら地道に続けていくしかない。長い目で自分の成長を楽しみにしよう。趣味なんだか楽しむということを忘れずに。

神社仏閣ネタが続いたからちょっと息抜きの日常写真

夕焼け(Sunset)
息抜き写真-1

PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 ここ最近、神社仏閣ネタの占める割合が高くなっているから、今日は日常写真を並べてちょっと息抜きすることにした。息は吸い込むだけでも、吐き出すだけでも苦しくなる。吸ったり吐いたりをバランスよくしなくてはいけない。
 というのが半分の言い訳で、もう半分の言い訳は、小牧山城について書くには準備不足だったということもある。先週行ってきて、写真現像も終わったのだけど、まだ勉強が中途半端で書き始めるに至らなかった。
 小牧山城編は全3回くらいになりそうだから、しっかり準備をしてから書きたい。小牧長久手の戦いについては、以前岩崎城と長久手古戦場を紹介するときに書いた。小牧山城紹介では、前半戦を中心にもう一度整理したいと思っている。

 今日の写真は、雨上がりに夕焼け空が広がったときと、小牧山城へ行ったときに撮った写真が混ざっている。つながりが悪いのはそのせいだ。
 一枚目は空を撮ったというよりもヘリコプターを撮ったつもりだったのだけど、小さくてよく分からない。
 16-45mmは広角側は24mm換算だから申し分ないけど、望遠側が67mmと物足りない。
 ただ、色乗りはいい。K100DがistDSに戻ったかと思うほど色味が濃い。実際以上にドラマチックすぎる写りは人によって好みが分かれるかもしれない。私は好きだから問題ない。

息抜き写真-2

 この日は雨上がりの夕焼け空ということで、低くたれ込めた雲を夕陽が照らして、鮮やかなオレンジに染めた。
 秋の夕暮れは駆け足だから、このあと空の表情は刻々と変わり、15分後には色を失ってしまったのだった。

息抜き写真-3

 雨上がりの夕方はシャッターチャンスに溢れているということに気づくのが遅れた。こんな水たまりさえドラマチックに変えるのだから、準備をして狙っていればもっといろんな被写体があったはずなのだ。
 雨降りということで反射的に撮影をあきらめてしまうクセは直さないといけない。雨にもチャンスはあるし、雨上がりにはビッグチャンスがある。

息抜き写真-4

 この時期は落ち葉もねらい目になる。特にイチョウの葉の黄色い絨毯は、平凡な風景を非凡に変えてくれる。
 今年は行けそうもない神宮外苑のイチョウ並木は今頃どうなっているだろう。

息抜き写真-5

 これは小牧山城の史跡公園で撮った一枚だ。小牧はどういうわけか紅葉の進行具合が遅くて、今がちょうど見頃といった感じだった。まとまった本数があるわけではないけど、模擬天守近くは何本か固まっていてよかった。明日見に行ってもまだ間に合うはずだ。

息抜き写真-6

 公園には四季桜が植えられていて、ちょうど花を咲かせていた。四季桜とプレートがかかっていたからそうなのだろう。冬桜と四季桜は種類が違うんだろうか。
 16-45mmはそこそこ近づけて簡易マクロ的な使い方もできる。とはいえ、開放f4と暗いし、ボケ味もあまりきれいとはいえない。マクロ的に撮るなら、背景を整理する必要がある。

息抜き写真-7

 すごい数のカラスが舞っていた。これはほんの一部だ。

息抜き写真-8

 再び雨上がりの夕焼け写真に戻る。あらためて並べた写真を上から見てみると、やっぱり編集が乱暴だ。上手くつながっていない。夕焼け写真だけでは枚数が足りなかったから、強引に別の日の写真をねじ込んでみたのだけど、ちょっと失敗だったかもしれない。
 家から5分の矢田川に着いた頃には、もう夕焼けから夕暮れになっていた。秋の太陽は帰りが早い。

息抜き写真-9

 冬枯れの木一本。
 その向こうには上弦の月が浮かんでいた。
 今は夕方になると、金星と木星がランデブーしているのを見ることができる。ひときわ明るい星と、そのすぐ横でやや控えめに光っているのが木星だ。

息抜き写真-10

 少し前まで雨が降っていたということで川の水かさが増して、ごうごうとした流れになっていた。
 普段はここらで浮いてエサを探しているコガモたちやコサギなども、姿が見えなかった。近くの池にでも避難していたのだろうか。

息抜き写真-11

 いつもの土手下から。ランニング少女が駆け抜けていったところをいいタイミングで撮れたと思ったら、背景の雲でいい一枚にならなかった。惜しいことをした。

息抜き写真-12

 付け足し的に最後は小牧空港近くで撮った一枚を載せることにする。夕焼けつながりということで。
 小針公園で夕焼けの飛行機を狙おうと思ったら、ここからでは飛行場が遠すぎた。南西にある神明公園に向かったものの、入り口を逃して通過してしまい、結局この日は飛行機撮りができなかった。小牧空港はもう一度出直さないといけない。

 神社仏閣ネタを長々と書くのが私らしいスタイルだとは思うけど、写真も大事にしたいのでたまにはこういう更新も挟んでいきたい。手抜きに見えて必ずしもそうではない。
 明日はサンデー料理で、来週までにはちゃんと小牧山城について勉強して、しっかり書かないといけない。電車旅の歴史巡りはそのあとだ。

ちょっと地味な東照宮が名古屋にもある

神社仏閣(Shrines and temples)
名古屋東照宮-1

PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 私が初めて訪れた東照宮は、のちに徳川家となる松平家発祥の地、豊田市松平郷の松平東照宮だった。このブログでも何度か登場しているけど、しっとりと落ち着いたいい神社だ。
 次に見たのが鳳来寺山にある鳳来山東照宮で、そのあと本家の日光東照宮を参拝することになった。そのときの様子は詳しく長々と書いたので、覚えている方もいるかもしれない。
 今日紹介する名古屋東照宮(尾張東照宮)は、私にとって4つめの東照宮ということになる。上野公園へ行ったときに上野東照宮を見る機会はあっただろうに、全然思いつかなかった。家康が生まれた岡崎市にある滝山東照宮も行ってない。
 その他、主だった東照宮としては、家康が日光に埋葬されるまで一時葬られていた静岡市の久能山東照宮や、権現造りの原形となった滋賀県大津市の日吉東照宮、群馬県の世良田東照宮などがある。
 江戸時代の最盛期には、全国で500を超える東照宮が造られたそうだ。大権現家康を崇拝していたというよりも、徳川幕府に対するご機嫌取りといった意味合いが強かったのだろうか。明治に入ってかなり数が減ったとはいえ、今でも約130の東照宮が残っている。それだけ江戸時代は長かったという証拠でもある。信長や秀吉を祀った神社は少ない。

 名古屋東照宮は、尾張徳川家初代藩主で家康の九男の徳川義直(よしなお)が父親の三回忌で建てたものだ。1618年に大祭を行って、翌1619年に名古屋城内の三の丸に造らせた。昨日も書いたように、現在の那古野神社(当時は亀尾天王社)の隣で、三之丸東照宮とも呼ばれた。
 家康には11人の息子がいたわけだけど、自刃に追い込まれた長男の信康や、早世した七男、八男以外ほとんどが地方の藩主におさまっている。親子の関係もまずまず良好だったようで、他の戦国武将のように父と息子の対立というのはあまり伝わっていない。
 義直も名古屋城を建ててもらった代わりにというわけではないだろうけど、父家康のために東照宮を建てた。義直は家康の息子であることに誇りを抱いていたともいう。
 義直の墓は、尾張徳川家菩提寺の建中寺ではなく瀬戸の定光寺にある。義直というのもなかなか魅力的な人物なので、機会があれば少し詳しく書いてみたいと思っている。

名古屋東照宮-2

 那古野神社とはつながって隣り合っているのに、向こうとこちらでは境内の空気感が違う。こっちはちょっと寒々しい感じがある。荒れているとまではいかないまでも、那古野神社にある温かみのようなものがやや欠けていた。それは多分に個人的な感覚に過ぎないのだろうけど。
 この場所に移ってきたのは、那古野神社と同じく明治8年(1875年)のことだ。
 織田家にゆかりの深い那古野神社と徳川家の東照宮が隣り合っているというのも面白い。生まれも育ちも違う二人が、協力した格好で天下をおさめたことを思うと感慨深いものがある。

名古屋東照宮-3

 東照宮といえば日光の絢爛豪華なイメージが強いけど、あれは家光の趣味であって、家康好みというわけではない。家康は地味なものを建てるようにと言い残している。
 現在の名古屋東照宮の社殿はいたって地味だ。しかし、本来はこんなものではなかった。義直が建てたものは、本殿から、渡殿、楼門、唐門、透塀など、どれも極彩色の色鮮やかなものだったそうだ。
 1619年といえば、2年前にはすでに日光東照宮が完成しているわけで、義直もおそらく自分の目で見たんじゃないかと思う。家光への対抗意識が強かった義直のことだから、あれを見て負けてなるものかと思ったとしても無理はない。同じ規模のものは無理にしても、尾張徳川家の威信をかけて豪華なものを造らせたに違いない。当時はまだ尾張にもお金があった時代だ。
 創建当時のものは残念ながら昭和20年の空襲でことごとく焼けてしまった。今更だけど、第二次大戦があと半年早く終わっていれば、今頃私たちはもっと多くの歴史的建造物を見ることができた。最後の年の空襲でどれだけ貴重な建物が焼けてしまったことか。
 現在の社殿は、1651年に万松寺境内に建てられてのちに建中寺に移築した義直の正室・春姫の御霊屋(おたまや)を、ここに持ってきたものだ。東照宮の権現造りではないものの、これはこれでなかなかいい。

名古屋東照宮-4

 この写真を見て気づいたけど、まだこの先にも入っていってよかったのか。もうここが拝殿と思ってるから、これ以上入ってはいけないのだろうと入らなかった。賽銭箱の横に通れるスペースがあるということは、更に進んで本殿まで近づけるということではないか。失敗した。もっと近くから本殿を見てみたかった。
 ここはまだ唐門だったようだ。

名古屋東照宮-6

 のぞき見るようにして撮った本殿。と思っていたら、これはまだ拝殿で、この奥に本殿があったのかもしれない。
 こうして見てみても、どう考えても入っていけるようになっている。なんで入っていけないと思ったのか不思議だ。大権現家康がおまえは入ってくるなと私を門前払いしたのか。

名古屋東照宮-5

 透塀(すきべい)は日光東照宮などでもおなじみだ。いろいろなところで見てるけど、今まで見た中で一番印象に残っているのは、根津神社の透塀だ。あそこはテレビの時代劇でもたびたび出てくる。背景として使うには、とても江戸時代っぽい感じがある。

名古屋東照宮-7

 隣には福神社というのがある。どういう由来のものかよく分からない。敷地としては東照宮側だけど、もともと東照宮と関係があったのかなかったのか。那古野神社と東照宮の間には、一応塀があるのだけど、これが境内を分けているのかどうか、はっきりしない。三の丸で隣り合っていたときはどうだったのだろう。
 天王祭のときに二福神車という車楽(だんじり) があって、それとこの福神社は関係があるのだろうか。
 名古屋の山車(だし)の歴史は、義直が行った1618年の大祭に始まる。当時はまだ正式な山車はなく、大八車を飾りつけ、人形を乗せて曳きまわしたそうだ。朝廷から楽人を招き、神輿をかついで練り歩き、7千人の人々が参列したという。
 そののち、1652年に雷電車が作られ、1656年には道成寺車、その後も猩々車、湯取車、石引車、梵天車、石橋車、小鍛冶車と9輛が作られ、空襲で焼けるまで東照宮祭りの山車は名古屋の名物だった。
 江戸が吉宗の享保の改革で元気をなくしているときも、尾張名古屋はド派手な祭りを続け、江戸の天下祭や京都の祇園祭にも負けないくらいの盛り上がりを見せたという。戦前までは、名古屋祭りといえば東照宮祭りのことをいった。
 しかし、これらの山車は空襲で焼けてしまい、唯一、湯取車だけは難を逃れて現存している。

 以上が那古野神社と名古屋東照宮について私が知り得たことのすべてだ。謎も少し残ったけど、それはまた別のどこかでひょんなことで分かったりするかもしれない。
 予習をして、フィールドワークをして、帰ってきてから復習するという、この3つをすると、理解が深まることになる。実際に見てみないと分からないこともあるし、見た上で勉強しないと理解できないことも多い。
 更に横つながりで広げていくことと、縦に掘り下げていていくことと、両方の作業が必要となる。知識の部分でも、時代的なことでも、人物同士のつながりという部分でも。
 歴史というのは途切れることなくつながっていて、折り重なっている。古代ヤマト王権も、江戸時代も、現代も、すべてどこかで関係を持っている。思いがけないところでつながりを発見する面白さが歴史学にはある。歴史は暗記物の退屈な勉強ではない。生きた人間が作ったドラマだ。千年前を生きていた人も、今の私たちも、基本的には変わっていない。
 神社仏閣巡りも、年寄り臭い趣味だと思わず、過去の人たちの息づかいを感じるために出向いていくと思えば、また感じるものも違ってくる。
 かつて寺社は社交場であり、祭りが行われるハレの舞台でもあった。特に神社は、人の死を思わせるような不吉なところではないから、普段から気軽に立ち寄っていい場所だ。
 この流れでいくと、次は若宮八幡に行く必要がありそうだ。こうして巡るべき神社は増えていく。ライフワークとしてどれだけ回れるだろう。

ナゴヤでもナゴノでもどっちでもいいけど那古野と名古屋に歴史あり

神社仏閣(Shrines and temples)
那古野神社-1

PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 今日はまず初めに、名古屋の地名の話から始めたいと思う。
 名古屋はもともと、那古野と表記していた。これでナゴヤと読んでいた。
 現在、西区の一部に那古野という地名が残っている。以前紹介した四間道(しけみち)があるあたりで、ここは「ナゴノ」となっている。
 いつから那古野という地名になったのかは、はっきりしていない。平安末期の文献にはすでに登場してるというから、かなり古くからそう呼ばれていたことは間違いなさそうだ。名護屋や浪越などの当て字が使われていたこともあるらしく、語源についても定説はないようだ。「ナゴ」が何かを表しているのではないかという説が多い。
 室町から戦国にかけて、この地は駿河の今川氏がおさめる土地だった。今川氏は尾張の守護を兼ねていて、今川の流れを汲む那古野氏が現地支配という形を取っていた。その後守護代として斯波氏がおさめるようになってからも那古野氏はそのままだったらしい。
 まだこの時期那古野城はなく、今川義元の父・氏親が尾張や美濃攻略のために柳之丸という小さな城を築いたのが始まりだった(1521年)。その当時、このあたりは葦の生い茂る荒れた湿原だったという。場所は現在の名古屋城の二の丸だったと伝えられている。
 1532年、尾張で勢力を伸ばしつつあった信長の父・信秀に城をだまし取られてしまう。このときに信秀が名前を那古野城とあらためた。
 2年後の1534年に嫡男の信長誕生。
 信長3歳のときに父の信秀は古渡城(今の東別院)に移り、信長は3歳にして城主となる。以降、信長は少年時代から新婚時代までを那古野城で過ごすことになる。
 尾張の本拠が清洲に移るのは1555年で、信長が22歳のときだった。
 その後、信秀の弟・信光が那古野城に城主となるも、1年で急死してしまう。那古野城は廃城となり、半世紀の時が流れる。
 荒れ果てていた那古野城跡に目をつけたのが江戸幕府を開いた家康だった。尾張の拠点をここに移すことに決め、九男の義直を城主とする名古屋城を築城させたのが1610年のことだ。そのあたりの経緯についてはこれまでに何度か書いた。
 城ができて以降もしばらくは那古野と名古屋が共存していたらしい。それでは紛らわしいということで、名古屋という表記に統一するように決めたのも家康だった。那古野といえば織田家、名古屋といえば徳川家という言い方もできるかもしれない。
 現在どうして那古野という地名とナゴノという読み方が残ったのかもよく分からない。江戸時代にいったん統一されたものが、どういうわけか明治になって復活してきたらしい。明治はじめ頃はナゴヤと呼んでいたものが、明治後期になるとナゴノに変化していったのだという。地元の住人がナゴノ、ナゴノと呼び習わしていたものがそのまま地名として定着したのかもしれない。
 今日紹介する那古野神社も、ナゴヤジンジャでも、ナゴノジンジャでも、どちらでもいいそうだ。どっちか決めてくれないとややこしいと思うけど、神社側がどちらも正しいというのだから仕方がない。
 また前置きが長くなった。そろそろ本編を始めよう。

那古野神社-2

 名古屋城南の高速道路が走るすぐ下にありながら、境内に一歩足を踏み入れると不思議なほど静かな空間となっている。
 創建は平安時代の中期、911年というから、今から千年以上も前にさかのぼる。津島牛頭天王社(つしまごずてんのうしゃ)を総本社とする天王社のひとつで、最初は亀尾天王社という名前だった。
 場所は現在の名古屋城の三の丸にあって、若宮八幡社と隣接していた。
 1532年に合戦で社殿を一度焼失している。その後信秀が1540年に再建した。
 名古屋城を築城する際に、家康は両方を城の外に出そうとしたところ、若宮八幡は了承を得られたものの、亀尾天王社には許可されずそのまま残ることとなった。
 それによって三の丸の取り込まれる格好となり、三之丸天王社とも呼ばれるようになる。
 このあと、あらたに三之丸東照宮が建てられることとなり(今の名古屋東照宮)、二つの神社が並ぶ格好になった。
 明治維新のときに須佐之男神社と改称し、明治9年(1876年)に名古屋鎮台が城内に置かれることになって、東照宮と一緒に現在地に引っ越した。ここは旧藩校の明倫堂があった場所だ。
 明治32年(1899年)に那古野神社と名前を変えて現在に至る。

那古野神社-3

 こういうのを熊手というのだろうか。浅草の酉の市で売られているようなものと似ている。
 神社にはよく行ってる私だけど、こういうグッズ系には弱い。祭り関係のことも知らないことだらけだ。
 祭りといえば、かつて名古屋には3つの大きな祭りがあった。亀尾天王社の天王祭と隣接する若宮八幡の若宮祭は同じ日に行われ、もうひとつは東照宮祭で名古屋三大祭りと呼ばれてた。これらが現在のなごや祭りのルーツになっている。
 天王祭と若宮祭を総称して祇園祭とも呼ばれていたそうだ。京都の八坂神社も天王信仰やスサノオを祀っているところだから、流れとしては同じものだ。
 車楽(だんじり)や見舞車10数輌が曳き出されて大変な賑わいだったという。
 それらは空襲でことごとく焼けてしまい、残ったのはわずかに車楽1輌となっている。
 現在も7月15、16日に祭りが行われている。
 桜の名所としても有名で、桜シーズンになると境内に屋台が並び、大勢の人が訪れる。

那古野神社-4

 祭神は、須佐之男神(スサノオノカミ)と奥さんの奇稲田姫神(クシナダヒメノカミ)、そして八人の王子の八柱神というところまでは、津島信仰の神様としておなじみさんだ。兵主神(ヒョウズノカミ)というのはよく知らない。滋賀県の兵主大社の他、全国に50ほど兵主神を祀っているところがあるというから、それなりに知られた神様なのだろうけど。
 スサノオなどに関しても以前津島神社などで書いたと思うから、ここでは繰り返さない。

那古野神社-5

 過剰なところはないけど、由緒正しいというか、育ちがいいといったような神社だ。威張ってはいないけど、それなりに威厳はあって、雰囲気がいい。好感が持てるという表現がぴったりくる。

那古野神社-6

 これも神社関係の建物だろうか。どういう建物なのかはよく分からなかった。

那古野神社-7

 御神木の大イチョウは立派だった。だいぶ葉は落としていたものの、太い幹や枝振りなど、風格がある。
 厄除けのイチョウということで、私も軽く触れてみた。

那古野神社-8

 お稲荷さんもある。
 たぶん、これはまだ那古野神社の境内なのだろうと思うけど、この左隣に東照宮があって、その境界線は曖昧だった。

那古野神社-9

 この金山神社は、岐阜県垂井の南宮大社から分霊してもらって、ここに建てたものだそうだ。
 金属や金物なんかの神様として、その関係の業界の人たちが参拝に訪れるらしい。

那古野神社-10

 イチョウの落ち葉に彩られていい感じ。モミジは落ち葉になるとすぐに枯れてきたなくなってしまうけど、イチョウはしばらくきれいなのが続く。

那古野神社-11

 祭りに使う山車か何かをしまってあるところだろうか。ただの物置かもしれない。

那古野神社-12

 右手には境内社が並ぶ。
 奥は社務所だろう。
 ここは結婚式も執り行っている神社だから、その関係もありそうだ。
 那古野神社の結婚式といえば、花嫁行列が名物で、ここで式を挙げたあと、近くの料亭河文まで親族揃って歩いて移動するというのが定番となっている。

那古野神社-13

 明倫堂跡の碑が建っている。
 尾張九代藩主宗睦が藩士の子弟教育のために建てた学問所で、尾張の教育に大きな影響を与えたといわれている。
 明治4年の廃藩置県で廃校になった。

 那古野神社は、名古屋城からはちょっと離れているから、名古屋城のついでに寄っていこうという人はあまり多くなさそうだ。名古屋人にとってもやや盲点となっている。私も前から一度行かなくてはと思いながらなかなか行けずにいた。
 思った以上にいい神社だったので、おすすめしたい。次は桜祭りの賑わいも見てみたい。
 明日はこの続きともいえる隣の名古屋東照宮を紹介する予定でいる。名古屋にも東照宮はあったのだ。

間々観音に願い事をしに行ったわけではないけれど

神社仏閣(Shrines and temples)
間々観音-1

PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 小牧山の北西に間々観音(ままかんのん)という寺がある。日本でただ一つのお乳の寺としてけっこう有名なので、知っているという人も多いかもしれない。
 正式名を飛車山龍音寺(ひしゃさんりゅうおんじ)というのだけど、この呼び名ではほとんど通用しない。最寄りのバス停も、間々乳観音前(ままちちかんのんまえ)となっているくらい間々観音で通っている。おっぱい観音ともいう。でも、そのへんの道を歩いている人に、おっぱい観音はどこですかと訊ねるのは恥ずかしいから、やはり間々観音と覚えておいた方がいいだろう。
 どうしてお乳の寺になったのかは、はっきりしないようだ。創建は室町時代の1492年で、開基は林心斉上人とされている。
 もとは小牧山にあった観音堂が始まりとされ、こんな逸話が伝わっている。
 近くに腕のいい猟師がいて、小牧山で狩りをするために入っていくと目の前に七頭の鹿が出てきた。それを撃とうとしたところ、鹿は七つの岩に変化し、その上に観音様が現れた。猟師は大変驚くとともにこれまでの殺生を悟り、それ以降は狩りをやめて、観音堂を建てて一生を堂守として過ごしたという。
 小牧山の中腹には観音堂跡が残っていて碑が建っている。現在の場所に移して堂を建てさせたのは織田信長だったと言われている。信長は桶狭間の戦いで勝利したあと、美濃攻略のために小牧山に城を築いて4年間住んでいる。1563年のことだ。
 それがどういう経緯でおっぱいの寺になっていったのかは調べがつかずによく分からなかったのだけど、赤子を抱えて貧しい生活を送っていた母が、村人にもらった米を自分で食べずに観音様に供えたところ、よくお乳が出るようになって子供が立派に育ったという話があり、その評判が広まっていったということがあったのかもしれない。
 江戸時代初期(1630年前後)に書かれた書物にも、昔から乳の霊験あらたかで参拝の人が絶えないとあるから、室町時代にはすでにお乳の寺として知られていたようだ。粉ミルクなどない時代だから、母乳が出る出ないは今よりずっと切実な問題だった。
 現在は変に有名になってしまって、テレビなどでもよく紹介されるので、半ば珍スポットのようにもなっている。話題性としては申し分ない。

間々観音-2

 想像していたよりも小さなお寺だった。垣の木には紅白の実がなっていて秋の彩りを見せている。
 住職は男性なのだろうけど、女性向けのお寺ということで境内全体の雰囲気は女性的なものを感じた。こうなれば思い切って尼寺にしてまえばもっと華やいだお寺になるんじゃないかと勝手なことを思ったりもした。実際は浄土宗のお寺だ(総本山は京都の知恩院)。

間々観音-3

 境内に入って振り返って門を見たところ。この門について書くのを忘れていた。
 こぢんまりした小さな三門だけど、尾張徳川家の菩提寺である建中寺から移築されたものだそうだ。だから、葵の門が彫られている。
 江戸時代のものだろう。なかなか雰囲気のあるいい門だ。
 左に写っているものが気になった人もいるだろうか。その正体は下の写真だ。

間々観音-4

 お乳の形をした手水舎で、先から水が飛び出してくる。センサー式で近づくと出てくるから、初めてだとちょっと驚く。
 これより先、これでもかとお乳攻勢で畳みかけてくる。決してふざけているわけではないと思う。

間々観音-5

 境内にいる慈乳観世音。これが間々観音様ということだろうか。違うかもしれない。
 こちらは片乳から水がぴゅーっと出てくる。同じくセンサー式で、二度びっくりしてしまった。
 本尊は千手観世音菩薩で、弘法大師空海の作という。どこで空海とつながるのかはよく分からない。

間々観音-6

 右が観音堂で、左手前が巽堂となっている。間々観音は、観音堂に安置されている観音像だろうか。

間々観音-7

 左正面が本堂で、右手前に写っているのは十三重之塔だ。石造りだけど、けっこう高い。
 願い事をしながらこの塔の周りをぐるぐる回ると願いが叶うんだとか。強く願うならそれだけ何周も回らないといけないらしい。
 注意書きとして、「ひしゃくで叩かないでください」とあって、ちょっと笑いそうになった。誰がどこをひしゃくで叩くというのか。そんな行為をする人はめったにいないと思うんだけど、注意書きがあるくらいだからわりと頻繁に起こっていることなのだろうか。

間々観音-8

 本堂の中深く入っていくと、乳型石像やおっぱいを描いた額、おっぱいみやげなど、様々なお乳が溢れている。そのあたりは写真に撮るのを遠慮しておいた。あまりにも興味本位になりそうだったから。
 一番いいところは残しておいたので、お近くの方は続きを自分の目で確かめてください。

間々観音-9

 お寺で絵馬というのもあまりないのだけど、おっぱい形の立体絵馬というのはここだけだろう。これが絵馬掛けの裏表二列びっしり掛かっていて壮観だった。
 人の願い事をのぞき見するのはよくない気がしてあまり見ないようにしたのだけど、やはり「お乳がよく出ますように」や、「子供が元気に育ちますように」という願いが多いようだ。
 何年か前に訪れた光浦靖子は、「触られますように」という願い事を書いていた。そういう願い事もある。
「乳首がピンクになりますように」という願い事は、神様でも観音様でも難易度が高そうだ。
 絵馬は1,500円で、おっぱいキーホルダーが500円で売られている。絵馬は手作りを持参して奉納してもいいらしいので、作って持っていって掛けておくのもよさそうだ。

間々観音-10

 これはちょっと悪のりしすぎたか。
 珍スポット化しているのは、参拝客だけの責任ではなさそうだ。

 切実な方も、そうじゃない人も、一度行ってみると話のネタにはなる。お寺としての空気感は悪くないし、個人的には居心地がよかった。変に照れることはない。
 小牧市から犬山市にかけては、これを上回る珍神社がある。男性のモノを祀った大縣神社と、その対になっている女性のモノを祀った姫の宮がある大縣神社が、直線上に並んでいる。お乳観音と3点セットで巡る人もいる。私も近いうちに二つの神社は行こうと思っている。
 小牧山城にも登ってきたので、それについてもそのうち書くことになる。

日没間際の短時間散策ながら名城公園の魅力を再発見した

施設/公園(Park)
名城公園-1

PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 名古屋城周辺散策の写真が途中になっていたので、今日はその続きを紹介したい。
 一般的に名城公園というと、名古屋城の北にある公園のことを指す。ただ、正式には名古屋城内の二の丸、三の丸すべてをあわせて名城公園ということになっている。広さは76ヘクタール。1ヘクタールがどれくらいの広さなのかがよく分かってないのだけど、全部あわせると相当広いことは間違いない。
 城跡公園として整備されて一般開放されたのが1931年(昭和6年)というから古い。北園になっているところは、戦前、戦中は陸軍の練兵場になっていた。
 北園は現在、広場や野球場、フラワープラザなどがある総合公園となっている。桜が有名で、春には大変な人出となる。紅葉は期待したほどではなく、紅葉見物の人というのはあまりいない感じだった。
 春以外にも、藤棚や花菖蒲、季節の花が咲く花の山などがあり、一年中楽しませてくれる。
 なんだかんだと、いつ行ってもいろんな人種が集まっている公園で、個人的にはあまり落ち着かないところという印象がある。道を隔てた南側の市民の森の方が居心地がいい。

名城公園-2

 橋の上でぼぉーっとしている猫を発見。近づいていっても、振り返りもしない。あんなに人が多いところなのに人をまったく恐れていない。猫の方が人を見慣れているといったところだろう。
 最初は、あ、猫だ、と見つけるたびに喜んで写真を撮っていたのだけど、次から次に出てくるもんだから、途中でもう撮らなくてもいいやと思うようになったくらい猫が多い。名古屋近郊の人は、猫を撮りたくなったら、まずは名城公園に行くといい。猫カフェなんか行かなくても、タダで猫が撮り放題だ。ただし、いかにもノラってやつがほとんどだけど。

名城公園-3

 そこに座るか。こいつらも、写真を撮られていてもまったく動じる気配がない。ここの猫たちは人なつっこいというよりも、物怖じしないという表現が当てはまる。人と猫が当たり前のように同居している。
 後ろのベンチにも猫が座っている。

名城公園-4

 広場の真ん中あたりでもどんと居座って動かない。
 これまたえらく丸まるとした白猫だ。メシをもらっているというのもあるだろうけど、ノラはこういう体型のやつが多い。どういう仕組みなのか、体に肉をため込んで寒さに耐えられるようになっている。家猫の方が体型はスリムだ。
 しかしこいつは顔が大きかった。首周りもでっぷりしてしまって、これじゃあ市販の首輪は回らない。首輪をつけるなら子犬用じゃないと間に合わない。

名城公園-5

 芝生広場は、ドッグショーでもしてるのかってくらい犬が多い。犬だらけだ。街中の室内で犬を飼っている人たちにとっては、名城公園の広い芝生は貴重な運動場所なのだろう。
 犬の飼い主たちの輪があっちにもこっちにもできていた。その周辺をチビたちが駆け回り、ここは特に賑やかな場所となっている。

名城公園-6

 市民ランナーがまたすごいことになっていた。みなさん、周回コースを走りまくっている。運動部の学生からおじさん、おじいさん、女性ランナーなど、みんなぐるぐる走っている。小さな集団が自然発生的に出来て、レースでもしてるのかってくらいの勢いを見せていた。
 学生の頃はマラソン大会や授業のランニングをほとんどが嫌がっていたというのに、なんで大人になってから好きこのんで走るようになるのか。誰もちんたらなんて走ってない。ハァハァ息を切らしながら真剣に走っている。
 東京マラソン以来、東京ではランナーの数が飛躍的に増えたというけど、その現象は名古屋にも飛び火してるのだろうか。
 名城公園のランニングといえば、巨人の監督時代のチョーさんを思い出す。巨人が名古屋に遠征するときは必ず名古屋城西のウェスティンナゴヤキャッスルに泊まるから、チョーさんは翌日の朝いつも名城公園でランニングや散歩をしていた。今の原監督はきっとしてないだろう。

名城公園-7

 花の山にはまだ少しコスモスが咲いていた。紅葉とコスモスというのも、本来はあまり出会わない組み合わせだ。咲いている場所が違うということもある。

名城公園-8

 名城公園のシンボルとなっているオランダ風車。何故風車なのか、どうしてオランダなのかはよく分からない。名古屋とオランダが姉妹都市なんて話も聞かない。たまたま風車で、たまたまオランダ風車だけだったのかもしれない。
 5月になると花の山は一面チューリップ畑になるから、そのとき風車と絡めて撮ると絵になる。

名城公園-9

 5時になって、すっかり暗くなってきたので、もうあきらめて帰ることにする。最後にお堀の夕景を撮っておく。ここも定番の風景だ。残念ながらこの日の焼け具合はよくなかった。

名城公園-10

 ライトアップされた名古屋城。
 11月13日に世界糖尿病デーでブルーにライトアップされたことをさっき初めて知った。その日はニュースでも見なかった。名古屋城の変わったライトアップは珍しいから、見てみたかった。
 調べたら当日は全国あちこちの城でも同様のブルーライトアップが行われたようだ。
 名古屋城ライトアップの歴史も古く、戦後再建された昭和34年からすでに始まっていたらしい。どこの城が最初にライトアップを始めたのだろう。今では主だった城のほとんどはライトアップをしている。

名城公園-11

 空の色が黒くなったところでもう一枚。街灯りも増えて、夜景となった。
 左には西北隅櫓(別名清須櫓)もライトアップされて白く浮かび上がっている。
 ここまで暗くなってしまうと、もう撮れるものはほとんどない。城の西側の石垣風景も撮るつもりだったのだけど。

 今回あらためて名城公園の魅力や可能性を感じることができたから、また行こうと思う。猫を撮るならマクロを持っていくべきだし、人のいる風景なら中望遠も揃えたい。お堀の鳥は遠いから、少なくとも600mm換算の望遠レンズが必要だ。
 名古屋城周辺ということでは、一大駄菓子問屋街となってる明道町を一度歩いてみたいし、市制資料館も行きたい。今回取りこぼした護國神社も行かないといけない。
 次は猫のカリカリも忘れずに持っていこう。

2008年の紅葉は岩屋堂の年だったと記憶されることになる

紅葉(Autumn leaves)
岩屋堂再び-1

PENTAX K100D+PENTAX DA 16-45mm f4 ED



 今年はここまで紅葉とのシンクロ率が低くて、もどかしい日々が続いている。そうこうしてるうちに12月に入ってしまった。各地からは色あせや落葉の便りが届き始めた。もう駄目だ、今年はいけない。8割方もうあきらめた。
 あきらめてどうしたかというと、また岩屋堂へ行ってきた。上の写真はこの前撮ったものの使い回しではない。今日あらたに撮ってきたものだ。車で1時間近くかかる距離で、その時間があれば香嵐渓へも行けるのに、あえてもう一度岩屋堂へ行ったのは、この場所をもう一回撮りたかったからだ。
 けど、早まった。到着してここに立った瞬間、しまったと思った。去年、おととしが12月5日で少し遅かったから、12月1日ならジャストタイミングだろうという思惑は外れた。右奥の方の落葉が全然足りず、地面がむき出しになっている。これではまだ化粧が半分終わっていないような状態だ。
 去年の写真を見たら、去年の方がよかった。あのときはちょうどお寺の人がホウキで落ち葉を掃いていていいモデルになってくれたというのもあった。同じ場所で去年の自分に負けている場合じゃない。カメラもレンズもランクアップしてるのに。
 残念だったり悔しかったりしつつ、微妙に角度を変えながら何枚も撮ってはみたものの、やっぱりこの位置が一番しっくりくる。3年続けてほぼ同じ構図になった。そういう部分ではあまり進歩がないかもしれない。
 車で15分のくらいの距離ならもう一回とも思うけど、今年はこれでもうあきらめた。また来年にする。

岩屋堂再び-2

 見上げる紅葉。黄色から赤へのグラデーションが空を覆う。
 木の幹と枝のシルエットがうごめく命といったようなものを感じさせた。成長はゆっくりでも着実で、くねりながら伸びゆく枝は生きてきた記録だ。


岩屋堂再び-3

 足元に目を移せば、落ちたイチョウの葉が絨毯のように敷き詰められている。掃いても掃いても次から次へと落ちてくるイチョウの葉は、掃除人泣かせだ。よくぞこんなにも葉っぱを持っていたものだと驚く。
 それでも寒さが深まる頃には葉は落ちきって、枝は裸になる。そうやって冬の寒さに耐える。それがまた春から夏にかけて再生してくるのだから不思議なものだ。
 イチョウは長生きだから、ここの木も私たちがいなくなったあともずっと生き続けることだろう。

岩屋堂再び-4

 しゃがんで三蔵門の中を撮っていて、ふと振り返ったら誰かが写真を撮っていた。しまった。いつもは私が人入りの写真を撮っているのに、立場が逆転して私が風景の中の人になってしまった。あまり必死な感じになっていたら照れくさい。しゃがんでの縦撮りだから、ちょっと頑張ってる感じになってしまっていたんじゃないだろうか。

岩屋堂再び-5

 今日の目的は三蔵門前の写真を撮ることだったので、門の中には入らず、外から頭を下げるだけで勘弁してもらった。お墓の方の紅葉も撮りにいってない。
 浄源寺はまた来年の2月に訪れることになるだろう。近所でセリバオウレンを撮れるのはここくらいだから。

岩屋堂再び-6

 去り際にもう一枚。残念という思いが最後まで残った。

岩屋堂再び-7

 もみじ祭りとライトアップは昨日までで、終わったとたんにひとけが消えた。すっかりいつもの静かな岩屋堂に戻っていた。紅葉自体がもう終わっていたということもある。
 鳥原川には鳥たちの姿も戻ってきて、さかんに鳴き交わしていた。鳥にとってもやれやれといったところだろう。

岩屋堂再び-8

 この日は珍しく一脚を使っていたのだけど、日没後の薄暗がりの中では止めきれなかった。一脚では縦ブレは止まっても横ブレが止まらない。手ぶれ補正機能との組み合わせでも、1秒を超えると駄目だ。1/2秒くらいまでなら根性で止めるのだけど。

岩屋堂再び-9

 屋台も閉まっていた。やる気はあっても、もうお客がいない。昼間は多少人も来ていたんだろうか。

岩屋堂再び-10

 いつもの場所。個人的に昭和枯れすすきポイントと名づけている。岩屋堂で一番好きなところで、訪れると必ずここから写真を撮っている。ほとんど定点観測といってもいいくらいだ。
 ずっと変わらないようでいても、何年かあとに撮った写真と比べると微妙な変化があるかもしれない。新しくなる要素はほとんどないから、ますます枯れていくことだろう。
 でも、ベンチは新しくなっているような気がする。前はこんなきれいじゃなかったんじゃないか。前に撮った写真と見比べてみよう。

岩屋堂再び-11

 岩屋堂は山に囲まれているから、日没時間が街中よりも早い。5時前にはすっかり暗くなって、奥へ進んでも写真を撮れそうになかったので、引き返した。
 今の名古屋の日没は16時40分で、今日から10日間くらいが一年で一番早い日没時間となる。東京は16時28分に日没となる。大阪は16時47分だ。当然ながら、西へいくほど日没時間は遅くなり、北ほど早い。根室などは15時42分には日が沈んでしまう。北と南では、日没に対する感覚がずいぶん違うはずだ。

岩屋堂再び-12

 瀬戸へ行ったら撮るところといえば、このパルティせとだ。今日は信号待ちの位置とタイミング悪くて走り撮りになってしまった。
 走り撮りには多くの可能性があると感じている。運転中に、あ、今のところ撮りたいっと思うことがよくあるけど、ほとんどは撮れずに逃して悔しい思いをする。
 こうなったら、ダッシュボードにデジを固定して、リモコンで撮るという仕掛けを作るか。助手席に三脚を立てられればそれでもいいかもしれない。信号待ちのときに、それを隣の車のドライバーに見られると恥ずかしいけど。

 今年の紅葉はおそらくこれで終わりということになるだろう。どこかで紅葉に当たることはあっても、紅葉自体を撮りに行くことはもうなさそうだ。どこも時機を逸した。
 2008年の紅葉は、岩屋堂の年だったということで記憶されることになる。
 明日からは紅葉へのこだわりを捨てて、ネタ集め優先で行き先を決めていく。10日からは青春18きっぷを使えるようになる。ヒザも治ったことだし、また歴史巡りの電車旅に出たい。鳥撮りも再開しなくては。
 冬には冬の被写体があって、写真に休みはない。
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