
小牧山城の2回目は、歴史館の中の様子を紹介しつつ、後半では小牧長久手の戦いについて少し書いてみたい。
歴史資料館の入館料は100円と安い。
中に入ってかなりきれいだと思ったら、平成19年にリニューアルオープンしたばかりだったらしい。4年前に訪れていれば昔の状態と比較できたのに、惜しいことをした。展示物の追加などもあるそうだから、前に行った人も再び訪れてみる価値がありそうだ。近年、発掘調査も進み、これまで不明だったこともいろいろ分かってきたという。

入り口入ってすぐに、家康像が建っている。どこかで見たことがあると思ったら、小牧市に「
なんでも鑑定団」が出張鑑定に来たとき出てきたやつだ。
ケースのプレートを見ると、レプリカとある。ということは、小牧に住む一般の人が本物を持っていて、小牧の歴史資料館にはレプリカしかないということだ。本物は確か数百万という鑑定結果だったはずだ。
しかし、この半裸の家康はどうなんだ。
松平郷では松平親氏像がこんな姿をしてるけど、徳川の人間は前をはだけるイメージなのか。信長像にこんなものはない。

これもレプリカながらぐっと心を掴む存在感を持つ仏像だ。小牧の正眼寺所蔵の銅造誕生釈迦仏立像のレプリカで、本物は重要文化財で、
奈良国立博物館で展示されているという。
正眼寺は1394年に一宮に建てられた曹洞宗の古刹で、江戸時代になって小牧に移ってきた。機会があれば一度訪ねてみたい。それに、これの本物が見てみたい。

かなりお金を掛けてリニューアルしたようで、内部は木造を基調とした贅沢な造りになっている。ちびちび100円ずつ貯めてもそんなに儲かるとは思えないし、小牧市がお金を出したのか、寄付が多く集まったのか。

展示物はフロアやブロックごとに分けられていて、古い時代から戦国、それ以降まで、いろいろな年代の発掘されたものが中心となっている。
戦国の武器や鎧などがあるかと思ったら、それはなかった。小牧長久手の戦い関係も、ビデオや陣地図がある程度で、ちょっと物足りない。
ざっと見るだけなら15分か20分くらいだろう。

発掘品の他には、古地図や書簡なども少しあった。
パネルも一つずつ読んでいけば興味深い内容もあるのだろうけど、今回は飛ばした。
一つ気になったものとしては、岸田家がある。江戸時代に入って、小牧山の南西に広がっていた城下町が東に移されて小牧宿というのができたのだけど、わずかにその名残をとどめているのが
岸田家だ。時間があったら見に行こうと思っていたら、時間切れで行けなかった。もう一度小牧へ行くことがあれば、そのときは寄りたい(室内見学は予約が必要らしい)。

小牧で気になっているもう一つは、大山廃寺跡だ。小牧市北東の山にあった寺で、創建は600年代半ば、平安から鎌倉にかけて大伽藍を持つ寺に発展し、西の比叡山延暦寺、東の大山寺といわれるほどだったという。
室町時代の後半には完全に終わり、今は跡地を残すだけとなっている。発掘調査である程度のことまでは分かったようだけど、いまだ謎の多い寺とされている。

銅鏡や曲玉なども発掘されているということは、小牧山は古くから人が住んでいたということになるのだろう。

長久手の戦いの合戦図が登場したところで、小牧長久手の戦いについて少し書いてみる。
小牧長久手の戦いというのは、小牧におけるにらみ合いの前哨戦と、長久手における最終合戦との二段階に分かれた戦いだ。愛知県民なら地理的なことは分かるだろうけど、県外の人にはちょっと分かりづらいところもあると思う。小牧と長久手というのはかなり距離が離れている。直線距離で18キロ。自転車でも1時間半はかかる距離感だ。だから、小牧と長久手とに分かれて戦ったというのではない。
この戦いは、秀吉と家康が直接対決をした唯一の戦いで、結果的には引き分けのような形で終わった。実質的には家康が勝っていた戦いで、秀吉の方がマイナス面は大きかったとも言える。
始まりは本能寺の変だった。信長亡きあと、当然のことながら織田家で相続争いが起きた。本来なら嫡男の信忠が継ぐはずだったのが、本能寺の変の際に二条城で明智勢に攻められて自害してしまったことで事情が一変した。評価の高かった信忠が生きていれば、その後の歴史はずいぶん違うものとなっただろう。
次男の信雄がもっとしっかりしていればなんとかなったのかもしれないけど、彼がちょっと困ったやつだった。
謀反を起こした明智光秀を討ち取ったことで、秀吉の発言力は一気に大きくなった。ただし、これだけではまだ充分ではない。いくら下克上の戦国時代とはいえ、大名家を継ぐのは世襲制と相場が決まっていて、家臣がいきなり大名になるということはない。結果的に秀吉が天下を取れたのも、謀反を起こして織田家を滅ぼしたからだ。すんなり信長から引き継いだわけではない。
秀吉が威張っていることが我慢できなかった織田家の家老・柴田勝家は秀吉と対立して、賤ヶ岳の戦いに破れて果てた。この戦いでは次男の信雄は秀吉の側についている。勝家が後継者として推していたのは、信雄よりも出来のいい三男の信孝だった。しかし、信孝も戦のあと自害させられてしまう。
秀吉と信雄が敵対するのはこのあとだ。
自分は織田家の後継者と思っている信雄と、実質的な支配者になりかけている秀吉がぶつかるのは必然だった。秀吉はまだ幼い信長の孫の三法師を担ぎ出してきた。嫡男の信忠亡き後を継ぐのはその嫡男の三法師というのは、一応理屈は通っている。
信雄は秀吉の謀略にさんざん翻弄されて、直接対決を余儀なくされる。けれど、自力では勝てないということで助けを求めたのが家康だった。家康は織田家とは同盟関係にあって、信長の家臣ではない。信長がいなくなったとき、家康にも天下取りの可能性が生まれたと、当然思ったに違いない。渡りに舟とばかりに家康は喜んで求めに応じた。そのケンカ、ワシが買ったとばかりの勢いだった。
このときの配置は、尾張の清洲に信雄、秀吉は大坂城にいて、家康は浜松城にいる。決戦地は互いの中間である尾張になるというのが両者の目論見だったのだろう。先に動いたのが家康で、秀吉は雑賀衆や根来衆に大坂城を攻められて、完全に出遅れた。このとき家康が本拠を置いたのが信長が城を築いて、その後捨てていった小牧山だった。
絶好のポジションを取られてしまったことを秀吉はずいぶん悔しがったという。家康は遺構を利用して、周囲に砦や土塁を築かせ、秀吉を迎え撃つ準備を進めた。
10日以上遅れてやって来た秀吉は、犬山城に陣取った。ここを選んだのは、秀吉に寝返った池田恒興が犬山城を占拠したからというのもあった。
こうして小牧の役が始まったのだけど、お互い攻め手をかいてしばらくにらみ合いが続く。じれて先に動いたのは秀吉の方だった。家康が留守の間に本拠の岡崎城を落としてしまえと誰かが言い出した。通説では池田恒興の入れ知恵だったとされることが多いけど、近年は秀吉の発案だったという説が主流になっているようだ。
しかし、この動きは家康側に筒抜けで、先鋒隊のあとを密かに追いかけた家康軍が秀吉軍をさんざん打ち破ることになる。このあたりの経緯は、
岩崎城や
本地ヶ原神社のときに書いた。最終決戦の
長久手の戦いに関しても以前少し書いたので、ここは省略してしまう。長久手の戦いは家康側の大勝利で幕を閉じた。
この後、秀吉本隊は家康の本隊を追いかけるも、するりするりとかわされ、家康は清洲城まで退いてしまう。これ以上の深追いは危険と判断した秀吉も、本拠の大坂城に帰っていった。こう書くと、それならなんで家康が天下を取らずに秀吉が取ったんだと思うだろうけど、そこが秀吉のずる賢いところで、合戦だけが天下取りの方法ではないことを知っていた。
今度は信雄を個人攻撃し始めた。信雄の所領の伊賀・伊勢を攻め立て、精神的に追い込んでから講和を申し込み、信雄はそれを受けてしまった。これには家康も激怒したという。おまえ、何勝手なことをしてるんだと。信雄と秀吉が仲直りしてしまっては、信雄を助けるという家康の大義名分が失われてしまう。家康は振り上げた手の持っていき場を失い、釈然としないまま戦いはうやむやのうちに終わりとなってしまったのだった。
浜松城に戻った家康は、秀吉との敵対関係をおさめるべく、次男の結城秀康を秀吉に差し出した。名目は養子ということだったけど、実質は人質だった。家康の長男・信康は信長の命で切腹させられているから、本当なら次男の秀康が徳川家を継ぐはずだった。なのに、あえて家康はこの次男を秀吉の養子にしている。自分の子供ではないのではないかと疑っていたとか、家康は秀康を嫌っていたとか、秀康の悲しい物語については、いずれどこかで書く機会があるかもしれない。
浮き沈みの激しかった福井城に桜の木は残った 小牧長久手の戦いで秀吉は大きなものを失っている。家康を討てなかったことによって関東を完全に支配できなかったため、征夷大将軍になれなかったのだ。この時代の決まり事として、関東を支配できないものは征夷大将軍になれず、征夷大将軍になれないということは幕府を開けないということを意味している。源頼朝が鎌倉幕府を開き、徳川家康が江戸幕府を開いたように、秀吉は大坂幕府を開けなかった。地位こそ関白まで上り詰めたものの、幕府を開けなかったことがのちに家康のつけいる隙を与えてしまったということにもなった。
江戸時代に入ってからの小牧山は、徳川ゆかりの地ということで尾張徳川家のものとなり、小牧代官所が置かれて、一般人は立ち入り禁止とされた。それゆえに現在まで多くの遺構が残ることとなった。
明治のはじめにいったん県立小牧公園として開放されたあと、再び尾張徳川家の所有となり、次に開放されたのは昭和5年のことだった。

四階が展望台になっていて、東西南北ぐるりと見渡すことができる。現代でさえ視界を遮るものがないのだから、戦国時代は本当に遠くまで見ることができたことだろう。馬なんかで近づいてくれば、すぐに分かってしまう。

こちらが犬山方面だろうか。肉眼で犬山城を確認することはできない。昔の人の視力がいくらよかったとしても、犬山城で秀吉が動いてるのが見えたはずもない。
ただ、この距離でも周囲に建物がなければ、ほとんど目と鼻の先といった感覚だったのだろう。現代人とは距離感が全然違う。

名古屋駅のタワー群も小さく見えている。こうして見ると、名古屋の街もまだまだ背が低い。
夜景がすごくきれいだそうだけど、その時間帯には開いてないから関係者以外は見ることができない。たまに何かのイベントで夜間も開いていることがあるので、そのときに見に行くしかない。

裏から見た模擬天守。屋根にはやっぱりシャチホコが乗っている。
次回は小牧山周辺にある神社なども絡めつつ、史跡公園を紹介したい。
小牧山周辺を歩きながら400年前の様子を想像してみる <第3回> 一般人目線で見た小牧山城の紹介と桶狭間以降の信長 <第1回>【アクセス】
・名鉄小牧線「
小牧駅」から徒歩約30分。
・名鉄小牧駅(東口バスターミナル)から名鉄バス「岩倉駅行(小牧市役所前経由)」乗車。「小牧市役所前」下車。
・無料駐車場 あり
【小牧歴史館】
・営業時間 9時-16時半 第3木曜日 定休
・入館料 100円
史跡小牧山webサイト 小牧市歴史館webサイト