
Canon EOS 620+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 +FUJI 400
名古屋の東のはずれに藤が丘という街がある。地下鉄東山線の終点であり、愛・地球博のとき敷かれたリニモの始発駅でもある。
藤が丘と私との距離感は微妙なものがある。家の近くでは最も賑わっている駅で、車で10分ほどしかかからないにもかかわらず、藤か丘へ行くことは少ない。とにかくこの街は車で行くには不便すぎるというのがその理由だ。名古屋の郊外といえば、どこの店でもたいていは自分のところの無料駐車場を持っているのが当たり前なのに、藤か丘にはそれがない。街としての規模が小さく、道も狭いから路上駐車しておく場所もない。なので、藤が丘へ行かなくも済むのなら他のところで用事を済ます。いい本屋や喫茶店があるから、無料駐車場さえあれば昔からもっと頻繁に行っていた。
私にとっての藤が丘は、中学の友達との思い出が一番残っている街だ。テニス部のペアを組んでいるやつと何かというとつるんで藤が丘へ行っていた。服屋のバーゲンで同じ服を買って、次に藤が丘で待ち合わせしたら二人ともその服を着ていて、ペアルックの男子中学生になってしまったなんてこともあった。いや、そういう仲ではなかったのだけど。
あれからずいぶん時は流れ、寄りつかなくなっている間に藤が丘も少しずつ変わっていった。そして2005年、万博開催とリニモ開通によって更に大きな変化があった。
上の写真のあたりが一番大きく変わったところで、大きな白い建物は万博が終わってから建ったビルだ。万博開催中は、リニモの駅に入るのを待つための広場になっていたところだ。リニモ待ちで何十分、下手をしたら何時間と待たされたなんて人もいただろう。リニモに客を詰め込みすぎて、浮くはずのリニモが沈んで動かなくなったなんてニュースもあった。もっと台数を増やしたらどうだという意見を聞き入れなかったのは正解だった。たった半年のことだし、リニモの車両は特殊だから、他の路線に譲るなんてことができない。それに、万博が終わったらリニモの利用客がほとんどいなくなることは目に見えていた。実際、試算の半分も利用客がいないということで問題になっている。もっとみんなリニモに乗ってあげないと、そのうち廃線なんてことにもなりかねない。すでに赤字のお荷物路線となってしまっている。
この白い建物の前は、赤茶色タイルの建物だった。名前はeffe(エフ)で昔と変わっていないかもしれない。
中学の頃は、ここのロッテリアに入って、ハンバーガーとポテトとシェイクを食べるというのが定番コースだった。ロッテリアのシェイクの味は中学生の思い出と直結している。
そんな藤が丘の今をフィルムで残そうと思ったのは、ある意味では必然だった。フィルムで撮るなら藤が丘と思ったし、デジでは撮る気がしないのが私にとっての藤が丘という街だ。こんなところで写真を撮っている人間など皆無で、道行く人にけっこう見られてしまったのだけど、二度とこんなふうにここで写真を撮ることはないだろうということで、人目を気にせず馴染みのある藤が丘の風景をフィルムに収めてきた。今日と明日の前後編でそのときの写真を紹介しようと思う。
とてもローカルなネタなので、大部分の人にとっては何の思い入れもなく、魅力も感じないだろうとは思うけど、一部思い出のある人と一緒にちょっとおつき合いください。

少し場所が前後するので、知っている人も戸惑うかもしれないけどご勘弁を。
私は北西方面から藤が丘駅前交差点にぶつかる道でやって来るのが常なので、そこを左折して少し行った右側がこの風景になる。左手に商店街が並び、右手はバスのロータリー、正面にはマツザカヤストアがある。この道を入っていくと、藤が丘に来たなと思う。
ここ数年、藤が丘の路上駐車は劇的に減った。民間取り締まりが始まって、ここは重点取り締まり区域とされたので、みんなとめられなくなってしまったのだ。昔はすべての路上に駐車車両があるというくらいで、それが当たり前と思っていたから、路駐がなくなったときは逆に驚いたものだ。おかげで車は走りやすくなった。有料駐車場はたくさんあるから、お金さえ出せばとめる場所に困ることはない。

角の宝くじ屋はずいぶん昔からある。大昔に一度くらい買ったことがあるような気もする。私は大学に入るまで本を読むという習慣がまったくなかったので、高校の夏休みの感想文は2年連続で宝くじ必勝法という本で書いた。もちろん、シャレでだ。本気で宝くじを買っていたとかではない。ただ、一番よく買っていたのが高校生くらいだった。その後、自ら宝くじを買うことを禁じて買わなくなった。
隣のたこ焼き屋は知らない。昔はなかった。
この通りも新旧半々くらいになったのだろうか。変わってないところは変わってない。藤が丘で大きく変わったのは中心のロータリーあたりで、駅裏や周辺は昔の姿をとどめているところが意外と多い。

こんな白洋舎のクリーニング屋はなかった。道路の上に屋根なんてついていただろうか。意識したことはなかった。普段意識的に見ている光景と写真に写った景色は違うから、見慣れた街も写真に撮ると思いがけない発見がある。
この並びでよく覚えているのが、マニアックな品揃えの白樺書店だ。この本屋だけは大学の頃もよく訪れていた。マニアックな本が欲しいときは、藤が丘のここか、それでもなければ千種の正文館へ行くのが常だった。
中学の頃はどんな本を買っていたんだろう。あまり覚えていない。当時は週刊少年コミックは買っていなかったし、マンガも本当に読みたいものを買うだけで、しょっちゅう買うということはなかった。
考えてみると、中学のときの自分が何に興味を持っていて、毎日家で何をしていたのか、思い出そうと思っても思い出せない。部活は夕方までやっていたけど、夜は何をしていただろう。他愛もなくテレビを観たりして一日が終わっていっていたのだろうか。
最初にパソコンというか当時はマイコンと言っていたのだけど、それを買ったのは確か中3のときだ。それからはマイコンゲームやプログラムの打ち込みとかだったか。受験勉強なんて洒落たものはしなかったから、時間はあったはずなのだけど。
一日中、好きな女の子のことを考えて過ごしていたとかではあるまい。ラジオのオールナイトニッポンを聴いていたのは、中学だったか高校だったか。睡眠学習枕で寝ていたのが中学だったのは覚えている。あれは役に立ったんだかどうだか。

駅入り口のミスタードーナツ。
ここから右側に歩いて10秒くらいいったところにもう1軒スタードーナツがある。意味がよく分からないけど、昔から2軒あった。駅前店と駅東店となっているけど、距離は20メートルくらいしか離れていない。
店内のスペースが狭いからという理由だったのだろうか。同時にできたんだったか、東店はあとからできたのだったか、よく覚えていない。
あまりドーナツを食べる習慣はなかった。ドーナツは女子の食べるものという思い込みがあって、男子二人で入るのが照れくさかったというのがある。たまに入ることがあったのは、ドーナツの割引券が郵便受けに入っていたときなどに限られた。
今ふと記憶が蘇ってきた。中学の頃、藤が丘以上によく行ったのが四軒家の清水屋だった。あそこのスガキヤでラーメンを食べて、同じフロアのゲームコーナーでゲームをやるというパターンが一番多かった。そうだ、埋もれていた記憶が表に出てきた。

ミスタードーナツの横と、マツザカヤストアの横の2ヶ所に休憩スペースがあるというこの配置も昔と変わっていない。
あの頃は時間があって暇だったから、こういうところで座って長い時間くだらないおしゃべりをしたりもしていた。当時と今と、同じスピードで時間が流れているとは思えないくらい時間の感覚が違う。

駅前交差点にいったん戻る。背後がバスターミナルで、駅前交差点を北西の方を向いている位置だ。左後ろにはパチンコ屋がある。
藤が丘には昔、3軒の本屋があって、向かって左手角にもそのうちの1軒があった。今ミニミニになっているところだ。古田書店とか吉田書店とかなんとかいう名前だったんじゃなかったか。この本屋をよく待ち合わせの場所に使っていた。
右手の愛知銀行はどうだったろう。昔は銀行なんかに興味はなかったから、どこに何銀行があるかなんて別にどうでもよかった。
右に少し行ったところの二階に喫茶べらというのがあったはずだけど、今はもうないか。ロッテリアばかりではつまらないから、ちょっと背伸びしてコーヒーを飲もうなんてときに何度か入った。

駅前から少し北西に離れてみる。左手にあるのがマックスバリューだ。昔はナフコだったと思う。違ったかな。
更に進んで右側にジャズ喫茶青猫がある。地下一階になっているから少し見つけづらい。青猫のことは以前このブログで紹介した。ジャズ好きじゃなくてもなかなかいい店なのでオススメしておく。もちろん、昔はそんな店はなかった。

この通りは桜並木がきれいで有名なところだ。道路沿いだから座り込んで花見酒というところではなく、歩いたり車で通ったりして楽しむところになっている。特に桜吹雪の時期に車で走るのが気持ちいい。毎年楽しみにしている。
ただ、藤が丘のソメイヨシノも老木となって、去年ずいぶんたくさん若木と植え替えられてしまった。ここ数年は見事だっただけに残念だ。来年の桜並木はちょっと寂しいことになるだろう。もう一度育つまでには20年や30年はかかる。
日本のソメイヨシノというのは戦後しばらく経ってから植えられたものが多くて、そろそろ日本全国一斉に植え替えの時期に来ている。寿命が50年くらいで、元気がなくなると切ってしまうことが多い。ちょっと残酷なような気がするけど、もともとソメイヨシノというのはクローンで増えてきた桜だ。切り倒した老木の枝を接ぎ木して、新しい木として育っていくから、悲しむことはない。

駅前を右折したところにはビルが並んでいて、中でもGAZAはこの場所のシンボル的な存在だ。ほとんど入ったことがないから中の様子はよく知らない。ファッションビルといえばそうなのだろう。一度、買い物のお供で入ったくらいだ。確か、一階がファッション関係で、二階から上はクリニックとか美容院とかだったんじゃないか。
隣にはレイ・エ・ルイがある。そちらも似たような性格のビルだと思う。

こちらがレイ・エ・ルイ。その裏手から見たところだ。
エステとかフィットネスが入っているようだ。昔はどうだったのかは、まったく覚えていない。ビル自体はかなり以前からあったのは間違いない。
このあたりは中坊男子が近づくようなところではないから、思い出がないのは当然だ。中学生のデートコースといえば、東山動物園とか、大須スケートリンクとか、映画館とか、そんなところだった。買い物といっても、ファッション関連ではなくファンシーショップとかだった。
今どきの中学生とは時代の違いを感じる。

そうそう、レンタルショップのZIG-ZAGもなくなってしまったのだった。あの店は20代の頃よく利用した店で思い入れのあるところだったから、閉店してしまったのはとても寂しかった。20代の私はとにかく映画を片っ端から観まくっていて、ZIG-ZAGも通い詰めていた。ここは駅前から少し離れたところにあるせいで無料駐車場があって、行きやすかったというのがある。ビデオやCDの品揃えも申し分なかった。
最近はレンタルビデオやDVDもまったく借りなくなったから、実質的に困ることはないのだけど、それでもよく行った店がなくなってしまうことは悲しいことに違いない。
ここから右に少し行くと、おもちゃのブレーメンがある。半分雑貨屋のようでもあり、プラモ関係もいろいろあって、ちょっと変わった面白い店だ。

また場所は飛んで、今度は商店街の裏側へとやって来た。
ここは車で横を通るだけで、歩いて近くまで来たのは今回が初めてだった。団地の下に昔ながらの古い商店が並んでいる。こんなところがあるとは知らなかった。これは紛れもなく昭和のテイストだ。
団地の名前が藤が丘ではなく藤ヶ丘団地になっているのには理由がある。
東山線藤ヶ丘駅が開業したのは1969年(昭和44年)のことだった。それまでこのあたりは未開拓の里山のような場所だった。
当初地下鉄は猪子石や高針に延びる計画が立てられていた。にもかかわらず藤ヶ丘になったのは、地元の熱心な誘致運動と、車庫を造るための用地を無料で提供するという申し出があったからだった。
駅が開業したとき、ここはまだ千種区猪高町大字藤森という地名だった。名東区ではなかったのだ。明治までは藤森村と呼ばれる痩せた土地だったという。
藤が丘と藤ヶ丘という二つの表記が混在するのは、地名と駅名とがそれぞれ別だったからだ。区画整理のとき町名が藤が丘となったのに、駅は駅で藤ヶ丘と名づけてしまった。それで混乱が生まれることとなった。
この表記が藤が丘に統一されたのは実はごく最近のことで、愛地球博もあるし、リニモもできるし、ここは一つ統一した方がいいだろうということで、2004年に町名に合わせて駅も藤が丘駅となったのだった。電車や駅の表記をいちいち変えなくてはいけなかったから、かなり大変だったようだ。それでも、いまだにあちこちに藤ヶ丘の痕跡はたくさん残っている。

喫茶店に中華屋に塾など、おそらく上の団地の人目当てに作られたと思われる店が並ぶ。けど、こういうところは顔見知りが多いだろうということで住民は避けることが多い。店を開店させた当時の思惑ほど流行らなかったはずだ。こういう団地の下の店というのは独特の難しさがあるから、入れ替わりが激しい。ここに並んでいる店も、長く続いているとこは少ないんじゃないだろうか。
藤が丘が賑わっているといっても、まあこんなところだ。本当の繁華街とは違うから、夜の店があるとかそういう場所ではない。ここを起点として高校、大学へ行く学生が多いから、学生街的な性格も持ち合わせている。居酒屋なども多い。学校のちょっとした同窓会みたいなものがあると、たいてい藤が丘に集合ということになる。
私にとっては近いようで遠く、遠いようで近いのが藤が丘という街だ。これからも微妙な距離感を保ってつき合いは続いていくことになると思う。
ここも瀬戸と同じで、万博の前に一度ちゃんと写真を撮っておくべきだった。2004年にその発想がなかったことが悔やまれる。万博開催中は混雑してると思って寄りつかないようにしていたのも、今となっては失敗だった。藤が丘に群衆が集まっている光景など、後にも先にもあのときだけだっただろう。リニモ待ちの長蛇の列というのも見てみたかった。
万博後の工事もすっかり終わり、街は落ち着きを取り戻したようだ。変わったところは変わり、変わらなかったところは変わってない。期待したほどの変化がなくてがっかりしてしまった住人もけっこういたかもしれない。リニモにしても、長久手方面なんかへ行く用事はほとんどないから大して嬉しくない。物珍しさも2、3回までで、利用するにしても跡地のモリコロパークへ行くときくらいだ。リニモの線がこれ以上延びるとは考えられないし、藤が丘の発展というのもここまでだろうか。東山線が名駅まで行ってるし、名城線も環状線になったから、地下鉄はずいぶん便利になった。
思い出の藤が丘編前編はこれくらいにしておこう。明日はこの続きの後編ということになる。