月別:2008年09月

記事一覧
  • 誰もが忘れた頃に再開した小田井の神社仏閣編の第二弾

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 名古屋の街中に残された中小田井の古い町並みを紹介したのは、7月半ばのことだった。そのときの神社仏閣編第一弾で星神社について書いたのを覚えているだろうか。もう2ヶ月以上前のことだから、みんな忘れてしまっているかもしれない。 今日はその続きで小田井の神社仏閣第二弾となる。あれから日光へ行ったり、赤目と奈良の寺巡りをしたり、岐阜の歴策散策などが間に入って、このネ...

    2008/09/30

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • ひねり不足の中洋融合サンデーはもう一歩足りない70点台

    PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他 今日のサンデーは、先週ちらっと書いたように、キャラ弁料理を作ろうと思っていたのだけど、世のお母さんたちが作ったキャラ弁の完成図を見ているだけでイヤになってやめてしまった。すごい。すごいけど、どう考えても面倒くさすぎる。あれは、子供の喜ぶ顔を見たいといった情熱がなければ作れないたぐいの料理だ。自分のためにキャラ弁を作る情熱を私は持ち合わせていなかった。そもそも...

    2008/09/29

    料理(Cooking)

  • 早稲田から西早稲田まで歩いて早稲田を少しだけ語る

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 朝5時、東京駅八重洲口。さすがにこの時間だと人も車も少ない。しかし東京、すでに街は眠りから覚めて活動を始めている。5時前から電車も動いている。 早朝の東京というのは、散歩をするにいい。名古屋あたりで朝の5時に犬も連れずに歩いていると不審者と思われないかとちょっと心配になったりするものだけど、東京ならその点は安心だ。何時でも人は歩いているし、朝の5時から開いてる店...

    2008/09/28

    東京(Tokyo)

  • 早朝5時半のまだ半分眠っている穴八幡宮にて

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 朝5時半。早稲田通り。夏のことで、もうとっくに夜は明けて空は明るくなっている。それでも、早稲田界隈はまだほとんど眠ったままだ。歩く人の姿も、通りすぎる車もまばらで、東京全域が眠らない街などではないことを知る。 7月20日、日光へ行った日の朝、時間が少しあったので、早稲田界隈を歩いてみた。どうして早稲田だったのかというと、特に深い意味はない。日光1号の出発が池袋で、...

    2008/09/27

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • また行くから花鳥園の鳥たちみんな元気でいてね <花鳥園6回>

    Canon EOS 20D+Canon EF 135mm f2.8 SF / EF 75-300mm F4-5.6 IS 今日は花鳥園シリーズ最終回。残った写真を集めて並べて振り返って終わりにする。 ソフトフォーカスレンズ効果が最大限に表れた今回の象徴的な一枚からいってみよう。光、水、背景が上手く配合されると、幻想的な写真になる。どんなふうに撮れるか撮ってみないと分からないというのがこのレンズの面白さと言えるかもしれない。もう少し使い込んでいくと、クセが掴...

    2008/09/26

    動物園(Zoo)

  • 2歳児のハートを持つヨウムとの50年寿命勝負 <花鳥園5回>

     掛川花鳥園シリーズ第5回は、ヨウムを中心としたインコ編をお届けします。 一枚目の写真はヨウムなのだけど、今回は温室にアンソニーだけでなくドリー(たぶん)も同じところにいて、最初はどっちがどっちか分からなかった。この写真もアンソニーのつもりで撮っていて、あとから考えるとドリーだったようにも思えてきた。ドリーは以前、受付にいたのだけど。 横顔は頬かむりをした忍者のようだ。背景を月夜にしたら、もっとそ...

    2008/09/25

    動物園(Zoo)

  • 自由だとしてもあまり憧れない水鳥たちの特集 <花鳥園4回>

    Canon EOS 20D+Canon EF 135mm f2.8 SF 今日は花鳥園の水辺の鳥たちを紹介したいと思う。 鳥といえば自由に大空を飛ぶ存在として人は憧れるものだけど、種類によってはほとんど飛ばずに水に浮いたり水辺を歩いていたりしてるやつらもいる。そういう鳥たちには人はあまり憧れない。水辺を歩くくらいなら自分たちにもできるし、一日の大半を水に浮いていて、エサをとるために潜るなんて生活はむしろ嫌だ。 花鳥園で暮らす鳥たちは...

    2008/09/24

    動物園(Zoo)

  • ソフトフォーカスレンズで撮る飛行ショーに収穫あり <花鳥園3回>

    Canon EOS 20D+Canon EF 135mm f2.8 SF / EF 75-300mm F4-5.6 IS まだ続く花鳥園シリーズ、今日は飛行ショー特集でいってみたい。 掛川花鳥園では一日3回、表の広場でタカやフクロウによる飛行ショーが行われる。以前からブログを読んでいただいている方にはすっかりお馴染みとなったと思うけど、これも花鳥園名物の一つとなっている。私が最初に花鳥園の存在を知って、絶対に行こうと決めたのは、このショーがあったからだった...

    2008/09/23

    動物園(Zoo)

  • お彼岸精進サンデー構想がマグロによって崩れて黄土色

    PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他 今日のサンデーは、秋のお彼岸に合わせて彼岸サンデーとしようと思っていた。しかし、早く食べてしまわなければいけないマグロがあって、彼岸料理構想はあっさり崩れた。お彼岸には殺生をやめて、精進料理を食べるのが習いだ。いきなりマグロでは誤魔化しようがない。 ところでお彼岸って何だろう? 分かってるようで人に説明できるほど分かってはいなかった。お彼岸料理は作れなくても...

    2008/09/22

    料理(Cooking)

  • やさぐれてそっぽを向いて細くなったポポちゃんと仲間たち <花鳥園2回>

    Canon EOS 20D+Canon EF 135mm f2.8 SF 花鳥園シリーズ第二回は、ポポちゃんとお仲間フクロウたち特集ということで紹介しよう。 前回行ったときも、ポポちゃんはお疲れの様子で、かなりやつれたような印象を受けた。1月に行った頃はまだ元気ハツラツだったのに、テレビ出演で人気者になって以来、出張の仕事も増えて、元気がなくなっているように見えた。 あれからどうしてるんだろうと心配しながら見に行ってみると、ポポちゃ...

    2008/09/21

    動物園(Zoo)

  • 今年三度目はソフトフォーカスレンズ一本勝負 <花鳥園1回>

    Canon EOS 20D+Canon EF 135mm f2.8 SF また掛川花鳥園へ行ってきた。今年に入って三度目だ。 一回目は正月明け早々の1月。総天然色の鳥たちを写し取るためにFUJIFILMのS2proを持っていった。色に関しては狙い通りだったけど、動きがトロいS2proでは飛びものに苦戦した。 二度目はベビーラッシュの5月。たくさん生まれたチビたちを撮るために、タムロン90mmマクロを持っていった。デジ本体は、表の飛行ショーに対応するために手...

    2008/09/20

    動物園(Zoo)

  • 醒ヶ井から垂井までの思い出編でシリーズ完結 ~滋賀岐阜歴史編18

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 東海道本線沿い滋賀・岐阜歴史巡りシリーズは、18回目にしてようやく最終回となった。4ヶ所行って、1ヶ所につき3回、合計12回プラスアルファくらいで終わらせるつもりだったのに、予定よりも長くなったのは、へとへとになるまで歩き疲れた分を少しでも取り戻そうという貧乏性ゆえか。 今日は本編では入りきらなかった写真を拾って、回った順番に振り返る旅の思い出編ということにし...

    2008/09/19

    観光地(Tourist spot)

  • 南宮大社は謎が多くて魅力的な神社

     垂井めぐりの最後に南宮大社(なんぐうたいしゃ)を訪れた(地図)。 垂井(たるい)という地名を聞いてどこにあるのかすぐにピンと来る人はあまり多くないかもしれない。東海道本線の名古屋-米原間をよく利用する人なら、大垣と関ヶ原の間だっけくらいの認識はあるだろうか。住所でいうと、岐阜県不破郡垂井町になる。 JR東海道本線の垂井駅(地図)からは1.5キロほどだから、歩くと30分かからないくらいだろう。 新幹線の線...

    2008/09/18

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 垂井散策は本当に私一人だったのか? ~滋賀岐阜歴史編16

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 垂井編の2回目は、垂井のシンボルの一つ、南宮大社の大鳥居からの再開となる。 南宮大社は、ここからまだ南に1.3キロほど行ったところなのだけど、もう神域に入るということなのだろう。関西ー名古屋間の新幹線を利用する人は、もっと大きな赤い鳥居をを見たことがあると思う。あれも南宮大社の大鳥居だ。この石造りの鳥居と、南宮大社のちょうど中間あたりに建っている。 前回、ち...

    2008/09/17

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 中山道垂井宿跡は江戸情緒ではなく昭和の名残 ~滋賀岐阜歴史編15

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 滋賀・岐阜歴史巡りの旅は、醒ヶ井から始まり、柏原、関ヶ原を経て、垂井(たるい)に辿り着いた。このときの時間は夕方の4時前だったろうか。1時間半くらい軽く回って、明るい内に大垣へ移動してそこで締めくくるつもりが、垂井でさんざん歩くことになって、ここで日没を迎えることになる。南宮大社への行き帰りは、よろめくような足取りだった。 そんな垂井編を今日から始めよう。...

    2008/09/16

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 呼び寄せてくれたことに感謝して関ヶ原編は完結 ~滋賀岐阜歴史編14

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 関ヶ原編は、本編に収まらなかった写真を並べて終わりとする。陣跡などもいくつか巡ったので、そのあたりの写真を中心に紹介しておこう。 家康最後の本陣が置かれた場所の近くに、田中吉政の陣跡も残っている。 一般的にはあまり馴染みが薄いかもしれないけど、いろいろと功績を残した武将だった。堀作りが得意だったようで、この前行った近江八幡の八幡堀や岡崎城下の田中堀、福岡...

    2008/09/15

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 料理も洋服同様コーディネイトが大事ということを思い知るサンデー

    PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他 今日のサンデー料理は、なんとなく居酒屋のメニューっぽい感じに始まって、残り物のカレーを流用したことが失敗を招く結果となった。 最初に思いついたのが、つくね風のつみれというか、つみれ風のつくねというのか、白身魚の串焼き団子だった。その付け合わせとして豆腐の味噌田楽を連想したところまでは順調だったのに、あと1品が思いつかず、ふとカレーの残りがあったことを思い出し...

    2008/09/15

    料理(Cooking)

  • 関ヶ原の戦いを思い、関ヶ原の今を考える ~滋賀岐阜歴史編13

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 関ヶ原編としては今日が5回目になる。関ヶ原の戦いについてと、ウォーランドについて書いてきたので、あとは神社仏閣や陣跡などの写真を2回に分けて紹介していくことにする。 上の写真は、駅から少し西に歩いて線路を渡った先にある、東首塚という場所だ。名前からしてすでに恐ろしい。線路の南には西首塚もある。今回はそちらまで回れなかったので、東首塚の方で手を合わせておいた...

    2008/09/14

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • ノーモア関ヶ原、ノーモア・ウォーランド<後編> ~滋賀岐阜歴史編12

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 関ヶ原ウォーランドは、人を選ぶ。ここは選ばれた者しか楽しめない施設である。真面目な関ヶ原ファンと不真面目な関ヶ原ファンという分け方は乱暴だろうけど、遊び心を持って臨まないと、腰が砕けてしまうから気をつけて欲しい。 個人的にはすごくオススメのスポットで、ぜひ行ってみてくださいと思いつつ、推奨できる人は限られるようにも思う。史実と全然違うとか、像の完成度が低...

    2008/09/13

    施設/公園(Park)

  • ウォーランドで関ヶ原の兵士になった気分<前編> ~滋賀岐阜歴史編11

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)、関ヶ原にウォーランドが開園した。日本中がオリンピックに夢中になっているとき、関ヶ原の人々はウォーランドの誕生に湧いていた……のかどうかは知らない。しかし、この超B級スポットが半世紀近くも続くことを予測していた人は多くなかったんじゃないか。赤ん坊のときにウォーランドに連れて行かれた人も40を過ぎた。天晴れ、ウォー...

    2008/09/11

    施設/公園(Park)

  • <関ヶ原2>戦場跡に17万人の声も影もなし ~滋賀岐阜歴史編10

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 昨日から書いてきたように、事実上の関ヶ原の戦いは1598年の秀吉の死から始まり、2年後の1600年に、その集大成としての合戦があった。ただしそれは、結果を知った私たちから見た視点であって、当事者たちにとっては先の見えない賭けという部分が大きかったに違いない。関ヶ原と前後して、全国各地で直接的、間接的な戦がたくさん起きている。関ヶ原地方でもないのに、関ヶ原の戦いの...

    2008/09/11

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • <関ヶ原1>関ヶ原の戦いに至るまでの長い前置き ~滋賀岐阜歴史編9

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS ようやくやって来ることができた関ヶ原に降り立ったときは、ちょっと感慨深かった。自分の中で、鎌倉と関ヶ原だけは時期が来るまでうかつに近づいてはいけないという思いがあって、ずっと行けないまま月日が流れていた。去年、鎌倉を克服して、この前徳川の聖地である日光にも参拝に行って、もういいだろうということで今回の関ヶ原行きとなった。 醒ヶ井や柏原の中山道は付録のよう...

    2008/09/10

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 柏原編の最終回は成菩提院を絡めた長い脱線話 ~滋賀岐阜歴史編8

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 柏原編の最終回は、中山道から少し離れた神社仏閣紹介を中心にお届けしたい。 線路のガード下をくぐると、遠くに新幹線が走っているのが見える。写真の中央左下に小さく写っているのが見えるだろうか。このあとすぐ、長い関ヶ原トンネルに入っていき、トンネルを抜けるあたりで東海道本線と東海道新幹線はクロスする。 柏原の北エリアに何があるかというと、成菩提院(じょうぼだい...

    2008/09/09

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 柏原第三弾は執着しすぎたお寺コレクション ~滋賀岐阜歴史編7

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 柏原編も今日で3回目となり、西の外れまでやって来た。そのまま真っ直ぐ行って山の方に入っていくと、北畠具行の墓がある。後醍醐天皇に仕え、鎌倉幕府倒幕に参加したのが発覚してこの地で斬首された人物だ。ちょっと山奥そうだったので省略。 少し手前を右手に入っていった先に、婆娑羅大名として知られる京極道誉(佐々木道誉)などを出した京極氏の菩提寺である清滝寺徳源院があ...

    2008/09/08

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 柏原はお灸のもぐさと亀屋と福助さんの宿場町 ~滋賀岐阜歴史編6

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 今日は柏原編の第二回。昨日の続きから再開しよう。 昨日は市場川と恵比寿神社までいった。川を渡った西側が柏原宿の後半であり、中心地であり、亀屋ゾーンとでもいうべきエリアだ。 ここらは伊吹山の麓ということで、もともと薬草の産地として知られていた。中でも「もぐさ」が特産物で、最盛期は伊吹もぐさの店が10軒以上もあったという。その代表的な店が亀屋艾店で、柏原宿とい...

    2008/09/06

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 中山道沿いの町並が残る柏原は観光地じゃない ~滋賀岐阜歴史編5

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 2ヶ所目の散策ポイント、柏原(かしわばら)に到着した。今日から柏原編を始めよう。 一般的にはあまり馴染みのない駅だと思う。これといった名所があるわけでもなく、観光地でもないから、この路線をよく利用している人でもこの駅は降りたことがないという人が多いんじゃないだろうか。私がここを訪ねたのは、旧中山道の町並が残っているからだった。今回の滋賀・岐阜歴史巡りは、...

    2008/09/06

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 醒ヶ井最終回は梅花藻とヤマトタケルの話など ~滋賀岐阜歴史編4回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 醒ヶ井といえば梅花藻(ばいかも)が有名で、この花を目当てに訪れる人も多い。名物といえば、この花と養殖場しかないと言ったら醒ヶ井に失礼だろうか。中山道といっても、それだけを目当てに訊ねていく人は少ないはずだ。 何はなくとも、梅花藻はある。ここにしか咲かない花と言っても言い過ぎではないほど珍しいものなので、わざわざそれだけを見に行く価値がある。まとまった数の...

    2008/09/05

    観光地(Tourist spot)

  • 3回目にしてようやく醒ヶ井紹介の本編に入る ~滋賀岐阜歴史編3回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 今日になってダメージはほぼ抜けて、日常生活に問題ないところまで回復した。ふくらはぎの筋肉痛は残っているものの、歩き方も普通に戻った。もうヨボヨボじゃない。 そんなわけで、3回目にしてようやく醒ヶ井の本編に入ることができる。写真を現像してみたら、やはり1回では収まらなかったので、前後編の2回に分けた。テーマ別にするほど偏りはないから、写真は撮った順番にした。...

    2008/09/04

    観光地(Tourist spot)

  • 無意識にやたら縦撮りしていた醒ヶ井の町風景 ~滋賀岐阜歴史編2回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 今日になってもダメージの回復は思わしくなく、写真の現像と勉強も間に合わなかった。立てばしんどく、座れば眠い、歩く姿はよぼよぼじじいといった風情で、日常生活にも支障を来すほどの一日だった。 そんなわけで、今日も本編をしっかり書くことができない。出発点となった醒ヶ井の写真を並べてお茶を濁そうかと考えながら写真を選んでいたら、やけに縦撮り写真が多いことに気づい...

    2008/09/03

    観光地(Tourist spot)

  • 季節が夏に戻った滋賀と岐阜を10時間歩いて懲りた ~滋賀岐阜歴史編1回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 今回の旅の始まりは、醒ヶ井(さめがい)だった。当初の予定では、東海道本線の米原(まいばら)までいって、ほぼ一駅ごとに降りて散策するというコースを考えていたのだけど、一日に6ヶ所、7ヶ所はさすがに無理だと分かり、前後を端折ることにした。なんとか大垣まで辿り着きたいというのがこのときの思いだった。 電車の旅は、回を重ねるごとに厳しさが増していっている。楽しい撮...

    2008/09/02

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

誰もが忘れた頃に再開した小田井の神社仏閣編の第二弾

神社仏閣(Shrines and temples)
小田井寺社2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 名古屋の街中に残された中小田井の古い町並みを紹介したのは、7月半ばのことだった。そのときの神社仏閣編第一弾で星神社について書いたのを覚えているだろうか。もう2ヶ月以上前のことだから、みんな忘れてしまっているかもしれない。
 今日はその続きで小田井の神社仏閣第二弾となる。あれから日光へ行ったり、赤目と奈良の寺巡りをしたり、岐阜の歴策散策などが間に入って、このネタを入れ込む隙間がないまま時が流れてしまった。神社仏閣ネタは旬のあるものではないし、賞味期限もないから在庫として取っておくには一番いいということもあって、今日まで延びのびになっていた。今日、明日と二回に分けて書いて、中小田井シリーズをきっちり完結したい。中途半端なまま放置していたこのネタについてはずっと気になっていた。冷蔵庫の中の食べ残しのチョコレートのように。
 このときのことについては私もだいぶ忘れてしまったので、記憶を探りさぐりになる。写真を見ても、それがどこの寺のものだったか、すぐには思い出せなかった。
 そんなこんなで、まずは長善寺から再開することしよう。

小田井寺社2-2

 かなり立派な本堂だ。境内もけっこうな広さを持っている。
 真宗大谷派(本山は京都の東本願寺)で、創建は1539年。顕了という僧によるものだという。
 もともとは比良村(現在の西区比良)にあった寺で、洪水で流されてしまったのでこの地に移ってきたらしい。そこは佐々成政(さっさなりまさ)の菩提所だったという。
 美濃国の九条城主・織田信盛(信長のいとこ)の菩提寺でもある。
 佐々成政という人も、なかなか気骨のある武人で、いつか機会があれば少し詳しく書いてみたいと思っている。今日はやめておく。
 信盛の後裔で江戸時代の有名な茶人・高田太郎庵の墓がある。太郎庵茶室は昭和44年に覚王山日泰寺に移築された。

小田井寺社2-3

 鬼の顔じゃなくてもこういうのは鬼瓦というんだろうか。専門用語で他の呼び名があるのかもしれない。
 屋根の上に乗っているときはさほどの大きさを感じないけど、地面で見るとかなり大きい。

小田井寺社2-4

 長善寺を囲う塀はお寺らしい雰囲気があっていい。そんなに古いものではなさそうだけど、下校中の学生服姿がよく似合った。
 ここと隣り合うようにして法源寺というお寺もある。住所は中小田井ではなく上小田井になる。どちらも駐車場があるけど、車で移動するより歩いた方が早い。

小田井寺社2-5

 法源寺は臨済宗の寺で、もともとは坂井戸にあって正福寺という名前だった。創建は1445年。誰によるものかは調べがつかなかった。
 現在地に移ったのは1554年で、そのときに法源寺と改称している。
 中興開基は織田信長の妹で津田又六郎信時の母である陽徴院だそうだ。
 小田井というのは織田家の居城だった清洲城に近いところなので、織田家関連の寺社が多い。

小田井寺社2-6

 三門などもけっこう古いもののようで、趣がある。
 最近はお寺にも慣れて、観光地でもない普通のお寺でも平気でずかずか入っていけるようになった。お寺の人に中で会っても、挨拶をすれば大丈夫。写真だってもちろん撮らせてもらう。
 けど、考えてみると寺というのは神社とは違って私邸に近いものがあるから、どこまで入っていっていいのかは微妙なところだ。寺側もそのあたりは曖昧なんじゃないか。参拝目的なら基本的には誰でも許容するということだろう。その点、神社は誰に遠慮することなく入っていけるから気が楽だ。

小田井寺社2-7

 入ってすぐ、相当大がかりな工事をしていてのけぞった。何してるんだ、これ。ものすごく地面を掘り返してる。ブルドーザーでガァーっとやってたから、発掘とかではなさそうだ。建物を建てるにしては掘り返しすぎのようにも見えた。何か大きな堂でも建てるのだろうか。

小田井寺社2-8

 これが本堂だったのかどうか、よく分からなかった。ここははっきり観光の寺じゃない。賽銭箱も置かれていない。通りすがりの人が寄っていくようなところには建ってないし、小田井散策の人がたまに訪れるくらいだろうか。

小田井寺社2-9

 少し場所を移動して、中小田井の東雲寺へとやって来た。堤防を上って下った東南には庄内緑地が広がっている。
 創建は1492年。開基は小田井城主だった織田丹波守平常寛(つねとお)。
 長興寺という寺が廃寺になったあとに東雲寺として新に創建したとされる。臨済宗妙心寺派で、名古屋の政秀寺の末寺に当たる。
 織田常寛というのは、清洲織田家の敏定の弟で、清洲三奉行の一人だった。信長よりも前の時代の武将だ。

小田井寺社2-10

 これが本堂だろうと思う。ここも賽銭箱はない。手だけ合わせておいた。
 明治24年(1891)の濃尾大震災で堂は倒壊して、明治29年(1896)に再建されたというから、これはそれ以来のものだろう。

小田井寺社2-11

 境内には織田常寛の墓があるそうだけど、どれがそうかは分からなかった。
 上の写真は、常寛の子孫が建立したという常寛の碑だったのか、違ったのか。何か書いてあったのだけど、忘れてしまった。寺社ネタに賞味期限はなくても、私の記憶力は早々に賞味期限切れを起こしてしまう。
 境内のどこかに平手政秀の首塚があるというのだけど、それも見あたらなかった。そういった説明書きもなかったので、手がかりなしに見つけるのは難しそうだ。住職がいれば訊くのが手っ取り早い。
 平手政秀といえば、信長の幼少期からの教育係のじいで、最後は信長の奇行に手を焼いて自殺したとされているけど、そのあたりは定かではない。自害したのは確かだとしても、理由は必ずしも信長だったとは限らない。
 政秀の死後、信長は政秀寺を建立して菩提を弔った。

小田井寺社2-12

 堤防沿いに小さな祠が建っていた。どういういわれのものかは分からない。ちょっと荒れてる印象だったけど、こういうものを大事にするのはいいことだ。

小田井寺社2-13

 日没間際となって時間がなくなってきた。まだ回らないといけない寺社はある。
 地図上では、東雲寺を通って西側の岩倉街道とつながっている感じなのに、実際は行けないようだった。遅い時間で東雲寺の南門が閉まってしまったからかもしれない。地図では点線で道が表記されているから、つながっているにしても一般道ではなさそうだ。おかげで車を回してとめるところを探さないといけなくなって、だいぶ時間を失った。堤防沿いにとめられるところがあったものの、岩倉街道を入っていって、善光寺の駐車場にとめればいいだけだった。あれは失敗だった。
 東雲寺と善光寺は隣り合っているのに敷地はつながっていないようで、直接行き来することはできないようだ。
 小田井の神社仏閣第二弾はここまでとしよう。続きはまた明日。

ひねり不足の中洋融合サンデーはもう一歩足りない70点台

料理(Cooking)
中洋サンデー

PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他



 今日のサンデーは、先週ちらっと書いたように、キャラ弁料理を作ろうと思っていたのだけど、世のお母さんたちが作ったキャラ弁の完成図を見ているだけでイヤになってやめてしまった。すごい。すごいけど、どう考えても面倒くさすぎる。あれは、子供の喜ぶ顔を見たいといった情熱がなければ作れないたぐいの料理だ。自分のためにキャラ弁を作る情熱を私は持ち合わせていなかった。そもそも、私がプリキュアとか、とっとこハム太郎の顔を作って喜んでるのは変だ。やっぱりやーめたとなるのは当然のことだった。
 気を取り直して普通の料理を作ることにした。しかしながら相変わらずのネタ不足というか、テーマ不足の感は否めない。新機軸も打ち出せないまま、季節は秋となった。今年の集大成料理はまだ見えてこない。
 今日の小さなテーマとして、中華と洋食の融合というものがあった。中華と和食、和食と洋食はそれぞれ明らかに違うけど、中華と洋食は重なる部分もある。調理法は同じで味付けだけ違うということもある。今回はそのあたりを意識しながら作ってみた。

 左手前は鯛の何風というんだろう。
 まずはスープ作りから。オリーブオイルと白ワインをベースに、バター、中華の素、塩、コショウ、しょう油、牛乳を加えて加熱する。そこへゆがいて刻んだほうれん草を入れて、ペースト状のソースにする。
 鯛は塩、コショウ、白ワインを振ってしばらく置いたあと、ソースの入った鍋で軽く煮込む。
 ニンジンは小さくカットして、塩と中華の素で煮る。
 最後に粉バジルを振りかけて完成だ。
 これは洋風には違いないけど、中華の素を使っているから中華と言えなくもない。中華の素の代わりにコンソメの素を使ったとしても味はそんなに違わないのだろうけど。

 右側のやつも、中華でもあり洋食でもある料理だ。
 基本はエビと豆腐の麻婆豆腐のようなもので、でも肉は使っていない。チリソースとも違う。
 使っている食材と調味料は、エビ、絹ごし豆腐、トマト、トマトピューレ、長ネギ、白ワイン、塩、コショウ、コンソメの素、ごま油、ケチャップ、砂糖、しょう油、豆板醤。
 ガーっと炒めて、最後にとろけるチーズを入れた溶き卵を回し入れて、少し固まったところで出来上がりとなる。
 けっこう不思議な料理。中華っぽくもあり、洋食っぽくもあり、どちらでもない新感覚。今まで一度も食べたことがない料理だ。一般的な料理名も思い浮かばない。でも美味しかったから、一度作ってみてくださいとオススメしておこう。

 一番奥は、カボチャだ。これも料理名が浮かばない。
 カボチャというのは煮物にすると変に甘くて、口の中がもごもごするからあまり好きではない。前々からどうにかして自分好みの料理にできないだろうかと考えていた。ポイントは、甘くない味付けにすることだというのは分かっていた。
 これもソースから作る。オリーブオイル、白ワイン、マヨネーズ、しょう油、からし、塩、コショウ、カレー粉を加熱する。
 カボチャは薄くスライスして、ラップをかけてレンジで1分。ソースに浸して、軽く焼く。
 それを撮りだして、パン粉をまぶす。魚焼きグリルで軽く焦げ目がつくまで焼いて完成だ。
 味付けは甘ったるくなくてよかった。その点では成功だったのだけど、汁気がなくてパサパサになってしまったのは失敗だった。パン粉焼きにすることは間違っていなかったとしても、この上で別のソースも必要だった。ピリ辛系の汁っぽいソースをかけて食べればもっと美味しくなっていたと思う。
 カボチャ料理に関してはまだ課題が残った。

 食べる側としては75点、作り手としては70点というのが今日の自己採点だ。もうひとひねりあれば80点を超える可能性はあった。盛りつけの点数は相変わらず低迷している。彩りは、茶色くならなかったことで私としては上出来の部類だろう。カボチャのところでもっと華やかさが欲しかった。
 今年のサンデー料理も、残すところ10回ほどとなった。そう考えると、当たり前に作ってるだけではもったいないような気もしてくる。キャラ弁以外で何か新しい試みを見つけたい。見た目が繊細な和食というのもやってみたいと思いつつ、なかなかイメージが浮かばない。
 作り続けていれば、あるとき何かのきっかけで開眼して、ぐぐっと上達するだろうか。趣味の料理ということを忘れずに楽しく作ればそれでいいだなんて言わず、やるからにはもっと上手くなりたいと思っている。

早稲田から西早稲田まで歩いて早稲田を少しだけ語る

東京(Tokyo)
早稲田界隈-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 朝5時、東京駅八重洲口。さすがにこの時間だと人も車も少ない。しかし東京、すでに街は眠りから覚めて活動を始めている。5時前から電車も動いている。
 早朝の東京というのは、散歩をするにいい。名古屋あたりで朝の5時に犬も連れずに歩いていると不審者と思われないかとちょっと心配になったりするものだけど、東京ならその点は安心だ。何時でも人は歩いているし、朝の5時から開いてる店もある。それにこっちは観光客という気楽さがある。街で写真を撮っていても人目が気にならない。
 今日は昨日の続きというのか、順序が逆になったけど、東京から早稲田界隈にかけての紹介をしたい。穴八幡宮がメインではあったものの、早稲田を歩くこともちょっと楽しみだった。
 早稲田へ行くにはとりあえず地下鉄東西線に乗らなくてはいけないということで、東京駅の北にある大手町駅まで歩いていった。これが案外遠い。一駅分くらいはある。八重洲口から外を通って大回りしたのでよけいに遠かった。永代通りの入り口は、朝早くてまだ開いてなかったのだ。この日は日光行きだったから、朝っぱらからあまり歩きたくなかったのに。

早稲田界隈-2

 これは呉服橋交差点だったか。
 東京駅は江戸城の門前ということで、当然ではあるけど江戸にまつわる地名がたくさん残っている。丸の内、大手町、半蔵門、桜田門などは江戸城に関係する言葉だし、千代田区というのも将軍の幼名が竹千代だったところから来ている。八重洲口は家康の外交顧問だったヤン=ヨーステンの屋敷がなまったものだし、有楽町は織田信長の弟の茶人・有楽斎の屋敷があったところということで名づけられた地名だ。
 江戸時代の地図と現代の東京の地図を重ね合わせて比べることができる地図が売っている。あれを買って東京の街を歩いてみるのも楽しそうだ。

早稲田界隈-3

 あ、日本ビルヂングだ。名古屋駅前にも有名な大名古屋ビルヂングというのがある。昔はビルヂングの方が正式な表記だったはずだから、当時の人たちにとってみれば何の違和感もなかったのだろう。今はヂという表記はほとんどしないから、なんとなくおかしい。
 エジソンだって、昔はエヂソンだったかも。

早稲田界隈-4

 東西線の大手町駅に到着。すでにちょっと疲れた。いつもならまだ寝てないような時間にフラフラと歩いていたら、そりゃあ疲れるというものだ。
 しかし、すでにホームには先客がぱらぱらいて、電車もそれなりに人が乗っている。恐るべし、東京。みんな退屈そうな顔をしてるのだけど、日曜日の朝5時に地下鉄に乗ってみんなどこへ行こうというのだろう。東京というところは、みんな忙しそうでありながら、実は暇そうな人もたくさんいる。間違いなく東京は暇人が一番多い街だ。

早稲田界隈-5

 今回楽しみにしていた早稲田大学の戸山キャンパスは入ることができなかった。朝早すぎて、まだ門が開いてなかった。戸山キャンパスは一般人も出入り自由で、中を散策できると聞いていたのだけど、考えてみると夜中まで開放するのは物騒すぎる。寝泊まりするにはこんないいところはない。
 またいつか出直して、キャンパス散策をしよう。

早稲田界隈-6

 箱根山通りというのは、この先を行った戸山公園の中に箱根山というのがあることに由来している。
 鎌倉時代、このあたりは和田村と外山村の境で、和田外山と呼ばれていたそうだ。江戸時代になって尾張徳川藩の下屋敷が建てられ、2代藩主徳川光友が趣味でミニチュア版の箱根山を作った。広大な日本庭園を東海道五十三次に見立てて、箱根山だけでなく小田原宿なども作って、東海道ごっこをして遊んでいた。いや、本人は大まじめだったかもしれないけど。
 光友という人はなかなか立派な殿様で、地元尾張にもたくさんの功績を残している。江戸で東海道遊びをしていたというのはちょっとイメージにギャップがある。そういう趣味人という印象はあまりない。
 戸山荘と呼ばれた回遊式築山泉水庭園は、11代将軍家斉も訪問するなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園だったと言われている。火事や災害で荒れ果てて、江戸時代中期以降は復興されなかったようだ。尾張藩もお金がなくなって、そんな余裕もなかった。
 明治になって戸山山荘は明治政府に明け渡され、陸軍戸山学校が建てられた。戦後はそれらの軍事施設は撤廃され、跡地に戸山ハイツが建設され、一部は公園として整備されて、現在に至っている。
 戸山公園にある箱根山は、山手線の内側で一番標高が高い場所として知られている。標高44.6メートル。23区内の最高地点は、練馬区にある石神井高校の標高54メートルだそうだ。

 ついでに地名のことを書いてしまうと、このあたりの高田馬場というのは、江戸時代に馬術や弓の練習場としての馬場があったところから来ている。
 高田は、越後小将松平中輝の母が高田君という名前で、その庭園として開かれたことで地名となった。
 高田馬場は今の西早稲田三丁目あたりで、説明板などが立っているようだ。広重の「名所江戸百景」にも描かれた。そのあたりにはかつて茶屋や植木屋が多かったという。
 高田馬場といえば、講談の「堀部安兵衛の仇討ち」の場所として思い出す人もいるだろう。
 ついでに便乗してしまうと、早稲田駅を出てすぐ左に折れた道は夏目坂という名前がついている。これは夏目漱石の父親である直克が名付け親という話だ。漱石ははこの地で生まれて、この地で死んでいる。
 生誕地には石碑が建っているし、死ぬときに住んでいた家の跡地は漱石公園になっている。
 小説家になって、『吾輩は猫である』などを書いていたときに住んでいた文京区の家は、犬山の明治村に移築展示されている。以前にこのブログでも紹介した。
 今回は時間がなくて漱石関連のところは回れなかったのだけど、去年雑司ヶ谷へお墓参りには行った。

早稲田界隈-7

 通り沿いは、学生街といった雰囲気が出ている。下宿の建物と自転車やバイク。名古屋の学生街は駐車場もつきものだけど、東京ではなかなかそうはいかない。

早稲田界隈-8

 長く続く赤レンガの塀は、学習院女子大学の建物だ。
 学習院大学は、目白駅の横にあって、よく見ている。学習院と学習院女子大との関係はよく知らない。こちらの方が皇室関係の人たちが通う女子大というイメージが強いかもしれない。
 1847年に仁孝天皇が作った学習所の女子教科が起源だそうで、一時は宮内省管轄下の官立学校だった時期もあるようだ。
 最近になって短期大学が廃止されて、大学院の一部の学科では男女共学になったらしい。

早稲田界隈-9

 学習院女子大の門は早くも開いていた。ただし、守衛さんが目を光らせていて、観光客がフラッと入っていけるような感じはない。
 写真を一枚撮ってすぐに立ち去った。あまり長居してると呼び止められそうだ。

早稲田界隈-15

 学習院女子大学の正門は、西の明治通り沿いにある。ここには旧学習院の正門が移されている。
 明治10年(1877年)に千代田区神田錦町に建てられたもので、明治19年の火事で校舎が燃えて、昭和3年(1928年)に目白の本院に戻ったあと、昭和24年(1949年)に現在地に移築された。国の重要文化財に指定されている。
 写真で見たらもっと渋い感じだったのに、最近塗り直したようだ。えらく派手な門になっていた。

早稲田界隈-10

 東京メトロ副都心線の西早稲田駅に到着した。歩道に面してエレベーターが設置されている。これはちょっと新鮮だった。階段はこの奥にあったのだろうか。見あたらなかったので、エレベーターを使うことにした。副都心線はけっこう深いところを走っているから、エスカレーターや階段で降りると時間がかかりそうだ。

早稲田界隈-11

 エレベーターで降りて、更にエスカレーターで降りると、ようやくホームに着く。
 雑司ヶ谷駅と西早稲田駅の区間は、神田川と東西線の下を通るため、副都心線でもっとも深い位置となっているのだそうだ。
 6月14日開業で、行ったのは7月20日だったから、まだできたてのピカピカだった。ちょっと嬉しい。
 副都心線は東京13号線で、これをもって東京の地下鉄建設は終了ということになっている。遠い将来にまた新しい線が作られることはあるのだろうけど、今のところ14号線以降の構想はないとのことだ。だから、できたばかりの地下鉄に乗るというのは、なかなか貴重な体験だった。
 2012年には渋谷駅から東急東横線との相互乗り入れが始まる。そうなると、横浜方面へのアクセスがもっと便利になる。
 もう一方の始発駅である埼玉県和光市には何があるんだろう。

早稲田界隈-12

 ホームはかなり狭い。壁が曲線でドーム状に近い形になっていることもあってか、圧迫感がある。混雑時はかなり狭苦しそうだ。
 線路に入れないようにするこのドアシステムは近代的でいい。事故防止のためにも、これは他でも採用していいと思う。
 ホームのデザイン全般は、21世紀という感じがした。名古屋の東山線とは大違い。

早稲田界隈-13

 ベンチちっちゃ!
 ホームが狭いということもあって、ものすごくコンパクトにまとめてきた。これでは座るというより浅く腰掛けることができるだけだ。数も少ないし、争奪戦となると厳しい。

早稲田界隈-14

 副都心線のシンボルカラーは茶色だから、茶色の車両が見られるかと期待していたら、青いのが来た。これは西武が乗り入れている6000系というやつのようだ。新しい東京メトロ10000系というのを見たかった。
 次の電車を待つほどの余裕はなかったので、これに乗って池袋まで行った。この先は日光編へとつながり、その話はもう書き終わった。私の早稲田散策紹介も、ここで終わりとなる。
 今回は水稲荷神社にも行けなかったし、戸山キャンパスも入ることができなかった。戸山公園も行ってないし、箱根山も登っていない。漱石ゆかりの地散策や、他にもやり残したことがある。早稲田はまた行こう。

早朝5時半のまだ半分眠っている穴八幡宮にて

神社仏閣(Shrines and temples)
穴八幡-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 朝5時半。早稲田通り。夏のことで、もうとっくに夜は明けて空は明るくなっている。それでも、早稲田界隈はまだほとんど眠ったままだ。歩く人の姿も、通りすぎる車もまばらで、東京全域が眠らない街などではないことを知る。
 7月20日、日光へ行った日の朝、時間が少しあったので、早稲田界隈を歩いてみた。どうして早稲田だったのかというと、特に深い意味はない。日光1号の出発が池袋で、東京駅から池袋へ行く途中にどこかよさげな散策地はないかと地図で探していて、たまたまここが目に着いただけだ。地下鉄東西線の早稲田駅で降りて、新しくできた副都心線に乗るために西早稲田駅まで歩こうというのが趣旨だった。
 散策編はまた次回紹介することにして、今日はまず穴八幡宮について書きたいと思う。神社仏閣好きの人間にとっては、早稲田といえば穴八幡とすぐに思い浮かぶんじゃないだろうか。早稲田の合格祈願に穴八幡宮へお参りに行って、受かった人も落ちた人もいるだろう。落ちたとしても穴八幡を恨んではいけない。元々ここは戦とか弓矢の神様で、学問関係は苦手なはずだから。かつては受験戦争なんて言葉がさかんに使われた時代もあったけど、だとしても勝負は時の運、負けても恨みっこなしが武士の本分だ。いや、今どき武士は受験しないか。
 それはともかくとして、まずは穴八幡へ行ってみないことには始まらない。土地勘がまったくないところだから、地下鉄の駅から地上に出たとき、文字通り右も左も分からない状態だったのだけど、なんとなく左の方に行ったら正解だった。運がよかった。朝5時半では道を歩いている人を見つけるのも難しい。

穴八幡-2

 神社左手は、なにやら大がかりな工事中だった。神社の境内は早稲田を見下ろす高台に鎮座している。
 かつてこのあたりはうっそうと木が生い茂る小山だったそうだけど、今や完全に街となって当時の面影はない。東京大空襲で丸焼けになったというから、境内の木々も戦後のものだろう。ただ、場所だけは創建当時からまったく動かされていない。このあたりは早稲田大学のキャンパスが建てられたとき、神社仏閣の多くが移動させられたようだけど、穴八幡は動かさなかった。場所がよかったというよりも、何らかの配慮が働いたのかもしれない。
 社伝によると、平安時代後期の1062年、奥州安倍一族の反乱を鎮圧した源義家が、凱旋途中にこの地に立ち寄ったとき兜と太刀を奉納し、氏神八幡宮を勧請して東北鎮守として祀ったのが始まりとされている。
 江戸時代の1636年、幕府の御持弓頭・松平直次がここに的場を作って、京都の岩清水八幡を勧請したのが始まりという説もある。その当時は、地名をとって高田八幡宮と呼ばれていたという。
 5年後の1641年、高野山で修行を積んだ威盛院良昌という僧が招かれ、八幡宮を管理する別当寺として放生寺が建てられることになった。その場所を作るために南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の阿弥陀如来像が出てきたのだという。これを八幡神の本地仏として、境内に放生寺は建てられた。以来、高田八幡宮は穴八幡宮と改称されることになったのだった。
 この穴は今でも放生寺に残っていて、江戸城まで続く秘密の抜け穴になっているという伝説がある。
 幕府の右筆・大橋隆慶が土地を寄進したり、大名や旗本の寄進もあって、穴八幡宮は立派な神社となっていった。1649年には本殿や堂などが完成して、三代将軍家光はここを江戸城北の鎮護として将軍家の祈願所とした。四代将軍徳川家綱も参詣して、能舞台を作らせている。その後1703年には江戸権現造りの社殿も建てられた。
 しかし、1854年の青山火事のとばっちりで社殿は焼け、長らくそのままだったのをようやく再建したのは昭和の初めのことだった。それも空襲で燃えて、現在のものはすべて戦後に建てられたものだ。
 かつての牛込の総鎮守でもあった。

穴八幡-3

 鳥居をくぐり、階段を登り切ったところで出迎えてくれるのが随神門だ。なかなか立派。
 なんだか妙に新しいと思ったら、1998年8月に再建されたばかりだそうだ。戦後のものは古くなったということか。

穴八幡-4

 新しいもののわりには本物感が漂う。安っぽくない。かなりお金をかけて建てているようだ。ただ、最近建てられたものは作りがきれいすぎて、昔ながらの手作り感の味みたいなものは感じられない。採寸や材料がきっちりしていて、規格品みたいだ。
 江戸権現造りの門や本殿はきっと素晴らしいものだったのだろう。日光東照宮のコンパクト版みたいな感じだったんじゃないだろうか。
 東照大権現を祀る末社も境内にはあるらしい(見つけられず)。

穴八幡-5

 門の中には随神が控えている。右大臣、左大臣か。
 この像などは、完全に最近のものだ。今どきのひな人形を見るようだ。現代的すぎる。
 門の裏は狛犬でも獅子でもなく、馬だった。ここは弓矢や流鏑馬の神社だし、高田馬場という地名が示すとおり、馬場があったところで、馬との縁が深い。

穴八幡-6

 門の向こうは静かな境内が広がる。スカスカでも、ピリピリでもなく、心地よい静けさだ。街中にあっても、ここだけは少し空気が違う。建物は新しくても、土地がつなぎとめている歴史の空気感というのは確かにある。

穴八幡-7

 さすが都会の神社と感心したのがこれ。センサー式で、人が近づくと水が出てくる手水舎だ。こんなの初めて見た。離れると水は止まる。公衆トイレで慣れているシステムとはいえ、神社でこれを採用しているところは少ない。考えたらとても経済的だ。
 赤坂日枝神社のエスカレーターといい、東京には東京らしい神社があって面白い。

穴八幡-8

 布袋さんの水鉢。神社なのになんで布袋さんと思うけど、ここは明治の神仏分離までは神仏習合の神宮寺だったことを思えば不思議ではない。
 この水鉢は、もともと江戸城の吹上御苑にあったもので、家光が穴八幡宮に奉納したものだそうだ。1649年に作られたもので、これは空襲でも焼け残った。
 新宿区指定有形文化財に指定されている。

穴八幡-9

 門も随身も、本殿も狛犬も、すべてが現代的というか近代的だ。昔のものを模倣するのではなく、あえて現代的な感覚で作り直そうというコンセプトを感じる。どうせ古いものを真似ても同じものはできないのなら、いっそのこと今の感覚で神社を造り直してしまおうということになったのだろう。こういう潔さもありかもしれない。

穴八幡-10

 祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、神功天皇(じんぐうこうごう)ということになっている。比売神ではなく仲哀天皇なのか。
 八幡宮の総本社は宇佐八幡で、どうして八幡神が応神天皇ということになったのかについては、別の機会にもう少し勉強して書きたいと思う。宇佐八幡も一度は行かないといけない神社ではある。
 どういう経緯からか、家光の時代あたりから虫封じに御利益のある神社ということで知られるようになった。虫封じというのは、子供の夜泣き、ひきつけ、かんの虫をおさめたり、その他いろんな虫を封じ込めるといったようなもののようだ。
 明治12年(1879年)には、皇太子(のちの大正天皇)の虫封じ祈願も行われたというし、夏目漱石の奥さんは夫のかんの虫を封じるための護符をもらいに穴八幡へ何度も行っている。漱石は早稲田の生まれで、近くにも住んでいた。
 有名なのはなんといっても流鏑馬(やぶさめ)だろう。
 1782年、八代将軍吉宗が子供の疱瘡平癒祈願に流鏑馬を奉納したことから幕府の恒例行事となった。世継ぎが誕生したり、厄除け祈願として、穴八幡の境内でたびたび流鏑馬が行われたという。1738年の竹千代(のちの十代将軍家治)誕生祝いのときの様子が「流鏑馬絵巻」に描かれたりもした。
 明治になっていったん姿を消したものの、流鏑馬の伝統を守ろうということで昭和39年に復活。しばらく水稲荷神社境内で行われたのち、昭和54年からは戸山公園に場所を移し、今でも続いている。毎年体育の日に行われているというから、今年は10月13日ということになるのだろう。
 同じ日に隣の放生寺では放生会(ほうじょうえ)という行事がある。放生というのは、捕らえられた生き物を逃がしてやる法事で、古くから日本各地の八幡神社で行われてきたものだ。放生寺では魚を放流するそうだ。当日は秘仏開帳もあるらしい。
 穴八幡宮は、商売繁盛や金融に御利益がある神社としても知られている。それは、冬至から節分までの限定で出される「一陽来復御守」があるためだ。江戸時代に信徒に授与されていたのが始まりで、今では金銀融通、商売繁盛の御守として買い求めにやって来る人がたくさんいるそうだ。
 一陽来復(いちようらいふく)というのは、冬が去って春が来るように、悪いことが極まって良い方向に転じるといった意味だ。
 馬に関係が深いことから、馬券の神様としても信奉されているとか。

穴八幡-11

 境内に立ち並ぶ倉庫らしき建物。何を入れているんだろう。
 消防関係の何かかもしれない。そんなようなことが書いてあったような気もする。気のせいかもしれない。

穴八幡-12

 神武天皇遙拝所と彫られた石碑が建っている。
 日本の初代天皇(大王)とされる神武天皇が唐突に出てきた。この場所にそういう言い伝えがあるのだろうか。東征のときここに立ち寄ったということか。詳しいことは調べがつかなかった。
 この一角だけは古めかしい。狛犬が黒くなっているのは、単なる汚れではなく、空襲のとき焼けたからかもしれない。
 ここの向こう側が放生寺だ。かつては八幡宮と一体になっていたものが、明治以降は分離して直接行くことはできない。このときは朝っぱらすぎて門は開いてなかったと思う。

穴八幡-13

 なんだかんだで30分ほど境内をうろつきながら写真を撮って、そろそろ帰ろうかというとき、参拝を終えたおばさまに声をかけられた。今何時ですか? と。もうすぐ6時ですと答えると、じゃあ、もう開きますよと教えてくれた。あ、そうなんですか、どうもありがとうございますと答えたものの、何が開くのか分からず戸惑っていると、本殿の扉が開いてきた。なるほど、開くのはここだったか。
 せっかくだから中まで入って、もう一度拝み直しておいた。これですっきりして穴八幡宮をあとにすることができた。私個人としては、穴八幡宮の御利益とはあまり関係がないのだけど、でも行けてよかった。どこで虫除けとかが役に立つか分からない。ハチに刺されませんようにというのも、ある意味では虫除けかもしれない。

 戦後の昭和22年、朝鮮半島から引き揚げてきた五木寛之は福岡の高校を卒業後、早稲田大学へ通うために上京してきた。昭和27年のことだ。
 下宿を借りる金がなかった五木寛之は、寝場所を探して早稲田界隈をうろつき回り、とうとう行き場を失って穴八幡宮へたどり着いた。そして見つけたのがここの床下だった。そこで数ヶ月の間、野宿をして過ごしたという。一番つらかったのは、神社裏にやって来るカップルたちの怪しい声を聞くことだったとのちに語っている。
 今はもう、コンクリートで固められて床下へ潜り込むスペースはない。

 久しぶりの神社仏閣ネタは、ホームグラウンドに帰ったような安心感がある。写真中心で文章が少ない回は、なんだか怠けているようで落ち着かない。寺社や歴史ネタを長々と書いている方が楽しくもある。読まされる方の思いは違うのだろうけど。
 今回の東京神社ネタは単発で、明日は早稲田界隈編となる。そのあと、地元名古屋の神社仏閣ネタに戻って、それが終わればいよいよネタ切れで、散策に出ないといけなくなる。来週早々に行こうとは思っている。

また行くから花鳥園の鳥たちみんな元気でいてね <花鳥園6回>

動物園(Zoo)
花鳥園最終回-1

Canon EOS 20D+Canon EF 135mm f2.8 SF / EF 75-300mm F4-5.6 IS



 今日は花鳥園シリーズ最終回。残った写真を集めて並べて振り返って終わりにする。
 ソフトフォーカスレンズ効果が最大限に表れた今回の象徴的な一枚からいってみよう。光、水、背景が上手く配合されると、幻想的な写真になる。どんなふうに撮れるか撮ってみないと分からないというのがこのレンズの面白さと言えるかもしれない。もう少し使い込んでいくと、クセが掴めてくるだろうか。135mmだから、メインで使うレンズではないけど、できるだけ持ち歩いていろんなシーンで使ってみたいと思わせる。
 50mmでソフトフォーカスとノーマルを切り替えられるレンズを作ってくれないだろうか。マクロと3段階に切り替えられると、最高に面白いレンズになる。構造的に無理があるのだろうけど。

花鳥園最終回-2

 心優しき怪鳥のエミューさん。コワモテで損をしている。本当はとても優しい鳥なのに。人なつこくて、ダチョウのような攻撃性はない。手からエサをあげても、全然痛くない。もっと人気者になってもいいのに、花鳥園の中では今ひとつ人気が出ない。
 今回も牧場の中に入ってエミューに取り囲まれてウハウハ体験をツレと楽しんだ。ちょっとしたスター気分。でもエサを持っているときだけで、エサの切れ目が縁の切れ目とばかりに、エサを失ったとたんにそそくさと去っていくエミューたち。落ち目のスターの悲哀を味わえる。

花鳥園最終回-3

 コブハクチョウ一家の後ろ姿。まだ親子水入らずで、つかず離れずの関係を保っている。ヒナたちはだいぶ大きくなって、親の体型に近づいた。体色は茶色が強く残っている。
 みにくいアヒルの子とはまさにその通りで、ヒナのときはハクチョウよりもアヒルの方がかわいい。アヒルは黄色くてキュートなのに対して、ハクチョウのヒナは薄汚れたような灰茶色をしている。でも、大人になれば、やっぱりハクチョウの方がきれいなのだ。
 ヒナもここまで育てばまずは安心だろう。

花鳥園最終回-4

 逆光のときに撮ったベンガルワシミミズクはきれいだった。
 カラフルなインコもきれいだけど、猛禽は特有の美しさがある。森林の野生動物のような輝きが。

花鳥園最終回-5

 見事な低空飛行。野生で獲物をとらえるときはこんな感じなんだろう。

花鳥園最終回-6

 新たな目玉となれるか、インコの飛行ショー。これはタカやフクロウよりも難しいことのようで、試みとしてやっているのは花鳥園だけなんじゃないだろうか。特に屋外というのは珍しいはずだ。
 掛川花鳥園はこの9月で5周年を迎えて、順調に入園者数も伸びているとのことだ。いろんな試みもされていて、今後にも期待が持てる。ポポちゃんを超えるスターの登場があるだろうか。

花鳥園最終回-7

 かなりの至近距離で撮ったハクトウワシ。どんな状況だったのか、覚えていない。前の人の帽子がちょっと残念だった。
 これくらい大きくなると、自分も襲われそうだ。足で頭を持たれたら、そのままつり上げられて持っていかれそう。

花鳥園最終回-8

 翼がまたすごく美しい。そういえば、昔こんな羽ペンを誰かにもらって持っていたのを思い出した。製図用具か何かではなかったか。

花鳥園最終回-9

 これは何という名前だったか、忘れてしまった。
 流し撮りに成功したのかしてないのか、ソフトレンズではぼやんとしてよく分からない。
 温室の中で、もう少し流し撮りの練習をすればよかった。次はやろう。

花鳥園最終回-10

 あれ? 産んだ?
 ふと見たら、卵が転がっていて、その上にクジャクっぽいやつがいた。クジャクじゃないのか?
 産んだ瞬間は見ていないから、こいつが本当に産んだのかどうかは分からない。これは自分のものだぞと主張しているようにも見えるけど、こんななんでもないところに唐突に産み落とすものだろうか。ニワトリでもあるまいに。それに、温めようともしてなかった。
 スタッフの人に、あそこに卵が落ちてましたよと知らせるべきだったのか。

花鳥園最終回-11

 写真撮影のときに飛び立とうとして、ぜいぜいハァハァいっているケンちゃん。暑かったのか、疲れてしまったのか、ずいぶん長い間はフーハーフーハーしていた。大丈夫だったのかな。
 奥目のケンちゃんは、よく見るとけっこう色っぽい。

花鳥園最終回-12

 ポポちゃんのやさぐれぶりが心配だ。もう子供時代の無邪気な目をしたポポちゃんが戻ってくることはないのか?

花鳥園最終回-13

 フクロウ展示コーナーは、エアコンが効いているのか、シロフクロウも涼しい顔をしていた。
 それにしても白い。スノーホワイトとでもいうべき白で、雪の中にいたら見分けがつかないだろう。

花鳥園最終回-14

 これは何フクロウだったか、何とかワシミミズクだったか。今回も面倒でメモ撮りをしてこなかった。フクロウは今回のテーマではなかったから、ざっと通り一遍に撮っただけだった。

花鳥園最終回-15

 スイレンプールを西日が染めて、そろそろ5時の閉園時間が近づいた。今回もまた開園から閉園まで粘った我々であった。長々とお邪魔しました。また来ますと言い置いて、花鳥園をあとにした。
 もしかしたら12月にもう一度行くチャンスがあるかもしれない。なければ、次は来年だろう。
 今回はソフトフォーカスレンズ一本勝負ということで、いろいろと収穫があった。毎回違うアプローチをしていることで飽きずに楽しむことができる。花鳥園もあの手この手を繰り出してくるから、それに釣られてつい行ってしまう。まさに思う壺。
 そんなこんなで、今回の花鳥園シリーズはここまでとしよう。花鳥園ファンの皆様、またいつかお会いしましょう。花鳥園の鳥たち、次に行くまでみんな元気で。

2歳児のハートを持つヨウムとの50年寿命勝負 <花鳥園5回>

動物園(Zoo)
ヨウムのドリー




 掛川花鳥園シリーズ第5回は、ヨウムを中心としたインコ編をお届けします。
 一枚目の写真はヨウムなのだけど、今回は温室にアンソニーだけでなくドリー(たぶん)も同じところにいて、最初はどっちがどっちか分からなかった。この写真もアンソニーのつもりで撮っていて、あとから考えるとドリーだったようにも思えてきた。ドリーは以前、受付にいたのだけど。
 横顔は頬かむりをした忍者のようだ。背景を月夜にしたら、もっとそれっぽく見えるだろう。
 ヨウムの見分けが思った以上に難しいことを今回知った。それぞれ微妙に違っていて、アンソニーはとぼけた目をしてるから見れば分かると思っていたけど、ドリーも同じようにおとぼけ顔をしていてよく似ている。足輪を見れば分かると気づいたのは、帰ってきて写真を整理しているときだった。



アンソニー

 これはたぶんドリーの方じゃないかと思うけど、確信はない。
 ヨウムは非常に賢い鳥で、人間でいうと5歳児の知能と2歳児の感情を持っていると言われている。鳥類最高の知能を持つという説もあるくらい賢い。単に賢いというだけではなく、妙に人間くさい一面を見せるのがヨウムの魅力で、自己主張が強く、反抗期まであるんだとか。この鳥に魅せられる人が多いのもよく分かる。4000年以上前の古代ギリシャ人もヨウムを飼っていたという話もある。
 平均寿命は50年ほどで、1歳くらいから人間の言葉を覚えてコミュニケーションを取れるようになるというから、ペットに向いている。下手すると寿命勝負でこちらが負けてしまう。小学校一年のとき1歳のヨウムを親に買ってもらったら自分が50歳を過ぎてもまだ生きているなんてこともあり得る。長生きする犬でもせいぜい20年だから、ヨウムの50年はいかにもすごい。どうして鳥なのにそんなに長生きなのだろう。大型のインコやオウムは長寿命のものが多い。

 体長は約30センチで体重は400g前後というから鳩と同じくらいのサイズだ。鳩より体重が少し重い。
 主な生息地はアフリカ西海岸の森林地帯で、単独または小さな群れで行動し、草の種や木の実なんかを食べているという。
 ペットショップで買う値段としては20万円前後だそうだ。ワシントン条約で商取引の輸入が禁止になったから、買うことができるのは国内で繁殖した個体のみとなった。今後値段が上がっていくのかもしれない。
 エサはインコ用のペレットが主食となるから困ることはなさそうだ。個体差はあるのだろうけど、アンソニーなんかはブドウが好物でもらったものを喜んで食べていた。
 あまり飛び回る鳥ではないとはいえ、賢さ故に脱走を試みたりするそうなので飼うときは注意が必要だ。室内飼いでは日照不足問題もあるとか。
 とてもかわいくて魅力的なヨウムではあるけれど、実際に飼うとなると大変そうだ。私など、今から飼ったら寿命勝負で完全に負ける。



アンソニーとドリー

 こうして並べてみると、やはりアンソニーの方がどこかおとぼけ顔だ。目がすわっているというか、目が点で、ユーモラスな感じがする。
 ヨウムはとにかくカジカジするのが好きで、ほとんど一日中何かをかじっている。賢いだけに毎日暇を持て余しているのかもしれない。人間が退屈しのぎにプチプチを延々とつぶすように、ヨウムは何かをひたすらかじり続ける。自分たちが乗っている木の台とかもかじって、フチはガリガリになっている。好きでやっているのか、ストレス発散でやっているのか、そのあたりの事情はよく分からない。



腕をかじるヨウム

 腕をかじるヨウムさん。そんなに痛くないらしい。でも、ずっと差し出していると、だんだん熱が入ってきて、痛くなると思う。噛まれどころによってはギャッとなりそう。



ヒマワリのタネを食べるアンソニー

 これはアンソニー。ヒマワリの種も好物らしい。器用にクチバシだけで外の殻をむいて、中身だけを食べる。



花鳥園のヨウム

 ここまで見てきて、さてこれはアンソニーかドリーかどちらでしょうと訊いたら、どちらと答えるだろうか。
 正解はどちらでもない、だ。
 ふれあいの小径という小さめの温室にも2羽のヨウムがいて、こちらでは放し飼いになっている。その2羽には名前がついていないようだ(私が知らないだけかも)。
 顔の周りの白い部分が違っているようでもあり、クチバシの色が薄めだったり、目の表情も違っていたりで、見慣れると一目で区別がつくようになるのだろう。性格もみんな違うはずだ。



オオバタン

 オオバタンのサンタくん。午後から30分だけ出てきて、ふれあいゾーンでふれ合うことができる。写真を撮ったり、頭を撫でたりできて、かわいいのだ。すごく甘えん坊屋さんでもある。
 サンタくんを飼っていたおばあさんが施設に入ることになって飼えなくなってしまって、花鳥園に引き取られることになったんだそうだ。



頭をなでられるオオバタン

 サンタくんは頭を撫でられるのが大好きで、自分から頭を差し出してくる。気に入らない撫で方をすると噛みつこうとするあたりは、猫みたいだ。
 肌触りは独特で、フワフワというより少し堅めで、花びらみたいな感じ。羽から出る粉がすごい。
 見た目も非常に美しくて、上品なピンク色のバラみたいだ。



エサを食べるインコ

 これは何インコだったっけ。コンゴウインコの一種だったか、違ったか。
 ふれ合い体験のエサは、こんな容器に入って売っていて、だいたい100円だ。普通はカップや手からエサをやるものだけど、賢いやつは容器ごと奪っていって、独り占めをする。写真のこいつのように。こうなると人はふれ合い体験抜きにインコに100円を持っていかれることになる。おい、こいつ、返しやがれと言っても、インコは高い木の上に飛んでいってしまって、手が届かない。
 それにしても、器用にカップを足で持つものだ。賢さに免じて許してやろう。
 賢いといえば花鳥園も賢い。入園料を1,050円と低く抑えて、園内のエサやりでお金を使ってもらおうというシステムにまんまとやられてしまう。コインをどんどんつぎ込んで、1,000円なんてあっという間に使ってしまう。気づくと実質2,500円とかになっている。最初からエサやり放題で2,500円の入園料を取るシステムなら、ちょっと高いと思うはずだ。



オカメインコ

 久々にオカメインコが復活していた。最初に行ったときは、ふれあいゾーンにたくさんいて、その後姿が見えなくなっていたと思ったら、バックヤードに移っていたらしい。何か事情があったのだろう。今度はふれあいの小径にいた。
 しばらく人間とふれ合っていなかったせいか、よそよそしい態度で、エサも食べに来なかった。ずいぶん誘ってみたのだけど。



コガネメキシコインコ

 コガネメキシコインコは、相変わらずギャーギャー騒いで、温室の端から端まで高速で飛び交っていた。ただでさえうるさかったのに、私たちが行ったあと、更に90羽も追加で放されたそうだ。今はものすごいことになってるんじゃないだろうか。集団飛翔シーンを撮るチャンスと考えると、また行ってみたくなる。花鳥園というところは、こうやっていろいろ小出しにしてきて、私たちを何度も誘うのだった。



飛び交うコガネメキシコインコ

 この日は集団飛翔シーンは撮れず、小さな飛翔シーンが撮れただけだった。やつらは待ってるとなかなか飛ばないし、ふっとよそみをしてると突然飛ぶから、なかなかタイミングが難しい。ちゃんと撮ろうとすれば、ある程度待ちの姿勢が必要となる。

 掛川花鳥園webサイト
 

自由だとしてもあまり憧れない水鳥たちの特集 <花鳥園4回>

動物園(Zoo)
花鳥園水辺-1

Canon EOS 20D+Canon EF 135mm f2.8 SF



 今日は花鳥園の水辺の鳥たちを紹介したいと思う。
 鳥といえば自由に大空を飛ぶ存在として人は憧れるものだけど、種類によってはほとんど飛ばずに水に浮いたり水辺を歩いていたりしてるやつらもいる。そういう鳥たちには人はあまり憧れない。水辺を歩くくらいなら自分たちにもできるし、一日の大半を水に浮いていて、エサをとるために潜るなんて生活はむしろ嫌だ。
 花鳥園で暮らす鳥たちは基本的にぬくぬくとした温室育ちなので、半ば野生を失っているやつも多い。特にカモさんたちのやる気のなさは特筆もので、暑いときはみんな日陰に入ってしゃがみ込んでいる。こう暑くちゃたまんねぇなとばかりに、ベンチの下とか、木道の手すりが作る影とかにずらりと並んで横たわったまま動こうとしない。動くのは、人がエサを持って近づいたときくらいだ。さすがにこのときばかりはムクッと起き出してきて、エサを拾いまくりのもらいまくりとなり、もっとよこせと催促をする。とても現金なやつらだ。気が向くと、水に入っていって、ぬーぼーと水に浮いている。そんなふうだから、タカの飛行ショーのときに襲われたりするのだ。こんなに危険の少ない環境というのは、自然界ではほとんどない。人がいるから、カラスも近づいてはこない。
 そうこうしてるともう9月の終わりで、そろそろ渡りのカモたちがやって来る季節になった。当然のことながら、花鳥園の池にも野生のカモたちが飛来する。ここなら楽にエサを食べられるからというんで、毎年楽しみにしてるやつもいそうだ。そこで混血したり、中には渡るのをやめて居着いてしまうカモもいるのかもしれない。

花鳥園水辺-2

 コブハクチョウも、こういう施設では定番だ。お城のお堀とかにいるハクチョウは、たいていコブハクチョウだ。場所によってはコクチョウがいるところもある。
 ハクチョウはどこかへ飛んでいってしまわないのだろうかといつも思う。長距離を飛べないように風切り羽を切ってあるのか、ここでの暮らしが気に入っていて、あえてよそへ行く必要を感じていないのか。
 この春生まれた4羽のヒナは、残念ながら3羽になってしまったものの、その後すくすく育っていた。体はかなり大きくなって、灰色の毛並みも少し白色に近づいたようだ。順調に育てば、花鳥園の池はハクチョウが多くなる。全部で8羽くらいになるだろうか。
 一度野生のハクチョウも見てみたい。安曇野に行ったときはチャンスだったのに、少し時期が遅かったようで結局見られなかった。

花鳥園水辺-3

 なんでそのポーズ? 一本足打法の王監督の引退記念か。フラミンゴ打法といっても、今どきの若い人は知るまい。最後の一本足打法の大豊も、今や中華料理屋のオヤジになって久しい。
 鳥の足はたいてい細くて、体とのバランスが悪そうに見えるけど、本人にしてみたらそんなことはないのだろう。ハクチョウだって一本足で立てるくらいだ。力が強いのか、関節が強靱なのか。歳を取ってもコンドロイチン不足でヒザの関節が痛いとかそういうことはないのだろう。

花鳥園水辺-4

 所変わって、こちらは室内のスイレンプール。珍しいところにレンカクさんが歩いていた。こんなところにいるのは初めて見た。けっこう警戒心が強い鳥で、ほとんど人間は近づかせてくれない。こいつらだけは頑なに人と触れ合おうとせず、人からエサをもらうこともない。プールの中にある何かを独自に見つけて食べているのだろう。
 ただ、別のプールに移されたレンカクは、比較的人と近い距離にいる。積極的にエサをもらいにくるようなことはないけれど。

花鳥園水辺-5

 レンカクの基本的な移動手段は、走りだ。浮き草の上を器用に素早く駆け抜けていく。想像上の忍者のように。レンカクができるのだから、その原理を応用すれば人間もいけるんじゃないか。いや、体重が違うからやっぱり無理か。ドクター中松が開発してくれるのを期待して待とう。

花鳥園水辺-6

 これは中チビ。親に追いかけられていた。
 プールに移されたのも親にいじめられるようになったからとのことで、これくらいの大きさになると我が子というより縄張りを侵す侵入者ということになるのかもしれない。スイレンプールは3つに分かれているから、棲み分けができればいいんだけど。
 レンカクはそうそう簡単に繁殖するものではないとのことだったのに、去年から今年にかけて次々に子供が生まれている。前に生まれたチビが大きくなりきらないうちにまた新しいチビがいた。

花鳥園水辺-7

 こちらが生まれて間もないチビだ。2羽だったか、3羽だったか。
 レンカクはまず足が最初に発達して、翼が生えそろうまでに時間がかかる。しばらく飛べない時期が続いて、このときに水に落ちてしまうと助からない。親が近くにいてもどうすることもできない。
 こいつらは元気に育つだろうか。

花鳥園水辺-8

 大温室のクロエリセイタカシギは相変わらずの賑わいで、やかましく鳴いていた。こんなにたくさんはいらないだろうと思う。これは園内で増えたものではなく、全部大人の状態でよそから来たやつだそうだ。加茂さん、大量仕入れをしてしまった。
 自然界でも群れでいるやつらだから、仲間が多いことに関しては不満はないのかもしれない。

花鳥園水辺-9

 クロトキ、ショウジョウトキ、シロトキなどの顔ぶれも変わっていないようだった。
 ニッポニアニッポンのトキは絶滅してしまったけど、花鳥園にはトキの仲間がたくさんいる。世界にはうじゃうじゃいるところもある。日本のトキも、まだ中国にはいるから、ずっと人工繁殖が試みられている。コウノトリの人工繁殖は成果を上げているけど、トキはどうなんだろう。中国産が野生に帰ることがあるのかどうか。

花鳥園水辺-10

 フラミンゴたちも元気そうにしていた。ふれあいの小径の方にいるやつは、たまに駆け回ったりしている。触れられそうなほど近くまで来るのに、触ろうとすると逃げる。微妙な距離感を保って、人間とのなれ合いを避けているようだ。

花鳥園水辺-11

 孤高のクラハシコウ。1羽しかいなくてちょっと寂しそうだけど、その存在感は抜群だ。自分の家とも呼ぶべき台の上で座っていることが多い。無口な牢名主のような風格を漂わせる。

花鳥園水辺-12

 クラハシコウも、エサの時間になるとそわそわし始めて、スタッフのあとをついて歩いたりする。
 12時と14時半だったか、一日2回、えさやりタイムがあって、魚をあげることができる。顔の前に投げてやると上手にクチバシでキャッチする。うっかりしてると、手に持った小魚を他の鳥にさらわれるので気をつけないといけない。と言いつつ、私は毎回誰かに取られてしまう。

花鳥園水辺-13

 野生界では渡り鳥のオシドリも、花鳥園では留鳥になっている。オシドリの夏羽を見たことがある人は少ないんじゃないだろうか。野生のオシドリは普通、夏に日本にはいない。なんだか、中途半端な装いで、ちょっとみすぼらしくもある。冬のきれいな姿を知ってると、落ちぶれたような印象さえ受ける。
 体型もスマートで、全体的にオシドリっぽくない。

 水辺の鳥といっても多種多様、いろんなやつがいて面白い。この他今回紹介できなかった鳥もまだ他にいる。生物多様性の大切さと保存ということが近年さかんに言われるようになってきた。動物園でもそれを知ることはできるけど、花鳥園なら間近で見たり触れ合ったりすることでより強く実感することができる。鳥だけでもこんなにもいろんなやつがいるんだとあらためて思う。一見無駄なようでいて、無駄じゃない部分がどこかにある。
 花鳥園シリーズはまだ続くのであった。

ソフトフォーカスレンズで撮る飛行ショーに収穫あり <花鳥園3回>

動物園(Zoo)
花鳥園飛び1-1

Canon EOS 20D+Canon EF 135mm f2.8 SF / EF 75-300mm F4-5.6 IS



 まだ続く花鳥園シリーズ、今日は飛行ショー特集でいってみたい。
 掛川花鳥園では一日3回、表の広場でタカやフクロウによる飛行ショーが行われる。以前からブログを読んでいただいている方にはすっかりお馴染みとなったと思うけど、これも花鳥園名物の一つとなっている。私が最初に花鳥園の存在を知って、絶対に行こうと決めたのは、このショーがあったからだった。間近でタカやフクロウの飛びもの写真を撮れるところは、おそらく日本中でも花鳥園くらいしかないんじゃないだろうか。自然界では当然、こんなに近づかせてはもらえない。
 3回とも鳥のメンバーが一部入れ替わるので、3回見ても飽きないのがいい。私たちのように、開園から閉園までずっといて、ショーも毎回全部見てるという人も珍しいと思うけど。
 行くたびに少しずつメンバーも違っている。今回はまだ暑いということで、シロフクロウはお休みだった。10月くらいになればまた復活することだろう。
 上の写真はベンガルワシミミズクのアスカだったか。前回の5月に行ったときも、すでに生後3ヶ月でショーにデビューしていたのはこいつだったかもしれない。あれから3ヶ月ちょっと経って、すっかり大人びていた。ショーも2回こなして、いまや飛行ショーのエースとなったのだった。

花鳥園飛び1-2

 ソフトフォーカスレンズを飛びものに使うなんてことは普通あり得ないのだけど、今回は試しに使ってみた。今日の写真も大部分はソフトフォーカスレンズで撮ったものだ。
 思ったよりも撮れる。オートフォーカスは速くはないけど、そんなに遅くもない。少なくとも前に使ったS2proやD100よりは速い。だいたい、連写するほどシャッターチャンスはないから、オートフォーカスのスピードは決定的な要素とも言えない。撮り始めと2枚目くらいがファインダーに収まるくらいで、それ以降はファインダーから消える。ファイダーで追いかけても、ピントが追いつかない。コンテニュアスAFにすると、背景にピントを持っていかれたりして余計に使い勝手が悪い。なので、飛行姿を撮れるかどうかは運次第。撮れなくても私のせいじゃないと居直るしかない。4回目にしてそう悟った。
 それよりも問題は135mm(216mm換算)という距離だ。これではちょっと届かない。300mmの単焦点だとかえって近すぎて使いづらかったりするから、200mmの明るいレンズがファルコンショーでは最適だと思う。300mmのズームでもいいんだけど。

花鳥園飛び1-3

 後ろ姿は毛がモコモコで暑苦しいというかゴージャスだ。冬場に見るとあったかそうと思うだろう。
 この羽の構造で、フクロウは羽ばたきの音を消している。飛行速度が遅くて逃げる獲物を捕らえることができないから、フクロウは夜に活動してエサを獲る。音もなく近づいて寝込みを襲うのだ。夜が好きで夜更かししてるわけではない。花鳥園では昼間活動して、夜寝ている。昼にご飯をもらえれば、夜起きている必要はない。昼間でも普通に目は見えているという。

花鳥園飛び1-4

 ショーのホストのような決めポーズ。外国のサーカスの司会みたいだ。
 台の上に乗っている赤いのが肉片で、フクロウやタカはこれを食べるためにあっちからこっち、またこっちからあっちと飛んでいる。かなり賢いから、ある程度は人間の言ってることも理解していて、自分の名前を呼ばれたら分かるのだろうけど。
 彼らのご飯は、このショーのときにもらえるものだけだそうだから、ショーは彼らにとって食事の時間なのだ。イルカでもアシカでも、ショーと名のつくものはたいていそういうものだ。

花鳥園飛び1-5

 ハリスホークは毎度お馴染みだ。イギリスからやって来た鷹匠ギャリーさんとのコンビで登場する。名前は忘れてしまった。毎回、メモしろよ自分と思うのに、行くと忘れてしまう。
 タカになると飛ぶスピードが速くなって、しっかりピントを合わせるのが難しくなる。この写真もソフト効果だけでなく、オートフォーカスがついていけていない。翼の方にピントが合ってると思う。でも、ここまで大写しできることはめったにないから、喜んだ。

花鳥園飛び1-6

 ハリスホークは集団で狩りをする唯一の鳥でーす、とギャリーさんは毎回言っている。花鳥園では単独で狩りの様子を見せる。箱から飛び出してきたウサギのぬいぐるみをかぶったラジコンカーを、がっしり捕らえる。ウサギの背中に肉が乗せられているから。
 本物のウサギを放したら大喜びで捕まえるのだろうけど、それをやったらショーは悲鳴に包まれてしまう。

花鳥園飛び1-7

 ショー会場のすぐ横には池があって、いつもカモたちが何食わぬ顔で泳いだり歩いたりしている。タカやフクロウたちも気にする様子がないし、カモたちものんきにしているからお互いに興味がないのかと思いきや、この日は突然ハリスホークがカモに飛びかかって、カモさん危機一髪。あわや大惨事になるところだった。ぎゃーという声も聞かれた。
 スタッフがすぐに駆けつけて引き離したから大事には至らなかったけど、カモにしては災難だった。もう少しで食われてしまうところだった。これでちょっとは懲りただろう。

花鳥園飛び1-8

 新たな目玉として、コンゴウインコの飛行ショーが少し前から始まった。インコのショーというのも珍しい。賢いやつらとはいえ、屋外のショーでどこか好きなところへ勝手に飛んでいってしまわないのか、ちょっと心配だ。
 人間の指示とはあまり関係なく、エサ台からエサ台へと忙しく飛び回っていた。本人たちにショーをやっているという自覚はなさそうだ。

花鳥園飛び1-9

 エミュー牧場をバックにコンゴウインコが飛んでいる姿というのも新鮮で斬新だ。
 動物園の理想型は、巨大なドームの中にそれぞれの動物が暮らす環境があって、そこに人間が入っていくというスタイルだと思う。サファリパークがそうなのだけど、あれだと規模が大きすぎる。鳥だけとはいえ、花鳥園というのは理想に近い形が実現されている。

花鳥園飛び1-10

 今のところショーを演じているインコは3羽。ベニコンゴウインコが2羽と、ルリコンゴウインコが1羽だ。
 どのコンゴウインコでもショーをできるというわけではなく、特別賢いやつが訓練を受けて初めて可能になるのだと思う。
 今後は室内でのショーに移行するかもしれないということで、表でのコンゴウインコ飛行ショーを見られたのは運が良かった。
 飛びもの撮影難易度としては、ワシミミズクより少し難しいくらいだろうか。スピードはさほどでもないものの、フクロウとは違って飛行コースが読みづらい。

花鳥園飛び1-11

 今回もハクトウワシが登場した。名前はタタナギという。ネイティブアメリカンの言葉で、風を意味するんだそうだ。
 これもギャリーさんじゃないと扱えない。かなり巨大で、体重も4キロを超えるというから、片腕に乗せるためにはそれなりに力もいる。グローブの上からでも爪で掴まれると痛いらしい。
 ハクトウワシは名前の通りに頭が白くなるまでには5年ほどかかる。これはまだ若手のメスだ。

花鳥園飛び1-12

 フクロウやタカとは飛び方が違う。巨大な翼で空気を掴まえて、バサッバサッと大きな羽音を立ててゆっくり飛ぶ。この体重を宙に浮かせるのだから、翼には相当な力があるのだろう。よくこんな低空で飛べるものだと感心する。

花鳥園飛び1-13

 わー、大接近。ちょっとひるみながらも、いいタイミングで撮ることができた。これは300mmの望遠の方で、しっかりピントも合って、解像もしている。飛びものは普通の望遠レンズで撮れってことが、この写真からも分かる。

 飛行ショー4回目ともなると、だいぶコツが掴めてきた。鳥たちが飛ぶコースも予測できる。ただ、デジやレンズの限界もあるし、自分の技術の問題もあって、撮れないものはどうやっても撮れない。撮れる部分で、なんとか偶然や幸運に頼るしかないと思い知る。それでも充分楽しめる。
 次回は(また行く気か)、飛行ショーに合わせてついに禁断のLレンズを導入か、と思っている。200mmの中古ならLレンズの中で一番安いから、買って買えなくもない。とりあえず花鳥園用に買って、帰ってきたらすぐに売るという手もある。12月に行けるかどうか。
 飛びもの編は、まだ写真が残っているから、もう一回続けたい。その他の写真を考えると、残り3回くらいだろうか。もう少しおつき合いください。

お彼岸精進サンデー構想がマグロによって崩れて黄土色

料理(Cooking)
非お彼岸料理

PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他



 今日のサンデーは、秋のお彼岸に合わせて彼岸サンデーとしようと思っていた。しかし、早く食べてしまわなければいけないマグロがあって、彼岸料理構想はあっさり崩れた。お彼岸には殺生をやめて、精進料理を食べるのが習いだ。いきなりマグロでは誤魔化しようがない。
 ところでお彼岸って何だろう? 分かってるようで人に説明できるほど分かってはいなかった。お彼岸料理は作れなくても、これを機に彼岸の何たるかを少し勉強してみた。
 元々彼岸という言葉は仏教用語なんだそうだ。こちら側の世界を此岸(しがん)というのに対して、悟りを開いた境地のことを彼岸という。
 春分の日と秋分の日は太陽が真東から昇って真西に沈むということで、西に沈む太陽を拝んであちらの世界を思うというところから始まって、やがて祖先の霊を慰めるためにぼた餅やおはぎを備えるという風習が定着していった。
 春分、秋分を中日として前後3日間、あわせて一週間が彼岸ということになる。初日が彼岸の入りで、最終日が明けだ。
 浄土思想が元にはあって、彼岸会という行事が最初に行われたのは806年、崇道天皇が早良親王の鎮魂のために全国の国分寺の僧に命じて法要をしたと『日本後紀』にある。
 どうして彼岸にぼた餅かというのはよく分からない。小豆の赤色に邪気を払う効果があると信じられたからだという説がある。一般家庭の行事として行われるようになったのは、江戸時代からのようだ。
 ぼた餅とおはぎは、一応同じものということになっている。春の牡丹に掛けて春分はぼた餅(牡丹餅)で、秋は萩に引っ掛けておはぎ(御萩)と呼ぶだけの違いらしい。実は別のものだという説もある。
 おはぎというとちょっと上品な感じがして、ぼた餅というと庶民的な印象がある。棚からぼた餅というのは何もしないで幸運が降ってくるという意味だけど、実際に地震でもないのに棚からぼた餅が降ってきたら怖い。仏壇から吹っ飛んできたら、祖先の霊が怒ってるのかとも思ってしまう。もっと旨いものよこしやがれと言ってるのかと。
 お彼岸についての基本的な勉強はこれくらいにして、料理について書いていこう。

 今回も出来上がりを見て、しまったと思った。これじゃあ、また彩りがないと突っ込まれてしまうぞ、と。野菜が足りないとの指摘も受けてしまいそうだ。得意の茶色料理とまではいかなかったものの、黄土色料理になってしまったのは間違いない。完成した時点で、見た目の失敗を取り戻すことはできなかった。自分自身、イメージしていたのとは違う料理になってしまったというのもある。
 左手前が、使わなくてはいけなかったマグロだ。マグロ料理というのもたくさん種類があるのだろうけど、軽く焼いて洋風の味付けにするのが一番好きなので、だいたいこれになってしまう。
 下味をつけたあと、カタクリ粉をまぶして、オリーブオイルで焼いて、あとはソースをかけて食べる。しょう油、マヨネーズ、からし、卵黄、塩、コショウで、味付け海苔の刻みを乗せた。味としては安定していて失敗はない。

 奥はかき揚げで、これも特に変わったものではない。単にかき揚げが食べたかっただけだ。
 タマネギ、ニンジン、小エビ、大葉を刻んで、小麦粉でまぶして揚げる。卵をつけるとふんわりしてしまうので、小麦粉と水だけで揚げてある。この方がパリッとして好きだから。
 たれは素直にめんつゆで食べる。

 右側のはどういう料理か、見た目では分かりづらいと思う。見た目にやや難ありだけど、この中では一番手間暇がかかっていて美味しかった。
 ジャガイモをレンジで加熱してスマッシュして、塩、コショウ、青のり、牛乳、とろけるチーズを混ぜて、よくこねる。これをオリーブオイルとバターでお焼きにする。
 ナスはスライスして水につけてあく抜きしたあと、同じくバターで焼く。
 ソースは、オリーブオイル、白ワイン、しょう油、塩、コショウ、コンソメの素、粉チーズ、卵白を混ぜて加熱して作る。
 バター、しょう油、チーズ、青のりの風味があわさって、とても気に入った。柔らか料理好きの私としては定番にしたいし、オススメもできる。

 そんなこんなで、失敗だったような成功だったような、彼岸サンデーは終わった。精進料理というテーマは面白そうだから、いつか機会があればやってみたいと思う。もどき料理で肉や魚を使わずに3品成立させることができるか。
 来週は9月の最終週で、今年もだんだん残り少なくなってきた。2008年のサンデー料理のテーマは何だったのかということをもう一度振り返ってみて、12月には集大成として何か作りたいと考えている。
 彩りと盛りつけという課題は、いまだ克服できていない。ちょっと油断すると、茶色い料理になってしまう。茶色料理は、子供には絶対人気が出ない。思い切って来週はキャラ弁サンデーにでも挑戦してみようか。そこに何かヒントがあるかもしれない。食紅でも買ってこようかな。

やさぐれてそっぽを向いて細くなったポポちゃんと仲間たち <花鳥園2回>

動物園(Zoo)
ソフト花鳥園2-1

Canon EOS 20D+Canon EF 135mm f2.8 SF



 花鳥園シリーズ第二回は、ポポちゃんとお仲間フクロウたち特集ということで紹介しよう。
 前回行ったときも、ポポちゃんはお疲れの様子で、かなりやつれたような印象を受けた。1月に行った頃はまだ元気ハツラツだったのに、テレビ出演で人気者になって以来、出張の仕事も増えて、元気がなくなっているように見えた。
 あれからどうしてるんだろうと心配しながら見に行ってみると、ポポちゃん、ついにやさぐれていた。お客さんの方に背を向けたまま、知らんぷりを決め込んでいる。どうした、ポポちゃん。大丈夫ですか? おーい、こっちを向いておくれ。
 訪れる人が口々に、あ、ポポちゃんだ、と言って写真を撮っている。ポポちゃんはまったく愛想なし。オレは疲れてるんだよと背中で語っていた。

ソフト花鳥園2-3

 しばらくしてやっとこっちを向いたと思ったら、この表情。渋い。なんて渋い表情なんだ。急に老け込んだみたいだ。あのかわいらしかったポポちゃんはどこへいった!? ストレスなのか、疲れなのか、人気者はつらいということなのか。
 去年、一番最初に行ったときは、まだポポちゃんの知名度はさほどではなくて、気ままな花鳥園生活を送っていた。それから三変化する様子がテレビで紹介されるにつれて知名度が上がり、変身をやらされることが多くなった。当然、体にも神経にもよくない。ストレスがかかる。外での仕事が増えれば移動や初めての環境に対して神経を使う。ポポちゃんの今後が心配だ。

ソフト花鳥園2-1

 こちらはこの春生まれたココだ。昔はポポちゃんもこんなきょとんとした表情をしていた。上の写真と見比べると、ポポちゃんのやさぐれぶりがよく分かると思う。
 ココは天真爛漫というか神経が図太いようで、人が来ても、他のフクロウがそばにいても動じる様子がない。こいつは大丈夫そうだ。ということは、変身芸はしないということで、人気者にはなれない。なりたいとも思ってないだろうけど。

ソフト花鳥園2-4

 ポポちゃんは、お客さんと一緒に記念写真を撮るというお仕事がある。一日に2回、腕に乗ってカメラに収まるのだ。平日はさほどでもないけど、週末はけっこうな回数と時間仕事をしなければいけないのだろう。人には慣れてるといっても、この回数も以前に比べたらずいぶん増えたはずだ。
 スタッフさんと一緒にいてもこの表情。だんだん、きゅーっと細くなってしまった。これは周囲に怖いフクロウなどがいるときの警戒ポーズで、弱いやつがいると羽を広げて威嚇のポーズを取るというのがポポちゃんの芸だ。芸というか本能というべきか。神経が細かいがゆえに、それが芸にまでなった。花鳥園にはこの他10羽以上のアフリカオオコノハズクがいるのだけど、ポポちゃんのように芸ができるやつは他にいない。誰か、ポポちゃんのピンチヒッターはいないのか。

ソフト花鳥園2-5

 自分の居場所である止まり木に戻っても、ついにはこんなに細いままになってしまった。おお、ポポちゃん、なんてこった。何をそんなに警戒してるんだい?
 人とかカメラが怖いのかと思って離れて視界から外れてみても、細いまま変わらない。一体、どうしてしまったんだ。

ソフト花鳥園2-6

 実はポポちゃんが細くなっていた原因は、こいつだった。これは最近他の花鳥園からやって来てオオフクロウのヒナで、ポポちゃんはこいつが気になって気になってしょうがないんだそうだ。まだヒナなのに怖いようで、常に緊張状態にあるらしい。距離としては3メートルくらい離れているし、ポポちゃんのところからは見えない位置にいるのに、それでもやっぱりこいつに対して警戒心を抱いてしまうようだ。オオフクロウのヒナは、そんな視線に気づいているのかいないのか、きょとんとした顔でおとなしくしている。
 ポポちゃんに平和な日々が訪れる日はやって来るのだろうか。掛川花鳥園の看板鳥でもあるし、集客力も高いから、ポポちゃんはスター扱いにしてあげて欲しい。昔の日活スターのような特別待遇をのぞみたい。

ソフト花鳥園2-7

 オオフクロウの足。まだヒナでもがっちりした足をしていて、爪も鋭い。これで掴まれたら、人間の腕にも深く食い込みそうだ。猫の爪どころじゃない。
 毛並みはまだモコモコの子供の毛で、大人の毛に生えかわっていない。でもフクロウ類は成長が早くて、生まれてから3ヶ月くらいで大人の羽になって、外を自由に飛び回れるようになる。表で飛行ショーをしているフクロウも、3ヶ月くらいでデビューして、生まれて半年くらいで一人前になる。同じフクロウでも、ショー向きのやつとそうじゃないやつがいるから、オオフクロウのショーはたぶんないだろうけど。

ソフト花鳥園2-8

 メンフクロウのケンちゃんがおかしなことになっている。足が細く長くなって、なんだかなまめかしい。羽も開いて、なんとなく怪しいポーズだ。裸の上に着ているコートの前をはだけて女子高生とかの前で開いて見せる変態のおっさんみたいじゃないかケンちゃん、本当はメスだから、露出狂的な女の人みたい?
 このときは、写真撮影の仕事のあとで、バタバタと羽ばたいてちょっと逃げようとして、それでハァハァいってるところだ。きっと暑かったのだろう。少しでも羽を広げて涼しくなろうとした結果がこのポーズになってしまったのだと思う。
 それにしても、フクロウの足というのはけっこう長いのだ。普段はフカフカの毛に覆われていて見えないだけで、みんなこれくらい足長なんだそうだ。

ソフト花鳥園2-9

 これはなんだったか。コノハズクだとは思うけど、何コノハズクだったか忘れてしまった。
 薄目を開けて眠たそうにしていたのが一転、何かを見つけた様子。

ソフト花鳥園2-10

 急にパチッと目を開けて、羽を広げて天井を見上げた。ん? 何かいる?
 この構えで見ると、フクロウの足はやっぱり長いことが分かる。

ソフト花鳥園2-11

 目を見開いて威嚇の構え。耳が寝てるから警戒だろうか。どうやら、気になっていたのは外のカラスのようだ。ハウスの天井が半透明になっていて、一部は外が見えるようで、外をカラスが飛ぶと気になるらしい。表のショーでも、カラスが通りかかるとそちらに気を取られて飛ばなくなってしまう。
 カラスというのは、鳥界の中ではある意味最強なのかもしれない。カラスに勝てる鳥というのはほとんどいない気がする。トンビでも互角か、トンビが追い払われたりする。勝てるのはタカくらいだろうか。フクロウではたぶん、負ける。

ソフト花鳥園2-12

 今にも飛びかからんばかりの構えを見せる。カラスまでの距離は相当あるのに、フクロウの目がいいというのは本当だ。何キロか先まで見えるらしい。
 ポポちゃんはカラスは気にならないようで、相変わらず細めでオオフクロウの方を気にしているのだった。

 花鳥園の写真はまだまだたくさんある。今年三回目ともなると似たような写真も多いのだけど、ある程度テーマごとに集めて紹介していきたいと思っている。写真中心だから、どこかで二本立てもしよう。

今年三度目はソフトフォーカスレンズ一本勝負 <花鳥園1回>

動物園(Zoo)
ソフト花鳥園1-1

Canon EOS 20D+Canon EF 135mm f2.8 SF



 また掛川花鳥園へ行ってきた。今年に入って三度目だ。
 一回目は正月明け早々の1月。総天然色の鳥たちを写し取るためにFUJIFILMのS2proを持っていった。色に関しては狙い通りだったけど、動きがトロいS2proでは飛びものに苦戦した。
 二度目はベビーラッシュの5月。たくさん生まれたチビたちを撮るために、タムロン90mmマクロを持っていった。デジ本体は、表の飛行ショーに対応するために手持ちの中で一番連写が効くEOS 20Dを持参した。そのときも室内はけっこう撮れたのだけど、外での飛びものは難しかった。
 そして三度目の今回、テーマはソフトフォーカスレンズ一本勝負だった。だいぶ前からこのレンズのことはずっと気になっていて、チャンスがあれば買おうと思っていたところに、ちょうど上手いタイミングで買うことができたので、試し撮りを兼ねて今回はこれだけで撮りきってきた。最後の飛行ショーで少しだけ望遠を使った以外は、すべてソフトフォーカスレンズでの撮影となった。なかなかの気まぐれレンズで、最後まで掴みきれずに終わったものの、一風変わった写真が撮れたので紹介していきたいと思う。レンズの使い心地もあわせて書いていこう。

ソフト花鳥園1-2

 ソフトフォーカスレンズといっても各メーカーやサードパーティーからそれぞれ出ていて、他のものは使ったことがないからまったく分からない。CanonのEF135mm f2.8をデジイチの20Dで使った場合に限った感想になること。
 初めに、ソフトフォーカスレンズとソフトフィルターは何が違うかという話だけど、似て非なるものと考えた方がいいと思う。どちらにもメリットとデメリットがある。ソフトレンズの場合は、ピントが合った部分はある程度シャープになりながらボケの部分だけ滲んだようになっていくのに対して、フィルターの場合はピントが合った部分がなくなって全体にぼんやりしてしまう。フィルターは安いし、どのレンズにもつくというメリットがあり(レンズの径をリングで合わせる必要はあるけど)、ソフトレンズは焦点が決まってしまうというデメリットがある。
 レタッチソフトでソフト効果も出せるから、あえてソフトレンズを買う必要はないと思うかもしれないけど、ソフトレンズでなければ生み出せない効果の写真というのが確かにあって、そのために買う価値はあることは使ってみると分かる。
 私の場合は、どんなものなのか一回試してみたかったというだけで、深く考えて買ったわけでもない。ちょっと面白そうだと思っただけだから、すぐに手放してしまう可能性も高い。これは変化球の中でも特殊球に当たるようなレンズだから、これに頼りすぎると基本的な部分で写真上達のさまたげになる気もする。ある意味ではちょろまかしのレンズだ。楽して雰囲気のある写真になってしまう。
 使いどころをきんちんと分かっている上級者向けのレンズと言えるかもしれない。

ソフト花鳥園1-3

 ソフトフォーカスレンズというと真っ先に思い浮かぶ被写体は、女性のポートレートだ。最短焦点距離1.3メートル、倍率0.12倍というスペックも、そういう用途のために設計されたを示している。花などを撮るためのマクロレンズの代わりにはならない。エクステンションチューブで焦点距離を短くすることはできても、倍率が低すぎる。
 花鳥園だけに、ポートレートのモデルは当然ながら鳥になる。これはアンソニーだったか、ドリーだったか。今回は一緒のところに2羽いて、最初どっちがどっちか分からないまま撮っていた。帰ってきてから、左足にリングをしている方がアンソニーだということに気づいた。
 このソフトレンズは弱と強の二段階設定できるようになっている。切るというモードもあって、そうするとノーマルの135mm単焦点レンズになる。ただし、このときの描写はたいしたことない。悪くはないけど並みだ。
 はっきりとしたソフト効果を出すには強の2で撮るべきなのだろうけど、そうなるとソフトが強くなりすぎて私の好みではない。今回はすべて弱の1で撮っている。
 絞りによってもソフト効果はかなり変化して、絞り開放のf2.8だとボケボケになってしまうから使いづらい。逆にf5.6くらいまで絞ると、ソフト効果がほとんど消えて普通の描写になる。なので、一段絞りのf3.2で撮ることが一番多かった。絞るにしてもf4くらいまでと考えておいた方がよさそうだ。

ソフト花鳥園1-4

 ソフト効果がどういうときにきれいに表れるのか、はっきり言ってよく分からない。逆光の方が出るようにも思うけど、順光でも出たり出なかったりするし、背景の色や焦点距離によってもかなり左右される。じゃじゃ馬というほどではないにしても、気まぐれでちょっとつき合いの難しいレンズであることは間違いなさそうだ。今ひとつ人気がないのはそのためだろう。
 ただ、近年、デジイチの普及によってこのレンズの人気がひそかに高まってきたようだ。デジイチなら撮ってすぐプレビューで確認することができるし、何枚でも撮り直しができる。フィルムならそうはいかない。
 デジタルになるとキヤノンの場合なら216mm相当だからほんど望遠になってしまって、その点では使いどころがますます難しくなるということはあるか。デジタルということを考えると、85mmとか90mmくらいの方が使い勝手はよかった。
 しかしこのレンズ、実は相当なロングセラーで、1987年に発売されてから10年以上経った今でもひっそり販売を続けているのだ。これに取って代わるものがなかったというのもあるし、キヤノンとしても新型を開発してもあまり売れないからとりあえずそのまま売っておけということなのだろう。

ソフト花鳥園1-5

 水浴びで大暴れをするクロトキさん。
 この写真がヒントになるのは、光と水を味方につけるということだ。
 今回はあれこれ試行錯誤する余裕がなくて一本調子の撮影になってしまったけど、シャッタースピードによる変化というのも当然あるわけで、速くしたりわざとぶらしたりという撮り方でも違った写真になる。
 ソフト効果にしても、場合によってはあえて強くかけた方が面白くなることもあるだろう。今更ながら、同じシーンで設定を変えながら何枚か撮るべきだった。

ソフト花鳥園1-6

 水だけ撮ってみたらどうなるかと思ったら、なんだか普通の写りになった。模様としては面白くても、ソフト効果というのはほとんど感じられない。水は水でも、水滴狙いでいくべきか。

ソフト花鳥園1-7

 光と影の強いコントラストではどうなるかといえば、これも普通っぽい。やはり光が当たっている部分にソフト効果が強く出ていて、影の部分は滲みが少ない。
 やはり、光を効果的に取り込まないといけないようだ。

ソフト花鳥園1-8

 花を撮ると、幻想的といえば幻想的だけど、ただのピンぼけと言われればそれまでだ。被写体選びの難しさがある。
 どんな花でもふんわり柔らかく撮ることはできても、本当のソフト効果が必要なのかどうかを考えないと、ただの嫌味な写真になりかねない。
 被写体も選ぶし、使う人を選ぶのもこのレンズだ。あまりオジサン向きのレンズじゃない。

ソフト花鳥園1-9

 どうやら距離が遠ざかるにつれてソフト効果が弱くなるようだ。このときは被写体との距離が5メートル以上あっただろう。光や背景によっても違ってくるのだろうけど、効果的なのは最短の1.3メートルから2メートルくらいと見た。ただ、表で使った印象としては、強い光があると距離があってもソフト効果は出ることも分かった。背景によっても変わってくる。
 狙い通りに使いこなすには、かなり実戦経験を積まなければいけない。そこまで使い込む気になるかどうかという問題もある。

ソフト花鳥園1-10

 スイレンを撮ったら、思ったほどソフトにならなかった。こういうときはソフトを強く効かせるときだ。
 これからの季節ならヒガンバナとソフトの組み合わせはどうだろ。紅葉は使いどころが難しそうだ。イメージできるものとしては、親子のいるヒマワリ畑というのがある。桜並木をいく自転車の高校生カップルなんてのもよさそうだ。

ソフト花鳥園1-11

 こういう群像ものも面白くもあり、難しくもある。ピントの合わせどころを間違えると、何が撮りたかったのだかよく分からない写真になる。同じところからもう一段絞った写真も撮ってみたら、それは普通すぎてつまらなかった。反応が敏感すぎるところがある。

ソフト花鳥園1-12

 掃き溜めに鶴ではないけど、水面に浮いたゴミや葉っぱまでキラキラにしてきれいに見せてしまうのがソフトフォーカスレンズだ。
 この写真を見たら、海の可能性を思った。海を見ながら浜辺に座る恋人なんてのも、ソフトレンズの使いどころだろう。クロード・ルルーシュ監督の『男と女』みたいに。
 日本の港風景も、スーラの風景画のように変えてくれるんじゃないかと期待させる。
 一番の使いどころは、なんといっても結婚式だと思う。それが海辺なら申し分ない。

ソフト花鳥園1-13

 エミュー牧場前のカップルでは絵になるかどうか微妙なところだ。けど、これも普通のレンズで撮ったらなんてことのない平板な写真になってしまう。ソフト効果を誤魔化しと見るか、演出と見るか、見る人の感覚によっても評価は分かれる。

 とまあ、こんな感じで一日、花鳥園でソフトフォーカスレンズを使ってきた。好き嫌いはあるだろうけど、今日から何回か花鳥園シリーズが続きます。何人かは、自分も使ってみたいと思う人が出てくるかもしれない。このレンズは人のものを見るよりも自分が使って面白いレンズだから、試しに中古で買ってみることをオススメします(1万から2万くらい)。写真を撮ることにちょっと飽きてきたという人にもいい。まだまだいろいろな可能性があるということを気づかせてくれる。新しいレンズはカンフル剤にはもってこいで、中でもこういう特殊なレンズは一過性ではあるけど楽しさがある。

醒ヶ井から垂井までの思い出編でシリーズ完結 ~滋賀岐阜歴史編18

観光地(Tourist spot)
滋賀岐阜-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 東海道本線沿い滋賀・岐阜歴史巡りシリーズは、18回目にしてようやく最終回となった。4ヶ所行って、1ヶ所につき3回、合計12回プラスアルファくらいで終わらせるつもりだったのに、予定よりも長くなったのは、へとへとになるまで歩き疲れた分を少しでも取り戻そうという貧乏性ゆえか。
 今日は本編では入りきらなかった写真を拾って、回った順番に振り返る旅の思い出編ということにした。時間の経過を追って写真を並べてみると、朝の光から午後、夕方、夜へと移り変わっていくのが分かるはずだ。私自身の記憶を整理するためという意味合いも強い。

 始まりは朝8時半の醒ヶ井から。日差しが強く、暑い一日になりそうだった。前日の天気予報では曇りがちというようなことを言っていて、油断して日焼け止めを塗っていかなかったら、最終的には黒こげになった。今両腕の皮がめくれてボロボロになっている。夏休み明けの小学生みたいだ。
 地蔵川の涼やかな流れは、今思い出しても気持ちがいい。お目当ての梅花藻にはちょっと遅すぎたものの、出遅れた分ゆっくり散策することができてよかった。シーズン中に大勢の人で賑わっている様子はあまり想像がつかない。
 醒ヶ井自体、何十年ぶりという懐かしさもあって、それも嬉しいことだった。しかし、小さい頃の風景の記憶というのはなかなか残っていないものだ。駅周辺の風景も、あの頃とは大きく変わっていたのだろうけど。

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 醒ヶ井の名前の由来が、ヤマトタケルの伊吹山征伐に関係があるという話は知らなかった。ヤマトタケルゆかりの地にはちょくちょくぶつかっていて、そのたびに勉強して書いたりもしていたのだけど、その場所に行って初めて知ることが多い。やはりフィールドワークは大切だ。それはこのあとの関ヶ原でも実感することになる。
 伊吹山も一度は行ってみないといけない山だ。ニッコウキスゲの時期にいつも行きたいと思いつつ、なかなか行けないでいる。来年は思い切って行ってみたい。

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 柏原駅は、とてものどかだった。柏原ではよく歩いた。昼前後のこの歩きで、早くもデッドラインを超えて、結局最後までそのダメージが抜けないまま疲労が蓄積していったのだった。ここでの歩きをもう少しショートカットしておけば、大垣まで行けたかもしれないと思うと、ちょっと失敗したか。ただ、大垣は中途半端に行くよりもじっくり時間を取って回るべきところとすれば、あれはあれでよかったのだろう。柏原へは二度行くことはないだろうから。
 京極家ゆかりの徳源院へ行けなかったことだけは心残りだった。少し無理して成菩提院まで行ったのは正解だった。あそこはいいお寺だったから、これから行く人はぜひ足を伸ばして欲しい。

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 振り返ってみると、今回行った中では柏原が一番中山道の宿場の面影を残す場所だった。知名度はさほど高くないようだけど、ここは寄っておいて損はない。街道沿いが商店街になってしまうと、宿場町の風情は消えてしまう。垂井がそうだった。柏原のように、住宅地になると変化がゆるやかになって昔の風景を保つことになる。
 一つ注意点は、月曜日は避けるべきということだ。どこへ行っても月曜定休のところがあった。醒ヶ井では郵便局がそうだったし、柏原では喫茶と歴史館になっている松浦家に入れなかったのは残念だった。関ヶ原の歴史資料館も月曜定休だったし。

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 初めて訪れた関ヶ原は、いろんな意味で印象深いものとなった。ここくらい、行っておいてよかったと思える場所はあまりなかったようにも思う。何があったとかどうということではなく、その地に自分が立ってみて、初めて納得する部分や、腑に落ちることがたくさんあって、非常に気持ちがすっきりしたのだった。それまで自分の中にあった関ヶ原に対するわだかまりというかモヤモヤ感がスッと消えて、晴れやかな気分になった。
 私のように関ヶ原という場所が気になっている人は、ぜひ一度訪れてみるといいと思う。おどろおどろしい空気に満たされているとかは全然ないから安心していい。行けばきっと納得するはずだ。言葉では上手く説明できない。
 それにしても、関ヶ原の田んぼ風景と、安土城下で見た田んぼ風景は、どちらも感慨深いものがあった。こんなにも何もない平和な光景になってしまうものだろうかと、唖然とするような思いも抱いた。兵どもが夢の跡というのは本当にそうだ。

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 ああ、思い出のウォーランド。
 どんなにしょぼい施設だとしても、私はウォーランドへ行ったことは後悔していない。ウォーランドへ行った者だけがウォーランドを語る資格を得るのだから。
 しかし、なんだかもったいなくもあった。もっと本格的に作れば、関ヶ原の戦場気分を味わえたんじゃないのかと。人形を見せるというのではなく、自分が武将像たちと共に同じ視点に立ったとき、戦場というのはどういうものだったのかという演出で作るべきだった。
 開発費がどれくらいかかるのか分からないけど、バーチャル関ヶ原の装置を作って、関ヶ原の戦いを疑似体験できるような施設ができればいいと思う。ゲーセンのコックピットのようなものでいい。リアルすぎても怖いけど、関ヶ原の戦い疑似体験というのは、関ヶ原観光の目玉になり得る。

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 垂井は昨日まで書いていたから、まだ記憶に新しい。全部同じ日に回ったのに、前半部分は遠い思い出になって、後半は最近の出来事に思えるのは錯覚だ。
 垂井も思いがけずよかった。ここはなんといっても南宮大社だ。あそこまで行くと行かないとでは印象が全然違ってくる。
 町並は、中山道の宿場町というよりも昭和の名残という点でよかった。
 ここもしっかり歩いたから思い残すことはない。季節を選べるなら、祭りがあって、相川に鯉のぼりが泳ぐゴールデンウィークがいいんじゃないか。

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 ここからは垂井の番外編となる。
 南宮大社の摂社は外にもいくつかあって、その一つが 吉葛神社(よさつらじんじゃ)だ。
 祭神は、天吉葛神(アメノヨサヅラノカミ)らしいけど、あまり有名ではない。調べると、南宮大社と広島呉市の亀山神社くらいでしか祀られていない。
 与曽豆羅ともいい、イザナミがヒノカグツチを産んで火傷に苦しんでいるときに、天吉葛神も産んだという。
 やはり金属関連の神様のようだ。

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 昨日ちゃんと載せられなかったので、今日は正面から撮ったものを載せる。舞殿(まいどの)。高舞殿が正式名か。ぶでん、とも読む。
 神楽殿(かぐらでん)と舞殿との違いはよく分からない。同じものとして使う場合も多いけど、厳密には違うもののようにも思う。何かはっきりとした定義があるのだろうか。

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 南宮大社で日没が近づく。西日を浴びてシルエットになった楼門も美しい。

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 南宮大社から南へ少し歩いたところに小さな神社があった。なんという神社か、額を見るのを忘れてしまった。これも何かの縁と、寄っておいた。
 日没が近づいてこんなところをふらついていたから道に迷うのだ。このあとどちらの方向に進んでいいのか分からなくなって、たまたま通りかかった地元の人に駅の方角を教えてもらった。えぇー、歩くと30分以上かかりますよと驚かれてしまった。いや、すでにもう10時間歩いているんですとは言わないでおいた。

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 神社の隣に正行院というのがあったので、外から挨拶だけしておいた。惜しい、漢字一字違いの同じ名前だ。たぶん、読み方は違うだろうけど。

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 南宮大社から東へ500メートルほどのところに、美濃国二宮の大領神社というのがあることを事前に知っていたので、最後の目的地をここにした。
 着いてみると、二宮とは思えないほど静かで寂しい神社だった。飾り気がないというか、南宮大社の華やかさを見たあとだけに、よけい寂れてしまっているように感じられた。
 美濃の二宮というと、岐阜県養老町にある伊富岐神社もそう名乗っていて、どちらが本当なのかよく分からない。伊富岐神社の方はなかなか立派な神社のようだ。
 大領神社は延喜式にも載っていて、かつての社格は郷社だったというから、歴史のある神社であることは間違いない。ここも関ヶ原の戦いで燃え落ちてしまったというから、焼ける前はもっと大きな神社だったのかもしれない。南宮大社より少し前の1636年に再建されている。
 祭神の宮勝木實(ミヤノスグリノコノミ)は、南宮大社の祀職で、壬申の乱のとき、大海人皇子の命を受けて、不破の関付近の不破道に出陣して功績を挙げ、天武天皇即位ののち功績が認められて不破郡の大領になった人物だ。死後に宮勝木實を祀るために建てたのが、この大領神社とのことだ。
 この神社あたりに安国寺恵瓊や長束正家が陣を置いていたという。
 合戦場から遠く離れた大領神社や南宮大社が焼けたのは、追撃戦のときだろうか。勝敗が決まったところでピタリと戦が終わるわけではなく、逃げる西軍と追う東軍というのがあちこちで展開されただろうから、そのときに巻き込まれて焼けたものや壊されたものも多かったはずだ。焼ける前の南宮大社を見たかった。

滋賀岐阜-14

 駅へ向かってトボトボ歩いている途中、とうとう日没となった。だんだん暗くなってきて、駅までの距離がまるで分からないので不安になる。歩いている方角が合っているのかどうかさえも確信が持てずにいた。新幹線と東海道本線と道路が斜めに交わっていて方向感覚が掴みづらい街だ。線路を二本超えればいいだろうと適当に歩いていると、思いがけず左や右にずれてしまう。

滋賀岐阜-15

 少し立ち止まって休みながら、最後に新幹線を撮ろうと10分くらい待った。やっと撮れたと思ったら、暗すぎて光の線になってしまった。
 このあと急激に暗くなって、もはや何も撮れなくなった。

 これで滋賀・岐阜歴史巡りシリーズは完結となった。書きたいことは全部書いたし、載せたい写真も載せた。もう充分だ。
 明日からは花鳥園シリーズが始まる。実は先週の金曜日、今年3度目の花鳥園行きをしてきた。またたくさん写真を撮ったから、明日から何回かに渡って紹介していこうと思っている。その他、途中になっているネタもある。そのあたりも織り交ぜつつ、一度在庫を全部整理したい。それが片付いた頃に、また電車の旅に出よう。次回は三重県歴史巡りを予定している。
 滋賀・岐阜歴史巡りに最後までおつき合いいただきありがとうございました。

南宮大社は謎が多くて魅力的な神社

神社仏閣(Shrines and temples)
南宮大社鳥居


 垂井めぐりの最後に南宮大社(なんぐうたいしゃ)を訪れた(地図)。
 垂井(たるい)という地名を聞いてどこにあるのかすぐにピンと来る人はあまり多くないかもしれない。東海道本線の名古屋-米原間をよく利用する人なら、大垣と関ヶ原の間だっけくらいの認識はあるだろうか。住所でいうと、岐阜県不破郡垂井町になる。
 JR東海道本線の垂井駅(地図)からは1.5キロほどだから、歩くと30分かからないくらいだろう。
 新幹線の線路を越えるとすぐに大きな朱塗りの鳥居が現れる。高さ21メートルの鳥居は鉄製だそうだ。いつ誰が造ったのかは、ちょっと調べがつかなかった。それほど古いものではなさそうだ。



楼門

 南宮大社は、南宮山の麓にあり、いつ誰がこんな場所に建てたのか、よく分かっていない。周囲に何があるというわけではなく、南宮山が特別神聖な山という話も聞かない。祀られている神様は、金属の神である金山彦命(カナヤマヒコ)で、南宮山とは直接関係なそうだ。かつて垂井にあった美濃の国府(地図)からもだいぶ離れている。
 社伝では神武天皇即位のときに建てられたとしている。日本神話における即位は紀元前660年ということになっている。
 崇神天皇5年(紀元前92年)のとき、南宮山の上に移って、その後今の場所に移されたという説もある。
 現実的な話でいえば、かつて美濃の国府にあって、美濃国総社とされた南宮御旅神社(なんぐうおたびじんじゃ/地図)にあった南宮大社が、今の場所に移ったというのが実際のところなんじゃないだろうか。国府ができたのは奈良時代だから、創建年はさかのぼっても飛鳥時代だろうか。国府の南にあるから南宮の名がつけられたというのも、もっともらしい話だ。
 一説によると、壬申の乱(672年)のとき、大海人皇子(のちの天武天皇)が利用した野上の行宮(あんぐう)を社殿としたのが始まりという。行宮というのは、天皇や皇子が政変などで御所を追われて、一時的な仮の宮としたものをいう。野上行宮は、不破にあった尾張大隅の私邸で、関ヶ原に跡地とされる場所が伝わっている。もしくは、すでにその頃には南宮大社があって、大海人皇子が戦勝祈願をして、天武天皇即位後に、野上の行宮を南宮大社に送ったともいわれている。
 信濃の諏訪大社、伊賀一宮の敢国神社(あえくにじんじゃ)、摂津の廣田神社も南宮と呼ばれることがあり、諏訪大社と何らかの関係があることも指摘されている。諏訪大社を本山、南宮大社を中の宮、敢国神社を稚き児の宮とも呼ぶそうだ。
 神武天皇云々という話を話半分でも信じるならば、神武東征のときナガスネヒコとの戦いで神武天皇を金鵄(金色のトビ)が助けたというのが出てくる。これは金属製の武器や飛びもので戦って勝利したというのが伝説となったと考えていいのかもしれない。それによって神武天皇が大和を平定することができたとすれば、金山彦神は神として祀られる資格が充分にあったと言えるだろう。この時代に高度な金属加工をできたのは、大陸や朝鮮半島からの渡来人だった可能性が高い。
 いずれにしても、『延喜式神名帳』(927年)には仲山金山彦神社として載っていることから、すでにその頃までには歴史のある神社となっていたのは間違いなさそうだ。
 美濃国一宮であり、近代社格制度では1871年に国幣中社となり南宮神社と改め、1925年に国幣大社に昇格し、戦後に南宮大社と改称した。



門入り口

 思いがけずすごくいい神社で、期待していなかっただけに感動が大きかった。楼門は特に素晴らしい。
 楼門の向こうに舞殿が見え、拝殿、本殿と一直線に並んでいる。
 家光の再建ということで、ところどころに日光東照宮風な感じが見て取れる。楼門の上の図柄も、東照宮で見たものとよく似ている。眠り猫があるあたりの感じだ。



随神

 楼門の中で守りを固めていたのは、これも東照宮で見た随神(ずいじん)というものか。ちょっと自信がないけど、楼門にいて仁王像じゃないとすれば、随神しかないようにも思う。



狛犬

 門の裏には、狛犬がいた。姿形は違えども、この配置も東照宮と同じだ。
 関ヶ原の戦いの巻き添えで燃えてしまう前と、家光が再建したものとでは、ある程度変わってしまってんじゃないかと思うけど、どうなんだろう。随神、狛犬が守る楼門というのも、前は違っていたかもしれない。



拝殿

 楼門もいいけど、社殿がまたいい。南宮造と呼ばれる独特の様式で、朱塗りが美しい。
 関ヶ原の戦いで焼け落ちたのち、家光が再建したのもので、本殿、拝殿、楼門など、建物のほとんどは国の重要文化財に指定されている(18棟)。
 以前は国宝もあったようだけど、今は重要文化財に格下げとなっている。
 かつては21年ごとに式年遷宮が行われていたようで、室町時代以降は51年ごとになったという。一番最近では昭和47年というから、頑張れば次を見られそうだ。
 再建が叶ったのは、この地出身の竹中半兵衛一族や、家光の乳母だった春日局の願いによるところが大きかったようだ。春日局の父親は、美濃の守護代斉藤氏で明智光秀の重臣だった人物だ。だから、関ヶ原以前の南宮大社を春日局は知っていたのだろう。
 家光が再建したときは七千両かかったというから、今の価値に換算して3億5千万から5億円といったところか。まだ徳川幕府にお金がうなっていたときだからこそポンと出せた金額だ。
 再建がなったのは、関ヶ原の戦いから40年以上経った1642年のことだった。



参拝

 平日の夕方で、駅から離れたところに位置しているにもかかわらず、ポツリ、ポツリと参拝客がやって来て途切れない。なかなかの人気神社らしい。金属の神様にみんな何をお願いに訪れているのだろう。
 祭神の金山彦神(カナヤマヒコ)は日本神話に登場する神で、『古事記』では金山毘売神と表記される。
 イザナミ(伊弉冉尊)が、火の神カグツチ(軻遇突智)を産んで女陰にやけどをして苦しんでいるときに、嘔吐物(たぐり)から生まれたのが金山彦神とされている。一緒に金山毘売神(金山姫神)も生まれたと書かれている。金山姫神は、金山彦神の奥さん、または姉妹という。
 南宮大社では、金山彦神が主祭神となっていて、金山姫神は祀られていない。南宮大社の元宮とされる南宮御旅神社では金山姫神が祀られている。
 火の神を産むときの嘔吐物から生まれたというのは、金属加工を連想させる。なので、金属そのものよりも金属の加工を司る神といった方がよさそうだ。鉱山の神とするなら、かつての南宮山は何かの鉱物資源があった山だったのかもしれない。現在は金属関係の守護神とされていて、その方面の関係者がたくさん参拝に訪れるそうだ。
 配祀として、見野命と、彦火火出見命が祀られている。彦火火出見命は神武天皇とされる。見野命は、読み方からしても、美濃の神ということだろう。
 南宮大社を地図で見ると、斜めに傾いていることに気づく。社殿は東南を向いて建っている。北西には何があるのだろうとずっと辿っていくと、伊吹山にぶつかる。これは明らかに伊吹山を遙拝するように建てられている。不破の関を監視する神という説もあり、そうなると壬申の乱や天武天皇との関係も真実味が増してくる。



本殿

 本殿は大がかりな工事中だった。足場が組まれて、シートに覆われていたから、本殿を見ることはできなかった。
 関ヶ原の戦いで、毛利軍などが陣取ったのは、この奥左手あたりの南宮山麓だったか。現在の南宮山登山口は、南宮大社境内の左奥にある。
 毛利軍が動けないように山裾に吉川広家が陣取り、毛利軍その他を完全に押さえ込んだ。毛利秀元は山腹に、長束正家や安国寺恵瓊は後ろに控える形となり、進軍できないでいた。長宗我部盛親は更に後方に下がったところに陣取って最初から動く気がない。
 しかし、関ヶ原と南宮大社の両方に行ってみると、その距離は遠すぎて、南宮山というのは戦場でさえないことが分かる。戦場になった場所からは直線距離にしても7、8キロある。これでは戦況がどうなっているか見えるはずもない。山に登るといっても、山道が整備されていない当時のことだ、何千、何万の軍団で登れるはずもない。せいぜい物見がいて、現地と行き来する伝令で状況を知ったという程度のことだろう。まさか戦闘が半日で終わってしまうとは思ってなかったといえばそうかもしれない。それにしても、ここからではあまりにも遠すぎてやる気がなかったと思われても仕方がない。それなのに、なんで南宮大社は焼け落ちてしまったのだろう。
 やる気がなかったといえば、長我宗部盛親だ。四国の覇者となった長宗我部元親の四男でありながら兄たちを差し置いて家督を継いだ有能な元親も、関ヶ原ではいいとこなしだった。
 最初は東軍につくつもりで使者を送ったら、近江で西軍に阻まれて、意志を伝えることができずに、なんとなく西軍に組み込まれてしまった。戦後、自分は戦闘には参加しなかったし、東軍につくつもりだったと、井伊直政に頼んで家康に取りなしてもらって一時は許されたものの、お家騒動で兄の津野親忠を殺してしまい、これが家康の怒りを買って土佐の領地没収となってしまう。
 京都に送られて謹慎生活を余儀なくされ、その後寺子屋の師匠となった。
 転機が訪れたのは、1614年、豊臣家に招かれて、家臣として取り立ててもらえることになった。そして張り切って出陣した大阪冬の陣だったのに、ここでも出番がないまま戦は終結してしまう。かなり激戦が予測されたところに配置されていたのに、まるで戦の方から盛親を避けていくようだった。
 盛親が唯一活躍した戦いは、八尾の戦いだった。徳川の藤堂高虎軍と激戦を演じて、壊滅寸前にまで追い込んだ。ただ、相手の援軍が来て撤退となり、翌日の天王寺・岡山での最終決戦には参加しないまま大坂城の守りに回った。
 もう駄目だと悟った盛親は逃亡。京都に潜んでいるところを蜂須賀の家臣に見つかって捕らえられ、二条城の外で縛られたあと、六条河原で斬首された。
 力があっても運がない武将はこうなるという一つの例がここにある。



神仏習合の名残

 すべてが派手な朱塗りというわけではなく、こういう渋い建物もある。
 江戸時代までには神仏習合の神社として発展して、明治の神仏分離令が出るまではたくさんの仏堂を持っていた。護摩堂や本地堂の他、三重塔などもあり、それらは現在、南宮大社近くの朝倉山真禅院(地図)に移築されている。



隼人社

 いくつかの摂社がある中で、拝殿奥にある隼人社は重要なところなので、一声挨拶をしておいた。写真は、樹下神社かもしれない。隼人社はその隣だとすると、回廊からじゃないと見えなかったような気がする。
 京都の四条でさらし首になっていた平将門の首が関東に飛び立ったとき、再び反乱が起きることを恐れた南宮大社の隼人神は、飛びゆく将門の首を弓矢で射落としたという伝説がある。そのとき首が落ちた場所とされる岐阜県大垣市荒尾町には御首神社(みくびじんじゃ)というのがあり、そこでは将門の首を祀っている。
 首が落ちたとされる伝承地は他にもいくつかあって、東京大手門にある首塚が一番有名だろう。ここには数々の伝説もある。
 体の各パーツを祀る神社があるのは平将門くらいのものだ。首だけでなく、足とか手とか胴体とか鎧や兜などを単品で祀る神社が東京にある。全部回ってパーツを揃えると、将門を味方につけられるようになるかもしれない。本体は言わずと知れた神田明神だ。
 東国出身で、朝廷に刃向かった将門のことが江戸っ子は好きだったようで、将門様として神田明神を中心に将門信仰といったようなものがあった。時代が明治になったとき、朝敵である将門を本社の祭神にしておくのはまずいということで別殿に移すことになり、そこでひともんちゃくあった。氏子たちは怒り、新しく迎えた少彦名命の本社には賽銭を入れず、別殿に移された将門の方にばかり入れたという。
 神田祭が台風で中止になったときは、将門様のお怒りだと新聞にも書かれるほどだった。戦後、首塚を移動させようとしたGHQに次々と災難が降りかかり、ついには動かすことを断念したなどという都市伝説も生まれている。



お堂

 右手には朱塗りの小さな門があって、こちらにはお寺の名残と思われる大きなお堂のような建物が建っている。



絵馬

 満載の絵馬が、南宮大社の人気を物語る。



南宮大社門前

 南宮大社前は、ちょっとした門前町になっている。昭和の風情が漂っていていい感じだった。
 なかなかついでに寄れるようなところではないとは思うけど、機会があればぜひ一度訪れて欲しい神社だ。

 醒ヶ井から垂井までの思い出編でシリーズ完結 ~滋賀岐阜歴史編18
 
【アクセス】
 ・JR東海道本線「垂井駅」から徒歩約30分
  またはタクシーか車で
 ・無料駐車場 あり
 ・レンタサイクル 500円
 ・拝観時間 終日

 南宮大社のwebサイト
 

垂井散策は本当に私一人だったのか? ~滋賀岐阜歴史編16

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
垂井2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 垂井編の2回目は、垂井のシンボルの一つ、南宮大社の大鳥居からの再開となる。
 南宮大社は、ここからまだ南に1.3キロほど行ったところなのだけど、もう神域に入るということなのだろう。関西ー名古屋間の新幹線を利用する人は、もっと大きな赤い鳥居をを見たことがあると思う。あれも南宮大社の大鳥居だ。この石造りの鳥居と、南宮大社のちょうど中間あたりに建っている。
 前回、ちらりと書いたように、南宮大社は関ヶ原の戦いのとばっちりで焼け落ちてしまい、再建がなったのは三代将軍家光の時代の1642年のことだった。そのとき、石屋権兵衛という人が私財400両を投じて造ったのがこの明神型鳥居だ。現在の価格に換算すると、2,000万円から3,000万円くらいだろうか。
 高さ7メートル、横幅4.5メートルと、なかなかの大きさだ。ちょうど鳥居を過ぎる自転車の人と比較するとその大きさが分かると思う。
 額には、「正一位中山金山彦大神」と書かれている。南宮大社については、またあらためて書きたいと思っている。
 この鳥居をくぐって道なりに南へ行くと南宮大社に着くのだけど、もう少し中山道散策を続けることにする。ここを右折して、北にある相川を見ておくことにした。

垂井2-2

 大鳥居の北の通りは、昔の建物が連なって残っていて、垂井では一番雰囲気のいいところかもしれない。白壁・黒板の家屋は、昔ながらの風情がある。
 垂井の旧中山道沿いは、生活道路になってしまっていて、騒々しくて落ち着かない。一本中に入ると、静かでいい感じになる。

垂井2-3

 ここにも山車の蔵があった。垂井には三台の山車(くるまへんに山と書いて、やまと読ませる)があるとのことだ。山車の上には舞台があって、祭りのときは、山車を曳きながら舞台の上で子供が踊る。江戸時代初期から続く伝統の祭りだ。
 右手に行くと御幸橋で、左へ行くと小学校がある。小学校の隣にある八重垣神社というのがちょっと気になったものの、今回は省略した。山車曳きは八重垣神社の前から始まる。

垂井2-4

 明治か大正時代に建てられた建物じゃないだろうか。それとも意外と新しいものなのか。
 くるくる灯があったから美容院かと思ったら、それは隣だった。この建物が、白衣を着た上品なおじいさんがやってる床屋だったらよかったのに。

垂井2-5

 リバーサイド・アパートか、旅館だったところか。これを見てふと井上陽水の「リバーサイドホテル」を思い出して、しばらくエンドレスになって出て行ってくれなくなった。ホテルはリバーサイド、川沿いリバーサイド、食事もリバーサイド、お、お、お、リバーサイ、リバーサイって、あの部分の歌詞はまったく意味がないぞ、などと思うとよけい頭から離れなくなる。

垂井2-6

 道の途中に永法寺というのがあったので、ついでに寄ってみた。特に何もなかった。どういう由緒のところかも知らない。
 ここから少し先へ行ったところに、長屋氏屋敷跡の石碑があって、そこは足利尊氏や、南朝に追われた御光厳天皇も泊まったところだそうだから、そちらを見ておくべきだった。更に少し足を伸ばして本龍寺までは行っておけばよかったか。

垂井2-7

 こんな細い路地もちょっと迷い込んで写真を撮ってみたり。
 夕方になっても日差しは弱まらず、すでに丸焼け状態になっていた。空と雲が夏の力強さだった。

垂井2-8

 道ばたのお地蔵さん。
 これはどのあたりを歩いていたときに撮ったのか、はっきり覚えていない。ちょっと意識がもうろうとしていたときだったかもしれない。玉泉寺や専精寺の裏手あたりだったろうか。左手にはお寺の屋根も見えている。

垂井2-9

 大きくて立派な寺の堂があって、屋根のラインと青空のコントラストが美しかった。
 でも、建物に不安があるのか、つっかえ棒で屋根を支えていた。耐震構造にかなり問題を抱えていそうだ。

垂井2-10

 大鳥居を南へ200メートルほど行ったところに、垂井の泉がある。垂井の地名は、この湧き水から来ている。
 大欅(ケヤキ)の根元からは、こんこんと水が湧き出ていて涸れることがないという。「続日本紀」には、ここの泉に聖武天皇が立ち寄ったと書かれている。
 芭蕉も、冬に本龍寺へやって来たとき、この泉を訪れて、一句詠んだ。
 葱白く 洗いあげたる 寒さかな
 当時の垂井は白ネギが特産物だったそうだ。
 私が通ったときは、おじさんが顔を洗っていた。普段はおばさまが野菜を洗ったりもしてるらしい。

垂井2-11

 上の写真に写っている大胆に切られてしまっているのが、大ケヤキだ。この根元から水が湧きだしている。
 それにしても痛々しい姿だ。傷みが激しくて、かなり弱っているとのことだ。それでも枝を伸ばして、葉をつけていたから、まだしっかり生きている。

垂井2-12

 垂井の泉の奥にあるのが玉泉寺だろうか。裏から見えていた立派なお堂は、ここのものだったかもしれない。

垂井2-13

 少し高いところにあるのが専精寺で、関ヶ原の頃はこのあたりに垂井城があったようだ。
 秀吉の家臣で一万二千石の垂井城主・平塚為広は、西軍について関ヶ原では病気の大谷吉継に代わって大谷隊を指揮して活躍したとされている。関ヶ原で討たれて命を落とした。
 その後、廃城となり、現在は遺構などは何も残っていない。

 そんなこんなで、ぼちぼち南宮大社に向かうことにしよう。だんだん日も傾いてきた。このあと、東海道本線の陸橋を越え、国道21号線を過ぎ、新幹線のガード下をくぐった先に赤い大鳥居があって、そこから500メートルくらい行くと、南宮大社だ。疲れ切った体では、1.5キロは遠く感じた。行ったら帰ってこなくてはいけないわけだし。それでも行く気になったのは、やはり南宮大社が私を呼んでいたのだろう。関ヶ原の古戦場でついてきたかもしれない武将の霊を、南宮大社に届けて置いてこなくてはいけないというような思いもちょっとあった。足取りがすごく重かったのは、武将を3、4人背中に背負ってたからだったのか!?
 次回、垂井編第3回は南宮大社の紹介となる。そのあと番外編があって、いよいよこのシリーズも完結だ。ちょっと長く引っ張りすぎた感もあるから、そろそろ終わってもいい。

中山道垂井宿跡は江戸情緒ではなく昭和の名残 ~滋賀岐阜歴史編15

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
垂井1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 滋賀・岐阜歴史巡りの旅は、醒ヶ井から始まり、柏原、関ヶ原を経て、垂井(たるい)に辿り着いた。このときの時間は夕方の4時前だったろうか。1時間半くらい軽く回って、明るい内に大垣へ移動してそこで締めくくるつもりが、垂井でさんざん歩くことになって、ここで日没を迎えることになる。南宮大社への行き帰りは、よろめくような足取りだった。
 そんな垂井編を今日から始めよう。全3回か4回になりそうだ。
 垂井は、西の関ヶ原と東の大垣という有名どころに挟まれて地味な存在となっているけど、昔は美濃国の国府があった場所であり、交通の要所として重要なところだった。中山道の宿場町としては、江戸から数えて58番目の宿場であり、美濃路の起点でもあった。
 芭蕉も「奥の細道」で、東北、北陸を回ったあと福井県の敦賀を南下して、関ヶ原から垂井を通って、大垣で旅の結びとしている。芭蕉翁、このとき46歳。150日で2,400キロも走破したという異常に元気なおじさんだ。歩きのスピードが速すぎるというのも、芭蕉が忍者だったのではないかという根拠の一つになっている。その地にとどまって移動していない日もあって、一日30キロから50キロも歩いた計算となり、これは尋常ではない。
 戦国ファンなら垂井と聞いて真っ先に思い浮かべるのが竹中半兵衛の出身地ということだろう。南宮大社がある南宮山は、関ヶ原の戦いで毛利秀元などが陣を置いたところだ。どちらも歩くと遠いので、今回は行くことができなかった。竹中氏屋敷跡というのがあって、それはちょっと気になったのだけど。
 その他、垂井の見所といえば、やはり中山道沿いの町並ということになる。今回はそのあたりを中心に歩いてきた。

垂井1-2

 旧中山道は、駅の北西あたりにあるはずという漠然とした予備知識しかなくて、どの道がそうなのか、最初はよく分からなかった。東西の通りが何本もあって、どれがそうなのか判断がつかない。すべてがそれっぽくもあり、それらしくもない。それまで見てきた醒ヶ井や柏原とはずいぶん様相が違っていた。古い家屋と新しい建物が混在していて、車通りも人通りも多い。江戸の情緒というよりも、昭和の古い商店街という印象が強かった。
 中山道沿いの古い町並みというと一本の街道沿いに旅籠や商店などが並んでいるのが普通だけど、垂井は縦横に古い家並みが残っている。そのあたりも最初戸惑った要因だ。

垂井1-3

 ものすごく昭和ムード色濃いパチンコ屋さんがあった。こんな建物がまだ残ってるんだと思って見ていたら、今も営業中で驚いた。中から軍艦マーチが鳴っている音が漏れ聞こえていた。この一角だけ昭和50年代みたいだった。中山道以前にここでちょっと感動した。

垂井1-4

 この通りがおそらく旧中山道だろうと思う。
 垂井宿は、長さ約760メートルで、旅籠の多い宿場だった。最盛期は27軒もあったという。本陣、脇本陣が1軒ずつあって、今はもう残っていない。
 ずっと西の方に歩いていくと、一里塚がある。中山道の一里塚で残っているのは、板橋区と垂井の2つだけだそうだ。かつての街道沿いは松並木になっていて、それも一部がまだ残されている。

垂井1-5

 レンガ造りの建物もあった。戦前のものか、もっと古いものなのか。
 一台の車が前でとまって、小さな子連れの母親が、家についたよと言いながら車をしまっていた。これが家なのか、この奥に家があるのか。
 垂井の町は、中山道の面影以外の部分でも変化に富んでいて楽しませてくれる。

垂井1-6

 宿場としての名残よりも、昔の町家がよく残っているのがここの特徴だ。
 観光地としての意識は低い。観光客用のおみやげ屋みたいなものもなく、食事をするところなども少なそうだった。柏原の方が旧中山道をアピールする気持ちが強く出ていた。垂井は、ポツリポツリと中山道という標識などがあるくらいで、本陣跡を示す石碑みたいなものも見あたらなかった。

垂井1-7

 ずいぶんほっそりした家だなと思ったら、旅館だった。奥行きがあるのか、左側に建物が続いているのか。
 まだ現役で営業をしているようなだった。かつての旅籠だろうか。

垂井1-8

 高い塔みたいなのは何だろう。火の見櫓ではないか。常夜灯か。見た目としては灯台っぽい。作りからすると、そんなに古そうではない。

垂井1-9

 中山道らしき道を進んでいくと、突き当たりに旅館があった。突き当たりというよりも、道がシケインというかクランクになっている。昔からこんなふうになっていたんだろうか。
 ここは有名な丸亀屋という旅籠で、創業230年、今も続いている老舗旅館だ。
 スピードを出しすぎた車にいつ突っ込まれてもおかしくないところに建っているのに、今も昔の姿をとどめているということは、みんなここを走るときは気をつけているのだろう。でもけっこう怖い。

垂井1-10

 手前の垂井宿とある街灯は新しいものだろう。玄関にかかっている旅籠と書かれた額は昔のものかもしれない。
 入り口の扉もずいぶん古いタイプだ。ただ、当時の入り口は南側(写真では向かって左手)にあったというから、この玄関はあとから新しく作ったものなんだろう。それにしたって昭和初期といった感じだ。
 二階には鉄砲窓があるというのだけど、どれがそうだったんだろう。

垂井1-11

 小さな社と、大きな山車蔵があった。左の社はどこの神社のものか分からなかった。山車蔵は祭りで使われる山車をここにしまっているのだろう。毎年5月のゴールデンウィークに、曳山祭りというのが行われているようだ。この時期はちょうど相川の鯉のぼりもあるから、垂井へ行くには一番いい時期なんじゃないか。
 9月6日にも中山道垂井宿まつりというのが開催されたようだ。私が行ったときも、パレードのコース紹介の看板が立っていた。このときも山車が出ていたのかもしれない。

垂井1-12

 このあたりも中山道というよりも昭和の面影が残る町並だ。愛知県津島市の本町通りに感じが似ている。


 結局、本陣、脇本陣がどこにあったのか分からずじまいだった。家の前の案内板には何が書かれていたのだろう。読むのを忘れていた。
 本陣の建物は、1780年に焼失したあと再建されて、明治時代は学習義校(今の垂井小学校)の校舎として利用されていたんだそうだ。それももう残っていない。
 古い家屋としては、わりとあちこちに残されている。ただ、続いて残っているところはほとんどなく、中山道の宿場町としての名残はあまり感じられない。それでも、古い町並みとしての魅力は充分なので、そういうのが好きな人にはオススメできる。
 明日の第二回目では、神社仏閣なども絡めつつ、今日の続きを紹介していきたい。

呼び寄せてくれたことに感謝して関ヶ原編は完結 ~滋賀岐阜歴史編14

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
関ヶ原4-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 関ヶ原編は、本編に収まらなかった写真を並べて終わりとする。陣跡などもいくつか巡ったので、そのあたりの写真を中心に紹介しておこう。
 家康最後の本陣が置かれた場所の近くに、田中吉政の陣跡も残っている。
 一般的にはあまり馴染みが薄いかもしれないけど、いろいろと功績を残した武将だった。堀作りが得意だったようで、この前行った近江八幡の八幡堀や岡崎城下の田中堀、福岡柳川の堀などの整備をして、城下町の基礎を築いた。
 関ヶ原ののちに、石田三成を見つけて捕らえたのが田中吉政だ。

関ヶ原4-2

 家康本陣跡にたたずむ戦国ファンと思われる人。看板を読んだり、写真も撮っていた。
 お互いに一人なら挨拶したりしてもいいんだろうけど、戦国トークが長引くとその後の予定に狂いが生じるのでやめておいた。関ヶ原を訪れているからといって、そんなにコアなファンとは限らないけど。

関ヶ原4-3

 笹尾山下の島左近陣跡と馬防柵(ばぼうさく)。
 馬防柵は、長篠合戦で、武田騎馬隊を防ぐために信長隊が築いたことで有名になったようだけど、長篠合戦は言われてるような大鉄砲隊と大騎馬隊の合戦ではなかったというのが最近の定説になりつつある。
 関ヶ原の戦いでは実際、どの程度の馬防柵があったのだろう。大谷吉継あたりがあちこちに作らせていたのだろうか。今あるものは当然昔のものではなく、近年復元されたものだ。

関ヶ原4-4

 ウォーランドに向かう途中にあった、古い家屋。
 昔は茶屋だったようだ。今は民家として使われているらしい。

関ヶ原4-5

 ウォーランドに入っていく道。のぼりがビリビリのボロボロになっていて、文字が読めない。ウォーランドを示す看板もなく、本当にこの道でいいのか不安になった。
 ウォーランドへ行く方は、このビリビリののぼりが目印です。

関ヶ原4-6

 女の人も一人で訪れていたウォーランド。なかなかコアなファンと見た。
 この人とはその後、別の箇所で2回再会することとなる。開戦地にもしっかり訪れていた。前に載せた開戦地の写真にも写っている。

関ヶ原4-7

 ウォーランドの池にいた、意味不明の龍の像。関ヶ原と龍は関係ないと思うのだけど、浅野祥雲の遊び心だろうか。

関ヶ原4-8

 ウォーランドを出て、帰り道で見つけた「子供専用カラクリ屋敷」。
 子供専用ってどんなだろう。やっぱり子供だましということか。
 敷地内では気づかなかった。隅っこの方にあったのだろう。

関ヶ原4-9

 島津義弘陣跡。
 島津義弘ファンは多いから、ここもけっこう感慨深いものがあるんじゃないか。
 それにしても、よくぞはるばる薩摩から関ヶ原までやって来たものだ。そして負け戦のあと、遙か遠い故郷までよくぞ無事に帰り着いたものだと思う。このとき島津義弘はすでに66歳。恐ろしく元気なおっさんだ。現代でももう定年で年金がもらえる年だというのに、戦国ではかなりのじいさんだ。見習うべきものがある。

関ヶ原4-10

 借り入れ前の稲穂の上を飛び回っていたのは、たぶん、ウスバキトンボだろう。この旅するトンボの話は前に書いた。
 関ヶ原ののち、江戸時代初期の米の総収穫量は約2,000万石だったといわれている。加賀100万石といえば、全収穫高の20分の1に当たるから、それはもう大金持ちだということになる。
 その後、新田開発で米の収穫高は増え、近年は減反でかなり減った。最盛期は昭和42年の9,600万石で、最近は6,000万から7,000万石くらいとのことだ。
 戦国から江戸時代を考えるとき、米の収穫というものがこの時代の日本の土台だったことは覚えておくべきだろう。特に鎖国になってからは基本的に自給自足だった。

関ヶ原4-11

 開戦地近くにある小西行長の陣跡。
 小西行長といえば高山右近とともにキリシタン大名として有名だ。
 そしてこの行長もまた、関ヶ原の戦いの原因を作った一人でもある。武断派の加藤清正とは何かと争いが絶えず、朝鮮の役でも常にいがみ合っていた。結果的にそれが石田三成ら文治派と武断派との対立を深めることとなり、関ヶ原の戦いに至る引き金になったと言える。
 関ヶ原では必然的に西軍につくことになり、かなり奮闘した。石田三成よりは武断派に近いところもあった。
 最後は捕まって切腹を命じられるも、キリシタンは自殺を禁じられているということで、斬首されることを選んだ。

関ヶ原4-12

 古戦場の光と影。
 静かな関ヶ原に、蝉の鳴き声だけが染み渡っていた。

関ヶ原4-13

 激戦地と彫られた石碑の中で休むカエルさん。
 関ヶ原の時代からずっとこの地で生きてきたカエルの子孫ということになるだろう。
 眠たい平和のありがたみを知る。

 今回で関ヶ原編は終了となった。明日からは場所を垂井へと移す。今回の旅の最終地点となったところだ。
 垂井では中山道の垂井宿跡を歩き、最後は南宮大社まで行った。疲れ切っていて、遠かったから行くのをやめようと思ったら、そういわずに来いと呼ばれた気がして、最後はヨレヨレになりながら辿り着いたのだった。行っておいて良かった。そのあたりについても、ゆっくり書きたいと思っている。
 関ヶ原のみなさん、私を呼び寄せてくれたありがとうございました。

料理も洋服同様コーディネイトが大事ということを思い知るサンデー

料理(Cooking)
カレーが邪魔サンデー

PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他



 今日のサンデー料理は、なんとなく居酒屋のメニューっぽい感じに始まって、残り物のカレーを流用したことが失敗を招く結果となった。
 最初に思いついたのが、つくね風のつみれというか、つみれ風のつくねというのか、白身魚の串焼き団子だった。その付け合わせとして豆腐の味噌田楽を連想したところまでは順調だったのに、あと1品が思いつかず、ふとカレーの残りがあったことを思い出したのがまずかった。残り物のカレーを流用することに頭がいってしまって、他の2品とのバランスを考えるのを忘れてしまった。
 結果的に、カレーコロッケの味が強すぎて和食2品を打ち消す格好になった。普通、カレーライスに味噌田楽やつくねなんておかずはない。客観的に判断すれば、この組み合わせは作る前から失敗だということが分かる。しかしそれは結果論に過ぎない。私は完成してみなければ何ができるか分からないノーコン料理人なのだ。狙い通りにいくはずがない。
 そんなわけで、バランスという点では失敗してしまった今日のサンデーではあったけれど、単品として見た場合、できとしては悪くなかった。残り物のカレーの流用にも成功した。ちょっと組み合わせを失敗しただけだ。

 豆腐田楽は、多少アレンジを加えている。
 木綿豆腐を軽く水切りして、アルミホイルを敷いた魚焼きグリルで加熱する。フライパンで焼くよりも水分が飛ばずにふっくらとして仕上がりになる。
 サトイモは、だし汁で柔らかくなるまで煮込む。塩、しょう油などで下味もつけておく。
 味噌は、白味噌を使おうと思っていたら、切れていた。今回は合わせ味噌を使った。
 酒、みりん、しょう油、砂糖、味噌を混ぜて加熱して、白ごまを加えて、だし汁でのばす。冷めてから卵黄を入れてかき混ぜて完成だ。味噌味に深みとまろやかさが出て、美味しくなるのでオススメしたい。

 つくねとつみれというのは、単純に肉で作ればつくねで、魚で作ればつみれだと思っている人が多いかもしれないけど、実は違う。これは、調理方法による違いで、つくねは捏ねるから来ていて、つみれは摘み入れが語源となっている。つまり、手や器具でこねて形を整えたものがつくね(捏ね)で、スプーンやしゃもじなどで掬って摘み入れたものがつみれというわけだ。
 なので、魚の身を丸めて料理したものはつくねで、ひき肉などをスプーンで掬って湯に入れて煮るといった料理があったとすればそれはつみれということになる。けっこうややこしい。
 今回私が作ったのは、白身魚の刻みとタマネギのみじんを混ぜて、小麦粉をつなぎにして丸めて焼いたものなので、これはつみれと呼ぶのが正解だ。
 ついでに書くと、この料理のように串焼きで間に長ネギを挟んでいるものをねぎまと呼ぶのが一般的になっているけど、もともとねぎまというのはネギとマグロを煮込んだ鍋料理のことだった。それがのちにネギとマグロを交互に串に刺した料理になり、いつからかマグロが焼き鳥になり、そのままねぎまという料理名が定着したのだった。なので、本来ねぎまの「ま」は間ではなくマグロのことだったのだ。
 といったようなことを居酒屋で自慢たらしく長々と語ると嫌われやすいので注意が必要だ。うんちくは問われたときにさりげなく語るのがコツで、聞かれてもいないのに披露するのは嫌味でしかない。私も気をつけよう。

 右手前が例のカレーコロッケだ。
 ジャガイモをレンジとお湯で柔らかくして、つぶしたものにタマネギ、塩、コショウ、カレー、とろけるチーズを加えて混ぜ合わせてタネを作る。あとは普通のコロッケと同じように、小麦粉、溶き卵、パン粉で衣をつけて揚げるだけだ。
 ただ、今回は面倒だったので、フライパンで揚げ焼きにした。なんとなく卵とじにしてみたら、カツ丼風になった。
 カレーだれはカレーそのままでは芸がないので、しょう油、マヨネーズ、みりん、酒、唐辛子を混ぜ合わせて加熱して作った。
 余ったカレーの一つの流用としてオススメしたい。ジャガイモの代わりにご飯を使ってライスカレーコロッケみたいにしてもいいかもしれない。お弁当なんかによさそうだ。

 今回の教訓は、やはり料理というのは組み合わせが大事だということだ。1品異色のものが入るだけで全体のバランスを大きく崩すことになりかねない。服のコーディネイトと同じだ。テイストは合わせる必要がある。
 夕飯を食べ終わって、ふと外を見ると、雲の切れ間からきれいな満月が顔を出していた。そうだ、今日は十五夜お月さんだった。しまったと思ったときにはもう遅かった。せっかくの中秋の名月だったんだから、それにちなんだサンデー料理にすればよかった。満月をイメージさせる料理も考えれば何かありそうだ。卵を使った料理とか、まん丸料理3品とかという手もあった。月見団子を買うのも忘れていた。失敗した。
 来週は秋分の日の前だ。秋の彼岸といえばおはぎだけど、それをそのまま夕飯にするのはきつい。何かお彼岸にちなんだ料理というのを考えてみよう。季節としてもそろそろ秋だから、秋の食材を意識していこう。

関ヶ原の戦いを思い、関ヶ原の今を考える ~滋賀岐阜歴史編13

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
関ヶ原3-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 関ヶ原編としては今日が5回目になる。関ヶ原の戦いについてと、ウォーランドについて書いてきたので、あとは神社仏閣や陣跡などの写真を2回に分けて紹介していくことにする。
 上の写真は、駅から少し西に歩いて線路を渡った先にある、東首塚という場所だ。名前からしてすでに恐ろしい。線路の南には西首塚もある。今回はそちらまで回れなかったので、東首塚の方で手を合わせておいた。東が東軍で、西が西軍なのかと思ったら、そうでもないようだ。西の方が規模が大きく、線路を敷くときに相当数の白骨が出てきたという。
 東首塚の隣には、首洗いの井戸というのがあって、合戦のあと、家康による首実検のために西軍兵士の首をこの井戸で洗ったことから名づけられた。
 その後、ここの領主だった竹中家に家康が命じて首塚を作らせたという。
 胴体は捨て置かれたのだろうか。この地の農民などが後片づけをしたのかもしれない。
 写真に写っている赤門と堂は、昭和15年に名古屋の護国院から移築されたものだそうだ。大日堂は、戦没者の供養堂になっている。
 日本のみならず、世界中で昔は斬首、打ち首というものがあったので、首というものに対しては現代人ほど抵抗がなかったのだろう。ヨーロッパでも中国でも、古くから斬首は行われていた。
 日本の武士は、負ければ自分の首は敵の手に渡ることを前提として考えていたから、常に顔には気を遣っていたという。場合によっては薄化粧をしていたともされている。今でも、首を洗って待っていろとか、会社を首になるなどの表現として残っている。戦国時代は、討ち取った相手兵士の首級が自分の手柄の証拠になった。
 江戸時代になると、獄門(ごくもん)というのが刑罰として定着する。打ち首獄門というのは、首を落としたあと、首を3日間台の上に乗せて見せしめとした。もともとは獄舎の門の前に置いたことからこの名がつけられた。
 実は獄門というのは明治に入ってからも続いていて、完全に廃止されたのは明治14年のことだった。敵討ちの廃止も、明治6年のことだ。
 わりと最近まで日本人は刀を持ち、首を切り落とす民族だった。生魚は食べるし、外国人から見たら野蛮な国民と思われても仕方がない。

関ヶ原3-2

 家康が最後の本陣を置いて、首実検を行った場所は今、陣場野公園になっている。その一角に、御霊神社(みたまじんじゃ)があった。地図では貴船神社とあるのだけど、それはまた別にあったのだろうか。見つけることができなかった。
 この御霊神社も新しく、関ヶ原380周年の昭和55年に、戦死者の霊を慰めるために建てられたものだそうだ。毎年9月14日に慰霊祭をしてるというから、明日がその日に当たる。
 関ヶ原の史跡は昭和に入ってからのものが多いようで、それまでの明治や大正時代はどんなふうになっていたんだろう。江戸時代を生きていた人たちにとっての関ヶ原というのは、どんなものだったのだろうか。忘れたいところだったのか、戦勝記念の観光地みたいにはなっていなかったのか。関ヶ原には中山道の宿場町もあったから、ついでに古戦場跡を見物していくといった感覚があったのかなかったのか。
 家康や歴代の徳川将軍が関ヶ原に何か特別なものを建てたとか、記念の場所としたといったような形跡は見られない。陣跡にしても、ずっと後世になってから石碑などを建てただけで、江戸時代などは何もない場所になっていたのかもしれない。

関ヶ原3-3

 陣場野公園のすぐ外には、関ヶ原町歴史民俗資料館がある。この日は月曜日で定休日だった。
 入館料は310円で、関ヶ原関連の展示や資料などが充実しているようだ。おみやげもののグッズもたくさんあって、わざわざ遠くからそれを買いに来る人もいるんだとか。
 関ヶ原を一日しっかり回るなら、最初にここを訪れて、イメージトレーニングをしてから史跡巡りをするとより楽しめるんじゃないだろうか。レンタサイクルの貸し出しもここで行っている。
 関ヶ原は400周年の2000年に、かなりいろいろなイベントをやって、多くの人が訪れて、その年はかなり盛り上がったという。ただ、これといった観光の目玉を持たない関ヶ原は、集客という点では昔も今も厳しいことに変わりはない。訪れる人も、戦国に興味がある人が大部分で、一般人の観光客は多くない。史跡巡りをしても、あまりお金は落としていってくれない。何を見に行くといって、これといったものが何もないのだ。せめてお城か、有名な神社仏閣でもあればよかったのに、そういうものが一つもない。ウォーランドに関ヶ原全体を背負わせるのは荷が重すぎる。
 今年に入って、関ヶ原町観光協会も解散してしまったとのことだ。関ヶ原の戦いを観光資源とするのは難しいのだろうけど、現地に足を運べば感じることもあるし、得られるものもあるから、できるだけ多くの人に来てもらえるような工夫は必要だと思う。

関ヶ原3-4

 ウォーランドの隣に宝蔵寺というお寺があった。ここにもノーモア関ヶ原合戦と刻まれた石碑がある。これが関ヶ原のスローガンになっているのか。
 関ヶ原以降、幕末の内乱はあったものの、大きな内戦というのは起きていない。今後も内戦の要素は見あたらない。関ヶ原というのは、国内の戦いを終わらせるということでも非常に大きな意味を持つ戦だった。わずか400年ちょっと前まで、日本で陣取り合戦の殺し合いをしていたというのも、今となっては不思議に思える。戦国時代にロマンや憧れを抱くのは、やっぱり間違いじゃないか。関ヶ原というのは、戦国の生臭さが現在まで残る唯一の場所かもしれない。そういうことを実感するということにおいても、関ヶ原の地を訪れる価値はある。

関ヶ原3-5

 ウォーランドへ行くと思わせて、実際にみんなが行っていたのは、こちらのおみやげ物屋さんだった。でもなんでこんな人里離れた場所に唐突にあるんだろう。駅の近くでもなく、近くにあるものといえばウォーランドしかない。ウォーランドが先にあって、あとからくっつくようにしておみやげ物屋ができたのだろう。大きなおみやげ物屋を作ろうとなったとき、ここしかなかったところに関ヶ原の苦しさがある。もう少し合戦以外の部分で観光施設が必要ではないか。遊園地でもないよりあった方がましにも思う。

関ヶ原3-6

 こんなところに丸ポストが。年季が入ってるから、以前からずっとあったのだろう。昔は観光地で絵はがきを書いて送ったりしただろうから、そのために設置したのかもしれない。
 ちょっと奥まった目立たないところにあって、私が写真を撮っていたら、おっさんたちが寄ってきて、おっ、こんなところに丸ポストがあるぞ、とみんな喜んでいた。

関ヶ原3-7

 神明神社というのを地図で見つけて、とりあえず行ってみた。特に何があるというわけでもなく、どういういわれの神社かもよく分からなかった。昔から村にあった氏神様か。
 この裏手あたりに、島津義弘の陣跡がある。その更に奥が開戦地で、このあたりは道のつながりが分かりづらくて、ちょっと迷った。うろうろしていたら、地元のおじさんが声をかけてくれて、なんでも聞いてちょうだいというので、開戦地への行き道を訊ねたら親切に教えてくれた。それでもまた迷ったのだけど。

関ヶ原3-8

 陣跡は次回まとめて紹介することにして、関ヶ原の駅に戻ってきたときに寄った寺社の写真を出してしまう。
 これは確か円龍寺というお寺だったと思う。表に明治天皇御膳水と彫られた石碑が建っていた。明治天皇がこの地を訪れたとき、ここの井戸水を出したか何かしたのだろう。明治天皇はなんでこんなところへやって来たのだろう。関ヶ原の古戦場を見物に来たのか。

関ヶ原3-9

 すぐ隣にある宗徳寺。
 この寺の由緒なども調べがつかなかった。関ヶ原の戦いに関係があるのかどうか。
 今回は関ヶ原宿を飛ばしてしまったので、町の歴史なども分からないままだった。いつか機会があれば、関ヶ原宿は訪れたい。大垣も米原も行けなかったから、次回は今回取りこぼしたところと絡めて東海道本線散策をしてみるのもいい。

関ヶ原3-10

 そのまた隣にある八幡神社。
 ここは郷社とあるから、関ヶ原以前から建っていた神社だろう。くわしいことは分からない。

関ヶ原3-11

 駅裏風景のヒトコマ。
 駅周辺は、これといった商業施設もなく、閑散とした印象を受けた。一本南の21号線や、更に南のエリアが関ヶ原の町なんだろう。中山道もそちらにある。心情的にも、古戦場跡を住宅地にするのは抵抗があったのかもしれない。
 駅北は工場が建ち並んでいる。

関ヶ原3-12

 陸橋から金網越しにホームと電車を撮る。客観的に見たら、このときの私は完全に電車の人だった。

関ヶ原3-13

 関ヶ原の戦いと関ヶ原町の今ということで見てくると、いろいろと思うところもあった。もう少し有効利用できないものかと考えたり、これはこれでいいのかとも思ったり。私としては、今回訪れたことはとてもよかった。あらためて関ヶ原の戦いについて考えるきっかけになった。
 もう一回関ヶ原編を続けたい。もうほとんど書くことは書いてしまったのだけど、まだ写真がけっこう残っている。それを出しておかないともやもや感が残る。明日はサンデー料理だから、二本立ての一本目にする予定だ。それで関ヶ原編を完結させよう。

ノーモア関ヶ原、ノーモア・ウォーランド<後編> ~滋賀岐阜歴史編12

施設/公園(Park)
ウォーランド2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 関ヶ原ウォーランドは、人を選ぶ。ここは選ばれた者しか楽しめない施設である。真面目な関ヶ原ファンと不真面目な関ヶ原ファンという分け方は乱暴だろうけど、遊び心を持って臨まないと、腰が砕けてしまうから気をつけて欲しい。
 個人的にはすごくオススメのスポットで、ぜひ行ってみてくださいと思いつつ、推奨できる人は限られるようにも思う。史実と全然違うとか、像の完成度が低いとか、そういう視点で見られてしまうと、この施設は厳しいものがある。浅野祥雲視点で見てもらえると、こんなに楽しめるところはない。
 浅野祥雲というのは、岐阜県が生んだ孤高のコンクリート像作家で、愛知県日進市の五色園や、犬山の桃太郎神社などでお馴染みの作家だ。このブログでは、少し前に尾張旭の巨大身代わり弘法を紹介したので、覚えている人もいるかもしれない。私はウォーランドに関ヶ原の等身大ジオラマを見に行ったのではない。浅野祥雲のコンクリート像を見に行ったのだ。そして、大満足してここをあとにすることになる。
 駅からの公共交通機関はないので、車以外の人はとりあえず歩くしかない。普通の状態なら徒歩20分ほどだろうか。私はへたばる寸前で足取りが重くて30分くらいかかってしまった。
 歩いている私を追い越して、ウォーランド方面に続々と車が入っていく。観光バスまで行くから驚いた。まさか、そんなに超人気スポットだったのか!? と思ったら、同じ敷地内におみやげ物屋や食堂などがあって、みんなそちらを目当てに入って行っていたのだった。なるほど、そういうことだったのかと納得した。
 ただ、その中でもウォーランドに興味を示す人が多少なりともいて、ついうっかり入ってしまう人が後を絶たない。そういう人たちの大部分は、入園料の700円を返せという気持ちになるんじゃないかと思う。関ヶ原の戦いに関する本格的な資料館のようなものを期待して入ってはいけない。ここはそういうところではないのだ。
 それにしても、ウォーランドって。ウォーとランドは基本的にくっつかない単語だと思う。こんな強引な和製英語は、長島監督のメイクドラマとウォーランドくらいだ。しかも、ウォーランドの方がチョーさんよりも30年以上早い。

ウォーランド2-2

 入り口から入っていきなり記念写真ポイントが出迎える。このタイミングでこれが来るかと、いきなり意表を突かれる。入り口の正面だけに、ここで看板から顔を出して記念撮影をするのは照れくさい。一周回って感覚が麻痺した最後に撮ればいいのか。きっと、そうなんだろう。入ってすぐではまだウォーランドに体が馴染まない。素の状態でこれは厳しい。
 出口まで戻ってきた頃には、エンドレスでかかっている「あゝ決戦の関ヶ原」を無意識のうちに口ずさんでしまっているかもしれない。

ウォーランド2-3

 敷地の広さは、約3万平方メートル。1万坪といえば大豪邸だ。歩ける道がだいたい決まっているので、広いような狭いようなよく分からない感じもある。草ボーボーのところにコンクリ武士像が埋まっていたりもするので、自らかき分けていけば更に広い戦場を空想できるだろう。順路なんてあってないようなものだ。時間にすると、短くて30分、長くて無限大。一般的には1時間弱程度か。
 コンクリ像の総数は230体以上。すごいぞ、浅野祥雲。ひとりで全部作ったんだろうか。
 関ヶ原の戦いの配置図が漠然と再現されているようだ。実際に自分が中に入ってしまうとよく分からないから、できればどこかに展望台のようなものが欲しかった。
 昭和39年、関ヶ原ゆかりの人々の出資によって建ったとのことだ。確かに、儲け主義という印象は薄い。ただ、コンクリ像は5年に一度塗り替えていて、その費用が300万円ほどかかるというから、維持していくのはなかなか大変のようだ。
 敷地内には、資料館と、展示館の2館があって、上の写真は資料館の方だ。大きな地図に配置などが描かれていて、スピーカーから合戦の詳しい様子の説明が流れている。それを聞くには300円かかるらしいので、誰か他の人が聞いているのに便乗するのがいい。
 もう一つは展示館で、武具や甲冑などがたくさん展示されている。かなり使い込まれていて、更に博物館のように手入れもされていないので、相当におどろおどろしい空気感が漂っている。撮影禁止とあったので撮らなかったけど、そうじゃなくてもあまり撮りたくなるようなものではなかった。関ヶ原全体の中でも、あそこが一番怖いところかもしれない。

ウォーランド2-4

 主だった武将にはこのように名前がつけられていて分かりやすい。というより、名前が書かれてなければ誰が誰だか分からない。肖像画が残っている武将は限られているから、だいたいこんな感じだったんじゃないかという想像で作ったのだろう。似てるとか似てないとか、私には判断がつかない。
 宇喜多秀家は肖像画が残っている。この像は似てるような似てないような、微妙な感じ。
 宇喜多秀家といえば、西軍の主力部隊として戦った武将であり、関ヶ原組では最後まで生き残った人物だった。いったん、薩摩の島津義弘を頼って九州まで逃げ、その後差し出されて、八丈島に島流しになった。ここで50年生きて、83歳でこの世を去る。徳川幕府はすでに4代将軍家綱の時代になっていた。
 秀家といえば、豪姫のだんなさんというイメージが強い人もいるだろう。前田利家の娘で、秀吉の養子になった女の子だ。豪姫は、兄の前田利長のもとに送られて、金沢で生涯を終えることになる。

ウォーランド2-5

 鬼の島左近ともあろう者が、こんなところでひっくり返っている。黒田の鉄砲隊にやられたところを表現しているのだろう。
 あちこちの武将の家臣となったあと浪人しているところを、石田三成が惚れ込んで、どうしても仕官して欲しいとお願いされて家臣になった剛の者だ。当時三成はまだ4万石だったのに、左近を2万石で雇ったのは有名な話だ。
 関ヶ原で鬼神のごとく戦ったあと討ち死にしたとも、関ヶ原のあと京都で生き延びたとも言われ、伝説となった。後年、多くの小説などでも描かれることになる。首は見つかっていない。

ウォーランド2-6

 松尾山にいて動かない小早川秀秋に向かって威嚇射撃をする徳川鉄砲隊。でもそれなら、もっとずっと上の方を狙わないと、遠くの高いところに秀秋には届かない。そもそも届く距離でもないし、秀秋にしてみれば、あの距離で自分を狙って撃ってきていることが分かったかどうか。

ウォーランド2-7

 動かない小早川秀秋本陣。
 小説やテレビなどでは、ものすごく小心で情けない武将として描かれるけど、実際にそうだったのかどうか、本当のところは分からない。秀吉がいったんは養子にした人物だし、小早川家の養子になったあとは兄弟に勝って家督を継いでいる。本当に無能だったら、関ヶ原で1万7千の兵は動かせない。朝鮮の役でもそれなりに活躍しているし、関ヶ原の延長戦である佐和山城攻めでも功績を挙げた。関ヶ原のあとは、岡山城主となって、岡山城の改築や、城下町の整備なども行っていて、駄目ぶりは見えない。
 死因についても狂い死にと言われることが多いけど、実はよく分かっていないというのが真相だ。
 関ヶ原でも上手く立ち回ったと言えばその通りだろう。

ウォーランド2-8

 今まさに割腹しようとしている大谷吉継。それにしては、あまり切迫感のない陣地だ。
 大谷吉継の首は、敵に取られないようにと家臣が地中深く埋めてしまって見つかっていない。
 豊臣政権下では、石田三成と共に官僚的な役割を果たした吉継は、軍略家として大変才のある人物だったとされている。秀吉も吉継を高く買っていて、100万の兵を与えて自由に指揮させてみたいと語ったと伝えられている。
 家康とも親しく、関ヶ原ではもともと東軍につこうとしていたとも言われている。それを吉継に口説かれて、ついに友情に殉じることになった。家康は大変惜しんだという。
 戦国好きには大谷吉継ファンがけっこう多くて、関ヶ原のお墓参りに行く人もいる。ちょっと外れの山の中なので、今回私は行けなかった。

ウォーランド2-9

 石田三成の本陣。
 どの程度の覚悟があったのか知らないけど、戦線不利と分かって伊吹山にとんずらしてしまったのは、よくない。ここで颯爽と敵陣深く突っ込んでいって壮絶な討ち死にをしていれば、少しは後世の評価も変わっていただろうに。
 西軍の敗因は、結局のところ、石田三成だったということだ。もっと有利な戦いでも、小早川秀秋が裏切らなかったとしても、最終的には徳川家康が勝っていたんじゃないか。家康と三成では役者が違いすぎた。

ウォーランド2-10

 おととしのNHK大河「功名が辻」でお馴染みの山内一豊(やまうちかつよと)もいた。関ヶ原では毛利や長宗我部をおさえるための部隊で、実際にはほとんど戦っていない。ただ、会津討伐隊には加わっていて、戦後は土佐藩初代藩主となった。
 豊臣政権下で少しずつ着実に出世していったのは、やはり千代の内助の功によるところが大きかったのか。一時は掛川城の城主にもなって、城下を整備している。
 土佐へ行ってからはものすごく苦労したようだ。それまでの長宗我部の支持が高かっただけに、一豊のやることなすことことごく反発され、かなり弾圧めいたこともしている。それで、山内家と元々土佐の家だったところを明確に区別した支配体制を作り上げて、それが幕末の浪人坂本龍馬を生む土台にもなった。

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 首実検をする家康本陣。
 ここへおのおのが取った首を持ってきて、その数で報償が決まったのだった。
 戦というのは勝者ほど残酷にならざるを得ないわけで、信長だけが特別残虐というイメージがついて回っているけど、秀吉も家康もえげつないことをたくさんしている。戦国のヒーローというのは、語られるほど格好いいものでも、正しいものでもない。

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 何故か、関ヶ原の戦場に迷い出た、武田信玄の亡霊。自ら亡霊を名乗るのも変だし、なんで信玄がノーモア関ヶ原などという半端な英語を使うのか。だいたい、信玄が合戦をいさめる理由もない。むしろ、上杉謙信の方が納得ができる。
 このウォーランドの武将人形、実はすべて亡霊という設定らしいのだ。戦場をそのまま再現したものではないんだとか。

 というのが、関ヶ原ウォーランドの全貌だ。果たしてあなたは行く気になっただろうか。
 もう少し真面目に関ヶ原を学びたい場合は、関ヶ原町歴史民俗資料館というのがあるので、そちらへ行くことをオススメする。
 関ヶ原ウォーランドでは、次の連休、9月14、15日といろいろな催し物が行われるようだ。古武道奉納演武会だとか、戦国コスプレイヤーになったりもできるらしいから(1,000円)、戦国野郎、戦国お嬢は、この機に行くべし。戦国グッズの販売もあるという。
 私はしっかり見て回ったから、二度行くことはないだろう。あと30年くらいしてまだ続いていたら、そのときはもう一回行ってもいい。ノーモア関ヶ原だけど、ノーモア・ウォーランドとは言わないで。

ウォーランドで関ヶ原の兵士になった気分<前編> ~滋賀岐阜歴史編11

施設/公園(Park)
ウォーランド1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)、関ヶ原にウォーランドが開園した。日本中がオリンピックに夢中になっているとき、関ヶ原の人々はウォーランドの誕生に湧いていた……のかどうかは知らない。しかし、この超B級スポットが半世紀近くも続くことを予測していた人は多くなかったんじゃないか。赤ん坊のときにウォーランドに連れて行かれた人も40を過ぎた。天晴れ、ウォーランドとたたえたい。
 おととい、昨日と、関ヶ原の戦いについて長々と書いて、読むのも疲れたと思うから、今日はちょっと息抜きとして、ウォーランドの写真を紹介したい。今日はあまりゆっくり書いている時間がないこともあって、とりあえず写真だけ並べて、説明は明日以降にする。
 いきなりこんな写真を見せられても何が何だかよく分からないと思うけど、まずは写真を見て、想像を膨らませてみて欲しい。

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 最大限の想像力を発揮して、今自分が関ヶ原の戦いに参加していると思い込んでみる。
 足りないのはウォーランドの魅力ではない。自分の想像力だ。

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 後れを取るな。続けー。と言われている感じ。
 戦場では足が遅いとけっこう不利だということに気づく。逆に速すぎても危険にさらされる。
 剣豪といえども限界がある。最後に物をいうのは体力だ。

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 騎兵隊はやっぱり有利だ。槍を持てば攻撃範囲も広くなって、刀の歩兵にはそう簡単に負けない。
 ただ、戦国時代の馬は、サラブレッドではなく、背が低くて足の遅い木曽馬だったはずで、戦場における騎兵隊というのが実際にどの程度活躍していたのかは分からない。今の時代劇のように高速で駆け回って敵を蹴散らしていたわけではないことは確かだ。

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 落馬する兵士。なかなか演出が細かい。
 馬もちゃんと、背が低い木曽馬っぽく作られている。

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 ウォーランド44年の歴史が、自然のナチュラルさを作り上げた。木やら草やらボーボーで、なんだかすごいことになっている。ある意味リアルだ。
 1600年当時の関ヶ原の戦場は、実際にはどんな感じになっていたんだろう。案外、こんなふうに雑草が生い茂る荒れ地だったのかもしれない。

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 私は選べるなら鉄砲隊に配属して欲しい。最前線で斬り合うよりも、後方で鉄砲を撃つ係の方がいい。
 ただ、鉄砲隊は敵に近づかれたらひとたまりもない。うっかりすると暴発して自爆しそうだし、必ずしも安全というわけではない。

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 死闘を繰り広げている戦場とは思えないのんびりムード。ここだけ切り取ると、決闘シーンみたいだ。

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 騎兵隊に迫られて、うわーっと尻餅をついてしまったところ。駄目だ、やられる。こうなったらむしろ、転がって逃げた方がいい。馬は急には止まれないし、曲がれない。

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 うぉーっと斬りかかっていくところ。右手からも仲間が来ているから同時攻撃だ。
 やつが振りかぶっているのは刀じゃない。棍棒みたいなものか。確かに、攻撃するには刀や槍だけでなく、打撃系のものでもいいわけだ。戦国時代の戦で、打撃系の武器はどれくらい使われていたのだろう。
 そういえば、ここには弓矢隊がいなかった。これはおかしい。弓矢隊も当時は重要な部隊だった。

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 鉄砲隊のまなざしがあまりにも本気っぽくて、ちょっと怖い。

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 合戦というのは、こういう個人同士の局地戦が拡大したものなのだということをあらためて知る。個人同士の殺し合いが、結果として軍としての勝ち負けになる。

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 負けるとこうなる。
 家康のところに運ばれていく首たち。これによって手柄と報償が決まる。

 今日のところはこれらの写真を出すだけ出して、続きは明日以降としたい。
 待ちきれない方は、明日にでも現地へ行ってみてください。魅惑のウォーランドがあなたを待っている。

<関ヶ原2>戦場跡に17万人の声も影もなし ~滋賀岐阜歴史編10

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
関ヶ原2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 昨日から書いてきたように、事実上の関ヶ原の戦いは1598年の秀吉の死から始まり、2年後の1600年に、その集大成としての合戦があった。ただしそれは、結果を知った私たちから見た視点であって、当事者たちにとっては先の見えない賭けという部分が大きかったに違いない。関ヶ原と前後して、全国各地で直接的、間接的な戦がたくさん起きている。関ヶ原地方でもないのに、関ヶ原の戦いのときに兵火で焼け落ちたという神社仏閣がたくさんあるのはそのせいだ。
 特に上杉景勝がいた東北・北陸や、島津などがいた九州では大きな動きがあった。そのあたりまで詳しく書いていくと、また長くなってとりとめがなくなるから今回はやめておく。
 戦いに参加すべき何人かの有力武将が国に残ったままだったのは、それぞれの事情があったのと、まさか合戦が一日で終わるとは思っていなかったというのと両方あったのだろう。西軍の主役の一人とも言うべき上杉景勝は、東軍についた伊達政宗や最上義光らと接していることでうかつに国を空けることができず、結局、伊達と結んだり最上と小競り合いをしてるうちに関ヶ原は終わってしまった。東軍の加藤清正なども国にいて関ヶ原には参加していない。あるいは立花宗茂のようにやる気満々だったのに前哨戦に時間を取られて本編の合戦に参加できなかった武将もいた。西軍に立花宗茂が一人いただけでも戦線は大きく変わっていたかもしれないと言う人も多い。
 遅刻組の代表が家康の息子の秀忠だ。先発隊として出発した福島正則、池田輝政、黒田長政、浅野幸長などはもともと豊臣恩顧の武将たちで、純然たる徳川軍ではない。徳川直属の本隊は、秀忠が引き連れていた3万8千の部隊だった。秀忠軍がもし間に合っていれば、東軍は合計11万人となり、数の上でも最初から有利になっていた。秀忠軍は、途中の通り道でついでのつもりで仕掛けた真田昌幸・幸村親子との籠城線でさんざんに手こずり、とうとう関ヶ原に間に合わなかった。真田軍5千に対し、3万8千という圧倒的な数でありながらだ。途中であきらめて先へ進むべきだとか、ここで落とせなければ恥だなどと秀忠軍の中でももめていたらしい。
 もう一つの遅刻組として、前田家がある。母親のまつを人質に取られている利長は、当然東軍につかなければならないし、単につくというだけではなく手柄を立てる必要もあった。いち早く自ら2万5千の兵を率いて、金沢城から西に向かって進軍を始めたのが7月26日。小山評定が開かれた2日後のことだ。途中には西軍についた小松城の丹羽長重がいた。ここは難攻不落の城ということで避け、同じく西軍の大聖寺城山口宗永を攻めにかかった。ここを苦労してなんとか落として進軍を続ける先に、西軍の参謀となる大谷吉継の敦賀城がある。しかし、ここで大谷吉継が流した噂や作戦にさんざん翻弄され、最終的には関ヶ原に参加することができなかった。ただ、これを家康は責めず、逆に加増となり、加賀100万石の前田家は江戸時代も残ることになる。
 そんなこんなが本編の外側でも繰り広げられる中、いよいよ舞台は関ヶ原の戦いの当日へと移っていく。

関ヶ原2-2

 石田三成が陣を置いた笹尾山から関ヶ原の合戦場を見下ろすと、なんというか、すごく感慨ひとしおで、胸がいっぱいになる。
 小高い丘にもかかわらず、ここからは戦場がほぼ一望できる。北は伊吹山、南を鈴鹿山脈に囲まれ、東西4キロ、南北2キロの狭い盆地に、当日17万人の兵が一堂に会していた。見渡す限りの無数の兵を見て、三成は何を思っただろう。
 右手の天満山には西軍の主力・宇喜多秀家が控え、その奥には小早川秀秋がいる松尾山が見える。正面下には島左近が、右手前には大谷吉継がいて心強い。鶴翼の陣の配置は完璧とも言える。これなら勝てる、そう思ったんじゃないだろうか。
 現在の関ヶ原町の人口は約9,200人。関ヶ原の古戦場跡以外にこれといった観光資源もなく、平和な田園風景が広がっている。しかし、確かにあの日、ここで日本を二分した大きな戦があった。それは、歴史上の出来事というのではなく、400年ちょっと前にあった事実だ。この場所に立ってみると、そのことが少し実感できる。

関ヶ原2-3

 8月14日、東軍の先鋒隊である福島正則、池田輝政が清洲城に到着。その前の8月10日に西軍は大垣城に入っている。家康隊は、信州の平定を秀忠に任せて、自分はいったん江戸城に帰っていた。まだまだ裏工作が必要だったし、家康自身はこのときは長期戦を見込んでいたようだ。万全の態勢を整えてから、総仕上げとして合戦をするというシナリオを描いていたのだろう。
 しかしながらその思惑は次々にずれていく。秀忠軍にあわせて美濃あたりで合流しようと考えていた家康に対し、前線部隊はいきり立って、今や遅しと家康の到着をじりじりした思いで待ち続けていた。家康からはくれぐれも自重して勝手に行動しないようにという達しが届く。それでももう我慢がならなくなった先鋒隊は、21日、勝手に織田秀信が守る岐阜城へ攻め込んでいってしまう。ただ、この岐阜城(稲葉山城)というのは信長でさえ落とすのに苦労した守りが堅いので有名な城だったから、そう簡単には落とせないだろうと家康は見ていた。
 にもかかわらず、福島正則たちは猛攻撃を仕掛け、わずか3日で落としてしまった。これには家康も焦った。このままでは自分のプランが無視されて、前線が暴走していってしまう。勢いに乗った東軍先鋒隊は長良川、揖斐川を越え、ついに大垣城とは目と鼻の先の赤坂まで達してしまったのだった。
 ここにいたって、家康ものんびり構えているわけにはいかなくなった。このまま自分抜きで豊臣恩顧の武将たちが戦に勝ってしまった場合、戦後の自分の立場は一気に下がってしまう。秀吉が天下を取れたのは、本能寺の変のあとに山崎の合戦で明智光秀を討ったからだ。そのことは家康もよく分かっていた。
 8月27日、家康はついに江戸を出立することを決意する。前線にはくれぐれも先走るなと再三念を押している。家康の計算では、9月10日くらいに秀忠軍は赤坂に合流できると踏んでいたようだ。しかし、秀忠軍は真田親子に引っかかって前へ進めない。雨降り続きで連絡も悪くなり、状況もうまく伝わらなくなっていた。
 9月1日、これ以上時間稼ぎはできないと江戸城を立つ家康軍。9月の11日に清洲城に入ったとき、ようやく秀忠がまだ信州にいることが判明したのだった。家康は怒り、あきれたことだろう。何をやってるんだあいつはと。ここで家康は風邪を引いたと、清洲出立を一日遅らせている。秀忠を待ったというのもあるかもしれないし、狂った自分のプランをどうするか考え直すという意味もあっただろう。西軍がこもる大垣城を水攻めすることも考えていたようだ。

 一方の西軍にも合戦をもう少し遅らせたい理由がいくつかあった。三成自身、西軍全体の状況を完全には把握できていなかったのではないかとも思う。総大将である毛利輝元の態度もはっきりしない。大津城を攻めていた立花宗茂たちも、もう少ししたら合流できそうだった。
 何故、三成たち西軍は大垣城で籠城戦をせずに自ら関ヶ原に出て行ったのか。軍略家の大谷吉継などは当然籠城戦を主張したことだろう。長期戦に持ち込んで、秀頼を担ぎ出すという作戦もあったかもしれない。問題は家康がやろうとしているらしい水攻めだ。これは時間がかかっても、最終的には大軍を持ちこたえられなくなる作戦だ。それならいっそのこと、先に有利な陣形を整えて待ちかまえた方が勝機があると読んだのだろう。大谷吉継は野戦に備えて早くから関ヶ原の準備をしていたともいう。
 あと一つ、西軍が野戦をしなければいけない理由になったかもしれないことがある。それは、小早川秀秋の動きだ。結果的にこの小早川秀秋の寝返りによって形勢逆転で西軍は負けてしまうわけだけど、それは寝耳に水などではなく、大谷吉継などは早い段階からあいつは裏切りそうだと気づいていた。その秀秋が関ヶ原の合戦の前日に早々と松尾山に陣取ったのだった。本来ここは、毛利勢を置くはずだった場所だ。この動きがどうも怪しということになった。現に、大谷吉継は東軍の福島正則ではなく、西軍の小早川秀秋に対し正面に構えて陣を敷いている。寝返ることは始めから予想していた。秀秋にしても、自分は怪しまれているということに気づいていたかもしれない。それで、陣形を決められる前に自分から一番外側になる位置に陣取ったんじゃないか。
 9月14日。家康はついに秀忠軍の到着をあきらめ、東軍の最前線である赤坂に入った。
 この日、前哨戦として、島左近が提言して実現した杭瀬川の戦いというのがあった。前線で敵をおびき寄せてさんざんに打ち負かして見せた。この猛将島左近が関ヶ原でもっと活躍してれば、多少なりとも状況は違っていたかもしれない。島左近は、戦闘開始早々、黒田長政の鉄砲隊に側面から狙撃されて負傷してしまい、活躍できなかった。それで命を落としたとも、江戸時代を生き延びたとも言われ、消息不明で伝説になる。
 両軍ともに関ヶ原へと移動し、9月15日、朝霧の中で合戦は始まる。

関ヶ原2-5

 午前8時に始まった合戦は、まず東の福島正則隊6千と西の宇喜多秀家隊1万7千が激突し、押しつ押されつ両者譲らず。黒田長政隊5千4百と細川忠興隊5千は三成の本陣に突撃するも、島左近や蒲生郷舎らが奮闘して押しとどめて近づかせない。大谷吉継隊4千1百、戸田重政1千6百が藤堂高虎隊2千5百、京極高知隊3千らと激闘を繰り広げている。
 しかし、戦闘に加わっているのは一部で、まだ動いていない部隊も多い。中央の小西行長も動かず、島津義弘も戦況を見ている。
 1時間、2時間と一進一退、いまだどちらが優勢とも言えない状況が続き、午前10時、遠くからでは状況がよく見えないといらだった家康は、本陣を前へ進めた。
 一方の石田三成も、動こうとしない島津隊に対して出撃要請を繰り返す。島津隊はいまだその時期にあらずと動かない。松尾山の小早川秀秋も沈黙を守ったままで、右翼の脇坂、小川、朽木、赤座も参戦しようとしない。南宮山の毛利秀元も、東軍についている吉川広家に押さえ込まれて身動きが取れなくなっている。後ろに陣取った安国寺恵瓊や長束正家も動きを封じられてしまった。土佐の長宗我部盛親は、元々東軍につくもりで参加したのに、関を越えられずになんとなく西軍に組み込まれた形になってしまったので、最初から戦う気はなかった。
 激しく戦っている場所と、ピタリと固まったまま動かないところと、戦場は異様なコントラストだったろう。三成軍の前線がとうとう破られ、三成は早く参戦するように小早川秀秋に対して何度も合図ののろしを上げている。今や勝敗のゆくえは秀秋次第という様相を呈していた。
 東西両方から約束を押しつけられた格好の秀秋は、最後まで迷っていた。心情的には東に寝返るつもりだったのが、いざとなったら裏切り者という汚名が恐ろしくなってしまったのかもしれない。秀秋はこのときまだ19歳だった。
 業を煮やした家康がこのあと、秀秋の隊に向かって威嚇射撃をして、それに驚いた秀秋が寝返りを決意したというのが半ば定説になっている。しかし、現地へ行ってみるとこれは違うことが分かる。家康の隊から秀秋がいた松尾山までは距離がありすぎて、当時の種子島などではとうてい届かないし、銃声が聞こえたとも思えない。大砲ならともかく、銃声に恐れをなしたというのはおそらく違う。たまたま寝返るタイミングがそうだっただけだろう。このとき戦闘から4時間が経過した昼の12時だった。
 一斉に雪崩を打つように大谷吉継隊に突撃する小早川隊に対し、大谷吉継はしっかり準備をしていた。精鋭部隊を温存しておき、ここでそれを出して小早川隊を押し返した。ここまでは大谷吉継は読んでいた。しかし、ずっと動かなかった赤座、小川、朽木、脇坂の各隊が一斉に寝返って攻撃してきたのは完全な計算外だった。これで大谷隊は壊滅し、もはやこれまでと悟った大谷吉継は、その場で自刃して果てた。
 これで一気に形勢は東軍有利へと傾いた。
 片翼が折れた鶴はもう飛べない。右翼が総崩れとなり、福島隊相手に奮闘していた宇喜多隊も側面を突かれて崩れ始め、小西行長隊も持ちこたえられなくなった。島津義弘はこの期に及んでもまだ動かない。石田三成の前で頑張っていた蒲生隊の左翼もとうとう破られ蒲生郷舎は討死に。前へ出た石田三成隊も壊滅。小西隊は戦線を離脱して逃げ、宇喜多隊も退却。石田三成も北国街道沿いに伊吹山方面に逃げ落ちていった。小早川隊の裏切りからわずか1時間の出来事だった。
 午後2時。勝敗が決まった戦場に島津隊だけがポツリと取り残された。ここで初めて島津が動いた。世に名高い敵中突破だ。背後に逃げたら逃げ切れないと判断したのか、いきなり前方に向かって一斉射撃を行ったあと、全軍が一斉に前に向かって走り出した。その数1千ちょっと。これには東軍も驚いて対応が遅れた。捨て身の敵中突破の迫力に押されたというのもあっただろう、まんまと本陣の横をすり抜けさせてしまう。ほとんど無傷の家康隊3万がいたにもかかわらずだ。井伊直政や松平忠吉などがあとを追うも、わずかずつの兵が残って追撃を遅らせるという、これまた捨て身の作戦で、ついに島津軍は戦線を離脱することに成功したのだった。島津豊久など多くが戦死し、残ったのはわずかに80名余りだったという。井伊直政は、この追撃のときに負った傷が元で、翌年に命を落としている。島津義弘は、そのまま薩摩へと帰っていった。
 こうして見てくると、天下分け目の合戦というには実際の戦闘に参加した武将の数が少なすぎることが分かる。本格的に戦った部隊は、東西それぞれ10武将プラスアルファにすぎない。それらの武将も、必ずしもそれぞれの国を代表する大名というわけでもない。死者の数としては戦国史上空前絶後の5万とも6万ともいわれているものの、日本の名だたる武将の半分が命を落としたとかそういうことではなかった。ある意味では、合戦そのものは最後の局地戦で、すでにその前に行く末は決まっていたと言っていいのかもしれない。ただ、家康にしてみれば、はっきりと分かる形で天下に自分の力を示す必要はあった。政治力だけでどうにかなるものでもなかったから。
 最後に、合戦のその後について少しまとめておこう。

関ヶ原2-6

 石田三成は9月21日に田中吉政隊によって、小西行長は9月19日竹中重門隊に、安国寺恵瓊は9月23日にそれぞれ捕まり、西軍の首謀者たちは揃って大坂、京都で引き回しにされた上で、六条河原にて斬首された。小西氏や安国寺氏はお家断絶になり、石田家は嫡男が出家し、次男が弘前藩の重臣となって家名は存続することになった。
 形だけでも総大将だった毛利輝元は、吉川広家の活躍にもかかわらず所領没収となってしまう。その後、広家に与えられた所領を本家の毛利家に返したものの、徳川政権下では力を失うことになった。ただ見てただけなのに。
 西軍の主力として奮闘した宇喜多秀家は、いったん薩摩に逃げて、1603年に島津忠恒によって家康に差し出されることになる。豪姫や実家の前田利長などの嘆願で死は免れたものの、嫡男や次男とともに八丈島に島流しになった。
 薩摩に帰った島津義弘は、桜島で謹慎。のちに井伊直政の取りなしもあり、どうにか許された。島津家の当主は兄の義久だったこともある。
 上杉景勝は、結城秀康などの働きもあり、上洛して家康に謝罪して許された。ただし、会津120万石から米沢30万石の大減封を食らった。
 戦に加わらなかった長宗我部盛親は謝罪したものの、その後のお家騒動で家康の怒りに触れて、所領没収となってしまった。
 西軍を裏切った武将に対する処遇はそれぞれだった。厚遇された者もいれば、取りつぶされた者もいる。勝利の立役者となった小早川秀秋は、大名に出世するも、裏切りを世間からとがめられ酒浸りの日々となり、2年後、狂死してしまう。21歳だった。
 東軍についた武将はおおむね加増されて、大名になったところが多い。ただし、豊臣側だった家は外様大名として、元々の徳川側の譜代大名とははっきりと区別された。あたらな城の築城などでは外様大名が借り出されて、金も使わされている。
 豊臣家に対する処分の大義名分はなく、当初はおとがめなしだったのが、あとからなんだかんだで222万石から65万石と大幅に削られた。徳川は250万石から400万石となり、完全に立場は入れ替わった。佐渡金山や石見銀山なども直轄領とし、徳川は一気に大金持ちになった。ただし、秀吉がため込んだお金はそのまま豊臣家が持っていたため、このあとも家康は豊臣家の扱いに苦心することになる。それが大坂の陣へとつながっていくのだった。
 1603年、家康は江戸に幕府を開き、270年続く江戸時代が始まる。
 関ヶ原の戦いの正確な死者数は分かっていない。落ちのびた武将たちは浪人になったり百姓や商人になったのだろう。関ヶ原では田畑や家をさんざんに荒らされた農民たちが大変な苦労をしている。その後半年間も復興のために借り出された。
 それから270年後、徳川幕府を倒す原動力になった顔ぶれを見ると、島津の薩摩、毛利の長州、長宗我部の土佐と、みんな関ヶ原で痛い目にあった西軍側の面々だ。関ヶ原の恨みというのも、どこかにわだかまりとして受け継がれていたのかもしれない。

 まだ使えなかった写真もあり、書き残したこともあるような気がするけど、関ヶ原の戦いの本編はこれで終わりとしたい。番外編として残った写真を使いつつ、もう少しだけ書くことがありそうだ。
 長々とおつき合いいただき、ありがとうございます。お疲れ様でした。

<関ヶ原1>関ヶ原の戦いに至るまでの長い前置き ~滋賀岐阜歴史編9

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
関ヶ原1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 ようやくやって来ることができた関ヶ原に降り立ったときは、ちょっと感慨深かった。自分の中で、鎌倉と関ヶ原だけは時期が来るまでうかつに近づいてはいけないという思いがあって、ずっと行けないまま月日が流れていた。去年、鎌倉を克服して、この前徳川の聖地である日光にも参拝に行って、もういいだろうということで今回の関ヶ原行きとなった。
 醒ヶ井や柏原の中山道は付録のようなもので、今回の旅の一番の目的地は関ヶ原の古戦場だった。この時点ですでにヘトヘトになっていたのは大きな計算外だったのだけど、関ヶ原といえば計算外の連続のような戦いだったわけで、不測の事態の中でいかに臨機応変に動けるかというのが関ヶ原におけるテーマとも言えた。
 古戦場跡は狭いようで広く、何もないようでいて見所の宝庫でもある。主要な場所をすべて歩いて回るなら、少なくとも半日は必要だろう。私は結局、3時間半ほど歩いて、半分ちょっと見て回ったような感じだった。多少心残りもある。
 ただ、行ってよかったと、しみじみと思った。ずっと心の中にかかっていた霧が晴れたような清々しい気持ちになった。もっと怨念が渦巻く薄暗い土地を想像していたけど、行ってみたらもうそんな重たい空気は消え去っていて、カラリと晴れた場所になっていた。400年の歳月は決して短くない。
 関ヶ原の古戦場跡を歩きながら私がずっと心の中で思っていた言葉は、水に流す、という言葉だった。恨みっこなしでいきましょうと、誰にともなく語りかけながら歩いた。大勢の人間がさまざまな思惑を持って集まり、多くの命が失われ、恨み辛みや、言いたいこともたくさんあるには違いないけど、何にしてももう終わってしまったことだ。どっちが勝っていても、良かったことと悪かったことはある。結果的にこの戦を境にして、戦国時代は終わりを告げたのだ。そのことを喜ぶしかない。
 関ヶ原を歩いていると、なんとなく自分が西寄りの心情になっていくような気がするのは気のせいだろうか。関ヶ原の史跡も、東よりも西の方に力が入っているようにも思える。個人的には、徳川家康も石田三成も好きなところよりも嫌いなところの方が多くて、どちらびいきでもない。名古屋人としては徳川寄りではあるものの、家康のやり口には共感できないところが多々ある。かといって石田三成が勝てばよかったと思っているわけでもない。
 なのに、関ヶ原にいると、どうにも三成の西軍に肩入れしたくなってしまうのだ。それは単なる判官贔屓とかではない。西軍の悔しさが自分の中に流れ込んできていたのだろうか。ただそれは、重苦しいようなものではなくて、たとえば自分の応援するチームが負けてしまったときのような悔しさに似ている。もう少しなんとかなったんじゃないかと考えずにいられないような気分だ。
 歴史は常に勝者の側から語られる。勝った者が正義で、負けた者は反乱者ということになる。時代をさかのぼれば、関ヶ原というのは、大海人皇子(のちの天武天皇)と大友皇子(天智天皇の息子)が戦った壬申の乱の舞台にもなったところでもある。戦いに敗れた大友皇子はこの地で自害して果てた。家康が最初に陣を置いたのは、勝者である大海人皇子が陣取った桃配山だった。
 歴史というのはあとから振り返ってみれば、すべてが必然に見える。けれど、現在進行形の当事者にしてみれば、次に何がどうなるかはそのときになってみないと分からない。絶対に勝てる戦というのもなく、家康にしても、関ヶ原の戦いは最初から最後まで誤算の連続だった。思惑通りに事が運んだ勝利ではなかった。天下分け目の決戦というのも、あとになってみたらそうだっただけで、誰が一日で決着するなんて思っただろう。
 関ヶ原の戦いについては、多くの人が書き尽くしていて、今更私が書くことはないようにも思う。詳しい人は詳しいし、私が新解釈を持っているわけでもない。ただ、行って見てきたことでいろいろと感じることもあり、実感として理解したこともあって、帰ってきてからもう一度勉強して分かったこともあるので、自分自身のための総まとめという意味も込めて、今日から何回かに渡って書いていこうと考えている。
 書くことがあまりにも多すぎて、全部書いていてはあまりにもとりとめがないから、なるべく要点を絞って分かりやすく書くことを心がけたい。歴史に特別な興味がない人にとっても、教科書やテレビで知る以上にことを伝えられたらいいのだけど。
 今回は、心情的にやや西寄りになりそうな予感がしている。いろんな「もし」の可能性も考えてみたい。時間的にも、場面的にも、西軍が勝利した可能性というのはそこかしこに散らばっている。そのあたりも紹介していくことにしよう。
 どんな内容になるのか、今のところまだ見えていない。これも関ヶ原の戦い同様、見切り発車でいってみるしかない。最終的に納得のいくものとなるのかどうか、分からない。西軍寄りでいった結果、まとまりのないものとして終わってしまう可能性もある。
 写真の並び順は、今回は歩いた順番になっていない。場所もバラバラに飛んでいる。話の内容に合わせて順番を選んでいるので、関ヶ原を歩いたことがある人にとってはかえって分かりづらいかもしれないけど、まあ勘弁してもらおう。関ヶ原編は、話優先ということで。

関ヶ原1-4

 関ヶ原の開戦地へとやって来た。石碑が建っている以外、これといったものはない。すべては想像で補って、感慨に浸るしかない。戦国野郎や戦国お嬢にとってみれば、余計な作り物などかえって邪魔というものだろう。ここがその場所であることさえ分かればそれで充分だ。
 慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、午前4時。西軍8万4千(10万とも)は、必勝の鶴翼の陣で配置を完了。遅れて東軍7万5千は6時に布陣を敷き終わる。主力部隊ともいえる徳川秀忠3万8千はいまだ到着しない。関ヶ原は深い霧に包まれ、両軍とも前が見えない。
 にらみ合ったまま2時間が経過した午前8時、霧が晴れてきた。
 最初に動いたのは東軍だった。西の主力である宇喜多秀家と向かい合う形になっていた東の主力福島正則の横を、井伊直政と松平忠吉が通り抜けて前へ出ようとした。福島隊の可児才蔵はこれに待ったをかける。福島正則は先陣を切る約束を家康に取り付けていたからだ。しかし、言うことを聞かず、いきなり発砲する井伊隊と松平隊。それに応戦する形で宇喜多秀家が撃ち返してきたことで、関ヶ原の合戦は突然始まった。怒号と共に両軍が突撃し合い、最前線は東西入り乱れての激戦となったのだった。

関ヶ原1-5

 話を関ヶ原の戦いの2年前、1598年に戻そう。
 8月9日、豊臣秀吉死去(63歳)。このときから事実上の関ヶ原の戦いは始まっていたと言っていい。
 関ヶ原の戦いは、天下人を狙った徳川家康と石田三成の後継者争いなどではない。豊臣家臣団の内部分裂による内輪揉めに家康が便乗して漁夫の利を得た戦いだった。豊臣家において家康だけが別格で一歩抜きん出た存在であったにしても、きっかけとなったのは武断派と文治派のいがみ合いだった。それは、秀吉がおかした愚行とも言える朝鮮出兵にも原因があった。ここにも一つの「もし」がある。もし、秀吉が朝鮮出兵などを行っていなければ、関ヶ原の戦いは違う形になっていた可能性が高い。秀吉の弟である秀長の死も大きかった。
 もう一つの「もし」は、秀吉の養子・秀次の死だ。跡取りがいなかった秀吉は姉の子を養子にして、後継者にしようと考えていた。しかし、淀殿が秀頼を生んだことで関係が悪化。悪行、奇行などが目立った秀次は秀吉にうとまれ、謀反の疑いをかけられて切腹させられてしまう。1595年のことだ。家族や関係者はことごとく処刑され、どうにか助命された藤堂高虎 、山内一豊、伊達政宗、最上義光、田中吉政、細川忠興なども、秀吉から遠ざけられ、結果的にこれらの武将は豊臣の西軍ではなく家康の東軍につくことになる。秀次がもし生きていたら、西軍の大将になっていたかもしれず、これらのメンバーが西軍に加わっていれば家康でも勝てなかっただろう。
 関ヶ原の戦いのとき、秀頼はわずかに6歳。淀殿ともども、戦には直接関わっていない。西軍、東軍というのも後世に言われるようになったことで、関ヶ原の時点では日本を二分した西と東の戦いではなく、豊臣家対徳川家康連合軍の戦いでもないから、秀頼を大将として担ぎ出さなかったことはある意味では当然のことだった。ただ、ここにも「もし」があって、西軍の総大将である毛利輝元が本気で勝つつもりなら秀頼の名のもとに家康討つべしと高らかに宣言すべきだった。そうすれば、豊臣恩顧の大名が東軍に走ることもなく、家康は成敗されていたかもしれない。結局、毛利輝元は総大将とは名ばかりで、自分は大阪城にこもったまま戦場へ出ることもなく、戦後あっさりと徳川方になびいてしまった。

 前哨戦として最初の直接的な動きは、武断派7名による石田三成襲撃事件だった。
 合戦前年の1599年、秀吉亡きあと重鎮の前田利家がこの世を去ったことで、豊臣家臣団の押さえが効かなくなってしまう。
 このときの豊臣家の組織図というのは、秀頼・淀殿の後継役として、五大老、三中老、五奉行が政務を担当していた。
 五大老の筆頭が徳川家康で、続いて前田利家(嫡男の利長が跡を継ぐ)、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝。五奉行が、石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以という顔ぶれだった。
 大老というのが大臣で、奉行というのは官僚のようなものだ。暗殺されそうになるほど石田三成が嫌われていたのは、朝鮮出兵が大きな要因となったのは間違いない。このときの三成は、言うなれば警察の監察官のような役回りで、現地での武将達の働きぶりを秀吉に報告する仕事をしていた。朝鮮では武将たちは大変な苦労して痛い目にあって、さんざんな負け戦だった。そんな苦労も知らず、国内にいて秀吉にあいつらは働きが悪いと報告していたのが石田三成だった。そのことで加藤清正や福島正則たちは三成を憎むようになっていった。三成自身も朝鮮での戦いには参加しているものの、現地でも戦をするより和平交渉などに積極的で、この行動も武断派の反感を買ってしまう。三成は秀吉も大いに認める優秀な官僚だった。その優秀さゆえに恨みを買ってしまった面が多々ある。損な役回りだっただけでなく、やはり人徳がなかったと言うべきだろうか。
 三成を襲ったのは、7人。黒田長政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、藤堂高虎、細川忠興、蜂須賀家政。しかし、事前に動きを察知していた三成は、伏見城の中にある自宅に逃げ込み難を逃れる。なおもにらみ合いが続いたところに登場するのが家康で、実力者である家康が仲介に入ったことで、この騒ぎは一応収まることになる。ただ、三成は責任を取らされ、奉行の職を解かれ、居城だった佐和山城で謹慎ということになってしまった。
 この後、五大老は、それぞれの国元へ帰っていき、留守になった伏見城にまんまと入り込んだ家康は、当然のような顔をして自分が政務の中心に居座ることとなったのだった。ここまではすべて家康の計算通りだったかもしれない。

 ここからの家康の動きは、非常にあざといというか、賢いというか、タヌキ親父と呼ばれる老獪さを見せ、天下取りのための布石を次々と打っていく。
 最初に目をつけたのが、前田利家亡きあとの利長で、自分を暗殺しようとする計画があって、その首謀者が前田利長であると因縁をふっかけていった。これは非常にタチが悪い。おまけに五奉行の浅野長政や大野治長、土方雄久らも計画に加わったとして、謹慎などの処分を勝手に下したのだ。
 幸いだったのは、「利家とまつ」でお馴染みのまつ(芳春院)が存命だったことだ。良妻賢母のまつは、自ら徳川の人質になることを申し出て、息子利長の無実を訴えたことで前田家は守られることとなる。
 家康はターゲットを変えた。次に標的にされたのは、上杉謙信以来の名門、上杉景勝だった。
 会津に戻った上杉景勝は、何を思ったのか、城を建て始めた。これから大きな戦が始まろうというときに、ずいぶんのんきな話だ。景勝としては、秀吉が死んで、また戦国時代に戻るかもしれないから、とりあえず足元を固めるために守りを重視した考え方だったのだろう。すぐに合戦が始まるとは考えていなかったようだ。あるいは、すでにこの時点で家康に対抗すべく軍備を整えていたという説もある。来年の大河「天地人」の主人公、直江兼続がその任に当たった。
 家康はこれを言いがかりの口実に使った。まず、自分が一番上にいることを思い知らせるために、正月の挨拶をしに京都まで来いと景勝に呼び出しをかけた。これには景勝も怒った。小早川隆景が死去したあと(1597年)、五大老の一人になった自分がどうして年賀の挨拶をするためにわざわざ京都まで出向かなければいけないのかと。その知らせを持ってきた家臣の藤田信吉に激怒して殺しかけているほどだ。恐れをなした藤田信吉は、家康の元に走り、景勝に謀反の疑いありと報告する。国元では軍備を整えて城まで建てていると。完全に家康の術中にはまってしまった景勝であった。
 再びの呼び出しも断固拒否。待ってましたとばかりに家康は討伐軍を編成し、景勝を討つべく会津に向かった。1600年6月16日のことだ。名目は、豊臣政権における規律違反ということだったけど、実は家康の方がもっと悪いことをしている。勝手に婚姻を結んではいけないという秀吉の禁を破り、伊達、福島、蜂須賀氏と縁組みを結んだり、個人的に恩賞や賞罰を与えてはいけないというのをしたのも家康なのだ。本来なら罰せられるべきは家康の方だった。
 会津征伐の先鋒隊に任じられたのは、豊臣恩顧の福島正則、細川忠興、加藤嘉明らだった。このときはまだ一応の大義名分は家康の側にあって、豊臣の武将たちは従わざるを得なかった。
 伏見城の留守を鳥居元忠に任せ、7月2日には江戸城に到着した。そしてこれは、石田三成に対する誘い水でもあった。その前からすでに不穏な動きを見せていた三成の動向を察知していた家康は、わざと本拠を空けることで三成の挙兵を促したのだった。

関ヶ原1-7

 石田三成がまず最初に頼ったのが、秀吉の下で共に苦労した親友の大谷吉継だった。話を聞いた吉継は、無謀で勝ち目がないからやめておけと三度も止めたという。しかし、三成の決意が固いと知ると、あとは三成のために全力を尽くすことを約束する。ハンセン氏病をわずらっていた吉継は、顔がただれ、すでに盲目に近かったといわれている。死を覚悟した吉継は、戦場に死に装束で現れた。
 西軍最初の主要メンバーとして会議に参加したのは、石田三成、大谷吉継、増田長盛、安国寺恵瓊だった。この会議で、三成では総大将はつとまらないから、もっと名前があって格上の人物は誰かいないかということになり、そこで選ばれたのが毛利輝元だった。それなら五大老の一人でもあり、申し分ないとなり、増田長盛をパイプ役として、長束正家、前田玄以、安国寺恵瓊らが説得工作に当たることになった。北には上杉景勝がいる。挟み撃ちにすれば家康に勝てると踏んだのだろう。
 ここで一つ、三成は大きな間違いをやらかした。戦いを有利に進めるべく、主要な大名達の妻子を襲って人質するという暴挙に出たのだ。この小賢しい作戦が悲劇を生む。細川忠興の正室細川ガラシャ(明智光秀の娘)は人質になることを拒み、キリシタンだったので自害もできず、忠興の家臣に槍で胸を突かせて命を落としている。これで三成の評判はますます悪くなった。
 ここでもう一つ、関ヶ原の戦いの形勢に影響した出来事があった。それは、毛利家の内部分裂に端を発する複雑な人間模様と動きだ。会津征伐では毛利家も家康に表面上は従って、安国寺恵瓊を送っている。ただ、この安国寺が気がついたら西軍の主要メンバーの一人になってしまっていた。
 一方、反三成派に吉川家広がいる。この計画を安国寺から聞いた家広は、そんなことはやめるように強く言い、国の毛利輝元にも西軍の総大将なんかになってはいけないと使いを出すも、知らせは間に合わず、総大将になれると知った輝元は喜んであっという間に大阪城に駆けつけてしまう。輝元も事情がよく分かってなかったらしい。家康討つべしという三奉行からの連署状を見て、豊臣家のために自分も力を貸さなくてはいけないと単純に思ったのかもしれない。
 大阪城に入ってから、安国寺と吉川家広両方から事情を聞き、説得されたことで輝元は進退窮まってしまう。結局、輝元は西軍の総大将でありながら、戦場では何もしないまま関ヶ原の戦いは終わってしまった。西軍として参加しながらも、東軍についていた吉川広家に押さえ込まれて、毛利軍4万人の兵は一人も動けないままだった。西の主要メンバーの一人だった安国寺恵瓊でさえ参加できずにいた。
 ここにも「もし」がある。もし毛利輝元が総大将らしく南宮山から家康軍の背後を突けば、逃げ場を失った東軍は総崩れになって、勝敗は一気に決していただろう。そうなれば、小早川秀秋が東軍に寝返ることもなかった。

 三成たち西軍は、増田、長束、前田の三奉行の連署で「内府ちかひの条々」を各大名に送り、豊臣に反旗を翻しているのは家康の側だと主張し、反徳川軍を募った。ここで東軍と西軍の立場は微妙に入れ替わり、家康は半ば賊軍のようになった。会津征伐が家康の自作自演であることくらいはみんな気がついている。どちらにつくかは、損得勘定だ。もともと豊臣家の家臣になっていたのは、秀吉の権力に屈したというだけで、心底信頼して付き従っていた武将は一部にすぎない。次に天下を取る方につきたいと思うのは当たり前のことだった。それは秀吉子飼いの武将でも同じだ。
 西でそのような動きがあることを当然家康は逐一報告を受けて知っている。でも、まだ引き返さない。ここまでは家康も折り込み済みで、どうやら戦は長期戦になると見ていたようなフシがある。状況は流動的で、どうなるか読み切れないというのもあっただろう。
 このとき開かれたのが下野における小山評定だ。家康は武将たちを集めて状況を説明し、どちらにつくのも各自の自由だと言ったと伝えられる。7月24日のことだった。
 このとき家康の元にいたのは、即席の討伐軍で、多くは豊臣恩顧の武将たちだった。まだ東軍としての体裁は整っていない。それでどうするかが話し合われることになる。すぐに全軍引き返して石田三成たち反乱軍を制圧するか、このまま会津に攻めて上杉景勝を討ち取ってから戻るか、兵を二分して、会津と三成軍両方と戦うか。
 ここで大きな役割を果たしたのは、福島正則だった。豊臣恩顧の大名の中でも筆頭格の福島正則が家康につくことを表明したことで、東軍の骨子が固まることになった。真田昌幸親子はこのとき離反して、それがのちに秀忠の大遅刻を招くことになるのだけど、それは勝敗には直接影響はなかった。
 家康の東軍は上杉景勝の押さえとして秀忠を宇都宮城へ送って守りを固め、自分たちはいったん清洲城に終結すべく、軍を西へ進めた。遅れて秀忠は中山道を行くことになる。最終的には、途中で味方を増やして、美濃か近江あたりで全軍を終結させるつもりだったようだ。
 一方の三成軍は、先だって伏見城を攻撃している。留守を守っていた鳥居元忠に城を明け渡すように言うも聞き入れられず、7月19日、宇喜多秀家、島津義弘らが取り囲んで、8月1日に落城した。
 続いて丹後国の田辺城、伊勢国の安濃津城、松坂城などの攻略に成功して、三成は8月10日に大垣城に入った。ここが西軍最初の本拠地となる。
 関ヶ原の戦いまで、あとひと月余り。私の長い前置きも、まだ終わらない。あまりにも長くなったので、今日はいったんここまでとしたい。まだこの先も長くなりそうだ。
 つづく。

柏原編の最終回は成菩提院を絡めた長い脱線話 ~滋賀岐阜歴史編8

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
柏原4-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 柏原編の最終回は、中山道から少し離れた神社仏閣紹介を中心にお届けしたい。
 線路のガード下をくぐると、遠くに新幹線が走っているのが見える。写真の中央左下に小さく写っているのが見えるだろうか。このあとすぐ、長い関ヶ原トンネルに入っていき、トンネルを抜けるあたりで東海道本線と東海道新幹線はクロスする。
 柏原の北エリアに何があるかというと、成菩提院(じょうぼだいいん)がある。これしかないといえばない。中山道の町並を見に来た人でも、ここまで足を伸ばす人は少ないかもしれない。駅からは600メートルくらい離れている。でも私は、ここは外せないと思った。特に理由があったわけではなく、なんとなく呼ばれる感じがあって。

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 東海道本線沿いを歩いていると、やたら貨物列車を目にする。普通列車の合間を縫って、ひっきりなしに走らせている感じだ。普段貨物列車のことなどまったく考えないで生活しているせいか、やけに目につく。
 自動車輸送が主流になって以来、貨物列車の需要は激減したのかと思ったら、決してそんなことはないようで、今でもコンテナを積んだ貨物列車はたくさん走っている。考えてみると、トラックより速いし、安全性は高いし、一度にたくさん運べるというメリットがある。値段的なことは分からないけど、列車による貨物輸送はこれからもなくならないのだろう。
 貨物列車のコアなファンという人も大勢いるに違いない。私が適当なことを書いたりすると、コンテナ車と有蓋車を一緒にするなとか言われてしまいそうだ。生きた魚を運ぶ活魚車(かつぎょしゃ)なんてのもあるらしい。

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 成菩提院前に到着。お、これはいいぞと、三門を見て思う。これまで多くの神社仏閣を見てきて、門構えを一目見れば魅力のあるところかどうじゃないのかすぐに分かるようになってしまった。それを特技として自慢していいものなんだろうか。
 正式名称を、寂照山円乗寺成菩提院という。
 平安前期の815年、天台宗の開祖最澄がこの地を訪れた際に小さな建物を建てたのがこのお寺の始まりとされる。鎌倉時代になるとそれが談議所に形を変えていった。談義所というのは、僧侶などが集まって学問をするための寺のことで、鎌倉から室町にかけて各地で作られた。右下に小さく談義所 遺跡と書かれた碑がある。
 鎌倉時代末期の1326年、越前の平泉寺の衆徒が乱入して全焼してしまうなんてこともありつつ、この地を治めていた京極氏が手厚く保護をして発展した。
 1395年、将軍足利義満が比叡山の貞舜(じょうしゅん)に再建を命じ、現在のような形に整えられ、延暦寺の別院となった。
 たくさんの名僧を出し、天海も関ヶ原の合戦のあと、しばらくこの寺の住職を勤めている(二十世)。

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 歴史の重みを感じさせる重厚な三門にしばし見入る。こりゃ見事なものだ。
 この門に彫られた竜の出来があまりにもいいものだから、本物の竜となって飛び出して、村に大洪水を起こしたという伝説があるんだとか。その逸話を知らなかったから、竜の部分を撮っていない。あとから知ることも多いから、どの部分もちゃんと撮っておくべきだと反省した。左甚五郎の作品という話もあるそうだけど、それはちょっとどうかと思う。
 竜が二度と飛び出さないように、目には大きな釘が打ち込まれているという。それも見逃してしまった。

柏原4-5

 門をくぐると、雰囲気のある石段が続く。ここのはゆるやかで短いから大丈夫だ。室生寺とは違う。
 モミジも植えられていたから、秋の紅葉のときは、この三門と参道は更に絵になることだろう。

柏原4-6

 石段を上がって正面の建物が本堂だろうか。右手には大きくて立派な堂があって、すぐにそちらに目がいくから、この堂は存在感が弱い。でも、まずはこちらに手を合わせておいた。
 本尊は十一面観音像で、地元では柏原観音と呼ばれているそうだ。
 絹本著色聖徳太子像など、多くの文化財を所有しているという。

柏原4-7

 どーんと現れるこの堂が大迫力。写真では大きさが伝わらないのが残念だ。建物の名前も分からない。
 戦国時代は、この寺に織田信長や豊臣秀吉、小早川秀秋など有名な武将が宿泊しているから、みんなこの堂に寝泊まりしたのかもしれない。
 織田信長は、浅井長政と佐和山城で会見する前、ここに泊まっている(1568年)。足利義明を伴って京に行くときも泊まった。秀吉もそれに習い、ここに宿泊した。家康は別のところに泊まっている。ただ、この3人ともに手厚く保護し、寺領を寄進したりしている。最盛期は160石、64坊と僧侶103人、末寺80を抱える大寺院だったという。

 浅井長政と佐和山城の話題が出たので、ついでにこのあたりのことを少し書いておきたい。これは明日以降始まる関ヶ原編にも関わってくる話だから。
 佐和山城は戦略上重要な場所に建つ城で、昔から幾度も争奪戦が繰り広げられたところだった。築城したのは鎌倉時代の豪族佐保氏とされている。
 この地を治めていたのは、名門佐々木氏の分流である京極氏で、浅井氏はその京極氏に仕えていた。それが長政の祖父の代になると下克上で形勢逆転し、浅井亮政が事実上の支配者となり、小谷城を築いた。長政はその小谷城で生まれている(1545年)。
 長政は15の元服のあと、六角氏の老臣飛来加賀守定武の娘を嫁にもらうことになる。
 しかし、翌年、六角義賢が攻め込んできたので長政は16歳で初陣を飾ることとなり、見事にこれを撃退する。こいつはやるぞいうことになり、父親の久政を追い出して家臣たちが長政を新しい当主とすることを決めてしまう。怒った父親だったけど、誰も家臣がついてこないことを知って、竹生島へ逃げていった(のちに和解)。
 長政は六角氏の嫁を離縁。佐和山城に攻めてきた六角義賢を再び破り、城を取り戻すことに成功した。こののち、勢いづいた長政は、近江の地の勢力図を広げていくこととなる。
 ちょうど同じ時期、尾張から勢力を伸ばして上洛を目論んでいたのが信長で、信長は当初、戦っても勝ち目がないとみたのか、和解交渉をしてきた。長政の方も戦うのは得策ではないと、同盟国である浅倉を攻めないという条件つきで了解した。そのときめとった妻が、戦国一の美女といわれた信長の妹のお市の方だ。長政もいい男だったと言われている。
 近江の国をおさえた信長は上洛を果たし、将軍足利義昭の権威を利用して、更に勢力拡大を図っていく。そのときやはり邪魔になったのが朝倉義景で、長政との約束を破って浅倉へ攻め込んでいってしまった。怒った長政は信長との同盟を破棄し、信長軍の背後から攻め、挟み撃ちにする。
 兄と主人との板挟みになったお市が、兄に窮状を知らせるために両端を結んだ小豆袋を送ったというエピソードは有名で、語り継がれている。実際のところはのちの作り話だという説もある。
 なんとか危機を脱した信長は、浅井・浅倉軍と全面対決をすべく、姉川へと兵を進める。浅井・浅倉連合軍1万8千、織田・徳川連合軍が3万4千。ともに多数の死者を出しながらも信長軍の勝利となった。
 朝倉義景は自害。孤立した長政も信長軍に攻め込まれ、父親の久政とともに小谷城で自害して果てた。3つの頭蓋骨を酒の席に並べさせ、信長は黙って酒を飲んだという。
 お市の方と三人の娘は、一緒に自害しようとしていたところを長政に説得され、信長の元に送り返されることになった。これがのちの世に大きな影響を及ぼすこととなる。
 お市に惚れ込んでいた秀吉はなんとか自分のものにしようとするが、お市は秀吉が大嫌いだった。お市は織田家の古くからの家臣である柴田勝家と再婚することになった。一説には、二人の仲を取り持ったのが秀吉だとも言われている。
 本能寺の変ののち、清洲会議における後継者問題で二人は決定的に対立してしまう。最後は賤ヶ岳の戦いで、勝家は秀吉に敗れ、自害した。このとき、お市の方も一緒に自害している。勝家の説得を聞かなかったのは、二度までも自分だけがという思いがあったのか、このままでは秀吉のものにされてしまうという思ったのか。
 三人の娘は助けられ、長女の茶々は秀吉の側室となる。三人のうち、一番お市に似ていたからだともされている。これがのちに秀頼を産むことになる淀殿だ。母親が駄目なら娘をという秀吉の根性がすごいというかなんというか。秀頼の父親は秀吉ではないという説もあって面白い話ではあるのだけど、ここではやめておく。
 次女は京極高次と結婚し、三女は秀吉の養子・秀勝の側室となったあと、二代将軍徳川秀忠正の室となって、三代将軍家光を産むことになる。
 佐和山城はどうなったかというと、磯野員昌の激しい抵抗にあいながら信長がなんとか落城させて、丹羽長秀を城主とし、清洲会議ののちは、明智光秀討伐で功績を挙げた堀秀政に与えられた。堀尾吉晴の次の城主が、秀吉政権の五奉行の一人、石田三成だった。三成は大きく改築した城は、五層の天守閣を持つ見事なものだったという。「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と揶揄されたくらいだから、よほど分不相応に立派な城だったのだろう。
 佐和山城は、関ヶ原の合戦のあと、小早川秀秋によって攻め落とされ、そのとき父親や妻なども自害して、石田氏は滅亡する。
 次の城主は徳川四天王の一人、井伊直政だった。しかしながら、この城は戦略上は重要でも徳川の世になってからは交通の便が悪いということで、直政は彦根城を築城することにした。長政を慕う領民が言うことを聞かなかったからとも、石田三成の痕跡を消し去るためとも言われている。
 彦根城は、息子の直継が父の意志を継いで完成させた。そのとき佐和山城の築材が多く使われ、佐和山城は廃城となった。現在は遺構もほとんど残ってないという。

 といったような歴史の流れがあって、これは次の関ヶ原につながっていくので、一応頭に入れておくと、関ヶ原編をより楽しんでもらえると思う。
 歴史というのは偶然と必然の積み重ねなわけだけど、たくさんの「もしも」があって、今回の話でも、もしもお市の方と娘たちが長政と一緒に死んでいたら、のちの歴史はだいぶ違ったものとなったんじゃないかと考えたりもする。淀殿がいなければ秀頼も生まれないわけで、豊臣政権はどうなっていたのか、関ヶ原の合戦の構図も別の形になっていたかもしれない。関ヶ原の合戦にも多くの「もしも」があって、いろいろ考えさせられたりもする。長政の家臣の遠藤喜右衛門尉直経は、成菩提院で信長の接待役を務めたとき、言葉とは裏腹の信長の凶暴な性格を見抜き、長政に寝込みの信長を襲って討ち取っておくべきだと進言している。信義の人である長政はもちろん却下したわけだけど、もしあのとき黙ってうなづいていたら、本能寺を待つまでもなく信長は成菩提院で殺されていた可能性は高い。信長の死の選択肢もたくさんあって、タイミングによっては歴史は大きく変わっていた。本能寺の変がなかった世界のその後というのも見てみたかったものだけど。
 大きく脱線してしまった。そろそろ本編に戻ろう。

柏原4-8

 このあたりの建物も、どういうものかよく分からなかった。
 成菩提院は1578年にも兵火で堂を失っている。秀吉が寺領150石を与え、家康も堂を修繕して、更に150石を与えた。

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 道の途中に、金比羅神社と日枝神社があって、寄ろうと思っていたのだけど、時間がなかったので省略してしまった。鳥居の向こうは長い石段で、上が見えなかったということもあって。

柏原4-10

 北側から見た柏原駅。山間の田園風景の中にある駅というのが分かる。
 この風景の中にいると、戦国の何万という軍勢がこの地を行き来していたというのが想像できない。信長が歩いた道を自分も歩いているというのを実感するのも難しい。

柏原4-11

 道ばたにある小さな祠も、大事に守られている様子が見える。

柏原4-12

 これは駅の東にある八幡神社だ。
 979年創建というから、なかなか古い。

柏原4-13

 本殿は作りたてのピカピカだった。黒ずむ前ってこんな色をしてるんだと改めて知る。建てられたばかりの神社は、みんなこんなふうだったのだ。古ければ古いほどありがたがる態度は改めないといけないのかもしれない。
 八幡信仰だから、祭神は、誉田別命(ホンダワケノミコト)こと応神天皇と、息長足姫命(オキナガラシメノミコト)こと神功皇后だ。もう一人は、比売神(ヒメノカミ)でいいんだろうか。
 ここもくわしいことは調べがつかなかった。

 中山道は、醒井、柏原ときて、今須を挟んで関ヶ原となる。今須宿は残っているものがあまりなさそうなので飛ばして、次は関ヶ原に向かうことになる。ただ、関ヶ原では中山道沿いを歩いていない。もっぱら古戦場跡を歩いて巡ってきた。明日からは関ヶ原編を始めようと思っている。また長くなりそうな予感がする。
 最後はやや番外編のようになってしまったけど、柏原編はこれで終わりだ。
 11月22、23日には宿場祭り「やいとまつり」というのが行われるそうだ。そんなときでも狙って、一度訪ねてみることをオススメしたい。そのときは、ぜひ成菩提院まで足を伸ばして欲しい。

柏原第三弾は執着しすぎたお寺コレクション ~滋賀岐阜歴史編7

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
柏原3-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 柏原編も今日で3回目となり、西の外れまでやって来た。そのまま真っ直ぐ行って山の方に入っていくと、北畠具行の墓がある。後醍醐天皇に仕え、鎌倉幕府倒幕に参加したのが発覚してこの地で斬首された人物だ。ちょっと山奥そうだったので省略。
 少し手前を右手に入っていった先に、婆娑羅大名として知られる京極道誉(佐々木道誉)などを出した京極氏の菩提寺である清滝寺徳源院があった。駅の方に戻ってきて案内マップを見たら載っていて、しまったことをしたと後悔したときにはもう遅かった。多少距離はありそうだけど、知ってたら行っていた。立派な三重の塔も見逃してしまった。
 上の写真は、柏原一里塚を復元したものだ。石碑の向こう側に少し見えている盛り土がそうだ。
 一里塚は、名前の通り一里ごとに置かれた塚で、家康の命を受けた二代将軍秀忠が東海道、中山道、北陸道に作らせたのだった。現場監督は、のちに徳川の金銀財宝を好き放題にしたことをとがめられて処刑された大久保長安。その前は武田家の金庫番をしていた。
 一里塚は旅行者にとっての目安であり、カゴや馬乗りの料金メーターの役割も果たしていた。盛り土をして、そこに木を植えて遠くから見えるようにするのが一般的なスタイルだった。榎(えのき)が多かったのは、成長が早く倒れにくいからだとか。
 柏原の一里塚は、江戸日本橋から数えて115番目で、東の外れに街道を挟んで南北に一つずつあったらしい。今は両方なくなって、少し離れた田んぼの中に復元されている。

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 街道から一歩南にはいると、急に田園風景が広がる。その向こうに見えているのが現在の幹線道路である国道21号線だ。この道は交通量が多い。
 普通、柏原に中山道を見に来てこんな道は歩かないと思うけど、私は外れにある津島神社に向かったのだった。こういう無駄とも言える大回りが積もり積もって大きなダメージとなっていくのがいつものパターンだ。小回りしていけば余力も残るものを、貧乏性が自らを苦しめることになる。

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 名前がそのものずばりだから、やはり愛知県津島市の津島神社を勧請したものなのだろう。津島神社は東海地方を中心に3,000社もあるというから、滋賀の外れに一つくらいあっても驚くことではない。
 ここも詳しいことは調べがつかなかったけど、おそらく素盞嗚尊(スサノオノミコト)を祀っているのだろうと思う。
 スサノオというのも、ヤマトタケル同様、各地のいろんな伝説が融合して生み出された架空の人物という色合いが濃い。
 イザナギとイザナミの子とされ、アマテラスオオミカミ(天照大神)とツクヨミ(月夜見)とは兄弟ということになっている。
 アマテラスは高天原を、ツクヨミには夜を、スサノオには海原を治めるようにイザナギに命じられたのに、スサノオだけはごねて母のイザナミのいる根の国に行くと言い出した。怒った父親は近江の多賀に引っ込んでしまい、スサノオは姉のいる高天原に行って暴れ、今度はアマテラスが天の岩屋に隠れてしまった。スサノオは高天原から追い出され、葦原中国へ向かうことになる。
 出雲に入ったとき、その地を荒らし回っている八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の話を聞いて、それならオレに任せとけとばかりに退治にしにいって、見事打ち破ってしまう。このときヤマタノオロチの尾っぽから出てきたとされるのが天叢雲剣で、それはのちにヤマトタケルが使って草薙の剣になる剣だ。これをアマテラスに献上して許しを請うスサノオなのだった。
 その後、スサノオも落ち着いて、ヤマタノオロチに食べられるはずだったクシナダヒメを妻にもらい、出雲の地で静かに暮らしたとされる。大国主命(オオクニヌシノミコト)は、この二人の子供だともいわれている。

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 このあたり一帯は人もあまり訪れないような静かなところで、神社の境内は更に静かな雰囲気だった。
 上の写真は、拝殿の奥の本殿で、昨日紹介した日枝神社とよく似ている。本家の津島神社は朱塗りが特徴的な派手な神社なのだけど、ここのものはシックだ。

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 せっかくだからというので、地図上にあるお寺もできるだけ回っていくことにした。入れるところは入って、手だけ合わせてきた。このあと向かうことになっていた関ヶ原の霊たちに負けない神様パワーを味方につけておく必要があったのだ。
 上の写真は、勝専寺(しょうせんじ)というお寺だ。真宗大谷派という以外は、くわしいことは調べがつかなかった。このあとに続く寺もほとんど分からなかった。

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 浄土真宗本願寺派の教誓寺。

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 これはもちろん、お寺ではない。こういう古い家屋を見るとつい撮りたくなる。廃墟ファンというほどではないにしても、目に見える形で歳月の厳しさや残酷さを知ることができる被写体というのは、なかなか魅力的なものだ。心惹かれるものがある。

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 宝林寺。ここはちょっと民家っぽくて入りづらかったので、外からにしておいた。

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 これが長命寺だったか。このあたりは奥まったところで、観光客が迷い込むようなところもないから、あまりうろちょろできない気がして腰が引けていた。
 長命寺だとすると、824年に行基が創建した曹洞宗の古刹だ。もともとは天台宗だったらしい。

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 安立寺(あんりゅうじ)も、もとは真言宗の寺で、現在は改宗して浄土真宗本願寺派になっている。
 1820年の再建ということで、門や堂なども古くて雰囲気のあるものだった。特に三門がいい。

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 明源寺(みょうげんじ)は、真宗仏光寺派で、最初は山ケ鼻にある天台宗のお寺だったらしい。それでも、ここに移ったのは1501年というから、もう相当な古顔だ。
 門は古いものの、本堂を建て直したばかりで、これがピカピカで大変立派だった。
 ここの正面あたりに勝栄寺というのがあったはずなのに、写真がない。見逃したのか、撮り逃したのか。

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 久昌寺(きゅうしょうじ)というのを探してうろつく。見えている屋根がそうだったのか、違ったのか。
 あとから考えると、こんなに寺に執着する必要はなかった。寺コレクションなんてしてる時間と体力があったら、京極の徳源院を見ておきたかった。
 少し離れたところにある西来寺と龍王寺も逃してしまった。西来寺だけは見ておくべきだったかもしれない。

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 最後は柏原太子堂へとやって来た。これで駅南ゾーンの寺巡りは終わりだ。最後に駅北の成菩提院へ向かうことにした。これは柏原の中では重要な寺なので、ぜひ行っておきたかった。疲れ切った足にムチを打って向かった。そのときの話はまた次回ということにしよう。
 次は柏原編最終回ということで、成菩提院を中心に紹介したいと思っている。

柏原はお灸のもぐさと亀屋と福助さんの宿場町 ~滋賀岐阜歴史編6

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
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Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 今日は柏原編の第二回。昨日の続きから再開しよう。
 昨日は市場川と恵比寿神社までいった。川を渡った西側が柏原宿の後半であり、中心地であり、亀屋ゾーンとでもいうべきエリアだ。
 ここらは伊吹山の麓ということで、もともと薬草の産地として知られていた。中でも「もぐさ」が特産物で、最盛期は伊吹もぐさの店が10軒以上もあったという。その代表的な店が亀屋艾店で、柏原宿といえば、もぐさの亀屋というくらい名が通っていたそうだ。
 現在でも伊吹堂亀屋左京商店だけは営業を続けており、その関係の店舗跡や家屋がいくつか残っている。旅籠経営も行っていて、問屋などもあわせると亀屋だけで10軒くらいあったようだ。
 広重の『木曽海道六十九次』の中にも、「柏原かめや」として描かれている。

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 この家屋もおそらく亀屋のものだったのではないかと思う。伊吹堂亀屋左京商店そのものかもしれない。大がかりな工事中で様子がよく分からなかった。
 もしこれが左京商店なら、店の中に大きな福助がいたはずだ。福助人形の元となったのが、この伊吹堂の番頭である福助という人だったという説がある(他にも京都の呉服屋の主人とか、摂州の農家の佐太郎などの説もあるらしい)。福助は広重の絵の中でも大きく描かれているから、その頃からすでに有名だったようだ。
 伊吹もぐさを全国区にした立役者は、亀屋の松浦七兵衛という人物だった。江戸に出て吉原に通い、そこで女達に「江州柏原伊吹山の麓の亀屋左京の切りもぐさ」という唄を教えて歌わせたことで広く知られるようになったんだとか。
 このあたりは美濃との境とはいえ、まだ近江の国(滋賀県)だ。広い意味では商売上手な近江商人といえる。江戸っ子は、そんな近江商人のことを「近江泥棒伊勢乞食」といったそうだけど。

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 やいと塾と書かれた看板だけが下がっていた。
 やいと(焼処)というのは、もぐさのことで、もぐさというのは、いわゆるお灸だ。お灸といっても今どきの人は見たことがないか。私でさえ子供の頃、母方の祖母がしてるのを見て以来、久しく見ていない。どれくらい効果があるものなんだろう。
 亀屋がいまだに現役で商売を続けられているということは、安定した需要があるということだろう。最近は、シールで張り付ける簡易お灸みたいなのが主流となってるようだけど、鍼灸院もあるから、そこでは昔ながらの方法でお灸が使われているのかもしれない。

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 旧柏原村役場跡。今は町の役場か何かに使われているのか。
 正面に移っている建物は古いものでも何でもなくて、公衆トイレだ。使わせてもらったけど、きれいだった。かなりヨレヨレになってきていたので、顔を洗ってすっきりする。この日は暑かった。

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 ベンガラ塗りの家。看板を読むのを省略してしまったけど、今は民家になっているところのようだ。
 箕浦代官屋敷というのがあったはずで、それはどこだったのだろう。見逃してしまった。

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 立派なお屋敷だと思ったら、柏原宿歴史館とあった。松浦家を改装したもので、一階は喫茶室になっているようだった。氷の文字に惹かれて、ここで一休みしていこうと思ったら、定休日で閉まっていた。また月曜日だ。中山道の散策に月曜日は向かない。
 歴史館の方は入館料300円かかる。どんなものが展示されているのかはよく知らない。この建物を見るだけでもそれくらい出す価値はありそうだ。大正6年築というから、江戸、明治よりも一つあとの時代のものだ。

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 日枝神社があった。寄れる神社はとりあえず寄っておくというのが私の基本姿勢だから、ここも当然入っておく。各地に顔なじみの神様を持っておいて損はない。

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 奥行きのある神社で、境内にはいるとふっと静けさが増す。
 日枝神社といえば東京の永田町にある日枝神社が有名だ。あれは、太田道灌が江戸城築城のときに、川越の無量寿寺の鎮守だった日吉社を勧請したのが始まりとされている。柏原のものは、どうなんだろう。詳しくは調べがつかなかった。
 祀られている大山咋神(オホヤマクヒノカミ)というのは、もともと近江の国の日枝山(のちの比叡山)の神というから、そちらとの関係もあるのかもしれない。
 日枝神社の山王祭は、比叡山の王を祭るという意味でそう呼ばれているものだ。
 全国の日枝神社の総本社は、比叡山の麓にある日吉大社(大津市)だから、柏原のものはこちらからの勧請だろうか。

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 拝殿の後ろには、なかなか立派な本殿が建っている。ミニサイズではあるけど、造りとしては本格的なものだ。

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 建物はなくて、広い敷地を塀で囲んでいたところをみると、ここも亀屋関係のところか。
 ひょっとすると、これが代官屋敷跡か。看板のメモ撮りを怠るから、こういうことになる。神社の由緒書きなども、ちゃんと撮っておかないといけない。

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 ドッグフードと印刷された自動販売機風のものが気になった。まさか、ドッグフードの自販機なんてものはないだろうけど。

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 このあたりは建物の様式としては古そうだけど、建物自体は新しい。
 右に写っている鐘楼みたいなのは何だろう。もしかすると、火の見櫓かもしれない。だとすれば、新しく再建したものだろう。

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 これがもうそろそろ外れに近いところだ。
 この先の右手には、御茶屋御殿跡があって、現在は西公園になっている。
 御茶屋御殿というのは、将軍家専用として1623年に建てられた宿泊所で、京極家の家臣から1,600坪を買い上げて新築させた。家康も、秀忠も、家光もそこに泊まっている。
 のちに用がなくなったということで、1689年に閉鎖された。江戸幕府が安定して、将軍自ら京へ行く必要がなくなったためだ。建物などは何も残っていない(井戸跡のみ)。
 道を渡った向かいには、郷宿(ごうやど)というのもあった。脇本陣と旅籠の中間的な宿で、公用の代官や庄屋などが泊まった宿だ。

 柏原の二回目は、わりとあっさり、さらりと終わった。明日は朝から出かけないといけなくて、今日は時間がないということもあった。
 もう一回で終わるかと思ったら、終わりそうにないから、柏原編はあと二回だ。ただ、どちらも写真中心で、あまり長くならないと思う。
 明日の帰りは遅くならないから、このまま滋賀・岐阜歴史巡りを続けよう。

中山道沿いの町並が残る柏原は観光地じゃない ~滋賀岐阜歴史編5

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
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Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 2ヶ所目の散策ポイント、柏原(かしわばら)に到着した。今日から柏原編を始めよう。
 一般的にはあまり馴染みのない駅だと思う。これといった名所があるわけでもなく、観光地でもないから、この路線をよく利用している人でもこの駅は降りたことがないという人が多いんじゃないだろうか。私がここを訪ねたのは、旧中山道の町並が残っているからだった。今回の滋賀・岐阜歴史巡りは、中山道を逆に辿る旅だった。
 柏原は、醒ヶ井の一つ東、中山道69宿場のうち、江戸から数えて60番目の宿場となる。岐阜県との県境にほど近い場所で、晴れた日は駅舎の後ろに伊吹山が見えている。
 駅前は特にこれといったものはない。観光客を出迎えるような店も、案内所も見あたらない。喫茶店一つない。旧中山道の案内板が出ているくらいのもので、観光地としての自覚はまったくないようだ。醒ヶ井の梅花藻のような呼び物もない。それでも、休みの日などは、大阪や名古屋あたりから私のような物好きが中山道の町並を見るためにポツリ、ポツリと訪れるらしい。私が行った日は平日ということで、お仲間っぽい人はひとりも見かけなかった。柏原の駅で降りた人自体が3人くらいだった。
 そんなわけで、ここはひとつ、のんびり町並散策といこう。今回も写真は、私が歩いた順番ということにした。

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 駅を南に50メートルほど歩くと、すぐに中山道にぶつかる。これではタクシーやバスの出番もない。ただ、柏原宿は端から端まで1.5キロ近くある中山道の中でも大きな宿場で、単純に往復するだけでも3キロ歩くことになる。普通に散策するだけでも1時間半から2時間くらいは見ておいた方がいい。私はあちこち寄り道をしたから2時間半くらいかかった。この時点ですでにかなりのダメージを食らってしまい、それがあとから効いてくることになる。
 中山道は山間の主要路ということで、明治以降の早い時期に平行して幹線道路が敷かれたため、旧中山道沿いは昔の面影を残しているところが多い。そこが東海道との違いで、東海道は旧道を活用してそのまま道を広げてしまったから、宿場なども残っているところが少ない。
 柏原の町の印象をどう言ったらいいだろう。宿場町の名残があるといえばあるし、生活空間そのものといえばそうで、説明するのが難しい。残念ながら、本陣や旅籠などはすでになくなっており、古い家並みは残るものの、宿場町の風情はすでに消えている。おそらく、観光客用の宿屋などもないんじゃないかと思う。一言で言って、ここは観光地ではない。おみやげ屋のたぐいも、1軒もない。
 江戸時代には、本陣、脇本陣に加えて旅籠22軒、名物のもぐさ屋10軒など、全部で344軒、人口1,500人を超える賑やかな宿場だったという。
 上の写真の朱塗りの家は、ベンガラ塗りというんだそうだ。滋賀県に多い建物で、ベンガラというのはインドのベンガル地方で産出する赤色顔料の弁柄(紅殻とも書く)のことをいうらしい。耐久性が強いということで、雪や雨の多いこの地方で好んで使われたようだ。

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 旅籠も、かつての老舗の店もほとんどなくなった現在、かつての商売や主人名などを書いた木札がそれぞれの家にかけられている。まだ住んでいる家もあれば、空き家になっているところもある。残っている古い家としてはけっこう多い方だ。戦災や大きな火事などがなかったのだろう。

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 家屋を新築して、こういう看板だけのところもある。ここは白木屋という旅籠だったらしい。
 旅籠の他にも、問屋が6軒、荷蔵が東西1棟ずつ、蝋燭屋なんてのもあったようだ。
 あちこちに「年寄」という木札もあって、ここはお年寄りをそんなに大事にしていたのかと思ったら、年寄というのは、村の役人を指す言葉だった。年寄りくらい一軒にひとりくらいはいるだろうから、そんなに珍しいはずもない。年寄の家は8軒あったのだとか。

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 古い家に生活の息づかいがあって、とてもいい感じだ。住むには不便なことも多いだろうけど、大事に住んでいる様子が見えて心地いい。ただ、自分が住むとなると大変だろうなと思う。家もあまり勝手に改築できないだろうし、外観にも気を遣わないといけない。

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 中間地点あたりに、もう一度町並地図や案内書きが立っている。この案内板の右手は、映画監督吉村公三郎の実家だったところだ。全然知らなかったので、ちょっと驚いた。問屋役や年寄役も務めた名家だったそうだ。
 吉村公三郎の作品はいまどきあまり観られなくなってしまったけど、戦後を代表する映画監督のひとりで、女性映画の第一人者と言われた人だった。高峰三枝子の『暖流』、原節子の『安城家の舞踏会』、京マチ子の『偽れる盛装』など、名作も多い。松竹の大船撮影所に見学に来ていた岸惠子をスカウトしたのも吉村公三郎監督だった。

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 右の建物は昔ながらの造り酒屋だろうか。ここは現役の酒屋さんのようだった。酒屋も4軒あったという。
 そういえば道路の真ん中のラインと穴がずっと気になっていた。このときはどんな意味があるのか分からなくて、帰ってきてから知った。これは雪を溶かすための水が出る装置なんだそうだ。初めて見た。そういえば、関ヶ原から米原あたりはかなり雪の多い地域だから、こういうものも必要なのだろう。

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 本陣の面影はまったく残っておらず、普通の民家になっていた。木の看板が残るのみだ。当時は526坪の大きな屋敷だったらしい。
 隣には皇女和宮宿泊地の石碑が建っている。かなり新しい。まさか、NHK大河にあわせて建てたわけではあるまいな。地方が町おこしで大河に便乗するのはよくある話だけど、これだけでは人は呼べない。
 天皇の妹(異母妹)である和宮(かずのみや)が将軍家茂(いえもち)との結婚のために江戸に向かったのが1861年10月20日。柏原に泊まったのは、10月24日のことだった。
 御一行様の人数は実に4,144人。柏原の宿は上を下への大騒ぎとなった。かき集めた人足は1万6,000人。使った米俵は1,500俵だったと記録に残っている。
 天皇家の外戚になるために武家が自分の娘や妹などを嫁がせるという例はたくさんあったけど、天皇家から武家の嫁になり、関東へ下ったのは、後にも先にも皇女和宮だけだった。それだけこれは大変な出来事だった。
 ペリーが来航して開国を迫り、13代将軍家定は急死、志士が暴れ回り、安政の大獄を行った井伊直弼は桜田門外の変で討たれた。幕府は倒れる寸前、そこで起死回生の策として打ち出されたのが公武合体という政策だった。弱った幕府と朝廷の権威を合体させ、尊皇攘夷運動を押さえ込もうという狙いだ。
 そのいわば犠牲になったのが和宮だった。14代将軍に決まった家定、このとき13歳。一方の和宮も同い年の13歳だった。
 和宮にはすでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)という婚約者もいて、足も少し不自由だということもあり、天皇家も最初は断った。本人も相当嫌がっていたという。断った理由は、「夷人が跋扈する関東の地に行かせるのが不憫である」というものだった。それが当時の朝廷における関東のイメージだったのだろう。それでも、公卿である岩倉具視らの説得などもあり、最終的には話はまとまることとなった。
 このことは広く一般にも伝わることとなり、様々な噂が飛び交うこととなる。中には力ずくでこれを阻止するという輩も現れ、警戒は厳重を極めたという。それで4,000人からの一団になったというのもある。
 和宮替え玉説についても少し書こうかと思っていたけど、まあいいかなと思い直した。有吉佐和子の小説『和宮様御留』そのままでは矛盾する点が多くて信じられないにしても、その可能性がなくはないと思わせる理由はいくつかある。戦後の発掘調査で見つかった骨の状態や副葬品が不自然だったとか、京都時代と江戸時代では歌風が極端に違うとか、顔を知っていた島田正辰という人物が暗殺されているとか、いろいろある。
 ただ、家定との夫婦仲はよかったというから、その点が多少なりとも救いではある。家定は21歳、和宮は32歳で短い生涯を終えている。

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 市場寺(いちばじ)という札だけあって、本体は見つからなかった。どうやらこれも跡地だったようだ。
 この左側には市場川が流れていて、かつてはこのあたりの市場町が宿場の中心地だった。その他、東町、今川町、西町の4町から成り立っていて、氏神も4社あった。
 寺も多いところで、最盛期は30以上もあったという。現在でも15ほど残っているようだ。

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 市場川と市場橋。秋葉山常夜燈もある。
 昔はここに高札場があったそうだ。高札場というのは幕府公式の掲示板のようなもので、村には必ず一ヶ所備え付けることが義務づけられていた。
 この橋は、吉村公三郎監督の『地上』という作品に登場するようだ。そんな説明書きがあった。この作品は観ていないから知らない。主演はあの川口浩というから、機会があればぜひ観てみたい。川口浩がまだ隊長になる前の若き日の作品だ。

柏原1-10

 先ほどの市場寺跡の細い路地を入っていったところに、恵比須神社がある。村社とあるから、格式のある神社だ。
 平安後期の1130年創建で、もともとは大谷地区にあったものだそうだ。
 囲いがなくて、ちょっと開けっぴろげすぎるところはあるものの、なかなか雰囲気のいい神社だった。

柏原1-11

 祭神は事代主命(コトシロヌシノミコト)。
 大国主命(オオクニヌシノミコト)とカムヤタテヒメとの間に生まれた子供で、アマテラスの使いであるタケミカヅチが大国主に国譲りを迫ったとき、息子に訊いてくれと言ったその息子がこの事代主だ。コトシロは、言葉を知るが転じた託宣の神で、コトシロが了解したことで国譲りは実現することとなった。
 その後、大国主は国を追われ出雲の神として封じられることになるのだけど、その話を始めると長くなるので今日はやめておく。コトシロも自ら姿を隠してしまったというから、国譲りというのは書かれてるような穏やかなものではなかったのだろうということが想像できる。
 コトシロは国譲りのときに釣りをしていたことから釣り好きの神様ということされてしまい、釣り竿を担いでいるえびすさんと同一視されることになる。というよりも、もともと海の神様だったえびすさんは、コトシロと重ね合わされたことから釣り竿を持ってタイを小脇に抱えている姿として描かれるようになったという方が正しいようだ。
 この神社も恵比須神社だし、戎や恵比寿などという名前の神社も、コトシロを祭神としているところが多い。

柏原1-12

 路地と野良猫。私の姿を見て、のんびり逃げていった。
 何気なく撮った一枚だけど、この写真は妙に気に入った。

 柏原編も初回からやや飛ばし気味になった。このあとまた長くなるのか、短くなるのか、今のところまだちょっと見えていない。写真の枚数からすると、3回シリーズくらいだろうか。
 明日は早寝で、あさっては出かけるので、このシリーズはいったん中断となるかもしれない。先は長いし、あまり焦らずゆっくりいこう。

醒ヶ井最終回は梅花藻とヤマトタケルの話など ~滋賀岐阜歴史編4回

観光地(Tourist spot)
醒ヶ井後編-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 醒ヶ井といえば梅花藻(ばいかも)が有名で、この花を目当てに訪れる人も多い。名物といえば、この花と養殖場しかないと言ったら醒ヶ井に失礼だろうか。中山道といっても、それだけを目当てに訊ねていく人は少ないはずだ。
 何はなくとも、梅花藻はある。ここにしか咲かない花と言っても言い過ぎではないほど珍しいものなので、わざわざそれだけを見に行く価値がある。まとまった数の花が見られるのは、滋賀県と岐阜の一部だけとなっている。養老の津屋川などでも咲いているようだ。
 育成条件は、水がきれいであることと、水温が年間を通じて14度前後であること、そして浅いことだ。湧き水を水源とする醒ヶ井の地蔵川は、ちょうどその条件に当てはまったというわけだ。
 7月から8月にかけて、梅に似た白い花を咲かせることからこの名がつけられた。直径1.5センチほどの小さな花は、流れに揺られながら水面から顔を出し、水中でも咲く。上の写真のピンク色は、落ちたサルスベリの花だ。この紅白のコントラストも、夏の終わりの地蔵川ならでは光景となっている。
 この川には絶滅危惧種のハリヨという魚がいる。肉食性の魚で、梅花藻に寄生する水生昆虫などを食べているそうだ。
 多少探してみたけど、姿はなかった。資料館だか、どこだかの水槽で飼われているとか。

醒ヶ井後編-2

 醒ヶ井の梅花藻の最盛期は、7月半ばから8月の前半にかけてだそうで、私が行ったときにはもう遅かった。満開時にはたくさんの人が写真を撮りにやって来る。白レンズ、赤帯レンズの群れで、川に入って撮ってるおっさんとかもいて、私としては花よりもむしろそっちの方を撮りたかった。

醒ヶ井後編-3

 絵になるようでなりきらないのが地蔵川の風景で、あまりいいポイントを見つけられなかった。なんとなく雑然とした感じがあって、自然でもなく、人工でもない中途半端さが難しい。
 水の流れの清らかさを伝えきれないもどかしさも残った。

醒ヶ井後編-4

  醒井地蔵尊。かつては川に本尊の地蔵さんを浸けていて、尻冷地蔵と呼ばれていたんだそうだ。今は本堂の中に安置されている。
 地蔵まつりは毎年8月23、24日というから、一週間遅れだった。そのときは賑わっていたんだろう。
 平安時代の817年、大干ばつになり、伝教大師が地蔵菩薩を彫って雨乞いをしたところ、大雨が3日間降り続いて救われたという伝承が残っている。
 地蔵堂は江戸時代に、大垣城城主の石川日向守が病気祈願の礼に建てたもので、その後2度再建されたのち、現在のものは平成2年に改修したものだそうだ。

醒ヶ井後編-5

 途中、ちゅくちょくお寺もある。いちいち入ることはしなかった。

醒ヶ井後編-6

 地蔵川を進んでいくと、唐突に像が建っているのを見つけることになる。醒ヶ井の名前の由来とも深い関わりがある日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の像だ。
 ヤマトタケルについては、日本書紀と古事記ではずいぶん記述が違ったり、架空の人物だという説もあったりで、はっきりしたことは分からない。ただ、モデルとなった人物や、元になった出来事などはあったのだろう。各地に様々な伝説が残されている。
 せっかくだから、日本武尊について少し書いておこう。
 ヤマトタケル(日本武尊、倭建命、小碓命とも表記される)は、景行天皇の皇子で仲哀天皇の父とされる日本神話上の英雄だ。
 父親の愛人を奪った兄の大碓命を素手でひねり殺してしまい、父親に恐れられ、遠ざけるために九州の熊襲建(クマソタケル)兄弟の討伐を命じられる。ときにヤマトタケル、弱冠16歳。
 わずかな配下しかつけてもらえなかったヤマトタケルは、伊勢の斎宮にいる叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を訪ねていってどうしたらいいか相談することにした。倭姫命がこれを持っていきなさいと差し出したのは、女物の衣装だった。
 九州に到着してみると、クマソタケル兄弟は完成したばかりの新居でお祝いの宴を催していた。そこへ美少女に扮して忍び込んでいき、わざと目立つ振る舞いをする。それに気づいた兄のタケルはもっと近くへ来るがいいと呼び寄せ、近づいたとたん、いきなり斬りつけるヤマトタケル。逃げる弟を追いかけ背中から一撃。
 知恵の勝利というか、ずるいというか、ヤマトタケルの戦法はいつもこの調子で、英雄らしからぬところがある。これは、のちの源義経につながるものを感じる。
 続いて出雲に入ったヤマトタケルは、出雲建(イズモタケル)を討つべくどうしたかというと、まず仲良しになった。そして、ある日、こっそりイズモタケルの太刀をニセモノと交換しておいて、一つ手合わせをしようじゃないかと誘った。そして、手合わせと称してばっさりいってしまう。
 やり方はともかくとして、見事西の蛮族たちを討伐したヤマトタケルは、報告をするために父親の元に帰っていった。すると、休む間も与えられず今度は東方の蛮族も討伐してくるがいいと命じられてしまう。このあたりも、義経と頼朝を見るようだ。
 嘆いたヤマトタケルは再び伊勢の叔母さん倭姫命のところへ行った。そのとき預かったのが、のちに神剣・草薙剣と呼ばれるようになる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)だった。
 途中、尾張に立ち寄ったとき、美夜受媛(ミヤズヒメ)と出会って恋に落ちる。帰ってきたら一緒になろうと約束をして、東国に旅立った。
 相模の国では逆にだまし討ちに遭い、火攻めを食らって危機一髪。それを救ったのが天叢雲剣で、燃えさかる草をこの剣でなぎ払って難を逃れることができた。そこから草薙剣の名がつけられた。
 東国で一仕事終えたヤマトタケルは尾張に戻って結婚する。それでも落ち着く間を与えられず、今度は伊吹山へ行って暴れている大蛇を退治るように言われる。何を思ったのか、草薙剣を美夜受媛に預けたまま出向いていったヤマトタケル。これが命取りだった。ヘビくらいなら素手でもいけると思ったのか。
 山に入って間もなく、目の前に白くて大きなイノシシが現れた。神の使いだろうと無視して先へ進むと、実はその白イノシシは神の化身で、怒った山の神は大きな氷の雨を降らせて、それに当たったヤマトタケルは失神してしまう。体調もにわかにおかしくなり、命からがら逃げるように山を降りてきた。
 すごく長い前置きだったけど、ここでようやく醒ヶ井が登場する。この地に辿り着いたヤマトタケルは、地蔵川の脇に腰を下ろし(腰掛け石と鞍掛石というのがある)、清水をごくごく飲むんだところ、シャキッと目が醒めるように元気になり、高熱も下がった。これならいけるということで、気を取り直して故郷の大和への帰路についたのだった。
 しかし、連戦と長旅で体は弱っており、体調もおかしくなってくる。養老から鈴鹿に至る頃にはフラフラのヨレヨレになっていて、歩くこともままらないくらいになっていた。
「わが足三重の匂(まか)りなして、いと疲れたり」と、言ったという。パトラッシュ、ボク、もう疲れたよ状態だ。歩き疲れる気持ちは私も少し分かる。
 この三重の匂りという言葉が三重県の語源になっているという。
 現在の三重県亀山市、当時の能煩野(のぼの)に至ったとき、ついにヤマトタケルは力尽きる。
「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭し うるわし」など国を思う歌4首を詠んで倒れ、帰らぬ人となったのであった。このときヤマトタケル30歳。
 死の知らせを聞いた奥さんたちはこの地を訪れ、お墓を作ることにした。そのとき、一羽の白鳥が空に飛び立ち、大和の方へ向かって飛んでいったという。
 亀山市には全長90メートルの前方後円墳があり、この能褒野御墓がヤマトタケルの墓ということになっている。隣には能褒野神社がある。
 その他、鈴鹿や亀山市に数ヶ所古墳などが存在している。

醒ヶ井後編-7

 これがヤマトタケルが飲んで調子を取り戻したとされる湧き水で、居醒の清水(いざめのしみず)と名づけられている。
 醒井(さめがい)の地名は、ここから来ている。
 隣の蟹石というのは、カニの姿に似ているからだろうか。似てないけど。

醒ヶ井後編-8

 奥まで行ったところに、加茂神社がある。この地域の氏神様だ。
 以前はもっと南にあったものが、名神高速が通るときにこの場所に移されたらしい。
 どういう由緒があるのか、調べがつかなかった。鳥居の額に別雷皇宮とあるから、京都の上賀茂神社から勧請した神社なのだろうと思う。全国にある賀茂神社や鴨神社も同じようなものだ。それが300社ほどあるという。
 醒ヶ井が賀茂氏と関係があるのかどうかは分からない。

醒ヶ井後編-9

 境内の広さはこんなもの。もともとどの程度の広さだったんだろう。
 なかなかいい雰囲気だった。悪い感じはない。

醒ヶ井後編-10

 神社の境内は、高台になっていて、見晴らしがいい。醒ヶ井の町並を眺めることができる。
 ここはちょっとおすすめの場所だ。

醒ヶ井後編-11

 加茂神社から先は特に見所がなさそうだったので、引き返すことにする。

醒ヶ井後編-12

 帰りは北側の道を通って、旧醒ヶ井郵便局を見ていくことにした。
 残念ながらここも月曜定休で、中に入ることができなかった。一階は資料館になっていて無料で、二階は有料(200円)とのことだ。醒ヶ井を訪ねるときは月曜は避けた方がいい。
 このかつてのモダン建築は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが大正4年(1915年)に設計したものだ。
 ヴォーリズといえば、日本でたくさんの洋館の設計をしたとともに、メンソレータムでお馴染みの近江兄弟社の創設者でもある。特に関西では馴染み深い建築家で、同志社大や関西学院大学など、多くの作品を残している。私は近江八幡で池田町洋館街を見た。そのときの様子はブログでも紹介した。
 郵便局や銀行などもたくさん手がけていて、この醒ヶ井郵便局もその一つだ。
 現在の姿は、昭和9年(1934年)に外側をモルタル張りにしたもので、当時のままではないらしい。本体は木造建築だ。
 昭和48年までは現役の郵便局として使われていたという。

 醒ヶ井について私が紹介できるのはこれくらいだ。もう充分だって? 予定より多い4回シリーズになったし、確かにこれくらいでいいだろう。
 すごくおすすめできるというほどではないにしても、全般的に雰囲気のいいところなので、近くに行くことがあればちょっとでも寄ってみて欲しいと思う。駅からもそんなに離れていないし、散策時間も1時間半程度のものだ。
 次回からは、隣の宿である柏原編へと移っていく。ここではやたら写真を撮った。けど、観光地としての核がないところだから、どういうふうに紹介していいものか、まだ自分の中でイメージが固まっていない。まずは町並写真を並べるところから始めようか。また3回か4回のシリーズになりそうだ。

3回目にしてようやく醒ヶ井紹介の本編に入る ~滋賀岐阜歴史編3回

観光地(Tourist spot)
醒ヶ井本編1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 今日になってダメージはほぼ抜けて、日常生活に問題ないところまで回復した。ふくらはぎの筋肉痛は残っているものの、歩き方も普通に戻った。もうヨボヨボじゃない。
 そんなわけで、3回目にしてようやく醒ヶ井の本編に入ることができる。写真を現像してみたら、やはり1回では収まらなかったので、前後編の2回に分けた。テーマ別にするほど偏りはないから、写真は撮った順番にした。場所的にはやや前後してる部分もあるけど、だいたい写真の並び順がそのまま醒ヶ井の町並と思ってもらっていい。だいたいこんな感じの風景が続いている。
 上の写真は、醒ヶ井駅を正面から見たところだ。ロータリーはぜいたくな広さになっている。駅の左手には、水の駅という建物がある。道の駅はよくあるけど、水の駅というのは初めて見る。内容はいわゆる道の駅と同じような休憩と買い物のための施設で、醒ヶ井が水の郷ということで水の駅ということにしたようだ。オープンは2002年だから、まだ新しい。これも町おこしの一環だろうか。今回は時間がなくて寄れなかった。
 右手の大きな看板は、養殖場を宣伝している。よく見たら、養殖場まで4kmと書かれている。駅からそんなに離れてるとは思わなかった。バスで10分というから、歩いて1時間くらいだろうか。チビのときは、プラプラ歩いていった記憶がある。考えてみると、昔から旅行にいくとよく歩かされていた。歩くことが全然嫌じゃなかったし、喜んで歩いていたのも覚えている。自分からバスや電車に乗りたいと言ったことは一度もないはずだ。父親の趣味が散歩だったし、よくそのお供もしたものだ。
 中山道と地蔵川があるのは、駅の南東方向になる。南に下って、川にぶつかったら左方向に行けば、なんとなく辿り着く。迷うほど道も入り組んでいないから、大丈夫だ。確か、梅花藻と書かれた案内板も見た気がする。

醒ヶ井本編1-2

 南へ行って、名神高速の高架手前を左折してしばらく進むと、西行水と呼ばれる場所に着く。ここはメインの道から外れているところなので、意識的に行かないと見つからない。一応寄っておくことをオススメしたい。
 このすぐ向こうは、名神高速が通っていて、多くの車が行き交っている。渋滞情報でよく出てくる米原ジャンクションあたりだ。このあたりを車でよく通っている人でも、高速のすぐ下に醒ヶ井なんて古い町があることを知らない人も多いんじゃないだろうか。こういうところに一度でも行っておくと、渋滞にはまり込んだときでも思い出が慰めになるかもしれない。

醒ヶ井本編1-3

 泡子塚と名づけられたのはこんなエピソードからだ。
 西行がこの地を通ったとき、茶屋に入って茶を飲んだ。その西行を見て恋に落ちた茶屋の娘が、西行の残したお茶を飲んだところ、妊娠して子供が生まれた。何年かして再びこの場所を通った西行が娘からその話を聞き、こう言った。もし本当に自分の子がお茶の泡から生まれたなら、再び泡に帰るがよい、と。すると子供はたちまち泡となってしまったという。
 それで西行は、確かに我が子だったと、この場所に石塔を建てて供養したのが始まりで、やがて泡子塚と呼ばれるようになったのだとか。
 どんな教訓を含んだ話なのかよく分からないのだけど、そんな話があるらしい。
 西行という人も複雑な人で、僧侶でありながら歌人でもあり、旅に生きた人でもあった。「願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」というのは有名な歌だ。
 石像を見ると、かわいく着飾ってもらった子供のようだ。西行を抜きにしても子供にまつわる悲しい物語か何かがあったのかもしれない。
 左手には、水琴窟もある。

醒ヶ井本編1-4

 どこからどこまでが旧中山道の名残なのか、はっきりしたことは分からなかった。ここは西行水から醒井大橋へ向かう途中だから、まだ街道沿いではないのだと思う。それでもこういう昔の立派な家が残っている。

醒ヶ井本編1-5

 醒井大橋で道が合流する地点に、ちょっと面白い店が建っている。八百屋というのか、スーパーというのか、昔でいう田舎の食料品店のようなところだ。野菜や果物などが充実しているのは、近所で穫れたものだろうか。
 それにしても、ここの町の人たちは毎日どこで食料品などを買っているのだろう。駅前にも大きなスーパーみたいなものは見あたらなかった。北側の大通り沿いには店も揃っているんだろうか。
 この店はこの地域住民にとっての重要な店かもしれない。

醒ヶ井本編1-6

 アスファルトの色が変わっているところからが保存地区になっているのだろうか。先ほどの店の前から色が違っている。
 生活区域だから、車もたくさんとまっているし、新しめの家もあるにはあるのだけど、全体の雰囲気としてはけっこう昔の面影を残している。観光地ではないから、同じ中山道の宿場町でも、妻籠宿や馬篭のようなところを期待していくと、がっかりしてしまう。逆にあちらほど観光地化されていないよさもある。
 中山道というのは、江戸時代の初期、徳川家康によって整備された五街道の一つで、海沿いの東海道に対して山沿いの道として発達した。江戸の日本橋から出発して京都の三条大橋に至るのは、どちらも同じだ。
 五街道というのも懐かしい響きの言葉で、今全部言ってみろと言われても答えられない。昔、暗記して以来、実用上役に立ったことはあまりない。あとの3つは、甲州街道、奥州街道、日光街道だ。
 東海道五十三次に対して、中山道は69の宿場町があった。山道を行く中山道は、東海道と比べて40キロ以上も長かったためだ(全長約534キロ)。
 山道が多く、長かったにもかかわらずこの道がよく利用されたのは、大きな川が少なかったのが一つ、もう一つは各地に中山道とつながる脇街道がたくさんあったというのもある。大名の参勤交代にもよく使われ、大阪城から江戸に下る千姫や、和宮が京から江戸に降嫁したときも中山道を通った。隣の柏原にその痕跡が残っているので、和宮替え玉説についてはそのときちょっと書きたいと思っている。
 醒井宿は、江戸から数えて61番目の宿場だった。ここまで来れば、京はもうすぐだ。江戸時代には、本陣1軒に脇本陣1軒、旅籠11軒、問屋7軒もあったそうだ。

醒ヶ井本編1-7

 細い路地の奥に、お寺さんが見えた。石龍山了徳寺という寺だ。どんな由緒や歴史があるのはかよく知らない。御葉附銀杏(おはつきいちょう)というのが有名で、国の天然記念物に指定されている珍しいイチョウがあるらしい。樹齢200年というから、なかなかのものだ。

醒ヶ井本編1-8

 醒井木彫美術館だったか、違ったか。細かい資料の持ち合わせがなく、どこに何があるのか詳しいことは把握できないままだった。この日は月曜日で資料館も定休日だった。
 美術館ではなく、ただの民家かもしれない。

醒ヶ井本編1-9

 立派な門構えだけど、本陣跡ではない。本陣は別のところにあった。脇本陣は、了徳寺あたりにあったという話だ。
 石碑には「明治天皇御駐輦所跡」とある。読めない……。明治天皇が駐輦したところなのだろう。泊まったのではなく、車を駐めたとか、そんなことだろうか。宿屋なのか、違うのか。

醒ヶ井本編1-10

 帰ってきて撮った写真を見返してみると、それがどこを写したものなのか分からないものがたくさんあった。花の名前じゃないけど、こういう建物もメモ撮りしてこないといけない。帰ってきてから調べようにも、手がかりがないことも多い。
 このときは、どこかからひょいと出てきた坊さんの姿に気を取られていた。前の方に歩いているのがそうだ。あれ、どこから出てきたんだろうと思っているうちに、手前の建物の正体を知るのを忘れていた。
 どこかで知ることができたら、追記することにしよう。

醒ヶ井本編1-11

 これは店の名前がしっかり写ってるから大丈夫。ヤマキ醤油店だ。
 地蔵川で仕込むしょう油の味はかなりいいとのこと。金印醤油が1リットル370円と、老舗なのに良心的だ。けど、旅の始まりからいきなり1リットルのしょう油を買ってうろついてる場合じゃない。小さいしょう油でも、万が一バッグの中でこぼれたりしたら大惨事だ。しょう油は買わないことにした。もともと買う予定もなかったし。

醒ヶ井本編1-12

 川口家の問屋場跡が資料館になっている。月曜日は定休で閉まっていた。無料のようだから、開いていれば入っていただろう。そこには醒ヶ井の散策マップのようなものが置いてあったかもしれない。
 問屋場でこれだけ完全な形で残っているのはここだけだった。
 この前の川が、梅花藻の撮影スポットになっている。時期的に遅くて、誰も撮りにきてはいなかった。別の場所で少し咲いているのを撮ったから、明日の後編で紹介したい。

醒ヶ井本編1-13

 これも宿屋だっただろうか。二階がそんな感じにも見えるけど、民家だろうか。
 こういう朱塗りの家は、伊吹地方に多いんだそうだ。かなり薄くなってはいるけど、格子や扉に朱色が残っている。

醒ヶ井本編1-14

 これは江戸ではなく昭和の古い建物。昭和11年(1936年)に建てられた醒井公会堂だ。昭和初期に建てられた和洋折衷の貴重な建築物ということで、平成15年に国の登録有形文化財になった。
 外観はかなり痛んでいる。公開はされていないようだ。
 もう一つ、昭和レトロの建物として、旧郵便局がある。それも次回紹介することになる。
 本編の前半はここまでだ。明日はこの続きの後編をお送りします。

無意識にやたら縦撮りしていた醒ヶ井の町風景 ~滋賀岐阜歴史編2回

観光地(Tourist spot)
醒ヶ井縦撮り-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 今日になってもダメージの回復は思わしくなく、写真の現像と勉強も間に合わなかった。立てばしんどく、座れば眠い、歩く姿はよぼよぼじじいといった風情で、日常生活にも支障を来すほどの一日だった。
 そんなわけで、今日も本編をしっかり書くことができない。出発点となった醒ヶ井の写真を並べてお茶を濁そうかと考えながら写真を選んでいたら、やけに縦撮り写真が多いことに気づいた。普段の私はあまり縦撮りをしない。このブログの写真も縦撮り写真は少ない。横撮りの方が人の目に映る風景として自然だし、やたら縦撮りをしてる人の写真は気取った感じがしてあまり好きではないというのもある。なるべく横撮りで撮れるものは普通に撮って、どうしても縦じゃないと撮れないときだけ縦撮りにするというのが基本姿勢となっている。にもかかわらずの縦撮り写真確率の高さに自分でもちょっと驚いた。もちろん、意識して撮ったわけではなく、同じ日の別の場所では縦撮りは少ない。
 私だけかもしれないけど、どうやら醒ヶ井というところは縦撮りが似合う町らしい。もしくは、縦撮りしたいと思わせる風景がそこにあるというべきか。
 という前置きをした上で、今回は企画ものとして縦撮り写真を集めて並べることにした。そうしてあらためて見てみると、やっぱりこの風景は縦撮りになるよなと自分では納得するのだった。もう一度同じ場所に立っても、縦撮りするに違いないと思う。

醒ヶ井縦撮り-2

 醒ヶ井は江戸時代に中山道の宿場町として栄え、明治から昭和にかけては鱒(ます)の養殖場として観光地になった。平成の今は、ひなびて落ち着いた観光地となっている。昭和に流行った観光地特有の空気感を持ったところだ。
 私自身は、小学生のとき親に連れて行ってもらって以来で、当時の記憶はほとんど残っていない。駅前に降り立てば蘇るものもあるかと期待したけど、まるで思い出せなかった。覚えているのは、用水路に魚がたくさん泳いでいるのを見つけて、「あ、サメだ!」と大声で叫んだら、「醒ヶ井だけど、いるのはサメじゃなくてマスよ」と母親に笑われたことくらいのものだ。確かに、町の用水路でサメは泳いでいない。
 今回醒ヶ井を訪れた目的は、中山道の面影を残す町並と、川に咲く梅花藻(ばいかも)という花を見るためだった。だから、養殖場の方へは行っていない。あちらまで行けば何か思い出すものはあったかもしれない。釣り堀のマスは入れ食いで釣れてつれて大喜びしていたら、おいおい、そんなに釣っちゃ駄目だと両親に止められた。あれは釣ったら釣った分だけ買い取らなくてはいけないシステムで、調子に乗って釣りまくる私を見て親の泣きが入ったのだ。そんなにたくさん釣っても食べきれないし、持ち帰っても困る。

醒ヶ井縦撮り-3

 旧中山道の入り口あたりに標識が立っていた。真っ直ぐ行けば醒井宿、左へ行けば柏原で一里半。鉄道で行けば5分の距離も、6キロ歩くとなると1時間半はかかる。昔の人は平気でこれくらいは歩いたのだろうけど。

醒ヶ井縦撮り-4

 ああ、これはいい感じ。一目で気に入った。ここは観光地というほどの観光地ではなく、生活のための町という性格が色濃い。観光2割、生活8割といったところだろうか。

醒ヶ井縦撮り-5

 実質的な散策路としては、この醒井大橋を渡った先ということになる。
 澄んだ地蔵川の流れに沿って街道がある。駅からここまでは歩いて10分弱。散策路も500メートルくらいのものだから、ゆっくり見て回って1時間くらいだ。養殖場とあわせても、一日の観光というと物足りない。そのあたりが観光地としてメジャーになれなかった要因だろう。醒ヶ井といっても、どこにあるのか知らない人も多いと思う。琵琶湖の東、米原駅から一つ東の米原市にある。

醒ヶ井縦撮り-6

 醒ヶ井には7ヶ所の湧き水があって、キャッチコピーとして「湧くわく街道」を名乗っている。思いついた人は、これはいけるっと思ったに違いない。ワクワクと掛けて。
 地蔵川も湧き水から生まれた川で、この澄んだ水は天野川に合流し、琵琶湖にそそいでいる。地蔵川の天然水は直接飲んで美味しいのに、流れながれて琵琶湖の水はそのままでは飲めない。なんとなく、人間にも当てはまるようだと思う。
 上の写真はそんな湧き水の一つで、十王水と名づけられている。昔ここに十王堂があったことから来ているらしい。

醒ヶ井縦撮り-7

 地蔵川沿いの右手には民家が並んでいる。こちらは完全に生活空間だ。一家に一本橋を持っていると言っていいくらい、たくさんの橋が架かっている。それで、こういう風景になっている。

醒ヶ井縦撮り-8

 清流地蔵川と、流れに揺らぐ梅花藻。
 梅花藻については、花の写真とともにあらめて書きたい。

醒ヶ井縦撮り-9

 ちょっとした飲食店やおみやげ物屋さんのような店がポツポツある。
 隣はレトロモダンな感じの三階建ての家だ。

醒ヶ井縦撮り-10

 氷や飲み物などを売っているところ。昔ながらの情緒がある。
 地蔵川は年間平均水温が14度で、天然の冷蔵庫としても使われている。生活の知恵として、スイカやジュースなどを漬けて冷やしている風景があった。
 ここの住民はみんな地蔵川を大事に思っていて、早くから下水を整備して生活排水を川に流さないようにして守ってきたという。これほど町に近い場所で湧き水を直接飲めるというのは貴重だ。かつては当たり前だったことも、当たり前ではなくなった。何かを新しく作り出すことと同じくらい昔からのものを守るというのも大切なことなのだということを教えてくれる。

醒ヶ井縦撮り-11

 この日は30度を超える暑い日だったけど、川辺にいると気持ちだけでも涼しく感じられる。実際夏でも水は冷たいようで、手を長くつけていられないくらいだそうだ。そういえば、水を触るのを忘れていた。デジカメと水は相性が悪いから、写真を撮っていると水に触れるという発想が消えてしまいがちだ。水の冷たさを体感してこなかったことが、ちょっとした後悔となった。

醒ヶ井縦撮り-12

 昭和の風情そのままの店がまだ営業していて嬉しくなる。アキレス靴の看板も久しぶりに見た。

 今日のところは、これで終わりにする。明日から醒ヶ井についてしっかり書いていきたいと思っている。醒ヶ井編はあと1回になるか、2回になるか。加茂神社もあるし、日本武尊のこともあるから、やっぱり1回では収まらないか。日本武尊の話を独立させると長くなりそうだから、今回は控えよう。
 明日には心身共に回復している予定です。

季節が夏に戻った滋賀と岐阜を10時間歩いて懲りた ~滋賀岐阜歴史編1回

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
滋賀岐阜プロローグ1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 今回の旅の始まりは、醒ヶ井(さめがい)だった。当初の予定では、東海道本線の米原(まいばら)までいって、ほぼ一駅ごとに降りて散策するというコースを考えていたのだけど、一日に6ヶ所、7ヶ所はさすがに無理だと分かり、前後を端折ることにした。なんとか大垣まで辿り着きたいというのがこのときの思いだった。
 電車の旅は、回を重ねるごとに厳しさが増していっている。楽しい撮影旅行として始まったこの企画は、いつからかひとり歩け歩け大会の様相を呈してきていて、旅の目的が限界への挑戦にすり替わっている。ほとんど苦行に近い。今日、家に帰ってきたときの私は、100キロマラソンを完走したエド・はるみよりも疲れ切っていた。疲労の限界はとっくに超え、途中からはただ足を前に出しているだけの歩行マシーンのようだった。精根尽き果てるとはこういうことかと思い知る。
 とにかく疲れたとしか言いようがない。このスケジュールを組んだのが自分以外の誰かだったら猛然と抗議をしていた。しまいには作った自分にさえ腹が立ったくらいだ。いい加減にしろよ、こんなの無謀に決まってるじゃんかよ、と。
 醒ヶ井で1時間半、柏原で2時間半、関ヶ原で3時間半、垂井で2時間半。ほぼノンストップで10時間歩行。だって休憩時間がスケジュールに組み込まれてないんだもん。結局休んだのは、9時歩いたあとの20分だけだった。
 食べたのはアイス1個。あとはスポーツドリンクとコーヒー類のみ。駅の売店でリポビタンDを買おうかどうしようか迷ってやめた。飲んだらドーピングのような気がして。

 さすがに今日は、へたばりきったので、新シリーズの本編を始める気力がない。体力だけでなく、精神的なエネルギーも使い果たした。
 今日のところはプロローグということで、写真を並べるだけにしておく。
 とても暑い日で、また腕と首と顔が真っ赤になってしまった。9月にこんな日焼けしてるなんて恥ずかしい。滋賀でも岐阜でも、まだ夏真っ盛りといった感じで、蝉時雨が降りそそいでいた。名古屋とは違って、向こうはミンミンゼミとアブラゼミとツクツクボウシが競い合うように鳴いている。光も空も力があった。
 今日の写真は、夏の名残と題してお送りします。

滋賀岐阜プロローグ2

 醒ヶ井、地蔵川の流れと水車。

滋賀岐阜プロローグ3

 サルスベリの木の様子がよかった。濃いピンク色の花は、夏空の青とのコントラスがよく似合う。

滋賀岐阜プロローグ4

 名古屋ではもうセミはほとんど鳴いていない。今日一日で季節が2週間くらい戻ったようだった。
 このあたりにはほとんどいないミンミンゼミを撮りたかったのに、撮れたのはお馴染みのアブラゼミだけ。それがちょっと残念だった。

滋賀岐阜プロローグ5

 キキョウは秋の七草の一つだけど、6月から8月にかけての暑い季節に咲く夏の花だ。もうそろそろ終わりかけのようだった。

滋賀岐阜プロローグ6

 ナミアゲハや、他のいろんな蝶やトンボが飛び交っていた。そこでも夏を感じた。滋賀は暑いのか、季節の進み方が名古屋よりも遅いのか。

滋賀岐阜プロローグ7

 ホオズキみたいなこれはなんだろう。小さくて繊細な花を咲かせていて、緑色の丸い袋も上品でかわいい。
 <追記>
 これはフウセンカズラだと教えていただいた。
 風船みたいなのは実で、中には丸くて黒い種が入っている。その種には白いハートの模様があるのだ。
 見つけたら、写真を撮ろう。ちょっとしたプレゼントにも喜ばれるかも。

滋賀岐阜プロローグ8

 夏のキバナコスモスと、秋のコスモスが混在していた。違いは色だけじゃない、キバナと普通のコスモスでは季節も違う。
 もうしばらくすると勢力図は逆転する。

滋賀岐阜プロローグ9

 関ヶ原は、広大な田園風景が広がっていた。
 兵どもが夢の跡。芭蕉が見たのは奥州平泉だったけど、関ヶ原でも同じ句ができていたかもしれない。
 15万人を超える兵士たちが戦った戦場は、日本人の心の拠り所ともいえる米を作る田んぼとなっていた。思えば、石高というように、戦国の日本人たちは2000万石の米の取り合いをして戦っていたとも言える。皮肉と言おうか、戦いの果てに手に入れた平和の象徴的な風景と言うべきか。

滋賀岐阜プロローグ10

 今年はとうとうヒマワリを撮ることができなかったと残念に思っていたら、関ヶ原で出会いがあった。これでもう満足ということにしておこう。
 大垣のヒマワリ畑が有名で、毎年8月のはじめ頃盛りを迎えて、岐阜市民を喜ばせている。今回の旅では間に合わなかった。

滋賀岐阜プロローグ11

 垂井の相川に架かる御幸橋からの風景。影が強い。
 垂井の相川といえば、鯉のぼりが風物詩となっている。300匹以上の鯉のぼりが川の端から端に渡されて、伊吹おろしに吹かれて泳ぐ。

滋賀岐阜プロローグ12

 疲れ果て、唯一休憩したのが、南宮大社の前。サンデーカップを買って、座って食べる。
 写っている尾張屋支店は昭和の風情だった。こういう店だから、アイスも昔のものを置いてあったらよかったのに。メロンの格好をしたカップのアイスとか、チューチューアイスとか。

滋賀岐阜プロローグ13

 南宮大社からの帰り道、道に迷っているうちに夕焼けが夕暮れに変わり、駅に着く頃には夜になった。トンチンカンな場所をさまよって、二回も地元住人に駅の方角を訊ね、苦笑を呼んでしまった。訊かなければもっと深みにはまっていた。
 もう、大垣には間に合わない。

滋賀岐阜プロローグ14

 大垣は電車の乗り換えでホームに降りただけ。暗くなってしまったら大垣城の遠景も撮れない。
 あわよくば岐阜までという考えは甘すぎた。時間もだし、そこまでの気力が残っていなかった。岐阜駅の新名所、岐阜シティ・タワー43にも登ってみたかったけど。
 最終的に回れたのは4ヶ所にとどまった。単純計算して1ヶ所2時間で6ヶ所回れると思っていたのに、計算通りにはいかないものだ。いや、そもそもその計算では12時間歩くことになる。そんなスケジュールは金輪際お断りする。
 今回はほとほと懲りた。スケジュールを詰め込めばいいってもんじゃない。時間と体力の許す限り的な計画はもうやめよう。あまりにもつらすぎる。
 次回の電車の旅は、秋くらいだろうか。夏が終われば、紅葉までは駆け足だ。
 明日からのブログは、醒ヶ井から順番に紹介していく格好になると思う。1ヶ所3回として全12回。もう少しかかるかもしれない。しばらくは、滋賀・岐阜歴史巡りシリーズにおつき合いください。