
Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS
ようやくやって来ることができた関ヶ原に降り立ったときは、ちょっと感慨深かった。自分の中で、鎌倉と関ヶ原だけは時期が来るまでうかつに近づいてはいけないという思いがあって、ずっと行けないまま月日が流れていた。去年、鎌倉を克服して、この前徳川の聖地である日光にも参拝に行って、もういいだろうということで今回の関ヶ原行きとなった。
醒ヶ井や柏原の中山道は付録のようなもので、今回の旅の一番の目的地は関ヶ原の古戦場だった。この時点ですでにヘトヘトになっていたのは大きな計算外だったのだけど、関ヶ原といえば計算外の連続のような戦いだったわけで、不測の事態の中でいかに臨機応変に動けるかというのが関ヶ原におけるテーマとも言えた。
古戦場跡は狭いようで広く、何もないようでいて見所の宝庫でもある。主要な場所をすべて歩いて回るなら、少なくとも半日は必要だろう。私は結局、3時間半ほど歩いて、半分ちょっと見て回ったような感じだった。多少心残りもある。
ただ、行ってよかったと、しみじみと思った。ずっと心の中にかかっていた霧が晴れたような清々しい気持ちになった。もっと怨念が渦巻く薄暗い土地を想像していたけど、行ってみたらもうそんな重たい空気は消え去っていて、カラリと晴れた場所になっていた。400年の歳月は決して短くない。
関ヶ原の古戦場跡を歩きながら私がずっと心の中で思っていた言葉は、水に流す、という言葉だった。恨みっこなしでいきましょうと、誰にともなく語りかけながら歩いた。大勢の人間がさまざまな思惑を持って集まり、多くの命が失われ、恨み辛みや、言いたいこともたくさんあるには違いないけど、何にしてももう終わってしまったことだ。どっちが勝っていても、良かったことと悪かったことはある。結果的にこの戦を境にして、戦国時代は終わりを告げたのだ。そのことを喜ぶしかない。
関ヶ原を歩いていると、なんとなく自分が西寄りの心情になっていくような気がするのは気のせいだろうか。関ヶ原の史跡も、東よりも西の方に力が入っているようにも思える。個人的には、徳川家康も石田三成も好きなところよりも嫌いなところの方が多くて、どちらびいきでもない。名古屋人としては徳川寄りではあるものの、家康のやり口には共感できないところが多々ある。かといって石田三成が勝てばよかったと思っているわけでもない。
なのに、関ヶ原にいると、どうにも三成の西軍に肩入れしたくなってしまうのだ。それは単なる判官贔屓とかではない。西軍の悔しさが自分の中に流れ込んできていたのだろうか。ただそれは、重苦しいようなものではなくて、たとえば自分の応援するチームが負けてしまったときのような悔しさに似ている。もう少しなんとかなったんじゃないかと考えずにいられないような気分だ。
歴史は常に勝者の側から語られる。勝った者が正義で、負けた者は反乱者ということになる。時代をさかのぼれば、関ヶ原というのは、大海人皇子(のちの天武天皇)と大友皇子(天智天皇の息子)が戦った壬申の乱の舞台にもなったところでもある。戦いに敗れた大友皇子はこの地で自害して果てた。家康が最初に陣を置いたのは、勝者である大海人皇子が陣取った桃配山だった。
歴史というのはあとから振り返ってみれば、すべてが必然に見える。けれど、現在進行形の当事者にしてみれば、次に何がどうなるかはそのときになってみないと分からない。絶対に勝てる戦というのもなく、家康にしても、関ヶ原の戦いは最初から最後まで誤算の連続だった。思惑通りに事が運んだ勝利ではなかった。天下分け目の決戦というのも、あとになってみたらそうだっただけで、誰が一日で決着するなんて思っただろう。
関ヶ原の戦いについては、多くの人が書き尽くしていて、今更私が書くことはないようにも思う。詳しい人は詳しいし、私が新解釈を持っているわけでもない。ただ、行って見てきたことでいろいろと感じることもあり、実感として理解したこともあって、帰ってきてからもう一度勉強して分かったこともあるので、自分自身のための総まとめという意味も込めて、今日から何回かに渡って書いていこうと考えている。
書くことがあまりにも多すぎて、全部書いていてはあまりにもとりとめがないから、なるべく要点を絞って分かりやすく書くことを心がけたい。歴史に特別な興味がない人にとっても、教科書やテレビで知る以上にことを伝えられたらいいのだけど。
今回は、心情的にやや西寄りになりそうな予感がしている。いろんな「もし」の可能性も考えてみたい。時間的にも、場面的にも、西軍が勝利した可能性というのはそこかしこに散らばっている。そのあたりも紹介していくことにしよう。
どんな内容になるのか、今のところまだ見えていない。これも関ヶ原の戦い同様、見切り発車でいってみるしかない。最終的に納得のいくものとなるのかどうか、分からない。西軍寄りでいった結果、まとまりのないものとして終わってしまう可能性もある。
写真の並び順は、今回は歩いた順番になっていない。場所もバラバラに飛んでいる。話の内容に合わせて順番を選んでいるので、関ヶ原を歩いたことがある人にとってはかえって分かりづらいかもしれないけど、まあ勘弁してもらおう。関ヶ原編は、話優先ということで。

関ヶ原の開戦地へとやって来た。石碑が建っている以外、これといったものはない。すべては想像で補って、感慨に浸るしかない。戦国野郎や戦国お嬢にとってみれば、余計な作り物などかえって邪魔というものだろう。ここがその場所であることさえ分かればそれで充分だ。
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、午前4時。西軍8万4千(10万とも)は、必勝の鶴翼の陣で配置を完了。遅れて東軍7万5千は6時に布陣を敷き終わる。主力部隊ともいえる徳川秀忠3万8千はいまだ到着しない。関ヶ原は深い霧に包まれ、両軍とも前が見えない。
にらみ合ったまま2時間が経過した午前8時、霧が晴れてきた。
最初に動いたのは東軍だった。西の主力である宇喜多秀家と向かい合う形になっていた東の主力福島正則の横を、井伊直政と松平忠吉が通り抜けて前へ出ようとした。福島隊の可児才蔵はこれに待ったをかける。福島正則は先陣を切る約束を家康に取り付けていたからだ。しかし、言うことを聞かず、いきなり発砲する井伊隊と松平隊。それに応戦する形で宇喜多秀家が撃ち返してきたことで、関ヶ原の合戦は突然始まった。怒号と共に両軍が突撃し合い、最前線は東西入り乱れての激戦となったのだった。

話を関ヶ原の戦いの2年前、1598年に戻そう。
8月9日、豊臣秀吉死去(63歳)。このときから事実上の関ヶ原の戦いは始まっていたと言っていい。
関ヶ原の戦いは、天下人を狙った徳川家康と石田三成の後継者争いなどではない。豊臣家臣団の内部分裂による内輪揉めに家康が便乗して漁夫の利を得た戦いだった。豊臣家において家康だけが別格で一歩抜きん出た存在であったにしても、きっかけとなったのは武断派と文治派のいがみ合いだった。それは、秀吉がおかした愚行とも言える朝鮮出兵にも原因があった。ここにも一つの「もし」がある。もし、秀吉が朝鮮出兵などを行っていなければ、関ヶ原の戦いは違う形になっていた可能性が高い。秀吉の弟である秀長の死も大きかった。
もう一つの「もし」は、秀吉の養子・秀次の死だ。跡取りがいなかった秀吉は姉の子を養子にして、後継者にしようと考えていた。しかし、淀殿が秀頼を生んだことで関係が悪化。悪行、奇行などが目立った秀次は秀吉にうとまれ、謀反の疑いをかけられて切腹させられてしまう。1595年のことだ。家族や関係者はことごとく処刑され、どうにか助命された藤堂高虎 、山内一豊、伊達政宗、最上義光、田中吉政、細川忠興なども、秀吉から遠ざけられ、結果的にこれらの武将は豊臣の西軍ではなく家康の東軍につくことになる。秀次がもし生きていたら、西軍の大将になっていたかもしれず、これらのメンバーが西軍に加わっていれば家康でも勝てなかっただろう。
関ヶ原の戦いのとき、秀頼はわずかに6歳。淀殿ともども、戦には直接関わっていない。西軍、東軍というのも後世に言われるようになったことで、関ヶ原の時点では日本を二分した西と東の戦いではなく、豊臣家対徳川家康連合軍の戦いでもないから、秀頼を大将として担ぎ出さなかったことはある意味では当然のことだった。ただ、ここにも「もし」があって、西軍の総大将である毛利輝元が本気で勝つつもりなら秀頼の名のもとに家康討つべしと高らかに宣言すべきだった。そうすれば、豊臣恩顧の大名が東軍に走ることもなく、家康は成敗されていたかもしれない。結局、毛利輝元は総大将とは名ばかりで、自分は大阪城にこもったまま戦場へ出ることもなく、戦後あっさりと徳川方になびいてしまった。
前哨戦として最初の直接的な動きは、武断派7名による石田三成襲撃事件だった。
合戦前年の1599年、秀吉亡きあと重鎮の前田利家がこの世を去ったことで、豊臣家臣団の押さえが効かなくなってしまう。
このときの豊臣家の組織図というのは、秀頼・淀殿の後継役として、五大老、三中老、五奉行が政務を担当していた。
五大老の筆頭が徳川家康で、続いて前田利家(嫡男の利長が跡を継ぐ)、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝。五奉行が、石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以という顔ぶれだった。
大老というのが大臣で、奉行というのは官僚のようなものだ。暗殺されそうになるほど石田三成が嫌われていたのは、朝鮮出兵が大きな要因となったのは間違いない。このときの三成は、言うなれば警察の監察官のような役回りで、現地での武将達の働きぶりを秀吉に報告する仕事をしていた。朝鮮では武将たちは大変な苦労して痛い目にあって、さんざんな負け戦だった。そんな苦労も知らず、国内にいて秀吉にあいつらは働きが悪いと報告していたのが石田三成だった。そのことで加藤清正や福島正則たちは三成を憎むようになっていった。三成自身も朝鮮での戦いには参加しているものの、現地でも戦をするより和平交渉などに積極的で、この行動も武断派の反感を買ってしまう。三成は秀吉も大いに認める優秀な官僚だった。その優秀さゆえに恨みを買ってしまった面が多々ある。損な役回りだっただけでなく、やはり人徳がなかったと言うべきだろうか。
三成を襲ったのは、7人。黒田長政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、藤堂高虎、細川忠興、蜂須賀家政。しかし、事前に動きを察知していた三成は、伏見城の中にある自宅に逃げ込み難を逃れる。なおもにらみ合いが続いたところに登場するのが家康で、実力者である家康が仲介に入ったことで、この騒ぎは一応収まることになる。ただ、三成は責任を取らされ、奉行の職を解かれ、居城だった佐和山城で謹慎ということになってしまった。
この後、五大老は、それぞれの国元へ帰っていき、留守になった伏見城にまんまと入り込んだ家康は、当然のような顔をして自分が政務の中心に居座ることとなったのだった。ここまではすべて家康の計算通りだったかもしれない。
ここからの家康の動きは、非常にあざといというか、賢いというか、タヌキ親父と呼ばれる老獪さを見せ、天下取りのための布石を次々と打っていく。
最初に目をつけたのが、前田利家亡きあとの利長で、自分を暗殺しようとする計画があって、その首謀者が前田利長であると因縁をふっかけていった。これは非常にタチが悪い。おまけに五奉行の浅野長政や大野治長、土方雄久らも計画に加わったとして、謹慎などの処分を勝手に下したのだ。
幸いだったのは、「利家とまつ」でお馴染みのまつ(芳春院)が存命だったことだ。良妻賢母のまつは、自ら徳川の人質になることを申し出て、息子利長の無実を訴えたことで前田家は守られることとなる。
家康はターゲットを変えた。次に標的にされたのは、上杉謙信以来の名門、上杉景勝だった。
会津に戻った上杉景勝は、何を思ったのか、城を建て始めた。これから大きな戦が始まろうというときに、ずいぶんのんきな話だ。景勝としては、秀吉が死んで、また戦国時代に戻るかもしれないから、とりあえず足元を固めるために守りを重視した考え方だったのだろう。すぐに合戦が始まるとは考えていなかったようだ。あるいは、すでにこの時点で家康に対抗すべく軍備を整えていたという説もある。来年の大河「天地人」の主人公、直江兼続がその任に当たった。
家康はこれを言いがかりの口実に使った。まず、自分が一番上にいることを思い知らせるために、正月の挨拶をしに京都まで来いと景勝に呼び出しをかけた。これには景勝も怒った。小早川隆景が死去したあと(1597年)、五大老の一人になった自分がどうして年賀の挨拶をするためにわざわざ京都まで出向かなければいけないのかと。その知らせを持ってきた家臣の藤田信吉に激怒して殺しかけているほどだ。恐れをなした藤田信吉は、家康の元に走り、景勝に謀反の疑いありと報告する。国元では軍備を整えて城まで建てていると。完全に家康の術中にはまってしまった景勝であった。
再びの呼び出しも断固拒否。待ってましたとばかりに家康は討伐軍を編成し、景勝を討つべく会津に向かった。1600年6月16日のことだ。名目は、豊臣政権における規律違反ということだったけど、実は家康の方がもっと悪いことをしている。勝手に婚姻を結んではいけないという秀吉の禁を破り、伊達、福島、蜂須賀氏と縁組みを結んだり、個人的に恩賞や賞罰を与えてはいけないというのをしたのも家康なのだ。本来なら罰せられるべきは家康の方だった。
会津征伐の先鋒隊に任じられたのは、豊臣恩顧の福島正則、細川忠興、加藤嘉明らだった。このときはまだ一応の大義名分は家康の側にあって、豊臣の武将たちは従わざるを得なかった。
伏見城の留守を鳥居元忠に任せ、7月2日には江戸城に到着した。そしてこれは、石田三成に対する誘い水でもあった。その前からすでに不穏な動きを見せていた三成の動向を察知していた家康は、わざと本拠を空けることで三成の挙兵を促したのだった。

石田三成がまず最初に頼ったのが、秀吉の下で共に苦労した親友の大谷吉継だった。話を聞いた吉継は、無謀で勝ち目がないからやめておけと三度も止めたという。しかし、三成の決意が固いと知ると、あとは三成のために全力を尽くすことを約束する。ハンセン氏病をわずらっていた吉継は、顔がただれ、すでに盲目に近かったといわれている。死を覚悟した吉継は、戦場に死に装束で現れた。
西軍最初の主要メンバーとして会議に参加したのは、石田三成、大谷吉継、増田長盛、安国寺恵瓊だった。この会議で、三成では総大将はつとまらないから、もっと名前があって格上の人物は誰かいないかということになり、そこで選ばれたのが毛利輝元だった。それなら五大老の一人でもあり、申し分ないとなり、増田長盛をパイプ役として、長束正家、前田玄以、安国寺恵瓊らが説得工作に当たることになった。北には上杉景勝がいる。挟み撃ちにすれば家康に勝てると踏んだのだろう。
ここで一つ、三成は大きな間違いをやらかした。戦いを有利に進めるべく、主要な大名達の妻子を襲って人質するという暴挙に出たのだ。この小賢しい作戦が悲劇を生む。細川忠興の正室細川ガラシャ(明智光秀の娘)は人質になることを拒み、キリシタンだったので自害もできず、忠興の家臣に槍で胸を突かせて命を落としている。これで三成の評判はますます悪くなった。
ここでもう一つ、関ヶ原の戦いの形勢に影響した出来事があった。それは、毛利家の内部分裂に端を発する複雑な人間模様と動きだ。会津征伐では毛利家も家康に表面上は従って、安国寺恵瓊を送っている。ただ、この安国寺が気がついたら西軍の主要メンバーの一人になってしまっていた。
一方、反三成派に吉川家広がいる。この計画を安国寺から聞いた家広は、そんなことはやめるように強く言い、国の毛利輝元にも西軍の総大将なんかになってはいけないと使いを出すも、知らせは間に合わず、総大将になれると知った輝元は喜んであっという間に大阪城に駆けつけてしまう。輝元も事情がよく分かってなかったらしい。家康討つべしという三奉行からの連署状を見て、豊臣家のために自分も力を貸さなくてはいけないと単純に思ったのかもしれない。
大阪城に入ってから、安国寺と吉川家広両方から事情を聞き、説得されたことで輝元は進退窮まってしまう。結局、輝元は西軍の総大将でありながら、戦場では何もしないまま関ヶ原の戦いは終わってしまった。西軍として参加しながらも、東軍についていた吉川広家に押さえ込まれて、毛利軍4万人の兵は一人も動けないままだった。西の主要メンバーの一人だった安国寺恵瓊でさえ参加できずにいた。
ここにも「もし」がある。もし毛利輝元が総大将らしく南宮山から家康軍の背後を突けば、逃げ場を失った東軍は総崩れになって、勝敗は一気に決していただろう。そうなれば、小早川秀秋が東軍に寝返ることもなかった。
三成たち西軍は、増田、長束、前田の三奉行の連署で「内府ちかひの条々」を各大名に送り、豊臣に反旗を翻しているのは家康の側だと主張し、反徳川軍を募った。ここで東軍と西軍の立場は微妙に入れ替わり、家康は半ば賊軍のようになった。会津征伐が家康の自作自演であることくらいはみんな気がついている。どちらにつくかは、損得勘定だ。もともと豊臣家の家臣になっていたのは、秀吉の権力に屈したというだけで、心底信頼して付き従っていた武将は一部にすぎない。次に天下を取る方につきたいと思うのは当たり前のことだった。それは秀吉子飼いの武将でも同じだ。
西でそのような動きがあることを当然家康は逐一報告を受けて知っている。でも、まだ引き返さない。ここまでは家康も折り込み済みで、どうやら戦は長期戦になると見ていたようなフシがある。状況は流動的で、どうなるか読み切れないというのもあっただろう。
このとき開かれたのが下野における小山評定だ。家康は武将たちを集めて状況を説明し、どちらにつくのも各自の自由だと言ったと伝えられる。7月24日のことだった。
このとき家康の元にいたのは、即席の討伐軍で、多くは豊臣恩顧の武将たちだった。まだ東軍としての体裁は整っていない。それでどうするかが話し合われることになる。すぐに全軍引き返して石田三成たち反乱軍を制圧するか、このまま会津に攻めて上杉景勝を討ち取ってから戻るか、兵を二分して、会津と三成軍両方と戦うか。
ここで大きな役割を果たしたのは、福島正則だった。豊臣恩顧の大名の中でも筆頭格の福島正則が家康につくことを表明したことで、東軍の骨子が固まることになった。真田昌幸親子はこのとき離反して、それがのちに秀忠の大遅刻を招くことになるのだけど、それは勝敗には直接影響はなかった。
家康の東軍は上杉景勝の押さえとして秀忠を宇都宮城へ送って守りを固め、自分たちはいったん清洲城に終結すべく、軍を西へ進めた。遅れて秀忠は中山道を行くことになる。最終的には、途中で味方を増やして、美濃か近江あたりで全軍を終結させるつもりだったようだ。
一方の三成軍は、先だって伏見城を攻撃している。留守を守っていた鳥居元忠に城を明け渡すように言うも聞き入れられず、7月19日、宇喜多秀家、島津義弘らが取り囲んで、8月1日に落城した。
続いて丹後国の田辺城、伊勢国の安濃津城、松坂城などの攻略に成功して、三成は8月10日に大垣城に入った。ここが西軍最初の本拠地となる。
関ヶ原の戦いまで、あとひと月余り。私の長い前置きも、まだ終わらない。あまりにも長くなったので、今日はいったんここまでとしたい。まだこの先も長くなりそうだ。
つづく。