月別:2008年08月

記事一覧
  • 完成図をヒントに逆算して作る方法論を見つけたサンデー

    PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他 今日のサンデー料理は、逆算サンデーだった。まずは完成図から入って、逆算して作っていった。そんなことは一つの方法論として当たり前といえば当たり前なのだけど、完成した料理を目指して作るというのではなく、あくまでも図としての完成図があって、そこから食材と料理を作っていくというアプローチはちょっと変わっていると言える。 だから今回の料理は3品とも料理名は分からない。...

    2008/08/31

    料理(Cooking)

  • 古墳時代からの歴史が積み重なったまだら模様の街 ~大須7回(最終回)

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 大須シリーズの最後は番外編で締めくくりとなる。今回も長々と書いてきて、そろそろ書くこともなくなった。写真も残り少ない。本編には入らなかった写真を並べて、あと少しだけ書き加えておこう。 大須の中には座ってゆっくりできるところが少ないから、大須公園と裏門前公園は小さいながらも貴重な憩いのスポットとなっている。 ランの館は、北東の外れで大通りを一本渡った先だか...

    2008/08/31

    名古屋(Nagoya)

  • ゆく寺くる寺---寺町大須400年の歴史に思いを馳せる ~大須6回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS かつて大須には尾張有数の名刹、七寺(ななつてら)があった。広大な境内には7つの伽藍を持ち、芝居小屋が3つも並んでいたという。最盛期は、大須観音や西別院よりも大きな寺だった。 現在は駐車場の脇に寺の名残をわずかにとどめる程度で、かつての繁栄の面影はない。ここにそんな立派な寺院があったことを知る人もあまり多くないだろう。昭和20年の空襲で七堂伽藍はすべて焼失し、...

    2008/08/30

    名古屋(Nagoya)

  • 大須では目立たない脇役の神社にもそれぞれの歴史がある

     今回の大須散策では、エリア内にある神社仏閣を全部まとめて回ってしまおうと考えていた。地図を見ながら主立った神社はすべて回りきったつもりだった。しかし、家に帰ってきてから確認してみると、三輪神社を一つ見落としていたことが分かった。三輪神社といえば、この前行った奈良の長谷寺や室生寺に近い三輪山と関わりが深い神社だ。こんな大事なものを逃してしまったのは失敗だった。もう一回大須へ行かなければいけない理由...

    2008/08/29

    名古屋(Nagoya)

  • 大須の中の消えゆく昭和時代の名残を求めて ~大須4回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 大須シリーズ第4回は、大須に残る昭和の断片と題してお送りします。 古い商店街の大須といえども、年を追うごとに昭和の名残は確実に消えつつある。私が通っていた頃は昭和だったから、古さの程度こそあれ、時代的なギャップのようなものはさほど感じていなかった。大須は確かに古い街に映ってはいたものの、前時代的とまでは思わなかった。平成20年の今の目で見ると、大須は一つ前...

    2008/08/28

    名古屋(Nagoya)

  • 大須を制するには寺の位置と通りの名前を把握すべし ~大須3回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS これまで万松寺と大須観音を中心に大須の歴史を紹介してきた。3回目の今日は、大須の有名どころや通りについてまとめてみたいと思う。主だった通りにはそれぞれ名前がついていて、その数が多すぎて私自身もよく分かっていなかった。県外の人も、名古屋の人も、通りの名前など大した問題ではないだろうけど、自分の頭の中を整理するのも兼ねて、一応書いておくことにする。 大須のエ...

    2008/08/27

    名古屋(Nagoya)

  • 大須夏まつりで大須観音も鳩が蹴散らされるほどの人だかり ~大須2回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 大須について紹介するならば、街の名前の由来となった大須観音について書かなければならないのは当然のことだ。 しかし、大須観音という名前のお寺は実は存在していない。大須にある観音さんということで昔から大須観音と呼ばれているだけで、正式名を北野山真福寺宝生院(ほうしょういん)という。たぶん、大須観音を知っている人の9割はこの名前を知らないのではないかと思う。ち...

    2008/08/26

    名古屋(Nagoya)

  • 北京オリンピック閉幕記念で北京料理っぽいものを作ったサンデー

    PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他 北京オリンピック最終日ということで、先週の予告通り今日は中華サンデーにした。せっかくの北京開催なんだから、最初は北京料理を目指して出発した。目指せ北京ということで。しかし、途中からうやむやになってきて、一部は北京どころか中華からも脱線しそうになった。そもそも北京料理ってどういう料理をいうのだろうというところから始めないといけない。 まず北京というところは、だ...

    2008/08/25

    料理(Cooking)

  • 大須を一言で説明するのは難しいから長々と説明することにした ~大須1回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 今日から何回かに渡って、名古屋の大須という街について紹介していこうと思う。 大須ってどんなところなのと訊かれても、一言では答えられない。一般的には、秋葉原と浅草と上野を足して小さくしたような街と説明されることが多いけど、そんなに分かりやすいところではない。原宿や巣鴨の要素も併せ持ちながら、実際はどこにも似ていない。大須は大須でしかなく、名古屋でも他に似た...

    2008/08/24

    名古屋(Nagoya)

  • 赤目行きは歩いて焦って限界を超えてなんとか完走 ~室生寺第三回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 室生寺奥の院の石段は普通の状態でも厳しいのに、残り少ない体力で登っていくようなところではなかった。こんなに急な登りが長く続くとは知らず、いったん登り始めたからには後には引けなかった。 この日はあまりの疲労に食欲が完全に飛んでしまって、前日の夜からここまで18時間以上何も食べていなかった。とにかくアクエリアスやコーヒーなどを飲み続けて、それをエネルギーに替え...

    2008/08/23

    奈良(Nara)

  • これが見たいがためにここまでやって来た室生寺五重塔 ~室生寺第二回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 仁王門をくぐって少し歩くと、左手に自然石を積み上げて作られた美しい石段が現れる。これを鎧坂(よろいざか)という。いよいよ700段の階段の始まりだ。 本来ゆっくり撮るべきところを、やや急ぎ足でいく。のんびりしている時間的は余裕がなかった。 5月には石段の両脇をシャクナゲが彩る。秋は赤、夏は緑で、冬は白。枯れた山寺にも四季折々の色がある。 土門拳は雪の室生寺に執...

    2008/08/22

    奈良(Nara)

  • 土門拳が愛した室生寺に私たちは日本人の心を見るか? ~室生寺第一回

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 赤目滝で3時間、長谷寺で1時間歩き、この日の最終目的地である室生寺の手前までやって来た。 朝の6時半に家を出て、近鉄室生口大野駅に降り立ったのが15時40分。まだ全行程の3分の2を終えたに過ぎなかった。本当に限界を超えるのはこのあとだということに、このときの私はまだ気づいていない。 駅周辺にはそれなりに民家が集まっていて、ひなびているというふうでもない。街という...

    2008/08/21

    奈良(Nara)

  • 長谷寺には神と仏がいて、神仏グッズ自販機の夢が膨らむ ~長谷寺4回

     長谷寺本編の続きで、今回が長谷寺シリーズの最終回となる。昨日は本堂の前まで行ったから、今日はそこから再開しよう。 大迫力の本堂は、本尊を安置する正堂(しょうどう)と、相の間、礼堂(らいどう)が一体となった巨大なもので、奈良東大寺の大仏殿に次いで日本で2番目に大きな木造建築だそうだ。ただ、実際目にするとそこまで大きいとは思えないのは、背の高さがあまり高くないからかもしれない。東大寺の大仏殿は高さも...

    2008/08/20

    奈良(Nara)

  • 紫式部も清少納言も訪れた長谷寺はカッコイイ寺だと思う ~長谷寺3回

     長谷寺(はせでら)といえば、鎌倉の長谷寺を思い浮かべる人が多いだろうか。関西で長谷寺といえば、奈良桜井にある長谷寺のことだと思うだろう。関東なら長谷寺といえばアジサイだし、関西では長谷寺と聞けばボタンを連想するんじゃないだろうか。 本家は奈良の長谷寺の方だ。こちらが真言宗豊山派(ぶざんは)の総本山になっている。 二つの寺の関わりは深く、開基は両方とも徳道上人ということになっている。そこにはこんな...

    2008/08/19

    奈良(Nara)

  • ギリシャ料理もどきを作ってギリシャの歴史を勉強するサンデー

    PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他 オリンピック期間中だから、それを記念してギリシャ料理もどきを作った。でも、実際は、ギリシャについてちょっと勉強してみようというのが先にあって、そのことについてここで書くためにギリシャ料理をサンデーにしたというのが正しい。だから今日は、ギリシャとギリシャ料理について書きたい。  古代オリンピックは、エーリス地方のオリュンピアで4年に一度行われていた競技大会だ。...

    2008/08/18

    料理(Cooking)

  • 平安貴族も江戸時代のお伊勢参りの人たちも歩いた門前町 ~長谷寺2回

     長谷寺門前町の続きを。 前回は雑談が長すぎて、長谷寺の前までも辿り着けなかった。今日は門の前までは行きたい。 この通りが門前町として発達したのは、関西方面の人たちがお伊勢参りに行くときに歩く道だったからだ。旧の伊勢本街道で、その行き帰りに長谷寺も寄っていったのだろう。だから宿場町の一面も持ち合わせていて、現在も数軒の宿屋が営業を続けている。江戸時代の街道沿いの名残が色濃い。 上の写真ではお遍路さ...

    2008/08/18

    奈良(Nara)

  • 長谷寺へたどり着くまでの長い雑談と門前町の写真前編 ~長谷寺1回

     近鉄大阪線の長谷寺駅を降りたら、長谷寺までは歩いて行くしかない。バスなどはなく、徒歩約20分と、やや距離がある。ただ、門前町の風景も魅力的で、ここを飛ばしてしまうのはもったいない。写真を撮りつつふらふら歩いていくことにしよう。 とはいえ、私の場合、長谷寺に割り当てられる時間が1時間しかなかったものだから、あまりのんびもしていられなかった。 突然だけど、近鉄電車というのはもしかすると聖なる線かもしれ...

    2008/08/17

    奈良(Nara)

  • この路地裏を歩いていると、ふっと小学生のときの感覚が蘇る ~四間道2

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 四間道後編は、土蔵が並ぶ場所から再開しよう。 並んでいる白い土蔵は、おそらく川伊藤家のものだと思う。このご時世に用もないのにこんな蔵を持っていられるのはよほどのお金持ちだけだ。今でも実際に蔵として使われているのかどうか。どこか一部でもいいから一般公開してもらえると、また観光客も増えるのだろうけど。 白壁の土蔵というのは江戸時代に完成された手法で、総塗籠工...

    2008/08/16

    名古屋(Nagoya)

  • 江戸時代の四間道の頃から名古屋人は広い道路が好きだった ~四間道1

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 名古屋には4つの町並保存地区がある。この前紹介した中小田井、東海道の宿として有名な有松、かつての武家屋敷だった白壁・主税・橦木界隈、そしてもう一つが今日紹介する四間道(しけみち)だ。有松と白壁もHPの散策ページに写真を載せているのだけど、ブログには書いてないからそのうち再訪して写真を撮ってこようと思っている。今日はまず四間道について書こう。 円頓寺商店街と...

    2008/08/15

    名古屋(Nagoya)

  • 円頓寺七夕まつりは張りぼてキャラ祭りで著作権なんてなんのその

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 円頓寺七夕まつり名物の張りぼては、本町のアーケードに集中している。たくさんありすぎて全部は撮れなかったのだけど、目についたものをいくつか紹介しようと思う。 その前に張りぼての語源が気になったので、ちょっとお勉強。張りぼての「ぼて」って何だろう? 調べてみると、「ザルやカゴに紙を張って漆しなどを塗ったもの」らしい。そこから転じて、竹や木などで組んだ枠に紙を...

    2008/08/14

    名古屋(Nagoya)

  • 円頓寺の賑わいも今は昔で、かつての面影をわずかに残すばかり

     盛り場という言葉を最近めっきり聞かなくなった。夜の盛り場をうろついていては駄目ですよみたいなことを今でも教師は生徒たちに言ったりするのだろうか。 明治から戦前にかけて、名古屋の三大盛り場は、栄、大須、円頓寺(えんどうじ)だった。平成の今、円頓寺にかつての賑わいの面影を見つけることは難しい。一つの町にも浮き沈みがあるとはいえ、昔を知る人にとって過去の繁栄も、もはや幻のように感じているかもしれない。...

    2008/08/13

    名古屋(Nagoya)

  • 赤目滝の心残りはオオサンショウウオとへこきまんじゅう <第四回>

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8 II 今日は赤目滝シリーズ最終回ということで番外編をお届けします。 残り物写真なので特にテーマもなく、出しておきたいものを並べておこうといういつものパターンだ。 時間が気になってやや急ぎ足になった3時間だったけど、そのわりには収穫が多かった。あと1時間余分にあっても、結果はそんなに変わってなかっただろうと思う。長くいるより季節を変えてもう一度行...

    2008/08/12

    観光地(Tourist spot)

  • 美味しくできても物足りない自分の料理の課題が見えたサンデー

    PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他 今日の料理を名づけるとしたら、手こずりサンデーとしよう。写真を見るとそんなにややこしい料理ではないと思うけど、これが意外と手こずった。メニューとしてはお馴染みさんに近いものだから、軽く1時間半と考えていたら、実際は2時間以上かかって、終盤はてんてこ舞いだった。わぁー、何からやっていいんだー、わっ、マグロをまだ焼いてない、ああ、ネギも切らなくちゃ、ってな感じで。...

    2008/08/11

    料理(Cooking)

  • 赤目へ行ったら滝よりも緑の映り込みを探しながら歩くべし <第三回>

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8 II 赤目滝の番外編写真を集めてみたら一回分では収まらなかった。なので、二回に分けることにした。今回は水模様編で、次回は虫やら花やらサンショウウオなんかの番外編になる。 今日は水風景写真ということで、あまり説明することもない。コメントは短めにする。似たような写真も多いけど、何か撮影のヒントにでもなれば。 水というのはとても表情が豊かで、可能性...

    2008/08/11

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • 赤目四十八滝の前では上手な嘘つきになれない <第二回>

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8 II 赤目の滝巡り後半は、百畳茶屋を超えたところから始まる。昨日の前編ではその少し先にある姉妹滝まで紹介した。今日はその続きからいってみよう。 このあたりまでくると、川幅も道もだんだん狭くなってきて、いかにも川の上流といった風景になる。歩いている人の姿も一気に減った。百畳茶屋までのんびり歩いて40分くらいだから、そこで一休みして引き返していくと...

    2008/08/10

    観光地(Tourist spot)

  • 名張と忍者と信雄の話を交えながら赤目四十八滝巡り <第一回>

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8 II 奈良県との県境に近い三重県西部に名張という地方都市がある。伊賀と大和とを行き来するときに通る場所ということで、奈良時代以前から集落があったとされる土地だ。奈良東大寺の荘園として発達し、今でも東大寺のお水取りに使う木材は名張で採れたものが使われているという。伊賀忍者発祥の地でもある。 同じ三重県でありながら松阪生まれの私でも名張にはまった...

    2008/08/09

    観光地(Tourist spot)

  • 日光シリーズ番外編は旅の思い出編 ~日光第十回<最終回>

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 日光シリーズ最終回は、番外編として旅の思い出写真を集めてみた。主に乗り物と食べ物などを。 出かけたのは7月20日だから、あれから2週間以上になる。そろそろ締めくくって次のシリーズを始めよう。 旅の記憶は近いようで遠く、遠いようで近い。同じ日の出来事なのに遠く感じることと、近く感じることがある。記憶と時間の関係というのも不思議なものだ。 旅の始まりは池袋。朝7時38分...

    2008/08/08

    観光地(Tourist spot)

  • 東照宮についても書ききったから、もう結構と言い放題 ~日光第九回

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 東照宮編の後半は、短くさらっといこうと思う。昨日の前半は力が入って長すぎた。あれでだいたい書こうと思っていたことは書ききってしまったから、後半は捕捉のような形になる。拝殿も本殿も入れず、薬師堂なども内部は全部撮影禁止で写真がないのが残念なところだ。 昨日は陽明門をくぐったところまでいったけど、もう一度門の外に出たところから再開したい。門の左右に見えている建物...

    2008/08/07

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 東照宮に関する前置きから猿物語をへて陽明門までの長話 ~日光第八回

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 人間五十年、40歳で初老といわれた江戸時代、異例の長生きだった徳川家康は、74歳になってもまだ元気で鷹狩りに出かけていた。日頃から健康には人一倍気を遣い、自ら調合した薬を飲んでいたくらいだから、特別不自然というわけではなかったかもしれない。 しかし、鷹狩りに出た1616年1月21日の夜、出された好物の鯛の天ぷらを食べたところ、にわかに体調がおかしくなった。その頃京で流...

    2008/08/06

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 大猷院はお墓なのに尋常じゃない絢爛豪華さ ~日光第七回

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 日光シリーズも長くなってきて、少し間延びしてきた。けど、これを終わらせないと次へ移れないから、少しずつ書き進めていくしかない。 今日は輪王寺大猷院の続きだ。前回は拝殿前の夜叉門までいった。今回は霊廟の正門に当たる唐門(からもん)から再開しよう。 拝殿の周りをぐるりと透塀が囲んでいて、その出入り口の門が唐門だ。 唐破風が乗った門の高さ9メートル、間口1.8メートル...

    2008/08/05

    神社仏閣(Shrines and temples)

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完成図をヒントに逆算して作る方法論を見つけたサンデー

料理(Cooking)
逆算サンデー

PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他



 今日のサンデー料理は、逆算サンデーだった。まずは完成図から入って、逆算して作っていった。そんなことは一つの方法論として当たり前といえば当たり前なのだけど、完成した料理を目指して作るというのではなく、あくまでも図としての完成図があって、そこから食材と料理を作っていくというアプローチはちょっと変わっていると言える。
 だから今回の料理は3品とも料理名は分からない。自分で作ったのに、作ってみるまでどんなものになるか分からなかった。
 方法としては、ガイドブックに載っている店の料理写真を見て、それをヒントに似せて作っていった。レシピもなく、使っている食材も分からないから、そのあたりは適当に考えて手持ちの食材の中から決めることになる。
 一番最初に決めたのが左手前の料理で、これはソースの色とかけ方を見てイメージがわいた。まず黄色いソースを作ろうということになって、卵黄とマヨネーズを混ぜたらいい色になった。これだけでは味がないから塩、コショウを入れて、しょう油も少し混ぜた。そこにマスタードを加えたら美味しいソースになったので、これでソースが完成した。
 次は中の具なわけだけど、これはどうでもよかった。以前どこかで見たギョーザの皮を細切りにして揚げるというを思い出して、それでいこうということになった。これを上に乗せるための具を考えて、要するにギョーザの中身を作ればいいのだと気づく。ただ、それも普通に作ったのでは面白くないから、少しアレンジを加えた。
 基本はシーチキン缶で、キャベツ、長ネギ、タマネギを混ぜて炒めて、しょう油、白ワイン、塩、コショウで味付けをして、最後にとろけるチーズを加えた。
 これは上出来だった。美味しくもあり、見た目も華やかで凝っているように見える。いろいろアレンジも効くし、おもてなし料理にもよさそうだ。
 ギョーザの皮はいつも余るから、こういう使い方をしてもいい。具の柔らかい食感と、揚げ焼きしたギョーザの皮のカリッとした食感が面白い。

 右のは最初の構想からだいぶずれていった一品だ。もともとはデミグラスソースを敷いた上に焼いたフォアグラが乗っている料理を見て、これでいこうと思ったのが出発点だった。それが完成したらトマトソースとマグロのいつもの料理になっていた。だいたい、フォアグラなんて買えないし。
 例によってトマトからトマトソースを作り、マグロは塩、コショウ、白ワイン、カレー粉を振ってしばらく置いたあと、ビニール袋でシェイクしてカタクリ粉をまぶして、オリーブオイルで焼く。
 ジャガイモは、よく洗ってラップをしてレンジで5分、追加で柔らかくなるまで丸ごと煮る。あとはフライドポテトのように切って、カタクリ粉をまぶして、バターで焼く。
 予定とは違ったものの、これも美味しかった。個人的にマグロは洋風にした方が好きだ。トマトソースとの相性もいいし、ジャガイモともいいコンビニなる。

 奥は、大根のエビあんかけをヒントに、それを洋風仕上げにしてみた。
 大根はスライスしてよく下茹でをしてから、塩、コショウ、コンソメの素で柔らかくなるまで煮込む。
 あんかけは、エビ、ニンジン、絹ごし豆腐、アスパラを白ワインで煮込んで、コンソメの素で味付けして、水溶きカタクリ粉でとろみをつける。
 他の2品が濃いめの料理だったから、これはあっさりしていてちょうどよかった。エビのダシが効いている。

 今回は一つのアプローチ方法を発見したサンデーとなった。メニューが思いつかないときは、レシピから料理を探すだけでなく、完成図を見てそこからイメージしていった方が早い場合もある。レシピからだと、どうしてもいつも作る料理が決まってしまいがちで、発想の転換が難しい。レストランのガイドブックは、食べたい料理を探すためだけではなく、自分が作りたい料理のヒントにもなる。この方法は、毎日献立を考えなくてはいけない主婦の人もオススメしたい。

 明日は早朝から滋賀・岐阜歴史巡りの旅に出るので、今日は早寝しないといけない。サンデー料理のブログもゆっくり書いてる時間がないから、これで終わりとする。
 明日から新シリーズ開始の予定です。ちょっといってきます。

古墳時代からの歴史が積み重なったまだら模様の街 ~大須7回(最終回)

名古屋(Nagoya)
大須番外編-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 大須シリーズの最後は番外編で締めくくりとなる。今回も長々と書いてきて、そろそろ書くこともなくなった。写真も残り少ない。本編には入らなかった写真を並べて、あと少しだけ書き加えておこう。

 大須の中には座ってゆっくりできるところが少ないから、大須公園と裏門前公園は小さいながらも貴重な憩いのスポットとなっている。
 ランの館は、北東の外れで大通りを一本渡った先だから、町名としては大須でも、感覚的には大須から外れている。それにランの館は有料だから(700円)、心おきなくのんびりできるところではない。
 上の写真は大須公園で、中央に噴水池があって、周囲にベンチが少し置いてある。下がコンクリートだから遊び用の公園とはちょっと違う。遊具もない。
 形は四角形ではあるものの、四つ辻に斜めに配置されているから菱形のようになっている。何故こんなことをしたのだろう。この方が買収する土地が少なく済んだということか。コメ兵、総見寺、光勝寺、ライオンズマンション、それぞれの角を削って公園にしている。あえてこの場所に公園を作る必然性は感じない。何か事情があったのだろうけど。

大須番外編-2

 こちらは大須演芸場の裏にある浪越公園。
 小山の上の木の根元でお弁当を食べている人がいて、のけぞった。何故ってこれは、古墳だからだ。なかなか人の墓の上に座ってものは食べない。入り口に公衆トイレがあったりして、一見すると公園に見える。名前も浪越公園だ。古墳の山の上に登るための階段まで作られている。登ってくださいと言わんばかりだ。
 那古野山古墳(なごのやまこふん)は、5世紀中頃から6世紀頃に作られたと考えられていて、大須古墳群の中の一つとされる。場所柄、受難の歴史を辿っている。
 本来、前方後円墳だったものを、江戸時代に清寿院が後園を造営するときに前方部分を削ってしまった。後方の円の部分だけが残り、当時はそこを浪越山と呼んでいたという。
 明治の神仏分離令によって清寿院は廃寺となり(明治5年)、境内を整備して愛知県初の公園「浪越公園(なごやこうえん)」として一般開放された。広さは2,000平方メートルあったそうだ。
 明治43年に公園は鶴舞に移され、浪越公園は取り壊しとなる。ただ、大正3年に規模を大きく縮小して、名古屋市の那古野山公園として復活して現在に至っている。
 残されている古墳部分は、後円の直径22メートル、高さ3メートルだけだ。この部分も時代によって土が盛られたり、形が変えられたりしているようで、本来の姿からはだいぶ変わってしまっている。調査したところ、2メートル以上掘ってようやく古墳時代の地層が出てきたとのことだ。
 古墳時代の地層からは須恵器片1点や複数の円筒埴輪破片などが発掘された。中近世の地層からも瓦や陶器などが見つかっている。

大須番外編-3

 古墳以外の公園スペースはごくごく狭い。古墳の周囲に少しスペースがあるだけだ。全景の写真を撮ろうにも、これ以上さがれないのですべては入らない。
 ここに入ってきても、特にすることはない。ほとんど公園としての機能も持っていないから、やはり古墳跡ということにしておけばよかったんじゃないか。行政上、公園としておいた方が都合がいいとかだろうか。
 名古屋三名水の一つ、柳の井戸は、この公園の入り口あたりにあったようだ。

大須番外編-4

 大須通りの向こうに見えているのが、名古屋スポーツセンターだ。私たちはもっぱら大須スケートリンクと呼んでいた。
 私がよく行っていたのは、小学生から中学生にかけてだから、ずい分前のことになる。当時からちびっこ天才スケーターとして知られていた伊藤みどりも見たことがある。リンクの中央でレオタードを着たちびっこがくるくる回っていた。帰りに自転車置き場を見ると、伊藤みどりと書かれた自転車があって、記念にまたがっておいた。
 スケートリンクができたのは、戦後の昭和28年(1953年)だから、もうずいぶん古い。名古屋から女子フィギュアの選手がたくさん出るのは、このスケート場があるからだ。通年営業しているスケート場は全国でも少ない。
 伊藤みどり、恩田美栄、安藤美姫、浅田真央もみんなこのスケート場で育った。
 この場所は前回もちらっと書いたように、大須二子山古墳があったところだ。大須球場があったのもここで、今はどちらも名残を残していない。
 大須二子山古墳は東海地方最大級の前方後円墳で、全長138メートル、高さ10メートルもあったとされている。これは熱田に残る断夫山古墳に次ぐ規模だ。6世紀前半に尾張地方を支配していた首長の墓と考えられている。
 江戸時代は、本願寺名古屋別院の後園になっていて、尾張藩三代藩主徳川綱誠の側室梅昌院と侍女21人の墓などがあったのだという。それも空襲で焼失してしまった。
 大した発掘調査もされることなく、昭和22年までにすべて破壊されてしまい、発掘品も少ない。見つかった銅鏡や甲冑などは名古屋市博物館や南山大学人類学博物館に収蔵されている。土がむき出しているところはほとんどなさそうだけど、土を掘り返せれば今でもいろいろ出てきそうだ。

大須番外編-5

 観光ルートと書かれたプレートが埋められてはいるものの、どこに何があるなどの案内はない。大須は観光地として整備されてないから、エリアマップなどもなく、ふらりと立ち寄った県外人にとっては分かりづらいところだ。もう少し散策案内みたいなものがあってもいい。観光案内所も見たことがないから、たぶんないんじゃないかと思う。本格的に大須を歩き回るときは、家からマップをプリントしていった方がよさそうだ。

大須番外編-6

 大須二丁目酒場。特に有名店というわけではなく、古い映画のポスターみたいなものが目についた。男はつらいよとか、青い山脈とか、たぶん、全部観ている。もちろん、リアルタイムじゃないけど。

大須番外編-7

 総見寺に咲いていたフヨウ(芙蓉)。淡いピンクの花が上品だ。
 瓦には五瓜(ごうり・ごか)の織田木瓜紋(おだもっこうもん)が彫られている。木瓜といえばボケの花だから、それを図案化したものかと思っていたら違うようだ。もともとは鳥の巣をデザイン化したもので、子孫繁栄の願いが込められているのだとか。胡瓜の切り口という説も違うらしい。

大須番外編-13

 春日神社の前に咲いていたこれはなんだろう。初めて見る花だ。何かに似てるような、似てないような、不思議な格好をしている。

大須番外編-8

 この夏はノウゼンカズラを撮り逃したかと思っていたら、大須で撮ることができた。この花の名前が気に入っている。ノウゼンカズラ、ノウゼンカズラと、口の中で何度も転がすようにつぶやいてしまう。響きとリズムがいい。

大須番外編-9

 サルスベリは漢字で書くと百日紅の名前通り、息の長い花だ。7月から9月にかけて3ヶ月以上花を咲かせる。よく見るからそのうち撮ればいいやと思っていると、いつの間にか姿を消してしまう。けど、一年に一度撮れば充分だ。

 大須がどうしてごった煮の街になったのか、今回こして歴史を辿ってみて、かなり見えてきた。江戸時代に清洲越で作られた寺社町は、門前町から商店街となり、空襲で焼けて戦後復興した。その過程で消えたものもあり、残ったものもある。新しいものが時代とともに積み重なっていき、街はまだら模様になった。
 まだこれからも変わっていくことだろう。古い部分も失われつつあるから、今のうちにもう一度よく見ておくといいと思う。商店街に活気はあっても、個人商店は高齢化もあって閉鎖傾向は加速している。古き良き大須の姿を垣間見られるのも、もうあとわずかかもしれない。
 私ももう一度平日に出向いて、普段の大須の姿を撮っておきたいと思っている。次はフィルムカメラを持っていこう。

ゆく寺くる寺---寺町大須400年の歴史に思いを馳せる ~大須6回

名古屋(Nagoya)
大須寺編-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 かつて大須には尾張有数の名刹、七寺(ななつてら)があった。広大な境内には7つの伽藍を持ち、芝居小屋が3つも並んでいたという。最盛期は、大須観音や西別院よりも大きな寺だった。
 現在は駐車場の脇に寺の名残をわずかにとどめる程度で、かつての繁栄の面影はない。ここにそんな立派な寺院があったことを知る人もあまり多くないだろう。昭和20年の空襲で七堂伽藍はすべて焼失し、戦後復興の中で再建されることなく街の再開発の波に飲み込まれてしまった。現状の様子から1200年以上の歴史を持つ古刹をイメージするのは困難だ。
 正式名称を、稲園山正覚院長福寺(とうえんざんしょうかくいんちょうふくじ)という。
 奈良時代の735年、行基が尾張国中島郡萱津(今の海部郡甚目寺町)に正覚院という寺を建てたのが始まりとされる。
 781年、河内権守紀是広(かわちごんのかみきのこれひろ)が秋田城主の任を終えて故郷に帰る途中、この地で息子が病死してしまう。悲嘆余って紀是広は、正覚院の住職・智光上人(ちこうしょうにん)に息子を生き返らせてくれるようにと無理なお願いをした。智光上人はそれを受けて密法によって生き返らせてみせたという。しかし一瞬のことで、次の瞬間には再び息絶えた。
 それでも紀是広は感謝し、7歳でこの世を去った子供の追悼のために七堂伽藍(7区の仏閣と12の僧坊を建てた(787年)。
 七寺という名前はこの七堂伽藍によるものだけど、そう呼ばれるようになるのはもう少しあとの時代からだ。887年には水害で大きな被害を受け、941年に兵火に巻き込まれてかなりの建物が失われてしまう。
 1167年、勝幡城主だった尾張権守大中臣朝臣安長(おおなかとみあそんやすなが)が、亡き娘のためにその婿とともに現在の稲沢七ツ寺町に移して七堂伽藍と十二僧坊を再建した。1175年から1178年にかけて一切経を書写させ(七寺一切経)、阿弥陀如来像と観音菩薩、勢至菩薩像を奉納して、寺の名前を稲園山長福寺と改めた。七寺と称されるようになるのはこのときからのようだ。
 その七堂伽藍も建武の兵乱によって大半が焼失してしまう。1591年、秀吉の命を受けた清洲の豪族・鬼頭孫左衛門吉久が清洲に移して本堂を再建。稲沢の性海寺の良圓(りょうえん)を中興開山とする。
 三度目の引っ越しは1611年、家康の清洲越によるものだ。このとき失われた堂も次々に再建され、尾張藩二代藩主光友によって三重塔が再建されて七堂伽藍はみたび復活を遂げることになった(1730年)。
 明治12年(1879年)には真言宗智山派総本山智積院の末寺となり、明治44年(1911年)には準別格本山に昇格するも、空襲によって伽藍は焼け落ち、現在に至る。
 焼け残ったものは経蔵一棟と、観音菩薩、勢至菩薩像の2体、銅製の大日如来像その他だけだった。国宝だった本堂も、阿弥陀如来坐像、木造持国天像、毘沙門天像も焼失した。残った木造観音菩薩、勢至菩薩坐像、七寺一切経などが重要文化財に指定されている。

大須寺編-2

 これが現在の七寺のほぼ全景だ。豊川稲荷の幟が立っていて、鳥居がある。どういう状況になっているのか、よく分からない。右の建物が本堂だろうか。
 左には江戸時代(寛政年間)の作という大日如来像が野ざらしになっている。これがつぎはぎだらけで、修理のあとが生々しい。もう少し丁寧な修理ができなかったのか。戦争の傷跡をあえて残して見せようという狙いだろうか。

大須寺編-3

 堂の正面も境内っぽくはあるものの、大部分は駐車場になっている。
 いくら伽藍がことごとく焼け落ちたとはいえ、重要文化財も持つ歴史のある寺がここまでなってしまうものだろうか。大須観音があれほど復活しているのとは対照的だ。寂しいというより、辿ってきた歴史を知ると感慨深いものがある。

大須寺編-4

 所移ってこちらは総見寺。信長ゆかりの臨済宗妙心寺派のお寺だ。
 もともと伊勢国大島村にあった安国寺という寺で、本能寺の変で討たれた父信長の菩提を弔うために、次男の信雄(のぶかつ)が1583年に清洲へ移し、山号を景陽山、信長の法号にちなんで総見寺と改めた(安土にあった総見寺にちなんだという話も)。
 跡継ぎだった信忠も、本能寺の変に巻き込まれて自害に追い込まれている。信雄の若干トンチンカンぶりは以前にも何度か書いた。どうして伊勢からこの寺を移したのかといえば、このとき信雄は北畠具房の養嗣子となって伊勢にいたからだ。本能寺の変ののちに清洲会議で、信雄は尾張の本拠である清洲の領主となって、名前も織田に戻した。嫡子の信忠は出来がよかったというから、もし生き残っていたらその後の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
 1611年、清洲越でこの寺もここへ移ってきた。地名が大須になる以前は、この寺を基準として門前町、裏門前町と呼ばれていたのだそうだ。

大須寺編-5

 普段は一般開放されてないようで、門は閉ざされており、隙間からわずかに中がのぞけるだけだった。
 信長の菩提寺ということで、中には信長の廟と、信雄の廟もあるようだ。6月2日が信長の命日で、その日は法要を営んでいるというから、もしかするとその日なら入れるのかもしれない。
 ここは空襲で一部が焼けただけにとどまったようだ。ただ、門は新しく、1998年に完成したものという。
 信雄が描いたとされる信長の肖像画や「信長日記」、清洲城壁画など、所蔵品9点が県の指定文化財になっている。
 明治4年(1871年)11月の5日間、この寺で日本初の博覧会「博覧小会」が開催されている。どんなものが展示されたのだろう。
 明治7年には東本願寺名古屋別院でも「名古屋博覧会」が開かれ、その後もたびたび博覧会を開催している。名古屋は昔から博覧会好きな土地だったのだ。自分が生きている間にもう一度名古屋で万博をやりたいと思っている名古屋人は多い。もちろん、名古屋オリンピックもあきらめていない。

大須寺編-6

 焼きを入れたような渋い木造の仁王さんが立っている。これも門と一緒に彫ったのではないかと思う。新しいながらもなかなか味がある。
 本尊は薬師如来像らしい。

大須寺編-7

 大須はどこも寺社の縮小ぶりが激しい。この大光院もかつては大きな寺だったものが、今ではずいぶんこぢんまりしてしまっている。赤門通の名前の由来となった赤門も、こんな小さなただの赤色の門となってしまった。空襲で焼けるまでは、両側に仁王木像、楼上には十六羅漢木座像を安置する立派な楼門だった。1734年の火災で燃え、再建されたものは戦災で焼けた。今の門は昭和41年に造られたものだ。
 大須の赤門さん、明王さんとして地元では親しまれている。

大須寺編-8

 1603年、埼玉県行田市清善寺の末寺として、家康の第四子で清洲城主だった松平忠吉が明嶺理察和尚清洲を開山に建てた。曹洞宗の寺で、最初は興國山清善寺だった。忠吉が死んだのち、法名をとって大光院と改めた。1610年に清洲越によって現在の地に移る。
 本尊の烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)は、世の中の一切の穢れを浄める仏様とされていて、大須の遊郭の女たちに特に信仰されたという。それが転じて、のちに女性の病気が治るというので評判になった。
 毎月28日の縁日には赤門前に露店が数十軒並び、大勢の人で賑わうという。江戸の昔からそうだったようで、「尾張名所図会」にも境内は参拝客でごった返したと書かれている。昼間よりも夜の方が人が増えるそうだ。

大須寺編-9

 ここは紙張地蔵で知られる陽秀院だ。大須秋葉殿ともいうようだ。
 詳しいことは調べがつかなかった。寛永初年、開基は葉室嶺奕大和尚。1624年といえばすでに清洲越は済んでいる。場所は大光院の向かいあたりで、大光院と共に清洲から移ったと説明しているところもあるけど、それでは年号が合わない。
 1624年からこの地にあったことは確かなようで、三門などもかなり古びている。見た目の古さでは大須の寺の中で一番かもしれない。

大須寺編-10

 ちょっとおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。でも、雰囲気に飲まれた負けだ。なんでもないような顔をして写真を撮る。
 右端に写っているのが紙張地蔵だ。2枚10円の白い紙を買って、それを地蔵さんに張り付けて水をかけながら願掛けをする。そうすると、地蔵さんが病苦を引き受けてくれるんだそうだ。一身に負のエネルギーを受け止め続けて380年余り。空襲で地蔵堂は焼けても、この地蔵さんは生き延びた。ある意味負の波動が米軍の爆弾をも弾き返したといえる。
 誰かが持ち込んだ古くなった人形や、色あせた千羽鶴も一役買って、なんだかちょっと恐ろしいような気がしないでもない。丁重に頭を下げて、手を合わせてこの場をあとにした。

大須寺編-11

 極楽寺も、清洲越のお仲間だ。
 創建は鎌倉時代で、開山は良忍上人。もとは葉栗郡極楽寺村(のちの木曽川町で現在の一宮市)にあった寺で、1532年に木曽川の洪水で流されたものを、1604年に空朔教意上人が清洲に再建して、その後ここに移ってきた。
 浄土宗西山禅林寺派で、本尊は阿弥陀如来像。

大須寺編-12

 境内には、ぼけ除け観音というのが建っていた。そんなに古そうなものではない。江戸時代などは痴呆といった概念がなかったんじゃないか。みんなぼけるほど長生きできなかったというのもある。
 ぼけ除け観音というのは全国あちこちの寺にあるようだ。

大須寺編-13

 表からの写真だけ撮った阿弥陀寺。あまり寺らしい感じではなく、入りづらかったというのもある。
 正覚山往生院というのが正式名で、浄土宗のお寺だ。1608年創建で、開基は心蓮社本誉上人張南角公。ここも清洲越組のようだ。

 後半は少し駆け足の紹介になってしまったけど、これが今回大須で回った寺のすべてだ。前後半に分けようと思っていたら、1回で収まった。
 寺は全部行ったつもりが、いくつか取りこぼしをしていた。大須通りの南には、西本願寺名古屋別院などたくさんの寺が集まっているし、完全網羅のためには少なくとももう一度行かないといけない。
 今回の大須シリーズに関しては、残り1回、番外編を残すのみとなった。明日で終わらせることができれば、あさって日曜はサンデー料理で、月曜は遠出を予定しているからちょうどいい。来週からは新シリーズを始めたいと思っている。

大須では目立たない脇役の神社にもそれぞれの歴史がある

名古屋(Nagoya)
春日神社




 今回の大須散策では、エリア内にある神社仏閣を全部まとめて回ってしまおうと考えていた。地図を見ながら主立った神社はすべて回りきったつもりだった。しかし、家に帰ってきてから確認してみると、三輪神社を一つ見落としていたことが分かった。三輪神社といえば、この前行った奈良の長谷寺室生寺に近い三輪山と関わりが深い神社だ。こんな大事なものを逃してしまったのは失敗だった。もう一回大須へ行かなければいけない理由ができた。エリアから一本外れているという理由で行かなかった若宮八幡宮とあわせて、近いうちに行かなければならない。

 名古屋人もあまり知らない名古屋総鎮守の若宮八幡社
 大須の三輪神社はエピソードや楽しみがいろいろ

 今日のところは、巡ってきた3つの神社を紹介しようと思う。
 まずは春日神社から。
 地下鉄上前津駅を出てすぐ、交通量の多い大須通りに面してそれはある。上の写真は、反対車線から見た神社の全景だ。このあたりはビルが建ち並ぶところで、よくぞこれだけでも残ったと思う。昔はもっと広かったに違いないけど、この場所でこれだけ残ればまずは上出来だろう。万松寺の鎮守だった桜天神社などは、栄の錦でビルの谷間のようなところにこそっと入り込んで肩身の狭い思いをしている。
 受験シーズンの桜天神へ


春日神社社殿

 大通りに面しているのに、鳥居をくぐって一歩中に踏み入ると、店の中に入ったみたいにふっと音が消えて静かになる。この空間だけ少し空気も違うようだ。
 社殿は春日大社に似せて造ってある。春日造と呼ばれる様式だ(切り妻造の妻入)。朱塗りの感じもそれっぽい。
 戦後の昭和34年(1959年)に再建されたものだから、まだまだ新しい。といってもそろそろ50年だから、修理や塗り直しくらいはしてるだろうか。
 創建の時期ははっきりしていない。平安時代の948年とか938年とか、そのあたりに奈良の春日大社から4柱大神の分霊を勧請したのが始まりとされている。どうして尾張のこんな場所に春日さんを呼んだのかと思ったら、春日大社を創建するとき常陸の国(茨城県)の鹿島神社から迎える神(白鹿に乗った武甕槌命)がここに泊まったからだそうだ。そんな話があるわりには、尾張には春日神社はほとんどない。
 1500年代のはじめ頃、前津小林城の牧与左衛門尉長清という人物が社殿を建て直したりして整備したと伝わっている。
 尾張藩2代藩主の徳川光友が生まれるときに、母親がこの神社で安産祈願をしたともいわれている。この乾の方のエピソードについては、大森寺のときに書いた。
 あれには後日談というか、別のエピソードがある。百姓の娘だった乾の方は、自分のような卑しい身分の人間の股から殿様を産むのはよくないといって、自ら腹を切って産んだという。成長してからその話を聞いた光友は、母の供養のために名古屋城にでかい大仏を造らせた。これが陶器でできた大仏で、戦時中避難させていたものが、どういう経緯があったのか、巡りめぐって湯河原温泉の福泉寺に首だけあるらしい。湯河原なんかには行く機会がなさそうだけど、行ったときはぜひ見てみたいものだ。
 昔は村の鎮守様として大事にされていた春日神社は、上前津地区の氏神様になっている。



拝殿から本殿を望む

 祭神は、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と経津主命(フツヌシノミコト)で、春日大社と同じだ。経津主神と建御雷神も祀られているかもしれない。
 社殿は新しくても、神社としては歴史がある。名古屋城の築城よりもずっと前からここにいた。江戸時代は相当広い境内だったという。



春日灯籠

 この吊り灯篭も春日大社で見た。同じものかどうかまでは分からない。そこまではっきりは見てないし、覚えていない。
 朱塗りの色がちょっと安っぽいというかペンキっぽい。色も少しピンクがかっている。近くで見ると仕事が素人っぽい。塗りムラがある。経費削減のために関係者が塗ったか。
 春日大社の朱は本朱と呼ばれる特別な顔料が使われていて、ものすごくお金がかかっている。色あせしにくいという特徴があるのだけど、一般の神社ではそんな高価な朱は使えないのでベンガラなどで代用している。そのため、時間が経つとオレンジに近いような色になってしまう。



狐の狛犬

 この狛犬変わってるなと思ってよく見てみると、なるほど、鹿かと気づく。春日さんの神の使者は鹿だ。だから神社を守っているのも鹿でいいのか。
 右は雄だったようだ。よく見なかったから気づかなかった。そっちを見れば角が生えているからすぐに分かった。



北野神社

 大須観音の裏手に、ひっそりと小さな神社が鎮座している。北野神社だ。実はこれが大須観音のいわば本家の方で、この神社の一部である神宮寺が大須観音だった。
 そのあたりの経緯は大須観音のときに書いた。けど、知らない人が多いのだろう。大須観音があんなにも賑わっていたのに、こちらを訪れる人はほとんどいない。そんな案内板みたいなものも立っていないから、みんな知らないまま通りすぎてしまう。



北野神社の境内

 撫で牛はまだ新しそうで、白々としていた。古いところでは、撫でられてテカテカになっている。これはあまり撫でられている様子がない。
 村社だから、やはり格のある神社だ。社格というのは、今では有名無実という建前でありながら、まったくなくなったとは言えない。厳然とあるといえばあるのかもしれない。
 神社は、大きく官社と諸社に分けられる。官社というのは文字通り官が統括するもので、官幣社と国幣社と分かれ、それぞれ大・中・小の格がある。別にそんなものを覚えても日常生活にはまったく役に立たないけど、上から官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、官幣小社、国幣小社、別格官幣社の順に格付けされる。
 官幣大社は京都、奈良などをのぞいて一県に一つくらいで、たとえば東京なら明治神宮、愛知なら熱田神宮といったところだ。
 諸社は府社と県社が同等で、郷社、村社、無格社の順になる。全国の半数の神社が無格社だから、各のある神社というのはそれだけ重要度が高いといっていい。実質的な差はさほどないらしいけど。
 神社の世界というのも、一般にはあまり馴染みのないところでいろいろあるようだ。学校でも教えないし、テレビでもやらないから、自分で調べないと分からないことが多い。



拝殿と本殿

 梅の紋でお馴染みの天神さんだ。祭神は当然、菅原道真になる。
 学問の神様と観音信仰がどうして結びついたのかについては、大須観音のところでは省略してしまったので、ここで少し書き加えておこう。
 そもそもは、1324年に後醍醐天皇が長岡庄(岐阜県の大須)に北野天満宮を造らせたのが始まりだ。これがのちに、清洲越のときに大須観音と共にこの地に移ってきて、北野神社となった。
 後醍醐天皇が天満宮を建てたのは、まだ菅原道真の怨念を恐れる気持ちがあったのだろうか。
 宇多天皇に重用されて出世街道をひた走った菅原道真は、次の醍醐天皇に嫌われて九州太宰府に左遷され、その地で無念の死を遂げる。これが平安時代の903年のことだ。その後、都では次々と関係者が謎の死を遂げ、人々は道真の怨念だと噂し合った。とうとう醍醐天皇もショックのあまり死んでしまい、いよいよ道真は怨霊だということになった。これを鎮めるために建てられたのが、太宰府天満宮であり、京都の北野天満宮だった。
 道真の死から400年以上経った時代に、人々は天神様のことをどう思っていたのだろう。まだ怨霊として恐れていたのか、その頃はすでに学問の神様としてあやかろうと思っていたのか。どういうつもりで後醍醐天皇が長岡庄に北野天満宮を建てさせたのはか分からない。1324年といえば、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画が発覚した年だ。とすれば、道真の怨霊を恐れたというよりも、むしろ道真を味方に取り込もうと考えていたなんてこともあるかもしれない。二度目の倒幕計画が発覚して、後醍醐天皇は1332年に隠岐島に流された。その後、復活して南朝吉野で朝廷を開き、南北朝時代が始まるのはまた別の話。
 大須観音に話を戻すと、後醍醐天皇は僧の能信上人に深く帰依していて、能信上人に北野天満宮を守るための寺を造るように命じた。それがのちの大須観音だ。
 能信上人は伊勢神宮に100日こもって、どの仏様を祀ればいいでしょうと一心不乱に祈ったところ、それなら観音様にしないというお告げを聞いて、観音寺を建てることにしたのだった。こうして、一見何のつながりもない天満宮と観音寺がくっつくことになった。



稲荷社

 隣には、正一位稲荷大神と染め抜かれた旗が立ち並ぶ稲荷さんがある。
 正一位(しょういちい)といえば、最高位を表す称号だから、すごく偉いように思うけど、基本的にこれは勝手に名乗っているだけで、名乗ることを特別に許されているとかそういうことではない。お稲荷さんの総本社である伏見稲荷大社が正一位で、そこから勧請した全国の稲荷神社がそれならうちも正一位だと言い張っているだけだ。



富士浅間神社

 次にやって来たのが、富士浅間神社だ。1495年、後土御門天皇の勅命で駿河の浅間神社から勧請して建てられたとされている。
 春日神社と同様、前津小林城の牧与左衛門尉長清が再建している(1527年)。
 現在の社殿は、昭和4年(1929年)に改築されたものだそうだ。ということは、ここは空襲で焼け残ったのか。



拝殿

 狭い神社ながら、たくさんの神様がぎゅうぎゅう詰めになっている。浅間神社なら木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)は当然のこととして、瓊々杵命、大山祗命、天照大神など多数の神様を祀っている。境内社も、稲荷神社、天神社、出雲社、金比羅社、秋葉社と、いいとこ取りの寄せ集めのようになっている。それだけもともとは大きな神社だったということも言えるし、明治の廃仏毀釈の波をかぶった神社でもある。もとは、富士山観音寺清寿院という寺の鎮守だったのがこの富士浅間神社で、明治になってこの神社だけが残って今に至っている。
 清寿院は修験道の寺で、富士山観音寺とも呼ばれ、のちに藩命で清寿院と改めたという経緯があった(1667年)。
 広い境内には芝居小屋や見せ物小屋まであって、大変な賑わいだったという。
 ここには尾張三名水のひとつ、清寿院柳下水と名づけられた井戸があった(他のふたつは蒲焼町の扇湯の井戸、清水の亀尾水)。供水に使った井戸水は、将軍が上洛したときに飲用水として出されたそうだ。



招き狐

 いろんな神様がいる神社は、ちょっと変わった神も招待した。招き猫ならぬ招き狐だ。そんなのいたっけ?
 妙に真新しい拝殿には「まねき稲荷」という額がかかっている。



招く狐

 中をのぞき込んでみると、確かにお狐さんが招いている。犬がちょっとした芸をしてるところのようにも見える。お手、おかわり、みたいだ。
 狐の石像も、つい最近彫りましたという姿をしている。これを新たな大須名物にしようという狙いか?
 けど、招き猫のルーツは狐だという説があり、それによると本家は招き狐で、招き猫はそれのパロディーなのだという。実際、伏見稲荷には手招きしている古い狐の人形がある。そもそもは狐が商売繁盛や縁起物の象徴で、それが猫に変わっていったのは神聖な狐をそんなふうに人形にするのを明治政府が禁じたからだなんだとか。
 確かに、猫が縁起のいい生き物と思われるようになったのは最近のことで、昔は魔性という感覚が強かったのではないかと思う。そう考えると、猫がお金や人を呼び寄せる縁起のいい生き物だという発想は不自然ではある。



稲荷社の狐と鳥居

 今回の大須神社レポートはここまで。
 次回はお寺編だ。

 ゆく寺くる寺---寺町大須400年の歴史に思いを馳せる ~大須6回
 
【アクセス】
 ・地下鉄「大須観音駅」または「上前津駅」下車。徒歩で。
 

大須の中の消えゆく昭和時代の名残を求めて ~大須4回

名古屋(Nagoya)
大須の昭和-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 大須シリーズ第4回は、大須に残る昭和の断片と題してお送りします。
 古い商店街の大須といえども、年を追うごとに昭和の名残は確実に消えつつある。私が通っていた頃は昭和だったから、古さの程度こそあれ、時代的なギャップのようなものはさほど感じていなかった。大須は確かに古い街に映ってはいたものの、前時代的とまでは思わなかった。平成20年の今の目で見ると、大須は一つ前の時代の面影を確かに残している。
 ふと、思い出した話がある。知り合いの娘が母親に、お母さんは平成何年生まれなのと訊ねた。昭和50年だよと答えると、えー、昭和時代なんだと、驚かれたという。そう、昭和というのはもはや、大正時代とか明治時代と同じように、昭和時代なのだ。あと30年もすると、昭和の男は頭が固いだとか昭和の女は違うみたいな言い回しをするようになるのだろう。
 今でさえすでに昭和は懐かしい時代になりつつある。これがあと50年もしたら、昭和は二世代か三世代昔のことになる。そのときまで生きられていたら、いろいろなことが感慨深く感じられるのだろう。
 現在撮っている古い被写体の写真も、何十年かすれば立派な古写真になる。ただ、デジタルデータは色あせないから、私たちが今古い写真に感じるようなノスタルジーは抱けないだろうか。
 そんなことをあれこれ考えながら、大須の写真を並べてみる。その場所ができたてのピカピカだったときのことを思い浮かべたりしながら。

大須の昭和-2

 一番上の写真が刃物店で、2枚目がはきもの店。すごいと感心する。こういう個人の小さな専門店が今の時代を生き残っていくのは並大抵ではないはずだ。刃物などは特別な需要があるにしても、履き物はここじゃなければ売ってないというわけではない。値段も品揃えも量販店にはかなわない。昔なじみのお得意さんとかがいるんだろうか。
 看板に「白百合本舗特約」と書かれている。なんだろう。白百合本舗と特約店契約を結んでいることを知らせることが何か有利に働くというのか。
 ここは下駄や雪駄のオーダーメイドをしてくれるそうだ。そんなサービスは街の量販店にはない。きっと私の知らないところに思いがけない需要があって、専門店の強みというのも侮れないのだろう。

大須の昭和-3

 えらく小洒落てしまった天津甘栗の今井総本家。
 以前は建物も老朽化してるように見えたから、大須301ビル建設は渡りに船だったのかもしれない。
 295グラム入りの天津甘栗が1,000円というのは、けっこう高めのような気がするけどどうだろう。これくらいが相場なんだろうか。横浜の中華街では500円くらいだったけど、屋台のあれと比べてはいけないか。
 天津甘栗は美味しいから好きだ。皮をむくのが面倒じゃなければもっといい。かといって最初からむいてあると味気ない。それが甘栗と蟹の足の共通点だ。

大須の昭和-4

 鳥獣店か、なるほどと思う。私たちが子供の頃は、町内に一軒はこういうタイプのペット屋があった。店先のカゴにセキセイインコや文鳥などがいて、中には金魚や熱帯魚の水槽がある。店主はだいたい、ちょっとクセのあるオヤジで、少し怖かったりもした。
 夏になると、カブトやクワガタもこういう店で買った。養殖のテラテラした赤茶色のノコギリクワガタを思い出す。天然物はカブトムシでも、全身にうぶ毛が生えているのだ。
 インコも飼っていたから、エサも買いに行った。昔はホームセンターなんてものはなかった。
 懐かしい佇まいの店を見て嬉しかった。ただ、さすがに生き残るのは難しかったようだ。町のペット屋も、本当になくなった。

大須の昭和-5

 たぶんまだやっているはずの仁王門湯。この角度からは見えないけど、ちゃんと高い煙突も立っている。
 中も相当レトロらしく、初めて入るとかなり衝撃を受けるようだ。銭湯の趣味がない私は、必要に迫られないと行くことはないだろう。
 近年は燃料費の高騰で、全国的に銭湯がどんどん姿を消している。仁王門湯はなんとか頑張って欲しい。町に一つくらいは銭湯があってもいいと、部外者だから勝手なことを思う。

大須の昭和-6

 不況でもとりあえず床屋は行かないといけない。影響がなくはないだろうけど、比較的景気に左右されない職種といえるだろうか。私は自分で切るけど。
 田舎の方の古い町並みを歩くと、必要以上に床屋やパーマ屋がある。パーマ屋ってのは昭和的表現? 美容室ってのも最近は古いのか。
 隣ともう一つ向こうもシャッターを閉じている。このあたりも何かの店だったんじゃないか。

大須の昭和-7

 名古屋は個人の小さな喫茶店が多い。喫茶店王国だから、他のどの街よりも喫茶店密度が高いのだ。とにかく名古屋人はすぐに喫茶店に入りたがる。名古屋に来て、あてずっぽうに歩いても、おそらく15分以内に喫茶店とパチンコ屋が見つかるはずだ。
 喫茶店は近所の常連さんで成り立っているから、続くところは続く。ただ、簡単そうに見えて実際は意外と難しいのが喫茶店商売で、バイト先でも知り合いの店でも、いろいろ苦労しているのを見た。

大須の昭和-8

 ホテルの定義とはどんなものだろう。どんなに小さくても、人を泊める施設ならホテルを名乗るのは自由なんだろうか。
 こういう外れの小さな宿でも経営が成り立つものなんだろうか。
 そういえば、最近、連れ込みホテルって言葉を聞かなくなった。

大須の昭和-9

 建物は雨風に晒されると変色する。でもここまで黒ずむものだろうか。最初から白ではなく、もともとこんな色だったのかとさえ思わせる。
 大須はやっぱりすごいぞと、いろんな部分で感心する私であった。

大須の昭和-10

 長屋風アパートというか、アパート風住宅というか、こういう二階建ての家屋というのも最近は少なくなった。文化住宅というのとは少し違うか。
 前にあるのは何だろう。祠のようにも見えるし、井戸の名残のようでもある。よく分からなかった。

大須の昭和-11

 黒い格子の昔ながらの家と思わせて、実は本物の町屋ではなさそう。
 横にたくさん煙突をつけている。前にはビールの空き瓶とゴミ箱。焼き肉屋か、焼鳥屋といったところだろうか。
 大須は空襲で一面焼け野原になってしまったというから、戦前の古い建物はほとんど残っていないのだろうと思う。古く見えても戦後のものだ。町としての歴史は古くても、町並としてはそれほど古いところではない。円頓寺の方がずっと昔の名残がある。

大須の昭和-12

 すれ違いざま、おばさまが大きめの声で話しかけてきた。え? 私? と思って顔を見ると、こっちを見ていない。なんだ、大きな声の独り言か、大須ってやっぱり変な人が多いんだと思いつつ振り返ってみると、肩に乗せた猫に向かってしゃべりかけていた。なんだ、そういうことかと納得したけど、考えてみるとそれはそれで変だ。街中で肩に猫を乗せて話をしてる人なんて、見たことがない。

 大須は歩けば歩いただけ収穫があるところだ。久々だったから、どこを見ても新鮮だった。写真を撮るために歩いたのが初めてだったというのもある。
 こうして撮った写真を見ると、まだ全然甘い。対象にぐぐっと迫れていない。広角レンズではどうしても写真が説明的になってしまう。次は標準の単焦点か、中望遠あたりで迫ってみたい。タムロン90mmで切り取る大須風景なんてのも試みとしては面白そうだ。
 大須シリーズの残りは、神社仏閣あれこだ。神社編と寺編に分けて2回、あと1回番外編があって、完結となりそうだ。もう少し大須を一緒に味わいましょう。

大須を制するには寺の位置と通りの名前を把握すべし ~大須3回

名古屋(Nagoya)
大須名所-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 これまで万松寺と大須観音を中心に大須の歴史を紹介してきた。3回目の今日は、大須の有名どころや通りについてまとめてみたいと思う。主だった通りにはそれぞれ名前がついていて、その数が多すぎて私自身もよく分かっていなかった。県外の人も、名古屋の人も、通りの名前など大した問題ではないだろうけど、自分の頭の中を整理するのも兼ねて、一応書いておくことにする。
 大須のエリアに関しては、非常に分かりやすい。一般的に大須というのは、東は矢場町の交差点から上前津までの南大津通、西は若宮から大須西までの伏見通り、南北は大通りの若宮大通りと大須通りで、その道に囲まれた四角いエリアを一般に大須と呼んでいる(町名としての大須はもっと広範囲に渡っている)。
 そのエリアの中には、東西南北それぞれ3本の主要な道が通っていて、その間に細い道がたくさん走っているという構造をしている。古い町の割に区画がすっきりしているのは、この街が城下町として人工的に作られたところだからだ。碁盤の目ほどではないものの、変に曲がりくねったりしてないので道に迷ったり方向感覚を失ったりすることはない(昔、自分が路上駐車した場所が分からなくなって、1時間半さまよって泣きそうになったことがあったけど)。
 大須を感覚的に理解するためには、寺の位置を把握しておくことが大事になる。通りの名前も寺にちなんでいるものが多い。万松寺があるところが万松寺通だし、大須観音があるところは観音通り、赤門通は大光院(明王殿)の赤門からきている。
 そんなことを頭に入れつつ、ぼちぼち大須散策を再開しよう。

 上の写真は、名古屋で有名な「コメ兵」だ。「いらんものはコメヒョーへ売ろう!」のCMでお馴染みで、名前を聞いたことがない名古屋人はほとんどいないんじゃないかと思う。
 昔は大きな質屋というイメージだったものが、年々成長を遂げて、今では日本最大級のリサイクルショップになった。東海銀行があった土地に6階建ての自社ビルまで建ててしまった。写真は、その本店の1階だ。
 貴金属から宝石、時計、ブランドバッグ、衣料、AV機器、パソコン、カメラ、楽器など多種多様で、新品や新古品なども扱い、もはや質屋という枠を超えている。
 それでも収まりきらず、西館、新西館、アメカジ館、Yen=g(エングラム)という量り売りの店まである。更に近年は東京、大阪にまで進出しているから、名古屋以外でも知名度は上がっているのかもしれない。
 以前は、米兵と表記していたので、この「ベイヘイ」ってアメリカ兵関係のものが売ってる店かなどと、とぼけたことを言ってる人もいた。実際のところ、アメリカ軍とは一切関係はない。創業者の実家が米屋をやっていて、赤門通で兵次郎という人が米屋をやっていたときの商号が米兵だったのだ。戦後は古着屋として再出発して、その後手広く商品を扱うようになり、今に至っている。
 私はずいぶん前に入ったきりで最近は入っていない。けっこう安いそうだから、機会があれば行ってみよう。中古カメラやレンズの掘り出し物とかあるだろうか。

大須名所-2

 通りはすっきりしているのに、通りの名前はすっきりとはいかない。上下3本ずつで通りの名も6つかと思うとそうではなく、途中で名前が変わってしまう。一番北の赤門通りは縦の大須本通から西は赤門明王通となり、その大須本通も万松寺と大須観音通を分けた南側は門前町通となる。その門前町通で左右に分かれた道は、東が東仁王門通で、西が仁王門通となり、途中で名前が分からないのは、真ん中の裏門前町通と、一番東の南北通りである新天地通だ。
 こんなもの、一度に全部覚えられない。大須を庭にしている人ならともかく、一般の名古屋人でも知らないことだ。ただ、大須は店が多くて場所が分かりづらいから、店の位置を説明するときに通りの名前が手がかりになる。万松寺なら、万松寺通を右に折れて新天地通りに入ってちょっと行った左側、というように。
 上の写真は、大須本通から大須観音寺通の東の入り口を見たところだ。この道を真っ直ぐ行くと、大須観音の北に出る。真ん中あたりで右に入ると大須演芸場がある。
 まあしかし、土地勘もなく初めて行くと、大須というのはとても分かりづらい街に違いない。

大須名所-3

 ここは赤門通が終わって赤門明王通に入ったところで、右に見えているビルが「大須ういろ」の本店だ。「大須ういろと~ない~ろ~で~す~」というCMが頭にこびりついて離れない名古屋人も多い。もっと昔のCMは、「ボンボンボ~ンと時計が三つ~ 坊やオヤツを食べました~ トロリとろけてトロリンコ~」だった。今の若手はそれは知らないか。
 名古屋名物ういろうは、この大須ういろと青柳ういろうという二大勢力で、永遠のライバルとして競い合っている。大須が「ういろ」なのに対して、青柳は「ういろう」という違いがある。このへんは名古屋人は厳しいので気をつけて欲しい。そんなのどっちでもいいよなんて言ってはいけない。
 青柳のCMは、「悔しかったら言ってみな 白黒抹茶小豆コーヒー柚桜 七つの味を残らずポイ ポポポイのポイポイポイ 青柳ういろう~食べちゃった~」だった。イヤになるほど聞かされたので、忘れようにも忘れられない。ほとんど洗脳だ。
 ういろうは漢字で書くと外郎だから、本来なら「ういろう」が正しい。それをあえて「ういろ」にしたのは、商標登録を取るときに一般的な「ういろう」では難しいと判断したからだそうだ。外郎というのは、古くから中国にあったもので、名古屋が発明したとかそういうことではない。名古屋人は見栄っ張りだから、安くてずっしり重たいのがみやげ物に向いていると、この地に根付いたといわれている。けど、あれは自分が持っていくにも人に渡すにも重たくてやっかいだ。名古屋人が特別ういろうの味が好きかといえば、決してそんなことはないということも付け加えておこう。名古屋の人がよその人からもらって一番がっかりするのが、ういろうかもしれない。

大須名所-4

 CMつながりで、「高価買い取り」とヨークシャ・テリアのCMでお馴染み、ビュピター宝飾だ。こんなところにあったとは知らなかった(裏門前町通あたりだったか、大須本通の北だったか)。
 名前は知っていてもどんな店かはよく知らない。宝飾品の中古売買だろうか。
 その前を行く、女の人二人がまたすごい格好で歩いていた。これも大須らしい光景の一部といえばそうだろう。
 セブンイレブンを挟んで、コメダさんもあった。名古屋人の心の故郷的喫茶店だ。

大須名所-5

 大須演芸場前へとやって来た。
 風前の灯火と言われながら幾度も閉鎖の危機を乗り越えて、今日まで生き延びてきた。3度も競売にかけられながら、最後の最後ぎりぎりのところで踏みとどまっている。
 大須が華やかだった時代は、大須二十館と呼ばれるほどたくさんの劇場などがあったという。それが今では大須演芸場と、七ツ寺共同スタジオの二つのみとなってしまった。
 演芸場ができたのが昭和40年(1965年)のことだ。建物としてはその3年前に、木造2階建てとして建っている。

大須名所-6

 大須演芸場の危機を聞いた古今亭志ん朝は、晩年の1991年から毎年独演会をここでやった(2001年死去)。日本一客が入らない演芸場で日本一客を呼べる落語家が公演を行ったというのは、今でも美談として語り継がれている。
 売れない頃のビートたけしもここで漫才をやり、明石家さんまは笑福亭さんまという名前で落語をやっている。楽屋通路の壁には1975年に書かれた明石家さんまの落書きも残っている。「今日も客なし 明日は?」
 島田洋七は、B&Bを組む前にここで初舞台を踏んだ。客は5人だったという。上沼恵美子の初舞台の場所でもあり、若き日の泉ピン子もよく出ていた。
 古いプログラムを見ると、トップバッターが、やすきよで、コント55号が続く、なんてこともあった。
 現在は東西から若手などを呼んだり、ロック歌舞伎スーパー一座が公演をしたりしているようだ。一日2回公演で、平日は昼から、土日は11時からで、入場料は1,500円。シルバー割引などもある。
 高校生の頃、一度は入っておくべきだった。今では大物になった芸人の若き日を見ることができたかもしれない。

大須名所-7

 門前町通の裏手あたり。左には富士浅間神社がある。
 このあたりはだいぶ外れで家賃も安いのだろう。若い子が店を出していた。昔ながらの古い商店と、大手のチェーン店と、個人の若い経営者の店などが渾然一体となっているところが大須の活気の素となっている。最近はアジア系の店も増えた。大須は安いものも多いし、日本に働きに来ている外国人たちにとってもここは魅力的な街と映っているようだ。それで、外国の店も自然とできていった。
 いろんな部分で大須も変化しているのを感じる。

大須名所-8

 大須名物、巨大招き猫。ふれあい広場と名づけられたここは、大須の待ち合わせ場所にもなっているんだとか。
 毎週日曜日は、「大須サンデー大道芸」と名づけられていて、全国から集まった大道芸人たちが芸を披露する。ジャグリングやパントマイム、風船ショーやフラメンコにマジック、ダンスに音楽にパフォーマンスなどを演じているという。
 大きな招き猫の下でフラメンコというのも、なかなかシュールな光景だ。
 この招き猫は、2.2メートル。昔はこの台座の中に大須ボーイと大須ギャルというからくり人形が入っていて、時間になると出てきて踊ったらしいのだけど、最近はどうなんだろう。ビデオスクリーンになってビデオが上映されるというから、そういうふうに変わったのだろうか。

大須名所-9

 東エリアでは、万松寺通と東仁王門通、新天地通が最も賑やかな通りとなっている。このアーケード街が大須商店街のメインストリートといっていいだろう。
 新天地通の北側がアメ横など、PC関連の店が集まっていて、個人的には馴染み深いところだ。
 万松寺通や東仁王門通は、新旧のいろんな店が並んでいて、特徴を言い表せない。古くからの衣料店や新しい外国の飲食店、古着屋、パーツ屋などなど、非常に雑然としている。私も、どこにどんな店があるのか、詳しいことはまったく把握していない。
 この日はあまりにも人通りが多くて特殊な日だった。今度静かな平日にもう一度行って、ゆっくり店なども確かめてこよう。写真もじっくり撮りたい。

大須名所-11

 アーケードの中に教会もある。仁王門通の名古屋福音伝道教会だ。大須は神社仏閣が集まっている地域だから、異国の神様がいても不自然ではない。
 江戸時代の名古屋におけるキリシタン事情はどうだったんだろう。どこかの神社か寺で、名古屋の隠れキリシタンを匿ったとかなんとかいうところがあった気がする。これもまた、一つのテーマとして頭に入れておこう。

大須名所-12

 大須射撃場なんてのもある。これも昭和だななどと思ったら大間違いだった。温泉にある射的などとは違い、公認射撃場なるもので、エアライフルを撃つところなんだそうだ。冷やかし半分でフラッと入っていく店ではないらしい。
 18禁で飲酒者は退場処分を食らう。景品は出ませんという但し書き。
 エアライフルといってもエアギターのようなまねごとではなくて、空気の力を利用して撃つライフルで、弾は金属製だ。8発500円は安いのか高いのかよく分からない。
 免許がいるのかどうかエアライフル事情はさっぱり知らないけど、私は銃関係は近づきたくない。種子島とかも撃ちたくないし。

大須名所-13

 ものすごく年季の入った店構えと、その前の道ばたに野菜を広げて直売するおばさま。名古屋市内で展開されている日常の光景とは思えない。
 店は、富田楼という古いうなぎ屋らしい。

 今回は大須のディープな一面を少しだけ紹介した。深みはまだまだこんなものではなくて、私などは近づけないところも多々ある。ただ、これまでの3回を通じて、少しずつ大須の魅力を分かってもらえてるのではないかと思う。
 ごった煮の鍋の中から何を選ぶかは、あなた次第。大須って、味噌煮込みおでんみたいなところだ。見た目はともかく、じっくり味が染み込んでいて美味しいところも似ている。
 県外の人が名古屋に来たときはぜひ一度寄っていって欲しいし、名古屋の人も変わりつつある大須を再発見してもらいたい。私も、もう一度といわず、二度、三度と行ってみたいと思っている。

大須夏まつりで大須観音も鳩が蹴散らされるほどの人だかり ~大須2回

名古屋(Nagoya)
大須観音-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 大須について紹介するならば、街の名前の由来となった大須観音について書かなければならないのは当然のことだ。
 しかし、大須観音という名前のお寺は実は存在していない。大須にある観音さんということで昔から大須観音と呼ばれているだけで、正式名を北野山真福寺宝生院(ほうしょういん)という。たぶん、大須観音を知っている人の9割はこの名前を知らないのではないかと思う。ちょっとした意地悪で、大須観音の前に立っている人に、このへんに宝生院ってお寺はありませんかと訊ねてみるといい。10人中9人は、さあ、聞いたことないけど、と言うに違いない。それだけ大須観音という名で通っているとも言える。一番近い地下鉄の駅も、大須観音駅という名前になっている。
 前回も書いたように、大須観音は、尾張国長岡庄大須郷(現在の岐阜県羽島市大須)にあったもので、名古屋城築城に伴う清洲越の際、徳川家康の命令でこの地に移された(1612年)。
 清洲ではないのにここに移したのは、大須の地は水害が多かったせいもある。美濃の大須は、木曽川と長良川の合流地点にある郷で、大きな州という意味で名づけられた土地だった。
 元の大須観音の歴史をさかのぼってみると、1324年に後醍醐天皇が美濃の大須(長岡庄)に北野天満宮を創建し、1333年にその別当寺として能信上人に開かせた寺が真福寺宝生院だった。1333年は、鎌倉時代が終わった年だ。
 江戸時代、名古屋に移ってからは、門前町として発展していくこととなる。当時の大須の中心はこの大須観音だった。
 1600年代の終わりになると、名古屋城城下町の人口は6万5,000人にも達し、江戸、大坂、京都に次ぐ大都市となっていた。
 この頃、庶民の間で観音信仰が流行し、大須の観音さんも大いに賑わうようになる。尾張にも四国霊場と似たものを作ろうということで、尾張にも三十三ヶ所が設けられたりもした。やがて大須観音は日本三大観音の一つと言われるようになる(あとの二つは、浅草観音と三重県津市の津観音)。
 門前町は参拝客目当てのみやげ物屋や飲食店が建ち並び、夜も華やかになっていった。それがのちに商店街として発展していくあたりが浅草と似ているところと言えるだろう。
 明治に入ると廃仏毀釈で観音信仰は影を潜め、多くの寺も失われてしまった。それに第二次大戦が追い打ちをかけた。
 尾張三十三ヶ所が復活したのは戦後の昭和33年(1958年)で、大須観音は一番札所となった。名古屋から知多半島を一周して、瀬戸から名古屋に戻って、八事の興正寺で打納めとなる。行程は336キロ。

大須観音-2

 大須観音は、二度焼けている。最初は明治25年、隣の家から出た火が燃え移って焼失。二度目は第二次大戦の空襲で跡形もなくなった。再建されたのは昭和45年(1970年)になってからのことだ。そのため、本堂も仁王門もまだ新しい。
 火事に懲りて、建物はすべて鉄筋コンクリートとなった。名古屋城もそうだけど、これはどうにも味気ない。見た目以前に尊厳のようなものを感じなければ心の底から畏れ敬うという気持ちは湧いてこないものだ。それは気のせいなんかじゃない。昔の人はそのことをよく知っていて、だから必要以上に大きな建物を建てたり、豪華できらびやかにしたのだ。そこには庶民を圧倒するという狙いがあった。器というのは信仰心にとっても大事なものなのだ。
 仁王門の中の仁王像にも力が感じられない。
 名古屋城の本丸御殿は、ぜひ本物感にこだわって再建して欲しい。コンクリートは100年経ってもコンクリート建築のままだけど、木造は100年経てば歴史的建造物になる。

大須観音-3

 大須観音といえば鳩がつきものなのに、この日は人の多さに蹴散らされて姿が見えなかった。普段は参拝客の10倍くらいの鳩がいる。妙に鳩を大事にしてるようで、鳩エサの自販機まで置かれている。鳩にエサを与えないでくださいというところが多い中、積極的に鳩をかわいがろうとしているところも珍しい。おかげでムクムクに太った鳩を見かけることがある。
 本堂の姿はいい。どっしりと構えていながら優美さもある。堂々としたものだ。ただ、「尾張名所図会」に描かれた江戸期のものとも、再建された明治期のものともだいぶ違っている。昔の方は屋根の形などがシンプルだ。
「大悲殿」と名づけられているのは、大いに悲しいわけではなく、大いなる慈悲に満ちているという意味だろう。
 大須観音には、明治25年の火事で焼けるまで素晴らしい五重塔があった(1815年建立)。本尊として空海が彫った愛染明王像が安置されていうたという。
 これが失われたのがなんとも惜しまれる。どのみち空襲でやられていただろうけど、昭和まで建っていればもう少し写真や資料も残っていたはずだ。明治時代の写真は残っているので、機会があれば一度見て欲しい。再建計画はうやむやのうちに消えてしまったようだ。今更鉄筋コンクリートで建ててもしょうがない。

大須観音-4

 意表を突くフレームイン。上の方を見ながら撮っていたので手前に気づかなかった。本堂前の写真はこれ一枚しか撮ってなかったので、これを採用。
 近くから見ると本堂の造りの残念なところが目立つ。朱塗りもテラテラして高級感がない。日本三大観音というにはちょっと寂しいところだ。
 本尊は聖観音。
 名古屋七福神の一つである布袋像も安置している。

大須観音-5

 本堂右には紫雲殿という建物があって、つながっている。どういう建物かよく分からなかった。同じ名前の葬儀場とかがけっこうあるから、ここもそういう儀式か何かをするところかもしれない。
 見た目はちょっと中国の城郭っぽいか。

大須観音-6

 本堂から境内を見下ろしたところ。正面に見えているのが仁王門だから、それほど広くないのがこれで分かると思う。昔は当然、もっと広かった。

大須観音-7

 8月3日のこの日は大須夏祭りで、大須観音も大勢の人で混み合っていたけど、大須観音通商店街はもっとものすごいことになっていた。なんじゃこりゃ。普段の週末はこんなに賑わってはいない。
 平日は、お年寄りを中心にもっとスローな時間が流れている場所だ。大須の街自体が純然たる観光地ではないから、その点では浅草とはだいぶ違っている。
 毎月18日、28日は境内で骨董市が開かれていて、かなり人気らしい。1979年に始まったこの市も今では大須名物の一つとなり、100軒以上の骨董店が集まってくるようになった。思わぬ掘り出し物からインチキくさいものまでたくさん出品されているから、興味のある人は一度のぞいてみるといいかもしれない。しかし、「なんでも鑑定団」を観てると、骨董というのは本当に難しいものだとつくづく思う。
 それにしても、こんなに人が多い大須を初めて見た。これはやはり、夏まつり目当ての人たちだったのだろうか。
 夏まつりは2日間で、前日の土曜日から境内や商店街で様々なイベントが行われたようだ。太鼓フェスティバルや盆踊り、阿波踊りパレードに仕掛け花火など。コスプレサミットのパレードは大須観音から出発してここに戻ってくるというルートだった。そのときの人だかりも、写真で見ると大変なことになっている。
 翌日曜日は、サンバショーやラテンダンスショー、山車パレードやサンバパレード、境内では手筒花火も行われた。

大須観音-8

 境内の特設ステージでは、ダンス音楽のリハーサルをやっていた。イベントは夕方から夜にかけてがメインだったから、午後のこの時間はだんだん人が集まり始めていたときだったのだろう。大須の夏まつりって、そんなに有名だったのか。

大須観音-9

 ちょこっと屋台も出ていた。祭りにあわせてなのか、普段からなのか。骨董市のときも出るようだから、この日が特別というわけではなかったかもしれない。
 外国人もちょくちょく見かけた。コスプレサミットのときは、世界から観客としてやって来る人がいたんだろうか。コスプレパレードは一般参加もできるので、やりたい方はぜひ来年。名古屋が萌えた日、という記事のタイトルがあって笑えた。日本におけるコスプレの本場は、秋葉原ではなく大須なのだ。

大須観音-10

 本堂左には、右の紫雲殿と対になるように普門殿が建っている。十二支の念持仏が安置されていて、それぞれの生まれ年の守り本尊がある。
 大須観音でもう一つ忘れてはいけないのが、真福寺文庫(大須文庫)の存在だ。開基の能信上人が集めた蔵書は1万5千巻を超え、仁和寺(醍醐寺だったりもする)、根来寺の文庫と合わせて本朝三文庫と呼ばれている。現存する日本最古の古事記写本など国宝4点の他に、将門記や日本霊異記など、重要文化財も40点近く持っている。
 事前予約で有料らしいのだけど、詳しいことは知らない。いくらくらいするのか相場の見当もつかない。意外と300円くらいだったりしないのかな。
 その他に書いておくべきこととしては、松尾芭蕉が訪れているということか。1687年の12月3日、この地に立ち寄って句を残している。
 いざさらば 雪見に ころぶ所まで
 この日は雪が降ったらしい。仁王門の脇に句碑も建っている。
 碑といえば、大正琴発祥の地というのもある。明治45年に大須の森田五郎という人が八雲琴をもとにして小型の二弦琴を作って、これがのちに大正琴となっていったことから、ここを大正琴発祥の地としているようだ。
 からくり人形もある。万松寺は信長で、こちらは尾張藩七代藩主徳川宗春だ。宗春というのも尾張の名物藩主で、ユニークな人物だった。江戸の将軍吉宗の倹約令を無視して、庶民に芸能や消費を大いに奨励し、自らもド派手な衣装を身にまとって庶民の度肝を抜いたりした。江戸や大坂から芸人やら上人やらを呼び寄せ、芝居小屋や飲食店をたくさん作らせた。
 それが名古屋を商業地として発展させるきっけとなった一方、藩の財政は赤字に転じ、江戸の将軍家にも目をつけられ、結局徳川御三家筆頭でありながら尾張藩から一人の将軍も出せなかった一因にもなったといわれている。
 宗春のからくり人形は、11時から17時まで2時間置きに毎日4回行われている。

大須観音-11

 この日の大須散策は、大須観音が最後だったので、西門から出て、地下鉄に乗って円頓寺へ向かった。ただ、ブログの大須シリーズはまだ終わらない。あと2回か3回は続く予定だ。たぶん、明日もこの続きになると思う。

北京オリンピック閉幕記念で北京料理っぽいものを作ったサンデー

料理(Cooking)
北京サンデー

PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他



 北京オリンピック最終日ということで、先週の予告通り今日は中華サンデーにした。せっかくの北京開催なんだから、最初は北京料理を目指して出発した。目指せ北京ということで。しかし、途中からうやむやになってきて、一部は北京どころか中華からも脱線しそうになった。そもそも北京料理ってどういう料理をいうのだろうというところから始めないといけない。
 まず北京というところは、だいぶ北の方に位置しているということを頭に入れておく必要がある。緯度40度というのは、日本でいえば秋田、岩手と同じくらいだ。冬は寒く、夏はけっこう暑い。雨が少ないから、コメが穫れず、主食は小麦粉だというのも特徴の一つとなっている。中国でコメをよく食べるのは、南の地方なんだそうだ。
 気候というのもその土地の食べ物を決める大きな要素で、日本でも寒いところと暑いところではずいぶん違っているように、中国にも同じことが言える。一般的に味付けは濃いめで、油を多く使うとされる。
 海に近い割に魚をあまり食べず、肉をよく食べるのだという。代表的な料理はなんといってもアヒルの丸焼きの北京ダックだし、あとは焼き肉だったり、ジンギスカンだったり、羊のしゃぶしゃぶだったりと、やはり肉が多い。
 ご飯の代わりは小麦粉でまかなっている。麺類や、焼餅(シャオピン)、蒸した饅頭(マントウ)など、小麦粉が主食で米はあまり食べないようだ。ギョウザの位置づけも日本のおかずという扱いではなく水餃子をご飯代わりのように食べるらしい。
 料理のルーツとしては、華北地方の山東料理(さんとうりょうり)をベースとしている。これは中国八大料理(八大菜系)の一つで、山東料理、江蘇料理、浙江料理、安徽料理、福建料理、広東料理、湖南料理、四川料理に分かれている。日本ではだいたい四大料理で分けることが多い。北京、広東、四川、上海と。
 北京という都市は、春秋戦国以来、国の中心地で、遼、金、元、明、清と5つの王朝が置かれたところでもある。だから、宮廷料理として発展してきたという一面も持っている。民族も混じり合っているから、料理もさまざまな影響を受けて変化してきた。イスラム料理の影響も強いようだ。
 有名な108品の満漢全席も北京の宮廷料理だ。最初は山東料理で作られていたものが、のちに各地の料理を加えるようになっていった。
 とまあ、北京料理というのはそんなようなものだという概要が分かったところで、ぼちぼちメニューを決めて作ってみようかねと作ったのが上の写真の3品だった。宮廷料理とはほど遠い出来となった。こんな料理を西太后に出したらタダじゃ済まない。

 左手前は、鶏肉の唐揚げの甘酢あんかけだ。あんかけというのも北京料理の特徴の一つとなっている。
 鶏肉に塩、コショウ、カレー粉、酒を振りかけてしばらく置いたあと、カタクリ粉をまぶして揚げる。
 それとは別に、ニンジンとタマネギを茹でる。
 あんかけは、酒、しょう油、みりん、砂糖、酢、水溶きカタクリ粉で作る。
 これを北京料理と呼んでいいものかどうか分からないけど、一応中華の範ちゅうには入ると思う。料理としてはオーソドックスなものだから、まずいはずもない。

 右手前は水餃子だ。中国では日本のような焼きギョウザはほとんどなくて、ギョウザといえば水餃子を指す。
 タネも多種多様で、各家庭、店、個人によってそれぞれ違う。ギョウザという決まった料理を作るというのではなくて、自分が食べたいものをギョウザの皮に包んで食べるという感覚なのだろう。
 今回は、肉を使わず、エビ、白菜、キャベツ、長ネギ、シイタケで作った。
 沸騰したお湯に入れて、浮かび上がって透明な感じになってきたら差し水をしていったん温度を下げ、もう一度浮いてきたら取り出す。
 スープは、酒、しょう油、中華ダシ、塩、コショウ、豆板醤、唐辛子で、少しピリ辛にした。
 北京では黒酢で食べたりもするんだとか。

 奥は、豆腐と野菜のカニ缶あんかけで、これはあまり北京らしくないかもしれない。
 中国でも豆腐はよく食べられていて、たとえば麻婆豆腐などが有名だ。あれは四川料理に分類される。辛さが四川の特徴で、日本でもお馴染みの料理は多い。麻婆茄子、棒棒鶏、 回鍋肉、青椒肉絲、担担麺といったところが代表的なものだ。
 北京料理で豆腐を使ったものが何なのかよく分からなかったのだけど、たぶん使うことは間違いないと思う。カニと豆腐の煮込みみたいなものもありそうだから、カニ缶で代用して作ってみた。中国ではカニ缶は使わないだろうけど。

 今日はこんな感じの北京料理もどきサンデーとなった。北京再現度がどれくらいなのか、北京料理を食べたことがない私には判断がつかない。美味しさでいえば、4位級といったところか。銅メダルを獲るには何かあと一歩が足りない感じだった。敗者復活からの勝ち上がり3位決定戦で負けた料理といったところか。たとえが分かりづらい?
 北京オリンピックも今日で終わってしまって寂しい。2週間なんてあっけないものだと毎回思う。
 今回は全般的にドラマ不足で、成績どうこうではなくあまり出来のよくない大会だった。4年後まで覚えていられることは少なそうだ。前回のアテネの方が印象深いドラマが多かった。忘れずに記憶に残っているものは、北京はソフトの優勝と、野球のメダルなしあたりだろうか。驚きや興奮というのが少なかったのが残念なところだ。
 今回、オリンピックとサンデー料理で多少なりとも北京に近づくことができた。また中国料理に挑戦したい気持ちが強まった。上海料理なんてのもよく分かってないから、今度一回作ってみよう。作れば見えることもある。

大須を一言で説明するのは難しいから長々と説明することにした ~大須1回

名古屋(Nagoya)
大須1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 今日から何回かに渡って、名古屋の大須という街について紹介していこうと思う。
 大須ってどんなところなのと訊かれても、一言では答えられない。一般的には、秋葉原と浅草と上野を足して小さくしたような街と説明されることが多いけど、そんなに分かりやすいところではない。原宿や巣鴨の要素も併せ持ちながら、実際はどこにも似ていない。大須は大須でしかなく、名古屋でも他に似た街はない。すごく雑多なところで、どうにも説明するのが難しいところなのだ。
 電気屋街といっても家電製品よりPCやパーツショップが中心で、大型電気店が集まる秋葉原とは性格が違う。そしてそれは、大須の一つの顔に過ぎない。
 人によっては古着の街だし、別の人にとってはオーディオの街でもある。オタク系のボーイたち、皮系ファッションのカップル、おばあちゃん、おじさん、ギャル、兄ちゃん、アジア系の外国人、サラリーマン、家族連れ、主婦などが混在していて、誰が主役というわけでもない。日本有数の仏壇屋街でもあり、名古屋一の家具屋街でもある。昔からの問屋街でファッション関係の店も多く、近年は多国籍な飲食店が増えてきている。
 秋葉原で有名になったおでん缶も、メイド喫茶も、大須が発祥だ。大須ういろう、矢場とん、寿がきや、天むすの「千寿」など、大須から生まれた名古屋名物も多い。
 様々な種類のマニアックな専門店が集まる複合専門店街、と言えばそう遠くはないだろうか。活気があるといえばそうだし、雑然としているといえばそうで、名古屋人でも好き嫌いが別れる街でもある。私は昔から苦手なところだった。中学、高校のとき、よく行っていたのは、当時はまだパソコン(その頃はマイコンといっていた)が一般的ではなく、ソフトやパーツを買うには大須へ行くしかなかったからだ。札のお金は靴下に隠していかないといけないような感じがあるくらいのところだった。
 しばらく寄りつかなくて、この前行ったのがずいぶん久々のこととなった。ビデオデッキを修理するためのコンデンサを買いにいったのは、もう2年くらい前になるだろうか。
 8月3日のこの日曜日は、ちょうど大須まつりというのが開催されていて、普段の休日よりも人が多かった。良く言えばエネルギッシュ、個人的にはやっぱり雑然とした感じが苦手で、思うように写真が撮れずに歯がゆい思いをした。それでも、神社仏閣の写真を中心にけっこう枚数があるから、ゆっくり進めていくことにしよう。
 私の及び腰の写真で大須の魅力をどこまでお伝えできるだろう。今回はさっぱり自信がない。

大須1-8

 万松寺通商店街入り口の天津甘栗の店は昔からの馴染みだ。私がよく行っていたのが、この万松寺通で、天津甘栗の店の前をいつも通っていた。
 久々に見たら店がえらく新しくなっていて驚く。昔はこんな小綺麗な店じゃなかった。創業明治39年の老舗で、店構えもいかにもという雰囲気を持っていた。
 あの頃は前を通ると店の外まで甘栗の濃厚な香りがあふれ出していて、胸が悪くなりそうなくらいだったのに、その匂いはずいぶんおとなしくなっていた。ちょっと寂しく感じる。
 今井総本家の上に建っている大きなビルが、少し前話題になった大須301ビルだ。そうか、ここに建ったのか。つい最近のことだと思っていたら、2003年オープンというからもう5年も前のことになる。考えてみると、大須のこのあたりもずいぶん久しぶりだ。私がよく行っていたのは20年以上前だから、そりゃあ大須も変わって当然だ。昔通った「マイコンテック」や「三洋堂書店 上前津店 Σ」なんかはまだあるんだろうか。
 大須301ビルは、大須再開発の一環として複数の地権者が共同で建てたテナントビルで、ワンフロアすべてが中華料理店ということでも話題を集めた。これで横浜の中華街の要素も取り込んだと、名古屋人はちょっと自慢だったのだ。ただ、2フロア分店を集める計画が縮小してワンフロア12店舗となってしまい、ややしょんぼりしてしまった感はある。できた頃は押すなおすなの大盛況だったようだけど、飽きっぽい名古屋人のことだから、今はもう空いていることだろう。サンシャイン栄の名古屋麺屋横丁の二の舞にならないか心配だ。

大須1-9

 アーケードもずいぶんきれいになっていた。前はこんなに明るくて健全な感じではなかった。もっと昭和然としていた。屋根も床もだいぶ改築したらしい。私の中にあった大須のイメージが良くも悪くも崩れてしまった。
 最初にFM-7というマイコンを買ったとき、この通りを入ってすぐ右のゲームセンターの2階にあった中古ソフト屋によく行った。大須の一番の思い出はこの店だ。
 FM-7のCPUは8MHzで(2つ搭載)、メインメモリは64kBだった。それでも当時は処理速度が速いということで評判だったのだ。あれからX1までのゲームが一番楽しかった気がする。BASICのプログラムを打ち込んで、それがちゃんと動いただけでも嬉しかった。そういう時代を知ることができたのは幸運だったと思う。

大須1-10

 アーケード街の中に萬松寺(ばんしょうじ)というお寺がある(万松寺と書いた方が通りがいいか)。現在の大須の発展は、この万松寺から始まったと言っていい。
 もともとは、信長の父で古渡城主だった織田信秀が織田家の菩提寺として、那古野城の南側に建てたのが始まりだった。開山は、信秀の伯父で、赤津の雲興寺七世だった大雲永瑞大和尚。本尊は十一面観世音菩薩像。1540年のことだから、名古屋城が築城される60年以上前の話だ。
 中区錦から丸の内二、三丁目までと広大な寺領を持ち、大殿を中心に七堂伽藍が備わっていたという。
 徳川家康が6歳で今川の人質となるとき(1547年)、途中で奪還されて尾張に連れてこられ、2年余りを過ごしたのがこの万松寺だった。そのとき、家康は8歳年上の信長と出会っている。
 1552年、父信秀の葬儀が万松寺で行われた。僧300人や重臣が居並び、粛々と葬儀が進む中、喪主である信長は馬に乗って裸同然の姿で現れ、無言で前に進むと、抹香をわしづかみにして位牌に投げつけ、無言のまま去っていった。信秀42歳の早すぎる死に対する屈折した思いだったのか。このとき信長18歳。「尾張のうつけ」と呼ばれ、信長の代で尾張は滅びると誰もが本気で思い、嘆いたものだった。桶狭間の戦いで今川義元を破るのは、それから9年後のことだ。

大須1-12

 1610年、名古屋城築城に伴う清洲越で、大須は寺社の区域と定められて、大須観音などと共に万松寺もこの地に移ってきた。大須という地名は、もとは岐阜県羽島市大須にあった大須観音の移転でつけられたものだ。それまでここらは小林邑と呼ばれていた。江戸時代の大須は、門前町として発展を遂げることになる。
 幕末以降はかなり衰退したらしく、それを見かねて万松寺の大円覚典和尚が大正元年(1912年)に、二万坪以上あった寺領の大部分を開放するに至った。それを機に街作りが進み、大須は再び賑わいを取り戻すこととなる。しかし、大須の浮き沈みはまだまだ終わらない。
 大正から昭和の戦前にかけて、大須は名古屋有数の歓楽街として成長していく。栄、大須、円頓寺が当時の名古屋でもっとも華やかな場所だったというのは円頓寺のところでも書いた通りだ。劇場や演芸場、映画館などがたくさん建てられ、旭遊郭もあった。大道芸人や曲芸師などが集まり、祭りの日ともなれば10万人以上が集まったという。
 しかし、少しずつ時代も街も変わっていった。旭遊郭は中村区大門に移り、日本は戦争に負け、名古屋大空襲で大須も焼け野原になった。大須観音も万松寺もすっかり焼けてしまった。
 戦後少しずつ復興が進む中、1947年、大須に野球場が建設されたことを知る名古屋人は少ないかもしれない。今の名古屋スポーツセンター(大須スケートリンク)がある場所に大須球場はあった。けど、ここは大須二子山古墳と空襲で焼けた本願寺名古屋別院の跡地という罰当たりなところだった。昭和27年(1952年)の大須事件の舞台になったところということで知っている人もいるだろう。その年、大須球場は解体された。それ以前の1949年に、中日ドラゴンズの本拠地は中日スタヂアムに移っていた。
 昭和30年代になると日本は映画ブームとなり、映画館街だった大須にまた人が戻ってきた。しかしそれも束の間、映画人気がすたれると、大須からも人は遠のいた。
 それでも大須は商店街として復興を目指し、1965年には大須演芸場も作った。1967年に地下鉄名城線の上前津駅、1977年には鶴舞線の大須観音駅ができ、交通の便がよくなるとまた人が戻ってきた。その後の大須を決定づけたのが、1977年にできたラジオセンターアメ横ビル(今の第1アメ横ビル)のオープンだった。1984年には第2アメ横ビルもできて、大須はパソコン時代の到来に合わせるようにパソコンの街としての復活を遂げることとなる。
 私がよく行っていた時期は、ちょうとどん底を抜けて電気屋街に変貌しつつあるときだったのだろう。当時は写真を撮るなんて頭はまったくなくて、ぼんやりした記憶だけしか残っていない。それでも大須はもっと古めかしい商店街という印象だった。あの頃の写真が残っていて今見たら、とても懐かしく感じることだろう。あの頃、日常を写真に残すという発想はまったくなかった。

大須1-11

 万松寺と隣り合わせで、白雪枳尼真天(はくせつだきにしんてん)が祀られている白雪稲荷がある。
 白雪枳尼真天というのは、この地に千年も住んでいるという白狐の神様で、そこにはこんな話がある。
 万松寺が衰退してお金がなくなり困っていたところ、御小女郎なる者がやって来てお金を置いていった。後日、吉原から人が訪ねてきて、新しく雇い入れた女が去っていくときに「我は万松寺稲荷だった」と言い置いていったので確かめにきたのだという。さてはここの白狐さんが女に化けて吉原で稼いできてくれたらしいということになり、万松寺は白雪稲荷に感謝して、ますます大事にするようになったというお話だ。
 吉原の店もそれ以来繁盛するようになったというので評判が高まり、水商売関係の人も多く参拝に訪れるようになったという。
 万松寺には、身代り不動明王というのもある。信長が越前の朝倉城を攻めた帰り道、琵琶湖近くで杉谷善住坊に鉄砲でねらい撃ちされて2発命中したものの、懐にあった万松寺の和尚からもらった干餅に当たって命を救われたということがあった。これも日頃信仰している不動明王の加護によるものということで、のちに加藤清正が万松寺の不動明王を身代り不動と名づけたのだった。加藤清正は名古屋城築城のとき、万松寺に寝泊まりしていて、毎日ここの不動明王にお参りしていたそうだ。
 これにちなんで、毎月28日は境内で餅つきをして、参拝者に配っている。
 万松寺の和尚は昔もからユニークな人物が多いようで、今の住職もかなり変わってる。2002年には日本で初めて、パソコン供養なるものを行って話題となった。使わなくなったけど捨てるにはしのびないパソコンなどを集めて境内で供養したのだ。そのときは全部で200台近く集まったという。その後これは続いてるんだろうか。
 今ではメジャーになりつつ世界コスプレサミットも、もともとは住職が経営していたパソコンショップのイベントとして行われたものだった。2003年から数えて今年で6回目となり、本当に世界規模の大会になってきた。最初は4ヶ国だったものが今年は13まで参加国が増えた。私が行った前日の8月2日は、大須の商店街で世界のコスプレイヤーたちによるパレードがあった。3日はオアシス21で本大会が開かれ、今年はブラジルがチャンピオンになったらしい。発祥の地である日本はいまだに勝てていない。一般の人はまったく知らないイベントだと思うけど、こんなことも名古屋では行われているのだ。

大須1-13

 狭い境内ではこのとき何かのイベントがあった模様。人垣ができていて何をしているか見えなかった。
 万松寺の本堂はこの奥で、近代的なビルの姿をしている。空襲で焼けてからようやく再建がかなったのは平成6年のことだ。
 ここのからくり人形も名物の一つとなっている。毎日10時から18時まで2時間おきに、鐘の音と共に小窓の扉がぎぎぃーっと開いて、信長のからくり人形が出てくる。前半は抹香を投げつけたシーンが再現され、後半は人間五十年の敦盛を舞うのだ。ただし、人形が濡れるといけないので、雨天中止。

 予定ではもう少し話を先に進めて、巨大招き猫や春日神社のことを書くつもりだったのに、万松寺と商店街の歴史を長々と書きすぎて、ここで力尽きた。だいぶ長くなったし、今日はここまでとしよう。続きはまたあさって以降だ。
 大須の歴史と今についてはこれでだいたい書いたから、次からは写真中心になると思う。写真で大須が持つ空気感が少しでも伝わるといいのだけど。

赤目行きは歩いて焦って限界を超えてなんとか完走 ~室生寺第三回

奈良(Nara)
室生寺3-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 室生寺奥の院の石段は普通の状態でも厳しいのに、残り少ない体力で登っていくようなところではなかった。こんなに急な登りが長く続くとは知らず、いったん登り始めたからには後には引けなかった。
 この日はあまりの疲労に食欲が完全に飛んでしまって、前日の夜からここまで18時間以上何も食べていなかった。とにかくアクエリアスやコーヒーなどを飲み続けて、それをエネルギーに替えていた。家に帰ってから体重を量ったら、一日足らずで5キロも減っていた。ボクサー並みの減量だ。今思い出してもこの日は過酷すぎた。
 帰りの時間も迫っていたから、石段の途中でおちおち休んでもいられない。重たい足取りで一歩ずつ登っていく。上までは果てしなく遠く感じた。
 帰りは楽かといえばそうじゃない。下りはヒザへの負担が大きいからかえってつらい。途中で完全にヒザがおかしくなった。
 もう、今はすっかり体重もヒザも元通りになった。超回復で前より丈夫になったことだろう。またそろそろロングウォークの時期が近づいている。

室生寺3-2

 歩いた時間はそれほど長くなったのかもしれない。せいぜい15分かそれくらいだったのだろう。ようやく何かの建物が見えてきた。ここが奥の院だろうか。まだ油断はできない。安心して続きがあると、ガクッときてしまうから。
 この懸造の建物は、位牌堂だ。間違いない、ここが奥の院だ。やれやれ、やっと着いたか。なんでこんな上に作ったんだ。いくら奥の院といったって、こんなに奥にすることはない。
 それはともかくとして、この位牌堂の懸造は見事なものだ。足場の枠組みがとても美しい。しばし見入る。
 ただ、この足が何かの理由でボキッといってしまったときは、建物ごと斜面を転がり落ちていくことになりそうだ。舞台の上にあまりたくさん人が乗ると危ないかもしれない。

室生寺3-3

 左が位牌堂で、右が御影堂(みえどう)。
 位牌堂は供養の儀式をするための堂で、御影堂は弘法大師空海を祀る堂となっている。太子堂とも呼ばれている。空海がこの寺に直接関わったのかどうかは分からない。真言密教の開祖ということで祀られているのだろう。これも鎌倉時代の建物で、重文指定になっている。
 御影堂は、ごえいどうとも読み、いわゆる開山堂だ。開山や宗祖を祀る堂ということでこう呼ばれる。
 ここ室生寺の御影堂には、弘法大師空海42歳の像が安置されている。

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 奥の院まで行ったからといって、何がどうなるわけでもない。建物としては、上の二つがあるくらいで、特に見所とも言えない。位牌堂の懸造は一見の価値があることはあるにしても、行くか行かないかは意地の問題だ。
 上まで行っても夏場は木々が視界を遮って、見晴らしも悪い。葉の間からわずかに室生の町が見えるばかりだ。
 記念にぐるりと一周回って、ベンチを発見。嬉しくなって座ったのも束の間、いかん、時間がない、こうしちゃいられないというわけで、早々に奥の院をあとにした。奥の院での滞在時間は5分弱。あんなに苦労して登ったのに。

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 本堂の近くに、北畠親房の墓とされる五輪塔(重文)がある。なんで室生寺に?
 北畠親房といえば、南北朝時代の公家で、後醍醐天皇死去ののち、南朝の指導的立場にあった人物だ。南朝の正当性を主張するために『神皇正統記』を書いたことでも知られている。
 その北畠親房の墓がどうして室生寺にあるのか、よく分かっていないらしい。1354年に奈良県吉野の賀名生(あのう)というところで死去している。現在の五條市で、南朝時代の首都の一つだったところだ。室生寺からはずいぶん離れている。生前にこの寺と関係があったのか、寺の誰かと知り合いだったのか。
 大正5年(1916年)に発掘調査が行われて、木製五輪塔や納骨壷が見つかったものの、誰の墓かは判明しなかったそうだ。特に嘘をつく理由もないと思うけど。
 南北朝時代については、私自身よく分かっていない部分もあるので、機会があれば勉強して書きたいと考えている。

室生寺3-6

 夕方5時前に室生寺をあとにする。なんとか奥の院まで行って、1時間弱で見学を終わらせることができた。ここまでは予定通り。ほぼ狂いなし。あとは2時間かけて駅までの7キロを歩くだけだ。
 散歩や散策ならともかく、単なる移動で7キロは普通歩かない。東京でいうと、新宿駅から東京駅まで歩くのと同じくらいだ。いくらお金がなくても、ほとんどの人は新宿から東京駅までは歩かない。名古屋なら、名駅から東山動物園くらいだ。名古屋人がそんな距離を歩くはずがない。
 道はほぼ室生川沿いで、なんとなくハイキングコースのようにはなっていなくもない。行き帰りに歩くという人もいるのだろう。ただ、けっこう車通りが多くて、歩道がないところもあるので、あまり気分のいい散策路ではない。林道のようなものだったら、もう少し気分よく歩けただろう。

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 歩けども、歩けども、駅に近づいたような気がしない。気が遠くなりそうだ。道のりが果てなさすぎる。奥の院の石段の方がましだったとさえ思う。この帰り道は本当に遠く感じた。途中からとにかく、もう歩きたくないと思いで頭の中が一杯になった。歩くという行為にほとほとうんざりした。走るのと違って歩くことに限界はないと思っていたけど、やっぱり限界ってあるものなんだと思い知る。
 客観的に見たら、ものすごくトボトボ歩いたと思う。カメラをぶら下げていなければ、遭難者か何かかと思って車が止まってくれただろう。けど、カメラを持ってるから、好きで歩いてはるんだろうなと通りすぎるドライバーは判断したらしい。ついに最後まで一台も止まってくれることはなかった。室生口大野駅と大きく書いた紙を背中に貼っておくべきだったか。
 赤目滝で一度限界を超えてウォーキングハイ状態になり、長谷寺の帰りでダウン寸前まで追い込まれ、室生口の前半はまた復活模様だったのに奥の院でやられて、室生口からの帰り道でトワイライトゾーンに入った。疲労度のパーソナルベストをたたき出して、自分の歩き能力の限界を知った。
 そんなとき、私を励ますためにある使者が送り込まれてきた。それが下の写真の鹿さんだ。

室生寺3-8

 最初、道路沿いの川岸にいて、私の姿に驚いて、キョン、キョン、キョンというような大きな声を上げて、川をバシャバシャ渡って対岸まで駆けていった。突然の出来事に驚いたのは私も一緒で、とっさにカメラを向けられず、走っている姿を捉えることができなかった。撮ることができたのは、向こう岸に渡ったあとだった。惜しいことをした。この日は望遠レンズも持っていなかった。
 向こうにいったあともこちらをじっと見つめたまま、山中に響き渡るような大きな声で鳴き続けた。鹿があんなに大きな声を出す動物だというのを初めて知った。動物園や奈良公園にいる鹿はほとんど鳴かない。それはまさに、野生の呼び声だった。この声と姿の凛々しさに感動する私であった。
 奈良だから鹿がいるのは当たり前というわけではない。奈良公園からここまでは何十キロもあるから、逃げ出してきたとも思えない。生命力の輝きが野生と飼われているものとは違う。野生動物って、やっぱり美しいものなんだとあらためて思う。いつか大台ヶ原にカモシカを撮りにいこう。
 これでだいぶ疲れが吹き飛んで元気になった。きっと、室生山の神様が、私のあまりのヨレヨレぶりを見かねて、応援を送ってくれたのだろう。ありがとう、室生山と鹿さん。ここまで来てよかった。歩いたからこそこの出会いがあった。赤目からずっと一日歩き回っていろいろ見て、この鹿との遭遇が一番嬉しかった。旅はこういう思いがけない偶然があるから面白い。

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 鹿との出会いから歩くこと30分。いったん気持ちは元気になったとはいえ、肉体的にはとっくに限界を超えているから、また激しく疲れてきた。そんな私を癒してくれたのがこの看板だった。
「一万本の花が咲く 弁財天 石楠花の丘 直進11キロ」
 って、直進できるか!
 目の前は草ボウボウで、川が流れていて、その向こうは山だ。直進なんてできっこない。川を越えて、山を越えて、真っ直ぐ11キロも歩くなんて、絶対イヤだ。けど、この看板には笑わせてもらった。それで体の力が抜けて、またちょっとだけ気持ちが元気になった。

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 徒歩の7キロというのは、感覚がよく分からない。一度バスで走った道とはいえ、歩くとなると全然進まない。通った道ということは分かっても、駅から何分くらいだったのかが思い出せない。
 このあたりも田んぼがあったから、そろそろ町まで近いんじゃないかと喜んだら、ここは途中の集落で、またすぐに人家は消えた。実際、ここから駅はまだまだ先だった。
 アオサギが飛び立ったので撮ってみる。風景も単調だから、こんなちょっとした出来事が嬉しい。

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 バス停の路線図を見ると、なんとか宅前、というバス停がある。完全に個人宅の前じゃないか。きっと、それくらいしか目標物がなかったのだろう。そこに停まる必要があるとすれば、この家の関係者くらいのものだ。
 オレンジに塗られているゾーンは、自由乗車区間となっていて、申告制でどこでも降りることができる。手を挙げれば乗せてもくれる。田舎のバスで暗黙の了解でそうなっているところはあるけど、最初からそういうゾーンとして設定されているのは初めて見た。親切といえば親切には違いない。

室生寺3-12

 室生寺を出て1時間半後、ようやく駅近くまで戻ってきた。橋を渡って、165号線をくぐれば、その先に大野寺があって、そこまで行けば駅までの距離感は分かる。
 上の写真の古い民家は、そば屋さんか何かの店だった。前の田んぼで米を作りながら店もやるというスタイルかもしれない。

室生寺3-13

 大野寺はすでに門が閉まっていた。ここも5時くらいまでだろう。
 大野寺は、室生寺の守りを固めるための寺の一つで、役行者が室生寺と同時に開創し、空海が堂宇を建てたという話が伝わっている。ただ、これも室生寺の伝承と同じで、実際にそうだったのかどうかは分からない。ただ、興福寺との関係が深く、室生寺の末寺だったことは間違いない。
 明治33年(1900年)火事になって、ほとんどの伽藍は失われてしまった。
 重文の身代わり地蔵(木造弥勒菩薩立像で秘仏)や、裏手の弥勒磨崖仏(自然石に刻まれた仏の姿に見える)、シダレザクラなどが有名だ。

室生寺3-14

 予定通り、最後は19時4分発の電車に乗って、帰路についた。お疲れ様でした。
 タイトなスケジュールをほぼ完璧にこなしたというのは、大きな収穫だった。こういう旅もやろうと思えばできるということが分かった。でも、同じコースをもう一度回ってみろと言われたらきっぱり御免被る。今回は分からなかったからできただけで、分かっていたらできていない。無知ゆえにできることもある。
 写真とネタの収穫はたくさんあって、そういう意味では非常に充実した赤目行きとなった。歴史の知識という部分でも大いに得るものがあった。
 断続的ながら長らく続いた赤目行きシリーズもこれで終わりとなる。また明日からは地元ネタや小ネタに戻ろう。まずは大須について書きたいと思っている。写真の枚数が多いから、何回かのシリーズになりそうだ。
 来週はまた電車の旅だ。滋賀と岐阜の歴史巡りは、どんなものになるだろう。関ヶ原あたりではまた歩くことになりそうだ。楽しみでもあり、ちょっと恐ろしいような気もしている。

これが見たいがためにここまでやって来た室生寺五重塔 ~室生寺第二回

奈良(Nara)
室生寺2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 仁王門をくぐって少し歩くと、左手に自然石を積み上げて作られた美しい石段が現れる。これを鎧坂(よろいざか)という。いよいよ700段の階段の始まりだ。
 本来ゆっくり撮るべきところを、やや急ぎ足でいく。のんびりしている時間的は余裕がなかった。
 5月には石段の両脇をシャクナゲが彩る。秋は赤、夏は緑で、冬は白。枯れた山寺にも四季折々の色がある。
 土門拳は雪の室生寺に執念を燃やした。
 このときは耳鳴りがするほどの蝉時雨が、頭の上から降りそそいでいた。

室生寺2-2

 鎧坂を登った先にあるのが金堂(こんどう)だ。金堂と聞くと、こんどーです、とついモノマネしたくなるのは30代以上のサガ。
 金堂というのは、いわゆる本堂の昔の呼び方だ。奈良時代から平安初期に建てられた寺院はこう呼んでいた。のちに本堂と名前を変えたり、そもそもこの時代の建物が残っていることが少ないので、金堂自体見かけることはあまり多くない。東大寺とか法隆寺とか唐招提寺とか、有名どころに残っていて、金という字が使われてるから、なにやら高尚なものに感じてしまいがちだ。
 室生寺の場合は特殊な例で、もともとの本堂であった金堂の他にもう一つの本堂がある。そのあたりのいきさつは、本堂のところであらためて書くことにして、まずは金堂の話をしたい。
 室生寺というのはいろいろ変わったところがあるというか、分からないことが多い。どういうわけか、本尊を祀るための金堂よりも先に五重塔が建てられている。五重塔は800年前後に建てられたことが分かっている。実質的な開基となった修円がこの世を去ったのが835年で、このときはまだ五重塔しか建っていなかったらしい。
 金堂が建ったのは修円の没後となると、850年前後だろうか。本堂が建てられたのは更にのちの鎌倉時代になってからで、室生寺が現在のような姿になるまでには相当な年数を要したようだ。
 ここは京の都からも平城京からも遠く離れていたことも幸いした。僧兵を持たなかったので戦に巻き込まれることもなく、大きな火事も出さなかったから、静かにゆっくりと歳月を重ねることができた。

 金堂は山の斜面を利用して建てられているために、懸造(かけづくり)になっている。長谷寺本堂や清水寺のような規模ではないものの、このスタイルは日本人の心に訴えるものがあるように思う。カッコいい建物だと思う。崖の途中に無理矢理建てている民家を見ると、土砂崩れは大丈夫かと心配になるけど。
 古い建物の屋根は、やはり柿葺(こけらぶき)がよく似合う。
 木材は杉が多く使われているようで、これは鎌倉末期の大修理でそうなったのかもしれない。正堂部分は平安時代前期のもので、礼堂(らいどう)は1672年に増設されたことが分かっている。最初は本尊を安置する正堂だけだったものに礼拝するための礼堂を付け足すことになって、そのとき懸造になったようだ。
 建物自体も当然の国宝指定で、堂内にも国宝、重文が並ぶ。
 本尊は釈迦如来立像で、これも国宝。もう一つの国宝が十一面観音立像で、あとは重文の文殊菩薩立像、薬師如来立像、地蔵菩薩立像が横一列に並び、手前には十二神将立像が立つ。
 これはもう圧巻としか言えない。写真撮影は禁止だからお見せできないのが残念だ。ただ、撮ったとしても実物の迫力は伝えきれない。
 以前は金堂の中まで入って近くから見られたらしい。今は舞台のところから離れて見るしかない。それがちょっと残念ではあった。

室生寺2-3

 金堂の左手にあるのが弥勒堂。名前の通り、本尊の弥勒菩薩立像を安置してある堂だ。鎌倉時代の建築で、当初の姿とはだいぶ変わっているらしい。
 本尊も建物も重文なのに、ここに客仏で国宝の釈迦如来坐像がいる。客仏というのは、廃寺になった寺などから移ってきた仏像のことだけど、これはどこから来たものなんだろう。平安前期に彫られたものという以外、どこのものだったのかは分かっていないのだという。
 ここも中は撮影禁止になっている。でも、ぼおっと暗がりの中に浮かび上がっている仏像が写っていて、これが釈迦如来坐像ではないかと思う。
 公開していない仏像や美術品なども多数所有していて、その中にも国宝や重文がたくさんある。特に平安時代初期のものは貴重だ。

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 室生寺にも神仏習合の一面がある。金堂の右手、弥勒堂の向かいに天神社がある。上の写真は拝殿で、天神社は階段を登った奥だ。
 屋根は苔むしているというより、何か植物を栽培しているみたいでちょっと笑えた。
 室生龍穴神社との関係性を示していると言えるだろう。龍穴神社の方が古い式内社で、それに呼応する形で室生寺が建てられたという説は正しいんじゃないか。

室生寺2-5

 足下を見ると、石に仏像が彫られている。ミニ神棚みたいなものもちゃんと設置されているから、これも大事なものなのだろう。仏はちょっとコミカルな感じだ。下半身がロボットみたい。
 軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)という明王像で、4つの顔と4本の手を持ち、あらゆる敵から人間を守る守護神だそうだ。

室生寺2-6

 残念なことに、本堂(灌頂堂)は大がかりな工事中で、全体がシートに覆われていた。鎌倉時代後期の1308年に建てられたもので、これも国宝指定になっている。横に回っても、裏に回っても、見えず、大工さんたちがトンカントンカン、作業をしている音だけが聞こえていた。
 灌頂(かんじょう)という密教の大切な儀式を行うために建てられた堂で、室生寺が真言宗に変わったことから、寺の中心はそれまでの金堂からこちらに移り、本堂となった。
 灌頂というのは、頭に水を灌いで正統な継承者とする儀式で、結縁灌頂、受明灌頂、伝法灌頂などがある。
 もともとこの場所には、創建時に本尊を祀るための堂があったとされている。それは五重塔よりも古いものだったかもしれない。
 本堂の建物は和様、大仏様、禅宗様が混じった独特の形式をしているそうだ。見てないので何とも言えない。屋根は入母屋造で、檜皮葺(ひわだぶき)らしい。檜皮葺は材料が貴重でもあるし、お金もかかることから格式の高いものとされ、昔は貴族の家などで使われたという。今はよほど重要な建物でしか使われていない。京都御所の紫宸殿、出雲大社、厳島神社、善光寺、清水寺、北野天満宮などだ。

室生寺2-7

 入り口だけ小さく開いていて、参拝はできるようになっていた。上からはトンカンうるさく音が響いていて、仏様もうるさいなぁと思っていたかもしれない。どの程度の修理をしているのだろう。
 如意輪観音坐像(重文)と、その手前左右には金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅が向かい合わせになっている。
 如意輪観音坐像は日本三大如意輪観音とされているそうで、秘仏となっていて見ることはできない。

室生寺2-8

 室生寺一番の見所といえば、やはりなんといってもこの五重塔だ。私が室生寺へ行きたいと思ったのは、この五重塔の存在を知ったからだった。
 階段の下から見上げる構図は定番となっていて、その場に自分が立ってみると、なるほどここしかないなと思う。ちょうど西日を受けて、美しく光っていた。いや、素晴らしい。

室生寺2-9

 近くから見ると小さくほっそりしている。しかし、これは本物だと感じ入る。屋外にあるものでは最も小さな五重塔らしいけど(重文以上の中で)、大きさは問題じゃない。モノが違う。圧倒的な存在感だ。
 法隆寺の五重塔に次いで日本で2番目に古い800年頃のもので、文句なしの国宝だ。
 小さいとはいっても、16メートルある。ビルでいえば5階建てくらいだから、言われるほど小さくは感じない。

室生寺2-10

 この五重塔は、1998年(平成10年)9月22日に、台風の強風で倒れた杉の大木が屋根を直撃して大打撃を受けた。上の写真でいうと、手前左側の軒が上から下までざっくり削り取られてしまった。そのときの写真を見ると、マンガのようにばっくり割れていて、おおおぉぉぉ、と思わず声が出るほどだ。よくぞあの状態から直せたものだと感心する。
 不幸中の幸いだったのは、芯をはずれたことと、五重塔の造りがやわだったことだった。がっしりとした造りだったら、ポッキリ折れていたかもしれない。 
 修理工事は相当大がかりなものとなったようだ。一階ずつ切り離していったん持ち上げて、そこに木材を挟んでジャッキアップして修理していったのだという。解体までしなくてよかったのは、塔がコンパクトで軽かったというのがあった。破損部分の木を組み直して、屋根を葺いて、色を塗り直していき、2年がかりで元の姿を取り戻したのだった。
 以前の姿を知っている人は、色が派手になって安っぽくなったと思うらしいけど、本来の鮮やかさが戻っただけと思えばこの方がありがたくもある。昔の写真を見ると確かに渋いは渋い。でも、今の美しさも充分素晴らしいものだ。あれから8年経ったこともあって、だいぶ色が落ち着いてきたというのもあるだろう。
 修理後も国宝指定のままというのもよかった。修理の途中でいろいろ分かったこともあって、それもよかった点だ。800年前後に建てられたであろうという推定も、木の年輪を科学的に調査することで実証された。794年に伐採された木が使われているというから、ちょうど平安遷都の年だ。
 創建から鎌倉、江戸、明治時代にそれぞれ修理が行われたことも分かって、途中で手を加えられて姿を変えられていることも判明した。初期の頃はまだ板葺きだったようで、今の檜皮葺になったのは江戸時代に入ってからだったらしい。桂昌院が寄進して再興したときかもしれない。明治の修理では軒のラインも変えられという。

室生寺2-11

 五重塔近くにあったこれは何だろう。マップにも載ってないから分からない。

室生寺2-12

 五重塔から先は奥の院になる。ここで迷った。時間との兼ね合いもあって、進むべきか、引き返すべきか考えて、結局進んでしまった。この判断がこのあと私を大きく苦しめることになる。
 あまりにも深いダメージを負って3日回復しなかったことから判断ミスとするか、自分の限界を知ることができたことをもって正しい判断だったとするか、なんとも言えないところだ。ここで引き返していたら、このあとの展開はずいぶん楽になっていたことは間違いない。すでにこの時点でアップダウンの道を4時間半歩いていることを忘れてはいけなかった。更にこのあと2時間歩かなければいけないということを思い出せ。今ならそう私にアドバイスしたい。
 急勾配の階段がここから520段続く。この上り下りでヒザが壊れかけた。ガラスのヒザの人は決して室生寺の奥の院まで行ってはならない。

室生寺2-13

 見上げる巨木たち。途中で少し休むためにこんな写真を撮ったりしてみる。
 途中、立ち止まって休んでいたら、上から杖をついたおじいさんが降りてきた。負けていられないと思う。
 奥の院から帰り道の話はまた次回ということにしよう。最後の最後に室生山は私にとびきりの贈りものをくれる。それはこの旅を通じて最も嬉しい出来事だった。
 次回、室生寺第三回は、赤目の旅シリーズの最終回でもある。

土門拳が愛した室生寺に私たちは日本人の心を見るか? ~室生寺第一回

奈良(Nara)
室生寺1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 赤目滝で3時間、長谷寺で1時間歩き、この日の最終目的地である室生寺の手前までやって来た。
 朝の6時半に家を出て、近鉄室生口大野駅に降り立ったのが15時40分。まだ全行程の3分の2を終えたに過ぎなかった。本当に限界を超えるのはこのあとだということに、このときの私はまだ気づいていない。
 駅周辺にはそれなりに民家が集まっていて、ひなびているというふうでもない。街というほどでもないけれど。
 駅近くには小中学校もある。中学の生徒数120人ほどというのはどうなのだろう。1学年20人ずつの2クラスなら、まずまずそれなりなんだろうか。私たちの頃は、1クラス40人以上で最高11組まであったことがあった。そのときはさすがに多くなりすぎて分校ができた。

室生寺1-2

 駅前ではアジサイがまだ枯れずに咲いていてちょっと驚く。赤目とは違って、ここはそれほど山奥というわけではないから、そんなに気候は違わないと思うのだけど。

室生寺1-3

 駅前が無駄なほど広くなっている。バスも車も人もそんなに利用客はいないだろうから、こんなに広くしなくてもよかっただろうにと思う。駅前には店らしい店があるわけでもない。
 室生寺行き最終バスが15時50分。乗客は地元のおばさまと私の二人。運転手さんが心配して、観光客の方ですかと訊いてきた。はい、そうですと答えると、今からだと向こうからの帰りのバスがありませんよと教えてくれた。はい、知ってます。帰りは歩きますので。ああ、なるほどと苦笑する運転手さんであった。
 二人を乗せたバスは、曲がりくねった道を山へ山へと入っていく。5分走っただけで、おいおい、もうすでに駅からだいぶ離れましたよ。10分走ってもまだいっこうに室生寺の気配はない。それどころか民家さえなくなった。これ以上行かないでくれという私の心の叫びが運転手さんに届かなかった。
 15分後、ようやく室生寺の手前にあるバス停に到着した。その距離は想像以上で、とても歩けるような気がしなかった。こんなに来ちゃ駄目でしょうと思ったけど、もう来てしまったからにはしょうがない。7キロくらい歩いて歩けない距離じゃないさと、自分に言い聞かす。
 思えば、室生寺まではまだけっこう元気が残っていた。

室生寺1-4

 室生寺のバス停はずいぶん手前に停まる。もうちょっと先まで行ってくれないのか。寺の入り口まではここから歩いて5分かかる。せめて橋の手前まで行って欲しいぞと思う人は多いだろう。何か理由があるんだろうか。
 遠くにバスが写っている。無情にも私を置いて行ってしまった。けど、なんで室生寺から駅前行きの最終バスが16時台なんだろう。15時50分の室生寺行き最終バスに乗った人は、帰ってこられない。室生寺も17時までは開いてるのだから、バスの最終もそれに合わせて17時すぎくらいにしてくれないと困る。赤目滝も同じように最終バスが早い時間だった。あとから考えると、室生寺を先で赤目滝をあとにして、赤目滝から駅まで歩いた方が近かったことに気づいた。あちらなら1時間ちょっとだっただろう。
 なにはともあれ、室生寺に着いた。ここでも持ち時間は1時間弱と短めだったから、ある程度急いで見て回る必要があった。帰りの歩きを2時間としても、19時4分発の電車に乗るためには、17時には室生寺をあとにしなければいけない。この1時間という時間が私を追い詰め、苦しめることになる。

室生寺1-5

 室生寺前は、長谷寺のような門前町はできていなかった。ここはかなり山の方に入ったところで、街道沿いではないから、昔から訪れる人はさほど多くなかったのだろう。紫式部や清少納言が長谷寺詣でのついでに室生寺にも参拝したという記録は残っていない。直線距離でも20キロ以上離れているから、ついでに寄るような位置関係ではない。今は近鉄の駅で2つだから、ボタンとシャクナゲとセットで訪れる人が多いのだろう。
 室生川沿いには、ちょっとしたみやげ物屋や食堂、宿屋などが並んでいる。昔ながらの観光地風景だ。
 もう少し先に行くと、写真家の土門拳が常宿にしていた橋本屋旅館がある。室生寺を愛した土門拳は幾度となくここを訪れ、長きに渡って室生寺を撮り続けた。
 五木寛之が『百寺巡礼』の一番目に訪れたのも室生寺だった(二番目は長谷寺)。室生寺は、NHKの「21世紀に残したい日本の風景百選」で全国7位、近畿圏では第1位になっている。

室生寺1-6

 室生川に架かる朱色の太鼓橋を渡れば、そこから先はもう室生寺の境内になる。この川と橋とが日常と神域とを隔てる装置の役割もしている。
 土門拳も、何百回となくこの橋を渡ったことだろう。晩年は車椅子になってもここに通ったという。

室生寺1-7

 太鼓橋を渡った正面に、本坊入り口の表門がある。普段は開いていないようだ。右に回ってくださいとある。
 この門も古くて渋い。
 石に彫られた女人高野は、室生寺の代名詞になっている。高野山に代表されるように、密教系の真言宗は厳しく女人禁制だった。ここが女人高野と呼ばれるようになるのは江戸時代に入ってからで、五代将軍吉宗の母である桂昌院によるところが大きい。

 室生寺の成り立ちはよく分かっていないと、長谷寺のときにも書いた。寺伝では天武天皇の発願で役小角(えんのおづぬ)が開基ということになっているというくらい古くてはっきりしていない。弘法大師空海が再興したというのも本当かどうか。
 そもそもこの室生の地には早くから山岳信仰があって、龍神信仰と関係があったとされている。ここから東に1キロほどのところに龍穴神社というのがある。龍神は水を司る神として、雨乞いの儀式が行われていたらしい。そして、その龍穴神社を守護するために作られたのが室生寺ではないかという説がある。明日香に都があった頃だという。
 のちの時代の資料によると、780年頃、皇太子の山部親王(のちの桓武天皇)が病気になり、龍神信仰の室生山へ僧5人を派遣して祈らせたところ見事回復したということで、興福寺の僧だった賢(けんきょう)に命じて室生寺を建てさせたと書かれている。あるいは、賢が独断で創建したとも言われている。
 賢はこのあとすぐにこの世を去っているので、寺の実際の造営は弟子の修円が引き継いだ。そういう経緯からか、修円の廟があるだけで賢景のものは存在しない。
 円修は興福寺の出身で、最澄について天台僧になり、天台座主の後継者争いで円澄に破れて室生寺にやって来た。当時は、最澄、空海と並び称される高僧だったというけど、今では知名度が低くなっている。
 天台宗、真言宗の影響を受けながらも室生寺は長らく興福寺との関係の中で存続していくことになる。しかし、江戸時代になると興福寺の力が衰え、法相宗から独立して真言宗の寺院となった。このとき堂塔修理のために2千両も寄進したのが綱吉の母・桂昌院で、それをきっかけとして室生寺は女性に開放されたのだった(高野山は江戸時代の終わりまで女人禁制が続いた)。
 女人高野室生寺の石碑には桂昌院の実家の家紋が入っている。
 現在は、言宗室生寺派の大本山となっており、山号は宀一山(べんいちさん)という。これは室生の略だそうだ。

室生寺1-8

 室生寺の境内図。山の麓から中腹、山頂にかけて堂が建っているように描かれていて大げさなように思えるけど、実際この通りだったりする。どこへ行くにも階段を登らないといけない。その数700段。この上り下りでヒザがおかしくなった。ヒザ殺しの寺と命名したい。ここは典型的な山岳寺院だということを覚悟して訪れなければならない。
 映り込んでいるのは亡霊ではなく私なので安心してください。帰り際の私の顔は幽霊のように青ざめていたかもしれないけど。

室生寺1-9

 屋根が苔むした赤門。背後の緑といい、とても夏らしい色合いだ。秋になるとここは赤や黄色に染まるらしい。
 木目なのになんで赤門だと思いきや、よく見るとうっすら赤色が残っている。昔は赤色をした文字通り赤門だったようだ。
 表門の脇にある小さな門だから、通用門のようなものだったのかもしれない。もしくは、この裏手にある護摩堂への門だったのか。

室生寺1-10

 ようやく実質的な入り口に当たる仁王門まで辿り着いた。バス停からここまでは5分では来られない。10分くらいかかったんじゃないか。この時点で私の持ち時間は50分を切っていた。
 左手が入山料を払う窓口になっている。ここは600円。少し前まで500円だったはずなのに、いつの間にか値上げしたようだ。本堂の修理をしていたから、それがきっかけになったのだろう。こういうところは言い値だから、言われたとおり払うしかない。

室生寺1-11

 仁王門(楼門)は1965年(昭和40年)に再建されたものということで、古さが醸し出す本物感に欠ける。ほとんど古い建物ばかりの室生寺の中では、この仁王門は例外的な存在だ。
 両脇に立つ赤青の仁王さんも、どこか軽い印象を受けた。これは土門拳も撮りたいと思わなかっただろう。
 室生寺は創建から1300年の間、一度も兵火で焼けておらず、平安初期の山寺の姿を残す唯一の寺といわれている。

室生寺1-12

 逆光の仁王門は、いい感じだった。紅葉の時期、ここに多くの人が訪れるというのも分かる。
 シャクナゲの寺としても有名で、4月の終わりから5月のはじめにかけて5千株の花が境内を彩るという。女人高野だけに、ピンクの上品な花はこの寺によく似合う。

室生寺1-13

 バン字池に映り込んだ仁王門も撮ってみる。ここも紅葉のときはねらい目になりそうだ。
 浮いている水草は、スイレンか。お寺だけにハスもあったかもしれない。
 バン字池というのは、梵字で金剛界大日如来を表しているんだそうだ。

 室生寺の写真を集めてみたら、2回分では収まらなかったから、全3回シリーズとした。最後は赤目行きの総括もして、この旅の締めくくりとしたい。
 この先はいよいよ登りの階段が始まる。一緒に登った気分でご覧ください。

長谷寺には神と仏がいて、神仏グッズ自販機の夢が膨らむ ~長谷寺4回

奈良(Nara)
長谷寺本堂を横から見る




 長谷寺本編の続きで、今回が長谷寺シリーズの最終回となる。昨日は本堂の前まで行ったから、今日はそこから再開しよう。
 大迫力の本堂は、本尊を安置する正堂(しょうどう)と、相の間、礼堂(らいどう)が一体となった巨大なもので、奈良東大寺の大仏殿に次いで日本で2番目に大きな木造建築だそうだ。ただ、実際目にするとそこまで大きいとは思えないのは、背の高さがあまり高くないからかもしれない。東大寺の大仏殿は高さもあって大きく見えるのだろう。
 入母屋造の本瓦茸で、正堂は間口16メートル、奥行き9メートル、礼堂も同じくらいあって、一番外側には9メートル×5.5メートルの舞台がせり出している。
 清水寺のように斜面に建っている建物を懸造(かけづくり)と呼び、舞台があるものは特に舞台造という。懸造はちょこちょこ見かけても、舞台造となるとなかなかない。
 本堂は奈良時代から室町時代にかけて7回焼失して、そのたびに再建されている。歴史が長いとはいえ、これはちょっと多い。
 1588年に豊臣秀長が援助して新しい堂が建てられた。その後、江戸時代に入って傷みが激しくなり、雨漏りとかしてきたために三代将軍家光に頼んで新築した。現在の本堂は9度目の再建(1650年)ということになる。
 家光は、日光東照宮だけでなく、全国のあちこちでたくさんの寺社を修理、再建している。五代将軍綱吉あたりまではどうにか幕府も金があって名前は出てくるものの、八代将軍吉宗になるとそれどこじゃなくなって寺社絡みではほとんど名前が出てこなくなる。神社仏閣を再建するよりも幕府の財政を再建しなくてはいけなくて、それどころじゃなかった。現在、国宝や重文になっている貴重な建築物は、家光のおかげという部分がかなりある。尾張では、二代藩主の光友が同じく寺社の再建に力を入れた。二人は家康の孫という共通点がある。
 2004年に本堂が国宝に指定された。



長谷寺小さな社

 本堂と鐘楼の間に、こそっと小さな神社がある。これは何だろう。調べがつかなかった。
 寺の歴史を見ても、神仏習合の経緯は分からない。この他にも神社系統のものが出てくる。家光が関わって以降、そういうことになっていったのか、それ以前からなのか。



長谷寺三社権現

 ここにも神社がある。三社権現で、徳道上人が創建したものというから、やはりかなり古くから神仏習合の歴史があったようだ。これも1650年に家光が再建している。
 権現(ごんげん)というのは、仏が神の姿をして現れるという本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)に基づくもので、神でありながら仏でもあるという神仏習合の表れだ。
 石蔵権現は地蔵菩薩、滝蔵権現は虚空蔵菩薩、新宮権現は薬師如来と、それぞれ神と仏が対になっている。日光東照宮のところでもそのあたりのことは書いた。



長谷寺朱の鳥居

 稲荷さんの鳥居も見えていた。時間がなくて上までは行かなかったので、詳しいことは分からない。三社権現の隣には愛染堂があったはずで、これはその関係だったかもしれない。
 しかし、寺に鳥居があるとやっぱり一瞬混乱する。日光でだいぶ慣れたとはいえ、あれっと思う。



長谷寺絵馬

 ややまばらな絵馬。ここまで来る人は少ないのか、季節外れだからか。
 絵馬だけを飾ってあるこの建物は、絵馬堂だろうか。
 絵馬は寺より神社のイメージが強いものの、寺で絵馬が不自然というほどではない。
 左には舞台のようなものがある。



長谷寺招き猫自販機

 本堂横の自動販売機に招き猫がいた。
 値段のところを乱暴に白スプレーで塗りつぶしている。売り物ではありませんということを言いたかったのだろう。
 150円とか200円入れたら招き猫が出てくる自販機というものがあったら面白い。おみくじだってもうずいぶん昔から自販機になっているのだし、寺社グッズの自販機というのがあってもいい。お守りでも札でもストラップでも、自販機で売ったら話題になってよく売れそうだ。消しゴムの仏像シリーズガチャガチャなんかいいではないか。ブツ消しはいける。みうらじゅんなら喜んで全種類集めるに違いない。不動明王とか、釈迦如来とかが、地蔵とか、キャラは豊富だ。



本長谷寺の堂

 登廊から右手が本堂などがある東エリアで、五重塔その他は西エリアにある。上の写真の本長谷寺も、西の岡の五重塔近くに建っている。
 686年、道明上人がここに長谷寺の元となる建物を建てて、銅板法華説相図を安置したことが長谷寺の基礎となった。建物はのちの時代の再建にしても、この場所から長谷寺の歴史が始まったと言える。
 銅板法華説相図は国宝指定で、現在は宗宝蔵に保管してあるそうだ。一般公開はされていない。特別公開はあるのだろうか。
 弘法大師御影堂は奥まったところにあったので行けなかった。



長谷寺五重塔

 美しい姿をした五重塔だ。ただ、昭和29年(1954年)に再建されたものなので古さはない。戦争の犠牲者の慰霊と世界平和を祈願して建てられたものだそうだ。
 このすぐ南側に三重塔跡というのがある。道明上人が建てて、豊臣秀頼が再建したとされるもので、明治9年(1876年)に火事で焼けてしまったそうだ。



長谷寺寺院の建物

 西の岡にはいくつかの寺院が集まっている。みんな門が閉まっていたから、一般に向けては門を開いていないのだろうか。
 全部入れるようなら、見学時間が2時間くらいかかってしまいそうなくらい建物は多い。



長谷寺写経堂

 たぶん、写経堂という建物だ。文字通り写経をするところだろうか。このときは門が閉ざされていた。最近は体験写経をする人が増えたから、予約すれば写経ができるのかもしれない。



長谷寺入り口

 30分という短い時間の中、駆け足の長谷寺参拝だったので、すべて見ることはできなかったのは少し心残りだった。特に本堂の舞台を見逃してしまったのは失敗だった。帰ってきてからいろいろなサイトでいろんな角度からの写真を見て、こんなところもあったのだと思うことがたびたびあった。下から本堂を遠景で撮るというのも気づかなかった。
 とはいえ、まずは行けたということを喜びたい。赤目滝と寺二つはちょっと無理があると思いつつ強引に行っておいてよかった。長谷寺と室生寺をセットで行っていなければ見えなかった事実もある。太陽の道のことを知ることができたし、日光とつながる部分もあった。これがまた今後別のところへつながっていくだろうという予感もある。
 奈良はまだまだ奥が深い。法隆寺も飛鳥もぜひ行きたい。それはドラマ「鹿男」を観ているときから思っていたことだ。
 長谷寺編はこれで完結となった。次回からは室生寺編を始めることにした。

 土門拳が愛した室生寺に私たちは日本人の心を見るか? ~室生寺第一回

【アクセス】
 ・近鉄大阪線「長谷寺駅」から徒歩約25分。
 ・駐車場 有料(1回500円)
 ・拝観時間 8時半-17時(季節による変動あり)
 ・入山料 500円

 長谷寺webサイト
 

紫式部も清少納言も訪れた長谷寺はカッコイイ寺だと思う ~長谷寺3回

奈良(Nara)
長谷寺入り口参道




 長谷寺(はせでら)といえば、鎌倉の長谷寺を思い浮かべる人が多いだろうか。関西で長谷寺といえば、奈良桜井にある長谷寺のことだと思うだろう。関東なら長谷寺といえばアジサイだし、関西では長谷寺と聞けばボタンを連想するんじゃないだろうか。
 本家は奈良の長谷寺の方だ。こちらが真言宗豊山派(ぶざんは)の総本山になっている。
 二つの寺の関わりは深く、開基は両方とも徳道上人ということになっている。そこにはこんな伝説がある。
 721年(727年とも)に徳道はクスノキの大木から二体の十一面観音を彫り上げ、一体を奈良長谷寺(他と区別するために大和国長谷寺とされることもある)の本尊とし、もう一体を海に流したのだという。それから15年後、その仏像が三浦半島に流れ着いたので、徳道を呼んで鎌倉に建てた寺が鎌倉の長谷寺なのだとか。
 けどちょっと待て、二体の十一面観音像は、高さ10メートル以上もある日本一大きな木造の仏像だ。そんなものが15年間も海をぷかぷか漂ってるわけがない。とっくに漁師か誰かが見つけてる。一体、誰がこんな伝説を考えたんだ。
 実際のところ、奈良の長谷寺も鎌倉の長谷寺も、いつ誰がどういう経緯で建てたのかよく分かっていないというのが本当のところらしい。どちらも奈良時代ではないかと言われている。
 奈良の場合は、686年に道明が天武天皇の病気平癒を祈願して西の岡に三重塔を建立して銅板法華説相図を安置し、727年に徳道が聖武天皇の勅願によって東の岡に十一面観世音菩薩を祀ったことで寺の体裁が整ったというのが寺伝となっている。
 鎌倉の方は、736年に藤原房前(父は藤原不比等、おじいさんは藤原鎌足)が徳道を招いて建てたということになっているようだ。そのこともあって、当時は新長谷寺と呼ばれていたという。

 長谷寺の長谷は、地名の初瀬(はせ)から来ているのだろうか。古くは泊瀬(はつせ)と表記されたともいう。
 この地は飛鳥時代より以前のヤマト王権の中心地に近いところで、雄略天皇が初瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)を置いた都でもあった。ただ、都の跡地は見つかっておらず、はっきりここだと分かっているわけではないようだ。
 平安時代中期、貴族の間で観音信仰というのが爆発的なブームとなる。長谷寺への参拝も流行し、それは長谷詣でと言われた。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌で有名な藤原道長をはじめ、そうそうたる顔ぶれがこの寺に参拝に訪れている。『更級日記』の菅原孝標女や『蜻蛉日記』の藤原道綱母、『源氏物語』の紫式部や『枕草子』の清少納言など、女性も多く訪れた。
 京の都から長谷寺までは70キロ近い。歩いて片道3日か4日かかったという。一日20キロ歩く計算だ。道のりは平坦ではなく、山も越えないといけない。宮廷暮らしで運動不足の貴族たちがそこまでして参拝したいと思ったのは、それはもう流行としか言いようがないんじゃないか。みんなが行くから自分も行かないと話に乗り遅れるという一心で苦労して行ったのだろう。純粋な信仰心とは違う気がする。
『蜻蛉日記』や『枕草子』にはそのときの様子が書かれている。みんな死にそうな思いをしたようだ。それを思えば近鉄長谷駅からの1.5キロくらいはなんでもない(私はここへ来る前すでに赤目四十八滝を歩き通したあとだったのですでにかなりフラフラ)。

 長谷寺もいろいろと紆余曲折を経ている。一時は東大寺(華厳宗)の末寺となったり、興福寺(法相宗)の末寺となったり、新義真言宗に宗旨替えしたりした。戦国時代になって、秀吉によって根来山を追われた新義真言宗門徒がたくさん入山し、僧正専誉によって真言宗豊山派が確立された。
 今では全国に末寺三千、信徒数は三百万人といわれる大宗派となっている。大本山は東京の護国寺で、大正大学なども持っている。
 15年後の護国寺に彼の歌は響かず、あの日の映像だけが記憶に残った



長谷寺参道から仁王門を見る

 長谷寺の入り口まで辿り着いてやれやれと安心するのはまだ早い。ここからはひたすら登りの階段が続くことになる。本堂は初瀬山の中腹に位置していて、見晴らしがいいことでも有名だ。ということは、そこまで登っていかなくてはいけないことを意味している。紫式部や清少納言がふうふう言いながら歩いて登っていった姿を想像すると、ちょっとおかしい。どんな旅装束や化粧だったのだろう。ここまでやって来た頃には、もうヨレヨレになっていたんじゃないか。それとも宮廷の人間としてどんなときもシャンとしていたんだろうか。
 奥に見えているのが仁王門で、その手前に料金所がある。入山料は500円。
 寺社で参拝者から拝観料を取るようになったのは、日本の歴史上いつからなんだろう。奈良時代あたりからこういうシステムだったのか、それとも江戸時代か、もっとあとなのか。



長谷寺楼門

 なかなか立派な仁王門(楼門)だ。迫力がある。
 一番始めは平安時代に建てられたそうで、それから何度も焼けてはそのたびに再建するというのを繰り返し、現在のものは明治18年(1885年)に再建されたものだという。
 それでも、重要文化財に指定されている。



仁王門の中の仁王像

 両脇には仁王像が構えている。仁王門が燃えたということは昔の仁王像も一緒に燃えたのだろう。これはいつの時代のものだろうか。
 楼上には十六羅漢像が安置されているそうだ。
 わらじを奉納する習慣があるのか、たくさんかかっていた。そういえば、昔の人はこんな草履を履いて歩いてきたのだ。その大変さも加味しないといけない。



仁王門の彫り物

 このあたりの彫り物も細かい。
 感心しつつ先を急ぐ。長谷寺は思っていた以上に手強そうだ。登りが続くし、境内も広い。このあと室生寺に行くため、長谷寺の見学時間は30分しか取れなかった。
 土門拳が愛した室生寺に私たちは日本人の心を見るか?



長谷寺登廊

 これが長谷寺名物「登廊(のぼりろう)」だ。屋根付き階段が399段。長さ108間は、煩悩の数になぞらえている。
 二回折れ曲がっていて、それぞれ下登廊、中登廊、上中登廊と呼ばれている。これも重要文化財に指定されている。
 最初のものは、1039年、春日大社社司の中臣信清が子供の病気が治ったことを感謝して寄進したものだそうだ。
 下登廊と中登廊は古くなったので、1889年(明治22年)に再建されている。
 上から吊り下げられているのは、長谷型燈籠と呼ばれるもので、これも独特の姿をしていて印象に残る。
 長谷寺のもう一つの名物であるボタン(牡丹)はこの登廊の両脇に植えられている。唐の皇妃の馬頭夫人(めずぶにん)が、遠く長谷寺に向かって馬顔が治りますようにとお願いしたところ、一夜にして美人になったというので、そのお礼としてボタンを送ってきたのがボタン園の始まりという伝説があるらしい。そんな無茶な。馬頭夫人の献木という話は本当にしても、一晩寝て馬面が治ったら苦労はしない。元巨人の駒田に実験してもらおう。そういえば、駒田は奈良の桜井商業卒業だから、この近所ではないか。奈良っ子は遠足とかで長谷寺や室生寺へ連れて行かれるというから、駒田もここに来ている可能性が高い。この故事を知らなかったのか。
 4月の下旬から5月の上旬にかけて、150種類7,000株のボタンが咲き誇り、大挙して人が押し寄せるそうだ。同じ時期に室生寺のシャクナゲも咲くから、セットで回る人も多いのだろう。
 桜もきれいで、写真を見ると初瀬山の桜風景は、ミニ吉野山といった風情だ。



長谷寺屋根付き階段

 うちの田舎の丹生大師にも、こういう屋根付きの階段がある。
 屋根付き階段は全国的に見て数が少ない。どういう意図で建てられたもので、何故一般的なスタイルとして定着しなかったのか、そのあたりの事情はよく知らない。いいものだから、他のところももっと真似してよさそうなのに。



長谷寺堂と門

 登廊の途中やその他のところにもちょくちょくいろいろな建物があって、説明板が立っていたりもした。いちいちは寄っていられないので、写真だけ撮っておく。パンフレットを見ても、ひとつひとつに名前が出ているわけではない。普段は門を閉めているところもあるようだ。



長谷寺開山堂

 これは確か、開山堂だったと思う。徳道上人関係の建物だろう。



長谷寺参道階段の終わり

 気がついたら登廊を外れて、左手から登ってしまったようだ。ちょっと失敗した。結局、帰りも上と中の登廊を回ったから、これがタイムロスにつながった。
 下登廊を右に折れて中、上と進み、本堂と右手の建物を見て、帰りは本堂の左から五重塔方面を回って戻るというのが一般的なコース取りだろう。それが無駄がない。
 ここまで来れば本堂はもう目の前だ。汗だくでフラフラにはなっていたのが少し元気になった。



長谷寺本堂前

 本堂の中にある本尊十一面観音は撮影禁止になっている。
 本堂はカッコイイ、十一面観音はすごいで、圧倒された。こりゃまいりましたと言うしかない説得力がある。写真ではお伝えできないのが残念だ。
 写真といえば、長谷寺に関する予習が不充分で、どこからどう撮るのがいいのかが分かっていなかった。定番スポットとして、本堂前の舞台から五重塔や周囲を見渡す風景というのがあったのに、それにまったく気づかなかった。本堂が清水寺のような舞台造りになっていることさえ知っていれば、そのあたりの写真も撮ったのに。



長谷寺上登廊

 こちらが本堂右手の上登廊。

 長谷寺本編の第一回はここまでとして、次回の後編は本堂の全景から再開して、五重塔などの紹介をしたい。

 長谷寺にも神と仏がいて、神仏グッズ自販機の夢が膨らむ ~長谷寺4回

 長谷寺へたどり着くまでの長い雑談と門前町の写真前編 ~長谷寺1回
 平安貴族も江戸時代のお伊勢参りの人たちも歩いた門前町 ~長谷寺2回 

【アクセス】
 ・近鉄大阪線「長谷寺駅」から徒歩約25分。
 ・駐車場 有料(1回500円)
 ・拝観時間 8時半-17時(季節による変動あり)
 ・入山料 500円

 長谷寺webサイト
 

ギリシャ料理もどきを作ってギリシャの歴史を勉強するサンデー

料理(Cooking)
ギリシャもどきサンデー

PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他



 オリンピック期間中だから、それを記念してギリシャ料理もどきを作った。でも、実際は、ギリシャについてちょっと勉強してみようというのが先にあって、そのことについてここで書くためにギリシャ料理をサンデーにしたというのが正しい。だから今日は、ギリシャとギリシャ料理について書きたい。
 
 古代オリンピックは、エーリス地方のオリュンピアで4年に一度行われていた競技大会だ。年代でいうと紀元前9世紀から紀元後4世紀にかけてで、これはちょうど日本の弥生時代と重なる。日本にまだ国家という概念はなく、ようやく稲作を知って質素な家に定住するようになった時代、ギリシャではすでに巨大な神殿を築いて、スポーツの祭典などが行われていたのだ。日本でも石投げ競争や稲の早植え競争くらいはあったかもしれない。
 その後、古代オリンピックは金と権力が支配する腐敗した大会となり、393年の第293回をもって終わりとなる。
 それから1400年以上、オリンピックは開催されないまま歳月が流れた。1859年から1889年にかけてギリシャ国内で開かれたものの、盛り上がることなく自然消滅のようになってしまう。
 しかし、このあとすぐ近代オリンピックが開催されることになるから、ギリシャのオリンピック復活は無駄ではなかった。フランスのクーベルタン男爵によって近代オリンピックは提唱され、第一回大会がギリシャのアテネで開催された。1896年のことだ。前回2004年は、108年ぶり2度目のアテネ開催となった。

 ギリシャといえば、このようにオリンピックであり、古代ギリシャの文明であり、ギリシャ神話といったところが一般的なイメージだろう。けど、私たちはギリシャについて意外と知らないと思わないだろうか。近代ギリシャがどんな歴史を辿ったのかとか、ギリシャ人は何を食べてどんな暮らしをしているのかとか、今のギリシャ人は何を考えて、どこを向いているのかなど、知らないことだらけだ。
 紀元前3000年から5000年もの歴史を持ち、日本にも馴染みのある国なのに、そのわりには知らないことが多すぎる。日本と直接的な関わりが少ないとはいえ、もう少し私たちは近代ギリシャに関して興味を持つべきなんじゃないだろうか。
 紀元前3000年、早くもギリシャに文明が生まれる。クレタ島を中心としたミノア文明と呼ばれるものだ。発掘されたクノッソス宮殿などから当時の様子が分かった。
 紀元前2000年頃、現在のギリシャ人の祖先がやって来て、新しいギリシャに生まれ変わる。アカイア人と呼ばれる人々は独自のミケーネ文明を生み出した。シュリーマンによって発掘されたアガメムノンの黄金の仮面などが有名だ。
 しかし、その後ギリシャは長い苦難の歴史を歩むことになる。マケドニア王国に支配され、古代ローマに征服され、オスマン帝国がそれに取って代わった。
 独立の気運が高まり、独立戦争が始まったのは1800年代に入ってからのことだ。1830年、380年ぶりにギリシャは国としての独立を取り戻すことになる。日本でいうと江戸時代の後期だ。
 それでも国は落ち着かず、希土戦争やバルカン戦争などを繰り返し、第二次大戦ではイタリアとドイツに占領されてしまう。さらには共産主義も絡んでの内戦は続き、1950年代に入ると今度はトルコとの対立が激化する。
 ギリシャがようやく落ち着きを取り戻したのは、ここ30年くらいのことだ。経済的な成長も遂げ、EUにも加盟した。いろいろと問題はあるにしても、ようやく訪れた平和にギリシャ人は安堵していることだろう。
 基本的なデータとしては、国土は日本の3分の1くらい(13万平方キロ)で、人口は1090万人。この中の半分はアテネ周辺に集中している。エーゲ海に浮かぶ島々は国土の20パーセントを占める。
 地中海性気候で、温暖で過ごしやすいという。夏と冬はわりとはっきりしていて、雨は少ない。
 ほとんどがギリシャ人で、一部トルコ人やマケドニア人が住んでいる。95パーセントがギリシャ正教徒でもある。

 ギリシャ人は、自分たちを食通だと自認しているらしい。日本からするとそういうイメージはない。
 朝はあまり食べず、コーヒーだけで済ます人が多いという。その代わり、昼ご飯をしっかり食べる。食べたらシエスタで昼寝の時間になる。このあたりにギリシャ人ののんびりしたところが伺える。
 夕飯は遅く、9時くらいから2時間ほどかけて食べるのが一般的とされる。食べて、飲んで、しゃべって、場合によっては深夜の2時とかまでそんなことをしてるらしい。食通というか、食べるという行為とそれにまつわることが好きなのだろう。酒もワインやビールなどをよく飲む。
 海の近くだから新鮮な魚介類には事欠かない。陸や山の食材もあるから、けっこうバラエティに富んでいる。一つ特徴的なのは、ヨーロッパでは珍しくタコやイカを好んで食べることだ。
 イタリアや南フランスの地中海料理との共通点を持ちつつ独自の料理が発展したのは、ギリシャが被征服地だったことが大きな要因となっている。特にトルコやレバノンなどの影響が強い。
 ギリシャといえば、オリーブオイルだ。消費量は世界一で、生産量も世界三位につけている。何かにつけてオリーブオイルを使う。料理の際に使うだけではなく食材に直接オリーブオイルをかけたりもする。
 ヤギや羊のミルクから作ったフェタチーズも有名だ。これもギリシャ料理には欠かせない。
 トマトの消費量も世界一だそうだ。トマトソースだけでなく、トマトをそのまま食べる機会も多いらしい。オリーブオイルの油に対抗するためにトマトを使っているというのもあるのだろう。
 こんなことを踏まえつつ、そろそろギリシャもどきサンデー料理へと話を移していきたいと思う。ギリシャについての勉強がこの程度でいいとは思ってないけど、久々に学校の世界史を思い出した。ビザンチン帝国とかミケーネ文明とか、こんな単語は久しく思い出すこともなかった。

 料理の写真が上の方になってしまったから、スクロールしないと見えないと思うけど、左手前から紹介していきたい。
 これはギリシャ料理を代表する一品「ムサカ」というものだ。見た目は本式のものとはずいぶん違っているけど、作り方は大きく違ってないはずだ。
 これはやたら面倒なのだけど、すごく美味しかったから、私ももう一度作りたいし、オススメしたい。
 まずジャガイモの皮をむいて、薄くスライスする。それを耐熱容器に入れて、レンジで加熱する。5分くらい。白ワインを振ってもいい。
 取りだしたら、塩、コショウを軽くして、クッキングペーパーを敷いた上に並べる。これが土台となる。
 次にトマトソースまたはミートソースを作る。トマトベースにタマネギ、鶏肉などを使い、コンソメの素、塩、コショウあたりで味付けする。それをジャガイモにたっぷり塗る。
 今度はナスの皮をむいて薄くスライスする。オリーブオイルを塗ってレンジで加熱するか、フライパンで焼く。これをジャガイモの上に重ねて並べる。
 まだこれで半分。刻んだタマネギとひき肉を炒め、塩、コショウで味付けをする。これをナスの上に乗せる。
 まだまだ続く。ホワイトソースを作らないといけない。バター、牛乳、小麦粉を使って鍋で作るか、レンジで作る。塩、コショウで味付けする。こいつを上に塗るように置いていく。
 あとは200度のオーブンで20分から30分焼いて、最後にとろけるチーズを乗せて、余熱でとかせば完成だ。
 面倒だし、やたら時間がかかるのが難点だけど、これはギリシャ人、美味しいものを考えた。ホワイトソースとトマトソースのダブルソースがよく合うのだ。イタリアのラザニアとはまた違う。

 右のコロッケみたいなのは、ケフテダキャと呼ばれる揚げミートボールをアレンジしたものだ。
 通常はひき肉を使うところを、白身魚を使っている。
 白身魚を砕いて、刻んだタマネギ、たっぷりのパン粉、塩、コショウ、コンソメの素を加えて、冷蔵庫で1時間寝かす。
 それを丸めて小麦粉をまぶして、オリーブオイルで揚げ焼きにしたものだ。
 本場のものはけっこうスパイスとハーブを効かせるらしい。お弁当の定番おかずでもあるんだとか。

 左奥は、魚介類のピリ辛トマトソース煮になっている。
 これはギリシャ料理でなんと呼ばれているものなのか知らない。タコとイカとトマトをたくさん食べる人たちだから、この料理は必ずあるはずだ。
 ムサカを作ったときに使ったトマトソースを流用して、それに豆板醤で辛く味付けをして、イカ、タコ、エビを煮込んだ。タバスコを使おうと思ったら持ってなかった。

 その他の代表的な料理としては、炭火焼きした肉の串焼き「スーヴラキ」、揚げたイカにレモンをかけて食べる「カラマラキア」、たらこなどにマッシュポテトやオリーブオイルを混ぜ込んだ「タラモサラタ」、キャベツなどの葉で肉や米などを包んで蒸した「ドルマデス」などがある。基本的には日本人の味覚にも合う料理が多いという。サラダもよく食べるようだけど、ドレッシングがあまり発達していないようで、そのあたりは物足りないという人が多いみたいだ。

 今回、ギリシャ料理もどきを作って、ギリシャについて勉強したことで、これまで近いようで遠かったギリシャという国に少し近づけた気がする。ギリシャ人というと、過去の栄光を忘れられずに哲学者のように難しい顔をした国民といったイメージがあったけど、どうやらそれは間違っていたようだ。苦労を重ねた歴史の中でも独自性を失わなかったのは、天性の楽天的な性格ゆえなんじゃないか。考えてみると、地中海の気候でロシア人のような気質になるはずもない。ギリシャ人は意外にもイタリア人に近いらしい。ヨーロッパにおけるギリシャ人の一般的な位置づけは、素朴で真面目、というものなんだとか。食べることが好きな国民性というのも、今回初めて知った。
 その国を知るには、その国の人が何を食べているかを知るというアプローチ方法もある。イギリス人が面白くなさそうな顔をしているのは、美味しいものを食べてないからだ、なんて言ったらイギリス人は怒るだろうか。フランス料理の趣味性とフランス人の享楽的な部分は共通するものがあるし、人生を楽しもうとするイタリア人が作る料理には食べることを楽しもうというメッセージがある。和食の繊細さは日本人気質そのものだ。
 来週の日曜日は、北京オリンピックの最終日だ。ここはやはり中華だろう。それも北京料理にこだわってみるのもいい。北京料理の特徴とは何かも勉強する必要がある。北京ダックだけは家庭では無理だけど、それ以外で何か作ってみることにしよう。

平安貴族も江戸時代のお伊勢参りの人たちも歩いた門前町 ~長谷寺2回

奈良(Nara)
長谷寺門前の風景とお遍路さん




 長谷寺門前町の続きを。
 前回は雑談が長すぎて、長谷寺の前までも辿り着けなかった。今日は門の前までは行きたい。
 この通りが門前町として発達したのは、関西方面の人たちがお伊勢参りに行くときに歩く道だったからだ。旧の伊勢本街道で、その行き帰りに長谷寺も寄っていったのだろう。だから宿場町の一面も持ち合わせていて、現在も数軒の宿屋が営業を続けている。江戸時代の街道沿いの名残が色濃い。
 上の写真ではお遍路さんが写っている。長谷寺は、西国三十三観音霊場の第八番札所で、お遍路の人も多い。
 この西国三十三箇所は、長谷寺の開基である徳道上人が作ったものとされているから、特に長谷寺は重要な札所になっている。
 岐阜に一つ、残りは近畿2府4県にある。33と数は少ないものの、広い場所に散らばっているから、徒歩で回るのは大変そうだ。全部回ると、現世で犯した罪がすべて打ち消されるとされている。あまり若い内に行ってしまうと、その後また悪いことをしてしまいそうだから、体が元気でそのあと悪いことをしない予定のタイミングを見計らっていくのが良いだろう。
 奈良の興福寺や京都の清水寺も入っている。姫路の円教寺も行ったから、私はこれで4つだ。まだ先は長い。



長谷寺門前陣屋跡

 これは食事処か、ギャラリーのようなものか。陣屋の跡とかそういうところだったかもしれない。
 ちょっと古いネットの情報では、抹茶と食事処として紹介されているけど、看板が少し違ってる。店の内容が変わったんだろうか。もしくは、看板が変わっただけかもしれない。



長谷寺門前造り酒屋

 ここも古そうな造り酒屋だ。販売だけで醸造は別かもしれない。
 大きく看板にも出ているように、紫源氏というのがここの主力商品のようだ。有名なんだろうか。



長谷寺門前旅館

 これは旅館ぽい感じか。井谷屋というところだろうか。だとすれば、老舗の旅館のようだ。
 でも、写真を見ると違う。湯元井谷屋はもっと建物が新しい。こちらは旧館で、新館に移ったということかもしれない。



長谷寺門前格子の日本家屋

 少し傾いた日本家屋もまた味わいがある。



長谷寺門前貸家

 これは貸家なのか。



新聞紙のホーロー看板

 関西圏だから、当然名古屋とは新聞の顔ぶれが違う。奈良新聞や大阪新聞というのは知らなかった。
 名古屋は中日新聞の一強で、読売も朝日も毎日も、ほとんど付け入る隙がない。新聞といえば中日新聞を指し、スポーツといえば中日スポーツのことをいう。



輿喜天満神社入り口石段

 途中にあったちょっとよさげな赤い鳥居に惹かれつつ、ここにも寄らず。
 輿喜天満神社(よきてんまんじんじゃ)のようだ。



長谷寺門前の町並み風景

 うちの田舎の丹生大師の門前通りに似ている。



長谷寺門前2-10

 門に近づくほどに観光地の色合いが濃くなっていく。昔懐かしい昭和の観光地だ。
 歩いていると、あちこちの店から「ようこそお参り~」、「ようこそお参り~」と声をかけられる。少しくすぐったいながらも心地のいいものだ。
 名物は草餅らしく、あちこちで売られていた。
 せっかく声をかけてもらったのだけど、私は先を急がなくてはいけない。1時間で戻って電車に乗らないと、室生寺行きの最終バスに間に合わないのだ。
 このすぐ右手が長谷寺入り口になる。
 長谷寺本編に続く。

 紫式部も清少納言も訪れた長谷寺はカッコイイ寺だと思う ~長谷寺3回

【アクセス】
 ・近鉄大阪線「長谷寺駅」から徒歩約25分。
 ・駐車場 有料(1回500円)
 ・拝観時間 8時半-17時(季節による変動あり)
 ・入山料 500円

 長谷寺webサイト
 

長谷寺へたどり着くまでの長い雑談と門前町の写真前編 ~長谷寺1回

奈良(Nara)
近鉄長谷寺駅前




 近鉄大阪線の長谷寺駅を降りたら、長谷寺までは歩いて行くしかない。バスなどはなく、徒歩約20分と、やや距離がある。ただ、門前町の風景も魅力的で、ここを飛ばしてしまうのはもったいない。写真を撮りつつふらふら歩いていくことにしよう。
 とはいえ、私の場合、長谷寺に割り当てられる時間が1時間しかなかったものだから、あまりのんびもしていられなかった。



長谷寺門前1-2

 突然だけど、近鉄電車というのはもしかすると聖なる線かもしれない。
 結ぶ路線図を見ると、大阪、京都、奈良、伊勢、名古屋と、関西地区の歴史上の重要拠点だったところをことごとく通っていることに気づく。伊勢の神宮の五十鈴川、京の都の京都、難波宮(なにわのみや)の難波、平城宮の奈良、さらには飛鳥や吉野にまで伸びている。名古屋の熱田神宮を通ってないのがちょっと残念なところではあるけど。
 今回紹介する長谷寺、室生寺へ行くときも近鉄だけが頼りとなる。近鉄の路線を決定するとき、歴史的な視点というのがあったのかどうかは分からないけど、何かの力が働いたような気がしないでもない。JRが通ってないところというだけではない、使命感みたいなものを感じる。
 脱線ついでにもう少し雑談をしたい。東照宮のとき書いた「太陽の道」について。
 長谷寺や室生寺は、なんでこんなところにあるんだろうというのが最初の素朴な疑問だった。奈良の平城宮からは南東に20キロも30キロも離れているし、西南の飛鳥からも20キロ以上の距離がある。普通の寺なら日本全国どこにでもあるから都から離れていても不思議でもなんでもないのだけど、ここは歴史的にも重要な寺だ。国宝建築も多い。あえてこの場所にしなければいけなかった必然性がよく分からなかった。
 そんなとき偶然知ったのが、太陽の道の存在だった。北緯34度32分のライン上には、太陽信仰と関係が深い神社仏閣や遺跡が点在しているというのだ。
 北緯34度32分というのは、春分、秋分の日の日の出、日没ラインと重なる。この日は昼と夜の長さが同じで、西からのぼった太陽が東に沈む線上に太陽信仰のための祈祷所を建てたのは、偶然などではないだろう。
 昔の人たちの暇さ加減を侮っちゃいけない。テレビもない、読む本だってそんなにない、スポーツだってしないし、仕事だって忙しくはない。やることといえば太陽と共に起きだして、太陽や星を眺めて夜になったら寝るしかない。もちろん、みんながみんなそうだったわけではないけど、太陽や星の動きを観察して季節の移り変わりを知ることを専門とする人たちがいたに違いない。暦が確立していなかった時代なら尚更、季節の正確な移り変わりを太陽や星の動きで知る必要があった。それは国家的な重大事だ。
 何年も観察を続けていれば、当然春と秋の彼岸にも気づいただろうし、月の満ち欠けの正確さも分かる。そこから太陰暦が生まれたのも自然な流れだった。
 太陽信仰というのは、世界中にあるようでいて意外と少ないと言われている。太陽を女神に見立てるのは日本くらいだという。太陽の化身は天照大神(アマテラスオオミカミ)で、アマテラスは卑弥呼のことだという説がある。これは賛同する人と反論する人がいて、話がややこしくなるから詳しくは書かないけど、アマテラスは卑弥呼を神格化したものだとすると、いろいろなことがすっきり説明できる。
 卑弥呼の墓ではないかといわれる箸墓古墳もこの線上にあり、東は伊勢の神宮から(その東には神島もある)、伊勢斎宮、室生寺、長谷寺、三輪山、箸墓、伊勢久留麻神社、石上神宮などが並んでいる。ついでにいうと、うちの田舎の丹生大師も線上だ。これらの寺社はどこも、太陽信仰の名残の儀式が残っているという。
 ただのこじつけといえばそうなのかもしれないけど、星の動きを読むというのは当時最先端の科学であって、そのとき生きていた人たちが本気で太陽を信仰していたであろうことを思えば、自分たちが発見した彼岸の線上に太陽を拝むための場所を建てようと考えたのは必然以外の何ものでもない。現代の私たちがDr.コパの風水の本を読んで黄色い財布を買うのとは訳が違う。もっと時代が進んで風水という思想が入ってきたときは、それを本気で取り入れて都を作った。それは迷信などではなく、その時代の科学に基づいているわけだから、現代の科学で判断して間違っているとかいう問題ではない。平安時代は陰陽道が国の機関の一つとして存在した。
 長谷寺や室生寺の起源についても、よく分かっていないというのが実際のところのようだ。寺伝によると奈良時代の686年ということになっているけど、もっと古い可能性がある。長谷寺のあたりは古くは隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)と呼ばれ、三輪山あたりは冥界への入り口があると言われた場所だ。三輪山は縄文時代から信仰の対象となっていたとも言われている。
 当時、太陽の道についての認識があったとすれば、伊勢の神宮やその他の寺社ががどういう経緯と意図を持って建てられたかという知識もあっただろうし、それを踏まえて長谷寺なども建てられた可能性が高い。そういうことなら、この場所というのも納得がいく。
 邪馬台国論争は終わりそうにないけど、とりあえず箸墓古墳を発掘調査すればかなり重要な手がかりが出てくるはずだ。宮内庁は何を恐れているというのか。
 北九州にあった邪馬台国(もしくはその原型)が、大和の別の民族に勝って、大和に移ってきて大和朝廷(ヤマト王権)を築いたという説が一番理にかなっていると思うけどどうなんだろう。それで卑弥呼が死んで、箸墓に埋葬されてアマテラスの神話が生み出されて、天皇家につながっているのだとすれば、それもまた筋が通る。この時代のことだから、事実はそんなに複雑怪奇ではなかったはずだ。分かってしまえば、案外単純な話なんじゃないだろうか。
 個人的には卑弥呼が誰であっても、邪馬台国がどこにあったとしても、特に困ることはないのだけど、もう少し国の成り立ちに関してはっきり分かっている方がいいように思う。
 長い雑談はこれにて終了。今日中に長谷寺まではたどり着けそうにない。門前町の途中で終わりになりそうだ。



長谷寺門前の古いタバコ屋さん

 駅から長谷寺への道は、最初案内らしい案内も出ていないので、ちょっと不安だった。駅の正面の階段を下りると、古い家並みが続いている。
 昔ながらのたばこ屋さんも近頃は少なくなった。



長谷の集落

 長谷寺駅は、やはり名前からしても長谷寺へ行く人が乗り降りする駅ということになるのだろう。開けた街中ではなく、どちらかというと山間の集落というのに近い。住宅地という感じでもない。
 この先へ進むと長谷寺の門前町が始まる。
 ちなみに、長谷寺駅に急行は止まらない。



長谷寺門前の古い家屋

 このあたりの家もなかなか古そうだ。
 下りの階段を下りたら左に曲がって、坂道を下っていくと初瀬の交差点に出る。そこまで行けば、もう門前町の風情になってくるから分かる。初瀬川に架かる橋を渡って右へ曲がると、本格的に門前町が始まる。



初瀬川沿いの家並み

 初瀬川沿いの家並みも、雰囲気があっていい感じだった。時間があったら、このあたりの曲がりくねった路地散策をしたかったところだけど、何しろ時間がなかった。駅から長谷寺へも、急げば10分くらいで行くだろうと甘く見ていたら、思いがけず遠かった。特に行きは写真を撮りながらだったこともあって時間を食った。
 駅から歩いて長谷寺を参拝する場合、少なくとも1時間半は必要だ。



長谷寺門前格子の日本家屋

 景観保存にも力を入れているようで、こういう昔の家がたくさん残されていた。こんな古い家並みがあるとはまったく知らなかったから、思いがけない収穫だった。
 長谷寺は平安時代からの人気参拝スポットだったから、門前町の歴史も古い。長谷寺といえばボタンの寺として有名だけど、この門前町を見るためだけでも行く価値がある。



古い米屋さん

 古そうなお米屋さんもあった。
 のれんには三輪そうめんとある。そうか、三輪そうめんって、ここのことだったのかと、初めて知る。名前だけは知っていたけど、どこのものかなんて考えたことがなかった。
 三輪地方がそうめん発祥の地という説があるそうだ。大物主命(オオモノヌシノミコト)の子孫である朝臣狭井久佐の次男穀主が初めて作ったのだとか。
 そうめんとひやむぎの違いを知っているだろうか。細さの違いが一つと、手延べそうめんという言葉があるように、手で伸ばして細くするのがそうめんで、こねて延ばしたものを切ったのがひやむぎとなる。



長谷寺門前小さな社

 途中で小さな神社っぽいものがいくつかあったけど、外から写真を撮っただけで挨拶の代わりとさせてもらった。



長谷寺門前1-10

 古いままの建物と、改装して新しくなったものとが混在している。町並保存地区にまではなっていないようだ。
 それにしてもこの道は車通りが多い。歩道もないし、車が来ると立ち止まってやり過ごさないといけないくらいだ。

 2回目につづく。

 平安貴族も江戸時代のお伊勢参りの人たちも歩いた門前町 ~長谷寺2回 

【アクセス】
 ・近鉄大阪線「長谷寺駅」から徒歩約25分。
 ・駐車場 有料(1回500円)
 ・拝観時間 8時半-17時(季節による変動あり)
 ・入山料 500円

 長谷寺webサイト
 

この路地裏を歩いていると、ふっと小学生のときの感覚が蘇る ~四間道2

名古屋(Nagoya)
四間道2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 四間道後編は、土蔵が並ぶ場所から再開しよう。
 並んでいる白い土蔵は、おそらく川伊藤家のものだと思う。このご時世に用もないのにこんな蔵を持っていられるのはよほどのお金持ちだけだ。今でも実際に蔵として使われているのかどうか。どこか一部でもいいから一般公開してもらえると、また観光客も増えるのだろうけど。
 白壁の土蔵というのは江戸時代に完成された手法で、総塗籠工法(そうぬりごめこうほう)という。漆喰で壁全体を覆ってしまうことによって耐火性がぐんと上がって燃えにくくなった。白壁というのは見た目の美しさもある。白鷺城(はくろじょう)と呼ばれる姫路城はその代表的な例だ。
 四間道も昔はもっと白壁の土蔵がずらりと並んでいたのだろう。残った土蔵は昭和62年に県の文化財に指定された。

四間道2-2

 地面にはタイル風の案内標識が描かれている。案内としては、観光ルートと四間道の文字と矢印のみで、あまり親切とは言えない。保存地区にはしているけど観光地として位置づけられてはいないから、案内などもほとんどない。マップや説明板のようなものもほとんどなかった。あったのは、屋根神様のところと五条橋のところくらいで。
 名古屋の観光巡回バス「メーグル」も、ここには止まらない。

四間道2-3

 四間道から更に一本中に入ると、そこは区画整理されてない入り組んだ路地の町になる。こちらは江戸ではなく昭和の風情が色濃く残る。
 町並保存地区はこちらまで含まれているのかどうかは分からない。こちらはこちらでいい感じだ。

四間道2-4

 すごく昭和を思わせる路地を見つけて、ちょっと嬉しくなる。一瞬、自分が子供の時代に戻ったかのような錯覚に陥った。こういう風景は、私が小学生のときに見たものだ。懐かしいというか、瞬間的に感覚がタイムトリップする。

四間道2-5

 あ、屋根神様発見。屋根の角に乗っているのがそうだ。四間道を紹介する写真ではここがよく出てくる。四間道を代表する風景の一つと言っていい。
 この屋根神様は特別立派なもので、屋根も銅板ぶきの唐破風様式をしている。

四間道2-6

 屋根神様(やねがみさま)というのは、名古屋地方特有の風習で、自分のうちの屋根に神様を呼んでしまったミニ神社のようなものだ。
 昔から那古野には津島神社の天王信仰があって、疫病除けのため屋根に神様を呼んだのが始まりと言われている。続いて火ぶせのために秋葉神社の秋葉さまを呼び、明治になると日清日露戦争に出兵する兵士の無事を祈るために熱田神宮の神様に来てもらうようになった。さらに伊勢神宮や国府宮を祀るところもでてきて、このあたり一帯の民家は屋根神様だらけだったのだとか。
 戦後は家の建て替えもあってどんどん姿を消し、現在は那古野界隈で5、6にまで減ってしまったようだ。
 それでも毎月1日の月次祭(つきなみさい)や、15日の大祭のときは、普段扉を閉めているところも開けて、祭礼を執り行っているそうだ。

四間道2-7

 路地の突き当たりに子守地蔵尊が祀られている。
 1858年、このすぐ近くに井戸を掘ったところ、土の中から30センチほどのお地蔵さんが出てきた。裏を見てみると、1710年と刻まれている。どうやら庄内川が氾濫したとき上流から流されてきて、ここに埋まっていたようだ。明治28年(1895年)に、今の場所にお堂を建てて、地蔵さんを祀るようになった。
 隣は現在、「江戸うさぎ」という着物屋さんになっている。かつては芸者の置屋だったそうだ。円頓寺が華やかだった頃は、このあたりの路地は芸者さんが行き来する華やいだ場所だったのだろう。今はもう、そんな面影もほとんど残っていない。

四間道2-8

 この黒塗りは新しそうだ。それとも、案外古いものなんだろうか。
 一通り見終わって、そろそろ岐路につく。帰りは桜通から桜橋を渡って帰ることにする。

四間道2-9

 隠しきれない生活感。団地やアパートからは感じられない暮らしの温もりがある。

四間道2-10

 古さからしても造りからしても、明治か大正時代あたりの家じゃないだろうか。うちの田舎もこんな感じに近い。
 この家にも屋根神様が乗っかっている。扉が閉じていると見落としやすい。

四間道2-11

 那古野地区は下町とは少し違うのだけど、風情としてはまさにそんな感じだ。家の前のごちゃごちゃしたところとか、洗濯物の様子とか、安心感と油断がない交ぜになっている。

四間道2-12

 路地の制覇度としては、70パーセントくらいだったろうか。もっと丹念に巡れば、もっと面白い風景に出会えたかもしれない。
 この日は休日の午後ということで住民の姿もあまり見られなかった。生活感というのを重視して撮りたければ、平日の夕方なんかがよさそうだ。

四間道2-13

 桜通を駅に向かって歩いていたら、白山神社があったので、ちょっと寄っていく。
 全国に2,000以上あるという白山神社の総本社は、石川県白山市の白山比神社(しらやまひめじんじゃ)だ。そこから勧請したのが始まりで、創建年ははっきりしていないようだ。創建時は白山権現と称していたらしい。
 現在、桜通を超えた南側にある泥江縣神社(ひじえあがたじんじゃ)とはかつて地続きで、その末社だったとも言われている。泥江縣神社は広井八幡宮ともいい、創建は平安時代の876年だから、白山権現もかなり古いということになる。
 江戸時代に一度、慶長の検知で境内が二分され、広井八幡宮から白山権現まで神輿の渡御の神事があったと伝えられている。
 昭和12年に桜通が開通して、境内は大幅に縮小し、昭和39年にこの場所におさまり、現在に至っている。
 祭神は、他の白山神社と同じく、菊理媛神(くくりひめのかみ)だ。白山比神(しらやまひめのかみ)と同一神とされるこの神様のことはよく分かっていない。日本書紀にちらっと出てくるだけで、どんな神様がまるで書かれていないのに、白山信仰の神として全国2,000の神社で祀られている。
 イザナミを追いかけて黄泉の国まで行ったイザナギだったけど、イザナミの変わり果てた姿を見て驚き逃げ出し、追いつかれて言い争いになったところで菊理媛神が登場する。何か言うとイザナギはいいこと言うねと誉めて、地上に戻っていったという。菊理媛神が何を言ったのかは書かれていない。
 なんだかよく分からないけど、イザナギとイザナミを仲直りさせたということで、縁結びの神様ということになっている。それがどうして山岳信仰である白山神社の神様になったのかは謎だ。

 まだ写真はあるけど、前後編でだいたい主だったところを紹介できたので、四間道についてはこれくらいにしておく。書きたいことも書いた。
 今後の四間道がどのように変貌していくのか、ちょっと楽しみだ。何年かして再訪してみると大きく変わっているかもしれない。そのときはまた違った発見もありそうだ。
 このロケーションにこの町並がという驚きがある。機会があればぜひ一度訪ねてみてください。円頓寺商店街ともどもおすすめの散策スポットです。

江戸時代の四間道の頃から名古屋人は広い道路が好きだった ~四間道1

名古屋(Nagoya)
四間道1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 名古屋には4つの町並保存地区がある。この前紹介した中小田井、東海道の宿として有名な有松、かつての武家屋敷だった白壁・主税・橦木界隈、そしてもう一つが今日紹介する四間道(しけみち)だ。有松と白壁もHPの散策ページに写真を載せているのだけど、ブログには書いてないからそのうち再訪して写真を撮ってこようと思っている。今日はまず四間道について書こう。
 円頓寺商店街と四間道は、どちらも那古野1丁目にある。町並保存地区は、円頓寺商店街の南側、堀川の西側あたりになる。
 円頓寺商店街から先に行くなら、鶴舞線の丸の内で降りて、8番出口を出たら最初の角を左折して7分ほど歩くと五条橋に出る。上の写真がそうだ。橋を渡ってすぐ先に円頓寺商店のアーケード入り口がある。
 四間道から行くなら、桜通線の国際センターで降りた方が近い。ここから10分弱くらいだ。名古屋駅から歩いても20分ちょっとだろう。
 那古野は、町の名前としては「なごの」と読ませる。ちょっとややこしいのは、この文字で「なごや」と読ませるところもあることだ。那古野神社は「なごや」だし、信長が生まれたとされる那古野城も「なごやじょう」だ。もともとはこの地を治めていた那古野氏に由来している。
 更に話をややこしくしているのが、那古野1丁目と那古野1丁目が隣り合わせに2つあることだ。どういうことかというと、南は中区の那古野1丁目で、北は西区の那古野1丁目となっている。でも、番地は続き番号になっていて、南へ行くほど数字が大きくなる。郵便配達の間違いはなさそうだ。しかし、なんでこんなことになってしまったのだろう。
 町並保存地区は、北側の西区の那古野1丁目の方だ。南も一部古い町並みが残ってはいるのだけど。

四間道1-2

 今回私が歩いたコースは、五条橋を渡って堀川沿いの四間道を南下して、中橋を見て、そこを西へ入って浅間神社に参拝したあと北上して円頓寺商店街を歩き、細い路地を右へ左へ行ったり来たりしながら南へ下って、最後は桜通に出るというものだった。写真の並べ方は、だいたい歩いた順番になっている。
 場所柄、古い家の屋根の上からは名駅のタワー群がひょこひょこ頭を出している。これはこれで面白い光景だけど、この10年で四間道の風景もずいぶん変わったことになる。10年前はまだ超高層ビルは1本も建っていなかった。

四間道1-3

 昨日も書いたように、このあたりは清洲越によって作られた町並で、自然発生的にできた町ではない。堀川もまた、熱田と名古屋城を結ぶ人工的な川だ。当時、たくさんの物資を運ぶのは、陸路よりも水路の方が便利だった。だから川沿いに町を作るのは理にかなったことだったのだ。
 商家の表は、物資の出入りが便利なように堀川の方を向いていて、土蔵を家の裏手に並べた。現在もその名残が色濃く残っている。 
 このあたりが四間道と呼ばれるようになるのは、1700年に元禄の大火と呼ばれる火事があって以降のことだ。円頓寺付近から火が出て、あたり一帯1600軒以上の町屋と15の寺社がことごとく燃えてしまった。
 このとき尾張藩4代藩主の徳川吉通は防火方法を研究させて、問屋の裏手の道幅を4間(約7メートル)に広げた。四間道の呼び名はここから来ている。これは延焼を防ぐためで、同時に道の東側の建物をすべて土蔵造りにさせている。工事は40年にも渡ったという。
 なので、四間道という名前の町や道があるわけではない。このあたりの通称のようなものだ。

四間道1-4

 どの家が本当に古い家で、どれが町並保存に合わせて改築されたものなのか、今ひとつ区別がつかない。ぴかぴかに黒い格子などもあって、近づいて見てみると、これはけっこう新しいんじゃないかと思わせるところもある。
 町屋造りの特徴としては、低い二階建てというのがある。上の写真などがそうで、現代の二階建て家屋と比べると二階部分の背が低いのが分かると思う。
 一階、二階ともに格子がはめられ、壁は基本的に黒く塗られている。土蔵は白壁だ。

四間道1-5

 中橋から見る堀川と、向こうに見えている橋は、桜通に架かる桜橋だ。
 中橋も古い橋で、現在のものは大正7年に架けられたものだ。
 堀川にはかつて七つの橋が架かっていて、それを堀川七橋と呼んでいる。上流から、五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋と並び、熱田へ至る。今は道路がたくさんできたからその数だけ橋も増えたけど、昔は名古屋城から熱田まで7つしか橋がなかった。それだけ橋を架ける工事が大変だったということもであるだろう。

四間道1-6

 ここ最近の四間道は少し流れが変わってきている。一種の流行ものとも言えるのだけど、古民家をそのまま利用したカフェやレストランがいくつかできた。cafe de SaRaやNagono Salonは平成15年に名古屋市都市景観賞を受賞している。
 これによって若いカップルや奥様たちが集まるようになってきて、少しずつ賑わいを見せ始めているようだ。住人にとってはあまり歓迎したくないこともかもしれないけど、もう少し知名度が上がってもいいと思う。名古屋駅から歩いてこられる場所だから、県外からの観光客が訪れてみたいというくらい魅力的なところになる可能性がある。黒壁の町として町おこしに成功した滋賀県長浜を見習いたい。あんなに人が訪れると邪魔くさいにしても、名古屋人がもっと訪れる町になってもいいんじゃないか。

四間道1-7

 その町を訪れたなら、地元の神社へ行って挨拶をしていけというのが散策の鉄則(?)だ。地域の神様と顔つなぎをしておくのは決して損にはならない。こういう縁を大事にしておくと、いつかどこかで思いがけない御利益があるものだ。
 那古野の神様は、浅間神社(せんげんじんじゃ)だ。創建は1647年とされている。
 祭神は、木花之開耶姫(コノハナサクヤヒメ)だ。どういうわけか、ここに富士山の神様が祀られている。誰が建てたのかなど、詳しいことは分からない。もともとは別の場所にあった神社で、1647年というのはこの地に移ってきた年だという話もある。
 木花之開耶姫と浅間神社については、河口湖へ行ったときに書いたので、ここでは繰り返さない。

四間道1-8

 境内は間口が狭く、奥行きがある。なかなかきれいに手入れされていて、気持ちがいい。
 樹齢300年以上の欅(ケヤキ)や楠(クスノキ)などがあって、保存樹に指定されている。

四間道1-9

 浅間神社の北方向は、左手に町屋、右手に土蔵が並ぶ。この道が四間に広げた道ということになると思う。
 この並びに清州越十人衆の一人、伊藤家の町屋と蔵が並んでいるはずなのだけど、どれがそうなのかはよく分からなかった。たぶん一番立派なところがそうだったのだろう。上の写真がそうなのかもしれない。
 江戸時代の尾張では、清洲越をした家というのが一つのステータスだった。江戸に三代住んでこそ本物の江戸っ子と言えるというのと同じで、それくらい古くから尾張名古屋に暮らしているということを意味するからだ。
 伊藤家というのは、尾張藩御用達の米穀問屋で、名字帯刀を許された名家だった。このあたりは伊藤姓が多く、松坂屋を興した伊藤家と区別するために川伊藤と呼ばれたそうだ。
 名古屋も第二次大戦末期に空襲でずいぶんやられている。名古屋城もそうだし、市内の多くは焼け野原になった。ただ、東京ほどではなかったので、ところどころ焼け残ったところもあり、四間道も焼けなかった場所の一つだ。なので、こういう町屋や土蔵が今に残っている。

四間道1-10

 食べ物屋さんではなさそうだけど、着物屋さんか服屋さんか、そんな店もある。

四間道1-11

 四間道を訪れた人がほとんど撮ってしまう家。植木や花がセンス良く飾り付けられていて、目をひく。風景の彩りとしてありがたい存在だ。

四間道1-12

 これはレストランじゃないかと思う。昼食か休憩を終えたらしい料理人が外から戻って中に入っていった。
 休憩なしの私にとっては必要のないところだけど、普通の人にはあるとなしでは大違い。散策の途中で一休みしたりランチを食べたりできる店があるというのは大事なことだ。

四間道1-13

 四間道ガラス館なる店もあった。こういうのを見ても、四間道は確実に変わっていっていることを実感する。古い町並みだけど、ただ守っていくというだけでは古びてしまうばかりだ。外から人が訪れない町はゆっくり朽ちていく。人の住まない家がすぐに駄目になるのと同じだ。
 名古屋市もただ保存するというだけではなく、もう少し人を呼ぶための宣伝などをしてもいい。名古屋人でも名駅近くにこんな古い町並みが残ってるのを知らない人が多いはずだ。この町にはもっと可能性を感じるから、いかさないのはもったいない。

 明日はこの続きで四間道後編になる。まだ屋根神様も登場していない。次回はそのあたりを中心に紹介していきたい。

円頓寺七夕まつりは張りぼてキャラ祭りで著作権なんてなんのその

名古屋(Nagoya)
円頓寺商店街2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 円頓寺七夕まつり名物の張りぼては、本町のアーケードに集中している。たくさんありすぎて全部は撮れなかったのだけど、目についたものをいくつか紹介しようと思う。
 その前に張りぼての語源が気になったので、ちょっとお勉強。張りぼての「ぼて」って何だろう?
 調べてみると、「ザルやカゴに紙を張って漆しなどを塗ったもの」らしい。そこから転じて、竹や木などで組んだ枠に紙を貼りつけたもの全般を張りぼてというようになったようだ。張り子も同じ意味で使われている。更にいえば、粘土などで作ったものに紙を貼り付けても同じく張りぼてになる。
 室町時代に中国から伝わってきた手法で、始めは郷土玩具などとして作られていたのが、芝居の小道具などに広がりを見せ、提灯などにも変化していった。
 だるまなども張りぼてといえば張りぼてだし、張り子といえばことわざにもなっている張り子の虎が有名だ。首がカクンカクン揺れる虎の人形で、現代では端午の節句のお祝いに送られることが多い。ことわざの意味としては、威張っているわりには見かけ倒しの人のことをいう。
 古舘伊知郎がF1の実況をしてる頃、首がカクカクなる片山右京のことを張り子の虎走法と言っていたのを思い出した。
 会津の郷土玩具「起き上がり小法師(おきあがりこぼし)」も張り子の一種だし、ねぶた祭りの山車燈籠もそうだ。
 張りぼての勉強終わり。

円頓寺商店街2-2

 ここは中国かってほど、著作権などどこ吹く風で、見慣れたキャラクターの張りぼてがたくさんぶら下がっている。ただ自分たちで作って飾ってあるだけで、これで商売しようとかしてるわけじゃないから、きっと大丈夫なんだろう。この七夕祭りも昔からやってるわけだし、張りぼても去年今年に始まったものじゃない。
 商店街の人たちや子供会のみんながそれぞれに作って飾っているのだそうだ。竹で骨組みを作って、そこに紙や布を張って色を塗っている。けっこう上手にできていて、なかなか侮れない。みなさん、一つ作るのに3週間ほどかけているんだとか。今年は全部で100体ほどあったそうだ。
 それにしても、アーケード内は活況を呈していた。普段の円頓寺商店街しか知らない人がこの光景を見たら、かなり驚くんじゃないか。

円頓寺商店街2-3

 くまのプーさんと、右は何だろう。私の知らないキャラクターだ。
 プーさんはなかなかよくできている。

円頓寺商店街2-4

 こちらは張りぼてじゃないけど、完全にディズニーキャラクターだ。大丈夫なんだろうか。ちょっと心配になる。
 たとえば、お店の看板にディズニーのキャラクターの絵を描くことはアウトなのかセーフなのか。
 こういう短期間のお祭りだから、多少問題があっても大目に見ようよというのは日本的ではある。堅苦しいことは抜きにして、みんなで楽しもうというのでいい。
 ディズニーを本気で怒らせたら勝ち目はない。小学校が卒業記念としてプールの底にミッキーとミニーの絵を描いたら、それを塗りつぶさせた会社だ。対抗するなら中国式でいくしかない。中国はミッキーマウスそっくりのキャラクターを、耳の大きな猫だと言い張った。
 右手に見えているのはスポーツ用品店で、店先に商品がてんこ盛りになっている。ここも地元のちょっとした名物店となっている。

円頓寺商店街2-5

 名古屋ではお馴染み、中日ドラゴンズのマスコットキャラクター「ドアラ」がくるくるバク転している。機械仕掛けでボールのカプセルが開いたり閉じたり、ドアラが回ったりするのだ。「フルーツショップマルゼン」中村さん制作だそうだ。

円頓寺商店街2-6

 流行ものにも敏感で、その年人気が出た人やキャラなども見逃さない。若干遅れ気味な気もするけど、エド・はるみもいた。24時間マラソンを走るということで今が旬とも言えるか。
 ちゃんと指のグ~も再現されている。芸が細かい。

円頓寺商店街2-7

 シャッターは降りているけど、古い店の看板が残っていた。パイロットの字体が古めかしい。
 三菱鉛筆も懐かしい。トンボ鉛筆もよく使った。最近は鉛筆とか鉛筆削りから遠ざかっている。自動鉛筆削り器は楽しくてついつい削りすぎてしまったものだ。
 ドージ算盤ってのは知らない。ひょっとすると私の持っていた算盤もドージ算盤だったのだろうか。
 このアーケード内に、シャチハタの本社分室ある。今は移ってしまったけど、1999年までここにシャチハタの本社があった。
 旗の中に鯱がいるからシャチハタ。今や世界的な企業となったシャチハタも、円頓寺の商店街でスタンプを売るところから始まったのだ。
 そのスタンプが売れなくなることを承知で、スタンプいらずのシャチハタハンコを売り出して、これが大ヒットになった。あれの正式名はXスタンパーというそうだ。さっき初めて知った。
 認め印でいいときは、シャチハタでもいいですよ、みたいな使い方をみんなしてるんじゃないだろうか。

円頓寺商店街2-8

 多賀宮の前と参道がゴミ置き場になっていてずっこけた。おいおい、ここはちょっとまずいだろう。他にどこか場所はなかったのか。これじゃあ神様怒ってくるぞ。
 伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)を祀っていて、縁結びと延命に御利益があるとされている。秀吉が母の病気平癒を祈願したという記録も残ってるそうだ。
 滋賀県の多賀大社の分社らしく、創建は不明とのことだ。
 境内には「おもかる石」というのがある。持ち上げて重さを覚えておいて、願い事をする。願いが叶うなら重くなってくださいとお願いをして、もう一度持ち上げる。それで重たいように感じたら願いが叶うということで、軽ければ叶わないということになる。逆でもいい。
 うっかり石を足に落としたりしたら、願い事どうこう以前の問題なので気をつけたい。

円頓寺商店街2-9

 洋服屋なのか、布団屋なのか、内装屋なのか、表からでは判断がつかない。いろんなものを売ってそうだ。多角経営というやつか?
 でも、こういう店が商売として成り立っていくのはいいことだと思う。まずがっぽり儲かるということはないだろうけど。

円頓寺商店街2-10

 ノールックファインダー撮りの失敗作。でも、人混みの中では有効な撮り方だ。もっとたくさん撮って確率を上げていきたい。
 こういうとき、金魚すくいとかのおじさんに話しかけて写真を撮らせてもらえる性格の人がうらやましい。そういうシーンでは女性の方が有利だ。女の人だとおじさんも断らない。

円頓寺商店街2-11

 ここにもドアラらしきやつがいたけど、ちょっと似ていない。もしかしたらただのコアラか。
 ドアラというのは断るまでもないと思ったけど、やっぱり県外の人には説明しないと分からないかもしれない。名古屋の東山動物園の名物はコアラで、それとドラゴンズを掛けて、ドアラというキャラクターが生まれた。
 もともとは中日の選手がホームランを打つともらえるコアラのぬいぐるみのことをドアラといっていて、それがキャラクターとして独立したという経緯がある。野球中継を見ていると、ドアラの着ぐるみがバク宙とかしてるので、見てみてください。
 その後ろに1位という札がかかっていた。どうやらこの竜の張りぼてが1位を獲ったようだ。他にも2位とか3位とか書かれたものがあったから、張りぼてはコンテストにもなっているらしい。記念品とかもらえるのだろう。

円頓寺商店街2-12

 西の入り口まで歩いて、引き返してきた。西円頓寺商店街は、円頓寺本町商店街を抜けて、菊井通りを渡った先にある。あちらはアーケードにはなっていない。なので、今回は行かなかった。
 この往復だけでも2キロ。四間道も歩いて、その前には大須商店街も端から端まで歩いている。なんだかんだで、この日はまた4時間も歩いてしまった。
 円頓寺商店街の紹介はここまでとなる。これを見て、ちょっと行ってみようかなと思ってもらえると嬉しい。私は普段の静かな円頓寺商店街も歩いてみたい。そのときはまた違った写真が撮れると思う。
 明日からはこの続きとして四間道の紹介に移っていく。それも2回か3回に分かれることになりそうだ。大須はそのあとだから、まだだいぶ先になる。

円頓寺の賑わいも今は昔で、かつての面影をわずかに残すばかり

名古屋(Nagoya)
五条橋と名古屋駅ビル




 盛り場という言葉を最近めっきり聞かなくなった。夜の盛り場をうろついていては駄目ですよみたいなことを今でも教師は生徒たちに言ったりするのだろうか。
 明治から戦前にかけて、名古屋の三大盛り場は、栄、大須、円頓寺(えんどうじ)だった。平成の今、円頓寺にかつての賑わいの面影を見つけることは難しい。一つの町にも浮き沈みがあるとはいえ、昔を知る人にとって過去の繁栄も、もはや幻のように感じているかもしれない。
 名古屋城の南西、名古屋駅との間に円頓寺商店街はある。地下鉄丸の内駅出口から西へ5、6分のところだ。名古屋駅から歩いても20分程度だろう。名古屋で最も歴史のある商店街を今訪れる人は少ない。大須商店街は時代に取り残されなかったのに、円頓寺商店街はどうして置いてけぼりにされてしまったのだろう。
 名古屋城が築城された翌1610年、家康は尾張の首府を清洲から名古屋に移すと宣言した。世に言う清洲越というやつだ。それまで清洲にあった武家の屋敷や町家、寺社や商店、町名までも、一切合切が清洲から名古屋に引っ越しをしてきた。数年の間に清洲6万人都市は事実上消滅し、「思いがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」 と唄われたまさにその通りとなったのだった。
 円頓寺界隈もそうやって作られた城下町の一角に当たる。
 熱田の湊から名古屋城下に物資を運ぶために掘られた堀川沿いには町屋や蔵が建ち並び、今も当時の面影を残している。四間道(しけみち)と呼ばれるその地区に関しては、近いうちにあらためて紹介したいと思っている。
 四間道散策
 円頓寺商店街は、その名の元となった円頓寺(えんどんじ)の門前町として発展していくことになる(当時は圓頓寺と表記した)。
 円頓寺が商店街となり、やがて名古屋西部の繁華街となっていったのは、明治中期以降(1890年代)のことだった。名古屋駅南の笹島に鉄道駅が開業し、周辺に工場が建つと、多くの人々が円頓寺に集まるようになった。まだ埋め立てられる前の江川(庄内用水の東井筋)沿いには市電が走り、道沿いには商店や飲食店、劇場や寄席、夜店や芸者置屋などが並び、町は江川から西へ西へと延びていった。
 1921年には名鉄瀬戸線の瀬戸~堀川間が開通し、名古屋西最大の繁華街として発展していく。市内では広小路、大須に次ぐ規模だったという。それが戦前まで続いた。
 それほど発展した円頓寺が戦争を挟んで急速にさびれていったのは何故だったのだろう。地理的に見れば、大須や栄の方が分が悪いにもかかわらずだ。
 一つには車の普及によって人の流れが変わってしまったというのがある。それに伴って市電が廃線になったのは痛手だった。名鉄瀬戸線も、堀川と土居下の間が廃止になってしまい、江川は埋め立てられ幹線道路となり、商店街は真っ二つに分断されてしまう。
 現在の円頓寺商店街は、名古屋の中でもほとんど忘れられたような存在となっている。存在は知っていても、かつての三大盛り場だったということを知っている人はあまり多くないかもしれない。近所以外の人で、大須へ行くように円頓寺へ行く人は少ない。
 ただ、近年は名古屋もようやく歴史的文化遺産を観光資源として活用していこうという姿勢を見せ始めているから、近くの四間道と共に見直されつつある。商店街も昔を夢見ることは無理でも、なんとか少しでも盛り返していこうという気運も見られるようだ。
 偶然か必然か、そんな折り、大林宣彦監督が円頓寺と四間道を舞台にした映画を撮るという話が持ち上がっている。それがもし実現すれば、ロケ地として県内外から注目を集めるようになるのは間違いない。そんな今だからこそ、円頓寺を歩いてみようというのが今回訪れた目的だった。たまたま、七夕祭り最終日に当たっていて、ちょうどいいタイミングでもあった。
※映画は『夢の川』というタイトルが発表されたものの、企画が流れて実現しなかった。

 今日から何回かに渡って、円頓寺と四間道を紹介していきたいと思う。一回目はまず円頓寺の前半からいってみよう。
 一枚目の写真は、堀川に架かる五条橋だ。円頓寺商店街の東入口にも相当する。
 もともとは清洲城の横にあった橋の名前で、清洲越のとき名前も移された。一部橋の材料も移築したようだ。
 現在の橋は昭和13年(1938年)に架け替えられたコンクリート製のものとなっている。それでもなかなか雰囲気のあるいい橋だ。
 橋のたもとには小さな祠がある。この地方特有の屋根神様というもので、民家の屋根にあったものをここに移したものだ。屋根神様については別の機会にあらためて書きたい。
 この路地裏を歩いていると、ふっと小学生のときの感覚が蘇る ~四間道2


五条橋から見る堀川の風景

 堀川は、福島正則が中心となって掘った運河のような川だ。というよりも、天下普請という名目で家康によって掘らされた。それは単なる労働力として使われたというだけでなく、豊臣恩顧の外様大名の財力を減らせるという狙いもあった。だから、堀川も福島正則が金を出して掘っている。城を築かされるとき、なんで自分たちが家康の息子のために金を出して城を築いてやらなければならないんだと泣き言を言っている。それを聞いた加藤清正は、文句があるなら国に帰って謀反の支度をすればよかろうと言ったのは有名な話だ。
 この少し前までは、家康も福島正則も加藤清正も、豊臣秀吉の家臣だった仲間だ。正則や清正は秀吉子飼いの家臣ということで家康とは立場が違うけど、関ヶ原の合戦では正則は豊臣家のために石田三成を討つべしと家康に上手く言いくるめられて、結果的に手柄をあげてしまったという経緯がある。家康から褒美として安芸広島49万8000石を与えられて、気づいたらいつの間にか家康の家臣になってしまっていた。なんか騙されたと思って愚痴の一つも言いたくなる気持ちは分かる。
 加藤清正はできた人物で、築城の名人として平和時にも生きていけたであろうけど、正則は治水の名手と言われながらも戦の人だった。関ヶ原以降はめっきり精彩を欠き、広島城を勝手に修繕したことをとがめられて、信濃川中島4万5,000石と10分の1に減封されてしまう。
 そんなことを思い出しながら堀川を眺めてみると、また違った思いが湧いてくるだろう。最近まで堀川は名古屋で一番汚い川と言われていた。今でもそうかもしれない。ただ、ここ最近、堀川浄化運動というのが盛んになって、以前と比べたらだいぶきれいにはなった。福島正則の苦労に報いるためにも、川遊びができるくらいきれいになればいいと思う。明治まではここで獲れた魚で作った甘露煮は一級品だったそうだ。



円頓寺七夕まつり

 商店街は江川線で分断されていることもあって、円頓寺商店街、円頓寺本町商店街、西円頓寺商店街と3つのブロックに分かれている。上の写真は、東の入り口だ。ここから西に約1キロのアーケード街が続く。
 商店街には「ありとある譬(たとえ)にも似ず三日の月」と染め抜かれたのれんがかかっている。1688年に、松尾芭蕉が長良川で鵜飼い見物をしたあと円頓寺に立ち寄って詠んだ句だ。



円頓寺七夕まつりの商店街

 予想以上の賑わいで、ちょっと驚いた。こんなに人が出てるとは思ってなかった。普段の円頓寺商店街は半ばシャッター通りと化しているというのが事前の情報だったので、想像とのギャップが大きすぎた。たくさんの屋台が立ち並び、人も大勢歩いていた。どうやら円頓寺商店街の七夕まつりというのは思った以上に有名なようだ。
 毎年7月の終わりから8月にかけての5日間行われていて、今年は7月30日から8月3日までだった。日曜日の最終日ということで、あの賑わいだったのだろう。
 53回目というからたいしたものだ。今年で戦後63年だから、終戦から10年後にはこういう商店街の祭りができるくらいには復興していたようだ。四間道あたりは空襲で焼けなかったというし、このあたりは部分的に戦前の古いものも残っている。戦中の商店街はどうだったのだろう。
 期間中は消防音楽隊のパレードや愛知女子校バトン部のパレード、阿波踊りやハワイアンダンスなど、さまざまなイベントが行われたようだ。そのときは人で溢れて身動きが取れないくらいなんだとか。



円頓寺商店街古い酒屋の看板

 シャッターが降りている店もけっこうあるものの、こういう古そうな店も残っている。この酒屋さんなどは店舗は改装された新しくなっていたけど、お茶屋さんなどは昔の佇まいのままだった。
 この日は店の人も前に出てきているし、人目も多くてちょっと写真が撮りづらかったというのがある。普段の円頓寺とはまるで状況が違うので、写真と撮るという目的なら祭りの日は避けた方がよかった。



円頓寺商店街路地の飲み屋街

 アーケードからちょっと外れて一本入った路地に小さな飲み屋街が形成されていた。地元では円頓寺銀座と呼ばれているらしい。
 地方には必ずといっていいほど何々銀座というのがある。それもまた昭和の名残だ。今や繁華街の代名詞は銀座ではなくなった。



愛知別院門前

 高田山専修寺愛知別院。1647年に丸の内に建立された寺で、1657年にこの地に移ってきた。当初は臨江山信行院と称していたという。1754年に名をあらため、最盛期はかなりの伽藍を持つ大きな寺だったようだ。尾張名所図会にも出ていて、ご開帳のときは大勢の参拝客が押し寄せたと書かれている。
 江戸時代に一度焼け、本堂その他は空襲で焼失した。山門と鐘楼は当時のものが残っている。



円頓寺商店街慶栄寺

 こちらはアーケードの中にある慶栄寺だ。門が閉まっていて、中に入ることはできなかった。
 1804年建立で、境内には聖徳太子を祀る太子堂があり、奈良元興寺五重塔の古材を使って建てられたそうだ。
 松涛庵は、足利義政が銀閣寺を建てたときに茶室として造らせたものを京都東山から移築したものだという。
 どちらも重要文化財クラスのものなんじゃないのか。そんな貴重なものがあるなら、ぜひ見てみたかった。ネットの情報を調べても境内の写真はなかったから、どうやら普段から一般公開してないようだ。



円頓寺商店街金比羅社

 曲がり角の細いところに、こそっとはまり込んでいる金比羅さん。
 名古屋城を築城したとき、三の丸の大道寺邸にあったもので、大国主命(オオクニヌシノミコト)を祀っている。冥界を守る出雲大社の神様だ。
 1859年にこの地に移された。



円頓寺門前

 これが商店街の名前にもなっている円頓寺だ。商店街や地名としては「えんどうじ」なのに、お寺の名前は「えんどんじ」という。
 1654年、普敬院日言上人が創建した寺で、もともとは広井村八軒屋敷(現在の国際センター付近)にあり、普敬院と称していた。
 1656年に京都立本寺から十界大曼荼羅の本尊を送られたときに長久山円頓寺(圓頓寺)と寺号を改めている。
 山門は唯一戦災を逃れた建物で、総ケヤキの門だそうだ。これは歴史の雰囲気がある。中の建物はどれも新しい。



円頓寺境内

 入って左手に長久稲荷大明神があり、その右手が本堂、お稲荷さんと本堂の間に鬼子母神堂がある。
 ここに祀られている鬼子母神像は、初代尾張藩主徳川義直の側室が懐妊したとき、名古屋城天守閣の棟木の余材で彫って寄進したものとされている。
 そのことから、のちに子授けや安産のお寺として知られるようになり、尾張徳川家との縁も深くなった。
 毎月18日は鬼子母神像が公開され、秋にはザクロの実が参拝者にも分けられるそうだ。



円頓寺商店街の風景

 吊しもので賑やかになってはいるけど、このあたりの風景に普段の円頓寺商店街の光景を垣間見るようだった。



円頓寺商店街と江川線

 円頓寺商店街のアーケードがいったん途切れて、円頓寺の交差点に出る。前の広い道が江川線で、上を名古屋高速が走っている。
 昔はここを市電が走り、両隣の道沿いに夜店などが並んでいた。古い白黒写真を見ても、今の円頓寺と結びつけるのは難しい。

 円頓寺七夕まつりは張りぼてキャラ祭りで著作権なんてなんのその
 江戸時代の四間道の頃から名古屋人は広い道路が好きだった ~四間道1

【アクセス】
 ・地下鉄東山線/鶴舞線「伏見駅」から徒歩約10分。
 ・JR他「名古屋駅」から徒歩約15分。
 

赤目滝の心残りはオオサンショウウオとへこきまんじゅう <第四回>

観光地(Tourist spot)
赤目滝番外編-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8 II



 今日は赤目滝シリーズ最終回ということで番外編をお届けします。
 残り物写真なので特にテーマもなく、出しておきたいものを並べておこうといういつものパターンだ。
 時間が気になってやや急ぎ足になった3時間だったけど、そのわりには収穫が多かった。あと1時間余分にあっても、結果はそんなに変わってなかっただろうと思う。長くいるより季節を変えてもう一度行きたい場所だ。
 上の写真に写ってる人のように三脚組もそこそこいた。滝の流れをスローシャッターで撮るには三脚は必須だけど、かえって自由度が低くなって逃してしまうシーンも出てくるように思う。季節やその日の条件にもよるけど、手ぶれ補正があればなんとかなる。しっかり構えれば1/4秒くらいまでは手持ちで大丈夫だろうし。
 一脚を杖代わりに持っていくのはいい手かもしれない。

赤目滝番外編-2

 川から少し外れた場所に雨降滝というのがあった。崖の上から壁伝いに上からポタポタと雨が降るように水が落ちてくるらしい。らしいというのは、私は見に行ってないから。先を急いでいたから飛ばしてしまった。
 雨降滝は南向きのため、運がいいと虹が出るのだとか。
 上の写真は雨降滝とは違うのだけど、壁際で雨降りのように水が流れ落ちているところだ。写真には水のしずくは上手く写ってない。
 冬場はこのあたりは、つららとなる。滝も冬は雪と氷の造形美を見せる。

赤目滝番外編-3

 静かな深緑の世界。
 今回の写真は、私にしては珍しく人が入っている写真が少ない。だから、全体的に静寂な雰囲気になっている。実際はけっこう歩いている人も多くて、いかにも夏の行楽地という感じだったのだけど。

赤目滝番外編-4

 岩肌好きという人種の人たちがいるのかどうか知らないけど、山の観光地などではよく天狗の岩だとか屏風岩だとか名づけられているものがある。鳳来寺にも鏡岩とかいうのがあって、山岳信仰の対象になっていた。
 赤目にも天狗柱岩や屏風岩があるようだ。けど、どれがそうだかよく分からなかった。
 いいカメラを持ったおじさんがこのあたりを撮っていたから、その人がいなくなるのを見計らって私も撮ってみた。その私の姿を見ていた人もあとからここを撮ったかもしれない。最初のおじさんも実は何の根拠もなくここを撮っていたのかもしれないのに。
 観光地ではしばしば、そういう被写体の連鎖的共有というのが起こる。ある意味それは、とても日本人的な現象だろう。

赤目滝番外編-5

 こんな道もコースの一部。ヒールの高い靴では歩きづらくてしょうがないだろう。でも、サンダル履きのツワモノもいた。

赤目滝番外編-6

 入り口近くに牛の像があって、天満宮でもあるまいになんで牛なんだと思っていた。
 修行中の役行者の前に赤い目の牛に乗った不動明王が現れたから赤目滝と名づけられたという伝説を知って、なるほどと納得した。この牛の像も赤い目をしていたらしいけど、影になっていてよく見えない。
 横には浄財と書かれた賽銭箱が置かれている。これは誰に対する賽銭なのだ。
 日本では全国各地のあらゆる場所であからさまなマネーロンダリングがおこなわれている。不浄なお金を神様にきれいにしてもらって自分の徳に変えようとするやり方だ。
 オオサンショウウオの像もあって、それは何かと思ったら、自然の湧き水が出る仕掛けになっていた。赤目は湧き水が多いところで、遊歩道でもその水を利用することができるようになっている。飲んだらおなかをこわしそうだけど、幸運の水と呼ばれているらしい。「じゃんじゃの水」と名づけられていた。
 滝の入り口には延寿院という寺があって、そこには赤目不動尊が祀られている。目黒不動尊、目白不動尊と共に、日本不動三体仏の一つとされている。

赤目滝番外編-7

 岩に張りつくように咲いていた紫の花は、たぶんイワタバコ(岩煙草)だろうと思う。鎌倉の東慶寺でも見た。
 けっこう珍しい花だから各地の群生地は有名なのだけど、赤目のイワタバコも知られた存在なんだろうか。川沿いの岩場で当たり前のように自生していた。

赤目滝番外編-8

 散策路沿いにたくさん咲いていたこの花は、初めて見るものだった。雑草のように咲いていたけど、ありふれた花なんだろうか。湿地に咲くトキソウに少し似ていなくもない。
 帰ってきてから調べて、ハグロソウだということが分かった。
 名前の由来は、葉っぱが暗緑色だからだとか、赤褐色の斑紋をお歯黒にたとえたのだなどと言われているようだ。
 一つ目小僧がべーっと舌を出しているようにも見える。

赤目滝番外編-9

 カナブン関係か。
 生き物に関しては季節柄か、あまり多くは目にしなかった。トンボや蝶もあまり飛んでなかったし、鳥は鳴き声だけで姿を見せなかった。
 これでもう少し虫や花が豊かだと、被写体が増えて更に楽しくなるのに。春から初夏にかけてはもっと花や生き物が多いのかもしれない。

赤目滝番外編-10

 ニホントカゲの子供が足下を横切っていった。メタリックブルーの尾っぽと、黒地に5本ラインが子供の体色で、大人になるとやや光沢のある茶色になる。ニホンカナヘビはツヤ消しの茶色で、もう少し体がほっそりしている。
 トカゲって何を食べてるんだろうとふと思って、答えが分からなかった。今までそんなことは考えたことがなかったのだろう。調べてみると、ミミズとかクモとか昆虫なんかを食べているそうだ。トカゲの補食シーンって撮ったことがないし、見たことさえない。釣りエサのイトミミズを持参して目の前に置いたら食べるんだろうか。
 逆に天敵は何かというと、ヘビとかイタチとか猫とからしい。アイはよくイモリをくわえて持って帰ってくるけど、トカゲは今まで一度も持ち帰ったことがない。トカゲはすばしこいから捕まえられないのかもしれない。

赤目滝番外編-11

 赤目滝の入り口は日本サンショウウオセンターも兼ねていて、入山料の300円は日本サンショウウオセンターへの入場料でもある。親切なんだかせこいんだかよく分からない。センターの営業時間外に行くと、中を通らずに無料で滝へ行くことができてしまう。
 センターには、国内、国外から集めたたくさんのサンショウウオを飼育展示している。全部で160匹もいるそうだ。
 あまり立ち止まって熱心に見ている人はいなかった。サンショウウオは一般受けしない。私は嫌いじゃないから時間さえあればもう少しゆっくり見て回りたかった。
 サンショウウオというと、世界最大の両生類で特別天然記念物に指定されているオオサンショウウオが思い浮かぶ。けど、それ以外のサンショウウオは20センチ以下の小型のものがほとんどで、サンショウウオを飼っている人もけっこういる。クロサンショウウオなどはペットショップや熱帯魚屋で売っている。
 トカゲがかわいいというセンスの持ち主なら、サンショウウオも同様にかわいいと思ってペットにできるだろう。

赤目滝番外編-12

 なんじゃこりゃと思うだろうけど、オオサンショウウオの尾っぽの部分だ。室内は暗くて激しくブレた。
 ちょっと粘ってはみたものの、夜行性のオオサンショウウオは水槽の岩陰に隠れたまま出てくるどこか動く気配さえ見せなかった。残念。
 生きた化石と言われるほどオオサンショウウオは大昔から地球に生きていた。3000万年前からほとんどその姿を変えていないといわれている。
 特別天然記念物に指定されたことで研究が進まず、生態についてよく分かっていないことも多いという。
 岐阜県から西の本州、四国、九州の一部に生息する日本の固有種で、中国のチュウゴクオオサンショウウオとは少し違うようだ。
 北日本にいないのは、真冬でも冬眠しないせいもあるかもしれない。0度の水でも冬眠しないことが分かっている。ほどんど移動しない生物なので、もともと北日本にいなかったという可能性もある。
 体長は50センチから大きなものでは1メートルを超える。飼育下では50年生きた例もあり、自然界では100年生きるともいわれている。卵も一回に500個前後産むというから、そのデータだけならとても絶滅しそうにない。けど、今の時代はオオサンショウウオにとっては生きづらいのだろう。不器用ですから。
 昼間は眠ったままほとんど動かない。1時間に一回、水面に浮いてきて呼吸をする。
 生まれてから3、4年はエラ呼吸をしていて、変態したあとは肺呼吸になる。ほとんど陸に上がることはなく、一生を水の中で過ごす。それでもやっぱり両生類には違いない。
 目は退化して、ほとんど見えていないらしい。夜になるとエサを求めて川底を徘徊する。しかし、基本的に狩りは待ちの姿勢だ。じっとしていて向こうから近づいてきたやつを大きな口でパクリを食らいつく。歯はするどくて、一度くわえたものは放さず、丸呑みする。エサは魚やカエル、沢ガニなどで、一日に一匹程度といわれている。それなのにここまで巨大化する理由はよく分かっていない。ただ、一年に1センチ程度しか成長しないという。
 体の半分以上が尾っぽで、ここに脂肪を蓄える仕組みになっている。だから長い間エサが獲れずに絶食しても大丈夫なんだそうだ。すごい省エネで、だから無駄に動かないのだろう。
 オーストラリアからコアラをもらった代わりに、日本からはオオサンショウウオが送られたことがあった。それを盗んだやつがいる。豪州人だったのか、日本人だったのか、他の外国人だったのか。
 東は岐阜県までとされているオオサンショウウオだけど、去年愛知県の瀬戸市でたくさんのオオサンショウウオが見つかっている。捕獲作戦も行われて、生態調査のためにチップを埋め込んで放したようだ。
 特別天然記念物だから、捕獲はもちろん触ることさえ禁じられているのだけど、瀬戸にいるならちょっと探しに行きたいと思ってしまう。
 赤目滝の川ではわりとあっさり見られることもあるようだ。滝を見に行ったときは、水面の映り込みと共にオオサンショウウオを探すことも忘れずに。

赤目滝番外編-13

 バス停や駐車場から入り口まではお土産物屋や食べ物屋、温泉などが立ち並び、昭和の観光地風情が広がっている。
 名物は、有名な(?)「へこきまんじゅう」だ。思い切ったネーミング。表面も中身も全部サツマイモでできているところから名づけられたらしい。忍者の格好をした人形焼きだ。忍者ハットリくんっぽい。
 スイートポテトみたいで美味しいらしく、けっこう人気もあるんだとか。私は歩き疲れて喉も渇いていたから、イモなんて食えるかと思ってパスしてしまったけど、あとあとのことを考えて1個か2個買っておけばよかった。赤目でしか買えないらしい。
 最近はバリエーションも豊富になってきて、へこき姫、へこきち、金のへこき、銀のへこきが仲間に増えた。
 今になって食べたくなってきた。次に行くことがあれば、必ず食べよう。

 赤目シリーズはこれにて終了となる。多少思い残すことはあったものの、初めての赤目滝レポートとしてはこんなものだろう。
 いつかもう一度、赤目滝へ行くことがあるかどうか。行くとしたら秋の紅葉だろうか。人と場所との関係も一期一会とするなら、赤目滝はこれが最初で最後になるかもしれない。あとは縁があるかどうか。
 赤目滝はこれで終わったけど、この日はまだこれで半分だ。残りの長谷寺と室生寺も近いうちに紹介したいと思っている。

美味しくできても物足りない自分の料理の課題が見えたサンデー

料理(Cooking)
手こずりサンデー

PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他



 今日の料理を名づけるとしたら、手こずりサンデーとしよう。写真を見るとそんなにややこしい料理ではないと思うけど、これが意外と手こずった。メニューとしてはお馴染みさんに近いものだから、軽く1時間半と考えていたら、実際は2時間以上かかって、終盤はてんてこ舞いだった。わぁー、何からやっていいんだー、わっ、マグロをまだ焼いてない、ああ、ネギも切らなくちゃ、ってな感じで。
 なんでこんなことになってしまったんだろうとあとから考えてみたら、3つともソース作りがあって、なおかつすべてが焼き物だったことが原因だった。これは組み合わせのミスだ。フライパン2つとコンロ2つなのに、3つも焼き物となると、非常にやっかいなことになるのは当然のことだ。しかも、全部を同時に作り終えて暖かいうちに食べるのは厳しい。今日の場合だと、ソースの温め直しもあるから、コンロが4つは必要だった。4つあったらあったで余計混乱してしまいそうだけど。
 顔なじみの3品に見えるけど、多少アレンジは加えている。順番に紹介していこう。

 左手前は、焼きマグロのタルタルソースがけだ。これはあるようでなかった。
 マグロは塩、コショウ、白ワインを振ってしばらく置いておき、水気を拭き取る。ビニール袋の中にカタクリ粉とマグロを切れてシェイク。これが一番楽で、一番上手く衣がつく。それをオリーブオイルで半生に焼く。
 タルタルソースは、ゆで卵、マヨネーズ、タマネギ、バジル粉、塩、コショウ、しょう油、からしを混ぜて作る。
 最後に長ネギを乗せて、青のりを振りかけたらできあがりだ。
 タルタルソースは焼きマグロにもよく合う。生のマグロだとちょっとおかしいと思うけど、焼くと相性がよくなる。マグロの美味しい食べ方の一つとしてオススメしたい。これなら魚嫌いの子供も喜ぶはず。

 右はお手抜きコロッケ風トマトソースがけ。いかに手を抜いてコロッケを作るかがテーマだった。
 トマトソースは何度も作ってるし、ここでも紹介している。トマトの酸味があるから、砂糖を多めにするのがポイントだ。
 コロッケは揚げないコロッケを試みてみた。
 ジャガイモを細かく切ってレンジで加熱。それをつぶす。そこへ小麦粉、牛乳、バターを加えて更にレンジで加熱。かき混ぜて、牛乳と小麦粉を加えて再び加熱。それをあと2回くらい繰り返す。
 刻んで炒めたタマネギを加え、塩、コショウで下味をつける。
 ハンバーグの形に整えて、溶き卵にくぐらせて、パン粉をつける。ネタに小麦粉を使ってるので、衣の小麦粉は省略した。
 あとはフライパンでじっくり焼いていくだけだ。パン粉は焦げやすいので火は弱めにする。
 味はトマトソースで決まるから美味しいのだけど、食感としては成功とは言い難かった。やはり揚げてないから、衣がカリッとしない。くちゃっとなってしまう。コロッケと思わずに、マッシュポテトのトマトソースと思えばいいのか。けどやっぱり、コロッケは揚げるに限る。揚げたてのコロッケは相当に美味しいものだ。

 奥はナス料理なのだけど、何と呼んだらいいのか。
 ナスを斜め輪切りにして、あく抜きのために塩水につけておく。
 それをフライパンで焼いて、塩、コショウ、しょう油で味付けをする。
 ナスとは別に、エビ、鶏肉、ニンジン、アスパラを炒め、塩、コショウ、コンソメの素で味をつけて、水溶きカタクリ粉でとろみをつける。それをナスにかけて完成となる。

 全体としては上出来だった。味のバランスもよく、美味しく食べられた。コロッケも揚げてない分、あっさり味になっている。
 料理としての安定感が増していく一方で、どうにも面白みに欠ける。チャレンジ精神を失っている。新しいテーマを見いだせず、新機軸を打ち出せないでいる。食べる美味しさよりも、もっと作るという点を重視してもいい。そういう点でここのところずっと物足りなさを感じている。
 趣味の料理人としての伸び悩み、一言で言えばそういうことだろう。自分らしい料理の形は固まってきたものの、限界の内側にとどまっている。壁を乗り越えたい。
 料理なんて簡単とも言えるし、難しいといえば難しい。美味しさなんてのは極められないし、個人の好みもある。どうなったら自分は満足なんだろうと考えたとき、もっと美味しそうに見えるように作れたとき、という答えが浮かんだ。前々からずっと課題だった盛りつけというのを、ちゃんと勉強していかないといけない。最終的な完成図のイメージさえできれば、そこから逆算して作ることはそれほど難しいことではない。
 今後やるべきことがはっきりしたから、来週以降はそこを念頭に置いて作っていくことにしよう。人も料理も、見た目ってやっぱり大事。特に趣味の料理としては、味よりも見た目重視でいきたい。

赤目へ行ったら滝よりも緑の映り込みを探しながら歩くべし <第三回>

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
赤目滝3-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8 II



 赤目滝の番外編写真を集めてみたら一回分では収まらなかった。なので、二回に分けることにした。今回は水模様編で、次回は虫やら花やらサンショウウオなんかの番外編になる。
 今日は水風景写真ということで、あまり説明することもない。コメントは短めにする。似たような写真も多いけど、何か撮影のヒントにでもなれば。
 水というのはとても表情が豊かで、可能性のある被写体だ。撮れる撮れないは発見できるかどうかにかかっている。同じコースを歩いても、人によって撮れる写真は違ってくる。センスの部分もあるのだろうけど、写真の場合は経験も大きい。たくさん撮っていると、それまで見えなかったものが見えるようになってくる。
 人の写真を見ることも勉強になる。上手い人の写真を真似しても自分の写真にはならないけど、見つけることの大切さは知ることができる。それが経験値だ。
 ライバルはいつも過去の自分だ。写真は撮れば撮るほど上手くなっていくものだと思う。

赤目滝3-2

 もう一点、何かプラスアルファの要素が欲しい。浮いている一枚の葉でもいい。

赤目滝3-3

 鏡面のように映り込む美しさもあるし、模様が描く面白さもある。

赤目滝3-4

 映り込む枝や葉の配分まで計算して撮れれば一人前。
 私はそんな緻密な人間でもないから、なんとなく感覚で撮って、たまたまいいときもあるし悪いときもある。
 上手すぎる写真が好きじゃないというのもある。

赤目滝3-5

 この模様の感じなんていうんだろう。ガラスの加工でこんなのがあったような気がする。

赤目滝3-6

 緑の映り込みもマンネリ化した。もうやめよう。

赤目滝3-7

 水は柔らかい感じにもなり、硬い感じにもなる。これは硬質な水模様。
 光と影の影の中にも水のドラマは潜んでいる。

赤目滝3-8

 透明感の強い水だけど、まったくの透明では景色は映り込まない。ある程度の汚れも必要だ。青空が青くあるには大気が必要なように。
 透明と透明感とは別のもので、それは自然界においても人間界においても共通して言えることだ。
 絵の場合は、何も塗らなければ透明にはならず、透明に見えるように色を塗る。
 純真無垢という言葉があるけど、純真と無垢とはまるで別のものだ。

赤目滝3-9

 きれいな水の深い部分は深緑色になる。それが子供の頃から不思議だった。底が見えている部分と見えなくなっている部分の境目を見ると、身がすくむ思いがする。
 緑色のところは深いから入ってはいけないという教えが恐怖心を生むのか、本能的なものなのか。

赤目滝3-10

 澄んだ水は水としての存在感さえなくしてしまう。これだけきれいだと水があるのかないのか分からないくらいだ。深さも測れない。

赤目滝3-11

 光と影の強いコントラストが、世界に色を与えているのは光だということを教えてくれる。光がなければこの世界に色はない。

赤目滝3-12

 苔むしたたくさんの岩。モスグリーン好きにはたまらない風景だ。私の中学の学ランの裏地はモスグリーン色だった。あえてその色のやつを買った。思えばあの頃から苔好きの芽生えがあったのかもしれない。

 赤目滝へ行って最大の収穫は、荷担滝と緑色だった。滝撮りの難しさを知り、緑色の魅力を再認識した。水と緑の相性がこれほどいいものだとは思ってなかった。映り込みといえば夕焼けと青空くらいしかないと決め込んでいたところがある。
 ここは光と影の具合や、緑と水のロケーションからして緑の映り込みを撮るのに適したところだ。これから行く機会がある人は、ぜひそのあたりを狙ってみてください。
 水をよくよく見ていると、水中のオオサンショウウオを発見することもあるそうだ。そうと知っていればもっとしっかり探したのに。まさか特別天然記念物が散策路の隣で普通に泳いでるとは思わない。赤目最大の失敗はそのことだったかもしれない。

赤目四十八滝の前では上手な嘘つきになれない <第二回>

観光地(Tourist spot)
赤目滝2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8 II



 赤目の滝巡り後半は、百畳茶屋を超えたところから始まる。昨日の前編ではその少し先にある姉妹滝まで紹介した。今日はその続きからいってみよう。
 このあたりまでくると、川幅も道もだんだん狭くなってきて、いかにも川の上流といった風景になる。歩いている人の姿も一気に減った。百畳茶屋までのんびり歩いて40分くらいだから、そこで一休みして引き返していくというライトコースの人もけっこういるようだ。ムキになって最後までいってやると思うのはよほど体力が余っている人間か、貧乏性かのどちらかだろう。私はもちろん後者だ。せっかくここまで来て途中で引き返してなるものか。ただ、百畳茶屋まで行ったなら、そこから15分か20分くらい歩いた荷担滝までは見ていって欲しい。この滝が赤目最高のクライマックスだから。荷担滝を見れば、充分満足できるんじゃないかと思う。
 さて、コースとしてはまだ半分ちょっとだ。先を急ごう。

赤目滝2-2

 赤目滝は市内と比べると気温は2度くらい低いそうだ。散策路の大部分は頭上に木々が生い茂っていて直射日光を防いでくれる。とはいえ、歩いていれば暑い。汗びちょになる。決して涼しい避暑地ではない。風があるときに座っていれば涼しいのかもしれない。
 けど、写真に撮るとなんて涼しげなんだろう。木漏れ日と水面に映る緑色の風景は、とても涼やかだ。暑かった記憶が気のせいかと思うほどに。もちろん、暑さは気のせいなんかじゃない。頭上から降りそそぐ蝉時雨もまた、暑さを助長する。
 赤目は紅葉が有名で、シーズンともなると散策路はすれ違えないほど混雑するんだそうだ。写真で見る限り、それほど真っ赤に紅葉するというほどでもなく、枯れ風景の中に赤や黄色が点在するいった感じのようだ。水面が真っ赤に燃えるくらい紅葉するなら、人混みの中をあえて行きたいとも思うけど、そうじゃないなら緑が濃い季節の方がきれいなんじゃないか。
 一番人が少ないときは、言うまでもなく冬だ。雪と氷の赤目も情緒があって美しい。ただし、道が悪くなって、危険度は増す。水量も減るので、滝の表情もずいぶん違うものになるようだ。

赤目滝2-3

 姉妹滝からはいくつか滝が連続する。次に現れるのが、柿窪滝(かきくぼのたき)だ。
 落差5メートルほどとさほど大きな滝ではないけど、周りのロケーションとのバランスがいい。
 水の流れを枝に、滝壺を柿の実にたとえてこの名前がつけられたそうだ。かなり強引というか無理がある。これが柿に見えたとしたら、その人はロールシャッハテストで悪い結果が出てしまいそうだ。
 このあと笄滝(こうがいだき)、雨降滝(あめふりだき)、骸骨滝(がいこつだき)、斜滝(ななめだき)と、小さな滝が続くのだけど、帰ってきたら写真がなかった。どうやら見落としてしまったらしい。ただの小さな落差のある流れと思って滝と認識できなかったのかもしれない。ネットで写真を見て、こんなのあったっけと思う。

赤目滝2-4

 後半最初のハイライトがこの荷担滝(にないだき)だ。この滝だけは、どうやっても写真ではそのスケール感も、神秘さも、美しさも伝えきれないから、実際に見にいってくださいと言うしかない。特に大きさの感じが伝わらない。高さ8メートルだから、ビルの3階くらいから落ちてくる感じなのに、写真で見るとなんか小さく見えてしまう。
 岩が両肩で荷物を担っているように見えるところからこの名がつけられた。ネーミングとしてはもう一つか。もっと雄大な美しさを表すとすれば、双竜滝くらいがよかったかもしれない。

赤目滝2-5

 もう少しアップで縦撮りしてみる。それでも駄目か。
 正面から高さを変えたり、横に回り込んだり、上からのぞいたりと、何枚も撮ったけど、これだというのは一枚もなかった。赤目一美しいとされる滝は、赤目一撮るのが難しい滝でもある。
 今の自分ではお手上げだ。もっと上手くなったら、もう一度撮りに行きたい。

赤目滝2-6

 雛壇滝(ひなだんだき)。雛段滝とどっちが正式名称なのだろう。
 その前にあったはずの夫婦滝はどこへいってしまったのか。これも見逃したらしい。思ったよりも奥まで深くて、この頃になるとだんだん焦り始めて先を急ぐようになっていた。1時間歩いてまだ最後の滝までは遠かった。
 段々になっている岩を流れ落ちる水で、これを滝と呼んでいいものかどうか。水量が多いときはもっとざばーんという感じで流れ落ちてるから、滝は滝か。滝の定義ってなんだろう。

赤目滝2-7

 終盤のクライマックスは、この琵琶滝だ。赤目五瀑の最後でもある。
 高さ10メートルで、滝の形が琵琶に似ているところから名づけられたというのだけど、似てる?
 ここまで来た人は皆一様にお疲れだ。ご苦労様です。さて、この先に一つポツリと離れたところにある最後の岩窟滝をどうしたものか、悩む人も多いと思う。急な階段と登りの山道で、急いでも往復15分かかる。時間と体力に余裕があれば、もちろん最後まで行ってしまった方がすっきりするのは間違いない。私は時間的にギリギリだったからかなり迷った。結果的に行っておいてよかったのだろうけど、ここで無理をしていなければのちのちの展開が楽になっていたことは間違いない。まだここまでは余力が残っていた。なのに無理をして最後まで行ったものだから、体力的にもガクッときて、ヒザもおかしくなった。
 岩窟滝は、どうしても見ておかなければならないほど魅力的な滝ではない。あとは自己満足の部分だ。そこまで行く人は、よほどの物好きか、責任感の強い人だろう。私は前者だ。

赤目滝2-8

 琵琶滝とその手前の流れ。雛段滝と名づけられた滝よりも、こちらの方が雛段っぽい。

赤目滝2-9

 これが最後の滝、岩窟滝だ。遠く離れたところにある滝を上から見下ろすような格好になる。この角度から見る滝というのはここだけだから、そういう意味では見ておいて損はない滝ではある。
 高さは7メートル。滝の中腹に深い石穴があることからこの名がついた。
 写真を撮るために立ち止まったのは3分。撮るだけ撮って、慌てて引き返す。結局ここまで1時間半ちょっとかかった。帰りは下りの道も多くなるし、じっくり滝を撮ることもなくなるので、行きほど時間はかからない。すたこら歩ければ1時間かからないくらいだ。

赤目滝2-10

 帰りも同じレンズで同じように撮っていたんじゃ面白くないということで、17-85mmズームから50mmの単焦点にレンズを交換した。
 ここはどこだっただろう。忘れてしまった。荷担滝の片割れだったかもしれない。
 明るいレンズでf2.0かf2.5くらいで撮ってるのでシャッタースピードが速くなっている。そうなると、落下する水の表情も違ってくる。スローシャッターで糸を引いたように撮るのも滝撮りでは定番だけど、あれは個人的にあまり好きじゃない。これ見よがしみたいな感じだから。

赤目滝2-11

 あきらめきれずに50mmでも荷担滝を正面から撮ってみた。シャッタースピードが速くなった分、水の流れが止まって、迫力のないものとなってしまった。これはちょっと失敗だ。やっぱり滝の基本はスローシャッターか。どうせやるなら、三脚を立てて、ソフトフィルターとPLフィルター使って、あざとく撮ってみたい。居直ってそこまでやってしまえば、他人とは違う写真が撮れる。

赤目滝2-12

 横からとか、上からとか、いろいろ工夫の余地はありそうだった。最初はどうしても滝の全体像を説明的に撮ってしまう。二度目以降は、違う角度から撮ってみようということになるだろうから、二度、三度と行っても、撮影としては楽しめそうだ。やっぱり、一度紅葉の時期は見てみたいと思う。秋なら暑くもなく、寒くもないから、散策も楽だろうし。

赤目滝2-13

 帰り道は滝よりも水面や水の流れなどをいろいろ撮りながら歩いた。その写真はまた次回ということにしよう。
 不動滝まで戻ってきた。ここまで来れば、入り口はもうすぐそこだ。帰りはかなり早足で歩いたから、なんとか往復3時間足らずで帰ってこられた。でも、もう少しゆっくり滝も見たかったし、写真もじっくり撮りたかった。焦りが必要以上の疲れを呼んで、それが後半のヨレヨレにつながってしまったというのもある。今回の旅の行程は、まだこれで半分だったのだ。長谷寺と室生寺があんなにきついものになるとは、この時点ではまだ知らなかったというのもあって、前半で飛ばしすぎた。

 赤目シリーズは、あと一回で収まりそうだ。写真の枚数はたくさんあっても、似たようなものが多いから、あまりダラダラ続けても面白くない。もう一回水の表情とその他の写真を集めて、赤目は全3回シリーズということにしよう。
 順番からいけば、それが終わったら長谷寺、室生寺ということになるのだけど、まだどうなるかは未定だ。大須と円頓寺の商店街シリーズというのも私自身楽しみで、早く紹介したい気持ちがある。
 なにはともあれ、赤目の滝編はこれでおしまいとなる。滝を完全網羅とはいかなかったけど、まずはこんなものだろう。これを見て、自分も行ってみたいと思ってもらえれば、私がヘロヘロになったことにも意味があるというものだ。続きはぜひ、自身の目で確かめてみてください。実際に滝を目にすれば、私がもどかしく思った気持ちが分かってもらえるはずだ。
 写真は嘘つきだけど、嘘にも限界があって、真実は嘘に勝る。

名張と忍者と信雄の話を交えながら赤目四十八滝巡り <第一回>

観光地(Tourist spot)
赤目四十八滝1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8 II



 奈良県との県境に近い三重県西部に名張という地方都市がある。伊賀と大和とを行き来するときに通る場所ということで、奈良時代以前から集落があったとされる土地だ。奈良東大寺の荘園として発達し、今でも東大寺のお水取りに使う木材は名張で採れたものが使われているという。伊賀忍者発祥の地でもある。
 同じ三重県でありながら松阪生まれの私でも名張にはまったく馴染みがない。テレビ放送なども東海地区ではなく関西地区なんじゃないだろうか。近鉄の大阪線ができてからは(もともとは参宮急行電鉄)、奈良や大阪のベッドタウンとしての性格を強めているようだ。
 一般的には名張毒ぶどう酒事件で知られる地名かもしれない。あの事件は1961年のことだからずいぶん昔のこととなった。しかし、冤罪事件か否かということでいまだに続いている事件でもある。
 江戸川乱歩の生まれた町として知っている人はいるかもしれない。あまり知られてないけど、平井堅が育った町でもある。
 名張の観光名所といえば、一も二もなく赤目四十八滝だ。これ以外にはないと言っても言い過ぎではない(あとは香落渓と青蓮寺湖くらい)。
 赤目滝について、その存在だけは昔から知っていた。ただ、どのあたりにあるかは知らなかったし、行きたいという気もなかった。最初に意識したのは、映画『赤目四十八滝心中未遂』を観てからだ。実際に行こうと思ったのは、去年の秋に近鉄電車で奈良へ行ったときだ。その途中に赤目口という駅があって、そこでリュックを背負った中高年の人たちがたくさん降りていくのを見て、ああ、ここがあの赤目滝の駅なんだと思ったのだった。ここならいつでも来られるから、来年の秋にきっと行こうと思った。ただ、調べてみると秋は激混みということなので、少し前倒しにして夏に行くことにした。それはたぶん、正解だった。赤目滝には緑がよく似合う。

 赤目四十八滝は、奈良県の肘折山あたりを水源とする滝川上流にかかる滝で、名張川、木津川、淀川をへて大阪湾にそそいでいる。
 四十八滝といっても48個ではなく、実際はもっと数が多く、四十八というのはとても多いという意味でよく使われる数字だ。ただ、名前のつけられている滝は20数個なので、滝巡りはそのあたりが中心となる。
 コースは約4キロで、アップダウンがきついところもあるので、往復は3時間程度だ。ただ、じっくり写真を撮っているととてもそんな時間で往復はできず、この往復時間というのは滝のスタート地点であるオオサンショウウオセンターを起点とした標準時間だということを頭に入れておく必要がある。バスで行った場合、バス停から入り口までは歩いて5分ほどかかるので、バス停起点で3時間となるとけっこう厳しくなる。行きはゆっくり行っても、帰りは飛び跳ねるように戻ってこないと、9時10分に着いて13時10分のバスに乗るのは苦しい。その次のバスは14時10分しかない。休憩一切なしでそうだから、多少休憩するとなると、バス停起点で3時間半から4時間くらいと考えておいた方がよさそうだ。
 最後の岩窟滝からそのまま向こう側の出合に抜けるという手もあるにはあるのだけど、そちらは更にバスの本数が少ないので行く前によく調べておかないといけない。何しろ赤目滝はバスの本数が少なすぎる。最終も4時台だし、駅まで歩くにはちょっと遠い。1時間くらいはかかるんじゃないかと思う。
 ツワモノ一日ハイキングコースとしては、峠を越えて香落渓方面へ向かうコースもある。
 駐車場代が800円くらい取られるけど、車で行けるなら車で行った方がいいところではある。バスで行けば、入山料の300円が2割引になる。

赤目四十八滝1-2

 赤目滝は、水と緑の世界だった。滝ももちろんいいけど、むしろ緑色の方が印象的で感動的だった。このグリーンワールドは何かの映画で見た色だ。『HERO』だったか、『LOVERS』だったか、『グリーンデスティニー』だったか。中国か香港映画だったと思うのだけど、はっきり思い出せない。
 何度もうわぁーという感嘆の声をあげそうになる。二人なら口に出して感動を共有できるけど、ひとり静かに噛みしめるのも悪くない。

赤目四十八滝1-3

 簡易マップをプリントして持っていったのに、マップに載っている行者滝と銚子滝というのを見落とした。見落とすくらいだから小さなものなんだろうけど、中には滝とは呼べないような小さな段差もある。
 一番最初にこれは紛れもなく滝だと思えるのは、上の写真の霊蛇滝だ。落差は6メートルほどある。
 まあしかし、このあたりはまだ序の口で、感動するほどでもない。コースとしてもまだ始まったばかり。先は長い。

赤目四十八滝1-4

 赤目滝の中で特に見所とされるのが赤目五瀑と称される5つの滝だ。その最初のものがこの不動滝ということになる。
 赤目滝は写真に撮るとどれもスケールが小さくなってしまって、実物の雄大さが伝わらない。これは自分の写真だけでなく誰が撮ってもそうなってしまうところがある。周りの状況との関係だろうか。アップで撮ったら大きさは分からなくなるし、引いて撮るとなんとなく箱庭の中の滝のように見える。なかなかここは難しいところだ。
 この不動滝も、高さ15メートルあるのに、写真を見るとそんな風には見えない。近くに人が立っていたりすると比較になるけど、人は近づけない。どう撮ればきれいに見えるかよりも、どう撮ったら大きさが伝わるかということを終始考えながらの撮影となった。そしてその方法は最後まで分からずじまいだった。
 ここまで歩いて10分か15分くらいだっただろうか。吊り橋の上からこれは撮っている。明治の中頃までは、ここで滝巡りはおしまいだった。この奥は原生林で一般人は立ち入ることができなかったそうだ。だから、修行僧以外は不動滝を見て、みんな引き返していった。今は最後まで遊歩道が整備されていて、子供でも歩けるようになっている。ただ、途中結構険しい道もあるので、それなりの靴をはいていった方がいい。公園を散歩するほど快適な散策路ではない。

赤目四十八滝1-5

 赤目五瀑の2番目は、赤目滝を代表する滝の一つである千手滝だ。かつて記念切手にもなったことがある。
 高さ15メートル。岩を伝って流れ落ちるたくさんの水を千本の手にたとえて千手滝と名づけられた。
 ここの滝はもともと修行僧が見つけて修行に使ったところでもあるので、滝の名前も仏教関係のものが多い。
 戦国時代、柏原城城主の娘千手姫と恋人の本間草之助が、織田信長軍の追っ手に追い詰められて、二人でこの滝壷に身を投げたという伝説がある。織田信長の怒りを買った伊賀忍者は、本拠地である名張の地を焼き払われたという歴史があるから、この伝説もまったくの作り話ではないかもしれない。
 普通の川でも深緑色をした深い部分に飲み込まれると遺体は上がらないことが多い。深い滝壺なら尚更だ。千手滝の滝壺は深さ20メートルある。何人飲み込んでいるんだなどと考えると、のんきな感光気分も吹き飛んでしまう。

赤目四十八滝1-6

 千手滝は、滝そのものだけではなく、周りの景観とあわせて美しい。滝の水と岩肌、周りの緑と滝壺の緑。実物は写真よりもずっと素晴らしい。
 この背後に最初の休憩地点である茶店がある。入り口から歩いて30分くらいだったか。ちょっと一休みということで、滝を見ながら休んでいる人も多かった。ただ、この暑いのにラーメンとかおでんとか言われても、それは食べる気がしない。おでんが名物らしいのだけど、冬場でも滝を見ながらおでんを食べるというのもちょっと合わないんじゃないか。神秘とおでんは相性が悪い。

赤目四十八滝1-7

 弘法大師が座禅を組んで修行したとされる護摩の窟というのがある。日本全国を飛び回った超人だから、ここへも来ていてとしても不思議ではない。超旅人の空海だから、あそこはよかったすごかったなんて話を聞いたら行かずにはいられなかったのだろう。行く先々で寺を建てたり、井戸を掘ったり、鉱脈を見つけたり、大活躍で大忙しだった。
 ここの滝を見つけたのは、役小角(えんのおづぬ)だったのか、その前から知られた場所だったのか、名前の由来は役小角が滝で修行をしていると不動明王が赤い目をした牛に乗って現れたという伝説から来ている。
 それ以来山岳修行の場となり、のちに伊賀忍者もここで修行をしたと伝えられている。伊賀忍者の祖とされる百地三太夫(ももちさんだゆう)の屋敷がここから3キロほど離れたところに今でも残っている。

 ちょっと脱線して、信長の伊賀攻めについて書きたい。
 天正伊賀の乱と呼ばれる戦がこの地で二度あった。第一回は信長の次男・織田信雄(この頃北畠の養子に入って北畠信雄を名乗る)が信長に無断で伊賀に攻め込んだ戦だった。
 北畠具教を暗殺して伊勢を自分のものとした信雄は、隣の伊賀まで支配下に収めてしまおうと考えた。この頃の伊賀は、忍者の里として、また豪族が支配する地域として、連合国のような様相を呈しており、長らく北畠にも屈せず独立を保つ特殊な土地だった。
 そこへ信雄は1万の軍勢で攻め込んでいった。しかし、やや抜けたところのある信雄の戦略は稚拙なもので、さんざんの負け戦となってしまう。信雄というのは面白いというか不思議な人物で、信長の息子として生まれながらこの先も妙な具合で生き延びていくことになる。
 なんとか信長に許してもらった信雄は伊賀の支配を任され、戦ではそれなりに活躍するも、本能寺の変では明智光秀を討とうとして秀吉に先を越されて信長の後継者となれず、尾張に戻って清洲城主となったもの、秀吉についたり家康についたりフラフラのし通しで腰が定まらない。秀吉側で賤ヶ岳の合戦を戦ったかと思うと、利用されただけと怒って家康に泣きつき、小牧長久手の戦いでは家康に無断で秀吉と勝手に和睦してしまう始末。その後秀吉についたものの、秀吉の言うことを聞かずに常陸国の佐竹氏に預けられて僧侶となってしまった。
 その後佐竹氏が秋田転封になると一緒にそこへ行き、文禄の役で秀吉に再会して肥前国から大坂天満に移り、またまた家康側について関ヶ原の合戦では大坂の情報を家康に流したりした。それからもあっちへ行きこっちへ行きして、73歳まで生きた。
 話を戻すと、勝手に戦をしてしかも大敗した信雄は、信長にこっぴどく叱られた。と同時に信長は伊賀勢に危機感を抱き、今度は自らの指揮で伊賀総攻撃を仕掛けることになる。これが第二回天正伊賀の乱だ。
 信雄を総大将に、丹羽長秀、滝川一益、浅野長政、蒲生氏郷、堀秀政、筒井順慶など、有力な武将と6万近い兵で伊賀を取り囲んだ。対する伊賀勢は9,000。いくら忍者とはいえ多勢に無勢の団体戦では勝ち目がない。伊賀の地はことごとく焼き払われ焦土と化した。
 ただ、百地三太夫など最後の伊賀勢がこもった柏原城を信長は攻めなかった。ここで和議が成立して、柏原城は平和的な開城となった。
 生き残った百地三太夫たちは高野山へ落ちのびたとも、更にその先へ逃げ延びたとも伝えられ、その後の消息は分かっていない。
 天下の大泥棒として名を馳せた石川五右衛門は、百地三太夫の弟子として伊賀流忍術を学んでいる。そしてここでも泥棒だったエピソードを残している。盗んだのは金でも秘術でもなく、百地三太夫の奥さんだった。更に百地三太夫の妾の命も奪って逃げている。
 というのは、あくまで伝説で、どこまで本当かは分からないのだけど。以上、脱線終了。

赤目四十八滝1-8

 千手滝のすぐ次に来るのが、これも五瀑の一つ布曳滝だ。
 30メートルの高さから、天女の羽衣の白布をはらりと垂らしたような姿が美しい。この滝が一番好きという人も多いようだ。
 天正伊賀の乱のとき、たくさんの伊賀の人たちがここまで逃げてきて、この滝で追い詰められた。そのとき滝の上から一枚の白い布が降りてきて、それに掴まって伊賀の人々は逃げ、同じように掴まって追いかけようとした織田勢は布が滝壺に落ちて命を落としたという伝説が残っている。

赤目四十八滝1-9

 縦撮りしてみたけど、もうひとつ高さとエレガントさが伝わらない。

赤目四十八滝1-10

 滝というか、竜ヶ壷と名づけられているところ。落差はわずか2メートルほどなのに、滝壺の深さは50メートルとも言われている。そのため、昔からここには竜がすんでいると言い伝えられている。名前もそこからつけられた。

赤目四十八滝1-11

 竜ヶ壷でだいたい3分の1ちょっとで、最初に引き返すならここだろう。この先は滝の間隔が広くなって、ポツリ、ポツリの登場となり、道も険しくなっていく。
 滝の見所としては、これまでの倍くらい歩いたところにある荷担滝ということになるだろうか。
 竜ヶ壷からもうちょっと頑張って歩くと、明るく開けた百畳岩と呼ばれる広い河原に出る。そこには第二の休憩所である百畳茶屋があって、ここで弁当タイムの人も多い。
 上の写真は確か、陰陽滝だったと思う。陰陽師に関係あって「おんみょうだき」と読むのかと思ったら、「いんようたき」だった。
 陽は滝の流れで、陰は滝壺を指し、陰陽のコントラストの見事さからこう名づけられたそうだ。
 ここでやっと半分くらい。まだ半分。けっこうしんどい。暑さもあって体が重い。重装備の三脚組は大変だ。

赤目四十八滝1-12

 姉妹滝。これくらい大きさというか太さが違うと、姉妹というより母娘滝だ。兄弟でも、父子でもないのは、この滝の大きさからだろうか。
 滝は女性名詞か男性名詞か、どちらなんだろう。陰のものか陽のものか。

 最初から一回で全部紹介できるとは思ってなかった。赤目滝シリーズ第一回は、これくらいにしておこう。滝の写真はもうあまり残っていないのだけど、滝以外の写真がたくさんある。あと一回では終わらないだろうから、全三回プラスアルファということになりそうだ。
 たぶん、明日はこの続きの第二回になると思う。
 つづく。

日光シリーズ番外編は旅の思い出編 ~日光第十回<最終回>

観光地(Tourist spot)
番外編-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 日光シリーズ最終回は、番外編として旅の思い出写真を集めてみた。主に乗り物と食べ物などを。
 出かけたのは7月20日だから、あれから2週間以上になる。そろそろ締めくくって次のシリーズを始めよう。
 旅の記憶は近いようで遠く、遠いようで近い。同じ日の出来事なのに遠く感じることと、近く感じることがある。記憶と時間の関係というのも不思議なものだ。

 旅の始まりは池袋。朝7時38分、日光1号に乗り込んで日光を目指す。
 東京から日光へ行くにはいくつかのルートがある。便利なのは新宿か池袋からJRと東武相互乗り入れの直通特急で行くパターンだ。他には浅草あたりまで出て、そこから東武の特急に乗っていく方法と、JRで宇都宮まで行ってそこから日光を目指す方法などがある。
 一日日光をたっぷり見学しようと思うなら、何らかのフリーパスを買うことをおすすめする。ただ、これもいくつかパターンがあって、どれを選べばいいのか迷うところだ。
 行き帰りともに新宿・池袋起点なら直通特急の往復フリーパスがいいかもしれない。現地でのバスも乗り放題になる。ただし、これは帰りの電車が早いのが難点だ。休みの日でも17時4分、平日なら16時37分になってしまう。春夏なら夜19時くらいまでは明るいし、寺社も17時までは開いてるから、この時間に帰るのはもったいない。17時帰りとなると、スケジュールもかなりタイトになる。
 私たちは結局、東武のフリーパスと栗橋までのJR区間の乗車券を買って往復した。これでも現地で路線バスは乗り放題になるし、ロープウェイやおみやげ屋の割引サービスもある。
 もっと安く上げたければ、特急に乗らず、東武バスだけのフリーパスを買うという手もある。
 いずれにしても、日光は交通も寺社もややこしい。行く前にある程度下調べしてから行った方がよさそうだ。

番外編-2

 9時半過ぎに東武日光に到着。東京から2時間ならそんなに遠くはないか。ただ、9時半スタートというのは、日光の広さを考えるとやや遅めだ。もっと早く着きたければ、早朝5時すぎに東京を出て、JRと東武を乗り継いでいく方法がある。4回乗り換えで乗車時間3時間。8時過ぎに日光に着く。電車賃もこれなら1,530円だ。ただ、そんな早い時間に日光のバスが動いてたかどうか。

番外編-3

 いきなりバスは長蛇の列。日光1号から降りた人たちの大部分が並んだ感じだ。リュックと帽子の確率高し。
 夏休み初日の日曜日とはいえ、この日は特別な日でもシーズンでもなかった。これくらいの混雑ぶりは週末の日光では並みなのだろう。ゴールデンウィークや紅葉の季節などはどんなことになってしまうのだろう。
 日光ではバスしか公共交通機関がない。自家用車以外の人はみんなバス移動になる。当然車内は混み合う。道も渋滞している。歩くには遠すぎるし、レンタサイクルも見あたらない。道が狭いからか、観光地によくある自転車タクシーや人力車のたぐいもいない。どこへ行くにもバスしか選択肢がないというのはちょっと厳しいところだ。そのわりにバスの本数が少ない。
 日光は世界遺産のある観光地としてはちょっと問題が多いように思う。日本人でも分かりづらいところがあるから、外国人なら尚更だろう。いろは坂の渋滞も名物といえばそうだけど、もう少しなんとかならないものか。中禅寺湖まで鉄道は敷けないか。無理かな。
 東照宮などの二社一寺までも駅からはけっこうある。歩けば30分くらいかかりそうだ。だからバスに乗ることになるのだけど、ここでも時間制限ができてしまって行動が制限されてしまう。
 日光は一日でどん欲に全部回ろうとするようなところじゃないのかもしれない。一泊すればある程度ゆっくり見て回ることはできるだろう。ただ、実際そうなったとしたら、私なら絶対東武ワールドスクウェアや日光江戸村まで行ってしまって、結局ぎちぎちのスケジュールになってしまうに違いない。

番外編-4

 観光用にあえて残したのか、自然と残ってしまったのか、たくさんの丸ポストがあった。私も4基くらい見かけた。丸ポスト愛好家によると、日光市内に14基あるらしい。
 輪王寺の参道や東照宮前のおみやげ屋さん、神橋の近くのおみやげ屋さんなどで見た。中善寺郵便局前や金谷ホテルの前にもあるそうだ。

番外編-5

 ツタだらけのホテルがあった。名前もそんなような名前だった気がするんだけど、忘れてしまった。
 ひとけがあるようなないような、営業してるのかどうか分からないようなところだった。
 日光といえば金谷ホテルが有名だ。神橋から少し中に入ったところにあるようだけど、わざわざ見に行くようなことはしなかった。泊まる予定もまったくない。
 部屋代だけで1万5,000円から4万6,000円くらい。二食付きなら2万6,000円から5万7,000円くらい。意外と安いと思うか、充分高いと思うかはその人次第。

番外編-9

 帰りは雨になった。雨宿りと休憩を兼ねて、神橋近くの日光物産商会に入ることにした。
 この建物も古いもので、創業明治27年、明治38年に改修したものが今もそのまま使われている。築100年の木造二階建て寄棟造りで、建て床面積は1,080平方メートル。国の有形文化財に登録されている。
 明治の後期、みやげ物屋として創業して、当時は日光金谷ホテルが経営していた。当時は日光彫りや木工品が主な商品だったそうだ。その後、木工品製造は別会社になって、みやげ物の専門店となった。
 現在は、「そば処 神橋庵」、「カフェレストラン 匠」、「日光金谷ホテルベーカリー」を併設している。
 場所は神橋近くで、バス停の向かいなので、時間調整をするにもいいところだ。建物自体を見るだけでも価値がある。

番外編-8

 一階はおみやげ物を売っている。日光名物ゆばや饅頭など。
 隣に金谷ベーカリーがあって入ってみたら、夕方遅い時間だったので、ほとんどのパンが売り切れていた。

番外編-7

 二階にあるカフェレストラン匠で一服。ここも雰囲気のある店内だ。和洋折衷の内装で、昔のハイカラ趣味といったところだろう。
 いろんな額が飾られていたり、和物の小物が置かれていたり、日光彫りもあった。テーブルは日光杉を使っているそうだ。
 窓ガラスはあえて昔のままのものを残していて、独特のゆがみがある。
 ここはなかなかおすすめできる。

番外編-6

 コーヒーや紅茶とケーキのセットが840円。ここのケーキは金谷ベーカリーのものを出している。
 金谷ホテルはアップルケーキとチーズケーキが有名らしい。

番外編-10

 せっかく日光に来たんだから、ゆば関係のものを食べていこうということで、駅前の「らんぶる」という店に入った。
 ガイドブックでは創業100年の店とあったのだけど、前まで行ってみるとなにやら様子が違う。田舎の中華レストランのようなたたずまいだ。でも、とにかく入ってしまうことにする。

番外編-11

 うーん、なんというか、チェーン店のファミレスみたいな店内だ。とても創業100年の老舗とは思えない。若干嫌な予感が。
 入った時間がラストオーダーぎりぎりということで、ご飯ものはありませんときた。ご飯が品切れ? 名物はゆば丼だったはずだけど、それは食べられなかった。
 麺類は大丈夫というので、私はゆばラーメンを、連れはゆばうどんを注文した。

番外編-12

 なんだろう、この感じ。良く言えばレトロと言えるだろうか。昭和のデパートのレストランを思い起こさせる。ビニールのテーブルカバーなんか掛かっていたら完全にそんな感じだ。
 ゆばはしっかり二つ入っている。これで値段が上がっているのだろう、900円。
 ラーメンはオーソドックスというか、たるいというか、パンチが足りない。あっさり味と言えばそうか。
 この店自体が説得力を欠いているので、このゆばが本当に日光を代表するゆばなのかどうかという疑問がわき起こってしまって、誉めていいものかどうか判断がつかない。ここは日光ゆばを食べさせる店としてはどれくらいのランクなのだろう。同じものがもっと老舗然とした古い店で出されたら、素直に美味しいと言ったかもしれない。
 京都のゆばとはだいぶ違う。ぐるぐる巻きになっていることもあって、やや豆腐っぽさが残っている。日光ゆばというものはこういうものらしい。
 日光ゆばの歴史は古く、輪王寺の修行僧たちが精進料理として持ち込んだのが始まりとされている。もともとはやはり都の方から伝わってきたもののようだ。奈良時代の終わり頃だろうか。
 肉や魚が食べられない修行僧たちにとってゆばは貴重な淡白源で、乾燥させれば保存もきいて、山岳修行のときに携帯するにも便利だった。
 鎌倉時代になると公家や武士、町人の間にも広がりをみせ、江戸時代に全盛期がやって来る。東照宮参りに来た人たちが名物として食べたり、おみやげとして買っていったのだろう。
 しかし、明治になると肉食などの洋風化が進んで、ゆばは衰退していく。日光のゆば屋は寺社の専属になって生き延びることになる。
 再び日光ゆばが脚光を浴びるようになったのは、戦後のことだ。日光が外国人たちの避暑地から一般の観光地へと変貌していく中で、他にこれといった名物がなかった日光で、ゆばが注目を集めるようになり、名物として定着していった。
 どういうわけか、京都では「湯葉」という字を当てるのに対して、日光では「湯波」と表記する。京都では一枚仕上げでひらべったいまま食べる。日光では二枚仕上げにして、ぐるぐる巻きにする。二枚仕上げにすると、ゆばとゆばの間に豆乳が残る。これが豆腐っぽい味と感じた理由だ。だから、京都と日光では同じゆばでも別物と思った方がいい。
 老舗の「海老屋」や「ふじや」などが作っているゆばなら間違いなさそうだ。
「らんぶる」はどうなんだろう。連れのうどんの麺の太さがバラバラだったのは笑った。極太麺ときしめんみたいに平べったい麺と細麺が気ままにミックスされていて、あんなうどんを見たのは初めてだった。余り物を集めたにしても、なんであんなことになってしまったのか不思議だ。
 ここのゆば丼はなかなか評判がいいのだけど、麺ものはあまりおすすめできないかもしれない。

番外編-13

 連れにお裾分けしてもらった金谷ベーカリーのクッキーと、左甚五郎煎餅と、とちおとめチョコサンドが日光のおみやげだった。
 金谷ベーカリーのクッキーは手作り感が強いながらも家庭では作れないクッキーで美味しかった。
 左甚五郎煎餅も、思ったより洋風寄りというかサクサク煎餅で気に入った。
 とちおとめチョコサンドは、雷鳥の里ラインのやつだ。どこへいってもこの系列のものを買い集めて食べるのがちょっとした趣味となっている。山形の樹氷ロマンは雷鳥に肉薄したけど、まだ本家を超えるものには出会っていない。名古屋嬢も好きだし、とちおとめチョコサンドもイチゴ味という特徴があって美味しかった。河口湖では白桃スイートチョコサンドだった。少しずつコレクションが増えてきた。今後とも全国あちこちで姉妹商品を見つけていきたい。

 日光のこともこれでだいたい書き終わった。ブログが完結したところで気持ちの中でもようやく終わったという気がしている。
 今回は旅そのものも、帰ってきてから書くのも楽しかった。けっこう勉強して、いろんなことが分かって、思いがけないつながりも発見できた。二社一寺も、最初はどういうことかよく分からなかったけど、最終的には歴史の流れも横のつながりも理解できた。明智光秀天海説や、華厳の滝と夏目漱石のつながりなどの話も書けてよかった。
 これで終わってしまうのはちょっと寂しいような感じもある。ただ、もう日光はこれで終わりだ。ネタ写真の在庫がだぶついてきてるから、次のシリーズに移らないといけない。まずは赤目四十八滝と室生寺、長谷寺から始めようか。大須と円頓寺、四間道の散策シリーズも手つかずだし、その前の中小田井の神社仏閣編も途中になっている。小ネタとして早稲田早朝散策というのもあるし、穴八幡宮にも行ってきたから、それも書きたい。
 気持ちはそろそろ次の岐阜歴史散策に向かっているし、できればどこかで二本立てをして在庫をどんどん消化していきたいところだ。
 長かった日光シリーズにおつき合いいただきありがとうございました。お疲れ様でした。

東照宮についても書ききったから、もう結構と言い放題 ~日光第九回

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
東照宮2-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 東照宮編の後半は、短くさらっといこうと思う。昨日の前半は力が入って長すぎた。あれでだいたい書こうと思っていたことは書ききってしまったから、後半は捕捉のような形になる。拝殿も本殿も入れず、薬師堂なども内部は全部撮影禁止で写真がないのが残念なところだ。
 昨日は陽明門をくぐったところまでいったけど、もう一度門の外に出たところから再開したい。門の左右に見えている建物の向かって左手が神輿舎(しんよしゃ)で、右手が神楽殿だ。どちらも外観の写真を撮るのを忘れてしまったから、ここで説明してしまおう。
 神輿舎は、祭りのときに使う神興(みこし)をしまっておく蔵だ。これは中の写真を撮った。
 神楽殿は、名前の通り神楽を舞うための建物で、春の大祭のとき、ここで八乙女(やおとめ)が舞を奉納する。八乙女というのは、神楽を舞う巫女(みこ)さんのことで、8人というのがだいたいの決まりのようだ。
 ただ、東照宮には八乙女がいなくて、二荒山神社から借りてくるらしい。まさか、バイトの女の子を募集するわけにもいかない。
 東照宮や二荒山神社ではどれくらいの神職の人たちが働いているのか、全然見当がつかない。社務所などには当然常駐していて交代制だろうから、それなりの人数はいそうだ。巫女さんも何人か見かけた。普通の神社とは違うところだし、格式のあるところだから、特別選ばれた人たちなのかもしれない。

東照宮2-3

 神輿舎の中をのぞくと、3基の神輿が並んでいるのが見える。真ん中は当然のことながら主祭神(しゅさいじん)の徳川家康だ。けど、左右の顔ぶれがすごく意外だった。向かって右が配祀神(はいしじん)の豊臣秀吉で、左が源頼朝だという。実は東照宮の祭神は、家康だけでなく、秀吉と頼朝の3人だということを知っているだろうか?
 誰の発案でそうなったのかは知らない。家康が言い出したことなのか、天海やその他の人が決めたことなのか。確かに家康は源頼朝を尊敬していて非常に親しみを感じていたということは伝わっている。ただ、秀吉を一緒に祀った理由は何だったんだろう。最終的には秀吉の家臣となった家康だから、お館様を祀るのは不自然なことではないのかもしれないけど、この3人の並びというのは唐突な気がする。秀吉に対してはそこまで尊敬の念を持っていたようには思えないし、何しろ自ら一族を攻め滅ぼしている。
 家康は日本の平和を守るという目的で東照宮を建てることを遺言で命じたというから、そのためにはこの3人の力をもってしてしか成し遂げられないと考えたのだろうか。だとすれば、祀るべきは信長などではなかったのもうなずける。それとも、もっと違う思惑があったのか。
 春秋の神輿渡御祭(しんよとぎょさい)では、この3基の神輿が主役となる。夕方の宵成祭(よいなりさい)では神輿が二荒山神社に渡って一晩を過ごす。翌日、百物揃千人武者行列(ひゃくものぞろいせんにんむしゃぎょうれつ)が境内を歩きながら戻ってくる。
 重さ800キロの神輿を55人で担ぐのだけど、この神輿は軽量化された二代目だ。初代は1,120キロあって、現代人では55人で担げないということで、昭和40年代に新しく作られた。昔の人は足腰が丈夫だった。初代は東照宮の宝物館で展示されている。
 天井にちらっと見えているのは天女の絵で、日本一美しい天女とも言われている。

東照宮2-4

 本社前の唐門は激しく修繕中だった。これは残念。美しく、最も重要とされる唐門の姿をちゃんと見ることができなかった。
 唐門は本殿へ至る正門に当たり、重要な祭典のとき、国賓しか通ることが許されない門だ。江戸時代は将軍に拝謁できる御目見得(おめみえ)以上の者しか通れなかった。今なら総理大臣くらいまで出世すれば通れるかもしれない。
 しかし、日光山は、いつもどこかで修理をしている。こっちが終わればあっち、あっちがやっと終わったと思ったらまたこっちと、休まる暇がない。東京の道路工事みたいなものだ。
 これだけのものを管理維持していくのはさぞかし大変なのだろう。ちょっとした塗り直しでも数億円の費用がかかる。高い拝観料を取らないとまかなえないのかもしれない。
 たまたま工事中ではないときに行けたとしたら、それは大変運がいい。

東照宮2-5

 間口は3メートル、奥行き2メートルと、小さな門で派手さはないけど、手の込んだ彫りと飾りは素晴らしい。扉は牡丹唐草、梅、菊などの透彫になっていて、白い胡粉で塗られている。
 材料に中国から輸入した入手困難な唐木を使っているところから唐門と呼ばれている。
 四方軒唐破風の屋根には、恙(つつが)という中国の伝説上の生き物が乗っている。獅子に似ていて、虎や豹、人まで食べてしまうという強い獣だ。その備えとして、龍も警護に当たっている。
 恙や龍の彫刻があまりにもよく出てきていて命を得てどこかへ行ってしまわないようにと、足を金の環で留め、龍は翼を切ってあるのだとか。
 門柱のところにある鶴は、日本航空の鶴丸マークで、あれはここから取ったものだ。つい最近、あのマークが機体から消えたというニュースがあった。この前最後のボーイング777型機が飛んで、それが最後となったそうだ。経営統合によって尾翼の太陽マークになってしまった。東照宮の霊的パワーを失った日本航空の将来はどうなっていくのだろう。

東照宮2-2

 本殿周りの透塀(すきべい)もまた、凝りに凝っている。
 上部の欄間には松などにとまる鳥たちが、下段には水と水辺の鴨、鴛鴦、千鳥などが彫られている。同じ彫り物はなく、全長167メートルの塀がぐるりと本社を囲んでいる。
 近所でタダなら何度でも見に来たいけど、遠くて高いから、一生のうち何度も行けない。これっきりということも充分考えられる。

東照宮2-11

 拝殿横の祈祷殿。
 日光門主が護摩を焚いて天下の平和を祈願した護摩殿だった建物で、明治の神仏分離令のときは、社務所と言い張って移築を逃れたのがこれだ。今は上社務所と名づけられている。こんな豪華な社務所を持っている神社は他にない。
 拝殿へ入るのに列ができていて、20分か30分かかるというので断念した。なので、中の様子はよく分からない。当然のことながら、絢爛豪華で、装飾はものすごいことになっていることが想像できる。
 建物は、拝殿、石の間、本殿を工の字形に配した権現造りとなっている。もともとこのスタイルは大明神造りといっていたそうだけど、東照宮以降は権現造りという呼び名になった。

東照宮2-6

 これはどこの彫刻だったろう。忘れてしまった。東回廊に入ったあとだったか、その前だったか、思い出せない。

東照宮2-7

 眠猫は、奥社へと続く東回廊にいて、これを見るためには二社一寺共通券の他に520円の追加料金を払う必要がある(東照宮すべてだけの券なら1,300円)。
 坂下門をくぐって、少し進んだところに猫がいる。みんな上の方を見て写真を撮っているから、すぐにそれと分かる。でも、何の手がかりも案内もなければ、気づかずに通りすぎてしまいそうだ。何しろ猫は小さいのだ。

東照宮2-8

 あ、いた、猫! 小っちゃ! その大きさはわずか21センチ。
 眠り猫という案内表示がなければ気づかない。これを見るためだけに520円は高い。そもそもなんでこんな猫の彫刻がここまで有名になったのだろう。
 作者は彫り物の名人とうたわれた左甚五郎。これも有名な話だ。しかし、左甚五郎は実在していなかったという話がある。左甚五郎が彫ったという彫刻は全国に多数あって、とても一人ではできない量なのだという。しかも、作品は江戸の初期から末期にいたるまであるというから怪しい。どうやら左甚五郎を名乗る人物は何人もいたようだ。左甚五郎という本名の人間はいなかったのかもしれない。
 一説では、左利きの甚五郎という彫り師がいて、その彫刻が見事だったものだから左利きの甚五郎という呼び名で評判になって、それがいつしか左甚五郎という名人がいたということになっていったらしい。飛騨の甚五郎がいつの間にか左甚五郎になったという話もある。
 この猫が本当に天才彫り師の手になるものかどうか、素人目には判断がつかない。猫好きの視点で見れば、猫らしくないとも言える。あまりかわいくないし。
 これだけ無数の生き物が彫られている日光の中で、猫はただこの1匹だけだ。それが評判になったゆえんかもしれない。
 眠っている猫の裏側には雀が遊んでいる姿が彫られている。それくらい平和な世の中になった象徴ともいい、実は眠っているふりをして何か悪いものが通ろうとしたときはすぐに飛びかかれるように目を閉じて構えているのだも言われている。
 それにしても、この小さな猫の彫刻が単品で国宝指定というのだから、それはもうまいったというしかない。やっぱり左甚五郎という天才彫り師は実在して、この猫を彫ったのだと信じたい。
 このまま東回廊を進むと奥社に着く。10分くらいかかるらしい。そちらも国宝だから見に行く価値はあったのだろうけど、時間がなかったので猫のところで引き返した。

東照宮2-9

 最後に本地堂(薬師堂)に寄って鳴き竜というのを見ていくことにした。ここも残念ながら撮影禁止で竜の写真はない。
 天井に縦6メートル、横15メートルの巨大な龍が描かれていて、その真下で拍子木を叩くと龍の絵が共鳴して、龍が鳴いているように聞こえる仕組みになっている。確かにルルルルルルといったように鳴いていた。ポンとかロンとか鳴きまくってあんた背中が煤けてるぜと言う方の竜ではない。
 本地堂は1961年に焼けて、現在の建物は1963年から68年にかけて再建された新しいものだ。東照宮の中にも重文じゃない建物があった。ただし、これは輪王寺のものかもしれない。

東照宮2-10

 東照宮の境内はそれほど広大というわけではない。写真に写っている範囲で全体の半分くらいだ。この背後に拝殿や本殿などがある。奥社まで入れるとけっこう広いということになるか。
 私が今回紹介できる東照宮は、これでほぼすべてだ。見逃したところや撮り逃しもあって心残りもあるけど、まずまずだいたいは回れたと言っていいだろう。三猿も陽明門も眠猫も見た。拝殿に入れなかったのと、唐門も修理中は残念だった。
 日光シリーズも今回で九回目になった。あと一回、食事、おみやげ番外編を書いて完結する予定だ。二社一寺に関しては、帰ってきてから勉強して、ようやく全体のつながりや関係性が理解できた。このブログに書いたことも大きかった。これから日光へ行く人の助けになるといいのだけど、どうだろう。やはり一度は自分の目で見てみないと分からないこともたくさんあるに違いない。
 東京からでさえけっこう遠いから地方から行くのは大変だけど、一度は行ってみる価値のあるところだと思う。特に大人になってから、元気のあるうちに行くことをおすすめします。

東照宮に関する前置きから猿物語をへて陽明門までの長話 ~日光第八回

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
東照宮1-1

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 人間五十年、40歳で初老といわれた江戸時代、異例の長生きだった徳川家康は、74歳になってもまだ元気で鷹狩りに出かけていた。日頃から健康には人一倍気を遣い、自ら調合した薬を飲んでいたくらいだから、特別不自然というわけではなかったかもしれない。
 しかし、鷹狩りに出た1616年1月21日の夜、出された好物の鯛の天ぷらを食べたところ、にわかに体調がおかしくなった。その頃京で流行っていた天ぷらがあまりにも美味しかったために食べ過ぎたのだとも言われている。一説ではその前から胃ガンを患っていたという話もある。
 体調が好転することなく季節は春4月。いよいよ病状が悪化した家康は自らの死期を悟り、側近の本多正純や天海、崇伝を枕元に呼び寄せ、死後のことについて指示を与えた。葬儀は増上寺で行い、自分の遺体は久能山へ納めること。位牌は大樹寺に立て、一周忌をもって日光山に小さな堂を建てて祀ること、それが遺言だった。
 遺言通り、いったん久能山に葬られ(現在の久能山東照宮)、その間に二代将軍徳川秀忠は、本多正純と藤堂高虎を専任の奉行として、日光山に家康を祀るための廟の造営に当たらせた。
 着工が10月だったこともあって、一周忌に間に合わせるために突貫工事となった。約5ヶ月で本社や拝殿、霊廟などの主要な社殿は完成したものの、このときはまだ規模の小さなものだったという。名前も東照社と称していた。東照宮となるのは、30年近くのちの1645年のことだ。後光明天皇から皇室の先祖神を祭る神社に用いられる宮の称号が与えられて、東照宮に改名された。
 ちなみに、日光東照宮の正式名称は、東照宮だ。伊勢神宮の正式名が神宮であるように、東照宮といえば日光の本家のことを指す。その後全国各地にたくさんの東照宮が建てられたことから、それらと区別するために日光東照宮といわれているにすぎない。江戸時代は譜代大名も外様大名も将軍家のおぼえめでたくなるようにと、こぞって東照宮を建てた。最盛期は全国に500社もあったという。明治に入ってからは廃社や合祀されて現在は130社ほどになっている。よく三大東照宮という言われ方をするけど、あれはそれぞれが勝手に名乗っているだけで根拠はない。二社は日光と久能山で動かないけど、残り一つはどれも自称だ。
 東照宮が現在のように立派になったのは、三代将軍家光のときだ。1634年から1年半かけて大改築を行い、今のような姿に生まれ変わった。その後、五代将軍綱吉が1689年に大修理を行うなど、数度の手直しはされたものの、姿そのものは往時のものをとどめていると言われている。
 寛永の大造替(だいぞうたい)は、幕府の威信をかけて行われた。費用の上限なしとさえ家光は言ったという。造営工事に関してはすべての費用を幕府が出したとされている。その額は金56万8,000両、銀100貫目、米1,000石。現在に価格に換算するのは難しい。兆の単位だろうか。
 造営奉行は秋元泰朝(あきもとやすとも)が任命され、建築総指揮は幕府の大棟梁・甲良宗広(こうらむねひろ)、彩色や装飾は狩野探幽(かのうたんゆう)一門が務めた。多い日には全国から集められた数千人の大工や職人が働き、工事に関わった人数はのべ450万人を超えたとされている。そのおかげで、わずか1年半で完成に至った。いや、これだけの人員を動員して1年半かかったと言うべきか。
 境内は神社と寺院とが混ざり合った不思議な空間となっている。鳥居の隣に五重塔があり、神社の社殿を出たすぐ外には薬師如来を祀る本地堂がある。現在社務所として使われている建物は、もともと護摩堂だったところで、明治の神仏分離令のときにここは社務所だと言い張って移築を逃れた。本地堂などは、東照宮の境内にありながら東照宮のものなのか輪王寺の所属なのか、はっきりしていないという。
 55の建物はすべて国宝か重要文化財に指定されている(国宝8棟)。
 東照宮の造営には陰陽道で江戸の町を作った天海が深く関わっているから、ここにもその思想は当然表れていると見るべきだ。
 北緯34度32分に太陽の道というものがある。奈良の写真家小川光三という人が発見して知られるようになったもので、伊勢の斎宮から淡路島の伊勢の森を結ぶ北緯34度32分に、天照大神など太陽に関する神社や信仰のあとが点々と続いていることからそう呼ばれるようになった。これは大和政権下で確かにあった考えのようで、天海や、もしかしたら家康も知っていたのではないかと思われるふしがある。最初に遺体を葬るように命じた久能山は、京都の南禅寺から家康が生まれた岡崎、関わりの深かった鳳来寺とを直線上に結んだ先に位置している。家康が神となるためには、この道を通って東方へと至らなければならないという考えがあったのではないか。西は太陽が沈む方角で死を意味し、東は太陽が昇る方角だから生まれることを象徴している。家康は東方から神として再生しようとしたのかもしれない。
 久能山と富士山を結んだ延長線上に日光山があり、同時にそれは江戸の真北方向の延長戦と交わる位置でもあるのだ。更にその北の空には北極星がある。古代の思想や信仰において北極星というのは非常に重要な存在で、真北にあって動かないということから伊勢神宮の信仰も北極星に関わっていたという話もある。
 東照宮の建物も、陽明門とその手前の鳥居を中心に結んだ上空に北極星が来るように設計されており、その線を南に伸ばしていくと江戸に当たる。しかも、主だった建物が北斗七星と同じ配置をしているという。
 これをこじつけとみるか、天海や家康が仕掛けた秘儀とみるかはそれぞれの判断でいいと思うけど、世の中にはそういうことを研究してる人たちがいて、そんな説もあるということを紹介してみた。個人的にはとても面白いと思う。月刊ムーあたりで特集されているに違いない説ではあるけれど。
 今回もまた前置きが長くなった。勉強はこれくらいにして、いい加減鳥居をくぐって中に入っていこう。建物の説明はささっと軽めで。
 上の写真で半分見えている一の鳥居は、1618年に筑前の黒田長政が奉納したものだ。石造りで高さは9メートル、柱の太さ3.6メートルと、江戸時代に建てられたものとしては最大のものだそうだ。京都八坂神社、鎌倉八幡宮のものと合わせて日本三大石鳥居と呼ばれている。

東照宮1-2

 さすがに東照宮は一番の賑わいを見せていた。神社仏閣に興味が薄い人でも、日光まで来たら東照宮だけは見ておこうと思うだろう。しかし、その足元を見たかのような1,300円という高額な拝観料。いくら貴重な国宝があって、世界遺産としても、これはちょっと取りすぎ。国宝は国の宝ではなく、国民の宝という定義なのだから、タダにして広く見せるべくじゃないのか。高校生以下は無料でいい。
 二社一寺共通券で主だったところは見られるけど、この券では有名な眠猫が見られない。眠猫を見るためだけに520円払わないといけないとうのもこしゃくなところだ。
 江戸時代の拝観料というのはどうなっていたんだろう。江戸の庶民でも気軽に参拝できる場所だったんだろうか。
 写真奥に見えているのが東照宮第一の門、表門だ。仁王さんがいるから仁王門ともいう。

東照宮1-3

 鳥居をくぐってすぐ左手、表門の前にいきなり五重塔がある。普通なら五重塔がハイライトになるところが多いのだけど、東照宮の場合は、まだ前菜だ。美しくて立派な塔なのに、今ひとつ存在感がない。立ち止まってしげしげと眺めていく人も少ないようだ。私もかなりの五重塔好きな方だけど、この塔にはあまりオーラのようなものを感じなかった。
 最初のものは、1650年に小浜藩主だった酒井忠勝が寄贈した。しかし、1815年に落雷によって消失。子孫の酒井忠進が1818年に再建したものが現在に残っている。190年といえば充分古いものだけど、もうひとつありがたみを感じないのはどうしてだろう。
 高さは34メートルで、なかなか派手な彩色がされている。近くで見ると彫刻も凝っている。
 内部には大日如来像が安置されている。

東照宮1-4

 仁王門。表の左右に朱塗りの仁王さんが立っている。
 八脚門で切妻造。間口は約8メートル、奥行は約4メートルある。
 唐獅子や獏、麒麟や虎など85の彫刻が施されている
 江戸時代は門の下に警備員がいて、清め草履にはきかえてから参拝したそうだ。当時は今とは比べものにならないくらい神聖な場所という思いが強かったのだろう。

東照宮1-5

 表門の先には、下神庫、中神庫、上神庫という3つの蔵があり、三神庫(さんじんこ)と名づけられている。上の写真は、下神庫だ。
 奈良の正倉院に代表される校倉造り(あぜくらづくり)を模した建物で、祭りのときに使う装束や流鏑馬(やぶさめ)の道具などがしまわれている。
 派手な色と凝った細工に驚くところだけど、大猷院を見たあとだったので、もう感覚が麻痺していた。こちらを最初に見ていたら、もっとびっくりして感心していたことだろう。

東照宮1-6

 上神庫は特に金箔で派手に飾られている。
 側面の屋根の下に、2頭の大きな象の彫刻がある。でも、像としては姿がおかしい。狩野探幽は象というものを当然見たことがなく姿形も知らなかったため、想像で描いたからこうなったんだそうだ。そのため、想像の象と呼ばれている。
 何故象かといえば、蔵と象をひっかけたダジャレらしい。そういう遊び心も少し散りばめられている。
 左手奥に見えているのは、御水舎(水盤舎)だ。1635年、佐賀藩主の鍋島勝重が寄進したもので、神社に人工の手洗い場を作ったのはこれが最初とされている。それまでは近くにある自然の川や湧き水で身を清めていたそうだ。伊勢神宮ではいまだに五十鈴川で手を清めている。それにしても、手水舎の始まりが江戸時代の日光東照宮からだったとは知らなかった。
 御水舎も足に花崗岩を使ったり、細工が施されたりして豪華な造りになっている。軒下に彫られた飛龍の彫刻は、東照宮最高傑作とも言われている。

東照宮1-7

 これが有名なみざる・きかざる・いわざるの三猿がいる神厩舎(しんきゅうしゃ)だ。一番有名なのに、群を抜いて地味な建物というのは面白い。彫りや造りは凝ったものとなっているけど、東照宮では唯一、漆を塗らない素木造(しらきづくり)の建築となっている。
 これは厩舎(きゅうしゃ)、つまり馬小屋で、現在でもオスの白馬を2頭飼っている。神様に仕える神馬の勤務は午前10時から午後2時まで。雨や雪の日はお休みだそうだ。このときは夕方だったので、もう姿はなかった。
 馬小屋に猿の彫刻があるのは、昔から猿は馬の病気を治す守り神だと信じられてきたからだ。室町時代まではここで猿も飼っていたんだとか。

東照宮1-8

 猿の彫刻は、8つのストーリーとなっていて、三猿はその中のワンシーンだ。これだけが有名になって一人歩きをしてしまったため、間違った解釈してしまっている人も多い。
 実際は猿の一生を描いた物語形式になっている。1番目は額に手をかざした母猿と小猿がいる。小猿の将来を心配する母と、無邪気に母の顔をのぞき込む子供の姿が彫られている。
 2番目が三猿のシーンだ。子供のときは、悪いことを見ざる、言わざる、聞かざるでいいんだよという教えを表している。大人になったらそうはいかない。
 3番目は、独り立ちする前の猿。まだ決心がつかずに座り込んでいる。4番目は大いなる志を抱いて天を仰ぎ見る猿。夢と不安でいっぱいだ。
 5番目は人生の壁にぶち当たる猿。思い悩むときは、そばに励まし支える友がいる。6番目は恋をしてはしゃぐ猿と、悩む猿。
 7番目は結婚した2匹の猿。しばしの幸せと、やがてくる荒波を予感させる。最後の8番目はおなかの大きい猿。小猿も成長して、やがて母猿になるのであった。
 猿の一生を描きながら、人の生き方の教えにもなっているのが神厩舎の猿物語というわけだ。

東照宮1-9

 二の鳥居は、家光が2,000両を投じて建てた日本初の青銅製の鳥居で、唐銅鳥居(からどうとりい)と呼ばれている。
 下の方には蓮の花弁が刻まれている。蓮の花は仏教の花だから、神社の鳥居に刻まれることはめったにない。家光の指示だったのかどうかは分からない。極楽浄土に咲くという蓮の花を家康に捧げようと思ったのだろうか。
 左手に半分写っているのが輪蔵(経蔵)で、これも東照宮のものなのか輪王寺のものなのか、はっきりしていないという。
 これまた金箔の派手な建物で、重層宝形造という変わった二重屋根を持っている。
 中には輪蔵と呼ばれる八角形の回転式大書架があって、天海が書き写した数千の経などが納められていたそうだ。
 鳥居をくぐった先には、左右に鐘楼と鼓楼がある。これもド派手なものを大猷院で見てしまったのでインパクトは弱かった。

東照宮1-10

 日光の中で最も有名な門は、この東照宮陽明門だろう。おお、これがそうかと感慨もひとしおだ。けど、思っていたよりも派手ではなくて、やや色あせた感もあった。もっとギンギンのものを想像してた。光が当たっていたら印象はまた違ったかもしれない。
 当然のことながら国宝指定だ。日本で最も貴重な門と言ってもいい。この門だけは二度と同じものは造れない。
 陽明門の名前は御所十二門の中からもらったもので(御所では東の正門に当たる)、1635年に完成した。
 高さ約11メートル、間口7メートル、奥行き4メートル。軒唐破風、入母屋造の楼門で、二重構造をしている。もともとは桧皮葺だったものがのちに銅板葺に葺き替えられた。

東照宮1-11

 ものすごい彫刻。全部で508体いるそうだ(東照宮全体の彫刻の数は5,173体)。それを一つずつ見ているだけで日が暮れてしまいそうだ。そんなことから日暮門(ひぐらしもん)の別名もある。
 ここまでくると、門に彫刻が飾られているというよりも、門の形をした彫刻作品と言った方がふさわしい。どう考えても普通じゃない。この情熱というかエネルギーは信じられない。
 唐獅子、竜、鳳凰、麒麟、竜馬、獏など、実在、想像上の動物をはじめ、菊や牡丹などの植物、孟子、孔子などの人物像等々、様々な彫刻で飾られていて、一つとして同じものはない。
 通路の天井には狩野探幽が描いた昇り竜、降り竜がいる。
 魔除けの逆柱(まよけのさかばしら)もよく知られている。彫られたグリ紋の向きが逆さになっていて、この建物はまだ未完成だということを表している。建物は完成した瞬間から崩壊が始まるとされていて、未完成であることを示すことによって長持ちするようにとの願いが込められている。本殿や拝殿にも同じ仕掛けが施されているという。

東照宮1-12

 陽明門の表側には見慣れない像がいる。平安貴族のような人が弓を持ってトラに腰掛けている。あなたは誰ですか?
 帰ってきてから調べたところ、随身(ずいじん)といって、平安貴族が外出するときの護衛役を表しているんだそうだ。随身門という門がある神社もあるとのことで、寺院でいうところの仁王門に相当するらしい。
 一般的に、矢大神、左大神と呼ばれているようで、特定の誰ということではないようだ。ただし、東照宮のこの随身が身につけている袴に水色桔梗紋らしき紋があることから、これは明智光秀ではないかという説がある。トラ(寅)は家康の干支なのに、こんなことが許されるのは、光秀が天海になった証拠ではないか、なんてのも光秀天海説の根拠の一つになっている。

東照宮1-13

 背面には金と群青に着色された狛犬らしきものが鎮座している。こんなのも初めて見た。右側のものは毛が緑色をしている。
 角がないことから、狛犬ではなく獅子ではないかという話もあるようだ。
 柱や壁の彫刻もものすごく手が込んでいるけど、その白さにも惹かれるものがあった。これは貝殻をすりつぶして作った白色の顔料で、胡粉(ごふん)というものだそうだ。こんなのも他では見たことがない。
 柱に彫られている渦巻き模様がグリ紋で、これも魔除けの意味が込められているという。

 今回もまたとびきり長くなった。もうここらで終わりにしよう。続きはまた次回だ。
 陽明門まで来たから、あとは拝殿、本殿の区域を残すのみとなった。奥社は、眠猫までは行っている。本殿は行列ができていて断念した。どのみち撮影は禁止だ。
 東照宮編もあと一回で終わる。ブログによる長い復習の旅もそろそろ終わりが見えてきた。

大猷院はお墓なのに尋常じゃない絢爛豪華さ ~日光第七回

神社仏閣(Shrines and temples)
大猷院2-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 日光シリーズも長くなってきて、少し間延びしてきた。けど、これを終わらせないと次へ移れないから、少しずつ書き進めていくしかない。
 今日は輪王寺大猷院の続きだ。前回は拝殿前の夜叉門までいった。今回は霊廟の正門に当たる唐門(からもん)から再開しよう。
 拝殿の周りをぐるりと透塀が囲んでいて、その出入り口の門が唐門だ。
 唐破風が乗った門の高さ9メートル、間口1.8メートルと、大猷院の中では最も小さな門ながら、金ピカの派手さでは他の門に劣らない。

大猷院2-2

 アップで見るとこの通り。唐破風部分の装飾はものすごいことになっている。超一流の細工職人さんでも何年もかかりそうだけど、大猷院自体が1年ちょっとで建てられているのだから、この部分もその間に作られているということになる。見てるとめまいがしそうなほど手が込んでいる。彫り物も、金箔も、彩色も、ここまでできるのかと思うほどだ。職人さんの技術と美意識と意地と根性が集約されている。
 現在の技術で、これと同じものが作れるとは思えない。人類はすべてにおいて一方的に進化成長してるように思いがちだけど、こういうものを見せられると退化している部分もあるのだということを思い知らされる。地震で揺れても倒れない木造の五重塔なども、現在の技術では建てられないんじゃないか。東大寺の大仏殿などは、江戸時代でさえすでに失われた技術があって、平安時代の建物を再現できなかった。失われた技術の大きさを思わずにはいられない。現代も職人の跡継ぎがいなくて、継承されるべき技術はどんどん失われていっている。
 今、大猷院と同じ建物を建てたら、一体いくらかかるんだろう。数千億か、1兆円単位になるのか。1兆円と軽くいうけど、1億円の1万倍だ。1億の宝くじが1万回当たってやっと1兆円になる。1億円以上は100億も1兆も同じと思いがちだけど、全然違う。

大猷院2-3

 拝殿を取り囲む透塀(すきべい)の瑞垣(みずがき)。瑞垣というのは、本殿などを囲む屋根つきの塀をいう。この細工と彩色もまた凝っている。

大猷院2-7

 透塀の彫りや細工もまたとんでもないことになっている。同じものが連続しているのではなく、上の部分の彫刻はすべて違っている。たくさんの鳩が彫られていて、百間百態の群鳩と称されている。
 ここまで過剰な装飾をする必要はなかったかもしれないけど、それぞれの職人が一世一代の大仕事ということで渾身の力作に仕上げずにはいられなかったのだろう。家光は家康への遠慮もあって、質素なものを望んだと言われているけど、これを見たらどう思っただろう。やっぱり、天晴れ見事と褒め称えただろうか。

大猷院2-4

 ここからは国宝ゾーンに入る。拝殿、相の間(あいのま)、本殿が一続きになっていて、セットで国宝指定となっている。
 拝殿外観のきらびやかさは言うまでもなく、64畳敷きの内部も金ピカで大変見事なものだそうだ。天上には64の龍が描かれているという。
 相の間は、将軍のために特別に作られた部屋で、当然一般人などは立ち入れない。歴代の将軍の他少数のみが入ることを許された特別な場所だ。
 これらの建物は東照宮と同じ権現造りながら、東照宮が神仏習合形式なのに対し、大猷院は仏殿造りという違いがある。けど、呼び名は本堂ではなく拝殿や本殿と神社式になっている。豪華絢爛さは双璧だ。

大猷院2-5

 本殿はもう装飾の極みで、これ以上手を加えるところがないほど飾り立てられている。ここまで黄金だと金閣寺を連想させると思いきや、やはり別名金閣殿とも呼ばれている。
 成金的金ピカ趣味といえば豊臣秀吉だけど、これを見たらきっと悔しがっただろう。天下を取るというのは武力で統一するというだけではなく、幕府を作って平和な世の中を実現しなくてはいけないということが分かる。信長も秀吉もあと一歩神になりきれなくて、こういうものを後世に残せなかった。秀吉時代の大坂城も、安土城も、今はもうない。
 寺院の本堂はだいたい南向きのものが多いのだけど、大猷院は鬼門の東北を向いている。普通はあり得ない。これは、その方向に東照宮があるからで、家光が死んでも家康にお仕えすると遺言を残したためにそういうふうに建てたとされている。

大猷院2-12

 家光の墓所がある奥院の入り口にあるのが皇嘉門(こうかもん)だ。陽明門と同じく宮中の門の名を冠している。明朝の建築様式「竜宮造」を取り入れていることから竜宮門とも呼ばれている。
 この奥は350年間ずっと非公開だったものが、家光350回忌の平成12年(2000年)に半年間だけ特別公開されたらしい。もちろん、私は知らなかった。次回の公開予定はないとのことだ。500回忌までは生きていられないから、なんとか400回忌にもう一度公開してくれないか。

大猷院2-8

 なんとなく本殿と拝殿の周りを一週回って帰ることにする。もうおなかいっぱい。過度の装飾と金ピカさにちょっと疲れた。

大猷院2-9

 ここはどこだったか忘れてしまったけど、久しぶりに普通の質素な寺院風の風景に出会ってホッとする。豪華フルコースのフランス料理ばかり続いたあとに味噌汁とご飯が出てくるとはこういうことか。フルコースのフランス料理を続けて食べたことなんてないけど、お歳暮の松阪牛でも食べ続ければ飽きるのは知っている。
 日光山の絢爛さは、ある意味常軌を逸している。とても尋常ではない。屋敷や城ならまだ分かるけど、なんといってもここはお墓だ。お墓をここまで飾り立てる必要があったのかどうか。仏壇だって派手だから、それの超豪華版と思えばこれでいいのか。

大猷院2-10

 東照宮へ向かう途中、苔むしたわびさび風景でクールダウン。いったん休息しないと、ギンギラ建物の連続はきつい。

大猷院2-11

 参道を歩いていくと、杉木立の向こうにほどなく五重塔が見えてくる。そろそろ東照宮の境内に入っていく。
 次回からはようやく東照宮編だ。ここまでが長かった。日光山の二社一寺はこれで最後だ。でも、東照宮も1回では終わらないから、2回かもしくは3回になりそうだ。
 言うまでもなく東照宮が現在の日光山の中心で、最も豪華絢爛なところだ。もう満腹なのにまだこれからメインディッシュが出てくる。私もちょっと食傷気味ではあるのだけど、もう少しおつき合いください。間に滝の写真でも挟んでいったん口直しした方がいいのかな。
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