
PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4
人間五十年、40歳で初老といわれた江戸時代、異例の長生きだった徳川家康は、74歳になってもまだ元気で鷹狩りに出かけていた。日頃から健康には人一倍気を遣い、自ら調合した薬を飲んでいたくらいだから、特別不自然というわけではなかったかもしれない。
しかし、鷹狩りに出た1616年1月21日の夜、出された好物の鯛の天ぷらを食べたところ、にわかに体調がおかしくなった。その頃京で流行っていた天ぷらがあまりにも美味しかったために食べ過ぎたのだとも言われている。一説ではその前から胃ガンを患っていたという話もある。
体調が好転することなく季節は春4月。いよいよ病状が悪化した家康は自らの死期を悟り、側近の本多正純や天海、崇伝を枕元に呼び寄せ、死後のことについて指示を与えた。葬儀は増上寺で行い、自分の遺体は久能山へ納めること。位牌は大樹寺に立て、一周忌をもって日光山に小さな堂を建てて祀ること、それが遺言だった。
遺言通り、いったん久能山に葬られ(現在の久能山東照宮)、その間に二代将軍徳川秀忠は、本多正純と藤堂高虎を専任の奉行として、日光山に家康を祀るための廟の造営に当たらせた。
着工が10月だったこともあって、一周忌に間に合わせるために突貫工事となった。約5ヶ月で本社や拝殿、霊廟などの主要な社殿は完成したものの、このときはまだ規模の小さなものだったという。名前も東照社と称していた。東照宮となるのは、30年近くのちの1645年のことだ。後光明天皇から皇室の先祖神を祭る神社に用いられる宮の称号が与えられて、東照宮に改名された。
ちなみに、日光東照宮の正式名称は、東照宮だ。伊勢神宮の正式名が神宮であるように、東照宮といえば日光の本家のことを指す。その後全国各地にたくさんの東照宮が建てられたことから、それらと区別するために日光東照宮といわれているにすぎない。江戸時代は譜代大名も外様大名も将軍家のおぼえめでたくなるようにと、こぞって東照宮を建てた。最盛期は全国に500社もあったという。明治に入ってからは廃社や合祀されて現在は130社ほどになっている。よく三大東照宮という言われ方をするけど、あれはそれぞれが勝手に名乗っているだけで根拠はない。二社は日光と久能山で動かないけど、残り一つはどれも自称だ。
東照宮が現在のように立派になったのは、三代将軍家光のときだ。1634年から1年半かけて大改築を行い、今のような姿に生まれ変わった。その後、五代将軍綱吉が1689年に大修理を行うなど、数度の手直しはされたものの、姿そのものは往時のものをとどめていると言われている。
寛永の大造替(だいぞうたい)は、幕府の威信をかけて行われた。費用の上限なしとさえ家光は言ったという。造営工事に関してはすべての費用を幕府が出したとされている。その額は金56万8,000両、銀100貫目、米1,000石。現在に価格に換算するのは難しい。兆の単位だろうか。
造営奉行は秋元泰朝(あきもとやすとも)が任命され、建築総指揮は幕府の大棟梁・甲良宗広(こうらむねひろ)、彩色や装飾は狩野探幽(かのうたんゆう)一門が務めた。多い日には全国から集められた数千人の大工や職人が働き、工事に関わった人数はのべ450万人を超えたとされている。そのおかげで、わずか1年半で完成に至った。いや、これだけの人員を動員して1年半かかったと言うべきか。
境内は神社と寺院とが混ざり合った不思議な空間となっている。鳥居の隣に五重塔があり、神社の社殿を出たすぐ外には薬師如来を祀る本地堂がある。現在社務所として使われている建物は、もともと護摩堂だったところで、明治の神仏分離令のときにここは社務所だと言い張って移築を逃れた。本地堂などは、東照宮の境内にありながら東照宮のものなのか輪王寺の所属なのか、はっきりしていないという。
55の建物はすべて国宝か重要文化財に指定されている(国宝8棟)。
東照宮の造営には陰陽道で江戸の町を作った天海が深く関わっているから、ここにもその思想は当然表れていると見るべきだ。
北緯34度32分に太陽の道というものがある。奈良の写真家小川光三という人が発見して知られるようになったもので、伊勢の斎宮から淡路島の伊勢の森を結ぶ北緯34度32分に、天照大神など太陽に関する神社や信仰のあとが点々と続いていることからそう呼ばれるようになった。これは大和政権下で確かにあった考えのようで、天海や、もしかしたら家康も知っていたのではないかと思われるふしがある。最初に遺体を葬るように命じた久能山は、京都の南禅寺から家康が生まれた岡崎、関わりの深かった鳳来寺とを直線上に結んだ先に位置している。家康が神となるためには、この道を通って東方へと至らなければならないという考えがあったのではないか。西は太陽が沈む方角で死を意味し、東は太陽が昇る方角だから生まれることを象徴している。家康は東方から神として再生しようとしたのかもしれない。
久能山と富士山を結んだ延長線上に日光山があり、同時にそれは江戸の真北方向の延長戦と交わる位置でもあるのだ。更にその北の空には北極星がある。古代の思想や信仰において北極星というのは非常に重要な存在で、真北にあって動かないということから伊勢神宮の信仰も北極星に関わっていたという話もある。
東照宮の建物も、陽明門とその手前の鳥居を中心に結んだ上空に北極星が来るように設計されており、その線を南に伸ばしていくと江戸に当たる。しかも、主だった建物が北斗七星と同じ配置をしているという。
これをこじつけとみるか、天海や家康が仕掛けた秘儀とみるかはそれぞれの判断でいいと思うけど、世の中にはそういうことを研究してる人たちがいて、そんな説もあるということを紹介してみた。個人的にはとても面白いと思う。月刊ムーあたりで特集されているに違いない説ではあるけれど。
今回もまた前置きが長くなった。勉強はこれくらいにして、いい加減鳥居をくぐって中に入っていこう。建物の説明はささっと軽めで。
上の写真で半分見えている一の鳥居は、1618年に筑前の黒田長政が奉納したものだ。石造りで高さは9メートル、柱の太さ3.6メートルと、江戸時代に建てられたものとしては最大のものだそうだ。京都八坂神社、鎌倉八幡宮のものと合わせて日本三大石鳥居と呼ばれている。

さすがに東照宮は一番の賑わいを見せていた。神社仏閣に興味が薄い人でも、日光まで来たら東照宮だけは見ておこうと思うだろう。しかし、その足元を見たかのような1,300円という高額な拝観料。いくら貴重な国宝があって、世界遺産としても、これはちょっと取りすぎ。国宝は国の宝ではなく、国民の宝という定義なのだから、タダにして広く見せるべくじゃないのか。高校生以下は無料でいい。
二社一寺共通券で主だったところは見られるけど、この券では有名な眠猫が見られない。眠猫を見るためだけに520円払わないといけないとうのもこしゃくなところだ。
江戸時代の拝観料というのはどうなっていたんだろう。江戸の庶民でも気軽に参拝できる場所だったんだろうか。
写真奥に見えているのが東照宮第一の門、表門だ。仁王さんがいるから仁王門ともいう。

鳥居をくぐってすぐ左手、表門の前にいきなり五重塔がある。普通なら五重塔がハイライトになるところが多いのだけど、東照宮の場合は、まだ前菜だ。美しくて立派な塔なのに、今ひとつ存在感がない。立ち止まってしげしげと眺めていく人も少ないようだ。私もかなりの五重塔好きな方だけど、この塔にはあまりオーラのようなものを感じなかった。
最初のものは、1650年に小浜藩主だった酒井忠勝が寄贈した。しかし、1815年に落雷によって消失。子孫の酒井忠進が1818年に再建したものが現在に残っている。190年といえば充分古いものだけど、もうひとつありがたみを感じないのはどうしてだろう。
高さは34メートルで、なかなか派手な彩色がされている。近くで見ると彫刻も凝っている。
内部には大日如来像が安置されている。

仁王門。表の左右に朱塗りの仁王さんが立っている。
八脚門で切妻造。間口は約8メートル、奥行は約4メートルある。
唐獅子や獏、麒麟や虎など85の彫刻が施されている
江戸時代は門の下に警備員がいて、清め草履にはきかえてから参拝したそうだ。当時は今とは比べものにならないくらい神聖な場所という思いが強かったのだろう。

表門の先には、下神庫、中神庫、上神庫という3つの蔵があり、三神庫(さんじんこ)と名づけられている。上の写真は、下神庫だ。
奈良の正倉院に代表される校倉造り(あぜくらづくり)を模した建物で、祭りのときに使う装束や流鏑馬(やぶさめ)の道具などがしまわれている。
派手な色と凝った細工に驚くところだけど、大猷院を見たあとだったので、もう感覚が麻痺していた。こちらを最初に見ていたら、もっとびっくりして感心していたことだろう。

上神庫は特に金箔で派手に飾られている。
側面の屋根の下に、2頭の大きな象の彫刻がある。でも、像としては姿がおかしい。狩野探幽は象というものを当然見たことがなく姿形も知らなかったため、想像で描いたからこうなったんだそうだ。そのため、想像の象と呼ばれている。
何故象かといえば、蔵と象をひっかけたダジャレらしい。そういう遊び心も少し散りばめられている。
左手奥に見えているのは、御水舎(水盤舎)だ。1635年、佐賀藩主の鍋島勝重が寄進したもので、神社に人工の手洗い場を作ったのはこれが最初とされている。それまでは近くにある自然の川や湧き水で身を清めていたそうだ。伊勢神宮ではいまだに五十鈴川で手を清めている。それにしても、手水舎の始まりが江戸時代の日光東照宮からだったとは知らなかった。
御水舎も足に花崗岩を使ったり、細工が施されたりして豪華な造りになっている。軒下に彫られた飛龍の彫刻は、東照宮最高傑作とも言われている。

これが有名なみざる・きかざる・いわざるの三猿がいる神厩舎(しんきゅうしゃ)だ。一番有名なのに、群を抜いて地味な建物というのは面白い。彫りや造りは凝ったものとなっているけど、東照宮では唯一、漆を塗らない素木造(しらきづくり)の建築となっている。
これは厩舎(きゅうしゃ)、つまり馬小屋で、現在でもオスの白馬を2頭飼っている。神様に仕える神馬の勤務は午前10時から午後2時まで。雨や雪の日はお休みだそうだ。このときは夕方だったので、もう姿はなかった。
馬小屋に猿の彫刻があるのは、昔から猿は馬の病気を治す守り神だと信じられてきたからだ。室町時代まではここで猿も飼っていたんだとか。

猿の彫刻は、8つのストーリーとなっていて、三猿はその中のワンシーンだ。これだけが有名になって一人歩きをしてしまったため、間違った解釈してしまっている人も多い。
実際は猿の一生を描いた物語形式になっている。1番目は額に手をかざした母猿と小猿がいる。小猿の将来を心配する母と、無邪気に母の顔をのぞき込む子供の姿が彫られている。
2番目が三猿のシーンだ。子供のときは、悪いことを見ざる、言わざる、聞かざるでいいんだよという教えを表している。大人になったらそうはいかない。
3番目は、独り立ちする前の猿。まだ決心がつかずに座り込んでいる。4番目は大いなる志を抱いて天を仰ぎ見る猿。夢と不安でいっぱいだ。
5番目は人生の壁にぶち当たる猿。思い悩むときは、そばに励まし支える友がいる。6番目は恋をしてはしゃぐ猿と、悩む猿。
7番目は結婚した2匹の猿。しばしの幸せと、やがてくる荒波を予感させる。最後の8番目はおなかの大きい猿。小猿も成長して、やがて母猿になるのであった。
猿の一生を描きながら、人の生き方の教えにもなっているのが神厩舎の猿物語というわけだ。

二の鳥居は、家光が2,000両を投じて建てた日本初の青銅製の鳥居で、唐銅鳥居(からどうとりい)と呼ばれている。
下の方には蓮の花弁が刻まれている。蓮の花は仏教の花だから、神社の鳥居に刻まれることはめったにない。家光の指示だったのかどうかは分からない。極楽浄土に咲くという蓮の花を家康に捧げようと思ったのだろうか。
左手に半分写っているのが輪蔵(経蔵)で、これも東照宮のものなのか輪王寺のものなのか、はっきりしていないという。
これまた金箔の派手な建物で、重層宝形造という変わった二重屋根を持っている。
中には輪蔵と呼ばれる八角形の回転式大書架があって、天海が書き写した数千の経などが納められていたそうだ。
鳥居をくぐった先には、左右に鐘楼と鼓楼がある。これもド派手なものを大猷院で見てしまったのでインパクトは弱かった。

日光の中で最も有名な門は、この東照宮陽明門だろう。おお、これがそうかと感慨もひとしおだ。けど、思っていたよりも派手ではなくて、やや色あせた感もあった。もっとギンギンのものを想像してた。光が当たっていたら印象はまた違ったかもしれない。
当然のことながら国宝指定だ。日本で最も貴重な門と言ってもいい。この門だけは二度と同じものは造れない。
陽明門の名前は御所十二門の中からもらったもので(御所では東の正門に当たる)、1635年に完成した。
高さ約11メートル、間口7メートル、奥行き4メートル。軒唐破風、入母屋造の楼門で、二重構造をしている。もともとは桧皮葺だったものがのちに銅板葺に葺き替えられた。

ものすごい彫刻。全部で508体いるそうだ(東照宮全体の彫刻の数は5,173体)。それを一つずつ見ているだけで日が暮れてしまいそうだ。そんなことから日暮門(ひぐらしもん)の別名もある。
ここまでくると、門に彫刻が飾られているというよりも、門の形をした彫刻作品と言った方がふさわしい。どう考えても普通じゃない。この情熱というかエネルギーは信じられない。
唐獅子、竜、鳳凰、麒麟、竜馬、獏など、実在、想像上の動物をはじめ、菊や牡丹などの植物、孟子、孔子などの人物像等々、様々な彫刻で飾られていて、一つとして同じものはない。
通路の天井には狩野探幽が描いた昇り竜、降り竜がいる。
魔除けの逆柱(まよけのさかばしら)もよく知られている。彫られたグリ紋の向きが逆さになっていて、この建物はまだ未完成だということを表している。建物は完成した瞬間から崩壊が始まるとされていて、未完成であることを示すことによって長持ちするようにとの願いが込められている。本殿や拝殿にも同じ仕掛けが施されているという。

陽明門の表側には見慣れない像がいる。平安貴族のような人が弓を持ってトラに腰掛けている。あなたは誰ですか?
帰ってきてから調べたところ、随身(ずいじん)といって、平安貴族が外出するときの護衛役を表しているんだそうだ。随身門という門がある神社もあるとのことで、寺院でいうところの仁王門に相当するらしい。
一般的に、矢大神、左大神と呼ばれているようで、特定の誰ということではないようだ。ただし、東照宮のこの随身が身につけている袴に水色桔梗紋らしき紋があることから、これは明智光秀ではないかという説がある。トラ(寅)は家康の干支なのに、こんなことが許されるのは、光秀が天海になった証拠ではないか、なんてのも光秀天海説の根拠の一つになっている。

背面には金と群青に着色された狛犬らしきものが鎮座している。こんなのも初めて見た。右側のものは毛が緑色をしている。
角がないことから、狛犬ではなく獅子ではないかという話もあるようだ。
柱や壁の彫刻もものすごく手が込んでいるけど、その白さにも惹かれるものがあった。これは貝殻をすりつぶして作った白色の顔料で、胡粉(ごふん)というものだそうだ。こんなのも他では見たことがない。
柱に彫られている渦巻き模様がグリ紋で、これも魔除けの意味が込められているという。
今回もまたとびきり長くなった。もうここらで終わりにしよう。続きはまた次回だ。
陽明門まで来たから、あとは拝殿、本殿の区域を残すのみとなった。奥社は、眠猫までは行っている。本殿は行列ができていて断念した。どのみち撮影は禁止だ。
東照宮編もあと一回で終わる。ブログによる長い復習の旅もそろそろ終わりが見えてきた。