月別:2008年07月

記事一覧
  • 綱渡りのスケジュールを渡りきった赤目シリーズ <プロローグ>

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8II 近鉄の株主でも何でもない私だけど、近鉄株主優待乗車券が安く手に入ったので、赤目方面へ近鉄沿線の旅へ行ってきた。そして私は自分の歩き力の限界を知った。アップダウンの道5時間と平坦な道2時間の合計7時間、暑さも加わって、ウォーキングハイを通り越してウォーキングローの中で気が遠くなりそうだった。よい子のみんなは真夏の昼間に7時間も歩いちゃいけない...

    2008/07/31

    観光地(Tourist spot)

  • 明日は遠出なので早朝名古屋駅表の写真を並べて駆け足更新 <後編>

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 今日は昨日の続きで、早朝名古屋駅の表側紹介。 ただ、明日は遠出で今夜は超早寝のため、写真を並べるだけの駆け足更新となる。コメントは短めに。 朝日を浴びるセントラルタワーズ。 手間のオブジェは、飛翔という名前の作品だ。名古屋市制100周年を記念して、1989年に置かれた。その前はどうなっていたのか、今となっては思い出せない。これがない方が交通の流れがスムーズになると思...

    2008/07/29

    名古屋(Nagoya)

  • 名古屋駅裏風景を撮る夏の早朝 <前編>

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 ちょっと日光シリーズを休んで、今日、明日は息抜きを兼ねて名古屋駅風景写真をお届けします。 前も一度、朝5時すぎに同じような名駅写真を紹介した。あれは5月の始めだったから、今とは少し季節が違う。夜明け時間も違っているから、写真の空気感も多少違うように感じる。 駅裏からコンコースを通って駅表へと出るコースがいつものコースだけど、それだと同じような写真になってしまう...

    2008/07/29

    街(Cityscape)

  • 彩りを忘れた名古屋風茶色サンデーとタワーズプラザの非名古屋メシ

    Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II  一週飛んで、また今週もサンデーがやって来た。いや、サンデーは毎週来るけど、サンデー料理が飛んだだけだ。先週は日光行きだった。 今回のサンデー料理は、アイディア不足に始まり、彩り不足に終わった。名古屋人の血ゆえか、私の特質なのか、うっかり油断していると茶色い料理になってしまう。名古屋名物といえば、ひつまぶしに味噌煮込みに手羽先、赤味噌、味噌カツ、どて煮と、茶色い料理が...

    2008/07/28

    料理(Cooking)

  • 世界遺産の日光は二荒山神社の神橋から始まる ~日光第五回

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 奥日光の散策を終えた我々は、日光市内のいわゆる二社一寺地区へとやってきた。世界遺産に登録されているのはこの地域で、二荒山神社、東照宮、輪王寺を中心に、神橋、本宮神社、瀧尾神社までの103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の建造物群ならびに境内地が指定されている。なので、中禅寺湖地域の二荒山神社や中善寺は入っていないことなる。ただし、聖地日光山ということになると、中禅...

    2008/07/27

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • いろいろ分からないことが多い二荒山神社の勉強をする ~日光第四回

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 今日から日光の神社仏閣編に入る。けれど、これがなかなかややこしくて、書き始める前に勉強する必要があった。行く前にガイドを見てもよく分からなくて、行って帰ってきて復習して、今ようやくつながりと歴史がだいたい分かったところで、まだそれもちゃんと消化しきれてないだけに、整理して分かりやすく説明できるかどうか自信がない。回数を重ねていくごとに私自身も理解が深まってい...

    2008/07/26

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 華厳の滝のズーム連続写真と藤村操と夏目金之助先生 ~日光第三回

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di 私は昔一度、華厳滝(けごんのたき)を見たことがあるような気がする。前世とかそういうことではなく、もう少し近い過去に。確か小学生か中学生のときだったとは思うのだけど、記憶が曖昧ではっきり思い出すことができない。もしかすると中学の修学旅行で東京と日光へ行ったんだっけ? 誰にともなく訊ねてみたくなる。 それにしては東京にしろ日光にしろ、...

    2008/07/25

    観光地(Tourist spot)

  • 日光でゆったりできたのは中禅寺湖の遊覧船の中だけだった ~日光第二回

     日光といえば東照宮、華厳の滝、中禅寺湖と、この3つが代表的な観光地と言っていいと思う。猿軍団はどうしたとか、江戸村も忘れるなとか、いろいろ意見もあるだろうけど、とりあえず昔からの有名どころとしてはこの3つに違いない(個人的には1/25スケールで世界一周ができる東武ワールドスクウェアというのも気になっていた)。 この3点セットを日帰りで回ろうとすると、実はけっこう大変だ。渋滞していないときでも駅から中禅...

    2008/07/24

    観光地(Tourist spot)

  • 明智平と名づけたのが天海だったとしてもしなくても ~日光第一回

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di 2008年の夏旅第一弾は日光だった。 日光シリーズ第一回は、明智平(あけちだいら)から始まる。 東武日光駅からバスに乗って約35分、上り専用道路の第2いろは坂を登り切ったあたりに明智平はある。標高は1274メートル。レストハウスなどのあるドライブインにもなっているため、車で訪れた人が休憩を兼ねて展望を楽しんでいく場所でもある。 気をつけなけれ...

    2008/07/22

    観光地(Tourist spot)

  • 遠出前は尾張旭の田んぼ風景写真を並べて簡単更新

    PENTAX K100D+SIGMA 400mm f5.6 明日はちょっと遠出。今日はゆっくり更新している時間がないから、撮り貯めた尾張旭の田んぼ写真を並べて簡単更新。 一枚目は、まだ6月の始め、田植えが終わったばかりの頃。 このときからずっとケリのヒナを撮りたいと、何度か尾張旭に通ったのだけど、結局今年は撮ることができなかった。 ケリの飛び姿。地上にいるときは地味なのに、飛び立つと白黒ツートンカラーが美しいのがこの鳥だ。 少...

    2008/07/19

    野鳥(Wild bird)

  • 謎の多い小田井の星神社について

     名古屋市西区上小田井に星神社という神社がある。庄内緑地公園のすぐ北側だ。 珍しい名前かと思ったら、全国に同じ名前の神社がいくつかある。名前からして星に関する神社が多いのだろう。 小田井の星神社も織姫と彦星の他、星の神とされる天香香背男(アメノカガセオ)を祀っている。 かつての境内の広さは4町8 反(約4.76ヘクタール)あったという。ナゴヤドームより少し狭いくらいだ。 秀吉に大部分を取り上げられてしま...

    2008/07/19

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 中小田井の古い町並みはこの一枚を撮るためだけでも行く価値がある

     名古屋市西区の庄内緑地公園の北西に、中小田井(なかおたい)という町がある。名古屋駅から鉄道で10分のこの場所に、古い町並みが残されていると知ったのはつい最近のことだった。ネットでそこの写真を見て、一目惚れじゃないけど、ここは絶対行こうと思った。そして、撮ってきたのが上の写真だ。 中小田井の町並を紹介するときは必ず登場する場所だから、ここを知ってる人ならすぐに分かると思う。残っている古い家屋の町並み...

    2008/07/18

    名古屋(Nagoya)

  • 又太郎良春さんはアマツヒコネがお好き? ---尾張旭神社巡り4弾

     尾張旭神社巡りの第一弾として最初に行ったのは渋川神社だった。その次に直會神社と一之御前神社を回って、前回が井田八幡宮だったから、今回の多度神社は第四弾ということになる。 始まったのが2007年の4月だから、すでに1年3ヶ月の歳月が流れた。たった5つ回るのにこんなにかかっていていいもんだろうか。尾張旭の主な神社は9つしかないから、当初は半年くらいで軽く終わるはずだった。今のペースでは今年中に終わるかどうか...

    2008/07/17

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 浅野祥雲コンクリ像は尾張旭の山の上に人知れずどんと立つ

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 そのコンクリート仏像との出会いは偶然だった。尾張旭の神社巡りをしている途中、地図に愛宕大師の文字を見つけて、気になって行ってみると、小高い丘の上に巨大な弘法さんがどーんと立っていた。こんなものがここにあるとはまったく予期していなかっただけに、驚き、のけぞった。 尾張旭には昔からさんざん行っているのに、この存在はまったく知らなかった。家に帰ってきてから調べてみ...

    2008/07/16

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 7月の海上の森は花が少ない時期だから実とかキノコで水増し

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 90mm f2.8 今日は海上の森の花編をお届けします。といっても、7月の森は花が少ない。一年を通じて花のピークは春で、夏になるとぐっと減って、秋にまたちょっと増える。花が少なくなった森を歩くと、一年の後半戦はもう始まっているのだと自覚せずにはいられない。それが寂しくもあり、気持ちに焦りも生む。そして、春を懐かしむ。4月はよかったなぁ、と。 有名どころの花も、アジサイがほとんど最後だ...

    2008/07/15

    花/植物(Flower/plant)

  • アイディア不足の焼き直しサンデーと、名古屋的に濃いどですか弁当

    Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II  今日のサンデー料理は、完全にネタ不足に陥った。一度作ったものを二度は作らず、いつも新しいものに挑戦しようと思っているけど、今回はメニューを決める最後までいいアイディアが浮かばず、過去の焼き直し料理になってしまった。結局、まだミキサーは買っていない。 最初に決まったメニューは、ナスの天ぷらだった。たぶんこれは過去に一度も作ってないと思う。ナス料理も何品か作っているし、...

    2008/07/14

    料理(Cooking)

  • 時間不足により海上の森内外の断片風景写真を並べて簡単更新

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 90mm f2.8 今日は海上の森の続きで花編をと思っていたのだけど、ちょっと時間がなくなったので、海上の森の断片写真を並べる簡単更新になってしまう。 一枚目は、森に入る前、ちょうどいいタイミングで通りかかった愛知環状鉄道の電車だ。車を運転しながらのドライブ撮りだったのが惜しまれる。電車をファインダーの中におさめるので精一杯だった。 海上の森近くは電車撮りのいいポイントがあるんじゃ...

    2008/07/13

    森/山(Forest/Mountain)

  • 今年もハッチョウトンボに会いに7月の海上の森へ行ってきた

    Canon EOS 20D+TAMRON SP 90mm f2.8 ちょっと久しぶりに海上の森へ行ってきた。前回行ったのが4月の終わりで、あのときはギフチョウを探しにいって見つからなかった。季節のメモリはカチリ、カチリと2つ動いて、春から夏、夏から真夏へと変わった。 昨日、家の近所でアブラゼミの初鳴きを聞いて、そうだ、海上の森へ行かなくてはと思ったのだった。今年はまだハッチョウトンボを見ていなかったというのもある。 今回は海上の森...

    2008/07/12

    虫/生き物(Insect)

  • 幸心地区二つの寺社巡りで歴史の意外なつながりを知ることとなった

     瀬古の神社仏閣巡りは、前回に続いて今回は間黒神社と常雲寺を紹介します。 国道19号線を挟んで東側だから、住所としては幸心になる。でもまあ、瀬古の散策をすれば一緒に回ることになるところなので、ひとまとめにしてしまおう。 かつてこのあたりに山田一族の城、幸心城があったとされている。19号線沿いに城跡という地名が残っていたそうだけど、今はなくなった。詳しいことは分かっていない。 戦国時代以前、現在の名古屋...

    2008/07/11

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 近所に歴史あり、御畳奉行と行く瀬古の古寺社巡りツアー

    Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 守山区瀬古にある石山寺(いしやまじ)を訊ねてみた。表通りからも入れたようだけど、私はあえて裏道からアプローチした。民家の間の細い道を進んでいくと、四つ角に石山寺と彫られた石を見つけた。ここからすでに石山寺の敷地内が始まっているという印だろうか。進んでみると、右手に寺の入り口があって、その先には高牟神社があった。「尾張西國第十三番 金剛廿一大師十六番 石山...

    2008/07/10

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 河和駅周辺は思い描いていたより街だった ~島巡り編完結

     二島巡りシリーズ最終回は、番外編として河和駅(こうわえき)周辺のレポートをお届けします。 名鉄河和線の終着駅ということで、もっとひなびた田舎の駅を想像していたら、けっこう街中だった。知多半島の真ん中あたりの東端で、どうしてここが終着駅に選ばれたのかよく分からない。どうせならもう少し伸ばして先端の師崎まで行ってほしかったところだ。半島の西には北の富貴駅で分かれる知多新線というのが走っていて、それも...

    2008/07/09

    観光地(Tourist spot)

  • 有名人が多数訪れる篠島は歴史探索の魅力がいっぱい <第三回>

     篠島編最後は神社仏閣特集での締めくくりとなる。日間賀島同様、篠島も神社仏閣が多いところで、知多四国八十八ヶ所の一つ正法禅寺があり、お遍路さんも海を渡って訪れる。たいていは日間賀島とセットで回ることになるのだろう。 寺社はすべて島の中央部分に固まっていて、一度に全部巡るのに都合がいい。私たちは医徳院をのぞく3寺、2神社を参拝した。医徳院がやや離れたところにあったため時間切れになってしまったのはちょっ...

    2008/07/08

    観光地(Tourist spot)

  • 夏だ、手抜きだ、簡単サンデー料理は夕飯としては合格点

    Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II  今日のサンデー料理のテーマは、夏の手抜き料理だった。 夏は暑くて水分ばかり摂って食欲がなくなってしまうことがある。そんなときは作るのも面倒だし、そもそもメニューをあれこれ考えるたくもない。でも、作って食べなくちゃいけない。そこで手を抜いて、なおかつ美味しく食べられる料理の登場だ。組み合わせも重要となる。さっぱりしたものばかりだと物足りないし、栄養があるものに越したこ...

    2008/07/07

    料理(Cooking)

  • 登って下って折れて曲がって篠島路地コレクション <第二回>

     世の中には路地好きを自認する人たちがいて、路地歩きや路地の写真を撮ることを趣味としていたりする。その数は決して少なくない。路地の本も何冊も出ている。ひょっとするとあなたの周りにも隠れ路地ファンがいるかもしれない。ほとんどの人は知らないと思うけど、全国路地サミットなんてものも毎年開催されている。洞爺湖サミットの裏でひっそりと。第6回目の今年は、10月に長野市で行われるそうだ。 私はそういう人たちとフ...

    2008/07/06

    観光地(Tourist spot)

  • 篠島ではレンタル自転車を借りられず徒歩で回ることになった <第一回>

     篠島(しのじま)へ渡ったのは午後3時半過ぎだった。最終の高速船が5時45分なので、滞在時間は2時間ちょっと。その船を逃すと、海上タクシーで帰るか、泊まっていくしかなくなる。もしくは、河和まで泳ぐか(直線で14キロくらい)。 当初の予定としては、レンタサイクルで島をぐるっと一周見て回って、だいたいの雰囲気を感じようというものだった。しかし、その計画は出だしから大きくつまずくことになる。 この島のレンタサ...

    2008/07/05

    観光地(Tourist spot)

  • 日間賀島でイルカにお触りをしてウハウハの大人たち <第五回>

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di 日間賀島初夏の呼び物として、イルカとのふれ合い体験イベントというものがある。毎年5月、イルカが島にやって来て、2ヶ月間をここで過ごしていく。 始まりは1995年の夏。南知多ビーチランドにいるイルカの研究とトレーニングを目的として始められたものだった。日頃水族館の狭いプールにいるイルカを海で泳がせたらどういう反応をするか、それはイルカにと...

    2008/07/04

    水族館(Aquarium)

  • 日間賀島はリアル「ぼくのなつやすみ2」の世界だ<第四回>

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 日間賀島本編が終わって、あらためて残っている写真を見てみたら、けっこう枚数があった。イルカのネタもあるのだけど、その前に日間賀島写真を出し切ってしまうことにした。もう一度行けるかどうか分からないところだから、撮ったものは全部でも出しておきたい。たとえば10年後、20年後にもう一度訪れたとき、島の風景はどんなふうに変化しているのかの確認にもなる。 西港はこうして見...

    2008/07/03

    観光地(Tourist spot)

  • 誰も誉めてくれないけど日間賀島の神社仏閣を全制覇した<第三回>

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 日間賀島へ遊びに行って、島の神社仏閣を全制覇しようという人はあまりいないと思う。お遍路さんでも全部は回らない。しかし、我々は回った。余すところなく。今日はそのときの様子を、一気にまとめて紹介しようと思う。 日間賀島は6~7世紀の古墳もたくさん見つかっていることから、古くから人が住んでいた島だということが分かる。だから、狭い島の割に神社仏閣の密度が濃い。神社が2つ...

    2008/07/02

    観光地(Tourist spot)

  • 日間賀島で唯一のものをあれこれ紹介してみる<第二回>

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 日間賀島を南の島のリゾート地のように思っていくと、それは間違いだ。地図を見ても分かるように、知多半島からそれほど離れていない三河湾の中にある島だから、海の水も素晴らしくきれいといったようなことはない。内海海岸よりはきれいだとしても、海だけなら伊良湖の恋路が浜の方が上だ。あちらは外海だから、きれいでもあり荒々しさもある。 ただ、海のシーズンがまだ始まっていない...

    2008/07/01

    観光地(Tourist spot)

綱渡りのスケジュールを渡りきった赤目シリーズ <プロローグ>

観光地(Tourist spot)
赤目プロローグ-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8II



 近鉄の株主でも何でもない私だけど、近鉄株主優待乗車券が安く手に入ったので、赤目方面へ近鉄沿線の旅へ行ってきた。そして私は自分の歩き力の限界を知った。アップダウンの道5時間と平坦な道2時間の合計7時間、暑さも加わって、ウォーキングハイを通り越してウォーキングローの中で気が遠くなりそうだった。よい子のみんなは真夏の昼間に7時間も歩いちゃいけないぞ。
 途中からはヒザもおかしくなって、私はもうしばらく歩きたくない人となった。向こう3ヶ月くらいは歩くのをやめにしたいくらいだ。歩くという行為に飽きたと言ってもいい。ドクター・中松が発明したフライングシューズでも買おうかな。
 そんなわけで、今日はダメージが深すぎて通常の更新はできそうにない。とりあえず赤目シリーズのプロローグということで写真だけ並べておこう。
 コースとしては、赤目四十八滝を見て、長谷寺と室生寺を回ってきた。いくら沿線沿いといっても、このコースを一日で回る人はあまりいないと思う。ましてや名古屋から日帰りの往復だ。スケジュールはぎちぎちで、バスも電車も一本も逃せないという綱渡りだった。最後室生寺から駅までのバスがなかったのが痛かった。あれさえ5時台にあればここまで深いダメージを追うことはなかった。国宝のある奈良県の寺とはいえ、東大寺などのメジャーな場所ではないから仕方がないところか。

赤目プロローグ-2

 当日のスケジュールはこうだ。
 朝5時前起床。6時30分家を出発。バス10分、地下鉄25分を乗り継いで名古屋駅着が7時20分。7時41分近鉄急行伊勢中川行き9時2分中川着、9時3分中川発。大阪線急行上本町行きで9時51分赤目口着。9時59分三重交通赤目滝行き。10時10分着。
 巌窟滝まで休憩なしのノンストップで3時間歩いて13時。13時10分赤目口駅前行きバス、13時20分着。13時30分近鉄急行、榛原着13時43。13時49分準急上本町行き13時53分着。
 長谷寺まで徒歩20分、14時15分着。見学45分で15時長谷寺から徒歩15分で長谷寺駅戻り。15時16分発準急榛原行き。15時21分榛原着。15時32分急行青山町行き。15時37分室生口大野着。
 室生寺行きバス15時50分発(最終)。16時5分、室生寺着。17時まで見学。帰りのバスがないため、駅まで7キロ徒歩1時間45分。18時50分室生口大野駅着。
 19時4分発準急名張行き。19時13分名張着。快速急行鳥羽行き19時19分発。20時7分伊勢中川着。20時8分急行名古屋行き。21時25分近鉄名古屋着。21時35分名鉄バス。22時25分帰宅。
 列車トリックでアリバイを作る推理小説でも書くのかってほどの分刻みのスケジューリングだった。普段一人旅の場合は、もっと大雑把な計画で行き当たりばったりなのだけど、今回はスケジュールを考えている段階ですべてがパズルのようにはまって、それを動かせなくなってしまったのだった。
 これと同じスケジュールで誰か行ってくれないだろうか。そして、苦労話で盛り上がりたい。言っておくけど、昼ご飯の時間も、夕飯の時間も、無駄に座る時間も、一切スケジュールには組み込まれてません。

赤目プロローグ-3

 ここからはもう、コメントは短く。
 赤目四十八滝についてはまたあらためてちゃんと書きたい。写真もたくさん撮ってきたから、3回くらいに分けて紹介することになると思う。

赤目プロローグ-4

 滝を撮りに行ったとしても、滝だけが被写体じゃない。
 ここは紅葉の名所でもあるけど、川面に映えるグリーンワールドも素晴らしい。

赤目プロローグ-5

 たぶん、どの滝が好きかというアンケートを取ったら、この荷担滝がナンバーワンになるだろう。写真からはスケール感が伝わらないのだけど、実物はかなり大きくて、とても印象的な滝だ。これを見るだけでも赤目へ行く価値がある。

赤目プロローグ-6

 赤目といえばオオサンショウウオでも有名だ。ひょっとして川に天然のやつがいるんじゃないかと探してみたけど、まあ、いないな。特別天然記念物がそのへんで普通に泳いでるわけがない。
 水の透明度は高くて、いろんな魚がたくさんいた。もちろん、魚釣りも魚獲りも禁止だ。

赤目プロローグ-7

 なつかしいサイダー。でも買わない。炭酸を飲むと腹はふくれるけど余計に喉が渇く。
 散策の間だけで2.5リットルのアクエリアスと、午後の紅茶と、カフェオレを飲んだ。

赤目プロローグ-8

 長谷寺の門前町は、古い家並みが残る観光地だった。これは知らなかったから、思いがけない収穫となった。いずれその写真もまとめて載せたいと思っている。

赤目プロローグ-9

 今回の二つの寺は、国宝巡りだった。長谷寺はなんといっても本堂がカッコよかった。重文の仁王門と登廊も素晴らしい。

赤目プロローグ-10

 室生寺の仁王門と、早くも早く染まり始めたモミジ。

赤目プロローグ-11

 今回一番見たいと思っていたのが、この室生寺の五重塔だった。平安初期に建てられたもので、法隆寺に次いで2番目に古いとされている。日本最小の五重塔でもある。
 最初見たとき、ちっちゃいなと思ったけど、近づいてみると身にまとった国宝オーラに圧倒された。こりゃ、本物だと恐れ入る。長谷寺にも立派な五重塔が建っているけど、あれは昭和に建てられた新参者ということで、本物感は弱い。

赤目プロローグ-12

 名張駅があんなに大きな駅だとは知らなかった。名張なんて何があるというわけでもないだろうに。どうやら、大阪や奈良のベッドタウンとなっているから、というのがその理由のようだ。特急の始発駅にもなっているから、線路も多い。
 近鉄は常に特急優先で、急行などはホームで特急2本が追い抜いていくのも待つなんてこともよくある。
 今回はこだわりで特急を使わなかったけど、行き帰りで特急を使えば、スケジュールは多少緩やかになった。

 日光シリーズもまだ途中になっているし、明日からどういう順番で書いていくか、まだ決めていない。まずちょっとゆっくり休んで、明日考えることにする。
 今日はこれくらいにしておこう。

明日は遠出なので早朝名古屋駅表の写真を並べて駆け足更新 <後編>

名古屋(Nagoya)
早朝名古屋駅表-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 今日は昨日の続きで、早朝名古屋駅の表側紹介。
 ただ、明日は遠出で今夜は超早寝のため、写真を並べるだけの駆け足更新となる。コメントは短めに。

早朝名古屋駅表-2

 朝日を浴びるセントラルタワーズ。
 手間のオブジェは、飛翔という名前の作品だ。名古屋市制100周年を記念して、1989年に置かれた。その前はどうなっていたのか、今となっては思い出せない。これがない方が交通の流れがスムーズになると思うのだけど、かつてはどうだったか。初めて名古屋駅前に車で行くと、この場所でどっちに向かって走ればいいのか戸惑う。

早朝名古屋駅表-3

 朝空を映すミッドランドスクエア。
 これの完成も2007年の3月だから、まだ1年半も経っていない。名古屋駅前の激変ぶりはここ1、2年のことなんだとあらためて思う。
 この先も高層ビルの建設は続きそうだ。10年後の名駅はどんなふうになっているのか、今はまだ想像がつかない。

早朝名古屋駅表-4

 ミッドランドスクエアの1階部分はディオールやルイ・ヴィトンなどの高級店が並ぶ。
 昔ここは映画館が並んでいたとろこだと思うのだけど、それはもっと向こうだったか。名古屋駅へよく行っていたのは高校生までで、大学以降車を運転するようになってからは名古屋駅はあまり行かなくなった。だから、それから最近までの名古屋駅の移り変わりというのをよく知らない。次の10年に向けて、今から名駅の写真をたくさん撮っておくのはいいことだ。

早朝名古屋駅表-5

 ピカデリーがわずかに残っていた。最近はシネコンが増えて、個別の映画館は営業が厳しくなっているのだろう。ミッドランドスクエアの中にも確かシネコンが入っていたはずだ。
 私が子供の頃の名古屋は、新しく封切られた映画でも二本立てが普通だった。『セーラー服と機関銃』と『時をかける少女』みたいな二本立てをよく観た。

早朝名古屋駅表-7

 錦通もこの通り、車は走ってない。この時間は人も歩いてないから、タクシーの姿もない。昼間は常に渋滞している場所なのに。
 角度的にはここからテレビ塔が見えるはずだ。この写真では建物の影に隠れてしまったようだ。

早朝名古屋駅表-8

 スパイラルタワーズの完成は今年2008年の3月だった。そういえばまだ入ってない。上までは登れないけど、1階や地下には飲食店などの商業施設がある。近いうちに一度行っておこう。
 同じモード学園が新宿に作っているコクーンタワーをこの前見た。あちらは繭をイメージしたデザインだそうで、外壁が網目になっていた。コクーンの方は丹下都市建築設計が設計を担当している(スパイラスは日建設計)。
 デザインの奇抜さではスパイラルの方が上じゃないかと思う。

早朝名古屋駅表-9

 ナナちゃん人形は夏らしく水着を着ていた。
 今回初めて気づいたけど、ナナちゃん人形の頭の部分は天上とつながっていたんだ。昔からそうだったんだろうか。転倒防止なんだろうけど、頭に棒が刺さってるみたいでちょっと怖い。あの部分は見えないように帽子かカツラをかぶせた方がいい。

早朝名古屋駅表-10

 45分くらい歩いて、名鉄バスセンターへ到着した。6時を過ぎれば始発のバスも動き出す。5時半くらいから動いてくれたらと思うけど、駅前のあの閑散とした光景を見たら、5時台には需要があまりなさそうだ。東京とは違うから、あんなものか。

 今日はこれでおしまい。明日は寝過ごさないように早起きして出かけよう。またハードな一日になる。

名古屋駅裏風景を撮る夏の早朝 <前編>

街(Cityscape)
早朝名古屋駅裏-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 ちょっと日光シリーズを休んで、今日、明日は息抜きを兼ねて名古屋駅風景写真をお届けします。
 前も一度、朝5時すぎに同じような名駅写真を紹介した。あれは5月の始めだったから、今とは少し季節が違う。夜明け時間も違っているから、写真の空気感も多少違うように感じる。
 駅裏からコンコースを通って駅表へと出るコースがいつものコースだけど、それだと同じような写真になってしまう。だから今回は、駅北の則武交差点から大回りをながら写真を撮ることにした。コンコースを通らずに名駅を超えるには、北は則武、南は笹島まで行かなければならない。名古屋なんだから、地下を歩けってことだろうけど、それじゃあ写真は撮れない。
 一枚目はお馴染み、駅裏の太閤通口から見るセントラルタワーズだ。空がいかにも夏の夜明け空といった感じだった。

早朝名古屋駅裏-2

 遠くに見えているのがルーセントタワー。手前の時計のモニュメントには寝ている人がいた。飲み過ぎて家に帰れなくなったといったところか。夏だから風邪を引く心配はなさそうだ。
 昔の駅裏はホームをレスしたおじさんのたまり場で、あまり行きたい場所ではなかった。名古屋人の間ではエキニシと呼ばれることが多く、ちょっと怖いというイメージを持っていた人も多かったんじゃないだろうか。
 そういう人たちが一掃されたのは、もう何年前になるだろう。セントラルタワーズができたのが1999年だけど、それよりももっと前になると思う。気がつけば駅裏はずいぶん小綺麗で安全な場所になっていた。

早朝名古屋駅裏-3

 駅裏にビックカメラができたのは2003年だった。もともとここには生活創庫アピタがあった。昔何度か行ったことがある。
 当初は名古屋駅前店という名前にしようと思っていたそうだけど、名古屋人にそれではみんな東の桜通口を思い浮かべるからよくないと諭されて、駅西店となったという経緯があったらしい。確かにこちらは駅裏であって、決して駅前ではない。
 名古屋らしく駅から地下通路でつながっていて、雨の日でも濡れずに買い物できるのも売りの一つとなっている。
 4ヶ月遅れでソフマップも近くに出店してきて、最近は駅裏が名古屋第二の電気屋街のようになりつつある。大須もかなりお客を取られているんじゃないか。大須は特有の濃さで他の追随を許さない電気屋街ではあるのだけど。
 大須スナップも一度やりたいと思っていてなかなかできないでいる。

早朝名古屋駅裏-4

 何のビルかは知らないけど、ツインタワーがガラス面に映って面白い風景になっていた。
 ガラス建築のビルはヒートアイランドも助長するし、地球に厳しい建築物だ。見た目のインパクトはあるし、洒落てるように思うけど、時代の先端を行っているようでエコ全盛のこのご時世を逆行しているとも言える。
 22世紀くらいになったら、都会のビルは全部ツタなどの植物で覆われたジャングル状態になっているかもしれない。屋上のグリーン化だけでもかなり効果があるというから、そこだけでもやっていけばいいと思う。愛・地球博のテーマもそうだったし、実際に壁面のグリーン化を試みていたのだから、それを継承していかない手はない。
 東京の街中は意外と緑が多くて驚く。都市部に関しては名古屋の緑は東京に大きく負けている。

早朝名古屋駅裏-5

 かつて駅裏の象徴の一つが予備校だった。河合塾や代ゼミなどがあって、浪人生や受験生の姿がよく見られた。
 少子化で競争率が下がった最近はどうなんだろう。単純に塾通い人口だけを見れば、私たちの頃よりも多くなっているのかもしれない。夏休みの今はぞろぞろ歩いてるんだろうか。
 そういえば最近は受験戦争なんて言葉もあまり聞かれなくなった。

早朝名古屋駅裏-6

 上を見ながらずっと歩いていて、ふと足元を見ると変わったマンホール蓋があった。なんだこりゃ。最初、バッタかコオロギかと思ってよく見ると、どうやらアメンボウのようだ。アメンボウって、こんな顔してたかな。でもきっと、手足のところに水紋ができている感じがアメンボウに違いない。名古屋の虫はアメンボウ? そんな話、聞いたことない。
 帰ってきてから調べたところ、大正元年(1912年)に名古屋の下水道が整備されてから80年を記念して、アメンボウを名古屋市の下水道のイメージキャラクターとすることに決めたのだそうだ。
 でも、アメンボウはやっぱりこんな顔をしてない。

早朝名古屋駅裏-7

 こっちは名古屋の市章「丸八マーク」のマンホール蓋だ。人通りの多いところにあるやつだから、たくさん踏まれてすり減って絵がよく見えなくなっている。分かるのはテレビ塔と、名古屋港と、あとは何だろう。
 八は鳩が向かい合っている。鶴岡八幡宮のパクリか?
 丸八マークは、尾張徳川家に由来するとされている。江戸時代後期にはすでに尾張藩で使われていたようだ。
 どうして八なのかはいろいろな説がある。尾張藩にあった愛知、春日井、葉栗、丹羽、中島、海東、海西、知多の八郡に由来するとか、オハリ(尾張)のハの字から来ているとか。
 ちょっと気になったので調べたところ、中の絵は、名古屋港、熱田神宮、名古屋城とテレビ塔、東山動物園、国際会議場だそうだ。1989年に名古屋の熱田で開催されたデザイン博覧会を記念してマンホール蓋のデザインがこれに変えられたんだとか。

早朝名古屋駅裏-8

 清正公自転車駐車場というネーミングが笑えた。加藤清正と自転車はまるで関係がないけど、清正がこの近くの生まれということで名づけたのだろう。太閤口は豊臣秀吉から来ていて、二人は名古屋駅の駅裏生まれの幼なじみだった。少し離れたところに豊国神社があって、清正の生誕地なども伝わっている。
 清正というと熊本城が有名で向こうの人みたいになっているけど、名古屋生まれの名古屋人だ。加賀百万石の基礎を築いた前田利家も名古屋市中川区荒子の生まれなのに、こっちの人というイメージが消えてしまってる。名古屋人は昔も今も、名古屋を出ると大きくなる。そして、大物になった名古屋人は二度と名古屋に帰ってこない。秀吉も信長もそうだった。三河の家康も。

早朝名古屋駅裏-9

 則武交差点を越えて、駅表の方に回ってきたところ。ルーセントタワーをこんな間近で見たのは初めてだ。それほど超高層ではないけれど、近くから見るとやっぱり見上げる高さだ。
 高さ180メートルの地上40階。
 できたのは2007年だから、まだ去年のことだったんだ。もう3、4年経ったような気がしていた。
 名古屋駅とつながった地下道ルーセントアベニューでは様々な影絵が壁に描かれているそうだから、一度見てみたい。このときは早朝すぎて地下道がまだ開いてなかったかもしれない。

早朝名古屋駅裏-10

 駅表に出た。名駅通でこの車の少なさ。5時台といっても、そろそろ6時が近い時間帯だったのに、ここまで車が少ないのは驚きだ。人もほとんど歩いていない。

 早朝名古屋駅風景の前半はこれで終わりで、明日の後半は駅表風景の紹介になる。
 見慣れた風景も、早朝の時間帯はまるで別の表情になる。こんな時間にうろつくことは私もめったにないことだし、多くの人がそうだろうから、けっこう新鮮に映るんじゃないだろうか。光の具合も夕暮れどきとは全然違う。
 名古屋駅に限らず、早朝街撮りは楽しいからオススメしたい。都会の方が昼や夜との差が大きいから面白いものが撮れそうだ。
 というわけで、明日につづく。

彩りを忘れた名古屋風茶色サンデーとタワーズプラザの非名古屋メシ

料理(Cooking)
彩り忘れサンデー

Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II



 一週飛んで、また今週もサンデーがやって来た。いや、サンデーは毎週来るけど、サンデー料理が飛んだだけだ。先週は日光行きだった。
 今回のサンデー料理は、アイディア不足に始まり、彩り不足に終わった。名古屋人の血ゆえか、私の特質なのか、うっかり油断していると茶色い料理になってしまう。名古屋名物といえば、ひつまぶしに味噌煮込みに手羽先、赤味噌、味噌カツ、どて煮と、茶色い料理がほとんどだ。それで無意識のうちに作る料理が茶色くなってしまうのではないかと分析しているのだけど、それはたぶん気のせいだ。
 だいたい、男の料理というのは茶色くなりがちな傾向がある。とりあえずしょう油かソースをかけておけばなんとかなるもんだと思い込んでるところがあるから。
 今回のテーマはあっさり中華だった。豆腐とエビのあんかけ、肉を使わないシューマイ、カレー風味の鶏の唐揚げと、作る前の頭の中のイメージでは爽やかな料理の映像が浮かんでいた。でも、出来上がったのを見てみたら、随分想像とは違うものになっていた。子供に思い描く理想と実際のガキンチョが違うみたいに。
 料理というのは、作る前のイメージ喚起力が大切なのだとあらためて思い知る。

 3品を順番に紹介していこう。
 まず左手前は、豆腐とエビの中華あんかけだ。これは今回の中では唯一華やかな料理で、味としても成功だった。
 豆腐は絹ごしを使う。エビは殻をむいて背わたとはらわたを取り、塩、コショウ、酒で下味をつけて、ごま油で炒める。
 そこへ水を足して、中華味の素と塩、コショウで味付けをして、切り分けた豆腐と枝豆を入れて、しばらく煮込む。終盤、水溶きカタクリ粉を加え入れて、とろみをつける。
 別に半熟の卵とじを作って、最後に入れてできあがりとなる。
 あんかけというよりも豆腐とエビのスープ仕立てのようになってしまったけど、これはこれで美味しかったのでよしとする。イメージ通りにできなかったとしても、そのことを食べる人に説明する必要はない。料理は結果がすべてだ。人が食べたところで完成するもので、自己満足の世界じゃない。だから逆に言えば、どんなにいい食材を使って手間暇かけて作っても、食べた人がまずいと言ったらそれは失敗料理ということになる。心を込めて作りさえすれば許させるというものでもない。

 右のシューマイは、形は不格好だけど、美味しさは申し分なかった。
 肉は使わず、タネはタマネギと長ネギ、シーチキンで作った。
 よく混ぜて、塩、コショウ、しょう油、酒、みりん、砂糖、ごま油を、それぞれ少しずつ加えて味付けをする。
 それをシューマイ皮に乗せて、適当に包んだら、あとは蒸し器で15分ほど加熱する。
 たれは、しょう油とカラシをベースに、酒、水、みりん、塩、コショウ、豆板醤を混ぜて作った。

 唐揚げは普通の鶏の唐揚げだ。意外な盲点で、鶏の唐揚げはメニューとしてはオーソドックスすぎて、今まで作ったことがなかった。ちょうど食べたい気分でもあったので初めて作ってみた。
 下味は他のものとだいたい似たようなもので、しょう油やカレー粉などで味をつけた。
 彩りがなくて茶色い料理になってしまったのはこいつのせいが大きい。ここにせめてレタスでも敷けば、多少は見栄えがよくなっただろう。ただ、私は野菜は嫌いじゃないのだけど、生野菜はあまり食べたくないので、料理しない野菜はできるだけ使いたくないというのがある。サラダは料理じゃない。そう考えたとき、鶏の唐揚げに合う野菜料理が思いつかなかったのだった。今考えても思い浮かばない。思いつくのは、たれをトマトソースにすることくらいだ。料理は想像力だ。

 彩りはともかく、味は問題なかったので、食べる分においてはそこそこの満足感が得られた。夕飯としては失敗じゃない。ただ、そろそろ本格的に何らかの突破口を見いだしていかないと、行き詰まり感が強くなってきている。来週はちゃんとしたテーマを見つけて作ろう。
 今日はサンデーが短く終わったから、このあと延長戦で料理ネタを継ぎ足すことにする。6月に日間賀島と篠島へ行った帰り、珍しく名駅で夕飯を食べてきた。いつもは車で行動しているから名駅や栄などで食事をすることがほとんどない。高い駐車料金を払っていては料理が割高になるし、時間も気になる。だからどうしても駐車場を完備した郊外の店に行くことになる。このときは電車での移動だったから、帰りが名駅になった。ツレと一緒に、今まで行ったことがなかったJRセントラルタワーズのタワーズプラザへ行ってみることにした。

タワーズプラザ-1

 名古屋駅の駅ビルJRセントラルタワーズは、51階建てのオフィス棟と53階建てのホテル棟のツインビルで、オフィス棟の12-13階はタワーズプラザというレストラン街になっている。昔は一番上にパノラマハウスという展望フロアがあったのだけど、2005年で営業終了となってしまった。できた当初は押すなおすなの大盛況で、名古屋中の人間が押し寄せたというくらいの人気スポットだったのに、熱が冷めたら二度と行かないという名古屋人気質がわずか6年で営業停止にまで追い込んだ。こういう展望施設では異例の早期営業停止であった。
 上の写真は、13階のフロアから12階を見下ろしたところだと思う。店舗は南側を中心にぐるりと並んでいる。名古屋の店は「山本屋総本家」など数店で、あとは関東や関西の店が多い。名古屋初上陸を売りにしているところもあるようだ。
 せっかくの名古屋駅ビルなんだから、名古屋の名店が一堂に会したフロアというのは実現できなかったのか。駅前には有名店の支店がたくさんあるけど、みんなバラバラだから、よそから遊びに来た人にとっては分かりづらい。下調べしてくればいいとかではなく、どこか一ヶ所に集まっていたら分かりやすくていい。名古屋に来て名古屋名物を食べようと思っても、ガイドなしではどの店に入っていいか手がかりがない。
 たとえばタワーズに有名店が集まっているフロアがあれば、とりあえずそこへ行ってから何を食べようか考えることができる。ひつまぶしの「蓬莱軒」、味噌カツの「矢場とん」、味噌煮込みの「山本屋」、あんかけスパの「ヨコイ」、天むすの「地雷屋」、手羽先の「世界のやまちゃん」、台湾ラーメンの「味仙」などなど。これがワンフロアに並んでいたら、まさに夢の名古屋メシ天国だ。県外人よりも名古屋人がまず行ってしまう。こうなったら、小倉トーストとシロノワールの「コメダ」や、「すがきや」も仲間に入れてあげて欲しい。ついでに「喫茶マウンテン」も。
 誰か、どこかにこんな名店街を作ってくれないかな。

タワーズプラザ-2

 この日は金曜夜のちょうどご飯時ということで、どの店も行列ができていた。人気店どうこうよりも、単純に人が多かっただけだ。
 最初は、箸で食べるパスタの草分け的な店と言われる「洋麺屋 五右衛門」に行こうかと話をしていた。けど、長い行列を見て挫けた。そこまでして食べたいわけじゃない。
 どんぶりで食べる手頃な値段のパスタが人気で、全国チェーンの店らしい。
 ぐるりと一週回って、まずまずの混み具合で、テラス席もあるというので、「ピアンタカフェ」というイタリアンの店に入ることにした。それでも20分くらいは待っただろうか。

タワーズプラザ-3

 このときはまだ暑さが絶好調のときではなかったので、夜のテラス席はわりと涼しくて気持ちよかった。暑いときと寒いときは最悪だ。雨もしけ降ってくる。
 目の前には大名古屋ビルヂングが見えている。屋上の明るくなっている部分は、季節限定のビアガーデン「マイアミ」だ。
 駅前のビルの屋上が夏場はビアガーデンになってしまうという発想がなかなか。仕事帰りの勤め人や、休みの日は家族連れなどで混み合うらしい。
 150分飲み放題、食べ放題で4,000円というのが安いのか高いのかよく分からない。酒を飲まない小食の私が行っても元は取れそうにない。4月25日から9月7日までなので、名古屋に遊びに来たときは一度行ってみてください。話のネタとしては面白そうだから。

タワーズプラザ-4

 目の前に建つミッドランドスクエアが視界を遮る。
 料理がなかなか来ないので、待ち時間に写真を撮りまくる私たち。周りにお仲間はいなかった。完全に田舎者と思われたことだろう。

タワーズプラザ-5

 二人とも何を食べたんだったか、忘れてしまった。ツレは魚介のホワイトソース系のものだったか。私は明太子カルボナーラか何かだった気がする。
 麺はけっこうもちもちで、やや好みが分かれるかもしれない。とびきり美味しいというわけではないけど、まずまず味はそれなりに。値段は1,000円くらいだったと思う。
 コース料理もあるから、本格的に食べられるようにもなっている。軽くランチというものよさそうだ。
 夜が早い名古屋にあって23時まで営業してるのはありがたい人も多いんじゃないか(ラストオーダーは22時)。
 来年開業10周年を迎えるにあたって、タワーズプラザは2期のリニューアルが予定されている。第1期はこの前7月18日だったようで、名古屋初の5店が新規で出店した。撤退するところもあり、これまでより2店増えて39店舗になった。他の店も改装オープンしたみたいだから、もう一度行ってみてもいい。

 そんなこんなで、サンデー料理とタワーズプラザの話でした。
 来週の予定はやや流動的。どのタイミングで遠出するかは今のところ未定。日光シリーズが中途半端なところで中断しないように調節したい。

世界遺産の日光は二荒山神社の神橋から始まる ~日光第五回

神社仏閣(Shrines and temples)
二荒山神社-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 奥日光の散策を終えた我々は、日光市内のいわゆる二社一寺地区へとやってきた。世界遺産に登録されているのはこの地域で、二荒山神社、東照宮、輪王寺を中心に、神橋、本宮神社、瀧尾神社までの103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の建造物群ならびに境内地が指定されている。なので、中禅寺湖地域の二荒山神社や中善寺は入っていないことなる。ただし、聖地日光山ということになると、中禅寺湖も華厳の滝も全部ひっくるめてということで、神域は伊勢神宮に次ぐ広さの3,400ヘクタールに及んでいる。いろは坂が参道で、中禅寺湖も華厳の滝も境内の中にあると想像すると分かりやすいと思う。
 日光が世界遺産に登録されたのは1999年、日本における文化遺産として8番目だった。一番最初が1993年の法隆寺で、姫路城、古都京都、白川郷合掌造り、原爆ドーム、厳島神社、
古都奈良、日光、琉球王国のグスク、紀伊山地の霊場、石見銀山遺跡の11が登録されている。
 日光は思ったよりも外国人の姿が少なかった。姫路城なんて平日でもうじゃうじゃいたのに。日光は電車の乗り継ぎが難しいというのもあるかもしれない。新幹線が通っているところはやはり強い。

二荒山神社-2

 世界遺産日光は、神橋(しんきょう)から始まる。勝道上人が日光を開いたのも、この場所が始まりだった。
 勝道上人と弟子一行は導かれるように日光へとやって来て、いざ男体山に挑もうとしたものの、大谷川(だいやがわ)の急流に阻まれてそれ以上進むことができなくなってしまう。どうしたものかと困っていると、首からどくろをさげた神が現れて、我は深沙大王(じんじゃだいおう)であると名乗ったかと思うと、2匹の大蛇を出して川にかけると、それはたちまち橋となり、勝道上人たちは無事川を渡ることができたという伝説が残っている。そのとき蛇の上に山菅(やますげ)を敷いて渡ったことから、別名山菅の蛇橋(やますげのじゃばし)とも呼ばれている。
 実際この橋が架けられたのは、二荒山神社を創建するためというから、かなり古そうだ。室町時代には記録に残っているというから、その前からからもしれない。参拝者は皆この橋を渡ってお参りをした。なので、神橋は二荒山神社に属している。
 766年に勝道上人がこの地を訪れて最初に建てたのが、紫雲立寺(しうんりゅうじ)というお寺で、それはこの橋の対岸だった。翌767年には寺の隣に男体山の神を祀るための神社を建て、これが二荒山神社の始まりとなった。その場所には現在、二荒山神社別宮の本宮神社がある。紫雲立寺はのちに四本龍寺(しほんりゅうじ)と改称され、今は観音堂と三重塔のみが残っている。
 もう一つの別宮として、滝尾神社がある。ここから北に30分ほど歩いたところで、白糸の滝の奥だ。それは空海がこの地を訪れた際に女峯山の神(田心姫神命)を祀るために建立したとされている。
 現在の二荒山神社の社殿は東照宮よりも北西の奥にある。もともとあったところに建てられた本宮神社には太郎山の神(味耜高彦根命)を祀っている。日光三所、日光三社権現は、二荒山神社、本宮神社、滝尾神社のことを指し、本来はひとまとまりのものだった。明治の神仏分離令によって今の二荒山神社を形式上本社としているだけなので、東照宮も輪王寺も同じ境内にあって、ほとんど境目はない。このあたりも日光の神社仏閣を分かりづらくしている要因となっている。

二荒山神社-3

 神橋近くには、深沙大王堂(じんじゃだいおうどう)が建っている。勝道上人を助けた神を祀ったものだ。
 深沙大王は毘沙門天の化身とも、仏教教典を求めて天竺(インド)を旅した玄奘三蔵を危機から救った神ともいわれている。
 鳥居もあるから神社なのだけど、こちらは輪王寺に属している。
 神橋には橋姫神という神様が祀られていて、対岸の深沙大王と共に男女一対となって橋の守護神となっている。橋を渡る人間の安全を守ると共に縁結びの神様ともされている。

二荒山神社-4

 現在の橋は江戸時代初期1636年に架けられたときのスタイルで、明治37年(1904年)に再建されたものだ。その前に架かっていたものは別の形をしていたそうで、1902年の洪水で流されてしまった。
 平成9年から8年をかけて平成の大修理が行われ、平成17年に美しい姿を取り戻した。
 長さ28メートル、幅7.4メートル、高さは10.6メートル。
 山間の峡谷に造られたはね橋というのは珍しく、古いものとしては日本で唯一のものだそうだ。そのため、日本三大奇橋の一つとされている(残りは山口県錦帯橋と山梨県猿橋)。
 300円を払えば渡らせてくれる。払わないと渡れない。渡ると記念の橋ならぬ箸がもらえるんだとか。おみやげに箸を300円で買うつもりで渡ればいいのか。しかし、日光の寺社というのはあの手この手で小銭を出させるところだ。商魂のたくましさは鎌倉を超えてるかもしれない。京都もえげつないけど、奈良などは良心的な方だ。
 日光の基本的なコースを見学する場合は、二社一寺共通券(1,000円)でいいと思う。これで主だったところは見て回れる。しかし、東照宮の眠り猫が見たいとか、二荒山神社の神苑が見たいとかとなると、そこでは追加料金が発生する。フルコースを回ろうとすると、3,270円もかかってしまう。ちょっとしたテーマパーク並みではないか。

二荒山神社-5

 これが二荒山神社本社入り口の大鳥居だ。左へ行けば、輪王寺の大猷院 (たいゆういん)、右へ行けば東照宮。東照宮へ行くには上新道と下新道があり、上新道には銅鳥居が建っている。
 この頃から雨が降り始めて、参拝も慌ただしいものとなっていった。雨さえ降らなければもう少しいろんなところをゆっくり見られたのだけど、日光の天気が変わりやすいというのは本当だった。

二荒山神社-6

 ここにはいろいろな杉の御神木がある。3本の杉は親子杉、2本の夫婦杉などと名前がつけられていて、上の写真は縁結びの御神木だ。
 杉に楢(なら)の木がくっついたように生えて伸びているのが分かるだろうか。説明書き曰く、杉楢一緒に、すぎならいっしょに、好きなら一緒に……。
 ダジャレの栃木訛りか!
 好ぎなら一緒になるべ、といったところか。

二荒山神社-7

 石段を登り切ったところに神門(しんもん)がある。なんだかやけに新しいと思ったら、昭和57年(1982年)に、男体山山頂に奥宮が祀られてから1200年を記念して建てられたものだそうだ。同じとき、東参道には楼門(ろうもん)も建てられた。

二荒山神社-9

 立派な拝殿が建っている。この奥にある本殿はよく見えない。
 拝殿も本殿も江戸時代初期の1619年に造営されたものだ。1645年に社殿などを建て増したときにどちらも場所を少し移されている。そのとき拝殿の方は再建されているようだ。
 間口は16メートル、奥行き12メートルで、渡り廊下で唐門を通って本殿へと続いている。
 単層入母屋(たんそういりもや)の反り屋根造りで、屋根は黒漆塗りの銅瓦ぶきになっている。派手さはないけど、しっかりお金はかかっている。東照宮や輪王寺がド派手なだけに、あっちを見てからこちらに来ていたらホッとしていただろう。
 本殿は2代将軍秀忠が寄進したもので、豪華で優美な八棟造り(やつむねづくり)になっている。間口11メートル、奥行き12メートルの単層入母屋の反り屋根造り。現在の屋根は黒漆塗りの銅瓦ぶきだけど、創建当時はこけらぶき(又はひはだぶき)だったようだ。

二荒山神社-8

 この神楽殿(かぐらでん)も、明治17年(1884年)に建てられた比較的新しいものだ。
 歴史的な建造物というわけではないから、もちろん重文指定ではない。

二荒山神社-10

 二社一寺共通券では入れない特別有料ゾーン「神苑」に行く手を阻まれた。大国殿、二荒霊泉、縁結びの笹などがあるだけで200円。時間がなかったのと雨が降り出したこともあって、ここは省略した。
 二荒山神社自体は、それほど見所が多いところでもない。神苑に入らなければ、今日紹介したところですべてくらいな感じだ。あと、化燈籠というのはどこにあったんだろう。発見できなかった。暗くなって火が灯るとおばけのように見えて、刀で斬りつけたあとがいくつもついているという燈籠があるらしい。
 眼病などに霊験あらたかな霊泉をいただきたい場合は、200円出しても入る価値がありそうだ。

二荒山神社-11

 日光は杉でも有名なところで、日光市(旧今市市)の日光街道沿いの日光杉並木街道はなかなかよさそうなところだ。今回は時間がなくてそっちまでは行けなかったけど、境内の下新道もけっこういい杉並木だったので、それで満足しておいた。

二荒山神社-12

 このあと左の一番奥にある輪王寺大猷院へ先に行くことにした。奥から行って、手前に戻ってこようという作戦だ。この場合は、バスを神橋ではなく、西参道で降りた方が効率的に回れる。
 日光シリーズも、そろそろ折り返しの後半に入ってきた。輪王寺と東照宮はそれぞれ写真の枚数が多いから1回ずつでは終わりそうにないにしても、食事・おみやげ編や番外編とあわせてあと5、6回だろうか。来週は早々にまた遠出の予定もあるので、もしかすると日光シリーズはここでいったん中断ということになるかもしれない。
 二荒山神社に関しては、昨日、今日でもう終わりだ。自分の中でもだいぶ整理できたし、書こうと思っていたことはほぼ書けたと思う。行ったことがないと理解するのは難しい部分もあるかもしれないけど、今後行くときの参考になればこれ幸い。

いろいろ分からないことが多い二荒山神社の勉強をする ~日光第四回

神社仏閣(Shrines and temples)
二荒山中宮祠-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 今日から日光の神社仏閣編に入る。けれど、これがなかなかややこしくて、書き始める前に勉強する必要があった。行く前にガイドを見てもよく分からなくて、行って帰ってきて復習して、今ようやくつながりと歴史がだいたい分かったところで、まだそれもちゃんと消化しきれてないだけに、整理して分かりやすく説明できるかどうか自信がない。回数を重ねていくごとに私自身も理解が深まっていくと思うので、当面は一緒に勉強するつもりでおつき合いください。
 まずよく分からなかったのが、二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)の存在だ。日光市内には東照宮を中心とした二社一寺というのがあって、その中にも二荒山神社があるのに、中禅寺湖湖畔にも二荒山神社中宮祠(ちゅうぐうし)というのがある。この関係性が分かってなかった。
 悪いのは明治新政府だ。いきなり話が飛んで何のことだと思うだろうけど、話をややこしくしたのは明治政府が出した神仏分離令に他ならない。
 昔の日本は神も仏も一緒に祀るのが当たり前で、日光も例外ではなかった。たびたび登場している勝道上人からして、坊さんなのに寺も神社も創建してしまったくらいだ。勝道上人が日光を開いて以来、この場所は神仏習合の一大霊場として発展していき、それで何の矛盾も問題もなかった。日光山という名前の山はなくても、寺社の建物から山、湖、湿原、温泉地まで一切合切を含めて聖地日光山と称していた。
 それが明治政府が出した神仏分離令によって、無理矢理神社と寺が分けられることとなり、二荒山神社と日光東照宮、そして輪王寺という二社一寺という形になったのだった。そのあたりの詳しいことについては、またあらためて書くことにして、話を二荒山神社中宮祠に戻したい。
 日光市内にある二荒山神社は、あとから分けられてできたようなもので、二荒山神社中宮祠の方が先に建てられている。
 勝道上人が苦労の末、男体山の初登頂に成功したのが782年。このとき山頂に小さな祠を祀って奥宮とした。
 784年には男体山の山麓に中宮祠を建立した。これが二荒山神社中宮祠で、市内の本社と奥宮の中間に位置するということで中宮祠となった。
 このとき一緒に神宮寺の中禅寺も建立している。神宮寺というのは、神社に付属して建てられた寺のことで、もともと中善寺と二荒山神社中宮祠はセットだった。明治時代に山津波が来て、中善寺が倒れてしまったため、現在中善寺(立木観音)は少し離れた場所に建っている。
 これでだいたい話は整理できたと思うけど、もうひとつやっかいなことが残っている。それは、二荒山の名前の由来と、もう一つの二荒山神社についてだ。
 二荒山というのは、勝道上人が男体山に登ったとき、日光の美しい風景を見て、観音浄土に見立てて補陀洛山(ふだらくさん)と呼んだのがなまったという説がある。あるいは、男体山と女峰山の二つの山を二荒山と呼んだのだともいう。他にもいろいろ説があってはっきりしない。二荒をにこうと読んで日光という字を当てたのは弘法大師空海だったという話もある。
 やっかいなのは、日光の二荒山神社よりも更に古い歴史を持つ二荒山神社が宇都宮市にもあるということだ。しかもあちらは「ふたあらやまじんじゃ」と読ませる。二つの神社は起源が同じなのか違うのか、そのあたりもよく分かっていない。
「延喜式」に載っている下野国一の宮も、日光のものなのか宇都宮のものなのか、はっきりしていないようだ。お互いに自分のところだと言い張っている。
 また前置きがすごく長くなってしまった。ぼちぼち鳥居をくぐって中に入ることにしよう。
 上の写真は東表参道になる。もう少し先へいったところには浜鳥居もある。帰りはそちらから出た。
 何か工事をしていたのか、祭りの準備なのか、少し雑然としてソワソワした感じだった。

二荒山中宮祠-2

 唐門(からもん)。日光の神社仏閣は、ほとんどの建物が重要文化財か国宝なので、どれもありがたみがあるから、逆にどれが特別ありがたみがあるというわけでもない。
 二荒山神社中宮祠の社殿や建築物に関しては、何年に誰が建てたなどの詳しい情報を見つけることができなかった。奈良や平安というほど古いものではなさそうだから、江戸時代あたりに再建されたものが多いのだろうか。それ以上新しければ重要文化財にはなってないはずだ。
 晴れた日なら、この後ろ正面にどーんと御神体の男体山が見える。このときは曇りがちで、写真も空が飛んでしまった。

二荒山中宮祠-3

 入るのには300円かかる。日光けっこうお金がかかる。東照宮など泣く子も黙る1,300円。神社に入るのにこの値段は驚いた。
 二荒山神社中宮祠は男体山山頂への登拝口も兼ねていて、山登りをするためにはここで受付をしないといけない。山登り料は500円。300円プラス500円なのか、山登りの人はプラス200円で500円になるのか、そのあたりの詳しい料金体系は知らない。

二荒山中宮祠-4

 拝殿。本殿はこの奥で、横に回り込まないと見えない。
 祭神は、二荒山大神で、大己貴命(オホナムチノミコト)、田心姫命(タゴリヒメノミコト)、味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネノミコト)で、これはそれぞれ男体山(二荒山)、女峯山、太郎山と対になっている。日光三山、日光三所大権現などとも呼ばれ、お父さん、お母さん、息子を表している。
 のちに、それぞれ千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の仏様も当てられるようになった。
 完全に神仏習合というか、神仏混淆で、神も仏も一緒くたになっていたという歴史がよく分かる。輪王寺本堂の本尊もこの3仏がそれぞれ祀られている。
 それにしても、どうして勝道上人は、スサノオの子で地の神である大国主神(大己貴命)を主祭神として選んだのだろう。少し前に星神社のところでも書いたけど、大国主は国造りや農商業の神で、出雲大社(出雲神社)の神だ。尾張地方で祀られることも多いけど、この頃はまだ三河出身の家康とは関係ない。日光と出雲神社の関係性もよく分からないことの一つだ。
 下野国の開祖で下毛野君の始祖とされる豊城入彦命(トヨキイリビコノミコト)でなくてよかったのか。宇都宮の二荒山神社では豊城入彦命を祀っている。このあたりから見ても、やはり下野国一の宮は宇都宮の方で、日光の二荒山神社とは成り立ちが違っているようだ。

二荒山中宮祠-5

 大国殿。本社の方だけでなく、こちらにもあった。
 七福神の大黒様とは違って、ここでの大国様は大国主大神(大己貴命)の俗称だ。
 打ち出の小槌を振ってお参りするというのは珍しい。
 出雲神社といえば縁結びの神様ということで、ここでも縁結びの御利益があるということだった。

二荒山中宮祠-6

 栃木県の天然記念物となっているイチイ。どこにあったんだろう。社殿の裏手だったのだろうか。
 樹齢1000年を超える巨木だそうだ。

二荒山中宮祠-7

 右手奥には男体山の登拝口がある。手前は幸せの黄色いハンカチ風のもの。どういうものかは知らない。

二荒山中宮祠-8

 とりあえずどんな感じになっているのか、入り口付近まで行ってみた。もちろん、登るつもりはなかった。
 見えているのは、登山口にあたる登拝門だ。
 5月5日に開山祭があって、10月25日の閉山祭で閉じられる。冬場は危険なので登山禁止だ。
 道のりは約6キロで、かなり険しいらしい。普通の人で往復6時間から7時間というから、普通じゃない人はもっとかかる。観光気分で登れる山じゃない。
 7月31日から8月7日までの一週間は男体山登拝講社大祭というのが開催される。えらい賑わいらしく、初日の午前0時は境内が数千の山登り人で溢れかえるんだとか。危険防止のため100人ずつ区切られるという。山は相当な混雑というか行列になるのだろう。

二荒山中宮祠-9

 記念ということで、門をくぐって5、6歩歩いておいた。これで山登りのさわりだけしたことにして、ここで引き返す。

二荒山中宮祠-10

 ちょっと変わった顔をした狛犬さんが、きれいに苔むしていた。なかなかいい感じ。

二荒山中宮祠-11

 男体山登拝番付なんてのが掲げられている。男体山に登りまくりの人もいて、横綱(?)は1,000回を超えている。
 男体山登山愛好家の登拝講というグループが全国に50もあるというから、この山のファンは多いらしい。簡単すぎず難しすぎず、往復6時間くらいというのは日帰り登山にはちょうどよさそうだ。

二荒山中宮祠-12

 社殿の彫り物や色合いなどは、日光全体で統一感がある。どこの寺社を見ても、日光っぽいなと思う。社殿の建立時期は全部が一緒ではないだろうけど、元からこういう造りだったのだろうか。

二荒山中宮祠-13

 浜鳥居側からは、この八脚門が出迎えてくれる。8本の柱で支えられているところから名づけられた。
 これはかなり時代を感じさせる。けっこう古いものじゃないだろうか。
 門から出てこようとしている人が、今回日光で私たちを助けてくれたおじさまだ。ここであの人にバス事情などをいろいろ教えてもらわなければ、後半の予定が大きく狂っていた可能性が高い。写すつもりじゃなくたまたま写り込んでいたのだけど、記念写真になった。
 登り慣れている感じだったから、あの番付にも出ていたかもしれない。

 ここから華厳の滝までは歩いていった。20分くらいだったろうか。バスのタイミングが悪かったこともあったし、道路が渋滞していたから、歩いた方が早かった。
 華厳の滝から駅方面へ向かう場合は、華厳の滝の前で待たずに、5分ほど中禅寺湖側に引き返して、中善寺温泉始発のバスに乗るべし。帰りのいろは坂は下りで危険なので、立ち客を乗せてくれない。補助席をあわせて定員55名だから、中善寺温泉始発のバスを待った方が絶対に乗れる確率は高い。下手すると華厳の滝の前では何本バスをやり過ごしても乗れないということもあり得る。
 このときのバスは、結局ダイヤから1時間遅れでようやく到着した。私たちはその2本あとのバスに乗るつもりだったけど、そのバスはあれから何分後に来たんだろう。
 おじさまの助けもあって、なんとかバスに乗り込んだ我々は最後に東照宮へ向かった。残り時間は約3時間。終盤は雨が降り出すという不測の事態に陥ったのだけど、それはまた別の話。
 まずは二荒山神社の勉強をしたところで、次回は二荒山神社本社を紹介する予定となっている。

華厳の滝のズーム連続写真と藤村操と夏目金之助先生 ~日光第三回

観光地(Tourist spot)
華厳の滝-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di



 私は昔一度、華厳滝(けごんのたき)を見たことがあるような気がする。前世とかそういうことではなく、もう少し近い過去に。確か小学生か中学生のときだったとは思うのだけど、記憶が曖昧ではっきり思い出すことができない。もしかすると中学の修学旅行で東京と日光へ行ったんだっけ? 誰にともなく訊ねてみたくなる。
 それにしては東京にしろ日光にしろ、その他のことをまったく覚えてないから、やっぱり行ってないんだろうかという気にもなってくる。京都・奈良に修学旅行で行ったことは覚えている。あれが小学校とするならば、やはり中学は東京・日光だっただろうか。しかし、中学の修学旅行をそんなにも簡単に忘れてしまうものだろうか。自分の記憶力のなさが恐ろしい。
 だから今回、実際に華厳の滝を目の当たりにすれば、何か思い出すんじゃないかと期待していた。そして華厳の滝の前で私は再び考え込むこととなる。うーん、来たような来てないような。アンチ・デジャブとでも言うべき思い出せなさ。来たはずなのに来てると思えない。何かつらい思い出があって、記憶そのものが封印されているとでもいうのか。
 結局、何一つ思い出せずに終わった。周囲の景色にも見覚えがない。いつか中学の同級生に会ったら訊いてみよう。修学旅行ってどこ行ったっけ、と。まるで視界1メートルの霧の中にいるような感じだ。

華厳の滝-2

 華厳の滝を近くから見られるのは基本的に2ヶ所しかない。上の写真は無料の滝見台からの眺めで、もう一つは有料エレベーター(530円)に乗って下に降りていったところにある。今回私たちは無料のところから見るだけで終わってしまった。エレベーターは、待ち時間をあわせると30分ほどかかりそうだったので、時間の関係で断念した。そのあとのことを考えると正解だった。中善寺温泉始発のバスが1時間遅れで、その列に並んでぎりぎり乗ることができたくらいだから、1本バスを逃していたら致命的だった可能性がある。
 ただ、一ヶ所からしか撮れなかったから、華厳の滝の写真は収穫があまりない。ほとんど同じ写真ばかりで、面白くない。ズームの加減が違う写真を並べるだけになってしまう。それに、近くから撮る華厳の滝は、どうも迫力に欠ける。豪快さが写真からは伝わらない。

華厳の滝-3

 ここまで寄って撮れば、滝の水量やゴォーっと流れ落ちる感じが少しは伝わるだろうか。
 時期によって水量は変化して、毎秒1トンから3トンくらいだそうだ。1トンの衝撃でも頭蓋骨が骨折するというから、ここの滝で打たれて修行することはできない。むち打ちどこじゃ済まない。
 この日はけっこう多めだったんじゃないだろうか。一番豪快なのは台風や大雨のあとで、何十トンとかになることもあるそうだ。
 滝の高さは97メートル。あれだけ水量のある中禅寺湖の唯一の流出川である大谷川から流れ落ちる滝ということで、この豪快さを生み出している。和歌山県の那智ノ滝(なちのたき)、茨城県の袋田ノ滝(ふくろだのたき)と共に日本三大名瀑とされている。よく分からないけど、2007年には日本の地質百選にも選ばれたらしい。美しい地質の基準とは何だろう。愛知県からは鳳来寺山が選ばれた。
 日光にはこの他にも竜頭の滝や湯滝、霧降の滝など、たくさんの滝がある。滝マニアにはたまらないところだ。華厳の滝だけ見て満足してるようじゃ滝の素人だなと、彼らはきっと思ってる。滝の玄人になりたいとは思わないけど。 
 華厳の滝を発見したのは昨日も書いたように勝道上人で、華厳の滝と名づけたのも上人だったのかもしれない。大乗仏教の経典の一つ『大方広仏華厳経』から取られたようで、他にも涅槃の滝(ねはんのたき)や、般若の滝(はんにゃのたき)などがある。
 ちなみに、華厳経の本山は奈良の東大寺だ。

華厳の滝-4

 更に寄ってみた。脇にチョロチョロ流れている伏流水を十二滝と呼び、これも華厳の滝の魅力の一つとされている。確かに言われてみれば直下する中心の流れと、その周りで彩りを添えるような繊細な流れとがあいまって造形美を形成している。これはズームで撮らなければ気づかないところだった。
 冬場はこの十二滝が凍って、ブルーアイスになるんだそうだ。それはきっときれいだろう。
 6月には滝の周りをたくさんのイワツバメが飛び交うという。それも見たかった。
 険しい地形ゆえに華厳の滝を間近から見られるようになったのは、発見からずいぶんあとの明治33年(1900年)以降のことだ。星野五郎平という人が、滝壺近くに茶屋を開くために7年もかけてこのあたりを切り開いたのが始まりだった。
 エレベーターが完成したのは更にあとの昭和5年(1930年)だった。岩盤が堅く、くり抜くのに苦労したという。
 これだけの滝だから観光名所になるのは宿命だったに違いないけど、もし星野五郎平が華厳の滝を観光地にしようとしなければ、藤村操(ふじむらみさお)がここから飛び降りて自殺することはなかったかもしれない。華厳の滝の自殺者第一号が出たのは、明治36年5月のことだった。
 18歳だった旧制一高の藤村操は、この滝の近くにある樫の木を削って、「巖頭之感」と題する遺書を残して投身自殺をした。
「悠々たる哉天壊、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学、竟に何等のオーソリチィーに値するものぞ。萬有の真相は唯一言にして悉す。日く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。」
 エリート学生の自殺は社会に衝撃を与え、以来、それを真似て自殺する者が相次ぎ、華厳の滝は自殺の名所となってしまう。
 このとき、藤村操の英語担当の教師が、夏目漱石として小説を書き始める前の夏目金之助だった。第一高校というトップ高校の英語教師は帝国大学の英文科教授が務めるのが決まりで、国費で英国留学を終えたばかりの夏目金之助がそれに当たることとなった。当時36歳の夏目金之助は、イギリスでさんざんバカにされて嫌な思いをして神経衰弱になっていた。このまま放っておくと危ないということで国に呼び戻されたばかりで、自身も二度と英国など行くものかと書いている。
 そんなこともあって、夏目金之助先生の授業は形式的で詰まらないともっぱらの評判だった。その前の英語教師が小泉八雲ことラフカディオ・ハーンで、そちらの評判がよかっただけに余計夏目先生は生徒たちの受けが悪かったようだ。
 自殺する一週間前、藤村操は夏目先生に叱られている。宿題をやっていなかったことをとがめられ、そして翌日もまたやっていかず、「勉強する気がないなら、教室へは来なくてもいい」と、二度目はきつく叱られた。
 自殺の知らせが入った翌日、夏目先生は生徒たちに訊ねている。「藤村はどうして死んだんだい」と。自分が叱ったせいかもしれないと思って、かなり動揺していたという。このことが夏目金之助の神経衰弱を更に悪化させる要因になったとも言われている。
 社会的にはエリート学生が人生に悩んで自殺してしまって気の毒にという捉えられ方だったようだけど、学識者の間では藤村の死を巡って大いに議論が交わされることとなる。学生の厭世観や死生観について、また、この自殺が是か非かということだったのだろう。
 一高の一学年上にのちの岩波文庫を創設する岩波茂雄がいた。岩波は藤村と知り合いだったということで大いにショックを受けて、信州野尻湖の弁天島に夏の間こもって泣き暮らし、その年は落第してしまったのだった。
 この話には落ちがある。これだけ世間を騒がせ、議論を呼んだ自殺の原因が、哲学的な厭世観ではなく、実は失恋によるものだったというのだ。片思いの相手は、菊池大麓の長女菊池多美子で、多美子はこの年、のちに憲法学者となる美濃部達吉と結婚したのだった(東京都知事を務めた美濃部亮吉の父)。
 本人も遺書の中で悲観と楽観は一致すると書いているけど、悲劇と喜劇は紙一重と思わずにはいられない。皮肉といえば皮肉な話だし、自殺せずに長生きすれば笑い話にもなったろうに。
 けど、100年経った今でもこの話が伝わり、名前が残ったことを思えば、生きた証としてこの世にひっかき傷のようなものを残したと言えるかもしれない。警察が写した「巌頭之感」の写真のコピーが現在もおみやげとして売られている。現代は大きな事件を起こしても、ひと月やそこらで忘れ去られてしまうことを思えば、一つの問いかけとしての価値はあるようにも思う。
 それにしても、飛び降りたというのはどの場所だったのだろう。滝の上は相当険しい地形だから、そう簡単に近づけるような感じはない。あそこまで辿り着ける根性があったら、何かもっと他にもできそうなのに。あそこまで行ってみろと言われても、たいていは途中で挫けてしまいそうだ。
 2年後、夏目金之助先生は夏目漱石というペンネームで小説を書くことになる。それが第一作の『吾輩は猫である』だ。神経衰弱の気を紛らわすために書き始めたとも言われている。奥さんによると、苦虫を噛み潰したような顔でイヤイヤ書いていたそうだ。
 最初は友達の高浜虚子にすすめられて書いた『猫伝(ねこでん)』という読み切りの短編小説だった。それが評判となり、続きを書けということで『吾輩は猫である』というタイトルで全11回連載して長編になった。
 小説の中で、相談に来た学生を冷たくあしらった主人がこんなことを思う文章が出てくる。「可哀想に。打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない。」
 皮肉や揶揄のようにも思えるけど、心に深い傷として残っていたことの表れともとれる。

華厳の滝-5

 横から見た華厳の滝。昔はこんな感じで、全体を見渡せる場所はあまりなかったんじゃないだろうか。特に夏の時期は葉が生い茂っていて、目隠しになってしまう。春先から晩春あたりがいいのかもしれない。

華厳の滝-6

 結局のところ、明智平から見る華厳の滝が、風景としては一番に思える。滝の雄大さがよく分かる。
 こうしてみると、中禅寺湖からはだいぶ離れているように見える。けど、これだけの水量だから、滝の落ち込み口は年々浸食されていて、滝ができてから2万年の間に800メートルほど中禅寺湖寄りに移動したと言われている。近年では1976年と1986年に、大規模な崩壊が起こっている。この先、500年から2000年の間に、ひょっとすると落ち口が中禅寺湖に達するかもしれないという。そうなると、もはや滝というより湖から水が溢れ出してしまう決壊だ。崖を大きく削って、ざばーんといってしまうんじゃないか。ナイアガラの滝みたいになって、それはそれでいいのか。
 街の風景だけでなく、自然の景色も長い歳月の間には移り変わっていく。もし私が中学のとき本当に華厳の滝を訪れているとしたなら、そのときに見た華厳の滝と、1986年の崩壊以降の滝とは姿が違っているはずだ。そんなことを考えると、また最初の状態に戻ってしまう。本当に日光は二度目なのか、初めてなのか、どっちなんだろう。東照宮も見てるのやら見てないのやら。うーん、覚えてないなぁ。この歳まで生きれば、若い頃の失恋の傷みなんてのも、すっかり忘れてしまった。

日光でゆったりできたのは中禅寺湖の遊覧船の中だけだった ~日光第二回

観光地(Tourist spot)
中禅寺湖の風景



 日光といえば東照宮華厳の滝中禅寺湖と、この3つが代表的な観光地と言っていいと思う。猿軍団はどうしたとか、江戸村も忘れるなとか、いろいろ意見もあるだろうけど、とりあえず昔からの有名どころとしてはこの3つに違いない(個人的には1/25スケールで世界一周ができる東武ワールドスクウェアというのも気になっていた)。
 この3点セットを日帰りで回ろうとすると、実はけっこう大変だ。渋滞していないときでも駅から中禅寺湖までは片道1時間くらいかかる。往復だと2時間。華厳の滝までは歩いて15分。東照宮をはじめとした寺社群をくまなく回るとライトコースでも2時間半、ヘビーコースなら4時間くらいを要する。それぞれの待ち時間などを考え合わせると、おちおち休んでもいられない。日光なんてお年寄り向きの観光地と思ってるかもしれないけど、あそこは元気なうちに行っておいた方がいいところだ。
 私たちは明智平へ寄っていったので、更にスケジュールはタイトになった。結果的には予定通りすべて回りきることができたのだけど、どこかでバスを1本逃していたら断念するところが出てしまうほどのぎりぎりさだった。バスを追いかけて走ったり、途中で親切なおじさまにいろいろ教えてもらったり、幸運にも恵まれた。
 そんなわけで、日光シリーズ第二弾は中禅寺湖編となる。

 中禅寺湖のあるあたりは、区分としては奥日光ということになる。一般的に日光といえば、駅から東照宮周辺と市街地を指す。その境目は、屏風岩(びょうぶいわ)あたりとされているようだ。
 もともと日光というのは、二荒山(ふたらさん)が転じたものとされている。男体山は二荒山とも呼ばれていて、二荒を「にっこう」と音読みして、それがのちに日光と表記されるようになったのだと。これについても天海が関係しているという話もある。
 日光を開いたのは、昨日も出てきた勝道上人(しょうどうしょうにん)だ。男体山に初めて登ったのも勝道上人ならば、中禅寺湖を見つけたのも、華厳の滝を発見したのも勝道上人だと言われている。勝道上人抜きには日光は語れない。そのあたりの詳しいことは、神社仏閣編のときに書きたいと思う。
 中禅寺湖は、2万年ほど前に男体山の噴火によってできた堰止湖(せきとめこ)だ。標高は1,271メートルで、4平方キロ以上の湖では日本で最も高い場所に位置している。
 意外に知らない人もいるかもしれないけど、華厳の滝はこの中禅寺湖から流れ出る水でできた滝だ。高さ97メートルの華厳の滝は、中禅寺湖の高さがあったから生み出されることになった。
 一番深いところで163メートルもあるから、湖底は華厳の滝の滝壺よりも更に深い位置になる。
 周囲約25キロ。日本で25番目に広い湖だそうだ。



船着き場

 観光客として中禅寺湖を訪れて何をするかといえば、やることはだいたい3つしかない。湖をぼぉーっと眺めるか、ボートで湖にこぎ出すか、遊覧船に乗るかだ。我々は遊覧船を選択した。足こぎスワンボートはあっさり却下された。手こぎボートは難破する恐れがあるので自粛した。
 湖の周囲はそれなりに店などもあって、観光ムードが色濃い。奥日光の静かな湖みたいなものをイメージしていくと、俗っぽさにがっかりしてしまうかもしれない。奥の方はいざ知らず、表側は避暑地というより完全に観光地化されている。
 中禅寺湖を避暑地として育てたのは、日本を訪れた外国人たちだった。江戸時代には東照宮が建てられたこともあって参拝客や行楽客が大勢訪れるようになったものの、当時はまだ男体山一帯が女人禁制の聖域だったこともあり、観光地にはなっていなかった。
 松尾芭蕉は「奥の細道」の旅の途中でこの地を訪れている。1689年の4月、東照宮を見て、「あらたうと青葉若葉の日の光」と詠んだ。
 明治に入ってから、日光は大きく様変わりすることになる。明治5年(1872年)に女人解禁となり、たくさんの女性が訪れるようになった。このとき、牛馬も解禁となっている。それまでは神聖な土地ということで牛や馬もこの地に入ることは禁じられていたのだ。今でも馬返(うまがえし)と呼ばれる地名が残っているけど、これはここから先は馬は入れないから引き返したという意味だ。女の人が遠くに男体山を拝んだ場所には女人堂が残っている。
 翌明治6年には金谷ホテルが営業を始めている。外国人専用の金谷カッテージ・インとしての開業だった。
 明治9年には明治天皇が訪れ、中禅寺湖を幸の湖(さちのうみ)と名づけたという。
 上野から日光までの鉄道が開通したのは、明治23年(1890年)のことだった。
 外国の外交官などがこの地をリゾート地として選んだのは、風光明媚な避暑地というだけでなく、マス釣りが目当てだったと言われている。
 もともと中禅寺湖は堰止め湖だったため、魚はすんでいなかったらしい。それに聖地ということで殺生も禁じられていた。
 明治6年に日光在住の星野定五郎という人がイワナを放流したのがきっかけで、マスなどが次々と放流されたり養殖されるようになり、それに目をつけた外国人がスポーツフィッシングを始めた。イギリスを始め、ヨーロッパではフライフィッシングというのは紳士のたしなみの一つみたいなところがあったらしい。それを見た日本人たちも真似をするようになり、湖周辺には多くの別荘が建てられるようになった。
 現在でも外国大使館の別荘が何軒かあって、釣りに訪れる人も多いという。放流とはいっても稚魚の放流で、半分野生育ちなので、なかなか釣れないらしいけど。



足こぎボート

 スワンボートに手こぎボート、モーターボートまである。この日は天気もよかったということもあって、たくさんのボートが湖に浮かんでいた。何しろ広い湖だから、うっかり遠くまで出てしまうと帰るのに時間がかかる。不忍池とは違う。
 手こぎでも1時間1,000円、スワンは1時間3,000円もするから、2時間も漕いだら6,000円にもなる。妙に焦って漕いでいた人がいたけど、あれは時間オーバーになりそうだった人かもしれない。



遊覧船を待つ人

 中禅寺湖クルージングは、一周コースで1時間弱、1,200円。直線移動の単発コースもある。
 1時間に1本で、丸まる1時間かかるから、ここでの時間調整を間違えると大きく時間をロスすることになる。
 船は揺れも少なく、ゆったりとして快適だった。1時間というのはちょっと時間を取られすぎるけど、のんびりするにはいい。
 湖上を吹きすぎる風も冷たくて気持ちがいいし、これはなかなかオススメだ。



船の跡

 水の色は深い青緑で、水深の深さがうかがえる。
 かなり透明度の高い湖で、かつては透明度13.5メートルもあったようだ。最近の資料によると9.0メートルまで落ち込んでいる。原因は観光客が増えたことなのか、他にも何かあるのか。
 日本で一番透明度の高い湖は摩周湖で、25.5メートルとされている。然別湖、倶多楽湖、支笏湖と続き、中禅寺湖が13.5だったときは日本で7番目だった。



中禅寺湖の風景

 カヌー軍団も湖に繰り出していた。遠目だったので子供だったのか大人だったのか判別できなかったけど、この日は風も穏やかで波もほとんど立ってなかったから、気持ちよかっただろう。



男体山

 男体山の山頂付近に終始雲がかかっていて、とうとう最後まで全体を見ることができなかった。



昼食のケーキ

 船上で午後の予定を検討したところ、店に入って昼食を食べる時間がないことが判明。ツレ持参のワッフルとプチケーキでの昼食となった。船内にはジュースの自動販売機も置いてない。でも、1時間あるから、ここで持参の弁当を広げるというのは無駄がなくていい。テーブル席も用意されている。




中禅寺

 今回時間の関係でどうしても割愛せざるを得なかった中善寺(立木観音)を船上から拝む。
 勝道上人が開山したお寺で、中禅寺湖の名前はここから来ている。日光山輪王寺の別院でもある。
 立木観音という通称は、本尊が桂の立木を勝道上人が彫った千手観音ということで、そう呼ばれている。
 中禅寺湖はそう簡単には行けないところだから、こことはすれ違ってしまった。もう一つ中禅寺湖畔には二荒山神社の中宮があって、どちらかしか行けないとなって、そちらを選んだのだった。結果的にはそれが正解だったことになる。もし、中善寺を選択していたら、後半の予定がガタガタになってしまった可能性がある。



明智平より

 これは明智平から見る中禅寺湖の遠望だ。
 こうして中禅寺湖もしっかり堪能した我々は、二荒山神社中宮を参拝したあと、いよいよ華厳の滝へ向かうこととなった。そのときのことはまた次回。

 華厳の滝のズーム連続写真と藤村操と夏目金之助先生 ~日光第三回
 

明智平と名づけたのが天海だったとしてもしなくても ~日光第一回

観光地(Tourist spot)
明智平-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di



 2008年の夏旅第一弾は日光だった。
 日光シリーズ第一回は、明智平(あけちだいら)から始まる。
 東武日光駅からバスに乗って約35分、上り専用道路の第2いろは坂を登り切ったあたりに明智平はある。標高は1274メートル。レストハウスなどのあるドライブインにもなっているため、車で訪れた人が休憩を兼ねて展望を楽しんでいく場所でもある。
 気をつけなければいけないのは、いろは坂は上りと下りがそれぞれ一方通行になっていることだ。明智平へ行くなら中禅寺湖へ向かう行きに寄っておかなければいけない。中禅寺湖へ行ってから帰りに明智平も寄っておこうと思っても行けないから。
 もともといろは坂はカーブが48あって、いろは48文字にたとえいろは坂と名づけられた。それが昭和29年(1954年)に道路が大幅に改修され、一時期カーブは少なくなっていた。その後、交通量が増え、昭和38年(1965年)にもう一本の道が作られることとなり、そちらを上り専用とし、元からあった方を下り専用とし、あわせてカーブを48として、再び48カーブを持ついろは坂に戻ったのだった。それぞれのカーブには、いろは48文字が名づけられて看板が出ている。
 下から山頂までは標高差が500メートルほどあるので、これくらいつづら折りにしないと車は登っていけない。

明智平-2

 これはドライブインの駐車場から見た眺めで、見えているのは男体山(なんたいさん)だ。日光の歴史はこの山から始まったと言ってもいい。
 日光というと、徳川家康が死んで東照宮が造られるまでは何もないところだったと思っている人も多いかもしれないけど、日光の歴史はもっと古く、関東有数の霊山として昔から信仰の対象となっていたところだった。
 この山に初めて正式に登ったのは、僧の勝道(しょうどう)という人だった。何度も挑戦しては失敗し、ようやく登ることに成功したのは、初挑戦から15年後の782年だったとされている。奈良時代末期のことだ。勝道48歳のときだった。
 男体山というのは、山続きの女峰山と対でつけられた名前のようだ。男と女がセットになっている山脈は、男女岳の駒ヶ岳など、他にもいくつかある。
 標高は2486メートル。昔は2484メートルとされていて、栃木っ子は県の西の端にあるから「にしっぱし」と覚えるのに便利だったのが、再調査で2486メートルとなってしまって覚えづらくなった。西の野郎などと覚えればいいかもしれない。

明智平-3

 ロープウェイの切符売り場。やけに涼しくて、エコを無視してエアコンをギンギンにかけてるのかと思いきや、ナチュラルに涼しいだけだった。ひんやりした空気は気温22度。明智平の標高を考えればこれくらい涼しいのは当然か。一般的には、標高1000メートル上がると5度から10度くらい下がるとされている。上に登ったロープウェイ駅は20度だった。
 全体的に昭和ムードが漂う乗車券売り場で、人数の数え方も手動のカウンターだったり、ときどき何かメモ書きなどもしていた。
 テレビには華厳の滝の実況中継が映し出されている。見え具合とか、水量とかを知らせるサービスということだろうか。

明智平-4

 斜めの必要性は見えなかったけど、気持ちはなんとなく分かる。平智明(たいらともあき)と読めなくもない。

明智平-5

 ゴンドラの名前は、「なんたい」と「けごん」。
 こんな古い施設の割にゴンドラがやけに新しい。帰ってきてから調べたところ、平成13年に大阪車輌工業で製造されたものだそうだ。
 油が飛び散るからあまり近づかないでくださいと、先頭の人が注意されていた。
 定員は16名と、かなり小さめだ。下から上までが3分という短い時間だからというのもあるのだろう。ダイヤはなく、2基が行ったり来たりして乗客を運ぶ。往復710円。
 明智平ロープウェイの営業が始まったのは、昭和8年(1933年)のことだった。当初は日光登山鉄道が営業をしていた。しかし、わずか10年で終了してしまう。採算が取れなかったのか、日光登山鉄道そのものの営業が傾いたのかもしれない。
 ロープウェイが復活するのは7年後の1950年、東武鉄道によってだった。東武鉄道は、1932年から1970年にかけて、馬返し駅から明智平駅を結ぶケーブルカー(東武日光鋼索鉄道線)も走らせていた。
 1985年には日光交通に営業が移り、現在に至っている。
 登りだけロープウェイで行って、帰りは中禅寺湖方面まで遊歩道が整備されているから、そこを歩いていってもいい。茶の木平まで1時間半というから、中禅寺湖までは2時間以上かかるだろうけど。

明智平-6

 ロープウェイの動力源。大きな車輪が回っていた。
 2駅の距離は約300メートル。勾配は最高30度。時速は9キロ。
 ゴンドラは新しくても、元の装置は昔のままなんじゃないだろうか。

明智平-7

 下りロープウェイとすれ違う。
 人が来たら運行するというスタイルをとっているので、タイミングによっては一人で乗ることになったりする。待たせないのは親切だけど、ゴンドラって、一人で乗る乗り物じゃないと思う。寂しいというか、照れくさい。すれ違うゴンドラに乗った人に写真を撮られがちだし。

明智平-8

 見下ろす下の駅と、遠くの山なみ。ゴンドラの中でしか見られない風景というのは特になさそうだ。
 途中にはヤマボウシやアジサイが咲いていた。季節の進み具合が遅いことが分かる。

明智平-9

 展望台と人々。
 男体山の山頂には雲がかかり、天気は悪くなかったものの、見晴らしはもう一つだった。
 夏場は涼しくていい。冬場は寒くて震え上がることになるだろう。雪が降ったら通行止めになるだろうから、真冬はここまで来られないのかもしれない。

明智平-10

 引きで見る華厳の滝と、奥の中禅寺湖。
 おおー、これはなかなかのものと感心、感激する。ここを訪れた人が誰しも撮ってしまうアングルの写真なのだけど、こういうふうにしか撮りようがない。
 紅葉の時期で晴れていたら更に素晴らしい景色になるのだろう。いろは坂の猛烈な渋滞を乗り越えてでも見る価値がある。
 しかし、あの渋滞はひどすぎる。もう一度鉄道を敷くとかなんとかできないものだろうか。この日も午後のバスは1時間遅れだった。

明智平-12

 寄りで見る華厳の滝。
 もしかしたら華厳の滝を撮るのはここがベストポジションかもしれない。華厳の滝の展望台からは滝壺が見えないし、エレベーターで下りるとアングルは下からになってしまう。ここからなら落ちるところから滝壺まで全体の様子を撮ることができる。望遠としては300mmレンズくらいがちょうどいい。

明智平-13

 ここを明智平と名づけたのは天台宗の大僧正・天海(てんかい)だとされている。天海の正体は実は明智光秀だったという説の一つの根拠となっているのがこのエピソードだ。
 天海というのは、徳川家康のブレーンとして江戸幕府成立に関わった重要な人物で、謎の多い人としても知られている。本人も自分の出自については語らなかったというけど、通説では陸奥国(現在の福島県大沼郡)で1536年に生まれたことになっている。織田信長の2歳下だ。小説などでは足利将軍家12代足利義晴の隠し子などと描かれることもある。
 幼い頃から聡明で、14歳のとき宇都宮粉川寺の皇舜僧正に学んだのをはじめ、比叡山、三井寺、興福寺などで修行をして、いろいろな寺の住職にもなったとされている。武田信玄の元に呼ばれたり、後陽成天皇に説教をしたという話もあるくらいだから、通説を信じるなら明智光秀が天海になったなどという話はまったく根拠のないでたらめということになる。
 はっきりと歴史の表舞台に登場するのは、1588年に武蔵国の無量寿寺北院へ行って、天海を名乗るようになってからだ。
 その後、天海が75歳のときの1610年、駿府城で徳川家康に対面した。68歳の家康は天海の話に深く感銘を受けて、もっと早く天海に会いたかったと言ったという話が伝わっている。
 しかし、実はもっと早い段階で天海は家康に会っていたという説もある。関ヶ原の合戦のときにはすでに参謀として家康と共にあったというのだ。いずれにしても、天海の前半生は謎に包まれている部分が多い。このことが明智光秀同一人物説を生むことにもなる。
 江戸幕府では家康と朝廷との交渉役を任され、二代将軍秀忠、三代家光と三代に渡って仕えることとなる。江戸の都市作りにも関わり、風水や陰陽道の考えを取り入れたのも天海だったと言われている。
 1613年には日光山の住職として任命され、これによって日光は大いに繁栄することとなった。このとき、日光で一番見晴らしがいい場所に明智平と名づけたのだという。
 1616年、危篤となった家康は葬儀に関することを天海たちに任せてこの世を去る。当初は遺言によって駿府の久能山(今の久能山東照宮)に埋葬された。
 この後、家康をどういう神様として祀るかでもめ事が起きる。崇伝や本多正純たちは明神として祀るべきだと主張したのに対して天海は、権現として祀るべきと言い張った。豊国大明神として祀られた豊臣秀吉と同じではよくないというのがその理由だ。
 結局、天海の主張が通り、一周忌の際に家康の墓所は久能山から日光の東照社に移され、東照大権現となった。とのとき建てられたのが輪王寺(りんのうじ)で、現在の立派な東照宮が建つのは、三代将軍家光のときだ。
 工費の上限なしという命令で建てられた東照宮は絢爛豪華な社殿で埋め尽くされた。1636年、これを寛永の大造替と呼んでいる。
 天海はその後108歳まで生き、遺言で日光の大黒山に埋葬された。

 こうして書くと、天海と明智光秀を結びつけるものは明智平の命名くらいしかない。しかし、もちろん、この説の根拠はそれだけではない。
 たとえば、東照宮に光秀の家紋である桔梗がたくさん彫られているとか、二代将軍の秀忠と三代家光は光秀から名前が取られているとか、光秀の家老だった斎藤利三の娘が家光の乳母となり、のちに春日局となって大奥のトップに上り詰めた不自然さなどが根拠として挙げられている。家康も光秀に対しては尊敬心を抱いていたようで、信長を討ち果たしながらも秀吉に敗れて落ちのびた光秀を匿ったというのもあり得る話だったかもしれない。いくら逃げ延びている山中とはいえ、一介の農民に光秀が簡単に討ち取られるとも思えないし、それが影武者だった可能性も大いにある。
 ただ、それぞれの根拠に対する反論も当然ある。まず年齢が合わない。もし光秀が天海になったとすると、116歳まで生きたことになってしまう。時代を考えるとちょっとあり得ないだろう。桔梗の家紋も特別なものではなく、将軍の名前もこじつけだし、逆にそうだとしたらあからさますぎる。それに、信長を討った光秀が生きていて、それを家康が参謀にしたなんてのは問題すぎる。織田家家臣の生き残りなら光秀の顔を知っているわけだし、そのとき騒ぎにならなかったはずがない。
 結局のところ、まったくのとんでも説だと笑い飛ばしてしまったらいい。のかと思うと、話は単純ではない。近年になって天海と光秀の筆跡鑑定をしたところ、同一人物ではないものの特徴に一致するところがあり、ごく近しい関係の人物ではないかという結果が出たというのだ。これで話はまたややこしくなり、浮上したのが光秀の甥とも従兄弟ともいわれる明智秀満の存在だ。
 明智左馬助としてゲーム「鬼武者」の主人公となったあの人物がのちに天海になったのだという。もちろん、信憑性のほどは分からない。史実では、山崎の合戦で光秀が敗れたことを知った秀満は、本拠の坂本城に入って一族と共に自刃したということになっている。あるいは、琵琶湖を馬で渡ってどこへともなく消えたという伝説があり、のちにそれは「左馬助の湖水渡り」として描かれることとなる。
 日本の歴史上、いくつかの伝説や珍説がある。本能寺の変で信長は死なずに生き延びたとか、義経は平泉を脱して北海道に渡り、更に大陸に渡ってチンギス・ハーンになったとか、徳川家康は途中から影武者が成り代わったのだとか、芭蕉は幕府の隠密だったとか、天草四郎は豊臣家の生き残りだったとか、あれやこれや。天海イコール光秀説もその中の一つだ。この中のどれかに真実があるのかないのかは分からない。今となってはどれも知りようがないことだ。
 個人的には、家康影武者説というのはけっこう信じている。本物の家康はどこかで死んで、途中で世良田二郎三郎元信と入れ替わったのではないかと。そのことと天海、光秀がどこかで結びつくとまた面白い話になる。明智光秀もまた、前半生がよく分かっていない人物だから、想像はあれこれ広がっていく。
 もしタイムマシンが実用化されたら、未来を見たいという人と、過去を知りたいという人とがいると思うけど、私はまず過去へ行きたい。坂本龍馬の暗殺犯は誰だったのかとか、たくさん知りたいことがある。
 もし行ってきて、いろいろ分かったらここで報告しよう。それこそ天海のように108歳くらいまで生きて気長に待っていて欲しい。
 途中から大いに脱線したけど、日光シリーズ第一弾明智平編はこれにて終了となる。次回は中禅寺湖編の予定です。

遠出前は尾張旭の田んぼ風景写真を並べて簡単更新

野鳥(Wild bird)
尾張旭田んぼ-1

PENTAX K100D+SIGMA 400mm f5.6



 明日はちょっと遠出。今日はゆっくり更新している時間がないから、撮り貯めた尾張旭の田んぼ写真を並べて簡単更新。
 一枚目は、まだ6月の始め、田植えが終わったばかりの頃。
 このときからずっとケリのヒナを撮りたいと、何度か尾張旭に通ったのだけど、結局今年は撮ることができなかった。

尾張旭田んぼ-2

 ケリの飛び姿。地上にいるときは地味なのに、飛び立つと白黒ツートンカラーが美しいのがこの鳥だ。

尾張旭田んぼ-3

 少し苗が伸びたところ。去年はこれくらいの時期にヒナを見た記憶がある。今年はどうもタイミングが悪かったようだ。親鳥は警戒して近くを通りかかる犬などを威嚇していたから、巣の中に卵はあったのかもしれない。

尾張旭田んぼ-4

 尾張旭の田んぼといえば、赤い瀬戸電がよく似合う。
 白いガードレールが風景のバランスを崩しているから、ここは茶色とかに塗ってくれないだろうか。

尾張旭田んぼ-5

 これはワルナスビだと思うけど、どうだろう。
 なすびの花に似た悪い奴という意味で命名されてしまったようだ。やっかいな雑草で、田んぼでは嫌われ者となっている。

尾張旭田んぼ-6

 これが一番最近、7月の始めに行ったときの様子だ。苗はこんなにも伸びていた。
 親鳥の体さえ半分隠れてしまうくらいだから、チビがいてもなかなか見つけられない。
 ただ、親があまり警戒しているふうではなかったから、今年はあまりヒナは生まれなかったのだろうか。

尾張旭田んぼ-7

 カルガモと並ぶケリ。敵対関係ではないらしい。

尾張旭田んぼ-8

 カルガモのチビがひょっこり出てきた。もうヒナという大きさではないけど、今年の春に生まれたやつだろう。ここまで育てば安心だ。

尾張旭田んぼ-9

 ケリ飛翔その2。
 なんとかピントを合わせるので精一杯で、背景まで考えては撮れない。まだまだ練習不足。

尾張旭田んぼ-10

 600mm相当で撮れば、展望台にいる人影が撮れる。3000mmのデジスコなら、顔まで写るんじゃないだろうか。望遠レンズって、そういうことに使うものじゃないけど。

尾張旭田んぼ-11

 お馴染みの城レストランと、スカイワードあさひ。

尾張旭田んぼ-12

 6月から7月にかけて3回行った尾張旭の田んぼでは、あまり収穫がなかった。ケリのヒナを1匹でも撮れたらよかったんだけど。
 今年はどうしたわけかツバメが少なくて、飛びもの撮りの練習台になってくれなかった。環境に何か変化があったんだろうか。

 今日はここまで。
 明日は一日更新を休みます。たくさん写真を撮ってくる予定なので、月曜には撮ったばかりの写真を紹介できると思う。
 ちょっといってきます。

謎の多い小田井の星神社について

神社仏閣(Shrines and temples)
星神社全景


 名古屋市西区上小田井に星神社という神社がある。庄内緑地公園のすぐ北側だ。
 珍しい名前かと思ったら、全国に同じ名前の神社がいくつかある。名前からして星に関する神社が多いのだろう。
 小田井の星神社も織姫と彦星の他、星の神とされる天香香背男(アメノカガセオ)を祀っている。
 かつての境内の広さは4町8 反(約4.76ヘクタール)あったという。ナゴヤドームより少し狭いくらいだ。
 秀吉に大部分を取り上げられてしまい、現在は庄内川の堤防沿いにこぢんまりとある。



星神社入り口

 鳥居をくぐると、拝殿の前に蕃塀(ばんぺい)がある。
 不浄除けとされているけど本当のところはよく分かっていないらしい。東海地方の神社特有のものという。



星神社手水舎

 手水舎でヒヨドリが水を飲んでいた。さかんに毛をバタバタさせていたから、水浴びでもしてたのかもしれない。



星神社拝殿

 奥行きのある拝殿と本殿が屋根付きの渡り廊下でつながっている。他ではあまり見ない建築様式だ。



星神社拝殿前

 創建年は不明ながら、「延喜式」にある山田郡坂庭神社の論社のひとつとされる。だとすれば創建は平安時代か、それ以前ということになる。
 小牧市にある坂庭神社も論社とされていて、どちらがそうなのかはっきりしないようだ。名前が同じならそちらじゃないかと思うのだけど、歴史の紆余曲折を考えるとそう単純な話でもない。
 880年頃、大江音人(おおえのおとんど・貴族学者)の子孫によって社殿が建てられ、1280年にこの地方で起こった戦によって全焼し、その60年後、右近中将藤原朝臣実秋によって再建されたという。
 いつどうして星神社という名前になったのかは、よく分かってないようだ。
 坂庭神社の名前の由来としては、古くから行われていた旧暦7月7日の星祭のとき、清めの酒をまいたことから酒庭星社と呼ばれるようになり、やがて字が変わり坂庭神社となったという説がある。
 ただ、こういうときによく言われる字が変わるということだけど、ときどき本当だろうかと疑いたくなることがある。意味もなく変えるとも思えず、この場合、酒と坂では意味が違いすぎるし、変える必然がないと思うのだけどどうだろう。呼び名を当て字で表現していたものを後年変えるというのなら理解できても、酒が坂に転じたというのは納得できる説ではない。
 ただ、この神社が坂庭神社という名前だったというのはあり得る話のようで、戦国時代、この地の城主だった小田又六が掘った井戸が坂庭の坂の字を取って坂井戸と呼ばれ、それが村の名前になったという。更に坂井戸と小田と組み合わせて小田井という地名が生まれたとも。

 祭神は、大国主命(オオクニヌシノミコト)だから、直接星には関係ない。オオクニヌシは、天の神アマテラスに対する地の神の代表で、出雲大社の神としても知られている。スサノオの子供(または子孫)ともいわれ、一般には国造りや農業、商業の神様とされる。
 星と関係があるのは、天香香背男(アメノカガセオ)だ。天津甕星(アマツミカボシ)、星神香香背男(ホシノカガセオ)、香香背男(カガセオ)などとも呼ばれる。
 天の神が天孫降臨して地上を支配下に納めたとき、最後まで抵抗して屈しなかったのがアメノカガセオと言われている。
 この神を祀っているいる地方は限られていて、茨城、千葉などの関東と中部、中国、四国、九州に多く、その他の地域はほとんどない。大和朝廷に抵抗した勢力の象徴ともされ、大和朝廷側からは悪い神とされていたのだとか。
 七夕でお馴染みの牽牛星と織女星がどういう経緯で祀られるようになったのかもよく分からない。後年の作り話かもしれないひとつのエピソードがある。
 この村に住む若者が、庄内川を挟んだ南にあった田幡村の娘と恋に落ちた。川を渡っての行き来が続き、ある日、大雨で増水した庄内川を渡ろうとした若者が川に飲み込まれて命を落としてしまう。その知らせを聞いた娘は川に身を投げた。話を聞いた村人たちが二人を弔うために、彦星、織姫として星神社に祀ったという。
 現在、北区金城と名前を変えたところに多奈波太神社がある。そこにも同じような話が伝わっているそうだ。
 多奈波太神社は七夕と棚機の神社
 毎年、旧暦の7月7日に七夕まつりが行われている。境内には願い事が書かれたたくさんの短冊が吊されるそうだ。



星神社境内社

 お稲荷さんなどの境内社。



屋根の像

 屋根に乗っている像の姿に見覚えがある。ただ思い出せない。獅子が逆立ちしている姿だろうか。



星神社御嶽社

 神社の外には御嶽山をかたどった塚のようなものがあった。御岳信仰の表れなのだろうけど、星神社と関係があるのかどうかは不明。
 星神社の祭神としてオオクニヌシを祀っているから、神仏習合だった時代もあっただろう。

 星神社に関してはいろいろ分からないことがあってすっきりしないのだけど、とりあえず今回はここまでとしたい。あらたに何か分かったらあらためて訪問して書くことにしたい。

 歴史などについては名古屋神社ガイド星神社(中小田井)も参照していただければ。


【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「庄内緑地公園駅」から徒歩約10分。
 ・名鉄犬山線「中小田井駅」から徒歩約12分。
 ・駐車場 なし
 ・拝観時間 終日

 星神社webサイト
 

中小田井の古い町並みはこの一枚を撮るためだけでも行く価値がある

名古屋(Nagoya)
中小田井を代表する街並み風景


 名古屋市西区の庄内緑地公園の北西に、中小田井(なかおたい)という町がある。名古屋駅から鉄道で10分のこの場所に、古い町並みが残されていると知ったのはつい最近のことだった。ネットでそこの写真を見て、一目惚れじゃないけど、ここは絶対行こうと思った。そして、撮ってきたのが上の写真だ。
 中小田井の町並を紹介するときは必ず登場する場所だから、ここを知ってる人ならすぐに分かると思う。残っている古い家屋の町並みはごく短いこともあって、ベストポジションはここしかない。行ってみてそのことがよく分かった。これ以上近づくと全体が入りきらないし、離れると向こう側が見えなくなってしまう。だから、みんなここから撮る。
 中小田井は、ここから写真を一枚撮るためだけでも行く価値があると言い切ってしまうと少し言いすぎだろうか。それにしても、名古屋駅に近い市内にこの風景が残っているということに価値がある。



古い屋敷の風景

 中小田井の集落は平安時代にはできていたという。すぐ南に庄内川が流れていて、川が氾濫するたびに大きな被害が出ていたそうだ。今でこそ高い堤防が作られて、やや安心にはなっているものの、現地に立ってみるとかつて何度も水に浸かったであろうことは容易に想像できる。2000年の東海豪雨ではこのあたりも被害が出たんじゃないだろうか。あのとき名鉄の下小田井駅は完全に水没したと聞いている。
 古くは織田井という字を当てられたようで、近世になって上小田井、中小田井、下小田井の3つの村に分かれた。
 小田井の転機は江戸時代に入ってからだった。名古屋城下と稲生街道を結ぶ岩倉街道として整備されたことで大きく変貌を遂げることになる。
 岩倉方面から枇杷島(びわじま)の青物市場へ野菜などを搬送するための道として使われて賑わうようになり、その帰り道に味噌や米、しょう油などの生活用品をここで買っていく人が増えたことで、街道沿いは商家が立ち並ぶようになっていった。
 明治以降、宅地開発などで古い建物は壊され、当時の面影を伝えるのは中小田井地区のみとなってしまった。明治24年(1891年)の濃尾地震で昔の建物はほとんどが倒壊してしまったという。現在残されている家屋も、それ以降に建てられたものだ。約300メートルほどの場所に、切妻造(きりづまづくり)や格子の家並みが並んでいる。



古い民家の姿

 中小田井地区は、有松、白壁・主税・橦木、四間道とともに名古屋市の町並み保存地区に指定されている。とはいえ、観光地とはなっていないため、訪れるよそ者はさほど多くなのではないだろうか。
 それでも今はネットでこういう情報が出るから、昔よりもカメラを持った見学者がちょくちょく訪ねてくるのかもしれない。そのためではないだろうけど、こういうふうに家の前をきれいに飾っているところもある。自分のため半分、道行く人のため半分といったところだろうか。



大きな古い家屋

 昔のお金持ちの家特有の余裕のある作りだ。合掌造りのような大きくて容量のある家は、今はもう建てようと思ってもなかなか建てられない。



町並風景

 電柱と電線を地中化すると景観がすっきりするのだけど、お金がかかるからそう簡単ではない。それでも、電柱がなくなるだけでも車が走りやすくなるし、住人にとっても悪いことではないだろうから、そろそろ名古屋市も考えていいんじゃないだろうか。有松は地中化が完了してとてもよくなった。



古い町並み

 こういう古い建物を撮った写真ばかりを並べていると、こんな風景がずっと続いているように思うだろうけど、実際はそうじゃない。大部分は普通の家で、ごく一部が残っているだけだ。規模としては小さいから、ここだけの散策なら10分もあれば終わってしまう。



狭い通りの風景

 ここもなかなかいいところだ。こういう町並は、真っ直ぐよりも曲がっている方が雰囲気があっていい。



黒板の土蔵造

 このあたりはかつてどんな家だったのかは分からないけど、なかなか立派な家だ。
 水に浸からないようにということで、石垣で少し底上げしている。



旧街道の面影

 古い家屋以外はこんな感じの風景となっている。旧街道の面影はあるものの、街並みとしては特に変わったところはない。



保存地区の南端と庄内川の土手

 保存地区の南の終わりあたり。前に見えているのは、堤防を兼ねている庄内緑地沿いの道だ。この道のすぐ向こうが庄内緑地になっている。



堤防沿いの道

 堤防道路沿いの家というか細い路地というか、公道なのか私有地なのか、よく分からない。物干し竿の台も置かれてるし。



日暮れどきの名駅ビル群を望む

 最後は日没。
 名古屋駅の高層ビル群がこれくらいの大きさで見える距離感だ。

 なんといっても中小田井のクライマックスは、一番最初の写真の場所だ。言い方を変えれば、見所はあそこくらいで、あとは付け足しのようなものとも言える。ただ、あの光景のインパクトは強い。
 違う時間帯の別のシチュエーションでもっと撮ってみたい。おばあちゃんが歩いている昼下がりとか、夕焼け時間の中を自転車でいく高校生とか、朝の小学生の登校シーンとか。

 中小田井の神社仏閣編は回を改めて紹介することにしたい。

 小田井神社仏閣巡りは謎の多い星神社から始まる
 誰もが忘れた頃に再開した小田井の神社仏閣編の第二弾
 何かと変わった善光寺別院などを紹介して小田井編はやっと完結

※2016年11月に再訪
 中小田井再訪に8年の歳月は感じなかった

【アクセス】
 ・名鉄犬山線「中小田井駅」から徒歩約3分。
 ・駐車場 基本的にはなし(とめられるところはあり)

 名古屋市中小田井町並み保存のページ
 

又太郎良春さんはアマツヒコネがお好き? ---尾張旭神社巡り4弾

神社仏閣(Shrines and temples)
多度神社一の鳥居




 尾張旭神社巡りの第一弾として最初に行ったのは渋川神社だった。その次に直會神社と一之御前神社を回って、前回が井田八幡宮だったから、今回の多度神社は第四弾ということになる。
 始まったのが2007年の4月だから、すでに1年3ヶ月の歳月が流れた。たった5つ回るのにこんなにかかっていていいもんだろうか。尾張旭の主な神社は9つしかないから、当初は半年くらいで軽く終わるはずだった。今のペースでは今年中に終わるかどうか怪しい。神社は待っていてくれるかもしれないけど、歳月は人を待ってくれない。残り4つは少し急いだ方がよさそうだ。
 多度神社は、昨日紹介した愛宕山大師(退養寺)から西に300メートルくらいの場所に位置している。城山街道にある多度神社前交差点を北へ折れて少し行った先だ。



多度神社手水舎

 普段はあまり人が訪れるようなところではないだろうけど、手水舎はちょろちょろと水が出ていた。水が完全に止まっている神社もけっこうある。



多度神社参道階段

 小高い丘の上にあるから、階段はやや長めだ。



多度神社林

 神域はしっかり森で守られている。



多度神社境内と拝殿

 階段を登り切ると、広めの境内の奥に社殿が建っている。
 このときは何かの工事をしていて境内はざわざわしていた。以前訪れたときはしんと静まりかえっていた。


多度神社拝殿横から

 住所でいうと新居町で、ここも昨日登場した水野又太郎良春の領地に属していた。室町時代の1361年、桑名の多度大社から勧請して創建したとされている(異説あり)。
 多度大社の創建は5世紀と古く、昔からお伊勢参りとセットでみんなお参りしたところだった。愛知県にもいくつか多度神社はある。海上の森の里にあるのも多度神社だ。
 祭神はアマテラスの子・天津彦根命(アマツヒコネ)。
 平氏の流れをくむ南北時代の武将である水野良春は、どうして多度山の神を選んだのだろう。その時代のその土地の有力者ならどんな神を自由に選べる気がするけど、実際はそうでもなかったのだろうか。一族の始祖神を祀るというなら理解しやすい。けど、そうでない場合、どんな基準で選んでいたのか。そのへんの感覚というか法則性といったものが上手く理解できない。単なる好き嫌いではないはずだけど。

 創建から320年後の1681年に、水野家8代目の重大夫同金左右ヱ門尉が社殿を再建、1920年には本殿を修理するも、拝殿は朽ち果ててしまっていたという。1891年には濃尾地震もあった。
 戦争で更に荒れてしまい、なんとかしようではないかという話になって、現在の形に再建されたのは終戦から10年以上経った昭和33年(1958年)のことだった。寄付金や支援だけでは資金が足りず、境内の一部を売ったのだという。
 拝殿はかなり立派で、まだ50年しか建っていないから、古びた感じもない。
 このとき横の方で工事していた建物は、授与所か社務所だろうか。



多度神社拝殿内

 拝殿の中をちょっとのぞき見。



多度神社一目連社

 本家の多度大社にも別宮としてある、天目一連命(アメノマヒトツノミコト)を祀った一目連社(いちもくれんしゃ)がここにもあった。
 天目一連命は、本宮の祭神アマツヒコネの子供で、アマテラスの孫に当たる。
 刀や斧などを作って活躍した神ということで、鍛冶の神様ということになっている。多度大社には全国から金属関係の人たちがお参りに行くそうだ。



多度神社児社

 児社(ちごしゃ)に祀られているのは少彦名命(スクナビコナ)だ。
 とにかくちっちゃい神様で、一寸法師の元となったとも言われている。
 海の彼方から小さな船に乗り、蛾を身にまとってやって来て、大国主と兄弟の契りを結んで活躍したものの、粟の茎に弾かれて再び海の彼方に飛ばされてしまった。
 医薬や酒造りも極めたということで、そのあたりの神様ということにもなっているようだ。



多度神社境内社

 菅原道真が祀られた小さな天神様もあった。
 尾張旭はあまり神社が多いところじゃないから、一ヶ所でいろんな神様を取りそろえないといけない。天満宮として独立したところはないから、受験の合格祈願はみんなここに来るのだろうか。



多度神社拝殿

 横から見ても拝殿は立派なものだ。本殿は拝殿と塀に囲まれて全体を見ることができない。
 多度神社について私が紹介できるのは、これくらいのものだ。
 最後に捕捉を少し。
 昨日もちょっと出てきた棒の手の無二流は、この多度神社に奉納される。水野良春が棒の手を推奨したという。
 尾張旭には5つの流派があって、検藤流は一之御前神社に、残り3つ、直心我流、東軍流、直師夢想東軍流は渋川神社に奉納される。
 毎年10月の第二日曜日に行われる秋祭りの一環として行われるもので、その日はこのあたり一帯の神社や街が賑やかになる。
 多度神社では大晦日から元日にかけて、厄落としの行事をやっているそうだ。どんど焼きみたいなものだろうか。多い年は1万人の初詣客が参拝に訪れるというから、尾張旭ではしっかり地元の神社として認知されているようだ。私が思っているよりもずっとメジャーな神社なのかもしれない。

【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線「尾張旭駅」から徒歩約13分。
 ・無料駐車場 あり
 ・拝観時間 終日
 

浅野祥雲コンクリ像は尾張旭の山の上に人知れずどんと立つ

神社仏閣(Shrines and temples)
尾張旭弘法大師像

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 そのコンクリート仏像との出会いは偶然だった。尾張旭の神社巡りをしている途中、地図に愛宕大師の文字を見つけて、気になって行ってみると、小高い丘の上に巨大な弘法さんがどーんと立っていた。こんなものがここにあるとはまったく予期していなかっただけに、驚き、のけぞった。
 尾張旭には昔からさんざん行っているのに、この存在はまったく知らなかった。家に帰ってきてから調べてみると、知る人ぞ知るB級珍スポットとして、わりと知られたところらしいのだった。そのゆえんはやはり、この大きなコンクリートの弘法さんにある。
 五色園、桃太郎神社、関ヶ原ウォーランドと、キーワードを並べれば、ああ、あの人の作品かとピンと来る人もいるだろう。中部地方を中心に数々のコンクリート像作品を残した浅野祥雲(あさのしょううん)その人の作だ。台座を含めると10メートル近い弘法像は、浅野祥雲が手がけた最も大きな像とされている。
 五色園を二度訪れている私でさえこの像のインパクトにはのけぞったくらいだから、浅野祥雲初心者が受ける衝撃はいかばかりだろう。



浅野祥雲コンクリ像

 脇に回ってみると、なるほどこれは浅野ワールドだと思わせるコンクリ像たちが立ち並んでいる。これを見たとき、なんか、似たものをどこかで見たことあるなと思ったのだった。
 五色園では親鸞聖人の教えやエピソードをコンクリート像で再現した等身大(というより1.5倍くらい)のジオラマとなっているのだけど、こちらはわりと普通に立っていて、サイズも小さめだ。
 不動明王像と立て札があるから、真ん中がそうに違いない。背負っている炎(光背)が真っ赤に燃えているように表現されているあたりがいかにも浅野作風だ。
 流れる滝は何を表現しているのだろう。左右は誰なのか。不動明王にこんな付き人いたっけな。
 不動明王はインドで生まれた神様で、大日如来の化身とされている。どんなに俗にまみれた人間も力ずくで救おうとするあまり怒ったような表情として描かれることが多い。日本へは弘法大師空海が密教とともに持ち込んだとされている。



釈迦如来像

 もう一方の脇には黄金のお釈迦様がいる(実は大日如来らしい?)。こちらもさほど大きくはない。
 しかし、この組み合わせはどうなんだ。中央に巨大な弘法大師が立っていて、左右で不動明王と釈迦如来が脇を固めるというのは、取り合わせとしてちょっとおかしいようにも思うのだけど、これはこれで成立しているのか。浅野祥雲が自分の熱い思いをぶつけた結果こうなったのか、依頼通り忠実に作ったのか、そのあたりの詳しいところまでは分からない。
 作られたのは昭和6年(1931年)で、浅野祥雲40歳の初期の作品だ。なんでも、瀬戸電気鉄道が観光用に作ったのだという。近くを走る鉄道の乗客を増やそうという目的だったようで、できた当時は大変な話題となり、お祭りの日には身動きが取れないほどの人出だったとか。
 戦後は客足がばたりと止まり、現在は訪れる人もめったにないような珍スポットとなっている。ただ、これをちゃんと守っていこうという地元の人たちの活動もあり、建立80年に向けて今寄付金を集めているところだという。弘法像もだいぶ老朽化が進んで、補修や塗り直しが必要な時期に来ている(昭和30年に一度塗り直しをしているようだ)。



境内の様子

 引いてみると、シュールさがいっそう際立つ。
 左側の建物は、拝殿兼集会所のようになっていて、屋根がついているから雨の日でも弘法さんを拝むことができる。

 浅野祥雲は、明治24年(1891年)、岐阜県の農家の三男坊として生まれる。父親が農業のかたわら土人形を作る作家で(足助の土雛として紹介したようなやつだろう)、祥雲も子供の頃から土人形作りには親しんでいたという。
 しかし、土では大きな人形は作れない。自分はもっと大きな人形を作りたいんだ、そうだ、コンクリートならできるかもしれないと思い立ち、33歳のとき名古屋に出てきた。当初は映画館の看板を描いたりして生計を立てていたようだ。
 それから数年の間にどうやってコンクリート像作家としての地位を築いたのかはよく分からない。尾張旭の弘法さんを作ったのは40歳で、趣味として作ってる人にこれほど大きなものを依頼しないだろうから、その数年前にはすでに名が知られていたということだろう。
 昭和53年に87歳で亡くなるまで、数々のコンクリ像を作ったとされているが、その全貌は明らかになっていない。現在残されている代表的な作品としては、関ヶ原ウォーランド、五色園、桃太郎神社、中之院軍人墓地などがあり、かつては関東などからも依頼があり、作ったとも言われている。噂では朝鮮半島にも浅野作品はあるらしい。
 制作費が安くて、ときには無償で提供したというから、さすがこの道の第一人者。他の追随を許さない。もしかしたら、あなたの街にも浅野祥雲作のコンクリート人形がいるかもしれない。



御嶽山遙拝所

 弘法さんたちがいる右手には、御岳山遥拝所と書かれた木が立っている。これは御嶽山(おんたけさん)のことと思われる。
 更に左手にいくと、下に民家があってそちらに続いている。北側からも登れるようになっているようだ。


御嶽山をのぞむ

 この日、御嶽山は見えなかった。冬のよく晴れた日などはここからでも見えるはずだ。よりしっかり見たい場合は、スカイワードあさひに登って見ればいい。



南側の眺め

 南側は視界が開けていて、尾張旭や瀬戸の街並みが一望できる。高いところにいる弘法さんが見下ろしている風景もこれと同じものじゃないかと思う。きっと尾張旭を見守ってくれているのだろう。



奥へと続く竹林

 愛宕山大師をあとにして山道を行くと、水野又太郎良春の墓という案内標識が出ている。
 水野又太郎良春といえば、南北朝時代にこのあたりを支配していた武将で、尾張旭新居の基礎を作った人物でもある。せっかくだから寄って挨拶していくことにした。



雑木林の中の民家

 お墓へ向かう途中、雑木林の中のすごいロケーションに一軒の家があった。緑の草木に囲まれて、夢の中に出てくる幻の家のようでもあった。モミジの木がたくさんあったから、紅葉の季節はいい雰囲気になるんじゃないだろうか。そのときまで覚えていたら見に来ようと思った。



水野良春の墓

 これが水野又太郎良春の墓とされる宝篋印塔(ほうきょういんとう)だ。左側に三基並んでいる塔の中央が良春の墓で、左右のどちらかは息子兼春の妻・松木てつのものとされている。
 右手前にあるのは、愛宕神社の祠だ。どれもかなり荒れている。塔は上の部分はなくなってしまっている。
 水野又太郎良春は守山区志段味生まれの室町時代の武将で、奈良の吉野金峯山寺(よしのきんぷせんじ)で修行をして僧兵となり、金峯山寺の僧兵の頭にまでなった人物だ。南北朝時代には南朝について戦ったものの、どうやら南朝に未来はないと気づいて故郷に戻ってきたのち、尾張旭に移り住んだ(1361年)。新たに居を構えたことから新居(あらい)と呼び習わされ、それがそのまま地名として現在も残っている。
 ここから少し西へ行ったところにある城山は、新居城があった場所で、水野又太郎良春から4代目(または5代目)の水野雅楽頭宗國(みずのうたのかみむねくに)が築城したとされている。新居城は跡地として少し残っているものの、建物などの遺構はない。城といっても戦国時代のような天守を持つものではなく、砦と屋敷を兼ねたようなものだったのだろう。城山にあるお城もどきは城レストランと展望台で、復元でもなんでもない。
 ちなみに、尾張旭の無形文化財として伝わる棒の手の無ニ流は、良春が法名として無二を名乗っていたところから来ている。実際の無二流創始者は、息子の嫁の松木てつだと言われている。息子が大峰山で修行中に病にかかり、それを看病にいったついでに自分も修行をして棒術を会得してしまったというすごい母だった。息子の心道が若くして亡くなり、その遺志を継いで、新居で棒術を広めたものが今に伝えられている。



退養寺三門

 愛宕山の入り口には安生山退養寺(たいようじ)というお寺がある。愛宕山もこの退養寺の敷地内にあるから、弘法像も退養寺の管轄ということになるのだろうか。コンクリの弘法さんも、厄除弘法大師という正式名を持っている。尾張国三大弘法の一つとされている(残りの二つは印場の良福寺大弘法と、小幡の御花弘法大師)。
 退養寺は1361年に水野又太郎良春がこの地に移ってきたときに創建した寺で、江戸時代になってからは、尾張初代藩主・徳川義直がこのあたりで狩りをしていたことから、1667年に義直の命で再建されている。
 地元の人は尾張旭の東寺と呼んでいるらしい(西寺は洞光院)。
 臨済宗の禅寺で、定光寺に属しているそうだ。義直の霊廟が定光寺にあるから、そのあたりの関係だろうか。
 本尊は釈迦牟尼仏。



退養寺のお堂

 現在のお堂はコンクリート造で、室町時代創建の歴史あるお寺の面影は残っていない。何度も焼けているそうだから、戦後にコンクリートで再建したのだろう。
 現在の旭小学校は、明治6年に、ここの本堂を仮校舎として開校されている。



境内の風景

 こんな身近に浅野祥雲ワールドが広がっていたとは思いもよらなかった。こうなったら、犬山の桃太郎神社や関ヶ原ウォーランドも行かねばなるまい。南知多の中之院軍人墓地のコンクリート軍人像も気になるところだ。
 浅野祥雲初心者は、日進市の五色園から始めることをオススメしたい。あそこには浅野ワールドのエッセンスがすべて詰まっているところだから。これでもかと繰り出されるめくるめくコンクリ像体験をあなたもぜひ。
 

7月の海上の森は花が少ない時期だから実とかキノコで水増し

花/植物(Flower/plant)
海上の森花編-1

Canon EOS 20D+TAMRON SP 90mm f2.8



 今日は海上の森の花編をお届けします。といっても、7月の森は花が少ない。一年を通じて花のピークは春で、夏になるとぐっと減って、秋にまたちょっと増える。花が少なくなった森を歩くと、一年の後半戦はもう始まっているのだと自覚せずにはいられない。それが寂しくもあり、気持ちに焦りも生む。そして、春を懐かしむ。4月はよかったなぁ、と。
 有名どころの花も、アジサイがほとんど最後だ。ヒマワリは森には咲かないし、あとはヤマユリとハスくらいだろう。それらが終わると、もう紅葉を待つだけとなる。そう考えると、一年なんてあっけないものだ。
 そんなわけで、今日の花編では、数少ない野草と、何かの実などを紹介することにしよう。

 一枚目はたぶん、オカトラノオでいいと思う。
 こんなふうにたくさんの小さな花を穂のようにつける花は、なんとかトラノオという名前がついてるものが多い。ハナトラノオとか、ヌマトラノオとか。虎の尾に似てるとは思わないけど、そう命名されている。
 ヌマトラノオとオカトラノオは、名前の通り、沼のような水辺に咲くのがヌマで、陸地に生えているのがオカトラノオだ。花の姿はよく似ているものの、オカトラノオは先端が垂れ下がるのに対して、ヌマトラノオは上に向かって伸びるから、区別はつく。
 ノジトラノオという似てるやつもあるけど、めったに見かけないからあまり気にすることはない。

海上の森花編-2

 毎年この時期にこれを見ると、あー、こいつ、なんだっけと思う。思い出そうとして思い出せないもどかしさ。最初いつも、ヤマハッカかなと思って、いやいや違うと思い直す。家に帰ってきてから図鑑を見返して、ああ、そうか、アキノタムラソウかと気づく。気づくのだけど、毎年確信が持てない。他の花のような気もしてしまう。
 だいたいからして、夏に咲く花なのに秋の田村草という名前が紛らわしい。ナツノタムラソウにしておけと思うと、ナツノタムラソウという花がすでにある。それもやっぱりアキノタムラソウに似ているから話をややこしくする。でも、ナツノタムラソウというのは実物を見たことがないので、よく分からない。
 夏と秋があるなら春もあるんじゃないかと思うと、本当にある。あまり似ていない。
 面倒だからまとめてタムラソウということにしようとすると、タムラソウというアザミのニセモノみたいなやつがいるのだ。
 そんなこんなで、毎年、それじゃあ一応アキノタムラソウということにしておこうかというところに落ち着く。ナツノタムラソウは、写真で見る限り、もう少し花の色が濃い紫色をしている。

海上の森花編-3

 こんなものを撮ってもしょうがないと思いつつ、他に撮るものがなくてとりあえず撮ったハルジオン。
 ハルジオンとヒメジョオンの区別も毎年混乱するものの一つだ。つぼみが下を向いて垂れ下がっているのと上を向いているのとで見分けがつくはずなのだけど、どっちがどっちだか忘れてしまう。ヒメの方が恥じらいがあってうつむいてるのだろうと思うと、それは間違いだ。ハルの方が下を向いていて、ヒメは上を向いている。写真のものはうつむいてるからハルジオンというわけだ。
 ヒメジョオンの方が背が高くて花が多くて、ハルジオンは背が低くて花が少ないという覚え方もある。

海上の森花編-4

 今回もまた、時期も時間帯もタイミングを外して、コモウセンゴケの花を見ることができなかった。この日は日差しが弱かったこともある。
 たぶん、トウカイコモウセンゴケだとは思うのだけど、上の方のつぼみが白で、下の方のつぼみがピンク色を予感させる。通常、ピンク色のものをトウカイコモウセンゴケと呼んでいるはずだ。これはどっちなんだろう。
 葉っぱが虫を捕まえているところも見ることができなかった。この夏、両方見られると嬉しいのだけど。

海上の森花編-5

 マクロレンズを買うと、必ずといっていいほどやりたくなるタンポポの綿毛写真。あまりにもありきたりすぎて、撮るのも恥ずかしい。
 でも、久しぶりにこうして撮ってじっくり見てみると、これは本当に自然の造形美だと思う。シロクジャクの羽にも似ている。
 今思いついた。これに息を吹きかけて、綿帽子が飛んでいく瞬間を撮ったらどんなふうに写るだろうと。シャッタースピードが上手く決まれば面白い写真になるんじゃないか。今度やってみよう。

海上の森花編-

 ソーセージみたいでちょっと美味しそうなガマの穂。これは森の中ではなく外で撮ったものだ。近くのビオトープに生えていたから、人の手で植えられたものかもしれない。
 ガマは一般的なガマの他に、ヒメガマとコガマがある。それぞれ穂に特徴があって、一度覚えれば区別がつくようになる。下のソーセージ部分が雌花穂で、上の細い部分が雄花穂となっていて、くっついていればガマで、上の写真のように離れているものはヒメガマとなる。コガマはガマの小さい版だ。
 秋になると穂が破裂したようになり、白い綿がむくむくとわき出てくる。そこから胞子を飛ばして増えていく。

海上の森花編-7

 何かの実。正体はまったく不明。花の区別もつかないのに、実を見ただけで木の種類まで見分けられない。花の時期に歩いていれば、どんな木か分かる可能性は高くなる。同じ場所を違う季節に歩くというのは、花の勉強ではけっこう大事なことだ。一年を通じて観察していると、もっといろんなことが分かるようになってくる。

海上の森花編-8

 ヘンテコリンは実を見つけた。葉っぱもなく茎から伸びて先端で実をつけて丸まっている。重そうなにに折れないのだろうか。
 これは一体何者だろう。実はここから色を変化させていくのだろうか。

海上の森花編-9

 あれ? 野いちごがこんなところに実をつけるものかなと、最初思った。目線より高い木の上になっている。野いちごというと、ヘビイチゴのように地面近くで花を咲かせて実をつけるというイメージがある。木に実をつける木いちごもあるけど、こんなに背が高くなるだろうか。
 帰ってきて調べたら、楮(こうぞ)だということが判明した。和紙の原料となるコウゾの木は、こんな実をつけるんだ。初めて知った。ヘビイチゴなどは食べても不味いそうだけど、コウゾの実はけっこう甘いらしい。でも、木いちごとは種類が違う。バラ科ではなく、桑科だ。
 同じく和紙の原料となるミツマタの木は、足助にカタクリを見に行くとちょうど花を咲かせている。今度は、コウゾの花も見てみたい。

海上の森花編-10

 花も実もネタが尽きたので、最後はキノココレクションで水増ししよう。
 食べたらダメそうなキノコその1。

海上の森花編-11

 食べたら絶対ダメっぽいキノコその2。

海上の森花編-12

 ちょっと食べられそうな気がするけど、たぶん食べたらダメであろうキノコその3。
 もちろんどれも引っこ抜いてその場でかじったりはしない。触るのさえ恐れて、30センチ以内にはなるべく近づかないようにしている。
 おなかが減ってどうしようもなくなったら、森へ行くとけっこう食べるものがありそうだけど、キノコは最後の最後にしたい。

 7月初めの海上の森としてはこんなものか。もっと花の多いエリアもあるから、そっちを歩けばまた違った収穫があっただろうと思う。
 蝶や虫に関しても、集落近くの方が出会える確率は高い。これからの季節ならセミ狙いというのもある。朝早く行けばカブトやクワガタもきっといるだろう。ただ、あの森は子供たちだけで行くようなところではないし、カブトなどがいる木があるところは限られているかもしれない。
 夜に行けばムササビも飛ぶというから、奥には野生動物もいそうだ。イノシシ注意の看板があるから、イノシシは必ずいるはずだ。前から突進してくるイノシシの写真を激写したい。
 夏の森は、小さな虫や蚊、クモの巣という強敵だらけで、なかなかに厳しいものがある。それにやっぱり暑い。森は涼しいだろうだなんて思ったら大間違いだ。夏の森はデートには向かない場所だ。
 次に私が行くとしたら、9月くらいだろうか。8月の終わりに夏の終焉を感じに行くというのはあるかもしれない。

アイディア不足の焼き直しサンデーと、名古屋的に濃いどですか弁当

料理(Cooking)
焼き直しサンデー

Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II



 今日のサンデー料理は、完全にネタ不足に陥った。一度作ったものを二度は作らず、いつも新しいものに挑戦しようと思っているけど、今回はメニューを決める最後までいいアイディアが浮かばず、過去の焼き直し料理になってしまった。結局、まだミキサーは買っていない。
 最初に決まったメニューは、ナスの天ぷらだった。たぶんこれは過去に一度も作ってないと思う。ナス料理も何品か作っているし、天ぷらもちょくちょく登場しているのに、ナスの天ぷらはなかった。
 ナスは料理方法によってわりと大きな変貌を遂げる食材で、和食なら煮付け、中華なら麻婆ナス、フレンチやイタリアンにもナスは使われるから、洋風にもなる。
 ナスが好きかと問われると、料理法によってはと答えることになる。ナスの煮物はあまり好きではなくて、どちらかというと焼いたナスの方が美味しいと思う。それよりもっと美味しいのがナスの天ぷらだ。たいてのものは天ぷらにすると美味しいものだけど、ナスも例外ではない。
 あまりナス単独で天ぷらを作って食べることはないと思うけど、今回はこれをメインに持ってきてみた。そして、やっぱりナスの天ぷらは美味しいということを再認識することとなった。衣のサクッとした食感と、ナスのふわとろっとした歯ざわりの組み合わせがいい。タレはなんだかんだいって、めんつゆが一番じゃないだろうか。唐辛子を加えると尚良い。
 衣は小麦粉とカタクリ粉と冷水だけにする。卵は使わない。これでサクッとする。
 工夫はないけど、これは美味しいからオススメしたい。あと一手間加えるとすれば、ナスの間にエビの刻みなどを挟んでもいいかもしれない。ナスも夕飯の主役になれる。

 残りの2品は、無理矢理絞り出したようなメニューで、付け足しみたいなものだ。
 手前は、ジャガイモの卵とじとでもいうんだろうか。ジャガイモを適当な大きさに刻んで、レンジで5分ほど加熱する。
 ボウルに卵を割り入れて、バター、とろけるチーズ、牛乳、コンソメの素、塩、コショウを混ぜる。
 フライパンでタマネギの刻みを炒め、ジャガイモを入れ、卵を回し入れて、半熟まで固めたら完成だ。最後に青のりを振りかける。
 使っている材料からしても失敗する要素はないから、美味しく食べられる。
 あと一品は、ダイコン、豆腐、白身魚、鶏肉の煮付けのマスタードソースという和洋折衷料理となっている。
 ダイコンは米のとぎ汁で下茹でしてアクを抜いて、鶏肉と白身魚はオリーブオイルと白ワインで焼く。そこにだし汁を入れて、ダイコン、豆腐を加えて煮込んでいく。
 タレは、しょう油、酒、みりん、マスタード、マヨネーズ、塩、コショウ、砂糖、ダシの素を混ぜてひと煮立ちさせる。

 特に新鮮さも感動もない料理だけど、普通に美味しい夕飯ではあった。一般家庭のレベルでは文句の出るようなものではないだろう。趣味の料理としては全然物足りない。
 主婦なら誰もが夕飯作りに行き詰まるときが来るのだろうけど、そこであきらめてしまうと自分のレパートリーの範囲内に収まってしまう。自分の限界を超えようとすれば、何らかのアイディアが必要となる。食材の増やすか、調理法を変えるか、まったく別の料理、たとえば外国料理に挑戦するか。
 私も今、何度目かの壁に当たっている。いろいろなアイディアを試してはきたものの、それにも限界がある。レシピ本を見ても、突破口にはならない。もう一度足下を見つめ直す時期に来ているのかもしれない。
 食材の守備範囲をもっと広げたいというのは前々からずっとある。次回からはそのあたりをテーマにしてみようか。

どですか弁当1

 先週、期間限定のどですか弁当を買って食べてみた。
 中部地区以外の人は知らないと思うけど、メーテレという放送局でやってる「どですか!」という名古屋の情報番組があって、そのパーソナリティの宮地佑紀生と矢野きよ実がプロデュースした弁当というのが発売されたのだ。朝っぱらからふたりが濃い名古屋弁でしゃべりまくるという番組を見たいとは思わないから見てないのだけど、この弁当の存在はCMで知っていた。
 2006年から始まって、今年で3回目だそうだ。1回目は、「デ・宮地バーグ」というデミグラスソースのハンバーグ弁当と、「矢野きよミソカツ」という味噌カツ弁当だった。2回目の去年は、青春グルメと銘打って二人の青春の味を再現した宮地佑紀生の「牛肉たまり焼弁当」と、矢野きよ実の「たぬきつねころうどん」が発売されたという。2回とも知らなかったから食べていない。
 今年は二人のお気に入りの店の味を再現するというテーマで、宮地佑紀生は半田市の「麺屋 轍(わだち)」監修の「冷し和風梅塩つけ麺」、矢野きよ実は熱田区「南月」監修の「牛カルビ焼きビビンバ弁当」(595円)だった。
 7月8日から21日までの限定で、サークルKとサンクスに売っている(はず)。まずは「牛カルビ焼きビビンバ弁当」を試してみることにした。

どですか弁当2

 こいつは濃い。いろんな意味で。味付けも濃いし、メニューも濃い。カルビに、ビビンバに、韓国風のお好み焼きに、焼きそばと、舌を休ませない。ビビンバもタレつきだから、白ご飯で一息つくことも許されない。途中で何かさっぱりしたものを口にしたくなる。
 そして量が多い。多すぎる。私などはとても一食では食べきれずに、二食に分けて食べた。ボリューム満点。
 けど、コンビニ弁当として見た場合、味は最上位ランクじゃないだろうか。600円というのはやや割高かもしれないけど、これだけ美味しいコンビニ弁当というのはなかなかない。濃い味付けが好きな人限定でオススメしたい。名古屋人向けということでこの味付けにしたのだろうけど、関西で売ったら苦情が出そう。
 もう一つの冷し和風梅塩つけ麺も買って食べたら、また紹介しよう。食べるときはきっとあの曲が頭の中で繰り返し流れることになるだろう。もっと食べて宮地~ もっと食べて宮地~♪ というあれが。私ももっと食べたら、世界の果てまで行けるだろうか。

時間不足により海上の森内外の断片風景写真を並べて簡単更新

森/山(Forest/Mountain)
海上の森2-1

Canon EOS 20D+TAMRON SP 90mm f2.8



 今日は海上の森の続きで花編をと思っていたのだけど、ちょっと時間がなくなったので、海上の森の断片写真を並べる簡単更新になってしまう。
 一枚目は、森に入る前、ちょうどいいタイミングで通りかかった愛知環状鉄道の電車だ。車を運転しながらのドライブ撮りだったのが惜しまれる。電車をファインダーの中におさめるので精一杯だった。
 海上の森近くは電車撮りのいいポイントがあるんじゃないだろうか。このあたりも夕焼け時間を待って撮れば、なかなかいい写真になりそうな気がする。

海上の森2-2

 あの森の深さを写真で伝えるのは難しい。深いところへ行けば本当に深いし、浅いところは浅い。上の写真は標準的な道と言っていいと思う。人がよく歩いている森だから、コースを逸れなければしっかりとした道ができている。道は広くなったり、狭くなったり、アップダウンもある。
 散策路から外れたり、谷の方に転げ落ちていくと遭難コースだ。街に近い森とはいえ、侮ると痛い目に遭う。日没後は本当に危険だ。

海上の森2-3

 ネムノキというのは、野生種なのか人の手によって植えられる木なのか、判断がつかないところがある。公園などに植えられているかと思えば、こんな森の中に自生したりもしている。
 海上の森で集落近辺以外に人の手によって持ち込まれた木や花がどれくらいあるのかは分からない。ときどき迷うことがある。本当にこれって自生だろうか、と。
 森で見る野性味溢れる藤や桜もいいもんだ。花本来の姿を教えてくれる。

海上の森2-4

 昨日の虫編に収まりきらなかった写真を何枚か。
 久しぶりにカタツムリを見た。昔は雨上がりの塀などによく這っていたのに、最近は街中で見かけなくなった。
 カタツムリやでんでん虫というのは俗称で、ウスカワマイマイのように何とかマイマイという名前のものが多い。これは何マイマイか知らない。カタツムリもいろんな種類がいるのだろう。

海上の森2-5

 ちょっとアブっぽいやつ。アブだろうか。
 田舎の家によくアブが入ってきて、刺されると痛いと子供の頃から聞いていたから、今でもアブは怖い。このときもそっと近づいてなんとか撮ったけど、これ以上近づくのは無理だった。
 二兎を追うものは一兎をも得ずと同じような意味で虻蜂取らずという言葉があるけど、アブもハチも最初から取ろうとは思わない。

海上の森2-6

 ショウリョウバッタ。通称チキチキバッタ。飛ぶときのチキチキチキという音は遠い日の記憶として鮮やかに残っている。
 メスの方がずっと大きな体をしていて、オスの方が小さい。写真はオスだと思う。

海上の森2-7

 春に行ったときはまだ木組みだけだったけど、すっかり完成して立派な案内標識になっていた。
 けど、これだけじゃまだ不親切だ。ここまでやるなら略地図を付けて欲しいし、少なくともそれぞれの場所までの距離と時間を書くべきじゃないか。まあ、そのうち誰かが手書きで書き加えることになるとは思うけど。

海上の森2-8

 湿地帯はこんなヘドロっぽくなっていた。これで正常なんだろうか。たぶん悪い水ではなくて、藻のたぐいなんだろうけど、それにしても毒々しい。
 こんな状態だからというのもあるのか、モウセンゴケ類がすごく少なくなっていたのは気になった。以前は一面が真っ赤になるくらい生えていたのに。

海上の森2-9

 赤池もさっぱり。スイレンが見られるかと思って足を伸ばしたのに、何も咲いていなかった。夏場はもっと浮き草もあったはずなのに、このあたりの環境も変化してるのだろうか。

海上の森2-10

 太陽は厚い雲に遮られて、顔を出したり隠れたり。梅雨明けはまだもう少し先になりそうだ。
 けど、雲に夏の力強さが出てきた。その年最初に入道雲を見ると、いよいよ真夏が来たなと思う。

海上の森2-11

 川のせき止めというか、水路というのか、模様が面白かったので撮ってみた。こうやって水の流れを調整するやり方もあるんだと、ちょっと感心した。

海上の森2-12

 森から出てきたところ。鈍く光った赤い太陽が沈みゆく。
 森のすぐ外に、あいち海上の森センターができて、このあたりの道も整備されてきれいになった。ここの行き止まり付近に何台か車をとめておけるところがあるので、最近はこっちから森に入ることが多い。四つ沢は森の入り口近くの駐車スペースが閉鎖されて、森まで遠くなってしまった。

 今日のところはとりあえずこんなところにしておく。もう一回分、花編が残っているから、来週のどこかで紹介したい。

今年もハッチョウトンボに会いに7月の海上の森へ行ってきた

虫/生き物(Insect)
海上の虫たち-1

Canon EOS 20D+TAMRON SP 90mm f2.8



 ちょっと久しぶりに海上の森へ行ってきた。前回行ったのが4月の終わりで、あのときはギフチョウを探しにいって見つからなかった。季節のメモリはカチリ、カチリと2つ動いて、春から夏、夏から真夏へと変わった。
 昨日、家の近所でアブラゼミの初鳴きを聞いて、そうだ、海上の森へ行かなくてはと思ったのだった。今年はまだハッチョウトンボを見ていなかったというのもある。
 今回は海上の森センター方面から入って、湿地と赤池を回ってきた。約1時間半コースだった。
 写真の収穫としてはもうひとつ。野草は秋までの端境期に入ったし、鳥は葉が生い茂っていて姿が見えない。虫関係もさほど多いところではない。森が深ければ深いほど生き物は多いと思いがちだけど、必ずしもそうではない。生き物の密度が最も濃いのは人の暮らしに近い里山で、森や山奥に入っていくと逆に生物は少なくなっていく。顔の周りを飛ぶ訳の分からない虫や蛾みたいなものはたくさんいるのだけど。
 海上の森で生き物をたくさん撮ろうと思ったら、集落のある方へ行った方がいい。あちらは田んぼや畑もあって、花も植えられているから、虫もたくさんいる。今回は時間が少なかったこともあって、直接湿地へ行けるコースを選んだ。

海上の虫たち-2

 今年もちゃんとハッチョウトンボは生まれていた。毎年同じ場所で再会できるのが嬉しい。今年でもう4回目になる。
 ハッチョウトンボは湿地帯で暮らす日本一小さいトンボで、生まれた場所からほとんど移動しない。生涯の移動範囲はせいぜい数十から数百メートルだろう。だから、生きていく場所の環境が変わってしまうと生きられなくなる。同じ場所で生まれるということは、環境が保たれているということだ。海上の森の湿地帯は人の手で通路が作られてどうだろうと思ったけど、あれはよかったかもしれない。以前はビニールのヒモを張っているだけだったから、中まで入ることができてしまっていた。
 こいつらは相変わらず警戒心の低いやつで、至近距離まで近づいても逃げていかない。被写体としてはとてもありがたい。

海上の虫たち-3

 上の赤いのがオスで、この縞模様がメスだ。
 いつもオスにばかり気を取られてメスを撮るのを忘れてしまうのだけど、今年はしっかり撮れた。メスの方がやや警戒心が強いような気がする。
 オスメスの比率としては、オスの方が多い。実際のところはどうなのか知らないけど、私が見るときはたいていオス3に対してメスが1くらいの割合だ。オス同士の競争は大変なのかもしれない。

海上の虫たち-4

 これも海上の森ではよくいるキイトトンボ。黄色い体と黄緑色の目が特徴だ。目の中にはごく小さい黒目がある。
 小さなハエみたいな虫を捕まえて、むしゃむしゃ食べていた。トンボはカマキリやクモなどに比べて凶暴というイメージはないものの、みんな肉食だから獲物を捕らえて食べる。小さい虫にとっては凶悪な存在だ。けど、捕まえる虫は蚊とかハエとかなので、人からすると益虫ということになる。

海上の虫たち-5

 これもイトトンボの一種、モノサシトンボだ。ちょんちょんと物差しの目盛りのような模様があることから名づけられた。
 イトトンボもたくさんの種類がいて、区別するのは難しい。よく似たやつも多い。
 今日の海上の森はヤンマやシオカラみたいな普通のトンボを見かけなかった。もう少し夏が深まらないと出てこないのか。

海上の虫たち-6

 蝶の収穫もこれだけ。今日歩いたコースは暗いエリアだから、もともとアゲハのような明るい場所を好む蝶は少ない。暗い場所には地味な蝶、明るいところにはあでやかな蝶、虫の世界も人間界もそのあたりは同じだ。夜飛ぶ蝶もいる。
 ジャノメチョウの見分け方も忘れてしまった。たぶんヒメウラナミジャノメでいいと思うけど、ちょっと自信がない。ウラナミジャノメとの違いは模様の数だったっけ。

海上の虫たち-7

 完全な蛾だ。ぺたっと水平に張りついている。基本的にとまったときに羽を開いてるのが蛾で、蝶は羽を閉じる。例外もあるけど、たいていはそうだ。あと、触角の形にも違いがある。
 ただ、蝶と蛾は生物学的には大きな差はなくて、昼活動するものを蝶、夜に飛ぶものを蛾といっているにすぎない。これもいろいろ例外はあるのだけど。

海上の虫たち-8

 蛾の勉強は進んでいない。あまり覚えたいと思わないというのもあって。蝶の知識があれば多少なりとも役に立つことはあるけど、蛾に詳しくても誰も誉めてくれない。必要以上に蛾に詳しい男というのは、かえってマイナスになりかねない。
 蛾は蝶以上に種類が多くて、資料も少ないから、勉強自体の難しさもある。日本にいる蝶が250種類くらいなのに対して、蛾は3,000種類以上もいる。これは手強い。

海上の虫たち-9

 クモの実物はあまりお近づきになりたくないのに、写真に撮ると美しい。足の細さは繊細だし、見ようによってはセクシーだ。トンボやバッタなどと同列に扱われないのは、やはり巣を張るからだろうか。それとも姿形が人間にとっては不快を覚えるものだからだろうか。
 実際問題、触れるかといえば私も触れない。1センチくらいまでのやつなら手に乗せたりはできても、2センチを超えると触りたくなくなる。なんか噛みそうな気もするし。

海上の虫たち-10

 クモの巣コレクションその1。ミシンの縫い目模様みたいにきれいな巣を作っている。まさか遊び心でこんな模様にしてるわけでもないだろうから、この模様が必要なのだろう。
 考えてみると、クモというのもすごい生き物だ。

海上の虫たち-11

 こちらの巣はやや簡略版になっている。上のクモと同じやつかと思ったら、写真をよく見ると腹が違っている。どうやら違う種類のクモのようだ。クモによって巣の模様が違うということは、それぞれ自分なりの張り方があるのだろう。細かい性格のやつや大雑把なやつなど、個体差もあるのだろうか。
 クモも種類が多くて、見分けるのが難しい。今回撮ったクモも名前は分からない。

海上の虫たち-12

 海上の森でもかなりアブラゼミが鳴き始めていた。蝉時雨までもう少しだ。
 これはアブラゼミの抜け殻だろう。子供の頃はこんなものをよく集めていた。今になってよく見ると、なかなかグロテスクではないか。あまり触りたくない。
 残念ながら生きているセミの姿を撮ることはできなかった。

海上の虫たち-13

 泥がついている抜け殻はニイニイゼミという覚え方をしていたのだけど、これは違う感じだ。ニイニイゼミならもっと小さくて背中が丸まっている。これはなんだろう。よく分からなかった。

 7月の海上の森第一弾は、虫特集でいってみた。第二弾は花編を予定している。思ったほど写真を撮れなかったから、2回で終わってしまうか、長くても3回だろう。
 まあしかし、夏の海上の森は大変だ。何かと厳しいことが待ち受けている。そのあたりのことは次回書きたいと思う。今日のところはここまでとしよう。
 つづく。

幸心地区二つの寺社巡りで歴史の意外なつながりを知ることとなった

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
間黒神社入り口




 瀬古の神社仏閣巡りは、前回に続いて今回は間黒神社常雲寺を紹介します。
 国道19号線を挟んで東側だから、住所としては幸心になる。でもまあ、瀬古の散策をすれば一緒に回ることになるところなので、ひとまとめにしてしまおう。
 かつてこのあたりに山田一族の城、幸心城があったとされている。19号線沿いに城跡という地名が残っていたそうだけど、今はなくなった。詳しいことは分かっていない。
 戦国時代以前、現在の名古屋市北西部から瀬戸、長久手一帯は山田氏の支配する土地だった。歴史を辿ると、平安中期、清和源氏の流れを汲む源重宗が美濃で挙兵するも(1079年)、源義家に討たれて一族は尾張の山田郡に移り住むこととなった。そこで山田氏を名乗るようになったところから始まる。
 治承・寿永の乱(1180年)で、山田重満は源氏の源行家について墨俣川で戦い討ち死に。その息子、重忠は鎌倉幕府に山田庄の地頭に任命されて、正式にこの地を治めることになる。
 後鳥羽上皇に仕えていた山田重忠は1221年、上皇が鎌倉幕府倒幕の挙兵をするとそれに従い、尾張川の墨俣で幕府軍を迎え撃つこととなった。しかし、京軍は総崩れを起こし、重忠はひとり奮戦するも退却を余儀なくされ、京都まで逃げ延びた。
 生き残った重忠らは京都で藤原秀康、三浦胤義たちと最後の一戦をしようと京都御所の上皇の元に参じるも、門は閉ざされ、中に入れてもらえない。仕方なく東寺に立てこもったところに幕府軍の大軍がなだれ込んできて、ついに命運は尽きた。ここでも孤軍奮闘したものの、味方はほとんどがやられてしまって、嵯峨の般若寺山へ落ちのびて、最後は自害して果てた。
 首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島に島流しとなり、結果的にこれが鎌倉幕府の地盤固めを進める手助けとなった。承久の乱の少し前に三代将軍源実朝が暗殺され、幕府の実権は執権の北条氏に移り、倒幕の失敗によって幕府による朝廷の管理が厳しくなったことで朝廷は徐々に力を失っていった。
 承久の乱なんて久々に聞いて懐かしいと思った人も多いだろうけど、日本史の教科書に出てくるような事件と関係のある人や土地が自分の身近にあったりするから、そういうところへ実際に行ってみると歴史の理解がより深まる。名古屋周辺というのは、戦国時代だけでなくそれ以前の歴史も面白いことを私も最近知った。
 前置きが長くなったけど、そろそろ間黒神社に話を戻そう。



間黒神社境内

 神社に入っていくと、なにやら大がかりな工事をしている。トラックも入って、古川に架かっている橋が壊されてかけている。何事だ。
 何をしてるのかよく分からなかったのだけど、ゆっくり参拝できるような雰囲気ではなかった。遠巻きに眺めつつ、写真だけ撮った。



古川に架かる橋

 横に回ってみる。どうやら工事は、橋そのものの架け替えではなく、欄干を付け替えるものだったようだ。老朽化して危ないということだろうか。
 この神社の中には古川(神戸川(こうどがわ))が流れていて、境内を南北に分断している。こういうふうに川が流れている神社はあまりない。何故こういう配置にしたのか、よく分からない。
 分からないといえば間黒神社の名前の由来もよく分からない。このあたりの地名でもないし、ネットで検索しても、ここと茨城県にあるものと2つしか存在しないようだ。読みは「まぐろ」神社だ。間が黒いってどういう意味だろう。
 一説によれば鎌倉時代創建というけど、尾張初代藩主徳川義直の時代に(1636年)に、この地区の鎮守を祀るために建てられたというのが実際のところのようだ。



間黒神社拝殿

 こちらが拝殿と本殿なのだろうけど、入って行きづらくて、外から眺めるにとどまった。
 工事が終わって平静を取り戻した頃に出直したい。



間黒神社本殿

 本殿あたりを横からのぞき見る。
 祭神は須佐之男命(スサノオ)で、その他、多紀理姫命、多岐津姫命、大山祇命、市杵島姫命、天照大御神が祀られている。
 境内社には白山社、金毘羅社、秋葉社、津島社があり、御嶽社がある。



常雲寺本堂

 次に訪れたのが、間黒神社からほど近いところにある常雲寺というお寺だ。
 ここは愛知四国の73番というのだけど、そんな霊場もあるのか。昨日紹介した石山寺は尾張四国観音で、愛知四国とはまた別だ。尾張西国だけでなく、尾張四国というのも別にあるらしい。気がつけば街中が霊場だらけだった。
 さすがにこんなところでお遍路さんの格好をしてる人は見ないけど、札所になってるから、御朱印をもらいに回っている人もいるのだろう。ただ無目的に歩くだけでは面白くないから、御朱印集めのために歩くというのは、老後の趣味としては悪くない。
 このお寺の由来や歴史はよく分からなかった。調べても情報がほとんど出てこない。



常雲寺

 分かったのは、曹洞宗のお寺だということくらいだ。誰がいつ開基したのかも調べがつかなかった。
 曹洞宗は、鎌倉時代に道元が宋に渡って持ち帰った教えで、道元自身は宗派を嫌ったものの、のちに禅宗に取り込まれて、その一派となった。
 鎌倉時代に臨済宗が武家政権に支持されたのと対照的に、地方豪族や一般に支持されて広まった。禅宗の庶民派ということで、今でも曹洞宗のお寺は多い。大本山は福井県の永平寺だ。
 曹洞宗の学校としては、愛知の地元なら愛知高校・中学や愛知学院がそうだし、豊川稲荷が曹洞宗という関係もあるのか、豊川高校もそうだ。全国区でいえば駒沢関連や東北福祉大なども曹洞宗の学校だ。



庚申堂

 見ざる、聞かざるがいる。三猿といえば日光東照宮で、こういう寺にいるというイメージはなかった。帰ってきてから勉強して、ようやく理由が分かった。今回はなんだか勉強っぽい内容になっているけど、あと少しおつき合いを。
 この堂は、庚申堂(こうしんどう)という名前で、青面金剛童子(しょうめんこんごうどうし)を本尊として祀ってある。
 庚申というのは中国道教の民間伝説の庚申待から来ている。人の頭、腹、足には三尸(さんし)の虫がいていつもその人間の悪事を見張っているという。庚申の日(干支の組み合わせの日で、帝釈天の縁日でもある)の夜、人間が寝ている間に天に昇って天帝に報告にいくということで、悪いことを報告されてしまうと寿命を縮められたり、死後地獄に落とされてしまうから、その日の夜はみんなで寄り集まって神様を祀り、寝ないで夜を明かす風習が生まれた。これを庚申待(こうしんまち)という。
 これを3年間、18回続けると記念に庚申塔を建てる習わしで、庚申塚とも呼ばれて、今でも各地に塔や地名として残っている。これが流行ったのが江戸時代で、村や地域単位で行ったことでその集団を庚申講と呼んでいた。
 どうして猿と結びついたかといえば、庚申信仰の申と猿との洒落のようなもので、庚申塔にはよく三猿が彫られるようになったところから来ている。
 三猿は日本の教えではなく、元々古くから世界中にあったものとされている。古代エジプトやローマにもあったというから古い。日本へは8世紀頃に天台宗の教えとして伝わったといわれている。有名になったのは、やはり日光東照宮の三猿からだろうと思う。
 仏教における庚申の本尊は青面金剛(帝釈天とも)なのに対して、神道では猿田彦命とされている。これも猿との連想だろう。
 ニニギノミコトが天孫降臨しようとしていたとき、地上で光り輝いて行く手を照らしていたのが国津神の猿田彦で、道先案内人としてのちに道祖神とも結びついている。
 仕事を終えた猿田彦は故郷の伊勢の五十鈴川へ帰り、松阪で漁をしているときに溺れ死んでしまう。
 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が天照大神を祀るのにふさわしい土地を探し歩いていたときに伊勢の五十鈴川を紹介したのが、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)で、一族は代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。
 猿田彦神を祀った神社としては、伊勢神宮の近くにある猿田彦神社が有名だ。滋賀県の白鬚神社の祭神ともなっていて、そこから白鬚明神とも呼ばれている。
 常雲寺や間黒神社がある幸心という地名は、この庚申堂から来ているという説と、猿田彦神がこの地で鼎(かなえ)や竃(かまど)を作っていたことから幸神と呼ばれ、それが転じたという説がある。
 いずれにしても、いろんなことが意外なところでつながりを持っていて面白い。近所の寺社巡りと、篠島行きと、次に行く予定の日光がこうもつながってくると、何か作為的なものを感じたりもする。すべての歴史は直接的、間接的につながっているといえばそうだけど。



庚申堂

 三猿のはずだけど、堂の前には見ざると聞かざるしかいなかった。言わざるはどこにいたんだろう。
 この三猿像は、昭和8年に地元の人が寄進したものだそうだ。

 今後も神社仏閣や旧跡巡りを通して歴史の勉強をしていきたいと思う。
 

近所に歴史あり、御畳奉行と行く瀬古の古寺社巡りツアー

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
石山寺参道入り口

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 守山区瀬古にある石山寺(いしやまじ)を訊ねてみた。表通りからも入れたようだけど、私はあえて裏道からアプローチした。民家の間の細い道を進んでいくと、四つ角に石山寺と彫られた石を見つけた。ここからすでに石山寺の敷地内が始まっているという印だろうか。進んでみると、右手に寺の入り口があって、その先には高牟神社があった。



石山寺入り口

「尾張西國第十三番 金剛廿一大師十六番 石山寺」とある。四国八十八ヶ所にちなんだ巡礼地が全国各地にあって、人々はそれらを巡り歩いてきた。現在でもそれは絶えない。尾張にもいくつかあったようだけど、歴史の中で衰退したり、戦争で焼けてしまったものもあっていつしかうやむやになっていたのを、戦後の昭和30年(1955年)にもう一度ちゃんと決め直そうということで作られたのが尾張西国三十三観音だった。天白区の1番一乗院から犬山の33番継鹿尾山寂光院までの33ヶ所に定められた。
 顔ぶれを見てみると、けっこうマイナーなところが多くて、私は5つしか行っていない。気がついたらほとんど行っていたなんてことにはなりそうにないから、制覇したければ意識的に回るしかない。
 ここを訪れたのは、瀬古を散策したからついでに寄ったというだけでなく、上の写真の山門が見たかったからというのが強かった。



石山寺山門

 ほっそりしてるから迫力には欠けるものの、優美さがあっていい。この山門は好きだ。これを見るためだけでも瀬古へ行く価値があると思う。
 この寺は、御畳奉行の日記で有名な朝日文左衛門がたびたび訪れた寺で、「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき」にも何度か登場している。
 文左衛門の屋敷は、名古屋城から東に2キロほどの東区主税町(ちからまち)あたりにあって、そこから石山寺までは5キロくらいだから、当時としてみれば近場という感覚だったろうか。善光寺街道を通って矢田川を渡り、味鋺あたりで釣りをして、竜泉寺や大森の大森寺(だいしんじ)まで足を伸ばすこともあったようだ。
 朝日文左衛門の日記を読むと、筆まめだけが取り柄のダメ武士で、愛すべき人だったことが分かる。将軍綱吉の生類憐みの令が出されているのもおかまいなしに平気で毎日のように釣りを楽しみ、禁止されている芝居見物に変装して出かけたり、酒を飲み、美味しいものを食べ、茸狩りに出かけ、気が向けば博打をしたり、女を買ったり、気ままに日々を過ごしていた。何しろ仕事は月に3日くらい城に行けばいいだけなので、時間がある。給料もそこそこだから、遊んでるより他にすることがない。
 筆まめぶりは尋常ではなく、今でいうブログ中毒のようなものだ。食べたものから、身の回りの出来事、江戸での大きな事件や三面記事的なニュースネタ、藩でのスキャンダルや裏事情、季節の風物詩から芝居や花火大会の感想などなど、事細かに毎日27年間も書き続けていたからすごい。どうでもいいことばかりのようでありながら、江戸時代の武士の暮らしぶりがこれほどよく分かる日記は他にない。
 最後は酒好きがたたって肝臓を悪くして、45歳で死んでしまった。80歳くらいまで生きていたら、もっといろんなことが知れたのに、もったいないことをした。
 そんなことを思いながら石山寺を参拝するとまた違った思いを抱くんじゃないだろうか。



石山寺境内

 境内の庭園はきれいに整備されていて気持ちがいい。
 奥に見えているのが本堂で、左手には観音堂がある。
 鎌倉時代の1245年前後、道円の開基とされている。
 江戸時代に入ってから、尾張二代目藩主・徳川光友が再建するものの、明治24年の濃尾地震で倒壊。翌年再建されるも、第二次大戦の名古屋空襲で燃えてしまう。ただし、観音堂と山門は焼け残って現在に至っている。本堂は平成8年に再建されたもので、ごく新しい。
 本尊は阿弥陀如来で、薬師如来、釈迦如来像とともに鎌倉初期の恵心僧都作とされている。



石山寺観音堂

 こちらが古い観音堂。古いといっても、明治に再建されたものだろうから、そこまで古くない。
 この左手には地蔵さんが並んでいて、奥は竹林になっている。



山門

 最後にもう一枚、山門を撮る。
 よく見ると屋根にシャチが乗っている。



高牟神社

 山門から左に向かって少し歩くと高牟神社に着く。ほとんど隣り合わせといっていいくらいだから、昔は石山寺と一体化していたのかもしれない。
「延喜式」にある春日部高牟神社の候補のひとつで、もしそうだとすれば創建は平安時代以前ということになる。ただ、個人的な感触としてはここが延喜式の高牟神社ではないような気がするのだけど、実際はどうなのだろう。
 高牟神社というと千種区にある同じ名前の神社の方がよく知られている。あちらは、尾張を支配していた物部氏(もののべし)が武器を納めた倉があった場所に建てられたということだけど、こちらとの関係はよく分からない。名東区の高針にも同じ名前の神社がある。



天満宮の牛

 拝殿の前に牛がいて、戸惑う。ここは天満宮なのか? と。
 狛犬は鳥居の外にいるだけで、境内にはいない。
 ここは高見という称号をもらっていて、江戸時代までは高見天神と呼ばれていたそうだ。今は別名瀬古天神ともいう。どうして天神というのか不思議なのだけど、「本国帳」には従3位高牟天神、「尾張本国内神明帳」には従3位上高見天神とあることから、最初の頃から天神様と関係があったことが分かる。
 祭神は高牟神社ということでタカミムスビ(高皇産霊命)となっている。もともとそうだったのか、あとからそうなったのかは分からない。相殿で菅原道真が祀られている。
 山田次郎重忠という人が奉納した菅原道真の画というのがあり、江戸時代にはどういうわけかそれが一般家庭のものとなっていて、明治になってから神社と話し合いで半年ごとに持ち合うことになったらしい。ただし、それは戦争の時焼けてしまって今はないという。



本殿の中

 タカミムスビというのはよく分からない神様で、「古事記」では高御産巣日神(タカミムスビノカミ)として天地創造に関わった神として登場するものの、「日本書紀」ではちらりとしか出てこない。
 アマテラス(天照大神)の息子の天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)と結婚したのがタカミムスビの娘栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメノミコト)で、その間に生まれた子が天孫降臨したニニギ(瓊瓊杵尊)という。
 天御中主神、神皇産霊神とともに性別もなく、人間界からは姿を隠している神(独神)ということで、その実像はベールに包まれている。
 そもそも誰がそういう神様をこの地に祀ろうとしたのか、詳しいことは分かっていないようだ。いつの間にか、天神さんに主役が入れ替わってしまったようなところがある。
 伊邪那岐命、素戔嗚命、天照皇大神、大山祇命、菊理媛命も祀られている。
 社殿は一度900年に再建され、1767年には矢田川が決壊して水の底に沈んでいる。1825年にも修理と造営が行われ、昭和20年(1945年)の空襲で社殿は焼け落ちてしまった。現在のものは戦後、昭和36年に建て直されたものだ。



手水舎

 京都や奈良まで行かなくても、近くに歴史のある神社仏閣はあるものだ。うちの近所と奈良時代や平安時代というのはイメージが結びつかないのだけど、その頃からここにも人が住んでいて、都と同じ長さの歴史があるのだということを再認識した。
 石山寺はいいお寺だし、高牟神社とセットでオススメしたい。ご近所さんは一度訪ねていってみてください。
 朝日文左衛門が遊び歩いていたところを辿る散策というのも楽しいかもしれない。川で釣りをして、寺巡りをして、ご馳走を食べて、芝居を見に行って、酒を飲んで、博打をして、家に帰って日記を書いて寝る。彼が生きたのは、関ヶ原の戦いから100年後のことだ。平和っていいような悪いような、どっちなんだろうとちょっと考えた。
 

河和駅周辺は思い描いていたより街だった ~島巡り編完結

観光地(Tourist spot)
河和駅前風景




 二島巡りシリーズ最終回は、番外編として河和駅(こうわえき)周辺のレポートをお届けします。
 名鉄河和線の終着駅ということで、もっとひなびた田舎の駅を想像していたら、けっこう街中だった。知多半島の真ん中あたりの東端で、どうしてここが終着駅に選ばれたのかよく分からない。どうせならもう少し伸ばして先端の師崎まで行ってほしかったところだ。半島の西には北の富貴駅で分かれる知多新線というのが走っていて、それも内海駅止まりになっている。内海は海水浴場があるから納得できる。あそこは名古屋近郊で一番賑わう海水浴スポットだ。
 もし、両方の線が師崎まで伸びてぐるりとつながっていたら、知多半島は生活するにも観光するにももっと便利になっていただろうに。おそらく名鉄にもその構想はあったはずだ。やはり採算が取れないということで断念したのだろうか。まあ、実現していても今頃南エリアの路線は廃線になっていたかもしれないけれど。

 地図で見てもこれといったものがない河和は、降り立ってみてもこれというものを見いだせなかった。海水浴場があるわけでもなく、港町の風情もなく、少し離れたところに寺が3つあるくらいのものだ。住民以外の人間がこの駅を利用することがあるとすれば、日間賀島と篠島へ行く高速船に乗るためくらいじゃないだろうか。高速船も名鉄が運営している。
 駅から少し北へ行ったところに、戸塚ヨットスクールがある。ほとんどの人にとっては過去の話題として忘れ去っているだろうけど、戸塚校長は2006年に出所して、ヨットスクールは現在でも運営されている。スクールを支援する会のメンバーには石原慎太郎や伊東四朗などがいる。
 河和駅はパレマルシェの駅ビルになっている。これは昔の名鉄パレで、街中のスーパーのように何でも揃ってる感じだった。このときは金曜の午前中というのにお客もたくさん入っていた。河和の駅周辺は私が思っていたよりもずっと街だった。
 しかし、駅を出てすぐ目の前が閉店したペットショップというあたりがホッとさせてくれる。そもそもこの一等地にペット屋はないだろうと思う。仕事帰りや買い物帰りに、今日はちょっとペットでも買っていきましょうかねとかは、なかなかならない。ペット屋さんはもうちょっと住宅地でよかったんじゃないか。最近は個人のペット屋は経営が難しそうだけど。
 上の写真に写っているバスは、高速船乗り場までつれていってくれる無料バスだ。バスに乗れば3分くらいで着く。歩いていくと10分弱というところか。



駅前喫茶店

 昭和は遠くなったけど、意外と近いところに残っていたりする。この喫茶店のテイストは、まさに昭和の風情そのものだ。ショーウインドウのメニューサンプルが懐かしい。ここなら昔ながらのクリームソーダが出てきそうだ。こういうところで食べるお子様ランチは美味しかったというか、嬉しかった。ファミレスでは甘酸っぱい思い出にならない気がする。
 印刷したメニューを貼るだけでは営業努力が足りないと感じたのか、いろいろ手書きの紙も貼られている。食後のコーヒー200円とか、みそかつとか、モーニング サービス アリマスとか。なんでそこだけカタコトの日本語なんだ。
 のぼりには「ビデオダビング致します」とある。ダビングといっても、ビデオからDVDにダビングするのではなく、ビデオからビデオにするサービスかもしれない。



うどん屋風

 生うどん、生そばと書かれているけど、とても売ってる感じはない。そもそも何屋さんかまったく分からない。もともとは製麺屋さんだったのだろうか。
 電柱に高速船乗り場の案内がある。ところどころにこういう矢印があるので、地図を持っていかなくても迷うことはない。



古い家屋

 もう人は住んでないようだけど、なかなか雰囲気のある家が建っていた。
 昔、ここはどんな町だったんだろう。今よりももっと港町の風情があったのだろうか。
 鉄道自体の開通はわりと古く、前身の知多鉄道が1931年(昭和6年)に太田川と成岩間で開業している。翌年には河和口まで伸び、1935年(昭和10年)には河和まで全線が開通した。この頃からすでに名古屋のベッドタウン化が始まっていたのかもしれない。
 名鉄に吸収されたのが1943年(昭和18年)で、当時は知多線と呼ばれていた(河和線と改称されたのは1948年)。
 駅から港まで少し歩いたものの、河和駅周辺の印象は薄かった。思ったよりも街中だったことは確かだけど。



高速船乗り場

 高速船乗り場に到着。バスターミナルや鉄道の駅とはまた違う独特の雰囲気がある。
 島名物なのか河和名産なのか、せんべいなどが売られていた。



郷土の人形など

 なんだか分からないけど、ショーケースの中にいろいろ飾ってある。日本人形や獅子舞の頭、鼓など。この地方の伝統行事か祭りの関係だろうか。あえてそれをここに飾るかと思ったけど、他に飾るものがなかったのかもしれない。
 隣には柱時計がかかっている。



118番

 密航、密輸、不審船、海の事故は118番に連絡するらしい。初めて知った。
 以前、日本海の福井へ行ったとき、「許すな密航!」という看板をあちこちで見かけて、ちょっとしたカルチャーショックを受けたのを思い出した。内陸の街で暮らしていると密航とかが日常的なものであるという感覚はまったくない。



船に乗り込む

 乗客ではなさそうな人が、たくさんの段ボールを船に積み込んでいた。島の人が注文した品かもしれないし、宅配や郵便物かもしれない。こういう定期船があるところは陸地とさほど変わらないのだろう。
 この程度の離島でも特別料金が発生するのかどうか。郵便物はかからないと思うけど、宅配はかかる可能性はある。島はたいていの店が独占企業だから物価は高いはずで、離島料金を取られなければ通販を利用してまとめ買いをした方が安くあがりそうだ。けど、それをやると島の経済が成り立っていかないことも考えられる。ガソリンも本島よりも高いんじゃないかと思うけど、島には島の独自のルールがあるのだろう。



堤防と釣り人

 堤防の釣り人と、向こうに工場が見える。一色町の方だろうか。あんな煙を吐くような工場があのあたりにあるのかどうか。



碇

 船着き場っぽいパーツを撮ってみる。なんて名前のものかは知らない。足を乗せて遠くを眺めるために設置されたものではないはずだ。
 でも、一応お約束としてやっておいた。



高速船の中

 高速船の内部。前の半分はやけに人気がなくて、みんな後ろ半分に座る。どうしてか理由が分からなくて、帰ってきてから理由が分かった。後ろの方が一段高くなっていて、そちらの方が窓からの景色がよく見えるんだそうだ。前の方に座っている私たちは、きっと高速船の素人丸出しだったのだろう。



夕暮れの河和駅ホーム

 時間はいきなり飛んで、帰りの河和駅。夕方が近づき、駅のホームも黄昏風景になった。
 日間賀島と篠島のことはもう全部書いた。これで私の二島巡りレポートはおしまいとなる。
 また行きたいと思った日間賀島と篠島だった。いい思い出になった。

【アクセス】
 ・名鉄名古屋本線の特急 [河和行き]に乗って約50分。
 

有名人が多数訪れる篠島は歴史探索の魅力がいっぱい <第三回>

観光地(Tourist spot)
篠島神社仏閣-1




 篠島編最後は神社仏閣特集での締めくくりとなる。日間賀島同様、篠島も神社仏閣が多いところで、知多四国八十八ヶ所の一つ正法禅寺があり、お遍路さんも海を渡って訪れる。たいていは日間賀島とセットで回ることになるのだろう。
 寺社はすべて島の中央部分に固まっていて、一度に全部巡るのに都合がいい。私たちは医徳院をのぞく3寺、2神社を参拝した。医徳院がやや離れたところにあったため時間切れになってしまったのはちょっと惜しまれる。西方寺などを見つけるのに時間を食ってしまったということもあった。
 まずは東照山松寿寺から。ここだけ島の北東部分の高台にあって、他とは離れている。ただし、高速船乗り場がそちら側で、中心に向かう途中にあるから、問題はない。
 離れているといえば、この島は小学校と中学校が島の北と南にあって、えらく離れている。日間賀島では隣り合っていたし、それが普通だと思うのだけど、どうしてだろう。南にある中学は集落から離れていて通うのに遠そうだ。敷地の問題だろうか。

篠島神社仏閣-2

 民家とお寺の境内が渾然一体となっていて、境界線がない。境内に芝生を植えてあるし、花壇まで作っている。写真には写ってない場所も花壇になっていて、家の人なのか住職さんなのかが花の手入れをしていた。
 お寺を神域とみるかどうかでも感じ方は違ってくるのだけど、ここなどは完全に日常の空間になってしまっている。神社ではなくお寺だからこれはこれでいいのだろう。
 戦国時代の1542年に建てられた寺で、最盛期には末寺を六坊も有していたというから立派なものだ。西国の大名が篠島へ渡ってきたときはここが本陣として使われたそうで、かつては知多半島の三名刹と呼ばれていたんだとか。
 曹洞宗のお寺で、本尊は如意輪観世音菩薩。
 徳川時代のはじめに、山号を東光山と改めたところ、悪いことがいろいろ起こったため、島民が元に戻してくれとお願いして戻されたというエピソードがある。
 古い寺のわりには本堂が新しいと思ったら、昭和57年に屋根の葺き替えをしたそうだ。昔はどうだったか知らないけど、現在は銅版葺きになっている。

篠島神社仏閣-3

 高台に建っているから境内からの見晴らしがいい。サンサンビーチと海がよく見える。こちらは南東向きだから、海から昇る朝日が見られそうだ。

篠島神社仏閣-4

 次にやってきたのが正法禅寺。知多四国38番目の札所で、お遍路さんが訪れるのはこのお寺だ。
 創建は南北朝時代の1347年とも、1362年とも言われ、開基は説宗讃大和尚とされている。ここも曹洞宗のお寺で、静岡の袋井市にある可睡斎の末寺に当たる。
 島の言い伝えによれば、仙麟等膳和尚が駿府の今川義元の人質でだった徳川家康を救い出してこの島に渡り、70日間ここにかくまっていたという。こんなような伝説はいろいろあって、どこまで本当なのか分からないのだけど、家康と篠島の縁は確かにあって、1582年に医徳院で武運長久の祈願を行った他、何度か訪れているそうだ。まったく縁がない尾張の離島に何度もやって来るとは考えられないから、仙麟等膳和尚の話は実際にあったことなのかもしれない。
 仙麟等膳和尚(せんりんとうぜんおしょう)というのは可睡斎の11世で、家康が浜松城主になったとき昔の礼をするために城に呼んだところ、家康の前でこっくりこっくり眠ってしまったという和尚だ。その姿を見た家康は、「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠るべし」と語り、それ以来和尚は可睡和尚と呼ばれるようになり、寺の名前も東陽軒から可睡斎へと改められたのだった。
 1645年に金・銀・銅・鉄で鋳造された龍門の梵鐘というのがあるらしい。知ったのは帰ってきてからだった。普通に見られる場所にあったんだろうか。

篠島神社仏閣-5

 これは秋葉堂か、観音堂か、どっちだろう。
 可睡斎は秋葉山の総本山だから、正法禅寺も当然その関係があることになる。
 それにしても、お寺には似つかわしくないようなポップなのぼりが目についた。ここだけちょっとアキバっぽい。秋葉山だけに? それはないと思うけど。カラフルなのぼりにはコミックタッチの坊さんが描かれている。

篠島神社仏閣-6

 時間を気にしながら、次は寂静山西方寺へ。知多四国八十八ヶ所 の番外でもある。
 1516年に安誉上人が創建されたとされる浄土宗のお寺だ。伊勢神宮で火災があり、皇太神宮の鬼門に当たる篠島に、天皇の命令で善光寺如来の分身を安置するために建てられたのがこの西方寺だという。そのときの資材は伊勢神宮のものを使ったとも言われている。
 その善光寺如来像は武田信玄が慈覚大師に命じて作らせた金仏だという話がある。こんな尾張の外れの離島で、こうも次から次へと有名人の名前が出てくるとにわかには信じがたいのだけど、この島が長く伊勢神宮の領域だったことを考え合わせれば、それが信じる根拠となるかもしれない。もしかすると、篠島は日間賀島と同列に語るべき島ではないのか。
 信玄の嫡男の勝頼も、この寺をたびたび訪れたという。
 現在の本堂は1974年に建て直されたものなので、往事の面影はない。ごく普通のお寺だ。
 張り紙があって、何が書かれているのだろうと見てみると、「ネコが入りますから、戸はかならず閉めてください」とあった。猫くらい自由に出入りさせてあげる仏心が欲しい。

篠島神社仏閣-7

 八十八ヶ所お砂踏み霊場サミットのポスターを見つけた。そんなものがあるのか。世の中には自分の知らないところでたくさんのいろんなサミットが開催されている。
 知多四国霊場は日本三大新四国の一つで(あとの二つはポスターにもある篠栗と小豆島)、ここは弘法大師が41歳のときに歩いたと言われている。それから今年で200年ということで、様々な催し物が行われているようだ。記念グッズや特製の印などももらえるといって、2008年は知多のお遍路さんにとっては記念すべき年となっている。百年祭など、誰にとっても一度しか体験できないことだから、そりゃあ気合いも入ろうというものだ。今小学生くらいの子供がここで八十八ヶ所巡りをやっておけば、もしかしたら三百年祭のお遍路もやれるかもしれない。
 札所88、開山所3、番外札所7の合計98寺。全行程は約150キロ。これくらいなら車を飛ばせば3泊4日くらいで終わるんじゃないかと思うけど、お遍路というのはそんなものではないのだろう。全制覇することが目的なのではなく、歩きながら自分と向き合うことが大切に違いない。菅直人は自分を見つめ直せたのだろうか。
 まずは、やろうと思える心境になれるかどうかというのが大事なことで、始めたらもう半分やったようなものと言えそうだ。

篠島神社仏閣-8

 お寺巡りはこれで終わって、残すは神社二つとなった。まずは神明神社から。
 倭姫命が天照大神の鎮座すべき場所を探して諸国を巡っているとき、この島を訪れてたいそう気に入ったという話を前回、おべん鯛のところで少し書いた。そのときに荒御魂を祀るために荒御魂宮を建てたことが神明神社の始まりとされている。
 荒魂(あらみたま)というのは、神の霊魂の激しい側面をいい、平和な面を和魂(にぎみたま)という(読み方はいくつかある)。更に幸魂、奇魂というのもあって、それぞれを祀っているところがある。
 771年に土宮(つちのみや)を勧請して、神明社が建てられた。そのときは伊勢神宮の用材で建てられている。
 以降、神宮の式年遷宮のたびに古材をいただいて、神明神社も遷宮を行ってきた。伊勢神宮の次回62回遷宮が平成25年完成なので、ここの遷宮は平成26年以降ということになるだろう。
 かつては伊勢神宮にお宮参りをした人は、宮巡りといって篠島の神明神社も参る習わしだったという。それが無理な場合は、二見浦から篠島に向かってお参りをしたそうだ。

篠島神社仏閣-9

 本殿は伊勢神宮と同じ神明造というのだけど、うーん、似てるかな。伊勢神宮の本殿もよく見えなかったから、似てるとも似てないとも言えない。
 全体的な雰囲気としては、神聖な緊張感があるというわけでもなく、古びて少し荒れてるような印象も受けた。特に境内は荒れ地みたいになっている。賽銭箱も小脇に抱えられそうなほど小さいし。

篠島神社仏閣-10

 巡った順序としては入れ替わってしまっているのだけど、最後に八王子社を紹介しよう。
 ここはなんといっても犬嫌いの神様として有名だ。それはこんな話が元になっている。
 篠島では正月三日の夜に八王子社の神オジンギサマが神明神社に渡るとされていて、その夜は家の明かりを消して物音も立てずに島民はみんな家にこもるのが習わしになっている。それはのちに篠島の大名行列という神事へとなっていき、現在でも続いている。明けて4日には、神明神社から八王子社へオジンギサマをお送りするということで大名行列を作り、前浜では若い衆によるやっこ踊りなどが披露される。
 ある年、そのお渡りの最中に犬が吠えた。神事は滞りなく終わったものの、それ以来海が荒れに荒れて漁ができなくなってしまった。海を沈めて欲しいと八王子社へ祈願へ行くと狛犬が台座から転げ落ちた。拾って置き直したのに、翌日行くとまた落ちている。それが続いたから、八王子の神様は犬が嫌いで怒ってこんなことをしているんだということになり、島から犬を追い出すことが決まった。かわいそうな犬と飼い主たち。狛犬も医徳院へ移したところ、ようやく海は静まって漁ができるようになったという。
 それ以来、長らく篠島では犬を飼うことが禁止されていたらしい。今はそんなこともなく普通に飼われているそうだけど、犬にしたらいい迷惑だった。そもそも、狛犬って犬じゃないし。狛犬は想像上の神獣で、決して犬ではない。ルーツを辿れば獅子やライオンに行き着く。
 それに、八王子社の御神体は、伊勢の箕面大社から奉納された獅子頭だ。御神体が獅子なのに狛犬が元凶とは筋が通らない。
 それでも、八王子社は今でも犬嫌いの神様ということになっている。
 創建は1288年。もともとは海の神様を祀る神社だったという。

篠島神社仏閣-11

  伊勢神宮の古材で建てられた神明神社の古材で建てられるのが八王子社で、やはり20年ごとに行われている。
 神明神社と八王子社の本殿は確かに似ている。そっくりと言ってもいいかもしれない。

 こうして見てきたように、篠島というのは深い歴史を有したところだ。更に時代をさかのぼれば、貝塚からたくさんの縄文土器などが出土している。伊勢神宮との縁が、のちに多くの縁を生んだということもある。
 今回は南エリアへまったく行けなかったので、そちらのレポートをすることができない。昔、クジラ漁をしていたときにクジラを陸揚げしていた鯨浜や、加藤清正が名古屋城の築城に使うために切り出そうとした清正の枕石、西行法師ゆかりの矢立、種田山頭火の碑など、見逃したものは多い。
 万葉集の歌が刻まれた碑が建つ歌碑公園から見る夕陽は、日本の夕日100選に選ばれている。
 日間賀島が観光の島とするなら、篠島は歴史散策の島と言っていい。だから、訪れる側としても、二つはまったく別の島として捉えておいた方がいいと思う。隣り合わせの島でありながら、二島はまるで似ていない。日間賀島の方が島民と観光客との距離が近くて、篠島は遠く感じたというのもあった。
 個人的には日間賀島の方が好きだけど、篠島の魅力も捨てがたい。篠島については、もう一度行かなくてはいけないことがはっきりした。一通り歩いて、主だったところを見終わったとき、また違った感想を持つことになるかもしれない。
 いずれにしても、二島はどちらも行くに値するところだ。はっきりオススメできる。手軽な離島体験というのはなかなか貴重なものだし、見るところが何もなくても不思議と鮮やかな印象をあとに残す。
 とりあえず今回の二島巡りシリーズはこれで終わりで、残り一回、番外編を追加しようと思っている。島に渡る前の河和と名古屋駅に戻ってからの写真が残っている。私の茹でタコ日焼け写真もお楽しみに。
 
 河和駅周辺は想像していたより街だった ~島巡り編完結
 

夏だ、手抜きだ、簡単サンデー料理は夕飯としては合格点

料理(Cooking)
夏の手抜きサンデー

Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II



 今日のサンデー料理のテーマは、夏の手抜き料理だった。
 夏は暑くて水分ばかり摂って食欲がなくなってしまうことがある。そんなときは作るのも面倒だし、そもそもメニューをあれこれ考えるたくもない。でも、作って食べなくちゃいけない。そこで手を抜いて、なおかつ美味しく食べられる料理の登場だ。組み合わせも重要となる。さっぱりしたものばかりだと物足りないし、栄養があるものに越したことはない。
 そうやって考えたとき、今日は案外あっさりメニューが決まった。まずはマグロのカルパッチョが基本となって、冷たくて食べやすいものは何かといえば豆腐が浮かんだ。残り1品くらいは多少なりとも調理らしいことをしようということでかき揚げとなった。三角食べをしたときをイメージしてみたところ、バランスもよさそうだ。よし、これでいこうとなった。
 特別面倒なことはしていない。冷や奴とマグロのタレを作って、かき揚げを揚げたくらいだ。ほとんど食材をそのまま使ってるから、いつもに比べたらずいぶん手抜きになっている。まあでも、夏サンデーということで、たまにはこういうのもありだ。

 ところで料理名というのは、普段特に意識せずに呼んでいて疑問を感じることはないのだけど、その語源って何と訊かれると答えられないものがけっこうある。今日作った3品がそうだった。冷奴(ひややっこ)の語源をあなたは知っているだろうか。私は知らなかった。
 奴(やっこ)というのは、江戸時代、武家に仕えていた下僕(中間)のことで、大名行列の中では槍などを担いでいて槍持ち奴などと呼ばれていた。そのとき来ていた半纏(はんてん)に、釘抜紋という大きな四角い紋が四つついていたことから、四角に切った豆腐のことを奴豆腐と呼ぶようになり、それを冷やしたやつということで冷奴というようになったのだとか。
 料理屋でこういううんちくを得意気に語る奴は嫌われるけど、知っていて損はない雑学だ。冷たい奴が登場する昔話の中に豆腐が出てきたとかそういうことではない。
 上にかかっているタレは、肉味噌の変形でナス味噌になっている。ちょっとだけアレンジした。
 オリーブオイルで長ネギの刻みとナスの刻みを炒めて、そこにしょう油、みりん、砂糖、合わせ味噌を加えて加熱する。少しダシの素と水を入れて味をととのえて、最後に少し一味唐辛子を振った。
 いつもしょう油とかつお節では飽きてしまうし面白みがないから、たまにはこういうタレもいい。ひと味違った美味しさになるからおすすめだ。

 カルパッチョというのも、料理自体のイメージはあっても語源までは考えたことがなかった。響きからしてイタリア語だろうとは思っても、それがどういう意味で、どこからどこまでがカルパッチョなのかはよく分かってなかった。
 もとはヴェネツィアのレストランが考え出したもので、生の牛ヒレ肉を薄切りにして、マヨネーズとマスタードを混ぜたソースを網目にかけた料理のことだったんだそうだ。カルパッチョというのはイタリア人画家ヴィットーレ・カルパッチョからきていて、その画家の作風が赤と白のイメージだったことから名前を冠したらしい。
 これは全然知らなかったし、予想外の語源だった。カルパッチョ自体が生もののソースがけみたいな意味を持った言葉だと思っていた。
 ということはつまり、マグロを使った時点ですでにカルパッチョからは逸脱しているということになる。少なくとも赤と白をイメージさせなければカルパッチョとは呼べないだろう。マグロを使うなら、カルパッチョ風とすべきだ。ただ、イタリアでもカルパッチョの定義は広がってるそうで、生肉以外を使ったものもカルパッチョと呼ぶようになっているみたいだ。
 私が作ったソースは、オリーブオイル、しょう油、マヨネーズ、わさび、塩、コショウ、酒、みりん、一味を混ぜて煮立たせたものだ。和洋折衷で美味しいソースに仕上がった。
 完全な生ものを食べたのはずいぶん久しぶりだ。気持ちの中でも警戒心が消えていたから、もう大丈夫だろう。夜になってもおなかの調子が悪くなるというともなかった。これでいつでもスシローへ行ける。

 かき揚げのかきってなんだろうと思ったことがある人はけっこういるかもしれない。漢字で掻き揚げと書くとなんとなく見えてくる。要するに野菜などを小さく切ったものを掻き集めて揚げるから掻き揚げということだろう。
 天ぷらの語源がポルトガル語のtemperarやtemperoから来ているのはわりと有名な話で、知ってる人が多いと思う。油を使って固めるみたいな意味だそうだ。
 戦国時代に日本にやって来たキリスト教の宣教師がそうやって食べているのを見て、日本人も真似するようになったといわれている。
 今では日本を代表する料理の一つとなった。スキヤキ、テンプ~ラ、フジヤマ、ゲイシャ、みたいな感じで外国人も認識しているようだ。揚げ物自体は世界中にありそうだけど。
 かき揚げのタネは、タマネギ、ニンジン、エビ、ジャガイモで、タレはめんつゆに一味を入れたもので食べた。ついでに大葉も揚げた。
 かき揚げはアレンジしようがないというか、めんつゆで食べるのが一番美味しい。

 今日のサンデーは、趣味の料理としては失格だけど、食べ手としては申し分のないものだった。普段の夕飯メニューとしては3品の組み合わせで完成度は高い。味のバランスもよかったし、夏サンデーとしては合格といっていいと思う。ついでに語源の勉強にもなった。
 先週のサンデーでは、来週はミキサーサンデーになるかもしれないと書きながらそうならなかったのは、ミキサーを買うことをすっかり忘れていたからだ。ミキサーとジューサーの違いが分からず、探すのを放棄してしまったということもある。フードプロセッサーやミルってなんだよ、と思う。
 ジューサーはジュースを作るためのものだろうし、ミキサーは混ぜるもので、プロセッサーは材料を砕くものなんだろうなとぼんやりは分かるのだけど、それじゃあ私はどれを買えばいいのかというとよく分からない。そもそも自分自身の用途が分かってない。機能は兼ねるものなのか、独立したものなのか。砕き系の料理を作るんだからプロセッサーなのかなとも思うけど、ジュースが作れたらスープやお菓子作りにも応用が利きそうな気もする。そうやって欲張って多機能なものを買っても、結局使わなくなることは目に見えているから、やっかり買うのはやめておこうかと、そんなこんなの堂々巡りで、買うのをあきらめてしまった。ジューサー付きミキサーというのを買えばいいんだろうか。
 来週の予定は今のところまだ未定だ。ミキサーを買ったらミキサーサンデーになるし、買わなければ普通のサンデーになる。買うにしても、安物買いの銭失いサンデーにならないように気をつけたい。

登って下って折れて曲がって篠島路地コレクション <第二回>

観光地(Tourist spot)
篠島2-6



 世の中には路地好きを自認する人たちがいて、路地歩きや路地の写真を撮ることを趣味としていたりする。その数は決して少なくない。路地の本も何冊も出ている。ひょっとするとあなたの周りにも隠れ路地ファンがいるかもしれない。ほとんどの人は知らないと思うけど、全国路地サミットなんてものも毎年開催されている。洞爺湖サミットの裏でひっそりと。第6回目の今年は、10月に長野市で行われるそうだ。
 私はそういう人たちとファミレスで5時間も6時間も路地について熱く語り合えるほど路地についての思い入れはないけれど、人並み以上に好きだとは思う。路地にまったく興味がない人を0、それなりに嫌いじゃない人を5、路地マニアを10とすると、私はだいたい7くらいだろうか。いや、本物の路地好きからすると、まだ6程度かもしれない。
 路地なんてものは日本全国どこにでもあるし、昭和の子供としてはいつも見慣れたありふれたものだった。大人になるまでは特別なものとして捉えたことはない。路地について意識することなく時は流れ、昭和が終わり、21世紀に入った今、路地というものの貴重さと魅力を再認識することとなった。懐かしくもあり、見るとなんとなく嬉しくもなる路地。やっぱり路地っていいもんだなとあらためて思ったのは、去年神楽坂へ行ったことがきっかけだろうか。
 その後、月島、佃へも行き、その他東京の路地を歩いた。名古屋周辺でも名もない路地をあちこちで見て、写真も撮った。特にここ最近、路地に対する思い入れが強くなってきている。路地マニアの人と1時間くらいならおしゃべりできそうな気がする。
 路地の定義とは何かというと、それははっきりしていない。一般的には家と家との間の細い道ということになるのだろうけど、もう少し限定すべきかもしれない。単なる通路ではなく、生活感のある細道とでも言えばいいだろうか。当然ながら歴史があればその方がぐっと魅力は増す。ビルとビルとの間の細い空間も面白いことは面白いけど、あれは路地とはまた別のものだ。
 日間賀島でも細く入り組んだ集落の路地を自転車で行き、写真も撮った。あっちもなかなかよかったけど、路地に関しては篠島の方がいい。情緒と趣がある。
 場所は、中央の集落で、海水浴場から一歩中に入ると、すぐに路地が始まる。そのままきついアップダウンを繰り返して、反対側に突き抜けるまでずっと路地が続く。路地好きにはたまらない場所だ。
 今日はそんな篠島の路地写真コレクションをお届けすることにしよう。

篠島2-7

 いきなりの急坂。出だしから息切れ必至。調子の悪いスクーターなら途中で止まってしまいそうだ。おばあちゃんとか、こんな坂道を登っていけるんだろうか。
 こんなところにも家は寄り添うように建っている。坂道が先にあってその横に家を建てたのか、家を建てた横に道を作ったのか、どちらだろう。
 家は土台を平行にして、その上に建っている。でも本当に水平かどうかは分からない。なんとなく傾いていそうな気もする。ビンを床に置いたらコロコロ転がっていきそうだ。

篠島2-1

 家々は狭い空間の中、無秩序に、雑然と建っている。家の向きもあっちこっち思いおもいの方を向いている。何しろ道は曲がりくねって折れ曲がり、坂道の連続だから整然となんて建てられない。見ているとすごく危なっかしいように思うけど、これはこれで上手く調和が取れているのだろう。今更建て直しなんていっても、重機どころかトラックさえ入れないから無理なんじゃないかとも思える。引っ越しも大変だ。

篠島2-2

 どこまでが公道で、どこからが私道なのか、どこから家の敷地が始まっているのか、境界線が曖昧でよく分からない。昔から顔なじみの人同士が住んでいる島だからモメゴトは起きないのだろうけど、法廷闘争になったらいろいろ難しい問題が出てくる。たとえば隣の家の庭に植わっている木の枝が自分の敷地に入ってきたときは勝手に切ってもいいとかいけないとか、木の実は取ってもいいとかいけないとか、木の根はどうだとか、ややこしい法律があるのだ。あるいは、ここの道で自転車と歩行者がぶつかって自転車が転んで家のドアを壊したら、誰に責任があって誰が弁償するかとか。
 そんなことは島の中で上手く処理することで部外者には関係ないことなんだけど。
 ただ、こういう狭い生活空間というのは、単なる田舎の村とは事情が違ってそうで、そのあたりに興味はある。山村の場合、一軒いっけんは広い敷地にあって、隣り合っていてもプライベートな空間として閉ざされているから、毎日の暮らしの中ではさほど濃密な関わりを必要としない。そういうことを考えると、よそ者が離島に住むというのは普通の田舎以上に難しそうだ。

篠島2-10

 道は登って下って、突然折れ曲がる。このまま進んでいいもんだろうかとやや不安になる。曲がった先は民家の玄関先ってこともある。
 日間賀島は集落の中のどこへ行くにも自転車で行けたけど、ここは無理だ。階段が多すぎてひいていくこともできない。篠島をしっかり散策しようと思ったら、自転車は捨てて、時間をかけて歩くしかなさそうだ。自転車を置いた場所まで戻っていると効率が悪い。

篠島2-9

 正法禅寺から西方寺あたりは、とても見晴らしがいいところで、この島のビューポイントの一つと言っていい。坂のある町はどこも風情があるものだけど、島の港町となればまた格別だ。
 ここからの夕焼けの眺めはすごく素敵だろうなと思わせた。イメージとしては、尾道を舞台にした大林宣彦作品で、制服姿の中学生男女が似合いそうだ。狭い島だから、こんなところでいちゃついてたらたちまち島中に知れ渡ってしまいそうだけど。

篠島2-8

 坂を下りて再び路地に入る。このあたりは平坦で、民家も比較的新しい。島の集落の中でも、古いエリアと新しいエリアがありそうだ。

篠島2-4

 あ、猫。そうだ、そうだ。路地といえば猫がつきものだ。猫がいない路地なんてクリープを入れないコーヒーみたいなものだ。違いの分かる男の私としては、路地猫を是非撮らねばならない。うーん、マンダム。
 路地裏の野良猫を撮る趣味の人もけっこう多い。そういう人たちはカメラを抱えて日々路地裏をさまよっている。でもあの人たちが好きなのは路地裏にいるノラであって、路地裏そのものではないのだと思う。猫を探しながら路地も撮るといったスタンスだろう。
 路地好きは路地を撮りながら猫も撮る。結果的に同じような写真になっても、語り合えることは多くないかもしれない。

篠島2-5

 さっきの猫が上を見上げて何を見てるんだろうと思ったら、家の窓から顔を出してる飼い猫がいたのだ。島の中にも飼い猫とノラがいる。お互いに交流はあるだろうし、ノラ生活をしてるやつも誰かにメシをもらってるはずだ。おそらく、どちらでも選択できる立場にあって、どちらか自分が好きな方を選んでいるのだと思う。
 外にいる方も首輪をつけてないだけで実際には飼い猫かもしれない。毛並みもきれいだし。ここでは家猫とノラの境界線もぼやけている。

篠島2-11

 八王子社の前をぷらぷら歩いていた猫。これは純然たるノラといった様子だった。この神社は犬嫌いの神様が祀ってあるところだから、猫にとってはいいところといえるだろうか。

 私たちが歩いた路地は島の一部で、他にも魅力的な路地がありそうだ。地図を見ても歩いていない細い道が何本もある。
 日間賀島に関してはある程度見切ったという満足感があったけど、篠島は3分1も見ていない。歩いた距離も、回ったエリアも、見所も。これだけ残してしまうと、再訪の気持ちが出てくる。パッと行ってサッと帰ってこられるところでもないから次はいつになるか分からないけど、もう一度行きたい気持ちは強い。
 離島シリーズとしては、愛知3島の残り一つ、佐久島もある。あっちは篠島など問題にならないくらい非観光地でひなびているそうだから、それはそれで興味がわいてくる。一色町から行かないといけないから、けっこう遠い。篠島や日間賀島から見えている隣の島なのに、あちらとは高速船の行き来がないのだ。一色町から行くよりも島から行った方がずっと近いのに、なんでだろう。島民同士の交流もあまりないんじゃないだろうか。佐久島もいずれ機会を見つけて行ってみたい。
 篠島編はあと一回、神社仏閣編で完結になる予定だ。篠島についての感想は、また次回ということにしよう。島巡り番外編もありそうなので、もう少し島話におつき合いください。

 有名人が多数訪れる篠島は歴史探索の魅力がいっぱい <第三回>
 

篠島ではレンタル自転車を借りられず徒歩で回ることになった <第一回>

観光地(Tourist spot)
篠島船着き場



 篠島(しのじま)へ渡ったのは午後3時半過ぎだった。最終の高速船が5時45分なので、滞在時間は2時間ちょっと。その船を逃すと、海上タクシーで帰るか、泊まっていくしかなくなる。もしくは、河和まで泳ぐか(直線で14キロくらい)。
 当初の予定としては、レンタサイクルで島をぐるっと一周見て回って、だいたいの雰囲気を感じようというものだった。しかし、その計画は出だしから大きくつまずくことになる。
 この島のレンタサイクルは観光案内所がやっていると聞いて駅前の建物に借りに行ったら、時間は午後3時で終わりだという。まさかそれは考えなかった。船の最終は5時45分だし、夏場は5時を過ぎてもまだまだ明るいのだから、普通に5時くらいまではやっていると思っていた。
 調べが甘かったと反省しつつ、徒歩での散策へと気持ちを切り替えた。その気になれば島にはいくらでも自転車が転がってるから借用できなくはないのだけど、さすがにそれはいけない。驚くことに、多くの車の窓が開いていて、キーも差しっぱなしだったりする。さすがに島の人たちは大らかだ。

 島の面積は約0.9平方キロだから日間賀島より一回り大きい程度ではあるのだけど、起伏が激しくて変化に富んだ地形なので、かなり違った印象を受ける。日間賀島が横長の島なのに対して、篠島は縦の島だ。
 人口は約1,900人、世帯数640ということで、日間賀島よりやや少ないものの似たり寄ったりだ。
 島の周囲は約9キロで、周回道路はなく、ぐるっと大回りで歩く距離としては7キロ弱だから、スタコラ歩いて2時間ちょっとだろうか。
 小中学校が一つずつあって、かつてあった内海高校の分校が閉校になったのも日間賀島と同じだ。
 このように、数字だけ見ると日間賀島と篠島はとても似ている離島なのだけど、実際は多くの違いを持つ島だった。辿ってきた歴史や現在の方向性もそれぞれで、2つの島は全然似ていない。島人同士の意識はどうなのだろう。
 わずか2時間の滞在で、見所の半分も見ることができなかったけど、今日から何回かに渡って私が見てきた篠島を紹介したいと思う。




小学生たち

 私たちと入れ違いに小学生たちが船に乗って帰って行った。名古屋あたりからここまで遠足に来ることはあまりないと思うけど、知多や三河のちびっ子たちにとっては日間賀島や篠島は馴染み深いところなのかもしれない。夏休みの臨海学校の場所としても適している。
 船では制服姿の高校生もけっこう見かけた。島に分校がなくなってしまった今、家から通おうと思えば船とバスか電車を乗り継いで通うしかない。一番近い高校は内海高校だろうけど、みんなが入れるとも思えない。河和まで行って、そこから河和線で半田まで行けば、半田高校、農業、商業がある。それにしても、あまり選択肢はなさそうだ。
 こちらの島は高速船乗り場が北西に一つあるだけだ。日間賀島からは7、8分で到着する。師崎から直接この島へ来るときも、日間賀島経由になって30分ほどかかる。
 地理的には日間賀島、佐久島と3島の中で最も外側に位置していて、南西側は外洋を向いている。師崎と伊良湖を結ぶ間にあるということで、昔は交通の要所として多くの船が出入りしていたという。
 島の周りには大小10数個の小島があって、東海の松島とも呼ばれている。
 伊勢神宮との関わりも深く、伊勢神宮領だった歴史もあり、流人の島だったこともある。そのあたりのことは、神社仏閣編のとき詳しく書きたいと思う。




島弘法と鯛のオブジェ

 高速船乗り場から表に出ると、いきなりひなびた雰囲気になる。船を降りてすぐ目の前にお土産物屋が並んでいた日間賀島とは出だしから大きく異なっている。この島は観光地然としていないというのが第一印象で、それはこの島をあとにするときまで変わらなかった。
 日間賀島がタコとフグの島なのに対して、篠島はフグとおんべ鯛の島をうたっている。
 御幣鯛(おんべたい)というのは伊勢神宮へ献上する鯛のことで、大昔から現在に至るまで、一年に3回(6月、10月、12月)、鯛を塩漬けにして伊勢神宮まで運んでいる。ただの贈りものとかではなくて、神事として行われているものだ。一度に奉納する数は160尾。毎年10月12日は伊勢神宮で御幣鯛奉納祭が盛大に行われる。
 以前は離れ小島で現在は埋め立てで地続きになった北端の中手島で、おんべ鯛が作られている。今回は時間なくてそちらまでは行けなかった。
「日本書紀」によると、倭姫命(やまとひめのみこと/日本武尊の叔母で天叢雲剣を与えた神)が、尾張から伊勢の各地を巡っているとき篠島に立ち寄って、ここの鯛が気に入って伊勢神宮に鯛を届けるようにと言いつけるとともに、この島を伊勢神宮領に定めたとされている。
 この道を前方に進むと、島の観光案内所の建物がある。もともとはパークゴルフ場のクラブハウスだったところを再利用していて、観光案内所とは思えないさびれ方をしている。案内所の文字も取れてしまってるから、一見すると廃屋かと見まがう。ミニゴルフ場でも作れば観光客も来てくれるだろうし、島民もやりに来てくれるんじゃないかという見込みは甘かったようだ。閉鎖されてから久しい様子だった。
 右に曲がって橋を渡った先には、篠島釣り天国がある。島が管理している海の釣り堀で、島内ではここが一番の人気スポットと言ってもいいかもしれない。周りは海なんだからタダで釣り放題だろうと思うとそうでもなく、手軽に釣りを楽しめるということで釣り堀に行く人も多いようだ。
 レンタサイクルを貸してもらえなかった我々は、徒歩で南下して、まずは東の海岸を目指すことにした。




家並み

 島のほぼ全域に人が住める日間賀島とは違って、篠島は山があって家を建てられるところが限られている。集落は主に北と中心部の2ヶ所で、北ゾーンは新しく開拓された部分のようで、きれいに区割りされた中に整然と民家が並んでいる。ここだけ見ると町中と変わらないくらいだ。一方の中心部は昔からの区域で、狭くて入り組んだ道の中に雑然と家が建っている。そのあまりにも対照的な光景には驚いた。これだけ家並みの様子が違えば、住んでいる人の気質も違ってくるんじゃないだろうか。
 この島も主に漁業で成り立っている。観光が占める割合は日間賀島よりもかなり小さそうだ。それでも、旅館や民宿は島内に約40軒あるというから、それなりに観光地でもある。
 一番はシラス漁で、組合の漁師の半数以上がシラス漁に関わっているとのことだ。愛知県で獲れるシラスの3分の1は篠島のものが占めている。ここではシロメと呼んでいるそうだ。
 トラフグ漁も盛んで、秋からは大漁旗をつけたたくさんの船が港から繰り出していく。新鮮なフグが安く食べられるということで、この時期は遠くからもフグ目当ての観光客がやって来るという。




島民たち

 島民の主な足はここでもやはりスクーターだ。みんな当然のようにノーヘルでビュンビュン飛ばしていく。日間賀島よりも道が広いから、こちらの方が車を運転するのは楽そうだ。
 海岸沿いを歩きながら、城山の下をぐるりと回る。右手は小高い山になっていて、かつて篠島城という城があった。平安時代以前に建てられた山城で、源平時代の城主・室賀左近太夫秋季は源氏方について、伊豆にいた源頼朝に平家の情報を流していたらしい。1180年に頼朝が初めて挙兵したときに自分たちも応援に駆けつけようとしたものの、戦には間に合わなかったのだとか。
 1338年、この島に一つの大きな出来事が起きる。南朝の後醍醐天皇の皇子である義良(のりよし / のりなが)親王(のちの後村上天王)が、東国へ向かう途中、遠州灘で暴風雨にあって難破して、この島に流れ着いたのだ。それはもう、島は大騒ぎとなり、舞い上がった。どうしたらいいかとみんなで相談した結果、篠島城を大急ぎで修理して、ここを仮住まいにしていただこうということになった。
 それから義良親王は迎えが来るまでの半年間を島で過ごすこととなり、親王の飲み水を提供するための帝井(みかどい)や、漂着した神風の浜など、そのときの名残が今でもいくつか残っている。
 篠島城はその後廃城となり、いつしか城山と呼ばれるようになった。現在は跡地に篠島水神社が建っている。遺構は何も残っていないようだ。
 どこからどう登っても厳しい坂道を歩かないといけなかったので、行くのは取りやめた。時間さえあれば見に行っていたところだから、残念だった。
 この道沿いにはたくさんのお地蔵さんが立ち並んでいる。島弘法と呼ばれるもので、漁や島民の安全を見守っているという。
 弘法大師をかたどったもので、全部で88体プラス何体かあるようだ。島ではこの道を弘法道と呼んでいるらしい。明治の末から大正のはじめにかけて、島民の寄付で整備された道ということで、島の人はみんな大事にしているんだとか。




海岸風景

 観光案内の人の話ではほんの15分くらいですよということだったのだけど、なんだかんだで30分くらいかかってようやく前浜海水浴場に到着した。けっこう遠い。
 日間賀島の海水浴場とは違って、ここは天然の砂浜だ。三河湾の外に近いところだから、海の水も砂浜もきれいだった。サンサンビーチと名付けられた砂浜が800メートルほど続いている。地元の人は前浜(ないば)と呼ぶそうだ。




海岸前

 島ではここらが観光の中心地ということになるのだろう。海岸の前におみやげ屋や民宿などが並んでいる。夏はここも海水浴客で賑わうはずだ。
 私たちが行ったときはまだ海開きの前ということで、泳いでいる人も遊んでいる人もいない静かな砂浜だった。ここで腰を下ろして、しばし潮風に吹かれながら休んだ。
 けど、あまりのんびりはしていられない。持ち時間は2時間で、最終の船を逃すと大変なことになる。先を急ぐことにする。




静波食堂跡

 静波食堂という名前がいい。営業していた頃はどんな食堂だったんだろう。海辺のハイカラ食堂だったのか、おばちゃんがやってる庶民的な店だったのか。




おみやげ屋

 浜辺から中に入っていくと、細い路地と古い家並みの集落地帯になる。その中には神社仏閣も集まっている。そのあたりの様子は、また次回まとめて紹介するとして、上の写真は突き抜けた先にある港のおみやげ屋さんだ。
 意表を突く派手な黄色い外観と、古めかしい店内とのギャップがすごい。かなりディープな感じでうかつには近づけなかった。写真も遠巻きに撮る。




店の様子

 及び腰で遠くから撮りすぎて店内がどうなっているか、これではよく分からない。勇気を出して店に入るべきだったか。どこかでおみやげを買おうと考えていて、まさかここしか選択肢がないとは思わなかった。この先であるだろうと思ったら、高速船乗り場までなかった。
 このおみやげ屋も、観光客相手よりも地元の人のための市場の性格が強いのかもしれない。場所的にもこちらまではあまり観光客が来ないと思う。




港風景

 地元漁師のための港は中心部の北側にあって、ここでもたくさんの船が係留されていた。
 港には3軒の造船所がある。昭和20年代までは10軒近くもあったというから、大したものだ。このあたり一帯の漁船を造っていたそうだ。これだけの船があるということはかなり売れるだろうし、修理の需要もあるだろう。ちょっとした漁船でも1千万円から数千万円するという。
 手前は学校帰りの中学生たち。島にはゲーセンもカラオケもファーストフードもない。みんな毎日何して遊んでいるんだろう。やっぱり家に帰ったらネットとかゲームとかしてるのかな。




駄菓子のハッピー

 島の少年少女に一番人気の店がここ、駄菓子屋のハッピーだ。日間賀島のめったに開いてないたこ焼き屋もハッピーだったけど、たぶん関係はない。
 私たちから見ると駄菓子屋というのは昔懐かしいもののリバイバルなのだけど、島っ子にしてみたらリアルタイムの御用達なのだろうか。少なくとも懐かしいという感覚で利用してるわけではないだろう。
 ハッピーを過ぎれば、もう見所らしい見所もなく、あとは高速船の乗り場に戻るだけだ。




船着き場前の広場

 少し時間に余裕があったので、港近くでぼぉーっとしてみる。二島めぐりはなかなかにくたびれる。
 今回は南エリアにはまったく行けなかった。展望台や歌碑公園、清正の枕石や神社仏閣など、あちらにこそ見るべきところが多いのに、どうにも時間が足りなかった。この島を一通り見ようと思えば、4時間くらいは必要だろう。自転車では登れないところもけっこうあるから、散策は自転車と徒歩の併用になる。やや本格的な山歩きも覚悟しないといけないようだ。
 篠島シリーズは、全3回になりそうだ。次回は島の路地と集落を中心にお届けする予定です。
 
 登って下って折れて曲がって篠島路地コレクション <第二回>
 

日間賀島でイルカにお触りをしてウハウハの大人たち <第五回>

水族館(Aquarium)
イルカ編-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di



 日間賀島初夏の呼び物として、イルカとのふれ合い体験イベントというものがある。毎年5月、イルカが島にやって来て、2ヶ月間をここで過ごしていく。
 始まりは1995年の夏。南知多ビーチランドにいるイルカの研究とトレーニングを目的として始められたものだった。日頃水族館の狭いプールにいるイルカを海で泳がせたらどういう反応をするか、それはイルカにとってよいことなのかどうなのか、囲いをした海で飼育展示する方法は可能なのかどうかといったことを見るためだったという。
 人間の考えでは、水槽よりも広い海の方が嬉しいに決まってると思いがちだけど、必ずしもそうではないようだ。イルカにもそれぞれ性格があって、海に出て喜ぶやつもいれば、逆にストレスを感じて弱ってしまうのもいるという。飼い猫を考えても、ずっと家の中で育った猫は外へ出ることを怖がる。あれと同じだ。危険な広い世界と安全な狭い世界と比べたら、安全な方がいいやつもいる。海に出したからといって単純にイルカの保養になるわけではない。
 毎年いろいろなイルカが交代に来ていて、南知多ビーチランドとしては一定の成果があがったということで、3年前から香川県のドルフィンセンターにバトンタッチされた。今年も去年に続いてメイちゃん10才とガッちゃん6才のメス2頭がやって来た。あんな遠いところから船で来たのかと思いきや、トラックに乗せて陸路で運んでいるそうだ。それは大変だ。
 外海には出られないものの、200メートル×100メートルほどの入り江の中を自由に泳ぎ回れるようになっている。ここは海水浴場でもあるので、海開きをしてからは人間との混浴になる。こんな海水浴場もめったにない。
 商売用に呼んでいるわけではないイルカたちだけど、ふれ合い体験のプログラムが用意されている。それには3段階あって、見学だけなら400円、生け簀でのタッチとエサやりは1,000円、一緒に海に入って泳ぐと2,000円という料金体系になっている。なんとなく怪しい商売みたいだな思っても口にしてはいけない。これは健全なプログラムなのだ。
 各コース1時間ごとに交代であって、午前、午後とそれぞれチャンスがある。休日などで人が多いときは定員制となるから、見られないことも出てくるかもしれない。私たちは生け簀でのタッチ&エサやりコースを選択した。このときは貸し切り状態だった。こういう体験ものは事情が許すなら平日に限る。
 上の写真はトレーナーさんがイルカを呼び寄せてトレーニングをしているところだ。これを見るのは無料だから、お金の心配はしなくていい。イルカを見た瞬間に400円を取られてしまっては、海から目を背けて歩かなくてはいけなくなってしまう。

イルカ編-2

 望遠レンズでイルカとトレーナーさんに迫ってみる。結局、この日望遠を使ったのはここだけだった。もう少し鳥とか撮るものがあると思ったけど、出番がなかった。冬場に行けばたくさんの渡り鳥たちがいるに違いない。
 水着を持っていけば、こんなふうにして海の中でイルカとふれあうことができる。ただし、その場合、写真を撮ることができないという難点がある。このためだけにデジの水中ハウジングを買って持っていくというのは贅沢な話だ。元々持っているなら持参するといいと思う。これだけ至近距離からイルカの水中写真を撮れるチャンスはめったにない。

イルカ編-3

 トレーナーさんに案内されて特設生け簀会場へとやって来た。早速イルカたちが出迎えてくれる。おー、賢いぞ。水槽の仕切りなしでこれだけ近くから見ることも初めてだ。
 それはいいのだけど、踏ん張るための足場が危うくて、うっかりすると海に落ちそうになるので焦った。手を伸ばしてイルカを触りたいし、右手に一眼のデジを持っているし、水しぶきはかかるしで、忙しいったらない。舞い上がって我を失いそうになる。海に落ちてもこの時期だから自分は平気でも、デジは即死だ。笑い話の思い出では済まない痛手を負うことになる。
 イルカプログラムのときは、あまりいいデジやレンズは持っていかない方がいいかもしれない。あとから考えたらここだけはコンパクトデジでもよかったのだ。写真がメインじゃなくてタッチが目的なんだから。荷物は事務所で預かってもらえる。

イルカ編-4

 大きな口を開けて威嚇しているわけではない。挨拶をしてくれているところだ。控えめに伸ばそうとしている私の手がちらっと写っている。最初はちょっとおっかなびっくりだった。
 バンドウイルカの歯は何本くらいあるでしょうという質問に80本くらいと答えたら、ほぼ合っていた。だいたい70本から100本くらいの間だそうだ。個体差が意外と大きい。
 イルカも魚などを食べる肉食性ではあるけど、サメのような歯は持っていない。獲物に食いつくという捕食ではなく、基本的に魚は丸呑みだ。このエサやりのときも、魚を差し出しても自分から食いつくということはなかった。放り込まれるまで口を開けて待っていて、入ってきたものを飲み込んでいた。
 イルカは言うまでもなく、ほ乳類で、肺呼吸をしている。頭の上に呼吸をするための穴を持っていて、そこから空気を吸い込んで肺で呼吸をする。呼吸の周期は40秒くらいだそうだ。呼吸のとき、ここからプシューと海水を噴き出すので気をつけないといけない。満面の笑みでイルカを眺めていると、顔中イルカの吹いた塩水だらけになってしまう。顔をびちゃびちゃにしながらにこやかな大人は格好悪い。
 海の生き物とはいえ、海水ばかり飲んでいると死んでしまう。イルカも人間と同じように尿で水分が出てしまって脱水症状を起こすことがあるという。水分は食べた魚から摂取する仕組みになっている。

イルカ編-5

 おさわりメニューは、体の各部位で、頭だけでなく、背中やおなか、胸びれや背びれ、尾びれをそれぞれ触らせてくれる。トレーナーさんの合図でヒレを差し出したり、おなかを見せたりするイルカの賢さをあらためて知る。全部分かっているようだ。
 体はどこもツルツルした感覚で、思った以上に固い。もう少しぷにゅっとした感じかと思ったら、ぐっと押してもへこまないくらいの固さを持っている。魚とはまったく違う質感だ。
 ヒレは脂肪でできている。骨が入っているヒレは胸びれだけで、背びれや尾びれには骨がない。胸びれには人間の手に相当するような5本指の骨が入っている。
 目はよく見えているようで、色も感じているのではないかと言われている。特に水中での動体視力に優れていて、空中ではぼやけてよく見えていないらしい。人間とは逆の感じだろうか。

イルカ編-6

 私とツレと、エサをあげているところ。エサは何だったか。聞いたような気がしたけど忘れてしまった。アジだったか。
 もっと手を伸ばしてやりたいのだけど、片足で支えて踏ん張っているだけだから、これ以上乗り出すと身の危険があって伸ばせない。右手にデジを構えた窓の下のロミオみたいになっている。あとから腹ばいになっている小学生の写真を見て、あれをやればよかったんだと気づいた。そうしたら落ちる心配もなくなるし、イルカとももっと近づけた。あそこで腹ばいになっている大人はいないかもしれないけど。

イルカ編-7

 次にふたりには歌を歌ってもらいましょうとトレーナーさんが言った。え、歌は私苦手なんですけと断ろうとしたら、歌うのはイルカの方だった。そういうことか、早合点して歌い出さなくてよかった。どうしてもと言われたら、なごり雪でも歌おうと思ったのに。
 イルカの歌声というか鳴き声をどう表現したらいいか難しい。空気孔から声を出しているのだそうだ。
 イルカが音声でコミュニケーションを取っているのは有名な話で、もう一つ、水中で音波を発してソナーのような使い方もしていると言われている。コウモリが超音波で世界を認識するように、イルカは音で海の世界を捉えているらしい。いわゆるエコー・ロケーションというやつだ。光が差さないときの海中は暗いから、視力だけでは限界があるのだろう。
 ついでにイルカの生態などについて少し書いておこう。
 イルカとクジラはまったく別のものと思っている人が多いかもしれないけど、両者は本質的に同じものだ。体の大きさで区別されているにすぎない。人間の分類なんてそんなもので、ワシとタカもそうだ。だいたい4メートルを超えるものをクジラといって、それ以下のものをイルカと称している。ただし、例外がいくつかあって、3メートルくらいのコマッコウやゴンドウクジラがクジラに分類されたりなんてこともある。ベルーガは別名シロイルカとも呼ばれるけど、これは5メートルを超えるから分類上はクジラとされる。
 最大のクジラはシロナガスクジラで、非公式ながら30メートルを超えるものもいたと言われている。25メートルプールに入りきらない大きさだ。
 イルカの種類は50種類弱とされている。中には川や汽水に生息するものもいる。
 イルカは賢い生き物だと昔から言われてきた。実際、体重に占める脳の割合は人間に次いで2番目に大きいことが分かっている。頭が大きい人が賢いとは限らないけど、脳が大きいというのはそれだけ有利には違いない。賢いといっても人間とは別の種類の賢さだから、比較する方が間違いなのかもしれないけど。
 常に泳ぎ続けているイルカは、かつて眠らない生き物と思われていた。しかしそれは間違いで、イルカは右脳と左脳を交互に休ませて眠っているということが分かった。左脳を眠らせるときは右目を閉じて、右脳のときは左目を閉じる。大変な特殊能力だ。確か、ドクター中松もそれができると言ってたけど、たぶんウソだと思う。
 イルカを漢字で書くと海豚になる。これは中国から入ってきた漢字をそのまま採用したからこうなった。向こうではイルカは海の豚に見えたらしい。日本語のいるかという呼び方の語源は様々な説があってはっきりしていない。個人的には入り江に入ってくる魚みたいなところから転じていったのではないかという気がする。
 イルカは現在でも近海にけっこういて、イルカの仲間のスナメリなどは三河湾にもたくさんいる。あのあたりを船でいくと、ちょくちょく見られるという。
 鳥羽の先にイルカ島というのがある。元は日向島(ひなたじま)という島で、今はイルカなどがいるレジャー施設になっている。

イルカ編-8

 一通りのタッチと歌が終わったところで、プログラムの締めくくりはジャンプの演技だった。近い、近い。近すぎてカメラに収まらなかった。けど、こんな至近距離でジャンプを見られるのも、ここならではだ。
 思った以上に楽しい体験だった。プログラムは10分くらいで、瞬く間に過ぎてしまった。これは絶対にいい。子供よりも大人の方が楽しめるんじゃないだろうか。子供にはこの体験の貴重さがよく分からないはずだから。
 今年は7月15日までだから、残りわずかとなった。機会があればぜひ行って、イルカとのふれ合い体験をしてみてください。
 しかし、イルカは大変だろう。保養に来ているはずの島で、人間の相手をしなくちゃいけないとは。ストレス解消のはずがかえってストレスにならないといいけど。
 どうもありがとう、メイちゃんとガッちゃんとトレーナーさん。最後まで無事に過ごして、元気になって香川に帰ってくださいね。また来年の初夏も来られるように。

日間賀島はリアル「ぼくのなつやすみ2」の世界だ<第四回>

観光地(Tourist spot)
スクーターと軽トラ

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 日間賀島本編が終わって、あらためて残っている写真を見てみたら、けっこう枚数があった。イルカのネタもあるのだけど、その前に日間賀島写真を出し切ってしまうことにした。もう一度行けるかどうか分からないところだから、撮ったものは全部でも出しておきたい。たとえば10年後、20年後にもう一度訪れたとき、島の風景はどんなふうに変化しているのかの確認にもなる。
 西港はこうして見ると、やっぱり賑やかだ。観光地の表玄関という風情がある。東港はずっと寂しい。20年くらい前までは、ここもひなびた港風景だったそうだ。日間賀島が観光地として目覚めたのは意外と最近のことで、ホテルや民宿が激増したのも平成に入ってからだ。それまでは、釣り客かよほどの物好きくらいしか訪れる人はいなかったという。
 観光地化して島の暮らしもいろいろ変わったことだろう。いいことばかりではないにしても、日間賀島の存在が一般に知られるようになったのは悪いことではないと思う。人でも、街でも、島でも、人に注目されないということは寂しいものだから。



看板と街灯

 この日は晴れたり曇ったり、日差しが強くなったり弱くなったりと落ち着かない空模様だったのだけど、ときどき気持ちいい青空を見せてくれた。島にはやっぱり青空がよく似合う。
 島には日差しを遮るところが少なくて、しっかり日に焼けてしまった。腕や顔は真っ赤な茹でタコ状態になった。



黒塀の家

 塗り色で心惹かれるのは、神社の朱塗りと家の黒塗りだ。単純に言ってしまえば好きということなんだろうけど、もう少し心の深いところが反応しているのを感じる。見ると妙に嬉しくなる。
 黒塗りの家は、子供の頃から田舎で見ているからというのもあるかもしれない。だから、懐かしさもある。ただ、黒塗りの松本城もすごくいいと感じたから、何か遠い過去の記憶と関係していたとしても驚かない。



細い路地の風景

 この島で車を運転する自信はない。どう見ても対向車とすれ違えそうにないけど、どうしてるんだろう。これでは3ナンバーの車は走れないし、バスなどまるで無理だ。アップダウンも厳しいし、お年寄りにとっては大変だろう。乳母車を押しながら歩いていたら、坂道で転げ落ちていってしまいそうだ。
 島の人は慣れたもので、こういう道をスクーターでビュンビュン飛ばしていく。島の中の移動手段としては、スクーターに勝るものはない。



路地と畑の島風景

 私が路地好きで細い道ばかりを選んで通っているわけではない。この幅が島の標準なのだ。外周だけが車が楽に走れる車幅で、内部はすべてこんな道が入り組んでいる。路地好きにはたまらない。
 側溝にフタがされてないのもちょっと怖いところだ。うっかり油断してると落ちそうになる。



青いペンキが塗れた家

 島では珍しいオールドモダンな感じの建物があった。といっても、洋風建築とかではなく、単にライトブルーのペンキを塗っただけなんだけど。かなりペンキがはげてきて、ところで普通の日本家屋の地が見えている。塗り立てのときは、けっこうハイカラな感じに仕上がっていたんじゃないだろうか。

コンクリートの建物

 住宅やアパートのたぐいはほとんどない。これは島では珍しい建物だ。
 大部分が一軒家というのも、考えたらすごいことだ。ひとり暮らしの人が少ないということでもあり、よそ者もほとんどいないということだろう。
 島にマンションがあったらおかしいといえばおかしいけど、そういう需要はまったくないのだろうか。よそから引っ越してきた人は、みんな一軒家を借りたり、建てたりしてるのかな。



海沿いの広い道

 大光院から降りてきた東港の近くで、10人くらいのお遍路さんのグループと行き違った。お経が聞こえていたのは、この人たちだったか。
 四国まで行くのは大変だから、日本各地に地元の八十八ヶ所が作られている。知多もその一つだ。
 中には1番豊明の曹源寺から88番大府の円通寺まで、何回もめぐっている人もいるんだとか。


低い空を飛ぶトンビ

 トンビがたくさん舞っていて、一時はかなり近くまで降りてきていた。首をくいくい動かしながら下をうかがっていたから、何か手に持っていたら見つけて食いついたんじゃないだろうか。



岩場に咲くアジサイ

 島の岩場に植えられたアジサイというのも一風変わった風情だった。
 島に自生している花というのは多くなさそうだ。未開拓の土地が少なくて、空き地もあまりないから、ありふれた野草というのもほとんど見かけなかった。その分、島の人があちこちにいろいろな花を植えて育てている。季節の花はどうなんだろう。桜の名所とかもあるんだろうか。



おみやげ屋の干物とか

 おみやげはやっぱりタコや干物関係が多い。私は今回買わなかった。荷物が多かったのと、このあと篠島へ行くから重たいのは大変ということもあって。買うとしたら、タコ入りの海苔を買いたかった。ごはんですよの本格的バージョンみたいなやつ。



ソフトクリーム

 島の一周を終えて、ちょっと一服。
 ソフトクリームは、バニラと抹茶の二者択一だった。チョコではなくあえて抹茶にしたのは、やはり訪れる観光客の年齢層に合わせたのだろうか。ソフトは美味しかった。



帰りの船

 午後3時半くらいの船に乗って篠島へ向かった。日間賀島での滞在時間は約4時間。そんなにいたとは思えないほど、短く感じられた。それだけ楽しかったということだろう。
 日間賀島ってどんなところだったと訊ねられたら、なかなかいいところだよと答えるだろう。このなかなかという言葉のニュアンスを伝えるのは少し難しい。すごくいいところだったよとは、あえて言いたくない。
 自然と島の人情に触れてのんびり島時間を過ごしてみませんかみたいな、ありきたりの宣伝文句はこの島には似合わない。実際そんなに情緒のあるところではない。
 それじゃあ、俗っぽい観光地かといえばそうでもなく、島側から観光客に対しての干渉は必要最小限にとどまっていて、過剰な演出などもない。遊び場らしい遊び場が用意されているわけでもなく、観光客を呼ぶための特別な目玉があるわけでもない。かといって、手つかずの自然が残る島というのとも違う。
 悪く言えば中途半端で何もないところなのだけど、そこがこの島のよさでもある。何もないけどなんとなくいいのだ。スケール感の良さというのもある。広すぎず、狭すぎない。遠すぎず、近すぎない。
 ふと思ったのが、この島は夏休みの少年少女が子供だけで訪れて、小さな冒険をするのに最適なところじゃないかということだった。親に渡された手書きの地図を持って、初めて船に一人で乗って、初めて一人で離島を訪れ、一日島で遊んで過ごす。そこにはきっと、たくさんのワクワクとドキドキがあって、いい思い出になる。小さな島だから迷子になったところでたいしたことはないし、未開の森といった危険な場所も少ない。子供の足で歩いても2時間か3時間で一周できる。どこへ行っても民家や店がある。
 島に一人降り立っても、たぶん、最初は何をしていいか分からないだろう。でも、何をしてもいいと分かれば、そこには冒険がある。海で遊んでもいいし、セミ捕りをしたり、迷路のような集落を駆け回ったり、島の子供と友達になってもいい。そうか、ここはPSの「ぼくのなつやすみ2」の世界なんだと気づいた。
 大人にとってもこの島というのは、日常と非日常の微妙な距離感の良さなんじゃないか。まったくの非日常でもなく、日常でもない。それはちょうど、夏休みに遊びに行く祖父母や親戚の家といった距離感に近いのかもしれない。すべての島がそうなのではなくて、隣の篠島ではまったく違った印象を持った。だからこれは、日間賀島特有の感覚なんだと思う。
 もちろん、人によって感じ方は様々なのだけど、私にとっての日間賀島はそういうところだった。一期一会になるのか、また何年後かに訪れることになるのか、いずれにしても忘れがたい思い出として私の中にずっと残っていくことだろう。

誰も誉めてくれないけど日間賀島の神社仏閣を全制覇した<第三回>

観光地(Tourist spot)
日間賀島神社仏閣編-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 日間賀島へ遊びに行って、島の神社仏閣を全制覇しようという人はあまりいないと思う。お遍路さんでも全部は回らない。しかし、我々は回った。余すところなく。今日はそのときの様子を、一気にまとめて紹介しようと思う。
 日間賀島は6~7世紀の古墳もたくさん見つかっていることから、古くから人が住んでいた島だということが分かる。だから、狭い島の割に神社仏閣の密度が濃い。神社が2つ、寺は5つもある。人口が多いから、寺もそれなりに成り立っているのだろうとは思う。
 寺はそれぞれ入り組んだ内陸部にあるので、ちょっと大変だ。効率よく回るということもできないから、地図を頼りに地道に回っていくしかない。途中で場所を訊ねたら耳が遠いおばあさんで助けにはなってくれなかった。そこまでムキになって制覇する必要があるのかという疑問もわき起こってくるのだけど、こういうものは行きそびれるとあとあと気になるものだから、なるべくなら残さない方がいい。
 寺は多くが東の集落に集まっていて、西には神社と寺が1つずつしかない。まずは北東の外れにある西の氏神様、八幡神社からいってみよう。

日間賀島神社仏閣編-2

 社は民家風になっていて新しい。すべてがこぢんまりとしていて、なんとなく神社のミニチュア版みたいな印象を受ける。摂社や末社もあるから、神社の規模としてはそれなりのものなんだろうけど。
 ここには禰宜(ねぎ)さんもいるようだ。何しろ船が多いところから、進水式やら季節ごとの漁の前やら祝詞をあげないといけないことが多いから、けっこう忙しそうだ。たぶん、常駐だろう。
 毎年7月の第二土曜日には祇園祭りがある。昼の部では船形の山車を引き回し、夜は海の安全と豊漁祈願として365枚の素焼きの大皿「ほうろく」に火を付けて海に流す、ほうろく流しを行う。

日間賀島神社仏閣編-3

 お社の中をのぞき撮り。
 海のすぐそばだし、晒しているとすぐに痛んでしまうから、こうして中にしまい込んでいるのかもしれない。
 祭神は海の神様の大錦津見命だそうだ。

日間賀島神社仏閣編-4

 西にあるお寺、長心寺へとやって来た。
 ソテツ?
 ヤシじゃないと思うから、やっぱりこれはソテツか。寺に入ったとたん、突然南国ムードになってちょっと戸惑う。このあと、島の寺のほとんどでこのソテツを目にすることになる。日間賀島の寺はどういう理由か分からないけどソテツがつきもののようだ。九州以南では自生するというけど、まさかここで自生でもあるまいから人が植えたものだろう。島の風土で育ちやすい木ということで選ばれたんだろうか。

日間賀島神社仏閣編-5

 これが弁天堂か。とすると、本堂が阿弥陀堂だろうか。十王堂というのもあるらしい。
 それか逆か。本尊が弁財天を祀った弁天堂かもしれない。
 寺としては安産の神様として信仰されているとか。
 詳しい歴史や由来についてはよく分からない。

日間賀島神社仏閣編-6

 東に向かう途中の高台あたりにあった鳥居。地図にも載っていなくて正体は不明。石碑の文字からすると、戦争関係のところか。

日間賀島神社仏閣編-7

 安楽寺へ行こうとして道に迷った。この先行き止まりという注意書きに従って道を折れて下ったら、呑海院(どんかいいん)に着いてしまった。別に順番は決まってないのだけど、自転車での登りが無駄になった。神社仏閣へといざなう案内標識のようなものは一切ない。島内の何ヶ所かに、小学生が手書きで描いた地図があるのだけど、だいぶ古びていて現在位置も記してない。島の様子は分かっても、今自分がどこにいるのかが分からない。

日間賀島神社仏閣編-8

 曹洞宗龍松山呑海院。本尊は延命地蔵大菩薩。
 弘法堂の中には、鯖(さば)を持った修行中の弘法大師を彫った鯖大師像がある。全国にはいくつかの鯖大師像があるそうだ。
 南知多五色観音の一つでもある。
 忠臣蔵に詳しい人なら大高源吾の名を知っているだろう。伝説なのか史実なのか、日間賀島では大高源吾はこの島で生まれ育ったという話になっている。この呑海院には、大高源吾のへその緒塚というものが建っている。
 一般に大高源吾は赤穂(兵庫県)で生まれたとされている。日間賀島の話では、志を抱いて江戸に出て行く途中の天竜川で、大名行列の殿様の陣笠が風に飛ばされて川に落ちたのを見て、速い流れをもろともせず飛び込み泳いで陣笠を拾ったところそれが赤穂藩で、こいつは見込みがあるということで仕官することになったのだという。
 まったく縁のない人間をつかまえてやつはうちの島出身だと言い張ることはないだろうから、実際に日間賀島生まれだった可能性はある。
 討ち入り前は大石内蔵助の信頼も厚く、赤穂、大坂、京都、江戸と同士の間を駆け回った。俳句の才があり、子葉と名乗り、吉良邸の動向を探るために茶の湯の四方庵宗遍に弟子入りして、討ち入り当日の12月14日の夜に吉良邸で茶会があることを突き止めたとされている。討ち入りでも活躍したと伝えられている。
 討ち入り後は松平隠岐守預かりとなり、浪士10人の最後に切腹して果てた。そのときの一句が、「梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山」というものだった。享年32。
 墓は大阪中央区の薬王寺にある。

日間賀島神社仏閣編-9

 苦労してなんとか辿り着いた安楽寺。日間賀島小学校から真っ直ぐいけば着いたはずなのに、なんでこの先通行止めという注意書きがあったんだろう。あれは車のことだったのか。
 日間賀島がタコの島となったのは、この寺が由来になっている。
 あるとき島で大地震が起こり、日間賀島と佐久島の間の大磯にあった筑前寺が海の底に沈んでしまった。せめて本尊だけでも救い出そうとしたがいくら探しても見つからない。あきらめかけていたとき、タコ漁をしていて捕まった大ダコが阿弥陀如来像を抱いていた。これを章魚阿弥陀如来(たこあみだにょらい)として祀ったのが安楽寺の始まりで、日間賀島はタコを大事にするようになったのだという。
 そんな大事なタコを獲って食っちゃいけないような気もするけど、自然の恵みのタコをありがたくいただくという気持ちがあればいいのかもしれない。正月三日に日間賀神社で作られた干しダコが毎年ここに奉納されるそうだ。

日間賀島神社仏閣編-10

 けっこう古そうな本堂だ。その前にソテツがやっぱりいる。
 阿弥陀堂はどれだろう。本堂なのか、隣のものなのか。そこに安置されている阿弥陀如来座像は鎌倉時代末期の作だそうだ。
 普通、七五三などは神社でするものだけど、ここではお寺参りをする習慣があるらしい。

日間賀島神社仏閣編-11

 ここにも鯖大師というのがある。呑海院と関係があるんだろうか。
 石碑には毘沙門天の文字が見える。
 ここに関しては、詳しいことは調べがつかなかった。

日間賀島神社仏閣編-12

 大光院に着くと、入り口から入ってすぐのところでみやげ物屋があって、干物いかがですかという呼び込みをされてしまった。かなりひるむ。堂からはお経をあげている声が聞こえてきて、なんとなく入りづらくなって、入り口で引き返してしまった。ここだけそれまでとは雰囲気が違っていた。
 帰ってきてから調べたら理由が分かった。ここは知多半島一帯にある知多新四国八十八ヶ所の一つで、お遍路さんがやって来る寺だったのだ。だから、門前のみやげ物屋などがあって、中からお経が聞こえたのだ。そういうことだったんだと納得したのはいいけど、ある意味では日間賀島で最も見ておくべき寺を見逃したという後悔も感じることとなった。創建は飛鳥時代というから、それだけでも見ておく価値はあった。ちょっと失敗した。
 725年、行基によって創建され、1691年に再興されたという。
 ここの境内から、風が強い冬の日に、富士山の頭の白い部分が見えることがあるという。

日間賀島神社仏閣編-13

 西の八幡神社から始まり、東の日間賀神社で締めくくるというのは、収まりがいい。
 ここも由緒などはよく分からない。境内の裏手から古墳が発見されているから、かなり古くからあったのだろう。
 石碑にある村社というのは神社の社格のことで、上から府社、県社、藩社、郷社、村社、無格社となっている。式外というのは、延喜式神名帳に載っていない神社ということだ(載っているものを式内社という)。

日間賀島神社仏閣編-14

 島の神社は神社らしい格好をしてない。これもパッと見は本殿には見えない。扉を開けて、やっぱりそうだったんだと初めて分かったくらいだ。

 これで日間賀島の神社仏閣はすべてのはずだ。少なくとも地図に載っているものやネットに情報が出ているものに関してはすべて回りきったと思う。大光院は心残りだけど、自分の中では完結感がある。島民の人でも全部回っている人はそれほど多くないんじゃないか。回ったからといって特に自慢になることでもないけど。
 シリーズ3回目にして早くも私が紹介できる日間賀島のネタは尽きた。あとはイルカとのふれあいの様子だけだ。番外編としての写真も少し残っているか。
 今日、日間賀島の総括をしようかとも思っていたけど、また次回イルカのあとにする。島で感じたことや、日間賀島に対する思いはそのときまとめて書こう。
 ということで、今日のところは神社仏閣紹介で、ここまでだ。

日間賀島で唯一のものをあれこれ紹介してみる<第二回>

観光地(Tourist spot)
波打ち際の砂浜

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 日間賀島を南の島のリゾート地のように思っていくと、それは間違いだ。地図を見ても分かるように、知多半島からそれほど離れていない三河湾の中にある島だから、海の水も素晴らしくきれいといったようなことはない。内海海岸よりはきれいだとしても、海だけなら伊良湖の恋路が浜の方が上だ。あちらは外海だから、きれいでもあり荒々しさもある。
 ただ、海のシーズンがまだ始まっていないということで、海岸にはゴミ一つ落ちてなくて気持ちがいい。今の時期はイルカがやって来ることもあって、海の中も海岸もきれいな状態を保っている。海水浴シーズンになればこうもいかないだろう。
 この島にはもともと海水浴場となるようなきれいな砂浜があったのかどうかよく知らない。西と東にそれぞれ西海水浴場と東海水浴場という二つの砂浜があるのだけど、これは人工っぽい感じがする。完全に作ったものではなくても、きれいな砂を運んできて、砂浜を広くしたのかもしれない。西はサンセットビーチ、東はサンライズビーチという愛称もつけられている。
 西と東と海岸の近くに船着き場があって、高速船はどちらにも寄港する。西の方が民宿やみやげ物屋などが多くて賑わっているから、こちらが表玄関ということになるだろう。



路地の風景

 島の大雑把な配置としては、真ん中の高台に小中学校などがあって、西と東の海岸近くの低い場所に民家が密集した格好になっている。
 この西と東というのも日間賀島のキーワードで、島の中でも対立とまではいかないにしても西の者と東の者という区別のようなものはあるのかもしれない。たとえば、西の端にある八幡社は西の集落の氏神で、東端には日間賀神社がある。小さな島で西も東もないだろうというのはよそ者の発想で、狭い中だからこそエリア間の違いみたいなものがあるような気がする。2,200人といえば大きな私立高校の生徒数よりも多いから、全員と知り合いになるということはないんじゃないだろうか。
 島の外周をぐるぐる回っていても、素顔は見えてこない。神社仏閣を巡りながら、奥へ奥へと入っていってみよう。
 道はとにかく狭くて、上り下りがあって、入り組んでいる。密集して家を建てるのは風よけの意味もあるそうだけど、この島は面積の割に人口が多いということもある。
 案内マップには、ミコノス島みたい、と書いてあるけどそれはちょっと言い過ぎかも。



干物の風景

 少し中に入っていくと、観光地から生活圏のエリアに変わる。民家があり、個人商店があり、店先では干物を作ったりしている。こういう島らしい光景が見たかった。
 この干物作りは面白くて、横から扇風機の風を当ててカゴがクルクル回転する仕組みになっている。そうすることで均等に日が当たって、風にも吹かれていい感じに仕上がるのだろう。
 それにしても、ひっきりなしにスクーターが通りすぎていく。ノーヘルでラフな格好をしてる人ばかりなので、何をしている人たちなのかよく分からない。



島の白黒猫

 島といえば猫がつきものだ。この日もあちこちで目にした。港でたくさんの猫が寝そべっているといった風景には出会えなかったけど、民家の近くで半ノラ半家猫としてのんびり暮らしている姿があった。
 天敵のスクーターにさえ気をつければ、ここは住みやすいところだろう。余った魚とかもらえるだろうし、ときどきは干物とかタコとかを盗み食いしてそうだ。



狭い路地裏

 地図を見てもどこがどこにつながっているのかよく分からなくて、何度か道に迷った。ここはつながってないだろうというところがつながっていたり、うっかりしてると民家の庭に入り込みそうになる。なかなか手強い。島の道を把握するためには一日や二日ではとても足りない。
 黒板張りの家が多いのは、潮風から守るためだろうか。スクーターも車も、サビがきているものが多かった。潮風はいろいろよくないこともあって大変だ。



高台からの眺め

 高いところに登ると、遠くに海が見える。
 左にはちょっとした畑がある。農業で生計を立てるのは難しいだろうから、個人で食べるものを何か栽培しているのだろう。田んぼができるような土地はなさそうだ。



たこ焼きのはっぴー

 島で唯一のたこ焼き屋。めったに開いてないというから期待してなかったけど、やっぱり開いてなかった。
 タコが名物の島なんだから、もっとたこ焼き屋があってもよさそうなのに、島でたこ焼き屋は流行らないか。
 船着き場の近くのおみやげ屋でたこ焼きを売っていたから、それなりに需要はありそうだけど。



ヘルメットの注意

 やはりヘルメットはかぶらなければいけないという自覚はあるようだ。
 スクーターのヘルメット着用が義務づけられてから、かれこれ20年くらいになる。シートベルト着用もこの島では定着しそうにない。



駐在所

 島でただ一つの警察機関は、交番ではなく駐在所だ。交番が2人以上の交代制なのに対して、駐在所は警官が一人という点に違いがある。家族単位で赴任してきて、住居は兼用になっている。一般的に、お巡りさんというより駐在さんと呼ばれることが多い。
 地域への密着度が高く、巡査長や巡査部長が勤める。日間賀島の駐在さんも、一人で2,200人の島民を把握して、安全を守っている。なかなか大変そうだけど、事件や事故の少ないところというから、平和な島ではある。
 駐在さんの悩みの種は、道が入り組んでいて観光客に口頭で道案内するのが難しいこと、だとか。
 灯台風のモニュメントには、「めざせ 無事故 無違反 夢の島」というスローガンが書かれている。
 ここから少し入ったところには、島で唯一の診療所がある。島での暮らしはいろいろ不便な点も多いだろうけど、こういう基本的なところに関しては揃っている安心感はある。歯医者もあるようだ。
 郵便局は、島の東と西に一つずつある。銀行は見なかったけど、どこかにはあったのだろう。



道行く島民

 東港近くまで降りてきたところ。
 左に積み上げられているのがタコ壺だと思う。いろいろな形のものがあるようだ。
 日間賀島やタコ漁などについて知りたい場合は、日間賀島資料館へ行くのが手っ取り早い。今回は時間の関係もあって省略してしまったけど、一見の価値はありそうだ。



信号機のある風景

 東港前の交差点には、島でただ一つの信号機がある。港に出入りする車と、島の外周を走る車が交差するところだから、ここくらいは信号機が必要だろうという判断だったようだ。
 直進は黄色の点滅で、横は赤の点滅になっているけど、誰も徐行したり一時停止したりしてない。ここは見晴らしのいい場所だから、それほど危険ではないか。
 西港の前にあったタコのモニュメントがここにもある。同じものかと思ったら、こちらは左手を挙げている。あっちは右手だった。芸が細かい。

<追記>
 実はこの信号機、実用本位に設置したものではなく、小学生が信号機というものを学習するために作られたものだったということが分かった。膝を打つとはこのこと、なるほどそういうことだったのかと深く納得した。
 島で育った子供たちが島を出て行ったとき、信号というものを初めて見るというのではかわいそうという親心だったのだ。けど、本土の信号機は点滅などしてなくて、赤から青に変わり、青から黄色、そして赤に変わるんだということをしっかり教えてあげないといけない。それから、スクーターに乗るときはヘルメットをかぶって、車に乗るときは運転者だけでなく助手席も後部座席もシートベルトをしなくてはいけないということも教えてあげる必要がある。



ガソリンスタンド

 島で唯一ではないだろうけどガソリンスタンド。ここでの商売は基本的に独占企業だから、ガソリン価格は割高になるのだろう。運んでくる手間もかかる。もし高くても、遠くまで入れに行くということはできない。カーフェリーで知多半島までガソリンを入れにいったら、えらい高くついてしまう。
 がめつく儲けるつもりはなくても、最近はスタンド経営も厳しい。勝手につぶれるわけにはいかないからつらいところだ。誰か一人はスタンドを経営しないと、島のスクーターが動かなくなる。競争がないからいいというわけでもない。



スクーター風景

 最後は、日間賀島を象徴する一枚で、本編の締めくくりとしよう。
 島の魅力をまだ伝え切れてないのが心残りなのだけど、本編として紹介できるのはこれくらいだ。あとは神社仏閣とイルカ編が残るのみとなった。
 昼間数時間の滞在では、撮りどころの少ないところではある。せめて夕焼け時間までいられれば、もう少しドラマチックなシーンも撮れたんだろうに。高速船の最終が6時前ということでは今の時期はまだ日が高い。写真重視ということで訪れるなら、冬場の12月くらいがよさそうだ。そのときなら干しダコ風景も見られるし、船の最終前に夕焼けを撮ることもできる。集落の中を散策するときは、自転車よりも歩きの方がよさそうだ。
 3月にはジョギング大会、5月には自転車大会、夏の祭りや、9月の奉納相撲、潮干狩りに底引網漁体験などのイベントものに合わせて行ってもいいかもしれない。
 手軽な離島体験ができるという一点だけでもおすすめできるところなので、愛知近隣の方はぜひ一度訪れてみてほしいと思う。