
PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / TAMRON 70-300mm f4-5.6 Di
2008年の夏旅第一弾は日光だった。
日光シリーズ第一回は、明智平(あけちだいら)から始まる。
東武日光駅からバスに乗って約35分、上り専用道路の第2いろは坂を登り切ったあたりに明智平はある。標高は1274メートル。レストハウスなどのあるドライブインにもなっているため、車で訪れた人が休憩を兼ねて展望を楽しんでいく場所でもある。
気をつけなければいけないのは、いろは坂は上りと下りがそれぞれ一方通行になっていることだ。明智平へ行くなら中禅寺湖へ向かう行きに寄っておかなければいけない。中禅寺湖へ行ってから帰りに明智平も寄っておこうと思っても行けないから。
もともといろは坂はカーブが48あって、いろは48文字にたとえいろは坂と名づけられた。それが昭和29年(1954年)に道路が大幅に改修され、一時期カーブは少なくなっていた。その後、交通量が増え、昭和38年(1965年)にもう一本の道が作られることとなり、そちらを上り専用とし、元からあった方を下り専用とし、あわせてカーブを48として、再び48カーブを持ついろは坂に戻ったのだった。それぞれのカーブには、いろは48文字が名づけられて看板が出ている。
下から山頂までは標高差が500メートルほどあるので、これくらいつづら折りにしないと車は登っていけない。

これはドライブインの駐車場から見た眺めで、見えているのは男体山(なんたいさん)だ。日光の歴史はこの山から始まったと言ってもいい。
日光というと、徳川家康が死んで東照宮が造られるまでは何もないところだったと思っている人も多いかもしれないけど、日光の歴史はもっと古く、関東有数の霊山として昔から信仰の対象となっていたところだった。
この山に初めて正式に登ったのは、僧の勝道(しょうどう)という人だった。何度も挑戦しては失敗し、ようやく登ることに成功したのは、初挑戦から15年後の782年だったとされている。奈良時代末期のことだ。勝道48歳のときだった。
男体山というのは、山続きの女峰山と対でつけられた名前のようだ。男と女がセットになっている山脈は、男女岳の駒ヶ岳など、他にもいくつかある。
標高は2486メートル。昔は2484メートルとされていて、栃木っ子は県の西の端にあるから「にしっぱし」と覚えるのに便利だったのが、再調査で2486メートルとなってしまって覚えづらくなった。西の野郎などと覚えればいいかもしれない。

ロープウェイの切符売り場。やけに涼しくて、エコを無視してエアコンをギンギンにかけてるのかと思いきや、ナチュラルに涼しいだけだった。ひんやりした空気は気温22度。明智平の標高を考えればこれくらい涼しいのは当然か。一般的には、標高1000メートル上がると5度から10度くらい下がるとされている。上に登ったロープウェイ駅は20度だった。
全体的に昭和ムードが漂う乗車券売り場で、人数の数え方も手動のカウンターだったり、ときどき何かメモ書きなどもしていた。
テレビには華厳の滝の実況中継が映し出されている。見え具合とか、水量とかを知らせるサービスということだろうか。

斜めの必要性は見えなかったけど、気持ちはなんとなく分かる。平智明(たいらともあき)と読めなくもない。

ゴンドラの名前は、「なんたい」と「けごん」。
こんな古い施設の割にゴンドラがやけに新しい。帰ってきてから調べたところ、平成13年に大阪車輌工業で製造されたものだそうだ。
油が飛び散るからあまり近づかないでくださいと、先頭の人が注意されていた。
定員は16名と、かなり小さめだ。下から上までが3分という短い時間だからというのもあるのだろう。ダイヤはなく、2基が行ったり来たりして乗客を運ぶ。往復710円。
明智平ロープウェイの営業が始まったのは、昭和8年(1933年)のことだった。当初は日光登山鉄道が営業をしていた。しかし、わずか10年で終了してしまう。採算が取れなかったのか、日光登山鉄道そのものの営業が傾いたのかもしれない。
ロープウェイが復活するのは7年後の1950年、東武鉄道によってだった。東武鉄道は、1932年から1970年にかけて、馬返し駅から明智平駅を結ぶケーブルカー(東武日光鋼索鉄道線)も走らせていた。
1985年には日光交通に営業が移り、現在に至っている。
登りだけロープウェイで行って、帰りは中禅寺湖方面まで遊歩道が整備されているから、そこを歩いていってもいい。茶の木平まで1時間半というから、中禅寺湖までは2時間以上かかるだろうけど。

ロープウェイの動力源。大きな車輪が回っていた。
2駅の距離は約300メートル。勾配は最高30度。時速は9キロ。
ゴンドラは新しくても、元の装置は昔のままなんじゃないだろうか。

下りロープウェイとすれ違う。
人が来たら運行するというスタイルをとっているので、タイミングによっては一人で乗ることになったりする。待たせないのは親切だけど、ゴンドラって、一人で乗る乗り物じゃないと思う。寂しいというか、照れくさい。すれ違うゴンドラに乗った人に写真を撮られがちだし。

見下ろす下の駅と、遠くの山なみ。ゴンドラの中でしか見られない風景というのは特になさそうだ。
途中にはヤマボウシやアジサイが咲いていた。季節の進み具合が遅いことが分かる。

展望台と人々。
男体山の山頂には雲がかかり、天気は悪くなかったものの、見晴らしはもう一つだった。
夏場は涼しくていい。冬場は寒くて震え上がることになるだろう。雪が降ったら通行止めになるだろうから、真冬はここまで来られないのかもしれない。

引きで見る華厳の滝と、奥の中禅寺湖。
おおー、これはなかなかのものと感心、感激する。ここを訪れた人が誰しも撮ってしまうアングルの写真なのだけど、こういうふうにしか撮りようがない。
紅葉の時期で晴れていたら更に素晴らしい景色になるのだろう。いろは坂の猛烈な渋滞を乗り越えてでも見る価値がある。
しかし、あの渋滞はひどすぎる。もう一度鉄道を敷くとかなんとかできないものだろうか。この日も午後のバスは1時間遅れだった。

寄りで見る華厳の滝。
もしかしたら華厳の滝を撮るのはここがベストポジションかもしれない。華厳の滝の展望台からは滝壺が見えないし、エレベーターで下りるとアングルは下からになってしまう。ここからなら落ちるところから滝壺まで全体の様子を撮ることができる。望遠としては300mmレンズくらいがちょうどいい。

ここを明智平と名づけたのは天台宗の大僧正・天海(てんかい)だとされている。天海の正体は実は明智光秀だったという説の一つの根拠となっているのがこのエピソードだ。
天海というのは、徳川家康のブレーンとして江戸幕府成立に関わった重要な人物で、謎の多い人としても知られている。本人も自分の出自については語らなかったというけど、通説では陸奥国(現在の福島県大沼郡)で1536年に生まれたことになっている。織田信長の2歳下だ。小説などでは足利将軍家12代足利義晴の隠し子などと描かれることもある。
幼い頃から聡明で、14歳のとき宇都宮粉川寺の皇舜僧正に学んだのをはじめ、比叡山、三井寺、興福寺などで修行をして、いろいろな寺の住職にもなったとされている。武田信玄の元に呼ばれたり、後陽成天皇に説教をしたという話もあるくらいだから、通説を信じるなら明智光秀が天海になったなどという話はまったく根拠のないでたらめということになる。
はっきりと歴史の表舞台に登場するのは、1588年に武蔵国の無量寿寺北院へ行って、天海を名乗るようになってからだ。
その後、天海が75歳のときの1610年、駿府城で徳川家康に対面した。68歳の家康は天海の話に深く感銘を受けて、もっと早く天海に会いたかったと言ったという話が伝わっている。
しかし、実はもっと早い段階で天海は家康に会っていたという説もある。関ヶ原の合戦のときにはすでに参謀として家康と共にあったというのだ。いずれにしても、天海の前半生は謎に包まれている部分が多い。このことが明智光秀同一人物説を生むことにもなる。
江戸幕府では家康と朝廷との交渉役を任され、二代将軍秀忠、三代家光と三代に渡って仕えることとなる。江戸の都市作りにも関わり、風水や陰陽道の考えを取り入れたのも天海だったと言われている。
1613年には日光山の住職として任命され、これによって日光は大いに繁栄することとなった。このとき、日光で一番見晴らしがいい場所に明智平と名づけたのだという。
1616年、危篤となった家康は葬儀に関することを天海たちに任せてこの世を去る。当初は遺言によって駿府の久能山(今の久能山東照宮)に埋葬された。
この後、家康をどういう神様として祀るかでもめ事が起きる。崇伝や本多正純たちは明神として祀るべきだと主張したのに対して天海は、権現として祀るべきと言い張った。豊国大明神として祀られた豊臣秀吉と同じではよくないというのがその理由だ。
結局、天海の主張が通り、一周忌の際に家康の墓所は久能山から日光の東照社に移され、東照大権現となった。とのとき建てられたのが輪王寺(りんのうじ)で、現在の立派な東照宮が建つのは、三代将軍家光のときだ。
工費の上限なしという命令で建てられた東照宮は絢爛豪華な社殿で埋め尽くされた。1636年、これを寛永の大造替と呼んでいる。
天海はその後108歳まで生き、遺言で日光の大黒山に埋葬された。
こうして書くと、天海と明智光秀を結びつけるものは明智平の命名くらいしかない。しかし、もちろん、この説の根拠はそれだけではない。
たとえば、東照宮に光秀の家紋である桔梗がたくさん彫られているとか、二代将軍の秀忠と三代家光は光秀から名前が取られているとか、光秀の家老だった斎藤利三の娘が家光の乳母となり、のちに春日局となって大奥のトップに上り詰めた不自然さなどが根拠として挙げられている。家康も光秀に対しては尊敬心を抱いていたようで、信長を討ち果たしながらも秀吉に敗れて落ちのびた光秀を匿ったというのもあり得る話だったかもしれない。いくら逃げ延びている山中とはいえ、一介の農民に光秀が簡単に討ち取られるとも思えないし、それが影武者だった可能性も大いにある。
ただ、それぞれの根拠に対する反論も当然ある。まず年齢が合わない。もし光秀が天海になったとすると、116歳まで生きたことになってしまう。時代を考えるとちょっとあり得ないだろう。桔梗の家紋も特別なものではなく、将軍の名前もこじつけだし、逆にそうだとしたらあからさますぎる。それに、信長を討った光秀が生きていて、それを家康が参謀にしたなんてのは問題すぎる。織田家家臣の生き残りなら光秀の顔を知っているわけだし、そのとき騒ぎにならなかったはずがない。
結局のところ、まったくのとんでも説だと笑い飛ばしてしまったらいい。のかと思うと、話は単純ではない。近年になって天海と光秀の筆跡鑑定をしたところ、同一人物ではないものの特徴に一致するところがあり、ごく近しい関係の人物ではないかという結果が出たというのだ。これで話はまたややこしくなり、浮上したのが光秀の甥とも従兄弟ともいわれる明智秀満の存在だ。
明智左馬助としてゲーム「鬼武者」の主人公となったあの人物がのちに天海になったのだという。もちろん、信憑性のほどは分からない。史実では、山崎の合戦で光秀が敗れたことを知った秀満は、本拠の坂本城に入って一族と共に自刃したということになっている。あるいは、琵琶湖を馬で渡ってどこへともなく消えたという伝説があり、のちにそれは「左馬助の湖水渡り」として描かれることとなる。
日本の歴史上、いくつかの伝説や珍説がある。本能寺の変で信長は死なずに生き延びたとか、義経は平泉を脱して北海道に渡り、更に大陸に渡ってチンギス・ハーンになったとか、徳川家康は途中から影武者が成り代わったのだとか、芭蕉は幕府の隠密だったとか、天草四郎は豊臣家の生き残りだったとか、あれやこれや。天海イコール光秀説もその中の一つだ。この中のどれかに真実があるのかないのかは分からない。今となってはどれも知りようがないことだ。
個人的には、家康影武者説というのはけっこう信じている。本物の家康はどこかで死んで、途中で世良田二郎三郎元信と入れ替わったのではないかと。そのことと天海、光秀がどこかで結びつくとまた面白い話になる。明智光秀もまた、前半生がよく分かっていない人物だから、想像はあれこれ広がっていく。
もしタイムマシンが実用化されたら、未来を見たいという人と、過去を知りたいという人とがいると思うけど、私はまず過去へ行きたい。坂本龍馬の暗殺犯は誰だったのかとか、たくさん知りたいことがある。
もし行ってきて、いろいろ分かったらここで報告しよう。それこそ天海のように108歳くらいまで生きて気長に待っていて欲しい。
途中から大いに脱線したけど、日光シリーズ第一弾明智平編はこれにて終了となる。次回は中禅寺湖編の予定です。