月別:2008年04月

記事一覧
  • ハード&タイトスケジュールで富士山方面へ行く前に更新と留守のお知らせ

    PENTAX K100D+smc Takumar 50mm f1.4 今日これから出かけて、帰ってくるのはあさってなので、明日は更新を休んで、今日は写真を並べて行ってきます。 明治村へ行ったのは去年のいつだったか覚えていないくらい前のことになってしまったけど、一回分写真が残っていたので、こういうときのために取っておいた。 時間がないのでコメントなしで写真だけ。 そんなわけで、ちょっと富士山方面に行ってきます。おみやげ写真をたくさん...

    2008/04/28

    施設/公園(Park)

  • 狙ったところにはいってないけど一応ストライクのサンデー料理

    Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II 最初、チベット料理を作ろうとして頓挫した。チベットを代表するモモやツァンバなどを作ろうとすると、大麦や麦こがし粉なんてものが必要となって、一歩目から前のめりにつんのめる。そんなもの、このへんのスーパーではたぶん売ってない。肉も生で食べたりするそうだから、ついていけない。検討を始めて15分で早々にあきらめた。チョモランマはそう簡単には越えられない。 それに続くアイディア...

    2008/04/28

    料理(Cooking)

  • 思い出の長浜城で秀吉もみんなと花見で騒いでいたかもね

    Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 長浜駅を出たところに、秀吉と三成の像がある。戦国野郎やお嬢なら、なるほどあのエピソードねとすぐにピンと来るだろう。三成三献茶をモチーフにした像だ。 秀吉が長浜城主だったとき、鷹狩りの途中に寺を訪ねて、そこの坊主に茶を入れてくれと頼んだ。すると坊主は、大きめの茶碗いっぱいにぬるめの茶が入ったものを持ってきた。喉が渇いていた秀吉はそれを一気に飲み干すともう一杯とお...

    2008/04/27

    城(Castle)

  • レトロモダンな観光地として生まれ変わった長浜の町をぼんやり歩いてきた

    Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 彦根を出て長浜に着いたときはすでに夕方の5時を回っていた。まずは豊国神社に挨拶に行ったあと、黒壁スクエアへと向かった。ただ、漠然とこのあたりというのは分かっていたのだけど、しっかりと下調べをしていかなかったので、どこが主要ポイントなのか分からないまま当てのない散策となった。そもそも黒壁って何って話で、それが特定の建物を指すのか、このあたり全体の町並を指すのかさ...

    2008/04/26

    観光地(Tourist spot)

  • 自己再生を果たした彦根の町は、ひこにゃん人気で更に元気になった

    Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS だいぶ昔の記憶になりつつある滋賀巡りだけど、まだ完結していない。近江八幡、安土、彦根と来て、彦根第3弾は彦根の町紹介となる。 昔の彦根しか知らない人は、彦根の町の印象を訊かれても普通の町だったという記憶しか残っていないかもしれない。しかし、昭和の終わりから平成にかけて、彦根の城下町は大きく変貌を遂げた。 江戸時代の町並みを再現した夢京橋キャッスルロードに続いて...

    2008/04/25

    観光地(Tourist spot)

  • 4月の海上の森写真の残り物には福があるかないか

    FUJIFILM FinePix S2 pro+TAMRON SP 90mm f2.8 / PENTAX K100D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 今日は昨日の続きで4月の海上の森第二弾をお送りします。 ちょっと残り物写真のようになってしまうのだけど、今回は花を中心に。 森の緑の美しさというのは、なかなか写真では伝えきれない。わぁーっと心を動かされて撮るんだけど、写真を見るとそれほど感動的でもない。もっとよかったのにというもどかしさが残る。 普通に撮っただけでは...

    2008/04/24

    自然(Natural)

  • ギフチョウを追いかけて追いつけなかった4月終わりの海上の森は初夏

    FUJIFILM FinePix S2 pro+TAMRON SP 90mm f2.8 / PENTAX K100D+TAMRON 70-300mm f4-5.6 追いかけてギフチョウ、今年こそという3年越しの悲願も、遅刻と寝過ごしであっけなく打ち砕かれた。一週間前の午前中に行かなければいけなかった。春の女神と呼ばれるギフチョウが飛ぶのは、春先のわずか2週間ほど。それを見逃すともう来年まで会うことはできない。  今年はギフチョウも早かったのだろうか。エサにしているコバノミツバツツ...

    2008/04/23

    自然(Natural)

  • 一歩進んで二歩下がる更新は今更の感もある彦根城の桜風景

    Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS ここのところ、更新内容が行きつ戻りつして飛びまくっているけど、今日はまた彦根城だ。松本城でさえすでに季節外れとなった桜なのに、写真では今頃彦根城の桜を出している。完全に季節感が狂っている。彦根に住んでいる人にとっても、桜はもうそそろ昔話になりつつある頃だろう。でも、せっかく撮ってきたから、やっぱり載せておきたい。 残念ながら滋賀巡りは、彦根城あたりから曇り空に...

    2008/04/22

    観光地(Tourist spot)

  • 八丁味噌煮込みおでんを美味しいと思える愛知県民の幸せサンデー

    Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II この前、岡崎の八丁味噌蔵を見に行って以来、八丁味噌のことが気になっていた。味噌について調べて、ここに書いて、ますます思いが強くなり、とうとう入手してしまった、カクキューの八丁味噌。 純豆味噌は上級者向けすぎるので、軟弱者と言われるかもしれないけど、赤出し味噌にしておいた。赤出しというのは、豆味噌に米味噌を加えてまろやかな味にした調合味噌のことで、これでずいぶん食べや...

    2008/04/21

    料理(Cooking)

  • ほどよいことの居心地のよさを教えてくれた松本の街

    Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 松本の観光名所といえば松本城、でももちろんそれが松本のすべてではない。松本城周辺を歩いて巡れば、松本の魅力と出会うことができる。 今回は短時間の滞在ということで表面をなぞっただけになってしまったけど、私が見てきた松本の街を少し紹介したいと思う。 まずは開智学校(かいちがっこう)から。 松本市内の二大観光名所として、松本城とセットで見に行くという人も多いと思う。...

    2008/04/20

    観光地(Tourist spot)

  • 家康と秀吉の間で揺れる想いの数正が建てた松本城は傾いて戻った

    Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 昨日の彦根城に続いて、国宝つながりで今日は松本城について書きたい。 松本・安曇野へ行ったのは4月の6日で、先に安曇野へ行ったら松本城に登城する時間がなくなって、天守には登っていない。めったに行ける場所ではないので残念ではあったのだけど、安曇野を堪能できたからよしとする。外からの写真はたくさん撮ったので、いろんな角度の写真を並べつつ、松本城について書いていこうと思...

    2008/04/19

    城(Castle)

  • 寄せて集めて20年、彦根城って一体なんだったんだろうとちょっと思う

    Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 今日ふと桜並木を見たら、若葉を青々と茂らせるまったく別の木のようになっていた。ついこの間まで満開の花をつけていた桜の木は、10日もしたらもう次の季節に移行している。なんて変わり身の早さ。季節の移ろいの速度にあらためて驚かされる。 季節は前へ進んでいるけど、話は少し前に戻したい。今日は滋賀巡りの3番目に行った彦根城について書きたいと思う。 現存する12天守のうち、国...

    2008/04/18

    城(Castle)

  • 自分がすっきりするために花の勉強をして覚えて軽く受け流したいのだ

    PENTAX K100D+smc Takumar 50mm f1.4 + Close-up No.5 /smc Takumar 135mm f2.5 今日は昨日の続きで、森林公園の花アップ写真第二弾になる。今回は木に咲く花を中心に集めてみた。木の花は地面の野草以上に手強いので、最初から半分あきらめている。木の花まで全部覚えようとすると収拾がつかなくなる。似たものもけっこうあって、数が多い。野草の場合は同じものをあちこちで見る機会があるのに対して、木の花は単発だから反復記...

    2008/04/17

    花/植物(Flower/plant)

  • 探し物は何ですかと訊ねられたら足下の春ですと答えよう

    PENTAX K100D+smc Takumar 50mm f1.4 + Close-up No.5 カメラ関係の小物類を放り込んである棚の中を探っていたら、Close-up No.5レンズが出てきた。そういえばだいぶ前に買ったんだったな。全然使わなかったからすっかり忘れていた。寄れないTakumar 50mm f1.4をなんとかマクロ的に使えないかと思ったのだ。けど、No.5は寄れすぎてしまって自由度が低いから、すぐに使わなくなってしまったんだった。No.3くらいにしておけばよかっ...

    2008/04/16

    花/植物(Flower/plant)

  • きらり通りを訪れて八丁味噌ってそういうことだったのかと初めて知る

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 岡崎城へ桜を見に行くときに下調べをしていたら、NHK朝の連続ドラマ「純情きらり」のロケ地が岡崎にあることを知った。このドラマは観ていなかったし、宮崎あおいにも思い入れはないのだけど、ついでに見に行ってきた。 ドラマの主人公である桜子は、岡崎の八丁味噌の蔵元に生まれ、ジャズピアニストを目指して東京へ出て行くというストーリーだったようで、そのロケ地として八丁味噌の「...

    2008/04/15

    観光地(Tourist spot)

  • なんちゃってイタリヤ~ンサンデーは自分でも予想外のブゥオーノ

    Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II 今日のサンデーは、これといったテーマを決めずにメニューを考えて、作ってる途中でイタリア風ということに気づいた。あれ、これってけっこうイタリアじゃんと。ジャガイモパスタにタケノコのトマトソース、白身とマッシュルームのコンソメスープ仕立てと、なんとなくイタリアっぽい。でも、もちろんちゃんとしたイタリアンではないから、イタリヤン風ということにしておこう。今日はイタリヤ~ン...

    2008/04/14

    料理(Cooking)

  • 安土城跡を訪れてこんなんじゃないやいとだだをこねたくなる気持ち

     あの有名な安土城(地図)があったところが観光地になっていないという事実を、私は安土駅(地図)に降り立って初めて知ることになった。安土駅前はひなびた田舎の駅といった風情で、信長の銅像がなければ間違ったところで降りてしまったかと思うほどだ。 考えてみると、信長ゆかりの史跡というのはあまり残っていないことに気づく。生まれたとされる那古屋城はすでになく、最初の拠点だった清洲城も、天下統一への足がかりとし...

    2008/04/13

    城(Castle)

  • 普段着の足助の町は静かで優しい空気に満ちている

    Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II / TAMRON SP 90mm f2.8 / smc Takumar 135mm f2.5 二本立ての二本目は、足助の町写真でいこう。カタクリを見に行ったとき、ついでに足助の町も散策してきた。あれは3月26日のことだから、もう2週間前のことになる。 3月2日に中馬のおひなさんを見に行って、あのときはいまだかつて見たことがないほど町は賑わっていた。けど、この日は訪れている観光客の姿もなく、いつもの足助でホッとした。 今...

    2008/04/12

    街(Cityscape)

  • コンパクトデジで撮った松本行き帰り風景の断片 <松本・安曇野 第三回>

    Nikon COOLPIX 3500 / Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 桜の季節が始まって以降、ブログの更新が行動に追いつかなくなっている。2008年桜シーズンが完結しないまま松本へ行き、すぐに滋賀を巡りしてしまったから、内容もあちこちに飛んで、どれも中途半端に残されたままだ。順番に完結させていこうとするとリアルタイム性を失って、ネタとしても旬を過ぎてしまう。 どうしたものかと思いつつ、毎日休まず一つずつ書いてい...

    2008/04/12

    観光地(Tourist spot)

  • 悲運の武将と呼ばれた秀次が作った近江八幡は悲運の町ではなかった

    Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 琵琶湖東岸の大津と彦根の間にある近江八幡は、やや地味な7番バッターのような存在と言えるかもしれない。かつての都で県庁所在地の大津と、国宝彦根城を擁する彦根とに挟まれて、関西方面からも中部関東方面からも素通りされてしまいがちだ。 しかし、行ってみるとこれがなかなか魅力的な町で、わずか2時間の滞在ながらとても好印象で、また行きたいと思わせるところだった。 今日はそん...

    2008/04/11

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 近江の国で信長と秀吉の足跡を辿る ~滋賀歴史探訪<予告編>

    Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS 青春18切符を使って滋賀県の神社仏閣と城巡りをしてきた。くたびれた。 15時間のうち、9時間歩いて、電車で2時間立ちっぱなしというのはきつかった。疲労の限界を二度超えて、二度ウォーキングハイになった。一線を越えて疲れを感じなくなる状態だ。 特に安土城攻略に手こずった。往復1時間の山登りで体力の3分の2を失ったのが厳しかった。 結局、行くことができたのは、近江八幡、安土...

    2008/04/10

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 桜写真はそろそろ賞味期限切れだけど岡崎城の番外編<岡崎城・第三回>

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / 75-300mm / Takumar 135mm / 50mm f1.4 明日は滋賀方面なので、今日は時間がない。このところ桜を追いかけてあちこちへ出向いて、その写真を使い切らないうちに別のところを挟むものだから、いろんなところのネタが中途半端に残ってしまっている。桜写真はもう賞味期限が切れかけているのだけど、使える分は使い切ってしまわないと落ち着かない。 その中で今日は岡崎城へ行ったときの写...

    2008/04/08

    桜(Cherry Blossoms)

  • 自転車で走れば安曇野の魅力が腑に落ちる <松本・安曇野 第二回>

    Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8 II /EF 75-300mm f4-5.6 IS 4月の安曇野(あずみの)は、平地の春と山の冬が同居していて、なんだか不思議な感じがする。暖かさは名古屋と変わらないのに、まだ梅の季節をやっている。時間が戻ったような、先週観たドラマの再放送をもう一度観てるような、違和感のある感覚だった。 今日は昨日の写真にコメントを追加しようと思っていたのだけど、写真もたくさんあるし、新...

    2008/04/08

    観光地(Tourist spot)

  • 松本行きは安曇野散策へと横滑りして収穫あり <松本・安曇野 第一回>

    Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8 II /EF 75-300mm f4-5.6 IS 我々の松本行きは安曇野巡りとなった。 今日はもうちょっと余力が残ってないので、写真を並べるだけ並べてコメントは明日にしたい。一日に9時間近くも電車に乗ったのは初めてで、バスも2時間近く乗ったから、一日の半分は乗り物に乗っていたことになる。 安曇野の玄関口である穂高駅から安曇野散策は始まる。いや、電車撮りから始まると言った...

    2008/04/07

    観光地(Tourist spot)

  • 生きた年の分だけ桜の思い出ができる <五条川桜・第2回>

    FUJIFILM FinePix S2 pro+Nikkor VR 24-120mm f3.5-5.6 / SIGMA 17-70mm f2.8-4 他 桜の写真がたくさんあるから、桜が咲いているうちに載せてしまいたい。今日は五条川の続きをいっておこう。 桜前線は今、北関東と信州の手前あたりだろうか。中部、関東まではもう満開を過ぎた。東北、北海道はまだひと月先だ。明日は松本へ行くのだけど、ようやくつぼみがふくらんだところだそうだ。毎年のことながら、日本列島は季節の歩みに...

    2008/04/05

    桜(Cherry Blossoms)

  • 五条川まで行けたから2008年桜シーズンは満足納得 <五条川桜1回>

    FUJIFILM FinePix S2 pro+Nikkor VR 24-120mm f3.5-5.6 / SIGMA 17-70mm f2.8-4 他 五条川の桜を見に行くのは今年で三度目になる。最初に見たのが2005年で、翌年も行って、去年は休んだ。今年は早い段階からここで締めくくろうと決めていた。 4日というのはタイミングとしてはちょっと遅かった。満開を過ぎて、かなり散り始めていた。最盛期は4月1日くらいだったろうか。ここは桜吹雪と散った花びらが川面を流れる様子もいいから...

    2008/04/05

    桜(Cherry Blossoms)

  • 桜シーズン終盤突入で近所の桜三点セットプラスアルファを巡る

    FUJIFILM FinePix S2 pro+Nikkor VR 24-120mm f3.5-5.6 他 名古屋の桜も満開を過ぎて、桜シーズンは後半から終盤に入った。ここから先は一気に花を散らせて終わりへと向かう。その花吹雪もまた桜の楽しみの一つではあるのだけど、きれいな状態の桜を撮るなら残された時間は少ない。咲き始めてから気温が下がって長く楽しむことができたとはいえ、見頃、撮り頃としては今週いっぱいだろう。 私の桜巡りも残すところあと数ヶ所とな...

    2008/04/04

    桜(Cherry Blossoms)

  • 電車のいる岡崎風景をやたら撮るにわか撮り鉄野郎

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / 75-300mm / Takumar 135mm / 50mm f1.4 岡崎に桜を撮りに行って名鉄をたくさん撮ったから鉄道写真特集があるかもしれないと昨日書いた。その機会は意外と早く巡ってきた。早速今日、名鉄のある岡崎風景ということで特集したい。 信長の清洲城は、国鉄が遠慮会釈なしに分断して鉄道を走らせているけど、家康の岡崎城には多少遠慮したのか、城を避けて通した。清洲城と岡崎城とでは明治以...

    2008/04/03

    飛行機(Airplane)

  • 桜シーズンのインターミッションとして足助で撮った野草写真を並べてみる

    Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II / TAMRON SP 90mm f2.8 / smc Takumar 135mm f2.5 桜に気を取られているうちに、カタクリのとき足助で撮った他の写真が賞味期限切れになりかけていた。このままお蔵入りさせてしまうともったいないから、やや遅ればせながら出してしまおう。しばらく桜が続きそうだから、中和効果もあるかもしれない。 このブログも始まって2年半になるから、30ヶ月でひと月の記事数を30とすると、記事の数は全部...

    2008/04/03

    花/植物(Flower/plant)

  • 家康の力と日本人の桜好きを侮っちゃいけない ---岡崎城の桜<第一回>

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / 75-300mm / Takumar 135mm / 50mm f1.4 2008年桜シーズン後半は、岡崎城がある岡崎公園からの再スタートとなった。 しかし私、完全に岡崎城の桜まつりを侮っていた。いくら満開とはいえ、平日の夕方ならそんなに混むはずないだろうと軽い気持ちで行ったら、直前で車が動かなくなって、駐車場に入るまでに30分かかった。甘く見てごめんと今更家康さんにあやまっても遅い。おとなしく車の...

    2008/04/02

    桜(Cherry Blossoms)

ハード&タイトスケジュールで富士山方面へ行く前に更新と留守のお知らせ

施設/公園(Park)
明治村残り-1

PENTAX K100D+smc Takumar 50mm f1.4



 今日これから出かけて、帰ってくるのはあさってなので、明日は更新を休んで、今日は写真を並べて行ってきます。
 明治村へ行ったのは去年のいつだったか覚えていないくらい前のことになってしまったけど、一回分写真が残っていたので、こういうときのために取っておいた。
 時間がないのでコメントなしで写真だけ。

明治村残り-2



明治村残り-3



明治村残り-4



明治村残り-5



明治村残り-6



明治村残り-7



明治村残り-8



明治村残り-9


 そんなわけで、ちょっと富士山方面に行ってきます。おみやげ写真をたくさん撮ってくるので、帰ってきたら嫌ってほど紹介します。

狙ったところにはいってないけど一応ストライクのサンデー料理

料理(Cooking)
変わり洋食風サンデー

Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II



 最初、チベット料理を作ろうとして頓挫した。チベットを代表するモモやツァンバなどを作ろうとすると、大麦や麦こがし粉なんてものが必要となって、一歩目から前のめりにつんのめる。そんなもの、このへんのスーパーではたぶん売ってない。肉も生で食べたりするそうだから、ついていけない。検討を始めて15分で早々にあきらめた。チョモランマはそう簡単には越えられない。
 それに続くアイディアが浮かばず、なんとなく頭に思い浮かんだ料理を3品揃えることになった。当初は和食のイメージで作り始めたのだけど、いつものように途中から料理が蛇行を始めて、気づけば洋食になりきれない洋食のようになっていた。今日もまたノーコン料理人ぶりを遺憾なく発揮した。作ってみなければ何ができるか分からない。どんな料理になるかは料理に聞いてくれ。

 右手前は、エビと白身魚の岩石揚げ・カレー風味タルタルソースかげだ。
 エビの背わたとはらわたを取って、白身魚は砕いて、タマネギを刻んで混ぜる。塩、コショウ、白ワイン、しょう油少々で下味をつけて、カタクリ粉、卵をまぶしたあと、小さい四角に切った食パンをまぶして揚げる。油の温度は低めで、じっくり時間をかけた方がいい。衣の食パンが焦げやすいので。
 普通の唐揚げよりも更にさくさく感が強まって、独特の食感になる。中はぷりぷりで外がカリカリ、とっても美味しいのでおすすめだ。
 中身はいろいろ応用が利く。肉団子でもいいし、普通にジャガイモをつぶしてコロッケのようにしてもいい。
 タルタルソースは、ゆで卵、タマネギ、パセリ、塩、コショウ、からし、カレー粉、マヨネーズを混ぜて作る。
 写真では後ろに隠れいているけどアスパラも衣をつけて揚げている。

 左奥は、ほくほくジャガイモボールと野菜のコンソメスープだ。今回の中ではこれが一番美味しい自信作となった。
 まずジャガイモボールを作る。刻んだジャガイモをレンジで5分加熱して、多少形が残る程度につぶす。これにパセリの刻み、塩、黒コショウ、コンソメの素、カタクリ粉を混ぜて団子にする。表面にカタクリ粉をまぶしてから、たっぷりのオリーブオイルを入れたフライパンで転がしながら焼いていく。崩れないように表面を固めるためだ。
 スープは、タマネギ、鶏肉を炒めて、水とコンソメの素を加えて、下茹でしたニンジンと、白菜を入れて煮込んで作る。最後にジャガイモボールを加えてしばらく煮たら完成だ。
 普通に煮込んだものとはジャガイモの食感が全然違う。ほくほくで少しもちっとした食感とコンソメスープがよく合う。
 ジャガイモメインなので、スープにしないでソースをかけて食べてもよさそうだ。トマトソースやホワイトソースにも合うと思う。

 右奥は、写真ではハンバーグ風に見えるだろうけど、実際は豆腐蒸しの八丁味噌ソースになっている。ここに和食が混ざっていた。
 木綿豆腐をレンジで水切りしたあとくだいて、卵、酒、みりん、しょう油、塩、コショウ、刻み長ネギ、小麦粉を混ぜる。それをラップでくるんで口を止めて3分から5分ほど加熱する。茶碗蒸しのようにしてもよかったかもしれない。
 八丁味噌ソースは、味噌にだし汁、酒、みりん、砂糖、七味を加えて作った。
 この前買ったカクキューの八丁味噌を使おうということで強引にねじ込んだ一品で、これが全体のバランスをやや壊すこととなった。単品として見れば美味しかったのだけど。

 私の料理の欠点は、結果オーライ的な部分が多々あって、行き当たりばったりなところだ。失敗を次に活かしづらく、再現性にも難点がある。同じものを作りたくないという思いが、成長を遅らせている。美味しいものができたとしても、偶然によるところが大きいから、成功の根拠が乏しい。スポーツにおける弱いチームのようなものだ。やるべきことをきっちりやらず、勝ち負けに一喜一憂していてはいいチームになれない。料理にも同じことが言える。性格的には料理人には向いていない。
 今年の目標は、基本の料理を基本通りに作れることというものだったはずだけど、すっかり忘れている。今年ももう、3分の1も終わってしまった。残り3分の2で、料理はけっこう得意ですよと言えるところまでいきたいと思っている。今の状態は、一応それなりのものは作れるけど得意と言うほどではない。
 写真も料理も今ちょっと頭打ちのような感じだから、なんとかもう一段上にいきたいところだ。そのためには、試行錯誤をして撮り続け、作り続けるしかないのだろう。投げ出さずに続けよう。

思い出の長浜城で秀吉もみんなと花見で騒いでいたかもね

城(Castle)
長浜城-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 長浜駅を出たところに、秀吉と三成の像がある。戦国野郎やお嬢なら、なるほどあのエピソードねとすぐにピンと来るだろう。三成三献茶をモチーフにした像だ。
 秀吉が長浜城主だったとき、鷹狩りの途中に寺を訪ねて、そこの坊主に茶を入れてくれと頼んだ。すると坊主は、大きめの茶碗いっぱいにぬるめの茶が入ったものを持ってきた。喉が渇いていた秀吉はそれを一気に飲み干すともう一杯とおかわりをした。二杯目は、やや小振りの茶碗に半分ほど入った熱めのお茶だった。ゆっくり飲み干した秀吉は更にもう一杯と言う。少年が三杯目に持ってきたのは小さな茶碗に入った熱々のお茶だった。
 こいつは気が利くと喜んだ秀吉は、その小坊主を長浜城に連れ帰って小姓とした。それがのちの石田三成という話だ。
 エピソードとしては面白く、三成の人となりを伝える話ではあるのだけど、これは江戸時代に入ってから作られた創作だと言われている。いずれにしても、天下を取った徳川家に敵対した総大将が後の世でいいように語られるはずもなく、この話も機転が利くというよりも小賢しさを強調する話として作られたのかもしれない。
 石田三成の人となりについては、実はあまり知らない人が多いんじゃないだろうか。明智光秀についてはいろんなところでたくさん語れているのに、三成は作品の主人公になることが少ない。関ヶ原の合戦シーンにおいてはよく描かれているものの、西軍の総大将になるまでの経緯などはあまりよく知られていない。私もあまり詳しいとは言えない。もしまた近江方面へ行くようなことがあれば、佐和山城跡へも行くことにしよう。そのときに石田三成について書きたいと思う。

長浜城-2

 長浜といえば秀吉が作った町だから、まずは秀吉に挨拶に行くことにした。駅近くにある豊国神社(ほうこくじんじゃ)を訪れた。
 秀吉の三回忌に当たる1600年、長浜町民が秀吉を偲んで建立したのが始まりだった。
 しかし、江戸時代に入ると徳川家は秀吉を神として祀ることを禁止した。社殿も取り壊されてしまう。それでも祭神だけは町民が守り、表向きは恵比須神を祀る神社として生まれ変わり、その奥で密かに秀吉を祀っていた。隠れキリシタンならぬ隠れ秀吉というのが江戸時代には存在したのだ。
 時代は明治に移り、豊国神社の名前が復帰して、晴れて秀吉を祀る神社に戻った。三百回忌に当たる1898年(明治31年)には拝殿も再建された。
 秀吉だけでなく、事代主大神、加藤清正、木村重成も祀られている。家臣も一緒に祀られている豊国神社は全国でここだけだという。

長浜城-3

 さほど大きくはないものの、小綺麗で気持ちのいい神社だった。生まれ故郷の名古屋市中村区にある豊国神社よりも手入れが行き届いている。
 神殿は江戸時代中期に建てられた神明造で、境内には出世稲荷神社などもある。
 それにしても、先に勝った者より後から勝った者の方が得というかなんというか、信長や秀吉の名残は家康が残したものと比べてあまりにも少なく、ちょっと露骨に打ち消しすぎだろうと思ってしまう。特に信長に関しては、偉業の割に残ったものが全然ない。普通なら信長の生まれ故郷である清洲や秀吉が生まれた名古屋の中村なんかは、日光東照宮のように全国的な観光名所になっていてもおかしくないところだ。英雄といえども最後に負けてしまえばあっけないものだ。

長浜城-4

 長浜城が遠くに見えたときには、もう完全な日没だった。当然、長浜城も開いてなくて中にはいることはできなかった。
 いい加減歩き疲れてはいたのだけど、これで最後と思うとちょっと元気が出てきた。とりあえず近くまで行ってみよう。

長浜城-5

 こんな時間に長浜城を訪れる物好きはいないだろうから静まりかえっているだろうと思いきや、ちょうど桜が満開のときで予想以上の賑わいを見せていて驚く。桜の下でみんなジャージャー肉や野菜を焼いていて、煙があたりに立ちこめているではないか。なんだこりゃと思う。酔って騒いでるし。
 長浜城を見に来た私の方が場違いな感じになってしまった。誰も長浜城なんて見てやしない。
 でも、ここは秀吉が作った長浜城。醍醐の花見を催した秀吉のことだ、このどんちゃん騒ぎを見て喜んでいたことだろう。自分も降りてきて、一緒になって騒いでいたかもしれない。

長浜城-6

 長浜城は秀吉が初めて一国一城の主となった城だ。
 1573年、浅井長政攻めで軍功をあげた秀吉は、信長から浅井家の所領12万石を与えられてこの地に移ってきた。当初、浅井家の居城だった小谷城(おだにじょう)に入城したものの、そこは交通の便が悪いということで、琵琶湖畔に新たな城を築くことにした。そこは、バサラ大名として知られた京極道誉(佐々木高氏)が室町時代に建てた出城があったところで、地名を今浜といった。
 小谷城などの資材を使って1年がかりで城を築き、名前を長浜と改名する。信長の長の字をもらったのだ。若い頃の秀吉はこうやって人に取り入るのが上手かった。この頃はまだ羽柴秀吉と名乗っていたときで、羽柴も信長の有力家臣だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらったものだ。もとは木下藤吉郎だった。
 城作りと平行して城下街作りも積極的に行った。小谷城下や周辺から商人や住人を集め、楽市楽座を設けるなどして商業都市としての基礎を作り、それが現在にまでつながっている。
 長浜城主だった時代はほんの数年に過ぎなかったものの、秀吉はここで三成や大谷吉継などの有能な家臣を発掘し、一男一女にも恵まれている。思えば秀吉にとってこの頃が一番よかった時代かもしれない。
 その後秀吉は信長の命を受け中国地方に向かい、本能寺の変のあと、清洲会議で長浜城は柴田勝家の甥の勝豊に与えられることとなった。しかし、隙を見て秀吉はこの城を奪還。柴田勝家との賎ヶ岳の戦いではここを拠点として大勝を収めている。
 1585年から5年間、山内一豊が城主となっている。
 その後城は荒れ、いったん石田三成の支配下となり、江戸時代に入ると家康の異母弟の内藤重成が城主となって大改修を行った。
 1615年、一国一城令で内藤信正が摂津高槻城への移封になったのを機に廃城となり、城の役割は彦根城へと移った。大半の資材は彦根城の築城のときに使われたとされている。

 現在、長浜城の遺構は、わずかな石垣と秀吉が作ったという太閤井戸の跡が残るのみとなっている。井戸は琵琶湖の底だ。
 江戸時代の絵図によると、2重の堀に囲まれた水城で、南北1.2キロ、東西07キロの規模だったのではないかと考えられている。きちんとした資料が残っていないことから、天守などがどうなっていたかは分かっていない。
 現在の天守は1983年(昭和58年)に、同時代の犬山城や伏見城を参考にして復元された模擬天守だ。どれくらい実物と似ているのも分からない。建っている場所もここではなかった。
 復元天守閣とは名乗らず、長浜城歴史博物館としている。平成4年に内部がリニューアルされた。

長浜城-7

 琵琶湖は海みたいだけど、やっぱり湖だ。暗くて水の状態はよく見えなかった。前に一度訪れたときは、かなり汚れている感じだった。あれから少しはきれいになっただろうか。

長浜城-8

 琵琶湖を眺めるカップルたち。この日は夕焼けが見られなかったのが残念だった。前に見た琵琶湖の夕焼けがとても印象的でよく覚えている。

長浜城-9

 こうして私の滋賀巡りは終わった。近江八幡、安土、彦根、長浜。これだけ距離が近いと、関係性も深い。琵琶湖畔を巡る歴史の流れを多少なりとも理解できたのも、今回の大きな収穫だった。
 振り返ってみればいろいろと心残りもある。もう一度訪れる機会があるかどうか、今はまだ分からない。呼ばれたら行くことになるだろうし、もう充分というなら行きたくても行けないだろう。
 滋賀シリーズということではもう一回だけ最後に思い出編として、本編に入れられなかった写真を集めて紹介したいと思っている。なので、滋賀巡りの総括は最終でやることにしよう。

レトロモダンな観光地として生まれ変わった長浜の町をぼんやり歩いてきた

観光地(Tourist spot)
長浜の町-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 彦根を出て長浜に着いたときはすでに夕方の5時を回っていた。まずは豊国神社に挨拶に行ったあと、黒壁スクエアへと向かった。ただ、漠然とこのあたりというのは分かっていたのだけど、しっかりと下調べをしていかなかったので、どこが主要ポイントなのか分からないまま当てのない散策となった。そもそも黒壁って何って話で、それが特定の建物を指すのか、このあたり全体の町並を指すのかさえ分かっていなかった。
 上の写真はどのあたりだったんだろう。帰ってきて調べてみても思い出せない。それっぽい雰囲気の建物ではあったのだけど、まだ黒壁スクエアの外だったのだろうか。確か、最初に1号館になっている黒壁ガラス館というのを目指したはずだ。もう、それさえも記憶があやふやになってきている。一昨日食べた夕飯のおかずも思い出せない。

 長浜の町も昭和40年代以降はさびれる一方で商店街もずいぶん寂しいことになっていたという。
 1988年(昭和63年)に旧第百三十銀行の建物(1899年築)の取り壊しが決まって、地元住民が立ち上がった。黒壁銀行の愛称で親しまれたこの建物をなんとか保存できないかということになり、長浜市と地元企業が第三セクター「株式会社黒壁」を設立。ここから長浜は観光都市へと生まれ変わることになる。
 翌1989年、銀行の建物を黒壁1号館「黒壁ガラス館」としてオープンさせた。周囲の古建築をギャラリーやショップ、カフェなどとして再利用することで店舗も賛同して、黒壁館は30号まで増えていった。
 それ以前は人っ子一人観光客が訪れなかったような町が、今や年間300万人もの観光客が押し寄せる人気観光スポットとなっている。町おこしの貴重な成功例として、全国から視察に訪れているという。
 もともと、長浜の城下町は秀吉が作った町で、楽市楽座で栄えた自由な商業都市だったという歴史があった。その下地というのも成功の大きな要因だったのだろう。本物のレトロ感というのは数年で作れるようなものではない。長浜には400年の歴史がある。
 といったようなことをちゃんと予習していけば、見るポイントがもっと分かっただろうに。行き当たりばったりだから、大事なところを見逃す。まあ、行ってみないと分からない部分も多々あるのだけど。

長浜の町-2

 さて、これはどこだっけな。全然思い出せないぞ。どっちの方角を向いているのかもよく分からない。
 駅の北にある豊国神社へ行って、そこを出て東に向かったと思うんだけど、じゃあ大手門通りかというとちょっと違う気がする。北国街道は歩いたんだっけな。
 もうこの頃は7時間くらい歩き続けたあとだから意識がもうろうとしていたかもしれない。ウォーキングハイを通り越して、ウォーキングドランカー状態になっていた。

長浜の町-3

 この左に写ってるのがガラス館か。右手には大手門通りのアーケードの入り口があるから、位置関係としてはここじゃないかと思う。それにしてはガラス館そのものを撮った写真がないのはどうしたことか。ああ、ここがガラス館かと思った記憶はあるのだが。
 夕方の時間だからもう店は閉まっていたようだ。世界中から仕入れたガラス製品がたくさん売られているらしい。
 斜め前だったか横だったかに2号館としてガラス工房があったはずだ。そこではガラス製品作りができるそうだ。
 少し離れた場所に10号館の黒壁美術館もある。そちらは行っていないのでどんな感じかは知らない。世界のガラスアート作品が展示されているようだ。

長浜の町-4

 これはスタジオクロカベとかいうところだったと思う。作家のギャラリーのようになっているみたいだ。
 観光客というよりもはや通りすがりのようになっている私。一応、メインの目的地は長浜城だったので、このあたりはさらりと流してしまった。真っ暗になる前にお城に行きたいというのもあって、ちょっと急いでいた。

長浜の町-5

 いきなり場違いな感じの建物が建っていてちょっと驚く。「海洋堂フィギュアミュージアム」とあって、とりあえず撮っておいた。帰ってきてネットで調べたら、けっこう有名なところのようだ。
 フィギュアに対して思い入れがない私としては、開いていても素通りしていた。入館料300円取られるし。

長浜の町-6

 秀吉が始めた曳山まつりで使われる2基の曳山などを展示している曳山博物館(4基所蔵で2基展示)。
 様々な展示物や体感シアターで曳山まつりを紹介するところらしい。ここも入館するのに600円かかる。長浜を満喫しようとすると、けっこう小銭が飛んでいく。黒壁美術館は600円だし、吹きガラス体験は3,675円する。町を歩くだけならお金はかからない。

長浜の町-7

 アーケードの中を川が横切っていて、そこに大手橋という橋が架かっている。けっこう斬新だ。
 大手門見返り橋とも言うらしいけど、理由は知らない。

長浜の町-8

 長浜の町を東西南北に流れる米川。緑の水草が流れに揺らめいていて、水もきれいだった。
 水の流れというのは町にとって大事なもので、それを大切にしてきれいにできればいい町になる。簡単に埋めたりしてまうのはよくない。水の流れというのは気の流れでもあるから、住人の心に大きな影響を与えるものだ。
 実用面だけでなく、川の大切さというのは昔の人も感覚的に分かっていたことだろう。

長浜の町-9

 書道や俳句などの書物を扱う文泉堂というのはここだろうか。文という字が見えているからたぶんそうだと思う。
 普通の本も売っているのかいないのか。うっかり入りづらい店ではある。でもこういう店があるというところにこの町の懐の深さを感じる。
 黒壁散策マップみたいなものがどこかに置いてないのだろうか。ガラス館あたりにあるのかもしれない。漠然と歩くだけではどこに何があるか分からないので、もったいない。

長浜の町-10

 突き当たりに見えているのが、おそらく大通寺だと思う。
 NHK大河ドラマ「巧妙が辻」でおなじみの山内一豊・千代ゆかりの寺で、長浜城の追手門を移築したとされる薬医門をはじめ、多くの重要文化財を持つ寺だ。でも、あそこまで歩く気力がなくて省略してしまった。今となってはちょこっとでも寄ってくればよかったと、少し後悔している。
 アーケードも終わったところで、長浜の町の散策はここまでとして、再び駅へと向かった。長浜城はこちらとは反対側の駅向こうになる。

長浜の町-11

 現在の長浜駅舎。米原で乗り換えなくても、長浜行きという電車がけっこうある。新快速が止まるようになったことも観光客が増えた理由の一つと言われている。
 あたりはかなり暗くなってきた。最後に長浜城を見てから帰ることにしよう。

長浜の町-12

 閉まっていることは分かっていたけど、せっかくなので前だけでも通ることにした、長浜鉄道スクエア。
 見えているのが明治15年に建てられた現存する日本で一番古い駅舎の旧長浜駅だ。それをそのまま移築して資料館にしている。
 敷地内には、長浜鉄道文化館と北陸線電化記念館が併設されていて、これらをあわせて鉄道スクエアとなっている。
 車両としては、ED701(国鉄ED70形電気機関車)と、D51793(国鉄D51形蒸気機関車)が保存展示されている。デゴイチはちょっと見たかった。
 入場料は300円。この300円なら払ってもいい。

 このあと行った長浜城についてはあらためて書きたいと思う。もう写真も多くなったし、長くなった。
 帰る前、長浜といえばラーメンだろう! と思ってラーメン屋を探したのに見つからない。なんだよ、長浜ラーメン、本場じゃないのかよと帰ってきて調べたら、ええー、長浜ラーメンって九州だったの!? 知らなかった……。長浜ラーメンというから、てっきり滋賀の長浜だと信じて疑ってなかった。どうりでラーメン屋がないはずだ。
 それはともかくとして、長浜の町は魅力的なところだと思った。どこも開いてなくて店に入ることはなかったけど、町歩きだけでも魅力は分かった。写真では伝えきれない町が持っている空気感というのがあって、それがいい。
 私のように近江八幡から4ヶ所を一日で回るというのは無茶だから、彦根と長浜でセットにして一日回るとちょうどよさそうだ。午前と午後で4時間ずつあれば、それなりにゆっくり見て回ることができると思う。
 物好きな人は、私が回ったのと同じコースを歩いて回ってみてください。安土城の山登りを含めて8時間も歩くと、意識がもうろうとしてきて気持ちいいですよ。

自己再生を果たした彦根の町は、ひこにゃん人気で更に元気になった

観光地(Tourist spot)
彦根の町-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 だいぶ昔の記憶になりつつある滋賀巡りだけど、まだ完結していない。近江八幡、安土、彦根と来て、彦根第3弾は彦根の町紹介となる。
 昔の彦根しか知らない人は、彦根の町の印象を訊かれても普通の町だったという記憶しか残っていないかもしれない。しかし、昭和の終わりから平成にかけて、彦根の城下町は大きく変貌を遂げた。
 江戸時代の町並みを再現した夢京橋キャッスルロードに続いて、大正時代をモチーフにした四番町スクエアという商店街もできて、町は活気を取り戻した。
 夢京橋キャッスルロードに並ぶ店舗も民家もすべて、切妻屋根の町屋風に統一され、白壁、格子戸など、江戸時代の映画セットみたいだ。再現度としてはそれほどでもないけど、みんなで意思を統一して頑張っている感じが伝わって好感が持てる。お役所仕事ではなく、住民が自主的に運動して生まれ変わったというから、そのあたりが表れているのだろう。
 長さ350メートル続く道の両側には、食事処やみやげ物屋などが並ぶ。彦根城を訪れた人がこちらにも流れてくるだろうから、これは成功だった。

彦根の町-2

 建物はこんな感じで統一感を持たせている。時代劇のロケに使えるほどの本物感はない。まだ古めかしさが出てないし、時代考証が間違ったものが多数ある。それでも、電柱と電線がないのは気持ちいい。

彦根の町-3

 ペット屋さんまでこの通り。ちょっと笑った。商売と店構えがまったくマッチしてない。
 昔ながらのペット屋で、表ではカゴに入ったセキセイインコなどが売られていた。昭和だ。最近はこういう店はめっきり見なくなったけど、私たちが子供の頃は、まだ金魚屋さんとかもあった。そこでインコも一緒に売っていたものだ。

彦根の町-4

 びわこ銀行まで老舗の和菓子屋さんみたいなたたずまいになっている。ここまでやるなら、行員も番頭さんとかに扮していて欲しいと思ったりもする。お金の計算はもちろん、そろばんだ。

彦根の町-5

 大正ロマンという感じではないけど、雰囲気のある商店街となっていた四番町スクエア。
 かつては市場商店街という名のアーケード街だったそうだ。昭和には賑わった商店街も、さびれる一方になっていき、なんとなしなければということで生まれ変わったのがこの地区だ。現在も市場の流れをくんで、食料品の商店が中心になっている。
 大正ロマン漂うというよりモデルハウスの町みたいだなと思った。

彦根の町-6

 この「四番町ダイニング・ひこね食賓館」というのが中心になるのだろう。
 歩道橋には、ひこにゃんたちのイラストが描かれている。なんで、ゲゲゲの鬼太郎やキティちゃなんだ。便乗して何か売ろうという魂胆か。
 2007年に誕生したひこにゃんは、大人の事情でその存続が危ぶまれながら、一般には人気者であり続けている。その使用を巡って作者と市がもめたというニュースを覚えている人もいるだろう。その後話し合いで一応の解決はしたようだけど、ひこにゃんはこれからも存続できるのだろうか。
 ひこにゃんの住まいは、彦根城の天守ということになっている。誕生日は4月13日というから、今は1歳になったところということか。
 どうして猫なのかというのは理由がある。彦根藩2代目藩主の井伊直孝が江戸にいるとき、突然の雨に降られて大きな木の下で雨宿りをしていると白い猫が手招きをする。なんだろうと近寄ってみると、直後にその木に雷が落ちた。そこは豪徳寺の境内で、感謝した直孝は当時貧乏寺だった豪徳寺を井伊家の菩提所にして、それ以来寺は栄えることとなった。和尚はこの猫の姿を人形で作って、そこから幸運を呼び込む招き猫が生まれたという話だ。
 というエピソードを踏まえて、ひこにゃんは白猫になったのだった。
 その後、ライバルキャラとして、しまさこにゃん、いしだみつにゃんが生まれ、更にさばにゃん、やちにゃんなど増殖中だ。とりあえず何でもにゃんをつければキャラクターになる。

彦根の町-7

 ひこにゃんの顔出し記念撮影スポット発見。これ以上近づくとひこにゃん大好き人間と思われてしまうので、遠巻きに撮った。一人で三脚を立てて、ここから顔を出してセルフタイマーで撮っている大人は嫌だ。
 着ぐるみひこにゃんは見かけなかった。毎日彦根城や街中をうろついているわけではないらしい。あちこちのイベントに担ぎ出されているのだろうけど。

彦根の町-9

 町の喫茶店もひこにゃん人気にあやかろうとしている。
 彦根城といえば井伊直政の赤備えだけど、それはあまり一般受けするようなものじゃない。ようやく彦根城といえばこれというものができて、彦根の人たちはみんな喜んでいることだろう。使用権などでもめてる部分もあるようだけど、今後とも育てていったらいいと思う。
 愛・地球博のモリゾーとキッコロは、今での県外人の心に残っているのだろうか。愛知県民はまだけっこう大事にしてるんだけど。

彦根の町-8

 駅に戻る途中で見た本屋。これぞ町の本屋さんというたたずまいだ。よく生き残ってると感心する。最近は個人の書店経営はすごく厳しいから、続けていくだけでも大変なのだ。チェーン店や大型書店でさえ閉鎖してしまう時代になった。
 うちの近所にもこんな本屋があって、恐い店のおやじと立ち読み勝負を挑んでよく負けていた。ちょっとでも立ち読みしようものなら怒ってくるからたまらない。はたきではたかれたりもした。今では信じられないけど、昔は店主があくまでも主人で、お客は買わせてもらうという立場だった。それでも心の交流みたいなものがあったから、いい思い出になっている。

彦根の町-10

 建物の下の方を見て、これは何の店だろうと思って上を見ると、おっと、パチンコ屋か。ちょっと驚いた。
 ここらは町並保存の地区ではないのに、協力する気満々だ。近くの他の店も、看板をみんな木製にしたりもしていた。これで売り上げが上がるとは思えないし、むしろ下がりそうでもあるのに、それでもあえてやるところがいい。
 でもこの店、向こう側の歩道を歩いてたらパチンコ屋だとは気づかないんじゃないか。

彦根の町-11

 ホビー屋さんの自動車というのか、何というのか。確か後ろにナンバーがついていた気がする。だとすれば公道を走れるのだろう。原付扱いかもしれない。
 町並とは関係ないけど、面白かったので載せてみた。

彦根の町-12

 駅近くは、昔ながらの駅前商店街風景だ。うちの田舎の松阪駅もこんなふうだし、ずっと昔の京都もこんな感じだった。観光客としては無責任に懐かしい光景だなんて思うけど、ここで暮らす人たちにとっては存続の危機だ。夢京橋キャッスルロードの方が活気を取り戻してるようだから、うちらもと思っているかもしれない。
 彦根の町は再生に成功した町と言っていいんじゃないかと思う。昔からの変遷を知ってるわけではないけど、ひなびた観光地という風情ではない。住人の団結で盛り返したのだろう。
 なんといっても国宝を持っているという強みがあった。それに加えてひこにゃん人気というのも侮れない。
 もう一つ、二つ、目玉になるような観光スポットがあればもっと訪れる人が増えるだろうけど、そこまで望むのは欲張りか。個人的には見所となる神社仏閣がないのが残念なところだ。

 私はこのあと長浜へと移動する。滋賀巡りシリーズもようやく終わりが見えてきた。長浜城について書いて、長浜の町を独立させることになっても、あと2回か3回だろう。そろそろゴールデンウィークだから、その前に終わらせて、新しいシリーズを始めたいと思っている。

4月の海上の森写真の残り物には福があるかないか

自然(Natural)
海上の森4月2-1

FUJIFILM FinePix S2 pro+TAMRON SP 90mm f2.8 / PENTAX K100D+TAMRON 70-300mm f4-5.6



 今日は昨日の続きで4月の海上の森第二弾をお送りします。
 ちょっと残り物写真のようになってしまうのだけど、今回は花を中心に。

 森の緑の美しさというのは、なかなか写真では伝えきれない。わぁーっと心を動かされて撮るんだけど、写真を見るとそれほど感動的でもない。もっとよかったのにというもどかしさが残る。
 普通に撮っただけでは伝わらないなら、もっと工夫して撮らないといけない。写真では伝えきれないから現地へ行って見てくださいでは写真を載せる意味がない。
 でも、新緑の5月というのは森歩きには最適なシーズンなので、写真は別にしても森歩きはオススメしたい。

海上の森4月2-2

 おっとびっくり。いつの間にこんなものが立ったんだ。初めて見た。
 愛地球博前後から海上の森もだいぶ人の手が入った。よくなった部分もあるし、余計なお世話と思うところもある。この注意書き以外にも、あちこちに道しるべを立てていた。おそらく、地図も持たずに気軽に入っていく人のためなんだろうけど、どうせやるなら要所に略地図くらい置いたらどうだろう。どこどこ方面と書くだけではあまり意味がない。分かってる人には役に立たないし、まったく地図が頭に入ってない人にとっては大した手がかりにはならないだろう。何もしないよりはましといえばそうだけど、せめて距離と徒歩何分くらいの案内があってもいい。
 それにしても、イノシシ注意って、何を注意すればいいのか。森の中を歩いていたら向こうからイノシシが突進してくるとでもいうのか。未だかつてあの森でイノシシなんて影も見たことないぞ。いるにはいるだろうけど、具体的な注意をうながすほど危険とは思えない。逆にいるなら出てきて欲しい。見たら絶対に撮りたい。タヌキとかもいるんだろうけど、昼間にのこのこ人前に出てくるようなことはない。

海上の森4月2-3

 赤池の奥はけっこうなワイルドコースとなっていた。湿地に靴が埋まったり、ちょっとした小川を飛び越えないと進めない。
 ウォーキングシューズくらいでは不足する部分も出てくるから、軽めのトレッキングシューズを履いていった方が無難だ。ヒールの女の子をデートに誘うには向かない。

海上の森4月2-4

 ウラシマソウかと思ったら、たぶん違う。これはマムシグサだろう。ウラシマとマムシとでは全然違う。ウラシマならちょっと嬉しい気がするのに、マムシでは嬉しくない。
 名前は茎に見える部分がマムシの模様みたいだからのようだ。まあ似てなくもないか。
 マムシに注意は海上の森だけでなく緑地などでもよく見られる注意書きだ。マムシに噛まれた場合は慌ててはいけない。即死するような毒ではないから、落ち着いて救急車を呼ぶ。6時間以内に血清を打てば大丈夫と言われている。下手に騒いで暴れると毒が前身に回ってしまうからよくない。
 マムシグサの球根にも毒があるらしいので気をつけないといけない。森でマムシグサを見つけたとたんに引っこ抜いて球根をかじるやつはいないと思うけど。

海上の森4月2-5

 ハルジオンかヒメジョオンかで迷うのはもう少し先だ。4月に咲くのはハルジオンで、ヒメジョオンが出てくるのは夏になってからだ。
 つぼみがうなだれているのがハルジオンで上を向いているのがヒメジョオンという区別の仕方をするけど、これは分かりづらいこともある。葉っぱの感じがだいぶ違うから、見慣れてくると分かるようになる。
 ハルジオンはピンク色ぽいのと白があるけど、ヒメジョオンは白だ。

海上の森4月2-6

 これはヤマフジだと思うんだけど、ふいに自信がなくなった。もう少し花が開いてくると分かりやすくなるはずだ。
 ヤマフジとノダフジが左巻きだ右巻きだという話を思い出した。どっちがどっちだかが思い出せない。
 今年は藤をどこに見に行こう。去年はことごとく遅刻だったから、今年はいいタイミングで見たい。津島の天王川公園は混むからゴールデンウィーク前期間中は避けたい。でも終わってからでも遅すぎる。小牧の清流亭の藤というのはどうなんだろう。一度見に行ってもいい。

海上の森4月2-7

 これは花なのか何なのか。面白い姿をしてたから撮ってみた。
 実物はすごく小さい花で、1センチもなかった。
 ちょっと保留。分かったら追記しよう。

海上の森4月2-9

 これはこの前森林公園で撮ったコバノガマズミと同じものだろうか。ミヤマザクラだったり、他のものだったりしないよね? と、誰にともなく問いかけてみる。
 ミヤマザクラやコバノガマズミとはちょっと葉のギザギザが違うような気がするんだけどどうだろう。
 カマツカとかそんな可能性もあり?
 ちょっと分からないのでこれも置いておく。

海上の森4月2-8

 こいつは知ってるぞ、カキドオシだだろうとパシャリと一枚撮って、家に帰ってきてから写真をよく見たら確信が持てなくなった。もしかして違うかも。似たやつが他にあったかもと調べて思い出した。そうだ、これはキランソウだ。
 キランソウ、カキドオシ、ムラサキサギゴケ、トキワハゼ。なんだかややこしいものが多い。
 別名、ジゴクノカマノフタ。民間療法で薬として使われていて、地獄の釜の蓋を開けて死者をよみがえらせることができるというところから来ているんだとか。
 もう一つの別名、弘法草は、弘法大師がこの草が薬草になることを教えたところから来ているという。

海上の森4月2-10

 たくさん咲いているスミレは見て見ぬふりをした。一枚くらい撮らないとなと思って撮ったのがこれだ。
 タチツボスミレということにしておいていいかな。

海上の森4月2-11

 これはツボスミレだと思う。白くて小さなスミレで、花びらに紫の筋が入る。スミレの中では咲いてくる時期は遅い方だ。
 考えてみると4月の終わりというのはもうスミレシーズンの終盤だ。スミレのピークは3月4月だから。ということは、今年も勉強が進まないままスミレをやり過ごしてしまったということになる。もうちょっと撮っておくべきだったかなという気持ちと、やれやれという安堵感が入り交じる。いずれスミレとは向き合わなくてはいけないときが来るのだろうけど、できるだけ先送りにしたいと思ってしまう。

 今回の海上の森写真はこれでおしまいとなる。思ったより枚数が少なかった。目的がギフチョウだったから、花やその他は二の次になった。
 次の花目標としては、まずは藤だ。ゴールデンウィークに人混みの中へ突撃していくかどうかで今後の展開も変わってくる。連休が明ければカキツバタ、バラと続いていく。
 写真に関しては、ここ最近ちょっと自分の中で停滞感があるから、それを打開するためにもこれまであまり撮らなかった被写体を撮ってみたいと思っている。新しいレンズを買うという手もあるのだけど、フィルムでもう一度一枚の大切さを思い出すというのもいいかもしれない。
 もっといい写真を撮りたいという思いと、写真を撮ることの楽しさということのバランスが、少し崩れているみたいだ。

ギフチョウを追いかけて追いつけなかった4月終わりの海上の森は初夏

自然(Natural)
海上の森4月-1

FUJIFILM FinePix S2 pro+TAMRON SP 90mm f2.8 / PENTAX K100D+TAMRON 70-300mm f4-5.6



 追いかけてギフチョウ、今年こそという3年越しの悲願も、遅刻と寝過ごしであっけなく打ち砕かれた。一週間前の午前中に行かなければいけなかった。春の女神と呼ばれるギフチョウが飛ぶのは、春先のわずか2週間ほど。それを見逃すともう来年まで会うことはできない。
 今年はギフチョウも早かったのだろうか。エサにしているコバノミツバツツジもほとんど終わっていたから、季節の進み具合は私が思っている以上に先へ行っていたらしい。4月の中旬に行こうと決めていて、先週行くつもりが雨に降られて行けなかったのが痛かった。一年なんて過ぎてしまえばすぐだけど、待ちわびる一年はけっこう長い。
 岐阜で見つかったギフチョウだけに、岐阜へ見に行けってことか。岐阜の山ならまだ早春をやっているところもあるだろうし、ギフチョウもこれからかもしれない。ちょっと調べてみよう。

 海上の森の4月後半は、すっかり初夏の風景だった。緑が生い茂る半ジャングル状態のようになっていた。気温も25度で、坂道を歩くと汗が出る季節になった。
 今回は赤池から物見山方面に向かって(途中で通行止めになっていて引き返した)、湿地帯を通って三角点まで歩いた。往復で約3時間コースだ。こちらは花が多いポイントではないので、野草の収穫は少なかった。虫にはまだ早い。鳥は鳴き声は盛んにするものの生い茂る葉に隠れて姿は見えない。全体的に時期的がやや中途半端だった。もう少し早いか、5月に入ってからの方がよかった。
 そんなわけで、ギフチョウは撮れなかったけど、海上の森で撮ってきた写真を紹介したい。

 一枚目のクモは何クモだろう。かなり小さめで、1センチもなかった。クモを見分けることは最初からあきらめているから、勉強がちっとも進んでいない。世界では3万種、日本でも千種類以上いるというからお手上げだ。
 それでも、近くで見るときれいなものが多いから、被写体としてはなかなかフォトジェニックなやつなのだ。

海上の森4月-2

 この時期になるとこいつらの登場だ。森の中を歩いていると、脇でガサガサっと音がして、何かが逃げていく。ヘビかと一瞬焦って、たいていはトカゲだ。
 上の写真は体にツヤがあるからニホントカゲだと分かる。ツヤ消しはニホンカナヘビという違う種類なので一緒にしてはいけない。どっちもトカゲじゃんと言われればその通りなのだけど。
 子供の頃は通学路の途中でも普通にいたからよく捕まえた。最近は街中を歩いていてトカゲを見るなんてことはなくなった。彼らにとってみれば生息地が減ったことが不幸なのか、安全な野山で暮らすようになったことが幸せなのかはよく分からない。

海上の森4月-3

 このまま虫写真が続くと虫嫌いの人が逃げていきそうだから、ここで爽やか画像を挟んでおこう。暑いときに水が流れる写真を見ると、ほんのちょっと涼しくなるような気がする。気のせいでも気がすることが大事だ。
 森は木々と清らかな水が流れていてマイナスイオンに満ちている。

海上の森4月-4

 ふた月くらい前までは、森を支配する色は茶色だった。今は緑色が圧倒的に森を支配している。絶対君主のように。
 この増殖ぶりは恐怖を感じるほどで、地球も人間がちょっと隙を見せたらあっという間に緑に支配された星になる。人間が絶滅したら、緑の星になるのに100年もかからないだろう。

海上の森4月-5

 わー、この季節かと思って少しうんざりしてしまう。森歩き最大の敵は、疲れでも迷子でも怪我でもなく、このクモの巣なのだ。歩いていて10回も顔にクモの巣がかかると気が滅入ってくる。大きなものなら見えるからよけられるのだけど、1本、2本の線で張ってある場合は見えない。顔の前で手を左右にヒラヒラ振りながら、ずっと歩かなければいけなくなる。その姿は客観的に見ると、誰もいないのにいえいえそんなことありませんよと一人芝居をしているように見えることだろう。あいつ、どんだけ謙遜してるんだよと思われてしまう。
 このクモの巣の主は留守なのか不在なのか、たくさんの虫がかかってそのままになっていた。散った桜の花びらも。

海上の森4月-6

 トンボもそろそろ出始めた。このトンボはまだふ化してあまり日数が経っていないようだ。たぶん、シオヤトンボの若だと思う。カラーリングはメスだけど、成熟してみないと分からない。オスも若い頃はメスと同じような体色をしているから。成長すると灰色になっていく。
 今日見かけたトンボはこの1匹だけだった。仲間がいなくて寂しかったのか、私の体に二度もとまってきた。

海上の森4月-7

 チゴユリを海上の森で見つけたのは初めてだ。これまで豊田市自然観察の森などで何度か見ているけど、純野生のものを自分で発見すると、また喜びが違う。
 相変わらずうつむきがちなやつで、撮るのが大変だ。下からのぞき込むようにして撮らないと花の中が見えない。
 並んで咲いている様子が稚児行列のようだということで、稚児百合と名づけられた。

海上の森4月-8

 湿地帯ではハルリンドウがびっくりするくらいたくさん咲いていた。ほとんど毎年見に行ってるけど、あんなに咲いていたのは初めてだ。金属の道を作って湿地帯の中に入れないようにしたのが功を奏したようだ。
 つぼみもたくさんあって、あわせれば100以上だっただろう。あれだけ咲いていると壮観ではあるけど、ちょっとありがたみがないようにも思えた。
 ピンクのハルリンドウはあの場所じゃないのかもしれない。奥にある湿地帯なんだろうか。

海上の森4月-9

 春を過ぎると、声はすれども姿は見えずの野鳥たち。ホトトギスが盛んにさえずり、オオルリらしき鳴き声が聞こえたものの、撮る以前に姿を見つけることさえできない。
 そんな中、最後の最後にキビタキが近くにとまってサービスしてくれた。偉いぞ、ありがとう。前の木が邪魔だったけど下手に動くと飛ばれそうだから、この場所から撮らせてもらった。
 キビタキもいい声で鳴く。高く澄んだ鳴き声が初夏の森に響き渡っていた。
 夏鳥シーズンも、もう始まっているのだ。

海上の森4月-10

 誰が立てたのか、三角点で鯉のぼりが泳いでいて驚いた。でも、森に鯉のぼりって、意外と違和感がない。

海上の森4月-11

 見晴らしのいい場所が少ない海上の森の中で、おそらく三角点が最も視界が開けている場所だろう。物見山は木の障害物が多い。
 望遠レンズでのぞいたら、遠くに愛知環状鉄道の線路と山口駅が見えた。ちょうど電車が両方からやって来て、一緒に駅に止まって、一緒に出て行くところを見ることができた。本数の少ない路線だけに、貴重なシーンを撮ることができた。
 西向きだから、夕焼けと絡めれば面白い写真が撮れるかもしれない。

 ギフチョウは残念だったけど、その他のものがそこそこ撮れたから収穫はあった。写真はもう一回分残っている。
 今回は初めて赤池から奥に向かって歩いた。途中で通行止めになっていて物見山まで行けなかったものの、コースの新規開拓も今後のテーマだ。特に北部分をあまり歩いていないから、あちらも行かないと。
 海上の森はまだまだ奥が深い。今年もワンシーズンに1回くらいの間隔で通いたいと思っている。次は夏か。また蝉時雨を聞きに行こう。

一歩進んで二歩下がる更新は今更の感もある彦根城の桜風景

観光地(Tourist spot)
彦根城桜-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 ここのところ、更新内容が行きつ戻りつして飛びまくっているけど、今日はまた彦根城だ。松本城でさえすでに季節外れとなった桜なのに、写真では今頃彦根城の桜を出している。完全に季節感が狂っている。彦根に住んでいる人にとっても、桜はもうそそろ昔話になりつつある頃だろう。でも、せっかく撮ってきたから、やっぱり載せておきたい。
 残念ながら滋賀巡りは、彦根城あたりから曇り空になって光がなくなってしまった。写真も少しどんよりと暗く、桜の華やぎが足りない。もっと日差しがあれば、堀の映り込みもきれいだったろうに。
 けど、桜の色は名古屋と比べるとくすんでいるように見えた。それは必ずしも光の加減というだけではなく、白っぽい感じなのだ。土壌の性質の関係で関西のソメイヨシノは中部や関東よりも色が薄いという話を聞いたことがある。どの程度本当なんだろう。関西といってもその地域によって土壌は違うわけだから、一概には言えないと思うのだけど。
 そんなわけで今日は、彦根城周辺の桜風景を中心に、その他本編に入りきらなかった写真を集めて並べてみたい。

彦根城桜-2

 佐和口多聞櫓へ向かう堀沿いに大きな松の並木がある。彦根城名物の一つとなっている「いろは松」だ。
 2代藩主の井伊直孝が土佐から取り寄せて植えたと伝えられる松は、最初は47株あったので、いろは松と呼ばれている。土佐松が選ばれたのは、根が地上に出ない性質の松なので、人馬の往来の妨げにならないからということらしい。
 枯れたものや植え継ぎしたものが何本かあって、現在は34本になっている。

彦根城桜-3

 彦根城の隣に建っている神社は護国神社(滋賀県護國神社)で、彦根城とは関係ない。素通りするのも何だからということで一応寄って挨拶だけしてきた。みんなほとんど寄りつかず、しんとしていた。
 明治9年創建で、戊辰戦争から第二次大戦までの滋賀県出身の戦没者の霊(3万4千余)を祭神としている。

彦根城桜-4

 彦根駅前には馬に乗った彦根城初代藩主・井伊直政の像が建っている。井伊直政といえば徳川四天王の一人で、赤備えで有名だったのだから、像も朱塗りにしてしまったらよかったのに。その方が本物感も強まるし、よく目立っていい。
 足下には彦根城のミニチュア模型が。これはお菓子で作ってあるわけではない。

彦根城桜-5

 さすがに国宝だけあって、全国からバスに乗って団体さんがやって来る。シルバー世代が多いからバスガイドさんも大変だ。
 バスガイドというと、すごく昭和的なイメージがあるけど、昔も今も需要は変わっていないのかもしれない。ガイドさんなしという観光バスが増えたのにしても、観光名所でもまだまだたくさん見かける。修学旅行ではなくてはならない存在だろうし。
 町の路線バスでも昔はガイドさんというか車掌さんがいた。私の子供の頃はもういなくなっていたと思うけど、当時のバスはたいてい「ワンマンバス」と書かれていた。これは運転手一人のバスですよという意味だ。ワンマンプレーみたいなわがままな運転をするぞ宣言ではない。今の若い人は、ワンマンバスなんて言われても意味が分からないんじゃないだろうか。

彦根城桜-6

 城に桜に和服というのは最強の組み合わせだ。
 でも、いいポジションでは撮れなかった。何しろこの日は人が多かった。

彦根城桜-7

 天守閣よりの風景。連なる屋根瓦の感じにぐっとくる。こういう屋根を見ると駆け回りたくなるのは私だけではないだろう。天守閣の上を忍びの者が音もなく走り回るなんてことがかつては実際にあったのだろうか。

彦根城桜-8

 桜と彦根城天守閣。彦根城を格好良く撮るのは難しい。

彦根城桜-9

 西の丸の広場では桜がよく咲いていた。花見スポットとしては最適の場所だろうに、このときはそういう見物客はいなかった。みんなこちらまで回らずに、来た道を引き返してしまうのだろうか。

彦根城桜-10

 そういえば、西の丸の三重櫓を見逃した。浅井長政(あざい、と読んで欲しい)の小谷城の天守を移築したと言われている櫓だ。
 裏手から階段を下りて、楽々園と玄宮園の入り口だけ見て帰った。大名屋敷と庭園があるのだけど、今回は時間がなかった。日没前に長浜へ行かなくてはならなかったから。

彦根城桜-11

 梅は完全に終わっていたけど、この梅林はきれいだった。梅が満開のときはよさそうだ。昭和25年に植えられた紅白の梅600本が咲き誇るらしい。
 昔は、米を貯蔵しておくための蔵が17棟建っていた場所だ。

彦根城桜-12

 こちらの登城口・大手坂も雰囲気があっていい。
 大手橋から入った場合は、こちらから登っていくことになる。

彦根城桜-13

 大手橋と桜。
 彦根城には表門と大手門があって、普段は表門を表として、戦に備えるときは大手門を表としていたのではないかと考えられているそうだ。大手門は、かつて追手門と表記していたらしい。

 彦根城絡みの写真はこんなものだ。ようやく自分の中で一つ完結した。ただ、まだ彦根の町散策で撮った写真が残っているから、もう一回彦根編が続く。ここまで遅れてしまったら今更焦ってもしょうがないから、ゆっくり紹介していくことにしよう。他のネタを挟みつつ、まあぼちぼちと。

八丁味噌煮込みおでんを美味しいと思える愛知県民の幸せサンデー

料理(Cooking)
カクキュー八丁味噌

Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II



 この前、岡崎の八丁味噌蔵を見に行って以来、八丁味噌のことが気になっていた。味噌について調べて、ここに書いて、ますます思いが強くなり、とうとう入手してしまった、カクキューの八丁味噌。
 純豆味噌は上級者向けすぎるので、軟弱者と言われるかもしれないけど、赤出し味噌にしておいた。赤出しというのは、豆味噌に米味噌を加えてまろやかな味にした調合味噌のことで、これでずいぶん食べやすくなる。豆味噌はかなり渋みというか苦みが強いので、八丁味噌初心者向けではない。いきなりこれに挑んで八丁味噌が苦手になるのはもったいないので、最初は赤出しにしておくことをおすすめしたい。もしくは、手持ちの米味噌と合わせて使った方がいいと思う。
 今日はサンデー料理の日。ということは、当然の流れとして八丁味噌を使った料理になる。最初は基本の味噌汁と味噌田楽か味噌カツなんかにしようと思っていたのだけど、せっかくなのでもっとインパクトのある料理にした。それが下のものだ。

八丁味噌煮込みおでん

 決して泥水の中に浸かったおでんなどではない。これが八丁味噌の色だ。
 おそらく、赤味噌を使った名古屋メシの中で、県外人が最も拒絶反応を起こすのが、この味噌煮込みおでんなんじゃないだろうか。見た目がすごいことになっているから。
 けど、これが美味しいのだ。想像するような濃い味ではなく、コクがあるのに意外とあっさりしている。辛いのではなく、旨みが濃いのだ。美味しいというよりも旨いという字が当てはまる。
 味噌煮込みおでんは、あまり家庭では作らないので名古屋人でも食べる機会がめったにない人が多いと思う。私は、もう何年も前にどこかの店で一度食べただけだ。家で作ったことはない。名古屋のおでんが全部これなわけではなく、家庭では普通のおでんを作る。味噌はたれとして付けて食べるくらいだ。
 それでも、味噌煮込みおでんは名古屋名物の一つになっている。尾張地方よりも三河地方の方が一般的だろうか。あちらでは普通に家庭で作っているのかもしれない。
 京都人は見ただけで逃げていきそうだ。

 作り方としては特に変わった点はない。昆布とかつおだしをとって、そこに八丁味噌、みりん、酒、砂糖を加えて味噌ベースを作って、あとは下茹でした大根、ゆで卵、こんにゃく、はんぺん、ちくわ、焼き豆腐などを入れて煮込むだけだ。本来は牛すじを入れたかったところだけど、今の時期は売ってなかったので豚バラ肉で代用した。これでも充分美味しい。
 煮込み時間はじっくり2時間。時間に余裕があれば、だいたい出来上がったところでいったん火を止めて冷ましてからもう一度煮込むと更に美味しくなる。味は冷めていく過程で具に染みこむから。
 仕上げに七味唐辛子を加えると味のアクセントになる。

 これは後を引く味だ。写真を見てるとまた食べたくなる。やっぱり八丁味噌は美味しい。赤味噌でも他のものとは全然違う。味が深い。
 この味噌はこのまま他の料理にも応用できる。ダシで伸ばして味噌汁にしてもいいし、味噌を足してカツのたれを作ってもいい。うどんを入れればそのまま味噌煮込みうどんになる。料理屋でも、ベースの味噌に継ぎ足し、継ぎ足しでたれにしている。
 八丁味噌が手に入る人は、ぜひ作ってみて欲しい一品だ。

 残りの二品は付け足しだ。右奥が竹の子の唐揚げで、左がアメリカンドッグだ。
 ん? 夕飯にアメリカンドッグ? そう、ふいに食べたくなって作ってみた。
 アメリカンドッグというのは普段その存在をすっかり忘れていて、祭りの屋台や高速のサービスエリアで見かけるとふいに思い出すような食べ物だ。反射的に、あ、食べたい、と思う。
 今回急に食べたくなったのは、テレビに登場したからだった。それを買うためだけに高速を飛ばしてサービスエリアまで行くわけにはいかないから、いや、行ってもいいけどすごく高くつくから、家で作ることにした。そして、サンデー料理の一品にねじ込んだ。
 作り方は意外と簡単だ。ホットケーキミックスがあれば、牛乳で溶いてソーセージに絡めてあげるだけでできる。なければ、小麦粉でもできる。
 溶かしバターと薄力粉、砂糖、卵、牛乳で生地を作って、ソーセージを浸して揚げる。ベーキングパウダーやバニラエッセンスを加えてもいい。
 衣がすごく不格好になってしまったのは、分量を適当にしてしまって、牛乳を多くしすぎたからだ。けっこう固めの生地で作った方がいい。一度揚げでは衣が薄すぎたので、三度揚げにした。もっと上手にやればもっと美味しそうに見えたはずだ。
 アメリカンドッグは、ケチャップとマスタードがよく合う。味はソーセージで決まると言ってしまえばそれまでだけど、自分ちで作っても美味しいことが分かった。高速に乗って買いに行くまでもない。
 ただ、味噌煮込みおでんとは合わなかった。自己主張の強い日米が正面からぶつかって、大げんかになってしまった。竹の子が間を取りなそうとしたけど、そんなものはあっけなくはじき飛ばした。
 料理は組み合わせが大事だとあらためて思い知る。ステーキとラーメンと寿司を一度に食べたら美味しくない。

 今日のサンデー料理は特別編ということで、出来不出来という問題ではなかった。満足度は、八丁味噌の美味しさで満点だ。まだ残ってるから、別の料理にも使っていろいろ食べてみよう。一度は味噌汁を飲まないと。
 そうやって慣れたところで中上級者向けの純豆味噌にも挑戦してみたい。にぎりめしに味噌を塗って焼いたものを常時携帯するようになれば、私も八丁味噌上級者と認められるだろう。三河武士の心意気を見習いたい。

ほどよいことの居心地のよさを教えてくれた松本の街

観光地(Tourist spot)
松本街巡り-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 松本の観光名所といえば松本城、でももちろんそれが松本のすべてではない。松本城周辺を歩いて巡れば、松本の魅力と出会うことができる。
 今回は短時間の滞在ということで表面をなぞっただけになってしまったけど、私が見てきた松本の街を少し紹介したいと思う。

 まずは開智学校(かいちがっこう)から。
 松本市内の二大観光名所として、松本城とセットで見に行くという人も多いと思う。松本城からはゆっくり歩いて10分くらいだったか。駅からは少し遠いので、タウンスニーカーという巡回100円バスで松本城までは行った方がいいかもしれない。帰りは歩きで駅まで行ったらけっこう距離を感じた。車で訪れた場合は、開智学校の無料駐車場に車をとめて、松本城と両方見学するという手もある。
 開智学校は、日本における最初期の小学校の一つで、明治6年(1873年)に第一中学区第一番小学開智学校 として開校した。
 廃仏毀釈で廃寺となった全久院の建物を仮の校舎として始まり、明治9年に現在の新校舎が建てられた。
 建築費用は1万1,000円という当時では莫大な金額だったにもかかわらず、7割を松本町の住民の寄付金でまかなったという。それだけこの地方は教育に力を入れていたということであり、この学校は町の人の誇りでもあったろう。残りの3割は寺の古材などを売ったり、別のところの寄付に頼ったりして調達したそうだ。
 設計を担当したのは、松本の大工棟梁、立石清重だった。しかし、松本には西洋建築はなく、東京まで行って東京大学の前身である開成学校を参考に見よう見まねで設計したという。そのため、和洋折衷でちょっとへんてこりんな感じに仕上がった。自称日本通の外国人が自分の家に造った和風庭園みたいに。
 こういう建物を、擬洋風と呼んでいる。
 もともとはこの場所ではなく、市街地の女鳥羽川(めとばがわ)沿いに建っていた。
 明治、大正、昭和と、学校として使われ、昭和36年(1961年)には国の重要文化財にも指定された。
 昭和38年に河川改修のために校舎が現在の地に移され、昭和40年からは教育博物館として保存公開されている。
 入場料310円で校舎の中に入ることもできる。当時の教室がそのまま保存されていたり、筆記具や資料などが展示されているそうだ。
 我々は、松本城同様、ここにも遅刻して入れてもらえなかった。
 この学校には明治天皇も訪れているそうだ。

松本街巡り-2

 この角度の写真を見て、あれ、最近、これどこかで見たことあるぞと思った人は、ドラマ「有閑倶楽部」を観ていた人かもしれない。
 現在は玄関部分が大がかりな工事中で、これはちょっとがっかりだった。ここまで派手に足場を組まれてネットをかけられてしまうと、そこを外して写真を撮るなんてこともできない。趣も何もあったもんじゃない。
 2004年から2005年にかけて閉鎖して大がかりな改修工事をしていたはずで、もうすっかり大丈夫かと思ったら、また3年で問題が出てきたのだろうか。直したところとは別のところかもしれない。
 内部は通常通り公開されているはずなので、見学は問題ない。

 この建物の一番の特徴は、屋根の上に乗った八角形の塔だ。洋館といえば塔だと思ったのだろう。外国人が和式庭園といえば太鼓橋を思いつくようなものだ。でもこれ、ちょっと唐突な印象を受ける。
 塔の下には一転して和風の唐破風屋根が乗る。そこには飛んでいるエンゼルの姿が描かれ、その下には龍の彫刻が施されている。かなり思い切った組み合わせのデザインだ。
 唐破風屋根の露台は一見するとバルコニーのようでありながら人が立つスペースはない。ただの飾りだ。なんとなくそれっぽいから付けてみたのか、外に出られてしまうと子供が面白半分に出て危険だからあえて出られないようにしたのか。
 窓には輸入した高価な色ガラスなどが使われ、かつてはギヤマン校舎とも呼ばれていたそうだ。当時の人たちにとってはこの校舎は、なんとなくすごくモダンな感じがしたんじゃないだろうか。
 内部も様々な装飾や彫刻などがあって凝っているらしい。松本城の天守内部よりもこちらの方が面白そうだ。
 現存する古い校舎としては、佐久市の中込学校や伊豆松崎の岩科学校、愛媛の開明学校などがある。犬山の明治村には、明治16年に建てられた三重県蔵持小学校の古い校舎が移築展示されている。

松本街巡り-3

 開智学校と道一本隔てた左手には、旧司祭館が建っている。これも別の場所から移築してきたものだ。もともとは三の丸の大名屋敷跡の地蔵清水にあったもので、平成3年(1991年)の拡張工事のとき、ここに移されてきた。
 こちらは無料で内部を見学できる。ただし、時間は他と同じく4時半までだ。
 明治22年にフランス人のクレマン神父が、住居として自ら設計して地元大工によって建てられた西洋館で、長野県に現存する最古の西洋建築だ。移築されるまでは、松本カトリック教会司祭館として使われていた。
 西部開拓時代のアーリーアメリカン様式の建物で、基礎にレンガを積んで、外壁はペンキを塗った下見板張になっている。
 ほぼ正方形のような形で、どこが入り口なのかよく分からない。たぶん、写真の角度がそうなのだろうけど、短い階段があって、踊り場もなくいきなりドアというのも不思議な感じがする。窓も大きくて多い。明治の大工さんにしてみたら、異人さんは変わった家に住むもんだと思ったかもしれない。
 各部屋には暖炉があるという。フランス人には松本の冬の寒さはこたえたのだろう。

松本街巡り-4

 松本はやはり空気が澄んでいるのか、CanonのEOS 20Dとは思えないほど深い青が出た。順光で、光の加減が最高だった。

松本街巡り-5

 こちらは現在の開智小学校。旧開智学校をかなり意識しているのが分かる。
 なかなかしゃれたデザインの校舎だけど、50年後、100年後に今の開智学校ほどの価値を持つようになるとは思えない。
 今私たちが感じる明治の建物に対する独特のノスタルジーというのは何なんだろう。日本人の建築デザインセンスは、この100年で退化してしまっている部分があるような気がしてならない。

松本街巡り-6

 松本でも安曇野でも丸ポストを見た。このあたりの風景にはよく似合う。
 となりの煙草屋も昭和の風情だ。こんなところにタスポなんていう無粋なものが似合うはずもない。

松本街巡り-7

 松本城の北に松本神社というのがあったので寄っていくことにした。どこへ行ってもその土地の神社に挨拶をしておくことは大切なことだ。せっかく縁あってその土地を訪れているのだから、そこの神様と縁を結んでおかない手はない。素通りしてしまうのはもったいない話だ。
 前身は郷土の発展と縁結びの神様の暘谷大神社(ようこくだいじんじゃ)で、松本城主・松平康長と松姫の子虎松を祀った神社だった(1636年)。
 その後、松本城主・一色義遠を祀った片宮八幡宮、戸田宗光の今宮八幡宮、松平康長の共武大神社、松姫の淑慎大神社、島立貞永の若宮八幡宮を合祀して、松本神社となった(1953年)。
 地元では五社(ごしゃ)さんと呼ばれているそうだけど、合体しているのは6社だ。本体プラス5社ということか。
 いずれにしても、祀られているのは、神様というより松本城絡みの人間様だ。松本城内にあってもいいような神社だ。

松本街巡り-8

 松本神社の御神木である三本の欅(ケヤキ)が境内の外に出ている。歩道と中央分離帯を作って、なんとか残した姿勢をたたえたい。昔はここも境内の中だったのだろう。

松本街巡り-9

 これもたまたま前を通りかかった四柱神社(よはしらじんじゃ)だ。どういう由緒の神社か知らず、外から挨拶するだけにとどめてしまった。祭神が天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、天照大神(あまてらすおおかみ)と知っていれば、中まで行っていたのに。神様とも一期一会を大切にしなければいけないとあらためて思った。
 明治政府の神仏分離令を受けて、明治7年に神道を広めるために建てた神道中教院が前身だった。地元の人は「しんとう(神道)さん」と呼ぶらしい。
 明治12年に現在の位置に四柱神社として社殿が建てられ、明治天皇も訪れてたそうだ。
 明治21年に松本大火で社殿を焼失。現在のものは大正13年に再建されたものだ。

松本街巡り-10

 松本市街地観光としては、二つの特徴的な通りがある。一つが上の写真の縄手通りで、もう一つが中町通りだ。
 女鳥羽川沿いに並ぶ露天街は、常設の露店としては長さ日本一なんだとか。
 縄手(なわて)の名前の由来は、松本城の外堀と女鳥羽川に挟まれた真っ直ぐの細い道だったからとか、お縄になった罪人が通る道だったからとか、いろいろな説があってはっきりしていない。
 露店街として発展していったのは戦後で、大陸からの引揚者がここで露店を並べていたことが始まりだそうだ。
 2001年に全面改装されて、現在は昔の風情を残した観光地となっている。
 この通りのシンボルはカエルで、入り口にはカエル侍の像があった。中程にはカエル大名神が祀られている。
 昔から歩行者天国で、無事に帰るところからカエルの街になったんだとか。かえる祭りというのも行われていて、全国からカエル好きが集まってくるらしい。カエル好きって、そんなにいたんだ。

松本街巡り-11

 縄手通りのすぐ裏手に女鳥羽川が流れている。市の中心を流れているこの川は、松本っ子には馴染み深い川なんだそうだ。
 ドラマ「白線流し」も、このあたりがよくロケ地として使われていた。実際に白線流しをしたのは、少し離れた薄川(すすきがわ)だったのだけど。
 なかなかきれいな川で、上流にはイワナがいて、中流ではヤマメやホタルもいるらしい。
 市街地はやや汚れているようだけど、これでも最近ずいぶんきれいになったんだとか。

松本街巡り-12

 川を越えて、中町通りへと入ってきた。
 なまこ壁と呼ばれる白と黒の壁が特徴的な土蔵造りの町並が残っている。
 写真の中町・蔵シック館は、蔵の街の拠点として、平成8年にの場所に移築されてきた。もともとは宮村町にあった大禮酒造(たいれいしゅぞう)で、母屋と蔵と離れの3棟を改修して移築したものだ。建てられたのは明治21年、土蔵造りとしては初期のものとされている。
 現在は一階は喫茶や休憩室になっていて、二階は展覧会や公演などに使われている。

 中町は、かつての旧善光寺街道沿いで、本町・東町と共に商店街として賑わったところだった。
 しかし、明治21年に極楽寺から出た大火によって1,500戸もの民家が焼けてしまう。その後、家を火災から守るために、火に強いなまこ壁の土蔵に建て替えられることとなり、その名残が現在へと続いている。
 本町通りや大名町通りが開発でかつての面影を失う中、中町ははずれだったために昔の姿をとどめることになった。当時の蔵は90棟ほど残っているそうだ。
 中町がいいのは、電柱を地下に埋めているところだ。これでずいぶん印象が違ってくる。

松本街巡り-13

 これまた古いたたずまいの店だ。伊原漆器専門店。明治40年の創業以来、漆一筋100年。商売にブレがない。

松本街巡り-14

 わっ、なんだあれ、と人目を引く天守の姿をしている店舗。どうやら古本屋らしい。
 看板の名前が読めなくて、帰ってきてから調べたら、青翰堂(せいかんどう)という有名な古書店だったらしい。
 なんでも、昭和の大改修のとき、松本城が見られない観光客が気の毒だということで、松本城の天守を模して改築したんだそうだ。なかなかやる。城型のレストランみたいな安っぽさがなくて、けっこう本物感がある。

 松本の街のよさは、ほどよい加減にあると見た。威張るでもなく、必死すぎず、わざとらしくなくて、さりげない。古くてよいものは残し、かといって過去の遺産にしがみついているわけでもなく、観光地と暮らすための街とのバランスが上手く取れているように見える。駅前にはちゃんとパルコだってある。ひなびていないし、うるさすぎることもなく、なんというかちょうど心地いい感じなのだ。街に落ち着きと品がある。松本城を世界遺産なんかにしたら一気にバランスが崩れてしまうから、松本は今くらいでちょうどいいんじゃないかと思うけどどうだろう。
 松本なんて松本城くらいしか見るものがないじゃないかなんて言わず、ぜひ一度松本を訪れてみて欲しい。街を歩いてみれば、魅力をたくさん発見することになるから。私もいくつか忘れ物をしてきたから、もう一度訪れる機会があることを願っている。

家康と秀吉の間で揺れる想いの数正が建てた松本城は傾いて戻った

城(Castle)
松本城-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 昨日の彦根城に続いて、国宝つながりで今日は松本城について書きたい。
 松本・安曇野へ行ったのは4月の6日で、先に安曇野へ行ったら松本城に登城する時間がなくなって、天守には登っていない。めったに行ける場所ではないので残念ではあったのだけど、安曇野を堪能できたからよしとする。外からの写真はたくさん撮ったので、いろんな角度の写真を並べつつ、松本城について書いていこうと思う。
 昨日も書いたように、国宝に指定されている4つの天守のうちの一つで、その中でも最も古いのがこの松本城の天守だ。1594年というから、まだ豊臣秀吉政権の時代で、家康が江戸幕府を開く以前のことだ。

 話は戦国時代はじめにさかのぼる。信濃の守護・小笠原氏の居城である林城を囲むようにいくつかの支城が建てられ、その中の一つで前面を固めるために造られたのが深志城だった。松本城の始まりは、地方の小さな支城にすぎなかった。
 その後、甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い落として、この地を治めることになる。その際、信玄は林城ではなく、深志城を信濃攻略の拠点に選んだ。信玄特有の勘が働いたのだろうか。
 1573年、信玄死去に続き、1575年の長篠の戦いで勝頼率いる武田軍が敗北。1582年、織田信長の侵攻により武田家滅亡。
 同じく1582年、本能寺の変。武田家なきあと家康の配下となった小笠原長時の嫡男・小笠原貞慶が混乱に乗じて深志城を奪還。城は再び小笠原氏の居城となり、名前を松本城とあらためた。
 1590年、小田原の北条氏直を破った秀吉が天下統一。家康を関東に移封。このときの城主・小笠原秀政が家康に従って下総へ移ると、代わって石川数正が10万石で移ってきた。

 さて、ここからが松本城物語本編の始まりだ。
 石川数正といえば、代々松平家(のちの徳川家)に仕えた有力家臣で、家康が幼少時代に今川家に人質になっていたときも一緒だった側近中の側近だ。戦でも数々の戦功をたて、文官としても有能で、家康と秀吉の外交担当でもあった。酒井忠次と共に家康の右腕だった石川数正が突如裏切って秀吉の元に走ったのだから、家康の驚きは大変なものだっただろう。
 数正が家康を裏切った理由はよく分かっていない。家康の命で秀吉と交渉するうちに秀吉の魅力に取り込まれたとか、家康の嫡男・信康の後見人を務めていて信長の命令で家康が信康を切腹させたことで不仲になったなど、いろいろなことが言われている。秀吉の力量を認めた数正が家康にあまりにもしつこく和睦をすすめるものだから、秀吉のスパイと疑われてだんだん立場が悪くなり、秀吉側につかざるを得なくなったという説もある。
 頑なに秀吉の配下となることを拒んでいた家康にとって、精神的なショックよりも現実的な痛手が大きかった。徳川家の軍事に関しても数正は内情をすべて知っているので、軍備を一から再編成しなくてはならなくなった。ただ、このとき採用したのが当時最強といわれた武田軍のものだったから、徳川軍団は更に強くなった可能性がある。もし、数正の出奔がなければ関ヶ原の合戦にも何らかの影響が出ていたかもしれないというのは考えすぎだろうか。
 こうして秀吉の家臣として取り立てられた数正は松本城に入り、小さな支城に過ぎなかった松本城を家康に対する備えとして、戦うための城に建て替えることになる。戦国時代としては珍しく平城なのは、鉄砲戦を想定したものだった。秀吉の後ろ盾を得て、数正は家康を迎える気満々だっただろう。
 しかし、家康も黙ってはいなかった。数正は裏切ったのではなく、自分が秀吉の元に送って内通させているのだという噂を流した。秀吉がどの程度真に受けたかは分からないけど、その後数正は徐々に豊臣家でも発言権を失っていき、しまいには邸に閉じこもって出てこなくなってしまった。
 結局、2年後の1592年に、秀吉の朝鮮出兵命令に従って出陣した先の肥前名護屋城で失意の内に死去してしまう。新生松本城の完成をついに見ることはなかった。
 その後松本城は、嫡男康長が父の遺志を受け継ぎ、1594年に完成させた。最終的な天守の完成は1597年頃と言われている。

松本城-2

 どの角度から見ても松本城の天守は美しい。端正で、ほどよい重量感があって、凛としている。優美で華麗な姫路城もよかったけど、松本城も双璧だ。
 白鷺城(はくろじょう)と呼ばれた姫路城に対して、黒い松本城は烏城(からすじょう)と称されている。
 ところで、黒い天守と白い天守は、豊臣方と徳川方だと思っていたら、そんな単純な話ではなかった。
 白壁は漆喰なわけだけど、主な理由として、維持費の問題だったようなのだ。お金をかける城は漆喰で白壁にして、お金をかけないときは黒板にしたというのが現実的な事情だったらしい。漆喰は10年ほどしか持たないため、お金も手間もかかった。
 徳川家の居城である江戸城も、建てられたときは漆喰で白壁だったものが、10年もしないうちに漆喰がはがれてきて、塗り直すことなく黒壁になっていたというし、逆に豊臣方の聚楽第や伏見城は白壁だった。家康が隠居後にすんでいた駿府城も黒板の天守だったというから、黒城イコール豊臣方というわけではないことになる。
 大阪城が黒板と黒漆喰だったので、豊臣は黒城というイメージが定着したのだろう。たまたま、豊臣方の松本城や熊本城も黒城だったということもある。
 黒板の外壁は、下見板張りと呼ばれるもので、当時は板に炭と渋柿を混ぜた塗料を塗って黒くしていたそうだ。この板張りなら60年持つという。
 戦国時代は城を華麗に飾っている余裕もなく、江戸時代に入ってからの城は見た目の美しさも重視して白漆喰の城が多く建てられたということだろう。

松本城-4

 西日を浴びて金黒色に光る松本城。黒城自体見るのが初めてだったから、こういう風情も新鮮に映った。
 大天守は5重6階で、乾小天守を渡櫓で連結して、辰巳附櫓、月見櫓を持つ連結複合式天守となっている。
 戦があった時代に造られた城ということで、窓が少なく、鉄砲を撃つ穴や石落としのための穴が多数開けられている。
 ただ、現在のスタイルは江戸時代になってから改築されたもので、創建当時は少し違っていたらしい。月見櫓などを増築した松平氏によって今のような姿になったようだ。

松本城-5

 平城ながら高さ30メートル近くある松本城は、離れたところからもよく見える。
 松本市はこの周辺のビルに高さ規制をかけているようで、周りに高い建物がないのもいい。北アルプスを背に悠然と建つ天守閣というのも、松本城ならではだ。
 しかしこの松本城、明治時代になると大きく傾いた。明治に撮られた古い写真を見ると笑える。ピサの斜塔もびっくりというくらい傾いていて、今にも倒れてきそうなのだ。
 もともとこのあたりは沼地で、地中に埋め込まれた柱が老朽化して沈み込むという欠陥住宅のようなことになって傾いてしまった。
 このままでは本当に倒れてしまうんじゃないかと心配した市民が立ち上がり、明治36年から大正2年までの10年間をかけて大修理が行われた。
 傾いた城といえば、姫路城を思い出す。大工の責任者だった源兵衛は、天守がどうにも少し傾いている気がして妻に傾いてるように見えないかと訊ねる。確かに傾いているような気がすると言われて、自分の設計が間違っていたと思ってノミをくわえたまま天守から飛び降りたのだった。実際は、土台の石が重みで沈んでしまって傾いただけだということがあとになって分かった。
 城というのは、いろんなところで人の人生を大きく左右させ、ときに狂わせる。

松本城-7

 戦国時代の城らしく、石垣は野面石による空積みで、直線的だ。この方が頑丈だから。優美な曲線を持った城が誕生するのは、平和な江戸時代に入ってからのことだ。
 考えてみると、戦国時代まっただ中に建てられた城というのは、見せるためのものではなく、実用本位なわけで、見た目よりも守りの堅さ重視だった。安土城にしても、私たちが思っているほど優雅なものではなく、実はけっこう無骨な城だったのかもしれない。
 天守は籠城戦のときに使われるもので、普段使いではない。結果的に美しいと感じさせるのは、機能美が持つ美しさなのだろう。そこに日本人の美意識が共感するのだ。

松本城-9

 黒門が有料ゾーンへの入り口になる。夕方の4時半が入城の最終だったので、間に合わなかった。
 この枡形の黒門は、昭和35年(1960年)に復元されたものだ。
 松本城は残念ながら、天守以外の本丸御殿や二の丸御殿などは残っていない。本丸御殿は、1727年に火事で焼けて、お金がなくて再建されなかった。
 堀も内堀と外堀の一部が残るだけで、敷地としてはかなり縮小されている。このあたりが姫路城との決定的な差で、あちらは世界遺産になってここはなっていない要因だ。
 国宝の松本城と彦根城を回ってみて、あらためて姫路城の素晴らしさを再認識した。あそこは奇跡的な残り方をしている。

松本城-10

 太鼓門は、言っちゃなんだけどピカピカでなんとも軽い印象だった。平成11年(1999年)に復元されたものだから、まだまだ新しすぎる。
 でも、これは石垣から組み直して苦労して再現したもののようなので、悪く言っては申し訳ない。できたての城なんて、昔もこんなふうだったかもしれないのだ。あと30年くらいすればそれなりに貫禄も出てくるだろう。

松本城-8

 数正の嫡男・石川康長以降の松本城の歴史について少し書き加えておこう。
 1613年、康長は大久保長安の事件(幕府の金を使い込んだ疑惑)に連座した疑いを持たれて、九州豊後に流されてしまう。
 かわって小笠原秀政が再び松本城主に戻るものの大阪夏の陣で戦死。二代の忠真は播磨明石へ移封。
 その後、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏とめまぐるしく交替したのち、水野忠恒が江戸城内で刃傷事件を起こして改易。松本城はしばらく幕府直轄となった。
 ようやく落ち着いたのは、1725年に戸田光慈が志摩鳥羽から6万石で入城してからだ。以降、戸田氏9代が城を守り、明治維新を迎える。
 廃藩置県で廃城の危機を迎えるも、地元の有力者が買い上げてなんとか難を逃れる。
 昭和11年(1936年)、国宝指定。現在は、世界遺産登録に向けての活動が続けられている。

 天守に登らなかったのに、松本城については書ききってしまった感がある。書くまではちょっと悔いも残っていたのだけど、書いたらすっきりしてしまって、もう行かなくてもいいかという気になった。もう一度行って天守まで登ってもこれ以上書くことがあまりない。何かのついでがあって近くを通りかかったら寄ってもいいかなくらいの気持ちだ。雷鳥の里を買いに行くためだけにはちょっと遠すぎる。
 これで国宝4天守はすべて行って、書いた。天守はないものの二の丸御殿が国宝になっている京都の二条城もあるけど、あそこは3度行っている。次なる目標は、現存12天守の制覇ということになるだろう。中国、四国地方に集中しているから、行くならまとめて行くしかない。1泊2日の強行軍で回りきれるものなんだろうか。せめて2泊はしないと無理か。もう一つ離れたところにある弘前城は、ぜひ桜の季節に訪れたい。
 城とは別に、国宝建築物シリーズというのも継続中だ。最近では、愛知県吉良町の金蓮寺を紹介した。岐阜県多治見の虎渓山永保寺もそうだ。近場でいくと、長野の善光寺をはじめとして数ヶ所、滋賀県もたくさんあるので、そのあたりも機会があれば行きたいと思っている。
 今年の一つの目標として、京都行きがある。東京、鎌倉、奈良、滋賀と来たら、次は本命の京の都だろう。以前に何度か行っているけど、このブログではまだ一度も登場していない。一日回ればネタもしっかり集まるだろうから、ネタ切れになったら行こう。たぶん、秋くらいに。

寄せて集めて20年、彦根城って一体なんだったんだろうとちょっと思う

城(Castle)
彦根城-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 今日ふと桜並木を見たら、若葉を青々と茂らせるまったく別の木のようになっていた。ついこの間まで満開の花をつけていた桜の木は、10日もしたらもう次の季節に移行している。なんて変わり身の早さ。季節の移ろいの速度にあらためて驚かされる。
 季節は前へ進んでいるけど、話は少し前に戻したい。今日は滋賀巡りの3番目に行った彦根城について書きたいと思う。
 現存する12天守のうち、国宝に指定されているのは4つ。姫路城、松本城、犬山城、そして彦根城だ。このブログでは、姫路城と犬山城についてはすでに書いた。松本城もこの前外観だけは撮ってきたから、近いうちに書くつもりでいる。
 現存12天守は、北から弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知となる。明治維新で多くが取り壊されて、第二次大戦の空襲が追い打ちをかけた。
 個人的には彦根城の訪問はこれが二度目となる。小学生のとき両親に連れて行ってもらったことをうっすらと覚えている。ただ、城少年ではなかった小学生の私にとっては決して楽しい思い出の場所というのではなく、むしろ一緒の日に回った近くの醒ヶ井のマス釣りの方が印象深い。
 今でも城野郎になったとは思ってないけど、このブログの城コレクションがだんだん充実していっているのは確かだ。今日の彦根城で国宝コンプリートに近づくことになる。

 JR彦根駅から彦根城まではのんびり歩いて10分くらいだから、歩いている人がけっこういた。この日は桜がほぼ見頃ということで、平日にもかかわらず大勢の観光客が訪れていた。
 彦根城は去年、築城400年祭で、史上2番目の入場者数だったそうだ。話題になったマスコットキャラクターのひこにゃんが集客に一役買ったとか買わなかったとか。城に興味のないちびっ子もひこにゃん見たさに彦根城へ行ったとしたら、ひこにゃん大活躍ということになる。この日は姿を見せなかった。ひこにゃん、見たかったのに。バイトの学生でいいんだから、毎日城の中をうろつかせておかないと。
 入り口はいくつかある。駅から普通に行くと、自然と二の丸佐和口多聞櫓に着く。上の写真がそうで、堀はかつての中堀で現在は外堀ということになる。このあたりも当時の姿をかなり残している。
 佐和口門という櫓門はすでにないものの、佐和口多聞櫓が現存しており、国の重要文化財に指定されている。
 堀には水戸市から贈られたというコクチョウが泳いでいた。そういえば姫路城もコクチョウだった。名古屋城などはハクチョウだ。
 彦根城といえばこの地方の桜の名所としても知られている。昔から城と桜はセットだったわけではなく、たいていは戦後だったり昭和のはじめ頃に植えられたものだ。戦国時代にのんきに桜を植えて花見をしてる余裕はなかっただろうし、江戸時代にしてもお殿様のお城に庶民が入れるはずもなく、大名の間でもそういう発想はなかったらしい。
 彦根城の場合は、昭和のはじめに市民運動で桜が植えられた。今では城内に1,200本まで増えて、城内のあちこちがピンクの彩りを添える。

彦根城-2

 彦根城は琵琶湖にほど近い彦根山の上に建っている。当時はもっと近くまで琵琶湖の湖岸が来ていたようだ。
 彦根城の別名「金亀城(こんきじょう)」は、平安時代にあった彦根寺に金の亀に乗った観音様が祀られていて、金亀山と呼ばれていたところから来ている。
 標高136メートルだからそんなに高い山ではないとはいえ、天守閣へは登りの道を歩くことになる。年配の方はちょっと大変だ。私も安土城のダメージを引きずっていたので、けっこうしんどく感じた。この頃になるとだいぶ疲れの感覚が麻痺していた頃ではあるのだけど。
 現在でもかなりの部分の遺構が残されているとはいえ、かつては全体の規模が姫路城くらいあったそうだ。今でもそれくらい残っていたら間違いなく世界遺産になっていただろう。1992年(平成4年)に暫定リストに載ったとはいえ、やや決定打に欠けるか。世界遺産になるとたちまち外国人観光客が押し寄せるから、必ずしもいいことばかりではないようにも思う。世界遺産というのは絶対的なお墨付きだけに、国外にも強い影響力を持つ。

彦根城-3

 ここはテレビでもよく見かける場所だ。自分が訪れたときの遠い記憶が、ここへ来てようやくよみがえった。そうそう、ここ来た、来たと思う。時代劇でもお馴染みだ。
 廊下橋と天秤櫓があるこの場所が、彦根城の最初のクライマックスと言える。

彦根城-4

 ぐるりと回り込んで廊下橋の手前にやって来た。奥に見ているのが天秤櫓だ。
 天秤櫓は長浜城の大手門を移築したものだと言われている。これも重要文化財。
 多聞の左右に2層2階の隅櫓があって、天秤ばかりのような格好をしてるところから名づけられた。

彦根城-5

 まだそう簡単に天守には辿り着けない。次に出迎えるのは、佐和山城の城門を移築したとされる太鼓門櫓だ。これも重文指定。

彦根城-6

 ああ、来たなここと、鮮やかに記憶がよみがえる。運動場の隅にポツンと建つようなこの感じが彦根城だ。思い出した、思い出した。この前で家族写真も撮ったんだった。

 徳川四天王と呼ばれた猛将の一人、井伊直政は、関ヶ原の合戦ののち、家康に18万石を与えられて西軍大将・石田三成の居城だった佐和山城に入城した。1601年のことだ。
 佐和山城は、彦根城から見て1キロちょっと東にいった山の中にあった。本来ならここの城主におさまるはずだった井伊直政は、この城を嫌い、琵琶湖に近い西側に新しい城を築くことにする。佐和山城は交通の要所からはずれているからとか、敗北の敵大将の城で荒れ果てていたからとか、敵勢力の痕跡を消すためだったとか、いろいろな理由があった。いまだ大阪に健在の豊臣方に対する備えと威圧という意味からも、あたらな城を築く必要があったとも言われている。
 佐和山城自体は名城として名が通った城だったから、壊す必要はなかった。「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われていたくらいだ。
 当初、井伊直政は湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に新しい城を築くことを計画していた。しかし、関ヶ原で受けた鉄砲傷が治らず、計画が進まないまま1602年に死去してしまう。41歳だった。
 家督を継いだ直継(のちの直勝)がまだ幼かったため、家臣たちが遺志をついで城が建てられることになる。再検討した結果、場所は彦根山が最適だろうということになった。
 翌1603年に築城が始まり、天守は大津城から移築してきたため2年ほどで完成した。移築の際に、もともと4層だったものを3層に縮小したため、下半身の優美なラインが失われてずんどうな格好になってしまった。
 その後も造営は続き、彦根藩のみならず、家康の命令で全国12の大名も手伝わされることとなり、天下普請となっていった。大阪城に対する重要防衛拠点という位置づけだったのだろう。
 1606年までに二期の工事が終わり、天守に直継が入城したあとは彦根藩単独となりなりながら、最終的には20年の歳月をかけて1622年にようやく完成をみたのだった。藩主は三代目の直孝に代替わりし、気づけば大阪夏の陣も1615年に終わって、豊臣家は滅びたあとだった。当初の目的はどこかへいってしまっていた。
 井伊家は加増を重ね、1633年には譜代大名では筆頭の35万石となった。
 彦根城のユニークなところは、初代藩主から明治維新の14代藩主まで、一度の領主替えもなかったという点だ。こういうことはめったにない。
 13代藩主があの桜田門外の変で討たれた大老・井伊直弼だ。井伊直弼が藩主になるまでの不遇の時代を過ごした屋敷が埋木舎(うもれぎのや)として今も残っている。
 彦根城のもう一つの特徴として、リサイクルの城だったということもある。いろんな櫓をあちこちから持ってきて、天守まで他の城から移してしまうなんてのも珍しい。西ノ丸三重櫓は小谷城の天守だし、石垣は安土城の石垣から持ってきた。だから、寄せ集めの城なんて言われ方もする。
 明治維新の際にこの城が取り壊されなかったのは、明治天皇が彦根を通ったときにその姿を見て保存するように命じたからとか、大隈重信の助言によるものなどとされている。第二次大戦でも焼けなかったのは幸いだった。

彦根城-7

 天守に入るのに入城制限がかかって、まさかの20分待ちとなった。そんなこともあるんだ。桜の季節の週末は1、2時間待ちということもあるらしい。
 やることがないので桜と天守の写真でも撮ってみる。右後方のはるか遠くに佐和山城が建っていた山も見えた。敗軍の将の城が残っているはずもなく、現在はわずかに遺構が残るのみで、訪れる人も少ない。勝てば官軍負ければ賊軍というのが歴史だ。

彦根城-8

 懐かしい昭和ムードたっぷりのおみやげ物屋さんもあった。
 昔、ここでペナントを買ったかもしれない。ミニチュアの城は持っていた記憶がないから、買ったとすればキーホルダーかペナントだっただろう。

彦根城-9

 戦に備えての城とはいえ、関ヶ原以降に立てられた城だから、当然戦の舞台にはなっていない。籠城戦などはあまり想定していなかったんじゃないか。
 天守はどこのものも一番上は狭くて、生活するような空間ではない。実際、政務などは下の御殿で行われていたようだ。
 天守に登って何があるというわけではないけど、せっかく来たらここまで見ておかないと行った気になれないというのが人情だ。行って何もないことを確認すればそれで気が済む。
 それにしても階段が恐ろしく急だ。ほとんど垂直に近い。

彦根城-10

 これまでに何度か修理や改装はあったのだろうけど、天守の内部などはほとんど当時の姿そのままなんじゃないだろうか。
 金網などという無粋なものも一部付けられているものの、純木製の造りは歴史の重みを感じさせる。
 人が多くてざわめきに空気は乱されていたけど、ひとけのない夜に一人でここに登ったらさぞかし恐そうだ。
 ここは城主の多くが若死にしている城でもある。

彦根城-11

 天守からの眺めは花盛りだった。向こうに見えているのが琵琶湖だ。昔はもっと近かったのだろう。

彦根城-12

 彦根城の天守は、あまりフォトジェニックとは言えない。姫路城のような優美さがなく、本丸に行ったときに真正面から見ることになるので損をしているところがある。城はやはり、斜めからの角度が美しい。

彦根城-13

 帰りは裏の黒門から庭園の玄宮園・楽々園を通って帰った。かなり大回りで相当歩くことになった。
 写真は大手橋で、こちらも桜がよく咲いていてなかなかよかった。

 彦根城とその周辺の写真がまだだいぶ残っているので、近いうちに彦根第二弾として紹介する予定だ。彦根城の総括もそのときでいいだろう。
 ひこにゃんのライバル、しまさこにゃんと、いしだみつにゃんについてもそのとき書こう。

自分がすっきりするために花の勉強をして覚えて軽く受け流したいのだ

花/植物(Flower/plant)
森林公園の花2-1

PENTAX K100D+smc Takumar 50mm f1.4 + Close-up No.5 /smc Takumar 135mm f2.5



 今日は昨日の続きで、森林公園の花アップ写真第二弾になる。今回は木に咲く花を中心に集めてみた。木の花は地面の野草以上に手強いので、最初から半分あきらめている。木の花まで全部覚えようとすると収拾がつかなくなる。似たものもけっこうあって、数が多い。野草の場合は同じものをあちこちで見る機会があるのに対して、木の花は単発だから反復記憶ができない苦しさがある。一度読んだ本の内容を全部覚えられる人の脳ならいざ知らず、私の脳はそんなふうにはできていない。
 最初から言い訳がましくなったけど、とにかく見切り発車で出発して、分かる範囲で書いていこうと思う。私が分からないものに関しては各自の宿題とします。明日までに調べてくるよーに。

 一枚目は、たぶん、コバノガマズミでいいんじゃないかと思う。これより葉が大きいガマズミという可能性がなくはないけど、一応コバノガマズミということにしておく。コバノガマズミは春の花で、ガマズミは初夏の花という違いがあるから、4月に見たらたぶんコバノガマズミだろう。
 花と葉っぱだけを見るとアズキナシにも似ているものの、あれは高い木だから違う。他にもこういう白くてコチョコチョっとした花はたくさんあるから、花の姿だけで覚えていると見分けがつかなくなる。
 コバノガマズミの分布は関東より西というから、東北地方の人には馴染みがないのかもしれない。狭い日本でも、気候が違えば咲く時期だけでなく花の種類そのものが違ってくる。当たり前だけど、考えると不思議な気もする。ガマズミは日本全国に分布するというから、面白い。
 ガマズミは莢迷という字を当てるのだけど、名前の由来はよく分かっていないらしい。赤い実を神棚や仏壇への供え物にしたから神つ実でそれがなまったものとか、赤編に赤という字で「かが」と読んでかが之実でガマズミになったとか、いろいろな説がある。

森林公園の花2-2

 ツツジもまた頭が痛い花だ。ツツジはツツジだろうと普通の人は言うだろうけど、ツツジを甘く見てはいけない。日本には50種類からのツツジがあって、園芸種は2,000種類以上もある奥深い花なのだ。
 シャクナゲもツツジの一種だし、サツキもツツジだ。もうその時点で逃げ出したくなる。まずはヤマツツジとミツバツツジとに分かれ、サツキはヤマツツジの中の一種になる。ヤマツツジにはモチツツジ、コメツツジがあって、さらにその先に種類が分かれている。ね、絶望的でしょ?
 とりあえず覚えておくこととしては、落葉樹がツツジで、常緑樹がシャクナゲということだ。あとは、ヤマツツジとミツバツツジとに大きく分けられるということくらいまでは押さえておきたい。その先はマニアの世界だ。踏み込むなら覚悟がいる。
 園芸種の代表的なものとしては、キリシマツツジとか曙とかがあって、知らない間にどこかで見ている人も多いと思う。
 上の写真はコバノミツバツツジだ。小さい葉っぱのミツバツツジということで、当然のことながら普通のミツバツツジもある。違いは葉の大きさというか小ささだ。並べてもらえば分かるけど、それぞれ単独だとよく分からない。
 山や雑木林のようなところでたくさん咲いているのは、たいていコバノミツバツツジだ。
 分布は静岡より西ということだから関東ではまったく見かけないのだろうか。

森林公園の花2-3

 レンギョウは丈夫で育てやすいので、街路樹として植えられていることが多い。この時期鮮やかなこの黄色をよく目にする。公園や民家の庭先にも植えられている。
 一般的には鮮やかな黄色のチョウセンレンギョウが多い。レモンイエローのようなレンギョウは、シナレンギョウだ。他にも数種類ある。
 原産は中国で、日本には平安時代にはもう来ていたという。
 漢字で書くと連翹で、これを音読みしてレンギョウとしたのだけど、本来この字はトモエソウやオトギリソウのことを指す言葉だった。日本で間違われて使われて、以来そのままになってしまった。
 高村光太郎がこの花が好きだったというのはちょっと意外だ。光太郎の命日を連翹忌というのはそのためだ。太宰治は桃の花が好きだったから桜桃忌というのも有名な話。夏目漱石は木瓜(ボケ)が好きだった。

森林公園の花2-4

 なんだか知らないけど、その年最初にヤマブキを見ると焦る。わっ、もうヤマブキの季節になってしまったんだ、と。春に咲く花で季語も春なのに、私の中では初夏をイメージさせる花だから。
 八重のヤマブキを詠った太田道灌の歌はよく知られている(七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき)。日本人に昔から愛された花で、万葉集などでも詠まれている。
 高校のとき、友達のてっちゃんが1万円もするデザイナーズブランドのトレーナーを買うのを見て、そんなもの買うなら清水屋でトレーナー10枚買えるからやめた方がいいと言って止めたのを覚えている。あれはメンズバツかどこかの山吹色のトレーナーだった。ヤマブキはそのときの記憶とも結びついている。

森林公園の花2-5

 この時期になる赤い実は珍しい。秋はこんな赤い実ばっかりで区別する気力も湧かないけど、春の赤い実はちょっと気になる存在だ。これは何の実だろう。
 今のところ分からないので保留にする。

森林公園の花2-6

 こういう黄色い花を見ると、反射的にヘビイチゴだろうと決めつけてそれ以上深く追求しないことにしている。もしかしたらミツバツチグリかもしれないし、キジムシロだったりするのかもしれないけど、深く考えてはいけない。まさか、オヘビイチゴじゃないよね? と、誰にともなく訊ねてみる。
 これはたぶん、ヤブヘビイチゴでもなく、普通のヘビイチゴでいいと思うんだけど、どうだろう。
 見分けるポイントは葉っぱだったりすることが多いから、スミレに限らず自信のないものは葉っぱまで含めて記録しておく必要がある。

森林公園の花2-7

 ド近眼的な写真ばかり続いて疲れたので、たまには遠くを見たくなった。近くを見て遠くを見て、また近くを見て遠くを見て、視力回復トレーニングみたいに。
 しかし、遠くを見てもまた分からない花が目に飛び込んでくる。近くを見ても分からず、遠くを見ても分からず、じっと目を閉じるとスミレが思い浮かぶなんて、花ノイローゼか。
 湿地帯に咲いていたこの花は何だろう。初めて見る花だ。花じゃない? 遠くてよく見えなかった。写真でも分からない。ほかっておこう。
 って、もしかして、ほかっておくって名古屋弁? そんなもん、ほかっとけ、みたいな使い方をする。ゴミを捨てるとかではなく、放り出しておくみたいな意味だ。放置する、無視するというニュアンスも含んでいる。

森林公園の花2-8

 知ってる花に出会うとホッとする。高校に入学して同じ中学だったやつに会ったみたいに。
 これはコバノミツバツツジ。アップ写真とはずいぶん印象が違う。街路樹に植えられているツツジとも感じが違うことが分かると思う。

森林公園の花2-9

 ヤグルマギクの青は、自然が生み出したとは思えないような青色だ。人工的に作り出された色みたいに見える。
 この花の青は奇跡的な青で、バラと同じアントシアニン色素を持ちながら、鉄とマグネシウムとカルシウム、そしてフラボンという有機物が結びついて青になっているという。青いバラが作り出せないのは、バラはこの結合ができないからだそうだ。ただ、このヤグルマギクの構造が解明されたことが青いバラのヒントとなって、それに近いものが近年作り出されつつある。サントリーが作った青いバラは、まだまだうっすら青い灰色という程度だったけど、もしかしたら近い将来、このヤグルマギクと同じくらい青いバラが登場するかもしれない。ちょっと楽しみなような、青いバラは不可能のままであって欲しいようなだ。
 ヨーロッパの麦畑で当たり前に咲く雑草だったものが、あまりにもきれいな青なのでやがて園芸種として育てられるようになった。今はピンクや白など、様々なヤグルマギクがある。
 ノヴァーリスの小説『青い花』はこの花がモデルだったようだ。ドイツの国花にもなっている。
 日本に入ってきたのは江戸時代の末で、矢車というのは鯉のぼりの上で回っているあれのことだ。
 矢車草とも呼ばれることがあるけど、ヤグルマソウという別の花があるので、間違えないようにしたい。

森林公園の花2-10

 大阪造幣局の通り抜けの桜がそろそろ満開を迎えたとのことだ。あれはサトザクラだからこんなに遅い。森林公園の中や外でもサトザクラがよく咲いていた。
 ソメイヨシノの魅力には遠く及ばないものの、アップにしたときの写真写りはいい。濃いめのピンクのヒラヒラが華やかだ。
 サトザクラは交配によって作り出された桜の総称で、たくさんの品種がある。でも今日のところはそういう話はもうやめておこう。読むのも疲れてしまっただろうし、私もくたびれた。

森林公園の花2-11

 遠くの月でも見て目と心を休めよう。
 手前は散った桜だ。ソメイヨシノじゃない。ヤマザクラだろうか。まだ少し花がついていた。

森林公園の花2-12

 今回は135mmとC-PLフィルターの組み合わせの試し撮りというテーマもあったのだけど、それはあまり撮れなかった。最後に一枚だけ載せておこう。場所を選べば水面の映り込み写真として面白いものが撮れるかもしれない。

 花の名前や区別ばかり気にしていると花の美しさの本質を見落とすことになる。それでは本末転倒だ。とはいえ、気になり出すと気になるもので、分からないと胸のモヤモヤが消えずに残って気持ち悪い。分かるようになったからといって誰に自慢できるというわけでもないけど、自分自身のためにすっきりしたい。パッと見て、スッと分かって、ササッと流せるようになればどんなにいいか。分かるようで分からなくて思い煩うのが嫌だ。だから、もっと勉強して分かるようになりたい。
 野草に興味を持って撮るようになって、今年で5シーズン目ということになるだろうか。そう考えるとあまり勉強が進んでいるとは言えない。毎年しっかり覚えていっていれば、今頃はスミレでもある程度の区別くらいはつていたはずだ。
 ただ、一足飛びにはいかないから、毎年少しずつ知識を積み重ねていくしかない。季節が春から初夏に変わる頃までには、少なくとも去年の自分を上回っていたい。
 図鑑を見ているだけではなかなか覚えられるものではないから、やっぱり写真に撮るのが一番だ。たくさん撮って、帰ってきて調べて、一つずつ覚えていこう。私のザル記憶ではたくさんこぼれてしまうだろうけど、こうしてブログに書いておけばデータベースになる。
 次の花目標は藤だ。4月の終わりにはもう咲き始める。油断しているとゴールデンウィークのうやむやに飲み込まれてしまう。5月になればカキツバタ、バラと続いていく。あらためて今自分が春の中にいることを実感するここ最近なのであった。

探し物は何ですかと訊ねられたら足下の春ですと答えよう

花/植物(Flower/plant)
森林公園花アップ-1

PENTAX K100D+smc Takumar 50mm f1.4 + Close-up No.5



 カメラ関係の小物類を放り込んである棚の中を探っていたら、Close-up No.5レンズが出てきた。そういえばだいぶ前に買ったんだったな。全然使わなかったからすっかり忘れていた。寄れないTakumar 50mm f1.4をなんとかマクロ的に使えないかと思ったのだ。けど、No.5は寄れすぎてしまって自由度が低いから、すぐに使わなくなってしまったんだった。No.3くらいにしておけばよかった。
 部屋の中で使ってみると、倍率は低くて大写しはできないものの、かなり寄れることを再発見した。もう一回試してみて、使えそうになければ手放してしまおうと思い、こいつをつけて森林公園へ行ってきた。
 桜に気を取られている間に春がすっかり深まっていた。今が野草の花盛りだ。これから5月にかけてが一番賑やかになる。暑くなるとまた花は減っていく。
 今日のテーマはクローズアップだ。上も前も見ず、下ばかり見て歩く。このときの私の後ろ姿を見たら、落とし物を探しているか、ものすごく落ち込んでいる人に見えただろう。独り言をつぶやいていたら危ない人だ。
 そんなわけで今日は、花のクローズアップ写真をお届けします。普段は気づかずに見過ごしている足下の春は、こんなふうになってますよということで。立ち止まり、しゃがまないと見えないものもある。

 一枚目は、カラスノエンドウにとまるナナホシテントウだ。
 テントウムシも昔に比べると見なくなった。生活圏の中で空き地や草むらなどがなくなったことで普段見かけなくなっただけで、いるところには今でも普通にいるから、数はそんなに減ってないのかもしれない。
 カラスノエンドウは、この時期あちこちでよく咲いている。道ばたの街路樹の下などという条件の悪いところでもよく咲く。
 完全な雑草扱いで、見ても気にとめる人は少ないと思う。エンドウ豆に似た実は食べられるそうだけど、とって食べる人もめったにいないだろう。
 エンドウは分かるとしてカラスはどこから来たんだと思ったら、これに似てもっと小さいスズメノエンドウというのがあって、それより大きいからカラスになったんだとか。かなり安易なネーミングだ。それならハトエンドウの方がよかった。

森林公園花アップ-2

 このあたりの野草は、毎年春に再会したとき、ああ、これなんだっけなぁと思う。名前が思い出せなくて、調べて、ああ、そうだった、そうだったと覚え直して、また来年になると忘れているという繰り返しだ。
 これはたぶん、トキワハゼだ。いつもムラサキサギゴケと迷う。花の形はよく似ていて、ムラサキサギゴケの方がもっと全体的に紫色をしている。
 ムラサキサギゴケは4、5月しか咲かないのに対して、トキワハゼは4月から11月くらいまで咲いている。漢字で書くと常磐爆というのだけど、この常磐は長い期間という意味で、爆は籾付きの米を炒って爆ぜた形に似ているところから来ているそうだ。現代人からすると分かりづらいネーミングだ。

森林公園花アップ-13

 こっちがムラサキサギゴケでいいと思うんだけど、自信がない。
 花の上唇が反り返るという特徴を持っている。この写真ではちょっと分かりづらい。
 シロバナのものはただのサギゴケと呼ぶから、ムラサキサギゴケはその紫版ということだ。コケというのは、別にコケ類とかではなく、地表をびっちり覆う様子をコケにたとえたのだろう。
 いずれにしても、花の形はあまりサギには似ていないと思う。

森林公園花アップ-3

 白い小さな野草の区別も苦手だ。似てるのが多くて見分けるのが難しい。
 バンザイした先に手が付いていたらぺんぺん草のナズナで、手がなければタネツケバナというふうに覚えている。他にも似たやつがいたとしたら私がお手上げだ。
 タチタネツケバナとか、ミチタネツケバナとか、オオバタネツケバナとかの類似種もあるというけど、そこまで見分けられるようになりたいとは思わない。
 この花が咲いてきたら、そろそろ種籾を水につけて田植えの準備を始める時期が来たことを意味するというところから、タネツケバナと名づけられたそうだ。

森林公園花アップ-4

 またやっかいなのにぶつかった。おまえはジロボウエンゴサクかムラサキケマンか、そのどっちででもないのか言ってみろ。名を名乗れ、このやろうと思う。ヤマエンゴサクではあるまいな。
 まあたぶん、ジロボウエンゴサクでいいだろうということにしておく。
 延胡索は、地下の茎を中国では薬用に使っていてその漢方名で、スミレを太郎坊というのに対して伊勢地方の子供たちが次郎坊と呼んでいたところから来ているらしい。花の後ろのくいっと曲がっている部分を引っ掛けて、二人で引っ張り合いをする遊びをしていたんだとか。

森林公園花アップ-5

 こんなところでヒトリシズカと出会えるとは思ってなかったので、ちょっと嬉しかった。初めて見たのは、おととしの松平郷だった。あそこはヒトリどこか集団で咲いていて逆に風情がなかったから、これくらいの方が名前と合っている。ただ、残念ながら花の状態はよくなかった。本来はもっと白いブラシのようにきれいに咲く花だ。
 シズカは、義経の愛人の静御前から来ている。静御前が舞う姿にたとえたのだろう。

森林公園花アップ-6

 地味な黄色い花のハハコグサ。目立たない雑草だから、これが春の七草の一つ、御形(おぎょう)だと知る人は少ないかもしれない。若い茎や葉を食べる。
 古くは草餅の材料にされていて、明治時代に入ってからヨモギが使われるようになっていった。
 漢字は母子草を当てるものの、昔は御形だったわけで、白いうぶ毛に覆われていることからほほけ立つ草でホホケグサと呼ばれ、それがなまってハハコグサになったという説がある。
 あるいは、白い毛で覆われる様子が母親が子供に暖かい服を着せるのをイメージさせるから母子草になったなんて説もある。
 チチコグサもあるけど、もっと地味な姿をしている。

森林公園花アップ-7

 湿地はこの花を見ないと春が始まった気がしない。好きな花は何ですかと問われたときすぐに思い浮かぶのがこのハルリンドウだ。何よりも、非常に冴えた独特のブルーがいい。まだ枯れ色が残る湿地に爽やかなブルーがよく映えるのだ。
 南門近くの湿地にたくさん咲いていた。今日は時間がなくて木道の方には行けなかったのだけど、あっちにも咲いていただろうか。岩本橋近くの湿地では見かけなかった。
 これを見るともう、春というより初夏を予感させる。湿地もいよいよ野草シーズン開幕だ。海上の森にも行かないといけない。

森林公園花アップ-8

 喜んでハルリンドウをたくさん撮ったからもう一枚。
 今日は夕方まで日差しがあったので、よく花を開いていた。日が陰るとすぐに花を閉じてしまう気むずかし屋さんでもある。
 今日は白花のハルリンドウも見つけた。海上の森にはピンク色のハルリンドウも咲いているそうだ。まだ見たことはない。今年は見られるだろうか。

森林公園花アップ-9

 マツバウンランは北アメリカから来た帰化植物で、ここ数年で急速に勢力を伸ばした感がある。少し前まではあまり一般的な花ではなくて、私が持ってる2001年発行の山渓「野に咲く花」他、どのポケット図鑑にも載ってない。今や、公園の片隅や河原など、他の野草が育たないような悪条件のところでも生えているから、新しい図鑑には載っていることだろう。
 最初に発見されたのは60年ほど前の京都で、中部から関東に進出してきたのは、けっこう最近のことのようだ。
 もともと日本にはウンラン(海蘭)という花があって、それに似ていて、茎が松の葉のように細いからマツバウンランと名づけられた。
 一見すると雄しべも雌しべもない不思議な形をしているけど、白く盛り上がった部分の中に隠れている。

森林公園花アップ-10

 黄色い花の見分けも苦手だ。白も苦手で黄色も苦手なら何が得意なんだといわれると、得意なものはない。基本的に全部苦手意識がある。それだけ野草の区別はやっかいということだ。
 これは葉っぱが少ないからニガナだろうか。葉っぱが多ければジシバリのはずだ。でも半端に多いのはハナニガナだったりヤマニガナだったりするから油断はならない。ヤクシソウとか、コオニタビラコとか、似てるやつもけっこうある。
 名前は、食べると苦い味がするからだそうだ。花の名前を味で決めて欲しくなかった。

森林公園花アップ-11

 できれば見なかったことにして通り過ぎたいスミレ。今日のテーマはクローズアップだったから、見分けは保留とする。
 スミレの場合、家に帰ってから調べるためには葉っぱまでちゃんと撮っておく必要がある。花の色や形だけでは見分けられるものではない。花の後ろの部分とか、葉の裏とかまで撮っておくと、見分ける手がかりとなる。

森林公園花アップ-12

 少し離れて撮っても、やっぱり分からないものは分からない。マルバスミレかなとも思いつつ、ツボスミレかもしれないし、全然違っている可能性もある。アオイスミレでもないか。
 スミレは毎年春に頭を悩ませる存在だから、いつか克服してスミレを見ても目をそらさずに済むスミレに強い人になりたいと思う。山渓ハンディ図鑑の「日本のスミレ」を買うしかないか。2,000円という痛みを伴わないといつまで経っても覚えられない気がする。覚えたスミレのページは食ってしまうくらいの意気込みが必要だ。

 今日のところは、地面に生える野草を集めてみた。木に咲く花も撮ってきたので、春のクローズアップ第二弾もある。
 クローズアップレンズは、まずまず使えるとも言えるし、使いづらいとも言える。被写体との距離感が決まってしまうから、自由度が低くなる。タムロン90mmのように近づいてよし離れてよしというわけにはいかない。
 使い方としては、50mmレンズでスナップを基本としつつ、道ばたの花なんかを撮りたいときに付けて撮るといった感じだろうか。普通のレンズのように荷物にはならないから、持ち歩くときに苦にはならない。
 久しぶりにマクロ中心に撮って、けっこう新鮮だった。たまには面白いものだ。もう少しすると虫も増えてくるから、花と絡めて撮ればもっと楽しくなる。
 桜が終わってのんびり場合じゃない。季節はどんどん先へ行ってしまうから、遅れずについていかなくては。明日にでも桃を見に行って、次はもう藤の季節が近づいている。花は待ったなしだ。ちょっと気持ちが焦る。

きらり通りを訪れて八丁味噌ってそういうことだったのかと初めて知る

観光地(Tourist spot)
八丁味噌-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 岡崎城へ桜を見に行くときに下調べをしていたら、NHK朝の連続ドラマ「純情きらり」のロケ地が岡崎にあることを知った。このドラマは観ていなかったし、宮崎あおいにも思い入れはないのだけど、ついでに見に行ってきた。
 ドラマの主人公である桜子は、岡崎の八丁味噌の蔵元に生まれ、ジャズピアニストを目指して東京へ出て行くというストーリーだったようで、そのロケ地として八丁味噌の「カクキュー」が使われたということのようだ。
 で、訪れたカクキュー前。私は道に迷って辿り着くのに30分もかかってしまったけど、岡崎城から迷わず行けば歩いて10分くらいだろう。ところどころに案内が出ていることに帰り道で気づいた。

八丁味噌-2

 ちゃっかり便乗している、きらり通り。何年有効かは分からないけど、放送が2006年だっから、もうしばらく効果は続くだろう。
 下に写っている手形は、主な出演者のもので、この周辺のあちこちに点在している。私が見たのは、福士誠治のものだった。誰だよそれと思って素通りしてしまった。帰ってきてから調べてみたら、「のだめカンタービレ」の黒木くんだった。それならもうちょっとちゃんと見ておいてもよかった。最近、時代劇とかでもよく見かけるようになった。
 もう一つ、中岡崎駅の前には室井滋のものもあった。宮崎あおいのは、このあと登場する。

八丁味噌-3

 丸の中に「や」で「まるや」と、四角の中に「久」で「カクキュー」と、現在はこの二軒のみが八丁味噌を作っている。上の写真は、まるやの工場入り口だ。
 二軒はライバル関係にあり、お仲間でもある。創業は、カクキューが江戸時代の1640年代(家光の時代)で、まるやは1337年とのことだ。
 この二軒は、共同で八丁味噌の商品名を他のところが使うのはやめてもらいたいと訴えを起こして、裁判で負けた。八丁味噌の名前の由来は、岡崎城から西に八丁離れた村で作られていたことからきているのだから、他のところで作った味噌を八丁味噌と名乗るのはおかしいと、
 実際のところ、八丁味噌と赤味噌はイコールではなく、八丁味噌は赤味噌の中のブランド名なので、主張は間違っていない。フランスのシャンパーニュ地方で作られた発泡ワインだけがシャンパンであって他のものは厳密にはシャンパンではないのと同じように。
 現在このあたりは八帖町という地名になっている。

 いい機会なので、味噌について少し勉強してみた。知っているようで知らないことが多いのが味噌だ。赤味噌と白味噌と、それぞれ何からどんなふうに作っているのかを正しく説明できる人はあまりいないんじゃないだろうか。
 基本的に味噌の材料となるのは、米、麦、豆の3種類のどれかで、その3つを組み合わせた調合味噌の4種類がある。
 赤味噌と白味噌は材料の違いではなく、塩分濃度と成熟期間の違いによる。数ヶ月しか成熟させないと白味噌になり、1年以上寝かせると赤味噌になる。だから、米の白味噌もあれば米の赤味噌もある。
 米から作った白味噌は塩分が少なくて麹の糖分で甘くなり、赤味噌は塩分が濃いのでコクがあって塩辛くなる。
 地方によってそれぞれ特色があり、米の白味噌の代表は西京味噌と信州味噌あたりで、米の赤味噌には津軽味噌と仙台味噌などがある。同じ白味噌でも西京は甘く、仙台は辛いとか、津軽は濃くて信州はあっさりなど、味にも大きな違いがある。
 九州、四国は麦の白味噌が一般的で、北関東では大麦の赤味噌が作られている。
 豆から作る赤味噌は愛知県を中心とした中部地方のみで、その代表が岡崎の八丁味噌というわけだ。
 八丁味噌は、丸2年成熟させて作る。白味噌などは数ヶ月で、普通の赤味噌でも1年だから、いかに手間暇をかけているかが分かる。二冬二夏かけてじっくり成熟させた味噌は、独特の渋みとうまみを持ち、甘みが少ない。
 使うのは丸大豆と水と塩だけで、添加物は一切使わず、加熱や殺菌もしない。木の桶の中に材料を入れて、上から石の重しを乗せるという昔ながらの製法で作られている。
 味が濃い割には塩分が少ないので、健康にいい自然食でもある。家康も八丁味噌が大好きで、岡崎から江戸まで届けさせて毎日食べていたという。当時としては75歳という異例の長生きだったのも八丁味噌のおかげだったという話もある。
 じゃあ、味噌汁だ味噌カツだ味噌煮込みだと、赤味噌ばっかり食べている名古屋人は長生きかといえばそうでもない。家康は健康オタクだっから長生きできたのだろう。

 ついでに味噌の歴史をたどってみると、すでに縄文時代から味噌は食べられていたといわれている。酒と同じで、材料と作り方が単純だから偶然発見されて、それが定着したとしても何ら不思議ではない。
 奈良時代になると文献にも登場するようになり、平安時代には味噌屋もあったという。
 当時は豆味噌が主流だったようで、室町時代には広く食べられるようになっていた。
 戦国時代には携帯食として一般的なものとなっていて、調味料というよりおかずとして食べられていたようだ。肉食の習慣がなかったから、当時の貴重な蛋白源だった。
 米麹が使われるなど、味噌が多様になっていったのは江戸時代以降だ。
「手前味噌」という言葉があるように、かつては多くの家庭で味噌を作って食べていた。私の子供の頃にはもうなくなっていたけど、町や村に小さな味噌蔵などがたくさんあった時代もある。そこで量り売りをしていた。
 外国でいうと、中国の豆板醤のように似たようなものもある。東南アジアにもあるようだから、アジアの発想で生まれたものなのだろう。
 最近は外国でも味噌の存在は広く知られるようになっていて、欧米でも健康食としてよく食べられているそうだ。
 一通り味噌の勉強が終わったところで、きらり散策に戻ることにしよう。

八丁味噌-4

 カクキューの裏手は八丁蔵通りと名づけられていて、ここが一番雰囲気のいい場所となっている。
 見えている手形が、宮崎あおいのものだ。
 電柱が地下に入っていると更に良くなるから、なんとか岡崎市には頑張ってもらいたい。

八丁味噌-5

 私はドラマを観てないので、へぇーという感じだけだけど、観た人なら、そうそう、ここ、ここ、となるだろう。
 ドラマを抜きにしても雰囲気のあるいい通りだから、訪れてみる価値はある。

八丁味噌-6

 ドラマ直後はこのあたりも人がぞろぞろ歩いていたのだろう。2年経った今は、すっかり元の静かさを取り戻していた。岡崎城へ桜を見に来ていた人も、ここまでは足を伸ばそうと思わなかったらしい。通りかかるのは地元の人だけだった。

八丁味噌-7

 岡崎城が描かれたマンホールのフタ。最近、こういうデザインマンホールが増えたのはいいことだ。昔は実用本位だったけど、生活空間にもちょっとした彩りがあった方が楽しい。

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 八丁味噌作りの舞台裏が垣間見えた。向こうに見えているのが味噌を作る桶で、手前は上に乗せる石だ。どっかから拾ってきたものだ。いや、本当に江戸時代に河原で拾ってきた石を今もそのまま使っているそうだ。

八丁味噌-9

 カクキューの表に出てきた。まるやと共にどちらも予約をすると無料で工場見学をできるようになっている。ガイド付きで30分のコースだそうだ。
 これがなかなかの人気らしく、年間10万人も訪れるというから驚く。このときも駐車場から観光バスが2台出て行った。見学内容も面白くて飽きさせないというから、私も機会があれば行ってみたいと思う。
 見学の最後には味噌の試食ができたり、おみやげも売っている。普通の味噌だけではなく、味噌アイス、味噌カレー、味噌キャラメルなど、味噌づくし。トンカツなどにかける味噌だれを私は買いたい。
 見学しなくても、入っていけば売店でおみやげ物だけ買うことはできるんだろうと思う。

八丁味噌-10

 下を見ながら歩いていてもお金は落ちてないけど、道に迷うことはなくなる。案内はこんなところにあったのか。
 岡崎城を出て、真っ直ぐ西に向かって、中岡崎駅を越えればすぐに分かる。

八丁味噌-11

 味噌をつける、味噌っかす、そこが味噌なんだなど、味噌を使った言葉がけっこうある。それだけ日本人には欠かせないものとして昔から食生活の中にあった。長く外国へ行っていると味噌汁が恋しくなるという人も多いという。愛知の赤味噌に限らず、味噌は故郷の味でもある。と同時に、家庭の味でもある。結婚すると味噌汁の違いでもめるなんて話も聞く。
 日本人は明治以降、長く日本の味をないがしろにしてきた。特に終戦後はひどかった。ここへ来て少しずつ日本の味が見直されてきているところだけど、もっと和食を大切にしてもいい。
 味噌は味噌カツに代表されるように意外と応用の利く調味料だ。味噌おでんも美味しいし、味噌で煮込めるものもたくさんある。名古屋メシブームがもっと広がりを見せて、日本中でもっともっと味噌が食べられるようになるといいと思う。
 そんなこんなで、愛知の八丁味噌をよろしくお願いしますという話でした。私自身は白味噌の方が好きなんだけどね。

なんちゃってイタリヤ~ンサンデーは自分でも予想外のブゥオーノ

料理(Cooking)
イタリアテイスト

Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II



 今日のサンデーは、これといったテーマを決めずにメニューを考えて、作ってる途中でイタリア風ということに気づいた。あれ、これってけっこうイタリアじゃんと。ジャガイモパスタにタケノコのトマトソース、白身とマッシュルームのコンソメスープ仕立てと、なんとなくイタリアっぽい。でも、もちろんちゃんとしたイタリアンではないから、イタリヤン風ということにしておこう。今日はイタリヤ~ン・サンデーだ。ブォナセーラ。

 春といえば新タケノコも楽しみの一つだ。今日はタケノコからサンデーは始まった。まさかそのときはイタリヤンになるとは思ってもみなかった。タケノコから出発したらたいていは和食になる。
 当たり前に煮付けや天ぷらにしても面白くないので、トマトスープを思いつく。タマネギ、トマト、コンソメ、ケチャップ、白ワイン、塩、コショウ、砂糖などでトマトソースを作り、タケノコは塩、コショウ、しょう油で下味をつけながら煮る。
 タケノコをいったん取りだして水気を拭いたあと、ビニール袋にカタクリ粉と一緒に入れてよくシェイクする。こうするとまんべんなく衣がつくし、汚れない。
 油で揚げてもいいけど面倒なので、多少多めのオリーブオイルを入れたフライパンで焼く。タケノコは煮てあるので、衣がついて表面がサクサクになればいい。
 タケノコとトマトソースの相性はとてもいい。春にたくさんタケノコを買ったりもらったりして、同じ味に飽きてしまったときにオススメしたい。煮るだけよりもカタクリ粉で衣をつけた方がソースともよく絡むし、食感もよくなる。

 左手前のはジャガイモのピザだ。今回の中でこれが一番美味しかった。お気に入りのメニューとして自分のレパートリーの中に入れよう。
 ジャガイモは適当に千切りして、タッパーに入れてレンジで5分ほど加熱する。それをつぶして、刻みタマネギ、牛乳、カタクリ粉、塩、コショウを入れてよく混ぜる。
 熱したフライパンにオリーブオイル、バターを溶かして、つぶしたジャガイモを平らにしながら焼いていく。ジャガイモが焦げないように、弱火でじっくり時間をかけた方がいい。
 ある程度生地が固まったところで、表面にトマトソースを塗って、タマネギ、ベーコン、マッシュルーム、トマトを乗せて、上からフタをかぶせて蒸し焼きにする。オーブンがあればオーブンでやってもいいし、トッピングは好みで変えればいい。
 具に火が通ったら、とろけるチーズをたっぷり振りかけて、更に蒸し焼きにする。チーズが溶けたら完成だ。仕上げに、青のりとマヨネーズをかける。
 普通のピザ生地よりもカロリーが低いそうだし、ジャガイモで作る方が柔らかくできるので、こっちの方が好きという人もけっこういると思う。

 一番奥は、当初の完成予定から大きく違ってしまった一品だ。最初は白身魚にパスタを巻き付けて、オシャレな仕上げを目論んでいたのに、やっていたらぐずぐずのボロボロになってしまったので断念。なんとか失敗をうやむやにするために、急きょスープ仕立てに変更した。結果的にそこから新しい料理になったので、よしとしよう。
 白身魚の切り身に塩、コショウ、白ワインを振ってしばらく置いたあと、オリーブオイルとバターで炒める。
 パスタを別に下茹でして、コンソメスープを作って、タマネギ、マッシュルーム、白身魚、パスタを入れて少し煮込む。ちょっとだけカレー粉も入れている。
 パスタ料理というほどパスタの量を入れてないから、ジャンルとしては白身魚の料理になる。ただ、こういう意外な組み合わせというのは今後のヒントにもなった。料理の中にラーメンを組み込むなんてこともできそうだ。パスタ巻というのも別の具材でできないか考えてみよう。

 今日は久しぶりに食べ手としての満足度が高いサンデーとなった。作り手の側としては、少し失敗もあったり、もうひとひねり欲しいところもあったのだけど、食べて美味しかったからトータルとして納得できた。
 料理は引き算か足し算かといえば、アマチュアレベルでは断然足し算だ。道を究めたプロなら行き着くところまでいってそこから引き算になるのだろうけど、趣味の料理としては足せるものは足した方が良い結果になることが多い。二つの食材で作るより三つ、四つと加えるとその分美味しさは増すし、見た目もよくなる。特に洋食系はその傾向が強い。和食はあまり足し算をすると味が破綻する。
 今日の反省点の一つとして、タケノコにあと一つか二つ要素を足したかったというのがある。アスパラ揚げも付け合わせにするつもりだったのに、忘れてしまった。ここに緑色があれば、見た目としての完成度も上がっていたはずだ。
 フランス料理は飾り付けの小細工が上手だから、実際以上に美味しく見えたりする。家庭ではあんなふうに贅沢に小物を使えないとはいえ、ひと工夫はできる。ハーブなんかも種から育てれば無駄なく使えるからいいんだろうけど、なかなかそこまではできないのが現状だ。
 そんなわけで、なんちゃってイタリアン料理でした。

安土城跡を訪れてこんなんじゃないやいとだだをこねたくなる気持ち

城(Castle)
安土の桜並木


 あの有名な安土城(地図)があったところが観光地になっていないという事実を、私は安土駅(地図)に降り立って初めて知ることになった。安土駅前はひなびた田舎の駅といった風情で、信長の銅像がなければ間違ったところで降りてしまったかと思うほどだ。
 考えてみると、信長ゆかりの史跡というのはあまり残っていないことに気づく。生まれたとされる那古屋城はすでになく、最初の拠点だった清洲城も、天下統一への足がかりとした小牧山城も、岐阜城も、オリジナルはすでにない。今ある天守などはすべて昭和に入ってからの復元したものか模擬でしかない。信長時代の本能寺もなく、桶狭間の合戦跡も小さな公園(地図)があるだけだ。
 秀吉でも大阪城をはじめとしていくつもあるのに、信長が関わったもので現存しているものはあまりない。信長自身はこんなにも有名なのに、信長の足跡を辿ろうとするとどこへ行っていいのかすぐに思い浮かばない。
 今回訪れた安土城下で、私は呆然とするような思いに襲われた。本能寺の変以降、こんなにも何もないところになってしまっていたのかと。天下統一直前までいった英雄の業績が、これほど軽んじられているのは驚きを通り越して不自然ささえ感じる。あとに続いた人間が忘れようとしたのか、わざと打ち消したのかのどちらかだろう。家康は信長に対して一体どんな思いを抱きながら日本を作っていったのか。秀吉は死期が近づいた頃、枕元に立つ信長の亡霊におびえたというから、やはり後ろめたい気持ちや畏れがあったのかもしれない。

 桜シーズンということで、安土城跡にはそこそこ人が訪れていた。
 安土駅からは徒歩で20分と書かれているけど、実際はもう少しかかる。公共交通機関がないので、歩くか、タクシーに乗るか、レンタサイクルしかない。
 私は20分くらいならそんなに遠くないだろうと安易に考えて徒歩で向かったら、これが大失敗。往復の歩き50分プラス山登りと山下りの1時間、あわせて2時間歩くことになって、帰りはフラフラのヨレヨレになった。安土城を侮ってはいけなかった。素直にタクシーかレンタサイクルで行くことをおすすめしたい。
 発掘調査が進んで、昔の姿がかなり復元されつつある中、2006年から有料になってしまった。ずっと無料だったのに急に500円も取られる。それに見合うだけのものがあるかといえば、石段や石垣の跡くらいしかなく、山登りをさせてもらうのに500円払うみたいなものなので、信長や安土城にそれなりの思い入れがないと悔しさと疲れだけが残るかもしれない。
 安土城跡は国の史跡に指定されているものの、安土山の敷地は総見寺と個人の所有らしいから、有料なのは仕方ない。ただ、入山500円で駐車場も500円というのはちょっと取りすぎじゃないか。300円くらいにしてほしいと思う。
 何はともあれ、念願の安土城だ。前から一度は訪れなければいけないと思っていたところにようや訪れることができて、着いたときには感慨ひとしおだった。おお、ここが安土城かと。



大手道の石段

 本能寺の変以降しばらくすると、安土城は訪れる人もないほど忘れられた城となっていた。
 人々がようやく安土城のことを思い出したのは、大正時代に入ってからだった。大正7年(1918年)に保存会が発足して、その活動が認められて国の史跡に指定されたのは大正も終わりの大正15年のことだ。城跡の石碑が初めて建ったのは昭和2年だった。
 本格的な発掘調査が行われたのは昭和15年で、第一回の復元工事は昭和35年だった。それから15年ほどかけて少しずつ調査と復元が行われ、平成元年から二回目の大がかりな作業が20年計画で進められた。訪れたときはこれといった調査や工事は行われていなかったから、一段落したところのようだ。
 平成4年にはセビリア万国博覧会に出品するために城の上の部分だけ原寸大の復元天主が作られた。現在それは、「信長の館」に展示されている。安土城跡地からは少し離れたところにあったので、今回は寄れなかった。あわせて行っておくとより安土城のことが分かるに違いない。

 それにしてもここはなんだろう。なんだか悲しくて仕方なかった。こんなんじゃないという思いに打ちのめされて、信じられない気持ちでいっぱいになった。石垣が立派だとか偉容の一部を垣間見えるという感想を抱く人も多いようだけど、こんなガタガタの無惨な姿を見せられてはやりきれない。積み直された石垣も石段も、美しさからはほど遠く、かつての面影はどこにもなかった。歳月の残酷さを思い知る。
 安土城の素晴らしさは、絢爛な天主だけでなく、整然とした美しさを備えた城郭そのものだったはずだ。荒れ果てた上に中途半端な復元が痛々しい。石段の組み方だってガタガタだ。人並み外れた美意識を持っていたであろう信長がこんな汚い石段を許すはずがない。私が申し訳ないような気持ちになった。
 死後の世界を信じなかったとされる信長のことだから、自分の死んだあとのことなんてどうでもいいと思っているかもしれないけど、今この姿を見たらどんなふうに思うだろう。是非に及ばず、か、であるか、か。
 自分の中にあったイメージとのあまりのギャップの大きさに戸惑いながら、大手道を登っていく。いや、しかし、これはきつい。昔の人はどんだけ元気だったんだ。こんなもの、毎日上り下りしていられない。エレベーターもエスカレーターもないし、馬で登れる道でもない。信長も自ら行ったり来たりしてたんだと思うと、昔の人の足腰の丈夫さにあらためて驚かされる。モダンでハイカラな信長のことだから、人力のベルトコンベアくらい発明できなかったのかと無茶なことを思ったりもした。



邸宅跡

 大手通はほぼ直線に180メートルほど続き、少し登った左右には秀吉や前田利家の邸があったとされる跡地が発掘調査で明らかになっている。ただ、実際に資料があるわけではなく、敷地の規模などからしておそらくそうだろうということになっているだけだ。秀吉の方が広くて、利家の方が狭いというのも、あえてそういう差別化を図ったのだろうか。
 家康邸の跡もあるというのだけど、それはどうなんだ。家康は信長の家臣というより同盟者だ。安土城に家康が住むだろうか。家康が安土城を訪れているのは記録にあるけど、住んでいたという事実があるのかどうか。
 安土城に関してはいろいろと謎が多く、分かっていないこともたくさんあるので、想像で語られている部分はある程度差し引いて考えた方がいい。信長が狩野永徳に描かせて、天正遣欧使節によってローマに運ばれた安土城絵図屏風がもし見つかれば決定的な資料になるのだろうけど、いまだにそれは見つかっていない。現存する可能性は低いとされながらも、今もバチカンのどこかに眠っていると信じる人も多い。



大手道から見下ろす

 大手道をふうふう言いながらしばらく登って後ろを振り返ってみる。すでにけっこう高い。私はこの時点でかなりヨレ気味。そんなことではお館様に怒鳴られそうだ。
 この真っ直ぐ続く大手道は、安土城が守るための城ではなく、権威の象徴として建てられたものだということを表していると言われている。戦国時代、入り口から城内へ続く道がこんなに広くて真っ直ぐの城は他になかった。この当時、すでに信長はほぼ全国統一を果たしている時期なので、この城まで攻め込まれる心配はなかったからというのが一般的な説だ。
 ただ、大手道に関しても、はっきりしたことは分かってないので、後世の解釈は間違っている可能性もある。



信長霊廟

 かつて二之丸(西之丸)があった場所に、信長の霊廟(れいびょう)がある。信長自らが神として祀られるために建てたとも、秀吉が一周忌のときに建立したとも言われている。
 現在のものは江戸時代に建て直されたもののようで、かつてのものとは違っている。
 本能寺で信長の遺体は見つかっておらず、入れる遺骨も何もないから、信長の衣装や太刀、本能寺の灰を埋めたという話もある。
 信長の墓所や霊廟は、京都の阿弥陀寺や再建された本能寺の他、主だったものだけでも全国に10ヶ所以上ある。神様として祀った神社も数ヶ所あるものの、どこも天下人に対するような扱いのものではない。豊国神社や東照宮があちこちにある秀吉や家康とは、この点でも大きく違う。生きている間にさえ神になろうとした信長が死後も神様になれなかったとは、皮肉といえば皮肉な話だ。



本丸跡

 突然広い場所に出る。安土城内で最も広いここは、本丸跡だ。
 東西50メートル、南北34メートルのこの場所に、かつて本丸御殿があったとされる。
 調査によって119個の礎石が見つかっていて、そこに建っていたのは、天皇の住まいである内裏清涼殿とよく似ていることから、ここに天皇を住まわせようと信長は考えていたのではないかと言われている。これも実際のところはどうか分からない。あり得ない話ではないと思うけど。
 天主は更にこの上にあるから、信長は天皇を見下ろす格好になる。天主とは橋が架けられていて行き来ができるようになっていたという説もある。



天主跡

 どうにかこうにか、天主跡に辿り着いた。これはもうほとんど山登りだ。ヒザがおかしくなりそうだった。
 天主跡地は、思いのほか狭い。ただ、家でも取り壊してしまうと意外なほど土地は狭いものだから、天主が建っていれば逆に大きいと感じただろう。「信長の館」にある原寸大とされる天主は、上の部分だけでもやっぱり大きく思うらしい。
 礎石を見ると、正方形でなく八角形をしている。安土城天主の姿は、図面で残されていないため、知る手がかりとしては現場の遺構と、同時代人が書き残した文章しかない。太田牛一の「信長公記」や宣教師ルイス・フロイスの記述がどこまで正確なのかは、今となっては知りようがない。研究者によっても意見は様々で、天主に関してもいくつもの説があって、本当のところは分かっていない。セビリア万博に出展したものは、内藤説といわれるものを採用した。
 ただ、五重の七階建てで、最上階は金ピカ、下の階は朱色の八角形、黒漆塗りと白壁で、内装は華麗絢爛な障壁画と色彩で飾られていたというあたりまでは信じてよさそうだ。常識外れの豪華さと美しさであったことは間違いないだろう。
 ところで、天主と天守は同じものであり違うものだ。現代は天守閣と書くけど、これは秀吉以降の表記で、信長の時代までは天主とされていた。安土城だけが天主の表記を使っていたわけではない。
 安土城は、日本で初めて大型天守を持った城でもあった。城の思想としても、中世城郭から近世城郭へと移行させた功績を持つ。安土城以降、秀吉も家康も、この城を手本として城を築いた。

 安土城を訪れてみると、どうしてこんな田んぼに囲まれたへんぴな場所に、信長は天下統一のための城を築いたのだろうと不思議に思う。それは、昔のこの場所の地理を知ると納得する。
 今でこそ琵琶湖から離れた内陸の小山となっている安土山も、かつては琵琶湖の内湖である西の湖と伊場内湖によって三方を湖で囲まれた小高い岬で、城を建てるにはちょうどよい場所だったのだ。第二次大戦後、周囲を干拓地にしたことでその地形は大きく様変わりした。現在は西の湖の一部が少し離れたところに残るのみだ。
 位置的には、それまで住んでいた岐阜城よりも京都に近く(徒歩で一日半)、東には中山道、北には北陸道、南は東海道が走っていて、琵琶湖を使って舟で物資を運ぶにも適しているというのがあった。
 1576年、観音寺城の支城のあった安土山(199メートル)に、丹羽長秀を総普請奉行として、当代一流の技師や芸術家を終結させ、足かけ7年をかけて安土城を築城した。
 1579年に落雷で天主が焼失したとルイス・フロイスが書いているけど、本当かどうかは分かっていない。
 1582年、信長は天下統一の最後の仕上げにかかっていた。中国地方の毛利軍攻略に苦戦していた秀吉の出陣要請を受けて、安土を出発。京都の本能寺に泊まっていたところを明智光秀に襲撃されてあっけない最期を遂げる。
 本能寺の変のとき、安土城の留守を預かっていたのは、蒲生賢秀だった。知らせを受けた賢秀は、信長の妻子を逃がすために居城である日野城へ移り、空になったところを光秀の甥の明智左馬介秀満が入った(ゲーム「鬼武者」で主人公だった明智左馬介だ)。
 しかし、山崎の合戦で明智光秀が秀吉に敗れてしまい、秀満は安土城を出て、明智の本城である坂本城へ移った。ほどなくして安土城の天主が燃え落ちていることから、城を焼いた犯人は秀満だったと言われてきた。一方で、このあと安土城に入った信長の次男信雄(のぶかつ)がやったという説もある。ルイス・フロイスは信雄犯人説を書いていて、その理由は信雄はお馬鹿さんだからというものだった。確かに信雄の評判は悪い。
 案外もっと無名の小物がやった可能性も充分ありそうだ。たまたま間違ってとか、何かの火が飛び火してとかいうのが原因だったりすることもあり得る。城で略奪騒ぎがあったというから、腹立ち紛れみたいなことかもしれない。
 ただし、焼けたといっても天主だけで、安土城全体が燃え落ちたわけではない。実際、安土城が廃城になったのは、豊臣秀次が近江八幡城を築城した1585年のことで、その間の3年間は織田家の居城となっていた。
 織田家にとって不幸だったのは、信長の嫡男で有能との声が高かった信忠を本能寺の変で失ったことだ。もし生きていれば、その後の歴史の流れは違ったものとなっていただろう。
 信雄は家康を頼って小牧長久手の合戦で秀吉と戦って敗れ(負けたというか丸め込まれた)、秀吉は信長の孫である三歳の三法師(秀信)を担ぎ上げて、のちに天下を統一を果たすことになる。
 安土城が存在していたのは、わずかに10年間だった。



安土の町を見下ろす

 天主跡からの眺めは、田園地帯と遠くに西の湖が見えるくらいだ。昔はすぐ真下あたりまで湖が来ていたはずだから今とは眺めが全然違っていただろう。
 城下町の面影はどこにもない。
 見てると寂しくなるので、早々に立ち去ることにした。



織田家供養塔

 信雄から四代の供養塔が並んでいる。もともとは長谷川邸があったところとされる。
 本能寺の変のあとも、織田家はすぐに滅んだわけではなく、豊臣の時代も、徳川の時代も続いた。本流は途絶えたものの、庶流は各地に散って守護となったり、外様大名などになったりしている。



西の湖の眺め

 行きとは別の道を通って帰ることにする。総見寺の三重の塔があるところからが一番眺めがよかった。こちらは民家が集まっているいるものの、当時の眺めに近いものがありそうだ。水辺にあるのと畑の真ん中にあるのとでは、受ける印象がまったく違ってくる。
 いずれにしても、現在の安土城跡から往時の安土城下の姿を想像するのは難しい。



三重塔

 城の中に寺院を建てたのは信長の安土城が最初だったとされている。ヨーロッパの城の中に教会があるというのを聞いて思いついたのだとか。それまで日本人にそういう発想はなかった。
 総見寺の祀り神は信長だ。天の神を信じない信長は、家臣たちに自分を神としてあがめることを要求した。
 本堂は幕末に焼けてしまったものの、三重塔と仁王門は創建当時のまま残った。甲賀あたりから移築したものらしい。



仁王門

 百々橋口へ至る石段の途中に仁王門がある。これも当時そのままのもので古い。
 無料だった頃はこちからも登れたようだけど、現在は出入り口を一つにしているため、こちらからは出ることもできず、結局大手道まで歩かないといけないので、遠回りになる。でも、三重塔と仁王門は一見の価値がある。

 安土城を訪れる前と後では、安土城だけでなく信長に対する認識も変えざるを得なくなった。信長の見方があまりにも一面的すぎた。
 信長という人は、非常識でエキセントリックな面ばかりを強調されるけど、実際には繊細だったり、慎重だったり、恐れを知る人間的な面も多分に持ち合わせた人物だったんじゃないか。
 安土城が信長の人生のひとつの集大成と考えると、言葉が変だけど、意外とこの世的な人だったんだなと思う。革新的ではあるけど、たがが外れてるほど非常識な人ではない。
 それにしても、何故安土だったんだろうという疑問が最後まで消えずに私の中に残った。この場所を日本の中心とするには、土地のパワーみたいなものが決定的に足りない気がする。単なる地理的条件や位置の問題ではなく、その場所が持っているエネルギー量といったものがあって、この場所はそれが強いとはどうしても思えなかった。信長が地の利というだけで居城を建てるはずはないから、当時はこの地に何か特別なものがあったのだろうか。
 ひとつ言えるのは、信長にとって安土城は終着点ではなかったということだ。城郭としてはひとつの集大成ではあっただろうけど、当然のことながらこの地点で自分が死ぬとは考えていない。もっとずっと先を見ていたはずで、安土城は通過点のひとつに過ぎなかっただろう。もしかすると、安土そのものをさほど重視していたわけではなかったのかもしれない。秀吉が大坂に拠点を置いたのは、信長がそう考えていたからだともいわれる。
 安土城に関していえば、あれは後世に残してはいけない城だったのだ。誰が燃やしたとかはたいして重要ではなく、消してしまうべきだという念によって消されたのだと思う。
 もし安土城が今でも残っていとしたら、安土の町は一大観光地になっていて、当然安土城は国宝になっていただろうし、世界遺産にもなっていたかもしれない。けど、秀吉にしろ家康にしろ、それは決して許さなかったはずだ。あの城は信長という存在の象徴でありすぎる。その影響は小さなものではない。
 わざと打ち消したのか、あえて忘れることにしたのか、いずれにしても秀吉も家康も信長のことにはあまり触れようとしなかったフシがある。あれだけの恩や影響を受けた二人だから、本来なら日本を代表する神社の一つも建ててしかるべきだったのに、まったくしていない。安土の城も町も捨てるに任せていたのだろう。あるいは、周到な家康のことだから、裏で動いて徹底的に痕跡を消していった可能性もある。
 信長が討たれたのは、神になろうとしたからだ。それはもうはっきりしている。実行犯や黒幕が誰だったかはさほど問題ではない。光秀にしても一つの役割を与えられただけだ。
 現在の日本は家康が作った日本だ。もし信長が作った日本だったら、今頃どんなふうになっていただんだろう。もっと面白い国になっていただろうけど、いい国になっていたかどうかは分からない。時代の必然が家康に天下を取らせ、今につながった。それが現実のすべてだ。
 安土城についてのあらたな発見が今後もあるかもしれない。それでも復元天主が作られることはないだろう。どんなに精巧に作っても、信長の天主は実現できない。下手なものを作るくらいなら想像しておくだけの方がいい。
 日本人にとって安土城とは何なのか。そんなことをあらためて考えることになった旅だった。
 
【アクセス】
 ・JR東海道本線(琵琶湖線) 「安土駅」下車。徒歩約30分。
 ・名神高速「竜王IC」から約25分。

 ・入山料 700円(更に値上がりした模様)
 ・総見寺拝観料は別途500円
 ・駐車場 無料駐車場と有料駐車場(510円)があり
 ・営業時間 9時-17時(季節による変動あり)
 
 安土周遊
 滋賀・びわ湖観光情報
 安土城天主・信長の館
 

普段着の足助の町は静かで優しい空気に満ちている

街(Cityscape)
いつもの足助-1

Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II / TAMRON SP 90mm f2.8 / smc Takumar 135mm f2.5



 二本立ての二本目は、足助の町写真でいこう。カタクリを見に行ったとき、ついでに足助の町も散策してきた。あれは3月26日のことだから、もう2週間前のことになる。
 3月2日に中馬のおひなさんを見に行って、あのときはいまだかつて見たことがないほど町は賑わっていた。けど、この日は訪れている観光客の姿もなく、いつもの足助でホッとした。
 今日は、そんな足助で撮った普段着の町並風景を紹介したいと思う。

いつもの足助-2

 香嵐渓と呼ばれる秋の紅葉シーズンは人で埋め尽くされる道も、普段はこの通り。犬を散歩させている人や、散策客とたまにすれ違うくらいだ。この日はカタクリシーズンだというのに、本当に人が少なかった。この時期はもう少し人がいるものなんだけど。

いつもの足助-3

 紅葉のときは最も人が集まる赤い橋も、それ以外は閑散としている。
 向こう岸の売店も全部閉まっていた。ここの店の人たちは、年に一度のかき入れ時で一年分稼いでいるのだろうか。

いつもの足助-4

 外国人の人たちが橋の上で記念撮影をしていた。カタクリの方には行かなかったから、このあたりの景色を見に来たんだろうか。

いつもの足助-5

 香積寺の境内もいつものように静かだった。

いつもの足助-6

 ミツマタの花。春に黄色い花を咲かせるこの木は、和紙の原材料としての存在意義を持つ。古くは平安時代から利用されていたとされ、現在でも日本の札はこの木から作られている。
 足助では、三州屋敷で和紙を作る実演をしてるのだろうと思う。道沿いにたくさん植えられている。

いつもの足助-7

 山の中腹に咲く桜。ヤマザクラとは違うんじゃないか。ソメイヨシノでもないから、早咲きの品種の何かだろう。
 あちこちに点在して咲いていたけど、野生でもないような気がする。

いつもの足助-8

 去年同じ時期に訪れたときには紅白の花をつけていた木が、今年はまだ一輪も咲いていなかった。楽しみにしていたのに残念だ。
 これは本当に源平梅だろうか。桃かもしれないと思ったりもする。
 梅と桃と桜の違いは、花の咲き方を見れば分かる。枝に直接花をつけていたら梅で、花と一緒に葉っぱがちょろりと出ていれば桃、枝の先から細い花柄が出てそこから花が咲いていれば桜、というのが基本となる。梅は花びらが丸い形で、桃は尖っていて、桜は花びらの先が割れている。

いつもの足助-9

 香積寺の本堂前に咲いていた紅白の花。先ほどの見分け方でいくと、これは梅ということになる。花びらの形は分からないけど、枝から直接咲いていて葉が出ていないから。
 枝の感じが上の写真のものと似ている。ということは、両方とも源平梅ということになるだろうか。

いつもの足助-10

 このときはまだユキヤナギも満開になっていなかった。今はもう、ユキヤナギも見頃を過ぎているくらいだ。この花も時期が短い。
 去年、緑化センターで見たユキヤナギ並木は印象的だった。そこだけ雪が積もったように真っ白で。

いつもの足助-11

 花の町足助。町並の雰囲気を壊さないようにという工夫に好感が持てる。

いつもの足助-12

 傾き自販機。あっ、と思う。それは、傾きが微妙に直っていたから。前回見たときはほとんど全部が傾いていたのに、今回は半分になっていた。けど、相変わらず中途半端に傾いている。
 今回こそ買おうと思ったんだけど、すぐ横で近所のおばさまたちが立ち話をしていて買えなかった。写真を撮るだけで精一杯で。

いつもの足助-13

 田舎の町並には、おばさまたちの立ち話姿がよく似合う。風景の一部として欠かせない存在だ。

 これでようやく、カタクリの足助編は完結となった。時間はかかったものの、一つクリアしてすっきりした。
 足助はいいところだから、季節ごとに行きたいところではあるけど、有料道路を使って行かなければいけない微妙な距離感なので、何かイベントがないと行きづらい。次はまた来年のカタクリになるだろうか。紅葉は去年見たからもういいという気はしている。2年連続で行けてない小原村の四季桜を見に行ったら、そのついでに寄るのはいいかもしれない。
 なんにしても、足助の町はいいところだ。お気に入りの場所なので、オススメしたい。季節を問わず、ぜひ一度行ってみてください。

コンパクトデジで撮った松本行き帰り風景の断片 <松本・安曇野 第三回>

観光地(Tourist spot)
松本行き帰り-1

Nikon COOLPIX 3500 / Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 桜の季節が始まって以降、ブログの更新が行動に追いつかなくなっている。2008年桜シーズンが完結しないまま松本へ行き、すぐに滋賀を巡りしてしまったから、内容もあちこちに飛んで、どれも中途半端に残されたままだ。順番に完結させていこうとするとリアルタイム性を失って、ネタとしても旬を過ぎてしまう。
 どうしたものかと思いつつ、毎日休まず一つずつ書いていくしかない。けど、それではやっぱりたまる一方なので、今日は二本立てにする。一本目はまず松本に戻って、二本目は更にさかのぼってカタクリのときの足助を終わらせてしまうことにした。滋賀の話はどれも調べ物に時間がかかるので、後回しにする。写真のRAW現像も半分しか終わってない。
 そんなわけで、松本の話だ。今回は行き帰りに撮った写真を集めてみた。電車の中などでは人目が気になって大きなデジは取り出しづらいから、コンパクトデジで撮ることが多い。COOLPIX 3500はレンズが回転しておなかの位置で正面のものが撮れるから、こういうときに威力を発揮する。一部、EOS 20Dを使った写真も混ざっているけど(みやげの雷鳥と店の写真)、ほとんどはコンパクトデジだ。スナップなら一眼デジと大きな画質の差はない。
 上の写真は、今回のお気に入りの一枚だ。家族旅行を象徴するようなとても微笑ましい光景だった。

松本行き帰り-2

 名古屋から松本へはJR中央本線で行く。東京でも名古屋周辺でも通勤、通学の足という顔と、旅行列車の顔と、二つを持ち合わせている路線だ。もともとは中央本線と支線の総称としての中央線だったのが、JRになって一緒になってしまったので、ちょっとややこしくなった。中央線と中央本線は別のものなんじゃないかとも思いがちだ。名古屋-塩尻間を中央西線、東京までを中央東線として区別することもある。
 名古屋と東京と結ぶJRとしては、JR東海道本線もある。名古屋-東京間なら普通はそちらを使う。中央本線は山の中を走っているから、所要時間が全然違う。中央本線で名古屋から東京へ行こうと思ったら、半日くらいかかりそうだ。
 中津川も一つの分岐点で、この先は利用者が減るので名古屋から中津川止まりの列車も多い。こんなところで降りても馬篭宿くらいしかないと思うんだけど、みんなどこへ行くんだろう。小学校の遠足で中津川の付知峡へ行ったことがある。河原で拾ってきた石に「中津川」とマジックで書いて、それをカマボコの板に貼り付けてしばらく部屋に飾っていたのを覚えている。あの石はまだ押し入れの奥に眠っているはずだ。
 松本へ行ったときは、ナイスホリデー木曽路という快速電車で行った。これは名古屋から塩尻まで直通なので便利だ。昔はけっこう本数があったそうだけど、今は週末や連休中などに一日一往復だけ運行している。

松本行き帰り-3

 右に写ってる車両がナイスホリデー木曽路だ。シルバーの車体にオレンジのラインが目印となる。
 写真は塩尻で降りたときの様子で、けっこう乗客が多かった。桜にはまだ早い時期だったのに、みんなどこへ行ったんだろう。
 塩尻からは篠ノ井線に乗り換えて松本を目指す。ここまで来れば松本は近い。普通電車で17分でいく。
 しかし、長野行きの普通電車は通勤時のように混んでいた。普段乗らない電車に乗ると、びっくりするくらい人が乗っていたり、驚くほど乗っていなかったりして戸惑うことが多い。
 塩尻から長野までは1時間半もかかる。長野県の地理はほとんど分かってなくて、松本まで行けば長野は次くらいなんだろうと思っていたら大間違いだった。

松本行き帰り-4

 出た。やっぱりいたか、電車の人。一両編成の古そうな電車を撮っていた。私も訳も分からず便乗してみる。さりげなく後ろに回り込んで、電車の人ごと撮ってみた。貴重な車両なんだろうか。
 それにしても、期待を裏切らない電車の人スタイルだ。オシャレな格好をした女性とかがもっと電車の写真を撮るようになれば、電車の人のステイタスも上がると思うんだけど、今のままではそれは難しい。電車を撮るという行為よりも電車を撮っている人にやや問題があるのではないかと思わないでもない。

松本行き帰り-5

 別の電車を撮っていたら、すごいフレームインをされた。ここにもいたか、電車の人。あまりにも見事なカットインだったので、このまま写真を採用してしまおう。
 この人もチェックのシャツにポケットがたくさんついたベストか。みんな外さないな。

松本行き帰り-6

 日本のダイヤは優秀だからめったに遅れないものだと思っていたら、それは都市での話で、地方へ行くとガンガンに遅れるということをここ数日で思い知らされた。塩尻でも8分くらい遅れたし、滋賀では45分も遅れてきた。
 ちょっと時間を持て余して、駅でも撮ってみる。塩尻はワインと遺跡の町らしい。キツネはなんだったんだろう。説明の看板があったのだけど、ちょっと遠くて読めなかった。
 バックに冠雪した山が見えて、ああ、信州へ来たんだと実感する。
 塩尻には何があったんだろう。交通の要所ではあるけど、塩尻の名所や名物というのは聞かない。化石なんかがよく出るところという印象は正しいのだろうか。

松本行き帰り-7

 松本駅はさすがに大きかった。駅ビルもあって、いきなり都会に来たという感じがした。
 長野県の県庁所在地は長野市だけど、松本市と思っている人も少なからずいるかもしれない。規模としてはそれくらい立派なものだった。駅前も商業地区として発展していて活気がある。
 松本は国宝松本城があるところだから、新幹線が来ていてもよかった。長野新幹線は延長の予定がないんだろうか。東京方面からは新宿からあずさが松本まで直通で出ているけど、それでも3時間以上かかる。

松本行き帰り-8

 松本駅と直結している駅ビルMIDORIは、去年リニューアルオープンしたそうだ。今回は時間がなくて寄ることができなかった。
 これは帰りの写真で、夕方6時台の電車を逃すと、名古屋まで帰り着けないということで焦っていた。次の電車では中津川で朝まで待たないといけないという非常事態になってしまうのだ。長野県なんて愛知の隣の隣って感じがしてたけど、実距離としては相当遠い。滋賀までは1時間半で行けるのに、松本までは3時間半かかることを思えば、そりゃあ近くはない。

松本行き帰り-9

 ツレが連れていってくれた駅前の松田屋さん。松本みやげといえばここで買うのが定番らしい。たたずまいも古典的で、民芸品って響きも久々だ。
 今回は、買って帰るおみやげがはっきりしていた。忘れていて途中で思い出したんだけど、長野みやげといえばアレしかない。

松本行き帰り-10

 そう、雷鳥の里だ。長野で一番売れてるおみやげといえばこれと、店の人もすすめてくれた。すすめられなくても最初からこいつを買うつもりだった。
 少し前に名古屋みやげで名古屋嬢というのを買ってツレと食べて、そのときこれは雷鳥に似てるという話が出て、だったら買ってもう一度確かめてみようということになったのだった。
 食べてみると、なるほど似ている。というか、そっくりだ。雷鳥の方がややビターで、名古屋嬢の方が甘いような気もしたけど、お菓子の種類としては間違いなく類似品だ。固めの焼き菓子で、他にもこういう菓子を食べたことがある。雷鳥がオリジナルというわけではなく、ありがちなお菓子と言っていいだろう。
 でもこれはやっぱり美味しい。どんどん食べて、すぐに食べきってしまった。もっと買ってくればよかったか。いや、名古屋嬢があるではないかと思い直す。
 商品のコピーがなかなか素敵だ。
「山岳銘菓」
 北アルプスの象徴的な存在である雷鳥をモチーフにした菓子だから、山岳銘菓なのか。名前だけ聞くと、山登りして山小屋でしか売ってないのかと思わせる。
 それにしても、お菓子と雷鳥との間に一切の関連性がない。雷鳥の形をしてるわけではなく、雷鳥の絵の焼き印があるわけでもない。唐突に雷鳥の絵が描かれた紙が入っているだけだ。みんなはこの雷鳥の絵を取っておくのか、捨ててしまうのか。
 でもまあ、美味しいからよしとしよう。次に長野へ行ったときはまた買わないと。
 そういえば、滋賀へ行った帰りに名古屋駅で赤福を買おうとしたら、駅の構内にある3軒のみやげ物屋すべて売り切れていた。売れ残るといけいから販売個数をかなり減らしているようだ。これも今度名古屋駅へ行ったときは早めに買わないといけない。

松本行き帰り-11

 帰りの電車の中で食べるために、松本で駅弁を買った。あまり選択肢がない中で選んだのが、このとり釜めしだった。失敗した。全体に薄味すぎて、しかも私が苦手な漬け物が大量に入っていた。そういえば信州名物といえば野沢菜漬けだ。よく確認しないまま買ったら、ご飯の上半分を野沢菜漬けが覆っていた。これには苦戦した。
 駅弁とほか弁を冷静に比較すると、ほか弁の方が美味しいという事実に気づく必要がある。駅弁とコンビニ弁当でも駅弁は負ける可能性がある。旅行情緒に惑わされてはいけない。

松本行き帰り-12

 帰りの中津川からの電車はがらんどうだった。昼間の人たちはとっとと帰ってしまったんだろうか。このときはまだ7時台だったと思うんだけど。

松本行き帰り-13

 帰宅時間を30分早めるために、名古屋駅まで行かずに大曽根で降りて、歩いてバス停まで向かった。
 大曽根駅あたりは暗い。ナゴヤドームの最寄り駅だから、試合があるときはもっと人が多いのだろうけど、このときは暗すぎて道に迷いそうだった。
 なにはともあれ、こうして無事松本・安曇野行きから帰ってきたのだった。めでたし、めでたし。と、松本編が完結するかと思いきや、そうではない。松本城や松本の町並編がまだ残っている。近々、そのあたりについても書く予定だ。あと二回か三回だろうけど、いずれにしてもまだ続きはあるのだった。

悲運の武将と呼ばれた秀次が作った近江八幡は悲運の町ではなかった

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
八幡堀と桜

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 琵琶湖東岸の大津と彦根の間にある近江八幡は、やや地味な7番バッターのような存在と言えるかもしれない。かつての都で県庁所在地の大津と、国宝彦根城を擁する彦根とに挟まれて、関西方面からも中部関東方面からも素通りされてしまいがちだ。
 しかし、行ってみるとこれがなかなか魅力的な町で、わずか2時間の滞在ながらとても好印象で、また行きたいと思わせるところだった。
 今日はそんな近江八幡の魅力の一端でも伝えるべく、私が見てきた近江八幡について少し書いてみたいと思う。

 この町は豊臣秀吉の甥であり養子でもあった秀次が作った町だ。
 幼い頃からあちこちへやられては送り返され、拾われては捨てられるような人生を送った秀次。その実像は複雑で、どういう人物像だったのか、本当のところ分からない。罪のない庶民や動物を殺して喜んでるような残虐な人物だったと言われる一方で、文武両道の教養人だったともいわれる。
 秀次が近江八幡へとやって来たのは18歳のときだった。小牧長久手の戦いで徳川家康にこてんぱんにされて命からがら逃げ帰って秀吉にこっぴどく叱られて、それを取り戻すべく四国征伐で武勲をあげた後、近江国43万石を与えられて、この地に近江八幡城を築いた。
 信長亡き後、安土城の建物や民衆をこの地に移り住ませて城下町を作った。信長にならい、楽市楽座を開いて自由な商業都市を目指す。京都を参考に碁盤状に町を整備し、琵琶湖から水路を引いて商業のための水路を作った。
 武将としての評価は高くない秀次だけど、わずか5年で城下町を作り上げて発展させたという功績は決して小さなものではない。
 5年後、秀次は軍功を上げ、清洲城100万石城主となり、後任として京極高次が入城する。
 秀吉の嫡男・鶴松が幼くして死去すると、養子となり、関白職を継ぐこととなる。
 しかし、秀吉に秀頼という新たな息子が生まれたことで追い込まれ、最後は高野山に追放されたのちに切腹を命じられる。28歳だった。このときのいきさつはよく分かっていない。
 近江八幡の人たちは、秀次の評価が低すぎると怒っているという。歴史の評価なんてものは誰に対しても一面的で、いいもんか悪もんか二つのうちのどちらかに分類されがちだ。学校の教科書に書かれていることや、ドラマで描かれることよりもう一歩、二歩踏み込んで実際の人物像に迫るということは、意味のあることだと思う。死んでからずっと不当な評価のままでは、あの世にいても悔しいだろう。近江八幡を訪れたときは、秀次の人生に思いを馳せたい。



八幡堀で桜を撮るひと

 安土桃山時代から江戸時代まで、この八幡堀は多くの商船などが行き来する活気のある水路だったという。最盛期は全長5キロくらいあったそうだ。
 昭和に入ってからは陸路が発達して、この堀はうち捨てられたようになっていた。へどろの水は公害とまで言われ、埋め立てられる直前までいったらしい。地元の人たちが立ち上がってそれを阻止し、大がかりな清掃と整備で往時の姿をよみがえらせた。
 現在では時代劇のロケ地として欠かせない存在となっていて、年間30以上のロケが行われているという。堀沿いには白壁の土塀や古い家が並び、昔の面影を現在へと伝えている。
 水路を舟で巡るというのも人気で、近江八幡の観光名所の一つとなっている。もしこの堀が埋められていたら、観光地近江八幡は今とはずいぶん違ったものとなっていただろう。
 この日はちょうど桜が満開近くて、観光客も多かった。こんなに人気の場所だとは思ってなかったので、戸惑ったくらいだ。



たねや店舗

 日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)の門前には、近江八幡発祥の有名老舗菓子屋「たねや」がある。明治時代創業ということで、昔のスタイルを変えずにいる。
 東京、横浜、大阪、名古屋の一流百貨店に店を構えているから、知ってる人も多いかもしれない。バウムクーヘンが有名だろうか。
 もともとは江戸時代に作物の種を販売していたことから、そのまま種屋を屋号にしたようだ。
 しだれ桜と店構えがよく合っていた。ここも時代劇のロケで使われることが多いそうだ。



日牟禮八幡宮門前

 近江八幡といっても最初どこへ行っていいのかよく分からず、とりあえずここだけは行っておこうと決めていたのが日牟禮八幡宮だった。
 近江八幡という名前自体がすでに神社っぽくて、当然近江八幡神社があるのだろうと思ったら、検索しても出てこない。近江神宮というのがあるけど、これは大津にある神社で別物だ。調べてみると、日牟禮八幡宮が行くべき八幡宮だということが分かった。
 駅から歩くと30分はかかるので、素直にバスに乗った。長命寺行きのバスで大杉町で降りる(10分で210円)。
 創建や由緒は例によって帰ってきてから勉強した。
 どこまで本当なのかよく分からないのだけど、神社の由緒では創建131年ということになっている。本当なら恐ろしく古い。平安時代、京都の石清水八幡宮から勧請して創建されたという説もあって、こちらの方が信憑性が高そうだ。
 ただ、その前に前身となる神社があって、691年に藤原不比等が参拝したときに詠んだ和歌にちなんで比牟禮社と改められたという話もあるから、もともと古くからここに神社があったのは確かなのかもしれない。それ以前の古い時代の話はややこしいので省略する。
 秀次以降は、近江商人の守護神として信仰を集めるようになった。
 1600年には関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康も訪れている。
 国の無形民俗文化財に指定されている二大火祭りの「左義長まつり」と「八幡まつり」でもよく知られている。
 祭神は誉田別尊(ほんたわけのみこと・応神天皇)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比賣神(ひめかみ)の三柱。
 楼門からして迫力がある。平安後期のものなんだろうと思う。
 楼門の外に狛犬がいるというのは珍しい。



拝殿

 門をくぐると拝殿が出迎えてくれる。雰囲気があってかっこいい社殿だ。八幡神社ということもあって凛々しさが感じられる。




社殿の様子

 本殿のたたずまいなども、私が馴染みのある神社とはなんとなく雰囲気が違っている。日牟禮八幡宮特有のものなのか、この地方の特色なのか、どちらなんだろう。
 祭神である三神の木像や、近江商人の西村太郎右衛門が寄進した安南渡海船額(あんなんとかいせんがく)などの重要文化財がある。



鳩の置物

 よく分からないけど舞殿の前に新しい石の上に金ピカの鳩が乗っている。



八幡山ロープウェイ

 神社の隣にはロープウェイ駅があって、八幡山に登ることができる。山頂には秀次が築いた八幡城の跡地に、京都から移築した村雲御所瑞龍寺が建っている。
 標高283メートルの山頂からは、近江八幡の町並や、琵琶湖を眺めることができるそうだ。私は時間がなくて行ってない。
 ここで引き返して、近江八幡の町並散策をすることにした。



白雲館

 神社と道一本隔てた向かいには、白雲館と呼ばれる建物が建っている。和洋折衷の面白い形をしている。
 明治10年(1877年)に建てられた八幡東学校で、古い貴重な建築物を保存展示するためにこの場所に移築された。
 現在は、観光案内所兼おみやげ売り場として活用されている。見学は無料。



八幡小学校

 少し離れた場所にある八幡小学校。こちらは現役で使われている。小学生にしてみたら古い建物は不便なことが多くてちっとも嬉しくなくても、大人になればその貴重さが分かるようになるだろう。
 最初に建てられたのは大正2年で、現在ものは再建されたもののようだ。スタイルは古いけど、古びているという感じはない。
 ここはもちろん、勝手に入っていったら捕まる。昔は大らかだったんだろうけど、最近はそうもいかない。



池田町の洋館街

 池田町の洋館街も見所の一つだ。
 近江八幡といえばメンソレータムで有名な近江兄弟社がある。その母体となったのが、キリスト教伝道団体の「近江ミッション」で、アメリカから来た英語教師ウィリアム・メレル・ヴォーリズがその創設者だ。
 ヴォーリズはコロラド大学で建築デザインを専攻した建築家でもあり、近江八幡に住んで多くの設計をしている。関わった建築物は1,600軒にもなるといわれている。
 池田町の洋館街もその一つで、現在27軒が残っているという。
 大阪心斎橋の大丸デパートや関西学院大学、神戸女学院、東京駿河台の山之上ホテルなどもヴォーリズのデザインだ。
 このあたりは実際に人が住んでいる家なので、内部は見学できない。表から静かに写真を撮らせてもらう。



商家の街並み

 近江商人たちが作った城下町の一部が今でも残っている。保存地区に指定された新町通や永原町通には、昔の商家が立ち並んでいる。
 電柱を地中に埋めるまでの徹底さは見られないものの、黒く塗ったり、雰囲気を壊すものをなるべくさらさないようにという努力はあちこちに見受けられる。
 家屋の特徴としては、切妻造桟瓦葺り、平入の木造建築で、中二階建があるところも多い。格子や出格子といったお馴染みの姿に加え、塀から上に突き出すように伸びている見越しの松というのが近江の特徴となっている。うだつの上がる人たちの家なので、当然うだつも上がっている。
 近江八幡は、日本遊歩百選に選ばれた町でもあり、このあたりも名所となっている。
 西川庄六宅、森五郎兵衛宅、伴庄右衛門宅などが有名なところで、ヴォーリズ記念館などもある。



近江八幡の街並み

 秀次が死んで間もなくすると、近江八幡は天領となり、商人たちは自由な商売ができなくなってしまう。しかし、これが結果的に近江に住む商人が近江商人と呼ばれる存在となるきっかけとなるから、不運は必ずしも不幸なことではない。
 自由な商売ができる土地を求めて、近江の商人たちは外へ出た。最初は大津や京都などの近場へ、やがては北海道から江戸、安南(現ベトナム)やシャム(現タイ)まで進出した。
「買い手良し、世間良し、売り手良し」の「三方良し」を理念として、彼らは全国に活動を広げ、それはのちに大企業へとつながっていく。高島屋、大丸、伊藤忠商事、丸紅、東レ、日本生命、ワコールなどは、近江商人の流れをくむ企業といわれている。

 2時間ドラマじゃないんだから、歴史のある町を2時間で味わい尽くそうなんて最初から無理な話だ。それは自分でも分かっていた。でも、2時間でも知ったことは少なくない。これまでまったく無縁だった町に縁ができたというだけでも大きい。
 もう一度訪れる機会があるかどうかは分からないけど、今回行けなかったヴォーリズ記念館や長命寺のことを思うと、また行ってみたい気もする。心残りがあった方が次ぎにつながるということはある。自分の中で完結してしまうと、もう一度行こうという気にならない。だから、少しくらい未練を残した方がいいのだ、きっと。
 思いのほかいい町だった近江八幡。滋賀巡りはさい先がよかった。次は隣の安土へ向かう。その話はまた次回。
 

近江の国で信長と秀吉の足跡を辿る ~滋賀歴史探訪<予告編>

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
滋賀巡り1-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 青春18切符を使って滋賀県の神社仏閣と城巡りをしてきた。くたびれた。
 15時間のうち、9時間歩いて、電車で2時間立ちっぱなしというのはきつかった。疲労の限界を二度超えて、二度ウォーキングハイになった。一線を越えて疲れを感じなくなる状態だ。
 特に安土城攻略に手こずった。往復1時間の山登りで体力の3分の2を失ったのが厳しかった。
 結局、行くことができたのは、近江八幡、安土、彦根、長浜の4ヶ所だった。それぞれについて書きたいことがいろいろあるのだけど、気力も体力も残っていない。詳しいことは明日以降として、今日はさわりの部分を写真で紹介するにとどめたい。予告編のような形で、滋賀巡りのプロローグをお送りします。
 まずは近江八幡駅から。

滋賀巡り1-2

 八幡堀の水郷巡りの様子。桜がまだ満開に近いくらい咲いていて、柳の風情と相まって、なかなかいい雰囲気だった。

滋賀巡り1-3

 近江八幡は、秀吉の甥の秀次が作った城下町で、信長亡き後、安土の町をここに移すことで発展を遂げた。江戸時代に入ってからは商業の町として栄え、今なおその面影を色濃く残している。

滋賀巡り1-4

 ある意味では今回のメインであった安土。一度は行っておかなければならない場所と思い定めていた。ここを訪れてみて、一日ではちょっと消化できないくらいいろんな思いが自分の中に生まれた。

滋賀巡り1-5

 駅から安土城までは徒歩20分。特色のない地方都市の町並と広大な田んぼが広がる。ここに安土城下町の姿を想像することはほとんど不可能だ。気配さえ残っていない。愕然とするような思いだった。
 この地に安土城と町があったなんて、まったく信じられない。

滋賀巡り1-6

 安土城に関しては、発掘調査と復元作業が進められ、少しずつ全容が明らかになりつつある。
 それにしても、何がしたくてこんな険しい山の上に安土城を建てたんだ。お館様、それがし、体力の限界でござる。しばちお待ちを。ええい、オオタめ、なにをぐずぐずしておると、お館様が上で怒っている気がしてなんとか登り切った。

滋賀巡り1-7

 安土ですっかり体力を消耗した私であったけど、予定はまだ半分残っていたから休んでいる時間はなかった。続いて訪れたのは彦根だ。
 子供の頃両親に連れられて訪れて以来で、久しぶりというには時間が経ちすぎていてほとんど思い出せなかった。駅前の記憶もない。

滋賀巡り1-8

 彦根城は覚えていた。この場所で記念写真を撮ったことも覚えている。
 けどそれは、写真の記憶かもしれず、その場に立った感じとしては、こんな狭かったかなという思いもあった。城もイメージしていたものより小さかった。昔は外観がこんなにきれいじゃなかった。きれいすぎて逆に重厚さがなくなった。

滋賀巡り1-9

 彦根も裏通りには古い家並みが残っていて、そのあたりも少し歩いた。
 表は相当に観光地化されていて、良く言えば洗練されたと言えるし、悪く言えば俗っぽくもなった。国宝だけに外国人観光客も多いから、ひなびた昭和の観光地ではダメだということだろう。

滋賀巡り1-10

 長浜に着いたときは、もう日没直前だった。長浜城も鉄道スクエアも閉まっていることは分かっていたけど、次にいつ来られるか分からない。寄るだけでも寄っておいた。

滋賀巡り1-11

 長浜はこれといったものが何もないようでいて、実はいい町だ。古い町並みやネオクラシックといったような雰囲気が混ざり合って、のんびり散策すると楽しい。
 信長が作った町と、家康が作った町と、秀吉が作った町ではそれぞれ特色が違っていて、秀吉が関係したところは明るくて楽しい印象を受ける。人を喜ばせるのが好きで、楽しませることが得意だった秀吉ならではかもしれない。

滋賀巡り1-12

 長浜城は秀吉が初めて一国一城の主になった城だ。しかし、早い段階で廃城になって、取り壊した木材の多くは彦根城に使われている。もともとどういう形をした城だったのかもよく分かっていないため、これは想像復元だ。そういうこともあって城とは言い張らず、長浜城歴史博物館と称している。内部ももちろん鉄筋コンクリートだ。
 ここは10年くらい前に一度訪れて、中にも入った。
 今ちょうど桜が満開で、夜桜見物客がたくさんいて、飲んだり騒いだりしていた。

 今回も写真をたくさん撮ってきたので、できるだけ載せつつ、勉強もして、個別にいろいろ書いていきたいと思っている。
 今日のところはこれくらで終わっておこう。

桜写真はそろそろ賞味期限切れだけど岡崎城の番外編<岡崎城・第三回>

桜(Cherry Blossoms)
岡崎城番外-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / 75-300mm / Takumar 135mm / 50mm f1.4



 明日は滋賀方面なので、今日は時間がない。このところ桜を追いかけてあちこちへ出向いて、その写真を使い切らないうちに別のところを挟むものだから、いろんなところのネタが中途半端に残ってしまっている。桜写真はもう賞味期限が切れかけているのだけど、使える分は使い切ってしまわないと落ち着かない。
 その中で今日は岡崎城へ行ったときの写真を並べておく。コメントは短めに。
 他にもカタクリを撮りに行ったときの足助写真とか、五条川の桜とかも残っているし、松本・安曇野もまだ完結していない。そのあたりは合間を縫って写真だけでも出していきたいと思っている。

岡崎城番外-2

 意外と絵にならない赤い橋の眺め。ここから見える場所に桜が少ない。
 惹かれたのは、噴水によってできた小さな虹。

岡崎城番外-3

 中岡崎駅へ向かう途中の桜並木。黒塀と桜というのもよく合う組み合わせだ。車がなければもっとよかった。

岡崎城番外-4

 駅裏というか駅下。学校の駐輪所の風情にも似ている。
 2階のホームの高さにちょうど桜が来てるから、そこからの眺めもよさそうだ。

岡崎城番外-5

 桜並木はホームを越えて続いている。道に迷わなければこの風景を見ることはなかった。

岡崎城番外-6

 中岡崎駅の表側。こちらにも大きな桜がある。

岡崎城番外-7

 住宅街の中にそびえ立つ「やんちゃ貴族」。ある意味、現代のお城。かなり唐突だ。

岡崎城番外-8

 八丁味噌のところの桜。黒塀と思わせて偽物。ここの桜は早くも落下盛んだった。岡崎城の桜も、昨日からの雨ですっかり花を散らせてしまったことだろう。

岡崎城番外-9

 岡崎は江戸時代以前からの古い城下町だから、ところどころに古い民家なども残っている。ただ、町並保存に力を入れている地域ではないようで、残っているものは少ない。家康の生まれ故郷ということを考えると、もう少しちゃんとした観光地として整備されていてもよかったんじゃないだろうか。

岡崎城番外-12

 乙川は渡りのカモたちが多いところのようで、このときもまだオナガガモの一団が居残っていた。もうそろそろ帰っただろうか。

岡崎城番外-10

 夕暮れ近づく乙川河畔。仕事帰りのサラリーマンと女子高生たちが夜桜を待つ。

岡崎城番外-11

 上司につれられて夜桜見物へとやって来た新入社員といったところか。あるいは、二つのグループは別々だったのかもしれない。

岡崎城番外-13

 特に意味はないけど、なんとなく。

岡崎城番外-14

 岡崎城もライトアップして、やんちゃ貴族はそれ以上にきらびやかになっていた。

 岡崎城編の写真は、もう二回分ある。岡崎城の外観と、純情きらりのロケ地となった八丁味噌の写真が。
 桜編はこれで一応完結ということになりそうだ。
 今日はこのへんであっさり終わりにする。明日は単独での遠出となる。

自転車で走れば安曇野の魅力が腑に落ちる <松本・安曇野 第二回>

観光地(Tourist spot)
安曇野2-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8 II /EF 75-300mm f4-5.6 IS



 4月の安曇野(あずみの)は、平地の春と山の冬が同居していて、なんだか不思議な感じがする。暖かさは名古屋と変わらないのに、まだ梅の季節をやっている。時間が戻ったような、先週観たドラマの再放送をもう一度観てるような、違和感のある感覚だった。
 今日は昨日の写真にコメントを追加しようと思っていたのだけど、写真もたくさんあるし、新しく書くことにした。昨日の分は昨日で完結ということにしておく。
 ということで、写真は再び穂高駅に戻った。安曇野の旅はこの駅から始まる。
 昔はこのあたりを安曇平と呼んでいて、臼井吉見が書いた小説『安曇野』以降、安曇野という呼び方が一般的になったんだそうだ。ここからここまでと決まった土地の名称ではなく、安曇野市を中心としたこのあたり一帯を指す。
 そんなぼんやりした土地だけに、安曇野という名前だけがイメージとして先行して、その実体は意外と知られていない。知ってる人でも、南アルプスの麓で清流の流れるのどかな信州の土地といった程度の認識なんじゃないだろうか。私も下調べしてもどこに何があるのかよく分からなかった。
 実際には何があるかというと、これといったものはない。決定的な見所はなく、どこへ行けばいいのかはっきりしない。言い方を変えればこの土地全部どこへ行っても見所とも言える。何もないのに大勢の人が訪れるというのはそれだけの魅力があるということで、それは行ってみないと分からないたぐいのものだ。行けば分かる。言葉で説明するのは難しい。写真でもその魅力を伝えきれない。伝えきれないけど、これをきっかけに行ってみたいと思ってもらえるように、安曇野のレポートをお届けしたいと思う。

安曇野2-2

 穂高駅は雰囲気のある駅だった。作為的ではなく、いい意味でのローカル線の味がある。たぶん、映画やドラマのロケなどでもよく使われているのだろう。旅立ちや別れのシーンなどがよく似合いそうだ。
 駅のロケといえば、ドラマ「鹿男」で奈良駅として登場した駅は、近鉄天理駅だったということをツレが教えてくれた。そういえば近鉄奈良駅は全然あんな田舎の駅じゃない。

安曇野2-3

 駅前には丸ポストが置かれ、現役として使われている。しっかりJPのシールも貼られているから、民営化後もこのまま使い続けるようだ。
 こういう観光地には丸ポストがよく似合う。残念ながら置かれている場所がよくないので、絵になりづらいというのはある。背景の駅舎と絡めて撮れるところに置いてもらえるともっといい。

安曇野2-4

 着いたのがちょうどお昼時で、駅前でそば屋を探していたら、レンタサイクルの「ひつじ屋」さんの主人が「一休庵」という店を教えてくれた。駅から2分くらいのところにある。
 松本周辺はそば屋しかないのかというくらいそばを全面的に押し出してきている。安曇野ではそれプラスわさびだ。両方苦手な人は、松本で食事をするときはちょっと困るかもしれない。信州そばは有名にしても、もう少し別の選択肢も欲しいと思う。
 とはいえ、せっかくここまで来たのだから、そばを食べない手はない。私は山菜盛りそば、ツレはやまかけを注文した。どちらも1,000円だった。
 名水百選の井戸水で打った二八そばは、細麺で腰が強い。最初はちょっと固いかなと思うけど、のどごしがちょうどいい。なるほど、なかなかのものだと美味しくいただいた。
 つゆも甘すぎず濃すぎず、ちょうどよかった。

安曇野2-5

 駅から大王わさび農場までは歩くと30分以上かかるというので、駅前の「ひつじ屋」さんで自転車を借りてそれに乗っていくことにした。昨日写真でも紹介した電動機付き自転車だ。
 普通の自転車でも1時間200円で、電動は250円なので、電動がオススメだ。楽ちんさがまるで違う。
 安曇野のスケール感は自転車の速度が一番合ってるような気がする。歩くにはちょっと広すぎて間延びするし、車で移動してしまうのはもったいない。自転車で風を受けながら眺める安曇野風景はとても素敵なのだ。多くの人がこの土地に魅了される理由が理解できた。
 猫だって、田んぼの中を自由に歩き回っている。ここは猫の多いところで、それもこの土地が好きになった理由の一つだ。

安曇野2-6

 水車の写真をもう一枚。この角度は午後から逆光になってしまうので、写真としては厳しい条件になる。順光なら水面の映り込みがもっときれいに写るはずだ。PLフィルタを使うという手もある。
 この日の条件では、黒澤明監督なら太陽の位置にダメ出しをしていただろう。

安曇野2-7

 大王わさび農場名物「わさびソフト」。どんなパンチの効いたソフトだろうとおっかなびっくり食べたら、普通の味だった。わさび味はすごくマイルドだから、わさびと言われなければ分からないくらいだ。わさびの辛みがソフトの甘みを引き立てて当たり前に美味しい。
 300円だけど、ネットクーポンや駐車場で配ってる割引券、JAF会員割引などで50円引きになるので実質250円だ。
 その他、わさびコロッケ、わさびラーメン、わさびビールなど、あらゆるものにわさびをねじ込んだものを販売している。どれも美味しいらしい。もちろん、生のわさびも1本1,000円前後で売っている。この時期ならではのわさびの花のおひたしや天ぷらなどもあった。
 ここは1917年にできた古いわさび農場で、15ヘクタールという広い土地でわさびを栽培している。わさびというのは年間を通じて冷たくてきれいな水でしか育たないので、この土地はわさび栽培には最適なのだ。
 3月末から4月にかけて白い花を咲かせて、その後は黒い寒冷紗でわさび田全体を覆ってしまうから、見るなら今の時期が最適だ。わさびは強い直射日光に弱いらしい。
 大王わさび農場という名前の由来は、坂上田村麻呂の一軍の略奪に苦しめられていた住人を助けるために立ち上がった魏石鬼八面大王が返り討ちにあって退治され、その体はバラバラにされてこの土地に埋められたという伝説からきているんだとか。
 農場の中に神社があって、何を祀ってるんだろうと思ったら、その大王を祀った神社だったのか。
 これといって行くところのない安曇野で唯一団体客が訪れやすい場所ということで、現在は年間120万人もの人がやって来るという。この日も観光バスから続々と人が降りてきていた。

安曇野2-8

 安曇野には400体もの道祖神があって、道祖神密度日本一とされている。松本にも約370体あるというから、このあたりは特別多い。
 もともとは村の入り口近くに神様を置いて、災厄が村に入ってこないようにしたというのが道祖神の始まりといわれている。道ばたの神様という意味で、特定の神というわけではなく、スタイルも様々だ。
 時間があればゆっくり見て回ると、中には面白いものもあるのだろう。安曇野の風景によく解け合っている。

安曇野2-9

 トンビとカラスは相性が悪くて、普通は敵対するものだけど、ここは例外で、二つの群れが入り交じっている。無数のカラスと無数のトンビの集団というのは、ちょっとびっくりする。一本の木にたくさんのトンビとカラスが鈴なりになっているなんて光景はなかなか見られない。ここでは利害関係が一致しているんだろう。

安曇野2-10

 トンビとカラスが狙っていたのはこれ、養殖のマスだった。
 まったく覆いもかぶせてないから獲られることはないのかと思いきや、ときどき獲物を捕まえるトンビがいて、それを他のトンビやカラスが取りあいっこしている。養殖してるのに、そんなことでいいんだろうかと思うのだけど、それはあらかじめ織り込み済みなんだろうか。けど、次から次へと獲れるというわけではなく、トンビたちは上空を旋回したり、電柱に止まって狙ったり、急降下して捕獲を試みて失敗したりしている。なんだか、不思議な生態系だった。
 それにしてもあんな数のトンビはなかなか見られないから、これも一つの隠れた安曇野名物としてもいいかもしれない。

安曇野2-11

 こいつはなんだろう。最初、オナガかと思ったんだけど、顔の下まで黒いからたぶん違う。ツバメに似たカラーリングだけど、もっと大きかったし、尾っぽが燕尾服の形をしてないからそれも違う。なんだっただろう。望遠レンズに交換して撮ればよかったかな。

安曇野2-12

 川をさかのぼって白鳥がいるというスポットを目指すも、途中で道が途切れてしまった。時間もなく、それ以上追求することができなかった。そこらの川にもはぐれたやつがいるんじゃないかと期待したけど、白鳥はカモとは違って決まったところにいるものらしい。
 おとといの時点でまだ300羽ほど残っていたようだけど、そろそろみんな北へ帰って行く時期だ。

 昨日、今日の写真くらいでは安曇野の魅力を伝えきれないのがもどかしい。短時間の滞在で撮った写真だけではなかなか難しい。ここは一年を通じて撮る価値のあるところだ。一年でも住んでじっくり撮りたいと思わせるようなところは、なかなかあるものじゃない。
 まだ安曇野写真はあるから、明日以降も不定期に連載は続く。
 桜写真も使い切らないとすっきりしないし、あさってはまた列車の旅に出る。私もブログも、もう少し落ち着かない日が続きそうだ。

松本行きは安曇野散策へと横滑りして収穫あり <松本・安曇野 第一回>

観光地(Tourist spot)
安曇野-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / EF 50mm f1.8 II /EF 75-300mm f4-5.6 IS



 我々の松本行きは安曇野巡りとなった。
 今日はもうちょっと余力が残ってないので、写真を並べるだけ並べてコメントは明日にしたい。一日に9時間近くも電車に乗ったのは初めてで、バスも2時間近く乗ったから、一日の半分は乗り物に乗っていたことになる。

 安曇野の玄関口である穂高駅から安曇野散策は始まる。いや、電車撮りから始まると言った方がいいか。

安曇野-2

 JR中央本線の旅は、季節をさかのぼる旅でもあった。進むほどに季節が逆行していくのが車窓からも見て取れる。南木曾ではっきりとした境目があった。まだ木曽まで桜前線は進んでいない。風景は名古屋のひと月前のものだった。
 松本や安曇野もまだ開花宣言は出されていない。今ちょうど梅の季節だ。今日は松本でも20度近くあって暖かい一日だったから、余計に不思議な感覚だった。なんで今頃梅が咲いていて桜が咲いてないんだろう、と。

安曇野-3

 レンタサイクルであえて電動機付き自転車を借りたのは、我々が軟弱だからではなく電動自転車に興味があったからだ。そしてその選択は大正解だった。

安曇野-4

 真っ直ぐに伸びる田舎の農道。これも安曇野の風景だ。

安曇野-5

 雪をかぶったアルプスと飛ぶトンビ。

安曇野-6

 安曇野第一の観光スポットといえば、大王わさび農場だ。言い方を代えれば、ここくらいしか見所がないとも言える。
 ピンク色に咲いているのも桜ではなく梅だ。

安曇野-7

 ここはどうしても見たかった。有名定番スポットだけど、外せない。黒沢監督が『夢』の中で描いた風車のある風景だ。

安曇野-8

 点在する道祖神も安曇野名物の一つと言える。今回はコレクションしてるような時間的な余裕がなかった。

安曇野-9

 わさび畑自体も初めて見るから、わさびの花というのも初めて目にした。白い野草みたいというか、アブラナの白版みたいな地味な花だ。

安曇野-10

 松本ではだいぶ桜のつぼみがピンクに色づいていたけど、安曇野の桜はまだつぼみが固かった。

安曇野-11

 安曇野はトンビ王国だ。畑の上にもたくさんいたけど、一ヶ所異常にトンビがたまっている場所があって何事だろうと近づいてみると、マスの養殖をしているプールの上だった。みんなでマスを狙っていたのだ。
 それにしてもものすごい数で、50羽くらいいただろうか。こんなにたくさんのトンビを見たのは初めてだった。
 しかし、安曇野まで行ってトンビを追いかけて喜んでる人間もそうはいまい。そんなことをしてたら、時間がなくなって白鳥の池まで行けずじまいだった。

安曇野-12

 高い山の上はまだ真冬のようだ。近くに冠雪した山がある風景というのはとても新鮮だった。桜の咲いている季節だったらもっとよかっただろう。

安曇野-13

 オマケ画像的に、唐突に松本城の写真を付け足してみる。
 もともと今回の旅の最初の目的は、松本城の天守閣に登るというものだった。それが最後に外観を少し見るだけで終わってしまったのは、それだけ安曇野が魅力的だったからだ。こういう予定変更は歓迎したい。松本城はまた見に行く機会もあるだろうけど、安曇野は今回行ってなければずっと行かずじまいだったかもしれない。
 安曇野から戻ってきてから松本市内もざっと回ったので、収穫はあった。そのあたりについてもおいおい紹介していきたいと思う。まずは明日から安曇野レポートをお送りする予定でいる。
 今日のところはいったんここまで。
 明日につづく。

生きた年の分だけ桜の思い出ができる <五条川桜・第2回>

桜(Cherry Blossoms)
五条川桜2-1

FUJIFILM FinePix S2 pro+Nikkor VR 24-120mm f3.5-5.6 / SIGMA 17-70mm f2.8-4 他



 桜の写真がたくさんあるから、桜が咲いているうちに載せてしまいたい。今日は五条川の続きをいっておこう。
 桜前線は今、北関東と信州の手前あたりだろうか。中部、関東まではもう満開を過ぎた。東北、北海道はまだひと月先だ。明日は松本へ行くのだけど、ようやくつぼみがふくらんだところだそうだ。毎年のことながら、日本列島は季節の歩みにずいぶん差があるのだと思い知らされる。太陽から見て、ほんのわずかの差でしかないのに。

五条川桜2-2

 豊臣秀吉の家臣だった17歳の堀尾金助は、小田原征伐のとき病気で命を落とした。その出征のとき、熱田まで見送りに行った母と息子の別れの場所に架かっていのが裁断橋で、後年老朽した橋を母親が架け直し、更に古くなって取り壊されることになった橋を、屋敷のあった大口町のこの場所に再築したのが現在の裁断橋だ。
 そんな歴史のある橋のわりには新しくて、コンクリート部分が多いのが残念だ。橋そのものは木造で雰囲気があるのでもったいない。

五条川桜2-3

 桜を見るというのは、桜の下を歩くということだ。毎年見る桜は同じでも、あの年は誰とどこへ行ったという記憶はそれぞれだ。

五条川桜2-4

 撮りたいと思うシーンは、毎年同じ場所だということに気づく。カメラやレンズが変わり、写真の技術は上がっても、感受性というのはそんなに変わるものではない。過去2回もこの場所から撮っている。来年行っても、やっぱりここから撮ってしまうことだろう。

五条川桜2-5

 太い枝が折れ、中がむき出しになっても桜は咲き続ける。
 五条川沿いも木に札がかかっているし、当然管理もしてるのだろうけど、ここはあまり人の手が入ってないのがいい。無闇に剪定してるところもあって、あれはあまりいい気分じゃないから。

五条川桜2-6

 桜のアップというのはほとんど撮らないから、どう撮っていいのかよく分からない。これは来年以降の課題として残った。

五条川桜2-7

 寺の名前はよく分からないけど、毎回寄っている。山号が秋葉山というのは知っているものの、地図にも名前が出ていない。
 ここの桜もかなり立派。

五条川桜2-8

 落ちた花びらが水面を流れていく中、赤と白の鯉が流れに逆らって泳いでいた。桜吹雪に紅白の鯉のぼりとはめでたい。
 もう少しすると、花びらは鯉の姿を隠してしまうほど川面を覆う。そのシーンを撮りたいと思いつつ、もう4年になってしまった。撮るなら雨のあとや風の強い日を狙っていかないと。

五条川桜2-9

 植物季節観測用標本と書かれた札が立っていた。もしかすると、これが岩倉市の標準木だろうか。
 名古屋の標準木は、千種区の名古屋地方気象台にあるらしい。どこにあるんだろう。気象台の敷地内なら一般人は立ち入り禁止だろうか。

五条川桜2-10

 老夫婦の桜見物も素敵だ。50年前一緒に見た桜の思い出話なんてのができるのも、長生きすればこそだ。

五条川桜2-11

 屋台が立ち並ぶお祭りムードということで、学生や子供たちも多い。
 女の子集団も、何年かあとには彼と訪れるか、訪れなくなるかだろう。
 自分が子供の頃は、友達と桜見物なんてした記憶はない。そんなものにまるで興味はなかったから、見たのは家族旅行のときくらいだった。
 私がちゃんと桜を見るようになったのは、ここ数年のことだ。

五条川桜2-12

 一つの花で国民全体が気持ちを一つにするなんてことは、世界中を探しても日本以外にないんじゃないだろうか。
 日本の風土に桜が合ったというのもあるけど、日本人のメンタリティが長い歳月をかけて育ててきたという方が大きい。桜のもとで日本人は一つになれる。これをもっと他にも活用できないもんだろうか。今更国花を変えることはできないにしても、桜を合い言葉に日本人は新しい日本人性といったようなものを作り上げていけるような気がする。
 美しさと潔さと儚さと。桜は私たちに、一年に一度、忘れかけている大切なことを思い出させてくれる。そして、また来年も桜を見るために生きようと思わせてくれる。

五条川まで行けたから2008年桜シーズンは満足納得 <五条川桜1回>

桜(Cherry Blossoms)
五条川桜1-1

FUJIFILM FinePix S2 pro+Nikkor VR 24-120mm f3.5-5.6 / SIGMA 17-70mm f2.8-4 他



 五条川の桜を見に行くのは今年で三度目になる。最初に見たのが2005年で、翌年も行って、去年は休んだ。今年は早い段階からここで締めくくろうと決めていた。
 4日というのはタイミングとしてはちょっと遅かった。満開を過ぎて、かなり散り始めていた。最盛期は4月1日くらいだったろうか。ここは桜吹雪と散った花びらが川面を流れる様子もいいから、むしろもう少し遅らせた方がよかったかもしれない。
 いつも行くのは大口町で、今回は初めて岩倉市の方にも行ってみた。長々と続く五条川の桜並木だけど、この二つのポイントが一応メインどころと言っていいと思う。
 例によって写真が一回や二回では収まりそうにないので、今日はプロローグとして写真を並べることにする。五条川については2006年のとき、このブログで書いたので、あまり付け足すことはない。二回目以降も写真中心になりそうだ。
 それでは、五条川の桜風景をいってみよう。

五条川桜1-2

 大口町の裁断橋南にある八剣社の前に車をとめ、神社でお参りをしつつ裁断橋から桜見物を始める。ここから東に少し歩いてお寺さんの桜を見てから引き返すというのがいつものパターンになっている。こちら側は見物客も少なく、のんびり散策できる。
 桜はやや雑然としているものの、川に向かって両岸から枝を伸ばして咲いているので、ぎっしり詰まっているように見えて華やかだ。川幅が狭いのがいい。

五条川桜1-3

 堀尾跡公園近くには屋台も並んでいる。このあたりは数も少なく、それほどうるさくない。
 近くの芝生広場ではシートを敷いた花見客などいるものの、全体としてはのんびりした空気が漂う。あとから行った岩倉市内の過剰なお祭りムードとは対照的だ。

五条川桜1-4

 花は今のところ9分から8分くらいは残っている。まだ地面を埋めるほど散ってはいない。おととし訪れたときは12日だったから、このあたりはピンクの絨毯になっていた。今日はときおり吹く強い風に花びらがはらはらと舞っていた。
 少し日差しが弱かったのが残念だった。

五条川桜1-5

 ここの木は多くが60歳くらいになっているので、見るからに老木という木も少なくない。枝が折れたような木の幹からはあらたな枝や花が出てきて、強い生命力を感じさせる。短命なソメイヨシノも、歳を取ると貫禄が出てくる。
 こういう桜並木はまだ寿命が残っていても、ある程度の年代になると若木と植え替えてしまうものだけど、ここはどうするつもりだろう。まだしばらくは大丈夫にしても、100年は生きられない。
 ただ、五条川の場合、桜が植えられているところと歩道が分けられているから、根っこをあまり人に踏まれていない分、助かっているというのがある。ソメイヨシノ60年寿命説に異議を唱える人も多く、枯れる原因は根を人に踏まれるからだというのが彼らの主張だ。実際、弘前城の桜など、100年以上生きているソメイヨシノもけっこうあるという。

五条川桜1-6

 大口町周辺は見慣れた光景だったので短めに切り上げて、岩倉市の方に移動した。駅周辺は人も車も多くて、とめるところもなかなか見つかりそうもないので、明治橋の北にとめて歩くことにした。
 観光スポットから外れたところの桜並木は素朴でいい。このあたりは地元の人くらいしか歩いてないのに、見応えは充分だ。こういう場所は他にもありそうだから、自転車で川沿いをずっと走ってみるといいところが見つかると思う。折りたたみ自転車を車に積んで、もっと上流から散策するなんてのもよさそうだ。

五条川桜1-7

 五条川沿いはどこをとってもビューポイントだ。川幅の狭さが有利に働いている。これで水量がもっと豊かなら言うことなしだけど、岸が緑なのはいい。ここが土むき出しだと印象が悪くなる。

五条川桜1-8

 岩倉駅近くになると、屋台も人も一気に増えて賑やかになる。こういうお祭りが好きな人はいいだろうけど、けっこううるさい感じもする。屋台は片側に並んでいるから、避けたい人は対岸を歩くといい。

五条川桜1-9

 緩やかな流れの川面が桜を映し、散った花びらがゆっくりと流れていく。
 見づらいけど、右の方にはカルガモが写っている。渡りのカモたちはさすがに残っていなかった。せっかくだから桜を見てから戻っていけばいいのにと思うけど、カモにはカモの事情がある。北に渡って子育てをしないといけないから、のんきに桜見物なんてしてられない。カルガモは一年中日本で暮らして、四季をどう感じているんだろう。

五条川桜1-10

 水辺近くまで降りられる階段がある。このあたりが五条川名物「のんぼり洗い」をするところだろうか。見られれば見たいと思っていたけど、夕方なんかにやるもんじゃないか。たぶん、昼間やってるのだろう。
 のんぼり洗いというのは、鯉のぼりののりを川の中で洗い落とす伝統行事で、春を告げる風物詩ともなっている。今では半ば観光客向けのようになっているようで、テレビの中継などでもよく見る。

五条川桜1-11

 桜を撮るお仲間。私もいつどこで写真に入ってしまってるか分からないから、油断せずカッコつけて撮らないといけない。あまり必死でも恥ずかしいけど。

五条川桜1-12

 おあつらえ向きの場所に、一家がフレームインした。演出したみたいだ。

五条川桜1-13

 ライトアップは6時からで、始まったところを見てから帰ってきた。あまり派手にはやってないようだけど、夜桜を見るならしっかり日が暮れる7時以降だろう。

 五条川の桜写真は明日以降も出していくつもりだけど、私の桜紀行はここで一区切りとなる。ここまではほぼ予定通り回った。この先はまだ未定だ。2008年桜シーズンの総括はもう少し先にしよう。
 五条川はまだぎりぎり今週いっぱい持ちそうだから、行ける方はぜひ。岩倉市の五条川しか見たことがないのなら、大口町の静かな五条川をオススメします。

桜シーズン終盤突入で近所の桜三点セットプラスアルファを巡る

桜(Cherry Blossoms)
近所の桜1-1

FUJIFILM FinePix S2 pro+Nikkor VR 24-120mm f3.5-5.6 他



 名古屋の桜も満開を過ぎて、桜シーズンは後半から終盤に入った。ここから先は一気に花を散らせて終わりへと向かう。その花吹雪もまた桜の楽しみの一つではあるのだけど、きれいな状態の桜を撮るなら残された時間は少ない。咲き始めてから気温が下がって長く楽しむことができたとはいえ、見頃、撮り頃としては今週いっぱいだろう。
 私の桜巡りも残すところあと数ヶ所となった。締めくくりは五条川とずっと思っていたから、その前に近所をまとめて一気に回ってきた。毎年欠かしたことがない香流川、藤が丘、マルス裏の三点セットに加えて、白沢渓谷、大森まで行ってきた。
 今日は近所桜の第一弾ということで、プロローグとして回ってきた場所全部の写真を少しずつ紹介したいと思う。
 まず最初に、藤が丘に向かった。相変わらずいい桜トンネルができている。駅の東側はほとんど若木に植え替えてしまってまったく見応えがなくなってしまったけど、富が丘から駅前までの道はまだ健在だった。ただここも、近い将来植え替えが行われそうだから、今の内に見ておいた方がよさそうだ。
 今回は行かなかったけど、駅裏からグリーンロードへと至る道の桜並木もいい。

近所の桜1-2

 これは別の日に撮った一枚だ。同じ道沿いでも、光があるときとないときではずいぶん雰囲気が違う。
 桜はあまり強い光でも色が飛んでしまって難しいけど、まったく光がないとやはり物足りない。薄明かりくらいがちょうどいいかもしれない。

近所の桜1-3

「ホームセンター マルス」なんてもう何年も前に閉店したのに、いまだにマルス裏と呼んでいる桜並木。今ならスシロー裏とでも呼ぶべきか。
 特に名所というわけでもなく、花見客がいるわけでもない。一応提灯をぶらさげて桜祭り風にはしているものの、店が出るとかそういうこともない。裏通りだし、地元の人間が通るくらいだ。近所に住んでいても知らない人がけっこういるんじゃないだろうか。
 ここの桜は近所では一番早くて、最初に咲いて最初に終わる。今日もかなり花びらを散らしていた。

近所の桜1-4

 吊り橋といえば白沢渓谷だ。3月の終わりに訪れたときはまだ早すぎて咲いていなかったのに、あれから一気に進んで、もう満開を過ぎていた。ぎりぎり間に合ったか、出遅れたかといったところで、ここも案外早い。
 白沢渓谷というより城土公園といった方が通りがいいんだろうか。それにしてもマイナースポットで、ほとんど無名の場所だろう。地図を見ても、どうやって行っていいのか迷うようなところにある。

近所の桜1-5

 下の方に降りると、吊り橋と滝と桜という組み合わせを見ることができる。名古屋市内とは思えない。
 残念ながら、桜の位置がよくない。写真の左側にずっと並木ができているのだけど、写真にはそこまで入りきらない。桜を植えるときにそこまで深く考えなかったのだろう。
 それでも、肉眼で見るといい雰囲気なので、この位置からの眺めはオススメできる。

近所の桜1-6

 振り返ると、高い場所を無人ガイドバスゆとりーとラインが走っている。これを入れて撮ろうと、少し待ったらやって来てくれた。
 どこかで全部入れて撮れる場所がありそうな気がするけど、どうだろう。近くの高い建物の上から俯瞰すると面白い写真が撮れるかもしれない。

近所の桜1-7

 雨池と金城学院の間の道も桜並木になっている。この道沿いの桜はまだ若い。わざわざ見物に行ったり写真を撮るようなところではなく、車で走りながら眺めて楽しむといった場所だ。
 雨池公園の方が立派な桜が多いので、桜見物ならそちらへ行った方がいい。

近所の桜1-8

 最後に一番の地元である香流川へと向かった。日没前で写真としては厳しかったけど、お仲間のおじさんも写真を撮りまくっていた。
 だいぶ知られるようになったとはいえ、まだまだここもローカルスポットだ。名古屋の桜名所ガイドにも載らない。桜だけなら山崎川以上なのに。
 遊歩道が整備されているので、とても歩きやすいのもいい。
 写真としては、川幅がちょっと広すぎて、ここのよさを伝えきれないもどかしさがある。広角で撮ると迫力不足だし、望遠にすると一部しか切り取れない。これで川幅が半分なら、五条川に匹敵するくらいになっていたかもしれない。

近所の桜1-9

 上から見た香流川の桜並木。うちから開花状況が確認できるから便利だ。
 写っている向こうの建物の上から撮りたいといつも思うのだけど、勝手に入っていっていいものなんだろうか。

近所の桜1-10

 桜並木の下を車で走る楽しみもある。走りながら撮ると、疾走感のある写真になる。

近所の桜1-11

 香流川サイクリングロードという名称は今でも生きているんだろうか。今は犬の散歩ロードになっている。自転車の人もけっこう多いから、サイクリングロードには違いない。

近所の桜1-12

 夕焼けの中の桜。夕焼けと桜は両立が難しい。夕焼け色を優先すると、桜がつぶれてしまう。
 ここはライトアップはない。周囲は住宅地だし、誰もしようなんて言い出さないのだろう。香流川沿いは一般に知られる名所となるよりも、今のままでいいのかもしれない。でも、一度見に来て欲しい桜スポットであることは間違いない。

 今日一日で、桜はおなかいっぱいという気持ちになってきた。あとは五条川で締めくくるだけだ。散る花びらを撮るなら来週だし、満開なら明日しかない。行ったら帰りに名古屋城も寄ってこようと思っている。

電車のいる岡崎風景をやたら撮るにわか撮り鉄野郎

飛行機(Airplane)
名鉄岡崎風景-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / 75-300mm / Takumar 135mm / 50mm f1.4



 岡崎に桜を撮りに行って名鉄をたくさん撮ったから鉄道写真特集があるかもしれないと昨日書いた。その機会は意外と早く巡ってきた。早速今日、名鉄のある岡崎風景ということで特集したい。
 信長の清洲城は、国鉄が遠慮会釈なしに分断して鉄道を走らせているけど、家康の岡崎城には多少遠慮したのか、城を避けて通した。清洲城と岡崎城とでは明治以降の存在がまったく違うし、地理的なこともあったのだろうけど。
 名鉄の名古屋本線というのは、私は乗ったことがない。岐阜から名古屋を通って豊橋まで行っている路線だけど、内陸の中途半端な位置を通ってるから途中に用事がない。海沿いの蒲郡なんかへ行くときは当然JRというか昔なら国鉄で行った。そう考えると一度くらい乗ってもいいかなと思う。
 ただ、この線は需要が多いようで、電車がかなり頻繁に通っていった。1時間に2本とかのローカル線ではなく、多い時間帯は1時間に10本くらい走っているようだ。上りと下りがあるから、電車を撮ろうと待っていると5分もしないうちにやって来る。桜を撮りながらついでに電車も撮るというスタンスだと多すぎるくらいだった。
 ということで、今日は電車のいる岡崎風景写真を集めてみた。

名鉄岡崎風景-2

 電車の位置はよくないけど、自転車のおじさんのタイミングが最高だった。右の木がなかったらいい写真になっていた。
 たぶん、撮り鉄の人たちは、写真のテクニック以前にロケーションに賭けている部分がかなり大きいのだろうと思う。有名なところは雑誌やネットなどで分かるとしても、自分だけのお気に入りの場所を隠し持っているに違いない。
 鉄道写真の場合、偶然の幸運というのがあまり期待できない分野だから、他のジャンル以上にロケーションがすべてという面がある。
 私は電車を撮るのにそこまで頑張れない。偶然いい写真が撮れるといいな程度だ。

名鉄岡崎風景-3

 この場所は桜と川と鉄橋を絡めて撮れるいいスポットだぞと思ったら、すでに先客がいた。みんな考えは同じだ。撮ってる人ごと撮ってしまおうと思う人は少数派だろうけど。

名鉄岡崎風景-4

 これは中岡崎駅近くで、「純情きらり」のロケ地となった八丁味噌のあたりを探していて道に迷っている途中に撮った一枚だ。線路を越えた北側に行かないといけないのに、南側でさまよっていた。
 この地域は、鉄道と川が交差してるから、自由に行き来ができないのだ。

名鉄岡崎風景-7

 なんとか名鉄本線は越えたものの、中岡崎駅を越えられずに地下道に迷い込んだ。駅に続いているのかと思ったら、単に道を渡った反対側に出ただけだった。

名鉄岡崎風景-8

 ようやく中岡崎駅が見えてきた。上の方を走っているのは、名鉄ではなく愛知環状鉄道だ。
 愛知環状鉄道というと、海上の森近くを走っているローカル線という印象が強いのだけど、こんな岡崎あたりまで来ているとは知らなかった。岡崎から豊田、瀬戸を通って、春日井の高蔵寺までいっている路線のようだ。もちろん、乗ったことはない。
 愛知万博会場近くを通っていたから、あのときだけは賑わいをみせたんだろう。

名鉄岡崎風景-9

 桜をバックにホームで電車を待つ女子高生。
 手前の障害物を避けきれなかったのが残念だ。

名鉄岡崎風景-5

 鉄橋の下から走り去る電車を見上げる。

名鉄岡崎風景-6

 名鉄といえば車両の色は赤色と相場が決まっていると思いきや、こういう白っぽいものもよく走っていた。パノラマsuperとかなんとかいうタイプだろうか。
 1000系とか2000系とかいわれてもさっぱり分からない。知らない野草の名前は頑張って覚えようと思うけど、電車の系統を記憶することには情熱を傾けられない。
 撮っていれば少しずつ覚えられるだろうか。

名鉄岡崎風景-10

 変わった電車がやって来た。これが2200系というやつかもしれない。一般車か特別車か、見分けるポイントが分からない。鉄の人なら一発で分かるんだろうな。
 名古屋本線は違う色の車両をいろいろつないで走らせている。赤と白だったり、青っぽいやつもいたような気がする。そのあたりの写真も撮っておけばよかったけど、見たら撮ってなかった。せっかくの機会だったのに、ちょっともったいないことをした。また撮りに行くかとはならない。

名鉄岡崎風景-11

 夕暮れ迫る中の名鉄電車。
 普段電車を利用しないから、電車というのは私にとって非日常の乗り物で、夕暮れどきは特に心惹かれるものがある。あの電車に乗れば非日常に連れて行ってくれるような気がして。

名鉄岡崎風景-12

 最後までしつこく電車を撮っていた。
 電車撮りはけっこう楽しいなと思うのが鉄の人の始まりなのだろうか。こんなに撮ってしまう私はすでに片足を一歩踏み入れてしまっているのかもしれない。でも実際、田舎のローカル線なんかは撮ってみたい気持ちが強い。田舎風景と桜と電車は絵になる。ホームの人間模様とか、SLとか、鉄道写真を撮ってる人の気持ちは理解できる。
 完全に入ってますか、私? 今後も機会があれば撮っていこう。飯田線なんかは撮りたい路線の一つだ。今度中央本線の旅に出るから、そのときもしっかり撮らないと。松本や穂高あたりでいい風景に出会えそうだ。

桜シーズンのインターミッションとして足助で撮った野草写真を並べてみる

花/植物(Flower/plant)
足助の花-1

Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II / TAMRON SP 90mm f2.8 / smc Takumar 135mm f2.5



 桜に気を取られているうちに、カタクリのとき足助で撮った他の写真が賞味期限切れになりかけていた。このままお蔵入りさせてしまうともったいないから、やや遅ればせながら出してしまおう。しばらく桜が続きそうだから、中和効果もあるかもしれない。

 このブログも始まって2年半になるから、30ヶ月でひと月の記事数を30とすると、記事の数は全部で900くらいになる。その中のタイトルで個人的に最も気に入っているものが、2006年3月の「ハロー・グッバイ、ニリンソウ」というやつだ。普段の長いタイトルに比べると短いものだけど、なんだか響きがよくて、いまだにそれを越えるものをつけられていないような気がしている。ニリンソウという花の特徴と、記事の内容と、タイトルがうまく調和したというのもあった。
 で、そのニリンソウだ。ん? でも、みんな二輪じゃなくイチリンソウになっている。一本の茎から二輪の花を咲かせるからニリンソウというのに、一輪じゃ名前に偽りありということになってしまう。いや、よく見るとみんなつぼみがついている。これから遅れて二輪になるのだろう。
 イチリンソウという花もあって、それはまた別の種類だ。実はサンリンソウもある。でも、さすがにヨンリンソウはない。
 今年は遅かったのか、一ヶ所でわずかに咲いているだけだった。去年、おととしはもっとたくさん咲いていた。この花も楽しみにしていたから、残念だった。
 去年は民家の駐車場にとめさせてもらったとき、そこの人からニリンソウをもらった。根っこがついてなかったから挿し花ですぐに枯れてしまったけど、種から育てれば家庭でも育つんだろうか。

足助の花-2

 キクザキイチゲにいたっては、この日はきれいに咲いている花を一輪も見つけることができなかった。何事か。やっと見つけた花も、まわりのカタクリにつられるように元気なくうつむいていた。タイミングの問題というには数も少なすぎたし、花自体もよくなかった。何か原因があったんだろうか。
 キクザキイチゲは太子堂近くできれいに群生して咲いているポイントがあるのに、そこには一輪も咲いてなかった。単に曇り空で咲いていなかっただけならいいけど、来年以降がちょっと心配だ。カタクリもおととし、去年に比べて数自体が少なくなっていたような印象を受けた。葉っぱの緑が斜面全体を覆っていたのに、今年は地肌の茶色が目立った。

足助の花-3

 ネコノメソウ。ヤマネコノメソウかもしれない。
 これのどこが猫の目なんだよと思ったら、果実がついたときが猫の目っぽいのでそう名づけられたんだそうだ。花の名前は、基本的に花が咲いているときの様子からつけて欲しかった。葉っぱとか果実とかからつけられると、花からは連想しづらい。

足助の花-4

 春先にスミレを見ると、嬉しいというよりちょっとだけ気が重くなる。今年もスミレを区別しなければいけない時期が来てしまったかと。今年は多少なりとも成長できるだろうか。これなんかもいきなり分からないんだけど。
 葉っぱが細いから、ノジスミレあたりでいいのかな。自信はない。タチツボスミレ系統じゃないことは確かだと思う。
 今年も撮って覚えるしかない。

足助の花-5

 タンポポといっても世界には400種類、日本にも20種類くらいあるというから侮れない。
 一般的には在来種のニホンタンポポと外来種のセイヨウタンポポとに区別される。
 見分けるポイントは、黄色い花びらのの下の部分(総包)がまっすぐだとニホンで、反り返ってるとセイヨウというのだけど、よく見ないと分からない。写真だけでは判断できないことも多い。
 写真のものは、反り返ってる部分がないからニホンタンポポでいいと思う。
 ニホンタンポポは地域ごとに差があって、カントウタンポポやトウカイタンポポなどの亜種に分けられている。
 タンポポくらいでそんなに頭を悩ませたくないというのが一般的な感覚だろうけど。

足助の花-7

 ツバキという花はとても息の長い花だ。冬場の花というイメージが強いけど、春が深まってからもまだけっこうしぶとく咲いている。
 花びらを散らさず花ごとボトリと落ちる潔さと、季節をまたいで長生きする粘りとの二枚腰だ。
 サザンカとの区別の仕方は、落ちている花を見れば一目瞭然で、花びらが散っていればサザンカということになる。咲いている状態では、花が大きく平らになるまで開いていたらサザンカだ。ツバキは半開きまでしかならない。

足助の花-8

 これもたぶんツバキだと思う。ツバキというのは私たちの知らないところに愛好家がたくさんいて、世界中で品種改良も盛んに行われている花だ。色や咲き方も様々で、大勢のファンを持っている。自分の周りにツバキ好きが一人もいないからといってツバキファン人口が少ないと思ってはいけないのだ。

足助の花-9

 たぶんタネツケバナだと思うけど、こういう白い雑草めいた花の判別も苦手だ。ナズナとかとよくごっちゃになる。

 今年はまだ春の野草をあまり撮っていない。春になってから海上の森へ行ってないし、野草そのものを追いかけていない。桜が終わったら、野草も撮りに行こうと思っている。そろそろ湿地もいい季節になってきた頃だろう。
 まだ2008年桜シーズンまっただ中で、気持ちが野草の方に向かわない。まずは桜を完結させないと。名古屋も満開を過ぎたから、ここからは終わりまで一気に加速していく。いい時期は今週いっぱいだろう。

家康の力と日本人の桜好きを侮っちゃいけない ---岡崎城の桜<第一回>

桜(Cherry Blossoms)
岡崎城桜1-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / 75-300mm / Takumar 135mm / 50mm f1.4



 2008年桜シーズン後半は、岡崎城がある岡崎公園からの再スタートとなった。
 しかし私、完全に岡崎城の桜まつりを侮っていた。いくら満開とはいえ、平日の夕方ならそんなに混むはずないだろうと軽い気持ちで行ったら、直前で車が動かなくなって、駐車場に入るまでに30分かかった。甘く見てごめんと今更家康さんにあやまっても遅い。おとなしく車の中でじっと待つ。2週間で55万人の人出は、やはり甘くなかった。日本人って本当に桜が好きなんだなと、毎年思い知らされる。
 予定としては桜見物だけではなく、岡崎の歴史を辿る神社仏閣巡りもするつもりだったのに、それどころじゃなくなってしまった。やっとの思いで確保した駐車スペースを人に渡してなるものか。いったん離れたら最後、二度と取り返せない。今回は岡崎城周辺だけにして、夜桜まで粘ることにした。日没以降は凍えるような寒さだったけど、なんとか撮りきってきた。
 今日は岡崎城の桜第一弾として、まずは時間経過を追った写真を並べることにする。家康の生い立ちなんかと絡めて岡崎城についても書こうと思っているけど、それはまたあらためてということにしよう。たくさん撮りすぎて写真のRAW現像もまだ終わっていない。

岡崎城桜1-2

 屋台もたくさん出ていた。50くらいあっただろうか。関西弁が多かったし、県外からも大勢出張してきているのだろう。
 見物客の客層も広く、平日とは思えないほどの賑わいを見せていた。昨日の夕方のニュースで中継があったから、それを見てという人もけっこういたんじゃないか。

岡崎城桜1-3

 岡崎城の訪問は二度目で、前回天守に登っているので、今回は省略した。人も多かったし、時間もあまりなかった。

岡崎城桜1-4

 岡崎城は、細い伊賀川と広い乙川が交差したところに建っている。
 桜も、伊賀川堤と乙川の川岸と両方にあって、二つの違う風景を楽しむことができる。岡崎城周辺にも桜はある。
 全体のソメイヨシノの本数は、1,700本というのだけど、わりと広い範囲に散らばっているのでそれほど多いという印象は受けない。決定的に素晴らしいポイントがあるというふうでもなく、トータルとしての魅力が人を惹きつけているのだろう。ここも日本桜名所100選に選ばれているところだ。

岡崎城桜1-5

 乙川の川幅も広いけど、河川敷がまた広い。芝生だし、これはとてもいい河原だ。今日は川風が冷たくていけなかったけど、もっと暖かくなればここで座ってゆっくり過ごすのもよさそうだ。

岡崎城桜1-6

 桜との最高の取り合わせは、カップルでも親子でも老夫婦でもなく、制服を着た学生だと私は思っている。紅葉と制服は合わないけど、桜には学生がよく似合う。
 桜並木の中を自転車で並んで走る制服のカップルなんて絵を撮ってみたい。

岡崎城桜1-7

 そうこうしてるうちに日が傾いてきた。
 ここはすぐ近くに名鉄が走っていて、頻繁に電車が通る。私は桜そっちのけで電車をやたら撮っていた。電車男かっていうくらい。たくさん電車写真を撮ったから、岡崎城の桜シリーズの第何弾かで電車特集をやることになると思う。

岡崎城桜1-8

 桜まつりの期間中、屋形船が乙川を行き来する。去年から始まった岡崎城の桜の新たな目玉で、今年は船も2艘に増えた。1回45分で1,000円(前売り800円)なら乗ってみようという人もけっこういるだろう。お茶とお菓子もつくらしい。一日16往復だから、週末は並ばないと乗れないかもしれない。

岡崎城桜1-9

 寒さに震えながら待ったライトアップは、6時に始まった。でも、まだその時間は明るくてライトアップの効果が出ない。6時半を回ってようやく暗くなり始める。
 ここのライトアップは裸電球という古典的なものだ。これはこれで、遠くから見ると風情があっていいか。

岡崎城桜1-10

 桜のライトアップは、なんといっても水辺に限る。光が水面に映り込んで、効果は倍以上になるから。
 今日は風が強くて川面が波立っていたけど、ゆったりした流れの川だから、風がないときはもっときれいだろう。

岡崎城桜1-11

 暗くなると、屋台の光がお祭りムードを高める。昔懐かしい夜店の明かりだ。小学校のときの盆踊りを思い出す。

岡崎城桜1-12

 ここは宴会をする場所には事欠かない。乙川はだだっ広いし、伊賀川でも充分なスペースがある。こちらもライトアップされて、夜桜見物にはもってこいだ。

 昼の光から夕焼け、夕暮れから夜という桜スポットの雰囲気が伝わっただろうか。今回はちょっと駆け足での岡崎城桜紹介となってしまったけど、写真はまだたくさん残っているので、順次出していきたいと思っている。
 桜も満開になると散るのは早い。ここのところ寒いといっても、見頃は今週いっぱいだろう。週末までは持たないかもしれない。
 私としては、あとは近所周りと五条川を残すだけとなった。地元の桜名所100選4つを制覇するというなら鶴舞公園も行かないといけないけど、これは保留にしてある。
 東谷山フルーツパークのしだれ桜やサトザクラは、また別のシリーズだ。ソメイヨシノと他の桜では扱いが別になる。
 明日近場で、木曜あたり五条川ということになりそうだ。そこまできっちり回れれば申し分ない。2008年桜シーズンも最後までしっかり見て撮ろう。