
PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 Di
唐突だけど、今日は奈良の東大寺について書こうと思う。
奈良へ行ったのは去年の11月、紅葉の季節だった。月日は流れて今はもう3月、春になった。その間、あっちこっち出歩いて、東大寺編はずっと在庫として寝かせてあった。いつかそのうち書こうと思いつつ、今日になってしまった。そろそろ東大寺二月堂のお水取りも近づいてきて、再開するなら今を置いて他になく、ドラマ「鹿男」が終わらないうちに書きたいというのもあった。
そんなわけで東大寺だ。奈良へ行ってきて東大寺のことを書かずにどうすると今更ながら思う。書くと長くなりそうだから、それで先延ばしにしていただけとも言える。
東大寺は中門より先に進むにはお金を取られる。500円。観光客を狙った厳しい取り立てだ。ここまで来て大仏を見ないと心残りになるから、つい言いなりに払ってしまう。それでも大仏殿の敷地内は人で溢れていて、ザクザク儲かっていることをうかがわせる。うちは葬式もしないし檀家もいない(いる?)から入場料だけが頼りなのだと東大寺は言うかもしれない。
地続きのようになっている興福寺や春日大社は無料で、ここだけ徴収するのはどうかとも思うけど、興福寺も建物で個別に取られるし、京都や鎌倉のことを思えば良心的とも言えるか。
東大寺の敷地というのはどこからどこまでなのかよく分からない。塀も仕切りもなく、内と外の区別がつかない。奈良公園の春日大社と興福寺の境目も判然としない。歩いているといつの間にか敷地内に入っている。

かつてのものと比べると間口が3分の2(11間から7間)になってしまったとはいえ、世界最大の木造建築物である東大寺大仏殿(金堂)。間口57メートル、高さは天平時代と同じ47.5メートルある。近くで見ると威風堂々、さすがとうならせる。
現在のものは江戸時代に再建された三代目で、東大寺もまた波乱と浮き沈みの歴史を持つ寺だ。
728年、聖武天皇が1歳にならずに亡くなった第1皇子の基王(もといおう)を弔うために金鐘山寺(きんしょうせんじ)という小さな寺を建てたのが東大寺の始まりだ。
741年、聖武天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じ、その際金鐘寺は大和の国分寺として金光明寺と名前が改められた。
東大寺になるのは745年のことで、その2年前に聖武天皇の命で大仏が造られることとなった。
東大寺の名前は、都がある平城京から見て東の大きな寺という意味で、「ひむがしのおおてら」とも呼ばれていたようだ。
大仏の開眼供養は752年、最終的に伽藍が完成するのは789年のことだ。
開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)。天皇の勅願寺ということで、藤原氏の氏寺だった興福寺とは根本的に性格が異なっている。興福寺が私立だとすると、東大寺は国立というたとえでいいだろうか。
短かった奈良時代が終わり、時代は平安へと移る。平安時代にも地震で大仏の頭が落ちたり、大風で南大門が倒れたりなんてことはあったものの、おおむね平和に時が過ぎた。
東大寺最初の大きな受難は、平安末期の源平合戦のときだ。平重衡の軍勢が南都に攻め込んできたとき、放たれた火によって大仏殿をはじめ、大半の伽藍を失うこととなる。1180年のことだ。大仏殿は数日にわたって焼け続けたという。
数年は争乱が続いて再建どころではなかった。
この事態を嘆いた僧侶の俊乗房重源が立ち上がる。全国で資金集めをし、源頼朝や後白河法皇に掛け合って援助の約束を取り付け、1185年に再建が始まった。
1195年には、源頼朝、北条政子夫妻や後鳥羽上皇も参列して大仏の開眼供養が行われた。
更に時は流れて戦国時代。大和の国も戦乱に巻き込まれ、反乱を起こした松永久秀によって再び大仏殿は焼かれることとなる。二月堂や南大門などが残ったものの、大仏殿は焼失、大仏も大打撃を受け、戦国の世で再建は進まない。仮堂が建てられるも、1610年の暴風で倒壊し、その後100年間、大仏は野ざらしのままとなる。
大仏の修理がようやく行われたのは江戸時代の1691年になってからだ。大仏殿が再建されたのは綱吉の時代の1709年のことだった。
大仏殿が小振りになってしまったのは、資金不足と木材不足に加えて技術不足でもあった。江戸時代にはこれほど大きな木造建築を建てる技術が失われていたのだ。現在の技術をもってしても難しい木造の大伽藍や五重塔などを、奈良時代やそれ以前に建てていた昔の大工の技術力はすごい。コンピューターどころか計算機さえもない時代に、経験と勘で建てていたのだから。
明治時代の廃仏毀釈の嵐をどうにか乗り越え、明治と昭和の二度の大修理を経て、平成10年には世界遺産に登録され、今に至っている。年間300万人が訪れるという。

正式名称「盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)」というこの大仏さんの正体は、釈迦如来(しゃかにょらい)だ。華厳宗の別名がそうなっている。
高さ14.98メートル。金銅仏では世界最大のものだ。金銅仏というのは、銅で鋳造した仏像に金メッキをしたものをいう。そう、大仏さんはかつて、金ピカだった。
少し前に東大寺大仏殿を再現したCG映像を見たけど、あれは衝撃的だった。大仏はもちろん、柱や飾りは黄金色に輝き、天井には極彩色の絵が描かれ、大仏の頭なんて鮮やかな群青色をしていたというのだ。そばにはべる仏像も、青、赤、緑などで彩色され、あの色彩感覚はにわかには信じられないほどだった。私たちがありがたがって見ている大仏殿などは、枯れ果てた出がらしのようなもので、天平の人々が目にしたら、なんだこんなものと言うだろう。現代に同じ着色をしたら安っぽく感じてありがたみがないと思うのだろうけど、もしタイムトリップができて当時の実物を見ることができたとしたら、それはもう度肝を抜かれるどころじゃなく腰を抜かしてしまうかもしれない。
昔と今とでは、仏像だけでなく仏教の在り方が根本から違っている。かつては国家の権威の象徴であり、外国から渡ってきた時代の最先端でもあった。祈りの対象や心の平安を求めてお参りにいくようなそんな穏やかなものではなかった。なんといっても国家事業でもあるし、時代を考えると庶民感覚からかけ離れたものであったとしても不思議ではない。
動員された人数はのべ260万人だったと記録はいう。数字だけみれば日本人の3分の1以上が関わったことになる。
金箔のために大量の水銀が必要で、うちの田舎の丹生から掘り出されたものが多かったということから、奈良の大仏には私も親しみを持っている。代替わりして、今ではすっかり金もはがれてしまったけど。

大仏の左右には、如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像が鎮座している。
どちらも江戸時代に造られた木造仏で、当時の代表的な仏師一門によって、それぞれ30年以上かけて彫られた。
如意輪観音像が1738年、虚空蔵菩薩像が1752年に完成した。

大仏の後ろには四天王のうち、広目天と多聞天の二体が控える(残り二体の持国天と増長天は予算不足で造られずじまいとなった)。
左側のこちらが広目天だ。みうらじゅんじゃないけど、仏像はカッコイイ。昔のアイドルだったという言い方もできるから、憧れの対象でもあった。実際、仏像というのは格好良かったり、セクシーだったりするのだ。せっかく日本にはたくさんのいい仏像があるのだから、宗教色抜きにしてもっと親しめばいいのにと思う。仏像のフィギュアとかプラモデルとかたくさん販売して、ガンダムくらいの人気シリーズに成長させたい。
CGで復元されたド派手な広目天なんて、モビルスーツ並みにカッコイイのだ。ああいうのをもっと子供たちに見せてあげれば、日本人も仏教を文化として大切にしていけると思うのだけど。

こちらは多聞天。毘沙門天と言った方が通りがいいかもしれない。
こっちは軍神ということで衣装がクールだ。NHK大河の「風林火山」でGacktが上杉信玄を演じたけど、あのイメージはなかなか悪くない。
奈良の観光の一環として、仏像の衣装レンタルというのはどうだろう。いろんな仏像の衣装やメイクを施して写真を撮ろうという企画だ。修学旅行の思い出にパンチパーマのカツラをかぶって大仏になるなんてのもいい。

天平時代の東大寺を再現したミニチュア模型が飾られている。目をひくのは、なんといっても左右に配置された七重塔だ。五重塔はあっても七重塔は見たことがない。
高さ100メートルの木造建築物を造ることができたのもすごいし、それを二つも持っていた東大寺もまたすごい。大阪の通天閣と同じ高さの七重塔が現存していたらさぞや見応えがあっただろう。
模型ではぎゅっと凝縮して建っているようだけど、実際は広い敷地の中にゆったりとしたスペースで伽藍が並んでいた。南大門から中門を経て大仏殿までが南北一直線に列び、左右には七重塔、大仏殿の後ろには講堂があった。その他、多数の伽藍があって、最盛期にはどんな全体像だったのか、想像するのも難しい。

比較のために、それぞれの時代の大仏殿が再現されて並んでいる。
手前が現在のもので、左がかつてのものだ。ちょっと撮る角度を間違えて大きさの比較になってないけど、建物のスタイルがだいぶ違っていることが分かる。昔のものは非常に大らかで落ち着きのある構えになっている。
せっかくだからこの模型もちゃんと当時の着色をしたらどうだろう。その方が本来の豪華絢爛さがよく伝わる。

お調子者のスリムな若いやつが鼻の穴くぐりをして成功していた。かなり引っかかり気味だったけど、けっこういけるもんだ。私はちょっと無理そうだ。
この穴の大きさは大仏の鼻の穴と同じ大きさだとされている。実際は違うと聞いたこともあるんだけど、どうなんだろう。
目から鼻に抜けるという言葉にあやかって、ここを通り抜けると賢い人になれるとか、この柱が大仏殿の中で鬼門の東北に位置しているから厄払いになるなどと言われている。

大仏殿の中におみやげ物コーナーを作ってしまっている。修学旅行生や外国人観光客が多いから、奈良名物に限らず日本みやげみたいなものが多い。ゆっくり見ていけば面白いものも見つかりそうだ。このときはもう閉まる間際で、時間がなかった。

大仏殿は広いけど人も多く、空気が濃密なので、表に出ると開放感がある。歴史の空気は外気よりも重たさを感じる。
みんな帰るところで、秋の日に照らされて長く伸びる影がきれいだった。
向こうに見えているのが中門で、1716年に再建されたものの一つだ。これも重要文化財に指定されている。
その手前にあるのは、金銅八角燈籠で、これは古い。何度も修理されているものの、創建の奈良時代のもので、国宝になっている。

行きは裏手から回り込んでしまったので、帰りは南大門をくぐって帰ることにする。
これまた大変立派な三門だ。鎌倉時代に再建された日本最大の三門ということで、当然国宝指定になっている(1199年)。高さは25.46メートル。
大仏様(だいぶつよう)、または天竺様(てんじくよう)建築で、柱を貫通させる水平の木材を多用しているのが特徴だ。五間三戸の二重門で、天井はない。
門の中には高さ8.4メートルの木造金剛力士立像一対が安置されている。どういう理由からか、一般とは逆に、左に阿形(あぎょう)、右に吽形(うんぎょう)が配置されている。
運慶が総指揮を執って、快慶や定覚、湛慶などが弟子たちとともに短期間で彫り上げた。
やはり書き始めると長くなる。神社仏閣や歴史ものはどうしてもそうなりがちだ。東大寺編は一回で終わらないのは最初から分かっていた。まだ二月堂などの主だった建物も紹介してないし、そのあたりは後編で書きたいと思っている。
平城宮跡の写真は撮れなかったのだけど、夜になって朱雀門をわざわざ見にいってきたので、それも没ネタにはできない。奈良時代の歴史の復習と絡めて書く予定をしている。
ということで、終わったと思った奈良シリーズがここに復活。少なくともあと2回はある。神社仏閣好きの方もそうじゃない方も、もう少しおつき合いください。