
PENTAX K100D+smc PENTAX-DA 18-55mm f3.5-5.6 AL
先週、田舎に帰郷したとき、ついでといっては失礼なのだけど、お伊勢参りもしてきた。物心つくかつかないかのとき両親に連れて行ってもらって以来長らくご無沙汰をしていて、もう一度行かなくてはと思いつつなかなか行けずにいた。今回ようやく念願がなかって、ちょっとホッとしている。肩の荷が下りたというと大げさだけど、懸念が一つ消えてすっきりしたのは間違いない。一生に一度はお伊勢参りというけど、今回でようやく私も仲間入りできた。
今日は伊勢神宮の勉強を交えつつ、お伊勢参りのレポートをお届けしたいと思う。
伊勢神宮が長い歴史を持つ、日本で最高位の神宮だということはたいていの人は知ってるだろう。けど、誰がいつどういう経緯で建てたのかということまでは知らない人が多いんじゃないだろうか。私も行って帰ってきて勉強し直すまでちゃんとは分かっていなかった。
始まりは伝説めいている。「日本書紀」によると、第十代崇神天皇の時代までは、大和の宮中で天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀っていて、これを皇居の外の笠縫邑(かさぬいのむら)に建てたのが、のちの伊勢神宮の始まりだという。三種の神器のうち八咫鏡の中にアマテラスを祀って御神体とした。
その後、天皇に代わり豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)がお祀りを受け持つこととなり、十一代垂仁天皇の代になって倭姫命(やまとひめのみこと)が担当となった。このとき、大和の国は疫病が蔓延したり、戦乱のような状態になったため、倭姫命はお祀りするのにもっとふさわしい場所はないかと諸国を巡り、最終的にたどり着いたのが伊勢の地だったというわけだ。昔からこの地は自然が美しく神聖な土地とされていた。
現在のように大きな神宮となったのは、天武天皇から持統天皇にかけての時代だった。現代も続いている20年に一度の神宮式年遷宮も、690年の持統天皇のときから始められたものだ。
というわけで、伊勢神宮の歴史は約2,000年、現在のような姿になってから1,300年以上の歳月が流れたことになる。
伊勢神宮の歴史をもう少し詳しくみてみよう。
古代においては天皇や皇室の氏神として、一般庶民とは無縁のものだった。はっきり私幣禁断と定められていて、一般人はお参り禁止とされていた。
中世になると朝廷の権威が弱まり、私幣禁断もうやむやになって、全国の武士が信仰するようになる。外国から仏教も入ってきて神仏習合となる中、神道の最高神として武士から庶民にまで広くあがめられるようになった。
源頼朝も伊勢神宮に対する崇拝心は強く、のちの北条執権時代とあわせて、鎌倉時代でちっきり8回の遷宮を執り行っている。
それは室町時代の足利家にも引き継がれて前半まではよかったのの、応仁の乱以降は国が乱れて、遷宮も100年以上行われず、伊勢神宮は危機的な状態に陥ってしまう。それを救ったのが、戦国時代の織田信長であり、豊臣秀吉だった。信長は無神論者の暴れん坊というイメージが先行しているけど、実は意外と信仰心が強くて、桶狭間の前には熱田神宮に戦勝祈願に行っているし、戦のさなか伊勢神宮にも参拝に訪れている。多大な寄進をして伊勢神宮建て直しをはかった。
徳川家もそれに習って手厚く保護し、江戸時代を通じてお伊勢さんは庶民の神様となっていく。1811年には正式に私幣禁断が解かれ、誰もが大っぴらに伊勢神宮にお参りできるようになった。江戸時代には毎年50万人もの庶民がお伊勢参りしたという記録が残っている。そして、どういう理由からか、ほぼ60年周期で「おかげまいり」という伊勢神宮参拝の一大ブームがわき起こっている。一番多かったときは半年足らずで500万人が伊勢神宮に押し寄せたというからすごい。当時の日本人の6人に1人がお伊勢参りをしたというからちょっと考えられない数字だ。しかも、全国からみんな歩きなのだ。今、東京から三重県まで歩けと言われて誰が喜んで歩くか。
明治になると国の方針が神道一本となって、名実ともに伊勢神宮は国の最高位の神社となる。
基本的な勉強が済んだところで、そろそろ鳥居をくぐってお伊勢さんにお邪魔することにしよう。鳥居の前で一礼して足を踏み入れる。この先は神域だ。日常とは隔てられた空間なので浮ついた気持ちで入ってはいけない。背筋が伸びてシャキッとした気持ちになる。これが伊勢バリアというものか(意味が違う)。

まずは宇治橋を渡る。中央の一段高くなっているところは神様の通り道だから踏んではいけないことになっている。このはしわたるべからずという禁止札を見て橋の真ん中を堂々と歩いた一休さんが宇治橋で同じことをやったとしたら、とんだ罰当たりの坊主ということになる。
宇治橋も他の建物同様、20年ごとに新しく架け替えられる。昔は遷宮と同じ年にされていたのだけど、戦後の混乱で遷宮が間に合わずに、せめて橋だけでも架け替えようとなったことで橋の方が4年先となった。次回の遷宮が平成25年だから、橋は平成21年ということになると思う。
全長101.8メートル、幅8.421メートル。神聖な橋ということで檜(ひのき)で造られている(橋脚は欅(けやき))。高欄つきの和橋で、欄干の上には16基の擬宝珠(ぎぼし)が据えられている。
20年間で1億人もの参拝客が渡るから、厚さ15センチの檜が5センチもすり減ってしまうんだそうだ。50年くらい架け替えないとぺらんぺらんの板になってしまうので危険だ。
古い橋の材料は別の神社などでリサイクルされて、60年間はお役目を果たすという。

宇治橋を渡って少し行くと、心身を清めるための手水舎と、五十鈴川に設けられた御手洗場(みたらし)がある。清潔さを優先するなら手水舎で、ここはやっぱり気分優先だろうという人は五十鈴川で手洗いをするといいだろう。両方やってもいい。
本来神社にお参りするときは、川や海の中に入って禊(みそぎ)をして心身ともに清めてからのぞむものとされていた。手水舎はその簡略版というわけだ。今朝シャワーを浴びてきたからいいだろうとかそういうことではない。
この石畳は、1692年に徳川綱吉の母、桂昌院が寄進したものだそうだ。
川の中では色とりどりの鯉が泳ぎ、小銭が沈んでいる。トレビの泉じゃあるまいし、コイン投げてどうする。10円硬貨を花瓶に入れると切り花が長持ちするから、鯉にもいい影響を与えるのか!?

伊勢神宮は広い。思っている以上に広大だ。先を急ぐと途中でへばってしまいかねない。ゆっくり行こう。この日は風がなくて暑かった。境内の木陰でも歩いてると汗が止まらない。
ようやく着いたかと思ったら、まだ半分だった。ここはお札などを売ってる御神札授与所だった。様々な伊勢神宮グッズが売られていた。神棚セットまで置いてある。もし家に神棚を置くことになったら、ここに買いに来よう。小さいものは1万円くらいで売っていた。町の専門店で買うよりもお伊勢さんで買った方が御利益がありそうだ。

隣の神楽殿(かぐらでん)。普段は何があるというわけではなく、儀式のときに御神楽の奉奏が行われたり、個別の祈祷などをしてもらうときに使われる。
銅板葺の入母屋造で、これも20年ごとに建て替えられる。この隣には「御饌殿(みけでん)」がある。

ようやく正宮の下までたどり着いた。かれこれ15分か20分くらい歩いただろうか。
伊勢神宮内宮の神域は93ヘクタールで、宮域林と呼ばれる神聖な森林地帯をあわせると5,500ヘクタールにもなる。どれくらい広いのかよく分からないくらい広い。
写真撮影はこの石段の下までとなる。これより先は神域の中核部分ということで撮影禁止だ。直視するのも畏れ多くていけないとか。
では、カメラをしまって、いよいよ参拝しよう。
これだけ格式の高い神宮ということで、個人的な願い事はしない方がいい。元々は私幣禁断の長い歴史もある。自己紹介して、挨拶するくらいにとどめておいた方がよさそうだ。日本一の神様に個人的な恋愛相談とかしてる場合じゃない。
祭神は言わずと知れた天照大神だ。正式には天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)という。皇大御神もアマテラスの別名だ。
ところで、伊勢神宮に内宮(ないくう)と外宮(げくう)とに別れていて、本来は外宮でお参りしたあと内宮に参拝するのが正式な作法とされている。今回は時間がなかったので外宮はごめんしてもらった。外宮は豊受大神宮(とようけだいじんぐう)、内宮は皇大神宮(こうたいじんぐう)が正式名となる。外宮はあらゆる食べ物の神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)が祀られている。
伊勢神宮というのは俗称で、もともとはただの神宮だった。その他にも神宮ができたため、区別するために伊勢の神宮と呼ばれるようになった。
神宮が管理している宮社は全部で125あって、伊勢市以外にも広がっている。

正面から正宮を撮ることができないので、横に回ってチラリズムで撮影してみた。のぞき見したからアマテラスさんは怒っただろうか。金ぴかの屋根の一部だけが顔をのぞかせていた。有名人の家に行って隠し撮りをしてるような気分になる。
隣に式年遷宮の敷地がある。隣り合った敷地に、交代に新しい正宮を建てていく。こちらも神域ということでパワースポットとなっている。

どうして伊勢神宮だけが20年に一度、すべての建物を壊して新しく造り直すのか、本当の理由は分かっていない。当初は20年目を前にして19年間隔で建て替えていたので、それは太陰暦の周期に関係があったのではないかとか、常に新しい家に神様をお迎えすることで心機一転、パワーを弱めないためだとか、木造建築の耐久年数を考えてだとか、宮大工の世代交代がそれくらいだからとか、いろいろなことは言われている。
それにしても、ものすごい労力とお金がかかる。莫大な国家予算を投じてするからには何か明確な目的があったのだろう。ただ新しい方がいいとかそういうことではなかったはずだ。檜だけでも1万本以上を切り倒して運んでこなければならない。
今となっては急にやめるわけにもいかないから、現代になっても続けられている。遷宮年のずいぶん前から、お木曳き、陸曳き(おかびき)、川曳きなどという儀式で全国から木を運び入れる作業が行われる。今回も2013年の遷宮に向けて2005年から儀式や行事が進行中で、これに関われるのは最高の名誉とされているそうだ。この前、皇太子さんも参加しに伊勢を訪れていた。

これは神のための米を作っている田んぼでとれた米を納めるための御稲御倉(みしねのみくら)だ。
教科書で見た弥生時代の高床式倉庫みたいだなと思った人は正解、伊勢神宮の建物は正殿もその他も全部、日本で一番古い木造建築様式といわれる唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)で建てられている。弥生時時代から続く伝統の様式だ。古代の人たちもこの建物に日本建築の美を見いだして、伝統を守っていこうと神社に採用したのだろうか。20年遷宮も伝統保存の意味合いが強かったのかもしれない。
無宗教だった西行は、伊勢神宮を訪れて、「なにごとの おはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる」と詠ったとされている(別人の歌という説もあるけど)。
かたじけなさは神々しさに打たれてありがたいと感じたとされる説が一般的だだけど、私は少し違うような気がする。かたじけないというのは文字通り、我が身のかたじけなさに申し訳ないと素直に謝りたくなるような気持ちになったというんじゃないだろうかというのが私の想像だ。「願わくば 花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」と、悟ったようなつもりになってるけど、ここへ来て自分もまだまだだなと思い知ったという方が解釈としてはしっくりくる。伊勢神宮というのは、それだけ人を謙虚な気持ちにさせる力がある。
個人的な感覚としては、もう覚えてないくらい久しぶりの再訪だったけど、境内にすごく神聖な空気を感じたというわけでもなく、泣けそうな気持ちになるというわけでもなく、普通の空間にいるというような当たり前の感じだった。空気が抜けているとかではなく、長年住んだ自分の実家に戻ってくつろいでいるような感じとでも言おうか、清らかさの密度がちょうどよかった。やれやれ、やっと戻ってこられたかと安堵する気持ちが強かった。ずいぶんご無沙汰してました。お久しぶりです。こちらは元気でやってましたよ。そっちはどうですか、なんてふうに。そんな気安さをも迎え入れてくれる懐の深さも、神宮には確かにある。
この日は夏休みということもあってか、老若男女というよりも若手がすごく多かった。子供連れの家族だけでなく、ギャル同士が連れ立ってだったり、若い男子グループだったり、カップルのデートだったり、およそ神社仏閣には無縁そうな顔ぶれが目立って驚いた。現代におけるお伊勢さんは、すっかり庶民の神様となったようだ。あれだけ大勢の若者を惹きつける魅力があるということに安心もした。まだまだ日本も大丈夫だ。
日本最高位の神社には天照大神がいる。これは、日本の総支配神は女神ということだ。そのことをあらためて意識したとき、ああ、日本ってやっぱりいい国だなと思ったのだった。男の神が威張って支配してるよりも、女神が優しく守ってくれていた方がずっと心強い。すべての人間が母親から生まれるように、世界の神様は女神こそがふさわしい。そのことを再確認することができたという意味でも、お伊勢参りはとても有意義なものとなった。
アマテラスさん、これからもみんなをよろしくお願いしますね。ついでに私のことも見守ってください。