
PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm(f3.5-5.6)
庄内川では特に深い考えも狙いもなく、気の向くままたくさん写真を撮った。目についた風景や光景を軽くパチパチと。いわゆるスナップショットだ。
こういう撮り方はフィルムでは決してできない。デジタルになって写真が軽くなったけど、軽さというのは必ずしも悪いものではない。晩年の松尾芭蕉は「軽み」という言葉をよく使った。対象をそのまま素直に受け止めてありのままを句にするという方法論というより境地としてそこに至ったのだろう。太宰治もこのことを自分の発明のように語っていた。まあそれは大げさなたとえだけど、写真もまた向かうべきは重厚さではなく軽さなのかもしれないと最近思う。重くて意味ありげな写真はある程度上手くなれば誰でも撮れる。軽くていい写真を撮るためには長い歳月と努力の継続が必要だ。
ちなみに、スナップショットというのは、急いで射落とすという狩猟用語が語源で、そこから転じて人物や情景などの瞬間的な動きを素早く写すというのが元々の意味だった。今ではもう少し広い意味で、人物撮影や風景撮りなどに使われることが多い。
そんなわけで、今日は庄内川のスナップショットを並べてみる。コマ切れのような断片的な風景がうまくつながって河原の空気感が伝わるだろうか。

橋桁を見るとなんでこれで道路が落ちないんだろうと思い、エレベーターに乗るとロープが切れて落下するんじゃないかと少し心配になる。鉄のかたまりの飛行機が空を飛ぶことも、鋼鉄の船が水に沈まないことも、私の中では完全に納得できているわけではない。技術というのはそれだけ発達してすごいことだと頭では分かってるつもりでも、どこか信用しきれない部分が残る。実際、そういう事故がたまに起こったりするから余計に。すごく心配性というわけでもないのだけど。
上の写真はなんとなく造形に惹かれて撮った。橋のフォルムというのも人の心に訴えかける何かがある。

河原も緑がモコモコ状態で、いかにも夏という風景だった。
一年を通して花や生き物を追いかけて歩いていると、緑のビビッドな増減というものに驚きを感じる。冬に枯れ果てて茶色になったものが春になると少しずつ緑色に色づいてきて、夏にはこれでもかとばかりに緑が爆発する。そして秋になるとまた枯れて、気づくと緑はどこかへ消えてなくなっている。
近年は季節がおかしくなっていると言うけど、自然を観察していると狂いはないことに気づく。花は咲くべき月に咲き、渡り鳥は来るべき時にやって来て去るべき時に去り、昆虫は夏と共に現れて秋と共に消えていく。一年の移り変わりを高速カメラで捉えたら、その移り変わりは実に鮮やかなものだろう。
地球の偉大さは近所の河原でも感じることができる。

渡らないカモのカルガモは、日本の夏の暑さにもすっかり馴染んで、しばし静かな時を過ごしている。なのに、私というちん入者が突然近くまでやって来たので慌てて逃げ泳いでいった。大急ぎで水をかきながら、さりげなく、でも全速力で。なんだか、女子校の嫌われ教師にでもなったような気分でちょっと悲しかった。わっ、先公が来やがった、逃げろ、みたいな感じでみんな遠くへ散っていった。世の中にはいろんな悪夢があるけど、女子校で嫌われ者になるというのは私の中では最大級の悪夢だ。一般企業でイジメにあうよりつらい。
夏が終わればそろそろまた冬の渡り鳥たちが戻ってくる。虫や花が少なくなって撮るものもだんだんなくなっていっても、冬の間はカモたちがいるから寂しくない。

河原でひたすら石を投げてる人がいた。何か嫌なことでもあったのだろうか。見てはいけないものを見たような気がしたけど、写真まで撮ってしまった。水切りとかではなく、ただ普通に石を投げていた。グラブ2つとボールを持っていってキャッチボールに誘うべきだっただろうか。そんなやつはいないけど、やってやれないことはない。公園のベンチに座ってぼんやりしてる人に、「キャッチボールしませんか?」と呼びかけたら、何人くらいつき合ってくれるだろう。私がもしそんな誘いを受けたら、とりあえず少しだけ誘いに乗ってしまいそうな気がする。現代人は心のどこかでキャッチボールに飢えているのかもしれない。

犬を連れたお母さんと自転車に乗った小さな女の子。世の中の平和の象徴のような光景だ。戦時中にこんなシーンは見られない。おなかが空いて食べるものがなくても、こんなのんきなことはしてられない。
テレビで伝えられる殺伐としたニュースは世の中がどんどん悪くなっていってるかのような印象を与えているけど、50年前、100年前と比べて世界は劇的によくなっている。日本も豊かになったし平和にもなった。悪いことももちろんたくさんあるけど、それはどの時代でも変わらない。私は世界の明るい面を見ていきたい。

少年時代の夏休みが人生最良の時だとは思わない。何の気苦労もなく遊んでいられたあの季節を懐かしむ気持ちはあっても、無知であることはいいことではない。物事が理解できるようになった大人こそ、いい時間だ。
それでも、思い出というのはとても大切なものだ。子供の頃たくさんの思い出を作った人間ほど、大人になって豊かな心を持てる。人の総体というのは突き詰めていけば記憶と意識だ。それは過去の経験が作り上げたものに他ならない。感受性が豊かな時代にたくさんの刺激を受けた方が人格形成の上でも有利に働くのは当然だろう。
日本全国の少年少女たちはこの夏、どんな思い出を作っただろう。いっぱい日焼けして、めいっぱい楽しめただろうか。夏休みを超えられなかった子供たちも少なからずいた。
私が今少年少女として生きている彼らにかけられる言葉があるとすれば、たくさん遊んで、自分の好きなことに熱中して、いい大人になってくださいね、ということだけだ。

スケボー・ボーイたち。もう少し近くから撮れるものなら撮りたかった。撮らせてもらっていいですかと声をかけて撮るスタイルじゃないから、どうしても被写体との距離感が遠くなる。このあたりも今後の課題だ。当面は風景の中の人たちということで撮っていくことになるだろうか。

カメラのレンズはすごく優秀でもあり、その一方で人間の目には遠く及ばない部分もある。人間の目の優れたところは、明暗差の強いシーンで明るいところと暗いところを同時に見ることができるところだ。カメラ用語で言えばダイナミックレンジが恐ろしく広い。カメラは人間の目では捉えられない一瞬を切り取り、見えない細部まで写し取ってみせるけど、明るさと暗さを同時に捉えることができない。逆光のときは特にそうだ。
カメラは万能じゃない。できることとできないことがある。でもそれを限界としてあきらめるのではなく、逆に利用して人間の目に見えるのとは違う光景を写すという方向で考えていくのがいい。
スナップショットは誰にでも撮れる写真だけど、奥が深くて底がない。センス、偶然、幸運、経験。いろんな要素が重なって、ときにいい写真として結実する。
写真というのは麻雀に似ているなと思うことがよくある。どんな牌が来るかは運次第だけど、運を呼び込むのは実力で、読みも大切だけどいつも読み通りにいくとは限らない。たまたま幸運なシーンによく出会う人がいて、写真運がない人もいる。最終的には人間力とでもいうようなものがいいシーンを呼び込むものなのかもしれない。
いい写真に偶然はないと達人は言うだろうか。それでも一生に一度くらいは、配られた牌がすでに上がりとなっている天和(てんほう)のような写真を撮ってみたいと思うのは、写真を撮る人共通の願いだろう。
自分が撮りたい究極の写真が頭の中にあるとしたら、それはいつかどこかで撮れるはずだ。なければ、まずはそれを見つけることから始めないといけない。