月別:2007年06月

記事一覧
  • 時間がないからフィルム写真の残りをあり合わせ的に

    Canon EOS Kiss3+TAMRON SP 90mm f2.8+Kodak ULTRA COLOR 400UC 明日は早起き早出で今日は時間がないので、フィルムの残り写真でお茶を濁す。それは手抜きではないかとあなたは言うかもしれない。正にその通り! ザッツ・ライトなわけです。 顔を洗うアイ。猫が顔を洗うと次の日は雨という迷信があるけど、あれは正しくない。アイはあまり顔をひんぱんに洗う方ではなくて、気が向くとときどき洗ってる程度だけど、それを見かけ...

    2007/06/30

    カメラ(Camera)

  • 21世紀もフィルムカメラを使ってこの時代の空気を写し撮ろう

    Canon EOS Kiss3+TAMRON SP 90mm f2.8+Kodak ULTRA COLOR 400UC 海上の森で撮りきれなかった36枚撮りフィルムの残り半分を使うために、春日井にある無料植物園「グリーンピア春日井」へ行った。困ったときはグリーンピア。ここへ行けば一年中、何か撮るものがある。入園も駐車場も無料で、夕方6時まで開いているのがありがたい。 6月はハナショウブだ。時期的にはもう終わりのはずが、ここのは全盛期という感じで咲いていた。こ...

    2007/06/30

    カメラ(Camera)

  • フィルムの功罪とデジの良し悪し ---フィルムで切り取る6月の風景第一弾

    Canon EOS Kiss3+TAMRON SP 90mm f2.8+Kodak ULTRA COLOR 400UC たまにはフィルムで写真を撮ろうと、EOS Kiss3を持って海上の森へ向かった。しかし、相変わらずの貧乏性で、一枚撮るのにえらく時間がかかって、しまいには指が震える始末。固まった指が動かない。それが手ぶれを生み、貧乏的な失敗を何枚か重ねつつ、結局36枚撮りフィルムの半分しか撮れずにすごすご帰ってきてしまったのだ。貧乏は人をダメにする。貧すれば鈍する...

    2007/06/29

    カメラ(Camera)

  • 日枝神社で山の神様と猿のまさるさんが東京の街を守ってくれている

     東京千代田区赤坂にある日枝神社(ひえじんじゃ)に行きたいと思っていて、念願叶って行くことができたので、今日はそのことを書いてみたい。 創建は鎌倉時代の初期、秩父重継が江戸氏を名乗るようになって、山王社を自分の屋敷に勧請したのが始まりとされている。更に太田道灌が江戸城を築城した際(1478年)に、川越山王社(川越日枝神社)からも勧請して江戸城内へと移した。 その後、徳川家康が江戸城に入ったとき、城内の...

    2007/06/28

    東京(Tokyo)

  • 代々木公園に行ってはきたけどどんなところと訊かれても困る

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-55mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/50s(絞り優先) 東京都民にとって、日比谷公園と代々木公園の違いって何なんだろう? 場所の違い以外にも何か決定的な差や微妙なニュアンスの違いがあるのだろうか。日比谷公園は好きだけど代々木公園は好きじゃないとか、その逆とか。 観光客の私が両方行った印象としては、どちらもどことなく似た印象で、それぞれの特徴が掴めなかった。いまだにあまり区別がついて...

    2007/06/27

    東京(Tokyo)

  • 神社でランチしたりあじさいソフトを食べたりカレーを待ったりの鎌倉番外編

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-55mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/10s(絞り優先) アジサイ鎌倉紀行の最後は、本編に入りきらなかった写真を並べて番外編として振り返ってみる。 最初は御霊神社。長谷駅と極楽寺駅の中間あたりに位置していて、長谷寺であぶれてしまった人や、その行き帰りのついでに寄る人でけっこうな賑わいを見せていた。裏にちょっとしたアジサイの小径もあって、その情報をあらかじめ得ていた人も多かったのかもし...

    2007/06/26

    鎌倉(Kamakura)

  • 中華は中華でもいつものオレ流料理になってしまった中華サンデー

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/30s(絞り優先) 今日のサンデー料理は中華のはずだった。開始時点では。出来上がってみたら、中華料理になりきれない、いつもの自分の料理になっていた。何故? 自分が食べたい料理と作りたい料理は限定されているから、中華のレシピを参考に作っても、結局はオレ流になってしまう。人の言うことをもっと聞けよ、落合、みたいな。 ただ、中華の調味料をメインに使っているから...

    2007/06/25

    食べ物(Food)

  • 森を歩きながら考えは地球を超えて宇宙まで行って帰ってきてただいま

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-55mm(f3.5-5.6 AL), f6.3 1/10s(絞り優先) 初夏の海上の森は、強い光と影のコントラスト。生い茂った葉で光がさえぎられた森の道は、暑いけど涼しい。頬に流れる汗を吹き来る風がなでていく。 蝉にはまだ早く、夏鳥たちの声だけが森に響いている。日陰では歩くたびに白い蛾が足もとを舞い、ときどき思い出したようにトンボが飛びすぎる。この時期の森は花が少なくて、目にはいるのはただただ緑...

    2007/06/25

    森/山(Forest/Mountain)

  • 東慶寺で鎌倉一の美女と緊張の初デート

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-55mm(f3.5-5.6 AL), f9 1/12s(絞り優先) ゴールデンウィークにも行った東慶寺へ今回もまた行ったのには理由があった。それは、普段は入ることができない水月堂で、水月観音(すいげつかんのん)を見せてもらう予約を入れてあったからだ。前回はそんな観音さまがいることさえ知らず、帰ってきてから知って、見られるものならぜひ見てみたいと思っていた。鎌倉一の美形仏ということで知る人も少な...

    2007/06/24

    鎌倉(Kamakura)

  • 江ノ電に乗って降りて撮ってまた乗るのりおりくん

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/25s(絞り優先) 鎌倉といえば江ノ電もまた魅力の一つに違いない。住民の貴重な移動手段でありながら同時に観光向けでもあるという点で、都電荒川線と重なる部分がある。みんな江ノ電が大好きだ。日頃電車になんてまるで興味のない老若男女が、鎌倉で江ノ電を見るとつい写真を撮らずにいられなくなってしまう。普段は絶対に電車の写真を撮ったりしないような女の子まで...

    2007/06/23

    鎌倉(Kamakura)

  • 北鎌倉のコトー美術館の狭い裏庭に珍しいガクアジサイあり

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f9.0 1/12s(絞り優先) 北鎌倉駅から円覚寺を越えて2分ほど歩いたところに、鎌倉古陶美術館がある。古い陶器に興味があるわけではないから普通なら素通りしているところだけど、「いい旅夢気分」で平泉成夫妻がここの裏庭に咲くアジサイを紹介していたので、私たちも行ってみることにした。平泉成って誰だと思うかもしれないけど、顔を見ればたぶん分かるおじさん俳優だ。脇...

    2007/06/22

    鎌倉(Kamakura)

  • 6月の長谷寺は新宿駅よりも混雑し、ディズニーランドよりも並ぶのだ

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f10 1/32s(絞り優先) 6月の鎌倉。アジサイの時期の長谷寺は新宿駅並みに人が多い。門前からしてすでにこの状態。入口に近づくほどに人口密度が高くなる。あまりにも人が多いのでちょっと笑ってしまうくらいだ。世の中には自分と同じことを考えてる人がこんなにも大勢いるんだなぁとあらためて思う。 このとき午前10時前。開門が8時半だからすでに出遅れた感がある。ただ、...

    2007/06/21

    鎌倉(Kamakura)

  • ちょっとついでのつもりで寄った光則寺でガクアジサイを堪能する

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8.0 1/50s(絞り優先) 長谷寺で整理券をもらったあと、1時間の待ち時間を利用して、近くの光則寺(こうそくじ)へ行くことにした。こちらはややマイナーな存在のお寺ということで訪れる人もさほど多くない。庭のアジサイをゆっくり見て回ることができる。長谷寺から歩いても5分くらいで、写真を撮りながらアジサイを見て回って30分ほどなので、あちらの待ち時間を使うには最...

    2007/06/20

    鎌倉(Kamakura)

  • たかがアジサイされどアジサイ、明月院ブルーは伊達じゃない

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/60s(絞り優先) 鎌倉のアジサイといえば、長谷の長谷観音と北鎌倉の明月院が2大名所として知れ渡っている。梅雨時の晴れ間のピークの日曜日となれば行列は必至。最大3時間待ちという情報におびえつつ、我々は鎌倉へと向かった。 行くなら朝イチか閉門前という鎌倉アジサイおじさん(私たちが勝手に命名)のブログを信じて、明月院へは夕方の3時半頃に行った。アジサ...

    2007/06/19

    鎌倉(Kamakura)

  • 6月の田んぼに母ケリの鳴き声が響いてヒナはエサ捕りに忙しい

     ただいまです。東京・鎌倉行きから無事戻りました。 行く前に並べようと思っていたケリの写真を今ここで。 留鳥であるケリが初夏の田んぼで目立つのは、今が子育ての時期だから。生まれたばかりのヒナを守るために、母親も父親も警戒中。 ヒナ発見。まだ生まれてひと月も経ってないチビだ。ケリは生まれてすぐに自力でエサを捕り始める。親はあたりに目を配って外敵からヒナを守る。子供はエサ捕りに夢中だ。 地面にいるとき...

    2007/06/18

    野鳥(Wild bird)

  • 週末留守します

     ちょっと鎌倉へ行ってきます。土日は留守にするので更新はお休みです。月曜日に戻ってきます。...

    2007/06/16

    野鳥(Wild bird)

  • 日比谷公園は都心の一等地に空いた何もない贅沢空間

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/30s(絞り優先) 東京の公園はテレビや活字などでよく目にしたり耳にしたりしてちょっと知ってるような気でいるけど、よくよく考えてみると実はあんまり知らないことに気づく。東京観光といっても特に目的もなく東京の公園に行くという人は少ないだろう。たとえば都民以外で日比谷公園と代々木公園の区別がはっきりついている人がどれくらいいるだろう。私はどちらの公...

    2007/06/16

    東京(Tokyo)

  • 明治神宮は人工の代々木の森に囲まれた神聖空間

     JR山手線の原宿駅を降りてすぐ横に、広大な森が広がっている。明治神宮と代々木公園からなる代々木の森だ。72ヘクタール、東京ドーム54個分というこの森は、植樹によって作られた人工の森だということを知っている人はあまり多くないかもしれない。 かつてここは、徳川家康直系の家臣、彦根藩・井伊家の下屋敷が建つ場所だった。明治維新後に皇居の用地となったのちは、現在御苑がある部分以外は畑などがあるだけの荒れ地だった...

    2007/06/15

    東京(Tokyo)

  • 失敗をレンジのせいにするのは男らしくないけどやっぱりレンジのせいだった

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/6s(絞り優先) 15年以上のベテランとなったうちのオーブンレンジに故障疑惑が持ち上がり、新しく買い換える前に知り合いからオーブンレンジを借りてきた。重くてでっかくて、けっこう高級品っぽい。なかなかいい仕事をしそうだ。これで上手く焼ければうちのレンジがダメってことだし、これでも失敗すれば私がダメってことだ。分かりやすい。なんでもっと早くこの方法に気づかな...

    2007/06/14

    食べ物(Food)

  • 日比谷松本楼で食べたハイカラビーフカレーはノルタルジックな味がした

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f9.0 1/100s(絞り優先) 明治36年(1903年)、本多静六博士設計の元、日本初の洋式公園として日比谷公園が誕生した。そのとき同時に作られたのが、レストラン松本楼(まつもとろう)だった。オーナーは小坂梅吉。マンサード屋根の3階建ての洒落た店はたちまち評判となったという。当時、銀座あたりで着飾って遊んでいたモボやモガたちがこぞって訪れて、松本楼でカレーライス...

    2007/06/13

    東京(Tokyo)

  • 花が少なくなった初夏の海上の森には深い緑の大正池がある

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm(f3.8-5.6), f8.0 1/50s(絞り優先) 2ヶ月ぶりに訪れた海上の森は、すっかり夏の装になっていた。学生の制服が冬服から夏服に替わるみたいに劇的に。4月に行ったときはまだ少し桜も残っていて春のまっただ中だったけど、今はもう田植えも終わって梅雨前の穏やかな里山だった。 それにしてもめっきり花が少なくなっていて寂しかった。もうそんな季節なんだとあらためて思い知る。夏鳥たちの声は聞こ...

    2007/06/12

    森/山(Forest/Mountain)

  • 凝った料理は作れるくせに普通のスポンジケーキが焼けない男

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/50s(絞り優先) 今日のサンデー料理は、パッと思いついたものを軽くササッと作るつもりで始めたら、意外にも手こずっててんてこ舞いになってしまった。こっちで揚げ物をしつつ、あっちで煮込んで、レンジで温めて、ソースを混ぜて、揚げあがったものを取りだして、焼きを始めて、わー、煮込みすぎたー、と大慌て。完成した3品を見て、こりゃあ時間がかかるはずだと気づいた。全...

    2007/06/11

    食べ物(Food)

  • 多治見の永保寺へ行って室町時代の勉強をするの巻

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/30s(絞り優先) 岐阜県多治見市と聞いて何か具体的なイメージを持っている人はあまり多くないと思う。日本地図を見て正確な場所を指し示すことができるのは、日本人の中でも1パーセントいないかもしれない。美濃焼の産地として認識している人がある程度はいるだろうか。岐阜県の南、愛知県の北東部と接していて、名古屋のベッドダウン的な街でもある。 そんな地味な...

    2007/06/10

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 初めて作った招き猫土鈴は地蔵猫となって笑いという福をもたらす

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/20s(絞り優先) 少し前に瀬戸の窯垣の小径ギャラリーで、招き猫の土鈴(どれい)を作ったという話を書いた。それが焼き上がったという連絡を受けて取りに行ってきた。それがこいつだ。自分で作っておきながら、見るたびに笑える。おまえは誰だ、と思う。土をこねればこねるほどに猫から遠ざかって別の生き物になっていくのをどうすることもできずにこんなことになってしまった。...

    2007/06/09

    室内(Room)

  • 旧古河庭園で撮ったバラをお蔵入りさせるのはもったいないので

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/30s(絞り優先) 旧古河庭園へは洋館だけではなくバラ見の目的もあったので、バラ写真も少しは撮った。埋もれさせるのももったいないから、写真だけ載せてしまおう。このときはプレートのメモ撮りをしなかったから、名前は分からない。お馴染みのバラもほとんどなくて。 上の写真のものは、一本の木から赤と黄色とミックスが咲いていて面白かった。赤と黄色というのは...

    2007/06/09

    花/植物(Flower/plant)

  • 旧古河庭園でバラ羊羹を食べながらバラと洋館を見よう

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/15s(絞り優先) 東京の北区西ヶ原にある旧古河庭園に行ったのは、横浜へ行った前日の5月19日のことだった。ちょうどバラのシーズンということで、ライトアップのイベントなどもあって、午後から夜にかけてゆっくり見学してきた。今日はその紹介をしよう。 旧古河庭園というからにはかつて古河さんちだったところということだ。それ以前、ここには明治の政治家陸奥宗...

    2007/06/08

    東京(Tokyo)

  • 初めての中華街で夕飯を食べて横浜観光は心残りなく完結

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/12s(絞り優先) 横浜観光最後の締めくくりはやっぱり中華街で決まり。山手巡りから戻ってきたあと、大さん橋で夕焼けと夜景を見て、満を持して中華街へと乗り込んだ。8時を過ぎて、あたりはすっかり真っ暗になっていた。 初めての中華街、どこで何を食べるかを決めるのは非常に難しい。なにしろ約500メートル四方の敷地内に250もの中華料理店がひしめいている。ガイドを見ても...

    2007/06/07

    横浜(Yokohama)

  • バラ以外にもたくさんの花が咲いている花フェスタ記念公園

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/100s(絞り優先) 世界一のバラ園として有名な花フェスタ記念公園だけど、咲いているのはバラだけじゃない。園内のあちこちでいろんな花が咲いている。知ってるやつや知らないやつ、見たことはあるけど名前は分からないやつなどなど。そんな花たちをちょこちょこ撮ったので、今日はそれについて勉強しつつ紹介しようと思う。 最初は巨大なブラシみたいな変わったやつ...

    2007/06/06

    花/植物(Flower/plant)

  • 今年の花フェスタは個人的にピンクバラ・イヤーだった

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/12s(絞り優先) 花フェスタはいつ行っても撮るものがありすぎてかえって撮れずに終わる。被写体が無数にあるようでいて実際にはさほど多くない。たとえばそれは、人で溢れかえる街中を撮るのに似ている。人混みという被写体があって、中には目につく人や絵になる瞬間があっても、撮るべきものがたくさんあるわけではないのと同じだ。公園にバラが20種類あったら全部撮...

    2007/06/05

    花/植物(Flower/plant)

  • 三度目の花フェスタでもやり残しがあって気持ちはすでに四度目へ

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/50s(絞り優先) 今年も行ってきました花フェスタ記念公園。今回で三度目ということでお馴染み感が強くなったものの、毎年新しい発見があり、やれなかったことが残って、もうこれでいいとは思えない。来年もまたこの時期になるとうずうずしてきて、きっと行ってしまうのだろうなと、今日行ってきたばかりなのに早くも来年のことを思うのだった。 園内は広くて、今日もよ...

    2007/06/04

    花/植物(Flower/plant)

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時間がないからフィルム写真の残りをあり合わせ的に

カメラ(Camera)
フィルムの残り-1

Canon EOS Kiss3+TAMRON SP 90mm f2.8+Kodak ULTRA COLOR 400UC



 明日は早起き早出で今日は時間がないので、フィルムの残り写真でお茶を濁す。それは手抜きではないかとあなたは言うかもしれない。正にその通り! ザッツ・ライトなわけです。

 顔を洗うアイ。猫が顔を洗うと次の日は雨という迷信があるけど、あれは正しくない。アイはあまり顔をひんぱんに洗う方ではなくて、気が向くとときどき洗ってる程度だけど、それを見かけた翌日が雨だったということはほとんどなかった。あれはどこから来た迷信なんだろう。根拠はあるんだろうか。

フィルムの残り-2

 アイの得意技の一つ、ごろりん攻撃。部屋の中ではしないのに、外に出たとたん、ごろんと転がって、人の足の上に乗ってくる。相手をしないと一人でゴロゴロ転がっている。コンクリートの感触が好きなんだろうか。部屋の中では転がらないのはなんでだろう。
 猫それぞれのクセは面白いけど、その理屈はよく分からない。何か考えがあってのことなのか、何も考えてないのかも判断がつかない。

デジでアイ

 これだけデジ写真。フィルム写真とデジ写真を並べてみると、写真の質感がまったく違うことがあらためてよく分かる。デジの方がクリアだけど、どこか平板で深みがない。
 最近のアイは、クーラーの風から逃れるために、クーラーのあたらないところを探して、そこで寝ている。イヤになるとベランダへ出て行く。やっぱり猫はクーラーが嫌いだ。好きなやつもいるかもしれないけど、私がつき合ってきた猫はみんなクーラーが好きじゃなかった。無理矢理冷やされた空気に違和感があるのだろう。でも、暑さはたまらないから、猫としても難しいところだ。

フィルムの残り-3

 ヨコバイの仲間かなと思うんだけど、これは黄色でちょっときれいだった。時間がないから名前は今度調べよう。

フィルムの残り-4

 飛び跳ねる小さな虫は全部バッタだと思うのは間違いだ。イナゴとかヤブキリとかキリギリスとかいろいろいる。イナゴも種類がけっこういて、見分けるのはなかなか難しい。写真のこいつはイナゴだろう。何イナゴかはまたそのうち。バッタの勉強も進んでいない。

フィルムの残り-5

 トキソウの群生。こんなにたくさん咲いてると、ちょっとありがたみがないくらいだ。
 築水池湿地の柵で囲われた遠くに咲いている。道ばたなら持っていかれてこんなに残らなかっただろう。築水池に写真を撮りにいくときは、マクロレンズだけでなく望遠も持っていった方がいい。

フィルムの残り-6

 夏本番を迎える前に咲く、オレンジ色の花、ノウゼンカズラ。この花を見ると、7月を思う。もうすぐ真夏がやってくる。
 しかし、この床屋さん、ノウゼンカズラが咲き始めると、料金体制がシークレットになる。ある意味営業妨害とも言えるかもしれない。床屋も金額にバラツキが大きくて、飛び込みで入るのは危険な店の一つだ。

 今日はここまで。フィルム写真で使えるものは全部使うことができてよかった。またフィルムでいろいろ撮りたくなってきたら、銀塩カメラを持ち出そう。次はフィルム写真が似合う風景写真を撮りたい。東京の下町なんかもよさそうだ。

21世紀もフィルムカメラを使ってこの時代の空気を写し撮ろう

カメラ(Camera)
フィルムのグリーンピア-1

Canon EOS Kiss3+TAMRON SP 90mm f2.8+Kodak ULTRA COLOR 400UC



 海上の森で撮りきれなかった36枚撮りフィルムの残り半分を使うために、春日井にある無料植物園「グリーンピア春日井」へ行った。困ったときはグリーンピア。ここへ行けば一年中、何か撮るものがある。入園も駐車場も無料で、夕方6時まで開いているのがありがたい。
 6月はハナショウブだ。時期的にはもう終わりのはずが、ここのは全盛期という感じで咲いていた。これはいいやと一枚撮る。もう一枚撮ろうかと思ってやめた。デジならここだけでいろんな角度から10枚は撮ってるところだ。
 それにしても、フィルムで撮った写真はなんだか昭和っぽい。上の写真も、昭和58年に撮られたものだと言われたらそのまま信じてしまいそうだ。右下あたりに1985.6.29なんてオレンジの日付が入っていても違和感がない。日付の印字というのも今ではほとんどやらなくなった。

フィルムのグリーンピア-2

 入口から入ってすぐの、水の流れがある花壇。「カナール」というらしいのだけど、どこからどこまでがカナールなんだろう。こういう流れる水のある花壇のことをカナールというのだろうか。
 右手前には「緑の相談室」がある。常駐している相談員が、緑に関する相談に乗ってくれるそうだ。予約をすると家まで出張してくれるサービスもあるらしい。私は中に入ったことがないからよく分からないけど、花に限らずいろいろな展示会のようなものもおこなわれているんだとか。
 花壇の向こうに「花と緑の休憩所」という温室兼レストハウスがある。温室では季節の花々が植えられていて、冬でも花がなくなることがない。フラワーショップ、レストラン、ソフトクリーム売り場などもある。ここのソフトはけっこう美味しいそうだ。レストランのランチは安くてボリュームがあって、味もなかなかとか。メニューも豊富で、1,000円出せばおなかいっぱいになるまで食べられる。
 温室の奥には動物ふれあい広場があって、ポニーやウサギ、ヒツジ、シマリスなどがいる。第2、3、4日曜は動物と触れ合えるイベントもあるそうだ。
 花のプロムナードでは、バラ園、ハーブ園、見本庭園などが点在していて、芝生広場とアスレチック遊具、ログハウスなんかもあったりする。
 近場の人にとっては安上がりな遊び場として子供を遊ばせるには最適の場所だ。大人も花に興味があれば楽しめるし、写真に撮るものも多い。グリーンピアに隣接している池でボート漕ぎもできる。

フィルムのグリーンピア-3

 アジサイも終わりかけながら、まだそこそこ咲いていた。ここは全体的に花が少し遅い気がする。山の近くということで街中よりも気温が低いのだろうか。標高も少し高い。
 白いガクにショッキングピンクのスプレーを吹き付けたようなガクアジサイ。ネームレートなどはないから品種名は知りようがないけど、ちょっと珍しい色だった。これは鎌倉でも見なかった。品種改良の途中で不完全になったものを、これはこれで面白いからいいやと思ったのかもしれない。

フィルムのグリーンピア-4

 バラも少しだけ咲き残っていた。このバラはなんという名前だったか。覚えたつもりだったのに忘れてしまった。フィルムはメモ撮りなんて贅沢なことはできない。フィルムで写真を撮るときは、ポケットサイズのコンパクトデジを併用したいところだ。デジタル一眼と両刀遣いはちょっと大げさすぎる。

フィルムのグリーンピア-5

 今の時期の温室にはあまり心惹かれる花が咲いてなくて、その中でちょっといいと思ったのがこれだった。温室育ちだけに暖かい国の園芸品種なんだろうけど、名前の調べはつかなかった。どこかで見た覚えがあるようなないような。

フィルムのグリーンピア-6

 ハナショウブの野生種であるノハナノショウブが池の周りに植えられて咲いていた。水辺に咲く花ではないけど、ハナノショウブも水際がよく似合う。
 ノハナノショウブは、ハナショウブに比べると色や花の形もシンプルな分、野性的な美しさがある。これ以上改良しなくても充分きれいだ。

フィルムで築水池-1

 グリーンピアのすぐ近くにある築水池湿地にも寄った。ここの湿地も、春から秋にかけて珍しい花々を咲かせる。今の時期の二大スターは、トキソウとカキランだ。
 まずはカキランから。花の色が柿色ということで付けられた名前だけど、実際は黄色とピンクのコントラストが渋くて美しい。遠くで見るよりも近くで見るとその魅力がよく分かる。これでも立派な野生のランだ。
 北海道から九州にかけての湿地帯に自生している。野生ランにしてはやや大きめで、50センチ前後の草丈に10個前後の花をつける。近年はだいぶ数を減らしてきているそうだ。

フィルムで築水池-2

 初夏の湿地帯のヒロインはトキソウだ。サギソウが花の形から名づけられたのに対して、トキソウは花の色がトキ(朱鷺)の羽の色に似ているところからきている。そしてトキ同様、絶滅へと向かっているといわれている。ただ、築水池では群生といっていいほどたくさん咲いていて少し安心する。
 北海道から四国あたりまでの湿地に咲くランで、園芸用としても花屋で売られている。姿の美しさから盗掘も多い。

フィルムで築水池-3

 あ、人面グモだ。夕方で暗いところにいたから手ぶれしてしまったけど、人の顔っぽさは写った。ひとりで撮りながら笑えた。

 これでようやく36枚撮りを撮り終えて、やれやれと思う。たった36枚の道のりが遠かった。デジのメモリが36枚しかなければ、36枚しか撮れないのかと焦るのに、フィルムだとなかなか残り枚数が減っていかない。
 デジとフィルムの一番大きな違いは、写真の出来上がりではなく、撮る側の姿勢ということになるのだろう。最初から心構えが全然違ってくる。結果的にそれは写真の出来にも表れる。良い方に出れば気持ちのこもった一枚になるし、悪い方に出れば無難な写真になる。デジなら生まれる冒険心も、フィルムになると影を潜めがちだ。意外性のあるいい写真というのも生まれづらい。フィルムで撮ると一枚を大事にする心は取り戻せるけど、その間にたくさんの写真を失うことにもなる。デジで何気なく撮った写真が帰ってきてPCで見たら思いがけずいい写真だったということもよくあることだ。
 最初から分かっていたように、結論としては、フィルムにはフィルムのよさがあり、デジにはデジのよさがあるというところに落ち着く。どちらかが絶対に優位ということはない。時と場所によってどちらが適しているかを見極めて使い分けていくのが一番だ。
 ネット注文で現像とCD-R書き込みセットが500円のところを見つけたから、これからはもう少しフィルムの割合を増やしていこうと思っている。多少邪魔くさくても、両刀遣いという手もある。フィルムをメインにしつつデジで補足的に撮っていくことができれば、両方のよさを引き出せるだろう。
 フィルムは時代遅れだけど、だからといってもう使う価値のない古い道具というわけではない。流行り廃りとは違うし、過去の遺物と決めつけるのは早い。デジとは違った楽しさがあることも確かだ。デジタルから写真に入った人も、もう一度フィルムを使ってみると、写真を撮るのがもっと好きになるんじゃないだろうか。特にデジタル一眼を使ってる人がフィルム一眼へ戻ってみると、新たな発見もあると思う。
 フィルムの銀塩カメラは、案外21世紀を生き延びるかもしれない。

フィルムの功罪とデジの良し悪し ---フィルムで切り取る6月の風景第一弾

カメラ(Camera)
フィルムの6月

Canon EOS Kiss3+TAMRON SP 90mm f2.8+Kodak ULTRA COLOR 400UC



 たまにはフィルムで写真を撮ろうと、EOS Kiss3を持って海上の森へ向かった。しかし、相変わらずの貧乏性で、一枚撮るのにえらく時間がかかって、しまいには指が震える始末。固まった指が動かない。それが手ぶれを生み、貧乏的な失敗を何枚か重ねつつ、結局36枚撮りフィルムの半分しか撮れずにすごすご帰ってきてしまったのだ。貧乏は人をダメにする。貧すれば鈍するというのは本当だ。
 貧乏はともかくとして、やはりフィルムは1枚の重みが違う。失敗できないと思うと、シャッターが切れなくなる。構えてファイダーをのぞいてはやめて、またカメラを向けてはこんなもの撮ってる場合じゃないと思いとどまる。デジならとっくに10枚は撮ってるシーンで1枚も撮れないなんてこともある。
 逆にいうと、日頃自分がいかに適当にシャッターを切っていたかが、フィルムを使ってみると思い知る。デジの1枚は、いかにも軽い。メモリが大容量になって余計にそうなった。いくら撮ってもタダで、200枚でも300枚でも撮っていいとなれば、何も考えずにバシャバシャ連写してしまうのも無理はない。しっかり狙う前に、とりあえず押さえておこうという心理が生まれる。そして、気持ちのこもっていない写真になる。そんな自分を戒めるために、たまにフィルムで撮るのはいいことだ。初心に返ることができる。

 デジとフィルム写真の一番の違いは何かといえば、単純に言って質感ということになるのだろう。立体感とか奥行きとかいう言葉を使うこともある。少し前まではフィルムの方が解像感が上と言われていたけど、最近のデジは解像感でもフィルムに追いついた。場合によっては追い越している。そういう点では、はっきりとしたフィルムの優位はなくなったのかもしれない。
 それでもフィルムで撮りたいと思う人の気持ちは分からないでもない。趣味的なこだわりと言ってしまえばそれまでだけど、CDよりもレコードの音の方が好きだというのならそれはその通りなのだろう。他人がとやかく言うことではない。写真に関しても、やっぱりフィルムにはフィルムの味のようなものが確かにある。はっきりと違いを言葉で説明することはできなくても、違うことだけは分かる。
 たとえば上の写真なんかも、パッと見てデジではなくフィルムで撮った写真だなと思う。どこがどう違うのかと訊かれると困るけど、デジの写真ではないから消去法でフィルム写真だと思う。フィルムの方が柔らかいという表現をする人もいる。デジで同じシーンを撮ってもこういう写り方にはならない。好き嫌いは別にして。
 池に浮かんだ水草が、森の木々を反射した水面から浮き上がっているように見える。ちょっと不思議な感じがする。

フィルムの6月-2

 フィルムの難しさは、露出の難しさだ。デジは普段RAWで撮ってるから露出に関してはほとんど意識していない。オートで撮ってあとからPCでいくらでも調整できる。コントラストの強いシーンの白飛びだけ気をつけていればいい。けど、フィルムの場合はカメラに任せっきりでは失敗の確率がかなり高くなる。ネガはある程度調節がきくとはいえ、現像はカメラ屋の機械任せだから好みの仕上げなんて注文はできない。どちらかというとアンダーよりもオーバー気味に現像を出してくる。現像の段階で飛んでしまうと、もうお手上げだ。jpegデータになってしまった画像はあまり直しがきかない。
 上の写真も飛び気味で適正露出とは言えない。コントラストがかなりきついシーンだからフィルムでも厳しいとはいえ、もう少し撮る段階でマイナス補正するべきだった。このときは特に、画面左よりのクモの巣を被写体として撮りたかったのに、飛んだというか潰れたというか、ほとんど消えかけていてしまっている。実際は光に反射してとてもきれいだったのに。
 フィルムで撮っていると、あらためてピント合わせと手ぶれと露出という、写真を撮る上で最も大切な三要素を思い出さずにはいられない。

フィルムの6月-3

 フィルムでタムロン90を使うと、デジ以上に極薄ピントになって、難しくて面白い。ファインダーは銀塩カメラの方がクリアで見やすいから、マニュアルでピントを合わせるのは楽だ。ただ、虫なんかの動きがあるものはフィルムでは連写ができないから(機能的にはできるけど金銭的に無理)、デジよりも成功する確率はぐんと減る。飛んでるところを狙って下手な鉄砲も数打ちゃ当たる的な撮り方は決してできない。このあたりもフィルムからデジに移行して大きく事情が変わった点の一つだ。かつてはプロカメラマンがテクニックとフィルムを惜しまない財力でして撮り得なかったシーンを、今は一般人がデジで撮れるようになった。それはとても大きなことだと思う。
 このトンボは私の財力を見抜いたのか、長い時間かけて一枚撮るまでじっと動かずにいてくれた。偉いぞ、トンボくん。
 カワトンボの仲間だと思うんだけど、ニシカワトンボじゃないのか。シオカラ色でもなく、緑でもないから、ニシカワくんじゃなか。トンボの見分けも難しい。今年は少しくらい成長するだろうか。

フィルムの6月-4
Canon EOS Kiss3+SIGMA 70-300mm f4-5.6 APO

 この時期の海上の森の湿地帯に行くとよく出会う、ムカシヤンマだ。普通のトンボとは動きがずいぶん違うから、名前や知識がなくても、こいつなんか変わったやつだなと思うはずだ。飛び方がゆっくりでぎこちなくて、そもそも飛ぶのが好きでないらしく、いつも止まっている。ちょっと飛んだかと思うとすぐに止まってしまう。使えないバイトみたいなやつだ。人なつっこくもあって、よく人間の服や足もとなんかにもぶら下がって止まる。物怖じしないというか、根っから飛ぶのがイヤなのか。
 見た目はオニヤンマやコオニヤンマにちょっと似ている。サナエトンボかと思ったりもする。違いは、目が緑ではなく黒で、離れているところだ。口は黄色い。
 ムカシヤンマという名前の通り、大昔から地球で暮らしている大先輩だ。2億年前のジュラ紀の時代から恐竜と共に生きていた。その頃の遠い遺伝子の記憶を持っている彼らにしてみれば、人間なんて小さくて恐怖の対象ではないといったところかもしれない。
 幼虫はきれいなわき水のしみ出ている土やコケの下にトンネルを掘って、そこで小さな虫などを捕らえて食べながら5年ほどかけてゆっくり成長する。
 生息域はごく限られているから、街中などでは決して見ることはできない。そのへんの山道を歩いててふいに出てくるようなトンボでもない。いるところに出向いていかないとなかなか見るのが難しい。曇りの日はほとんど出てこず、日差しがあるときだけ飛ぶ。海上の森の湿地ならたぶんいるはずだから、ぜひ見に行って欲しい。近づいていけばきっと自分に止まってくれる。

フィルムの6月-5

 ハッチョウトンボの後ろ姿。ふわ~んと撮れるのもフィルムの味。少しオーバー露出気味に。

フィルムの6月-6

 湿地に行くまでハッチョウトンボの季節になっているとは思ってなかった。そういえばもう6月も終わりだから、ハッチョウトンボも飛び始める季節だ。まだ数は少なかったけど、今年も海上の森の湿地にハッチョウトンボが生まれていた。それが嬉しくもあり、ホッともする。
 体長2センチにも満たない、日本で一番小さなトンボは、矢田の八丁目(今の名古屋市矢田川あたり)で見つかったからハッチョウトンボと名づけられた。だから、私にとっては地元のよしみみたいな親しさを感じる。生息地は本州から九州にかけてで、名古屋地方特有というわけではないのだけど。
 湿地帯へ行けば見ることができるトンボなので、それほど珍しいものではない。でも、初めて見るとあまりの小ささに感動すると思う。人は大きいものにも感動するけど小さいものにも感動するのだ。

フィルムの6月-7

 日本で一番小さなトンボがハッチョウトンボなら、日本で一番赤いトンボがこのショウジョウトンボだ。体だけでなく、目や鼻や口まで真っ赤に染まっている。にもかかわらず、こいつは赤トンボの仲間ではない。いわゆる赤トンボと呼ばれるアキアカネやナツアカネがアカネ属なのに対して、ショウジョウトンボはショウジョウトンボ属になる。仲間は、アジアだけでなく、中東、アフリカ、アメリカなどに広く分布している。
 猩猩(しょうじょう)というのは、人間の言葉を理解して大酒飲みでいつも真っ赤な顔をしているという中国の伝説上の生き物のことだ。このトンボは、その姿の赤さからショウジョウと名づけられた。

フィルムの6月-8

 湿地の夏といえば、このモウセンゴケも主役の一つだ。珍しい食虫植物で、葉っぱの毛先に付いた水滴から甘い匂いを出して虫を誘い、虫がとまったらくっつき虫のようにピタリを付いて取れなくなるから、そうやって捕まえて食ってしまうのだ。残念ながらまだその決定的なシーンは見たことがないから、いつか一度は見てみたいと思っている。
 モウセンゴケには、大きめのモウセンゴケと、小さめのコモウセンゴケの他に、東海地方特有のトウカイコモウセンゴケというのもある。写真のものは、コモウセンゴケか、トウカイかどちらだろう。
 トウカイコモウセンゴケはピンク色のとてもかわいい花を咲かせる。ただし、花は午前中だけで昼からは閉じてしまうため、行動時間が夕方の私は開いている花を一度も見たことがない。花が咲いてて虫を捕まえて食べているところが見られたら一番いいな。
 モウセンゴケ以外にも、イシモチソウやナガバノイシモチソウなどの食虫植物が日本に自生している。

フィルムの6月-9

 たぶん、ノイバラだと思うけど、自信はない。違うかもしれない。バラ科には違いないけど。花の感じはちょっとツバキっぽいか。でも、ナツツバキとは違うようだ。
 ノイバラとすれば、日本の野バラの代表選手だ。こんな野生のバラが、私たちの見慣れたバラになるのだから不思議というか、人間はちょっと花をねじ曲げすぎているかもしれない。
 ヤマイバラ、テリハノイバラなど、日本には十数種類の野生のバラがあるそうだ。よく観察しなかったけど、もしノイバラならちゃんとトゲも香りもあったはず。花を区別するときは、花だけではなく茎や葉や香りにも注意しないといけない。

 フィルムで撮る6月第一弾はここまで。36枚フィルムはこの時点ではまだ半分残っていた。あと半分は、日を改めてグリーンピア春日井に行ってきたので、そのときの様子はフィルムの6月第二弾で紹介したいと思っている。
 たった36枚撮るのに、ずいぶん時間と手間がかかってしまった。そして現像代とCD-R書き込みで1,160円。フィルム代を合わせると1,300円。日常的に写真を撮るとしたら、これは高い。10本も現像したら、ちょっとした中古のデジが買えてしまう。デジは一度揃えてしまったらどれだけ撮ってもタダというのが魅力だ。タダの代償があるにしても、フィルムのプレッシャーにはそうそう耐えられないものがある。こんな窮屈な撮影スタイルはイヤだ。趣味の写真なんだから、もっと気楽にいきたい。フィルムは3ヶ月に一度くらいにしよう。
 結論、貧乏性にフィルム写真は向かない。

日枝神社で山の神様と猿のまさるさんが東京の街を守ってくれている

東京(Tokyo)
日枝神社




 東京千代田区赤坂にある日枝神社(ひえじんじゃ)に行きたいと思っていて、念願叶って行くことができたので、今日はそのことを書いてみたい。
 創建は鎌倉時代の初期、秩父重継が江戸氏を名乗るようになって、山王社を自分の屋敷に勧請したのが始まりとされている。更に太田道灌が江戸城を築城した際(1478年)に、川越山王社(川越日枝神社)からも勧請して江戸城内へと移した。
 その後、徳川家康が江戸城に入ったとき、城内の紅葉山に移動させて江戸の鎮守とした。ここから日枝神社の繁栄が始まる。
 2代将軍・秀忠が江戸城を改築したときに城外の麹町隼町に移される。おかげで江戸の庶民も拝むことができるようになった。
 1657年、明暦の大火で社殿が焼失したのをきっかけに、4代将軍・家綱が現在の赤坂の地に遷座させた。ここは江戸城から見て裏鬼門に当たる位置で、表鬼門の神田明神上野寛永寺と共に江戸城の守護として重要な役割を担うことになる。
 明治元年(1868年)に江戸から東京となった際、皇城(今の皇居)鎮護の神社となり、格付けも上がった。その後の天皇家ともゆかりが深い。社殿は国宝にもなったものの、昭和20年、東京大空襲によって消失。現在の社殿は昭和33年に再建されたものだ。

 祭神は、大山咋神(おほやまくひのかみ/おおやまくいのかみ)という神様だ。比叡山延暦寺と関係が深い。日枝(ひえ)神社というのは明治になってからの名前で、これは比叡山(ひえいざん)のもじりだ。大山咋神というのはもともと山の神様で、最澄が比叡山に延暦寺を創建したときにそのまま寺の鎮護神とした。「咋」は「主」という意味だから、文字通り大きい山の主ということになる。古事記の中では、大山咋神は須佐之男命(スサノオ)の子供、大年神(おおとしのかみ)の子供ということになっている。年神は毎年正月に迎えるあの神様のことだ。
 しかしどうして江戸に関西から山の神様を呼んでこなければいけなかったのかが謎だ。江戸城の守り神に山の神を招いた太田道灌の意図がちょっとよく分からない。
 江戸時代までは山王権現と呼ばれていた。これは比叡山の登山口にある日吉大社を天台宗風に呼んだ名前で、日吉権現ともいう。日枝神社も、江戸山王大権現だとか、山王さんなどと呼ばれて親しまれてきた。今でも日枝神社というよりも山王権現の方が通りがいいかもしれない。
 目印は、山の形をかたどった鳥居だ。山王さんだけに上に山が乗っている。
 こんなちょっとシャレの利いた日枝神社だけど、格式は高い。皇居の守り神でもあり、東京の街を守る鎮守さんでもある。首相官邸や国会議事堂から近いこともあって、議員なども参拝に訪れるようだ。格が高いから、下世話なお願い事をしてはいけないともいわれる。ここでは、今年こそ恋人ができますようにだとか、宝くじに当たりますようになんていうお願いはしない方がいい。山の神様だから全然関係ないし、せっかく参拝にいって神様の機嫌を損ねたらかえって損してしまう。
 御利益としては、厄除け、縁結び、商売繁盛などとなっているようだ。社員総出で初詣に訪れる会社も多いとか。



参道エレベーター

 ここの神社はエスカレーターで参道を登っていくという世にも珍しいスタイルとなっている。これはびっくり。他にはちょっと聞いたことがない。たぶん、ここだけなんじゃないか。登っていくには石段が多くて大変なのは大変だけど、神社にエスカレーターはどうなんだと思う。お年寄りのためという名目だけど、実は国会議員の力が働いたような気がしないでもない。先生に長い石段を登らせるなんて以ての外とかなんとか誰かが言い出したのかもしれない。なんていいながら、私もせっかくなのでエスカレーターを使って登ってみた。そんなに年食ってないし先生でもないのに罰当たり。
 ただし、こちらは正式な参道ではない。幹線道路に面しているからあとから作った参道だろう。本来は山王鳥居の方から登るべきだ。帰りはそちらから下りていった。



社殿

 再建した社殿はコンクリート造でちょっと軽い感じがするものの、外観は家綱が建てた権現造りを再現していると思われる。なかなか悪くない。
 ちょうど結婚式がおこなわれていていた。



まさるさん

 本来なら狛犬がいる場所にお猿さんがいる。名前を「まさるさん」という。いや、冗談じゃなくホントに。比叡山の大山咋神の使いは猿とされていて、神猿と呼ばれている。そこから魔が去るでまさるさんとなった。お守りとして「まさる守土鈴」も売られているそうだ。
 左右は夫婦の猿で、向かって左が女猿で、腕に赤ちゃん猿を抱いている。夫婦円満、子孫繁栄の御利益というのはここから来ているようだ。
 日吉で猿といえば、幼名日吉丸こと豊臣秀吉が思い出される。秀吉の母が日吉神社にお願いしたことで子供を授かったので、名前を日吉丸としたという。織田信長が秀吉のことを猿と呼んでいたのは、単に見た目や行動が猿っぽかったというだけではなくて、日吉神社の使いである猿と両方を掛けていたんじゃないだろうか。つまり、自分を神に見立てて、オレ様の家来の猿というわけだ。



日枝神社で結婚式

 ここで結婚式を挙げる有名人もけっこういる。寺島しのぶがフランス人と結婚式を挙げたのもここで、両親の尾上菊五郎と富司純子が結婚式をしたのも日枝神社だったんだそうだ。江原啓之夫妻もここで式を挙げている。やはりスピリチュアルな神社ということか。

 山王さんといえばもうひとつ忘れてはならないのが、天下祭りとして知られる「神幸祭(じんこうさい)」だ。徳川家光以来、歴代将軍が見学に訪れる祭りとして、神田明神と毎年交互に行われきた。将軍家から庶民まで江戸中をあげたお祭りとして現在まで続いている。
 今年は神田祭が表で山王祭りは裏となったものの、お祭り自体はあった。江戸時代は江戸三大祭りの筆頭であり、京都の祇園、大阪の天満まつりと共に日本三大祭りとされている(現在はいろんな三大祭りがあるけど)。
 豪華な山車がかつては江戸の町から江戸城まで、現在は東京の中心地を練り歩く。その他、古式ゆかしい衣装に身を包んだ行列などもあり、華やかで荘厳なお祭りとなっている。



神門

 こちらが正式な参道を登った先の入口にある神門だ。ここも左右に神猿がいる。
 かかっている額には「皇城之鎮」と書かれている。
 境内には拝殿の他、祈願所やお稲荷さんがある。稲荷さんの方には行かなかったけど、これは戦災を逃れたものらしいから、見ておけばよかったと帰ってきてから思った。

 日枝神社へ行くにはどの駅から行けばいいのか、判断に迷う。一番近いのは南北線か銀座線の溜池山王駅なんだろうけど、地上に出てからちょっと分かりづらくて工事現場の人に訊いてしまった。案内標識や地図も見当たらなかった。
 帰りも神社の関係者らしき人に一番近い駅を訊ねて教えてもらったのだけど、よく分からなかった。丸ノ内線の国会議事堂前駅でもいいだろうし、赤坂見附駅という手もある。赤坂見附から外堀通り沿いを歩けばエスカレーターの参道に出るから、それが一番分かりやすいかもしれない。
 境内の空気感としては特別濃密とは思わなかったけど、由緒を考えると一度は挨拶に伺っておいて損はない。東京に住んでいる人は特に。エスカレーター体験も面白い。

 これで神田神社(神田明神)根津神社、日枝神社と、東京十社のうち3社回った。残りは、氷川神社、王子神社、亀戸天神社、品川神社、芝大神宮、富岡八幡宮、白山神社の7社だ。こうなったら全部回ろう。表鬼門の上野寛永寺もまだ行ってないから、そちらも行かなければ。
 そんなわけで、日枝神社はおすすめです。お願い事を持たずに、まさるさんに会いに行ってみてください。

【アクセス】
 ・地下鉄千代田線「赤坂駅」から徒歩約5分
 ・地下鉄南北線/銀座線「溜池山王駅」から徒歩約5分
 ・地下鉄千代田線「国会議事堂前駅」から徒歩約7分
 ・地下鉄銀座線/丸の内線「赤坂見附駅」から徒歩約10分

 ・無料駐車場 あり

 ・拝観時間 4月-9月 5時-18時 / 10月-3月 6時-17時

 日枝神社webサイト
 

代々木公園に行ってはきたけどどんなところと訊かれても困る

東京(Tokyo)
代々木公園風景-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-55mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/50s(絞り優先)



 東京都民にとって、日比谷公園と代々木公園の違いって何なんだろう? 場所の違い以外にも何か決定的な差や微妙なニュアンスの違いがあるのだろうか。日比谷公園は好きだけど代々木公園は好きじゃないとか、その逆とか。
 観光客の私が両方行った印象としては、どちらもどことなく似た印象で、それぞれの特徴が掴めなかった。いまだにあまり区別がついていなかったりもする。両方の公園を思うとき、なんだか学生時代の紛らわしい暗記物を思い出す。遣隋使と遣唐使はどっちがどうだったかだとか、大坂夏の陣と冬の陣はどっちが先だったかとか、それくらい区別をつけるのが難しい。私の中では、松本楼がある方が日比谷で、ない方が代々木公園と覚えている。
 東京に住んでいて何度も行っていれば、まったく別物なんだろうけど、一回行っただけではよく分からなかった。覚えているのは、どちらもやたら広くて、滅茶苦茶人が多かったということだけだ。いい天気の休みの日ということで特に賑わっていたのだった。
 上の写真は、公園の外で、早くもこの大人数。年に一度の祭りでも行われているのかと思ったら、いつもやってるフリーマーケットだった。フリマにこんな人だかりができるあたりが東京ならではだ。東京は何かを発信する人も、それを受け止める人も無闇矢鱈に多い。たとえば、名古屋の路上でライブをしている特異な人がいたとして、名古屋人はほとんど見て見ぬフリをして通り過ぎる。東京では何組もストリートライブをしてるグループがいて、それを一般の人たちがたくさん立ち止まって聴いているのだ。東京人って意外とヒマな人が多い。名古屋の私の感覚からすると、東京人には違和感を覚えることが多い。昼ご飯を食べるのに行列で待つなんてのも信じられない。

代々木公園風景-2

 代々木公園野外ステージ。代々木公園の外で路上ライブをしているメンバーにとっては、ここは近くて遠いステージなのかもしれない。
 1985年、デビュー2年目の尾崎豊が、「Last Teenage Appearance」で3万人を集めたという代々木オリンピックプールを探したけど分からなかった。NHKホールがある方だったんだろうか。ここでも一つややこしいのは、第一体育館と第二体育館とあって、代々木オリンピックプールはそのどちらかなのか、どちらでもないのか、どうなんだというのがある。あと、国立代々木競技場というのがあって、神宮外苑にも国立競技場があって、一体どっちがどっちなのやらこんがらがってくる。国立競技場といったらどっちを指すんだろう? やっぱり外苑の方なんだろうか。そもそも二つも国立競技場があるなんてことは代々木公園へ行って初めて知ったことだった。と思ったら、国立西が丘競技場というのもあるらしい。代々木公園の迷宮にはまり込んでしばらく抜け出せそうにない。

代々木公園風景-3

 いよいよ公園の中に入った。うわっ、人多っ! と思わず小さく叫んでしまった。だだっ広いから混雑してはいないのだけど、見渡す限り小さく無数の人が見える。野鳥の会の会員でも人数を数えるのに手こずりそうだ。
 みんな木陰を選んで座り込んで何をしてるというふうでもないのが不思議な光景に映る。お弁当を食べるわけでもなく、花見するには花もなく、観光に来ているという感じでもない。観光地のようでありながら決定的に何かが違っている。しいて言えば無目的感が強いとでも言おうか。日頃忙しくしている東京人にとっては、何もない公園で何もせずにぼぉーっとすることが贅沢な休日なのかもしれない。
 私は貧乏性だから、何もせずに長時間ただ坐っているのはつらい。坐るなら坐るだけの理由がないと。疲れたから休むとか、弁当を食べるとか、何かを見物するとか、最低限それくらいの必然性が欲しい。これはきっと田舎者の感覚だ。田舎の人は道ばたにぼんやり座り込んだりしていない。そんなことをしてたら通りかかった人が心配してどこか具合が悪いのかと訊ねてくる。田舎の人間は意味もなく散歩やジョギングをしたりもしないのだ。

 代々木の森は明治神宮を建てるときに作った人工の森だったと、明治神宮のときに書いた。代々木公園は代々木の森の中にあって、明治神宮と隣り合わせになっている。ただし、明治神宮をしっかり管理するために、直接行き来することはできない。代々木公園へ行くにはいったん外に出なければならない。明治神宮は開園、閉園がはっきりしていて、夜間は入れないようになっている。天皇家の関係ということでさすがに警備は厳しい。代々木公園も一応閉園時間というのがあるようだけど、入ろうと思えばどこからでも入れそうだ。ただし、深夜はかなり怖そう。事件も起きているし、こんな森深いところでは迷子になりかねない。
 東京は怖いところだとずっと思っていたけど、時と場所を選べばそうではないことが分かった。昼間、人の多いところなら他の街と危険度は変わらない。けれど、夜になると場所によっては恐ろしげなところも確かにある。それは必ずしも繁華街だけとは限らない。むしろ明るい繁華街は女の子が一人でも平気で歩いてるからけっこう安全のようだ。
 それにしても、朝の5時くらいから開店してる店がたくさんあるというのも、やっぱり東京ってヘンなところだなと思う。

代々木公園風景-4

 公園の中央には池が3つあって、大小3つの噴水が30メートルの高さに水を噴き上げている。これは比較的新しい施設で、1990年(平成2年)にできたものだそうだ。夜間はライトアップもされるとか。
 けど、この池の水がやたら汚い。何か変なものが浮いてるし、水も濁っている。風向きによっては噴水の水が風に乗って飛んでて水浸しになる。私たちもベンチに座っていたら水がかかって、慌てて逃げ出したのだった。ありゃたまらん。池の水はもっときれいにならないものだろうか。
 代々木公園には災害対策用の給水施設があって、何かあったら都民はここに水をもらいに来るといいそうだ。あの池の水だけは飲みたくないけど。

代々木公園風景-5

 雑木林は不思議な造形美を見せていた。秋になるとここは紅葉名所となって、林は一面赤や黄色に染まるという。イチョウの黄色い絨毯は見応えがありそうだ。秋になったらまた写真を撮りに行こう。
 春は桜も楽しめる。ここは広くて宴会場には事欠かないからさぞかし賑わうのだろう。
 樹木は、モミジ、クスノキ、黒松、ケヤキ、サルスベリ、ハナミズキ、モクレン、ユリノキ、キンモクセイなど、1万本を超えるそうだ。季節の花もあれこれ咲く。
 見本園では、東京オリンピックに参加した国のうち22ヶ国が国の木の種を持ってきて植えていったものが成長して今立っている。

 江戸時代、この場所は大名や旗本の屋敷が建ち並んでいた場所だった。
 1910年(明治43年)に日本帝国陸軍の徳川好敏大尉が、日本で初の飛行に成功したことから、この地は陸軍代々木錬兵場となった。その時の飛行は、高度70メートル、距離3,000メートルだったそうだ。
 敗戦の1945年(昭和20年)、アメリカ軍に取り上げられて、米軍の宿舎が作られた(ワシントンハイツ)。
 その後日本に戻され、1964年に東京オリンピックが開かれたとき、ワシントンハウスは選手村として活用されることになる。公園のまわりに国立代々木競技場やNHK放送センターなどが作られたのもこのときだった。
 公園として一般公開されたのは、1967年(昭和42年)。東京23区内では4番目に広い公園となっている。
 井の頭通りをはさんで噴水がある北側の森林ゾーンをA地区、スポーツ施設やイベントホールなどがある南側をB地区と呼んでいる。間には歩道橋がかかっている。
 公園内の施設としては、サイクリングコース(レンタル自転車あり)、犬を放し飼いにできるドッグラン、日本初の野鳥の聖地バードサンクチュアリなどがある。遊べるようなものはほとんどないので、ここへ行くときは時前で遊び道具を持っていかないといけない。バドミントンとか、ボールとグラブとか、羽子板とか、ゲイラカイトとか。
 飲食店は、B地区の方にたくさんの出店が出ていた。週末だけかもしれないけど。

代々木公園風景-6

 唐突に立っている「閲兵式の松」。代々木練兵場時代、ここに明治天皇を迎えて閲兵式が行われていたことからそう呼ばれている。はずれの方なので、こちらまで訪れる人は少ない。かたわらではメリケンさんの二人が水着で日光浴をしていた。歴史を知ってか知らずか。

代々木公園風景-7

 公園の片隅に、ポツンと取り残された選手村の宿舎跡があった。オランダの選手が使ったものらしい。オランダ人は大きいから、こんな小さな宿舎では狭かったんじゃないだろうか。当時、何人くらいオランダ人選手が来てたんだろう。
 私たちが訪れたのは先月なので、今は手前の花壇の顔ぶれが変わっていると思う。

代々木公園風景-8

 公園にいた人を恐れない茶トラ野良。いい表情をしてる。元近鉄の金村みたいだなと思った。私の好みのタイプの猫だ。ふてぶてしい顔をした茶トラが一番好きだから。
 こんな広い公園でもお世話係の人がいるんだろうか。どこにも猫おばさまはいるから、きっと大丈夫なのだろう。体つきも毛並みもよかったから、メシに困ってるような感じはなかった。人なつっこいし。

 代々木公園に行って、帰ってきて調べて、こうして書いてはみたものの、どうにもとらえ所がない。都民の憩いの場というのは分かるのだけど、みんな何をしに代々木公園へ行くんだろう。ストリートパフォーマンスをするとか、フリマをのぞくとか、子供を遊ばせに行くとか、犬の散歩にいくとか、はっきりしてる人ももちろん大勢いるのだろうけど、何もしてないように見える人の数の多さに圧倒されて、私の中で判断停止になってしまった部分がある。
 駅でいえばJR山手線の原宿駅になる。原宿へ用事に行ったついでに代々木公園で休んでいくというパターンもありなのか。明治神宮前駅や代々木八幡駅なんかもあって、交通の便がいいから人が集まるというのもあるだろう。もう一度行ってみればもっと分かることがあるのだろうか。
 私にとっての代々木公園は、なんとなくつかみ所のないところだ。代々木公園を知らない人に代々木公園を説明しようとすると口ごもってしまう。広くて人が多いところでは説明を受けた方もイメージがわかない。特徴のない広い公園と言えばそうなのかもしれない。興味のある人は一度行ってみてくださいと逃げを打って、私の代々木公園レポートは終わりとなる。

神社でランチしたりあじさいソフトを食べたりカレーを待ったりの鎌倉番外編

鎌倉(Kamakura)
鎌倉番外編-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-55mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/10s(絞り優先)



 アジサイ鎌倉紀行の最後は、本編に入りきらなかった写真を並べて番外編として振り返ってみる。
 最初は御霊神社。長谷駅と極楽寺駅の中間あたりに位置していて、長谷寺であぶれてしまった人や、その行き帰りのついでに寄る人でけっこうな賑わいを見せていた。裏にちょっとしたアジサイの小径もあって、その情報をあらかじめ得ていた人も多かったのかもしれない。鳥居のすぐ前が例の江ノ電撮影の絶好のポイントとなっているから、それで有名というのもありそうだ。
 私たちが行ったときはちょうどお昼時で、境内では大お弁当大会が開かれていた。団体客のおじさまおばさまが地面に坐って、みんなで弁当を広げて食べていた。鎌倉は外でお昼を食べられるところが少ないから、多少強引でも食べられるところは人気のお昼スポットとなる。神社だろうと寺だろうとかまっちゃいられない。私たちも、ここで持参のケーキランチとなったのだった。

 御霊というのは、祖先の霊を祀るという意味と、怨霊を鎮めるという意味があって、日本各地に御霊神社がある。
 ここは源氏が鎌倉の地を治める以前からあった古い社で、平安時代にこの地の有力者であった大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の関東平氏五家の霊を祀るために建てられたのが始まりだそうだ。のちに武勇で名を馳せた鎌倉権五郎景政だけを祀るようになって今に至っている。別名を権五郎神社(ごんごろうじんじゃ)ともいう。
 景政は後三年の役(1083年)に16歳で源義家に従って出陣して、左目に屋が刺さったにもかからずそれを自分で引っこ抜いて戦ったという武勇伝が残っている人物だ。そのため、ここは目の病気や厄除けにご利益があるとされている。
 本殿には景正夫妻と梶原景時の木像が安置されていて、景政の命日である9月18日には、お面をかぶって神輿の前を練り歩く面掛行列というお祭りが行われるそうだ。
 境内には景政が持ち上げたという景政の力石や、樹齢350年以上という立派なたぶの木などがある。

鎌倉番外編-2

 本殿の裏手にあるアジサイの小径は、名所となるほどではないけど、それなりにアジサイは揃っていた。ここはオーソドックスなものが多くて、アジサイの基本ってこうだよねと初心に戻れる場所だ。鎌倉にあっては、個性のないのが逆に個性的なアジサイスポットといえるかもしれない。
 このアジサイの向こう側にあったベンチで私たちはお昼を食べた。もし御霊神社へ行くようなことがあったら、本殿裏のベンチを見て、オオタはここで昼飯を悔いやがったのかと、私のことを思い出してください。


鎌倉番外編-3

 古陶美術館の中。作家の作品の展示だけでなく、小物類の販売もしている。興味のある人には楽しいところだろう。鎌倉みやげにもなりそうだ。でも、ツレは巨大なツボに、私は右に写ってる鎧兜に心が奪われていた。

鎌倉番外編-4

 円覚寺の前にある白鷺池(びゃくろち)。木々に覆われ、緑を映す水面も夏模様。春は桜が咲き、秋はモミジの赤に染まり、冬は凍りつくのだろう。
 かつては円覚寺の境内にあったこの池も、横須賀線の開通によって分断されて外になってしまった。横須賀線は境内の中を横断して走ってることになる。よく円覚寺がそれを許したものだ。
 開山である無学祖元が鎌倉にやって来たとき、鶴岡八幡宮の神の使いが白鷺に姿を変えてこの地に案内したという伝説から名づけられたという。今は人通り、車通りが激しくて、シラサギがのんびりたたずむような雰囲気はない。

鎌倉番外編-5

 名月院近くでソフトクリーム売り場に人が並んでいた。何気なく見てみると、「バニラ 紫いもソフト あじさいソフト(ミックス)」という看板が目に入った。あじさいソフト? それも御当地ソフトなのかと興味を惹かれて、買って食べてみることにした。しかし、どう考えてもこれはバニラと紫いもソフトのミックスだ。どうしてバニラと紫いもを合わせたらあじさいになるのか? 見た目の紫色から来ているとしたら恐ろしく強引なこじつけだ。そもそも、あじさいには香りらしい香りはないし、あじさい味というのも想像がつかない。だから作ろうにもあじさい味なんて作れるはずがないのだ。そんな子供だましの手にまんまと乗せられる私たちはなんてお人好しなんだろう。でも、あじさいソフトを食べたという事実は動かない。確かに私たちは食べた、あじさいソフトと称するソフトクリームを。
 紫いもソフトというのは各地にある変わり種ソフトの定番のようで、そんなに珍しいものではないようだ。確かにお芋っぽい味がした(決してあじさい味ではなかった)。
 鎌倉でも「いも吉館」という有名店があって、私たちが買ったのもその店の支店だったかもしれない。別の店では、抹茶と紫いもをミックスした自称あじさいソフトも売っているらしい。今度はぜひそれも食べてみよう。食べた人の話によると、完全に抹茶味が勝っていて紫いも味はどっかへ飛んでいってしまっているらしいけど。

鎌倉番外編-6

 名月院はとてもちゃっかりしている。商売上手だと思う。本殿裏にあるハナショウブ苑は前日で終わりとサイトに書かれていたからあきらめていたら、丸窓の向こうに大勢の人が歩いている。あれ、おかしいね、もう終わったはずなのにねなんて言いながら近づいてみると、期間延長して開いてた。ハナショウブはもうほとんど終わりましたが風情をお楽しみください、なんて書かれた札が立っている。なんだ粋なはからいで無料開放してるのかと喜びながら入っていこうとしたら、しっかり500円取っていた。取ってやがったか! 係の人の、「入るには500円かかります!」という呼び込みとも警告ともつかない呼びかけで、しばし列が滞る。なんだ500円もするんだといって引き返す人あり、500円かぁと迷う人ありで、私たちは結局入ることにしたのだった。せっかくここまで来たんだし、あきらめてたら開いてたしってことで。これもなんか、完全に明月院の上手い商法に乗せられた感がある。限定ものやレアと言われるとつい買ってしまうのと同じような心理戦に負けた。
 明月院ってのは、拝観料を払った上に、丸窓の茶室にあがるにはユニセフの募金をしなくてはいけなくて、裏のハナショウブ苑を見ようとすれば更にお金がかかってしまう。お寺を見るのに1,000円オーバーはちょっと厳しいものがある。ポッキリのはずの店がポッキリじゃなかったみたいな感じ。
 それでもまあ、ハナショウブはまだけっこう咲いていたからよしとしよう。

鎌倉番外編-7

 鎌倉高校前駅手前の踏切を渡って階段を下りると、目の前には七里ヶ浜の海岸と湘南の海が広がっている。左の出っ張りが稲村ヶ崎で、その向こうに見えているのが三浦半島だ。振り返って右手には小動岬があって、その向こうには江ノ島が浮かんでいる。
 夕方近くになって空が雲ってしまったのは残念だったけど、湘南の風は気持ちがよかった。少し肌寒い中、ポツリ、ポツリと人出もあった。夏になればここも海水浴客が大勢訪れるのだろうと思いきや、波が荒くて遊泳禁止になっているんだそうだ。海水浴客は由比ヶ浜海岸や材木座海岸に行くようだ。その荒い波を求めて一年中サーファーがやって来る。日本の渚百選にも選ばれている。
 小動岬から稲村ヶ崎までの3キロが七里ヶ浜で、この間の距離が7里だったことから七里ヶ浜と名づけられたんだとか(正しくは、七里ガ浜と表記するらしい)。稲村ヶ崎から向こうが由比ヶ浜ということになる。

鎌倉番外編-8

 鎌倉の夜は早い。観光客は夜までいないようで、下手したら5時くらいに閉まってしまう店がけっこうある。通常の20時、21時くらいまで営業している店は少数派だ。そして、鎌倉では何を食べればいいのかよく分からない。せっかくだから鎌倉でしか食べられないような鎌倉名物を食べたいと思うのだけど、それがどうも思い浮かばない。鳩サブレーでは夕食にならないし、鎌倉ハムを砂浜のたき火で焼いてかぶりつくなんてわけにもいかない。鎌倉の夕飯はいつも悩む。
 このあと私が極度のハライタに襲われたこともあって、ガイドブックに載っていた長谷の「麻心magokoro」という店に行ってみることにした。入ってみると予想外にジャズの生演奏が行われているところで、狭い上に至近距離の演奏で会話もままならない。えらいところに入ってしまった。
 ハライタの私は、麻心オリジナル麻の実入りカレー(1,000円)、ツレはシラス定食(1,200円くらいだったかな)を頼んだ。それがなかなか来なくて、結局20分くらい待っただろうか。カレーを一から作ってるのか、まさかご飯を今から炊き始めたのか、もしかしてシラス漁に出たんじゃないのかなどとウワサをして時間を過ごす。店のメニューを見たら、「スローライフ、スローフード」と書かれていた。なるほど、それで出てくるのもスローだったのか。
 ヘルシー指向ということでカレーはかなり不思議な味だった。マイルドというか、辛さが足りない。五穀米ってのも体にはいいとしても、私は白米を食いたいぞ。ノーマルなメニューがないので、けっこう人を選ぶ店かもしれない。店内もなんというのか、変わった雑貨や民族楽器などが並んでいる不思議空間だ。ひょうたんがスピーカーになってたり。窓際の席は目の前が由比ヶ浜なので、ロケーションは悪くない。

鎌倉番外編-9

 食べ終わった頃にはすっかり日も暮れて、今回のアジサイ鎌倉も終わりとなった。前回は由比ヶ浜から鎌倉駅までとぼとぼ歩いていって、残りの体力を完全消費してしまったので、今回はそんな無謀なことをせずに長谷駅まで戻って江ノ電で帰った。のりおりくんもしっかり元を取って、悔いはない。東京までは、終電の泥酔客のようにぐったり寝込みながら戻った我々であった。
 ゴールデンウィークに続いてアジサイの鎌倉も見て回ってもういいだろうということにはならない。まだ回れてないところも残っているし、紅葉の鎌倉も心惹かれるものがある。秋は海岸線の夕焼けも見事だろう。江ノ電もまだ撮りきった手ごたえがない。江ノ島もたっぷり半日はかけて味わいたいし、鎌倉源氏のゆかりの地巡りもしなければならない。またきっと行こう、鎌倉。
 というわけで、これで鎌倉編はおしまい。

中華は中華でもいつものオレ流料理になってしまった中華サンデー

食べ物(Food)
中華サンデー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/30s(絞り優先)



 今日のサンデー料理は中華のはずだった。開始時点では。出来上がってみたら、中華料理になりきれない、いつもの自分の料理になっていた。何故?
 自分が食べたい料理と作りたい料理は限定されているから、中華のレシピを参考に作っても、結局はオレ流になってしまう。人の言うことをもっと聞けよ、落合、みたいな。
 ただ、中華の調味料をメインに使っているから、味としては中華風になっている。和風でも洋風でもない。見た目は中華とは言えないのだけど。

 手間のが一番中華っぽい。酢豚みたいだけど、白身魚と豚肉、野菜の甘酢あんかけだ。中華屋ではなんて名前なんだろう。
 まず白身と豚肉をひとくちサイズに切って、塩コショウで下味を付けてから小麦粉をまぶして素揚げする。タマネギ、ニンジン、シイタケは下茹でしておく。それをごま油であわせて炒める。酒を振って、塩、コショウで軽く味付けする。
 甘酢は、酢3:砂糖2:ケチャップ2:しょう油1くらいを混ぜて、中華スープの素で好みの濃さに薄める。酒、塩、コショウも少々。カタクリ粉も入れてとろみをつける。
 あとは甘酢を絡めて少し炒め足して出来上がりだ。これは普通に美味しかった。馴染みのある味だ。酢豚といえばそうかもしれない。

 右奥はワンタンスープの少し変形。
 エビと白身魚を細かく砕いて、刻んだネギと白菜、塩、コショウ、カタクリ粉を混ぜて種を作る。
 ワンタンの皮は市販のものを買ってきた。これを手打ちしてると大変になってしまう。でも、ワンタンの皮とギョーザの皮は何が違うんだろう。食感は確かに違うから、粉が違うのか、別のものが混ぜているのか。
 スープは、中華スープの素にしょう油を足すのが日本風となっている。ごま油も加える。
 これまた間違いのない安定した味だ。ワンタンのつるっとした歯触りは、水ギョーザとはまた違った美味しさがある。

 左奥はいつものフワフワ豆腐料理の中華版。
 まずはフライパンにごま油と豆板醤を入れて炒める。そこに中華スープの素で作ったスープを加えてジャージャーいわせる。ひとくちサイズに切った絹ごし豆腐を入れて、しばし煮込む。
 酒、しょう油、塩、コショウで味を付けて、カニ缶を投入する。更に溶き卵を流し入れて、ある程度固まってきたところで水溶きカタクリ粉を加えて、少しかき混ぜる。最後にごま油をまぶし入れて、火を強火にして30秒ほど煮れば完成だ。
 一番美味しかったのがこの中華風フワフワカニ玉だった。ごま油の風味が効いていて、豆腐は何でも合うことをあらためて知る。これはぜひオススメしたい。

 今日もまた、砕き系の柔らかメニューとなった。自分で食べたいものを作ると無意識にそういう料理になるのは中華でも変わらなかった。
 それにしてもせっかく中華を作ったのに、王道からはずれた路地裏中華料理となってしまったのはちょっと残念だった。味としては3品とも出来がよかったから問題はなかったのだけど、趣味の料理としては不満が残る結果となった。家庭で作れる中華って他に何があるんだろう。フカヒレとか上海ガニとかは食材が手に入らないし(当たり前)。麻婆豆腐、エビチリ、八宝菜、天津飯、ギョーザ、春巻きあたりが一般的なところか。中華って意外と魚料理が少なくて、タンパク質は肉がメインだということに気づいた。それも牛肉や鶏肉は少なくて、豚肉が多い。
 横浜中華街へ行って中華料理のメニューの豊富さを知って以来、自分でもあれこれ作れそうな気がしていたけど、案外そうでもなかった。考えてみると、中華のおかずは和食や洋食に比べて食卓に上る確率はかなり低い。家庭で作れるものは限られているということだろう。奥が深い割にいきなり壁に当たってしまった。
 それでも、今後とも中華に関してはもう少し追求していきたいと思っている。どうせなら食べたことがない中華を作って食べてみたい。豚まんとかはどうやって作るんだろう。あの白いフワフワの部分の作り方が思い浮かばない。パンみたいに粉をこねるのか。
 また近いうちに中華第二弾をいこう。次はもう少し中華らしい中華にしたい。味だけでなく見た目も。

森を歩きながら考えは地球を超えて宇宙まで行って帰ってきてただいま

森/山(Forest/Mountain)
森の光と影-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-55mm(f3.5-5.6 AL), f6.3 1/10s(絞り優先)



 初夏の海上の森は、強い光と影のコントラスト。生い茂った葉で光がさえぎられた森の道は、暑いけど涼しい。頬に流れる汗を吹き来る風がなでていく。
 蝉にはまだ早く、夏鳥たちの声だけが森に響いている。日陰では歩くたびに白い蛾が足もとを舞い、ときどき思い出したようにトンボが飛びすぎる。この時期の森は花が少なくて、目にはいるのはただただ緑ばかり。
 行き交う人の姿もなく、森の中では自分はあくまでも訪問者でしかないことを思い知る。森の中では森の生き物たちが主役だ。

森の光と影-2

 光のあるところに必ず影が生まれ、影があるから光の存在を知ることができる。私たちは光と影の両方を知ろう。どちらかが欠ければ片方も存在できなくなってしまう。世界は決して光だけで存在することはできないのだ。

森の光と影-3

 木を見て森を見ず、森を見て木を見ず。こんなにたくさんの樹木や草花は必要ないと思うかもしれないけど、多くのものが集まることで名前が変わるものがあり、違う意味を持つようになるものがある。たとえば木が林になり森になるように。人が家族になり国民になり人類になるように。木なんて少しくらい切り倒してもいいじゃないかというのは、人間なんて少しくらい切り捨ててもいいではないかというのと同じようなものだ。一本ずつに意味はなくても、集まって存在している一本いっぽんが全体を形作っている。
 この世界に無駄なものはない。無駄なものがあるとすれは、それはこの世界そのものだ。

森の光と影-4

 青は藍より出でて藍より青し。水面に映った青空は空の青空よりも青い。私たちは実像よりも虚像から多くのものを得ている。小説を読んで何者かを目指したり、テレビの向こうに恋をしたり、現実よりも美しい世界に溺れたり。
 鏡に映る自分の顔は本当の顔ではない。
 青い水面を手ですくってみても、それは青じゃない。

森の光と影-5

 シダの森を見て、共生ということを思う。地面近くの暗いところでも生きられる木と、光に向かって伸びなければ生きていけない木が同じ場所で生きている。太陽の下でしか生きられない人間と、日陰でしか生きられない人間がいる。同じ地球の同じ時間に生きていて、それもまた共生というものだ。昼を生きる人間と夜を生きる人間がいなければこの世は回っていかない。どちらかが主でも従でもない。それぞれが自分の場所で生きているだけだ。
 花々は季節によって交代で生きる。時期を変えて、同じ場所で。それもまた共生だ。みんなが春に咲いてしまったら共倒れになってしまう。人も全員が同じ一番を目指したら、ひとり勝ちでそれ以外は負けになってしまう。私たちは同じ場所を共有しながら少しずつズレて生きていくしかないのだ。

森の光と影-6

 化学薬品が流れ出したような水たまり。でも、これは自然の成分が生み出した色かもしれない。人が何かを捨てるような場所ではないから。
 ときに自然と人工は区別がつかない。人は自然をまねてあらゆるものを作ってきて、ときどき互いが追い越し合ってしまうことがある。人工が自然を超え、自然が人口を超える。人間の叡智と、自然の驚異。どちらも感嘆に値する。
 地球上のどこからどこまでが自然でどこからが人工なのか、もはや境界線は曖昧だ。地球外から見た地球は、それが野生のものであろうと人類が作ったものであろうと関係ない。生命が溢れる惑星は、あらゆる意味で奇跡に満ちている。長い歳月の間に人間は地球の一部となった。大昔海底に沈んだ船が自然と同化するように、歳月が自然と人工を混ぜていく。
 人間が作った森も、100年経てば自然の森になる。地球が生み出した人類という存在は、他の野生動物と同じく自然のものであって、その自然の人間が作ったものは自然の一部だ。人類はもはや、偶然生まれ落ちた徒花的な異物などではない。
 人間が作ったものをすべて自然物として捉え直したとき、今までとは物の見方も変わって、地球との共存の道も見えてくるはずだ。自然破壊さえも必ずしも悪というわけではない。厳しい生存競争の中で、全体としてよりよい世界を目指していくことを考えるべきだ。我々は勝者でも敗者でもなく、一部なのだから。

森の光と影-7

 青空と雲と月と飛行機雲と。もはや当たり前の光景となったこの取り合わせも、100年前までは誰も見たことがないものだった。月は変わらずそこに浮かんで満ち欠けを繰り返してきたけれど。
 この景色も永遠ではない。100年後はたくさんの車が空を飛んでるかもしれないし、透明なチューブの中を列車が走っているかもしれない。月はどこかへ飛んでいってしまって、代わりに人工の月が地球の周りを回ることになったりする可能性だってある。太陽の輝きも永遠ではない。あと50億年もすれば寿命が尽きるし、その前に膨張が始まって10億年もしたら地球は暑くて今の生物はすめなくなってしまう。
 私たちはどこへ向かい、今何をすればいいのか。その問いの答えはどこにも存在していない。何故ならそれはこれから作っていくものだから。毎日は無意味に過ぎていくように思えて意味があり、意味があるようでいて考えを進めていくとどんどん意味は小さくなる。海を見たり、星を眺めたりして自分の小ささを思い知っているくらいでは全然足りない。宇宙には1,000億掛ける2,000億個の太陽があって、それぞれに太陽系の惑星があって、その他の星々がある。時間軸も一種類ではない。その数字はあまりにも膨大すぎて絶望さえできない。
 意味不明で不確かすぎる現実の中で確かなものがあるとすれば、それは自分の意識だ。自分自身の存在とこの世界の認識する能力と言い換えてもいい。その意識が足もとの小さな花から広大な宇宙までもを同時に捉えることを可能にしている。その振幅の大きさに人間の偉大さがある。存在は小さく、今は愚かでも、空想する力こそが可能性だ。
 自分の幸せを求めることも大事。この世界をよくしようすることも必要。それと同時に、この宇宙の現実を知ることもまた大切なことだ。知るための手掛かりは日常のあらゆる場所に潜んでいる。森にも海にも空にも街にも本にもテレビにも。大きなことばかり考えていては自分自身に対して無責任になるし、自分のことばかりではこの世界の役に立てない。
 投げやりにならないことだ。自分ができないことや分からないことに対して。最後まで誠実に生きること、その積み重ねが遠い未来へとつながっていく。最後の最後、あらゆる存在が幻だったとしても、私たちは笑って終わらせよう。だって今、こんな素敵な地球で暮らせているのだから。これ以上、一体何を望むというのか。こんな楽しい夢はない。いつまでもずっと続いて欲しいとさえ思う。
 そんなことをつらつらと考えながら森を歩いてた私のことを、海上の森2005番地に住むモリゾーとキッコロはどこかで見てたかな。

東慶寺で鎌倉一の美女と緊張の初デート

鎌倉(Kamakura)
6月の東慶寺-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-55mm(f3.5-5.6 AL), f9 1/12s(絞り優先)



 ゴールデンウィークにも行った東慶寺へ今回もまた行ったのには理由があった。それは、普段は入ることができない水月堂で、水月観音(すいげつかんのん)を見せてもらう予約を入れてあったからだ。前回はそんな観音さまがいることさえ知らず、帰ってきてから知って、見られるものならぜひ見てみたいと思っていた。鎌倉一の美形仏ということで知る人も少なくないだろう。ツレが電話をしてみたところ、わりとあっさり約束を取り付けることができた。それはもう行くしかあるまい。
 ということで、我々は再び、松ヶ岡東慶寺の石段を登ることになった。はやる気持ちを抑えつつ、駆け込むように入口に向かった。それじゃあ早速水月観音を、と思ったら時間が早すぎた。2時半の約束が、遅れちゃならないということで焦って2時に着いてしまった。あんまり早く行っても向こうにも都合というものがあるだろうということで、まずは境内を見て回ることにした。ひと月経てば花の顔ぶれもガラリと変わっている。

6月の東慶寺-2

 アジサイも少し咲いていた。でもここはアジサイ名所ではないので、人は少なめ。アジサイを見に来てついでに寄ったという人が多かったんじゃないだろうか。
 私たちはといえば、水月観音と約束の時間が気になって気もそぞろで、アジサイなんてのんきに撮ってる場合じゃなかったのだ。気持ちがそわそわして落ち着かない。早く約束の時間が来てくれないかと願うばかり。なんだか、初デートの待ち合わせみたいだ。

6月の東慶寺-3

 ちょっとしたハナショウブ苑もあった。ハナショウブは5月の花だから、もうだいぶ終わりかけていた。
 ハナショウブとアヤメとカキツバタの見分けは、だいぶできるようになった。アヤメは模様があって、カキツバタは花の根本の線が白で、ハナショウブは黄色だ。ただ、ハナショウブの元となったノハナノショウブとは区別がつかない。
 ハナショウブは江戸時代後半から品種改良がさかんになって、現在は2,000種類以上があるんだそうだ。これもバラやアジサイと同じくディープな世界で、ついていけない。
 主に江戸系、伊勢系、肥後系の3系列に分けられていて、三英、六英、八重咲きなどの花の形(花容)と、平咲き、深咲き、垂れ咲き、玉咲き、爪咲き、台咲きなど咲き方によってもそれぞれ品種があるのだとか。色も紫からピンク、白、水色などあって、模様にも名前がついていて、とにかくややこしい。花を見て名前を当てるということではバラよりも数倍難しそうだ。花菖蒲の父といわれた幕府の旗本、松平左金吾の名前だけはせめて覚えておこう。

6月の東慶寺-5

 東慶寺の花で有名なものの一つに、イワタバコ(岩煙草)がある。奥の切り立った岩場に張り付くようにして咲いている。けっこう珍しい花だから、これだけを目当てに訪れる人も多いに違いない。
 みんな上を見上げてる姿がなんとなく間抜けっぽいけど、自分自身も必然的にそうなってしまうので人のことは言えない。それぞれが口を開けて眺めたり、写真を撮ったりしている。むち打ちの人は見られない。

6月の東慶寺-6

 遠くから見ると地味でも近づいてみると、紫の星を散りばめたように群生していてきれいだ。私も写真では見ていたけど実物を見るのは初めてだったのでけっこう感動した。しばし水月観音のことを忘れる。
 東北以南の本州、四国、九州、台湾などの谷間の湿った岩場などに自生している。
 名前の由来は、葉っぱが煙草の葉に似ているからだ。でも煙草にはならない。若葉は食べられるところから、山地では昔からイワナ(岩の菜)と呼ばれて山菜扱いされていたそうだ。その他、ヤマジシャ、イワジシャ、タキナなどの別名もあって、万葉集にも登場している。

6月の東慶寺-7

 高さは10センチから20センチくらいで、花は1センチから1.5センチくらいとけっこう小さめだ。決して派手な花ではない。葉っぱは通常15センチくらいのものが大きくなると50センチにもなったりするそうだ。
 花の形といい、紫の色といい、こんなきれいで可憐な花が岩場にくっつくようにして咲いているというのも不思議だ。紫も他の花にはないような色合いで、野生種とは思えない。透明感のある花びらは蝋細工のようだ。
 そうこうしてるうちに約束の2時半が近づいた。再びちょっとドキドキのビクビクもので入口近くの門へ行き返した。

6月の東慶寺-8

 入口すぐの右側にある門を通って、入口の鈴を鳴らしてくださいとのことだったので、白木の門をおそるおそる開けて、腰をかがめるように入っていく我々。ちょっと不審人物っぽい。これでいいのかなぁと、思い切って呼び鈴のヒモを引っ張ると、カーン、カーンと大きな音が響いて、中からハーイという女性の声がした。どうぞー、というので、ごめんくださいと言いつつ扉を開けると、奥から出てきた女の人が出迎えてくれた。2時半の方ですね、はい、そうです、どうぞおあがりくださいと、話はトントン拍子で進んで、戸惑う間もなく、こちらですとずんずん歩いていくのに急ぎ足でついていく私たち。わー、待ってくださいー、と心の中で呼び止めつつも、いきなり本殿に向かって拝んでいる人の前を横切っていくことになってちょっとひるむ。事情を知らない人は、おいおい何事だあいつらと思ったんじゃないだろうか。
 水月堂の中は思いのほか広く、水月観音は一番奥の部屋に置かれていた。こちらです、どうぞごらんになってください。そう言われて顔を上げると、おおー、まさに水月観音だ。写真で見たときの印象そのまま静かに鎮座していた。手渡された線香を供えて、まずは手を合わせる。こんにちは、水月観音さん、会いに来ましたよ。
 実際、この仏さんは実に美しい。繊細な細工の彫りと観音様らしいふっくらした顔のバランスが絶妙で、思わず見入ってしまう魅力がある。神々しいというよりも、芸術作品としての美しさが先に来る感じだ。
 水辺に坐って水面に映る月を眺めているところから水月観音と呼ばれているこの仏さんは、憂いているようでもなく、微笑んでいるようでもなく、ただ静かにうつむいてる。見る角度によっても違って見える。女性的だったり男性的だったり、優しかったり厳しかったり。私は右斜め上からの角度が一番美しいと思った。
 これはちょっと仏像に目覚めてしまったかもしれない。これまで仏像に関しては特に思い入れもなかったのだけど、今後は神社仏閣へ行ったときは、仏像も要注目だ。年の一度の開帳の日とかにも出向いて行ってしまいそう。
 いや、いいものを見せていただいた。実際に見ていた時間は10分もなかったかもしれないけど、それ以上に長く感じた。ちょっと時間が止まったような感覚で。そろそろおいとましようかとツレと顔を見合わせて、拝観料300円を置いて立ち去ることにした。案内してくれた女性が後ろで控えているので、あんまり長居してもいけない。いやー、どうもありがとうございました。またいらしてくださいね、一度みえた方は二度三度といらっしゃるんですよ、などと言葉を交わしつつ、またもや本殿の仏さんの前を横切って、参拝者に注目を浴びつつ玄関へ向かうことになった。でも、そこが廊下になっているから仕方がない。
 一歩外で出ると、一気に緊張感が解けて、思わずため息が漏れてしまった。大事なひと仕事終えたみたいにどっと疲れが出た。自覚してる以上に緊張のご対面だったらしい。
 残念ながら写真撮影は禁止ということで写真は撮っていない。なので、ぜひ足を運んで自分の目で見て欲しい。拝観は予約の電話さえ入れれば難しいものではない。お寺の行事がない時間帯なら、特に制約はないようだ。当日、鎌倉に着いてからの電話ではちょっと無理かもしれないので、前日までに問い合わせた方がいい。なんせ鎌倉一の美女と会うのだ、事前予約は当然というものだろう。お嬢様にいきなり電話して、おう、今ヒマか? だったら今からちょっと行くからな、なんて乱暴な口をきいたら、たとえ時間があっても会ってはくれまい。

 鎌倉のアジサイもそろそろ終わりが近づいたようだ。私たちが行ったのはまだ一週間前だというのに、なんだか遠い日の出来事のように感じる。遠い夢物語のように。あの日はたくさんアジサイを見て、水月観音を見て、よく歩いて、日焼けもした。もはやなつかしい気さえする。
 今回のブログ鎌倉編も残りあと一回の番外編だけとなった。そろそろ気持ちを次の花、次の場所へ向かわせないといけない。今度はどこへ行こう。
 鎌倉もまだ行くところが残っている。江ノ島や、源氏山や、金沢街道など。鎌倉文学館も今回行こうとして行けなかった。夏場は歩き回るのはきついから、秋になってからか。紅葉の鎌倉もきっといいんだろうな。鎌倉に対する得体の知れない恐怖感のようなものはもう消えて、今は近しい場所になった。だからまた行こう、鎌倉。

江ノ電に乗って降りて撮ってまた乗るのりおりくん

鎌倉(Kamakura)
江ノ電-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/25s(絞り優先)



 鎌倉といえば江ノ電もまた魅力の一つに違いない。住民の貴重な移動手段でありながら同時に観光向けでもあるという点で、都電荒川線と重なる部分がある。みんな江ノ電が大好きだ。日頃電車になんてまるで興味のない老若男女が、鎌倉で江ノ電を見るとつい写真を撮らずにいられなくなってしまう。普段は絶対に電車の写真を撮ったりしないような女の子まで、一所懸命江ノ電を狙ってシャッターを切っている。その後ろ姿は微笑ましい。けど、遠慮して後方にポジションを取っていては、江ノ電よりも江ノ電を撮る人を撮ることになってしまうのだった。
 上の場所はいくつかある撮影スポットの一つ、御霊神社前だ。電車の向こうがトンネルで、両脇にアジサイが咲いていて、絶好の撮影ポイントとなっている。みんなよく知っていて、江ノ電を狙う人が絶えることがない。運転士も日頃のうっぷんを晴らすかのように警笛を鳴らしまくり。少しでも近づいて撮ろうとするにわか鉄っちゃんと江ノ電運転士の戦いが、この場所で日夜繰り広げられているのだ。
 この車両は、1000形といわれるもので、1552号だと思う。後ろから見た姿で、車両に1552とある。江ノ電にもたくさんの種類の車両があって、電車好きはひと目見れば何形か見分けることができるのだろうけど、私はさっぱり分からないので、江ノ電好きの人のサイトを見て少しだけ勉強してみた。見分けるのはなかなか難しい。
 基本的に江ノ電は緑と黄色のツートンだけど、いろいろなカラーリングの広告車両もある。これもそうだったんじゃないかと思う。

江ノ電-2

 なんとかもう少しいい写真を撮りたいと粘ってはみたものの、待つほどに人が増えてきてこの有様に。現地の状況は伝わるけど、さすがにこれでは人が入りすぎだ。江ノ電を撮ってるんだか人を撮ってるんだか分からなくなる。
 車両は、1251号と見える。江ノ電は基本が2両編成で、どういう理由か知らないけど、前後別の車両がくっついている。これは1201+1251だったろうか。混雑時は2両と2量が合体して4両編成になったりもする。そのときは更に統一感のないバラバラな感じになったりして面白い。

江ノ電-3

 トンネル側は人気が高いからあきらめて、反対側でも一応撮っておくかとベストポジションを押さえて待ち構えていたところ、突然おっさんがフレームインしてきた。わっ、何するんじゃ! 完全に江ノ電を撮るおじさんを撮る私になってしまったではないか。
 侮りがたし写真おやじ。素晴らしき江ノ電写真への道のりは遠く険しい。
 この場所は単線で、10分間隔くらいでどちらからか電車が来る。本腰を入れて江ノ電を狙うならもっと粘ってもよかったのだけど、私たちの目的はそういうことではなかった。あきらめて先へ進むことにした。少し心残りだったけど。
 車両は平成に入ってから導入された2000形だ。2001という数字が見えるから、2001号だろう。このタイプはレトロ感よりも近代感が強い。昔からの江ノ電ファンはあまり好みではないのかもしれない。

江ノ電-4

 テレビやドラマでお馴染みの鎌倉高校前駅へとやってきた。昔から幾度となくテレビの向こう側に見ていた場所に自分が降り立って感慨深いものがあった。おお、ここがそうか、と。駅自体は老朽化が激しい無人のローカル駅で、テレビの中ほどドラマチックではないけれど、でもやっぱり嬉しかった。私の中の鎌倉高校前駅は、片岡鶴太郎が主演していたドラマ「季節はずれの海岸物語」のイメージが強い。あのドラマがとても好きだった。
 この日は、江ノ電乗り放題の「のりおりくん」というフリーパスを買った。最初、「のりおくん」と思い込んでいて、あやうく窓口で「のりおくん、ください!」と言ってしまうところだった。西川のりおの大きな顔が目に浮かんだ。
 値段は580円だから、鎌倉と長谷と往復するだけなら損だけど(380円)、たとえば鎌倉から長谷まで行って、更に鎌倉高校前駅へ行って、そこから鎌倉へ帰るとしたら650円になるから、微妙な得になる。このあたりの江ノ電の値段設定が憎いところだ。500円にすると損しすぎると踏んだのだろう。しっかり得をしたければ2回は途中下車しないといけない。この沿線で一日を過ごすなら、買って損はない。
 提携している食事処で、のりおりくんを見せると少し割引になるサービスがあったり、鎌倉文学館は50円引きになったりする。私たちは長谷寺で粗品をもらった。そのときどきで違うのかもしれないけど、くれたのは長谷寺と印刷された小さな蛍光ペンだった。のりおりくんって、いろんな意味で微妙だと思った。

江ノ電-5

 私たちが乗ってきたのがこの20形の62号だった。レトロっぽいのは古い車両ではなく、江ノ電100周年を記念して新しく導入されたレトロもどきで、実際は一番新しい。このときは4両編成で、前は何だったのか見てなかった。江ノ電について勉強したのは帰ってきてからで、当日は特に強い思い入れも何もなかったから、車両の種類まで気にはしていなかった。

 明治35年(1902年)に江ノ電こと江ノ島電鉄は、藤沢-片瀬(今の江ノ島駅)の間で開通して(3.4キロ)、2002年に100周年を迎えた。少しずつ距離を伸ばしていって、明治43年(1910年)に全線が開通した。当時は40の停留所があったそうだ。停留所というのは、路面電車の扱いだからだろう。他の鉄道会社の傘下に入ったり買収されたりと紆余曲折を経て、今は江ノ島電鉄株式会社として小田急グループに組み込まれている。
 現在は鎌倉から藤沢までの約10キロを34分かけて往復している。15の駅は無人駅も多く、単線ゆえの待ち時間などもあり、ローカル線の風情が色濃い。民家の間をすり抜けるように走り、トンネルをくぐると目の前に海が広がったり、路面電車となって車と並走したり、乗っているだけで楽しくなる電車だ。

江ノ電-6

 湘南の海と江ノ電と江ノ島と。晴れていたらここからの夕景は素晴らしい。関東の駅100選にも選ばれている。この日は残念ながら夕方から曇りになって夕焼けも富士山も見られなかった。いつかまた、いい夕焼け写真を撮りに行きたい。下校する高校生カップルなんかがいればますます絵になるだろう。
 小さく見えている車両は10形(10+50号)で、ちょっと変わっている。紺色で、ヨーロッパの山岳列車みたいなスタイルの江ノ電だ。これも新しいレトロ調で、古いものではない。チョコ電と呼ばれる茶色い電車もあったのだけど、それはもう引退してしまった。

江ノ電-7

 これは本当に古い300形の305号だ。初登場は昭和35年だから、かなり長い年月活躍していることになる。最も江ノ電らしいスタイルの電車と言えるだろうか。301、302に続いて304号も引退してしまったから、この305号にはまだまだ頑張ってもらわないと。

江ノ電-8

 乗ったのが2両と2両をつなぐ先頭の席だったので、無人の運転席を見ることができた。電車好きにはたまらんポジショニングだろう。コンピューター制御など影も形もなく、いかにも手動で走らせているというオールド感がいい。
 この席から見てると、4両つないだ江ノ電は無理があるのか、コーナーのたびにあやしく車両が左右にうねって、今にも脱線しそうだ。江ノ電はスピードを上げたら危ない。

 こんな感じの江ノ電リポートになりました。江ノ電も調べてみると奥が深くて面白い。車両もこんにも種類があるとは思わなかった。ただ、車両が何号だろうとそんなものは関係なくて、江ノ電は見て乗って写真を撮って楽しむものだ。のりおりくんで乗り放題乗って、帰りには江ノ電もなかをおみやげに買って帰ろう。
 撮影ポイントとしては、ここで登場した御霊神社前と鎌倉高校前駅前が王道となるだろう。鎌倉高校前駅手前の坂道から海をバックに踏切を通過する江ノ電というのも定番だ。腰越駅で路面電車になるところも狙いたい。
 私もまた再チャレンジしに行きたいと考えている。それと、次は藤沢から鎌倉まで全15駅制覇もしたい。できれば全部の駅で降り立ってみたいとも思う。そのときこそ私は真の「のりおりくん」の称号を得ることができるだろう。

北鎌倉のコトー美術館の狭い裏庭に珍しいガクアジサイあり

鎌倉(Kamakura)
古陶美術館-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f9.0 1/12s(絞り優先)



 北鎌倉駅から円覚寺を越えて2分ほど歩いたところに、鎌倉古陶美術館がある。古い陶器に興味があるわけではないから普通なら素通りしているところだけど、「いい旅夢気分」で平泉成夫妻がここの裏庭に咲くアジサイを紹介していたので、私たちも行ってみることにした。平泉成って誰だと思うかもしれないけど、顔を見ればたぶん分かるおじさん俳優だ。脇役で滅茶苦茶たくさん出てるから。少し前に「華麗なる一族」にも工場長役で出ていた。それはともかくとして、まずは入ってみよう。

 館長は趣味で鎌倉時代の陶器を集めていたらそれが昂じて脱サラして陶器の美術館を開いてしまったという人だ。鎌倉時代の陶器を系統立って展示してあるところがほとんどないということも、ここを作るきっかけになったという。言われみれば、鎌倉というのは古都にしては美術館のようなものが少ない街だ。観光地の通りに古美術店なども見かけない。私も鎌倉時代の陶器というのをあまり意識したことがなかった。
 古陶美術館は古民家三棟を強引につなぎあわせたような建物となっていて、それ自体が見どころとなっている。太い梁や古い柱などにも味がある。
 展示は大きなツボから茶碗などの小物までさまざまで、好きな人や専門家が見れば興味深いものなのだろう。でも、門外漢の我々にはさっぱり。巨大なツボを見て、どうやって作ったんだろうねこれ、などというすごく初歩的な会話が交わされていたのだった。大きなロクロを回したんじゃないのかなどととぼけたことを言ってみたり。
 尾形乾女という人の絵などが飾られていたようだけど、そんな人も知らない。私たちの目的はあくまでも裏庭のアジサイだ。きっと同じような人もたくさんいたに違いない。

古陶美術館-2

 裏庭のあじさいの小径は、文字通りの裏庭で、行き交う人とすれ違うのがやっとという狭さだ。お相撲さんお断りの立て札が必要なほど通路は狭い。散策路といったようなものではなくて、しかも順路がなくて最後は行き止まりになるのでしょちゅう人とすれ違うことになる。写真を撮ってる人がいると終わり待ちになったりもする。
 ここはガクアジサイが多かった。園芸品種ではなくヤマアジサイなんだろうか。プレートがたまに出ている程度で、品種に対するこだわりというよりも趣味で好きなアジサイを集めてみましたという感じだ。

古陶美術館-3

 アジサイの美しさはガクの色と形だけで決まるわけではない。小さいながら花の色によっても印象が違ってくる。薄ピンクのガクと花の紫が華やかだ。

古陶美術館-4

 これはちょっと変わったアジサイだった。見ようによってはやや不気味かもしれない。アジサイもまだまだいろんな可能性があることを教えてくれる。

古陶美術館-5

 つや消し紫のガクに少し惹かれた。すごくきれいというわけではないのだけど。

古陶美術館-6

 お客の入りはまずまずで、みんな何らかのカメラを持っていて、思い思いにアジサイ写真を撮っていた。今はちびっ子も自分の携帯で写真を撮る時代だ。写真というのもが昔に比べて軽くなったけど、自分が興味を持つ対象を知るという意味で写真を撮ることはいいことだ。それを他の人と共有することも簡単になった。

古陶美術館-7

 ここで一番気に入ったのがこれ。渋いね、君、とうならせる渋枯れの紫墨色アジサイ。ここまでくると風情を通り越して、わびさびの世界だ。お茶室にも似合いすぎるくらい似合いそう。可憐なものや華やかなものが多いアジサイの中で、この渋さは際立っていた。

古陶美術館-8

 花は平凡だけど、葉っぱが変わっていた。あまり美しいとは思えないけど、こういう方向性もあるんだということを教えてくれる。葉っぱの色まで作り出せるのなら、アジサイ作りの世界は更に広がっていく。

古陶美術館-9

 これまた変わったガクアジサイで、最初は緑のガクが時間とともに白くなっていく。抹茶をまぶしたみたいで面白い。

 裏庭のあじさいの小径には100種類以植えられていて、珍しいものも少なくない。通路は狭くて人の流れが落ち着かないけど、坐る場所も用意されていて、けっこう満足度は高かった。平泉成夫妻の鎌倉紹介番組を観なければ、決して入ることはなかっただろう。こういうのもまたひとつの縁だ。行けてよかった。
 裏庭の公開は5月から6月にかけてのアジサイのシーズンだけだ。あとは閉鎖されている。入園料は500円。陶器を見ずに裏のアジサイだけならちょっと高い。寺の拝観料でも最高300円だから。陶器に興味がある人は、アジサイとセットでお得だ。時期的にはそろそろ見頃過ぎといったところかもしれない。ここのは他のところよりも早い感じだった。今週末まできれいな状態が持つかどうか。
 ツボに興味がある人もない人も、北鎌倉のちょっとした穴場アジサイスポットとして古陶美術館をおすすめします。光則寺とはまた違った種類のガクアジサイを楽しむことができますよ。

6月の長谷寺は新宿駅よりも混雑し、ディズニーランドよりも並ぶのだ

鎌倉(Kamakura)
長谷寺門前

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f10 1/32s(絞り優先)



 6月の鎌倉。アジサイの時期の長谷寺は新宿駅並みに人が多い。門前からしてすでにこの状態。入口に近づくほどに人口密度が高くなる。あまりにも人が多いのでちょっと笑ってしまうくらいだ。世の中には自分と同じことを考えてる人がこんなにも大勢いるんだなぁとあらためて思う。
 このとき午前10時前。開門が8時半だからすでに出遅れた感がある。ただ、ここから昼にかけてますます混雑が増していくので、ぎりぎり間に合ったといったところかもしれない。ゴールデンウィークも混んでたけど、ここまでではなかった。とにかくどれくらいの待ち時間になるのか状況がまったく読めなかったので、とりあえず入口付近まで近づいてみることにした。
 入場券を買うのに並んだのは5分かそこらでそんなにたいしたことはなかった。そこからさらっと入れてしまって、なんだこれは、大丈夫じゃん、全然待ちなんてないじゃんと拍子抜けしてしまった。待ち時間が3時間なんて大げさだなぁ、はは。と、ここまでは余裕だった。というか、全然分かっていなかったウブな私たち。行列は今ここにある危機ではなくこの先に待ち受けていたのだった。境内の混み具合はそれなりで、渋滞しているというほどではない。人をよけつつそれなりに自由が利く。
 長谷寺は前回見て回っているので途中は飛ばして、すぐに上に登ってアジサイの小径へ向かうことにした。今回の目的はそこだけだったから。



青いアジサイを取り囲む人々による撮影会

 と、その前に、入ってすぐのところに何やら人だかりができていた。何かを取り囲んでみんなで写真を撮っている。誰か有名人でも来ているのかと思ったらアジサイだった。なんだそりゃ。アイドルの撮影会に来ているカメラ小僧たちみたいで、なんとなくおかしかった。このあと別の場所でどこかのおじさんが口にした言葉が思い出される。
「人が撮ったところはたいていいい場所だからそこで撮ればいい」
 確かにその通り。みんな撮るところはだいたい決まっていて、そこはやっぱりよくて、みんな同じところで撮っていく。我々もまた、例外ではなかった。



青紫の紫陽花

 みんなが撮っていたのがこのアジサイだ。変わった形のガクをしていて、紫色にも品がある。なるほど、これはいいねと一目で思う。たくさんあるアジサイの中でも第一印象でハッとさせるものはどこか他のものとは違っている。クラスの中でみんなの注目を集めるアイドルがいるようにアジサイの中にもアイドルは確かに存在する。
 新種のアジサイで「かまくら」と命名されたと書かれていた。作出は加茂花菖蒲園。静岡県掛川にあるここはアジサイ作りにも力を入れているようで、ネットで調べたらアジサイの通販もしているようだ。このアジサイは鎌倉名物として定着していくだろうか。



アジサイの小径の渋滞

 結局、待ち時間というのはアジサイの小径に入るためのもので、入場券に押された整理番号によって入場制限がかかるために待ちが出るのだった。番号でグループ分けして、順番が来るまで入れない仕組みになっている。私たちの番号は1時間待ちだった。やっぱりか。この時期の長谷寺が5分くらいの待ちで入れるほど甘いものではなかった。私が間違ってました。
 ただ、長谷寺のいいところは、入場券に再入場許可のハンコを押してもらえばいったん外に出てもまた入れるというシステムになっているところだ。なので我々のように近くの光則寺へ行ったり、この時間を利用してお昼を食べたりなんてことができる。自分たちの番号が解禁になっても、そこから行列に並ばなければいけないから、実質的な待ち時間はもっと増えることになるのだけど。
 上の写真はようやくアジサイの小径の入口を入ってアジサイ群生が始まったところだ。最後までこんな調子で行列に並びながらゆるゆると進むことになる。基本的には追い越し禁止。たまに写真を撮ったりしていると追い越されてしまったりもしつつ、後半はルーズになっていく。いったん入ってしまえば時間制限はないからいつまでいてもかまわない。



斜面に咲くアジサイの定番カット

 ここのアジサイは、山の斜面にややワイルドな感じで咲き乱れている。見渡す限りのアジサイというのは小さな写真ではちょっと伝わりづらい。実際のアジサイ群生は、わぁーっと声が出るほどきれいだ。
 この時間帯は日差しが最高潮のときで、アジサイ撮影には厳しい条件だった。光と影のコントラストがきつすぎてアジサイのしっとりとした風情はない。梅雨時の花でもあるし、照りつける太陽は似合わない。
 とはいうものの、40種類以上、約2,500株のアジサイはなかなかに素晴らしい。こりゃすごいと素直に感動する。
 長谷寺が裏山に本格的にアジサイを植え始めて散策路を整備したのは2002年頃からだそうだ。その前にも境内にアジサイはあったのだろうけど、長谷寺がアジサイ名所となったのは最近のことのようだ。明月院の方は戦後1950年(昭和25年)くらいからすでにアジサイ名所となっているから、歴史はずいぶん違う。
 この散策路が去年、ちょっと問題になった。許可を得ずに勝手に拡張整備したとして県の調査が入ったのだ。どうやら古都保存法に抵触してしまったらしい。あの問題は結局どうなったんだろう。最悪、元の自然な状態に戻されるという話だったのだけど、今年見た限りではそんな様子はなかった。話し合いで解決したのだろうか。長谷寺としてはアジサイシーズンは1日に1万人を超える観光客が訪れるかき入れ時だから、下手に横やりを入れられちゃたまらないといったところだろう。お寺が一日に拝観料だけで300万円も稼ぐというのも問題な気がするけど、あの散策路はあれでいいだろう。あれ以上狭くなったらますます渋滞がひどくなって待ち時間もとんでもないことになるし、危険でもある。むしろもっと広げて欲しいくらいだ。



薄紫のアジサイ

 長谷寺ではアジサイの景観ばかり撮っていて、花をほとんど撮ってなかったことに帰ってきてから気がついた。これはその中の数少ない一枚だ。この日の私は、青や紫の微妙なニュアンスの違いに心惹かれていたらしい。撮った写真は青や紫の花が多かった。



手前のアジサイと遠くに海を見るカット

 長谷寺で一番撮りたかったのがここ、山の上からアジサイの向こうに見える由比ヶ浜の風景だった。もうひとついいポジションがなくて、手前のアジサイも好みではなかったのだけど、ここはやっぱり絵になる。テレビ版の「世界の中心で、愛をさけぶ」の紫陽花の丘を思い出した。
 アジサイと海のとりあわせでは成就院がロケーションとして最高なのだけど、前年の大雨による被害と補修工事で、今年はまったく駄目だったようだ。来年は復活するのだろうか。

 鎌倉のアジサイのよさは、それぞれの場所でそれぞれの味わいがあって、一日でいろいろな楽しみ方ができるところだ。明月院には明月院の味わいがあり、長谷寺には長谷寺のよさがある。同じ食材でも調理方法が変わればいろんな美味しさがあるのと同じだ。特に明月院と長谷寺は対照的なので、両方巡るとそれぞれのよさが分かっていい。
 鎌倉アジサイシリーズはこのあと、古陶美術館編、御霊神社編と続きます。もう少しおつき合いください。

 北鎌倉のコトー美術館の狭い裏庭に珍しいガクアジサイあり
 

ちょっとついでのつもりで寄った光則寺でガクアジサイを堪能する

鎌倉(Kamakura)
光則寺-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8.0 1/50s(絞り優先)



 長谷寺で整理券をもらったあと、1時間の待ち時間を利用して、近くの光則寺(こうそくじ)へ行くことにした。こちらはややマイナーな存在のお寺ということで訪れる人もさほど多くない。庭のアジサイをゆっくり見て回ることができる。長谷寺から歩いても5分くらいで、写真を撮りながらアジサイを見て回って30分ほどなので、あちらの待ち時間を使うには最適なところだ。拝観料はセルフで100円。

光則寺-2

 もともとは鎌倉幕府第5代執権北条時頼の重臣だった宿屋光則の邸宅があった場所で、のちに日蓮に帰依した光則が屋敷を改築して建てたのが光則寺だ。
 日蓮が幕府を批判した意見書『立正安国論』を、寺社奉行だった宿谷光則と父の行時の手を経て時の執権北条時頼に渡されたことから(1260年)、ここに『立正安国論』の石碑が建っている。しかし、日蓮のやり方は無謀だった。鎌倉で流行ってる疫病や飢饉や災害などの原因は幕府が禅宗などにうつつを抜かしてるからで、それをやめないとますます国は乱れて権力者は早死にするぞなんてことを書いた文章を堂々と正面から送りつけたのだから、タダで済むはずもない。激しい迫害を受けて、とうとう1271年に佐渡に流罪となってしまった。
 弾圧は弟子にも及び、弟子だった日朗上人と4人の信者は、ここ光則寺に幽閉されることとなった。そのとき入れられていたという土牢が今でも裏山に残っている。監視の任に当たったのがこの屋敷の主人宿屋光則だった。ただし、ずっと牢に閉じ込められていたわけではなく、日朗上人は佐渡の日蓮に会いに7回も佐渡に行っているところから、わりとゆるやかな軟禁状態だったようだ。自分が流されても弟子を気遣う日蓮の姿勢に感銘を受けた宿屋光則はやがて日蓮宗の信者となり、屋敷を光則寺にしたのが1280年頃のことだった。自らの三代目の住職を務めている。
 日蓮は1274年に許されて、鎌倉を経由して、山梨県の身延山に入った。そこで久遠寺を創建している。53歳から9年間その地にとどまり、病を治療するため茨城に湯治へ行く途中、東京の池上(大田区で現在本行寺が建っている)で体調を崩して生涯をを終えることになる。遺言によって身延山に埋葬された。

光則寺-3

 光則寺のアジサイは、原種のガクアジサイか、原種に近いものがほとんどで、観光客向けというよりも住職が趣味で育てているような印象を受けた。境内の小屋にはリスとクジャクがいたりもして、あとから考えるとちょっと面白いお寺だった。アジサイには写真付きのネームプレートもかかっていて、その写真も住職が自ら撮ったものらしい。そのへんからしても、ここが趣味の庭的なアジサイなんだと思う。珍しい品種も多くて、他のメインどころとは違った面白さがあった。
 名前はいちいちメモ撮りしなかったからまったく覚えていない。アジサイの場合、バラとは違って名前はまあいいかと思ってしまう。再現性がないというか、アジサイ自体あまりあちこちで見る機会がなくて、他の場所で同じ種類のアジサイと出会う確率も低いから、頑張って覚えようという気になれない。
 アジサイの品種は、全部で500種類以上あるといわれている。日本産のものが100種類以上、西洋で改良されたものや逆輸入されたものもあって、はっきりと品種名が分からないものもある。バラのように系統立っていないのかもしれない。

光則寺-4

 原種の他に雑種や園芸種なども混ざっている。プレートには産地と名前が書かれているのだけど、それはその地で品種改良されたものなのか、その場所で見つかった原種のアジサイなのかはよく分からない。中には「園芸品種?」と書かれたプレートもある。そんな問いを私に投げかけられても困ってしまう。

光則寺-5

 鉢植えが多い中、このように直接地面に植えられた大きなものもある。このアジサイは特に見事だった。形からするとこれは西洋アジサイだろうか。淡いピンクとブルーが一本の木から出ていて、遠くから見るとティッシュで作った飾り物の花みたいに見えた。ネピア的アジサイ。

光則寺-6

 八重咲きのようなガクが密になった、変わったタイプのアジサイ。清楚なピンク紫が美しい。
 アジサイはアップで撮るとアジサイらしくなくなってしまうことが多いのだけど、これはアップがよく似合う。

光則寺-7

 これはアジサイだったのかそうでないのか。ソフトクリームのような形に咲いている。葉っぱもアジサイらしくなかったから、違う花かもしれない。

光則寺-8

 上品な青のガクアジサイ。ガクが四つ葉のクローバーのよう。
 よく知られているように、アジサイの花びらに見えるような部分は飾り花で、実際の花は中心の小さい部分にある。ガクがどうしてこんなに美しくて大きくなったかといえば、やぱり受粉のために虫たちを惹きつけるためなのだろう。けど、アジサイに虫たちがたかっている姿はほとんど見ない。花に匂いもないし、これじゃあ虫たちも寄ってこない。じゃあどうしてるんだろうと思ったら、自家受粉もするようだ。で、受粉すれば種もできて、その種を取って蒔いたり、地面に落ちればまた新しい芽が出てくる。アジサイの品種改良の原理は単純で、違う花同士で受粉させてうまくいけば別の種類のアジサイが生まれてくる。定着させるのは難しいのか簡単なのか。土壌によっても色が変わるから、アジサイ作りは思うようにいかないのかもしれない。逆に言えば何色が出てくるか分からない面白さというのもありそうだ。

光則寺-9

 登る石段の脇にもアジサイが植えられていて、ちょっと明月院風でよかった。
 境内には全部で150種類ほどのアジサイがあるようで、思いがけず楽しませてもらった。長谷寺の待ち時間でついでに寄るのが失礼なほど、ここはここで充分堪能できる。待ち時間があってもなくても光則寺はおすすめだ。
 長谷ゾーンとしては、アジサイの季節なら長谷寺を中心に、光則寺と御霊神社の3点セットがいい。大仏を見たことがなければ、高徳院まで足を伸ばしたい。隣駅の極楽寺駅ゾーンにも極楽寺と成就院があって、そちらまで歩けない距離ではない。ただし、今年は成就院のアジサイが全滅してるのでそちらまで行くまでもないだろう。極楽寺もアジサイはあるようだけど境内撮影禁止では仕方がない。
 けっこういい時間になったところで、我々は長谷寺へ戻ることにした。

たかがアジサイされどアジサイ、明月院ブルーは伊達じゃない

鎌倉(Kamakura)
明月院境内のにぎわい

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/60s(絞り優先)



 鎌倉のアジサイといえば、長谷の長谷観音と北鎌倉の明月院が2大名所として知れ渡っている。梅雨時の晴れ間のピークの日曜日となれば行列は必至。最大3時間待ちという情報におびえつつ、我々は鎌倉へと向かった。
 行くなら朝イチか閉門前という鎌倉アジサイおじさん(私たちが勝手に命名)のブログを信じて、明月院へは夕方の3時半頃に行った。アジサイおじさんは正しかった。門へと向かう参道で向こうから続々と人が戻ってくるのとすれ違う。これはいけるかもしれない。門の前で少し行列が出来ていたものの、それもあっさり進んで何事もなく中に入ることができた。ちょっとあっけないほどに。とはいえ、中はさすがに大混雑状態。身動きが取れないほどではないにしても、お寺の境内としては人口密度が恐ろしく高い。



明月院ブルーとカップル

  これが噂の明月院ブルーというやつか。なるほど、こいつはなかなかと感じ入る。青いアジサイは最もポピュラーで子供の頃から見慣れているはずなのに、ここのものはどこか違っている。青の微妙なニュアンスが違うのだろう。
 明月院のアジサイは、大部分が日本古来の姫アジサイという品種で統一されている。一般的に日本のアジサイはガクアジサイで、鞠のようなものは品種改良された西洋アジサイと思っていたら、日本産の丸いアジサイもあったのだ。知らなかった。花は西洋アジサに比べて少し小さめで、日本らしい風情と品がある。最初は淡い青からだんだん深い青へと変化していくのだそうだ。
 明月院ブルーはファーストコンタクトで我々を魅了した。



三門前の階段

 アジサイも光の加減でずいぶん違った印象になる。アジサイだけは強い日差しは似合わない。薄曇りか雨模様くらいがちょうどいい。
 ここは明月院のアジサイを紹介するときに必ず出てくる三門前の階段のところだ。人の波が絶えることなく続く。ここで人の入ってない写真を撮ろうと思えば、平日の開門の8時半前に並んでダッシュするしかない。私は人がいる写真が好きだからこれでいいけど、狙い通りに人を入れるのは難しい。カップルだけとか和服の人とかを入れて撮ろうとすれば、相当粘らないといけないだろう。



アジサイを撮る人

 一番の人気撮影スポットとなっている三門前は、アジサイを撮る人、お互いに記念写真を撮るカップル、人に頼んでツーショットを撮る人たちなど、明月院でもっとも笑顔があふれる場所だ。うかつにアジサイの写真なんかを撮っていると私みたいな人にアジサイを撮っているところを撮られてしまう。明月院では好むと好まざるとに関わらず自らがどこかで誰かの被写体になることは避けられない。この時期の明月院はお忍び旅行には向かない場所だ。



アジサイと母子

 この子は直接今日のことを覚えてはいないだろうけど、意識の深いところで記憶に刻まれたに違いない。大人になって、青いアジサイに妙に惹かれてしまったり、明月院に呼び寄せられたりしてしまうんじゃないだろうか。三つ子の魂百まで。覚えていないことでもたくさん経験することは大切なことだ。



やぐらとアジサイ

 やぐら前のアジサイ。この時期は霊たちも深い眠りから目覚めさせられておちおち眠っていられない。いつからここはこんなにも騒々しい場所になってしまったんだと嘆いているだろうか。それとも、賑やかになって喜んでいるだろうか。北条時宗や上杉憲方たちの霊は今でもここにいるのかどうか。



階段に並ぶ人たち

 特に由緒などありそうにない木の橋。みんな列をなして歩いている。私も最初に訪れたとき何かいいことがありそうで歩いてみたけど何もなかった。
 裏の参道側にもたくさんの青いアジサイが咲いていて、こっちはこっちでよかった。ずっと奥までアジサイが群生している様子は表参道とは違った美しさがある。



明月院のアジサイブルー

 500円払って菖蒲園の方も入ったりして、結局ここで1時間近くを過ごした。アジサイを思う存分見て、撮って、おなかいっぱい。目を閉じるとブルーのアジサイが目に浮かぶくらい見た。
 ここはもうさすがと言うしかない。まいりましたと。アジサイというと何十種類、何百種類、色とりどりのアジサイが咲き誇るといった宣伝文句が多い中、ブルーにこだわって統一させたのは正解だった。アジサイは日本全国どこででも見られるけど、明月院ブルーは明月院でしか見ることができない。日本中から大勢の人が混雑すると分かっていてもあえて出向いていく気持ちが理解できた。素晴らしいと言い切ってしまっても差し支えはないだろう。いいもの見せてもらった。
 もうしばらく見頃は続きそうだ。来週末は少し遅いだろうか。ここでアジサイを見れば、たかがアジサイという侮りの気持ちが消える。されどアジサイ、天晴れ明月院ブルー。
 

6月の田んぼに母ケリの鳴き声が響いてヒナはエサ捕りに忙しい

野鳥(Wild bird)
田んぼのケリ-1

 ただいまです。東京・鎌倉行きから無事戻りました。
 行く前に並べようと思っていたケリの写真を今ここで。

田んぼのケリ-2

 留鳥であるケリが初夏の田んぼで目立つのは、今が子育ての時期だから。生まれたばかりのヒナを守るために、母親も父親も警戒中。

田んぼのケリ-3

 ヒナ発見。まだ生まれてひと月も経ってないチビだ。ケリは生まれてすぐに自力でエサを捕り始める。親はあたりに目を配って外敵からヒナを守る。子供はエサ捕りに夢中だ。

田んぼのケリ-4

 地面にいるときのケリはドバトのように地味だけど、飛翔姿はカモメのように美しい。
 写真はちょっとピンぼけ。けっこう飛ぶスピードが速いから望遠レンズで捉えるのは難しい。

田んぼのケリ-5

 飛ぶ姿の正面から。
 ケリ撮りは飛びものの撮影練習に向いている。そこそこ体が大きくて、それなりにスピードが速くて、割とひんぱんに飛んでくれる。飛んでる姿もきれいだから、上手く撮れると嬉しい。

田んぼのケリ-6

 歩き姿のケリもハトとは違う美しさ。足が長くて背が高い。こういう姿を見ると、やっぱりチドリなんだなと思う。歩く足取りはしっかりしていて、千鳥足なんかじゃない。

田んぼのケリ-7

 このときはまわりに2羽のチビがいた。ちょこまかと動き回ってエサを捕っている間、お母さんはキョロキョロして忙しい。ケリは集団防衛をする鳥で、外敵が近づくと父親や他のケリも飛んできて、ケケケケケとけたたましく鳴いて敵を威嚇する。その泣き声からケリと名づけられた。

田んぼのケリ-8

 いい被写体になってくれたケリの親子も、犬を連れた散歩の人に恐れをなして離れたところに飛んでいってしまった。また練習台になっておくれよ。
 この時期、田植えの終わった田んぼでケケケケケケという声が聞こえたら、きっとケリの親子がいます。ちょっと目をこらして見てみてください。あまり近づいてお母さんに怒られないように。

週末留守します

野鳥(Wild bird)
ケリ親子

 ちょっと鎌倉へ行ってきます。土日は留守にするので更新はお休みです。月曜日に戻ってきます。

日比谷公園は都心の一等地に空いた何もない贅沢空間

東京(Tokyo)
日比谷公園-1

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 東京の公園はテレビや活字などでよく目にしたり耳にしたりしてちょっと知ってるような気でいるけど、よくよく考えてみると実はあんまり知らないことに気づく。東京観光といっても特に目的もなく東京の公園に行くという人は少ないだろう。たとえば都民以外で日比谷公園と代々木公園の区別がはっきりついている人がどれくらいいるだろう。私はどちらの公園もどこにあるのかさえよく分かっていなかった。
 というわけで、5月の休日に二つまとめて行ってきた。同じ日に一気に行けばそれぞれの違いや特徴もはっきりするんじゃないかと思って。今日はまず日比谷公園から紹介しようと思う。皇居近くの千代田区にある方だ。
 日比谷という地名は、かつてここが江戸湾の日比谷潟という入江だったところからつけられた。現在の地図を見るとちょっと信じられないけど、江戸時代まではこの先はすぐに江戸湾だった。江戸城も海に近い入江のほとりに築かれた城だったのだ。
 幕末までは長州や佐賀藩などの大名屋敷が集まっていて、明治になると陸軍の練兵場として整備されて使われるようになった。明治20年代になるとここを官庁街にしようという計画が持ち上がった。しかし、埋め立て地ということで地盤が弱くてビル街には不向きと分かり、しょうがいないから公園にでもするかといって作られたのが日比谷公園だ。こうして明治36年(1903年)に、日本初のドイツ式洋風近代式公園として代々木公園は誕生したのだった。

 総面積は、約16万平方メートル。樹木は全部で300種類近くが植えられているという。花壇には一年を通じて多くの花が咲き誇って公園を彩る。
 公園の設計は、林学博士の本多静六。どんな公園にするのかさんざん議論が重ねられ(東京駅を設計した辰野金吾の案は蹴られている)、予定は変わり、最終的には洋式といいながら中途半端に和洋折衷の公園となった。それでも、明治の時代にこんな近代的な公園を日本人は見たことがなかった。開園後もこの公園を巡って、東京市議会などでも、どうして門がないんだとか、池に身投げされたらどうするんだとか、花を盗まれるぞとか、非難や文句が飛び交ったのだとか。本多静六にしても外国で買ってきた公園設計書を見ながら見よう見まねで設計してるから、これで本当によかったのかどうか確信が持てなかったかもしれない。それでも少しずつ日比谷公園は市民に受け入れられ、東京都のセントラルパークと呼ばれるまでになっていった。平成15年には開園100周年を記念して多くのイベントが行われた。

日比谷公園-2

 公園内には大小二つの音楽堂がある。写真は小音楽堂の方だ。大正12年(1923年)に現在大音楽堂が建っているところに建てられのが、日本で最初の音楽堂だった。しかしこの年の関東大震災で倒壊。今ある場所に再築された。
 こちらは無料のステージのみで、商業用のライブなどは行われていない。消防隊の音楽隊とか、かつては軍隊の楽隊などがここで演奏したそうだ。
 この日も何か音楽イベントがあったようで、大きな太鼓などをセットしてドンドン叩いていた。

日比谷公園-3

 大噴水の反対側に回った風景。ビル街や日比谷公会堂などが見えている。隣には都立日比谷図書館もある。この図書館も明治41(1908年)と歴史がある。
 それにしても都心の一等地にこの広さの公園というのは贅沢だ。噴水のまわりだけでもこんなにも無駄な空間がある。東京という街は建物も人も道路も全部がギュッと凝縮してるようなイメージがあるけど、実際は土地自体が思っている以上に大きくてスペースに余裕がある。大都会東京は、ビルが高いというだけでなく横にも広くて大きいのだ。それが実感として分かるようになってきた。だから東京の人間はよく歩く。駅から駅へと、駅から目的地へと、田舎に住んでる人間よりよほど歩く。名古屋でいうと、栄から名駅までなんで名古屋人は絶対に歩かないけど、東京人はそれくらいの距離は平気で歩く。東京に住んでいると東京の広さに感覚が麻痺していくのだろう。名古屋人は家の3軒隣のコンビニへ行くのでも車で行く。

日比谷公園-4

 芝生広場と、正面に見えている茶色いのが日比谷公会堂だ。芝生の左には第一花壇がある。
 公会堂の完成は1929年(昭和4年)。かつてはオーケストラのコンサートなどが開かれていたけど、近年は専用のコンサートホールができて、ここではもっぱら講演会やイベントなどが行われている。
 沢木耕太郎が『テロルの決算』で書いた浅沼稲次郎暗殺事件は、この日比谷公会堂で起こった。

日比谷公園-5

 ここを表からだけでも見ておきたかった、日比谷野外音楽堂。いわゆる野音と呼ばれる大音楽堂で、あの日尾崎豊はライブ中に7メートルの高さの照明台から飛び降りて左足を骨折したのだった。1984年、デビューからまだ2年目。若かった。それでもスタッフに抱えられながら、「十七歳の地図」と「愛の消えた街」を歌いきった。同じ日に出演していた浜田省吾なんかはその姿を見てどう思ったんだろう。

日比谷公園-6

 有楽門の方にあるのが心字池で、霞門近くにあって鶴の噴水があるのが写真の雲形池だ。どちらもその形から名づけられている。
 鶴の噴水は東京美術学校の製作で(明治38年)、日本で三番目に古い噴水だそうだ(一番古いのが長崎の諏訪神社で、二番目が大阪の箕面公園)。翼を広げて、クチバシから水を吹きだしている。元々鉄製だった土台は戦時中に徴収されて現在はコンクリート製になっている。こんな土台まで持っていかないと武器弾薬が作れないようでは勝ち目がない。全国の学校にあった二宮金次郎蔵もみんな持っていかれた。お寺の鐘さえも。
 心字池の方には小さな亀の噴水がある。このあたりは洋式公園とは思えないような和風テイストだ。
 これ以外の施設としては、大正9年(1920年)に初めて公園の中に作られたテニスコートや、この前紹介した老舗洋食レストラン松本楼、児童遊園などがある。1910年(明治43年)に建てられたバンガロー風の建物は公園事務所となっていて、ここで結婚式を挙げることができるようになっている。鋳鉄製でできた古い水飲みは、かつて馬に水を飲ませるために作られたものだそうだ。
 平日は勤め人たちの憩いの場となり、週末は露天が出たりコンサートが開かれたりして観光客で賑わう。

日比谷公園-7

 明治45年に尾崎東京市長がワシントンのポトマック河畔に桜の木を贈った。そのお礼として大正4年に贈られてきたのがここに植わっているハナミズキの木だった。ハナミズキはアメリカ原産で、アメリカの国花でもある。
 花は4月から5月のはじめにかけてなので、残念ながら終わっていた。

 日比谷公園というのは地図で見て、中と周囲を歩いてみて、あらためてすごいロケーションのところにあるもんだと感心する。皇居の堀とは道一本隔てた向かいで、すぐ近くに桜田門があり、西へ行けば国会議事堂と霞ヶ関、北は丸の内で、東は銀座有楽町、南は新橋のオフィス街と、一等地の中心にぽっかり空いた穴のような公園だ。正門から道一本渡れば帝国ホテル、宝塚劇場、日生劇場、帝国劇場、映画館街があり、かつてGHQの本部だった第一生命ビルもある。ある意味では、日本一贅沢な場所にある公園と言ってもいいかもしれない。これも東京の余裕だろうか。
 特にすごく面白いものがあるというわけではない日比谷公園だけど、逆にこの場所にこの何もなさを味わいに行く場所なのだろう。都会の真ん中でぼぉーっとしていても不自然じゃない場所というのは貴重だ。平日の午後のけだるい感じがよさそうだ。東京もまだまだ平和だなと思えるに違いない。

明治神宮は人工の代々木の森に囲まれた神聖空間

東京(Tokyo)
明治神宮参道と鳥居




 JR山手線の原宿駅を降りてすぐ横に、広大な森が広がっている。明治神宮代々木公園からなる代々木の森だ。72ヘクタール、東京ドーム54個分というこの森は、植樹によって作られた人工の森だということを知っている人はあまり多くないかもしれない。
 かつてここは、徳川家康直系の家臣、彦根藩・井伊家の下屋敷が建つ場所だった。明治維新後に皇居の用地となったのちは、現在御苑がある部分以外は畑などがあるだけの荒れ地だったという。
 明治45年(1912年)に明治天皇、大正3年(1914年)に昭憲皇太后が亡くなると、国民から夫妻を祭る神社を造ろうではないかという話が持ち上がった。当時の総工費が520万円だったのに対して国民の献金が600万円も集まったというから、国民全体の気運は相当盛り上がっていたのだろう。場所はいくつか候補が挙がって、誘致合戦なども行われたようだ。
 最終的には、明治天皇が詠んだ「うつせみの 代々木の里はしづかにて 都のほかのここちこそすれ」という歌から、この代々木の地が選ばれた。天皇も昭憲皇太后もしばしばこの地を訪れて気に入っていたそうだ。
 神社の建設と同時に進められたのが森作りだった。昔から神様は森にすむとされて、まずは森ありきだったのだ。優しい森には神話が生きてると昔から相場が決まっている。でもここは森じゃない。だったら作ってしまえということで、大正4年から5年がかりで森にしたのだった。
 全国からのべ10万人の青年団がボランティアで活躍したそうだ。日本全国北から南から満州、台湾、朝鮮まで、うちの木を使ってくれと続々と木が持ち込まれ、その数は10万本、365種におよんだ。
 森の設計は林学の権威、本多静六の他大勢が関わり、100年後に自然の森として育つようにと、椎、樫、楠などの照葉樹を中心に植樹された。現在は種類こそ250種ほどに減ったものの、本数は17万本にまで増えて、立派な森となっている。まったく人工の森だとは思えない。知らない人が見たら、元々森があったところに神社を造ったのだと信じて疑わないだろう。林苑職員という人たちが20人ほどいて、森を管理している。
 大正9年に神社が完成したときには、イルミネーションや花火で大いに盛り上がって、その日だけで50万人の参拝者が訪れたという。今は言わずとしれた初詣の参拝者の数全国第一位の神社だ。もう30年近く不動の首位が続いている。正月三が日だけで350から400万人、年間で800万人が訪れるというからすごいものだ。



明治神宮参拝者

 参道の入口は、北と南と西の三ヶ所ある。どこから行っても中央に位置する本殿までは10分以上かかる。最寄り駅はJR山手線なら原宿駅となる。原宿駅は若者のために作られた駅ではなく、明治神宮のために作られた駅だった。
 私たちは北の代々木駅で降りて歩いた。こちらの方が遠いのだけど、人が少なくて静かな参道が気持ちいい。初詣客も9割は原宿方面から行くそうだ。
 木々のざわめきと鳥の声、玉砂利を踏む足音と神聖な空気。雰囲気重視なら北参道をおすすめしたい。神社に玉砂利が敷き詰められているのは、神聖な場所で清浄な石を踏むことで身を清めて魂を安らがせるという意味があるとされている。
 北参道と南参道がぶつかるところに大鳥居がある。日本人も外国人もみんなここで記念写真を撮っていく。高さ12メートル、幅17メートル、柱の太さ直径1.2メートル、重さ13トン。木造としては日本一の大きさをほこっている。
 初代は昭和41年の落雷で壊れてしまった。しかし、同じものを作れるほどの檜は日本にはもうない。そこで台湾まで探しにいって、ようやく3,300メートルの山奥で樹齢1,500年の巨木を見つけて、それを切り倒して日本まで持ってきて再建したのだった(その行為自体がちょっと罰当たりなんじゃないかと思わないでもないけど)。再建にこぎつけるまでに10年近くかかっている。



明治神宮代々木

 南参道の途中に「代々木」と書かれた木札があって、樅(モミ)の木が立っている。かつてこの場所が井伊藩の下屋敷だったときから樅の大木があって、枯れてもまた樅を植えたりして代々絶えることがなかったということから、この地が代々木と呼ばれるようになった。
 江戸時代には江戸を目指す旅人がこの代々木の大樅を目印にしたというほど立派な木だったようだ。この木の上に登ると江戸城の内部がまる見えになってしまうということで、幕府は一般人がこの木に登ることを禁止にしていたという逸話も残っている。ちょっと笑えるけど、当時は大真面目な話だったのだろう。



明治神宮楼門

 老若男女、国内外、各種取り混ぜて実に多種多様な人々の姿がそこにある。様々な国の外国人も目についた。参拝というよりも観光的な色合いが強いと思われる。
 建物自体は大正時代に建てられたものでもあり、主要なものは空襲で全部焼けてしまったので、これといった見どころはない。本殿は1958年、神楽殿は1993年築と新しい。明治神宮自体はとても有名な神社なのに、どんな神社なのかパッと映像が思い浮かばないのはそのためかもしれない。私も行ってみるまでさっぱり分からなかった。行ってみて、なるほどそういうことかと腑に落ちた。
 けど、森の空気感は大変素晴らしい。ここは神社に参拝するというよりも東京の森を味わいにいく場所と言えるかもしれない。



明治神宮拝殿前

 代々木駅から20分ほど歩いてようやく拝殿・本殿前に到着した。けっこう遠い。
 なかなか賑わっている。明治神宮、流行ってるなと思った。この日は休日だったこともあるのだろうけど、普段は修学旅行生なんかも訪れるのだろうか。



明治神宮-6


 本殿前の境内が広い。日本一の参拝客を迎えるためにはこれでも狭いくらいだろうか。
 背景に見えているのは高さ240メートルのNTTのドコモ代々木ビル。芝の増上寺と東京タワーほどではないにしても、これもまた21世紀の日本的な風景だ。これほど新旧の建物が互いに調和することなく共存している都市というのは他にはないんじゃないだろうか。統一感というものをまるで無視している。それをあっけらかんと受け入れてしまう日本人の感覚というのも嫌いじゃないけど。



明治神宮拝殿から本殿を見る

 明治神宮の祭神はもちろん明治天皇と昭憲皇太后だ。じゃあ、御利益ってなんだろうと考えて思いつかなかった。みんな毎年初詣に何をお願いしてるんだろう。
 公式サイトを見てみると、家内安全、学業成就など、と書かれている。なんだか漠然としてる。訪れてる人の多くは家内安全と学業成就をお願いに来てるとは思えないんだけど。お稲荷さんなら商売繁盛、菅原道真の天神さんなら学業向上、弁天さんなら芸事とか、そういう具体的な方向性はなさそうだ。日清・日露戦争を勝ち抜いたということで戦いの神というようなことにはなってない。
 明治という激動の時代を生き抜いて、日本を近代国家とするのに尽力したという意味では、国民が尊敬して敬うことは当然といえば当然だから、願い事を叶えてもらうというよりも、お礼参りと挨拶に伺うというのが明治神宮の参拝スタイルと言っていいかもしれない。
 明治天皇は、京都で生まれた京都の人だった。教科書の写真では軍服に軍刀で写っているからあのイメージがあるけど、普段は絹の白衣と緋色の袴姿だったそうだ。和歌をたしなみ、言葉も最後まで京言葉だったという。明治維新で東京に連れてこられてしまったけど、生涯心は京にあったのだろうか。遺言で死後は京都の伏見桃山御陵へと戻っていった。魂は明治神宮にあるのかどうか。



明治神宮結婚式

 この日は結婚式が行われていた。年間1,300組を超える挙式が行われるというから大人気だ。明治神宮会館は2,000人の収容能力があるというから、有名人の披露宴でも楽勝だ。実際、明治神宮で結婚式を挙げた芸能人も多い。

 明治神宮ってどんな神社なんだろうとずっと気になっていて、実際自分の目で確かめられてすっきりした。代々木公園と明治神宮の関係もよく分かってなかったけど、行ってみて理解した。最初に神宮外苑のイチョウ並木を見に行って、外苑と内苑はつながっているものと思ったら全然離れていて混乱したのだけど、そのあたりのつながりも分かった。少しずつ東京の地図が自分の中でできつつある。
 テレビの映像とか旅行ガイドや地図などを見てるだけでは分からないこともたくさんある。一度でも自分が行ってみれば、知識と体験の相乗作用で理解も深まる。下調べして、行ってみて、帰ってきて勉強して、このブログに書く、という一連の流れが私自身に多くを与えてくれている。
 明治神宮はとにかく森が素晴らしいので、東京を訪れた際はぜひ体感してみてほしいと思う。東京にもこんな深い森があったんだなぁと、明治神宮を後にしながらしみじみ感じ入って、もう一度後ろを振り返ってみた。前を向くとそこには原宿の街の喧噪があった。

【アクセス】
 ・JR山手線「原宿駅」から徒歩約2分。
 ・無料駐車場 あり
 ・拝観時間 朝~夕方(季節による変動あり)

 明治神宮webサイト
 

失敗をレンジのせいにするのは男らしくないけどやっぱりレンジのせいだった

食べ物(Food)
スポンジケーキ再チャレンジ-1

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/6s(絞り優先)



 15年以上のベテランとなったうちのオーブンレンジに故障疑惑が持ち上がり、新しく買い換える前に知り合いからオーブンレンジを借りてきた。重くてでっかくて、けっこう高級品っぽい。なかなかいい仕事をしそうだ。これで上手く焼ければうちのレンジがダメってことだし、これでも失敗すれば私がダメってことだ。分かりやすい。なんでもっと早くこの方法に気づかなかったんだろう。
 作り方はあえて前回と同じにした。やり方を変えてしまうと失敗の原因がどこにあったのか分からなくなってしまう。卵は全卵で、2個に対して小麦粉60g、砂糖60g、バター20gと、レシピ通りにした。牛乳は普段から使っていない。
 レンジに「ケーキボタン」があったから、今回はこれでやってみることにした。180度で40分のようだ。あらかじめ温めておいた方がいいのかどうか迷ったのだけど、一応170度まで上げておいた。ケーキボタンで焼く場合は余熱なしで焼くはずだけど、これも前回と条件を合わせるということで同じようにしておいた。
 ターンテーブルが回らず角皿に載せて焼くタイプだ。回るタイプとどっちがケーキ向きなんだろう。回るのと回らないのではずいぶん話が違ってくるような気もするんだけど。
 火力というか力は強い。開始から10分そこそこで膨らんできて、早くも表面に焦げ目がつき始めた。おいおい、早くないかい? そんなに最初から飛ばしちゃあとから持たないぞとなだめたくなる。レシピによってはアルミホイルを被せると書いてあるやつもある。ただ、15分以内に扉を開けるのはタブーだ。熱が逃げると膨らまなくなってしまう。とりあえず40分というんだから最後まで余計なことをせずに見守ることにした。
 その間に後かたづけをしたりテレビを観たりして、ふとレンジの中を見ると、うわー、陥没してるー。なんてこったー。下の写真の状態だ。

スポンジケーキ再チャレンジ-2

 完全にしぼんだ。プシューという音が聞こえてきそうなほど勢いよく沈み込んでいる。またもや地盤沈下スポンジケーキとなってしまった。一体どうしてこうなってしまうんだろう。ただ、前回と決定的に違うのは、しっかりと表面が焦げている点だ。うちのレンジの場合は、陥没しても尚半生状態で全然焼けてる感じがなかった。やっぱりあのレンジはどこかおかしいに違いない。
 それにしてもしっかり焼けてますね、きみ。東幹久並みに黒こげじゃあないか。けど、それでいいんだ、悪くないよ。今までになく焼けた実感があって、大失敗とは言えない手ごたえを感じた。同じ失敗でも悪い失敗じゃない。次につながる失敗だ。

スポンジケーキ再チャレンジ-3

 ひっくり返してみたところ、なかなかではないか。ちょっと焼きたての食パンみたいだけど、今までこんなきれいな焼け目がついたことがなかったから嬉しかった。失敗は失敗でも半生じゃない。今後に可能性を感じさせる失敗だ。どうやら本当にうちのレンジはオーブン機能がいかれていたらしい(レンジとしては普通に使えている)。1時間以上焼いても半生ってのはいくらなんでも変だ。泡立てとか粉の混ぜ方以前の問題だから。
 今回はあらかじめ温めた上でケーキボタンで焼いたのが失敗だった。ケーキボタンで焼くなら余熱なしでやらないといけないし、温度を上げておくなら温度設定と時間で焼く必要がある。早々に表面が焦げてしまったのは、180度というのが温度が高すぎたせいだろう。40分というのも長すぎる。160度くらいでゆっくり焼いた方が好結果につながりそうな気がする。
 その後ネットでスポンジケーキの失敗の要因を調べてみたところ、どうやら陥没は泡立てすぎが原因だったようだ。ハンドミキサーが楽チンだから、喜んで泡立てまくってしまってるのがいけないらしい。確かに型に流し込む段階でサラリではなくドロッとゆっくりしたたり落ちる感じで、これはちょっとやりすぎたなと思ったんだ。爪楊枝が立つくらいと書いてあるのに、箸が立ってビクともしないくらい固かった。泡立てすぎると生地の腰が弱くなってしまうんだそうだ。何事もほどほどがいいということか。あと、やっぱり手間を惜しまず、卵黄と卵白を分けて泡立てた方が上手くいくそうだ。湯せんもした方がいいのだろう。

スポンジケーキ再チャレンジ-4

 少し置いた後、待ちきれなくて切って食べてしまった。本当は一晩寝かせておいた方がしっとりするのだけど、久しぶりにまともに食べられるものが焼けて待ちきれなかったのだ。
 案の定、パサパサして焼きすぎなのが分かる。でも、しっかり焼けている喜びもあった。見た目からしてもスポンジケーキというよりパンっぽいけど、不味くはない。食感は固くなったカステラとスポンジケーキの間くらいだろうか。中がしっかり詰まってる感じがなくて、スカスカしてるから何にも似ていない不思議な食感だ。またもや初めてのケーキを口にすることになった。
 泡のキメも荒い。粉も混ざりきってなくて、一部白い部分が顔を出している。混ぜ方が足りなくて、しっかりと空気抜きが出来てなかったようだ。フワフワスポンジケーキにはまだまだほど遠い。
 とはいえ、光は見えた。ここ最近は作れば作るほど深い迷路に迷い込んでどうしていいのか分からなくなっていたけど、レンジがまずいけないというのが分かって、泡立て過ぎ、混ぜ足りない、焼きの温度が高すぎるなどの失敗原因が見えた。次にどうすればいいのかが分かれば、まだよくなる可能性があるということだ。近いうちにまた焼いてみよう。
 理想のスポンジケーキへの道のりは遠い。ときとき、自分は一体どこを目指しているんだと自問自答してしまうことはあるけど、そんな問いかけに答えている暇はないのだ。とにかく納得がいくまで焼き続けてみるしかない。思い描くスポンジケーキが焼けるようになったとき、私は別の人間となっているだろう。スポンジケーキが焼けない男からスポンジケーキが焼ける男に。

日比谷松本楼で食べたハイカラビーフカレーはノルタルジックな味がした

東京(Tokyo)
松本楼-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f9.0 1/100s(絞り優先)



 明治36年(1903年)、本多静六博士設計の元、日本初の洋式公園として日比谷公園が誕生した。そのとき同時に作られたのが、レストラン松本楼(まつもとろう)だった。オーナーは小坂梅吉。マンサード屋根の3階建ての洒落た店はたちまち評判となったという。当時、銀座あたりで着飾って遊んでいたモボやモガたちがこぞって訪れて、松本楼でカレーライスを食べてコーヒーを飲むのがハイカラとされたんだそうだ。モボやモガなんていっても今どきの人は分からないと思うけど、モダンボーイ、モダンガールの略だ。モダンという言葉自体使われなくなったけど。BGはいつからOLとなったんだっけ(BGはビジネスガールの略)。
 100年以上経った今も、松本楼は変わらず日比谷で営業を続けている。途中にいろいろなことがあっても存続することが大事だ。100年の歴史を持った洋食屋というのはそう多くはない。
 全国の100ヶ所選定された「恋人たちの聖地」でもある。非婚少子化対策は出会いの場作りからという趣旨で始まった恋人の聖地プロジェクトで、東京では最初にここ松本楼が選ばれた。どういう選定基準かよく分からないけど、レストランが「愛を誓いプロポーズをするのにふさわしい観光スポット」といわれもちょっと戸惑う。名物のカレーを食べながら、オレのためにカレーを作ってくれと言われても女の人は何のことだかピンと来ないだろう。夜明けのコーヒーを飲む時間には営業してないし。東京では他に六本木ヒルズ展望台とお台場ヴィーナスフォートが選ばれているけど、どちらもプロポーズの場所としてはどうなんだと思う。もっと他にもふさわしいところがたくさんあるだろうに。
 それはともかくとして松本楼だ。老舗洋食屋のカレーが食べたいということで、我々はやや及び腰でおっかなびっくり松本楼へ近づいていったのだった。

松本楼-2

 しかし、休みの日の昼下がりということで、入口からも待ち人があふれている状態に私たちは恐れをなした。大混雑。こりゃいけない。こんなに大人気だとは知らなかった。恐れ入りましたとばかりにすごすごと退散する我々。顔を洗って出直します。
 あとから知ったところによると、休みの日はいつもこんな調子なんだそうだ。平日は平日で付近の勤め人で行列ができるという。ランチタイムは予約ができないから、昼に食べたければ並ぶしかない。もしくは、少し時間をずらすか。

松本楼-3

 午後になって帰り際に様子を見にいったところ、行列は解消されていた。でも、店内に数人待ち人がいたので、やはりお昼時はどうしても並ばないといけないようだ。名古屋なんかでは昼に並んでまで食べるというのは考えられないのだけど、東京の人は並ぶのが当たり前となっていて、平気で並んでいる。人が多くて仕方がないとはいえ、その光景にはいつも感心する。
 1階がグリルになっていて、単品の洋食メニューなどはここで食べたり飲んだりする。外のオープンテラス席との行き来も自由なので、天気のいいときは外で緑に囲まれて食べると気持ちがよさそうだ。雅子さんも外務省勤めのときはここのテラスでハヤシライスなんかを食べていたんだとか。その頃のことを今では懐かしく思ってるだろうか。
 2階は宴会場と披露宴会場になっていて、3階は本格フランス料理の「ボア・ド・ブローニュ」になっている。こちらは高くて庶民向きではない。1階のグリルでも、3,500円からディナーコースがあるので、ちょっとした贅沢気分を味わうことができるから、中流階級はこちらだ。私もお金持ちになったら、3階の窓際の席でワイングラスをゆすりながら、テラスで庶民がカレーを食っているのとフッととか言いながら見下ろしてやろう。

 松本楼は老舗の洋食屋ということで、大勢の有名人も訪れている。たとえば中国革命の孫文などもそのひとりで、日本に亡命していたときにここを訪れていたというエピソードも残っている。奥さんの宋慶齢(そうけいれい)は、いわゆる「宋家の三姉妹」の次女で(妹は蒋介石夫人の宋美齢)、彼女の弾いていたピアノが1階のロビーに展示されていたりもする。これはヤマハピアノの第一号機で、現存する2台のうちの1台なんだそうだ。
 高村光太郎は『智恵子抄』の中で、「松本楼の庭前に氷菓を味へば 人はみな、いみじき事の噂に眉ひそめ かすかに耳なれたる鈴の音す」と書いた。
 夏目漱石の『野分』には「公園の真中の西洋料理屋」として登場してるし、太宰治の『善蔵を思う』でも「宴会の場所は、日比谷公園の中の、有名な西洋料理屋である。午後五時半と指定されていたのであるが、途中バスの聯絡が悪くて、私は六時すぎに到着した。」とある。
 みんな来てたんだねと思うと、初めて訪れたところなのにひどく懐かしいような気持ちになってくる。ああ、松本楼、と。

松本楼-4

 結局私たちは日を改めて夜に出直すことにしたの。ディナーでカレーを食べる客がいるのかどうか不安を感じつつ。
 夜は昼間の喧噪が嘘のように静かだった。逆にお客が少なすぎて及び腰になるほどに。店内は全部で5組くらいだっただろうか。たまたまこの日がそうだったのか、夜はこんなものなのだろうか。
 ビシッとしたウエイターさんに案内されて窓際の席についた。このあたりの立ち居振る舞いは、ちょっとしたレストラン並みだ。バイトの兄ちゃんとは違う。テラスにしようかと思ったのだけど、このときは肌寒かったのでやめておいた。震えながらカレーを食べるってのもなんだし、夜の公園を見ながらディナーってのもちょっと怖いような気もして。
 店内の雰囲気は決して堅苦しいものではなく、昔ながらの洋食屋さんという感じで、しばらくしたらすぐに馴染んだ。昔のデパートのレストランの高級版といったところだろうか。正装して構えて行くようなところではなくて安心した。
 メニューはいろいろと洋食が揃っていて迷うところではあるのだけど、初松本楼ということで基本に忠実にハイカラビーフカレーとハヤシライスを頼んだ。どちらも1,000円以内と、老舗洋食屋さんとしてはかなり安い。
 100周年を記念して期間限定でメニューに加わった、夏目漱石が愛したシャリピアン・ステーキや、智恵子と光太郎のアイスクリームはもう食べられないのだろうか。
 毎年9月25日の10円チャリティーカレーの日も有名だ。先着1,500名は10円でカレーが食べられるということで朝っぱらから大勢並ぶという。昭和46年(1971年)、沖縄返還協定反対の過激派グループが投げた火炎瓶で松本楼は全焼したことがあった。2年後の9月25日、全国の励ましにこたえて再オープンしたのを記念して、毎年10円カレーを続けているそうだ。売上げは寄付されるとか。

松本楼-5

 カレーはさすがに家庭のものとは全然違って、高級な味がした。といっても変に気取った味とはではなく、洋食屋さんらしいカレーで好感が持てる。辛さ控え目で、これなら子供でも大丈夫だ。かつてはハイカラだった味も、今ではノスタルジックな味となった。
 ハヤシライスも久しぶりに食べたけど、甘くて美味しかった。カレーもいいけどハヤシもね、というCMを思い出す。
 大食いの人はこれくらいじゃ物足りないだろうけど、私にはちょうどよかった。次はもうひとつの名物であるオムライスを食べてみよう。

松本楼-6

 夜の日比谷公園は思いのほか真っ暗で、かなり怖いところだった。昼間の賑わいが嘘のようにひとけがなくなって、都会の真ん中とは思えないくらい暗い。そんな闇の中で浮かび上がる松本楼は、不夜城という言葉を思わせるような存在感を示している。昔は何時まで営業していたのか知らないけど、公園の真ん中のレストランというシチュエーションは、考えてみると夜は怖いところだ。通りに面しているところなら車通りがあるし、路地でも街灯くらいはある。公園にはそれさえなくて、松本楼を訪れる以外には夜の日比谷公園には行きたくないと思った。暗さゆえに違う意味で訪れる人もきっと大勢いるんだろうけど。
 松本楼が恋人の聖地にふさわしいかどうかは別として、かなり気に入ったことは間違いない。もうおっかなびっくり行くことはない。次は昼に行って、テラス席でちょっと優雅なひとときを過ごしてみたい。平日の昼休みが終わった時間帯ならそれほど並ばずに入れるだろう。ランチも食べてみたいところだ。松本楼3階への道のりは遠くとも、いつかきっと行こう。毎月500円くらい松本楼貯金をして。

花が少なくなった初夏の海上の森には深い緑の大正池がある

森/山(Forest/Mountain)
初夏の海上の森-1

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm(f3.8-5.6), f8.0 1/50s(絞り優先)



 2ヶ月ぶりに訪れた海上の森は、すっかり夏の装になっていた。学生の制服が冬服から夏服に替わるみたいに劇的に。4月に行ったときはまだ少し桜も残っていて春のまっただ中だったけど、今はもう田植えも終わって梅雨前の穏やかな里山だった。
 それにしてもめっきり花が少なくなっていて寂しかった。もうそんな季節なんだとあらためて思い知る。夏鳥たちの声は聞こえても、生い茂る葉で姿は見えず。初夏の森は意外と撮るものが少ない。
 今回は海上の森の標準コースである四ツ沢から集落、大正池までをのんびり歩いた。駐車場から往復で1時間半コースだ。時間があれば湿地まで行きたかったのだけど、あちらを組み込むと2時間半コースになるのでやめておいた。物見山まで入れると時間以前に体力的な問題が出てくる。湿地から物見山へ行く場合は、赤池近くの入口近くに車をとめて歩いた方が無駄がなくて近い。

初夏の海上の森-2

 集落のあたりに少しアジサイがあって、そろそろ咲き始めていた。半ば野生化して西洋アジサイ。集落の誰かが植えたものだろう。日本原産のアジサイはガクアジサイだから。
 アジサイというと梅雨のイメージだけど、実際は梅雨入りよりも前に咲き始めて、のんきに構えていると見頃を逃してしまう。6月の半ばくらいには最盛期を迎えるから、私もぼやぼやしていられない。そろそろアジサイ巡りを始めなければ。
 今年は鎌倉一本勝負でいきたい。蒲郡の形原温泉はまた来年の課題としよう。桑名のなばなの里にも日本最大級のアジサイ園ができたけど、アジサイはやっぱりまわりの景色や咲いている場所と絡めてこそだ。植物園のようなところでいくらたくさん集めてもあまり魅力的ではない。激混みと分かっていてもみんな鎌倉へ行ってしまうのは、アジサイだけを見たいからではなくて、あのロケーションでアジサイを見たいからに違いない。坂の上から海をバックに満載のアジサイを見られる場所というのはごく限られている。

初夏の海上の森-3

 こちらはコアジサイ(小紫陽花)。ガクがないからガクアジサイの終わったやつみたいに見えるけど、これが普通の姿だ。関東から西のやや暗い湿ったところに自生している。東北の人には馴染みがないかもしれない。街中でも見かけないから、案外知られてないかもしれな。森や山を歩いているとわりと当たり前のようによく見かける。
 アジサイよりももっと繊細な感じで、なかなか悪くない。派手さはないけど、日本人好みだ。

初夏の海上の森-4

 初夏を代表する花のひとつ、ホタルブクロ。紫色のものもある。個人的には白の方が風情があって好きだ。
 海上の森でもホタルがたくさん舞うという話だ。けど、あんな森の中、日没後に行くのは危険すぎる。真の闇となって10センチ先も見えない。どうしても行きたければ満月の夜にした方がいいだろう。逆に言えば、街中で暮らしていると本当の暗闇ということがどういうことなのか分からないから、一度くらいは体験してみてもいいかもしれない。私は子供の頃田舎で経験した純暗闇の感覚を忘れていない。目を閉じているのとも違う、不思議な真っ黒さだ。見ようとして何も見えない恐怖は怖さを通り越して笑えてくる。
 森に入り込まなくても、森の周囲の民家がある田んぼにもたくさんいるそうだから、そっちで見るのも手だ。そろそろゲンジボタルもピークが近づいてるんじゃないだろうか。

初夏の海上の森-5

 野草がほとんど咲いていないこの時期にやっと見つけたのがこいつ、キキョウソウだった。本家のキキョウよりずっと小さいけど、花の色と形はよく似ている。小型のキキョウではヒナギキョウというのもあって、そちらは日本原産で茎の先に一つの花を咲かせる。ヒナギキョウは段々にいくつもの花をつける。別名をダンダンギキョウともいう。
 こんな小さくて可憐な花なのに原産は北アメリカ。いつの間にか日本にやってきて帰化してしまった。アメリカではこんなささいな花は大事にされなくて、大切にしてくれそうな日本に渡ってきたのかもしれない。道ばたに咲いてると目立たないけど、近づいてよく見てみると清楚な紫のきれいな花だと気づく。個人的にはヒナギキョウの方が好みなのだけど。

初夏の海上の森-6

 これは分からない。初めて見た。民家の庭と空き地の間に咲いていたから野草なのか園芸種なのかも判断できなかった。木なのか草なのかさえ。そもそもこれは花なんだろうか。パッと見た感じはいいなと思って目を惹いた。

初夏の海上の森-7

 雑草の中の雑草としてほとんど人にかえりみられることなく咲いてる草がたくさんある。野草好きでも名前を気にしないような草が。それでも全部ちゃんと名前を持っていて、その存在はこの世界で認識されている。私たちが知らないだけで。
 これはなんだろう。こういうやつは驚くほど種類がたくさんあって見分けるのが難しい。なんとかガヤとかガリヤスとかそんなような名前のついたイネ科の植物だとは思う。イネ科の草は世界で1万種もあるそうだ。
 夕方の柔らかい日差しに染められながら風に吹かれていたので、絞り開放で一枚。

初夏の海上の森-8

 夏の大正池は、緑が深くて素晴らしく幻想的だ。冬場は水が抜かれてしまうただのため池なのに、この時期だけは美しい緑色になる。どういう作用でそうなるのだろう。水平から見るとこんな色には見えなくて、上から見下ろすとこう見える。深くてきれいな川だけが持つこの緑色をなんと名づけよう。これを見るためだけでも夏の海上の森を訪れる価値があるというものだ。

初夏の海上の森-9

 海上の森にも日没が近づいた。この日は雲が多くて夕焼けは期待できそうになかったので、ここで切り上げることにした。この場所から見る夕焼けがいいのは秋だ。夏はあまりきれいに染まらない。赤く染まった空と大正池を撮りたいとずっと思っているけど、いまだに念願は叶わない。今年の秋こそ見られるだろうか。

 花の少なくなった今の時期の海上の森は、あまりおすすめできない。何度も行ってる人はいいけど、初めて行くには適してない。なんだこんな退屈な森なんだという悪い第一印象になってしまう可能性があるから。一番いいのは春で、次が秋だ。秋になって涼しくなると野草も戻ってきて、山の紅葉も見ることができる。田んぼの稲穂とコスモスの取り合わせも田舎風情があっていい。運がいいと夕焼けも見られるだろう。真夏はベテランさん以外は避けた方がいいと思う。とにかく激しいクモの巣攻撃に晒されて気が滅入るから。言うまでもなく、デートで行くところではない。
 私は次は夏の終わりあたりに行こうかと思っている。ひぐらしが鳴く頃の海上の森もちょっとけだるくて素敵なのだ。夏休みの終わりが近づいた夕暮れどきのような気分になる。
 最初は相性の悪さを感じてなんとなくしっくりいっていなかった海上の森も、10回以上通うようになってからはすっかり打ち解けておなじみさんとなった。まだ親友とまでは言えないけど、顔見知りよりは近しい関係だ。今後も仲を深めていきたい。
 そんな初夏の海上の森であった。

凝った料理は作れるくせに普通のスポンジケーキが焼けない男

食べ物(Food)
今日のサンデー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/50s(絞り優先)



 今日のサンデー料理は、パッと思いついたものを軽くササッと作るつもりで始めたら、意外にも手こずっててんてこ舞いになってしまった。こっちで揚げ物をしつつ、あっちで煮込んで、レンジで温めて、ソースを混ぜて、揚げあがったものを取りだして、焼きを始めて、わー、煮込みすぎたー、と大慌て。完成した3品を見て、こりゃあ時間がかかるはずだと気づいた。全然簡単メニューじゃない。最近の私は自分の料理能力に対して過信しすぎているところがある。まだまだバンビーノのくせに。

「ジャガイモとベーコンのクリームソスがけ」(右手前)
 ジャガイモをスライスしてラップにくるんでレンジで5分加熱。ジャガイモ、ベーコン、アスパラをバターで炒める。白ワインを振って、塩、コショウで味付けして、重ねた上にとろけるチーズを乗せて、フタを被せてしばらく蒸し焼きにする。
 いつものようにレンジで作ったホワイトソースをかけて完成だ。

「豆腐の岩石揚げ辛子マヨネーズがけ」(左手前)
 木綿豆腐をキッチンペーパーでくるんでレンジで加熱して水分を飛ばす。ボウルに入れて適当に砕いて、ツナ缶、刻みタマネギ、えのき、カタクリ粉、卵、塩、コショウ、小さなサイコロ切りにした食パンの耳を混ぜ合わせて揚げる。
 ソースは、マヨネーズ、辛子、しょう油、レモン汁、一味、塩、黒コショウを混ぜたもの。

「つみれと野菜の洋風スープ」(右奥)
 白身魚を刻んで叩く。長ネギの刻み、カタクリ粉、酒、しょう油、塩、コショウを加えて混ぜる。よくこねて団子状にする。
 その前にニンジンとダイコン、鶏肉をよく茹でておく。そこへつみれを投入して、しばらく煮込む。
 味付けはコンソメの素と、カレー粉、塩、コショウ。

 味の方は大きな波乱もなく美味しく食べられた。文句はない。ただ、安心感のある料理ではあるけど、面白みがない。趣味なんだからもっと弾けようよと自分でも思う。これじゃあちょっと手の込んだ日常料理じゃないかと。普通に美味しければいいってもんじゃない。目で見て、食べて、小さな驚きもないような料理では趣味とは言えない。
 最近サンデー料理が停滞気味だ。冒険心をなくしている。もっとレパートリーを広げていかないと、現状を打破できない。意外と中華をあまり作ってないから、少し中華方向でいってみてもいいかもしれない。横浜中華街のガイド本を見ていて中華の広がりというのにあらためて驚かされた。よし、次回は中華にするヨ。チュウコク三千年の歴史アルね。どっかでツバメの巣でも取ってくるか、そのへんにいいダックが歩いてないか。手打ちラーメンってのもやってみたい気がするし、なんだか考えたら楽しくなってきた。中華街ガイドを見て、想像で作ってみよう。空想中華の旅は私をどこへいざなってくれるだろう。

和風麻婆丼

 こちらは少し前に作った、和風麻婆丼。あさばばあどん、ではない。マーボー丼だ。「まーぼーどん」で変換すると麻婆丼になるのがちょっと嬉しくて漢字で書いてみた。
 いつもよくやる崩し豆腐料理をご飯の上に乗せたらどうなんだろうと思ってやってみた。結果から言うと、不味くないけど親子丼は超えてない。普通に親子丼にした方が美味しい。
 作り方はこうだ。絹ごし豆腐の水分を飛ばす。めんつゆ、しょう油、酒、みりん、砂糖で、タマネギと鶏肉を煮る。そこへ適当な大きさに砕いた豆腐を入れて、溶き卵を流し入れて、フタをしてしばらく蒸らす。
 それとは別にツナ缶でそぼろを作る。ツナ缶をしょう油、酒、みりん、砂糖で炒める。ご飯の上に和風麻婆を乗せて、ツナ缶そぼろをかけて、青のりとかつおぶしをたっぷりまぶせば出来上がり。冷凍食品のエビがあったからこれも乗せてみた。
 ひとつ失敗だったのは、ツナ缶の味が強すぎた点だ。これを白身魚で作っていればもう少しクセのない味になっていたはず。和風麻婆自体は安定感のある味なので問題はない。いずれにしても、この丼はもう少し改良の余地がある。定番となるには何かが足りない。

手作りケーキ失敗コレクション

 メインディッシュのあとは、やはりデザートだ。私の手作りケーキですよ、さあ召し上がれ。
 って、なんじゃこりゃー。決して食べ散らかしではない。これが完成品だ。一体何がどうなってしまったのか。ケーキを作れば作るほど下手になる私。昔の方がもう少し普通っぽいものが作れていたのに、ここ最近は自分でも驚くほどの激しい失敗が続いている。レシピも勉強し直して、ハンドミキサーも買った。分量もはかりで量ってるし、焼き温度や時間もいろいろ変えて試している。なのに、失敗に次ぐ失敗。もはや失敗ケーキコレクションともいえるほどに作るほどにあらたな失敗作を生み出していく。こりゃまいったね。
 今回の失敗は、床上浸水の水が引いたあとみたいになった。横の部分を見てもらえれば分かるように、ここまで水位がありましたという痕跡が残っている。いったんはぷくーっと膨らんで、何らかの原因でぷしゅーとへこんでしまったらしい。分量も当初から比べて4分の1くらいに減ってしまっている。自分でも無意識のうちに食べてしまったのだろうかと思うほど。
 温度と時間は今回、170度で1時間焼いてみた。これは明らかに長すぎなのだけど、前回は30分で短すぎたのであえて長くしてみたのだ。けど、パリパリとかではなく、ぐちゃぐちゃして半焼けの半生なのだ。オーブンレンジが壊れたのか? もう15年くらい前のやつだから。
 それにしてもこういう失敗はあまりないんじゃないかと思う。失敗例にも載っていない。黄色すぎるのは卵が熱を持ちすぎてしまったせいだろうか。けど、いくら焼き時間が長すぎたとはいえ、こういうふうにしぼんだりはしないと思う。何かもっと根本的な敗因があるに違いない。混ぜ方なのか、混ぜる回数なのか、粉の混ぜ加減なのか。
 とにかくもっと回数を重ねて失敗の原因を自ら突き止めなければならない。失敗の要因はいろいろあって一概には言えないから。フワフワのスポンジケーキが焼けるようになる日が来ることを信じて。
 失敗のケーキは返ってきたテストが思ったより点数が低かったときの気持ちに似ている。なんでなんだと認めたくないあの感じ。70点くらいあるだろうと思ったら38点とかだったときくらいのショックだ。ケーキの出来自体は10点くらいだけど。
 ケーキ作りの自分の才能のなさが怖い。でも、こんなところで挫けてはいられない。こうなったら毎日でも焼くくらいの意気込みが必要かもしれない。思い切ってオーブンレンジの買い換えも考えてみよう。
 コンビニで買った安いケーキをひとくち、ふたくち食べて、なんでこんなに上手く焼けるんだろうと感心しながらしげしげと眺めている私なのです。

多治見の永保寺へ行って室町時代の勉強をするの巻

神社仏閣(Shrines and temples)
永保寺-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/30s(絞り優先)



 岐阜県多治見市と聞いて何か具体的なイメージを持っている人はあまり多くないと思う。日本地図を見て正確な場所を指し示すことができるのは、日本人の中でも1パーセントいないかもしれない。美濃焼の産地として認識している人がある程度はいるだろうか。岐阜県の南、愛知県の北東部と接していて、名古屋のベッドダウン的な街でもある。
 そんな地味な多治見にも自慢できるものが二つある。多治見修道院と永保寺だ。この二つを誰に自慢すればいいのかはやや頭を悩ませるところだけど、その筋の人にはどうだすごいだろうと威張ってみると、まあ確かにちょっとすごいかもしれないねと答えてくれるに違いない。少なくとも私は、この二つがなければ多治見という街を一生意識することなく終わったと思う。
 今回はツレを案内するために二つ一緒に回ってきた。どうだすごいだろうと自慢したりはしなかったけど、けっこう喜んでくれていたような気がする。気のせいじゃないといいな。
 永保寺も修道院も、このブログで一度紹介している。そのときに書くべきことはだいたい書いてしまったから、今日は少し角度を変えて室町時代について書いてみたいと思う。いきなり室町時代ってどこから出てきたんだと思うかもしれないけど、ただのこじつけだ。単に私が室町時代についてよく分かってなかったから勉強してみたくなって、それを書いてまとめることで頭の中を整理したかっただけだ。できるだけ簡潔にかみ砕いて書くので、ちょっとだけおつき合いください。

永保寺-3

 永保寺にある二つの国宝のうちの一つ、開山堂。夢窓国師を弔うために室町幕府初代将軍、足利尊氏が寄進して建てたものだ。そう、ここで室町時代と話がつながる。
 足利尊氏は師匠でありお友達でもある夢窓疎石とコンビを組んで、全国にたくさんのお寺を建てた。後醍醐天皇を弔うために建てた京都の天龍寺は有名だし、夢窓疎石を開山として建立した等持院は足利家の菩提寺となっている。その他、全国66国2島に安国寺利生塔を建てるという計画を立てて、かなり実現させた。室町幕府滅亡後は衰退して姿を消したものもあるものの、今でも全国に多くの安国寺が残っている。
 そんな尊氏が寄進した開山堂は、のちの神社建築(権現造)の原型になったものとされて国宝に指定されている。中には夢窓国師(開祖)と仏徳禅師(開山)の像が安置されているそうだ。年に一度(3月15日?)一般公開されるらしい。普段は柵の外から離れて見るしかない。

 さて、足利尊氏と室町時代だ。この時代は個人的に興味がなくて、学校の勉強も聞き流していたし、本も読んでない。テレビの時代劇の素材になることも少ないから、私同様あまりよく分かってない人も多いんじゃないだろうか。鎌倉時代と戦国時代のはざかい期のような感じで、時代としても地味だし、室町時代には日本人なら誰もが知っているようなヒーローもいない。戦国時代を別とすれば。一休さんはいるけど、あれはアニメの作り話だ。
 けど、何もない平和な時代だったわけでは決してなく、いろんなことが起こっている。なにしろなんだかんだで230年も続いているのだ、何もなかったはずがない。
 室町時代が決定的に分かりづらいのは、政治的にというか体制的にというか、いろんなところで二重構造になっている点だ。前期は南北朝時代があって、後期は戦国時代とだぶっていたりする。南北朝時代と区別するために足利時代といったり、後期は安土桃山時代といったりするのでますます混乱してしまう。どこからどこまでが室町時代なのかというのも人によって意見が分かれていてはっきりしないのだ。こんなにややこしいことになっている時代は日本史の中でここしかない。なのにあまり面白みがないのでみんな興味を持てなくて、曖昧なまま大人になってそのままになってしまうのだろう。
 というわけで、ここはひとつ、大まかな流れをもう一度おさらいして整理しておく必要がある。学生時代は分からなくても大人になれば理解できるようになることもある。歴史なども昔は暗記科目と思っていたけど、そうじゃなかった。歴史は連続する時間の上で展開される人間ドラマだ。栄華盛衰の流れを掴めば理解は難しくない。もう年代なんて覚えなくてもいいのだから気楽なものだ。

 鎌倉時代については、以前の鎌倉紀行のところである程度書いた。源頼朝が平家を破って、史上初めて武士による政権を樹立したことで日本の歴史は大きく流れを変えることになった。ただし、ここでも京都の朝廷と鎌倉の幕府という二元構造という無理のある政権構造となったため、鎌倉幕府は最初から大きな問題を抱えていた。結局はそのことで鎌倉幕府は倒されることになる。
 時は流れて鎌倉幕府は徐々に力を失っていき、地方でも不満が大きくなっていった。そこに目をつけたのが後醍醐天皇だ。今なら幕府を倒して再び天皇中心の世の中に戻せると踏んで、各地の武士に呼びかけて武力で幕府を倒しにかかった。それに応えたのが楠木正成であり、足利尊氏であり、新田義貞たちだった。1333年、鎌倉幕府は終わった。
 後醍醐天皇は狙い通りに事が運んで大満足。年号を建武と改めて天皇中心の政治を始める。いわゆる建武の新政というやつだ。しかし、この政治は駄目だった。政策は失敗に継ぐ失敗を繰り返して、世の中はますます混乱して、前より悪くなったしまった。恩賞を充分にもらえなかった武士たちの不満もますます高まる。
 ここで挙兵したのが足利尊氏だ。後醍醐天皇を追い払って、京都で新しい天皇として光明天皇を立てて、自分は征夷大将軍となって将軍様となった。こんないきさつがあったから、のちの時代では長く逆賊とされてきた。明治から第二次大戦後までは尊氏は悪者扱いだった。
 後醍醐天皇が見た夢はわずか2年。それでも奈良の吉野に逃げ込んで、そこで自分こそ正当な朝廷だと言い張った。こうして北の京都による北朝と、南の奈良による南朝の二つの政府がある南北朝時代というのが始まることになる。日本の歴史の上では、北朝の足利尊氏がニセモノで、南朝の後醍醐天皇の方を正当として、割と最近まで足利家三代将軍までを正式の将軍とは認めていなかった。私たちの世代が学校で習ったのとはずいぶん違っている。
 結局南北朝時代は約60年に渡って小競り合いをしながら続いて、ようやく南北が統一されたのが三代将軍足利義満のときだった。金閣寺を建てたあの将軍だ。この時代が室町時代で一番の全盛期だった。将軍家に権力があり威光があり金もあった。義満は政治家としては非常に実力のある人物だった。その黒い人間性は決して尊敬できるものではないけれど。自分に逆らうものは徹底的につぶし、陰謀を巡らせ、家来の奥さんや娘は手当たり次第に差し出させ、しまいには天皇にさえなろうとした。あまりにも好き放題したから最後は暗殺されたという噂もある。
 強いリーダーのあとは反動も出るわけで、4代将軍の義持は父親の無茶を改めて保守的な政治をしてなんとか保っていたものの、次からがいけなかった。将軍職をゆずった息子の5代義量は早死にしてしまい、義持自身も後継者を決めないまま死んでしまった。次の将軍は誰にするんだとなって、あろうことかくじ引きになってしまったのだ。そんなアホなと思うけど、これが大真面目な話で、石清水八幡宮で行われたくじ引きの結果、3代将軍義満の3男の義教が選ばれた。義教は気の毒にも「籤引き将軍」呼ばわりされることになる。

 ここからあとは幕府の力は衰える一方で、各地でのもめ事や争いもますます激しくなっていく。
 この頃の幕府体制は、基本的に鎌倉時代と変わらず、幕府から任命された各地の守護大名が自分の地方を治めるという形を取っていた。幕府の直属支配ではなく。それが幕府の勢力が弱まるにつれてだんだん力を強めて独自の支配力を持つようになっていった。締め付けられた農民や民衆はたまらず一揆を起こす。中には守護大名を打ち破って自らが大名に取って代わるものも現れた。いわゆる下克上というやつだ。これがのちの戦国大名となっていく。歴史はここにつながっていったのか。
 6代将軍義教の死後、有力守護大名の細川氏と山名氏がぶつかった。7代のあとの8代将軍を誰にするかでもめて、これが応仁の乱へと発展する。多くの守護大名を巻き込んで戦乱は11年も続くことになる。戦国時代の始まりだ。室町時代の後半100年は戦国の世の中だった。
 この先についてはみんなよく知っている時代になる。織田信長の台頭と天下統一の野望、豊臣秀吉による実質的な全国制覇と、徳川家康による江戸幕府と続いていく。

 室町時代はいつ始まっていつ終わったのかという問題が一つある。始まりは、足利尊氏が幕府の方針とした建武式目発表の1336年とするか、光明天皇によって征夷大将軍に任命された1338年とするか。
 終わりは、織田信長によって15代将軍足利義昭が京都から追放された1573年とするか、義昭自らが将軍職を辞任した1588年とするか。ちょっと不思議なのは、京都から追われた将軍義昭は信長にも秀吉にもそのまま放置されたという点だ。義昭は外野で信長に野次を飛ばしたり、反信長派の大名に信長追討を呼びかけたりしているのに、信長は何もしていない。無力だから捨て置いていたのか、将軍に対する一定の敬意を払っていたのか。秀吉も義昭を将軍として扱っている。当時は今が何時代という区分はなかったから不自然なことでもないのかもしれないけど、幕府はないのに将軍だけいるというのもちょっとおかしな話だとは思う。
 戦国時代から振り返ってみれば、後醍醐天皇の見た夢も、足利尊氏の目指したものも、遠い昔の出来事となった。思えば、江戸時代まで日本は一度も統一されたことがなかった。鎌倉幕府も室町幕府も、不完全な支配だった。朝廷と幕府の二元構造もとても不安定で無理がある。徳川家康という人物の偉大さとしたたかさをあらためて思い知る。

 室町時代のおさらいはどうだったでしょう。個人的にはなるほどそういう流れだったんだねと、今になってようやく理解できたのだった。鎌倉から戦国時代までが自分の中で空白に近かったものが、一本の線としてつながった。
 この調子で日本史をもう一度勉強し直してみたくなった。次は京都の平安時代と、奈良の奈良時代を総復習だ。聖徳太子までさかのぼることができたら、ほぼ日本史は掴んだことになる。近代としては大正時代が意外と分かってるようで分かってないから、そのあたりもいずれ調べて書いてみよう。
 歴史シリーズは長くなるから書くのも読むのも大変だけど、今後とも続いていく予定なので、よかったらさらっとでも流し読んでみてください。勉強って大人になってからするとけっこう楽しい。今の精神性なら学校の授業さえ楽しめそうだ。教科書なんて一週間もあれば読破できる。逆に言えば学生時代の自分ってバカだったなぁとしみじみ思うのだった。

初めて作った招き猫土鈴は地蔵猫となって笑いという福をもたらす

室内(Room)
猫土鈴-1

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/20s(絞り優先)



 少し前に瀬戸の窯垣の小径ギャラリーで、招き猫の土鈴(どれい)を作ったという話を書いた。それが焼き上がったという連絡を受けて取りに行ってきた。それがこいつだ。自分で作っておきながら、見るたびに笑える。おまえは誰だ、と思う。土をこねればこねるほどに猫から遠ざかって別の生き物になっていくのをどうすることもできずにこんなことになってしまった。ちょっとネズミの血が入ってるような気もするんだけど、猫以外の何かかといえば、やっぱり一応は猫の範ちゅうに入ることになるだろう。でも、どこか猫じゃない。おまえは一体何者なんだ!?
 去年、もらった義理チョコを溶かして固めてチョコ招き猫を作ったのを覚えている人もいるかもしれない。あれと比べたらだいぶ進歩してるし、猫らしくもなっている。このまま招き猫制作を続ければ、いつか私も猫らしい猫が作れるようになるだろうか。
 しかし、猫を毎日見てるわりにはいざ猫を作ろうとするとどこがどうなってるか分からないものだ。鼻のまわりとか、ヒゲの位置とか、耳の形とか、正確に思い浮かべることができない。今回作った招き猫の一番の問題点は、耳だった。帰ってきてからアイの耳を見たらこんなふうではなかった。もっと頭の後方にあって、後頭部から真っ直ぐ伸びている。耳だけびよ~んと取ってつけたようについてはいない。頭と一体化している。
 こいつ自身はちっとも猫らしくないくせに、いたってのんきな顔で微笑んでいる。これでいいんじゃよと言わんばかりに。右手は福を招いているというよりも挨拶で手をあげただけみたいだ。

猫土鈴-2

 猫土鈴を作ったのは4月15日だった。たまたま窯垣の小径をツレと訪れた日に陶祖まつりが行われていて、窯垣の小径ギャラリーを通りかかったとき、「土鈴作り体験500円」という貼り紙があるのを見つけて、やらせてもらうことにしたのだった。あとになってみると、これはとても素敵な偶然だった。事前にこんな情報はまったく知らなかった。代金500円という格安さに惹かれたというのもある。
 土鈴作りなどもちろん初めてで、土鈴なんて言葉さえ知らなかった。その存在さえも。なので、作家さんに一から教えてもらって、結局1時間ちょっとかかった。でもこれがすごく面白かった。学校で好きだった美術や図工の時間を思い出して楽しかった。久しく自分ではそんなことをやっていなかったことに気づく。最初は軽い気持ちで始めたものが、最後は思わず熱くなって夢中になって作っていた私であった。

猫土鈴-3

 ギャラリーの中では、作家さんたちの作品が展示されていて、気に入ったものがあれば買うこともできる。手前の動物たちが教えてもらった作家さんの作品で、その他普通の陶器や小物類などを作っている人もいる。
 ギャラリーの開催は不定期で、今回の展示はすでに終了してしまった。次回の予定はよく分からない。
 窯垣の小径ギャラリー自体は基本的に毎日開いていて(不定休)、確かカフェのようになっていたと思う(不確か)。

 土鈴というのは私同様、知らなかったという人も多いんじゃないかと思う。けど、世の中には土鈴好きな人がたくさんいるようで、ものすごくいっぱい集めている愛好家とかもいるらしい。何百個も持っている人とか。岐阜県の郡上市には「日本土鈴館」なるものまであって、館長が集めた全国各地の土鈴1万6,000点が展示されているんだとか。同じような規模の「志摩・鈴ミュージアム」というのも三重県にある。私たちの知らないところで、世界は土鈴に満ちていたのだ。
 土鈴の歴史は古く、縄文時代にまでさかのぼるという。縄文人たちも土器を作るついでに土の鈴を作って遊んでいたのだ。遊びや趣味というだけではなく、祭礼にも使われたといわれている。鈴の音で悪魔を祓い、幸運を呼び寄せると昔の人たちは考 えていたらしい。奈良時代の遺跡などからもたくさん見つかっている。持ち歩いて熊除けなどにも使われていたらしい。
 そういうことから、神社仏閣のおみやげコーナーではたくさん土鈴が売られているんだそうだ。今まで気にしたことがなかったからまったく知らなかった。神社仏閣好きの私ともあろう者が不覚を取った。その他、観光地のみやげものや郷土玩具としてもたくさん作られている。
 振るとカランコロンと軽やかな音がする。風鈴よりももっと素朴で、日本人の遺伝子には懐かしく響く。鳴ってこその土鈴、鳴らなければただの陶器の置物。

猫土鈴-4

 これが制作風景だ。このときはまだちょっと大きい。焼くと縮んで小さくなる。土のときはけっこうツルツルだったのに、焼き上がると表面はザラザラになった。削ってきれいにした方がいいんだろうか。色を塗るとまた違ってくるのだろう。
 作り方は、まず湿らせた新聞紙で玉をくるむ。そして、皿状にした土を伸ばしながら新聞紙の上から覆ってボール状にする。こうすると焼いたときに中の新聞紙だけが燃えて、空洞ができて中で玉が鳴るというわけだ。なるほど、上手く考えた。
 丸い状態から猫の形にしていくわけだけど、これがなかなか手強い。粘土と違って土なので、思い通りに変形してくれない。凹凸をつけるのさえままならないくらいだ。伸ばすことはまず無理。なので、パーツは別に作って貼り付けていく。ここに不自然さの要因がある。粘土だったらもう少し上手く作れたはずなのに。
 くっつけたところのまわりに土を足したり、水で濡らしてならしていく。ここでしっかりつけておかないと焼いたときに取れてしまうそうだ。最後にヒゲと目を描いて完成だ。ヒゲがヨレた。波打ったヒゲも間抜けな感じに拍車をかけた。

猫土鈴-5

 右のはツレが作った眠り猫。同じ作家さんに手ほどきを受けて、同じ招き猫を参考にして作ったのに、こんなに違う仕上がりになった。人の猫に対するイメージって意外と幅広い。これが手作りの面白さでもある。作家さんも同じものを作っても毎回どこか違っていると言っていた。
 それにしても、作っていてだんだん悔しくなってきた。もっと上手く作りたいのに作れないもどかしさで。作り終わってすぐにもう一個作りたくなったくらいだ。でも、ここで時間切れ。今回のものは今回のもので味ということにしておこう。

猫土鈴-6

 見る角度によって様々な表情を見せる私の招き猫土鈴。この角度から見ると、ウルトラマンポーズだと写真を撮りながらひとりでうけていた。ラジオ体操をしている猫人間みたいでもある。福を招いている感じはなくても、見てると笑えるということは、それだけでもちょこっと幸せを運んできてくれていると言える。笑う門には福来たる。
 ツレはこれを見て、お地蔵さんみたいだと言った。確かにヒゲを落書きされたお地蔵さんがいたらこんな感じになりそうだ。これはもはや猫神様と呼んでもいいかもしれない。上から見ると笑っている猫土鈴は、下から見ると瞑想しているようだし。毎日こいつに向かって拝んでいるといいことありそう。
 またぜひ猫作りに挑戦してみたい。今度こそリアル猫を作ってみせる。もう猫らしくないとは言わせない。目だってパッチリ開いたやつにするのだ。2007年秋、二代目猫土鈴を乞うご期待。

旧古河庭園で撮ったバラをお蔵入りさせるのはもったいないので

花/植物(Flower/plant)
旧古河庭園のバラ-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/30s(絞り優先)



 旧古河庭園へは洋館だけではなくバラ見の目的もあったので、バラ写真も少しは撮った。埋もれさせるのももったいないから、写真だけ載せてしまおう。このときはプレートのメモ撮りをしなかったから、名前は分からない。お馴染みのバラもほとんどなくて。
 上の写真のものは、一本の木から赤と黄色とミックスが咲いていて面白かった。赤と黄色というのは人間の発想ではあまり組み合わせる色ではないのに、自然界だと違和感がないから不思議だ。黄色いパンツに赤いシャツを着ている人がいたらそれは間違っていると誰もが言うだろうに。

旧古河庭園のバラ-2



旧古河庭園のバラ-3



旧古河庭園のバラ-4



旧古河庭園のバラ-5



旧古河庭園のバラ-6



旧古河庭園のバラ-7



旧古河庭園のバラ-8



 以上、旧古河庭園のバラとバラ風景でした。ちょこっとだけ旧古河庭園に行ったような気分になってもらえればこれ幸い。香りまではお届けできないけれど。
 春バラはそろそろ満腹だ。今年もたくさん見て撮った。これというあらたなお気に入りは見つからなかったものの、あらためてその種類の多さとバラ園の多様性を知ることができた。また来年は別のところで違ったバラを見よう。その前にまだ秋バラもある。それまでにアジサイなどを見つつ、バラ満腹を解消しなければ。逆にバラ図鑑を買ったりして満腹中枢をおかしくするという方法もあるかもしれない。去年もバラを育てようとしてできなかったから、今年こそバラの苗を買おうか。そのときはきっと、マダム・ヴィオレかピエール・ド・ロンサールのどちらにするか迷うだろう。

旧古河庭園でバラ羊羹を食べながらバラと洋館を見よう

東京(Tokyo)
旧古河庭園-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/15s(絞り優先)



 東京の北区西ヶ原にある旧古河庭園に行ったのは、横浜へ行った前日の5月19日のことだった。ちょうどバラのシーズンということで、ライトアップのイベントなどもあって、午後から夜にかけてゆっくり見学してきた。今日はその紹介をしよう。
 旧古河庭園というからにはかつて古河さんちだったところということだ。それ以前、ここには明治の政治家陸奥宗光の屋敷があって、宗光の次男潤吉が銅山王と呼ばれた古河財閥の創始者古河市兵衛の養子に入ったことで、古河家のものとなった。そのときはまだ洋館は建っていない。
 洋館ができたのは1917年(大正6年)、古河家三代目の虎之助が、ジョサイア・コンドルに依頼して洋館と庭園を築いた。岩崎邸、鹿鳴館、ニコライ堂などを設計したコンドル先生最晩年の作品ということになる。40年以上日本で暮らしたコンドルは70ほどの設計を実現させて、そのうち現存するものは少なくなった。その中でも屋敷と庭園までそのままの形で残っているのは旧古河庭園だけということで、この洋館は貴重な存在なのだ。
 戦後はイギリス軍将校の宿舎として利用されたりしたあと、住む者がいなくなってかなり荒れ果てていたという。その後所有は国へ移り、それを東京都が無料で借り受けて、管理を担当している大谷美術館が7年をかけて修繕した。1989年(平成元年)から一般公開されている。入場料150円は良心的だ。

旧古河庭園-2

 邸宅は武蔵野台地の斜面を上手く利用して建てられている。北の高台に屋敷を配置して、見下ろす南に西洋庭園を作っている。屋敷の窓から庭園全体を眺めることができるというわけだ。更に西洋庭園より南の低地には日本庭園を持っている。不思議な和洋折衷も古河邸の特徴となっている。
 総面積は約3,000平方メートル。洋館は、英国貴族の邸宅をイメージした古典様式で、壁はレンガ造り。使われているのは真鶴産の新小松石(安山岩)で、黒くて非常に重厚な趣だ。屋根は屋根は天然ストレート葺きで、二階建て(地下一階)。
 内部も変わっていて、一階は完全な洋館なのに、二回は畳敷きの和室になっているそうだ。ふすまとドアが二重になっていたり、畳の部屋なのに出窓があったりして、ちょっと変な作りになっているらしい。日本での暮らしが長くなった晩年のコンドルの中では、形式美と機能美が和洋混然となって自身の中に矛盾なく成立していたのかもしれない。ぜひ見たかったところなのだけど、洋館の内部を見るには往復ハガキで予約をしなければいけないので、このときは見ることができなかった。ガイド付きで1時間のツアーになっていて参加料も525円というから、ちょっと面倒だ。一階の喫茶室だけなら予約は不要のようだけど、このときは結婚披露宴か何かをしてたようでそれさえも入れないような雰囲気だった。

旧古河庭園-3

 西洋庭園のバラは、盛りを過ぎて終わりが近かった。東京のバラは早かった。それでも人は満載だから、さすが東京だ。狭い通路が渋滞してしまうほどだった。みんな本当にバラが好きだなと思う。バラのあるところ、どこにでも人は集まってくる。普段はそこほど人が訪れるとも思えない古河庭園も、バラの時期はとても賑やかになる。ほぼ全員が写真撮りまくり状態。
 こちらの設計もコンドルが担当している。植え込みで幾何学模様を作っていて絵画的だ。様式としては、フランス整形式庭園とイタリア露壇式庭園を組み合わせたものとなっているのだとか。
 バラは約90種180株。私にはなじみのないものが多かった。そもそも誰が作ったバラ園なんだろうか。古河家の時代もここにバラが咲いていたのか、戦後になって植えられたものなのか。イギリス庭園といえばバラはつきものだから、昔からある程度はあったのかもしれない。
 バラのピークは過ぎてしまったものの、二番咲きなどがあるので、バラは6月いっぱいは楽しめるそうだ。ライトアップは5月の20日で終了した。

旧古河庭園-4

 こちらは中央の心字池を中心とした日本庭園で、作者は京都の庭師植治こと小川治兵衛。よく知らないのだけど、平安神宮神苑、円山公園、無鄰庵などを作った有名な庭師らしい。
 日本庭園の良し悪しは正直よく分かってない。みんながありがたがるほど枯山水もいいものだとは思えない。ここも、ふーんという感じだった。私もじじいになれば日本庭園の素晴らしさも分かるようになるのだろうか。

旧古河庭園-5

 洋館の横には贅沢な芝生の空間が広がっている。学校の社会見学で連れてこられたら絶対ここで野球をやってしまいそうだ。洋館見物などそっちのけで。でも、普段はあまり入ってはいけないような雰囲気だった。コンサートや公演なんかのイベントのとき以外は。レジャーシートを敷いて弁当を食べるにはいいロケーションなんだけど。

旧古河庭園-6

 旧古河庭園名物「ばらの花ようかん」。450円。
 食べていないので味は分からない。実はツレが買って、今まだツレの家の冷蔵庫の中で眠っているはずだ。白あんの中にバラの花びらが練り込まれていて美味しいらしい。近いうちに食べる機会もあるだろう。このときはバラアイスもあったのだけど、雨が降って寒くてアイスどころじゃなかった。
 次の日、ふいにツレがポツリとつぶやいた。羊羹と洋館って、ダジャレ? と。確かにそうかもしれない。そうでなければバラを羊羹にする必然性はあまりない。でも製造地を見たら、旧古河庭園でも東京でもなく、新潟かどこかだった。なんだろう、ちょっと複雑な気がした。こことは無関係にバラ羊羹を作っている地方の店があって、それを知った旧古河庭園が自分のところで名物として販売してるということだろうか。それとも、委託して製造してもらっているのか。そう思って宣伝文句をもう一度よく読んでみると「旧古河庭園オリジナルラベル」とある。オリジナルはラベルだけだったか!

旧古河庭園-7

 ライトアップ後のイベントとして、ギターとバンドネオンによる演奏会が開かれた。リオ・ハポニコって誰だろう。個人的にはここでバタヤンの演奏が聴いてみたかった。ギターを高い位置に掲げて、我が町松坂が生んだスター田端義夫の歌声とギターの音色を旧古河庭園に響かせて欲しかった。ミスマッチすぎて逆にしっくりくるような気がしたのだ。

旧古河庭園-8

 ライトアップされた洋館は、ひとけがなければ山の上のホラーハウスみたいに恐ろしげだった。山道で迷ってこの屋敷を見つけても、助けを求めるのがためらわれそう。おそるおそる扉をノックすると、ギィーっという音と共にドアが開かれて、正装した執事が出てきそうだ。昔は当然ライトアップなどはないにしても、窓の明かりに闇夜にぼぉっと浮かび上がる洋館はかなり恐ろしい感じだったんじゃないだろうか。今でも周囲を鬱蒼とした木々に囲まれているから、かつてはもっと深い森の中のようなところだっただろう。黒い壁というのがちょっと雰囲気がありすぎる。窓に何か写っていたとしても私には見えてないので教えるのはやめてください。

 ジョサイア・コンドル作品もけっこう見てきた。開東閣や三井倶楽部などは非公開だから見られないのが残念だ。三菱一号館が今東京の丸の内に復元工事をしてるそうなので、それを楽しみにしよう。鹿鳴館が残っていたらどんなによかったか。1940年(昭和15年)にどういういきさつで取り壊されることになったんだろう。
 コンドルの作品は、重厚で威厳がある。ロシア文学の巨匠のようだ。遊びや良い意味での軽みはないけど、歳月に耐え得る風格がある。建築物というより作品と呼ぶにふさわしい。日本でいい弟子も育った。
 洋館めぐりは今後も機会を見つけて続けていこうと思っている。旧赤坂離宮の迎賓館をぜひ見てみたいのだけど、普段は近づくことさえままらない。年に一度、応募して当たると内部を見学できるそうなのだけど、平成18年から20年まで改修工事が行われていてそれがない。なんとしてでも平成21年には当てなくては。撮影禁止というのは残念なところではあるのだけど。
 新宿にある小笠原伯爵邸というのも行ってみたい。でも、レストランになっていてランチが7,000円というから畏れ多い。こりゃパスだな。旧東京音楽学校奏楽堂、旧前田侯爵邸洋館、鳩山会館など、まだ行けるところはいくつかある。順番に巡っていこう。

 ところで、旧古河庭園の最寄り駅であるJR京浜東北線「上中里駅」は、浅見光彦の自宅がある駅だ。行ったときは気づかずに、旧古河庭園のことを調べているときに出てきて思い出した。そうか、あそこがそうだったんだと。しまったことをした。平塚神社も寄ったのに、何も思わず普通にお参りをしてしまった。気づいてれば、小説で何度も出てくる「平塚亭」で串団子を買ったのに。
 今になって思い出して、なるほど浅見光彦ってのはああいう街で生まれ育ったという設定なんだと今さらながら思った。東京生まれで愛車ソアラを乗り回してるっていうからもっと都会的なイメージで読んでいた。でも実はそうじゃなかったんだ。西ヶ原というところは、23区の中ではもっとも都内らしくない風情の街だった。これからは内田康夫作品を読むときに少し読み方が変わりそうだ。
 それにしても、東京は広くて深い。巡れば巡るほど、横にも縦にも興味の対象が広がっていく。行っても行っても行くところがなくならない懐の深さがあって、気持ちばかり焦って足がもつれて転びそうになる。よろめくように手を伸ばしながら、私の東京巡りは続いていくのだった。

初めての中華街で夕飯を食べて横浜観光は心残りなく完結

横浜(Yokohama)
横浜中華街-1

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/12s(絞り優先)



 横浜観光最後の締めくくりはやっぱり中華街で決まり。山手巡りから戻ってきたあと、大さん橋で夕焼けと夜景を見て、満を持して中華街へと乗り込んだ。8時を過ぎて、あたりはすっかり真っ暗になっていた。
 初めての中華街、どこで何を食べるかを決めるのは非常に難しい。なにしろ約500メートル四方の敷地内に250もの中華料理店がひしめいている。ガイドを見ても紹介されている店舗数が多すぎて実際どこがいいのか判断がつかないし、かといって飛び込みで入るのは危険だ。本場横浜中華街といっても値段に見合うだけの味の店はさほど多くないという話もある。下手するとチャイニーズファミレスの「バーミヤン」の方がずっと美味しかったりするらしい。一番確かなのは、雑誌やテレビでよく紹介されている有名店にしておくことだ。そういうところなら大きな失敗はない。「萬珍樓」、「大珍樓」、「珠江飯店」、「均昌閣」、「景徳鎮」、「聘珍樓」、「北京飯店」、「重慶飯店別館」あたりならまず間違いはないところだろう。金額的には多少高くつくかもしれないけど。
 あとは、どこの地方の料理を食べたいかで決めるという手もある。お馴染みの中華が多い広東料理でいくか、あっさり系の北京料理にするか、辛さを求めて四川料理か、魚介類の上海料理で攻めるか。自分の好みをはっきり自覚できてる人なら、迷いは少なくて済むかもしれない。点心や飲茶が食べたければそれに特化して評判がいい店もあるし、今まで食べたことがない変わった料理を求めるのもいい。たくさん食べたければ食べ放題の店もある。
 問題は私たちのような漠然と中華街を訪れた人間たちだ。たくさん量も食べられないし、高級中華を食べたいわけでもないとなると、行ける店は限定されてくる。コース料理はきついから単品で安くて美味しいところという注文にこたえてくれる店は少ない。で、最終的に選んだのは、「東林(トウリン)」となった。中華街にくわしい人なら、それはいい選択だねと思ってくれるんじゃないだろうか。いきなり渋いところを突いたねと。店の紹介は後にして、まずはせっかくなので中華街について少し勉強しておこう。

横浜中華街-2

 日曜の夜ともなると中華街は大勢の人混みで溢れかえる。特に中華街大通りはすごい人波だ。年間の来訪者は東京ディズニーランドをも上回る1,800万人というから驚く。日本人は中国人よりも中華料理が好きなのかと思うほどの人数だ。中華街には中国人も6,000人以上いるというから、中国人に会いたければ中華街へ行くのが確実と言える。もしかしたら、ゼンジー北京もそのへんをうろついているかもしれない(あの人は中国人じゃない)。
 中華街の歴史は、1859年の横浜開港に始まる。欧米人とともに来日した多数の中国人たちがこの地に住み始め、横浜と上海、香港間に定期船航路が開設されると中国人貿易商も多数やって来るようになった。関帝廟や中華会館、中華学校などを建てて生活の基盤ができて、それが今の中華街の基礎となった。
 関東大震災と第二次大戦で中華街も大きなダメージを受けて、中国人たちも帰国していった。いったんはさびれたものの、戦後少しずつ回復して、1972年に日中国交回復をきっかけに大勢の日本人が訪れるようになる。飲食店だけでなく観光地として発展していくこととなり、現在に至っている。中華街の正式な始まりは、1955年に中華街大通りの入り口に善隣門が建てられて牌楼の上に「中華街」と入れられたときからだという言われ方もするようだ。
 2004年にみなとみらい21線の終着駅として元町・中華街駅ができたことで、交通の便もよくなった。入口としては、山下公園方面からと、石川町駅方面からの2つある。
 日本においては、神戸南京町と長崎新地中華街とともに三大中華街と呼ばれているけど、規模としては横浜のものが最大で、アジアでもっとも大きく発展したチャイナタウンだ。

 メイン通りにはそれぞれ中華街大通り、関帝廟通り、広東通りなどの名前が冠されていて、脇道の上海路、中山路、福建路、香港路などの地名がついた路地と交差している。初めてだと分からないけど、何度か通っているうちに通りの名と店の位置が感覚的に分かってくるのだろう。私たちは「山猫堂」という猫グッズ専門店を探し回って歩き回ったおかげでけっこう土地勘ができた。期せずして。ほとんどの通りや脇道を歩くことになったから。結局「山猫堂」は、中華街大通りから少し入ったチャイナスクエアビルというビルの中にあった。よしもとおもしろ水族館などが入っているところの2階に。
 路地名のところに必ずしもその地方の店が並んでいるというわけではない。ただ、傾向としてはあって、店員や料理人もそこの出身者が多いそうだ。中国も広いから、同じ地方出身の人同士の方が気心が知れるというのもあるのだろう。北京と上海と香港では言葉も違う。
 中華街といえば門(牌楼)も象徴的なもののひとつとなっている。善隣門をはじめ全部で10の牌楼があって、その中でも東南西北に建つ4つの牌楼には、それぞれの色と意味がある。東の朝陽門は青、南の朱雀門は赤、北の玄武門は黒、西の延平門は白で、それぞれ青龍神、朱雀神、玄武神、白虎神という守護神をもっている。風水というのは迷信とかではなく、古代中国では科学だった。自然と人間が調和していくための方法論とも言える。日本でもいまだに超高層ビルを建てる前に神主さんを呼んで上棟式の儀式をするように、中国では風水思想に基づいてビルを建てたり街作りをしたりしている。日本も江戸時代まではしっかり風水思想を受け継いでいたのに、明治以降はそれがおろそかになってしまった。

横浜中華街-3

 長い前置きの末にようやく辿り着いた「東林」。このブログを読みながら中華街の勉強してたらおなかが空いて我慢できずにカップラーメンを食べてしまったという人もいたかもしれない。お待たせしましたアルね。
 東林にした理由は、ネットのクチコミ情報で評判がよかったからだ。雑誌やガイドよりもネットの個人情報の方が当てになる。日曜日でも並ばなくていいというのに惹かれたというのもある。
 店は大通りを抜けて石川町駅に近い福建路にある。ここまではずれに来るとびっくりするくらい人通りが少なくなって、ちょっと大丈夫かなと思うのだけど、大丈夫マイフレンド、ここは心配ないアルよ。中華街の常連さんが太鼓判を押す店でもあるし、私たちも一回行ってすぐにここはいい店だと分かった。まずは中に入ってみよう。

横浜中華街-4

 山猫堂探しに手間取って、店に入ったのがラストオーダー30分前の9時ということで、お客はだいぶ少なくなっていた。でも、店の雰囲気はいい。清潔だし、そこそこ広いし、静かだし。中華街でゴタゴタしてなくて騒々しくない店というのは意外と少ないらしい。
 注文してからの待ち時間も少なく、店員さんの接客もいい。欠点をあげるとすれば、中華街らしくないということだろうか。ここの店内に入ると、自分が観光地にいる観光客だということを忘れそうになる。だから、華やいだ中華街の雰囲気と気分を味わいたい人には向かない店かもしれない。

横浜中華街-5

 少食の私たちが注文したのは、天津ラーメンとチャーハンという質素とも言えるメニューだった。歩き疲れて空腹も忘れるほど胸一杯になっていたというのもある。食べ終わって余裕があればゴマ団子も頼もうと思っていたけど、思ったよりもボリュームが多くてラーメンだけで精一杯だった。
 味は申し分なし。町の中華屋さんとは格の違いをみせる。この2品に関しては味付けがやや濃いめで、一口目から美味しいなと思って、食べ終わってから時間が経っても印象に残る。今でもまだ味を覚えているくらいだ。薄味好みの人にはやや濃いと感じるかもしれないけど、くどいとかではなくて万人向けの味付けだとは思う。
 値段は800円か900円かそれくらいだった。中華街の単品としてはこれくらいか、少し安めだろうか。ここはランチも安くて美味しいそうだ。700円というから近場ならもう一度といわず二度でも三度でも行って食べてみたい。
 単品でももっと高いものは高いし、点心などのコースもある。とにかくどれを食べてもはずれがないのがいいところというのがここの評価のようだ。ものすごく感動的に美味しいとまではいかなくても、どれも80点以上で安心して食べられる店というのはそう簡単に見つかるものではない。観光客として最初に行く店としてはどうかとも思うけど、有名店をいくつか食べ歩いて新規開拓したいという人におすすめしたい。

 念願の初中華街も無事に終えて、私たちの横浜観光は完結となった。横浜総鎮守の伊勢山皇大神宮から始まって、みなとみらい21、よこはまコスモワールド、日本丸、汽車道、赤レンガ、山下公園、大さん橋、キング&クイーン&ジャック、山下公園、港の見える丘公園、山手洋館巡り、大さん橋からの夜景、中華街と、ほぼフルメニューをこなしたと言ってもいい。まあよく歩いたものだ。
 次はいつになるか分からないけど、まだマリンタワーや氷川丸もあるし、少し離れたところにある山渓園も行ってみたい。足を伸ばせば金沢の古道や八景島もある。野毛山動物園も入ってみたいし、ランドマークタワーにものぼって、シーバスも乗りたい。まだ見どころは残っている。また行けるといいな、横浜。

バラ以外にもたくさんの花が咲いている花フェスタ記念公園

花/植物(Flower/plant)
花フェスタの花たち-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/100s(絞り優先)



 世界一のバラ園として有名な花フェスタ記念公園だけど、咲いているのはバラだけじゃない。園内のあちこちでいろんな花が咲いている。知ってるやつや知らないやつ、見たことはあるけど名前は分からないやつなどなど。そんな花たちをちょこちょこ撮ったので、今日はそれについて勉強しつつ紹介しようと思う。

 最初は巨大なブラシみたいな変わったやつ。花が下から上に向かって咲いていっている途中の状態だ。ビデオの早回しで見たら面白いだろう。
 名前はエレムルス。砂漠のろうそくを意味するデザートキャンドルや、キツネの尾という意味のフォックステイルリリーという名前も持っている。確かに全部の花が咲いたらキツネの尾みたいに見えそうだ。
 原産地はイラン、アフガニスタン、ヒマラヤなどで、ヨーロッパで人気が高いそうだ。日本には昭和11年に初めて入ってきたという記録が残っている。
 高さは最大2メートルにもなる。小さな花が集まって、びっちり咲いている。一本あたりの花数は300から500にもなるという。数種類の原種と交配種があって、色は黄色、白、ピンク、オレンジなどがある。
 これが家の庭先で咲いていたら、かなり目立つだろう。

花フェスタの花たち-2

 何度か見ていて、もうそれほど驚かなくなったトケイソウ(時計草)だけど、何度見ても不思議な花だ。チクタクしそう。針の部分も面白いけど、文字盤にあたる部分がまたいい。なんでこんな形になる必要があったんだろう。
 英名のPassion Flowerは、キリストの受難(Passion)からきている。でも、日本人の感覚からいくとこれを見てキリストのはりつけは連想しない。パッと見て時計以外には見えない。
 原産地は中央アメリカから南アメリカにかけての熱帯・亜熱帯域で、観賞用にたくさんの種類が作り出された。現在では500種類以上のトケイソウがあるそうだ。

花フェスタの花たち-3

 色とりどりで鮮やかなキンギョソウ。花びらの様子が金魚のヒラヒラに似ているところから名づけられた。
 原産地は南ヨーロッパから北アフリにかけての地中海沿岸で、海外でも人気のある花だそうだ。欧米では金魚が一般的ではないため、スナップドラゴン(Snapdragon)と呼ばれている。花の姿を龍の口に見立てたのだろう。
 品種改良が進んで、白、ピンク、紫、赤、オレンジ、黄色など、多くの色のものが出回るようになった。八重咲きやバタフライ咲きのものもある。

花フェスタの花たち-4

 白い花に紫の模様が印象的なこの花は、ネモフィラの一種のマキュラータ(マクラタ)だ。ネモフィラというとルリカラクサ(瑠璃唐草)という別名でもお馴染みのブルーのものが一般的だけど、それ以外にも何種類かある。
 北アメリカのカリフォルニア原産で、大正時代に日本に伝わってきた。色や姿から日本でも人気が出て、すぐに広まっていったという。
 マクラタは、こんな色に改良されたのかと思いきや、これが元々の姿で、別名ファイブスポットとも呼ばれている。自然の美意識って面白い。

花フェスタの花たち-5

 やたらむだ毛が多いようなこいつは、ニゲラ。名前はラテン語のniger(黒い)からきている。黒光りしている種からそう呼ばれるようになった。別名はクロタネソウ(黒種草)。
 南ヨーロッパの原産で、日本へは江戸時代に入ってきている。日本にはないグロテスクな感じに当時の日本人は驚いたんじゃないだろうか。けど、英名では霧の中の恋となるから欧米人はこれを幻想的な花と見たらしい。
 毛のようなところが葉っぱで、白い花に見えているところはガクだ。花弁は退化してしまっている。
 世界では種をコショウやスパイス代わり使ったり、花を薬用などとして利用したりしているそうだ。日本ではあまり一般的な花じゃないと思う。こいつの花束をもらっても嬉しいかどうかは微妙なところだ。

花フェスタの花たち-6

 たぶんワスレナグサ(勿忘草)だと思うけど、確信が持てない。ターシャの庭に他の花々と一緒にごちゃごちゃっと咲いていたから、どれがこいつの花びらなのかよく分からなくなっていた。花だけ見ればまずワスレナグサでいいはずだ。キュウリグサとかそういうことはないと思う。
 英名のForget-me-notは、尾崎豊の歌にもある。私を忘れないで。それは中世ドイツの伝説に由来している。騎士だったルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲いていたこの花を恋人のベルタのために摘もうとしたところあやまって川に落ちて流されてしまう。流れに飲まれながらボクを忘れないで(Vergiss-mein-nicht)と叫んだという悲しくもちょっとドジな話だ。実際にあった話とも思えないけど、花にまつわるお話としては面白い。世界各国で、私を忘れないでという意味の名前がつけられている。
 シンワスレナグサ、ノハラワスレナグサ、エゾムラサキ、ノハラムラサキ、ハマワスレナグサなどの種類がある。

花フェスタの花たち-7

 これまたインパクトのある花というか木だ。赤紫に染めた髪をアフロにした大阪のおばちゃんみたい。見ていると、これええやろとしゃべりかけてきそうだ。
 スモークツリー(煙の木)と名づけられたこれは、花よりも花後の花柄の時期が見どころとなる。
 これは赤色をしているけど、本来は白色で、そこからも煙を連想させたのだろう。綿菓子っぽくもある。
 原産は中国からヨーロッパにかけてで、日本には明治になってから入ってきた。
 最近は品種改良で、ピンクや黄色なども出回っているという。庭にこれを植えていると道行く人が驚きそうだ。収穫して頭に乗せてもいいかもしれない。

 花フェスタというとどうしてもバラの印象が強くて他の季節に行こうとは思えないのだけど、こうしてバラ以外の花を見てみると一年中何かは咲いているのだろう。5月から6月と秋以外は訪れる人も少なくて閑散としてるそうだけど、シーズンオフも一度くらいは行ってもいいかもしれない。入場料も半額になるし(800円が400円に)。行くなら春がよさそうだ。
 今の時期もバラにばかり目を奪われず全体を見渡してみれば、たくさんの花が咲いていることに気づく。むしろそちらの方が撮るものが多いくらいだ。季節が進んで、そろそろ花も少なくなっていく。夏の暑いときに好きこのんで咲く花はそれほど多くない。季節はまだ初夏で半分も終わってないけど、花の旬はもう過ぎているのだ。これからはどんどん花が減っていって寂しくなっていく。
 バラも終わって、次はアジサイとユリだ。去年はあまりアジサイを追いかけなかったから、今年はもう少しアジサイと近づきになりたい。品種も多いし、変わり種を追うのも面白そうだ。雨にも人混みにも負けず鎌倉へ行けるだろうか。

今年の花フェスタは個人的にピンクバラ・イヤーだった

花/植物(Flower/plant)
花フェスタバラ-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/12s(絞り優先)



 花フェスタはいつ行っても撮るものがありすぎてかえって撮れずに終わる。被写体が無数にあるようでいて実際にはさほど多くない。たとえばそれは、人で溢れかえる街中を撮るのに似ている。人混みという被写体があって、中には目につく人や絵になる瞬間があっても、撮るべきものがたくさんあるわけではないのと同じだ。公園にバラが20種類あったら全部撮っておこうとなるかもしれないけど、7,000種類あると途中から感覚が麻痺してきて何を撮っていいのか分からなくなる。バラを撮るという行為そのものに飽きると言った方がいいのかもしれない。色や形が違ってもバラはバラだ。被写体としての変化は少ない。
 そんなわけで今年も家に帰ってきてメモリを見たら、撮ったバラの種類はわずかに15種類だった。ここまで少ないとは自分でも驚きだ。もう少し撮っていたつもりだったのに、バラ以外のものが多かった。
 もう一つ驚いたというか特徴的だったのが15種類中9種類がピンクのバラだったということだ。突然ピンクのバラが好きになったのか、何かピンクに惹かれてしまう精神状態だったのか、自分でもよく分からず自覚症状はなかった。特に深く考えることもなく、これいいなと思って撮ったバラの多くがピンクだったというだけだ。ピンクを求める傾向って心理的にはどうなんだろう。
 なにはともあれ、今日はピンクバラ・デー。あなたがピンクのバラばかり撮るから今日はピンク記念日。明日から私のことをミスター・ピンクマンと呼んでください。

 上の写真は今回のお気に入り、「ミスひろしま(ミスヒロシマ)」。広島バラ園で作られたという以外くわしいことは分からない。ネットにも情報はほとんどない。ミス広島の誰かに捧げられたものなのか、単に広島で作られたというだけなのか。淡いピンクのバラが広島の女性のイメージなのかどうかはやや微妙なところだけど、これはいいバラだと思う。もっとメジャーになってもいい。

花フェスタバラ-2

 これまた清楚なピンクバラだ。清楚さの中に可憐さもある。1986年イギリス作出の「ダブ(Dove)」。名前がよくない。ダブと聞けばアイ・ワズ・ゲイのガブを思い出すし、Doveというと化粧品みたいだ。日本語表記としてドウブとする場合もある。Doveというのは鳩のことで、そこから転じて平和や純潔、愛情などといった意味合いを持つ名前のようだ。それにしてもちょっと名前が残念だ。もっといい名前ならもっと人気が出てただろうに。
 花単品としてはきれいだけど、咲き方がごちゃごちゃしてやや気品に欠けるところがある。そのあたりもイギリス女性っぽいと言えば言えるかもしれない。

花フェスタバラ-3

 同じピンクでもこちらは鮮やかさが特徴の「マガリ」。多花性ということで爆発的に咲いていた。フランスの作出ということでお国柄が出ている。フランスの生意気なティーンエイジャーの女の子たちみたいだ。でも、賑やかなだけで嫌味はない。鮮やかなピンクは元気にしてくれる。

花フェスタバラ-4

 世の中には何種類くらいの色の名前があるのかは知らないけど、自分の知識の中で何色と表現したらいいのか分からない色のバラがある。これなんかがそうだ。ピンクといえばピンクだし、オレンジとも言えなくもない。だからオレンジっぽいピンクとしか言いようがない。美術の専門家はズバリ何色か言えるのだろうか。
「エディ・ド・マルティネリ」。1958年フランス。プレートにはそう書かれていた。ネットで検索しても出てこないから、表記が少し違っているのかもしれない。

花フェスタバラ-5

 このバラの形どこかで見たことあるなと思って、今日思い出した。そうだ、ヴィックスドロップのエヘン虫だ。あののど飴、もう何年なめてないだろう。今度ノドがイガイガしたら久しぶりになめてみよう。口の中にあの飴の味がよみがえった。
 1996年京成バラ園芸作出の「いちばん星」。菅原文太の一番星とは関係ない。あ、でも、あの役名は星桃次郎だ。思いがけないところでピンクがつながった。

花フェスタバラ-6

 少し変わり種のピンクバラ「ポールズ・ヒマラヤン・ムスク」。1916年イギリス作出というから古い。花が小ぶりで、咲いている姿は日本のサトザクラみたいだ。花びらが散る様子も桜に近いものがある。バラとひとくちに言ってもその姿は実に多様だ。バラらしくないバラもたくさんあって面白い。
 最大で10メートルまで伸びて、一度に数千個の花を咲かせることがあるんだとか。花フェスタでもフェンスに絡みついてすごい勢いで咲いていた。

花フェスタバラ-7

 1976年イギリス作出の「プレイボーイ」。日本人の感覚でいうとこの色がプレイボーイを表してるようには思えないないのだけど、元々地味なイギリス人はこういう明るい色がプレイボーイのイメージなのだろうか。
 これをピンクバラに入れるのは少し無理があるかもしれないけど、赤とオレンジと黄色の入り交じった色は、ときにピンクに近くなる。咲き進むとだんだん色を変えていく。
 バラはヒラヒラの多いほどきれいと思われがちだけど、こういう一重にもいいバラがたくさんある。プレイボーイもファンが多いようだ。

花フェスタバラ-8

 オレンジ・ピンクの「スーヴニール・ド・アンヌ・フランク(スーブニール・ド・アンネ・フランク)」。アンネ・フランクの形見と名づけられたこのバラは、ベルギーのバラ育種家ヒッポリテ・デルフォが、アンネたちが隠れ住んでいた家の近くに咲いていたバラを元に新種を作って、アンネの父親に贈ったものといわれている。
 日本でも『アンネの日記』が広く読まれていると知ったデルフォは、1972年に10株日本に送ってくれた。しかし、そのうちの9株は枯れてしまって、残った1株から挿し木して増やしたものが全国に広まっていったという話も残っている。
 こういうエピソードがあるバラの方が思い入れができるから好きだ。

花フェスタバラ-9

「ラヴィンダ(ラビンダ)」。オランダ作出(2003年)のバラはちょっと珍しい。ただそれは日本に入ってきてるのが少ないというだけで、オランダ国内ではバラ作りがけっこう盛んのようだ。私たちが見たこともないようなバラもいろいろあるんだろう。
 咲くと紫色が強くなるけど、つぼみのうちはピンクバラだ。咲いている主役のバラとまわりの脇役のつぼみのバランスがいい。バラはやっぱりつぼみが残る7分、8分咲きくらいが一番美しい時期だと思う。咲ききってしまうと品がなくなる。

 ピンクのバラ9種類、こうして並べて見てみると、ひとつひとつ色も形も雰囲気も違っていることにあたらめて気づく。名前だけ違う同じバラというのはない。バラ作りに魅せられた人が一生の仕事にしようと思う気持ちが分かる気がする。バラほど多様性に富んでいて、世界共通の花というのは他にない。国によって好みは違えども、素晴らしい新種を作り出せば世界の人が感心してくれて愛されるバラになる。バラは音楽や映画よりもあっさり国境の壁を越える世界の共通言語的な存在かもしれない。
 この3年間でけっこうな種類のバラを見たつもりでいても、まだまだ全体の数パーセントにすぎない。なにしろ世界には登録されているものだけで3万5,000種類以上のバラがあって、毎年どんどん新種が増えていっているのだ。花フェスタの7,000種類くらいで驚いていてはいけない。
 まだもう少しバラの季節は続いて、秋バラもある。今シーズンはもうこれでいいやだなんて思わずに、引き続きバラを追いかけていきたい。少しでもたくさん見て、お気に入りを見つけていこう。写真もなるべく撮った方がいい。撮れば調べるし、名前も覚える。バラの名前に異常にくわしい男が世間的にどう評価されるのかは分からないけど、バラの違いが分かる男に私はなりたい。

三度目の花フェスタでもやり残しがあって気持ちはすでに四度目へ

花/植物(Flower/plant)
花フェスタ記念公園-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/50s(絞り優先)



 今年も行ってきました花フェスタ記念公園。今回で三度目ということでお馴染み感が強くなったものの、毎年新しい発見があり、やれなかったことが残って、もうこれでいいとは思えない。来年もまたこの時期になるとうずうずしてきて、きっと行ってしまうのだろうなと、今日行ってきたばかりなのに早くも来年のことを思うのだった。
 園内は広くて、今日もよく歩いたというか、歩かされた。もう少しコンパクトに凝縮してもらえないだろうか。来年は、汽車の格好をしたバス「花ポッポ号」に乗って移動しよう。乗ってるとみんなに写真を撮られてしまうけど、この際恥ずかしいとか言ってられない。

花フェスタ記念公園-2

 会場のメインゾーンである「世界のバラ園」は、今年も絶好調にバラが咲き乱れていた。花も人も満載。ただし、遠巻きに見た場合で、近づいてみるとすでに満開を超えて12分咲きくらいになっていてきれいじゃない。花は開きすぎて、花びらもずいぶん落ちていた。行くタイミングとしては一週間遅かった感じだ。まだ花は充分残ってはいるとはいえ、本当の意味での見頃はもう過ぎている。

花フェスタ記念公園-3

 バラの名所はどこへ行っても年齢層が高くて圧倒的に女性上位なのだけど、ここに関してはその法則は当てはまらない。自称世界一のバラ園というだけあって、来園者の幅は広い。小さな子供連れのお母さんから老夫婦、若いカップル、中高年夫妻、外国人、若手の女性陣などなど、顔ぶれは多彩だ。いない組み合わせとしては、男子中高生のグループくらいだろうか。さすがに野郎二人組とかでバラを見に来ているのは見かけなかった。ただし、男ひとりは意外と多い。そういう人はたいてい写真を撮りに来ているのだけど。

花フェスタ記念公園-4

 こちらはもうひとつのメインどころといえるバラのテーマガーデンのゾーン。とにかくバラの種類が多すぎて、とりとめがない。全部端から見ていこうと思ったら、丸一日でも足りない。なにしろ7,000種類もあるというから大変だ。一種類につき写真を一枚撮っていたら7,000枚になってしまう。
 お目当てのバラがどこに咲いているかを園内の情報ライブラリで調べることができるのだけど、ゾーンの記号と実際の花壇との連動性が悪くて、探し当てるのが難しい。おおよその場所は公式サイトの「花のライブラリ」で検索することができるので、どうしても見たいものがある場合はマップをプリントアウトして持っていった方がいい。それをしなかったものだから、探していたマダム・ヴィオレをとうとう見つけることができずに終わってしまった。
 それにしても、バラの種類ってこんなにも多いんだとあらためて驚く。

花フェスタ記念公園-5

 あちこちに設置されているバラのアーチ。手入れは大変そうだけど、上手くバラが咲いているときれいで絵になる。いいタイミングでいいカップルが通ったりすると更にいい。

花フェスタ記念公園-6

 東京の日比谷公園にある老舗レストラン「松本楼」へ行ったとき、「恋人の聖地プロジェクト」というものを初めて知った。仕掛け人が誰なのか、どんな基準で選んだのかは知らないけど、全国で100ヶ所設定されている。それは花フェスタ記念公園にもあった。岐阜県ではもう一ヶ所、長良川プロムナードが選ばれている。愛知県は伊良湖の恋人岬しかない。もっとロマンチックな場所が他にもあるのに、なんでここだったんだろう。
 恋人たちの鐘は、道行く人たちが行きがけの駄賃のごとく乱打していく。子供からおっさんまで、恋人とはおよそ縁遠そうな人たちまで。もちろん、私も鳴らしておいた。

花フェスタ記念公園-7

 池の周りのワイルドフラワーはほとんど終わりかけていた。5月の終わりに行くとたくさんの花々が咲いていてとてもきれいだ。一部残っている場所は格好の記念撮影ポイントとなっていた。

花フェスタ記念公園-8

 念願のバラソフトクリームは、ぎりぎり最後にゲートを出たところの売店で買って食べることができた。しかし、花のタワーは行列ができていて後回しにしたら時間切れで登ることができなかった。3回行っていまだ登れず。来年こその思いを胸に刻んだ。
 バラソフトは、横浜の「えいの木てい」で食べたものとはまた違った風味で美味しかった。バラのエッセンスが香りだけなのか、味までそうなのかはもうひとつ判断がつかない。食べると確かにバラっぽいってのは分かるんだけど。今後ともバラソフトを見つけたら食べ比べしてみよう。

 可児公園で開かれた花トピアが1995年。おととしの2005年は愛・地球博と連動して「花フェスタ2005ぎふ」が開催された。あのときはすさまじい人だった。去年はびっくりするほど人の少なくて拍子抜けして、今年はまたけっこうな賑わいに行き会わせて安心した。毎年よくなっているのかどうでもないのか、やや微妙なところではあるのだけど、今後も楽しみにしたい。
 これからはバラの種類を増やすことよりも、もう少し来場者に分かりやすい会場作りを目指して欲しい。園内の地図をもっと増やすとか、パンフレットにもう少し詳しいバラの情報を載せるとか、バラに詳しいボランティアの人を園内各地に配置するとか、きめ細かいサービスがあればもっとよくなるはずだ。あれだけの広いバラ園を維持していくだけで手一杯といえばそうなんだろうけど、なんとか頑張って欲しい。
 バラの季節も終わって、そろそろアジサイの方へ気持ちが向かい始めた。鎌倉へ思い切っていくか、今年こそ頑張って形原温泉まで見に行くか。いずれにしてもアジサイもはずせない花イベントだ。
 それにしても今年はよくバラを見た初夏であった。
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