月別:2007年05月

記事一覧
  • 山下公園は何もなくて何もしなくていい贅沢空間だった

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/40s(絞り優先) 横浜で山下といえばピッカリ頭の山下監督を思い浮かべる人が少しはいると思うけど、たいていは山下公園を思うだろう。横浜における有名スポットアンケートを取れば、まずベスト3に入ってくるはずだ。じゃあ、山下公園に何があってどんな公園なのかと訊かれると、これが意外と分からない。昔、タカとユージが走り回っていたことしかイメージできない自分...

    2007/05/31

    横浜(Yokohama)

  • 横浜三塔物語を知らなかった昨日と知った今日と叶える明日

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/20s(絞り優先) 三都物語といえば谷村新司。三塔物語といえば横浜と相場が決まっているようないないような、昨日、今日、明日。我々が赤レンガの次に向かったのが横浜のキング&クイーン&ジャックだった。 明治の開港以来、横浜にはシンボルとなる三つの歴史的な建物がある。通称キングと呼ばれる神奈川県庁、クイーンの横浜税関、ジャックの横浜市開港記念会館と、こ...

    2007/05/30

    横浜(Yokohama)

  • お色直しされすぎた赤レンガは授業参観のばっちり化粧のお母さんのよう

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f9 1/20s(絞り優先) 汽車道のレールに沿って歩いていくと、自然と赤レンガ倉庫にたどり着く。ごらん、おっかさん、あれが赤レンガだよ(ツレはおっかさんではありません)。赤い色のレンガに対してすごく思い入れがあるわけではないけれど、赤レンガという響きはどこか懐かしくて心惹かれるものがある。どうやらそれは日本人に共通した感覚らしい。私たちの世代はすでに子供...

    2007/05/29

    横浜(Yokohama)

  • 横浜巡り王道コースは日本丸に始まり中華街に終わるのだの巻

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f9 1/25s(絞り優先) 横浜観光を伊勢山皇大神宮から始めるのは我々くらいなもので、普通の人たちはみなとみらい21地区から出発すると思う。横浜駅周辺はショッピング街だから、観光となると一駅移動した桜木町が実質的な横浜の玄関口となる。 動く歩道に乗って最初に辿り着くのが、写真の日本丸の前だ。写真やテレビなどでもお馴染みで、たいていの人が思わずこう言ってしま...

    2007/05/28

    横浜(Yokohama)

  • 横浜観光コースに無理矢理神社仏閣をねじ込んでみた

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/32s(絞り優先) 横浜観光と神社仏閣は結びつかない。そのことに気づいたとき、けっこう驚いた。たいていの観光地はどこかで神社仏閣と絡んでいるもので、東京でさえ例外ではないのに、横浜で有名な神社仏閣というとまったく思い浮かばなかった。同じ神奈川の鎌倉があれほど神社仏閣だらけなのに。 考えてみればそれもそのはずで、特に観光地になってるみなとみらい21な...

    2007/05/27

    横浜(Yokohama)

  • 横浜につどう人々と横浜断片風景写真パート1

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f9 1/50s(絞り優先) 横浜と東京の街の性格の違いをひとことで説明するのは難しい。どちらも観光地と生活の場という両方の性質を持っている点では共通しているものの、似ているか違っているかといえばやはり全然異なっているという印象を受ける。それは都会度の差ではない。 かなり乱暴に結論めいたことを言ってしまうと、横浜というのは非常にほどよい感じに支配された街だ...

    2007/05/26

    横浜(Yokohama)

  • 近い将来バラ王子と呼ばれるために今年も王子バラ園へ行ってきた

    PENTAX istDS+Super Takumar 28mm(f3.5), f5.6, 1/16s(絞り優先) 5月後半といえばバラのシーズンだ。今年もまた春日井の王子バラ園へ行ってきた。ここは王子製紙の社宅の敷地内にあるバラ園で、王子製紙が管理して無料で一般公開している。秋バラも見に行ってるから、今回で5、6回目になるだろうか。すっかりお馴染みの場所となった。 バラは花期が長いからピークをはずすことは少ないけど、どこをピークと見るかは難しい。品...

    2007/05/25

    花/植物(Flower/plant)

  • 光によって移り変わっていく小堤西池の夕暮れ風景

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f3.5), f5.6,1/16s(絞り優先) うちの近所でもあちこちで田植え風景を見るようになった。もうそんな季節なんだ。小堤西池でも本格的に始まったようだ。毎日、何も思わずに白いご飯を食べているけど、自分の知らないところで農家の人が苦労して米を作っている。一年がかりで。そのことを初夏の田植えと収穫の秋に思い出す。本当はもっと思い出さないといけないのだけど、せめて年に2回は感謝の気...

    2007/05/25

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • 今年も遅れた小堤西池のカキツバタにまた来年会いに行こうと思った

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f3.5), f4.5,1/30s(絞り優先) おととしの5月10日、刈谷市に国の天然記念物に指定されているカキツバタ群落があると初めて知って、喜び勇んで行ったらまだ2分咲きだった。 去年は5月29日、満を持して行ったはずが大遅刻。半分ほど枯れ切ったカキツバタを前に、呆然と立ち尽くす私であった。 今年は今日5月23日、ちょうどいいんではないだろうかフフと余裕を持っていったら、2年連続の遅刻で意...

    2007/05/24

    花/植物(Flower/plant)

  • 鎌倉の花パート2 ---これで鎌倉編はようやく完結

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/30s(絞り優先) 今日から横浜巡り本編のつもりだったんだけど、眠たさに負けて鎌倉の花パート2となった。うたた寝しても眠気が飛ばずに、頭がぼんやりしている。途中で文章が寝言のようになるかもしれない。そのときは起こしてください。 まずはシラー。 たぶん、シラーでいいと思う。ドイツの詩人のシラーに関係あるのかと思ったら、全然なかった。ギリシャ語の有...

    2007/05/23

    花/植物(Flower/plant)

  • 横浜らしい風景の一日の移り変わり ---横浜編プロローグ

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f6.3 1/40s(絞り優先) 日帰りよくばり横浜巡りツアーを無事に終えて、たくさんの思い出と写真が残った。 その第一弾として今日は、横浜らしい風景の一日の移り変わり写真を並べてみた。それはやはり、ランドマークタワーを中心とする、みなとみらい21地区ということになるだろう。写真などで見慣れた高層ビル群が、横浜の街のどこを歩いていてもいつでも見えていた。 この...

    2007/05/22

    横浜(Yokohama)

  • 週末は横浜で

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.0 1/40s(絞り優先) 今週末は、東京・横浜行きで家を留守にします。更新はお休みです。 再開は月曜日。 ちょっといってきます。...

    2007/05/19

    猫(Cat)

  • 鎌倉番外編パート2 ---見えなかった鎌倉名物と人だかり

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f6.3 1/40s(絞り優先) 鎌倉番外編パート2は、鎌倉の街風景を中心に。歴史の街鎌倉といっても、魅力は神社仏閣だけではない。買い物や食事も楽しみのひとつだ。そちらが好きで鎌倉に通い詰めているという人もたくさんいることだろう。 こうして並べた写真をあたらめて見てみると、本当にこの日はどこへ行っても人の波から逃れることができなかったんだなとあらためて思った...

    2007/05/18

    観光地(Tourist spot)

  • 鎌倉番外編パート1---寿福寺と切通しと鎌倉の生き物たち

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f6.3 1/50s(絞り優先) 鎌倉行きを振り返ると一日でかなりの枚数の写真を撮った。300枚以上撮っただろうか。これがフィルムだったら現像とプリントで1万円にもなってしまう。デジカメ時代に生まれてよかった。 本編で使えなかった写真がまだかなりあったので、今日はその中から何枚かを番外編として載せておきたい。日の目を見ないまま眠らせておいても、自分でも見返すこと...

    2007/05/18

    観光地(Tourist spot)

  • 鎌倉紀行最終章は長谷寺の話半分と大仏の謎と由比ヶ浜の涙

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/50s(絞り優先) ラッシュ時の山手線並みの江ノ電に積み込まれて、私たちはなんとか夕方5時過ぎに長谷寺へと到着した。長谷まで来れば、もうゴールは間近だ。あわよくば江ノ島までと考えていたけど、それはさすがに無理だった。北鎌倉をしっかり回ると、一日で江ノ島まではたどり着けない。 閉門間近の時間でも、長谷周辺は大勢の人で混雑していた。狭い歩道も相変わ...

    2007/05/18

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 鶴岡八幡宮でようやく求めていた源氏の鎌倉と出会う

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/100s(絞り優先) 北鎌倉駅から建長寺まで歩いていったなら、そのままもう鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)まで歩いて向かうしかない。帰還不能点は過ぎてしまっている。今さら引き返しても、かえって余計に歩くことになる。 せっかくだからということで、亀ケ谷坂切通しを通って、寿福寺にちらっと寄りつつ、やっとの思いで鶴岡八幡宮にたどり着いた。その頃に...

    2007/05/17

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 鎌倉五山第一の建長寺は立派なのに何かが足りないもどかしさ

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/100s(絞り優先) よくばり鎌倉巡り標準コースの中間に建長寺がある。貧乏性の人間が初めて鎌倉を訪れたとき、せっかくだから主なやつは全部見ておこうという貧乏性丸出しにするとたいていここが中間地点となるはずだ。北鎌倉のクライマックスという言い方もできるだろう。北鎌倉のはずれで、この先は鎌倉駅ゾーンとなる。 鎌倉五山の第一位ということでいやが上にも...

    2007/05/16

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 明月院で鎌倉紀行もやっと半分で、まだ先は長いのだ

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/80s(絞り優先) そろそろゴールデンウィークも遠い日の出来事になりつつある昨今。にもかかわらず、私の鎌倉紀行はまだ半分も書き終わっていない。どういうことですか、これは。などと誰にともなく当たってみる。けど、居直っていても終わらないので、一日一寺ずつ書いていくしかなかろう。途中に何も挟まなければ、建長寺、鶴岡八幡宮、長谷寺、鎌倉大仏、その他、と...

    2007/05/15

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 季節の花は今年のこの季節のうちに---鎌倉の花第一弾

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/30s(絞り優先) 初夏の鎌倉は花盛り。花目的だけで行っても楽しめるくらいに。アジサイの季節になるととんでもない人混みになるから、ゆっくり花を見て回るには5月がいい。 今日は鎌倉で撮ってきた花写真の第一弾ということで、何枚か紹介したい。古都鎌倉は花の都でもあった。 円覚寺のシャクナゲ(石楠花)。しゃくなげ色にたそがれるのあのシャクナゲだ。パッと...

    2007/05/14

    花/植物(Flower/plant)

  • 私の作るやわらか料理は22世紀を先取るニューパワー

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/15s(絞り優先) 今日のサンデー料理のやる気は70パーセント。作りたい気持がなくはないけどもうひとつ気合いが入らなかった。自分が食べたくて、食材がシンプルで、作りやすいものということで、思いついた料理をさらっと作ることにする。出来上がってみるとそこには、やわらか料理の神髄とでも言うべき料理が並んでいた。入れ歯のおじいちゃんにも喜ばれそうな3品が。 前々か...

    2007/05/14

    食べ物(Food)

  • 鎌倉は源氏ではなく北条氏のものだったのだと浄智寺で気づく

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/10s(絞り優先) 北鎌倉名所巡りは、一番上の円覚寺から始まって、東慶寺、浄智寺へと続く。入口が少し分かりづらくて見逃して通り過ぎてしまいそうになるけど、ここもいいお寺なので北鎌倉へ行ったときはぜひ寄っておきたい。 鎌倉って実際にどんなところなのかを詳しく説明できる人は、案外少ないんじゃないだろうか。私も行く前はそうだった。いい国作ろう鎌倉幕府...

    2007/05/13

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 遅刻して行った御作ふじの回廊で今年の藤は満腹

    PENTAX istDS+Super Takumar 28mm(f3.5), f5.6, 1/50s(絞り優先) 今年はなんとなく藤をしっかり見たい気分だったのに、微妙に時期と場所がずれてなかなか満足するほど見ることができないでいた。そんなこんなでゴールデンウィークも終わって5月も10日を過ぎた。もう完全に遅いのだけど、最後の望みとして藤岡の「ふじの回廊」を見に行くことにした。ゴールデンウィーク中に、今年は開花が遅れているという情報をネットで見てい...

    2007/05/12

    花/植物(Flower/plant)

  • 移り変わる時代と変わらない人の本質を思った東慶寺訪問

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/40s(絞り優先) 尼寺へ行け、尼寺へ。と、言われたわけでもないけれど、私たちは元尼寺だった東慶寺(とうけいじ)へとやって来た。円覚寺が旦那の北条時宗の寺で、道一本隔てた向かいのこの寺は奥さんの覚山尼(かくざんに)のお寺だ。 時宗が34歳で死んだ翌年(1285年)、時宗の菩提を弔うために覚山尼が開いた。開基は息子で第九第執権の北条貞時。貞時は父の早世...

    2007/05/11

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 若き苦悩の執権北条時宗という男が作った円覚寺という寺

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/50s(絞り優先) 北鎌倉駅に降り立つと、すでにそこは円覚寺である。明治22年に横須賀線が開通したとき、円覚寺の中を思い切り線路を横断させてしまったからそうなった。北鎌倉駅ができたのは昭和2年のことで、当初は住民の要望による夏限定の仮駅だった。線路脇にある白鷺池(びゃくろち)の唐突さを見ても、そこが境内だったことを示している。そんなわけで、円覚寺は...

    2007/05/10

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • ゴールデンウィーク明けの天王川公園は藤の名残と残り香だけ

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm(f3.5-5.6 DC), f6.3, 1/15s(絞り優先) ゴールデンウィークが明けると気持ちが焦り始める。ここから季節の花が一気に咲き逃げていくから、それを追いかけないと追いつけない気がして。藤にキリシマツツジにカキツバタ、バラに花菖蒲にアジサイ。ミズバショウはもう終わってしまっただろうか。今年はヒトリシズカも見に行くことができなかった。森では夏を前に、野草たちが二度目のピークを迎える。湿...

    2007/05/09

    施設/公園(Park)

  • 鎌倉で撮った人のいる風景あれこれ

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/25s(絞り優先) 人がいる風景の写真を撮りたいといつも思っている。観光地というのはその点で最適なロケーションだ。せっかくなら、人が入ってしまった写真ではなく、人を入れた写真にしたい。けど、絵になる人やドラマを感じさせるシーンにいつも都合良く出くわすわけではないから、偶然だけが頼りとなる。見ず知らずの人に演出はできない。いいカップルが登場してこ...

    2007/05/08

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • 新緑と花々と人々で押し合いへし合いゴールデンウィークの古都鎌倉

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/80s(絞り優先) ずっと以前から、鎌倉に対して憧れと恐れの入り交じった複雑な気持ちを抱いていた。前世の因縁が何かあるようなないような、そんなことを思ったりもした。行きたい気持ちと、近づかない方がいいような予感もあって、うかつに行くことができないでいた。 実際に行ってみたら、とても楽しくて怖いようなこともなく少し拍子抜けしたところもあったのだけ...

    2007/05/07

    名所/旧跡/歴史(Historic Sites)

  • ちょっと行ってきます報告

     ゴールデンウィーク後半は、鎌倉・東京散策の旅に出ますので、ブログはお休みです。 再開は、5月の6日を予定してます。 もしかすると、東京から現地リポートができるかも。 それじゃ、ちょっと行ってきます。...

    2007/05/02

    動物(Animal)

  • 昔は春の終わりに地面にもたくさんのサクラが咲いていたものさ

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 135mm(f3.5), f3.5,1/20s(絞り優先) かつて、日本中に当たり前に咲いていたサクラソウ(桜草)も、今は野生のものを目にする機会はほとんどなくなってしまった。普通の生活をしていたらまずお目にかかることなく一生を終えることになるだろう。私もまだ見たことがない。一度だけ、愛知だったか岐阜だったかのマイナーな山へ行ったとき、サクラソウの自生地という看板を見たことがある。あれは犬山だ...

    2007/05/02

    花/植物(Flower/plant)

  • 歴史上の人たちも見た花々を今私たちも見ているという感動

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.4,1/18s(絞り優先) あなたはどんな花が好きですかと問われて即答するのは難しいのだけど、たとえばという前置きをしたあとにいくつか挙げることはできる。その中の一つにブルーデージーがある。あの爽やかで涼やかな色合い。くるくると回り出しそうな可憐な花びらの形。ブルーデージーを見ると、ちょっと微笑みを返したくなるキャンディーズ世代の私なのだ。 そんな私なので、この花...

    2007/05/01

    花/植物(Flower/plant)

山下公園は何もなくて何もしなくていい贅沢空間だった

横浜(Yokohama)
山下公園-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/40s(絞り優先)



 横浜で山下といえばピッカリ頭の山下監督を思い浮かべる人が少しはいると思うけど、たいていは山下公園を思うだろう。横浜における有名スポットアンケートを取れば、まずベスト3に入ってくるはずだ。じゃあ、山下公園に何があってどんな公園なのかと訊かれると、これが意外と分からない。昔、タカとユージが走り回っていたことしかイメージできない自分が少し悲しい。となれば、実際に行って自分の目で確かめてみるしかあるまいて。
 ということでやって来た山下公園は、無駄なほど人が多かった。無駄に人が多い公園というのもあまりないのかもしれないけど、山下公園における無駄さは、ここを訪れている大部分の人が無目的にやって来て何もしてないところにある。みんな、なんとなくぼぉーっとして過ごしている。少なくとも私の目にはそう映った。なんだろう、この無駄な感じ。東京の代々木公園や日比谷公園も休みの日は人が多いけど、もう少し何か目的を持って集まってきている。犬の散歩をするとか、弁当を食べるとか、子供を遊ばせるとか。山下公園にはその程度の目的意識さえ希薄に感じられたのだった。
 これはなにもけなしているとか非難しているとかそういうことではない。この独特な感じがある意味すごいなと感心したのだ。何もしないことの贅沢さをみんな自覚してかせずか、非常にゆったりと時を過ごしている。そういう生ぬるい心地よさがこの公園全体を支配している。邪魔になるような活気もない。私たちもしばらく無意味に歩き回ったあと、海沿いの空いたベンチを見つけてしばらくぼんやりした。自分たちが観光客だということも忘れるほどに。ここは横浜で最も何もしないことが似合う場所だ。

 何もない、何もしないといっても、本当に何もないわけではない。写真に写ってる氷川丸もあるし、赤い靴の女の子像や水の守護神の像もある。花壇もあれば芝生広場もあり、遊覧船やレストラン船も停泊している。振り返ればマリンタワーも見えるし、何より海がある。
 ただ、それらはあくまでも小道具であって、なければ成立しないというものではない。山下公園の本質はこの場所に存在している空間そのものだ。場所的にも、みなとみらい21と山手をつなぐ中間であり、中華街への出発点でもあって、ちょうど立ち寄って一休みするのに都合がいい。夜は夜景スポットにもなる。人が集まってくるには必ず根拠があるのだ。
 それにしても山下公園はすることがない。肝心の氷川丸は現在閉鎖中で中に入れないし(2008年春再オープン予定)、マリンタワーもお休み中となっている(2009年まで)。レストラン船は気軽に入れるようなとろこじゃないし、ここには売店というものがない。自販機ひとつないから、ほとんど誰も飲み食いしていない。そこがまたみんな何もしてないように見える一つの要因となっているのだろう。屋台などは全面的に禁止しているようだ。休日は大道芸の人たちがパフォーマンスをしたりするそうだけど、この日はいなかった。大きなボート大会が開かれていたからかもしれない。

 横浜の街は関東大震災で大きな被害を受けた。ほとんど壊滅的といっていいほどに。そのときに出たガレキを使って山下公園が作られたというのはよく知られた話だ。海沿いのこの場所がガレキの捨て場になって、こんなに集まったから海を埋め立てて公園にしてしまおうと最初に思いついた人は賢かった。
 1930年(昭和5年)に作られた山下公園は、日本で最初の海沿いの公園とされている(その定義は曖昧らしいけど)。面積は約74㎡。
 開園から5年後には復興を祝う意味で博覧会が開かれた。たくさんのパビリオンが立ち並んで、現在花壇になっている場所には鯨を泳がせたりして、大盛況だったそうだ。ここは震災復興の象徴的な公園でもあったのだ。
 太平洋戦争のときは海軍に占拠された。戦後は長らくアメリカ軍に乗っ取られもした。マッカーサーもやって来ている。その後、少しずつアメリカ軍は帰っていって、ようやく1961年(昭和36年)に日本の市民のものとして戻ってきた。1988年(昭和63年)には、横浜博覧会がここで行われている。
 公園でのんびりできるのも平和だからこそだ。

赤い靴の女の子

 赤い靴の女の子像の前で記念撮影をする女の子たち。それは岩崎きみちゃんという実在の人物で、赤い靴の作詞家は野口雨情という人なんだよとうんちくを傾けても彼女たちは喜ばなかっただろう。ときに現実の知識は人の夢を壊す。
 岩崎かよは18歳のとき、未婚で子供を産んだ。生まれたばかりのきみを連れて逃げるように故郷静岡の清水を離れて、開拓民として北海道へ渡る。しかし生活は苦しく、きみは病弱で、それ以上手元で育てるのは無理だった。ちょうど養子を探していたアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻にきみはもらわれていった。これが歌詞の中に出てくる異人さんだ。3年後、任務を終えたヒュエット夫妻がアメリカへ帰ることになったとき、きみは結核におかされていた。当時結核は不治の病だった。きみは異人さんに連れていかれてはいなかったのだ。麻布十番の教会の孤児院に預けられたきみは9歳のとき死んでしまう。しかし、そのことは母親のかよには知らされなかった。だからかよは自分が死ぬまできみはアメリカへ行って幸せに暮らしていると思っていたという。あの歌は母親の目線から歌われたものだった。
 なんて話を、写真を撮っていた女の子たちに聞かせたら、泣いてしまっただろうか。話してる私の方が泣いてしまいそうだ。きみちゃん像は今日も体操座りで遠くの海を見つめている。

山下公園-2

 公園の中心あたりに噴水があって、中央には水の守護神の像が建っている。姉妹都市であるアメリカのサンディエゴから贈られたものだそうだ。
 特にどういうということもないけど、なんとなくみんな写真を撮ってしまう。それだけ山下公園には被写体が少ないということでもある。
 後ろに見えているのがマリンタワーだ。一応灯台の機能も持っているので、世界一背の高い灯台(106メートル)ということになっている。ただ、実際にはあまり灯台としては役に立っていないらしい。
 横浜港開港100周年記念で1961年に建てられた。中には展望室があって、できた頃は大変な人気だったそうだけど、近年は業績が悪化して、ついに2006年の12月で閉鎖されてしまった。ただ、公募で新しい借り主が決まったようで、2009年春には再オープンが予定されている。
 ライトアップだけは続いていて、夜はとてもきれいだった。

山下公園-3

 ここが昔の博覧会のとき鯨を泳がせたという場所だ。今は花壇になっている。しかし、今そんなことをやったらグリーンピースが黙っちゃいない。動物愛護団体からも猛烈抗議になるだろう。生き物を大事にすることは私も全面的に賛成するけど、給食に鯨の肉が出ていた頃がときどき懐かしく感じられる。
 この時期はバラがたくさん咲いていた。じっくり見られるとよかったのだけど、山手へ行く時間だったので遠くから見ただけで終わってしまった。鯨が泳いでいたらもちろん見に行ったのだけど。

港の見える丘公園

 山下公園からは、100円均一のバス「あかいくつ」に乗って、山手方面へと向かった。着いたのは港の見える丘公園。私個人としては山下公園よりもこちらの方が名前として惹かれるものがあった。けど、この景色を見て大きくがっかりしてしまう。なんなんだ、このごたついた感じは。確かに港は見えるけど、私が見たかったのは港の向こうの海で、港そのものではないぞ。いや、名前をもう一度よく読んでみれば確かに間違ってはいない、港の見える丘公園。そうか、港が見える公園なんだ。海が見える丘公園とは誰も言ってない。しぶしぶ納得。
 ここは開港当時から外国人居留地だった場所で、名前の通り坂の上の丘になっている。山手地区とも一体となっていて、外国人とお金持ちのための地域だった。戦後はアメリカ軍に押さえられていた。
 公園として整備されたのは昭和37年。ここも横長の公園となっていて、高台の方にイギリス館などがあって、下の方はフランス人居留地があったことからフランス山と呼ばれている。
 ここはなんといっても夕焼けから夜景にかけての時間だ。手前のごちゃごちゃした部分が暗くなって、遠くのベイブリッジの明かりがロマンチックになるのだろう。昼間に過度の期待は禁物だ。

港の見える丘公園-2

 こちらにも気持ちのよさそうな芝生広場がある。けど、やっぱり山下公園とはまったく異質のものだ。ロケーション的にここでゆったりする気にはなれない。
 向こうに見えている茶色い建物は、大佛次郎記念会館だ。いまどき大佛次郎の『鞍馬天狗』など誰が読むのか。そもそも大佛次郎の名前さえ読めない人が多くなってるんじゃないだろうか。私自身ほとんど興味もないので入ることはなかった。ただ、大佛次郎といえば大の猫好きで有名で、その点においては共感するものがある。生涯で800匹の猫の世話をしたというほどの筋金入りだった。

山手バラ園

 港の見える丘公園は、山手の洋館巡りの出発点となっている。隣接するようにイギリス館や山手111番館があるから、ここから山手散策を始める人も多い。その一角に立派なバラ園もあった。ちょうど時期的に満開に近くて、おばさまを中心にたくさんの人が見物をしていた。
 1991年(平成3年)5月にローズガーデンがオープンしたというから、まだ新しい。約70種類、1,500株が植えられているという。
 西洋バラの多くが明治になって横浜から日本に上陸したとも言われている。だからということもあって、ここらはバラが多くて、横浜の花はバラとなっている。バラを見たことがなかった日本人たちは、洋ボタンと呼んで珍しがったそうだ。

 横浜巡りはいよいよ後半から終盤へと向かう。このあと山手の洋館巡りをして、中華街へ行って終わりだから、このブログの横浜編もあと2回ということになる。
 山下公園はオススメするまでもなくみんな行くことになるだろう。行ってみると私の言う無駄な感じというのが分かってもらえると思う。港の見える丘公園は、山手巡りをするなら自然とコースに入ってしまうけど、そうでなければわざわざ行くまでもないかもしれない。夜はカップルだらけだろう。
 まあしかし、どちらも一回は行っておいて損のないところだ。何もないことを確かめるためだけでも。私としては、氷川丸が再オープンしたらもう一度行ってみたいと思っている。次はシーバスに乗って山下公園まで行くのも悪くない。

横浜三塔物語を知らなかった昨日と知った今日と叶える明日

横浜(Yokohama)
横浜キング

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/20s(絞り優先)



 三都物語といえば谷村新司。三塔物語といえば横浜と相場が決まっているようないないような、昨日、今日、明日。我々が赤レンガの次に向かったのが横浜のキング&クイーン&ジャックだった。
 明治の開港以来、横浜にはシンボルとなる三つの歴史的な建物がある。通称キングと呼ばれる神奈川県庁、クイーンの横浜税関、ジャックの横浜市開港記念会館と、この三つを横浜三塔という。これは最近の話ではなくて、ずっと昔に外国から来た船乗りたちが言い始めたのだという。トランプの絵札になぞらえてそう呼んだんだそうだ。当時は高い建物が少なかったから、港に近づく船からもそれぞれの塔がよく見えたことだろう。
 そして今、ひそかに三塔物語というものが新たなる都市伝説として語られるようになった。船乗りたちがこの塔に航海の安全を願掛けしたことから、三つの塔を同時に見られる三つのポイントから眺めると願いが叶うとされている。七つのドラゴンボールを集めるよりもずっと簡単だからやれるものならやりたかったのだけど、そんなネタは行く前には知らなかった。帰ってきてから初めて知った。
 しかし、手掛かりなしに三つのポイントを自力で見つけるのは難しい。かなり厳しい条件をクリアしなければならないから。でも、自分で見つけてこそ価値があるとも言える。答えを人に教えてもらって実現しても価値は低いから、小さな願い事しか叶わないかもしれない。ヒントは、キングの正面、大さん橋、赤レンガ倉庫だ。ポイントを発見すれば足もとにプレートとマークがある。横浜へ行くようなことがあれば、ぜひ挑戦してみて欲しい。そして願いを叶えて、変わりゆく私が紅くいろづくときめきを誰かに告げてください。

 キングこと神奈川県庁は、大さん橋から見て正面にでんと構えて建っている。この場所は江戸時代から役所のあった場所で、昔も今も変わらずここが横浜の行政の中心となっている。
 現在の建物は、関東大震災で倒壊した先代を建て替えたもので、昭和3年に公募の中から選ばれた(4代目に当たる)。このデザイン、どこかで見たことあるなと思ったら、愛知県庁と名古屋市役所を足したような感じなのだ。名古屋の場合、上は模擬天守閣とシャチホコが載っているんだけど。横浜の場合は、そんなおちゃらけたことは一切せず、あくまでもマジメに重厚だ。余計な装飾もせずにキングの風格を崩していない。
 高さは約48メートルでクイーンよりも3メートル低い。5階建てで、塔の部分まで入れると9階建て相当になる。
 現役の県庁舎として使われていて、一般でも自由に入ることができる。入口のエントランスからレトロ感満載で、高級感が漂っているそうだ。6階には展示コーナーがあって、ここからの見晴らしはなかなかのものらしい。ただし、役所なので開いてるのは平日のみとなる。

横浜のクイーン

 美しい尖塔とイスラムのモスクのようなドームを持つのがクイーンこと横浜税関本館だ。ここが神奈川県庁よりも高いのは、県の建物より国の建物が低くては格好がつかないということで当時の税関長が設計を無理矢理変更させたという話が伝わっている。こちらも関東大震災で4代目の建物が倒壊したあと、昭和9年に再建されたものだ。ただ、財政難からここは後回しにされてしまって、その間職員たちは平屋のバラックで仕事をこなしていたそうだ。戦後は8年間もアメリカ軍に取り上げられて米軍の司令部として使われていた。なかなか波乱に富んだクイーンなのだ。
 ここは基本的に年中無休で一般も入ることができる。1階には横浜税関資料展示室(クイーンのひろば)があって、そこでは税関の歴史や仕事を学べるだけでなく、ブランド品のコピーの展示や、覚醒剤などの密輸の手口をビデオで紹介したりもしているそうだ。ニセモノのバッグや時計を持って入っていったら没収されるかもしれないので気をつけよう(それはない)。

横浜ジャック

 建物として最も優美で華麗なのが、ジャックの横浜開港記念会館だ。1917年(大正6年)に、横浜開港50周年を記念して市民の寄付で建てられた。その後関東大震災や第二次大戦にも耐え、何度かの修復を経て現在もかつての姿をとどめている。これは美しい。国の重要文化財にも指定されている。
 現在は講演会や展示会などをやるための公会堂として使われている他、毎月15日に内部が一般公開される。ステンドグラスや装飾品など、昔の面影がしっかり残っているという。

横浜海岸教会

 おまけは横浜海岸教会。1871年(明治4年)に日本で最初のプロテスタント教会として建てられた。現在の建物は関東大震災後の1933年(昭和8年)に再建されたものだ。今は高い建物と木に邪魔されて視界が悪くなっているけど、大さん橋からは尖塔が正面によく見える。かつては海や港から高々とそびえる姿が楽に確認できたことだろう。
 残念ながら一般の見学は不可のようで、門は閉ざされていた。夜はライトアップされて、青白く照らされる。
 見学はできなくても結婚式はできる。この海岸教会とカトリック山手教会聖堂が横浜における二大本格教会結婚式場となっているようだ。一般的にはカトリックもプロテスタントも関係ないのだけど、カトリックの方がやや厳しい。事前にクリスチャンの勉強会みたいなものに出ないと式を挙げさせてもらえないところが多い。

かつての横浜港

 明治の頃の横浜港の様子を描いた絵。へー、こんなふうだったんだ、としばし見入る。今見ると逆に新しい感じがする。当時の日本人にはすごくハイカラに見えたんだろう。正装した男女が汽車と馬車を乗り継いで港へ行って、日本初お目見えのアイスクリームをなめたりしながら海を眺めるなんてのが当時最先端のデートコースだったのかもしれない。

 キング&クイーン&ジャックの三塔はそれぞれ近いところにあるから、外観を見て歩くだけなら大桟橋の往復を入れても30分くらいだろう。中まで入れば更に楽しめるのだろうけど、外観を見るだけでも価値はある。
 これ以外にも、神奈川県立博物館、旧富士銀行横浜支店、横浜郵船ビル、戸田平和記念館など、このあたりには歴史的な建物がたくさん残っている。ぐるっと一周巡っても1時間ちょっとくらいだから、そういうのが好きな人なら横浜観光コースに入れて損はない。中に入れるところまでしっかり見学すれば半日コースになるだろうか。
 時間と体力に余裕があれば、横浜三塔物語に挑戦するのもいい。双眼鏡があれば尚いいところだけど、ここはやはり昔の望遠筒みたいなものを持参したい。昔の外国の船乗りが持っていたようなやつ。
 場所が分からず人に訊ねるとき、このへんにキング&クイーンってありませんか、と言うのはやめておいた方がいい。そんなもの、とっくにつぶれましたよという答えが返ってくる可能性があるから。キングを単独で訪ねると、キングカズの情報を教えてもらえるかもしれない。

お色直しされすぎた赤レンガは授業参観のばっちり化粧のお母さんのよう

横浜(Yokohama)
赤レンガ-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f9 1/20s(絞り優先)



 汽車道のレールに沿って歩いていくと、自然と赤レンガ倉庫にたどり着く。ごらん、おっかさん、あれが赤レンガだよ(ツレはおっかさんではありません)。赤い色のレンガに対してすごく思い入れがあるわけではないけれど、赤レンガという響きはどこか懐かしくて心惹かれるものがある。どうやらそれは日本人に共通した感覚らしい。私たちの世代はすでに子供の頃赤レンガの建物など残っていなかったにもかかわらず。
 何があるか知らないけど、横浜へ来たらとりあえず赤レンガは見ておけ的な存在なので、私たちも素直にそれに従った。それはもう、東山動物園に行ったらコアラを見て、上野動物園ではパンダを見るのと同じくらい既定路線となっている。あえてそれに逆らうほど我々は天の邪鬼ではない。

赤レンガ-2

 おお、これが赤レンガ倉庫か。すごく立派なものだなと感心しつつ、なんだこの真新しさはと少したじろぐ。赤レンガといえば重厚な歴史を今に伝える歴史的建造物というイメージがあるのに、ここ横浜のものは強烈なリニューアルがかかっていて新しすぎるくらい小綺麗になっている。お母さんが突然何を思ったのか整形手術を受けてきてしまったみたいではないか。こりゃ驚いた。もう少し演出として古めかしさを残してもよかったんじゃないか。ちょっと張り切りすぎた感がある。屋根なんかもピカピカだし。こんなにバッチリ化粧の赤レンガは想像してなかった。そういう意味では逆にちょっと拍子抜けした。

 横浜の赤レンガ倉庫は、明治の終わりから大正にかけて、大蔵省の税関施設として建設されたのが始まりだった。なので、正式名称は新港埠頭保税倉庫となる。その後国の倉庫として使われつつもだんだん活用されなくなり、平成元年(1989年)に閉鎖となった。
 倉庫は左右に2棟あって、2号館が明治44年(1911年)に、1号館が大正2年(1913年)にそれぞれ建てられた。設計は明治の三代巨匠の一人、妻木頼黄(つまきよりなか)。ジョサイア・コンドルの弟子で、東京府庁舎などを設計した建築家だ。
 レンガ造りの三階建てで、もともとは両方とも長さが150メートルだった。1号棟は関東大震災(大正12年)で3割ほど崩れて短くなってしまった。それでもその程度の被害で済んだのは、レンガとレンガの間に鉄を挟み込む補強をしていたからだ。ただ、もともと地震の多い日本にレンガ造りは向かない。
 戦後はアメリカ軍に取り上げられて壊れそうになるも、なんとか生き残って、今にその姿をとどめた。
 閉鎖後しばらく放置されていたものを横浜市が平成4年(1992年)に買い取って、1994年から8年をかけて補強改修工事をおこない、2002年に赤レンガ倉庫パークという商業施設としてオープンした。劇的ビフォー・アンド・アフター。巧のワザが冴えまくってボロボロ老朽倉庫から新品同様の商業倉庫に見事変身を果たしたのであった。
 1号館はホールや展示場、イベント会場として使われ、2号館にはショップやレストランなどが40店舗ほど入っている。現在は観光の新名所としてだけではなく、横浜市民の憩いの場としてもすっかり定着したようだ。服を着せた犬連れの人がやたら多かった。ロケ地としても格好のロケーションということで、最近では「僕の生きる道」や「喰いタン」などでも登場している。
 2006年には来場者が2,000万人を超えるなど好調が伝えられる一方で、古い建物ゆえに維持費が高くていまだに赤字続きなんだそうだ。訪れる人は多くても、ショップや飲食店でお金を使ってくれる客は一部で、見た目ほど儲かってないのだろう。自前の弁当を広げてる人たちも多かった。もう少しお金を使ってもらうための工夫が必要かもしれない。観光客など一見さんだから、もっとハマっ子にとって日常的に利用しやすい施設を目指した方がよさそうな気もする。

赤レンガ-3

 赤レンガパークの海側には気持ちのいい空間が広がっていて、潮風に吹かれながらベンチや芝生でのんびりすることができる。ここはお金がかからなくていいところだ。
 赤い花はなんだろう。ハマナスかと思ったけど色もつぼみの形も違う。そのうち調べておこう。
 ここは海上保安庁の基地があるところで、「海猿」の舞台にもなったところだ。実際の訓練などもおこなわれている。向こうに見えている船は海上保安庁基地の船だろう。隣には海上保安庁資料館横浜館もあって、無料で見学することができる。海上保安庁の業務を学んだり、工作船が展示してあったりするそうだ。ちょっとマニア向け。いや、かなりか。

赤レンガ-4

 倉庫の方に戻ってきてみると、ものすごい人だかりになっていて驚く。なんだこの人たちは、どこからわき出してきたんだ。ワラワラワラワラと。
 実はこの日、ジャパン・ヒストリックカー・ツアー2007という公道レースがあって、横浜赤レンガがゴール地点になっていたのだ。それを見に来た人が半分、観光のついでに集まってきたのが半分といったところだろうか。車が続々とゴールしてくるに従ってどこから聞きつけたのか、人がゾロゾロやって来てたちまち赤レンガ倉庫前の広場はクラシックカーと人で埋め尽くされてしまった。明らかにオールドカーに興味のなさそうな親子連れなども多数参加して、思いがけない盛り上がりに巻き込まれた私たちであった。

赤レンガ-5

 クラシックカーから最新のスーパーカーまで71台が、山中湖を出発して3日間で5県を走破してゴールの横浜赤レンガを目指したそうだ。古い車が多かったから途中で動かなくなる車もあってさぞかし大変だったことだろう。
 なんでも今年で4回目で、年々規模が大きくなっていっているんだとか。この日この場所を訪れなければ、そんな公道レースがあるなんてことを知らないままだった。私のインテグちゃんもクラシックカーになったら参加したい。丸目インテグラが日本で5台くらいになったら参加資格も得られるだろう。
 海外のクラシックカーが多かった中、国産のホンダやフェアレディーが嬉しかった。たまたま巡り合わせでいいものを見せてもらった。
 しかし、こういう車に乗っている人たちというのは、いかにもそれっぽくてちょっとおかしかった。古いイギリスのスポーツカーから降りてくる白いヒゲのおじさんとかもいて。

赤レンガ-6

 結局赤レンガでは、ランチに手作りケーキを食べて、バルコニーの鐘を鳴らして、クラシックカーを見て、それで終わってしまった。倉庫の中に入ったのはトイレを借りたくらいで。でも、なんだかおなかいっぱいになった。見たなって気がして。
 少し雲行きが怪しくなってきた。ここからは午後の時間帯に入る。一般的なコースとしては、新港橋を渡って大さん橋や山下公園方面へ歩いていくことになるのだろうけど、欲張りプランの私たちは古い建物群を見に向かった。ただ、全部を見て回るのは大変すぎるので、キング&クイーン&ジャックと呼ばれる3つの建物だけ押さえておくことにした。それはまた次回の話だ。

赤レンガ-7

 大さん橋から見た赤レンガ方面の夜景。右手前が赤レンガで、夜はライトアップされている。近くで見てもきれいだろう。
 こうして離れて眺めてみると、横浜の街が港町ということがよく分かる。観光施設のメインどころは港沿いの狭い地区にギュッと凝縮している。今となっては、20年前までここがただのさびれた倉庫街だったとは信じられないくらいだ。ランドマークタワーもまた建っておらず、周りの高層ビルも観覧車もなく、赤レンガ倉庫は半分眠るような余生を送っていた。赤レンガ自身もまさかもう一度たたき起こされて賑わいの中心に置かれることになるとは思ってもみなかっただろう。でも、せっかく生まれ変わって第二の人生が始まったのだ。もう一度ボロボロになるまで赤レンガには頑張ってもらおう。1911年生まれということはまだ100歳にもなってない。まだまだ老け込む歳ではない。
 月日が流れて私がヨボヨボになった頃には、インテグちゃんもガタガタになって、赤レンガもまた昔のオンボロさを取り戻してるだろう。そのときを楽しみに私も長生きしようと思う。

横浜巡り王道コースは日本丸に始まり中華街に終わるのだの巻

横浜(Yokohama)
日本丸

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f9 1/25s(絞り優先)



 横浜観光を伊勢山皇大神宮から始めるのは我々くらいなもので、普通の人たちはみなとみらい21地区から出発すると思う。横浜駅周辺はショッピング街だから、観光となると一駅移動した桜木町が実質的な横浜の玄関口となる。
 動く歩道に乗って最初に辿り着くのが、写真の日本丸の前だ。写真やテレビなどでもお馴染みで、たいていの人が思わずこう言ってしまうに違いない。あ、日本丸だ、と。海のない街に住んでいる人が海を見て、あ、海だ、と言ってしまうように。当然私たちも我先にと口走ることになった、あ、日本丸だ、と。
 横浜観光に訪れた多くの人が目にする日本丸も、中まで入って見ようという人は稀だろう。600円はけっこういい値段だし、日本丸に対して常日頃から熱い想いを抱いている人間はそう多くないと思う。そもそも日本丸の名前は知っていても、これがどういう船かを知る人は少ないんじゃないだろうか。
 かつて太平洋の白鳥と呼ばれたこの船は、昭和5年(1930年)に航海練習船として誕生した。それから半世紀に渡って太平洋を行き来しながら航海士を育てることになる。太平洋戦争が激化した1943年には輸送任務に駆り出されたり、戦後は海外に取り残された日本人を日本まで運んだりもした。
 昭和59年(1984年)に現役を引退して、昭和60年(1985年)から横浜港で静かな余生を過ごしている。

ドックヤードガーデン

 古代の遺跡を思わせるドックヤードガーデン。明治に作られた商船用の石造りドックは、今も当時の面影を色濃く残している。ランドマークタワーが高々とそびえるその足もとで。これは横浜の特徴的なシーンの一つだ。古いものと新しいものが上手く融合されて同居している。
 明治29年(1896年)に、横浜船渠第2号ドックとして海軍技師恒川柳作の設計によって作られた。人力で16,720個の石を積み上げたというから、ほとんど戦国時代の城の石垣作りみたいなものだ。
 明治から大正、昭和にかけてドックとして活躍するも、時代の流れでだんだん使われなくなり、昭和48年に閉鎖された。
 これを再生して保存しよう決まったのが平成に入ってからで、平成5年(1993年)にランドマークの敷地内によみがえった。現存最も古い石造りのドックということで、国の重要文化財にもなっている。横浜船渠第1号ドックも、日本丸メモリアルパークに保存されて、こちらも重要文化財に指定されている。
 ドッグヤードガーデンは現在、見学だけでなくイベントスペースとしても活用されている。クリスマスシーズンはイルミネーションで飾られる。

グランモール公園

 ランドマークタワーとクイーンズスクエアの間のグランモール公園に、巨大な銀色のオブジェがある。ガイドブックで見て気になっていた。実物を見て、おお、これがあれか、とちょっと感慨にふける。もちろん、記念撮影もした。でも巨大すぎて全体が入らない。バックオーライ、バックオーライと下がっていくと、ランドマークタワーに後頭部をぶつけて気絶するので気をつけよう(そんなやつはいない)。こんなところで喜んで写真を撮っている人間は見渡す限り私だけだった。みんな見上げもせずにそしらぬ顔で歩いていく。もしかしたら、私の行為はよそから名古屋に遊びに来た人間がナナちゃん人形の記念写真を撮っているのと同じくらい恥ずかしい行為だったのか。
 ところでこいつの名前を知ってるだろうか。私は帰ってきてから知った。ワクワクモクモクヨコハマヨーヨーというんだそうだ。ミナトノヨーコヨコハマヨコスカみたいな名前だな(だいぶ違う)。なんでヨーヨーなのかは分からないけど、だからここはヨーヨー広場と呼ばれているんだね。
 高さ17メートルで、制作者の最上壽之によれば、たなびく雲をイメージしているんだとか。私にしてみたら、銀色の玉がチューブの中を永遠にグルグル回っているようなイメージだ。ヨーヨーって名前はあのヨーヨーなんだろうか。スケバンがよく持ってるあの。

ランドマークタワーと海辺

 ドッグ内の海でカヌーやボートをこいでいる人たちがいて少し驚いた。カヌーはよく分からないけど、ボートは一般客用のものだったようだ。手こぎと足こぎがあって、何艘か出ていた。前に来たときにはこんな光景はなかったと思ったら、やっぱり2004年から始まったんだそうだ。夕暮れどきに海目線で見る夕焼けのみなとみらいもよさそうだ。
 ランドマークタワーは、相変わらずどっしりと構えて居座っていた。高さ296メートルは、完成から15年近く経った今も日本一の座を譲っていない(世界では39位)。ただ、2010年には東京の新宿に高さ338メートルのビルが建つ予定になっている。
 ランドマークタワーも一度登ってみたいと思いつつ、展望台の1,000円はちと高い。同じ高いところへ登るなら、大観覧車コスモクロック21の700円の方が安いし楽しい。ランドマークに登ったらランドマークは見えないし。

コスモクロックから大さん橋方面

 コスモクロック21から見る、大さん橋方面の景色。その向こうの左側にはベイブリッジが架かっていて、右手の緑は山下公園だ。黒い氷川丸も見ている。
 国際客船ターミナルである大さん橋は、単に船の発着場というだけでなく、観光スポットとしてもしっかり機能している。海に突き出しているということで、障害物なく横浜の街を見渡すことができるのがいい。夜景や夕景はもちろん、昼間でも景色がよくて気持ちいい。
 最初にできたのは明治27年(1894年)のことで、現在の姿になったのは2002年だからまだ新しい。当初は石組みの波止場で、設計者がイギリス人技師パーマーということで、イギリス波止場と呼ばれていたそうだ。
 夜景がとにかく素晴らしいのだけど、海風が強くて寒いのが難点だ。もっと風よけを作ってくれーと言いたい。景色が見られる透明なやつ希望。なんならカプセルでもいいかもしれない。カップル用、ひとり用とか。カメラのレンズを出せる穴も欲しい(だんだん趣旨がずれていってる)。

汽車道

 玄関口の港エリアを楽しんだら、次は赤レンガと相場が決まっている。コスモワールドからも直接歩いていけるのだけど、ここはひとつ、少し戻って汽車道から行きたい。神社でいえば、裏からではなく表参道にまわって最初の鳥居をくぐって境内に入るようなものだ。その方が気分が出る。
 三つの橋(港一号橋梁、港二号橋梁、港三号橋梁)も明治に建設された歴史のあるものなので、これもそれなりに感慨を持って眺めるべし。
 ここも夜景が素晴らしいところなので、観光の最後をここで締めるのも悪くない。そこまで余力が残っていればの話だけど。

 この次は定石通り赤レンガということになる。横浜観光はだいたいコースの流れが決まっていて、分かりやすいといえば分かりやすいし、工夫の余地があまりないとも言える。このあとは人によっては関内地区でキング&クイーン&ジャックの古い建築物を見て、大さん橋から山下公園、山手の洋館巡りをして、最後に中華街で夕飯を食べる、というコース設定でほぼフルメニューとなる。ここまでは午前中から動いて一日かければ回りきれるコースだ。かなり体力的にしんどいけど。
 今日紹介したところでだいたい2時間から2時間半といったところだろうか。私たちの場合はしょっぱなに伊勢山皇大神宮へ行ってるから、赤レンガに着いたときはもうお昼を回っていた。でも、なかなか悪くないペース配分だ。計算ではないのに、横浜観光というのは一日の長さにぴったりと合っている。そのあたりも小粋で抜かりがないなぁと思う私であった。
 次回、赤レンガ編につづく。

横浜観光コースに無理矢理神社仏閣をねじ込んでみた

横浜(Yokohama)
伊勢山皇大神宮入口

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/32s(絞り優先)



 横浜観光と神社仏閣は結びつかない。そのことに気づいたとき、けっこう驚いた。たいていの観光地はどこかで神社仏閣と絡んでいるもので、東京でさえ例外ではないのに、横浜で有名な神社仏閣というとまったく思い浮かばなかった。同じ神奈川の鎌倉があれほど神社仏閣だらけなのに。
 考えてみればそれもそのはずで、特に観光地になってるみなとみらい21などは明治になって横浜港が開港して以来発達したところで、それ以前はさびれた寒村にすぎなかった。観光コースはどこも埋め立て地で、古い歴史もあろうはずがない。横浜の史跡巡りをするなら、東海道沿いの金沢地区などへ行く必要がある。あちらには歴史の名残や神社仏閣もたくさん残っている。
 それでも横浜観光のついでに神社仏閣へも行っておきたかった。そこで見つけたのが伊勢山皇大神宮(イセヤマコウタイジングウ)だった。ガイドブックに小さく出ていて、横浜の総鎮守というではないか。これはもう行かねばなるまい。
 ということで私たちは横浜に着いてまず最初に挨拶をしに行ったのだった。

 明治3年(1870年)、外国に対する貿易港となった横浜の街は異国情緒あふれるエキゾチックな街となりつつあった。そんなとき、このまま日本の精神を忘れるのはよくないと、県知事の井関盛良はこの地に神社を造ることを思いつく。せっかくなら総大将がいいだろうということで、伊勢神宮から天照皇大神を分霊して横浜に招いた。現在の掃部山公園のあたりにあった旧戸部村の祠を今の場所に移して、国費で伊勢山皇大神宮を創建したのだった。そのとき同時に地名も野毛山から伊勢山へと変更している。
 以来、関東のお伊勢さんとして地元民には大変親しまれているという。ガイドブックの扱いは小さいからよそから横浜観光に行ってここもコースに入れる人はあまり多くないと思うけど、年間150万人の参拝客があるというからたいしたものだ。
 横浜の総鎮守ということで、みなとみらい地区にある大部分の超高層ビルは、ここの神主が地鎮祭をおこなっている。このあたりの情緒が日本的で私は好きだ。最先端の超高層ビルと神主のお祓いというセットメニューは外国人の目には奇異に映ることだろう。横浜ベイスターズも毎年ここで必勝祈願をしている。ガンバレ、伊勢山皇大神宮の神様。

 桜木町駅から徒歩10分弱なのだけど、裏から行くと分かりづらい。成田山横浜別院の境内を通って右側の道を抜けた先になる。途中で分からなくなって競馬へ行く地元のおじさんに道を尋ねてしまった。表通りから行くと、紅葉坂を登っていくのが分かりやすい。ただし、裏側から行くのが表参道で、表通りから行くと裏参道になるので、やっぱり裏から行くのが正式なようだ。
 高台にあるので、登っていくのがけっこう大変だ。かつては高いビルもない鬱蒼とした山のようなところだったから、ここから横浜の町並みや海が遠くまで見渡せたそうだ。今はすっかり視界も悪くなった。
 境内は桜の名所にもなっていて、このときもやっぱり裏から表参道を登っていく方がいい。

伊勢山皇大神宮境内

 拝殿の中では何やら祈祷がおこなわれていた。小さな赤ん坊を抱いた人や、その関係者らしき人が集まっていたから、初宮詣というやつかもしれない。その他様々な祈祷なども受け付けていて、結婚式も執りおこなうようだ。お祓いは金額によってメニューも違ってくる。1万円なら普通の記念品、2万円なら特別な記念品がもらえて、3万円になると神楽舞がついてくる。この料金システムって、なんとなくあやしい店の料金体系に似ているような気もする。
 拝殿の外観は、伊勢神宮を思わせるようなものとなっている。独特な鳥居の姿もそうだ。拝殿そのものは関東大震災のあと昭和3年に再建されたものだから、まだ新しい。
 祭神は天照大御神の他、月讀命、須佐男命、大国主命、住吉三柱神となっている。
 境内には杵築宮、三輪明神分霊大神神社などもある。
 例大祭も盛大で、20基の神輿がみなとみらいの高層ビル群の間を練り歩くんだそうだ。

成田山横浜別院

 伊勢山皇大神宮の手前には成田山横浜別院がある。名前の通り、成田山の別院だ。全国に別院が8つあって、その中の一つとなっている。このあたりは神社仏閣過疎地帯なので、せっかく行ったなら両方抱き合わせで参拝していくのがいいだろう。
 この横浜別院がまた面白いところで、神社仏閣の商店街のようになっている。不動尊、水子地蔵、寺院、稲荷などが商店のように並んでいるのだ。
 地元ではもっぱら野毛山不動尊や延命院と呼ばれていて、成田山の別院というのはあまり意識されてないという話もある。その成り立ちは少しややこしくて、なおかつはっきりしない。
 もともとは、横浜の地に不動明王を祀る寺がなくて、成田山新勝寺まで行くのは遠いから、なんとかここに支社を造ってくれないだろうかという地元民のリクエストから始まった。分霊してもらった横浜別院ができたのは、伊勢山皇大神宮と同じ明治3年というのだけど、両者に関連があったのかなかったのかはよく分からない。関東大震災と空襲で全部焼けてしまって資料や記録が残ってないんだそうだ。
 それからどういう経緯を経て、いろんな神社仏閣が寄り集まるようになったのかもよく知らない。境内の雰囲気は、明治以降のものでありながら江戸時代のセットのようでもある。

関帝廟

 いきなり話は飛んで、中華街の関帝廟(かんていびょう)。途中の観光コースには神社仏閣は出てこない。
 関帝廟というのは中華街の中の一つのセットというか、ランドマーク的な建物かと思っていたら、本気の寺ということで意外だった。ここで暮らす中国人たちの大いなる心の支えとなっているという。神楽坂の毘沙門天みたいなものだろうか。『三国志』に出てくる関羽を神として祀っている。中国人の関羽信仰というのは相当なものなんだそうだ。
 このときは夜ということで中に入ることができなかった。入ることができたら、本堂の慈眼山長楽寺などを見ることができたはずだ。しかし、派手な外観だな。金銀財宝ギーラギラな感じ。中国明・清時代の南廟堂様式らしい。

 一番最初は、ひとりの中国人が山下町に小さな廟を建てたことに始まる。その後、訪れる人が多くなり、中華街の発展とともにだんだん大きくなっていったようだ。建物は震災や火事、空襲で焼けて、現在のものは4代目となっている。凝った装飾などは中国や台湾から職人さんを呼んで完成させたという。メイドイン中国でも、ここのものは全然意味が違う。
 もともと関帝廟というのは、関羽の人格を敬愛する中国の人々によって生み出されたものだった。信義に厚くて、金にも潔白な人物だったということで、のちの時代で神格化されていった。ひとりの人物を神として祀るのは日本でもやってることなので不思議ではない。菅原道真さんなどがその代表だ。
 信義を重んじるということが中国では昔から大切な美徳としてあって、そのイメージと関羽が重なる部分が多かったのだろう。それと、商売上手だったという一面もあったようで、そういうことでも中華街の人々に信仰されているようだ。世界中のチャイナタウンに、この関帝廟は建っている。

 個人的にはちょっと物足りない横浜神社仏閣巡りだったのだけど、みなとみらいに近いところにこれだけあると知らなかったという人も多かったかもしれない。神社仏閣は探せば必ずある。なくても私が見つけてみせよう。神社仏閣探偵になれるくらい詳しい私なのだ。
 横浜神社巡り第二弾があるとすれば、やはり金沢方面に行くことになるだろう。宿場町の面影を残すあたりとあわせて行きたい。それと、寺社ではないのだけど、三渓園という古い建築物を集めて野外展示してあるところがあって、そちらもぜひ行きたいと思っている。場所が離れているから少し不便かもしれないが。離れているといえば、川崎大師も行かねばなるまい。
 横浜は近過去と現代だけの街じゃない。神社もあるじゃんなのだ。関係ないけど、野毛山動物園も、ズーラシアも行ってみたい。八景島シーパラダイスも。ハマの大魔神社はもうないんだろうな。また行こう、横浜たそがれ。

横浜につどう人々と横浜断片風景写真パート1

横浜(Yokohama)
横浜断片風景-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f9 1/50s(絞り優先)



 横浜と東京の街の性格の違いをひとことで説明するのは難しい。どちらも観光地と生活の場という両方の性質を持っている点では共通しているものの、似ているか違っているかといえばやはり全然異なっているという印象を受ける。それは都会度の差ではない。
 かなり乱暴に結論めいたことを言ってしまうと、横浜というのは非常にほどよい感じに支配された街だと思う。すでてにおいて適度な感じがあって、過剰さがない。必要充分に都会で、でも東京ほどガチャガチャしてないからあまり緊張せずに済む。言い方を換えれば刺激が足りない。
 ひとつには、東京に対する妙な対抗意識みたいなものがなくて自己完結的というか自己満足的なところがある。それが居心地のよさにつながっているのだろう。大阪や京都や名古屋あたりとはそのへんに決定的な違いを感じる。横浜には大人の余裕がある。あるいは、生まれも育ちもいいお坊ちゃん的な街とも言えるかもしれない。嫌味がなくて、卑下したところがない。

 横浜は歴史を現代に上手く取り込んでいる街だ。過去の遺産に頼るでもなく、古いものが単に放置して残ってしまったのでもなく、古さと新しさを上手く調和させている。
 上の写真の汽車道(きしゃみち)もその一つだ。明治の時代に港地区の物資を運ぶために敷かれた鉄道の線路を今に残している。使われなくなったらなんでも取っ払えばいいというものではない。こうして残したことで歩道が観光スポットになった。歩き慣れた人にとってはなんでもなくても、初めて訪れた人はこれだけでちょっと心が浮き立つ。
 汽車道をゆく和装の夫人たちも、エキゾチックでハイカラな横浜の街には新鮮に映る。文明開化の頃の風景がふとよみがえるようだ。

 今日はそんな横浜の街に集まってきた人々の姿を断片的に捉えた写真を並べてみる。そのことでぼんやりでも横浜の街がどんなところなのかが浮かび上がってくるのではないかと期待して。
 5月の日曜日ということで人出は多かった。夜になって少し冷えたけど、昼間はいい天気で暖かくていい一日だった。みんな横浜の街をゆったりと楽しんでいるように見えた。

横浜断片風景-2

 赤レンガパークは海に面していて開放があって気持ちがいい。人々は芝生やベンチで思い思いにのんびりしている。カップルで海を眺めたり、家族でお弁当を食べたり、コスプレ撮影会をしたり。って、コスプレ撮影会? 芝生の上でセクシーポーズ。私も便乗してコスプレ撮影会風景を撮影させてもらった。横浜にもいろんな人がいる。

横浜断片風景-3

 赤レンガのバルコニーにある鐘。あの鐘を鳴らすのはあなたとばかりに、見つけたカップルたちが次々にガンガン鳴らして赤レンガパークは少し騒々しかった。これを慣らせば幸せになれるという根拠のないエピソードを信じようと信じまいと、とりあえず見たら鳴らせ。それが人の道。もちろん、私たちも鳴らしてみた。鐘の音はやや微妙な感じ。あまりロマンチックな音色ではなかった。

横浜断片風景-4

 大さん橋ふ頭では、消防隊によるブラスバンド演奏がおこなわれていた。途中で演歌のメロディーになったときは何ごとかと思う。ブラスバンドによる陽気な北酒場を初めて聴いた。短い時間だったけど、しっかりアンコールまで演奏して、けっこう盛り上がっていた。
 向こうに見えているのがお馴染みのベイブリッジだ。あっちまでは遠いので、あまり観光コースには入ってないんじゃないかと思う。橋の上を歩くこともできるけど600円はちょっと高い。東京のレインボーブリッジは無料なのに。
 ベイブリッジから見るみなとみらいの夜景はきれいだそうだ。それはちょっと見てみたい気がする。

横浜断片風景-5

 山下公園にある赤い靴を履いた女の子像の前で記念撮影をする女の子たち。このシーンは私に思いがけない驚きを与えた。赤い靴を履いた女の子の像を写真に撮るのは分かるけど、その女の子の像と一緒に記念撮影をするという発想が私の中にまったくなかったから。渋谷の忠犬ハチ公と一緒に写って記念写真を撮ることが考えられないように。
 でも、女の子たちだからこれはこれでいいのかと思い直す。カップルが像を挟んでツーショットで撮っていたら、それは違うだろうと思っただろう。
 写真の彼女たちは赤い靴の歌を知っていたのだろうか。あの歌詞の悲しい背景とかも。

横浜断片風景-6

 古い洋館が残る山手地区は、現在も高級住宅地として人々が暮らしている。すっかり観光地になって週末は騒がしいだろうけど、住み心地はどうなんだろう。
 そんな途中で、ノラと思われるサビ猫とたわむれている男の子を見た。観光客のようではなく、周りに家族らしき人もいなかったから、地元の少年だろうか。よほど猫が好きなのか、いつまでもひとりで猫をかまっていた。その姿を見て、なんとなく寂しい感じがしたのは私の思い違いだろうか。猫と人というのは孤独というキーワードでつながれているようなところがあって、それがときに物悲しく映ることもある。
 帰りに通ったときはもう少年の姿はなくなっていて、それでちょっとホッとした。代わりにカップルの撮影モデルとなっていた。やはりこのあたりにすみついているノラのようだ。

横浜断片風景-7

 ちょうどバラのシーズンということで、山手の洋館まわりにはたくさんのバラが咲いていた。洋館にはバラの庭園がよく似合う。
 ここは「ローズガーデン えの木てい」のテラス。私たちもここでバラソフトクリームを食べた。初めて食べた味はバラの風味が独特で不思議な美味しさだった。バラの花は食べたことがないけど、確かにこれはバラだねと思った。

横浜断片風景-8

 大さん橋国際客船ターミナルの中では社交ダンス大会が開かれていた。おそるおそる会場に足を踏み入れてみると、そこはものすごい熱気に包まれていて、私たちはかなり圧倒されたのだった。こりゃすごい。まさに映画『Shall we ダンス?』の世界そのもので、思わず見入ってしまう。「54番!」とか「27番!!」とか、ゼッケンの番号で応援のかけ声をかけるのも映画で見たあのままだ。かなり真剣に見てしまった。これは面白いもんだ。
 映画といえば、この場所で行われた社交ダンス大会で、映画版『HERO』の撮影がクランクインしたそうだ。キムタク演じる検事久利生公平がダンス大会の応援にかけつけたというシーンだったそうだ。

 横浜断片風景第一弾はこんな感じになった。でも、まだこんなものでは横浜の表情の断片しか捉えられていない。もっと写真と文章を費やさないと横浜は見えてこない。
 というわけで、今週末から来週にかけては横浜編が続く予定です。にわかハマっ子として横浜の魅力を少しでも伝えていければいいなと思ってます。
 ハマの番長と呼ばれる日は近くて遠い(リーゼントは無理だ)。

近い将来バラ王子と呼ばれるために今年も王子バラ園へ行ってきた

花/植物(Flower/plant)
王子バラ園2007-1

PENTAX istDS+Super Takumar 28mm(f3.5), f5.6, 1/16s(絞り優先)



 5月後半といえばバラのシーズンだ。今年もまた春日井の王子バラ園へ行ってきた。ここは王子製紙の社宅の敷地内にあるバラ園で、王子製紙が管理して無料で一般公開している。秋バラも見に行ってるから、今回で5、6回目になるだろうか。すっかりお馴染みの場所となった。
 バラは花期が長いからピークをはずすことは少ないけど、どこをピークと見るかは難しい。品種によって咲く時期が微妙にずれるし、同じ種類の木でも必ずしも足並みは揃わない。つぼみがあっても終わりかけの花もある。
 王子バラ園に関しては、24日時点でピークの後半から終盤といったところだろうか。まだまだたくさん咲いてはいるし、つぼみも残ってはいるものの、開ききった花も多かった。バラも全開手前の7、8分咲きのときが一番きれいだ。
 訪れる人は平日の夕方ということでポツリ、ポツリといったところ。もともとマイナーなスポットだから、大挙して人々が押し寄せるわけではない。その分、ゆっくり写真を撮ることができる。

王子バラ園2007-2

 控え目で上品なセミダブル平咲きのポール・アルフ(Poul Alf)。
 半つる性でフェンスにからみついて、すごい勢いで咲き誇っていた。
 色は赤みがかった黄色の杏子色というのだろうか。アプリコットと言った方がこのバラのイメージと合う。満開に近づくとだんだんアイボリーになっていく。
 プレゼントの花束には似合わないかもしれないけど、庭先のフェンスにこれが咲いていると趣味のいい家だなと思う。

王子バラ園2007-3

 5,000㎡の敷地に200種2,000株のバラが植えられているので、全部を写真に撮っていてはとりとめがない。ざっと一周しながら目についたものを撮っていくというのがバラ撮りのスタイルだ。プレートを見ながら面白い名前のものを撮ったりもする。そんなふうにして撮り歩いていると、少しずつ名前も覚えていくものだ。一年ぶりにその花を見ると、そうそうこういう名前だったと思い出す。ちょっとだけバラの顔と名前が一致するようになってきた。
 ただ、バラは品種が多くて、バラ園主の趣味によってかなり偏りが出てくるので、違う場所へ行くとまったく馴染みのないものばかりということもある。東京の旧古河庭園で見たバラはほとんどが見たことがないものばかりで驚いた。バラの世界の奥深さを思い知る。

王子バラ園2007-4

 ここに来たらまず最初に行くのが、私の一番好きなバラ、マダム・ヴィオレのところだ。寺西菊雄が1981年に発表した香りのない紫のバラ。
 私が好きなのは、この写真の状態よりももう少しつぼみに近いときで、剣弁高芯咲きの端正な姿が凛として美しい。
 バラも咲き姿によってずいぶん印象が違ってくる。咲きすぎてしまったとたんに好きなバラではなくなってしまったりもする。王子バラ園のマダム・ヴィオレは、今回ちょっと進みすぎてしまっていた。同じ寺西菊雄作出の荒城の月は、すっかり花の姿がなかった。もう終わってしまったらしい。残念。

王子バラ園2007-5

 これも去年見つけた好きなバラの一つ、ピエール・ド・ロンサール。
 フランスの詩人の名前を冠したこのバラとの出会いがきっかけでバラを栽培するようになったという人も多いという。現在でも人気が高いバラのひとつとなっている。
 花びらがびっちり詰まっていて、数えると60枚くらいなんだそうだ。大輪のカップ咲きで、これも開ききる前が美しい。写真のものはやや進みすぎていて、花びらの密度が足りない。

王子バラ園2007-6

 フェンスにたくさん咲いていたこの白バラは、ネームプレートが見当たらず、いつも気になっている。いまだに名前が分かっていない。どこか他でも見ていて、名前を聞けばああ、あれだったのかと思うのだろうけど。
 白バラもいい。派手な色のバラばかりを見続けていて、ふっと白バラを見るとホッとする。

王子バラ園2007-7

 春の早い時期から秋にかけて、長い間次々と花を咲かせるカクテル。花期が長いので、あちこちでよく見かける。丈夫でほったらかしでもよく咲くので、公園にも多い。
 普通のバラとはちょっとイメージの違う一重咲きのクライミングローズ。名前からアメリカのバラかと思ったら、1957年フランス作出と古いものだった。
 バラは古代ギリシャ、ローマ時代から人とともにあった花で、近代バラの本場はなんといってもヨーロッパだ。イングリッシュローズがその代表といえるだろう。他に盛んな国といえば、フランスにドイツ、日本も負けてない。アメリカもバラ王国のひとつだ。でもそれ以外となると、これがなかなかパッと思い浮かばない。イタリアなども多少はあるけどそれほど多くはなく、あとはオランダやベルギー、デンマークといったあたりだろうか。世界中にバラはあれども、バラ産出国となると案外少ないようだ。

王子バラ園2007-8

 今回、あらたにお気に入りに加わった、エレガンス・シャンパン(Elegance Champagne)。
 帰ってきて調べて驚いた。またもや寺西菊雄作出だったのだ。どこまでも私のバラの好みは寺西菊雄の趣味と一致しているようだ。マダム・ヴィオレのときも、荒城の月も、天津乙女のときも、寺西作とは知らずにこれいいなと思ったのだった。さすが菊雄なのにバラ作りの第一人者になった男。いい仕事をしている。
 これは2004年作というから、つい最近のものだ。まだ見ぬ寺西菊雄のバラがたくさんあるのだろう。もっともっと見てみたい。
 今後の課題のひとつとしては、寺西バラ以外のバラでお気に入りを見つけていきたいというのがある。そのためにはやはり、バラ好きの聖地、花フェスタへ今年も行かずばなるまい。世界一のバラ園が私を待っている(はず)。6月のはじめまで持って欲しい。今年こそバラのタワーに登って、バラアイスを食べるのだ。バラの苗を育てて、バラの図鑑も買おう。私がバラ王子と呼ばれる日は近い。

光によって移り変わっていく小堤西池の夕暮れ風景

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
小堤西池風景-1

OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f3.5), f5.6,1/16s(絞り優先)



 うちの近所でもあちこちで田植え風景を見るようになった。もうそんな季節なんだ。小堤西池でも本格的に始まったようだ。毎日、何も思わずに白いご飯を食べているけど、自分の知らないところで農家の人が苦労して米を作っている。一年がかりで。そのことを初夏の田植えと収穫の秋に思い出す。本当はもっと思い出さないといけないのだけど、せめて年に2回は感謝の気持ちを持とう。
 今はもう、腰を曲げて苗を手で植えている光景は見られなくなった。腰が曲がっているおばあさんも見かけない。機械は偉大だ。
 農家さんにとっては忙しい今の時期、のんきにカキツバタを見に来てる人たちを横目で見て、チッとか思ってるだろうか。うちの田んぼに入るなよな、とかは思っていそうだ。

小堤西池風景-2

 今年の春はとても雨が少なかった。名古屋地方の4月の降水量は例年の10パーセントとか20パーセントとか言っていた。その影響もあってか、小堤西池は一部でカラカラに干からび状態となっていた。今は少し水が戻ったようだけど、それでもまだ地面のひび割れが消えずにはっきり残っている。
 結局のところ今年のカキツバタの数はどうだったのだろう。3年連続で見た限りではけっこう多いような気がしたけど、見てる時期がずれてるからはっきりしたことは分からない。激減ということはないと思うけど。
 なんでもずっと中心になって保存活動をしていた人が病気になったとかで、そのこともいくらか影響が出ていたのかもしれない。来年までには元気になってカキツバタも少しでも昔のように戻って欲しい。1000年以上も前からずっとこの場所で咲き続けているカキツバタだから、次の1000年も残していこう。

小堤西池風景-3

 5月の空には白い飛行機雲がよく似合う。
 空を見上げながら頭の中を流れるのは、荒井由美の「ひこうき雲」。ゆらゆらかげろうがあの子を包むと歌っているから、あれは夏の歌だ。
 荒井由美って誰? などととぼけた質問をしてはいけない。

小堤西池風景-4

 そうこうしてるうちに日は傾いて、あたりは夕暮れ色に染まり始めた。ドラマチックな時間の始まりだ。
 水が張られた田んぼも空の赤を映して空より赤い。
 散歩のおじさんも、ただの通行人からドラマの脇役くらいにまで格上げされる。

小堤西池風景-5

 雑草も赤く染まる。これはスイバだったかな。ギシギシだと思っていたら、スイバとギシギシは違うんだそうだ。でも、スイバはタデ科ギシギシ属だったりするからややこしい。
 酢葉と表記するように、食べると酸っぱいらしい。昔の人はつくづくチャレンジャーだった。なんでもとりあえずかじってみたらしい。今どきは子供でも草をかじったりはしない。分からないものがあるととりあえずかじったり匂いをかいだりというのは、動物としての本能かもしれないけれど。

小堤西池風景-6

 夕焼け空の一部を切り取ってみると、きれいというより不吉な感じに見えたりもする。きれいと不気味や毒々しさは紙一重のところがある。程度の問題で、行き過ぎると下品になるものがぎりぎりで踏みとどまると魅力的に見えたりもする。腐りかけの果物が一番甘いみたいに。

小堤西池風景-7

 いよいよ日没が近づいて、空と水は赤みを増していく。ここで一日が終わりの人もいれば、ここから一日が始まる人もいる。日の出と共に起きて日の入りと共に眠りにつく生き方が理想的なのかもしれないけど、なかなかそうもいかない。深夜を生きる人間も少しは必要だ。
 太陽の光は、朝と昼と夕方とではまったく違う色になって、それぞれの光の中で同じものも違って見える。光は平凡な光景を非凡に見せる。普通の人間がスポットライトの下で輝くように。

小堤西池風景-8

 小堤西池のカキツバタシーズンも終わりが近づいた。ピーク時には入口に誘導係件警備の人が立ち、テントを張った仮設本部には係の人が詰めている。この日はどちらにも人の姿はなかった。訪れる人もまばらで、祭りの後のような空気感に支配されていた。夕陽に照らされる机と折りたたみ椅子は、誰もいなくなった夕方の教室のように少しセンチメンタルだ。
 毎年時期をはずしているとはいえ、3年連続でカキツバタを見に行けたことは嬉しかった。なんというか、それだけ自分自身平和ということでもあり、興味が続いていることでもあるから。写真を撮ることにも飽きてない。
 一年なんてあっという間というけれど、実際そんなに短い時間ではない。その間に良くも悪くも大きく変わってしまうこともあるし、来年の同じ時期まで無事に生きられる保障はどこにもない。また来年なんて約束を軽々しく口にするべきではないのかもしれない。
 けど、やっぱりまた次の年もと思ってしまう。もう一度同じ季節に戻ってきたいと思わせてくれるのは、その時期にしか咲かない花たちだ。何度見てもまた桜を見たいし、藤やカキツバタやバラにも再会したい。だから生きていようと思う。
 小堤西池のカキツバタたち、来年もまた会いに行きます。来年こそぴったりのタイミングで私を呼んでおくれよ。去年もそうお願いしたんだけどな。

今年も遅れた小堤西池のカキツバタにまた来年会いに行こうと思った

花/植物(Flower/plant)
カキツバタ小堤西池-1

OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f3.5), f4.5,1/30s(絞り優先)



 おととしの5月10日、刈谷市に国の天然記念物に指定されているカキツバタ群落があると初めて知って、喜び勇んで行ったらまだ2分咲きだった。
 去年は5月29日、満を持して行ったはずが大遅刻。半分ほど枯れ切ったカキツバタを前に、呆然と立ち尽くす私であった。
 今年は今日5月23日、ちょうどいいんではないだろうかフフと余裕を持っていったら、2年連続の遅刻で意気消沈。訪れる人もまばらで、閑散とした小堤西池は普段と変わらぬ静けさだった。
 写真はまだ残っているところを遠くから写してるからいい感じに見えているけど、実際はもう3分の2は枯れ始めていて、花の状態はもう駄目寸前だった。3分咲きというか、7分枯れというか、そんな感じで。
 カキツバタよ、キミはなんて気難しいんだ。

カキツバタ小堤西池-2

 今年は湿地の水が少なくて、花の数が少ないという話を聞いていた。行ってみると、確かに地面がむき出しになってひどくひび割れているところもあった。写真のあたりはかなり痛々しい。湿地に咲く花だから、ノドがカラカラなんじゃないか。
 ただ、言われているほど花の数は少なくなくて安心した。数だけなら去年より多いくらいだった。けれど、乾いたところに黄色いハハコグサの軍団と一緒に咲いているカキツバタというのは、やっぱりちょっと変だ。ハハコグサには悪いけど、カキツバタはあんな雑草の隣で咲くものではない。もっと上品で高貴で、限られた場所でしか咲かない花なのだから。
 ここは天然記念物ということで人の手があまり加えられないので、自然の状態に任せるような形になっている。害になる雑草は取っているものの、水を入れたり肥料をやったり人の手で植えたりなどということはしていない。そのせいで近年はだいぶ数を減らしてきている。その昔は一面が紫色に染まるほどだったというけど、現在の姿からそこまでを想像するのは難しい。

カキツバタ小堤西池-3

 カキツバタはやはり水辺がよく似合う。人が踏み込んでいけないようなところで静かに咲く姿が美しい。民家の庭や寺の境内なんかで咲かせるものじゃない。
 花の色に関しては、今年は紫が強い気がした。どちらかというと水色に近いような淡い紫の色をしてるはずなのに、今年は濃厚な紫色をしていた。光の加減やレンズの違いではなく、肉眼でもはっきりそう見えた。このあたりも環境の変化が影響してるのだろうか。もっと青い寒色系の涼やかさが欲しいところだ。

カキツバタ小堤西池-4

 ここに写真を撮りに行くときは、望遠レンズを持っていくことを忘れないようにしたい。歩く農道からカキツバタまでの距離が遠くて近づけないから、ほとんど望遠一本で事足りるくらいだ。私は200mmレンズでE-1と組み合わせて400mm換算だったけど、これでも持て余すことはなかった。一緒に持っていった135mm(270mm換算)では足りなかった。広角はほとんど出番がない。28mmくらいで撮っていては撮っている状況説明の写真になってしまう。
 望遠の圧縮効果を狙うなら、横だけでなく縦撮りも絡めると面白い。前後のボケがカキツバタの繊細さを演出してくれる。

カキツバタ小堤西池-5

 アップも一枚くらい撮っておこう。ここに来ると、遠くにあるいいポイントを見つけ出したいと思う余り、近くにある花の存在を忘れがちになってしまう。
 今回はアップに耐えられる花を見つけるのが難しかった。ほとんど枯れ始めてるものばかりで。

カキツバタ小堤西池-6

 今回一番気に入った写真がこれ。花の状態があまりよくないものを選んでしまったのは残念だったけど、行く前に撮りたいと思っていたカキツバタのイメージに近かった。
 望遠で開放にして、前ボケと後ろボケの間からフッと顔を出しているところを狙うとこんな感じになる。これは少し偶然に近かったのだけど、来年は意識的にこの撮り方を狙っていきたい。
 3年目の3度目ということで、少しは撮り方も成長してると思う。この3年間、たくさん撮ってきたし、ちょっとずつ写真のことも分かるようになってきた。最近は同じ季節の同じ場所2シーズン目、3シーズン目というところが増えてきて、去年より今年の自分がどれくらい成長してるか確かめる楽しみがある。それは他人とは違う写真を撮ろうなんていう野心のようなものではなくて、自分の頭の中にイメージをしっかり作って、それをカメラと写真の知識と技術で表現する行為だ。たとえば頭の中にある思考を言葉で表現するというのに似ている。両者の距離が近づけば近づくほど嬉しくもあり楽しくもある。

カキツバタ小堤西池-7

 おまけのキショウブ。固まって咲いているところは誰かが最初に植えたのだろう。少し離れた場所でもパラパラと咲いている。こちらは自力で野生化したやつらだろうか。

カキツバタ小堤西池-8

 それにしてもカキツバタのピークは一体いつだったんだろう。今年こその思いで、5月の10日過ぎからはネットで情報を毎日拾っていたつもりだったのに、それでも遅れてしまった。横浜へ行っていた先週末あたりが最高潮だったんだろうか。毎年、日にち的にもずれるから見極めが難しい。去年より一週間早くても出遅れてしまうとは思わなかった。
 それでも、3回の中で一番多くの花を見ることができたのは収穫だった。これで花の状態がいい時期に行けば、更なる感動が待っている。来年以降につながった。
 3年連続となると、毎年行くのが習慣になりそうだ。来年もまた行こう。次こそはピークを見切りたい。万全を期すなら2回行くつもりでいれば大きくはずれることはないだろう。ネットの情報だけでは分からない。自分の目で確認すればひと目で分かる。
 今年も無事に訪れることができたことを感謝しつつ、小堤西池をあとにした。振り返って誰もいない夕焼けのカキツバタの群落に向かって、小さく左手を振ってみた。

鎌倉の花パート2 ---これで鎌倉編はようやく完結

花/植物(Flower/plant)
鎌倉の花第二弾-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/30s(絞り優先)



 今日から横浜巡り本編のつもりだったんだけど、眠たさに負けて鎌倉の花パート2となった。うたた寝しても眠気が飛ばずに、頭がぼんやりしている。途中で文章が寝言のようになるかもしれない。そのときは起こしてください。

 まずはシラー。
 たぶん、シラーでいいと思う。ドイツの詩人のシラーに関係あるのかと思ったら、全然なかった。ギリシャ語の有害を意味する「skyllo」が語源になっているらしい。地下の茎に毒があるそうだ。
 紫に近い濃いブルーに惹かれるものがあった。この花、けっこう好きだ。

鎌倉の花第二弾-2

 ケマンソウの花がくす玉のようにパカッと開いたところかと思った。でも、よく見ると花の色も違うし、なんだかぶら下がってる部分がちょっとグロテスクだ。しばらく花の名前が分からなかった。
 アブチロン・メガポタミクム。図鑑で見つけたのはそんな名前だ。
 ブラジルあたりが原産のアブチロンのひとつで、別名はチロリアンランプ。
 花の形というのも本当に様々で、人の想像を超えているものも多い。

鎌倉の花第二弾-3

 タツナミソウ。これは前から知っていた。
 漢字で書くと立浪草。波が立っている様子に見立てたのだろう。
 青いコブラを思ったりもする。

鎌倉の花第二弾-4

 あー、この花、見たことあるな、なんだったけな、と長谷寺で離していたら隣にいたおばさまが、それはオダマキよと教えてくれた。おおー、これが小田真樹か。いや、苧環か。
「しづやしづ しづのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」と静御前がうたいながら舞った、あのオダマキがこれだ。
 日本種は青紫と白なのに対してセイヨウオダマキはたくさんの種類の色形がある。園芸種としても人気のようだ。

鎌倉の花第二弾-6

 ジュウニヒトエ(十二単)。
 林などに自生していた野生のジュウニヒトエは白に近い薄紫だった。写真のような濃い紫のものはヨウシュジュウニヒトエという外国産だ。今は自生種が少なくなってしまった。
 花が重なっている様子を十二単にたとえたのだろうけど、私の中のイメージではこの花は十二単とは重ならない。

鎌倉の花第二弾-5

 日本名はカイウ(海芋)。外国名でいうとカラー。ソン・スンホン絡みのドラマか映画でカラーがキーになるものがあった気がするのだけど、タイトルは忘れてしまった。
 海芋の名前の通り、サトイモの仲間だったりする。
 原産は南アフリカで、江戸時代に日本に入ってきた。もともとは園芸種だったものが今は半野生化したりもしている。

鎌倉の花第二弾-7

 これは名前の調べがつかなかった。けっこう見かけるような気もするのに。そのうちひょんなことから名前が判明するかもしれないので、とりあえず写真だけ載せておこう。

 これでようやく、自分の中で鎌倉紀行のカタがついた。番外編も書いたし、花もパート2まで載せて、鎌倉編はここに完結した。
 明日からは横浜編の本編に移る。たくさん写真もあるし、ネタも多い。ぼやぼやしてると、名古屋での季節花ネタも集まってきて書ききれなくなってしまう。メジャーリーグのように日程消化のためのダブルヘッダーが必要かもしれない。
 今日のところはまずここまで。また明日。

横浜らしい風景の一日の移り変わり ---横浜編プロローグ

横浜(Yokohama)
みなとみらい-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f6.3 1/40s(絞り優先)



 日帰りよくばり横浜巡りツアーを無事に終えて、たくさんの思い出と写真が残った。
 その第一弾として今日は、横浜らしい風景の一日の移り変わり写真を並べてみた。それはやはり、ランドマークタワーを中心とする、みなとみらい21地区ということになるだろう。写真などで見慣れた高層ビル群が、横浜の街のどこを歩いていてもいつでも見えていた。
 この日は朝方涼しく、日中は暑いくらいで、午後は曇って、夕方から夜は晴れて寒いくらいだった。

 まずは桜木町駅から横浜歩きを始めよう。ここに降り立つのは8年ぶりだろうか。どれくらい変わったのか変わってないのか、もはや記憶があいまいで比較のしようがなかった。ただ、この場所は覚えていた。そうそう、ここここと。
 横浜の街は名古屋とも東京とも違う、不思議なレイアウトをしている。ひとつひとつの高層ビルが駅から離れながらポツリ、ポツリと建っている。空間に余裕があるのか、駅前なども悪くすれば間延びしている印象さえ受ける。ビルの場所も幹線道路の4つ角でもなく、直線でも放射状でもなく、整然としていない。ただしそれは近くから見たときの話で、少し離れた場所から見るとこれが実にうまく計算されて建っていることが分かる。無造作に増殖していったわけではない。

みなとみらい-2

 動く歩道に乗って、日本丸を横目に見つつ、よこはまコスモワールドを目指す。
 左に見えている食べかけのかまぼこみたいなのは、パシフィコ横浜だ。ヨットの帆をイメージしているらしい。世界最大級の複合コンベンションセンターといわれても、どういう施設なのかはよく分からない。
 5月らしい青空と、透き通るような白のちぎれ雲が印象的だった。港の海も青い。

みなとみらい-3

 世界一の観覧車コスモクロック21から見た横浜のビル群とコスモワールド。クイーンズスクエア横浜の流れるラインが美しい。人々がだんだん小さくなっていくのも面白い。でも、本当は高すぎてちょっとおびえる私であった。
 この頃から少しずつ雲が増えてきた。

みなとみらい-4

 汽車道を歩くために少し引き返して、赤レンガ倉庫を見たあと、大さん橋に向かってテクテクと歩いていった。
 横浜は電車が少し不便だ。ポイントからポイントは歩いて行けない距離ではないのだけど、それが重なるとだんだんきつくなっていく。電車ではきめ細かい移動ができないし、あかいくつバスは100円だけど、本数が少なくて混んでいる。バス停の距離感も近すぎて必ずしも便利とはいえない。一番いいのはハマチャリという一日500円のレンタル自転車かもしれない。色気はないからデートにはちょっと向かないけど。

みなとみらい-5

 気がつけば空はいつの間にか厚い雲に覆われて暗くなっていた。とそのとき、雲の裂け目から太陽の光が差し込んで、ランドマークタワーにスポットライトを浴びせた。まるでここだけは祝福されているかのように。いつだって主役には光が当たる。

みなとみらい-6

 大さん橋の上で、超強寒風に吹かれながら夕焼けを待つ私たち。桟橋の上は完全なる吹きさらしで、逃れながら夕陽を見る場所もない。真冬並みの冷たい風にシバリング。挫けずに見ているのは、我慢強いカップルと三脚のカメラ野郎たち。夕陽がビルの向こうに沈みゆくのをずっと見つめていた。夕焼けは残念ながら不完全で、空の色はみかんの絞り汁くらいのオレンジ色にしかならなかったけど、それでも見られてよかった。ここの秋はどんな色に染まるんだろう。

みなとみらい-7

 太陽が沈んで、空がオレンジから青に移り変わっていく頃、メンバーも微妙に入れ替わっていく。三脚カメラの人々はいつの間にか数を減らし、代わりに夜景を求めるカップルが増えてくる。
 それにしてもとにかく寒い。ここで夕陽を見たり夜景を撮ったりするときは、夏でも防寒対策が必要だ。昼間暑いからといって半袖なんかで行くと震えながら逃げ出すことになる。

みなとみらい-8

 夜は恋人たちの時間だ。体を寄せ合うふたりなら寒さも忘れられるかもしれない。長時間は無理だと思うけど。
 こうして離れて見ることで、横浜の高層ビル群が上手い具合に配置されていいバランスになっていることがよく分かる。特に夜景になったときの効果が高い。どこまでが計算でどこまでが偶然なのかその境目は分からないけど、近代的な高層ビルだけではなく、大観覧車のネオンとライトアップされた古い赤レンガビルとが相まって、とても心躍る風景が形作られている。みんながここで写真を撮りたくなる気持ちが分かった。名古屋にはこんなところはもちろんなく、東京の夜景とも違ったよさがある。

 一日かけてその街を歩いていると、いろんな角度からいろんな面を見ることができて感じるところも多い。電車でも車でもなく、歩くことでその街のスケール感も感覚的に掴めるし、位置関係やつながりも見えてくる。時間帯による街の表情の変化や、人々の流れや移り変わりも興味深い。
 今回の訪問で横浜の街のよさがだいぶ分かった。ひと言で言うとそれは、過不足のなさと言えるかもしれない。過剰すぎない洗練と落ち着きがある。ある意味では自己完結的かもしれない。
 そのあたりのことを、明日から写真と文章で描写していきたいと思っている。前回、今回と東京巡りもいろいろしてるのだけど、まずは横浜編をしばらく続けよう。横浜編は鎌倉編みたいに長くならないといいな。

週末は横浜で

猫(Cat)
哲学堂の猫

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.0 1/40s(絞り優先)



 今週末は、東京・横浜行きで家を留守にします。更新はお休みです。
 再開は月曜日。
 ちょっといってきます。

鎌倉番外編パート2 ---見えなかった鎌倉名物と人だかり

観光地(Tourist spot)
鎌倉風景-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f6.3 1/40s(絞り優先)



 鎌倉番外編パート2は、鎌倉の街風景を中心に。歴史の街鎌倉といっても、魅力は神社仏閣だけではない。買い物や食事も楽しみのひとつだ。そちらが好きで鎌倉に通い詰めているという人もたくさんいることだろう。
 こうして並べた写真をあたらめて見てみると、本当にこの日はどこへ行っても人の波から逃れることができなかったんだなとあらためて思った。人口密度は同じ日の東京以上だったかもしれない。

 鳩サブレーといえば鎌倉。鎌倉みやげといえば鳩サブレーしか思い浮かばないくらい有名だ。なんとなく東京みやげのような気もしていたけど、それはまったくの勘違いで、鎌倉の豊島屋が本家本元だった。まさか、鶴岡八幡宮の八の字が鳩の形をしていてそこからこれが生まれたとは思いもよらなかったな。
 店の中も外も人が満載で、サブレーひとつ買うのもままならないくらいの混雑だった。最初から買うつもりはなかったけど、本店の作りたてはお土産屋で買うものより美味しいんだろうか。
 しかし、鎌倉って他に何が名物なんだろう。それは最後まで分からずじまいだった。昔ハワイみやげといえばマカデミアナッツしかなかったように、鎌倉といえば鳩サブレーしかないのだろうか。もしくは、鎌倉ハムとか。

鎌倉風景-2

 鶴岡八幡宮前の小町通りのにぎわい。よくよく見ていけば魅力的なショップや商品がたくさんあるんだろうけど、とにかく混雑していて思うように前へ進めないのでそれどこじゃない。とてものんびり買い物をしてる気分にはなれない。
 鎌倉の街はどこも道が狭すぎる。しょうがないのだけど、この点はいかんともしがたく、ちょっと頼朝さんをうらみたくもなる。もう少し広々とした都を造って欲しかった。道の広い名古屋に暮らしているから、余計にそう思うのだろうか。
 人混みが苦手な人は、混雑時の鎌倉は行かない方がよさそうだ。

鎌倉風景-3

 若宮大路にあるKIBIYAベーカリー「come va店」。自家製天然酵母のパンが地元だけでなく観光客にも人気となっている。
 食べたパンはどれも固めで中身がギュッと詰まっていた。最近のやわらかパン路線から真っ向勝負の固さだ。フランスパン風というのだろうか。でも、店の名前はcome vaとイタリア語(調子はどう? ってな意味)。
 噛むほどに味わいがしみ出して、これはこれで続けて食べていると好きになっていくのだろうなと思わせる。カフェオレとかに浸して食べると美味しそう。

鎌倉風景-4

 江ノ電鎌倉駅の夕方風景。これは駅に向かって歩いている途中ではなくて、駅の改札をくぐるために列を作っている人たちの最後尾についたところだ。ロータリー半周ぐるりと列が続いている。すごいぞ、江ノ電。
 江ノ電は混雑して乗れないかもしれないというウワサは聞いていたけど、まさかこれほどとは思ってなかった。混んでたらホームで一本くらい待ってもいいなんて考えたら甘すぎた。そのホームに入るまでに長蛇の列ができている。いったん入ったら、もう何が何でも江ノ電に乗り込まざるを得ない。待っていても事態は改善しない。普段はもちろんこんなことはないはずだけど、気候がいいときの日曜などはこれに近いものがあるのかもしれない。
 今度江ノ電に乗るときは、平日の人が少ないときにしたい。そして、江ノ島までの車窓風景をゆっくり楽しみたい。江ノ電そのものも撮りたいし。

鎌倉風景-5

 江ノ電長谷駅の踏切。向こうが由比ヶ浜で、後ろが長谷寺と大仏。
 鎌倉は丸ポストの多い街で、それが風景とよく馴染んでいる。あまりにも違和感がないので見逃しそうになるほどに。こういう気の利いたところはいいことだ。
 電柱と電線も全部に地下に埋めたらどうだろう。工事費はかかるけど、電柱がなくなるとずいぶん景観もよくなるし、狭い道も少しは広くなる。お寺の拝観料から費用は半分くらい出してもらえば、鎌倉市政としてもなんとかなるんじゃないか。こういうのは心意気の問題で、損得じゃない。

鎌倉風景-6

 鎌倉大仏前のおみやげさん。
 完全に怪しい。松と桜と赤鳥居はいいとして、なんで五重塔と富士山が描かれているんだ。明らかに外国人観光客狙いだ。
「SOUVENIRS OF JAPAN」って、全部大文字だし、外国人から見てもちょっとヘンなのは分かるんじゃないだろうか。
 扱っている商品も、普通のみやげものに混じって刀とか忍者の武器とか能面とか笠とかも所狭しと並べられている。日本フリークの外国人が日本好きが昂じて開いてしまったようなみやげ屋さんだ。面白いからいいか。

鎌倉風景-7

 鎌倉のみやげも分からなかったけど、鎌倉の食事処もよく分からなかった。鎌倉ならではの食べ物というのが見えてこない。ガイドブックを見る限り、そばは有名なようだし、和食から洋食までなんでも一通りの店が揃ってはいるのだけど、ここでしか食べられないものは何なんだろう。
 海に近いし、しらすは一応名物のようなので、しらす丼を食べてみることにした。腰越の「かきや」へ行くつもりが時間がなくなって、鎌倉駅前に引き返して、若宮大路の「レストラン 四季菜」というところを見つけて入ってみた。ビルの2階という立地条件なのか、店内は空いていてすんなり坐って食べられた。あまり知られてないところなんだろうか。かき揚げしらす丼にみそ汁と桃のシャーベットまでついて1,000円なら、まずは安いといっていい。味も普通に美味しかった。しらすなんて普段は喜んで食べるようなものじゃないけど、地元とれたてとなるとやっぱり美味しく感じてしまう。

鎌倉風景-8

 日が暮れて、最後の最後に江ノ電の後ろ姿だけわずかに捕らえることができた。さすがに疲労も激しく、もうここらで鎌倉散策は限界を迎える。長いようで短かった鎌倉行きはこうして終わった。長かった鎌倉紀行も、もう終わりだ。

 行く前は得体の知れない恐れを鎌倉という土地に対して抱いていた。恐れというより畏れといった方がいいかもしれない。何か敷居が高いような、申し訳ないような、複雑な思いが胸にわだかまっていてなかなか近づけないでいた。実際に行ってみたら、全然変な感じも違和感もなく、無事に一日過ごすことができてよかった。突然理由もなく泣き出すとかそんなこともなく。私の胸の内にあった予感めいたものは結局何だったんだろう。
 帰ってきてからあらためて鎌倉の歴史について勉強してみると、やっぱり浮かれ気分でふらついているようなところではないとあらためて思い知ることになった。鎌倉はやっぱり怖いところだ。あるいは、畏敬の念を抱くべき土地というべきだろうか。
 まだまだ鎌倉もほんの表面をなでただけで、深いところには指先さえ触れていない。これ以上深く足を突っ込んでいいものかどうか迷うところではあるけど、もう一度行って確かめてみたいとも思っている。特に源氏ゆかりの地を訪ね歩いてみたい。北条に関しては特別感じるものはないことが分かった。源氏山から頼朝の墓、義経の足跡も辿ってみたい。深みにはまらないように気をつけつつ。
 何事もなく源氏巡りを終えることができたら、次は江ノ島まで足を伸ばすのもいい。あちらも見どころがたくさんあって楽しそうだ。
 一回行ったことで、遠かった鎌倉が少し近づいた。あちらも私を近しい者としてもっと受け入れてくれるだろうか。そうだったらいいな。鎌倉よ、また近いうちに行きますから。

鎌倉番外編パート1---寿福寺と切通しと鎌倉の生き物たち

観光地(Tourist spot)
鎌倉番外編-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f6.3 1/50s(絞り優先)



 鎌倉行きを振り返ると一日でかなりの枚数の写真を撮った。300枚以上撮っただろうか。これがフィルムだったら現像とプリントで1万円にもなってしまう。デジカメ時代に生まれてよかった。
 本編で使えなかった写真がまだかなりあったので、今日はその中から何枚かを番外編として載せておきたい。日の目を見ないまま眠らせておいても、自分でも見返すことはない。ここに出しておけばいつか振り返って見ることもあるかもしれない。

 最初は寿福寺。鎌倉五山第三位だから本編として使おうと思っていたら、ネタが少なくて本編から漏れてしまった。
 創建は1200年。開基は北条政子。馬から落ちたのが元で死んでしまった夫・源頼朝を弔うため、源頼朝の父である義朝の居館があった所に開いたのが寿福寺だ。もともとここは源氏の先祖の土地でもあった。開山は明庵栄西(みんあんえいさい)。
 1180年に頼朝が初めて鎌倉に入ったとき、この地を幕府の中心にしようと思ったら、ここは場所が狭すぎて立地条件がよくないということで、鶴岡八幡宮の方に移っていったといわれている。

寿福寺-2

 観光コースからはずれた場所にあって、ついでに軽く寄っただけだったのに、意外にも訪れている人が多くてちょっと驚いた。その理由は帰ってきてから分かった。ここの境内は普段、一般人立ち入り禁止で、正月とゴールデンウィークだけ開放されているそうなのだ。だから拝観料も取られなかったのかと納得した。でも、私たちはそんなことを知らないものだから、たいしてありがたみも感じないままざっと見てまわって終わってしまったのだった。今さらながら予習って大事だねと思う。
 ここの参道は気持ちのいいところだった。生い茂る木々からこぼれる木漏れ日が、道と人とをまだらに優しく染める。人が普段少なくて踏まれてない分、苔むした感じもよかった。

寿福寺-3

 ここがいつもは立ち入り禁止という境内だ。かなりこぢんまりしている。今の様子からは鎌倉五山三位というのはちょっと想像ができない。最盛期は、七堂伽藍や14の塔頭がある大寺院だったそうだ。それが二度の火災でほぼすべて焼き落ちてしまって、今はもう当時の面影は残っていない。現在は、総門、中門、仏殿、庫裏、鐘楼などが建っているだけになった。
 境内の裏手には(こちらは普段から行ける)、高浜虚子、大佛次郎などの墓や、やぐらの中に北条政子と源実朝の墓といわれる五輪塔などがある。

亀ヶ谷切通し

 鎌倉に七つある切り通しのうちのひとつ、亀ヶ谷切通しを歩いてみた。建長寺から少し引き返して、長寿寺のある脇の道を入ったところがそうだ。この道を通って鶴岡八幡宮に行けるようになっている。
 切通しというのは、山に囲まれた鎌倉に人と物資の流通をよくするために造られた道のことで、山を切り崩したところからそう呼ばれている。亀ヶ谷切通しは、鎌倉と武蔵を結ぶ重要な道だった。幅が狭いのは軍事的理由で、敵が一気になだれ込んでこられないようにという配慮だった。
 名前の由来は、亀でも登れずに引き返すくらい急勾配だったからだそうだ。最初は亀返り坂(かめかえりさか)といっていたのが、いつの間にか亀谷坂と呼ばれるようになったといわれている。
 昔はもっと急坂だったようだけど、今でも充分なアップダウンだ。しかし、こんなところにも人は住んでいて、わりと頻繁に車も通っていく。坂道発進ができない人はここには住めない。1メートルも下がったあげくにブォーンと大きな音で空ぶかしをしてエンストなんて人は、もう一度教習所からやり直し。

鎌倉番外編-5

 浄智寺で見たタイワンリス。どういう経緯でここにすみつくようになったのかは知らないけど、明月院でも見かけたし、その他鎌倉中で繁殖しているようだ。リスはかわいいから嬉しかったけど、住人にしては手放しで喜んではいられないのかもしれない。いろいろかじられそうだ。
 もともと日本にはいないはずのリスだから、飼われていたものがどこからから逃げだしたのだろう。エサをやらないでくださいという貼り紙もあった。

鎌倉番外編-6

 これも浄智寺にいたモンキアゲハ。羽は黒いけど紋だけクリーム色なので紋黄アゲハと名がついた。でもこのネーミングはよくない。分かりづらいし、見た目と合ってない。
 名古屋周辺では見たことがなくて私は初めて見た。関東では多いんだろうか。
 日本で最大級のチョウのひとつで、飛ぶスピードも速い。こいつが飛んでいるところを撮るのはすごく難しい。

鎌倉番外編-7

 源氏池にいたアオサギ。みんなの注目の的となる中、小魚を入れ食い状態で食べまくっていた。1分で4、5匹食べていたから、一日で相当食べるのだろう。源氏池はそんなにも魚の宝庫なのだろうか。見ていてちょっと食べ過ぎだろうと思うほどだった。

鎌倉番外編-8

 長谷の上空を旋回していたトンビたち。ピーヒョロロロロというお馴染みの鳴き声があたりに響いていた。
 ここのトンビは人間の食べ物を狙うとかで、あちこちで注意書きを見かけた。鎌倉へ行くときは気をつけないといけない。逆にいえば、トンビのエサやりショーをやって観光客の人気者となれるかもしれない。トンビの好物を手に持って高く掲げていれば、トンビが急降下してエサを取っていくんじゃないだろうか。トンビの好物が何かが今ひとつよく分からないのだけど。やっぱり油揚げ? だとすると、いなり寿司を食べている人が危ない。

 使いたかった写真を載せることができて、だいぶすっきりした。でもまだ少しあるから、鎌倉番外編パート2へと続く。

鎌倉紀行最終章は長谷寺の話半分と大仏の謎と由比ヶ浜の涙

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
長谷寺-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/50s(絞り優先)



 ラッシュ時の山手線並みの江ノ電に積み込まれて、私たちはなんとか夕方5時過ぎに長谷寺へと到着した。長谷まで来れば、もうゴールは間近だ。あわよくば江ノ島までと考えていたけど、それはさすがに無理だった。北鎌倉をしっかり回ると、一日で江ノ島まではたどり着けない。
 閉門間近の時間でも、長谷周辺は大勢の人で混雑していた。狭い歩道も相変わらず進むのがままならない。おそらく普段のこのあたりは閑散としているのだろうけど、ゴールデンウィークのこの日はどこへ行ってもこんな調子だった。なので私は静かな鎌倉というのを上手く想像できない。
 何はともあれ、長谷寺巡りを始めよう。あまり時間がないので少し駆け足になる。

 長谷寺は、これまで巡ってきた北鎌倉の寺とはずいぶん趣の違うものだった。その成り立ちは古く、創建は鎌倉時代よりずっと以前の736年までさかのぼる。北条とも源とも関係がないということが印象の違いを生んでいるのだろうか。これまで見てきた禅寺とは違い、ここは浄土宗のお寺というのもあるかもしれない。東京あたりの庶民的な寺に近いような雰囲気があった。肩肘張っていないというか、普段着感覚というか、良い意味で緊張感がない。
 教科書でお馴染みの藤原不比等の子供で藤原鎌足の孫にあたる藤原房前が、徳道上人を開山として創建したと伝えられている。一般的には長谷観音の方が通りがいいかもしれない。三門にも「長谷観音」の提灯がかかっている。山号を海光山、院号を慈照院という。
 伝説によれば、ここの本尊である十一面観音像は、大和の長谷寺にある十一面観音像と同じ楠の大木から作られた2体のうちの1体なのだという。1体を大和の長谷寺の本尊として、もう1体を海に流したところ、15年後に三浦半島に流れ着いて、それをこの地に安置して開いたのが鎌倉の長谷寺なんだとか。にわかには信じられないけど、話としては面白い。ボトルメールの仏像版。
 でも、ちょっと待て。この仏像、木造のものとしては日本最大の高さ9メートル18センチではないか。手のひらサイズの仏像を海に流してみるというのなら分かるけど、9メートルもの巨大なものを海に流すだろうか? 海まで持っていくのも一苦労だ。それに、そんなでっかいものが15年も誰にも見つからず太平洋をドンブラコ、ドンブラコと浮いていたというのも信じられない。この伝説、かなり無理があるではないだろうか。

長谷寺-2

 三門をくぐると清浄池を中心とした回遊式庭園がある。季節の花々が出迎えてくれて、心が和む。アジサイも有名で、明月院と共にアジサイの名所となっている。紅葉もいいらしい。
 本堂などはすべて高台にあって、息を切らしながら階段を登ることになる。見晴らしのよさもここの名物の一つだ。
 この寺も代々の権力者に大事にされてきたところで、室町時代には足利家が幾度か再建や修繕をして、江戸時代には徳川家康の命で大がかりな改修を行った。ただし、現在の建物はほとんど関東大震災以降のもので、古いものは残っていない。
 写真に写っているのが観音堂で、この中に十一面観音像が安置されている。さすがに9メートルは巨大で迫力があった。しかも、金ぴか。最初は木造むき出しだったものに、1342年に足利尊氏が金箔を施したといわれている。その後、1392年には足利義満が光背を造って足した。しかし、この十一面観音像、やっぱりもうひとつ出所がはっきりしないというか、若干疑わしいところがあるようで、1,300年も前のものにはとても見えないし、ましてや15年も海に浮いていたような様子もまったくない。何度が修復されているといっても、そこまで古いものではなさそうだ。おそらく室町時代の作ではないかといわれている。もし本当に伝承通りなら、とっくに国宝になっているだろう。
 観音堂の右には阿弥陀如来像を祀った阿弥陀堂がある。これは源頼朝が建立したと伝えられているものの、実際は室町時代に建てられたものだという話だ。ここの伝承は話半分に聞いておいた方がいいかもしれない。
 左には大黒堂があって、鎌倉江ノ島七福神のうちのひとつがここの大黒様だ。1412年作のものは宝物館に移されて、今は新しい大黒天が安置されている。古いものは弘法大師空海の作というけど、だんだんここの話が信じられなくなってくる。どこまで本当なんだか。
 弁天窟という洞窟の中にも弘法大師作といわれる弁財天像が祀られている。この洞窟は迷路みたいになっていてちょっと面白かったのだけど、時間がなかったので途中でショートカットして出てきた。
 経蔵には輪蔵と呼ばれる回転式の装置があって、これを時計回りに一周させると一切経を一通り読んだと同じ功徳があるといわれている。私たちもわけも分からないまま回しておいた。どっかでこんなことしたなと思ったら、名古屋のチベット寺院、チャンバリンのマニ車と同じ仕組みだ。
 鎌倉で三番目に古いという梵鐘は、1264年の銘があるというからその通りなのだろう。
 長谷寺は鎌倉文士たちともゆかりのある寺のようで、唐突に久米正雄の胸像があってなんだこりゃと思う。高浜虚子の句碑や高山樗牛の記念碑もあるようだ。

長谷寺-3

 休憩所のベンチからは、鎌倉の家並みと、相模湾や三浦半島が見える。上空高くにはトンビがゆっくり円を描く。向こうに見えている建物は逗子あたりだろうか。
 相模湾はとても青かった。地元の知多の海とは全然色が違った。この先の由比ヶ浜海岸が、今回の鎌倉紀行のゴール地点となる。

鎌倉大仏-1

 鎌倉を訪れたなら、やはりここは外せない高徳院(大異山高徳院清浄泉寺)の鎌倉大仏だ。おお、これがあの鎌倉大仏か、と間近で見てちょっと感慨深かった。やっぱり大きい。
 高さ11.9メートル(台座を含めると13.35メートル)、重さ121トン。顔の長さだけでも2.35メートルあるから、たいていの家の玄関からは入れられない。誰がどんな計算をしたか知らないけど、立ち上がってのっしのっしと歩いたとしたら、東京-鎌倉間を1時間で歩くそうだ。ぜひ立ち上がらせて歩かせたい。観光の目玉になること間違いなしだ。人を肩に乗せて、東京と鎌倉をピストン輸送して人をじゃんじゃん運んでくれるといいな。
 正式名は、銅造阿弥陀如来坐像。意識したことなかったけど、これは阿弥陀如来だったのか。文句なしの国宝だ。
 こんな重要な大仏がある寺にもかかわらず、高徳院の成り立ちははっきりしていないという。いつ、誰が建てたのかほとんど分かってないのだ。開山、開基も不明となっている。
 鎌倉大仏に関しても、誰がどういう目的で作ったのか詳しく説明されていない。もともとは源頼朝が関東にも奈良のような大仏を造りたいと思っていたのを、仕えていた稲多野局が計画して進められたとも、浄光という僧の発案で諸国を回って寄付金を集めて造られたともいわれている。ただ、浄光という僧についてもよく分かっておらず、単に一僧侶の思いつきで国家プロジェクト並みの建造が進んだとは考えにくい。それにしては時の権力者が自分の手柄と言い張らなかったというのもおかしな話だ。
 史実によると、第三代執権・北条泰時の晩年にあたる1238年に、まずは大仏殿を建て始めて、5年後の1243年に大仏が完成したことになっている。このときはまだ木造だった。
 それが4年後(1247年)の暴風雨によって倒壊してしまう。風で倒れてしまう大仏様ってどうなんだ。張りぼてじゃないんだから。
 気を取り直して、1252年、今度は雨風にびくともしない青銅の大仏を造ることにした。それが現在の大仏様だ。鋳造といっても一気にこんな巨大なものを造れるはずもないので、細かいパーツごとに造って、それを継ぎはぎしている。顔のあたりに隙間ができて、うずまきナルトのようになっているのも愛嬌があっていい。20円を払って胎内に入るとそのあたりの様子がよく分かる。
 当時はまだ大仏殿の家の中にしっかりおさまっていて、金箔も貼られて金ぴか大仏だったそうだ。その姿を見てみたかった。
 その後、度重なる災害によって大仏殿は倒壊と再建を繰り返し、1495年(1498年説もあり)、地震の際の津波によって大仏殿はきれいさっぱり流されてしまったところで、とうとう造るのをやめてしまった。それ以来、500年以上もの間、鎌倉大仏はホームレスの野ざらしになってしまっている。大仏殿をもう一度造ろうではないかという運動もあるようだけど、実現するだろうか。しかし、由比ヶ浜からここまで歩いて10分はかかる高台だというのに、大仏殿を飲み込むほどの津波ってどんなだったんだろう。ちょっと信じられない規模の災害だ。

鎌倉大仏-2

 奈良の大仏も、鎌倉の大仏も、怨霊を鎮めるために建造されたという説がある。これだけ大がかりな建造で、発案者と責任者が自己アピールをしないというのは何か裏があると勘ぐりたくなる。幕府の権力をアピールするために造られたものではない。だとすると、無駄に大きすぎる。この大きさで対抗しなくてはならない何かがあったのではないか。それがつまり怨霊だったというわけだ。
 怨霊全盛の平安時代からさほど遠くない鎌倉時代。いくら勇猛な関東武士といえども怨霊は恐ろしい。鎌倉幕府成立前後には多くの血が流された。平家の恨みもあるし、三代執権泰時時代といえば最大のライバルだった三浦氏を討ち取って鎌倉幕府の土台をゆるぎないものとした頃だ。そんなときに天変地異のようなことが続けば、当時は怨霊の仕業と考えても不思議ではない。源氏直系の頼朝、頼家、実朝も死んでいるし、関係者の悲劇的な死も多い。そういう霊を鎮めるために大きな仏像を造るしかないと思ったのではないか。だから、援助しているはずの幕府は裏にまわって表に出てきていないとも考えられる。祟りが怖いから大仏を建てるなんて言ったら民衆を怖がらせることにもなるから。
 本当のところはどうなんですか、と大仏さんに訊ねてみても、伏し目がちで黙ったまま何も答えない。雨風にも負けず、じっと何かを考え込んでいる風だ。

由比ヶ浜-1

 予定通りすべの寺社巡りを終えた私たちは、日没前に最終目的地の由比ヶ浜海岸へとたどり着いた。一日中よく歩いた。
 5月とはいえ、夕暮れの海風は冷たくて、じっとしていられないほどだった。海ではサーファーたちが波に乗ったり乗れなかったりしている。若いカップルが波打ち際でたわむれたり。私たちは風を避けて、堤防沿いに座り込む。
 太陽は山の向こうに隠れ、空は薄オレンジに染まり、少しずつ暗くなっていった。

 静御前が頼朝の前で舞いを踊ったのが4月8日。3ヶ月後ちょっと経った7月29日、静は義経の子を産んだ。女子なら助かったところを、生まれた子は男子だった。頼朝の言いつけ通り赤子を持っていこうとする安達清恒と、泣き叫んで離そうとしない静。お付きの磯禅師が取り上げて安達清恒に渡す。男の赤ん坊は由比ヶ浜に沈められた。静はこのとき19歳だった。
 その後の静御前のことはよく分かっていない。京都にいったん帰された後、再び由比ヶ浜に戻って入水したとも、故郷で生涯を終えたとも伝えられている。
 三浦一族の和田義盛も、北条氏との建保の戦に敗れて、ここで自害して果てている。
 由比ヶ浜は全部見て知っていても、今日も波を寄せては返し、返しては寄せるばかり。

由比ヶ浜-2

 日が暮れて、街明かりが少しずつ増えていく。見えている光は、稲村ヶ崎か、その手前の坂ノ下だろうか。さすがにこの時間の浜辺は人もまばらとなった。みんなそれぞれの思い出を抱えて家路についた頃だろう。私たちはまだしばらく海を見て坐っていた。すっかり空が暗くなるまで。
 こうして鎌倉紀行はほぼ終了となった。このあと、名物「しらす丼」を求めて行ったり来たりという夢もロマンもないことになるのだけど、その話は省略しておいた方がよさそうだ。この由比ヶ浜で終わればしっとりしていい。少しセンチメンタルで。
 あともう一回、鎌倉番外編を書くつもりだから、鎌倉についての総括はそのときにしよう。
 これにて鎌倉紀行本編は終了です。長々とおつき合いいただきありがとうございました。

鶴岡八幡宮でようやく求めていた源氏の鎌倉と出会う

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
鶴岡八幡宮-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/100s(絞り優先)



 北鎌倉駅から建長寺まで歩いていったなら、そのままもう鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)まで歩いて向かうしかない。帰還不能点は過ぎてしまっている。今さら引き返しても、かえって余計に歩くことになる。
 せっかくだからということで、亀ケ谷坂切通しを通って、寿福寺にちらっと寄りつつ、やっとの思いで鶴岡八幡宮にたどり着いた。その頃にはもう、だいぶ日も傾き始めていて少し焦る。
 夕方近くにもかかわらず鶴岡八幡宮は満載の人を飲み込んで全体がうごめいているようだった。胎動という言葉が思い浮かぶ。三が日の初詣客が200万人、年間で900万人を迎え入れている鶴岡八幡宮にとっては、これくらいは慣れたものなのだろうか。腹六分目くらいかもしれない。しかし、慣れてない我々は、この光景を見てかなりひるんだ。ほとんど度肝を抜かれたと言ってもいい。思わず、なんだこりゃ、と口走ってしまった。広い境内が祭りだわっしょい状態。本気で何かのお祭りかと思った。地方から出てきて初めて渋谷の街に迷い込んだ田舎者のようになってしまった私たちであった。
 人混みはともかく、この雰囲気はお馴染みのものだ。いつも行ってる神社仏閣と同じ匂いがする。鎌倉に降り立ってから久々に拝観料を取られなかったのも気分をすがすがしくさせてくれた。こういうところでは素直な気持ちで賽銭に100円入れることができる。私は寺よりも神社が好きだ。ホームグランドに帰ってきたようでホッとする。

 本来の落ち着いた気持ちを取り戻すことができたのは、ここが北条ではなく源氏ゆかりの場所だったというのもあったかもしれない。北鎌倉があまりにも北条色の強いところで、なんとなくお邪魔しているような、よそ行きの自分だった。やっぱり私の中の鎌倉は鎌倉殿の都なんだということを再認識する。北条の鎌倉というのは、好きだった作品の主人公が続編から変わってしまった外伝的な印象が強かった。戦国時代の主役が信長、秀吉、家康に変わっていったのとは違う。
 もともとは、大阪の河内出身の河内源氏2代目源頼義が、前九年の役での戦勝祈願をするため、京都の石清水八幡宮護国寺を鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請したのが始まりだった(1063年)。
 それから100年余り経った1180年、源頼朝が鎌倉入りしたとき、さびれていた鶴岡若宮を現在の地に移しして建て直した。
 頼朝は平家に続いて奥州の藤原氏も討伐して、事実上全国を平定した1191年、近くで出た火災によって鶴岡若宮は大部分が燃え落ちてしまう。頼朝は焼け跡を見て泣いた。
 翌1192年、征夷大将軍になり、鎌倉幕府が成立する。これを機に、ここを幕府の中心と決めた頼朝は大造営をして、ほぼ現在の形に近いものを作り上げた。以降、鶴岡八幡宮は鎌倉幕府の象徴であり続け、幕府の儀式や行事はすべてここで執りおこなわれることになる。
 北条執権時代から足利、徳川まで、変わることなく手厚く保護され、特に江戸時代前半は更に大規模化して、現在を超える伽藍が境内いっぱいに広がっていた。仁王門、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、薬師堂、などが次々に建てられ、大塔まであった。ここは神仏習合で、神様と仏がくっついたところだったから、いろんな建物がごた混ぜになっていたのだ。
 しかし、敵は身内にあり。明治新政府が出した神仏分離令によって仏教関係のものはことごとく壊されてしまう。仁王門も薬師堂も護摩堂も大塔も、今はもうない。仏像や社宝も一部を除いて破棄された。幕末に優秀な大物がことごとく死んで、残った小物だけで作られた明治政府のやったことなんて所詮こんなこと。明治政府によって取り壊された城の数を思うだけで悲しくなる。なんでも古いものを壊せばいいってもんじゃない。
 日本古来の神と仏が融合した八百万の神という思想を否定して、国の体制を神道一本にしたことで、結果的に狂信的な太平洋戦争に突入していく流れを作ってしまったということもある。昔の日本はよかったという懐古趣味的なことが言われたりもするけど、たとえば日本軍を描いた戦争映画などを観ると、今の日本の方がよっぽどいいと私は思う。

鶴岡八幡宮-2

 参道の途中にある「舞殿(まいでん)」で人だかりができていた。何事だろうとのぞいていて見ると、ちょうど結婚式が行われているところだった。おお、すごい、この時期にここでやるかと思う。大勢の観光客に取り囲まれ、ひっきになりしに通り過ぎる参拝客の中央での神前結婚式。本人たちは緊張もしてるだろうし、神聖な気持ちになってるから周りのことは気にならないだろうけど、参列してる親族の人たちがとても居心地悪そうだった。頼んでもないのに写真も撮られまくり。このロケーションとシチュエーションはかなり厳しいものがある。逆に言えば、注目されるのが好きな人は、これ以上ない好条件だ。
 ちょっといいなと思ったのは、「幸あかり」挙式というもので、これは一日ひと組限定で、日没から夜にかけて、かがり火の中で執りおこなう神前結婚式だ。参拝客もほとんどいなくなった日暮れ、静けさを取り戻した鶴岡八幡宮の舞殿というのは、古来の儀式のようで厳かで昔に戻ったような雰囲気に包まれるんじゃなだろうか。ここの結婚式は、巫女さんや古典楽器など、本格嗜好が強い。
 ここは、義経と逃げた静御前が吉野山で捕らえられて、鎌倉の頼朝の前で舞いを踊るのを命ぜられたときに舞ったという伝説の場所だ。実際は、当時まだこの舞殿は作られる前だったから若宮社殿の回廊だったというのだけど、伝説としてはここで舞ったという方がドラマチックでいい。細かい場所はともかく、800年前にこの地で実際にそんなことがあったんだと想像すると、切ないような優しいような気持ちになる。
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
 こう詠んだ静御前は頼朝の怒りを買って、義経の息子と共に命を落とすことになる。

鶴岡八幡宮-3

 樹齢千年以上ともいわれる大イチョウ。高さ30メートル、周囲7メートル。
 1219年1月27日。夕方から降り出した雪はたちまち積もった。夜になって、三代将軍源実朝が右大臣昇進の儀式のため鶴岡八幡宮を訪れる。その帰り、ほろ酔い加減でお供とともに石段を降りてきたとき、イチョウの影から覆面の男が飛び出してきた。親のカタキ! と叫びながら飛びかかってくる男に抵抗するすべもなく、一刀両断、切り落とされた実朝の首は石段を転げ落ちる。将軍暗殺。犯人は、実朝を親の仇と勘違いした二代将軍源頼家の二男・公暁だった。その公暁も同日、幕府の刺客によって討ち取られてしまう。享年20歳。一夜にして源氏の正当後継者は絶え、ここに源直系は断絶となったのだった。
 以降、政治の実権は執権北条が握ることとなり、将軍職はよそから連れてこられたお飾りとなっていく。源頼朝が作り上げた鎌倉幕府の中心である鶴岡八幡宮で源氏の直系が途絶えてしまうというのは、なんとも皮肉な話だった。

鶴岡八幡宮-4

 最近、全体的に塗り直されたようで、色鮮やかさが増した総朱塗りの大きな楼門。本宮の入口にあたる。
 本宮はどういうわけか撮影禁止となっていた。ケチだからというより、人が多くて写真を撮られていたんでは人の流れが悪くなるからかもしれない。私はそれに気づかず一枚撮ってしまって警備のおやじさんに注意された。言われてみれば、本殿の向こうに撮影禁止という貼り紙があった。人波の頭で見えなかった。
 本宮は1828年に、11代将軍徳川家斉が造営したもので、応神天皇、比売神、神宮皇后が祀られている。応神天皇は神話の時代の天皇で、三韓征伐の伝説があって、そこから戦の神様の性格を持っている。そのために、八幡宮というのは武士が信仰したイメージが強い。
 階段の下には2代将軍秀忠が修造した若宮があり、こちらは仁徳天皇、履中天皇、仲姫命、磐之姫命などが祀ってあり、頼朝ゆかりの熱田神社の他、三島神社、祖霊神、武内社などがある。
 知っている人は知っている、知らない人は知らない、鎌倉と鶴岡八幡宮と鳩の関係。楼門の額の「八」の字は、鳩の形をしている。鳩は八幡信仰の中では神聖な生き物とされていて、ここのシンボルとなっている。だから、鎌倉名物・鳩サブレーは鳩の形をしているのだ。知ってたかな。私は昨日まで知らなかったけど、明日からはずっと昔から知ってたかのように、鳩サブレーを食べている人を見かけるたびにこの雑学を披露するだろう。

鶴岡八幡宮-5

 脇にあるこの神社は、これまで見たものとはずいぶん趣が違っていて惹かれるものがあった。源頼朝と源実朝を祀る白旗神社なのだけど、イメージカラーが黒というのは珍しい。源氏のシンボルカラーは白だし、名前も白旗神社なのに、なんで黒? 黒といったら豊臣家側の城くらいではないか。
 と思ったら、豊臣秀吉が小田原攻めのあとにこの神社を訪れて、頼朝像に向かって、あなたと私は身一つで天下を治めた友達だね、と語りかけたというエピソードが残っているそうだ。それで黒になったというわけではないだろうけど、意外な共通点が面白かった。
 1200年に源頼家が父頼朝を祀るために建立。車寄せ風の唐破風造りで、明治20年の改修で現在の黒漆塗りになったそうだ。

鶴岡八幡宮-6

 源平池と名づけられた池のこちらは源氏池。参道を隔てた反対側に平家池もある。源氏池には島が三つ、平家家には島が四つ浮かんでいる。その心は、三は産まれるという意味を、四は死を意味するんだとか。えげつないというか子供っぽいというか。こんなことは頼朝が思いつくことじゃないだろうと思ったら案の定、妻の北条政子の立案だったようだ。
 少し前までは平家に在らずんば人に在らずとまで詠われるほど繁栄を極めた平家が、驕れるものは久しからずのたとえ通りに滅び、それにとって代わった源氏は、拠り所としたここ鶴岡八幡宮でわずか三代で直系が途絶えることになった。やがて北条も打ち倒され、時代は移り変わっていく。それが世の常といえばそれまでだけど、人の願いというのはいつの時代も儚いものだ。永遠の繁栄などあろうはずもない。
 源氏池の島には旗上弁天社が置かれている。社殿の後方には政子石と呼ばれる祈願石があって、頼朝はその石に政子の安産を祈願したといわれている。その石に触ると立派な赤ん坊が産まれるというのではなく、夫婦円満、縁結びの石となっているんだとか。
 平治の乱に破れた源氏の嫡男だった頼朝は、流された先で政子と出会い恋に落ちる。しかし、平家を恐れた父時政は二人を引き離そうと、政子を無理矢理山木兼隆に嫁がせようとした。その結婚の儀の前夜、政子は屋敷を抜け出して駆け出した。大雨の中、伊豆で待つ頼朝の元へ。

 鶴岡八幡宮を訪れて、ようやく私の描いていた鎌倉のイメージに行き当たった気がした。北鎌倉の寺はどこも素晴らしかったし立派だったのだけど、私の中の源氏鎌倉イメージとは違うものだった。やっと再会がかなったような気がして嬉しかった。
 けど、ここで満腹になっている場合ではない。残り少ない時間で、まだ長谷ゾーンが残っている。ここからは江ノ電に乗って長谷へ移動することになる。その江ノ電が大変なことになっていたのだけど、とにもかくにも長谷へと我々は向かった。
 長かったこの鎌倉紀行も、後半少し駆け足になって、あとは長谷編と番外編を残すのみとなった。そうこうしてるうちに横浜行きの日時が迫っている。さあ、先を急ぐのだ。歳月は人を待ってくれないから、過去への旅も急がなければならない。

鎌倉五山第一の建長寺は立派なのに何かが足りないもどかしさ

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
建長寺-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/100s(絞り優先)



 よくばり鎌倉巡り標準コースの中間に建長寺がある。貧乏性の人間が初めて鎌倉を訪れたとき、せっかくだから主なやつは全部見ておこうという貧乏性丸出しにするとたいていここが中間地点となるはずだ。北鎌倉のクライマックスという言い方もできるだろう。北鎌倉のはずれで、この先は鎌倉駅ゾーンとなる。
 鎌倉五山の第一位ということでいやが上にも期待は高まる。どんなに立派なんだろうと。しかし、結果的にその期待は肩すかしというかイメージのズレを上手く修正できないまま終わることになる。何か物足りない。何が足りないのか、どこに違和感の要因があるのかは帰ってきて少し時間が経ってぼんやり分かってきた。まだこの時点では分からない。

 ときは1253年、五代執権北条時頼の時代。承久の乱(1221年)の後、最大の敵対勢力だった三浦氏を打ち破った北条家は、鎌倉の地で盤石の体制が整った。時頼は幕府の威光を示すためにも巨大な寺院を造ろうと思い立つ。後深草天皇の勅命を受ける形で、南宋の禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう・大覚禅師)を開山として、4年がかりで建長寺を建立する。これが日本で最初の禅寺となった。
 本尊は臨済宗のスタンダード釈迦牟尼(しゃかむに)ではなく、地蔵菩薩となっている。これは、建長寺が建つ前、この地が罪人の処刑場で地獄谷と呼ばれていたことに関係がある。そこには心平寺があって、地蔵菩薩を祀った地蔵堂があった。その縁起で建長寺は地蔵菩薩を本尊とすることになったという。心平寺の地蔵仏は現在、建長寺に本尊と共に祀られている。
 山号は巨福山(こふくさん)、寺号は建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。建長寺の建長は当時の年号で、年号を寺の名前にしているのは、ここと延暦寺の二つしかない。今でいえば平成寺みたいなものだから、そう簡単に名乗れないだろうし、同じ名前が二つあってもまずい感じだ。
 北条氏以降も幕府によって保護されて発展していき、ついには鎌倉五山の第一位にまでなった。最盛期には塔頭が49院にまで巨大化して、修行僧(雲水)は1,000人を超えたという。ただし、残念ながら度重なる火災や地震によって規模はだんだん縮小し、当時の建物の多くが失われてしまった。今残っているものは、江戸時代以降に再建されたり移築されたりしたものがほとんどだ。関東大震災でも大きなダメージを受けた。
 このあたりにも私の感じた物足りなさの原因になっていたようだ。

建長寺-2

 総門の向こうに大きな三門が見える。その向こうには仏殿、更には法堂(はっとう)と続く。このように伽藍が一直線に並ぶのが中国の禅宗様式の基本形で、建長寺もそのスタイルをしっかりと踏襲している(地形の関係で参道は少し斜めになっているけど)。真横から見るとそれがよく分かる。周囲には10の塔頭寺院が取り囲んでいて、規模は縮小したとはいえ、今でも充分広い境内だ。
 総門は、1783年に建立されたといわれるもので、1943年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築されてきた。
「巨福山」の額は建長寺10世一山一寧(いっさんいちねい)の字で、「巨」の下に「点」が書かれている。中国人なので漢字を間違えたとかではない。ここに点があることで字に安定感が生まれるということで加えたんだそうだ。漢字テストなら×でも、ここならOK。

建長寺-3

 総門の次は大変立派な山門が待ち構えている。創建時のものは失われて、現在のものは江戸時代の1775年に万拙碩誼和尚の尽力で建てられたものだ。高さ30メートルの重層門は、偉容を持って訪れる人々を出迎える。額の大きさだけで畳4畳分というから、そこで暮らせるくらいだ。お決まりの仁王像はない。
 昭和29年に修理がなされ、最近も平成8年の大修理によって化粧直しをされた。その際に屋根は茅葺から銅葺になった。
 楼上には釈迦如来像などの他、五百羅漢像が祀られている。昔は自由に上がれたようで、そのために五百あった羅漢像が気がつけば三百体ほどになっていたという。五百もあるから一体くらい持っていっても分からないだろうと思って持っていったんだろう。このままではいつかなくなってしまうということで、今は上がることができなくなっている。特別公開日のみ、見学できるようだ。

建長寺-4

 三門をくぐれば次は本堂である仏殿だ。禅寺は本殿を仏殿と呼ぶのが正式なんだそうだ。
 これは1647年に、芝の増上寺にあった徳川2代将軍秀忠の夫人崇源院(お江与の方)の霊廟を建て替える際に移築したものなので、本来の禅宗の仏殿とは違うスタイルになっている。しかし、こんな巨大なものを分解したとはいえ、江戸から鎌倉までよく運んできたなと感心する。当時は道だって狭かっただろうに。分解と再建築の技術もすごい。

建長寺-5

 仏殿には本尊である地蔵菩薩坐像の他、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、伽藍神像などを安置してある。
 この古めかしさは素晴らしい。古ければ古いほどありがたみがある。地蔵菩薩は室町時代作だし、建物も江戸初期のものだ。天井絵も凝っている。
 こういうものには素直に手を合わせて頭を下げたいと思う。神様抜きにしても。

建長寺-6

 仏殿裏には龍王殿と呼ばれる法堂(はっとう)がある。通常の寺院の講堂に当たる建物で、これは1814年建立と古くて立派なものだった。その前の1275年創建のものも見てみたかった。
 この日は、春の特別公開とかで開放されていた(5月7日まで)。
 平成14年に、創建750年記念ということで、かなり大がかりな解体修理が行われたそうだ。
  私たちはようやくここで遅いランチタイムとなる。数少ないベンチは占領されて座れそうもないのであきらめて、土台の石の上で手作りケーキを広げて食べた。写真でみんなが座っているところだ。そんなやつらは他にいなかったけど、この際ひと目なんか気にしちゃいられない。とにもかくにも久しぶりに座ってホッとする。吹き抜ける5月の風が気持ちいい。

建長寺-7

  奥には千手観音坐像が、手前にはパキスタンから贈られた釈迦像が安置されていて、天井では巨大な龍がにらみをきかせている。補修工事をした祭に、鎌倉在住の日本画家小泉淳作によって描かれたもので、「雲龍図」という名前だそうだ。縦10メートル、横12メートルで、足かけ3年がかりだったという。
 どこへいっても龍の視線から逃れられない。やましいところがなければ逃げ隠れする必要はないのだけど。

建長寺-8

 法堂の次は唐門、龍王殿と呼ばれる方丈が続く。唐門は芝増上寺の崇源院霊屋から、方丈は京都般舟三昧院からそれぞれ移築されたものだ。。ここはなんだか寄せ集め所帯のようなことになっている。建物自体はどれも古くて立派なものなのだけど、他から移されたきたものだと聞くと少し複雑な気分になる。何百年もこの地に建ち続けてきたものと、よそから引っ越してきたものとでは意味が違う。
 方丈は毎年11月に寺のお宝を虫干しするのを兼ねて一般公開されている(有料)。普段は靴を脱いで廊下づたいに裏にまわって庭園を眺めることができるようになっている。こちらは無料。特に素晴らしく凝った庭というわけではないけれど、これを見ながらしばしぼぉーっとするのも悪くない。
 夢想国師作という説もあるようだけど、建長寺では開山の蘭渓道隆が作ったと説明している。夢想国師というにはちょっとシンプルすぎて違う気がする。
 右に写っているのは紫雲閣で、創建750年記念で最近建てられた。みんなの拝観料はこういうところへいくのねと思う。
 この他、禅道場(現在でも10数人の若い僧侶が修行しているそうで一般は立ち入り禁止)、国宝の梵鐘がかかる鐘楼、織田有楽斉(信長の弟)の墓などがある。元気な人は、ここから10分ほど奥へ行ったところにある半僧坊まで歩いていく。途中では大天狗、小天狗の像が出迎えてくれるそうだ。毎週金曜土曜に無料の座禅会も開かれているという。今の時期はボタンもたくさん咲いている。

 さて、建長寺だ。おそらく、ここを訪れた多くの人が立派だったとか、建物がよかったとか、広かったといった感想を口にするだろう。けど、人にはそう言いながら、どこか満たされない思いでここを後にしたという人も少なくないんじゃないだろうか。特に鎌倉五山の第一位とはどんなところだろうと大いなる期待を胸に訪ねた人は余計そう感じたと思う。
 個人的な感想としては、ちょっと観光地化されすぎているのかなというのがあった。京都の有名寺院みたいで、悪く言えば俗っぽくなってしまっている。あるいは、歴史の濃密な空気感が足りないというのも感じた。当初の建造物の大部分を失ってしまったこともあるだろう。建築物を他から持ってきたことも影響してるかもしれない。ひと言で言えば、ここは鎌倉らしくないのだ。ここだけ他の鎌倉寺院の中で雰囲気が違っている。円覚寺とも明月院とも違って、北条色がない。鎌倉特有のしっとりとした静寂さがここにはない。それは訪れる人数とは関係ない。
 もう一つ言えば、建長寺にはドラマがない。失った大切な人を弔うためとか、そういった誰かを思いやる気持ちで作られた寺ではないから、人の感情に訴える部分が足りなくなってしまっているのではないかと私は感じた。人を思いやる強い気持ちは、人々の共感を呼び、共鳴してその地に波動として定着する。人はそれを言葉で説明できなくても確かに感じるものだ。共感すべき思いの核がなければ、共振は起こらない。
 神社仏閣にも相性というのがあるから、私がたまたまそうだっただけかもしれない。人によってはここで大いにシンクロする人もいるだろう。誰がいいとか間違ってるかの問題ではない。立派なのは間違いなく立派なのだから、それでいいといえばいい。
 そんな思いを抱きつつ、鎌倉紀行は更に続いていく。急げ、貧乏性、まだ半分だぞ。

明月院で鎌倉紀行もやっと半分で、まだ先は長いのだ

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
明月院-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/80s(絞り優先)



 そろそろゴールデンウィークも遠い日の出来事になりつつある昨今。にもかかわらず、私の鎌倉紀行はまだ半分も書き終わっていない。どういうことですか、これは。などと誰にともなく当たってみる。けど、居直っていても終わらないので、一日一寺ずつ書いていくしかなかろう。途中に何も挟まなければ、建長寺、鶴岡八幡宮、長谷寺、鎌倉大仏、その他、とあと5回で終わるはずだ。終わるといいな。
 お昼も食べずに歩き続けていた私たちは、12時をまわった頃ようやく明月院(めいげついん)に辿り着いた。このあたりで若干へばり始める。鎌倉というのは座れる場所の少ないところで、ましてや外ランチできるところとなるとほとんど見当たらない。寺にはベンチも少なく、一般的な公園などというものも観光コースの途中には存在しない。ここは不健康な人間にはとても厳しい土地だ。

 明月院の成り立ちは、これまで見てきた北鎌倉のお寺とは違って、少しややこしい。
 もともとは頼朝のオヤジの源義朝と平清盛が戦った平治の乱で戦死した首藤刑部大輔俊道を弔うために、その子供の首藤刑部太夫と山ノ内経俊が明月院の前身の明月庵を創建したことに始まる(1160年)。
 その後、五代執権の北条時頼が別邸として持仏堂を造営して最明寺と名付けた。時頼の死後はいったん廃絶したものの、息子の八代執権の時宗(円覚寺の人)が、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山として再興して禅興寺(ぜんこうじ)と改名した。
 明月庵はどこへいったかというと、禅興寺の塔頭(たっちゅう)となっていた。塔頭っていうのは、寺の境内にある小寺というか支社のようなもので、大きな寺の中にはいろんなお寺が入っていることが多い。
 時は流れて室町時代(1380年)。足利氏満が関東官領・上杉憲方に禅興寺の再興を命じて、寺院は拡大して、塔頭も建てた。そのときに明月庵は明月院と改められて支院の首位に置かれることとなる。
 三代将軍義満の時代には関東十刹の一位となるほど栄えたものの、その後衰退。明治に入って禅興寺はとうとう廃寺となってしまった。その代わり明月院だけが残って現在に至っている。
 寺の運命もどう転がるか分からない。禅興寺として残っていたらまた違った寺になっていただろう。名前が固いから、もっと雄々しい感じの禅寺となっていたかもしれない。明月院というのは名前のイメージがソフトで成功しているところがある。
 今日も前置きが長くなった。総門をくぐる前からこの調子ではなかなか前へ進まない。定年退職後にボランティアで名所案内のガイドをしてるおじさんの話みたいだ。

明月院-2

 ここは道が三方に分かれていて、どっちから進むのが正当なのか分からないまま本堂まで着いてしまった。本来なら三門をくぐっていきたいところが、裏から入り直すこととなった。珍しい木の階段の明月院桂橋があったからそこを渡ってしまったのが間違いだった。一番右から行くのが正解なんだと思う。
 本堂は紫陽殿と名づけられていて、本尊の聖観世音菩薩が祀られている。その左には仏殿の宗猷堂があり、更に奥には鎌倉最大の「やぐら」の崖がそびえている。やぐらは浄智寺にもあった岩の中をくり抜いたお墓のことで、ここのものは高さ3メートル、間口7メートル、奥行きも5メートルと巨大だ。中には二体の如来像と十六羅漢像が浮彫にされていて、中央には上杉憲方の墓とされる宝篋印塔が安置されている。
 このやぐらは、明治初めの山崩れで発見されたんだそうだ。最初に見つけた人はびっくりしたことだろう。埋もれていたことで保存がよくなったのは幸いだった。
 入口から左へ進むと、五代執権北条時頼の墓所がある。
 建物の見どころとしては、開山堂である宗猷堂(そうゆうどう)を見逃せない。南北朝時代の1380年に建てられたもので、茅葺きで寄棟造りの屋根が特徴的だ。明月院を開山した密室守厳禅師の木造が安置されていてる。

明月院-3

 明月院といえば、この丸窓の月見の窓が有名だ。時宗のときの和泉元彌もここを背景に写真に収まっていた。誰もが見たら撮らずにはいられない絵になる光景だ。
 本堂に上がるには、ユニセフ募金という名目の300円を払わないといけない。お茶とお菓子付きだから、休憩を取るためにも上がっておけばよかった(セルフサービスっぽいけど)。お寺と募金という組み合わせが感覚的にしっくりこなくてやめた。ここで弁当広げてたら叱られただろうな。
 裏は庭園になっていて、ハナショウブと紅葉の見頃の時期だけ入ることができる。ただし、それにも500円かかる。明月院を堪能しようと思ったら、拝観料300円を入れて1,100円必要となる。ちょっと取りすぎ。

明月院-5

 本堂の前は枯山水の庭園になっている。けっこう唐突なロケーション。若い子がここを背景に記念写真を撮っていた。そこで本当にいいのかと問いたかったけど、もちろんそんなことはしない。ちょっと照れくさそうな嬉しげな笑顔で撮られていた。
 私は枯山水が本当に理解できるほど枯れてはいないので、この魅力がよく分からない。普通に水を張った方がきれいだろうと思う。これを自然に見立てるなんて、イメクラの世界だ。私はそんなに想像力がたくましくない。しかし、京都なんかでは外国人が枯山水を見て喜んでるから不思議だ。どこまで本気でいいと思ってるんだろう。彼らはフランス映画を理解するように枯山水も正しく理解しているのだろうか。
 創建当時の明月院は、橋の架かる池や三重塔があったそうだ。この枯山水も案外最近のものかもしれない。昔の姿の方に私は魅力を感じる。自分が分からないものを無理にありがたがることはない。

明月院-4

 これが裏からくぐった三門(山門)だ。アジサイの季節になるとここの両脇いっぱいにアジサイの花が咲き乱れるという。明月院は別名アジサイ寺と呼ばれるほどアジサイのイメージがすっかり定着している。地元では「アジサイ公害」といって恐れをなす毎年6月。シーズン中の週末ともなると、北鎌倉駅から明月院まで数百メートルの行列が続くそうだ。境内も押すなおすなの大盛況でゆっくり花を楽しんだりじっくり写真を撮っているどころではない。明月院のアジサイはあまりにも有名になりすぎた。
 しかし、昔からアジサイ寺として知られていたわけではない。そもそもアジサイを植え始めたのも戦後のことで、アジサイが名物になったのは昭和40年代に入ってからのことだ。なので歴史は浅い。
 境内には約2,000株のアジサイが植えられていて、多くがヒメアジサイという日本古来の青い花だ。薄い青から濃い青に変化する様子がすがすがしくも美しく、人はそれを明月院ブルーと呼ぶ。
 アジサイなんて日本全国どこにでも咲くありふれた花なのに、なんでわざわざ遠くから混雑すると分かり切っている鎌倉の明月院まで行くのか? その問いの答えは、おそらく行けば分かるのだろう。それだけの価値があるから人が集まってくるに違いない。行ってみたら評判倒れだったというなら、これほど名物として知れ渡ることもない。いくら老舗の有名店でも味が悪ければ客足は遠のく。悔しいけどこりゃ認めざるを得ないなと思わせる説得力があるんだそうだ。境内の雰囲気と相まって独特の静かな華やかさがあるのだろう。私も今年見に行くか。来年にしようか。

明月院-6

 こちらは孟宗竹林。ここは絵になるシーンが多い。紅葉のときも趣があるのだろう。
 明月院といえば、澁澤龍彦邸が近くにあることが一部で知られている。私もあわふやな手掛かりを元に少し探してみたのだけど、結局見つけることができなかった。残念。ヒントは、明月院の近くの丘の上の白い家。いくらなんでも手掛かりが少なすぎた。
 帰ってきてから新たなる有力証言が得られた。明月院へ向かう途中の生垣に沿う小径を辿って左に折れて、急な坂道を登りながら右手を見上げると、張り出した岩の上に白い壁とペパーミントグリーンの建物が建っていて、近づくとぼたんという名の柴犬が吠えるらしい。奥さんの龍子さんの文章だから、出所ははっきりしている。次こそこの証言を頼りにもう一度探してみたい。骨付き肉を手に持って、ぼたんやー、ぼたんやー、と呼び歩いている男がいたら、それはきっと私だ。

 鎌倉は、京都、奈良と同様、第二次大戦で空襲がなかったところだ。アメリカ人が古都の重要性を本当に理解していたかどうかは疑問だけど、この点だけは戦争の中の救いだった。もし、京都に爆弾を落として街を焼いていたとしたら、日本人は全滅するまで狂ったように戦ったかもしれない。鎌倉はたぶん、アメリカ軍にとって重要攻撃目標ではなかったから助かったのだろう。おかげでこういう古い寺社が残った。関東大震災がなければもっと残っただろうけど、それは言っても仕方がない。
 徹底的に壊されて生まれ変わらざるを得なくて新しくなった東京は別にして、やはり戦争というのは大切なものをたくさん壊してしまう負に属するものだ。源平の時代から戦国時代の内戦だってそうだ。安土城などの重要な城もたくさん燃えてしまった。
 古い建造物の重要性というのは、現代を生きる私たちが昔に思いを馳せるためのとっかかりとなってくれるという点だ。京都奈良にしても鎌倉にしても、古い神社仏閣が残っていなければ修学旅行や個人の旅行で行く機会はもっと少なくなっていただろう。沖縄や北海道ももちろんいいけど、歴史を振り返るきっかけとなる古都巡りも大事なことだ。教科書や本だけでは実感を得るのは難しい。実際その地に自分が立って、自分の目で見て初めて気づくこともたくさんある。それを機に興味がわいて、勉強して知識や教養が深まるということもある。
 簡単に1200年とか1300年とか年号を言ってるけど、700年、800年という年月は決して短いものでも簡単なことでもない。その時間は、私たちが頭で思っているよりも重い。必要以上に深刻になることはないけど、時の重みをしっかりと受け止めたい。

 そんなわけで、やっとこさっとこ明月院をあとにした私たちは、建長寺へとテクテク歩いて向かった。電車は区間が広くて、わざわざ戻って乗るとかえって遠くなるし、車で来るにはこんな不便な街はない。鎌倉のレンタサイクルは、1時間1,000円もするから気軽に借りて乗り捨てていくようなこともできない。巡れば巡るほどに貧乏になっていく仕組み。そして、否が応でも歩かねばならない。いろんな意味でここは厳しい街だなぁと思う私であった。
 明日は建長寺でお会いましょう。

季節の花は今年のこの季節のうちに---鎌倉の花第一弾

花/植物(Flower/plant)
鎌倉の花-2

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6 1/30s(絞り優先)



 初夏の鎌倉は花盛り。花目的だけで行っても楽しめるくらいに。アジサイの季節になるととんでもない人混みになるから、ゆっくり花を見て回るには5月がいい。
 今日は鎌倉で撮ってきた花写真の第一弾ということで、何枚か紹介したい。古都鎌倉は花の都でもあった。

鎌倉の花-1

 円覚寺のシャクナゲ(石楠花)。しゃくなげ色にたそがれるのあのシャクナゲだ。パッと見が派手で目を惹く。近づいてよく見ると、ツツジの仲間だということがよく分かる。枝の先にツツジの花がかたまって咲いているような感じだ。
 ときどき混乱するのは、シャクナゲとシャクヤクだ。シャクヤクとボタンの区別も難しいから、ますますややこしい。シャクナゲとシャクヤクの見た目は似てないけど。
 シャクヤクは変種が多くて、品種改良もさかんにおこなわれている。シャクナゲ愛好家という人たちも大勢いるそうだ。

鎌倉の花-3

 初めて見る花だった。ガクアジサイに少し似ているけど、もちろん全然違う。名前のプレートがかかってなければ分からなかった。チャボヤブデマリ(矮鶏藪手毬)というらしい。ヤブテマリの仲間で、ちょっと珍しいのかもしれない。
 名前からしても、コデマリとかオオデマリとかの仲間なのだろう。葉っぱが細いところで区別するようだ。
 これも円覚寺にあった。遠目で見るとさほどきれいではないのだけど、近くに寄って花を見ると清楚で美しい。庭木というよりも鉢植えが似合いそうだ。

鎌倉の花-4

 確か、円覚寺のボタンだったはず。シャクヤクということはないと思うけど、いまだにボタンとシャクヤクの区別がついてない。全然違うのに。
 円覚寺にはボタンの時期だけ公開される松嶺院というのもあるのだけど(500円だったかな)、外にもあるのでそちらで満足することにする。
 ボタンはもうそろそろ終わりだろう。
 しかし、ボタンは巨大だ。

鎌倉の花-5

 鶴岡八幡宮のキショウブ(黄菖蒲)。アヤメ科の中でカキツバタや花菖蒲よりも先にいち早く咲いてくる。
 日本の風景に馴染んで、カキツバタなんかと昔から一緒にいた仲間のような顔をしているけど、実際はヨーロッパからの帰化組だ。今では日本各地で野生化してたくましく生きている。その分、カキツバタに比べると繊細さに欠けるようなところがある。

鎌倉の花-6

 鎌倉に限らず、あちこちでよく目にするシャガ(射干、著莪)。どこでもよく見かけるのですぐにありがたみがなくなる。
 これもアヤメ科というのは少し意外。近寄って花の形をよく見ると、なるほど仲間だと分かる。
 林の中の木陰で群生していると、おっと思う。暗い中では白がよく映える。
 ずっと昔に中国から持ち込まれたのが始まりとされる。
 花は一日花で、翌日には枯れてしまう。なので、全体としてわぁーっときれいになることはあまりない。

鎌倉の花-7

 モミジの赤いプロペラ。青空を背景に、新緑の鮮やかな葉と赤い実のコントラストが好きだ。
 春に咲いてすぐに姿を消す花があり、初夏を彩る花々がいて、次の季節の準備をする樹木がある。みんなそれぞれの役割を担って、それぞれの季節を生きている。
 人も同じだ。今春を生きている人と冬を生きている人と。終わった人と、これからの人と。
 季節は巡り、去っていく。またやって来るけど、それは去年と同じ季節ではない。見逃した花をまた来年見ればいいやなんて思っていたら、もう二度と見られなくなってしまうかもしれない。今年の花は今年のうちに。季節の花は季節のうちに。
 なるべく見逃さないように、たくさんの花と出会えるようにと思ってあちこちをうろついている。鎌倉でもいろいろな出会いがあった。
 鎌倉の花第二弾に続く。

私の作るやわらか料理は22世紀を先取るニューパワー

食べ物(Food)
やわらかサンデー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/15s(絞り優先)



 今日のサンデー料理のやる気は70パーセント。作りたい気持がなくはないけどもうひとつ気合いが入らなかった。自分が食べたくて、食材がシンプルで、作りやすいものということで、思いついた料理をさらっと作ることにする。出来上がってみるとそこには、やわらか料理の神髄とでも言うべき料理が並んでいた。入れ歯のおじいちゃんにも喜ばれそうな3品が。
 前々から自覚はあったけど、どうやら私は深く考えずに食べたいものを作ると、やわらか料理になってしまうらしい。基本的に食材は砕く。もしくは、小さく切る。そして、固いものは煮込む。結果的にフニャフニャ料理が出来上がる。人が作ってくれたものを食べてる分にはさほど意識はしなかったのだけど、自分が作るようになって明らかにやわらか料理が好きなことが分かってきた。私は老人か! と、自らに突っ込んでみる。
 私が作る料理は育ち盛りの子供には食べさせられない。こんなものを毎日食べていたんでは、歯とアゴが弱くなってしまってアゴ勇のようにはなれなくなってしまう。ボクサーとしては打たれ弱くてチャンピオンにはなれない。ガラスのアゴ呼ばわりされてしまうだろう。浜田剛史さんにも、お手並み拝見といきましょうか、と言ってもらえなくなる。
 それにしても今回は特にフニャ度が高くなった。歯ごたえというものがまるでない。離乳食を食べ始めた子供用のようだ。なんでこうなってしまうんだろう。
 ひとつには、食材の原形が見える料理があまり好きではないというのがある。魚の塩焼きなんて食べる気もしないし、肉ならステーキよりもすき焼きの方が断然好きだった。それと、趣味でやってる料理だから、素材の形がそのまま残っているとちゃんと作ったような気がしないというのもある。買ってきた牛肉を焼き肉のたれで焼いただけではそれは料理をしたうちに入らない。だから、どうしても食材を砕いてしまいがちな私なのだ。梅干しの種はかみ砕けなくても、通常の料理なら普通に食べられる歯とアゴは持っているのだけど。

 白身魚でつくねを作って、それをポトフ風のスープに浮かべようと思って始めた料理は、途中で大きなうねりを見せ、大波に飲み込まれて難破して浜に打ち上げられたような姿になった。
 白身魚の切り身を適当なみじん切りして、卵と小麦粉を混ぜて、白味噌、塩、コショウで味付けする。本来ならここで湯に入れるかラップしてレンジで加熱してつくねにするところが、面倒になってそのままタマネギとジャガイモと一緒にフライパンで焼いてしまった。当然、形は整わず、ごてごてのマッシュポテトを焼いたような変なものと化した。あまりにもごてごてだったので、白ワインをかなり入れてみた。更にお湯にコンソメの素を溶かしてそれを混ぜ入れてみる。まだ味のインパクトが足りなかったので、カレー粉を盛大に振ってみた。
 これが結果的に美味しくなるから料理というのは分からない。ゆでた大葉と、刻んだ長ネギを添えていっちょあがり。見たことも聞いたこともない料理だけど、美味しく食べられたから結果オーライということにしよう。右奥の黄色いのがそれだ。

 右手前のは、フニャフニャ豆腐の進化版。今回はニンジンを新メンバーに加えてみた。
 絹ごし豆腐をほどほどに水切りする。その間にニンジンを刻んで炒めて、そこにツナ缶を投入する。ニンジンがしなっとしたら豆腐を投げ込んで適当に砕く。味付けは、酒、みりん、しょう油、めんつゆで、少し濃いめにする。最後に溶き卵を流し入れて、ふわふわなところで火を止める。皿に盛ったら、青のりとかつぶしをたっぷりかける。好みに合わせて唐辛子も。
 ニンジンの効果でどの程度味がアップしたのかは定かではないのだけど、彩りとしてはきれいなので入れて損はない。これはいつも作ってるやつの変形なので、味は安定している。好きな豆腐料理だ。

 左のは外観ではどんな料理か推定しづらい。一応メイン食材はナスということになっている。
 刻んだタマネギと、鶏肉、小エビを炒めて、塩、コショウ、コンソメの素で味付けしていったん取り出す。そこへスライスしたナスを入れて、白ワインで蒸し焼きのようにする。あとは、先ほどのタマネギや鶏肉などを戻して、薄切りトマトとパン粉ととろけるチーズをのせて、溶いたコンソメの素を流し入れて、ふたをしてしばらく蒸し焼きにする。
 見てくれは悪くなってしまったけど、もうちょっとちゃんと盛りつけすればもっと美味しそうに見えるはずだ。もしくは、面倒でなければ蒸し焼きではなくオーブンレンジで焼いた方がいいかもしれない。それはそれでまた違った料理になってしまうのだけど。

 やる気は70パーセントで、味は75点、完成度はまずますといったところだろうか。あらためて写真で見てみると、かなり不思議な料理だ。どこの国の料理だこれ、と思う。和風でもなくフランス料理風でもなく、ましてやイタリア料理風でもない。洋風とも言えないし、そもそもこんな料理、見覚えがない。もしかして、私、すごいかもしれない。今まで見たことがない完全オリジナル料理を無意識に作ってしまったのだから。そのうち、完成した料理を見て、私はこんなものを作った覚えはないと言い張るようになるかもしれない。よく噛まないから老化が一気に進んで。
 しかし、固い料理ってどんな料理だろと考えて、そのイメージがわかない。食材で固いものはあるけど、調理で固くしてなおかつ美味しいものってどんなものがあるだろう。高級料理になるほど柔らかくなっていくイメージは間違ってないと思う。噛んだときの歯ごたえのやわらかさは美味しいと感じる感覚につながることが多い。だとすれば、私のやわらか料理は方向性としては正しいのかもしれない。未来の人類はアゴがほっそりして細面になるという予測があるけど、そういう意味では私は時代を先取るニューパワーだ。なっつかしいですね、と遠い未来で振り返ったときそう思うことだろう。
 目指せ22世紀料理、火星人もびっくり、これを今後のテーマのひとつとして掲げて、私のサンデー料理は更に続いていくのであった。

鎌倉は源氏ではなく北条氏のものだったのだと浄智寺で気づく

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
浄智寺-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/10s(絞り優先)



 北鎌倉名所巡りは、一番上の円覚寺から始まって、東慶寺、浄智寺へと続く。入口が少し分かりづらくて見逃して通り過ぎてしまいそうになるけど、ここもいいお寺なので北鎌倉へ行ったときはぜひ寄っておきたい。
 鎌倉って実際にどんなところなのかを詳しく説明できる人は、案外少ないんじゃないだろうか。私も行く前はそうだった。いい国作ろう鎌倉幕府の源頼朝や義経のものだろうくらいに漠然と考えていた。その後にことは興味なくて知らないも同然だった。
 実際に巡ってみた鎌倉は、北条のものだった。少なくとも、今残っている史跡に関しては源氏色よりも北条色の方が圧倒的に濃い。鎌倉幕府は、北条家のものだったんだなと今さらながらあらためて思った私なのであった。
 ついでなので鎌倉時代についてさらっとおさらいしておこう。
 それまで圧倒的に支配をしていた平家を源義経たちが中心となって武力で倒して、鎌倉の地に武士で初めて幕府を開いたのが源頼朝だった。平家は支配はしていたけど幕府は開いていない。京都の朝廷に入り込んで、その力を利用して権力を握っていた。
 鎌倉幕府というのはけっこう特殊な形態で、京都の朝廷があって、鎌倉に幕府があるという二元構造になっていた。その上で、全国に守護を置いて、地方の支配者たちに土地を与えるというゆるやかな形を取っていた。本当の意味で全国制覇を成し遂げたわけではない。平家を倒しただけで、全国支配のための戦はしていないから、戦国時代のような武力支配とは違う。いざとなれば主従関係を結んだ地方の武士たちに動員をかけられる権利を持っていただけだ。それがいわゆる「いざ鎌倉」というやつで、モンゴルが攻めてきたときにそのシステムが機能した。
 ところで、初代将軍の源家はその後どうなったんだろうと思っている人は多いんじゃないだろうか。鎌倉時代というのは、戦国や幕末のように派手じゃないから、あまりドラマや小説に描かれることがなくて、学校の勉強を怠けた人はあやふやな知識のまま大人になってしまってそれっきりになりがちだ。なんだかんだで140年以上も続いたんだから、その間にいろんなドラマがあったに違いなくて実際にあったのだけど、そのあたりの細かいところまで書いていると長くなるので全面的に省略してしまう。
 結局、源直系は3代で途絶えてしまって、実質的な権力は将軍職から執権職へと移っていった。初代の執権は、頼朝の奥さんだった北条政子のオヤジさんの北条時政だ。このおっさんはかなりの暴れん坊で、2代将軍の頼家を追放した上で謀殺したり、更に3代将軍実朝を暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたのを政子や息子の義時にとがめられて追放を食らったりした男だった。
 その後将軍職は形だけのものとなっていく。京都から皇族を呼び寄せて一応格好をつけるだけとなり、執権である北条家は有力御家人を次々に排除していって、ますます権力を強めていくこととなる。
 そんなこんなで時は流れて、最後は武家や民衆の不満が高まって、それを利用した後醍醐天皇の画策によって鎌倉幕府は倒される。楠木正茂や護良親王、足利高氏(尊氏)たちの活躍もあって、1333年、執権北条高時たち一族280人あまりが東勝寺で自害して鎌倉幕府は滅亡したのだった。
 その後は、後醍醐天皇と足利尊氏の室町幕府による南北朝時代へと移り変わっていくのだけど、それはまた別の話。
 以上がものすごく端折った鎌倉時代の復習だったのだけど、このアウトラインを頭に入れながら鎌倉巡りをすると、また違った感興もわいてくると思う。意外にも源氏色が薄いのにも納得がいくだろう。

浄智寺-2

 そんなわけで浄智寺だ。
 これは五代執権北条時頼の三男宗政が29歳のときに早死にして(1281年)、その菩提を弔うために死んだ宗政と息子師時を開基として妻が建立したということになっている。実際は、当時執権だった兄の時宗(円覚寺を作ったあの人)が全面的に力を貸して建てたといわれている。兄は弟思いで、たいそう嘆いたそうだ。
 開山は当初南州宏海だったはずが、自分には荷が重すぎるということで中国にいる兀庵普寧(ごったんふねい)と導師の大休正念を開山にしている。謙虚というべきか、そんなにびびるなよというか。
 鎌倉時代は夢窓疎石などの名僧が住職になったり、北条氏の庇護があったりで大いに栄えたという。最盛期は塔頭11院、敷地3万5千坪もあり、鎌倉五山の第四位となった。
 鎌倉幕府滅亡後もしばらくは勢いを保っていたものの、戦国時代あたりになると鎌倉の地自体がさびれてしまったこともあって、少しずつ規模が縮小していった。大正12年の関東大震災では伽藍の大部分が倒壊してしまった。なので、現在の建物は昭和になって再建されたものが多い。それでも、境内の空気は濃密な静けさに満ちていて落ち着きがある。安っぽさや浮ついたところがない。小津安二郎監督もここが好きでよく訪れたそうだ。

 この寺は、広がりがあまりなくて奥行きがある。渡れない太鼓橋の横を通って短い石段を上がると、まずは「寶所在近」の額を掲げた総門が待ち構える。お宝は近くにあるぞチルチルミチル、という意味だ。杉木立や草木に囲まれて、入口からして緑がすごいことになっている。
 次に見えてくるのがちょっと変わった三門だ。中国風の作りで、二階に鐘が吊り下げられている。額には「山居幽勝」とある。山深いこの地は幽玄の素晴らしい世界だよってな意味だろうか。このへんの建物は新しいものなので、歴史的な価値という意味ではありがたみは低い。さらっと通る。
 その奥に本尊である阿弥陀、釈迦、弥勒の三世仏を安置する曇華殿(どんげでん)と呼ばれる仏殿がある。これは15世紀作と古いもので、それぞれが過去、現在、未来を表しているのだそうだ。
 曇華というのは、普通ならダンドクというカンナの花のことだ。ただ、この場合は優曇華(うどんげ)のことで、仏教で三千年に一度花を開くという想像上の植物のことを指しているのだろう。めったにない珍しいもののたとえとしても使われる用語だそうだ。ただし、優曇華の花というのは実際に普通にある花で、葉の先に細い糸から伸びた卵がつくことがあって、それを昔の人は花と勘違いした。本当はクサカゲロウの卵だったのを。
 石段の脇には、鎌倉十井のひとつ「甘露ノ井(かんろのい)」がある。この地は海に近いからよいわき水が少なかったそうで、きれいな真水は貴重だった。
 左側の出口から抜けると、葛原が岡、源氏山公園へと続くハイキングコースが始まる。源氏山公園まで30分くらいのようだ。

浄智寺-3

 奥に進むと、布袋さんがいる。江ノ島七福神めぐりのひとつがここにある。
 腹にさわると幸せになれるというので、みんな触っていく。いつの間にか布袋さんは腹黒に。顔は笑っているけど腹は黒い。人の悪い暗黒部分を引き取ってくれているとも言える。
 他の七福神は、鶴岡八幡宮(旗上弁財天)、宝戒寺(毘沙門天)、妙隆寺(寿老人)、本覚寺(夷尊神)、長谷寺(大黒天)、御霊神社(福禄寿)、江島神社(江ノ島弁財天)にいる。って、八人いるぞ?

浄智寺-4

 境内は緑豊かで、古木も多い。市の天然記念物のビャクシンは、太陽も覆い隠すほどに力一杯枝葉を伸ばしていた。ここの空気は、歴史の積み重ねと、これらの木々が作り出しているのだろう。
 他にも件で一番大きなコウヤマキや(高野槙)、タヒチガン桜、沙羅双樹などが立っている。季節の花は、地面のものよりも樹木が多そうだ。臘梅、梅、海棠、牡丹、白雲木などなど。

浄智寺-5

 ちょっと印象的だったのが、ここ。「やぐら」という横穴式の墓地で、岩を直接くり抜いて作っている。あまりやわそうな岩ではないけど、トンカチトンカチ削ったのだろう。こういうのは初めて見た。鎌倉から室町時代にかけて流行った様式なんだそうだ。全国的にはあまり見かけなくても、鎌倉ではけっこうあちこちにあるんだとか。
 近年は昭和初期くらいまで、薪や木炭などを保管しておく場所として利用されていたらしい。

浄智寺-6

 浄智寺訪問の理由のひとつに、ここを訪ねることがあった。ああ、こんなところに、澁澤さん。フランス文学を愛したディレッタント澁澤龍彦が、純日本風のお寺に眠る。なんて素敵な皮肉。三島由紀夫も大笑いしていそうだ。
 墓地の苔むした石と木漏れ日が揺れて当たる中で、どんな夢を見ているのだろう。あの世でも相変わらずの読書三昧だろうか。静かに本さえ読めれば洋風でも和風でもなんでもいいのさって思ってるかな。生きていれば今年で79歳。老眼だろうがなんだろうが、まだまだ本の読める歳だ。まだいっぱい読み残した本があっただろうに。それよりもっと小説をたくさん書いて欲しかったな。『うつろ舟』や『高丘親王航海記』みたいなやつ。
 思えば、会いたい人はみんな向こうへ行ってしまった。

 歴史は流れる。途切れることなくつながりながら。あの時代がなければ今の時代はなく、今の時代がなければ未来はない。正解も間違いもなくて、みんなそれぞれが一所懸命だっただけだ。よかれと思ってやってきた。
 遠かった鎌倉時代が、鎌倉訪問によって少しずつ身近なものになりつつある。今頃になってようやく、平安時代から室町時代をつなぐ鎌倉時代というのが見えてきた。源平合戦だけが鎌倉ではない。北条こそが鎌倉の中心だったことを初めて実感した。
 私の鎌倉行きはまだ始まったばかりだ。行く前は得体の知れない恐怖感のようなものに腰が引けていたけど、もう大丈夫、怖くなくなった。行ってみて拒否されているような感覚もなかったから、これからはもう少し気軽に出向いていこう。見たいところや行くべきところはたくさんある。
 とまずその前に、今回の鎌倉巡りについてのまとめも、まだ半分残っているぞ。何、次のことを考えてるんだ。このあとも明月院、建長寺、鶴岡八幡宮、長谷寺、大仏などについても勉強して書かないと。
 というわけで、まだしばらく鎌倉シリーズは続きます。ちょっと勉強っぽくなってしまってるけど、私と一緒に鎌倉を学びましょう。

遅刻して行った御作ふじの回廊で今年の藤は満腹

花/植物(Flower/plant)
ふじの回廊-1

PENTAX istDS+Super Takumar 28mm(f3.5), f5.6, 1/50s(絞り優先)



 今年はなんとなく藤をしっかり見たい気分だったのに、微妙に時期と場所がずれてなかなか満足するほど見ることができないでいた。そんなこんなでゴールデンウィークも終わって5月も10日を過ぎた。もう完全に遅いのだけど、最後の望みとして藤岡の「ふじの回廊」を見に行くことにした。ゴールデンウィーク中に、今年は開花が遅れているという情報をネットで見ていたから、もしかしたらという期待はあった。
 しかし、向かっているときからやっぱりもう駄目だと分かった。本来なら道路脇の山に咲いているはずの野生の藤(ノダフジ)がまったく見当たらなかったから。去年行ったのは5月の7日で、そのときもすでに出遅れていたのだけど、まだ山の藤は咲いていた。11日ではいかにも遅刻だ。
 到着して、入口近くの藤棚(九尺藤)を見てやっぱり遅かったかと思う。学校の授業でいえば4時間目の途中といったところか。こんな時間になってしまっては、いっそのこともう休んだ方がよかったんじゃないかと言われても仕方がないくらいの遅刻だ。けど、駄目を承知で行ってみれば何かしら得られるものはあるというのもまた事実で、今回も5、6時間目にご褒美が待っていた。遅れたからこそ見られるものもある。

ふじの回廊-2

 回廊を進み、御作小学校(みつくりしょう)の前に出ると、そこではほぼ満開の柴三尺が出迎えてくれた。少し散り始めてはいたけど、まだまだ充分咲き誇っていて、これだけでも来てよかったと思わせてくれた。今年は花が遅いという情報は、半分間違いで半分正解だった。
 しかし、今年は藤に限らず花が少しおかしい。全体的に花付きが悪くて、時期もずれているというか同じ場所でも木によってバラツキが激しい。例年と同じように考えていると、ことごとくピークをはずしかねない。実はここに来る前に「つどいの丘」のキリシマツツジも見てきたのだけど、ものの見事に終わっていた。ツツジの姿は煙のように消えていて、赤い絨毯が緑の絨毯になっていて、茫然自失の私となったのだった。去年よりも一週間も早く花が終わってしまった。春先の不順な気候が夏の花にまで影響を及ぼしているようだ。次に控えている小堤西池のカキツバタも、話によると今年は壊滅的らしい。

 ここのふじの回廊は、まだ豊田市に編入される前の藤岡町時代に作られたもので、御作小学校の生徒や関係者たちが手入れや管理をしているそうだ。豊田といってもかなりはずれの方なので、全校生徒は80名ほどという。校舎の壁に大きくスローガンが書かれている。
「すすんで なかよく さいごまで」
 これだけの少人数では否が応でも全員と顔見知りになってしまうし、最後まで仲良くしないと居心地が悪くてしょうがない。最後まで、というのがちょっとおかして笑えた。いったん友達になったからには最後まで責任を持ちましょうということか。確かに代わりを探そうにも候補が少ないゆえの難しさというのがあるかもしれない。
 教師は14人。6人に一人の先生が付く計算になる。なんて贅沢な。いや、それだけ逃げ場がないとも言えるか。クラスの人数が少ないと、教室の一番後ろの席で教科書にパラパラマンガを書いているというわけにもいかない。
 私たちの頃は、ひとクラス40人以上で、一学年11クラスだったこともあった。同じ小学校生活といっても大所帯と少人数ではいろんなことが違ってくる。どっちが楽しいのかは分からないけど。

ふじの回廊-3

 藤の花は、光によって大きくその表情を変える。どんな花でもそうなのだけど、藤の場合はその差が大きい。
 基本的に逆光よりも順光の方がいい。そして光は、夕方の西日はあまりよくない。暖色系の光よりも寒色系の光の方が藤の紫が上手く出る。光の強さは、強すぎず弱すぎないのが理想だ。カンカン照りでは風情がないし、曇りだと色が沈んでしまう。
 藤撮影はデリケートで難しい。桜よりも難しいかもしれない。花や姿にあまり変化もないから、工夫の余地が少なくて誰が撮っても同じようになってしまうということもある。かといって、野生に咲いている藤はワイルドすぎてあまり美しくない。藤はやっぱり藤棚がよく似合う。

ふじの回廊-4

 今日のクライマックスは、370メートルの回廊の一番最後に控えるシロバナ藤だった。
 階段を下りて、坂道を下った先にそれが見えたとき、ワァーっという小さな叫びが口からもれた。ちょうど光が当たって、そこだけ白くピカピカに輝いていて目が覚めるようだった。夫婦連れが上手い具合に入ってくれて、いい絵になった。ちょっと感動。
 去年はシロバナだけほとんど咲いてなくて、残念に思いながらここで引き返したのを思い出した。今年は出遅れたことで期せずして満開のシロバナ藤を見ることができた。災い転じて福と成す。道を間違えたことで出会える風景があり、他人よりも出遅れたことで得られるものもある。人生は皮肉に満ちているけど、それは必ずしも悪い意味ではない。

ふじの回廊-5
 藤の花も満開のときはかなりきつい香りを発散する。とても濃厚な甘さだ。もし、満員電車の天井に満開の藤棚があったら、気分が悪くなる人が続出するだろう。芳香剤に使うにも藤の香りはきつすぎる。だから、藤の芳香剤というのはあまりないと思う。
 その甘い匂いに誘われて、ハチやいろんな虫たちが飛び交っていた。蜜を集めるのに忙しい。遠く近くでウグイスがさかんに鳴いている。山里の初夏はちょっぴり賑やかだ。

ふじの回廊-6

 やっぱり行っておいてよかった、御作のふじの回廊。念願のシロバナ藤も見られたし、少し残った満開の藤も見られたし、これでようやく藤に関しては満腹になった。今年は遅ればせながら津島の天王川公園も行けたし、去年に続いて御作も行くことができた。鎌倉でも少し見たし、もう充分だ。後憂も消えた。気持ちはもう、次のカキツバタとバラの方へ向かわせよう。
 まだ藤を見足りないという人は、御作は見に行って損はない。大部分が散ってしまってはいるけど、小学校前とシロバナはあと数日見頃が続きそうだ。グリーンロードの中山インターを降りて、419号線を北上して、「役場東」交差点を右折したら、そのまま33号線をキープして10分ほどのところにある。御作交差点で少しややこしいけど、案内看板が出ているのでそれを見落とさなければ大丈夫だ。
 ここはまだ木が幼い感じなので、立派になるまでにはまだ50年はかかるだろう。毎年成長を楽しみにしよう。
 藤はやっぱりいいなぁと思った2007年初夏。来年の桜も見たいと春まで生き延びたら、もう少し欲張って初夏まで生きようと思う。そうすると次はバラだし、アジサイもあって、ついでにコスモスまで見ておくかとなって、ここまで来たら紅葉だろうって感じで年末年始、じっと春を待ちつつ生きて、そうして死ぬのを忘れてしまえたらいいな。
 日本に暮らして四季の花々を楽しみにしていると、それが生きる口実になる。だから人は歳を取って死に近づくと、より強く花を求めるようになるのかもしれない。花は再生の象徴だから。

移り変わる時代と変わらない人の本質を思った東慶寺訪問

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
東慶寺-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/40s(絞り優先)



 尼寺へ行け、尼寺へ。と、言われたわけでもないけれど、私たちは元尼寺だった東慶寺(とうけいじ)へとやって来た。円覚寺が旦那の北条時宗の寺で、道一本隔てた向かいのこの寺は奥さんの覚山尼(かくざんに)のお寺だ。
 時宗が34歳で死んだ翌年(1285年)、時宗の菩提を弔うために覚山尼が開いた。開基は息子で第九第執権の北条貞時。貞時は父の早世で14歳で執権職を継ぐことになる。覚山尼は時宗が生前にすでに一緒に出家しているので、死後に剃髪して尼僧になったわけではない。
 覚山尼は堀内殿と呼ばれ、内助の功で時宗をよく支えたといわれている。1306年に亡くなり、円覚寺の仏日庵に埋葬されたのち、現在は東慶寺の裏山に墓所を移されている。
 代々名門出身の住職が多く、第五世の用堂尼が後醍醐天皇の皇女だったことで、格式の高い尼寺として知られるようになっていく。そのときに松ヶ岡御所と称され、以来、松ヶ岡といえば東慶寺のことを指すようになった。
 正式名は「松岡山東慶総持禅寺(しょうこうさんとうけいそうじぜんじ)」。室町時代には鎌倉尼五山の第二位にまで格式が上がった。一位は太平寺で、以下は国恩寺、護法寺、禅明寺。現在は東慶寺以外は残されていない。
 二十世住職の天秀尼 (てんしゅうに) は、豊臣秀頼の娘だった。大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した際、徳川家康が死なせるには忍びないということで、7歳の千代姫をここ東慶寺に預けたのだった。そのこともあって、江戸時代には更に寺格が上がった。
 ちなみに、ここの地名「山の内」は、のちに長尾景虎(上杉謙信)に家督を譲った関東管領山内上杉家の居館があったことからそういう地名となった。このあたりをみても、歴史というのは確かに連続しているのだということを知る。

東慶寺-2

 グレープと聞いて反射的にさだまさしの銀縁メガネを思い浮かべてしまうのは30代、40代。ファンタグレープとかのグレープを連想するのはそれ以下となるだろうか。 ♪今日鎌倉へ行って来ました 二人で初めて歩いた町へ 源氏山から北鎌倉へ あの日と同じ道程で たどりついたのは縁切寺♪ あの縁切寺は、ここ東慶寺のことだ。ばんばひろふみのバンバンが歌っていた印象が強いという人もいるだろう。
 もともとは当時弱い立場だった女性を守るために、覚山尼が寺を頼ってきた女の人を守ったことが始まりだった。のちに「縁切寺法」を定めて、勅許を得て、ここは「駆け込み寺」や「縁切寺」と呼ばれるようになる。昔は女性の側からの離婚が一切認められていなかったため、どんなにひどい結婚にも耐えるしかなかった。それを見かねて、いくつかの尼寺が同じような制度で女性を救ったという歴史がある。
 夫と別れたい妻は、東慶寺に入って三年間修行をすれば離婚が成立するというものだった。このシステムが何故そんなにありがたかったかといえば、出家して尼にならなくてもよかったという点だ。剃髪せずに3年間寺で過ごせば離婚ができて、一般人として社会に戻っていくことができた。出家してしまえば結婚も何も関係なくなって夫と別れられるものの、それでは意味がない。みんながみんな出家したいわけではない。
 最初は軽く見ていた旦那衆も、強引に取り返そうと東慶寺へ押し入ったことでお家取り潰しになるという事件が起きて以来、ここはアンタッチャブルな聖域となった。江戸期だけでも2,000人以上が救いを求めてやって来たというから実際にきちんと機能していたということだろう。
 ただし、何が何でも最初から離縁させることが目的ではなくて、あくまでも話し合いの場を設けることが建前で、今でいう家庭裁判所の離婚調停的な場でもあったといわれている。
 逃げられ亭主の元には呼出状が届けられ、夫は仕方がなく「三下り半(離縁状)」を持って東慶寺へとやって来る。中には話し合いで解決して帰っていくケースもあったようだけど、やはりここまで逃げてくるのに相当な覚悟を決めている場合が多くて、たいていは離縁となったようだ。なんでそうなったのか、最後までさっぱり理解できない亭主もたくさんいたことだろう。そういうところは昔も今も、あんまり変わってないような気もする。
 明治6年(1873年)に、法律で女性から離婚請求ができるようになるまでの600年近く、この縁切寺法は存続し続けた。男女同権というのはつい最近の話だ。
 明治36年に尼寺から男僧の寺となり、今に至っている。現在は尼寺でも縁切寺でもないので、安心してカップルで入っても大丈夫だ。と、思う。ご利益としては、浮気封じと、何故か禁酒、禁煙だそうだ。

東慶寺-3

 花の寺としても知られる東慶寺は、春から冬まで花の絶えることがない。早春のロウバイから始まり、梅の名所でもあり、桜、ボタン、アジサイ、花菖蒲、コスモス、水仙へと続いていく。訪れたときは、十二単(ジュウニヒトエ)やタツナミソウが満開で彩りを添えていた。5月の下旬から6月にかけては珍しいイワタバコ(岩煙草)が崖にびっしり花を咲かせる。花菖蒲とあわせて、それがここのひとつの名物となっている。
 長く尼寺だったことで、全体的に女性らしい繊細な心配りの感じられる境内だった。その空気感に惹かれてか、頭の固い男連中がこの寺の墓に眠っている。西田幾多郎、和辻哲郎、鈴木大拙、高見順、小林秀雄、神西清……。みんなカタブツのおっさんばかりではないか。生きている間は小難しいことばかり考えていたから、最後は母親のような大きな愛に包まれて眠りたいと願ったのかもしれない。 

東慶寺-4

 拝観料は100円。他の円覚寺や建長寺と比較すれば妥当なところか。
 建物としてはあまり見るものがない。写真は本堂である「泰平殿」で、これは昭和10年に再建された新しいものなので、ありがたみはあまりない。
 もともとの仏殿は、明治40年に横浜の三渓園(さんけいえん) に移築されてしまってここには残っていない。あちらは室町時代後期に建てられた国の重要文化財なので、ずっと価値が高い。茅葺き屋根で宗様(唐様)の代表的建築物なので、もしここにあればこの寺ももっと人を集めただろうに。
 見どころとしては、宝物館の「松ヶ岡宝蔵」がある(300円)。聖観音立像(鎌倉尼五山一位の太平寺の本尊)、葡萄蒔絵螺鈿聖餠箱(ぶどうまきえらでんせいへいばこ)、初音蒔絵火取母(はつねまきえひとりも)などの国の重要文化財や、実際の縁切り状などが展示されている。
 鈴木大拙(世界に禅を広めた人物)が住んでいた松ヶ岡文庫もあるけど、こちらは非公開となっている。
 現在寺にある梵鐘は、戦国時代に補陀落寺(ふだらくじ)から分捕ってきたもので、もともとあった鐘は伊豆の韮山にある本立寺に現存しているという。どういう経緯だったのかは知らないけど、長い歴史の中ではいろんな移り変わりがあるものだ。

東慶寺-5

 泰平殿の中には1515年の火災をのがれた本尊の釈迦如来像が安置されている。両脇には、覚山尼像と用堂尼像が祀られている。
 本堂の隣には水月堂の名を持つ観音堂が建っていて、中に水月観音菩薩半跏像がある。写真で見る水月観音は、なんとも美しくて心惹かれる。鎌倉で美男の代表が長谷の大仏で、美女の代表は東慶寺の水月観音といわれているそうだ。正直、仏像を見て本気で美しいと思ったのは初めてだ。写真でそうなのだから実物を見たらどう感じるんだろう。水無月観音を見るには事前申し込みが必要だそうだけど、もし次に行く機会があれば、ぜひお願いして見せてもらいたい。

東慶寺-6

 駆け込み寺、縁切寺というと、暗くて重たい歴史と思うけど、それはここに至るまでの話で、尼寺の中は案外華やいだ雰囲気の女の園だったんじゃないだろうか。みんなでダンナの悪口を言って盛り上がっている場面が頭に浮かぶ。女性はいつの時代もたくましい生き物だから。中にはダンナの方が気の毒なようなケースもあっただろう。
 どんな時代にもいいところと悪いところがあって、その中で人はときに強く、ときに健気に生きていく。つらいことばかりじゃない、楽しいこともたくさんある。悪いことのあとにはいいこともある。戦に明け暮れていた時代にも、みんな恋をして、冗談を言って笑い、美味しいものを食べて、怠けて叱れたり、喧嘩して仲直りしたり、死や別れに涙したに違いない。いつの時代も、人の本質は変わらない。
 切れた縁は別の縁に結びつき、人の命と想いは次の世代とつながっていく。あれから700年以上の歳月が流れた。今私たちは仮初めの平和の中で、実感しにくい幸福と共に在る。過去を知ることが、現在の自分の幸せを知ることにもつながるから、歴史を振り返ることにも意味はある。
 時宗夫妻が幸せだったかどうかは私たちが決めることではない。けれど、彼らの思いや願いが今の時代にまで続いていることは幸せなことだ。21世紀を生きる多くの人々を惹きつけてやまない。彼らの寺を訪ねたことで、私もふたりと縁がつながった。そのことを私は嬉しく思っている。

若き苦悩の執権北条時宗という男が作った円覚寺という寺

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
円覚寺-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/50s(絞り優先)



 北鎌倉駅に降り立つと、すでにそこは円覚寺である。明治22年に横須賀線が開通したとき、円覚寺の中を思い切り線路を横断させてしまったからそうなった。北鎌倉駅ができたのは昭和2年のことで、当初は住民の要望による夏限定の仮駅だった。線路脇にある白鷺池(びゃくろち)の唐突さを見ても、そこが境内だったことを示している。そんなわけで、円覚寺は北鎌倉駅から徒歩0分というわけだ。
 踏切を渡って石段を登ると、すぐに総門へと至る。 門には御土御門天皇の字で「瑞鹿山(ずいろくさん)」と書かれた額がかかっている。円覚寺の山号で、開山の際に白い鹿が突如現れたという伝説からそう名づけられたという。正式名は、瑞鹿山大円覚興聖禅寺(ずいろくさんだいえんがくこうしょうぜんじ)。白い鹿が出てきたという洞窟も残っていて、みんな並んでいたので私ものぞいてみたら、暗い穴しか見えなかった。
 円覚寺の読み方は、「えんがくじ」と濁るのが正式だそうだ。「えんかくじ」で漢字変換してもできないからおかしいなと思った。
 名前の由来は、建立のときに大乗経典の「円覚経(えんがくきょう)」が出土したことから来ている。

 鎌倉五山の第二位となる円覚寺は、1282年、鎌倉幕府八代執権・北条時宗によって建てられた。蒙古襲来の文永・弘安の役で戦死した兵たちの弔いと、自らの祈祷所として、中国から無学祖元(むがくそげん)を呼び寄せて建立した。
 臨済宗の寺で、時宗は禅を精神的な拠り所としていて、民衆にも広めたいと考えていたようだ。現在でも毎週末に一般参加の座禅会が開かれている。
 鎌倉五山というのは、中国の慣習にならった寺の格付け制度のことで、円覚寺は二位というから文字通り2番だ。鎌倉時代以降も幕府によって手厚く保護され、最盛期には42の塔頭寺院があったという。現在でも18の塔頭があり、これは鎌倉で一番多い。
 五山の第一位は、時宗のオヤジさんである北条時頼が建てた建長寺で、こちらは幕府の寺だ。それに対して、円覚寺は時宗の個人的な寺という色合いが強い。そのあたりも両方を訪れてみるとはっきりと感じることができる。
 総門まではタダで、その先は有料となる。300円。ちょっと古い情報では200円になっている。最近になって値上げしたようだ。そもそも拝観料を取るようになったのは戦後もだいぶ経ってかららしい。いつ誰が思いついて始めたのだろう。
 前置きはこれくらいにして、そろそろ中に入ることにしよう。

円覚寺-2

 総門をくぐって杉木立の間を進むと、石段の上に立派な門が見えてくる。夏目漱石の『門』のモデルともなった三門だ。大迫力。こりゃすごいもんだと圧倒される。
 漱石は27歳のとき、好きだった女の人を親友に取られたショックを癒すために、ここの帰源院(一般拝観不可)で10日間、座禅を組んだ。『門』が書かれたのが漱石43歳のときなので、それだけ傷は深かったのかもしれない(『吾輩は猫である』を書いてデビューしたのは38歳)。
 室町から江戸時代にかけて、戦災や地震などで何度か焼けて、現在の三門は、江戸末期の1783年に誠拙周樗(大用国師)が再建したものだ。額は伏見上皇の字で、「円覚寺興聖禅寺」となっている。
 上層には十六羅漢像や観音像が安置されている(外からは見えない)。
 それにしてもこの三門は、鎌倉のファーストコンタクトとしては貫禄充分で、いきなりガツンとやられる感じだ。みんな写真を撮っていたけど、写真には収まりきらないスケール感があった。

円覚寺-3

 仏殿もまた立派なものだけど、三門の迫力には遠く及ばない。オーラが違う。それもそのはずで、こちらは1964年に鉄筋コンクリートで再建されたものだからだ。同じ建物を同じ材料で作っても、築50年と200年ではまったく違った印象を受ける。歳月というのは伊達でも無駄でもない。
 堂内には本尊の宝冠釈迦如来像や梵天・帝釈天像などが安置されている。
 額は後光厳天皇の字で「大光明宝殿」。
 境内には、国宝の舎利殿(最古の禅宗様建築)の他、選仏場(座禅道場)、居士林、方丈、妙香池(夢窓疎石作の庭園)、開山堂、松嶺庵、仏日庵、黄梅院、帰源院、弁天堂など多くの伽藍がある。ただし、一般公開されているものは少ない。
 近年に目を向けると、有島武郎もここによくこもって『或る女』などを書いたり、あとはなんといっても映画監督小津安二郎ゆかりの地でもある。監督のファンにとっては馴染み深い場所だろう。小津監督は晩年を北鎌倉で過ごし、『晩春』や『麦秋』は北鎌倉が舞台となった。1963年に60歳で死んだ。墓地は円覚寺にあって、墓石には「無」の一文字が刻まれている。
 木下恵介監督や、田中絹代や佐田啓二の墓もある(非公開の松嶺院内)。開高健もこの地に眠る。

円覚寺-4

 円覚寺を建てた北条時宗は、自らここを墓所として選んだ。仏日庵は最初、時宗の廟所(びょうしょ)として建立され、のちに北条家の祖廟となった。貞時や高時の木像も祀られている。
 拝観料は100円。迷ってやめた。このときはまだ時宗に思い入れがなかったから、まあいいやと思って。帰ってきて時宗について勉強してみたら、やっぱり入っておけばよかったと悔やんだ。1991年のNHK大河ドラマ「北条時宗」の主役が和泉元彌でなければ、大河も観て、時宗に関してももっと早くから興味を抱いていただろうに。そういえばあの親子、最近見かけないな。

 五代執権北条時頼と正室の間に生まれた時宗は、生まれながら執権を約束されていた。
 ときは鎌倉中期、モンゴル帝国がユーラシア大陸全域に勢力を伸ばして、いよいよ次は日本を狙おうかという時代、時宗は18歳にして執権の座につくこととなる。今で言えば、18歳の総理大臣だ。本人も不安だろうけど、国民はもっと心配だっただろう。
 22歳のとき、側室の息子である兄時輔が謀反を起こす。苦悩の末、兄を討った時宗は、心に深い傷を負う。
 その2年後、最初の蒙古襲来。軍船に乗った蒙古軍の兵4万。九州上陸は時間の問題とあきらめたとき、神風が吹いて蒙古軍壊滅。季節はずれの暴風雨だった。
 29歳、無学祖元と出会う。その教えは、「莫煩悩」の三文字だった。思い煩うことなかれ。
 31歳のとき、二度目のモンゴル軍襲来。今度は14万の大兵力だった。迎え撃つ幕府軍は4万。普通なら勝ち目はない。しかし、九州に準備した防塁のおかげで2ヶ月間上陸を許さずに持ちこたえた。そして、二度目の神風が吹く。大嵐で蒙古軍の船は散りぢりとなり、一夜にして4,000艘の船は姿を消していたのだった。
 それから3年後の34歳で時宗はこの世を去る。もう役目は終えたかのように。枕元に無学祖元を呼んで出家の義を済ませたあと、静かに去っていった。
 円覚寺とは、そういう男の寺なのだ。

円覚寺-5

 三門の右側に少し険しくて長い石段があって、そこをふうふういいながら登っていくと、もうひとつの国宝である洪鐘(おおがね)がある。1301年に北条貞時が物部国光に作らせたもので、高さは約2.6メートル。見るからに巨大だ。建長寺、常楽寺のものとあわせて鎌倉三名鐘といわれている。
 鐘楼も、ものすごく古くて年季が入っている。鐘が重いから、その重みに耐えるのが大変だ。
 この場所には他に弁天堂や茶店があって、展望も開けている。

円覚寺-6

 ここからは北鎌倉を一望できていい眺めだ。風も気持ちがいい。目の前には、次の目的地である東慶寺の屋根も見えている。
 円覚寺は思った以上に広くて、見どころも多くて、更にペース配分もまだ掴めないものだから、ぐるっと一周するのに1時間近くも要してしまった。これはいけない。一ヶ所でこんなに時間を費やしていたのでは、とても全部まわりきれない。一日で鎌倉の主要な名所をまわるつもりなら、ここに時間をかけすぎないことだ。仏日庵もじっくり見て、小津監督たちのお墓も探して、茶屋で一服してなんてしてたら2時間くらいかかってしまいかねない。
 それにしても円覚寺というのはなかなかに興味深くもあり、実際いいお寺さんだった。神社仏閣の空気感という点では、今回まわった中で最もよかった。静けさをたたえつつ、濃密な空気感を閉じ込めている。鎌倉観光の玄関口として申し分ない。途中の中だるみを建長寺で引き締めて、中間の鶴岡八幡宮でひとつのクライマックスを迎え、最後は鎌倉大仏で締めくくるというコースは、まるでツアーに合わせたように上手く配置されている。800年後の未来人のために頼朝がそこまで計算して鎌倉幕府を作ったわけではないだろうけど。

 しかし、日本人ってこんなにも神社仏閣好きだっただろうかと、鎌倉を歩いていると思う。日常的に寺社巡りをしている人間は鉄道ファンより少ないと思うんだけど、鎌倉や京都、奈良では老いも若きもみんな喜んで神社仏閣巡りをしている。やっぱり日本人はそうなのか。まあでも、それは喜ぶべきことだろう。誰も寺社を訪れなくなったら、日本という国もこれまでとは別物となってしまう。
 故きを温ねて新しきを知るというのは、いつの時代も大切なことだ。遠い過去に思いを馳せることで、自分が今しなければいけないことに気づいたりもする。歴史の都を訪ねるということは、彼らの願いや希望を受け取ることでもある。
 時宗さんは今頃どこで何をしていることか。思い煩うことの少ない世界で平和に暮らしているだろうか。みんな時宗さんの思いなんか忘れて、観光で円覚寺を訪れているけど、それでも喜んでくれているかな。次に行ったときは、100円をけちったりせずにちゃんと会いに行きますから。しかし、和泉元彌はないですよね。

ゴールデンウィーク明けの天王川公園は藤の名残と残り香だけ

施設/公園(Park)
天王川公園の藤-1

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm(f3.5-5.6 DC), f6.3, 1/15s(絞り優先)



 ゴールデンウィークが明けると気持ちが焦り始める。ここから季節の花が一気に咲き逃げていくから、それを追いかけないと追いつけない気がして。藤にキリシマツツジにカキツバタ、バラに花菖蒲にアジサイ。ミズバショウはもう終わってしまっただろうか。今年はヒトリシズカも見に行くことができなかった。森では夏を前に、野草たちが二度目のピークを迎える。湿地もそろそろ賑やかになっている頃だろう。そんなことを考えていると、気分がソワソワして部屋の中で立ち上がって意味もなく歩き回ってしまう。地図や図鑑を見たり、去年の散策記録を確認したりすると、ますます落ち着かなくなってくる私なのだ。
 そんな中、今年はまだしっかり藤を見られていないことが気になっていた。鎌倉で少し見たとはいえ、数が少なくて終わりかけていたので満足まではいってなかった。愛知の藤ももう終わりだと分かってはいたけど、確認の意味でも津島の天王川公園へ行きたい気持ちが高まって、今日の夕方思い切って行ってみることにした。藤まつりは6日(日)で終わっていたから、もう駄目なんだろうなと半分あきらめつつ。
 着いてみると案の定だった。駐車場も人影もまばらで、それだけでもう遅かったことを知る。毎年藤まつりの期間中はものすごい人出になると聞いている。いくら平日でも人がいなければもう藤は咲いてないということだ。
 遅咲きの藤がいくらかは残っていたものの、全体的に干からびた枯れ花風情で物悲しかった。藤は桜のようにパッと散ったりはせずに、花を少しずつ落としながら生気を失ったようにしなびていく。これはこれで味と言えばそうなのかもしれないけれど。

天王川公園の藤-2

 天王川公園の藤棚は、自称「東洋一」をうたっている。本当かどうかは知らない。念のために言うと、「ひがしよういち」ではなく、「とうよういち」だ。西洋には大がかりな藤棚はないと思うから、本当に東洋一なら世界一ということになる。なんであえて東洋一と称しているのだろう。むしろ日本一と主張した方が説得力があるのに。
 実際のところ、長さ275メートル、総面積4,530平方メートルは、日本最大とのことだ。
 藤は九尺藤(キュウシャクフジ)をはじめ、全部で12種類114本。紫加比丹藤、白加比丹藤、紫藤、白野田藤、野田長藤、曙藤、八重黒竜藤、黒竜藤、六尺藤、薄紅藤、野田藤があるそうだ。よく見てみると、確かに長さだけでなく花の色が違っていたりしていろいろあることに気づく。咲く時期も少しずつずれている。
 ここの藤はまだ若いので、これから成長してさらに立派になっていくことだろう。今年は花付きがもうひとつよくなかったと地元の人は言っていた。桜もそうだったけど、今年は春先の天候がギクシャクした影響だろうか。

天王川公園の藤-3

 花も終わりかけた平日の夕方ということで、訪れる人もチラホラといったところ。ゴールデンウィーク中は人でごった返していただろうに。
 ピーク時は写真でしか見たことがないけど、藤も人もすごいことになっている。紫のシャワーの下を人々の行列がゆっくり進む様子は、なんとなくこの世的なものじゃないようにも思える。
 ピークを過ぎたこの私の写真を見て、ここはたいしたことないと思われないか少し心配だ。できれば満開の写真で天王川公園の魅力を伝えたかった。

天王川公園の藤-4

 藤棚の下に流れる水路は、落ちた花びらが枯れて茶ピンクのじゅたんになっていた。これも桜と違ってあまり美しくはない。藤はやっぱり満開に限るとあらためて思い知る。
 ここの藤棚の魅力は、水路(疎水)の上に藤棚が作られているところだ。満開のときは水面が紫に染まって、頭上の花と水面の藤のコントラスが素晴らしい。これはとてもいいアイディアだ。水によって美しさは2倍以上となる。夜間のライトアップもまた幻想的だ。
 そして藤はなんといっても香りの魅力もある。濃厚な甘さは最初少し息苦しささえ感じるほどで、馴染んでくるとその甘い香りに酔う。今日はもう、残り香だけだった。

天王川公園の藤-5

 天王川公園は、江戸時代に木曽川の支流である天王川をせき止めて作った丸池を中心に作られたもので、四季の花で彩られる津島市民憩いの場となっている。何があるというわけではないけど、子供たちは遊具で遊び、大人たちは池の周りを歩いたり走ったり犬の散歩をしたりしている。
 何やらサル関連の施設を建設中のようだった。サルの見せ物小屋でもできるのだろうか。
 赤い橋の架かる中之島にも少し藤が咲いていた。スイレンもつぼみが膨らみ始め、ミドリガメから成長したミシシッピアカミミガメが石の上で甲羅干しをしていた。ツバメが水面近くを飛び交い、人に慣れたスズメと鳩は近づいても逃げようとしない。
 学校帰りの子供たちから年輩の人たちまで幅広い年齢層を集める、ここはなんとものどかな公園なのであった。

天王川公園の藤-6

 太陽が傾いて、池をオレンジに染め始めた頃、今年の藤もこれで終わりかと心の中でつぶやいて車に向かって歩き出す。今年も満開の藤を見ることができなかった。けど、遅ればせながら訪れておいたことでまた次につながった。今度こそ紫シャワーの下を歩いて満開の藤写真を撮りたい。それにはやはりゴールデンウィーク中に出向いていかないといけないか。前後のどちらかにピークがずれてくれるとありがたいのだけど、なかなかそう都合良くはいかない。
 また来ますの約束の言葉を置いて、天王川公園を後にした。さあ、もう次の花へ向かおう。今日が終わればもう明日は始まっている。心残りに引っかかっている暇はないのだ。

鎌倉で撮った人のいる風景あれこれ

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
鎌倉の人のいる風景-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/25s(絞り優先)



 人がいる風景の写真を撮りたいといつも思っている。観光地というのはその点で最適なロケーションだ。せっかくなら、人が入ってしまった写真ではなく、人を入れた写真にしたい。けど、絵になる人やドラマを感じさせるシーンにいつも都合良く出くわすわけではないから、偶然だけが頼りとなる。見ず知らずの人に演出はできない。いいカップルが登場してこれはいただきと思ったら、目の前を横からおばちゃんがフレームインしてきて顔が大写しになってしまったとしても、文句は言えない。そこが面白いところでもあるのだけど。
 たいていは思い通りにならないものの、だからこそたまたま格好の人物が目の前に現れたときは嬉しいものだ。森を歩いていて蝶や鳥と出くわすようなもので、おおー、運がいいと心の中で喜ぶ。しかし、あくまでも自然な立ち居振る舞いを保ちつつ、平静を装って、風景を撮るフリをして人物を撮ることが大切だ。今、オレたちを撮っただろう、フィルムを出せよ、とかインネンをつけられても、写ってる人物の割合が小さければこれは風景写真だし、デジカメだからフィルムじゃないと言い張ることもできる。ついでにその場でジャンプをしてポケットに小銭を隠し持っていないことも主張しよう。札は靴下に入れておけ。

 今日は、鎌倉で撮った人のいる印象的なシーンの写真を並べてみよう。私のいいなぁが必ずしも他人にとってのいいなではないのかもしれないし、その場に居合わせなければ伝わらないニュアンスもあるのだろうけど、写ってくれた人たちにはどうもありがとうとこの場を借りてお礼を言いたい。自分が写ってる写真をこのブログで見る確率というのはものすごく低いと思うけど、もしそうだったとしても大目に見てください。この遠くの小さく写ってる頭は確かに自分のものに違いないなどという報告は特にいりません。
 逆に、私たちもどこかのブログやHPの写真とかで写り込んでしまっていることだろう。ゴールデンウィークの鎌倉を歩き回って誰の写真にも収まらずに済むなんてことはまず考えられない。観光地を歩く以上、自分自身も被写体になる覚悟が必要だ。カメラを構えたオレンジ色の長袖Tシャツを着ている男を見かけたら、それは私かもしれない。

鎌倉の人のいる風景-2

 鶴岡八幡宮で結婚式を挙げていたカップルがいた。ゴールデンウィークまっただ中の、しかも一番人が多い鶴岡八幡宮でするというのは、すごい思いつきだ。この日しかなかったのか、あえてこの日を狙ったのか。芸能人並みに大勢の見物客に囲まれて、写真も撮られ放題となっていた。照れくささを通り越せば、とても気持ちよいものかもしれない。普通の人生でこれほど大勢に取り囲まれて注目を浴びる経験というのはなかなかあるものじゃない。たくさんの人の写真のアルバムの中にも残ることとなるだろう。もちろん、私の中にも収まってもらった。
 最近、あちこちの神社仏閣で結婚式をよく見かける。週末や祝日に行動してるということもあるのだろうけど、ここ3ヶ月で7回くらい見ている。思っている以上に神前結婚式が多いのか、人並み外れて神社仏閣へ行っているだけなのか、たぶんその両方だ。

鎌倉の人のいる風景-3

 子供の記念写真を撮りたいお母さんと、もうひとつ気乗りがしない子供たち。幼心にも写真を撮られるのが好きな子供とそうじゃない子がいる。私は撮られるのが苦手だった。ニッコリ笑ってピースサインで写真に撮られている子供を見て、なんでそんなに自分に自信が持てるんだろうと思ったものだ。
 それでも、ずっとあとになって写真を見返したとき、そのときの記憶がよみがえるから、やっぱり写真というのはいいものだ。撮られておいて損はない。
 このちびっこたちは、たぶんこのシーンを覚えていないだろう。ゴールデンウィークに行った鶴岡八幡宮のことも忘れてしまうかもしれない。親が満足すればそれでいい。子供の写真は子供のためよりも親のためだから。

鎌倉の人のいる風景-5

 すっかり葉桜になった段葛の桜並木に突然出現したタキシードの老紳士。えっ? と思って反射的に一枚写真を撮って、ファインダーから目を離して前を見たら、もうそこに姿がなかった。一瞬幻を見たのかと、マンガのように自分の目を手でこすってしまったほどに驚いた。どうやら右側にホテルがあって、茂みでお客を出迎えるか何かしていたらしい。驚かせないでくださいよ。
 それにしてもあの風情は異質だった。お屋敷のベテラン執事のようなたたずまいで、姿勢も素晴らしい。メイド喫茶の次は、大人のための執事喫茶が流行る予感。旦那様、おかえりなさいませと、正しい立ち居振る舞いをする執事が出迎えてくれたり、コーヒーを運んできてくれたりするのだ。なんて素敵で贅沢なひととき。一般庶民がお屋敷の旦那気分を味わうために足繁く通うことになるだろう。本物のバトラーはメイドよりも希少価値が高い。お客は女性でもいいわけだ。お嬢様、お帰りなさいませとロールスロイスからエスコートするサービスもお付けしましょう。問題は、執事が時給1,000円や2,000円で働いてくれるかどうかという点だ。ひと月やそこらの研修で素人がなりきれるものではない。

鎌倉の人のいる風景-4

 江ノ電の鎌倉駅はとんでもないことになっていた。駅の手前から改札を通るための長い行列が出来て、ホームは人で溢れかえっていた。江ノ電に乗れないかもなんて話を聞いてはいたものの、まさかそれは大げさだろうと思っていた。けど実際に、電車に乗るまで最大1時間近くの待ち時間になったそうだから、その話は本当だったのだ。びっくりした。
 私たちが行ったときは、だいぶ人も少なくなっていたときで、待ち時間は10分足らずで乗り込むことができたけど、江ノ電の車内は山手線並みの満員状態で、身動きもままらないほどだった。ローカル列車に揺られてのんびり海を眺めながら海岸に向かうという私のイメージは粉微塵に砕け散ったのだった。江ノ電がこんなにも超人気列車だったとは。

鎌倉の人のいる風景-6

 日も傾いて、そろそろ帰りましょうかという人たちが増えてきた頃。おみやげでも買って帰ろうかと、父親と子供たち。ボクこれが欲しい! ダメだよ、そんなもの。もっと他のにしなさい。私これにする! うん、そうか、そうしなさい。ボク、これじゃなきゃイヤだ! ああ、分かった、分かった、それにしようね。今も昔も変わらない観光地の土産物屋で繰り広げられるシーン。おみやげの内容は変わっても、観光地の親子の駆け引きは変わらない。そのおみやげがあとになってみるとまったく役に立たないものだと気づくことも。
 私が子供の頃たくさん集めたペナントやキーホルダーはどこへいってしまったんだろう。

鎌倉の人のいる風景-7

 最後は由比ヶ浜。冷たい海風に吹かれながら砂浜の流木に坐って海を見ていた。ときどき前をカップルが通り過ぎる。太陽は山の影に隠れて空は焼けず。潮風はますます冷たい。鎌倉観光ももう少しで終わろうとしている。午前中に巡ったお寺も、なんだか遠い過去のように思える。少し歩き疲れた私たちは、空が暗くなるまで立ち上がれない。

 人のいる風景写真が自分はやっぱり一番好きなんだと、今回あらためて再認識した。人物のポートレートでもなく、自然だけの風景写真でもなく、その両方であり両方とも違う方向性でいきたい。私は、人が生きて暮らすこの世界が好きなのだ。

新緑と花々と人々で押し合いへし合いゴールデンウィークの古都鎌倉

名所/旧跡/歴史(Historic Sites)
鎌倉散策-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/80s(絞り優先)



 ずっと以前から、鎌倉に対して憧れと恐れの入り交じった複雑な気持ちを抱いていた。前世の因縁が何かあるようなないような、そんなことを思ったりもした。行きたい気持ちと、近づかない方がいいような予感もあって、うかつに行くことができないでいた。
 実際に行ってみたら、とても楽しくて怖いようなこともなく少し拍子抜けしたところもあったのだけど、それはゴールデンウィークという人が大勢集まる時期であったのと、ツレと二人だったからというのがあったようにも思う。これがもし、寂しい季節の一人旅で鎌倉幕府の歴史探訪などというテーマで出向いていたとしたら、今回のように無事に済まなかったかもしれない。
 何はともあれ、新緑の5月、鎌倉はとても魅力的な街だった。京都とはまた違った趣のある古都を一日たっぷり歩いて楽しんできた。今日はそのさわりを少しだけ紹介したいと思う。

 JRの湘南新宿ラインで新宿から北鎌倉までは乗り換えなしで約1時間(890円)。思ったよりも近かった。これなら鎌倉から都内にも充分通勤できる。
 それにしてもゴールデンウィークの鎌倉はものすごい人出だった。道が狭いこともあって、道路の車渋滞はもちろん、歩道の歩行者渋滞もできて、歩くことさえままらないのだ。スタスタ歩いたら10分のところも20分くらいかかってしまうほどだった。この日の鎌倉は、東京都内よりも人口密度が高かった。
 鎌倉観光の基本は、やはり北鎌倉からということになるだろう。有名どころの寺がこのあたり一帯に固まっている。私たちもたっぷり歩く覚悟を決めて、順番に回っていくことにした。まずは円覚寺から見ていくことにしよう。いざ、鎌倉。

鎌倉散策-2

 5月はまさに新緑の季節。鎌倉は桜や紅葉はそれほど充実してるというわけではないので、アジサイの季節と新緑の今が一年で最も華やかな時期といえるだろう。
 鬱蒼と生い茂る古木と下草と苔と花々が、緑のグラデーションとなって、訪れる人々を体内から浄化してくれる。とにかく緑が深いというのが鎌倉に対する第一印象だった。街中にある京都とはその点がまったく違う。鎌倉は山の中にある。

鎌倉散策-3

 淡い品のある紫色のムラサキハナナ(紫花菜)が、境内や道ばたでたくさん咲いていた。初夏の花々も、この時期の鎌倉の楽しみのひとつとなる。藤には残念ながら少し遅かったものの、多くの花を見ることができた。
 多いといえば異人さんも多種多様だった。外国人にとっても古き良き日本を知ることができる魅力的な街として名が通っているのだろう。会話を聞いていると、様々な国から人々がやって来ているのが分かる。中国、韓国のアジア系はもちろん、ドイツ、アメリカ、イギリス、ロシア人も多かった。それ以外にもインド人や(もしかしたらパキスタン人かもしれない)中東の人までいてちょっと驚く。鎌倉は国際色豊かな街でもあった。
 全体的な客層としては、おばさま・おじさまのグループや夫婦連れ、子供を連れたファミリー、カップル、女の子グループと、なかなかに幅広い。普段は修学旅行生もいるのだろう。小さな赤ん坊連れと年輩の人たちが少なかったのは、ここは高低差のある道のりをかなり歩かなくてはいけないからだろうか。デートコースは慎重に選ばないと、ハイヒールの彼女のご機嫌を損ねることになりかねない。日頃運動不足のお父さんも、一日歩き回るのは厳しい。

鎌倉散策-4

 古都には着物がよく似合う。少し季節は早いけど、浴衣の女の人も歩いていた。
 これぞワタシが求めていたジャパーンね、とばかりに外国人が嬉しそうに写真を撮らせてもらっていた。お、こりゃいい場面だと、私もおこぼれにあずかって着物の女性の写真を撮る外国人の写真を撮らせてもらった。そんな私を撮っている人が誰かいたかもしれない。それが外国人だったら面白い。着物の日本人女性の写真を撮る外国人を撮る日本人の男の写真を撮る外国人。
 現代の日本では、着物が違和感なく風景に溶け込むところは少なくなった。京都などでは逆に作りものめいた不自然さを感じることがあるから、そういう意味では鎌倉は着物が似合う街ベストワンかもしれない。

鎌倉散策-5

 有名な明月院の丸窓。
 人が入る写真を嫌う人は多いけど、私は人がいる写真が好きなので、このシーンは、わっ、ラッキーと思って急いで一枚撮ったのだった。丸窓の向こうを撮る人を撮る私。おっさんではなく、一眼使いの女性というのも絵になった。
 ここはユニセフ募金という名目で300円を払うと中に入れて、お茶とお菓子付きで庭を見られるというシステムになっている。写真を撮るだけなら、むしろ外からの方が撮りやすい。
 しかし、鎌倉はどこへ行っても小銭をむしり取られてあまりいい気分ではない。こっちで300円、あっちで400円、ここではまた300円と、およそタダとは無縁の観光地だ。賽銭ならこちらの気分次第で100円を入れても惜しくないけど、強制的に拝観料として取られると楽しくない。自然と、賽銭は10円になってしまう。これでは鎌倉の神様との関係も悪化してしまうのではないかと心配になる。払った拝観料の中から賽銭用として神様たちで仲良く分けてくださいと拝んでおいた。
 往復の交通費と昼飯代だけでは楽しむことができない鎌倉観光なのであった。食事関係もまた高い。

鎌倉散策-6

 混雑のクライマックスは鶴岡八幡宮。小町通りからして大渋滞で、前へ進むのもヨチヨチ歩き。休日の浅草仲見世並みだ。やっとの思いで境内に入ると、そこはまさに初詣状態。なんなんだこの人は。見渡す限りの人、人、人。驚きあきれ、次に笑えてきた。なんだこりゃ。
 ゴールデンウィークの鎌倉、侮りがたし。この人出を形成していた私たちを含めて、ほとんど全員が同じことを思っていたことだろう。

 この他、建長寺や鎌倉大仏、長谷寺など、有名どころは一通り巡ってきた。最後は由比ヶ浜で海も見て、鎌倉名物しらす丼も食べた。そのあたりのことは、明日以降少しずつ紹介していくつもりでいる。
 今回はまだほんの一部にすぎないけど、ゴールデンウィークにどこへも行かなかった人に少しは観光気分を味わってもらえたらこれ幸い。鎌倉へ行こうと思っていて行かなくて、写真の人だかりを見て行かなくて正解だったなと思った人もいるかもしれない。そう、きっとそれは正解。確かに新緑の季節はいいけど、あえてゴールデンウィークど真ん中に行くところではない。5月の2週目でも3週目でも大丈夫だ。鎌倉は逃げていきはしない。平日に行けるなら、静かな古都を味わうこともできるだろう。
 私個人としては、最高潮の鎌倉を見られたことは大いなる収穫だった。これでもう、アジサイの季節も恐るるに足りず。どれだけ混雑していても、一度経験していればもう怖くない。ゴールデンウィーク以上ということはないだろう。
 次は源氏山や金沢街道の方にも行ってみたい。江ノ電も撮れなかったから海沿いの風景と絡めて撮りたいし、江ノ島まで足を伸ばせばあちらでもたっぷり一日楽しめる。鎌倉は一回や二回では回りきれないし、味わい尽くすことができないことが今回でよく分かった。表の鎌倉を見たら、次は裏鎌倉もある。歴史の闇に分け入っていったとき、初めて私の恐れの正体が見えてくることだろう。鎌倉は、健康的な観光地としての表の顔だけではない。血なまぐさい過去もたっぷり埋もれている。
 鎌倉散策はまだ第一歩を踏み出したばかりだ。今後も折を見て、二度、三度と行ってみたいと思っている。私はまだ、鎌倉の深いところに触れていない。恐れることはなかったなどと軽々しく結論づけるのは危険だ。

ちょっと行ってきます報告

動物(Animal)
お休み中

 ゴールデンウィーク後半は、鎌倉・東京散策の旅に出ますので、ブログはお休みです。
 再開は、5月の6日を予定してます。
 もしかすると、東京から現地リポートができるかも。
 それじゃ、ちょっと行ってきます。

昔は春の終わりに地面にもたくさんのサクラが咲いていたものさ

花/植物(Flower/plant)
サクラソウ

OLYMPUS E-1+Super Takumar 135mm(f3.5), f3.5,1/20s(絞り優先)



 かつて、日本中に当たり前に咲いていたサクラソウ(桜草)も、今は野生のものを目にする機会はほとんどなくなってしまった。普通の生活をしていたらまずお目にかかることなく一生を終えることになるだろう。私もまだ見たことがない。一度だけ、愛知だったか岐阜だったかのマイナーな山へ行ったとき、サクラソウの自生地という看板を見たことがある。あれは犬山だったか、多治見だったか。
 パッと見は芝桜と大して違わないからそんなに貴重なものだとは思えないのだけど、今や野生のサクラソウは非常に希少価値の高いものとなった。芝桜とでは、養殖のうなぎと天然うなぎくらい価値が違う。
 この花を最も愛したのは江戸時代の武士たちだった。荒川の原野にたくさん咲いていたものを持ち帰って庭で育てているうちに、いろいろな花色が出てくるようになり、そこからだんだん品種改良が進んでいった。やがてサクラソウ・ブームが起こる。もともと桜色だったものから白や紅色、絞りや珍しい花の形をしたものなど、様々なものが作り出されるようになり、ついには品評会まで開かれるまでになった。サクラソウの品種番付まで発行されたというか、かなり大きな大会だったようだ。当時は、わざわざサクラソウ用のひな壇と小屋のようなものを作り、そこに5段のサクラソウの鉢を置いて、坐って目の高さで観賞するという作法だったという。
 最も盛んだったのが天保年間というから、1800年の初頭から中頃にかけてだ。ペリーの黒船がやって来たのが1853年、明治元年が1868年。武士たちがサクラソウを育てて喜んでいたようでは、幕府が倒れるのも時間の問題だったと言わざるを得ない。江戸270年の平和はいかにも長すぎたようだ。
 明治に入ると、さすがにのんきにサクラソウの品種改良にうつつを抜かしてるわけにもいかず、いったん栽培は下火に向かった。しかし、女性層や一部一般の愛好家によってサクラソウは守られ続け、少しずつ新種も増えていった。
 第二次大戦でまたもやサクラソウ危機に陥ったものの、戦後再び機運は盛り上がり、昭和31年(1956年)に愛好家グループ「さくらそう会」の発足を機に、サクラソウは多くの人たちに守り育てられて今に至っている。サクラソウをこよなく愛す日本人は、たとえ自分の身のまわりに一人もいなくても、日本全国に大勢いるのだ。あなたの知らない裏社会。
 現在では300種ほどの品種があるそうだ。その中の半分は江戸時代に作り出されたものだという。
 しかし、サクラソウの栽培が盛んになる一方で、自生地のサクラソウは宅地開発などによって生息地を奪われ、戦後になって急激に自生地を減らしていった。
 桜草はもともと、湿った原野や林の草の間に咲く花で、明るい場所を好む性質がある。人が山や里に入らなくなって草刈りなどの手が入らなくなったことで育成条件が悪くなり、数を減らしていったという面もあると言われている。里山というのは、人間が入っていって、ある程度歩いたり、果実を取ったり、木を切ったりしないと荒れる一方になる。必ずしも手つかずの自然のままがいいというわけではない。昔は人と自然の調和が上手く取れていたのが、今はバランスが崩れてしまった。
 日本最大の自生地である、さいたま市桜区(田島ヶ原)は、国の特別天然記念物として保護されている。ただの天然記念物ではなく特別天然記念物というのはトキやオオサンショウウオや屋久杉なんかと同じ扱いということになる。いかに貴重で大事に守られているかが分かる。
 4月の中旬から終わりにかけて、4万平方メートルに150万株のサクラソウが花を咲かせるそうだ。毎年、サクラソウ祭りも行われて、この時期10万人の人が訪れるという。ただ、ここも近年は種の付きが悪くなって衰退に向かっているそうだから、今後は少し心配だ。摘み放題だった江戸時代のような自生地はもう戻らない。

サクラソウうしろ姿

  サクラソウの原産地は、日本から朝鮮半島、中国にかけてで、日本では北海道南部から本州、九州に分布している。
 サクラソウ属の植物は世界で400種類ほどあって、花の形はよく似ているそうだ。外国でもサクラソウの愛好家がけっこういるという。花の様子は日本的情緒だと思うけど、外国人にも繊細さや可憐さを好む人たちもいるということだろう。ここ10年、20年くらいで知られるようになって、アメリカでも愛好会が作られているんだとか。
 園芸店では、西洋サクラソウやプリムラ・マラコイデスなどがサクラソウという名で売られることが多く、本物の日本サクラソウは稀らしい。本物を見ようと思えば、植物園へ行くくらいしかないかもしれない。花の色と形だけで品種まで見分けられるのは専門家と愛好家くらいだろう。
 英名のprimroseは最初に咲く花(primerole)の変形で、バラ属などではない。ギリシャ神話では、パラリソスが許婚を失った悲しみで死んでサクラソウになったというエピソードが出てくる。そこから、ヨーロッパでは早死になどのイメージなのだそうだ。イギリスでは棺を飾る花として使われるとか。イギリスもサクラソウは昔から品種改良が盛んで、向こうではオーリキュラと呼ばれている。

 サクラソウは、園芸品種として見ると、わりと平凡というか地味な印象を受ける。この程度のきれいな花なら他にもいくらでもある。パンジーやビオラでもサクラソウには勝てそうだ。
 やっぱりサクラソウは、野生にあってこそ映える花だと思う。河原の原野で、緑の草の中に点在する濃いピンクは、まさに春の訪れを告げるのにふさわしい光景だろう。自然の美しい風景を自分の家の庭にも再現したいという人情は理解できるけど、やっぱりそれは無理がある。鉢植えの上のサクラソウ姿も本来の姿ではない。サクラソウはだだっ広い野原がよく似合う。
 春の日差しに照らされて、柔らかい風に吹かれているサクラソウの群生を見てみたい。できれば、カメラ片手の観光客としてではなく、散歩の途中でふらりと立ち寄るような感じで。好きな人と隣り合わせに座って、春ねぇ、うん、春だね、なんて言いながら。

歴史上の人たちも見た花々を今私たちも見ているという感動

花/植物(Flower/plant)
ミヤコワスレ

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.4,1/18s(絞り優先)



 あなたはどんな花が好きですかと問われて即答するのは難しいのだけど、たとえばという前置きをしたあとにいくつか挙げることはできる。その中の一つにブルーデージーがある。あの爽やかで涼やかな色合い。くるくると回り出しそうな可憐な花びらの形。ブルーデージーを見ると、ちょっと微笑みを返したくなるキャンディーズ世代の私なのだ。
 そんな私なので、この花を初めて見て、その名前がミヤコワスレだと知ったときは、いっぺんで気に入ってしまった。都忘れ。おまえは都を忘れてしまったのか? ブルーデージーの青とは違う、落ち着いた華やかさに偶然バッタリ出会って、ハッとしてグッと来て君は天使さ。
 ちなみに、好きな花はなんですかの答えの続きとしては、カワラナデシコとか、ダイモンジソウとか、ハルリンドウとかが挙がる。見た目と名前とイメージと、そういうもろもろが渾然となって気持ちに訴える花が好きだ。

 ミヤコワスレの名前の由来としてこんな逸話がある。鎌倉時代、承久の乱に敗れて佐渡島に流された順徳上皇が、庭に咲いたこの一輪の菊の花を見て、これを見たら都への思いも忘れられると言ったことから、都忘れと呼ばれるようになったのだと。
 この花のエピソードとしてはいかにも上手くできているではないか。本当にそんなワンシーンが歴史の裏であったかもしれないと思わせる。ただ、実際のところは、ミヤコワスレは本州から九州にかけての山野に自生していたミヤマヨメナ(深山嫁菜)を江戸時代に入ってから品種改良したものなので、順徳上皇の話は作り話だということになる。あるいは、このミヤコワスレではなく別の菊を見てそう言ったのかもしれない。
 江戸時代の人たちもこの花が好きだったようで、たくさんの品種が作り出された。色も薄い紫から濃い紫、青、白、ピンクまである。
 別名、ノシュンギク(野春菊)、アズマギク(東菊)などとも呼ばれ、品種名としては「桃山」や「浜乙女」などが有名だそうだ。

八重山吹

 晩春から初夏を黄色く彩るヤマブキは、野生の五弁一重のものだけでなく、品種改良された八重咲きのものもよく見かける。そして、この花を紹介するときは必ずといっていいほど、『後拾遺和歌集』兼明親王(かねあきらしんのう)の和歌と太田道灌のエピソードが付いてくる。
 七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき
 八重咲きのヤマブキはきれいに咲いても実をつけることができないのが悲しいものよといった歌だ。
 ある日、今の埼玉県あたりに鷹狩りに出かけた太田道灌は突然の雨にあい、通りかかった農家で蓑(みの)を借りようとしたところ、応対に出た娘が黙って一輪の八重ヤマブキを差し出して扉を閉めてしまった。わけが分からず憮然として雨に濡れながら帰った道灌がそのことを家臣に話すと、それは上の和歌の、山吹の 実の一つだに なきぞ悲しきの「実の」と「蓑」を掛け合わせて、うちは貧乏で蓑もありませんという意味だったのでしょうと言うのを聞いて、道灌は自分の無知を恥じたという。それ以来、歌を勉強するようになった太田道灌は、のちに和歌でも名を成すようになった。

 原産は日本と中国で、北海道から九州にかけての丘陵帯から山地にかけて自生していた。現在、野生のものは少なくなっているようだ。
 八重のものは雌しべが退化していて実がならなくなった。一重のものは普通に実もつける。よく似た白いヤマブキは、シロヤマブキといって別の種類のものだ。 
 もともとは、「山振」という名で万葉集などに登場している。しなやかな枝が風に吹かれて揺れる様子からそう呼ばれていた。もしくは、山の中に咲いていて、花の色が蕗(ふき)に似てるところからヤマブキとなったという説もある。
 やまぶき色というのはこの花からつけられた色の名前だ。大判が黄金色なのに対して小判は山吹色と称された。
 英名は、ジャパニーズローズ。

アマドコロ

 アマドコロという変わった名前のユリ科の花。漢字では甘野老と書く。
 地下茎がオニドコロ(ヤマイモ科)に似ていて、食べると甘いからという理由で名づけられたというのだけど、それはちょっと分かりづらい。植物の名前は見た目でつけて欲しいぞ。地上から見えない茎の、しかも味で名づけられてしまっては覚えづらくてしょうがない。
 更にこの花は、ナルコユリ(鳴子百合)やホウチャクソウ(宝鐸草)という似た花もあるからややこしい。ホウチャクソウは葉っぱのつき方が違うから一度覚えれば区別がつくのだけど、ナルコユリとは区別がつきづらい。花のつき方が多いのがナルコユリで、アマドコロはそれほど混雑していない。茎に触ってツルツルなのがナルコユリで、少しだけ引っかかりがあるのがアマドコロという区別の仕方もあるようだ。
 ヨーロッパからロシア、中国、日本まで広範囲に分布していて、オオアマドコロ、ヤマアマドコロ、アマドコロなどの変種がある。
 日本では山野に自生していて、園芸種としてもよく出回っている。園芸用としては葉っぱに斑が入った斑入りが多い。
 茎は煮物などで、若芽は天ぷらや卵とじにしたりして食べていたそうだ。名前の通り、少し甘みがあるらしい。古くは薬用としても利用されていて、打ち身やねんざ、咳止めにも効果があるのだとか。

 今私たちが目にしたり育てたりしている花にも、すべて歴史がある。流行の商品や新製品のように昨日、今日作り出されたものではない。江戸時代に品種改良で生み出されたものでも300年以上、平安なら1000年、有史以前の数万年以上の野生種もある。名前ひとつ取ってみても、そこにはいろいろなエピソードがあり、思いがあった。それぞれの花にいくつものドラマがあっただろう。
 たとえば今私たちが江戸時代にタイムスリップしたとしたら、そこには見覚えのある花々がたくさん咲いていることだろう。もう今では消えてしまった花もあるだろうけど、かつての人たちが愛でいた同じ花を今私たちも見ていると思うとちょっと感激する。聖徳太子も、源義経も、織田信長も、坂本竜馬も、土方歳三も、それぞれに好きな花があっただろうし、四季の花を見て何からしら感じるものがあったはずだ。花は女性のためだけに咲いているわけではない。日本人として生まれたなら、花と人生を重ね合わせて思うこともある。
 花を知れば、少しだけ人生が豊かになる。花が季節の細やかな移り変わりを知らせ、ぼんやり過ごしていてはいけないぞと思わせてくれる。花は人に何も要求せず、ただそこに咲いている。野や山や、民家の庭や街中にも。あとは人がそれを発見できるかどうかだけだ。目にしても気づかなければ見たとは言えず、自覚的に見て初めて得られるものがある。
 あなたの好きな花はなんですか? その問いかけに、はっきりと自分の好きな花の名前を言える人生でありたい。