月別:2007年03月

記事一覧
  • 昭和ノスタルジック都電荒川線でゆく空想小旅行

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6, 1/100s(絞り優先) 雑司ヶ谷霊園から鬼子母神へ向かって歩いていたら都電の線路脇に出た。しばらく待っていると、遠くから小さな電車がのんびりやって来るのが見えた。ああ、あれが都電か。記念に一枚写真を撮ろうとカメラを構えて待つ。そんな私を見つけた運転士さんが私のために徐行運転をしてくれたように見えたのは気のせいだったか。あ、あんなところにまた電車男...

    2007/03/31

    東京(Tokyo)

  • 巣鴨地蔵通りはエリートのお年寄りが集まる天国に一番近い商店街

    「15歳の女の子ですが、おばあちゃんの原宿といわれる巣鴨にわたしは行ってもいいのですか?」 あるサイトでそんな素朴な問いかけを目にした。確かにそれは素朴ではあるけど意外と深い疑問なのかもしれない。たとえば、私は貧乏なのですが六本木ヒルズを見に行ってもいいのですかという問いかけにも似ている。もちろん答えは両方とも、いいーんです、となる。巣鴨に年齢制限はなく、六本木ヒルズの入口に貧乏人感知センサーが設置...

    2007/03/31

    東京(Tokyo)

  • 吉保さんの庭づくりの情熱は300年後の私たちに伝わった ~六義園を訪ねる

     巣鴨の染井霊園(地図)を後にした我々は、駒込の六義園(りくぎえん/地図)を目指した。右手に北島康介を育てた東京スイミングセンター(Webサイト)を見つつ15分ほど歩くと左手前方に駒込駅(地図)が見えてくる。ここまで来れば六義園(Webサイト)はもうすぐそこだ。 私たちが行ったのは3月22日で、そのときまだしだれ桜の満開には早くて、人出はそれほどでもなかった。そこそこのにぎわいで、ほどよい活気があっていい感じ...

    2007/03/30

    東京(Tokyo)

  • 桜が咲かないから菜の花で春を感じることにしよう

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/800s(絞り優先) 名古屋の桜は待っていてもなかなか咲いてこないから、今日は菜の花の話をしよう。菜の花というと、3月、4月のイメージが強いのだけど、花の時期は長く、地方によってもけっこうバラツキがあるから、人によって感覚はたぶん違うのだろう。日本最大の栽培面積である青森県の横浜町は5月にピークを迎えて、毎年日本各地から見物客が訪れるそうだ。かと思うと、愛知県...

    2007/03/29

    花/植物(Flower/plant)

  • ジョージのカシラは誰をも受け入れる不思議異空間公園だった

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f6.3, 1/250s(絞り優先) オレンジ電車に乗ってジョージのカシラへ行こうぜ。東京人がそんなふうに言うかどうかは知らないけれど(たぶん言わない)、私たちは中央線に乗って吉祥寺の井の頭公園へ向かった。木曜日の昼下がり。何があるのかないのか、井の頭公園方面へ向かう人の波はうねるように続き、エスニック通りは不思議な高揚感に満ちている。若者向けの洋服屋に雑貨屋...

    2007/03/28

    東京(Tokyo)

  • 遅れて行った太宰治の三鷹に影はなくとも今も胸の内に

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f6.3, 1/125s(絞り優先) 新宿からJR中央線のオレンジの電車に乗って三鷹で降りる。私にとっての三鷹は太宰治の町であり、太宰治というと同時に三鷹を思い浮かべる。戦争中一時疎開していた時期をはさんで約9年間、太宰治は三鷹で暮らし、三鷹で死んだ。 前年山梨の甲府で再婚した太宰治は昭和14年、妻とともに三鷹へと移り住んだ。30歳のときだ。 今でこそ三鷹はそこそこ...

    2007/03/27

    東京(Tokyo)

  • 人間的なあまりにも人間的な芥川龍ちゃんを思い出すと泣けてくる

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8, 1/400s(絞り優先) 巣鴨駅で降りた私たちは、おばあちゃんたちでにぎわうとげ抜き地蔵に少し寄ったあと、染井霊園を目指した。夏目先生に会ったなら、次は芥川の龍ちゃんに会いに行かねばなるまい。 染井霊園もまた、雑司ヶ谷霊園などとともに明治の初期に作られた都営の公共墓地だ。江戸時代は染井村と呼ばれ、建部家と藤堂家の下屋敷があった場所で、植木屋がたくさん...

    2007/03/26

    東京(Tokyo)

  • 雑司ヶ谷霊園に眠る夏目漱石に会いにいったお彼岸

     南池袋の住宅地の中に東京都立雑司ヶ谷霊園はある。都電荒川線の都電雑司ヶ谷駅から歩いて5分ほどの距離だ。 10ヘクタールの広い霊園は、欅(ケヤキ)の古木に囲まれ、東京の都心近くとは思えないほどひっそりとしている。静かという形容詞が良くも悪くも使えるこの場所は、夜になって耳をすませば9,000人のささやき声が聞こえてくるのかもしれない。 江戸時代、この地は将軍が鷹狩りをするための居留地や屋敷があった場所で、...

    2007/03/25

    東京(Tokyo)

  • 人生いろいろ、猫生もいろいろ、東京で暮らす猫たち

    PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6, 1/500s(絞り優先) 東京お彼岸お墓巡りツアーより無事帰宅。 今日はもう眠たいので、東京で出会った猫の写真を並べておしまいにする。お墓参りの様子はまた明日。 一枚目は、護国寺にいた野良風飼い猫。もしくは、飼い猫っぽい野良。この他にも3匹ほど隣接する民家で見かけたから、近所の人が世話をしているのだろう。 猫が境内でのんきにしている神社仏閣は、非常...

    2007/03/24

    猫(Cat)

  • 東京行きの朝、鳥写真を並べていく

    Canon EOS Kiss Digital N+EF55-200mm(f4.5-5.6 II), f5.0, 1/400s(絞り優先) 東京行き出発前の朝だというのに、のんきに更新中。でも、ホントは時間がない。だから、写真だけ載せてあとは帰ってきてから。 こいつは自然動物館の中にいた鳥。南米っぽい。南米か! 名前を確認するのを忘れてしまった。 面白かったのは、エサをクチバシの先にくわえて、首をうしろにカクッとして飲み込む動作だ。器用に次から次へと口の中に放...

    2007/03/21

    野鳥(Wild bird)

  • 四度目の挑戦で初の干潮だったのに、カモの逃げ足は速かった

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/125s(絞り優先) 二度あることは三度ある、三度あることは何度でもある。今回で四度目となった藤前干潟行きでついに私は干潮の干潟を目にすることになった。三度あることでも四度はないこともある。ツレを連れて行ったことで相性が変わったのだろうか。 遠くに見える干潟と、カモと思われる水鳥たちの群れ。おお、いるいる、たくさーんいる。陸地には上がってないものの、水際に...

    2007/03/20

    野鳥(Wild bird)

  • 人も動物も生きているんだ友達なんだ、それが僕たちの歩く道

    Canon EOS Kiss Digital N+EF55-200mm(f4.5-5.6 II), f5.0, 1/400s(絞り優先) 東山動物園のこども動物園にいた白いもこもこウサギさん。隣のノーマルタイプと比べるとそのもこもこさ加減が際立つ。冬は暖かそうだけど夏はすごく暑苦しそうだ。そのあたりを本人はどう思っているだろう。読み取ろうとしても無表情な赤い目は何も語らなかった。むしゃむしゃと葉っぱを食べるばかり。この固そうな葉っぱが好物なんだろうか。ウサギ...

    2007/03/20

    動物(Animal)

  • 帰りたくなる心のホーム和食にしばし浸り、また世界の料理に旅立つ

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/20s(絞り優先) 今日のサンデー料理は和食にした。そこに心のホームがあるから。毎日いろいろなものを食べて、週に一度自分で料理を作って、巡りめぐって何が食べたいのか分からなくなることがある。そんなとき帰っていくのは、やはり和食だ。消極的な帰結だけど、たまには故郷に逃げ帰ったっていい。それは故郷がある人間の特権だから。 今日のもうひとつのテーマは温野菜だっ...

    2007/03/19

    食べ物(Food)

  • ニコライ堂は高いビルに囲まれた21世紀の東京でも高台で威風堂々

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f7.1, 1/160s(絞り優先) 御茶ノ水駅を降りて本郷通りの坂道を歩き出す。ほどなくして丸い屋根の不思議な建物が目に入る。ああ、あれか、ニコライ堂。緑色のタマネギのてっぺんに十字架が載っているロシア教会。正式名称を「日本ハリストス正教会教団復活大聖堂」という。その長すぎる名称から建てた司祭の名前を取って、もっぱらニコライ堂と呼ばれている。「あ、にほんはりすとす...

    2007/03/18

    東京(Tokyo)

  • 味噌煮込みの山本屋について思い悩んだ末に「ひらのや」できしめんを食べた

    Canon EOS Kiss Digital N+EF50mm(f1.8 II), f1.8, 1/8s(絞り優先) 名古屋人は意外と名古屋名物を食べない。それはどの地方の人についても言えることなのだろうけど、独特の食文化を持つ名古屋人は名古屋名物を愛してやまないのだろうと他県の人が想像するほどは食べていないという現状がある。基本的に外食をしない私のような名古屋人は特にその傾向が強い。家で毎日のように味噌カツや味噌煮込みや名古屋コーチンを食べてるな...

    2007/03/17

    食べ物(Food)

  • 東山自然動物館シリーズ第二弾---珍しい夜行性動物の世界

    Canon EOS Kiss Digital N+EF50mm(f1.8 II), f1.8, 0.6s(絞り優先) 東山動物園自然動物館のシリーズ第二弾は、夜行性動物を集めてみた。私も夜行性という点では決して負けているものではないのだが、かわいさではフェネックにまるで太刀打ちできない。残念だ。 フェネックは初めて見たけどなんてかわいいんだろう。大きな耳とつぶらな瞳がキュートで、顔もハンサムだ。これだけひとつのパーツが大きいと全体のバランスが崩れて...

    2007/03/16

    動物(Animal)

  • 昭和30年を懐かしく感じられる今の時代感覚を喜びたい

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f3.8, 1/6s(絞り優先) お台場へ行くならぜひとも寄らねばと思った「台場一丁目商店街」。昭和の時代に駄菓子で育った私としては、昭和の町を再現したテーマパークというのは強く心惹かれるものがあった。 昭和30年代の下町をイメージしたショッピングモールとして台場一丁目商店街がオープンしたのが2002年。「デックス東京ビーチ」の4階ワンフロアーを、そっくり昭和の町並みに仕...

    2007/03/15

    東京(Tokyo)

  • 古くて新しすぎる浅草寺は人混みと熱気と失望と人形焼の味

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f5.6, 1/250s(絞り優先) 日本で一番参拝客が多い寺は浅草の浅草寺だと言われている。観光客を入れると年間で3,000万から4,000万人が訪れるというからすごいものだ。でもちょっと待て、それじゃあ日本人の3人か4人に1人は毎年浅草寺を訪れることになってしまうぞ。そんなアホな。40人のクラスで今年浅草寺に行った人手を挙げてくださいと言って13人も手が挙がるとは思えない。この数...

    2007/03/14

    東京(Tokyo)

  • 2007年はカレー再チャレンジ元年、私を美味しいカレー屋に連れてって

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f3.5, 1/40s(絞り優先) 日本生まれじゃないのに今や日本を代表する食べ物となったカレーライス。世の中にカレー好きは多い。子供が好きな食べ物のベストテンには必ずといっていいほど入っている。日本人の味覚とカレーの味はよほど相性がいいのだろう。平均すると年間でひとり60食以上食べてるというから、日本人はみんな毎週一回はカレーを食べていることになる。本当だろうか? 私は...

    2007/03/13

    食べ物(Food)

  • イモリ・トカゲ注意報発令---東山自然動物館シリーズ第一弾

    Canon EOS Kiss Digital N+EF50mm(f1.8 II), f1.8, 1/25s(絞り優先) トカゲ・ヤモリ注意報発令です。苦手な人は非難してください。これは訓練ではありません。繰り返します。これは訓練ではありません。 というわけで、今日は東山動物園で撮ったトカゲとヤモリとその仲間たちの写真を紹介したい。動物園の中に「動物自然館」という建物があって(床面積3,800平方)、夜行性の動物、は虫類、両生類など約170種類、1,000匹(頭)...

    2007/03/11

    動物(Animal)

  • 平日の東山動物園はちびっこ天国で昭和レトロの平和さが漂う

    Canon EOS Kiss Digital N+EF55-200mm(f4.5-5.6 II), f7.1, 1/160s(絞り優先) ちょっと留守してる間、ツレと東山動物園をうろついていた。10時半に入園して、閉園の5時まで歩きに歩いた6時間半。坐ったのはランチの30分くらいで、あとは歩いてるか立ち止まって観察してるかで動物園をしっかり堪能したのだった。一日でほぼ全園見切った。そろそろボランティアガイドができそうだ。 この日は平日ということで、ちびっこ軍団が大...

    2007/03/11

    動物(Animal)

  • タダを求めて東奔西走、タダ見シリーズ4弾は聖路加タワー

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f5.6, 1/2.0s(絞り優先) 東京タダ見スポットシリーズ第4弾は、聖路加タワー展望室。無料展望スポットとしては、東京都庁に続いて2ヶ所目となる。東京は世知辛い一方で太っ腹な面も見せてくれる。 聖路加というと聖路加国際病院がすぐに連想される。聖路加タワーというから、病院の屋上に展望室がついているのか、そんなところにのんきに観光気分で行っていいものなんだろうかと心...

    2007/03/08

    東京(Tokyo)

  • 江戸のヒーロー将門さんに挨拶して味方に付けよう神田明神

     今回紹介する神田明神だけど、行く前は少し及び腰だったところがある。というのも、神田明神というとどうしても平将門の怨霊が連想されてちょっと恐れていたからだ。ただ、実際に行ってみたらまるでそんなおどろおどろしい雰囲気はなくて、ちょうど結婚式も思われていたこともあって、境内はカラリと明るい空気感に満たされていてホッとした。むしろ庶民的空間とでも言えるような居心地のよさを感じた。平将門さんとケンカして勝...

    2007/03/08

    東京(Tokyo)

  • 旧岩崎邸庭園で思った、時代は変わり、歴史は積み重なることを

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f5.6, 1/100s(絞り優先) 明治時代の洋館に心惹かれる私は、あの時代を庶民として生きていたのかもしれない。見上げる白亜のお屋敷とぐるり取り囲まれた塀からのぞき見える緑の芝生。黒塗りの車に乗った令嬢を遠くから眺めてドキドキしたり、出入りする青い目の異人さんにドギマギしたり。 洋館の内部に入ると、こんな家、住みにくくて嫌だなと思うから、貴族ではなかったに違いな...

    2007/03/07

    東京(Tokyo)

  • 湯島聖堂にあるのは白梅ではなく孔子像と中国風異空間

     何も知らずに湯島聖堂を訪れて、梅がないじゃないかと探しているのは無知なお上りさん(私のこと)。なんかここ、中国っぽいなと思ってもそれを口に出すのはまずい。もちろん、訪れている参拝者に梅ってどこですかなどと訪ねてはいけない。失笑されるか、笑いをこらえながら、それは湯島天神ですよと教えてはくれるだろうけど。 帰ってきてから勉強して湯島聖堂ってそういうことだったのかと初めて納得した。そりゃあ、中国っぽ...

    2007/03/06

    東京(Tokyo)

  • 梅まつり中の湯島天神であらためて東京パワーを思い知る

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f4.5, 1/800s(絞り優先) 私たちが湯島天神を訪れたのは、梅まつりまっただ中の日曜日だった。きっと混んでるだろうと話していたけど、まさかあれほどとは思ってなかった。さほど広くない境内は初詣客並みの人で溢れかえり、賽銭を投げ入れるまで10分もかかったのだった。いやはや、東京を侮ってはいけないとあらためて思う。人が集まるところは徹底して人が多いのが東京だ。それは...

    2007/03/05

    東京(Tokyo)

  • 突撃!私の晩ごはん番外編、80年代風ひな人形料理

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/30s(絞り優先) 3月3日といえば、ひな祭り。今年は料理でひな祭りにちょっこっとだけ接近してみた。突撃!私の晩ごはん番外編、ひな祭り料理編ということで、東京のツレの家で作ることになった。というか、私がお手伝いして作ってもらったといった方が正しいかもしれない。私がしたことといえば、ひな人形の顔を書いたくらいのものだから。 それにしても写真で見ると、なんだか...

    2007/03/04

    食べ物(Food)

  • 漠然と訪れたお台場で、強烈な寒風と贅沢な夜景に前が滲んだ

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f7.1, 1/800s(絞り優先) ♪遠のいてくお台場の海は まぶしい西陽に乱反射して♪ 小松未歩が「東京日和」の中でこう歌ったお台場に降り立ったとき、夕焼けの感動ではなくあまりの極寒ぶりに我々は涙することになった。一体何事ですか、この寒風は。顔が痛いですよ、ここ。名古屋を出てきたときは春の陽気だったのに、お台場はシベリアだった。中学生以来、耳当てが欲しいと本気で思...

    2007/03/02

    東京(Tokyo)

  • 呼ばれたのか惹かれたのか根津神社は思いがけず立派で驚く

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/250s(絞り優先) どうして根津神社へ行こうと思ったのか自分でもよく分からない。その存在はガイドブックか何かで見かけて知ったのだと思う。どんなゆかりのある神社なのかよく知りもせずなんとなく行きたいと思ったのは、根津神社が私を呼んだのか、はたまた私の中の何かが惹かれたのか。とにかく行こうと思った。 連れと共に出向いた根津神社の前に立ったとき、思いがけ...

    2007/03/02

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 根津神社のライオン丸は一度見たら忘れない着ぐるみを着たような猫だった

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/100s(絞り優先) 根津神社で遭遇したすごいやつ。 ひと目見たら忘れられないインパクト。もこもこの毛並みはヒツジのようでもあり、ライオンのようでもある。一部では根津のライオンキングと呼ばれているらしい。 何もかもが規格外の体つき。毛の多さ、太りっぷり、そして特筆すべきは手足の極太さだ。通常の猫の3倍くらいの太さがある。こんなところにも脂肪はつくのだ...

    2007/03/01

    猫(Cat)

昭和ノスタルジック都電荒川線でゆく空想小旅行

東京(Tokyo)
都電荒川線-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6, 1/100s(絞り優先)



 雑司ヶ谷霊園から鬼子母神へ向かって歩いていたら都電の線路脇に出た。しばらく待っていると、遠くから小さな電車がのんびりやって来るのが見えた。ああ、あれが都電か。記念に一枚写真を撮ろうとカメラを構えて待つ。そんな私を見つけた運転士さんが私のために徐行運転をしてくれたように見えたのは気のせいだったか。あ、あんなところにまた電車男がいるなと思ってサービスしてくれたのかもしれない。おかげで、にわか電車男の私が、電車マニアっぽい写真を撮ることができて喜んだ。ありがとう、都電の運転士さん。親切のせいでダイヤに乱れが出なかったでしょうか。

 かつて東京中を静脈のように線路を張り巡らしていた都電も、今は荒川線を残すのみとなった。
 明治44年に創業以来、大正、昭和と都民の足代わりとなって働き続け、戦争で壊滅してもまた復活した都電。しかし、自動車の普及と街の近代化には打ち勝てず、業績悪化のために昭和40年代に35系統も廃線となり、姿を消すのも時間の問題となった。
 荒川線も当初は廃止予定だったのだけど、専用の軌道が多かったのと、代替の交通機関がないということで、21世紀の現在に生き延びた。最後に乗った2系統を一本化して荒川をメインに走ることから荒川線と名づけられた。
 もともと王子電気軌道が開業したものを昭和17年に東京市が買い取ったという経緯がある。だから、昔から知っている人はいまだに王子電車、略して王電と呼んでいるそうだ。

都電荒川線-2

 夕暮れ時の荒川線は、ますますノスタルジックな哀感が漂う。線路沿いをのんびり歩いていると、ここが21世紀の東京都内だということをほんの一瞬忘れそうになる。そしてつぶやく言葉は、昭和だねぇ。
 それにしてもけっこうひっきりなしに電車が行き交う。一両編成だから田舎の電車のようにほとんど利用客もないのかと思うとそうではなく、今でも一日5万6,000人が利用するというからなかなかの人気電車だ。この人数は、多くの人が通勤、通学に使っているということになる。都電、侮りがたし。ただ昭和18年頃は一日193万人も乗客があったというから、当時を知ってる関係者にとっては充分すぎるほど寂しい光景なのだろう。

 三ノ輪橋から早稲田までの30駅、12.21キロを平均速度13キロで49分かけてのんびり走る。その間の20パーセントは路面電車となって、車と並走することになる。当然、赤信号も止まらなければならない。用意ドンで自転車と競争したら、たぶん自転車の方が早く着くと思う。マラソンランナーのスピードを1キロ3分として、12キロなら36分となるから走った方が早いとも言える。
 運転のさじ加減は運転手の気持ち次第。コンピューター制御なんて洒落たものはない。ダイヤよりも人情優先。遅れた人が走ってる姿を見れば待っている。へたすれば駅じゃないところで手を挙げれば止まってくれそうな気さえする。もちろん、それはないけれど。
 料金は一駅でも終点までいっても一律160円。前払いシステムで切符もない。観光客用に一日乗車券が400円で売っている。一駅ごとに降りて散策して、また乗ってと、一日都電の小旅行なんてのも楽しそうだ。
 私はこれまで駅と書いているけど、実はこれは間違いで、正しくは停留所となる。都電荒川線は、電車ではなくバスの扱いに近い。

 私のにわか仕込みの知識によると、現在運行している車両は、一番多い7000型(23両)、一番上の写真の7500型、1990年(平成2年)に導入された8500型の3種類となっている。最新型の8500型を以前の車両と入れ替えるはずが、コスト面の問題で5両で生産売り切りになってしまった。ただ、これは姿があまり都電らしくないので、全部8500型に切り替わらなくてよかったと思う。
 以前主力だった6000型は、ライトが一つなのでみんなから一球さんの愛称で呼ばれている。しかし、そんな知識は一般生活では役に立たないどころかむしろ邪魔になることもあるので、無闇に披露しない方がよさそうだ。平成14年まで走っていたというから、東京の人なら見たことがある人が多いと思う。
 今年2007年の5月に、イベント用の最新型9000型が新造されてお披露目になるそうだ。もし見かけたら写真を撮りたい。その前に、あらかわ遊園や、江戸東京たてもの園に保存してある古い車両の写真を撮りに行くことが先か。

都電荒川線-4

 線路という縛れる不自由に何故人はその先の自由を夢見るのだろう。電車に乗りさえすればどこか遙か遠くの街に連れて行ってもらえる気がする。どこまでも続いているように見える線路にも必ず終わりがある。いや、終わりがあるからいいのか。環状線である山手線にロマンはない。
 通称ちんちん電車は、車掌がいなくなってもチンチンと発車のベルを鳴らし、今日も三ノ輪駅を発車する。春には素盞雄神社の梅が、初夏には停留所のバラが見送ってくれる。
 2000年に新しくできた荒川一中前を通り、昭和が色濃い荒川区の商店街へと入っていく。ここは金八先生でもお馴染みの街だ。下町風情の町屋駅を通って、住宅や町工場を過ぎると、あらかわ遊園が見えてくる。次は都電が休むための荒川車庫。王子稲荷のある王子駅のあとは、飛鳥山。東京桜名所のひとつである飛鳥山公園がある。桜シーズンはかなり混雑するだろう。高校、大学が沿線にあるので、登下校時は学生が多くなる。
 次は巣鴨のとげぬき地蔵がある庚申塚だ。ここで一気に乗客の平均年齢が下がったり上がったりする。4の付く縁日の日は相当混雑するようだ。サンシャインを60が見えてきたらもう池袋は近い。雑司ヶ谷霊園のある雑司ヶ谷、鬼子母神の鬼子母神前、学習院から遠い学習院下、ロマンチックな名前の面影橋、そして終点早稲田に到着。ここで唐突な終わりを迎える。ここは池袋でもなく、新宿でもない、早稲田だ。こんなところで降ろされても、と思ってしまうけど、続きは都営バスでどうぞということらしい。せめて新宿まで行ってくださいという願いが聞き入れられることはない。三ノ輪の方も浅草まで伸びれば、観光電車として再びスポットが当たると思うのだけどどうなんだろう。
 なにはともれ、都電荒川線の旅はこうして終わる。ご乗車ありがとうございました。お忘れ物のないようお降り願います。チンチン。

PASMO

 東京人でもない名古屋人のくせにPASMO(パスモ)を持っている生意気な私。これで東京人になったつもり、というわけではないのだけど、一度どんなものか試しに買ってみた。デポジットの500円が難点とはいえ(PASMOが不要になったら返ってくるけど手数料が取られる)、便利は便利だ。電車や地下鉄に乗るとき、いちいち駅のパネルを見上げて切符の代金を確認して自販機で買うという手間が省ける。それに、PASMOは財布に入れたまま、財布を改札のタッチパネルにかざすだけで通過できるのだ。これがけっこうカッコいい。と自分では思ってる。かなり読み取り精度は高い。
 このPASMOだけど、都電でも使える。最新のPASMOでレトロな都電に乗るというギャップが面白い。近いうちにこれで乗ってみよう。
 東京ノスタルジック都電の旅、おすすめです。私も近いうちに都電というものに一度は乗ってみたいと思っている。え、乗ったことないのかよ! というツッコミが聞こえてきそう。

巣鴨地蔵通りはエリートのお年寄りが集まる天国に一番近い商店街

東京(Tokyo)
巣鴨地蔵通り商店街




「15歳の女の子ですが、おばあちゃんの原宿といわれる巣鴨にわたしは行ってもいいのですか?」
 あるサイトでそんな素朴な問いかけを目にした。確かにそれは素朴ではあるけど意外と深い疑問なのかもしれない。たとえば、私は貧乏なのですが六本木ヒルズを見に行ってもいいのですかという問いかけにも似ている。もちろん答えは両方とも、いいーんです、となる。巣鴨に年齢制限はなく、六本木ヒルズの入口に貧乏人感知センサーが設置されているわけでもない。

 私が出向いたときは平日の夕方ということで、地蔵通り商店街は激しく混雑しているというほどではなかった。おばちゃんまみれの巣鴨を期待していたから、ちょっと残念だった。ただ、歩いている人の年齢層は確かに高く、街の空気感が明らかに若者向けでないことだけは、巣鴨駅を降りて1分で気がついた。
 ここまで潔くお年寄り向けに特化した街というのは他にないだろう。大晦日のNHK紅白歌合戦は、巣鴨を見て自らを省みて欲しいと思う。若者に中途半端にこびるから自分を見失うのだ。
 草履や雪駄を売る履物屋、店先に並ぶたくさんの杖、ガモカジと呼ばれる高齢者向け最新ファッションの服屋、名物塩大福、やわらかい濡れせんべい、健康茶に漢方に薬の数々。この街の主役はあくまでもお年寄りだ。若者はターゲットではない。マクドナルドもS・M・Lではなく、大中小とメニューに表記している。
 巣鴨といえばモンスラに赤パン。幸福の黄色いハンカチは知ってるけど、幸運を呼ぶ赤いパンツは知らなかった。モンスラは、もんぺスラックスの略だ。ウエストと足首がゴムになっていて、年輩の人には大好評を博している。銀座三越なんかでは売ってない。ガモカジファッションに身を包んだお年寄りをガモーナと呼ぶらしい。
 今のお年寄り世代はけっこう年金をもらっているので小金を持っている。みなさんホイホイいろんなものを買っているのを目にした。中には買っていることをあまり自覚してない人もいるかもしれないけど、そのへんのところは店の人も慣れたものだろう。おばあちゃん、朝ご飯はさっき食べたでしょと、優しく教えてくれるはずだ。
 巣鴨地蔵通り商店街は、かつての中山道だった道だ。だから、昔から人の往来があって、賑わっていたところだった。昨日、今日のお年寄りブームでできた、にわか観光地などではない。
 平日は午後3時から6時まで、日曜祝日は昼から午後6時まで、この道は歩行者天国になる。そう、ここは天国に一番近い商店街なのだった。



巣鴨真性寺

 とげぬき地蔵の前に、商店街の入口左手にある眞性寺(しんしょうじ)にも寄っていく。中山道の入口に位置したこのお寺さんは、江戸六地蔵のひとつで、この道を通る旅人は必ずここでお参りしたと言われている。
 創建は不明ながら、高岩寺(とげぬき地蔵)よりもこちらの方が古い。「江戸名所図会」にも描かれている名刹で、歴代の将軍も訪れたという。
 名物は大きな地蔵菩薩。高さは約5メートルあって、巨大な笠をかぶっている。
 毎年6月24日は百万遍大念珠供養が行われ、長さ16メートルの大数珠をみんなで順々に回して厄除け祈願をする。
 境内には松尾芭蕉の句碑が建っている。




とげぬき地蔵前

 高岩寺まではJR山手線の巣鴨駅から、ゆっくり歩いても7分くらいで到着してしまう。この近さもお年寄りに人気の理由だ。商店街であちこち買い物をしたり商品を見たりしながらフラフラととげぬき地蔵に向かうという距離感とコース設定がちょうどいいのだろう。
 平日でも2万人、毎月4のつく縁日の日は6万人、日曜ともなると8万人からの人がやってくるというからすごい人数だ。東京中の元気なお年寄りが一堂に会したと言っても過言ではない。年間で800万人というから、東京は高齢者も多い。
 縁日には200を超える露天が並んで、お年寄りで大盛況になるという。しかし、それを狙った高齢者スリや、老人をカモにするキャッチも出没するというから油断はできない。そんなものに引っかかっていては、全然霊験あらたかじゃないことになってしまう。
 ここで売られている塩大福や大判焼きなどはお年寄り向けにアレンジされているんだろうか。ノドに詰まりにくい大福になっているとか。巣鴨で商売をするには、普通とは違う部分で気を遣わなくてはいけない難しさがありそうだ。



とげぬき地蔵境内

 一般に「とげぬき地蔵」として知られている高岩寺は、正式名称を萬頂山高岩寺(ばんちょうざんこうがんじ)という。本尊は秘仏で延命地蔵尊。
 1596年に、武士の田付又四郎が妻の病気祈願をしているとき夢に地蔵観音が出てきて、自分の姿の木版を与えるからそれに朱肉を付けて紙に押して川に流すようにと告げた。そこで、一万枚の地蔵の御影を両国橋から流して祈ったところ、妻の病気がすっかり回復したというところから話は始まる。
 2年後、誤って針を飲み込んでしまった女中(一体何があった?)に、地蔵の御影を飲ませてみたところ、ゲホッと吐き出したのが針の刺さった御影だった。
 ここからとげ抜き地蔵の名が生まれ、その地蔵尊を祀るために、扶岳太助が江戸神田湯島に創建したのが高岩寺の始まりとされている。60年後に上野の下谷屏風坂に移り、明治24年に区画整理で今の巣鴨に落ち着いた。
 そういうわけなので、間違って針を飲み込んでしまったり、ノドに魚の骨が刺さったときは、とげぬき地蔵へ行くといいだろう。
 って、御利益狭っ! そんなイベントは一生のうちに一回あるかないかだ。地方に住んでいて、魚の骨が刺さったからといって慌てて新幹線のチケットを買って、山手線に乗り継いで、巣鴨までやって来たときには、もうとっくに骨も取れているというものだ。それでも取れないときは、まず医者に行った方がいいと思う。
 しかし、これではさすがに御利益の範囲が狭すぎるので、今は病気平癒、無病息災、痛み軽減、けが治癒、健康長寿などに御利益があるとされている。更に、心に刺さったトゲまで抜いてくれる。うまいこと考えた。だとすれば、年を取って丸くなったお年寄りよりも、働き盛りでストレスをため込んでいる仕事人間こそ、ここを訪れるべきなんじゃないだろうか。
 秘仏を拝むことはできないので、和紙に描かれた御影(おみかげ)を買って、拝んだり、痛いところに貼ったりする。



洗い観音

 境内にはもうひとつの名物である「洗い観音」がある。これをとげ抜き地蔵と思い込んで一所懸命磨いている人もいるらしい。でも、教えてあげなくても大丈夫、大切なのは祈る対象ではなく信仰心なのだから。
 これもたいそうな人気で、写真のようにいつも行列が途切れることはないそうだ。今活躍してるのは二代目で、初代は後ろの厨子に格納されている。昔はタワシで磨いていたので、ツルツルのピカピカになって原形が分からなくなってしまったので引退となった。二代目からは「おみぬぐい」という白い布で拭くシステムに変更された。
 これくらいの列ならたいしことはないと思うかもしれないけど、洗い磨き作業がひとりひとり長いから、そう簡単には進まない。何しろ痛みや不調が切実な人はササッと拭いてハイ終わりというわけにはいかない。自然と磨く手にも力が入り長引く。後ろから急かすのも悪い。必然的に回転が悪くなる。
 気候のいいときはいいけど、真夏や真冬は大変だ。列の横には「AED」という目立つプレートがかかっていて、用意万端整っている。倒れたらこれで心臓マッサージだ。体がよくなるようにとお願いに来て、むしろ体調が悪くなって寿命を縮めたら洒落にならない。
 ただ、考えてみると列車やバスに乗ってここまでやって来られるということは充分元気な証拠のわけで、そんなに元気ならまだ大丈夫なんじゃないかと思ったりもする。在宅の人にこそ出張サービスが必要だ。
 そういう意味では、とげぬき地蔵を訪れてるおばあちゃん、おじいじゃんは、お年寄りの中のエリートと言っていい。ゆめゆめ侮ったり軽んじたりしてはいけない。
 そう、ここは元気なお年寄りたちが更なる健康を願って集まる場所なのだ。



とげぬき地蔵全景

 これがだいたい高岩寺境内の全景といっていい。他には右側に洗い観音があるくらいだ。
 思ったよりも狭い。浅草寺のような大きなお寺を想像していくと、かなり拍子抜けする。
 建物も新しいものばかりなので、あまり見どころはない。一番古い本堂でも昭和32年に建てられたもので、赤御影石を使ったコンクリート造りの山門は昭和55年とモダンささえ感じさせる(高さ約6.5メートル)。
 境内から出て向かって左側は休憩スペースになっていて、ベンチがたくさん設置されている。これもお年寄りに優しいとげぬき地蔵ならではの心遣いだ。
 境内の中ほどにはお馴染みの香炉がある。線香を入れて、煙を手ですくって体の気になるところにかけると調子がよくなるというやつだ。ちびっ子もよく分からないながらも大人のマネをしてやっていた。私ももちろんやっておいた。何か願ってというわけでもないけれど。

 巣鴨はなかなかいいところだった。活気の中にも穏やかさがあって、心が和む。最近は修学旅行のコースに組み込まれるなど、若者も増えているという。こういう特殊な街というのは他にないから、地蔵通り商店街とあわせて一見の価値がある。
 おみやげは迷わず赤パンとモンスラだ。他ではなかなか手に入らない希少価値がある。
 これからはどんどん高齢化が進んでいくのだから、それに合わせて街が高齢化していっても不自然ではない。おばあちゃんの原宿だけでなく、おばあちゃんの新宿も、おじいちゃんの歌舞伎町も作ったっていい。隅田川あたりも高齢者向けウォータフロントに再開発したらどうだろう。
 とりあえず、地蔵通りは今後ともしばらくは安泰だろう。少子化はむしろ追い風になるかもしれない。おばあちゃん、おじいちゃんが孫に取られる分が減ることで自分にお金を使うようになる。
 今回の巣鴨行きは、徹底することの大切さをあらためて教わることになった。誰にも彼にもいい顔をする必要はない。ここと絞ったターゲット層に特化させれば独自の色が出る。

 質問をしていた15歳の女の子は、あれから実際に巣鴨に行ったのかな。
 彼女も、50年後にはおばあちゃんの仲間入りだ。その頃も今と変わらず巣鴨は巣鴨のままだろうか。

吉保さんの庭づくりの情熱は300年後の私たちに伝わった ~六義園を訪ねる

東京(Tokyo)
六義園全景

 巣鴨の染井霊園(地図)を後にした我々は、駒込の六義園(りくぎえん/地図)を目指した。右手に北島康介を育てた東京スイミングセンター(Webサイト)を見つつ15分ほど歩くと左手前方に駒込駅(地図)が見えてくる。ここまで来れば六義園(Webサイト)はもうすぐそこだ。
 私たちが行ったのは3月22日で、そのときまだしだれ桜の満開には早くて、人出はそれほどでもなかった。そこそこのにぎわいで、ほどよい活気があっていい感じだった。
 話によると満開の現在、とんでもないことになっているらしい。駒込駅を出たところからすでに行列が始まり、入場券を買うまでに30分も並ばなければいけないとか。どんだけヒートアップしてるんだ、しだれ桜のライトアップ。風邪気味のサラリーマンが会社帰りにちょっと寄って見ていこうかななんて軽い気持ちで行くとひどい目に遭う。出てきた頃には息も絶え絶えで次の日仕事を休まなければいけなくなりかねない。ここの夜桜ピーク時は充分に体調を整えてから行かねばなるまい。
 通常は17時までの開園時間も、夜桜期間だけは夜の21時まで(入園は20時30分まで)延長している。今年は4月1日までということだから、今週一杯だ。桜のライトアップは、平成13年に築庭300年記念で始められた新しい企画で、今年で7回目となる。東京に住んでいても意外と知らない人もいるかもしれない。ニュースなどでさんざんやって知れ渡っているだろうか。入園は300円(65歳以上は150円)。

 入ったのは夕方の5時すぎでまだ明るさが残っていた。まずは庭園をゆっくり一周することにした。ショートカットコースで30分、通常コースで1時間というのが標準タイムとして設定されている。ちょっとあっけないなと思うかもしれないけど考えてみて欲しい、東京の都心で一周歩くのに1時間かかる庭というのは尋常じゃない。個人所有だったのによくぞこれだけ広い庭園がそのまま残ったものだと感心する。
 写真の場所は庭園内最高峰であると同時に文京区最高峰でもある”藤代峠”からの眺めだ。海抜35メートルで、庭園を一望できる。名前は紀州にある同名の峠からとって付けられた。
 よき眺めじゃのぉと、庭を作った柳沢吉安もこの場所に立って悦に入っていたのだろう。どうだ、参ったか、という気持ちだったかもしれない。

 時は元禄8年(1695年)、五代将軍綱吉の時代。関ヶ原の合戦から100年近くの歳月が流れ、江戸の町もすっかり平和になった頃、ここ駒込の地に側用人(そばようにん)の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が下屋敷(本宅以外の別宅)のための2万7千坪の敷地を与えられた。
 もらってから思いついたのか、もらう前から空想していのか、吉保はここに巨大庭園を作ってやろうと思った。一から十まですべて自分の思い描く理想の庭園を。それは情熱を超えて狂気じみていたかもしれない。まったく平で何もなかったこの地に穴を掘って池を作り、35メートルの小山を築き、季節の木々を植え、7年の歳月をかけて自ら設計、造園指揮をして完成させたのが回遊式築山泉水庭園「六義園」だ。
 その7年の間には松の廊下事件があり、完成の2ヶ月後には赤穂浪士の討ち入り事件が起きている。そんなときに将軍の側近は庭づくりに熱中してたのだ。やるな、吉保。浅野内匠頭に即日切腹を言い渡した綱吉に何も意見をせずにさっさと処理してしまったのも、早く家に帰って庭づくりの続きがしたかったからかもしれない。
 和歌に造詣が深かった吉保らしく、庭にはいくつもの和歌がモチーフとして取り入れられている。景勝八十八箇所を模して、各所にちなんだ名前がつけられた。「玉藻の磯」や「渡月橋」、「出汐の湊」、「妹山・背山」など。吉保の側室で公家の娘だった町子の影響も大きいと言われている。
 六義というのは、中国の古い書物である『詩経』における詩の分類法で、賦・比・興・風・雅・頌の六義を指す。これを紀貫之が『古今和歌集』の序文で和歌に適用させて「むくさ」と読ませた。和歌では、そえ歌・数え歌・なずらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・祝い歌の六体となる。なので、吉保の頃は六義園を「むくさのその」と呼んでいた。今は「りくぎえん」が正しいことになっている。
 完成当時は、小石川後楽園と並んで二大庭園と称されたというから、吉保も自慢だっただろう。だてに7年もかけてないぜと思ったに違いない。
 将軍綱吉も何度か訪れ、その母親の桂昌院も王子稲荷参拝の帰りによく立ち寄ったそうだ。

 吉保もたいがい趣味人だったけど、その孫の信鴻(のぶとき)はそれ以上だった。園芸趣味に走り、庭はあらたな展開を迎える。その頃には時間も経って、当初は人工的な庭だったものがだんだん自然化していった。その結果、生き物の楽園となっていく。池にはこうのとりが飛んできて雛を育て、今は特別天然記念物となった朱鷺(とき)も、この頃はまだ普通に見られたという。山にはキツネもタヌキもいただろう。
 四季を通して山で山菜採りをしたり、キノコを集めたり、秋には栗拾いもしたそうだ。庭の方には桜を植え、菊作りをし、花壇や菜園も作った。すべて信鴻自らが率先してやっていたというから、きっと楽しかったのだろう。
 せっかくのこんな素敵な庭だから自分ひとりで楽しむだけではもったないないということで、しばしば客人を招いて庭見学もさせている。それが評判になってツアー化していった。六義園見学はもう江戸時代に始まっていたのだ。
 しかし、あとが続かなかった。次の代以降は徐々に情熱を失っていったようで、だんだん荒れていったという。
 時代は明治に移り、これに目を付けたのが成り上がりで庭園好きの岩崎弥太郎だった。以前に旧岩崎邸庭園を紹介したけど、弥太郎はここも買い取り、紀伊国屋文左衛門の屋敷だった清澄庭園も買っている。そのおかげで今まで残ったから感謝しなくてはいけないのだけど、金に任せて買い漁るという感じがちょっとなと思う。
 昭和13年に岩崎家から東京市に寄贈されて、その後一般公開されることになった。昭和28年には国の特別名勝に指定されている。



六義園のしだれ桜

 行ったときひとあし先に咲いていた脇役の方のしだれ桜。これでも充分立派な木なのだけど、この姿では主役にはなれない。木にもそういう宿命というのがある。
 あれから一週間経っているから、こちらはもうかなり散ってしまっただろう。でも、主役が遅れた分、前座としては立派に役割を果たしていた。それもまたひとつの生き方。



しだれ桜のアップ

 しだれ桜は、ソメイヨシノに比べて花のピンク色が強くて、華やかさと可憐さがある。流れ咲く滝の風情と、ピンクの鮮やかさが人気の要因だろう。ソメイヨシノは男っぽくて、しだれ桜は女っぽいとも言えるかもしれない。
 これ以外にももう一本、脇役しだれ桜があった。ここは桜の本数としてはごく少ない。みんなメインのしだれ桜を目当てにやってくる。
 桜以外では、大きなこぶしの木も目立った。真っ白に咲き誇ったこぶしの白もなかなか見応えがある。
 ここは全部で6,000本以上の木があるそうで、ちょっとした林のようになっている。モミジなども600本以上あって、紅葉の名所としても有名だ。



心泉亭でお茶を

 ライトアップは日没後となっていて、はっきりとした時間は決まってないようだ。暗くなるまでにはまだ少し時間があったので、お茶屋さんで抹茶をいただきながら待つことにする。
 茶屋は5軒ほどある。ただ、全部は開いてないのかもしれない。我々が入ったのは、「心泉亭」というところだった。店の入り口には園内で一番眺めのいいところと書かれていたけど、自己申告なので100パーセント信じていいかは分からない。でもいいところだった。普段は集会所にも使われているらしい。抹茶と饅頭で500円。
 大名が心静かに庭を眺めたという視線を意識して建てられそうなので、私もそんな気分に浸りながらしばし時を過ごす。



しだれ桜のライトアップ

 これが主役のしだれ桜。姿が抜群。これぞ真打ち。このときはまだ1分咲き程度だったのだけど、満開になったらさぞや見事に違いない。人混みにもみくちゃにされてでも見に行く価値がある。
 今同じ場所から撮ったら、写真の下半分に数百の人の頭が写るだろう。初詣の参拝待ちの列に並んでるときのように。なんでもツワモノは昼過ぎから行って、三脚の場所取りをしてるんだとか。すごい気合いだ。私にはちょっとできない。でも、ちゃんと撮るなら当然、三脚は必要不可欠となり、でもライトアップが始まってからのんびり行っていたのでは三脚を立てる場所など確保できるはずもなく、やはりその日は会社を休んででも三脚の場所取りが必要なのだった。
 こんなに立派なのにまだ30年そこそこというから驚く。3本の木が合体して、こんなふうに見かけ上大きくなったそうだ。高さ13メートルで、幅は17メートル。しだれ桜はソメイヨシノと違って長生きで、数百年は平気で生きるから、まだまだこれからが楽しみだ。あと50年、自分もじじいになるまで生きてまた見に行ったらどれほど大きく成長してるだろう。そんなことを楽しみにしながら、22世紀まで生き延びたいと思っている。



六義園の千里馬

 ライトアップが始まると、庭園内は行ける場所が制限されて、出口まで一方通行のコースが設定される。暗くなってから庭園のあちこちに勝手に行かれたら困るというのもあるだろうし、混雑時の対策でもあるのだろう。
 写真は千里場と名づけられた馬場だ。けっこう幅があって長い。柳沢吉保はここで馬に乗って疾走したりもしたのだろうか。
 ここも両脇から道をライトが照らして、ちょっといい雰囲気だった。
 結局、3時間くらいいただろうか。庭園も、しだれ桜も、夜桜も堪能して、満足したところで帰ることにした。考えたらこれで300円は安い。
 次は紅葉の季節だ。庭園として楽しむなら、桜よりも紅葉の方がいい。ライトアップもあるから、タイミングが合えばまた訪れることにしよう。いつか、満開のしだれ夜桜も見てみたい。

 綱吉が亡くなると吉保は六義園に隠居して、ここで生涯を閉じた。57歳。長子吉里に家督を譲って5年後のことだった。人生50年の時代ではまずまず寿命を全うしたと言っていいだろうか。
 終わってみれば、立身出世も、生類憐れみの令も、赤穂浪士事件も、六義園の庭づくりも、過ぎ去った幻のようなものだ。名前と丹誠込めて作った庭だけでも残ってよしとしよう。
 300年先の未来から、吉保さん、ありがとう、という私たちの声は届いているだろうか。


桜が咲かないから菜の花で春を感じることにしよう

花/植物(Flower/plant)
菜の花庄内緑地

OLYMPUS E-1+Super Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/800s(絞り優先)



 名古屋の桜は待っていてもなかなか咲いてこないから、今日は菜の花の話をしよう。菜の花というと、3月、4月のイメージが強いのだけど、花の時期は長く、地方によってもけっこうバラツキがあるから、人によって感覚はたぶん違うのだろう。日本最大の栽培面積である青森県の横浜町は5月にピークを迎えて、毎年日本各地から見物客が訪れるそうだ。かと思うと、愛知県の渥美半島や千葉県の房総半島などでは1月からもう咲いている。私がこの写真を撮ったのは2月の庄内緑地だった。菜の花は、もはや季節を知らせる花ではなくなっているのかもしれない。
 一般的に菜の花という名称はこのグループの総称で、菜の花という名前の花は存在しない。野菜として食べるものをナバナ(菜花)といい、切り花をハナナ(花菜)といって区別する。
 種類を大きく分けると、在来種のナタネ(菜種)/アブラナと、セイヨウアブラナ(洋種ナタネ)に分けられる。菜の花界はけっこうややこしいことになっている。
 アブラナは世界中に3,000種類もあるという。学名のCruciferaeは4枚の花弁が十字形に並んでいるところから付けられたもので、日本では野菜の花に多い。小松菜、大根、白菜、キャベツ、カラシナ、カブ、ブロッコリー、カリフラワーなどが仲間だ。ときどき、これ菜の花っぽいけどなんか違うなってのを見かけることがあるけど、それはこういうカラクリがあったのだ。それはきっと菜の花だけど菜の花じゃない。

菜の花畑

 花が咲いた後には1ミリほどの無数の種ができる。これを絞ったものが菜種油(なたねあぶら)と呼ばれるものだ。昔はこれで行灯(あんどん)などの明かりをとっていた。美濃の斎藤道三が油売りから戦国大名に成り上がったというエピソードは有名だけど、道三は菜の花から油を絞りまくって儲けたのだった。菜の花といえども侮れない。さすがマムシだ、とわけもなく感心してしまうのだった。
 現在はセイヨウアブラナから菜種油をとっている。これは明治初期に日本に入ってきて、こちらの方がたくさん油がとれるということで在来種のナタネに取って代わった。セイヨウアブラナというのは、アブラナとキャベツなどを掛け合わせて品種改良されたものを指す。
 原種アブラナの原産地は、北ヨーロッパの地中海沿岸だと言われている。紀元前には中国に伝わっていて、日本にも奈良時代には入っていたと予測されている。『古事記』や『万葉集』にも登場している。
 最初は食べ物として利用されていたらしく、種から油をしぼるようになったのは平安時代以降だそうだ。その後、少しずつ定着していき、江戸時代に行灯が一般に普及して菜種油の需要は頂点を迎える。当時は日本各地で広く栽培されていたようで、場所によっては見渡す限り黄色い絨毯になっていたところもあったとか。江戸時代の俳人与謝蕪村は、有名な「菜の花や 月は東に 日は西に」他にいくつも菜の花の句を詠んでいる。
 現在では、広大な名の花畑というのはほとんど見かけなくなった。生産高最高は千葉県の房総半島で、香川、徳島、愛知、三重が続く。本格的に栽培している地域は限られているようなので、県によっては名の花畑なんてさっぱり見かけないという人もいるのかもしれない。今の時代、半端な量の菜種油では採算が取れないだろう。

菜の花のおひたし

 毎年、一回か二回は菜の花のおひたしを食べる。季節ものということで、食べないと気になる。食べればもう、その存在は忘れることができる。そこそこ美味しいけど、好んで食べるほどのものでもない。
 食べ方は特に工夫もなく、さっと茹でて、かつお節を振りかけて辛子しょう油で食べる。マヨネーズでもいいらしいけど、そういう食べ方はしたことがない。菜の花の漬け物は漬け物自体食べない私には無関係だし、わざわざ天ぷらにするのも面倒だ。年に一回のことだから、普通の食べ方でいいやと毎年思ってしまう。菜の花に対してもうひとつ情熱的になれない私であった。
 栄養素としては、カロチン、ビタミンC、B、鉄、リン、カルシウムなどが豊富に含まれていて体にいい。動脈硬化を予防する効果もあるそうだ。考えてみると、ドラッグストアでわざわざ高いサプリメントを買うよりも普通の食事で摂取しておいた方がずっと安上がりなのだ。サプリメント業界に踊らされっぱなしの私は、ここらで大いに反省すべきだろう。河原で野草摘みでもして一から出直すか。そういえば、そろそろツクシの季節だ。タダメシを獲得するチャンス到来。印刷屋の酒井に負けるな。

 ♪菜の花畑に入日薄れ 見渡す山の端 霞ふかし♪
 今でもこんな唱歌は歌われているんだろうか。もう、こういう歌は作られなくなった。大量生産されて、聴き捨てにされる曲ばかりで。だから、昔の歌を歌い継いでいくしかない。子供の頃に聴く歌はこういう歌の方がいい。大人になってもずっと記憶に残る。けれど、もはや歌に出てくるような情景は日本にはないから、今の子供たちの心には届かないのかもしれない。うさぎ追いしかの山も、小鮒釣りしかの川も、近所にはない。失ったものは大きい。
 この菜の花の写真を撮ったのは2月12日で、狙ったわけではないのに、ちょうど司馬遼太郎の命日「菜の花忌」に当たる日だった。司馬遼太郎は野に咲く黄色い花が大好きだったということで、そう名づけられた。作品にも『菜の花の沖』というのがある。
 日本らしいものを大切にする心を、これからも忘れずに持ち続けていこうとあらためて思った。

ジョージのカシラは誰をも受け入れる不思議異空間公園だった

東京(Tokyo)
井の頭の人々

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f6.3, 1/250s(絞り優先)



 オレンジ電車に乗ってジョージのカシラへ行こうぜ。東京人がそんなふうに言うかどうかは知らないけれど(たぶん言わない)、私たちは中央線に乗って吉祥寺の井の頭公園へ向かった。木曜日の昼下がり。何があるのかないのか、井の頭公園方面へ向かう人の波はうねるように続き、エスニック通りは不思議な高揚感に満ちている。若者向けの洋服屋に雑貨屋に食べ物屋。和風からエスニックまで、雑然と店が並ぶ。やけに活気がある。なんだろうこの感覚、と考えて思い出した、そうだ、コンサート会場へ向かう感じに近いんだ。
 そこはまさにジョージだった。何がジョージかはよく分からないけど、確かにここはジョージだなと納得させる変な説得力があった。ジョニーでもないし、ジェーンでもない。
 それにしてもすごい人の数だ。なんだこの人波は。平日のお昼時とは思えない混雑ぶり。桜にはまだまだ早いから、桜見物でもない。学生が春休みに入ったとはいえ、年齢層は必ずしも若くない。定年退職後の夫婦ばかりという感じでもなく、普通に子連れ家族がたくさんいたりして不思議な感覚に陥るところだ。公園内は完全に週末特有の空気感が支配している。これもまた東京ということだろう。平日でこれなら、桜シーズンの週末はどうなってしまうのだろう。
 三鷹の自宅から近いこの公園に太宰治もよく訪れたという。『犯人』の中では、「晩秋の或る日曜日、ふたりは東京郊外の井の頭公園であいびきをした。午前十時。時刻も悪ければ、場所も悪かった。けれども二人には、金が無かった。いばらの奥深く掻きわけて行っても、すぐ傍を分別顔の、子供づれの家族がとおる。ふたり切りになれない。」と書いている。
 桜のない井の頭公園で何をすればいいか? とりあえず池の周りを歩くことだ。疲れたらベンチで休めばいい。人間観察も兼ねて、まずは歩いてみよう。

井の頭池の桜とボート

 私たちが訪れた3月22日はまだ全然桜が咲いていなかった。あれから一週間近く経った今、そろそろ花は増えているだろうか。ここは桜の枝が水面近くにたれ下がっているから、満開になると池を囲むように咲いてとてもきれいだ。その様子は写真やテレビでよく見かける。見頃は今週末くらいだろう。
 井の頭池といえばボート。大きな池にボートは付きものだけど、井の頭のボートはカップルで乗ると別れるという言い伝えによって有名になってしまっている。名古屋では東山動物園に同じ噂がある。ここの場合は、池の端にある弁天さんが焼きもちを焼いて別れさせるのだという理由付きなのでちょっともっともらしい。弁天様にお参りをすれば大丈夫という話もある。
 けど、そんな伝説を知ってか知らずか、たくさんのカップルが平気でボートを漕いでいた。自信の表れか、無謀な挑戦か。いずれにしても別れるときは別れるし、別れないときは別れないものだ。じゃあ、おまえ乗ってみろよと言われたら私は断る。私はチャレンジャーではない。
 ボートは3種類あって、スタイルによって値段が違う。すべて600円で、手漕ぎは60分、足漕ぎは30分で、ハクチョウ型は高級なのか20分となっている。通常の足漕ぎとスワンの違いは何なんだろう。スワンの方が制作コストがかかっている分上乗せということなのか。
 ボートを漕ぐ人たちを見ていると楽しい。明らかに初心者で、その場でくるくる回っている人がいたり、何故か後ろではなく前へ進んでいる人もいる。初めてボートに乗ったと思われる小学生の男子二人組は、悪戦苦闘の末前進みを会得していた。オレ流ボート。そのまま大きくなって、初めてのデートでボートに乗って、ねえ、なんか私たちだけ進んでる方向が違うよ、と女の子に指摘されないといいけど。

 井の頭池はわき水でできた池だと知っているだろうか。そのためにここは大昔から人が住んでいた場所だった。縄文時代の竪穴式住居跡も見つかっている。
 江戸に幕府が開かれてからは、市中に引かれた初めての上水の水源となった。ここから水は神田川へと流れている。
 かつては一日に35,000トンもわき出していたそうだ。その後この地区の開発が進んで複流水が涸れてしまったことでわき出す量が減り、今では池の水の量が減らないように井戸からポンプで3,500トンの水を吸い取って補給している。その井戸が涸れたら、井の頭池は小池になってしまう。対策のひとつとして、雨水をためて池に戻すというのを三鷹市がやっている。しかし、これでは池の水も汚くなってしまうはずだ。江戸時代はこの水を生活水に使っていたというのに、今は見るからに無理そうな色をしている。
 井の頭池は、弁財天もあったことで江戸時代から行楽地として賑わっていたそうだ。本格的に公園として整備されたのは大正2年(1917年)で、日本で最初の郊外型公園とされている。江戸時代は将軍家が鷹狩りなどに使っていた場所で、明治元年に皇室の御料地となり、その後東京市へ譲られることになったということで、正式名が井の頭恩賜公園(いのかしらおんしこうえん)となっている。
 井の頭の名前は、三代将軍家光が鷹狩りにやって来たときここはなんという名だと訊ねて「なない」でございますとお付きが答えたところ、名が無いのならワシがつけてしんぜようと勝手なことを言い出して、それじゃあ水のわき出すところで井戸の頭、井の頭にせい、ははぁ、ということでそれ以来井の頭になったと言われている。しかし、なないは名無いではなく「七井」で、ちゃんともともと名前はあったのだった。将軍様、この名前がけっこう気に入って、池の木に小刀で「井の頭」と刻んで喜んだというから、これでよかったのだ。そうそう、ここは井の頭だ。間違いない。
 七井の名前は、池の中央にかかっている七井橋に残っている。
 御殿山というのも、家光が鷹狩りに来たときに休むために御殿を建てたところからきている。
 戦前まではまだまだ鬱蒼とした森のようなところだったようで、1万5,000本もの杉に囲まれていたそうだ。ただそれも戦中にはほとんどが伐採されて、戦後は丸裸のような寒々しい姿になっていたという。杉は空襲で亡くなった人たちの棺桶に使われた。
 戦後、様々な木を植えて、今では木だけで1万本以上にまで復活した。桜も戦後からで、花見客で賑わうようになったのは昭和30年以降だそうだ。太宰さんが三鷹にいた頃は、桜の名所じゃなかったんだ。

井の頭の野鳥たち

 ここにも野鳥はたくさんいた。上野の不忍池ほどではないけれど、顔ぶれは東京特有のもので、その点では不忍池と似ている。名古屋には少ないキンクロハジロが多く、オナガは普通にいて、ハシビロガモもそこそこいた。あとはホシハジロやカルガモ、バンにカイツブリといったところだろうか。
 ちょっと驚いたのはオシドリがいたことだ。なんでこんなところに野生のオシドリがと思ったら、「オシドリ千羽計画」とかで、渡らないように餌付けして増やしているところらしい。けれど、エサをやってしまうと渡り鳥は渡らなくなってしまうことがある。実際、オシドリだけでなく渡るはずのカモも渡らずに留鳥になっているやつもいるとか。必ずしも悪いことではないかもしれないけど、自然な姿ではない。東京の鳥は必要以上に人に慣れすぎているようにも思う。
 しっかり動物を見たければ、有料(400円)の井の頭自然文化園がいい。今回は時間がなくて入れなかったのだけど、いつか入ってみたい。小動物園や日本庭園、彫刻館などがあって、けっこう楽しめるそうだ。
 少し歩いたところには、「三鷹の森ジブリ美術館」もある。体力があればそちらまで見て回れば一日たっぷり楽しめる。

思い出ベンチでランチ

 少し歩き疲れておなかもすいたから、思い出ベンチでランチにしよう。思い出ベンチといっても私の思い出ではない。そもそも初めてここを訪れたので思い出などまだない。何年か前に東京都が思い出の場所に自分のベンチを設置しようキャンペーンを展開して、一般公募で選ばれた人が寄付したベンチが思いでベンチというわけだ。プレートに名前や短いメッセージが刻まれている。値段は20万円と15万円。けっこういい金額設定だ。安くないけど、ほぼ一生残ることを考えると自分の思い出がある場所に自分が送ったベンチがあるというのは嬉しいことだ。そこへ行って自分でそのベンチに坐るという楽しみもある。
 井の頭の他、日比谷公園、代々木公園、神代植物公園、小山田緑地、染井霊園、雑司ヶ谷霊園、多磨霊園、恩賜上野動物園などにも同様のベンチがあるようだ。今はどうやら募集はしてないらしい。

井の頭弁財天

 ここの弁財天は、関東源氏の祖である源経基が、789年に伝教大師作の弁財天女像を安置するために堂を建てたのが始まりとされている。その後、源頼朝が東国平定を祈願して改築した。鎌倉末期の元弘の乱で新田義貞と北条泰家との合戦で焼失。数百年の間放置されていたものを、三代将軍家光が再建した。現在の社殿は、関東大震災(大正12年)で破損後に消失して、昭和3年に建て直されたものだ。
 御利益は、金運向上、縁結び、安西、交通安全、芸能、音楽の技術向上などとされた。石灯篭などがたくさん奉納されている。
 安藤広重は、「井の頭の池弁財天の社雪の景」や「井の頭乃池弁天の社」などを描いている。

 縄文時代から現代まで、この場所は人を惹きつけてやまない力がずっと続いているようだ。初めての訪問でそれが充分に感じられた。小さな子供を連れた家族連れ、幼稚園生の群れ、若いカップル、老夫婦、絵を描く人、ギター青年、カメラおやじ、異人さん、観光客、桜も咲いてないのにブルーシートの上で花見をする集団。この場所は誰をも受け入れる包容力がある。誰も浮かずにそれなりに馴染んでしまい、訪れた人間に不思議な一体感を与える。この感じは観光客だらけの上野不忍池とはまったく異質なものだ。東京に住む半地元の人が多いからというのもあるかもしれない。たぶん、この公園は、東京のどの場所にも似ていないと思う。
 夕方、清楚な雰囲気の女子高生が池のベンチに腰掛けて文庫本を読んでいる。少し離れたところではバイオリンおじさんが静かに音楽を奏で、池ではおじいさんが孫を乗せてボートを漕いでいる。文章で書くとなんだか嘘っぽいようにも思えるこんな光景も、井の頭公園ではごく自然なものとして見えてしまう。こんなのが似合うなんて日本じゃないみたいだ。やっぱりここは、ジョージのカシラなのだ。他に誰も言わなくても私はそう呼ぼう。午後からちょっとジョージのカシラへ行こうぜ、と。

遅れて行った太宰治の三鷹に影はなくとも今も胸の内に

東京(Tokyo)
太宰治旧宅跡

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f6.3, 1/125s(絞り優先)



 新宿からJR中央線のオレンジの電車に乗って三鷹で降りる。私にとっての三鷹は太宰治の町であり、太宰治というと同時に三鷹を思い浮かべる。戦争中一時疎開していた時期をはさんで約9年間、太宰治は三鷹で暮らし、三鷹で死んだ。
 前年山梨の甲府で再婚した太宰治は昭和14年、妻とともに三鷹へと移り住んだ。30歳のときだ。
 今でこそ三鷹はそこそこの賑わいと静かな住宅地からなる暮らしやすそうな郊外だが、当時は店もまばらで上下水道もないような田舎だったという。中央線沿線もまだまだ畑や田んぼばかりで舗装路さえなかったそうだ。その分土地や家賃も安く、この時期この場所には多くの作家たちが暮らしていた。太宰治もなんとなくそんな気分に惹かれてこの町を選んだのかもしれない。
 太宰治が死んでから60年近い歳月が流れた。町並みは大きく様相を変え、もはやあの頃の面影はほとんど残っていない。玉川上水もすっかりおとなしくなり、太宰治の家も、通った店も、歩いた道も、みんな姿を変えた。残っているものといえば、三鷹陸橋と「井心亭(せいしんてい)」の百日紅(さるすべり)くらいのものだろう。あとは碑や跡地のプレートがあるばかり。
 上の写真は太宰宅があった場所で、「井心亭」のちょうど向かいになる。ずっと奥に入ったところに家があった。今はアパートのようになっていて家そのものは残っていない。案内のたぐいもないので、何も知らずに見つけることは難しい。このときはたまたま近くの人が教えてくれたので知ることができた。太宰の死後、人手に渡ってしまったのだと話してくれた。最後に「ご苦労様です」と声をかけられたのがなんとなく照れくさくてこそばゆかった。なんだか自分が巡礼者にでもなったような気がして。
 戦争中、ここにも空襲があったようで、『薄明』の中で「東京の三鷹の住居を爆弾でこわされたので、妻の里の甲府へ、一家は移住した。」と書かれている。

井心亭のサルスベリ

 井心亭の道路沿いの垣根に百日紅の木が植えられている。太宰治宅の庭にあったもので、ここに移植して今もまだ生き続けている木だ。小さいプレートもかかっている。「井心亭」というのは茶室というか寄席などに使われる日本家屋で、ここ自体は太宰治とは関係ない。ただ、やはりこの地に訪れる人はたくさんいて、百日紅の場所を教える窓口のようになっているようだ。
 木と会話ができれば当時のエピソードをたっぷり語ってもらうところだけど、今のところその技術は発明されておらず、私自身そういうたぐいの特殊能力を持ち合わせていないのが残念だ。百日紅からしてみればしゃべりたいことがたくさんあるのかもしれないけれど。

 その他ゆかりの地巡りとしては、玉川上水入水地、行きつけだった「美登里鮨」、いつもウイスキーを買っていた「伊勢元商店」(もうすぐなくなるとか)、仕事場として使っていた料理屋「千草」の跡(プレートのみ)、山崎富栄が借りていた野川宅(現在は「永塚葬儀社」)などがある。
 ただし、平成19年の今、太宰治が暮らした息づかいをこの地で感じるのは難しい。現在の三鷹の町並みに黒マントの太宰治は似合わない。あの頃も浮いていただろうけど、今は違和感を通り越して滑稽になってしまうだろう。60年の歳月というのは思いのほか長かったらしい。
 それでも休日ともなると、太宰治の面影を求めて太宰ファンがこの町を訪れる。あきらかに住人ではない様がひと目見るとそれと分かるという。マップを片手にキョロキョロしたり、玉川をじっと見つめていたりなんてのは住人ではあり得ない行動だから。感慨に浸っている様子がありありと見て取れるそうだ。三鷹における太宰ファンは、アキバにおけるオタクと同じくらい分かりやすい。
 特に6月19日、太宰治の命日であり誕生日でもあるこの日は、大勢の人間が全国から集まってくる。かつてほど盛況ではないにしても、「桜桃忌」に一度は行ってみたいと思っている太宰好きは多いに違いない。今の時代でも、定年退職後のおじさんから中高年のおばさまグループ、20代、30代、10代の男女までもがお墓参りにやって来るというからたいしたものだ。その日の墓前には、山盛りの桜桃や太宰治が好きだった煙草や酒が置かれるのだった。

禅林寺の桜とお墓

 三鷹駅から太宰治の墓がある禅林寺まではけっこう歩く。ゆっくり歩いて20分近くかかっただろうか。
 ここの桜は他よりも早くて、ちらほらと咲き始めていた。今ごろは2分咲きくらいになってるかもしれない。太宰治の墓は、ここから真っ直ぐ進んだ左手にある。写真でおばさまたちが立っているあたりだ。このときはちょうど太宰巡りの団体おばさまたちとかち合った。森鴎外の墓は斜め向かいあたりにある。
 どうして太宰治の墓がここにあるかといえば、家が近所だったからというだけではなく、作品の中で太宰治がこんなことを書いているからだ。
「この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓がこんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓所は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたなら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。」(『花吹雪』)
 これを本人の希望ととって、奥さんがここにお墓を建てたのだった。もうひとつには、若い頃から実家にさんざん迷惑をかけて故郷青森の墓に入ることを拒否されたという事情もある。

 墓の前に立ち、とうとうこの場所にやって来たかとしばり感慨にふける。『人間失格』を読んだ19のときから今まで、思えば来るまでにずいぶんかかってしまった。太宰さん、遅くなってすみません。でも、やっと来ることができました。ありがとうございます。
 お墓参りをして参った方がお礼を言いたくなるなんてのは、私にとって太宰さんくらいのものだ。そしてそれはなんだか嬉しいことだった。

太宰治墓石

 墓石には本名の津島修治ではなく、ペンネームの太宰治とだけ彫られている。恩師である作家井伏鱒二の字だそうだ。戒名は文綵院大猷治通居士。
 ペンネームの由来についてはあれこれ言われいるけど、本人談の万葉集をめくっていて太宰という字が目に入ってこれでいいやと決めたというのが実際のところらしい。治は修治はどちらもおさめるだから治の一字でいいか、と。後付けでいろいろな理由が言われているだけだろう。一説では、津島修治だと津軽弁で「つすますうじ」となまりがひどくなるので、なまらない名前として太宰治にしたなんてのもある。太宰治はなまりがコンプレックスとして強くあって、一所懸命標準語をしゃべろうとしてうまくいかず、一時は何故か名古屋弁をマスターしようとしたらしい。そういうちょっとトンチンカンでお茶目なところがある。
 太宰治という人は、生まれついてのエンターテナーだった。悪く言えば道化者。自己演出によるイメージ戦略がときに裏目に出て笑えてしまうこともある。自殺未遂が5回で、そのたびに生き残ったというのもある意味では笑えない笑い話だ。やけっぱちな論理を振りかざして強がったかと思うと次の瞬間にはひどく落ち込んで死にたい死にたいと言ってみたり。大学の授業をさんざんサボって、ついに退学が決まったのにあえて試験を受けて「甲斐なき努力の美しさを思う」なんて書きながら、酒を持って教授のところへ行ってどうにか単位をもらえないかと泣きついたりする。
 高校時代はまったく勉強もせず、小説を書きながら親の金を使って芸者遊びばかりしていた。二列に7つずつもボタンのついた異様に長い外套を着て町を歩き回ったり、地元の新聞に載ったこともあった。
「県議津島文治氏の令弟「カフェーみみづく」の便所に堕つ」
 いくら田舎町のこととはいえ、酔っぱらって便所に落ちたことが新聞沙汰になるとは太宰さんもついてないというか、どうやっても人に注目されてしまう人間だったのだろう。
 自他共に認めるサービス精神のかたまりのような人でもあった。小説を書くのも自分のためというより人を楽しませたいという思いが強かったのだと思う。自分にはその力があるのだから、せめてそれで人の役に立たなければという使命感だったかもしれない。よく引用していたヴェルレーヌの「撰ばれてあることの 恍惚と不安と二つ われにあり」というのもその表れだ。
『正義と微笑』の中でも書いている。
「誰か僕の墓碑に、次のような一句をきざんでくれる人はないか。「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった!」僕の、生れた時からの宿命である。 …全く、それ一つのためであった」
 人は信じないかもしれないけど、私の中では太宰治と明石家さんまが重なる部分がかなりあるのだ。

玉川上水

 橋の上から玉川上水の流れを見下ろす。サラサラと流れるこの水量ではとても人は死ねそうにない。深さも膝上か腰まであるかどうか。かつて人喰い川と呼ばれたときの姿はもうここにはない。当時は実際、自殺スポットで、年間20人から30人くらいがこの川で命を落としていたのだという。その遺体のほとんどが上がらなかったというから、想像すれば今でも川底には……いや、想像するのはやめておこう。

 1948年(昭和23年)6月13日夜半、愛人山崎富栄とともに青酸カリを飲んで入水。
 山崎富栄の家に残された遺書を発見した太宰夫人は、6月14日三鷹署に捜索願を出す。ふたりの写真を並べた前には線香が供えられ、好きだった伊藤左千夫の歌「池水は 濁りに濁り藤なみの 影もうつらず 雨ふりしきる」と書いた色紙が立てかけられていた。
 同日、東京都水道局久我山水衛場で、男物の桐コマ下駄と女物の赤緑緒の下駄が片方ずつ発見される。15日朝、玉川上水土手で、山崎のものと見られる化粧袋が見つかる。中には小さい鋏と青酸カリの入っていた小瓶などが入っており、近くには草を踏みしめて土手を下った跡が残っていた。警察が下流を捜索するも、増水で捜索は困難を極め、夕方6時に打ち切られた。
 6月15日、新聞に初めて太宰治失踪の記事が載る。警察の捜索にもかかわらず遺体は上がらない。
 6月16日、朝日新聞朝刊に太宰治情死の記事が大きく掲載された。「特異な作風をもつて終戦後メキメキと売出した人気作家太宰治氏は昨報のごとく愛人と家出、所轄三鷹署では行方を探していたが前後の模様から付近の玉川上水に入水情死したものと断定、玉川上水を中心に二人の死体を捜索している」
 夫人は家にこもったきりで、友人の豊島与志雄、林芙美子、伊馬春部などが太宰の家につめかけて応対をしている。一方で亀井勝一郎や豊島与志雄などは人夫と共に太宰捜索を行っている。この日も日没で捜索は終了となった。
 翌日、上水にもかかわらず水を止めてまで探してもなお見つからない。太宰治も永遠に川底に沈んでいることを望んでいるのだろうとあきらめかけた6月19日の朝、入水地点から1キロ半下流の新橋下の川底の棒杭に、抱き合ったまま引っかかっている死体を通行人が発見して三鷹署に届け出た。
 太宰治はワイシャツにズボン姿、山崎富栄はツーピース姿で、ふたりは固く抱き合ったまま赤い紐で結ばれていた。死因は水死であった。

 太宰治の心中事件は世間に衝撃を与え、たくさんの人がそれぞれに受け止め、いろんなことを語った。心中そのものについても殺人説や狂言説などさまざまなことが言われ、当然のように太宰治側の人間に山崎富栄は悪者として散々叩かれた。
 その山崎富栄の遺書にはこう書かれていた。
「私ばかり幸せな死にかたをしてすみません。骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。
 御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。
 せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこまでも歩みとうございますもの。ただ御両親のお悲しみと今後が気掛りです。」
 原因や理由がどうだったのか、心中の真相がどうだったのかを今さら言っても仕方がないし、私自身はあまり言うことはない。結果として自殺という形は、のちのちのことを考えて必要不可欠な自己演出だったと思ったりもする。もし60、70まで生きて寿命で死んでいたら、太宰治の小説や太宰治という人の存在が今ほど深く私たちの胸に届くことはなかった。
 享年39歳。太宰治としての創作期間15年、総作品数141作。本人にとっても、読者である我々にとっても、まずは文句のないところだろう。欲を言えばきりがない。
 私は、『津軽』で完全にノックアウトされてしまった。あれには完全にやられた。あの作品の中には太宰治の最良の部分がある。

 この世に太宰治好きの人間は数知れず。その多くが自分こそが一番の理解者で、太宰治好きに関しては誰にも負けないと自負していることと思う。私も太宰さんに対しては特別な思い入れがあるけど、対抗心みたいなものは持っていない。自分が一番だなんて思ってないし、太宰治論を戦わせたいなどと考えたこともない。ただ、まったく文学にも小説にも興味がなかった私に、素晴らしい世界があることを教えてくれた太宰治という人にとても感謝してる。それだけは確かに言える。恩人と言ってもいい。だから、夏目の金ちゃんだったり、芥川の龍ちゃんのように太宰の治ちゃんとは言えない。やっぱり太宰さんという呼びかけがしっくりくる。
 太宰治を卒業したわけではないけれど、20代の前半に全集で全作品を読み終えて、もうこれでいいと思った気持ちは今も変わっていない。たぶん、この先もまとめて読むことはないんじゃないかと思う。短編や随筆をパラパラ拾い読みすることはあったとしても。たぶん、自分が年を取ってから読み直せばまた新たな発見や感動があるのだろうけど、それよりも私としては20代の自分と太宰治の関係性を大切したいという思いの方が強い。
 今回、太宰さんゆかりの三鷹へ初めて行くことができて、更に満足感というか完結感を得た。そして、やっぱり太宰さんを思うとき、私の中で感謝の気持ちがいっぱいに広がる。だから私は言いたい、生まれてくれてありがとう、と。

人間的なあまりにも人間的な芥川龍ちゃんを思い出すと泣けてくる

東京(Tokyo)
染井霊園入口

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8, 1/400s(絞り優先)



 巣鴨駅で降りた私たちは、おばあちゃんたちでにぎわうとげ抜き地蔵に少し寄ったあと、染井霊園を目指した。夏目先生に会ったなら、次は芥川の龍ちゃんに会いに行かねばなるまい。
 染井霊園もまた、雑司ヶ谷霊園などとともに明治の初期に作られた都営の公共墓地だ。江戸時代は染井村と呼ばれ、建部家と藤堂家の下屋敷があった場所で、植木屋がたくさん集まっていた。そして、この地で生み出された桜が染井吉野(ソメイヨシノ)となった。霊園内の桜はまだつぼみだったけれど、3月の終わりから4月にかけてたくさんの花を咲かせるそうだ。立派な桜の古木が100本ほど並んでいた。墓地には桜並木がよく似合う。
 霊園には高村光太郎・智恵子、二葉亭四迷、岡倉天心などの墓がある。
 芥川龍之介の墓はここではない。隣接するように建つ慈眼寺にある。とげ抜き地蔵方面からなら霊園にぶつかったところを左に折れて道沿いに進んだ左側で、管理事務所の方から入ったなら中央の舗装路を真っ直ぐ進んだ突き当たり正面になる。

慈眼寺入口

 これが慈眼寺の入口だ。何時に閉まるのかは分からなかったけど、門があるから夜は閉まるのだと思う。あまり夜に訪れたい場所ではないから、そんな心配はいらないか。
 そろそろ日没時間が迫ってきて、染井霊園の散策はやめて芥川の龍ちゃんに会いに行くことにする。ちょっとお邪魔します。

慈眼寺手前

 慈眼寺はもともと深川六間堀(今の新大橋)にあった日蓮宗のお寺で、創建は1615年だそうだ。1693年に猿江に移り、1912年に現在の巣鴨に再移転してきた。深川の水害から逃れるためというのが移転の理由らしい。芥川の家がここの檀家だった関係で龍之介の墓もここに建てられることになった。
 芥川の墓はこの門をくぐらず、左手にある墓地の中にある。少し探してしまったけど、白い案内の棒が建っているのでそれを見つければすぐに分かる。入口にも説明板があるところをみると、やはり墓参りに訪れる人が多いのだろう。斜め向かいには谷崎潤一郎の墓(分骨)もある。

芥川龍之介墓石

 右側が芥川家の墓で、こちらは息子の比呂志たちのものだ。龍之介の墓石は左側で、ちょっと変わった格好をしている。これは龍之介が愛用していた座布団と同じ寸法で作られていて、生前に自らデザインしたものだと言われている。ひょろひょろだった自分の体に似合わず、墓石はどっしりしたものがいいと思ったらしい。石には友人の画家小穴隆一の字で「芥川龍之介墓」と彫られている。これも龍之介が遺言で指定したものだ。頂きには芥川家の家紋である桐が浮き彫りされている。
 近づいて墓石にそっと触れてみる。特に何も感じない。そんなものだろう。芥川龍之介の魂はこんなところでうろついたりはしていない。お彼岸なんてのも彼には関係なさそうだ。

 1892年(明治25年)、芥川龍之介は父・新原敏三、母・フクの長男として東京市京橋区入船町で生まれた(上に姉二人で、長女は龍之介7歳のときに亡くなる)。このとき父は43歳、母は33歳。両親ともに大厄の年ということで古くからの風習に従って形式的に捨て子とされ、父親の友人だった松村浅次郎が拾い親となる。辰年辰月辰日辰の刻に生まれたということで龍之介と名づけられた。
 生後8ヶ月のとき、母フクが突然発狂。龍之介は母の実家である芥川家に預けられることになり、以降は母の兄である芥川道章と母の姉フキに育てられた。母親の発狂はのちの龍之介に少なからぬ影響を与えたというのが一般的な説となっている。母親に普通に育てられていたら龍之介の性格は違ったものになっていただろうか。そうだったら小説家になっていなかったかもしれない。
 芥川家は両国にあったので、10代の頃はそこで過ごすことになった。第一高等学校(現在東大農学部のある本郷)、帝国大学(現東大)と進んだ。勉強のできる秀才だった。
 一時内藤新宿に住んだあと、大正2年から自殺する昭和2年までの14年間はずっと田端に住んでいた。なので、芥川の足跡を辿るなら田端が最も色濃い。
 一高で同級生だった久米正雄や菊池寛たちと帝大で同人誌『新思潮』を創刊して小説を書き始める。まだ学生だった大正5年に発表した『鼻』が夏目漱石に絶賛されて文壇デビューを果たす。順風満帆な人生に思われた。
 ひとつ大きな失恋をしたあと、1919年(大正8年)、26歳のときに友人山本喜誉司の姉の娘、塚本文(ふみ)と結婚。のちに三人の男の子が生まれている(比呂志、多加志、也寸志)。
 作品も順調に発表され、漱石の強い推しもあり、作家としての地位を固めていく。
 1921年、大阪毎日新聞海外視察員として中国を訪れたあとあたりから次第に心身ともに衰え始める。1923年には湯治のために湯河原で過ごす。作品の傾向も芸術的なものから私小説的なものへ徐々に変化していった。
 1926年、胃潰瘍、神経衰弱、不眠症などが悪化して、再び湯河原で療養することになる。翌年、義兄の西川豊が放火の嫌疑をかけられて自殺。これによって龍之介が借金を背負うことになり、面倒を見なければならない家族が増え、ますます精神的に追いつめられていくことになる。

 1927年7月24日未明。外は雨が降っている。『続西方の人』を書き上げたあと、睡眠薬のベロナールとジェノアルを大量に飲んで眠りにつく。枕元には開いたままの「旧新約聖書」が置かれていた。
 翌朝、異変に気づいた文夫人は慌てて医者を呼ぶが、龍之介が帰ってくることはなかった。回想録の中でこう書いている。
「私は主人の安らぎさえある顔(私には本当にそう思えました)を見て『お父さん、よかったですね』という言葉が出て来ました」。
 芥川龍之介、35歳の夏の出来事だ。
 自殺する理由を友人への手紙の中で「将来に対する、唯ぼんやりした不安」と説明している。
 前日、育て親のフキに芥川は「これを明日の朝に下島先生に渡してください」と言って一枚の短冊を託していた。
「自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れ残る」
 これが辞世の句とされる。
 何故夏の暑いときに冬の季語である「水洟(みずばな)」を持ってきたのだろう。実際のところは、これを辞世の句にするつもりはなくて、前に作った句をこのときたまたま思い出して書き記しておいただけだという説もある。真相は分からない。ただ、偶然にしろこれが最後の句となってしまったからには、やはり何らかの解釈をしておかないと釈然としないものが残る。
 いろいろなことが言われているけど、「鼻」と「自嘲」というキーワードからして、私個人としてはそこにわずかに残った未練というものを見た気がした。生きることに疲れて、もうここで終わりでいいと思い定めたものの、鼻の先、つまり夏目先生に誉められた小説や小説家としての自分に少しの後悔や思いが残るという意味ではないだろうか、と。先生の期待に応えきれなかったことの自責の念と自嘲もあったかもしれない。私にはそんなふうに思える。
 芥川龍之介の自殺は文学界だけでなく、世間にも大きな衝撃を与えた。その中のひとりに太宰治がいる。太宰が高校一年のときに受けたショックがのちに太宰を小説家へと向かわせたという一面もあった。太宰は高校時代のノートのあちこちに、この芥川の辞世の句を何度も落書きしている。

 芥川龍之介は、青白くやせた秀才で、皮肉屋で、病弱で、神経質で、冷淡で、非人間的な男だったのか? 世間一般のイメージはそうなのかもしれないけど、実際は全然違っていた。本人は認めたくなくても、根はとても人間的な人間だった。
 やせてはいたけど、案外健康で、元気なときは仕事などで日本全国を回っている。書斎にこもりきりではなかった。講演などで北海道から九州まで、ほぼ全国を巡っているし、名古屋にも来ている。旅先では家族に絵はがきを送り、神社仏閣巡りをしたり、ちょっとした観光旅行などもしている。海では泳ぎ、山登りもたくさんした。
 いろいろと怖いものや苦手なものが多い人で、特に犬を異常に怖がった。散歩の犬が前から歩いてくるとできるだけ離れてやり過ごし、夜に犬の遠吠えが聞こえるとひどくうろたえる。周りで見ているとおかしくて笑えたというから相当なおびえようだったようだ。自分では前世で犬殺しでもしたんだろうかと真面目な顔で語っていたそうだ。
 枝が揺れる様子が怖いといい、嫌な夢を見たといって顔をゆがめ、友人で兄弟弟子の内田百間がいつもかぶっている山高帽を怖がり、頼むからそれを捨ててくれなどと言っていた。
 どこへ行くにも左手に本を持っていた。何かのポーズが嫌味かと思うとそうではなく、文字通り本が手放せない性格だったのだ。あるとき記者が一日に何ページくらいお読みになるのですかと訊ねると、だいたい200ページくらいと答えている。英文ならね、と。日本語なら倍くらいだそうだ。相当読むスピードが早かったようだ。
 スポーツは大の苦手で、まったく興味もなくてしたことがなかった。ただ一度、菊池寛の家でピンポン大会が開かれたとき、どうしても川端康成と卓球対決をしなければならなくなったことがあった。川端康成も芥川に負けず劣らず運動音痴で、ふたりのピンポンは見るも無惨な有様だったらしい。若い川端康成がギョロ目をむいて必死に球を打ち返し、それに対してイヤイヤ格好だけしてる芥川という図は、それはもう見物だっただろう。
 夏目漱石の葬式では、式が終わって会葬者がぞくぞくと帰っていく中、龍之介は突っ立ったまま、片手でハンカチを目に当ててすすり泣いていた。横では友達の久米正雄が、いつまでも泣きやまない芥川に付き添ってしきりに慰めていた。

 昭和2年7月27日、午前11時。田端の自宅で近親者、知人による告別式。午後3時から一般の告別式が谷中斎場で行われた。集まった千人あまりの人々に声はなく、表通りには二千人の人々が押し寄せ、交通巡査が整備に駆り出された。
 弔辞は先輩として泉鏡花が、友人として菊池寛が、後輩として小島政二郎、文芸協会を代表して里見がそれぞれ朗読した。読み上げる前から泣き出した菊池寛。
「君が自ら選び自ら決した死について我等何をかいわんや、ただ我等は君が死面に平和なる微光の漂えるを見て甚だ安心したり、友よ、安らかに眠れ! 君の夫人賢なればよく遺児をやしなうに堪えべく、我等また微力を致して君が眠りのいやが上に安らかならんことに努むべし、ただ悲しきは君去りて我等が身辺とみに蕭条たるを如何せん。」
 午後4寺5分、遺体を乗せた霊柩車は染井の火葬場に向かった。文未亡人と幼い三人の息子がそれに続く。骨は慈眼寺に葬られ、本人の希望により戒名はなく、墓碑にも「芥川龍之介之墓」とだけ記された(寺の過去帳にのみ「懿文院龍介日崇居士」とされる)。

 芥川龍之介の写真を見ると、とても懐かしい気持ちになる。昔の友達の古い写真を見るように。そして、気軽な調子で声をかけたくなる。やあ、久しぶり、龍ちゃん。元気だった? と。
 あれからけっこう時間が経ったけど、そっちでは何をしてますか? こちらは相変わらずで困ってしまいます。
 みんなきみのことが好きだったのにね。もったいないことをして。きみは人に好かれるなんてことをちっとも望んでなかったかもしれないけど、それでもみんなに好かれていたということだけは忘れないでね。
 それじゃ、元気で。また会おう。

雑司ヶ谷霊園に眠る夏目漱石に会いにいったお彼岸

東京(Tokyo)
泉鏡花の墓




 南池袋の住宅地の中に東京都立雑司ヶ谷霊園はある。都電荒川線の都電雑司ヶ谷駅から歩いて5分ほどの距離だ。
 10ヘクタールの広い霊園は、欅(ケヤキ)の古木に囲まれ、東京の都心近くとは思えないほどひっそりとしている。静かという形容詞が良くも悪くも使えるこの場所は、夜になって耳をすませば9,000人のささやき声が聞こえてくるのかもしれない。
 江戸時代、この地は将軍が鷹狩りをするための居留地や屋敷があった場所で、明治になってから新政府が自葬を禁止するとともに(明治5年)、ここを墓所のない市民のために共同墓地と定めた(明治7年)。明治9年には東京会議所から東京府が管理を引き継ぎ、明治22年に東京市の管轄となったあと、昭和10年に雑司ヶ谷霊園に名称が変更されて今に至っている。現在は空き地の募集はしてないそうなので、入りたくても入れない。
 ここには数多くの著名人の墓がある。泉鏡花、小泉八雲、竹久夢二、永井荷風、金田一京助、島村抱月、ジョン万次郎、サトウハチロー、大川橋蔵、小栗上野介、東條英機などなど。おかげでここはちょっとした散策地となっている。有名人お墓マップのようなものも売られているし、管理事務所では100円で霊園内の案内図を売ってくれるそうだ。私たちは、その前に寄った宣教師館で親切な管理人さんに霊園マップのコピーをもらうことができたのでそれを片手に散策をした。
 見てみたいお墓を探しながらうろつき、こっちでもないあっちでもない、ああここにあったと喜びながら思う、お墓巡り巡礼って趣味になるかも、と。楽しいなどというと罰当たりだけど、これがけっこう面白いのだ。
 写真の墓は、泉鏡花こと泉鏡太郎のものだ。妖しく幻想的な小説を書いた鏡花の戒名は、幽幻院鏡花日彩居士。



漱石墓碑裏側

 雑司ヶ谷霊園を訪ねる多くの人と同じく、私の目的もまた夏目漱石のお墓参りだった。この日はちょうど3月21日のお彼岸で、訪ねるにはいい日だった。
 漱石の墓は大きくて変わった形をしていて墓地の真ん中あたりにあるからすぐ分かるはず、という曖昧な情報を頼りに手ぶらで探そうとすると、見つけるには少し苦労する。私たちはマップを持っているにもかかわらずなかなか見つからず探し回ることになった。その理由のひとつが、四つ角近くにありながら墓石が背中を向いているというのがありそうだ。ネットに出ている正面からの写真を頭に入れていても、裏側から見るとかなり印象が違っている。
 夏目漱石の弟子だった芥川龍之介も、大正14年に発表した「年末の一日」という随筆の中で、迷って自力で辿り着けなかったと書いている。
 命日の12月9日に友人の新聞記者が墓参りに行きたいというので芥川龍之介は案内することになる。護国寺行きの市電に乗って(今はない)、終点で電車を降りて雑司ヶ谷の墓地へと歩いていったふたり。何度か来ているからすぐに見つかるだろうという思いとは裏腹になかなか見つからず、道を何度も行ったり来たり。
「もう一つ先の道じゃありませんか?」
「そうだったかも知れませんね。」
 だんだんイライラしてきて、とうとう墓地の掃除をしていた女の人に訊ねて墓地の場所を教えてもらうことになった。芥川龍之介にしてみれば、先生のお墓の位置も分からないとはという格好の悪さが自分で許せない気持ちだっただろう。
「もう何年になりますかね」
「ちょうど9年になるわけです。」
 芥川龍之介が自殺したのはこの2年後のことだ。自殺する数日前、ひとりでもう一度最後にこのお墓を訪れたという。
 夏目漱石自身も、作品『こころ』の中で雑司ヶ谷墓地を登場させている。私(漱石)が先生と呼んで敬愛する人が毎月決まった日に友人の墓参りにここを訪ね、私もそれに付いていこうとするのだけど、先生はそれを拒み、理由を明かさない。ネタばらしはよくないので、続きは小説で。
 今では漱石の弟子たちに続き、小説を読んだ多くの人々が墓参りに訪れる。間違いなくこの墓が雑司ヶ谷霊園の中では一番人気だ。短時間の間にも3組のグループが墓の前で手を合わせているのを見かけた。
 この墓石は、漱石の死後、一周忌のときに造られたもので、当時からあまり評判はよくなかったらしい。建築士の妹婿が設計したもので、安楽椅子に腰掛けたような形をイメージしてデザインされたそうだ。天下の文豪とはいえ、漱石の墓石はもっと素朴であってもよかったかもしれない。



漱石墓石正面

 漱石が生まれたのは、現在の新宿区喜久井町だ。本名は夏目金之助。生まれてすぐ養子に出されたり、別に移されたり、戻されたりと、やや複雑な幼少期を送り、20年後に夏目家に復籍した。
 学校もあちこちに移り、紆余曲折を経て帝国大学(のちの東京大学)に入り、イギリスへの留学生となり、向こうで神経衰弱になって本国に連れ戻され、小説を書き、教授となり、新聞社に入って職業作家になったものの、後半生は胃潰瘍などの病気との闘いだった。
 43歳のとき大吐血をして一時危篤となる。その後持ち直し、48歳頃に芥川龍之介が弟子となる。漱石が芥川の書いた「鼻」を絶賛したことから、芥川が漱石の元をしばしば訪ねるようになった。漱石は娘の婿に芥川を考えていたほど小説だけでなく人物としても買っていたという。
 49歳。病気をおして友人の結婚披露宴に出席した翌日から死の床につく。臨終間際、寝巻きの胸をはだけて「ここに水をかけてくれ。死ぬと困るから」と言った。それが最期の言葉になったとも、ありがとうと言ったとも伝えられている。12月9日のことだった。
 死後、遺体は東大医学部の解剖室で解剖が行われた。そのとき取り出された脳と胃は現在でも当該医学部に保存されているという。脳の重量は1,425gで平均よりやや重く、前頭葉が人よりも発達しているとか。
 12月12日。葬儀は青山斎場にて行われ、受付には芥川龍之介らが座り、森鴎外なども弔問に訪れたという。戒名は「文献院古道漱石居士」。
 落合火葬場にて荼毘に付されたあと、12月13日骨拾い。雑司ヶ谷墓地での埋骨式は12月28日だった。
 漱石晩年の弟子で、漱石をとても敬慕していた芥川龍之介の墓は、ここではなく染井霊園近くの慈眼寺にある。そちらの檀家だったという理由によるのだけど、できることなら芥川も先生と同じ墓地に入りたかったんじゃないだろうか。自殺の前、墓の前で何を話したのだろう。それに対して漱石は何と答えたのか。49歳の漱石と35歳の芥川。思えばまだまだ若いふたりだった。

 人間的なあまりにも人間的な芥川龍ちゃんを思い出すと泣けてくる

 漱石は宗教を信じていないのに、晩年は道ということをしきりに考えていた。人生についてであり、死についてであり、それはやはり神についてでもあっただろう。弟子のひとりだった松岡譲に死んだあとどうなると思うかと訊かれて、深くは考えてないけど死んで肉体は滅びるにしても自分の精神までなくなってしまうことは感情的に考えにくいと答えている。
 今は輪廻転生ということがわりと当たり前の概念として存在する世の中になった。それは気分の問題として、今を生きる我々にとってある程度共通の意識なのだと思う。信じるとか信じないとか以前に、そうであっても不思議でないという思いがどこかにあるようだ。
 死んでから90年以上経った今、夏目漱石はまたこちらに戻ってきているかもしれない。相変わらずの神経衰弱なのか、またつまらなそうな顔をして小説を書いているのか、今度はもっと陽気に生きることを楽しんでいるのか。仲間や弟子たちとの再会は果たせただろうか。
 私の夏目漱石に対する心情は、どういうわけか知らないけど、面白くて笑える夏目の金ちゃんなのだ。文豪夏目漱石でもなく、敬愛すべき先生でもなく、漱石を思うとき失礼千万ながらバカだねぇこいつはと寅を叱るおいちゃんのような気持ちになる。金之助は実際、愛すべき駄目人間だった。なんて悪口を言ってると、化けて出てくるかもしれない。

 お墓というのは、本人の骨が墓石の下に確かに埋まっているということを思うと、亡くなった人に最も近づける場所と言っていい。特に過去に生きて会うことが叶わなかった有名人などは、お墓参りが一番接近できる方法だ。たとえ魂はここにとどまっていなくても、直接的なつながりを持てる唯一の方法かもしれない。本を読んだり思いを馳せるだけではつながらない縁が墓地で生まれる。
 墓地は決しておどろおどろしいような、近づきがたいようなところではない。誰かにとっての愛おしい人がいる場所だ。死や死者を恐れることはない。
 墓参りは死者のためにするものではない。生きている自分のためにするものだ。何故なら墓はこちら側の世界にあって、生者のために存在するものだから。墓地へ行き、死んだ人たちのことを思うとき、自分自身もまた死へと近づく。死を思い、この先の生き方を考え直すきっかけにもなる。
 生まれてから死ぬまでに起きるすべてはこの世の出来事。死ぬまでの辛抱であり、死までの夢物語でもある。生という祭りを喜びとするか、幻として儚むかは、本人の気持ち次第だ。
 人は誰も等しく死ぬ。惜しまれつつ、あるいは恨まれつつ、もしくは忘れ去られつつ。死は平等であっても死後は平等ではない。同じ墓地に建てられた墓でも、訪れる人の数には明らかな差がある。大勢の人に参ってもらいたければ、人の心に残る立派な仕事をするしかない。家族や子孫も必要だ。死んで忘れられるということは、せいせいするとかそんな簡単なことじゃない。死によってこの世界とのつながりを失ってしまうということだ。
 夏目漱石の墓には今日もまたぽつりぽつりと人がやって来て、手を合わせ無言の語らいをしていく。献花も絶えることがないという。こんなに愛されている漱石は幸せ者だ。そして、そんな夏目漱石という人を得ることができた私たちもまた幸せなのだった。
 
 雑司ヶ谷霊園webサイト
 

人生いろいろ、猫生もいろいろ、東京で暮らす猫たち

猫(Cat)
護国寺猫

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f5.6, 1/500s(絞り優先)



 東京お彼岸お墓巡りツアーより無事帰宅。
 今日はもう眠たいので、東京で出会った猫の写真を並べておしまいにする。お墓参りの様子はまた明日。
 一枚目は、護国寺にいた野良風飼い猫。もしくは、飼い猫っぽい野良。この他にも3匹ほど隣接する民家で見かけたから、近所の人が世話をしているのだろう。
 猫が境内でのんきにしている神社仏閣は、非常に正しい姿に思える。

三鷹の猫

 三鷹にいた屋根の上の猫。これも半野良、半飼い猫という感じなんだろうか。たぶん首輪はしてなかったと思う。
 陽の当たる屋根の上でお昼寝中だった。私が写真を撮っていると、うっとうしそうな顔で薄目を開けてこちらを見ていた。こいつ早く行かねえかなとでも言いたげな表情で。

雑司ヶ谷の猫

 雑司ヶ谷の店先にいた猫。これは明らかに飼い猫だ。顔つきや毛並みからして野良とは明らかに違うし、大きな鈴と鎖までついていた。鎖でつながれている猫というのも珍しいけど、すぐ隣には犬もいて、この環境に馴染んでいるようだった。本心では野良のようにもっと自由に生きたいと思っているのかもしれないけれど。
 人もそうだけど、猫も本当にいろいろで、それぞれだ。毛並みも、顔も、生活環境も。自分で選べる部分もあるけど、選べないこともある。私が猫なら二番目を選びたい。

東京行きの朝、鳥写真を並べていく

野鳥(Wild bird)
自然動物館の鳥

Canon EOS Kiss Digital N+EF55-200mm(f4.5-5.6 II), f5.0, 1/400s(絞り優先)



 東京行き出発前の朝だというのに、のんきに更新中。でも、ホントは時間がない。だから、写真だけ載せてあとは帰ってきてから。
 こいつは自然動物館の中にいた鳥。南米っぽい。南米か!
 名前を確認するのを忘れてしまった。
 面白かったのは、エサをクチバシの先にくわえて、首をうしろにカクッとして飲み込む動作だ。器用に次から次へと口の中に放り込んでいた。

ベニイロフラミンゴ

 これは確かベニイロフラミンゴだったと思う。紅色が鮮やかだ。
 でもこの色、エサに着色料を混ぜて色を保っているらしい。そのままにしておくと色あせてしまうから。

モモイロペリカン

 モモイロペリカン。こいつは人に良くなれていて、近寄っても逃げないし、むしろ向こうから近づいてくる。
 ペリカンというとくちばしの下に大量の水を含むことができることで有名だ。それは伸縮自在で、普段はこんなふうに縮んでいて外からは分からない。

ルリビタキ

初めて見たルリビタキに焦って手ぶれを起こした。りすの館にいたやつだから、半ば飼われているものなのだろうと思う。それでももっとちゃんと撮りたかった。
 ルリビタキはやっぱりきれいだ。野鳥とは思えないくらい。

オシドリ

 これもリスの館で飼われているオシドリさん。けっこういた。渡らなくても平気なんだろうか。
 このときは気の茂みの方に隠れていてあまり姿を現さなかったのだけど、歩く姿は鳩っぽかった。オシドリというと水に浮いているイメージが強いので、なんとなく違うと思う。

 そんなわけで、今日、明日と東京へ行ってきます。
 今回のテーマは、お彼岸東京文豪お墓参りツアーです。たくさんお墓の写真を撮ってこよう。
 それじゃ、ちょっといってきます。

四度目の挑戦で初の干潮だったのに、カモの逃げ足は速かった

野鳥(Wild bird)
藤前干潟-1

OLYMPUS E-1+Super Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/125s(絞り優先)



 二度あることは三度ある、三度あることは何度でもある。今回で四度目となった藤前干潟行きでついに私は干潮の干潟を目にすることになった。三度あることでも四度はないこともある。ツレを連れて行ったことで相性が変わったのだろうか。
 遠くに見える干潟と、カモと思われる水鳥たちの群れ。おお、いるいる、たくさーんいる。陸地には上がってないものの、水際に固まっている。これなら接近遭遇する大チャンスかもしれない。はやる気持ちを抑えつつ、まずは遠くから観察だ。私は望遠レンズで、ツレは双眼鏡で。
 けどこの場所からではまだ遠すぎて鳥の正体が確認できない。E-1に付けた300mmレンズで600mm換算になっているのにこの小ささ。夕暮れどきが近づいてシルエットになっていることも判別を難しくさせている。
 よし、そろそろ近づいてみるか。

藤前干潟-2

 しかし、ここの野鳥たちは驚くほど警戒心が強い。こんなへんぴな場所までやってくる物好きな人間が少ないせいで、人にまったく慣れていない。500メートルくらいに近づいたところから早くも我々の気配を感じでそそくさと逃げ始めた。さりげなく沖へ向かって泳いでいく。ええー、そんなぁ、つれないなぁ。待っておくれよー、という我々の願いも虚しく、一度できた逃げの流れをとめるすべはなかった。
 写真を撮った位置は鳥たちから300メートルくらいの地点だったろうか。もう半分くらいは逃げていていなくなった状態だ。草の茂みに隠れるようにして撮ったのに。ここからもう少し近づいたところで一斉に飛び立ってしまった。なんてめざとい奴ら。結局、何がいたのか、顔ぶれさえ確認できなかった。東京のカモたちとは大違いだ。東京カモは1メートルまで近づいても逃げないのに。
 おそらくオナガガモあたりを中心に、ヒドリガモやマガモ、コガモ、ホシハジロあたりで構成されたメンバーだったのだと思う。スズガモもいただろうか。カワウやバンなんかも混じっていたかもしれない。
 それにしてももう少し近くから見たかった。せっかく干潟が出現してる時間帯だったから、陸地でエサをとっているところなんかも写真に撮りたかったのに、残念だ。

藤前干潟-3

 工業地帯に飛び立つカモたち。これでも正体ははっきりしない。たぶんカモには違いないと思うのだけど。
 別の場所でもっと白っぽくて小さい鳥が群れで水面近くを高速で飛んでいた。あれは見たことがない飛び方だから、私の知らないやつらだったんだろう。ハマシギとかそのあたりだったんだろうか。
 この時期に見られるものとしては、お馴染みのサギやユリカモメの他に、シロチドリやセイタカシギなどがいるはずだ。干潟の一番の見どころは秋と春の渡りの季節で、冬はそれほど面白い時期ではない。カモがいる場所まで遠すぎるということもあって。

 日本における干潟の役割は、南半球と北の繁殖地とをつなぐ中継地点としての存在意義だ。シベリアやアラスカなどで生まれたチドリやシギたちは、寒い冬の間を暖かい南半球で過ごすために片道1万キロの旅に出る。その長旅の中間地点として、どうしてもエサ場が必要になる。栄養補給と休息なしには体力の限界を超えてしまう。
 干潟とは、川から運ばれた土砂が堆積してできる砂泥地のことをいう。この中にはたくさんのバクテリアがいて海に流れる有機物を分解して生き物のエサとなり、それを食べる貝やエビやゴカイ、小魚などを育て、その魚介類を食べる野鳥がいるというサイクルが成立している。
 更に、太陽と月の引力によって潮が満ち引きして、干潮時には干潟が顔を出し、水鳥たちにとってかっこうのエサ場になるというわけだ。
 ここでたっぷりと栄養補給をしたシギやチドリたちは冬を過ごすために南半球へ旅立ち、また春になると繁殖のためにシベリアやアラスカへ行く途中で日本の干潟に寄っていく。
 夏場はコアジサシたちが空を舞い、干潟では留鳥のチドリたちがエサをついばむ。
 というわけで、干潟というのは旅鳥たちにとってなくてはならない大切なエサ場なのだ。他に代替地がないという点で森を壊すのとはわけが違う。
 藤前干潟は日本に残された数少ない干潟としてとても重要な場所なのだった。それをゴミ処理場にしようと思いつくとはちょっと信じられない。どうしてもここじゃなきゃいけなかったわけでもないだろうに。ただ、ゴミ処理場問題とその後の市民運動のおかげで干潟に対する意識が高まったというのは怪我の功名だった。あの問題が起きなければ、藤前干潟はほとんどの一般人にとって何の意味も持たないところだっただろうから。
 かつて日本最大の干潟だった長崎県の諫早干潟(いさはやひがた)は壊滅して、藤前干潟が期せずして日本一の干潟となってしまった。日本一といってもすでに250ヘクタールほどしか残ってない。2002年にラムサール条約に登録されたから当面は大丈夫としても、今後干潟を守っていくのはますます難しくなりそうだ。

藤前干潟-4

 それにしても、相変わらずここはまるで歓迎ムードというものがないところだ。保全が決まってゴミ処理場が作れなくなったとたんに名古屋市は興味を失ったらしい。藤前活動センターの前にわずかに手書きの干潟案内がある程度で、私がいつも行ってる国道23号線そばの干潟には、藤前干潟であることを示す看板ひとつない。周辺にも藤前干潟へと導く道路標識のたぐいは一切なく、地図を頼りに辿り着いてみて、ここが本当にそうなのだろうかと不安に思った人もたくさんいるに違いない。愛想も何もあったもんじゃない。周辺は輸送工場や倉庫街だし。
 せっかくラムサール条約にも登録されたんだし、観光地になり得る要素を持った場所なんだか、もう少し大事にしてもいい。説明看板を立てるとか、ちょっとした公園を作ってトイレを用意するとか、駐車場を作るとか、何かはできる。今の状態は自販機ひとつなく、トイレへ行きたくなったら活動センターで借りるか、離れた公園まで行くしかない。観察場所といっても堤防しかなく、鳥のいるところに近づくためには斜めになった堤防沿いを体を斜めにしながら歩いていくしかない。しかも降りられるところまでぐるりと回らないといけないから遠い。野鳥ポイントまで15分はかかる。
 日光川の河口ではなく、新川と庄内川河口がある稲永には立派な野鳥観察館があるから、そちらへ行けということか。
 公共交通機関で行こうとすれば、あおなみ線の野跡まで行って徒歩10分か、長島行きバスの日光川排水機場前で徒歩20分か、そのあたりになるのだろうか。市バスもあるものの、いずれにしても一度名古屋駅まで行かないとどうしようもない。
 学校の野外活動なんかにも使えそうだし、もう少し観光地として整備したらどうだろう。私が行くのが平日ということもあるにしても、ここで他の野鳥観察人に会ったためしがない。そもそも車も人もほとんど通らない。もしかして、休みの日はもっと盛り上がってるんだろうか。

 次に行くときは大きく干潮になる時間帯を調べてから行きたい。最大干潮時は見渡す限りが陸地になるという。季節は渡りの春がいいだろう。水辺は風が冷たいから冬場は厳しい。春になれば暖かくて潮風も気持ちがよさそうだ。次こそは、干潟でエサをつつく鳥たちを写真に撮りたい。今度こそほふく前進で近づくぞ。両肘と両膝にサポーターをつけて低速前進だ。通常は迷彩服を着たいところだが、ここはコンクリートと同化するために灰色が望ましい。ねずみ色のトレーナー上下に肘と膝にサポーターを巻いて写真を撮ってる二人組がいたら、小さな声で呼びかけてみてください。

人も動物も生きているんだ友達なんだ、それが僕たちの歩く道

動物(Animal)
ウサギさん

Canon EOS Kiss Digital N+EF55-200mm(f4.5-5.6 II), f5.0, 1/400s(絞り優先)



 東山動物園のこども動物園にいた白いもこもこウサギさん。隣のノーマルタイプと比べるとそのもこもこさ加減が際立つ。冬は暖かそうだけど夏はすごく暑苦しそうだ。そのあたりを本人はどう思っているだろう。読み取ろうとしても無表情な赤い目は何も語らなかった。むしゃむしゃと葉っぱを食べるばかり。この固そうな葉っぱが好物なんだろうか。ウサギというと野菜を食べてるイメージがあるけど、必ずしもそうではないようだ。
 昔は日本にもたくさん野生のニホンノウサギがいた。今は山や森を歩いていてウサギと出会うことはまったく想定していない。イノシシやサルなんかの方がまだ身近な生き物という認識がある。今の日本にどれくらいの野ウサギがいるんだろう。「うさぎ追いしかの山」なんてのはすっかり遠い昔話になってしまった。
 私たちがよく知ってる白いウサギは、日本白色種という品種で、ジャパニーズホワイトとも呼ばれている。明治時代にニュージーランドホワイト種から作られた。小学校などでもよく飼われているのがこれだ。近年こいつが逃げ出して一部で野生化してるという。弱々しいふりして意外とたくましいらしい。特に有名なのが瀬戸内海の大久野島で、ここはウサギ天国になっているんだとか。戦争中、この島で毒ガス兵器の実験をしていて、そのとき検知用として導入したウサギが戦後放置されて大繁殖して今に至っているんだとか。うさぎ島とも呼ばれてウサギ好きの観光客が訪れているらしい。
 北海道にはユキウサギが、南西諸島にはアマミノクロウサギがいて、ペット用としては、ネザーランド、ロップイヤー、アンゴラ、フレミッシュジャイアントなどがいる。

 ウサギは寂しいと死んでしまうんだよ、なんてセリフがよくドラマで出てくる。実際そうだと信じている人も多いかもしれない。でもそれはまったくのでたらめで、ウサギは寂しいくらいで死んだりはしない。むしろ仲間をうっとうしいと思う傾向が強いのでひとりで過ごす方を好む。狭いところにたくさんで飼うとストレスになるのでよくない。
 ウサギというのはいろいろ幅広いイメージを持つ動物だ。一方ではピーターラビットのように子供に人気のキャラクターになるかと思えば、一方では「プレイボーイ」やバニーガールのように成人男性向けのイメージキャラにもなっている。プレイボーイがどうしてウサギなのかというと、人間以外に一年中発情してるのはウサギくらいだからということらしい。バニーガールもプレイボーイ絡みで生まれた衣装だと言われている。
 ウサギをどういう象徴として見るかは個人の自由だけど、二兎を追うものは一兎をも得ずのたとえどおり、奥さんや彼女に両方を求めてはいけない。中村うさぎにも近づかない方が無難だ。

テンジクネズミ

 モルモットというと実験動物ということで人の手で作られた生き物のように思っていたら、実は違った。もともとはアルゼンチン北部やペルー南部にいた野生動物だったのだ。知らなかった。モルモットという呼び名はあまりいい印象を受けないからもうひとつの呼び名であるテンジクネズミ(天竺鼠)と呼ぶことにしよう。草剛くんのドラマ「僕の歩く道」を観ていた人にはお馴染みの、あのテンジクネズミだ。ただし、モルモットはテンジクネズミを家畜化したものなので、モルモットとテンジクネズミは別物と考えた方がいいのかもしれない。元となった種のナナテンジクネズミの野生種はすでに絶滅しているそうだ。
 南米ではペットではなく食肉用として古くから家畜化されていたらしい。16世紀にヨーロッパ人が南米へ行ったときはすでに食べられてたという。そのとき、テンジクネズミをアルプスマーモットという種だと勘違いして、それがそのまま日本に入ってきてマルモットがモルモットになったといういきさつがある。1843年に長崎にやってきたのが最初らしい。
 近年は英語圏で使われているケィビィという名称で呼ばれることが多くなりつつあるという。日本でもペッとして飼っている人がけっこういる。ウサギ以上犬猫未満な感じがいいのかもしれない。ハムスターの大型判と思えばそう遠くない。エサも草や野菜が主食なので飼いやすい。ただ、夜行性というのがちょっと問題だ。夜中にガサゴソされたら狭い部屋では同居しにくい。

ガチョウさんアップ

 ガチョウさんのアップ。ガチョウと聞いても庶民はピンとこない。お金持ちはフォアグラを思い出す。無理矢理太らせて肝臓を食べるなんて趣味が悪いぜ、なんてのは庶民のひがみか。羽毛も布団やクッションとして使われる。
 ガチョウは日本ではあまり馴染みがない家畜だけど、人間との関わりはニワトリと同じくらい古い。今から5000年ほど前の紀元前2800年頃、エジプトでハイイロガンを元に家禽化されたのがはじまりとされる。中国でも4000年ほど前にサカツラガンからシナガチョウが作り出されている。体が大きくて太っているので空は飛べない。
 アヒルとガチョウはよく似ているけど、首の長さで見分ける。首が長い方がガチョウで、クチバシはアヒルの方が平べったい。写真のようにシナガチョウはくちばしの上にコブがあるから分かりやすい。種類としても、ガチョウは雁からの改良種で、アヒルはマガモから作られたものという違いがある。
 ガチョウはかなり寿命が長い。50年も生きる。見知らぬ人が近づくと大声で鳴いて騒ぐので番犬代わりにいいから、ペットとして向いている。粗食に耐えるということで貧乏人にも優しい。セコムできない人はガチョウを飼うといいだろう。

ダチョウとキリン

 キリン舎に同居させてもらってるダチョウさん。世界一大きい鳥だけに、キリンを前にしても臆することなくマイペースで歩き回っている。全然負けてないと思ってるのだろう。黒いのがオスで、灰色がメスだ。
 背の高さは2.5メートル、体重は130キロにもなる。これだけ重ければ飛べるはずもない。その代わり地上を駆ける猛スピードを手に入れた。最高速度は70キロにも達する。
 ダチョウは古代エジプト時代にはすでに家畜化されていたと言われているから、かなり古くからのお友達だ。
 ダチョウは飼える。飛べないから囲える庭なら放し飼いでいける。規制もない。ぜひ飼い慣らして、ダチョウに乗って私の家に遊びに来て欲しい。

ヤギさんたち

 ヤギさんたちが一斉にこちらを見つめて駆け寄ってきた。手ぶらなのに何かいいもの持ってると思ったらしい。これだけいるとけっこうな迫力で、奈良公園で鹿に襲われたときのように腰が引けた。こども動物園ではエサを売っていて手からあげることができる。だから、普段はあまりエサをもらってないのかもしれない。
 ヤギについても前に一度書いたので、今回は特に付け加えることはない。
 ヤギも誰か飼ってくれないかな。こいつらはよく見るとけっこうかわいいやつなのだ。ピンクの鼻とくちびると白くて長いあごひげがセクシーで。人にもよくなつく。ヤギはペットとしておすすめしたい。

 思えば実にたくさんの生き物たちが人間の都合で家畜にされたり、実験動物になったり、改良されたものだ。性格が従順なほどつけ込まれて人に利用されてしまうというのが世の常だ。それは人も動物も変わらない。性格的に人の手に負えないものは家畜になっていない。もしくは、人にとって役に立たないことが幸いした動物もいる。人間から見てかわいいというのも狙われる。逆にかわいくないことで助かったやつらもいる。乱獲で絶滅に追い込まれるのと、家畜となって生きながらえるのと、どっちがよかったのかは私には分からない。どっちも不幸だといえばそうだ。でも、野生で自由に駆け回りたかっただろうというのもまた人間の感傷でしかないのかもしれない。
 動物愛護というのはなかなかに難しい問題で、正解はない。ペットを野生に戻すことが必ずしも愛護ではないし、一切の狩りをやめてしまうことが自然の姿に戻すことにもならない。人が地球で生きていく以上、生き物たちと関わらずにはいられない。人は動物や自然と戦って勝ち抜いてきたという歴史もある。今後もさまざまなことを模索しながら、生き物たちとの共存を目指していくより他にない。そんな中で、せめて生き物に対して感謝の気持ちと愛情だけは忘れないようにしたい。
 みんなみんな生きているんだ友達なんだ。人も生き物もすべて、同じ地球号に乗り合わせた運命共同体だ。地球最後の日まで、共存共栄でいきましょう。

帰りたくなる心のホーム和食にしばし浸り、また世界の料理に旅立つ

食べ物(Food)
温野菜サンデー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/20s(絞り優先)



 今日のサンデー料理は和食にした。そこに心のホームがあるから。毎日いろいろなものを食べて、週に一度自分で料理を作って、巡りめぐって何が食べたいのか分からなくなることがある。そんなとき帰っていくのは、やはり和食だ。消極的な帰結だけど、たまには故郷に逃げ帰ったっていい。それは故郷がある人間の特権だから。
 今日のもうひとつのテーマは温野菜だった。温野菜という言葉は最近よく耳にするようになったけど、生野菜に対して加熱して温かくなった野菜の総称だから、突然ブームになったとかそういうことではない。特別な料理方法があるわけでもなく、変わった野菜を使うわけでもない。
 ただ、野菜炒めや煮込みの具として使われる野菜はあまり温野菜とは表現しない。野菜を加熱してそのままの姿で食べる料理を一般的に温野菜と言うことが多いようだ。
 野菜によってどうやって加熱すれば栄養が逃げなかったり増したりするかがそれぞれある。水溶性のものは茹でるとよくないとか、油で炒めた方が栄養が吸収しやすくなるとか。ただ、野菜のソムリエの長谷川理恵なら知ってるかもしれないけど、普通の人は詳しくは知らないと思う。私ももちろん知らない。基本的に加熱するとビタミンBやCは失われやすくて、ミネラル分はあまり減らないそうだ。茹でると溶け出すものが多くて、蒸すと栄養素を閉じ込めやすいくらいに覚えておけばいいと思う。野菜のソムリエを目指してる人はそんな大雑把な知識じゃ駄目だけど。当然、長谷川理恵にも説教を食らってしまう。

 ということで、今日は蒸し温野菜にしてみた。やってみて分かることは、やっぱり蒸しというのは型くずれしないというだけではなく、味という点でも美味しいということだ。茹でるのとも煮るのとも焼くのとも違う。ほんのりとした野菜本来の甘みが閉じ込められている。多少時間はかかるけど料理としてはごく単純だ。蒸し器に水を入れて、野菜を並べて火をかけたらあとは放っておけばいい。塩、コショウさえ必要ない。
 カボチャやニンジンなどは本当に甘くなるから、何もつけずに食べられるくらいだ。つけ汁がいるやつは、めんつゆをベースにしょう油、酒、みりんを混ぜて、だし汁で好みの濃さに薄めて作る。
 今回はエビ、鶏肉、大根、アスパラを使ったけど、これは何でもいい。ジャガイモ、タマネギ、ブロッコリー、キャベツなど、余った野菜でも、たいていは大丈夫だ。
 私の場合は、蒸すときに水ではなくだし汁で蒸してみた。その方が味が染み込んで美味しくなると思って。そういう調理方法があるのかどうかは知らない。
 温野菜のいいところは、甘みが増して美味しくなるのと、量を食べられるということだ。大量の生野菜が目の前に並ぶとそれだけで気が滅入るけど、温野菜ならむしろ喜んで食べられる。子供だってきっとそうに違いない。野菜は生じゃなきゃ駄目ってわけじゃない。生を少し食べるよりも温野菜をたくさん食べた方が結果的にたくさんの栄養素を摂ることにもなる。その場合、特に蒸すという調理をおすすめしたい。ビタミン類が逃げにくくて、美味しくなって、調理も簡単と、言うことない。蒸し器だけはなければ買ってこなければいけないけど。
 更に美味しく食べるようと思えば、ソースを工夫すればいい。好きなソースで食べれば子供もお父さんも喜ぶし、ソースでビタミンが壊れるわけじゃない。これで野菜嫌いの子供が少しでも減ればいい。

 左手前のは豆腐っぽいけど、実物はマグロだ。
 マグロの切り身をやや大きめのサイコロ状に切って、白味噌、マヨネーズ、しょう油、からしをあわせたものに絡める。その状態でタッパーなどに入れて、ラップをして、レンジで3分から5分ほど加熱すればできあがりだ。これも簡単。
 付け合わせのなめこと長ネギの白い部分は蒸し器の中で一緒に蒸した。普通は簡単に茹でればいい。
 盛り合わせてから、味噌マヨネーズの残りを上からかける。
 右手前は、料理名不明のサトイモ料理。
 サトイモはすごく美味しいと思うんだけど、オシャレ度が最低ランクに近いのであまり好まれてない食材だ。洒落たフランス料理やイタリア料理などではまず登場しない。和食にしてもせいぜい煮っころがしくらいで、なんとなく年寄り臭くていけない。工夫してもあまりスマートな料理はならないのだけど、なんとか手を加えて美味しいおかずにしたいと思って考えたのがこれだ。
 サトイモをよく洗って、皮付きのままよく茹でる。皮をむいたら適当な大きさに乱切りして、タッパーに入れてラップをしてレンジで3分ほど加熱する。充分柔らかくなったら、タッパーに入れたまま、しょう油、酒、みりん、だし汁を加えてサトイモをつぶす。汁気が多くなったら小麦粉かカタクリ粉を加える。
 次にラップに適当な量に分けて包み、口をしばって2分か3分加熱する。
 ラップから出したら、白ごまと青のりをまぶして出来上がりだ。
 今回ちょっとだし汁を加えすぎて失敗したのだけど、本来は団子状にして白ごまか青のりを全体にまぶした方が見栄えはいいと思う。味としてはとっても美味しいので私は好きだ。ぜひサトイモをもっと使ってやって欲しい。

 美味しい和食を作るのは難しく、見た目が美味しそうな和食を作るのはもっと難しい。フランス料理などはどう作ってもそれなりに美味しそうに見えるのだけど、和食で見た目からして食欲をそそるものを作るのはそう簡単じゃない。素材の姿がそのまま残る料理が多くて、ソースの色も地味なものが多いのが要因だろう。それを打破するのが料亭や旅館で出てくるような懐石料理なのだけど、家庭であのレベルを再現するのはとても困難だ。手間暇がかかりすぎるし、飾りつけに使う食材が多すぎて無駄が出過ぎてしまう。
 見た目がいかにも美味しそうな和食が作れる人は、間違いなく料理レベルが高い。私はまだまだそういうレベルからは遠い。もっと勉強しなくてはいけないし、もっと回数を重ねなくてはいけないだろう。
 和食というのはなかなかに奥が深くて、向こう側をのぞき見ることができない。最後はシンプルに戻るにしても、複雑さを超えた絶妙なバランスのシンプルさを実現するためには年月と修行が必要だ。私もそろそろ包丁一本をさらしに巻いて修行の旅に出ようか(どこへ行くつもりだ)。
 心の故郷である和食に戻ったのはよかったけど、ここはここで案外居心地が悪くて落ち着かない。ずっとここに縛られてしまうかと思うとなんとなく気が重くなる。それもまた、故郷と同じだ。田舎暮らしは二泊三日がせいぜいなように、料理もまたフランス料理や洋食に戻りたくなる。もっと自由にいろんなものを作りたい。和食はまたひと月後か、ふた月後だ。
 日本人はいつでも帰ることができる和食があって幸せだ。だから、いろんな料理を求めて旅することができるのだろう。心のホームを忘れず、和食の精神をなくさないようにすれば、私たちはもっと自由でいられる。

ニコライ堂は高いビルに囲まれた21世紀の東京でも高台で威風堂々

東京(Tokyo)
ニコライ堂-1

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f7.1, 1/160s(絞り優先)



 御茶ノ水駅を降りて本郷通りの坂道を歩き出す。ほどなくして丸い屋根の不思議な建物が目に入る。ああ、あれか、ニコライ堂。緑色のタマネギのてっぺんに十字架が載っているロシア教会。正式名称を「日本ハリストス正教会教団復活大聖堂」という。その長すぎる名称から建てた司祭の名前を取って、もっぱらニコライ堂と呼ばれている。「あ、にほんはりすとすせいきょうかいきょうだんふっかつだいせいどうだ!」なんていちいち言ってられない。
 7年の歳月をかけて1891年(明治24年)に完成したニコライ堂は、駿河台の高台にあって東京中のどこからでもその姿が見えたそうだ。もともと江戸の火消屋敷の跡地に建てたということで偉ぶるつもりはなくてもそんな格好になってしまった。皇居を見下ろすとはけしからんなんていう批判もあったそうだ。夏目漱石の『それから』にも登場する。漱石はこの教会を仰ぎ見て何を思ったのだろう。
 今では周りを高い建物に取り囲まれてしまっているものの、それでもその存在感はあたりを圧倒して威風堂々としている。唐突な存在なのに不思議と違和感はない。

ニコライ堂-2

 ロシア領事館付の司祭としてニコライ(本名イワン・デミトロヴィチ・カサーツキン)が日本にやって来たのは江戸末期の1861年のことだった。最初に函館にある救主復活聖堂で布教活動を始たとき、ニコライはまだ25歳。けど、そのときにはもう、日本での活動を自分の一生の仕事にしようと決めたという。何か使命感を感じたのだろう。
 いったん帰国して準備を整えたあと、本腰を入れて布教活動をするために1871年(明治4年)に再来日を果たす。35歳になっていたニコライは拠点を東京に移し活動を始めた。ニコライ堂が建つまでにここから20年かかっている。その間、明治12年には主教、明治39年には大主教となり、1970年には聖亜使徒となった。1912年に死ぬまで生涯日本を愛し、日本を学び、苦しみ、布教活動にささげた一生だった。
 このニコライの活動もあり、日本にハリストス正教会が根付くことになり、ニコライ堂はロシア正教(ギリシャ正教)の日本における総本山であり続けている。明治時代後半には信者は25,000人まで増えて、カトリックに次ぐ信者数となっていたそうだ。現在でも8,000人ほどのロシア正教会信者の人たちがいるという。

 ところで正教会って何だろうと思った人も多いかもしれない。現在、世界のキリスト教は大きく分けて3つの宗派に分かれている。ふたつはお馴染みのカトリックとプロテスタントなのだけど、日本においては正教会というのはマイナーな存在であまり知られていない。正教会という名前通り、いうなればこれがキリスト教の本家にもかかわらず。
 キリスト教の流れをなるべく簡単に説明するとこうだ。キリストが生まれたのがパレスチナで、今で言うイスラエルだった。だからキリストはユダヤ人になる。当時のユダヤにはユダヤ教があった。と同時に、パレスチナはローマ帝国の支配下にあった。そのローマにはたくさんの神様がいて、けっこういい加減だったというのがある。自分たちもそれぞれの信じる神様がいて、他の宗教は尊重して弾圧することはなかった。キリストの死後、復活を果たした救世主イエスを信仰する宗教が、ローマ支配下のユダヤ人たちによって生まれ広がっていったというのがまず始まりとしてあった。
 やがてキリスト教は、古代ギリシャにおいてキリストの思想や教えが哲学や芸術などと融合していき、世界の人々に大きな影響を与えるようになる。ビザンチン帝国の国教となり、392年にはローマ帝国の国教にもなった。それはロシアにも広がり、ロシア正教と呼ばれるようになる。東方正教会と呼ばれるのは東洋で浸透したからというのがある。
 この後、1054年にローマ教区が本家と意見の対立から分離独立する格好で西方教会となってヨーロッパに広がり、更にルターの宗教改革によって西方教会は現在のカトリック系とプロテスタント系に分裂することとなったのだった。
 キリスト教というと西洋のものと私たちは思いがちだけど、実は中東生まれでロシア正教が主流だったのだ。ただ、ギリシャは世界の表舞台から退き、ロシアは社会主義のソ連になって宗教を失うことになったりして、正教会はいつしかメインストリームではなくなっていった。
 ニコライ堂のハリストスというのは、クライストのギリシャ語読みで、ギリシャ語でイエス・キリストはイイスス=ハリストスとなる。
 以上、ちょっと長くなったけどキリスト教スタディでした。

ニコライ堂-3

 私たちが出向いたときは日曜の午前中で、公奉神礼(礼拝)が行われているときだった。かなりおごそかな雰囲気で入口にも関係者の人がいたりして、観光気分で写真をパシャパシャ撮っていられるような感じではなかった。悪いことしているわけでもないのに、普通の会話がひそひそ話になってしまう我々。それが逆に怪しさを醸し出していたかもしれない。入口のおじさんに若干マークされ気味だった。
 見物のために行くなら土日は避けた方がいい。月曜も休みで、中を見学できるのは火曜から金曜の午後1時から3時半の間だけだ。献金という名目で300円かかるのがちょっと難点だ。払いたくないなら払わなくてもいいらしいのだけど、払わずに中に入るのはちょっと勇気がいる。それなら最初から見学料として徴収してもらった方がすっきりする。なんか試されてるような気分になる。
 内部は当然のように撮影禁止となっている。これはまあ仕方がないところだろう。

 教会の設計はジョサイア・コンドルと言われることが多いけど、実際はニコライがロシアの建築家ミハイル・シチュールポフ(ロシアエ科大学教授)に依頼して基本設計をしたあと、コンドルが手直しと現地の総監督をしたという形で建てられた。
 東ローマ帝国スタイルである中央にドームを持つビザンティン様式の建物に、明治の人たちはきっと驚いたことだろう。これが東京中から見られたというのだから、今でいう東京タワーのようなものだったのだろうか。
 しかし、1923年(大正12年)の関東大震災で大聖堂の鐘楼とドーム屋根が崩壊。内部も焼失してしまう。コンドルを尊敬する建築家岡田信一郎によって改修されたものの、耐震構造上などの理由からオリジナルとは少し違う外観になってしまったのは残念なところだ。それでも、昭和37年に国の重要文化財に指定されている。石造りの重要文化財では最古のものとなるそうだ。
 1992年から9年かけて修復が行なわれ、外観だけでなく内部の壁面などもきれいになったようだ。

ニコライ堂-4

 神田名物ニコライ堂から鳴り響く鐘の音を今回は聞くことができなかった。鐘楼には大小6つの鐘があって、昔からこのあたりで暮らしたり働いてる人たちにとってはお馴染みのものなんだろう。近くで聞くとうるさいくらいだという鐘の音色をいつか聞きたいと思う。目を閉じれば遠くの異国にいる気分になれるだろうか。
 私はなんとなくだけど、ニコライという名前に聞き覚えがあるような気がする。だからニコライ堂という存在を初めて知ったときにも妙に親近感を覚えた。前世で私はニコライという名前だったかもしれない。ニコライ! と突然後ろから呼びかけてみてください。もしかしたら反射的に振り返ってダァーと答えるかもしれない。ロシア皇帝だったニコライ1世と何か関係があるのだろうか。ニコライ1世の家来だったとか。
 それにしてもニコライ堂って何かに似てるよなぁ、なんだっけなぁと考えていて、ハッと気づいた。そうだ、ニコちゃん大王に響きが似てるんだ! 『Dr.スランプ アラレちゃん』で名古屋弁をしゃべる宇宙人。え? 似てないって? 今ごろあの世でニコライさんはずっこけてるかもしれない。ニコちゃん大王と一緒にするなよぅと言いながら。
 個人手にはこれからニコライ堂のことを、ニコちゃん大聖堂と呼ぶことにしよう。すごく親しみが持てる。

味噌煮込みの山本屋について思い悩んだ末に「ひらのや」できしめんを食べた

食べ物(Food)
味噌煮込みうどん

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 名古屋人は意外と名古屋名物を食べない。それはどの地方の人についても言えることなのだろうけど、独特の食文化を持つ名古屋人は名古屋名物を愛してやまないのだろうと他県の人が想像するほどは食べていないという現状がある。基本的に外食をしない私のような名古屋人は特にその傾向が強い。家で毎日のように味噌カツや味噌煮込みや名古屋コーチンを食べてるなんてことは決してないのだ。
 名古屋人が名古屋名物を食べるのは、よそから人が遊びに来たときが多い。そのときになって初めて、はて、名古屋名物ってどこで食べられるんだろうとあわてて探すことになる。スタート地点は観光客とほとんど変わらない。
 今回は味噌煮込みを食べようということになった。味噌煮込みといえば「山本屋」がまず最初に思い浮かぶ。そして次にしばし考え込むことになる。「山本屋本店」と「山本屋総本家」ってどっちが本家なんだろう、と。日常的にそんなことは興味の外なので深く思い悩むことはなくても、いざ本場の味噌煮込みに招待しようとなるとその点はけっこう大事になってくる。
 結論的に言えば、結論は出ないという結論に至る。はっきりしてるのは、「山本屋」というのが大須で明治40年に創業して、その後戦争のどさくさで本店も支店も曖昧になって、気づいたら山本屋総本家と山本屋本店ができていたということらしい。総本家は大正14年創業をうたっているのに対し、本店の方ははっきりさせていない。ということは、総本家の方が年代的には古いのだろうか。ただ、名古屋人のぼんやりしたイメージの中では、本店の方が値段が高くてやや格上かなという気持ちがないでもない。最終的にはまあどっちでもいいかということに落ち着く。
 面白いのは、両方のサイトに、紛らわしい名前の店があるので注意してくださいと書かれてあることだ。表立っては反目し合ってなくても互いに意識しすぎるくらい意識していて、内心面白く思ってないのが注意書きからも読み取れる。二店とも山本屋から派生した同じ系列の店だという話もあるようだけど定かではない。
 それで結局おまえはどっちの店へ行ったんだとあなたはちょっとイラっとしながら上の文章を読んでいたかもしれない。私たちが行ったのは、長久手にある「ひらのや」という日本料理店だった。なーんだそりゃ。上の長すぎる前置きは何だったんだ!?

長久手ひらのや外観

 山本屋本店も総本家も、街の中心にある店に車で行くと有料駐車場で割高になるし、郊外店は家から遠いのでやめた。ネットで調べたところ、けっこう評判がよかったのがこの「ひらのや」だった。郊外なら広い駐車場もあるし(32台)、座席数も150席と充分だ。
 場所は、長久手役場の道を隔てた正面あたりで、大きな店なので見逃すことはないと思う。
 創業27年で、そば粉や塩、水にいたるまでこだわっているとのことで、そのあたりはチェーン店とは心意気が違う。名古屋の人なら、ちょっと「サガミ」っぽいんじゃないかと思うかもしれないけど、同じと思ってはいけない。
 味噌煮込みの値段は普通タイプで1,000円くらいだっただろうか。味噌煮込みとしはまずまずで、高くもないけど安くもない。総本家が確か900円くらいで、本店が1,260円とかだったはずだから、その中間くらいか。ただし、本店の場合、名古屋コーチン入りや黒豚入りになると突然牙をむいて2,310円の値段が襲いかかってくるので注意が必要だ。松茸、茸、地鶏セット入りは3,570円と凶暴さはとどまるところを知らない。たかがうどんに3,000円オーバーって、香川の人が知ったら怒りで頭に血が上って倒れてしまうかもしれない。あっちじゃとびきり美味しいうどんが300円で食べられる。総本家はここまでの豹変ぶりは見せない。それにしても、うどんで1,000円はちょっと高いなとは思う。

 味噌煮込みうどんの味は、普通に美味しかった。もっと濃い味を想像していたらまったくそんなことはなくて、むしろあっさりしてると表現してもいいほど上品な味だ。顔は濃いけどつき合ってみるとけっこう爽やかな平井堅みたいなやつと言えば分かりやすいだろうか。味噌煮込みうどんを人に説明するときは、平井堅みたいなうどんと言えばいいだろう。
 実際、塩分もラーメンより少なく、関西のうどん並みというから、食べた印象は間違っていない。関西人は見た目で抵抗があると思うけど、食べてみれば大丈夫だ。関東の人にはちょっと物足りないくらいかもしれない。
 味噌煮込みうどんのもうひとつの特徴として、麺の固さがある。最初に食べたときは、これ茹で足りないぞと思う人も多いだろう。アルデンテを超えた芯の固さがある。でももちろん、これは失敗などではなくわざとこういう仕上げにしてある。麺は塩を使わずに打って、麺単独では茹でずに、味噌の中に生麺を入れてから煮込む。だから、麺が固いのは当然だ。煮込みという名前から麺もしっかり煮込まれているようなイメージを持ってしまいがちだけど、そうじゃなかった。煮込まれてくたくたになった金子貴俊のような麺は味噌煮込みではお呼びじゃないのだ。
 固麺は最初抵抗があっても食べていくうちにだんだんこれで正解だということに気づいていく。この方が味噌つゆとよく馴染んで、しっかり食べているという感覚が強い。そう、味噌煮込みうどんはすするものではなく食べるうどんでもある。
 それは食べ方にも表れていて、土鍋のふたに穴が開いてないのは、ふたにうどんを取って、そこから食べるのが正しい流儀とされているからだ。土鍋はぐつぐつ煮立っていて熱いので、最初は持ったり直接口をつけて汁を飲めないというのもある。土鍋からダイレクトにすすると味噌が服に飛んだりするし。
 そんなわけで、味噌煮込みうどんは非常にオススメだ(なんか、すごい強引な結論)。

ひらのやのきしめん

 名古屋名物のもうひとつの麺といえば、きしめんだ。名古屋というときしめんを真っ先に思い浮かべる人もいるかもしれない。けど、きしめんというのは名古屋であまり市民権を得ている食べ物ではない。名古屋のうどん、そばの店できしめんが注文される確率は1割ほどだというから、いかに食べられてないか。ひょっとすると名古屋以外の人の方がきしめんをよく食べてる可能性もある。名古屋に来たらきしめんだろうということで。家庭できしめんを食べる機会もめったにない。きしめんは名古屋のうどん屋ならどこでも食べることができるけど、きしめんが美味しい店というのは聞いたことがない。きしめん専門の店もたぶんないんじゃないと思う。
 私はきしめんは嫌いじゃない。うどんよりも好きだから、ごく稀にうどん屋に入ったときなどは積極的にきしめんを注文する。特に夏場の「ざるきし」は好物と言ってもいい。
 「ひらのや」のきしめんも申し分なく美味しかった。うどんを平に伸ばしただけなのに、食感がずいぶん違って、味も変わってくる。つゆに絡みやすい分、味が濃く感じられるというのもある。
 きしめんは漢字で書くと「棊子麺」で、碁石のように平たいというところから名づけられたという説が有力のようだ。初期のものはどんな形をしていたのかはっきりはしてないものの、碁子麺という名前は室町時代には登場している。思ったよりも古いものなんだ。
 この前の「ミリオネア」で、うどん、そば、そうめん、ひやむぎで一番新しい麺は何という問題があった。答えは意外なことにそばだったのだけど、あれはいい問題だった。そばは江戸時代で、ひやむぎやそうめんなどは思いのほか古くて、室町時代にはあったんだそうだ。うどんはもっと古い平安時代に登場している。
 きしめんは基本的にはうどんと同じ扱いなので、味噌煮込みのきしめんバージョンやカレーきしめんなど、食べられ方のバリエーションは多い。
 名古屋に来たらぜひここの店でというのは難しい。有名どころでは「きしめん亭」あたりになるのだろうか。「住よし」、「うるぎ」なども美味しいらしい。あと、名古屋駅のホームにある立ち食いの「名代きしめん」で済ますという手もある。あそこも味は案外悪くないという。

長久手ひらのや内観

「ひらのや」は、とても安心感のある店としてオススメできる。味、値段、店の雰囲気、接客と高いレベルでまとまっている。過剰な美味しさや突飛さはないものの、ここなら家族で行ってもデートで行っても、まず大きな問題は起きないと思う。
 基本的には日本料理屋なので、麺類だけでなく刺身や天ぷらなどメニューは豊富で、高いものは高い。必ずしも一般大衆向けの店ではないようだ。そばのこだわりも強くて美味しいらしいので、今度はそのあたりを食べに行きたいと思っている。長久手という場所柄、行ける人や行く機会がある人は限られてるだろうけど、「モリコロパーク」へ行った帰りなどは都合がいい。
 ここのところツレを名古屋に迎える機会が増えて、私も少しずつ外食が増えている。いい機会だから、名古屋メシをちょっと追求してみたい。これまでそういうところに無関心すぎた。名古屋名物ネタはけっこういろいろあるので、あれこれ食べに行って、またここで紹介しよう。
 味噌カツ、天むす、あんかけスパ、手羽先、どて煮、台湾ラーメン、「コメダ」さん、シャチボン、などなどネタは多い。ひつまぶしはこの前「しら河」で食べたけど他のところでも食べ比べてみたいし、名古屋コーチンもちゃんと意識して食べたことがないから、美味しい親子丼なんかもいい。そういえば、ものすごく久しぶりに「すがきや」のラーメンが食べたくなってきた。モーニングの小倉トーストも食べなくちゃ。
 みなさんも名古屋名物を食べに名古屋へ遊びに来てくださいね。そして、ついでに私におごってから帰ってください。

東山自然動物館シリーズ第二弾---珍しい夜行性動物の世界

動物(Animal)
自然動物館フェネック

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 東山動物園自然動物館のシリーズ第二弾は、夜行性動物を集めてみた。私も夜行性という点では決して負けているものではないのだが、かわいさではフェネックにまるで太刀打ちできない。残念だ。
 フェネックは初めて見たけどなんてかわいいんだろう。大きな耳とつぶらな瞳がキュートで、顔もハンサムだ。これだけひとつのパーツが大きいと全体のバランスが崩れて変になるものだけど、フェネックの場合何故か違和感がない。逆にそこがチャームポイントになっている。
 これを見ると、まるで絵本やアニメのキャラクターみたいだと思う人も多いだろう。サン=テグジュペリの『星の王子様』に出てくるキツネは、このフェネックがモデルなんだそうだ。
 フェネックギツネとも呼ばれるように、一応キツネの仲間だということになっている。人によってはフェネック属という別種と考える専門家もいるらしい。キツネ属とするなら、イヌ科ということになり、イヌの中までは世界最小ということになる。体長は40センチほどで、体重も1.5キロというからうちの猫のアイよりもずっと軽い。しっぽは25センチほどで、これはキツネにそっくりな格好をしている。耳の長さは約15センチほどだ。
 どうしてこんなに耳が大きくなったかというと、住んでいる場所が暑い砂漠地帯で、耳から熱を逃がすためにこんなふうになったと言われている。かわいさを狙ったわけではない。これをアレンの法則という。恒温動物は、寒い地方ほど耳やしっぽが小さくなり、暑い地方ほど大きくなる傾向があるという法則だ。体温と気温の関係で、ここから熱を出すか出さないかで進化の方向性が変わっていくということらしい。
 別名Desert Foxと呼ばれ、北アフリカのシナイ半島やアラビア半島の砂漠地帯に生息している。砂色の体色は砂漠で保護色になるようになっている。
 性格はかなり臆病だそうだ。大きな耳で遠くの物音を聞いて危険を察知するというのだけど、臆病だから耳が大きくなったのか、耳が大きくなってよく聞こえるようになったがゆえに臆病になってしまったのか、そのへんは微妙なところだ。絶対音感を持った人が日常の騒音が不快に聞こえて仕方がないことがあるように、フェネックにしても耳がいいことは必ずしも嬉しいことではないのかもしれない。ただ、食べ物の少ない砂漠ではエサになる虫のガサゴソする物音も聞き逃すわけにはいかないということがあるから、やっぱり耳の大きさは必然ということになるのだろう。

 見た目のかわいさから、世界的にもフェネックはペットとして一部で飼われている。キツネを飼ってるのは黒板一家とフェネックの飼い主くらいだろう。るーるるるる。
 性格は犬と猫の要素を併せ持っていて、人にもよく慣れてかわいいんだそうだ。ワンと鳴いたり、ニャアと鳴いたり、人にすりすりしたりもするらしい。
 ただし、実際に飼うとなるとこれはかなり大変になる。なにしろ夜行性で、穴掘りの習性があるのがやっかいだ。室内飼いだと、夜中中バリバリ、ガリガリ穴を掘っているんだとか。庭で飼うとなると、穴を掘って大脱走してしまうからやっかいだ。マックィーンに差し入れしてあげたいくらい穴掘りが上手くて早い。フェネックがいたら、マックィーンは脱走に何ヶ月もかかることはなかっただろう。
 更に、かなりうなり声をあげるそうだから、マンションで飼うなら防音にも気を遣う必要がある。
 そしてもうひとつ、ペットとしては最大のネックがある。それは値段が40万円~90万円もするということだ。ダメだこりゃ。フェネックは庶民のペットではなかった。
 寿命は最長10年くらいというから、ペットとしての条件は揃っている。エサも雑食で、たまに昆虫とか食べるくらいだからなんとかなる。けど、やっぱり野生ということでトイレのしつけなんかも難しいというし、かなり本腰を入れないと飼えるものではないようだ。おとなしく動物園に見に行くのが無難なところだろう。東山の自然動物館は夜行性仕様になっているから昼間でも動き回る姿が見られていい。外飼いをしてる動物園では昼間はほとんど眠って動かないと思う。

自然動物館コツメカワウソ

 冬は赤ちゃんが少ない時期にもかかわらずコツメカワウソの赤ちゃんが1月14日に生まれたというので楽しみにしていた。けど、この日は岩場の影に隠れていたようでとうとう姿を現さなかった。
 親はとにかくせわしなくて、落ち着きというものがまるでない。所狭しと走り回り、駆け上がり、何かをかじり、また走り出すの繰り返しでほとんど止まることさえない。こいつを写真に撮るのは苦労した。
 コツメカワウソの魅力は、悪ガキみたいな顔つきだ。すごい生意気そうで、見ていると笑えてくる。顔つきがラッコに似てるなと思ったら、ラッコもカワウソも同じカワウソ亜科の仲間だった。
 コツメは小爪から来ていて、世界で一番小さなカワウソがこのコツメカワウソだ。他のカワウソが発達した爪を持っているのに対して、こいつは小さな爪しか持っていない。
 体長は50センチ前後で、体重は4キロほどと小さい。
 中国南部、インドネシア、インド、フィリピン、東南アジアなどの水辺で、家族と共に暮らしている。エサはカニやカエルなどの水生動物で、貝や小動物も食べるそうだ。
 エサの捕り方にも特徴があって、他のカワウソは口で捕まえるのに、コツメは前足で捕まえる。そのへんの仕草はラッコに通じるものがある。
 こいつも人によく慣れてペットとして飼われることがあるそうだ。しかし、またもやお値段に難アリ。60万から80万となってはそう簡単に買えるものではない。寿命は5年から10年くらいだそうだ。
 しかし、こんなに落ち着きのない夜行性の生き物を部屋の中で飼ったら気が散ってしょうがない。夜も寝てられないくらいじゃないだろうか。

 かつて日本のどこにでもニホンカワウソがいた。コツメよりかなり大きめで、子犬くらいの大きさがあったという。北海道から九州まで普通にいたというから昔の人はいて当たり前と思っていたのかもしれない。
 しかし、毛皮をとるために乱獲したのと、戦後の生態系破壊によって現在は絶滅危惧種となってしまった。天然記念物に指定するのが遅すぎた。1979年に高知県で目撃されたのを最後に、その姿は確認されていない。
 もし、近所でカワウソを見たら絶対に写真を撮らないといけない。それは大ニュースとなる。

東山自然動物館ツチブタ

 これはまた変わった生き物がいたもんだと驚いたツチブタさん。
 体つきは大きなネズミみたいなんだけど剛毛で毛は短く、顔としっぽがむき出しになっている。顔は馬とかロバみたいで、鼻(吻)が長くて、その先はブタ鼻になっているというコミカルさ。耳はウサギのようだし、しっぽは巨大ミミズかカンガルーのしっぽみたいで、なんだか天の動物作り担当者が余ったパーツで悪ふざけに作ってしまったような姿をしている。
 生き物の進化の過程で淘汰されることなく唯一生き残った管歯目の動物で、他に仲間はおらず独立種とされる。白亜紀のアフリカあたりにいたアフリカ獣類に近いらしいのだけど、似た生き物の化石もあまり見つかってなくて、謎が多い生き物だそうだ。
 サハラ砂漠より南のアフリカの草原などに生息していて、大好物のシロアリを食べて生きている。ツチブタという名前は、穴掘りが得意で昼間はツチの中に寝ていて、鼻がブタみたいだからということで付けられた不名誉な名前だ。全然ブタの仲間なんかじゃない。アリクイの仲間のように思われていたこともあったようだけど、それもまったく遠い種類だ。
 歯は退化してしまっていて、長い鼻の部分(吻)でシロアリの塔にアナを開けて、そこに長い舌を入れてシロアリをなめとってしまう。シロアリにとっては恐怖の相手だ。夜行性だけにシロアリとしても寝ていて対処が難しい。水分補給のために木の実も食べる。
 天敵はサバンナのライオンやヒョウなどとなる。ただし、意外と足は速いのでそうやすやすとは捕まらないのかもしれない。東山の飼育室の中でもスイスイと軽快な足取りで歩き回っていた。それで写真もぶれてしまっている。
 今回、こいつは特に気に入って長い時間見ていた。面白い生き物なので、ぜひ一度見てみて欲しい。

 世界には実にたくさんの不思議な生き物がいるもんだと、自然動物館を見てあらためて思った。特に夜行性の動物は普段あまり目にする機会がない珍しい生き物が多い。写真には撮りきれなかったやつがまだ他にもたくさんいたから、また撮りに行きたい。ここだけで半日は楽しめる。
 東山自然動物館シリーズは、今後も第三弾、弾四弾と続いていく予定です。東山はコアラだけじゃない。こんな興味深い施設もあるんだから、もっと東山動物園も宣伝すればいいのにと思う。もったいない。世界のメダカ館は一般受けが悪いと思うけど、こっちは見ればみんな楽しめるはずだ。お近くの方はぜひ一度足を運んでみてください。運がいいと、夜行性の私が夜行性動物に翻弄されながら必死で写真を撮ってる様子も観察できます。

昭和30年を懐かしく感じられる今の時代感覚を喜びたい

東京(Tokyo)
台場一丁目商店街-1

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 お台場へ行くならぜひとも寄らねばと思った「台場一丁目商店街」。昭和の時代に駄菓子で育った私としては、昭和の町を再現したテーマパークというのは強く心惹かれるものがあった。
 昭和30年代の下町をイメージしたショッピングモールとして台場一丁目商店街がオープンしたのが2002年。「デックス東京ビーチ」の4階ワンフロアーを、そっくり昭和の町並みに仕立て上げている。外観から店構え、品揃えまで昭和レトロの味が満載で、昭和30年代にはまだ生まれてない私でも、懐かしく感じられる空間となっていた。
 駄菓子屋さん、文具店、おもちゃ屋、食堂や喫茶店やバーや床屋。そうそう、こんなふうだったよねと、見ているだけで嬉しくて笑えてくる。
 上の写真は昭和の縁側風景を再現したセットだ。さすがにここまで古めかしい家は見たことがないけど、小物類まで本物を使っていて手抜かりはない。床に転がしてあるピアニカなんて何十年ぶりに見ただろう。
 足のついた白黒テレビに小さなちゃぶ台、外には牛乳配達のための牛乳受け。自転車がちょっと新しすぎたような気がしたけど、自転車は昭和30年くらいからこんなふうだっただろうか。

台場一丁目商店街-2

 井戸なんかもあって、昭和の人にとってはなつかしく、今の若い人には珍しいのだろう。私は三重の田舎がいまだに井戸なんで特に珍しいものではない。ある意味、うちの田舎は演出抜きで昭和がまだ続いているから、愛・地球博の「サツキとメイの家」より価値が高いかもしれない。
 雑貨屋さんには懐かしいもののオンパレード。昔のガチャガチャ、瓶のコーラにペプシにラムネ。メンコ、ビー玉、ベーゴマ、フラフープ。アイスクリームのボックスは子供時代に見たやつそのままで、メロンの形をしたケースのメロンアイスや卵のやつやチョコバナナなど、当時のままの姿で売られている。少年時代、こんなものをどれだけ飲んだり食べたりしたか。あんな体に悪そうなものを毎日食べてよく健康に育ったものだと感心する。考えてみると、今の子供たちよりよほどたくさんの悪げなものを摂取してきた私たちの世代だ。食品添加物なんかも入り放題だっただろうし、健康にいいものなんて観念自体が存在しないも同然だった。コーラを飲むと骨が溶けるという都市伝説も今となっては笑い話だ。
 大がかりなセットとしては、学校の教室を再現した食堂や子供の遊び場だった空き地の「夕日ヶ丘公園」、ゲームセンター、スバル360や新幹線ひかりのミニチュア、赤い屋根が特徴の丹頂型電話ボックスなどがあった。

台場一丁目商店街-3

 小学校の下校途中、毎日のように駄菓子屋に通った。あの駄菓子屋のおばちゃんは今思えばまだ30代だったんじゃないだろうか。全部が10円、20円だったけど、それでも使えるのは100円くらいだから、毎日どれを食べてどれを我慢しようか頭を悩ませたものだ。それがまた楽しかった。
 それにしてもここの駄菓子はどれも高い。当時の値段を知ってるものだから、なんだかだまされてるような気になってなかなか買えなかった。10円、20円だったのが50円、60円って言われるとぼったくりと思えてしまう。これが今の定価なのか、観光地価格なのかは判断がつかなかった。冷静に考えれば今はもう1,000円でも2,000円でも好きなだけ買えるのに、駄菓子屋に入ると少年時代の自分に戻ってしまうらしい。
 結局、私とツレでアメやらチョコやらカレーあられやら200円分買っただけだった。なんて貧乏くさい。これじゃあ小学生のままではないか。大人なんだからせめて500円くらいは買わないと。けど、いくつになっても駄菓子っていうのは大人買いするもんじゃないようにも思える。本気であれもこれもと買いだしたらすぐに3,000円くらいいってしまうだろうし。

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 わー、ピンクレディーのレコードだ、と駆け寄るふたり。完全に昭和の子供に戻っている。この中の何枚かは確かに持っていた。「カルメン'77」は特にジャケットに見覚えがある。当時はミーちゃんかケイちゃんかどっちが好きかという話によくなった。私はもちろん、ミーちゃん派だ。
 当時のアイドルと今のアイドルはまったく別の物だ。時代が違っているから、もうピンクレディーやキャンディーズは出てこない。たのきんトリオや松田聖子も。アイドルという名前は残っても、アイドルの時代はもうとっくに終わっているのだ。

 ここを作るときは団塊の世代まで客層を広げようということで昭和30年代が選ばれたというのがあったそうだ。ただ、実際にはその下の世代や若者が意外に多かったということで、2006年の11月に新たに昭和40年代、50年代のテイストを加えて新装開店した。だから、我々の世代としてはあらたに加わった部分がちょうど小中学生の頃で懐かしさど真ん中だった。
 最近は海外からの客も増えているという。中国や韓国の人もどこか共通した時代感覚があったのだろう。

台場一丁目商店街-5

 昭和の食べ物屋は、セットとしてだけではなく現役の飲食店として営業して、当時のものを食べたり飲んだりできるようになっている。全店舗30ほどの中で飲食店は5軒ほどだろうか。一杯飲み屋や、写真のように美空ひばりの店「ひばりフルーツパーラー」などもあった。
 その他、「怪奇屋敷」(大人600円)や、射的場、ゲームコーナー、ボウリング場なども用意されていて、買い物から遊び、飲食まで楽しむことができるようになっている。
 サンリオファンなら、「さんりお屋お台場店」へ行かねばなるまい。ここでしか買えないものも取り揃えている。

 台場一丁目商店街を作りものの昭和だと思うか、懐かしさに浸って楽しめるかは、昭和に対する思い入れの強さによって違ってくる。この時代を知らない人でもいろいろ楽しめることは多いだろうけど、やはり昭和に少年少女時代を過ごした人が感じるであろう懐かしさは特別のものがあると思う。再現度としては、まずは申し分ないものだろう。外国の街を再現したテーマパークのような安っぽさはない。時代考証的にどうなんだとか細かいあら探しをしたら楽しめないから、気持ちだけでも子供時代に戻って素直に面白がりたい。ここはひとりで行くよりふたりで行った方がいい。多すぎてもかえってよくない。昭和に育った同世代と行くのが最適な場所だと思う。30代以上のデートにもいい。
 ひとつ希望としては、働く店員も昭和の人にして欲しいということだ。せっかくセットも小物も完璧に昭和しているのに店員だけが若い女の子ではムードも壊れてしまう。駄菓子屋にはおばちゃんが似合うし、文具屋なんかは頑固オヤジだろう。店によっては怖そうなおじさんや粋な若者や色っぽい女の人など、それぞれに合った人材を起用して欲しいところだ。テーマパークとするなら、そこまでこだわってもおかしくはない。

 昭和30年代は、戦争が終わって10年経って、町もだいぶ復興して、これからどんどん新しい日本に向かっていって、明るい未来が待っていると大人も子供も信じられた時代だ。未来は誰にとっても未知で、ワクワクドキドキするものだった。貧しくても活気に溢れ、まだ人と人とがしっかりとつながっていた時代でもある。男は男らしく、女は女らしく、子供は子供らしかった。もちろん、悪いことや駄目な部分もたくさんあって、だから今の時代があるのだけど、それでもやっぱり振り返ってみればいい時代だったと感じるのは間違いじゃない。その時代を生きていなくても。
 バブルが弾けて、不況に陥って、少し明るさが戻ってきた今、ようやく私たちはあの頃を懐かしむ気持ちの余裕を取り戻してきたのだろう。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』がこのタイミングで作られて好評だったのも偶然ではない。ちょうどあの作品の舞台も昭和33年だった。リリー・フランキーの『東京タワー』も、今書かれ読まれるべき物語だったのだと思う。
 懐かしいという感情はそんなに後ろ向きのものではない。それは必ずしもあの時代に戻りたいということではないからだ。私たちは今の時代にさほど不満を持っているわけでもないだろう。ようやくそういう振り返る心のゆとりを持てるようになったことを喜んでいい。記憶は都合良く塗り替えられ、思い出はいつでも美しい。それを味わっていればいいのだ。懐かしさもまた、未来へ向かう原動力になる。
 最後に、最高の昭和トリップ小説として広瀬正の『マイナス・ゼロ』をオススメしておきます。集英社文庫はとっくに絶版になっていて オークションでも1,200円なんて値段が付いていてちょっと入手が難しいので、図書館ででも見つけたらぜひ。SFは読まないなんて偏見を捨てて読んでみれば、日本にもこんな素敵な小説があったのかと思うことでしょう。

古くて新しすぎる浅草寺は人混みと熱気と失望と人形焼の味

東京(Tokyo)
浅草寺-1

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f5.6, 1/250s(絞り優先)



 日本で一番参拝客が多い寺は浅草の浅草寺だと言われている。観光客を入れると年間で3,000万から4,000万人が訪れるというからすごいものだ。でもちょっと待て、それじゃあ日本人の3人か4人に1人は毎年浅草寺を訪れることになってしまうぞ。そんなアホな。40人のクラスで今年浅草寺に行った人手を挙げてくださいと言って13人も手が挙がるとは思えない。この数字はどこから来てるんだろう。毎日のように訪れる人がいるということだろうか。
 それはまあいいとして、浅草寺は東京都内で最も古い寺院だということは案外知られてないかもしれない。創建は628年というから聖徳太子が死んでまだ間もない時代、近所に住む兄弟漁師が兄弟船に乗ってか乗らずか、隅田川(当時は宮戸川)で網を投げていたら金色の仏像が釣れてびっくり仰天、ご主人にこれを見せたところ主人も舞い上がってしまって急きょ屋敷を寺に改装してこの仏像を祀ったのが浅草寺の始まりだ。
 現在でも本尊となっている聖観世音菩薩像だけど、秘仏として一切公開されていない。ホントはないんじゃないのかという声さえある。大きさは5.5センチで金色をしているらしい。
 なんでも645年に勝海上人が寺を整備したとき観音さんが夢に出てきてヒミツにしておきなさいと告げたんだとか。なんか怪しいなと疑ってしまうのは下衆の勘繰りというやつか。

 浅草寺前に初めて立ったとき、みんなはどんな感想を抱くのだろうか。私は、わー、意外、と思った。ロケーションが想像していたのとは全然違って腰が砕けた。浅草自体がもっと下町情緒のいい意味での田舎町だと思っていたら立派な大都会で、浅草寺も賑やかな駅前の大通りに面していて拍子抜けしたのだった。もっと奥まったところの行き止まりに雷門があるものとばかり思っていたのに。たぶん、私の中のイメージと東京のズレは、基準が京都の街並みになっているからなんだと思う。京都の神社仏閣と街との融合と、東京のそれはまるで違うものだから強い違和感を抱いてしまうようだ。もちろん、名古屋ともまったく違う。
 雷門前からして人が群がり集まっていて、周囲にはたくさんの人力車が観光客を乗せたり客引きをしたりしていた。ここは東京の中でも特に観光地化している一角だった。
 人力車への誘いを断り、人混みを避けつつ、いざ浅草寺の雷門へ。わ、自分、今、雷門の前にいる! と思ったらちょっと興奮した。ここに立つ自分というのは想像したことがなかった。

 浅草寺に行く前に、浅草について少しだけ勉強しておこう。
 江戸というと徳川家康以前は無人の荒れ地のように思われているけど、そんなことはない。ちゃんと人も住んでいたし、江戸城もすでにあって、城下町としてそれなりに栄えてもいた。特に浅草は早くから開けたところで、浅草寺を中心に歓楽地となっていた。
 そもそも江戸を最初に開拓したのは、平安時代の終わり頃の秩父氏の一族だったと言われている。この地を江戸と名づけ、自らも江戸氏を名乗るようになる。江戸氏は源頼朝が鎌倉幕府を作ったときは御家人となっている。
 その後、今に続く江戸の基礎を作ったのが扇谷上杉家の家老だった太田道灌だ。江戸氏の居城跡地に江戸城を築城したのが1457年のことだから、江戸幕府の150年も前に江戸の基礎はできていたのだ。
 家康は何もないところに江戸という町を作り上げたわけではなく、江戸を大改造したという認識が正しい。浅草も江戸の城下町の一角として、徳川家と共に発展していった。
 というのが江戸と浅草の簡単な歴史だ。浅草は単なる下町ではない奥の深さがある。

浅草寺-2

 仲見世通りは大量の人の波がゆったりと動いていて、人をよけて歩くのが大変だ。時速1キロも出てなかったかもしれない。浅草寺大渋滞と名づけてもいい。東京は駅の構内や電車、店内などでは意外な行儀のよさを見せるのだけど、ここは地方からの観光客だらけなので秩序というものがまるでない。東京に暮らしている人が一番近づきたがらないところかもしれない。
 雷門から浅草寺へと続く250メートルの参道の両脇には、名物のお菓子や怪しいジャパニーズ服を売る洋服屋から正統派のお土産物屋まで、脈絡のない幅広の店舗展開で楽しませてくれる。時代によってその顔ぶれも移り変わっていったのだろうけど、現在は88軒が商売をしているそうだ。
 仲見世が始まったのは江戸時代になってからで、最初の頃は10数軒ほどの出店があっただけだったらしい。売っているものも、手作りの竹細工や線香などといった半端な品揃えだったようだ。
 その後、茶店が出たり、お菓子屋やおもちゃ屋などが登場したりして、少しずつお祭りムードが盛り上がっていき、江戸時代も後半になると芝居小屋などもできて、娯楽場としての役割も果たすようになっていった。
 明治にはレンガ造りの建物となり、関東大震災で壊れた後、翌1924年に鉄筋コンクリートで再建された。空襲である程度焼けたものの、修繕して今でも当時の建物が使われている。外から見てもかなり古びていたけど、内部はかなりガタが来ているんじゃないだろうか。

浅草寺-3

 浅草名物といえば、人形焼も定番のひとつだろう。食べたことがなかったので買って食べてみた。作りたてが3個100円と安い。
 何軒かある中でたまたま入ったのが「三鳩堂」というところだった。テレビ「旅の香り」でヒロシもここで買っていたと思う。店によって形がいろいろ違って、ここのはころんと丸い形をしているのが特徴だ。五重塔など膨張していて何をかたどったのか最初分からなかった。
 皮がふんわりしていて中のあたたかいあんことのマッチングもよくて美味しかった。何かに似ているようで似ていない独特の食感だ。気に入った。お土産にしてしまうと冷めて少し味が落ちるのが残念なところだ。
 店の前に置かれた全自動袋詰めマシーンが素敵だった。思い切り昭和の香りが漂うスイッチボックスと厚紙で作った通路。焼き上がった人形焼きをマシーンに乗せるとベルトコンベアーに運ばれて自動で袋詰めされてケースの中にボトンと落ちる仕組みになっている。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のドクが発明した自動朝食マシーンみたいだ。これを見るだけでも「三鳩堂」で買う価値がある。老舗好きの人は明治元年創業という一番古い「木村屋本店」へ。

浅草寺-4

 今日はずいぶん前置きが長いなと思った人もいたかもしれない。でも大丈夫、実は浅草寺そのものはあまり見どころがなくて、もう書くことがないのだ。雷門も本堂も五重塔も宝蔵門も、全部戦後の昭和の建物だから、ありがたみがない。昔の面影に思いを馳せることもできず、気分は盛り上がらない。唯一、二天門が焼け残ってるだけだ。宝蔵門はニューオータニホテルの大谷米太郎が寄進したものだし、雷門は松下幸之助が建てたものだと知ってなんだそりゃと思ってしまった。焼け落ちる前の雷門や、国宝だった本堂が残っていたら、どんなに素晴らしかっただろう。942年の五重塔とは言わないまでも、1648年に徳川家光が再建したやつはせめて見たかった。そんなことを願っても、今はもう詮無きことだけど。
 浅草についても、浅草寺に関しても、個人的にはあの雰囲気や空気感は嫌いじゃなかったけど、浅草寺の建物は残念だった。神社仏閣だけは、なりがどんなに立派でも新しければ新しいほどありがたみは薄い。

浅草寺-5

 新しい五重塔は、顔がいいだけの男みたいで、なんだかのっぺりとした印象だった。
 1973年(昭和48年)に再建されたこれは、鉄筋コンクリートでアルミ合金瓦葺きと近代的な造りになっている。もう倒れることも焼けることもないだろう。高さは土台とあわせて53メートル。こんなものがよく残って建っているなぁと感心できるのは500年後に生まれた人たちだ。
 アメリカ人パイロットは、五重塔を見てこれは燃やしちゃいけないものだと本能的に思わなかったのだろうか。それは戦争の勝ち負けとは全然別の部分なのだけどな。
 そんなわけで、人々の熱気と喧噪とは裏腹に、少しシュンとした気分で浅草寺を後にした。ただ、浅草寺に行けたことはとても嬉しいことだった。

 浅草は私の中ではビートたけしと強く結びついていて、浅草を思うときいつも「浅草キッド」が頭の中で流れ出す。
♪お前と会った仲見世の 煮込みしかないくじら屋で
 夢を語ったチューハイの泡にはじけた約束は
 灯の消えた浅草の コタツ1つのアパートで♪

 浅草時代を歌ったビートたけし作詞・作曲のこの曲は、昔ビートたけしのオールナイトニッポンを聴いていた世代には懐かしい曲だと思う。当時の私は、この一曲によってたけしは天才だと確信していたものだった。
「くじら屋」のモデルとなった「居酒屋 捕鯨船」は今でも浅草六区のフラワー通りにあるという。酒が飲めない私が行くことはないだろうけど、たけしのファンがひそかに行っているに違いない。
 店のキャッチコピーが「鯨(げい)を食って、芸を磨け!」だそうだ。浅草出身の萩本欽一や渥美清などもよくこの店に行ってチューハイを飲んで、鯨を食べていたという。「鯨(げい)を食って、ゲイになれ」じゃなくてよかった。
 ビートたけしの「浅草キッド」は名曲なので、聴いたことがない人はぜひ聴いてみてください。少し前に福山雅治がカバーしていたけど、ちょっと違った。上手い下手じゃなく、福山くんが歌って説得力のある曲じゃない。
♪夢はすてたと言わないで 他にあてなき2人なのに
夢はすてたと 言わないで 他に道なき 2人なのに♪

 昔も今もこの曲を口ずさむときは心がちょっと弱くなっているときで、少し泣けそうになる私なのだった。

2007年はカレー再チャレンジ元年、私を美味しいカレー屋に連れてって

食べ物(Food)
ハンバーグカレー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f3.5, 1/40s(絞り優先)



 日本生まれじゃないのに今や日本を代表する食べ物となったカレーライス。世の中にカレー好きは多い。子供が好きな食べ物のベストテンには必ずといっていいほど入っている。日本人の味覚とカレーの味はよほど相性がいいのだろう。平均すると年間でひとり60食以上食べてるというから、日本人はみんな毎週一回はカレーを食べていることになる。本当だろうか?
 私は自分ではとても日本人的な資質の持ち主だと思っているけど、カレーに関しては一切の思い入れがない。嫌いではないし、食べればそれなりに美味しいとは思うけど、明日からカレーライスが地球上に存在しなくなったとしてもまったく困らない。カレーって絶滅したんだ。へぇ、そうなんだ、ってなくらいのものだ。年間にすると5回食べるかどうかだろうか。
 ひとつにはカレーというのは自分の中ではインスタント食品という位置づけにあって、積極的に食べようと思うものではないということがある。どうせ食べるならもっと美味しくて体にいいものを食べたいと思ってしまう。要するに優先順位が低くて、なかなかカレーの番が回ってこないということなのだろうと思う。もちろん、外食でカレーライスを食べるなどということは一切ない。最後に外でカレーを食べたのは、中学一年のとき近所に初めて「CoCo壱番屋」ができたとき友達に連れられて行ったときだったと思う。あのときは、5辛とか10辛とかを食べてみようってことになって、私は控え目に中間くらいのやつを注文したのだけど、それでも涙目になって途中でギブアップしたのだった。
 こんなカレーに興味のない私は日本人としておかしいと思う方は、私を美味しいカレー屋さんに連れてって。2,000円以上のやつに。
 そうはいっても、私でも年に2、3回はカレーでも食べようかなと思うことがある。カレーから逃げ回っているとか、カレーを憎んでいるとかそういうことではない。今日突然、それが来た。こんなときでもないと食べることがないから、作って食べてみた。せっかくだからハンバーグカレーにして。そして食べ終わって思うことは、カレーは所詮カレーだよな、というものだった。
 しかし、私の好物のベストスリーのひとつがビーフシチューなのだから人というのは分からない。ビーフシチューは本当に大好きでよく食べる。ホワイトシチューよりずっと美味しいと思う。得意と苦手は隣り合わせというけど、それは異性の好みにも食べ物にも言えることらしい。

 カレーライスは明治時代にイギリス経由で日本に入ってきたというのが定説になっている。カレーといえばインドなのは間違いないところだけど、インドを植民地にしていたイギリス人が本国に持ち帰ってアレンジしたものが日本に伝わって、それを日本人が更に改良して今のスタイルになったと言われている。実際、インドカレーと日本のカレーはずいぶん違っているから、インド人にしてみれば日本のカレーは自分たちが食べているものと同じだとは思わないだろう。イギリス人がどんなカレーを食べているかはよく知らないけど。
 イギリス軍を手本にしていた海軍が持ち込んだというのと、文明開化の明治時代に洋食とともに入ってきたという話と二通りあって、そのへんははっきりしていない。初めてカレーを食べた日本人は会津藩の当時16歳だった山川健次郎だったという話もあるけど、本当かどうかは定かではない。明治19年に神田橋の丸久でカレーが発売されたという記録が残っているから、それが日本初登場ということになるのかもしれない。
 当初から昭和40年頃までは、ライスカレーと呼ばれることが多かったそうだ。私が物心ついた頃にはもうカレーライスになっていた。別にどちらでもいいのだけど、curried riceとrice and curryとのニュアンスの違いというのはあるのかもしれない。イメージとしてはカレーライスの方が高級感のあるものだったらしい。
 カレーが一般大衆の家庭料理として定着するようになったのは、やはり戦後になってからだ。1954年にヱスビーが日本で初めてカレールーを発売して以来、各メーカーもそれにならって、それまでのカレー粉タイプからルータイプに移っていった。失敗が少ないということで、お父さんがたまに作る夕飯がカレーだったという家庭も多かっただろう。
 大塚食品がボンカレーを発売したのが1968年。これは画期的だった。お湯で温めればいいだけの手軽さが圧倒的に支持された。ただ、これによってカレーは子供でも作れるようになってしまい、家庭でのお父さんの地位が微妙に下がったというのがあったんじゃないかと思う。
 カレー全盛時代は私たちが子供の頃の昭和50年代だっただろうか。当時は今ほど食生活が多様ではなくてカレーはごちそうの部類に入ったし、学校給食で出るカレーうどんなどは一番の人気メニューだった。
 現在は様々なカレー商品が発売されていて、どれを買っていいものやら分からないくらいだ。カレー事情にうとい私などは、カレーコーナーの前で固まってしまう。シェアでいうと、ハウスが60パーセント、ヱスビーが30弱、江崎グリコが10ということで、この三社が独占状態になっているとか。ヒデキ感激~! なんてのも今となっては若者に通用しない。

 今後の私のカレーライス・スケジュールとしては、夏くらいにもう一度食べようかなと思っている。たぶん、その頃にまた食べたくなるんじゃないかと。それから、今年は一度だけレストランで美味しいカレーを食べてみようかと考えている。横濱カレーミュージアムに行ってみてもいい。もしかしたら、そこでカルチャーショックを受けて、カレーの美味しさに目覚めるかもしれない。それでも感じるものがなければ、私はもうカレーをあきらめよう。こんな美味しいものの味が分からないなんてインド人もびっくりと言われても仕方ない。
 2007年はカレー再チャレンジ・イヤーと名づけよう。毎日がカレー曜日となるだろうか。突然カレー大好き人間になってカレーばかり食べるようになって私の顔がカレー色になったとしてもびっくりしないでください。人間、何かのきっかけで道を踏み外すということはよくあることだから。

ノーマルサンデー料理

 昨日のサンデー料理は、写真のようにノーマルサンデーだった。特に事件も事故もなく、普通に作って、それなりに美味しく食べられた。
「マグロと野菜のサイコロトマトソース煮」、「エビとキャベツとタマネギのヘルシーシュウマイ」、「ツナとジャガイモのお焼き甘辛ソースがけ」の3品だった。
 少し失敗だったのが、シュウマイの餡のつなぎとしてカタクリ粉を混ぜすぎて固くなってしまったことだ。カタクリ粉は必要なかった。
 ツナ缶は簡単料理なので一品増やしたいときにオススメだ。ジャガイモを千切りにして茹でて、あとはツナ缶と長ネギの刻みと卵黄、小麦粉を混ぜて焼くだけだ。たれは、しょう油、からし、酒、みりん、砂糖をひと煮立ちさせる。
 トマトソースはいろんなものに合う。マグロのサイコロステーキとも相性はいい。酸味が勝ちすぎないようにコンソメの素と砂糖をやや多めにして甘くした方がいい。

 サンデー料理も安定期に入って、やや面白みを欠くものとなっている。今後は突撃!私の晩ごはんも増えていくので、自分で作るサンデーの方はもう少し冒険していってもいい。人に食べてもらうものはあんまりチャレンジできないから。見知らぬ外国料理シリーズも復活させたいし、使ったことがない食材の料理にも挑戦していこう。それと、お絵かき料理もある。
 趣味なんだから上手くいかなくたっていいじゃない、という「時効警察」のオダギリジョーの言葉を今こそ思い出そう。

イモリ・トカゲ注意報発令---東山自然動物館シリーズ第一弾

動物(Animal)
東山自然動物館-1

Canon EOS Kiss Digital N+EF50mm(f1.8 II), f1.8, 1/25s(絞り優先)



 トカゲ・ヤモリ注意報発令です。苦手な人は非難してください。これは訓練ではありません。繰り返します。これは訓練ではありません。
 というわけで、今日は東山動物園で撮ったトカゲとヤモリとその仲間たちの写真を紹介したい。動物園の中に「動物自然館」という建物があって(床面積3,800平方)、夜行性の動物、は虫類、両生類など約170種類、1,000匹(頭)の生き物が飼育展示されている。建物内は薄暗く、やや怪しい雰囲気も漂う。私は初めて入ったのだけど、これが実に楽しくて、今回ツレとふたり、ここでかなりの時間を費やしたのだった。野外の動物園より面白いかもしれない。
 夜行性ほ乳類はあらためて紹介するとして、第一弾はは虫類のトカゲたちにスポットを当ててみた。といっても、私が根っからのは虫類野郎だとか、顔がは虫類っぽいとかではないので勘違いをしてはいけない。特別好きなわけでもなく、思い入れもない。ただ、今回たくさん見て回ってちょっと興味を持ち始めたことも確かだ。いきなり飼うまではいかないまでも、もっとたくさん写真を撮ってみたくなった。は虫類は意外といい被写体だ。館内が薄暗くて明るいレンズでも苦しいのだけど。

 最初に登場するのは、ヤシヤモリ。目が体と同色なのがユニークだ。目を開いてるのか閉じてるのかよく分からない。ちょっとサングラスっぽくもある。
 インドネシアなどの東南アジアの島々にすむヤモリで、大きさは20-30センチくらいとヤモリの中では大型と言える。森林の他、民家にもいるそうだから、ちょっと怖い。夜トイレに起きてこいつと目が合ったら思わず悲鳴を上げて少しちびってしまいそうだ。
 体色は土色で一見地味ではあるけど、背中にY字の白い縞模様があったり、白黒ツートンのしっぽを持っていたりして、じっくり見ているとけっこう美しい。
 エサは主に昆虫で、飼育も比較的簡単だそうだ。値段も1,500円-2,500円くらいとイモリにしては安いということで、イモリ初心者に向いてるとか。

東山自然動物館-2

 今回、案内プレートを写真に撮り忘れて、名前を覚えていない。元々トカゲやヤモリに対して熱い思いを抱いていたわけではなかったから、前半は特に軽く流し見てしまった。次に行ったらちゃんとプレートも撮ってこないといけない。
 これはエメラルドゲッコウとかいう名前だと思ったんだけど、ネットで検索しても出てこないからどうやら違うらしい。なかなかきれいな黄緑色のヤモリだ。指先の黄色もちょっとお洒落。
 ヤモリやトカゲも大きさが10センチくらいだと可愛く感じられるというのがあって、20センチを超えるとちょっとひるむ。生き物の大きさと可愛い基準というのは人によっても国によっても差があるのだろうけど、基本的に自分の感覚より大きすぎるものは一種の恐怖を感じるように人間の心はプログラムされているように思う。カブトムシだって30センチを超えたら子供は泣き出すだろう。
 こいつに関してはほどよい大きさでかわいげがあった。色も爽やかな派手さだし、これなら飼ってもいいなと思った。

東山自然動物館-3

 これは上の写真と同じやつだったか違うやつだったか。張り付き具合がいい感じだった。通常壁に張り付いてるヤモリを腹側から見る機会はあまりないので、こちからの姿は興味深かった。でも、これが自分のおでこに張り付いたところを想像したら、かなり嫌だった。そういう人が前から歩いてきたらもっと嫌だ。
 ヤモリの指ってどういう構造になってるか知らないけど、よくできている。くっつくのと放すのと、どういうふうに力を使い分けているんだろう。この指が欲しいかといえば欲しくはないけど。

東山自然動物館-4

 これも名前のメモ撮り忘れ。ブルーがかった体色が格好良い。グフっぽくて。
 それにしても、なんでこんなにたくさんの種類の生き物が必要なんだろうと不思議に思う。いろんな環境があるからいろんな種類の生物が登場するのは分かるけど、同じヤモリやトカゲでこんなにも種類はいらないだろうと思う。ヤモリなら3種類もいれば充分じゃないか。ヤモリがいなければ夜も日も明けないってわけじゃないのだから。それとも、一種類も無駄なく全部の種類で自然が機能しているというのだろうか。

東山自然動物館-5

 これはトカゲの一種だろうか。そういえば、ヤモリとトカゲの境界線を私は知らない。カメレオンとはどうなんだろう。なんとなく大きさの違いのような気もするけど、実際は生物学的に明確な違いがあるのだろう。そのへん、近いうちに勉強しなくてはいけない。
 写真のこいつは何者だろう。東山動物園のサイトに説明があった「グリーンバシリスク、サイイグアナ、パンサーカメレオン、ジャイアントカメレオン、エボシカメレオン、ヒョウモントカゲモドキ、オオヨロイトカゲ、アメリカドクトカゲ、ミズオオトカゲ、ハナブトオオトカゲなど」の中のどれかなんじゃないかと思うけど、「など」のうちの一種かもしれない。
 スタイルとしてはオーソドックスで、恐竜を思わせる。これを巨大化させればそのまま恐竜だ。ああ、そうか、は虫類に惹かれるのは恐竜の小型版だからなのかもしれないと今ふと思った。男の子は特に、子供の頃は恐竜が好きだ。あれはなんでだろう。幼い頃は脳の古い部分であるR流域の支配が強くて、それが遠い記憶を呼び起こすからなのだろうか。それが物心ついていく段階で新しい大脳新皮質の支配に取って代わられることで興味をなくしていくということなのか。

東山自然動物館-6

 これはトカゲ界ではもしかしたら一番有名かもしれない、グリーンイグアナだ。昔、所ジョージが飼っていて、それをもらったというか押しつけられたビートたけしが困ってしまったというやつ。こいつを飼ってる人はけっこういそうだ。ペットショップだけでなくホームセンターでさえ売ってることがある。
 丈夫で草食性でおとなしいということから飼育も簡単だと言われている。ただし、すぐにでかくなる。環境さえよければ2メートルにもなるから、6畳ひと間で同居するにはかなり厳しい。水槽で飼えばそれほど大きくならないとはいえ、本格的に環境を整えようとすると数万円はかかるから、あまり手頃なペットとは言えない。
 北米から中南米に分布していて、水辺の木の上で大部分の時間を過ごす。危険を感じると水の中に逃げて、30分以上ももぐっていることができるという。泳ぎも上手い。
 エサは子供の頃は雑食性で、成長すると草食性になる。
 成長につれて鮮やかなグリーンからだんだん地味な灰色になっていくのが悲しいところ。寿命は15年から20年とけっこう長い。
 日光に当たらないと生きていけず、日光浴のためにじっとしてることが多い。日没と共に眠りにつき日の出と共に起き出す早寝早起きの健康生活者だ。
 険しい目つきとゴツゴツの頭、ゴムのような腕とたれ下がった頬と、愛嬌があって見ていると笑えてくる。こいつを肩の上に乗せてラッシュの山手線に乗れば、楽に学校や会社に向かえそうだ。自分の周囲1メートルにスペースができて。頭の上に乗せると、輪は1.5メートルまで広がるだろう。

 東山動物園の自然動物館は見どころ満載で写真の被写体もたくさんのおすすめスポットだ。ヘビコーナーなどは気が滅入るけど、そのへんは軽く流しつつ、見慣れない面白い生き物がたくさんいて飽きさせない。ここはちびっこも少ないから、静かにゆっくりできる。
 変わった形や色のカエルなんかも撮ってきたので近いうちに写真を載せたいと思っている。そのときはカエル注意報が発令されるので注意してください。
 東山の自然動物館シリーズは今後も続きます。

平日の東山動物園はちびっこ天国で昭和レトロの平和さが漂う

動物(Animal)
東山動物園の幼稚園生たち

Canon EOS Kiss Digital N+EF55-200mm(f4.5-5.6 II), f7.1, 1/160s(絞り優先)



 ちょっと留守してる間、ツレと東山動物園をうろついていた。10時半に入園して、閉園の5時まで歩きに歩いた6時間半。坐ったのはランチの30分くらいで、あとは歩いてるか立ち止まって観察してるかで動物園をしっかり堪能したのだった。一日でほぼ全園見切った。そろそろボランティアガイドができそうだ。
 この日は平日ということで、ちびっこ軍団が大襲来。色とりどりの服と帽子の幼稚園児たちが引率の先生に連れられて大挙して押し寄せていた。その数は数百単位を超えていたかもしれない。お昼時は無料休憩所はちびっこ軍団に占領されて、ものすごいことになっていた。たまたまこの日はちびっこデーだったのか、それとも普段からこんなものなのか。ただ、これをもって東山動物園が潤っているかといえば決してそんなことはない。小学生以下は入園無料だから、子供たちがいくらやって来ても動物園はちっとももうからない。少し前までは敬老も無料でお年寄り天国でもあったけど、さすがにそんな余裕も見せていられなくなって100円取るようになった。気づくが遅すぎるぞ、東山。子供も50円くらいにしていいんじゃなかと個人的には思う。
 それにしても相変わらず東山動物園は昭和の香りが色濃く漂っていてホッとする。お土産屋コーナーなどは私が子供の頃行った観光地の風情そのもので、見ているとちょっと笑えてくる。このレトロ感がたまらない。旭山が当たったからといってどの動物園もマネをする必要なんて全然ない。むしろ時代に逆行して、もっと昭和色を濃くすればいい。それが巡りめぐって新しさにつながるかもしれない。昭和の動物園を前面に出して宣伝した方がかえって人気は上がるんじゃないだろうか。単に古びてしまったというのではなく、昔なつかしさを演出すればいい。

東山動物園のリス

 リス園のニホンリス。やっぱりこいつはエサを食べてるときの仕草がキュートだ。意外とたくましい足で立ち上がって、手でエサを持って一心不乱にかじっている姿に心が和む。
 ここのリスはハウスの中に放し飼いにされていて、人もあまり怖がらないので至近距離で見ることができる。ピーナツなどのエサを持っていれば手渡しもできる。慣れてるやつは背中に乗ってきたり。
 少し離れた子供動物園の方にいるから、東山へ行ったことがあってもここは知らない人もいるかもしれない。ヤマガラやルリビタキ、オシドリなんかもいて、写真を撮るにもいいところなので、おすすめしたい。

東山動物園昼寝中のアシカ

 カリフォルニアアシカはお昼寝中。いつ見てものんきに寝ていることが多い。野生ではけっこう用心深い生き物のはずだけど、動物園生活も長くなるとすっかり油断してしまうのだろう。見えるところに強敵の白クマがいるのに、そんなことはまったくおかまいなし。水族館のアシカは芸をしないとエサをもらえないけど、動物園のアシカは寝ていればいい。気楽な稼業だ。故郷の夢でも見ているのだろうか。
 こんな動物園ののんきなアシカの一番の敵は、同じプールにいる他のアシカたちだ。陸地にあがってきたやつが体の上に乗ってまたいでいくもんだから、腹が立って仕方がない。せっかく気持ちよく昼寝してるところを起こされて、ウォーウォーと吠えて遺憾の意を表していた。他のやつにしてみれば、狭い陸地の上にでかい図体で寝そべりやがって邪魔なやつめと思っていたのだろう。

東山動物園の乗り上げアシカ

 乗り上げるアシカと乗られるアシカ。こりゃあ怒るのも無理はない。人だって寝てるところを上から腹ばいで誰かが乗り上げていったら怒るだろう。

怒って吠えるアシカ

 起こされて腹が立って吠えているアシカ。その怒りはしばらく収まらなかったようで、うなり続けていた。動物園生活も楽なことばかりではない。

東山動物園のキリンたち

 この日の動物園は太陽が雲に隠れがちで少し寒かったこともあって、動物たちは全体的にぐうたらしていた。普段はのそのそ歩いてることが多いキリンさんも、みんなそれぞれしゃがみ込んでやる気出ねぇなぁという感じだった。
 動物園の春はまだ少し遠いようだ。けれど、カンヒザクラも満開で、写真のようにアカシアも黄色い花をたくさん咲かせていた(フサアカシアかな)。桜も蕾が膨らみ始めていて、花の方はひとあし先に春を迎えたようだ。

 ひとり動物園も好きだけど、ふたり動物園はもっと楽しい。ひとりで6時間は間が持たなくてもふたりなら全然退屈しない。1週間くらいなら住んでもいい(それは相手が嫌がるだろう)。デートにも動物園はいいところだ。話の間が持たないから映画を見に行くというよりよっぽど得るものが多い。ただし、その場合、体力がある人に限る。1時間も歩いたら泣き言を言うような人を動物園に連れて行ってはいけない。最低3時間は歩き続けられる人でないと、むしろ評価を落とすことになりかねないので注意が必要だ。
 東山動物園はそろそろ再生計画が本格化してきて、全面的リニューアルに向けて動き始めた。昭和レトロ動物園としての東山は近い将来見ることができなくなる。どんなふうに生まれ変わるか楽しみな一方、この味は残しておいてもらいたいなとも思う。平成生まれの子供たちに昭和レトロの味を見せてあげるためにも。
 ブログのネタに困ったら動物園、これが最適だ。一日行けば2週間は持つ。植物園も一緒に行けば3週間はネタに困らない。今回もたくさん写真を撮ってきたから、しばらく動物ネタが続くことになりそうだ。書く方も読まされる方も飽きてきたら東京ネタに切り替えます。名古屋名物ネタとか、他にもいろいろあるから、そのへんも混ぜ込みつつ。

タダを求めて東奔西走、タダ見シリーズ4弾は聖路加タワー

東京(Tokyo)
聖路加タワーから勝鬨橋方面

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f5.6, 1/2.0s(絞り優先)



 東京タダ見スポットシリーズ第4弾は、聖路加タワー展望室。無料展望スポットとしては、東京都庁に続いて2ヶ所目となる。東京は世知辛い一方で太っ腹な面も見せてくれる。
 聖路加というと聖路加国際病院がすぐに連想される。聖路加タワーというから、病院の屋上に展望室がついているのか、そんなところにのんきに観光気分で行っていいものなんだろうかと心配したけど、そういうことではなかった。聖路加国際病院とももちろん関係があるものの、病院棟とはまったく別のものだった。聖路加ライフサイエンスセンター構想を基に、病院との提携で高度な医療、介護サービスを受けることができるオフィス、マンションが主体となっている。
 高さ220メートルのツインタワーで、オフィス棟とレジデンス棟は超高層ブリッジで接続されている。高所恐怖症の人はきっと渡れない。レジデンス棟は聖路加国際病院との連携による高級ケア付住宅というから、相当高いのだろう。
 地上47階で、ホテル、郵便局、書店、コンビニ、スポーツクラブ、銀行、各種ショップなども入っていて、最上階にはレストラン「ルーク」もある。もしかしたら、この棟の中だけで一生生活できるかもしれない。屋上には日本テレビとフジテレビのお天気カメラが設置されている。着工が1990年で、完成が1994年。
 ところでちょっとややこしいのが聖路加の読み方だ。普通に読むと「せいるか」なのだけど、もともとは聖ルカからきているので「せいるか」が正しい。だから病院は「せいるかびょういん」となる。一方で、「せいろか」という間違った読みが一般化してしまっているので、聖路加ガーデンは「せいるかがーでん」が正式名となっている。正しく言おうとすると、せいるかびょういんの近くのせいろかがーでんへ行こうぜ、と言わなければならず面倒だ。

聖路加タワー内部

 展望室内部の様子。一部ではなく、これでほぼ全景。かなりこぢんまりしている。窓としても4ヶ所くらいで、10カップルも来たらいっぱいになってしまう。この場所にひとりで訪れるのはかなり勇気がいりそうなのだけど、三脚を持ったカメラ人もいたので、棲み分けはできているのかもしれない。マイナースポットゆえの人の少なさから、かえって写真は撮りやすいとも言える。ツワモノは窓の反射写りをふせぐために黒い布を持ってきていた。
 私は根性で手持ちの2秒露出。普通じゃ絶対無理だけど、窓枠に肘をついてレンズを軽く窓に押し当てればなんとかなる。三脚野郎への道のりは遠い。
 ちょっと面白かったのは、「喫煙、飲食、望遠付きカメラでの撮影は禁止」という注意書きだ。望遠レンズは何がいけないんだろう? のぞきでもするやつがいたというのか? もしくはスナイパーお断りってことか!? 望遠レンズは何mmからダメなのか、そのあたりに詳しいところを聞いてみたい気がした。300mm望遠レンズのデジカメ450mm換算とかは不可なのかどうなのかとか。

聖路加タワーから東京タワー方面

 下に見えている広い川が隅田川で、右に東京タワーが見えている。ライトアップされているきれいな橋が勝鬨橋(かちどきばし)。近くには築地市場や浜離宮があり、遠くには六本木ヒルズやレインボーブリッジ、パレットタウンが見える。晴れた日には富士山が見えることもあるそうだ。更に、夜8時からの東京ディズニーリゾートの花火がある日はそれも見えるというから、なかなか贅沢だ。
 窓の方向が限られていて306度ぐるりというわけにはいかないけど、タダでこれだけ見えれば上等。昼間、夕暮れ、夜と、それぞれ楽しめる。夜は8時半までと閉まるのが早いので、その点は注意が必要だ。
 最寄り駅は、日比谷線築地駅か、有楽町線新富町駅で、それぞれ徒歩8分ほどと少し距離がある。月島もんじゃからもそれほど遠くないので、そちらとセットでもいいと思う(私たちがそのコースだった)。

 勝鬨橋は、隅田川の最も下流に架かる橋で、跳ね上がって開く仕組みになっている。私は知らなかったけど、東京人にとってそんなの常識? 1940(昭和15)年に架けられて以来、一日5回、20分間、真ん中でパカリと分かれて「ハ」の字になって大型船を通していたそうだ。当時はまだ車の交通量も少なく、船の方が優先順位が高かったのだろう。
 その後、車と船の立場が逆転して、だんだん開かれる回数が少なくなり、1964年以降は3日に1度ほどとなって、1967年にはとうとう開くのをやめてしまったのだった。それから年に一度、試験のために開いていたのもついには1970年を最後に開かずの橋となって今に至っている。最近、もう一度開いて欲しいという声が高まって開こう会も作られているようだ。
 交通渋滞の問題があるから無闇には開けないとしても、年に一回くらいはイベントとして開いてもいいんじゃないか。以前の調査では修繕費に数億円かかると言われたらしいけど、2006年の再調査では問題なしという報告が出たようなので、近い将来あるかもしれない。東京マラソンができてこれくらいできないはずがない。次の都知事選の公約に誰か盛り込んでくれ。
 1947年から1968年までは橋の上を都電が走っていたんだとか。
 橋の名前は、日露戦争に勝利したことを記念して付けられた。勝ち鬨を上げるのあの勝ち鬨だ。そういえば最近、エイエイ、オーって聞かないな。
 長さは246メートル、幅は22メートル。橋を造ることになったときはちょうど東京オリンピックが予定されていたときで(戦争で実現せず)、世界に向けて立派な橋を造ろうということで力が入った。完成したときは東洋一の橋と言われたそうだ。。
 それにしても、このあたりもずいぶん様変わりしたのだろう。見渡す限りのビル群で、ウォーターフロントという言葉がぴったりの大都会だ。
 水上バスや屋形船もたくさん行き来していて、観光地としても発展しているのが感じられた。隅田川沿いも整備されて、これからの季節散策するにはよさそうだ。

 東京はどこも大都会化してしまって面白くなくなったと思っている東京人も多いのかもしれないけど、よそ者がこういう夜景を見るとやっぱり東京はすごいなと単純に感心してしまう。ビルの数や明かりの量が度を超えている。こんなにも大勢の人がいて、それぞれの暮らしがあって、大量のエネルギーが必要なんだと思うと、ちょっとぞっとするくらいだ。こんな中では頭ひとつ出すどころか、埋もれて暮らすことさえ困難に思えてくる。渦巻く想念なんてことを考え始めたら、その場にいて呼吸することさえ苦しくなってきそうだ。しかも、まだまだ発展し続けている最中だから驚く。
 けれどもしかしたら、私たちは東京のいい時期の一番最後を目にしているのかもしれない。地震だっていつ起きるか分からないし、世界が明日も変わらず平和だという保証はどこにもない。街はどんどん姿を変え、成熟の次には爛熟が訪れ、やがて必然的に崩壊していく。それは誰にも止められない。今はまだ夜景を見てきれいだなぁと感心していられる。それはとても幸せなことだと思っていい。夜の中でどんなことが起きていても、それが高い場所から見えなければまだ決定的に壊れてはいない。
 東京タダ見スポット巡りはこれからも続く予定。タダを求めて西東。東に無料タワーがあれば登って見てやり、西にタダ見スポットがあれば行ってタダ見し、南に期間限定のタダがあれば何を置いても駆けつけありがとうと言い、北にもうすぐ有料になるタダスポットがあればそんなつまらないことはやめろと言い、暑いときも寒いときもおろおろ歩き、みんなにデクノボーと呼ばれ誉められもしなくても、私はタダ見野郎になりたい。

江戸のヒーロー将門さんに挨拶して味方に付けよう神田明神

東京(Tokyo)
神田明神鳥居




 今回紹介する神田明神だけど、行く前は少し及び腰だったところがある。というのも、神田明神というとどうしても平将門の怨霊が連想されてちょっと恐れていたからだ。ただ、実際に行ってみたらまるでそんなおどろおどろしい雰囲気はなくて、ちょうど結婚式も思われていたこともあって、境内はカラリと明るい空気感に満たされていてホッとした。むしろ庶民的空間とでも言えるような居心地のよさを感じた。平将門さんとケンカして勝てる自信はまったくない。できることなら味方にしておきたい人だ。
 写真や映像で見てできた頭の中のイメージと実際に行って見た印象がずいぶん違うのが東京という街で、神田明神も入口は思っていたのとはかなり違っていた。東京は性質上どうしてもそうなってしまうのだけど、それは唐突に現れるのだ。普通の街中に突如として異空間の入口があって驚く。歩いていっても前置きがない。歴史的建造物と現代の街並みが強引にくっついて隣り合わせになっている。このへんの感覚は名古屋とはまったく違っていて、まだ慣れることができない。ただ逆に言えば、神社仏閣を21世紀の街の中にそっくり残しているのもすごいと思う。東京というのは、外から見ているよりも近づいてみると意外に懐の深い街だということに気づく。



神田明神の隨神門

 鳥居をくぐって最初に出迎えてくれるのがこの隨神門(ずいしんもん)だ。
 関東大震災のときに燃え落ちてしまって以来、50年間失われたままだったのを、昭和50年に昭和天皇即位50年の記念として再建されたものだ。
 総檜の入母屋造で、四方には青龍、白虎、朱雀、玄武が彫られ、中央には御祭神である大国主之命の神話が描かれている。

 神田明神の興りは古く、社伝によると730年に出雲出身の真神田臣(まかんだおみ)が、現在将門塚がある千代田区大手町あたりに、大国主之命(大己貴命)を祀るために建てたのが始まりとされる。当時あの辺りは海岸沿いで森に囲まれた鬱蒼とした土地だったそうだ。
 940年、反乱に破れた将門を神田明神近くに埋葬したことから、一緒に平将門を祀るようになった。伝説によれば、関東で討ち取られた将門の首は京都で晒されたものの、首だけ飛んでこの地まで戻ってきたといわれている。そして次々に起こる怪奇現象。いわゆる怨霊というやつだ。しかし日本人の面白いところは、こうなってしまってはもうどうすることもできないので神として祀ってしまえという奥の手を使う。こうして日本二大怨霊、菅原道真と平将門は神様となった。その後は関東を守る太田道灌や北条氏綱などの武将たちによって手厚く保護されていくことになる。
 現在も将門の首塚は大手町で高いビル群に囲まれながらもそこだけ違う空気感が満たされているという。うっかり軽い気持ちでは近づけない。
 この強烈なパワーを味方に付けようとしたのが徳川家康だ。関ヶ原の合戦の前、神田明神に戦勝祈願をして見事勝利を収めた家康は、江戸幕府を開く際に神田明神を江戸城の表鬼門の守護するため神田山(駿河台鈴木町)へと移転させた。更に二代将軍秀忠が現在の湯島に移し、江戸の総鎮守とした(1616年)。そのときの建物は総鎮守の名にふさわしい壮麗な桃山風の社殿だったという(1923年の関東大震災で焼失)。

 神田明神が江戸庶民に愛されたのは、なんといっても神田祭の存在が大きい。日本三大祭りのひとつでもある神田祭は、関ヶ原の合戦の9月15日に行われていて、これは縁起がいいということで家康が続けるようにと言ったことで盛大な祭りとなった。
 赤坂山王権現(日枝神社)の山王祭とともに天下祭と呼ばれ、年ごとに交代で豪華な祭りが行われ、現代へと続いている。
 江戸時代は江戸中あげての大騒ぎで、36台からの華麗な山車が江戸市中を練り歩き、そのまま江戸城まで入って将軍や大奥の人々が楽しんだそうだ。今年2007年は神田祭が行われる年に当たる。5月の10日から14日まで、現在は神輿にかわったものの、大変な賑わいを見せるはずだ。山車は関東大震災でほとんど燃えてしまって残っていない。



神田明神の拝殿

 神田明神といえば平将門だけど、じゃあ御利益は何だろうと考えるとパッと出てこない。しかし実はここ、第一の神様は平将門ではなく大己貴命(大国主命)、いわゆる大黒様なのだ。そう考えるとなんだか肩の力が抜ける。大黒様は様々な縁を結ぶ神様だ。男女の縁結びだけでなく、人と仕事や人と人の縁を取り持つ神様と言われている。そのあたりからもここで結婚式を挙げる人が多いのだろう。
 じゃあ第二の神様が平将門かというとそうではない。二番目は少彦名命(すくなひこなのみこと)、恵比寿様だ。商売繁昌の神様で、健康や開運の御利益もあるとされる。
 どうして平将門が三番目になってしまったかといえば、江戸幕府が倒れて明治の世の中になったとき、突然、平将門は朝廷に逆らった逆臣ではないかということになったからだった。江戸のヒーローが一気に悪役になってしまって江戸っ子も驚いただろう。明治7年、明治天皇がここにお参りにくることになり、将門が神様ではまずいだろうということになって急きょ神様の座からはずされてしまう。二軍落ちで境内摂社に格下げ処分。そのピンチヒッターとして呼ばれたのが大洗磯前神社から助っ人としてやってきた恵比寿様だったというわけだ。
 しかし、この扱いには江戸っ子も怒り心頭。その後10年間も神田祭をボイコットしたくらいだから、相当頭に来たのだろう。江戸っ子は一宮や二宮に賽銭を入れず、格下げされた将門社の方しか参らなかったという。
 平将門が神田明神の神様として復帰するまでそれから110年を要すことになる。わりと最近の1984年(昭和59年)のことだ。



神田明神の社殿

 江戸時代を壊した三大元凶は、明治新政府と関東大震災と東京大空襲だった。地震は倒壊だけでなく火事の被害が大きかったから、ずいぶん多くの貴重なものが焼けてしまった。
 神田明神も江戸時代の社殿が関東大震災で焼け落ちた。現在のものは昭和9年に再建されたものだ。ただ、この建物は日本初の鉄筋コンクリート製で防火対策が施されていたため、空襲でも焼け残った。これ以外の建物はことごとく燃えてしまった。
 戦後は結婚式場や資料館を増築した他、大がかりな塗り直しなどされて、江戸時代の絢爛さに近づいたと言われている。現在でも神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場など108町会の総氏神様として東京都民を守っている。このあたりに住んでいる人は、一度くらい足を運んで将門さんに挨拶しておいた方がいいかもしれない。味方にすればこれ以上強力な人はいない。
 ただし、都市伝説的な言い伝えとして、神田明神側についたなら、成田山新勝寺を参拝してはいけないとされている。これは、平将門の乱を鎮圧するために新勝寺で護摩祈祷の儀式がなされたせいで、あちらに詣ると将門さんが苦しむからだそうだ。その逆のことも言われていたりする。触らぬ神に祟りなしとするなら、両方近づかない方が身のためとも言えるだろうか。
 とはいうものの、平将門さんは決して理不尽な暴れん坊とかそういう人ではない。京都の平安貴族の横暴的な支配に対抗するために関東に武士による新しい理想国家を作ろうとした人だった。個人の反乱から始まった天慶の乱は関東武士たちの支持と尊敬を集めて、関東対朝廷の戦いとして5年続いた。将門は朝廷に楯突こうとか乗っ取ろうとしたわけではない。良く言えば、弱きを助け強きをくじくヒーローだったのだ。だからこそ、江戸庶民に支持されたのだろう。
 神田明神といえば「銭形平次」を思い出す人も多いかもしれない。野村胡堂が書いた『銭形平次捕物控』の主人公銭形平次は、神田明神下の長屋に住んでいるという設定だった(敷地内に銭形平次の碑がある)。あれも庶民のための正義の味方だった。

 東京の神社仏閣巡りをしていると、この街が間違いなく江戸の上に作られた街だということを実感する。それ以前の痕跡がほとんどなくて、江戸時代だけが色濃く残っている。こういう二重構造は他の都市にはない独特のものだ。
 そして今回、神田明神のことを書いたことで、江戸っ子というものの正体が少しだけ分かったような気がした。それはつまり、自分たちは江戸の町の発展を見届けながら我が町を守ってきたという自負心から来るものなのではないか。昔から東京に住んでいる人は、町との関わりがとても深いように感じられる。たとえば神社仏閣にしても、地方都市に住んでいる人の多くは自分の町内の神社仏閣にほとんど関心さえ示さないのに対して、古くからの東京人は寺社との関わりが深いように見える。信仰心とは別の部分で日々の暮らしの中に寺社が近しいものとしてあるのではないだろうか。
 考えてみると歴史の浅い土地でこれだけ多くの寺社があるというのも不自然だし、これだけ発展した大都市で残っているというのも不思議な話だ。それだけ地元民が守る意識が強いということなのだろう。表だってはいなくても、まだまだ江戸っ子の心意気は東京に息づいている。それは、京都あたりの古い伝統を守ろうというのとはまた違ったものだ。
 江戸幕府が開かれてわずか400年。それでもこの400年は濃厚だ。
 
【アクセス】
 ・JR中央線/総武線の「御茶ノ水駅」から徒歩約8分
 ・JR山手線/京浜東北線「秋葉原駅」から徒歩約12分
 ・駐車場 あり
 ・拝観時間 終日(無料)

 神田明神webサイト
 

旧岩崎邸庭園で思った、時代は変わり、歴史は積み重なることを

東京(Tokyo)
旧岩崎邸庭園入口

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f5.6, 1/100s(絞り優先)



 明治時代の洋館に心惹かれる私は、あの時代を庶民として生きていたのかもしれない。見上げる白亜のお屋敷とぐるり取り囲まれた塀からのぞき見える緑の芝生。黒塗りの車に乗った令嬢を遠くから眺めてドキドキしたり、出入りする青い目の異人さんにドギマギしたり。
 洋館の内部に入ると、こんな家、住みにくくて嫌だなと思うから、貴族ではなかったに違いない。広くて部屋数の多い家はどう考えても落ち着かない。私の興味があるのはもっぱら洋館の外観に限られる。それはやっぱり憧れという感情なのだろうと思う。

 湯島天神から歩いていけるところに旧岩崎邸庭園があるというので行ってみた。岩崎弥太郎にも三菱にも全然思い入れはないのだけど、古い洋館があるというのでそれを見るために。
 なかなか人気のあるスポットらしく、入口から行き交う人が多い。洋館やお屋敷に憧れる庶民は意外と多いらしい。
 場所は文京区と台東区の境あたりで、上野の不忍池からも近い。最寄り駅としては、東京メトロ千代田線の湯島駅で、歩いて2分くらいだろうか。しかし、上野とはいえこの敷地の広さ。まず門から屋敷まで140メートルもある。日頃運動不足のお父さんが全力疾走したら、後半は足がもつれて顔から地面に落ちてしまうくらいの距離だ。一般の民家を考えると、玄関から入って140メートルといえば10数軒家をまたいで隣の町内会に入ってしまう。敷地は全盛期の3分の1とはいえ5,000坪。上野で5,000坪の土地っていくらだろう、なんて考えてしまうのが完全に庶民感覚だ。
 それではさっそくお邪魔することにしよう。入園料は400円。庶民からまだ搾り取るか。

旧岩崎邸庭園洋館

 洋館正面。でかっ。目一杯下がっても全体像がカメラに収まらない。嫌がらせとしか思えない(それはひがみだろう)。
 しかし、この中央に植えられたシュロの木がちょっと邪魔だ。どう見てもミスマッチに思える。これもコンドルの嗜好なんだろうか。ここの屋敷全体に言えることなのだけど、良く言えば多様多彩、悪く言うとチャンポン状態で統一感がない作りになっている。ゴッタ煮というか、いろんな要素が趣味的に詰め込まれていて、面白くはあるけど気品という点ではどうなんだと思った。コンドルはどこまで真面目でどこまで遊び心で作ったんだろう。
 設計はジョサイア・コンドル。明治10年にイギリスから政府に招かれて工部大学校造家学科(東京大学工学部建築学科)の初代教授となった建築家で、明治の建築界に多大な影響を与えた人物だ。御茶ノ水のニコライ堂や、鹿鳴館など多くの建築を設計した。
 ただ建築家としてよりも教育者としての評価が高く、弟子には赤レンガの東京駅を設計した辰野金吾や、迎賓館や赤坂離宮を設計した片山東熊などがいる。生徒たちからはコンドル先生と呼ばれて親しまれ、自身も日本を愛し、日本人を妻に持ち、日本で亡くなっている。
 外観はイギリス・ルネッサンス風を基調としていて、装飾は17世紀のジャコビアン様式の他、トスカナ式、イオニア式など、さまざまな国と年代の様式が取り入れられている。
 意外なことにこれでも木造となっている。木でもこんな洋風にできるのだと感心した。2階建てで地下室があり、屋根は手割りのスレート葺き。左右で棟が別れていて、中央部分には玄関とドーム屋根が付けられている。建築面積は160坪。
 遊びとは言わないまでも、西洋建築の実験的な建築物となっている。いろいろなスタイルを明治の日本人に見せてあげようという思いやりから生まれたものだったのかもしれない。このときはまだコンドルも若かった。

旧岩崎邸庭園洋館内部

 洋館内部が一般公開されたのは実は最近のことで、2003年秋からだったらしい。国の重要文化財ということで、室内では係の人が目を光らせていて、お手を触れないでくださいとしつこいくらいに注意を呼びかけていた。お触り禁止か。
 将来的にも洋館の豪邸に住む予定はまったくないので、室内はさらっと流す。いちいちお金がかかっているのは分かるけど、嫌味はない。派手な成金趣味になっていないところは好感が持てる。
 この建物は外国人やお客を招くために建てられたものなので、生活感はもともとなかったのだろう。そういう部分での痕跡は薄かった。生活は同じ敷地内の和館の方でしていたようだ。

旧岩崎邸庭園洋館内装

 内装も隅々まで凝っていて、天井にも様々な装飾が施されている。内装好きの人にとってはたまらなく魅力的なんじゃないだろうか。
 現在の私たちにとってはある程度見慣れているものだからさほど驚かないけど、明治の日本人はさぞやびっくりしたことだろう。こういう内装の発想は、江戸時代の日本にはなかったものだから。
 室内には暖炉の他ヒーターまである。2階にも水洗トイレがあり、シャワーさえあったというからたいしたものだ。30年前まではみんなちょんまげで刀差してくみ取り便所に五右衛門風呂だったのが、たった30年で一変した生活に馴染んでしまう日本人の順応性の高さはすごいもんだなとあらためて思った。

旧岩崎邸庭園中庭

 中庭では学生たちが写生をしていた。私たちは手作りケーキを持ち込んでランチをした。これから暖かくなったら、ここはランチにいい。半日でものんびりできそうだ。雑木林の中ではコゲラの姿があった。しばらくここにいると東京にいるということを忘れる。
 洋館の左側には和館がある。かつてはこちらがメインということで、550坪の敷地にたくさんの建物が建っていたそうだ。こちらは大河喜十郎を棟梁として建てられた。書院造りの建物で、洋館とは渡り廊下でつながっていて、一部公開されている。500円で抹茶と和菓子がいただける喫茶もある。
 右端にちらっと移ってる黒い建物が撞球室(ビリヤード場)で、これもコンドル設計となっている。アメリカ木造ゴシック建築で、山小屋風の建物だ。洋館とは地下道でつながっているというけど、中へ入ることはできない。しかし、ビリヤードをするためだけに一軒建ててしまうという贅沢さ。年に数回やる程度だったろうに。

 この土地は江戸時代、越後高田藩榊原家の江戸屋敷があった場所だった。明治維新後、各地の江戸屋敷は解体され、ここも例外ではなかった。あるところは明治新政府のものとなったり、分割して売りに出されたりした。
 岩崎家といえばのちの三菱財閥創始者ということでたいそう立派だと思われているけど、明治維新の時点では成り上がり者にすぎない。土佐では地下浪人(郷士の株を売って土地に住みついた浪人)の子供で、商才で世に出た人物だ。ある意味ではすごいのだけど、同じ郷土の坂本竜馬は岩崎弥太郎のことが好きでなかったと言われている。竜馬も商人の一面を持っていたけど、その志があまりにも相容れないものがあったのだろう。その岩崎家が明治の世になって徳川四天王の榊原家の屋敷を買い取ったというのは世の中の流れを感じずにはいられない。明治維新は必要だったしいいことも多かったけど、古い時代に属していた人間にとってはなんともやりきれない時代だったことだろう。
 その後岩崎家は少しずつ土地を買い足していって、最終的には1万5,000坪にまで広がった。子供の頃買えなかったお菓子やおもちゃを大人買いするみたいだ。
 コンドル設計の洋館が完成したのは明治29年(1896)年のことなので、岩崎弥太郎は見ていない。1985年に死んでいて、そのときはもう長男の久弥の代になっていた。
 文京区本駒込にある六義園は岩崎弥太郎が買い取って別邸にしていた場所だ。あちらも東京のものとなって一般公開されている。
 第二次大戦中、上野は空襲が激しかったにもかかわらず、この洋館は焼けずに残った。さすがのアメリカ兵もここに爆弾を落としちゃまずいと思ったのだろうか。
 戦後はGHQに接収されて無茶されてしまった。きれいな庭園は運動場にされて、かつての庭の面影は一切残っていない。アメリカ人に庭園の魅力は分からなかったらしい。
 昭和22年に国に返還されたあとは、最高裁判所研修所などに使われた。その際和館の大部分を壊してしまったのだから、日本人もアメリカ人も大して変わりないか。
 その後は長らく放置されて廃屋同然となっていて一時は取り壊しの話もあったようだ。しかし保護活動が実り、修繕されて一般公開にまでこぎつけた。ここまで来ればずっと残り続けるだろう。

 歴史というのは、単純に土地の上にも積み重なっていくものだということを知る。日本に人が住み始めて以来、ある土地の上に何世代にも渡って人々の暮らしと時代が歴史となって重なっている。いくつもの建物が建てられ壊され、また建て替えられてきた。同じ土の上に季節を変えて様々な花が咲くように。そこで生きた大勢の人の思いというのも残っていくものなのだろう。土地もまた記憶を持っている。
 たとえば100年後、この場所がどうなっているのかは分からない。1,000年後なんて想像もつかない。すべては一瞬の夢幻のようなものだ。けど、その土地に実際自分が立つことで、記憶の残像にほんのわずかでも触れることができるというのは喜びだ。歴史が頭の中を駆けめぐる。それはきっとその土地が持つ記憶が私に見せてくれたイメージだ。
 故きを温ねて新しきを知る。歴史の中にも既知と未知がある。古いものを訪ねるということは、必ずしも懐古趣味ではない。過去の中の未知を知ることで自分が過去と未来と同時につながることができる。これからもできるだけたくさんの歴史に触れに行こうと思っている。タッチ禁止なんて言わないで。

湯島聖堂にあるのは白梅ではなく孔子像と中国風異空間

東京(Tokyo)
湯島聖堂堂前


 何も知らずに湯島聖堂を訪れて、梅がないじゃないかと探しているのは無知なお上りさん(私のこと)。なんかここ、中国っぽいなと思ってもそれを口に出すのはまずい。もちろん、訪れている参拝者に梅ってどこですかなどと訪ねてはいけない。失笑されるか、笑いをこらえながら、それは湯島天神ですよと教えてはくれるだろうけど。
 帰ってきてから勉強して湯島聖堂ってそういうことだったのかと初めて納得した。そりゃあ、中国っぽいはずだ。昔、さだまさしが「檸檬」の中で、♪或の日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて 君は陽溜まりの中へ盗んだ檸檬細い手でかざす♪と歌ったのは、この湯島聖堂だったのか。
 しかし、湯島聖堂と湯島天神が同じものだと思っている人は私だけではないと思うのだけどどうなんだろう。うっかり間違えて行ってしまったという人もいるんじゃないだろうか。距離的にも近くて歩いていけるところにあるから混同してしまいがちだ(東京の人にとってはお茶の水と湯島は全然別の街という感覚なのだろうけど)。
 とはいえ、まったく成り立ちや方向性がまったく違うところなので、今回はそのあたりについて書いていきたいと思う。

 湯島聖堂は、徳川幕府の儒臣、林羅山が上野忍ヶ岡の廷内に、孔子廟「先聖殿」を建てたことに始まる。1632年というから江戸時代の前期だ。
 儒教好きだった尾張藩初代藩主の徳川義直が、孔子の聖像や顔子、曽子、子思、孟子の四体の像などを贈っている。この義直を尊敬していたのがのちの水戸黄門こと水戸光圀で、思想的にも大きな影響を受けている。
 この孔子廟を湯島(かつての神田台)に移したのが5代将軍綱吉で、そのとき名前を「大成殿」と変えて、整備増築をしてここの総称を聖堂と称すようになった。
 現在の建物はのちに再建されたもので中国っぽく黒の渋い感じになっている。当時は朱塗りと青緑だったそうだから、今よりもずっと壮麗な雰囲気だったのだろう。
 このとき林羅山が開いた私塾「弘文館」もこの地に移っている。これが日本の学校教育のはじまりと言われている。将軍綱吉自ら「論語」の講義をしていたというのはちょっと面白い。
 1797年に寛政異学の禁でここは幕府直属になり、昌平坂学問所(昌平黌)となる。孔子が生まれた村の名前である昌平から名づけられた。
 のちに様々な機関がここに集まるようになり、それらはそれぞれ東京大学や筑波大学、お茶の水女子大学へとつながっていった。また、大成殿は博物館としての役割も担うようになり、上野の東京国立博物館の起源ともなっている。明治5年(1872年)に日本初の博覧会が開かれたのもここ湯島聖堂で、一ヶ月で15万人が押し寄せたんだとか。そのとき、名古屋城の金のシャチホコもやって来て大評判となったそうだ。

 シャチホコといえば、屋根の上にはシャチホコめいた見慣れない魚のようなケモノが載っかっている。なんでも鬼犹頭(きぎんとう)という名前の守り神だそうで、やはり鯱の仲間らしい。頭が龍で尾っぽが魚、二本の足とふたつの角を持っていて、背中には長いキバを持っていると思ったら、これは潮を吹き上げてるところなんだとか。武器じゃなかったか。けど、ある意味ではこの水が武器で、火災から建物を守る水の神様がこの鬼犹頭なのだ。
 しかしこの守護神、メイドイン中国だからか日本では今ひとつ活躍できず、たびたびこの建物は火事に見舞われてしまっている。1703年、1772年、1786年と、江戸時代だけで3回焼けている。オレのせいじゃないアルと鬼犹頭は口を尖らせて抗議するだろうか。1923年の関東大震災でも全焼してしまった。張り切ってるわりには役に立たないゴールキーパーみたいなやつだ。
 それでもめげずにその都度再建されているのは、やはりこの場所は単なる孔子廟というだけでない教育機関の原点という思いが幕府や国にあったからなのだろう。1799年には規模を拡大して新築され、そのときから黒塗りになった。
 1935年(昭和10年)には大規模な再建がなされて、そのとき鉄筋コンクリート造りにしておいたおかげで、第二次大戦の空襲では被害が少なくて済んだ。
 屋根の上には猫みたいなものも載っている。これは鬼龍子(きりゅうし)という名前で、孔子たち聖人の守り神とされる伝説の生き物だ。猫の姿をしていて、するどいキバを持ち、腹は蛇のようにウロコがある。日本でいう狛犬のようなものだろう。



湯島聖堂内部

 大成殿の中は神社ともお寺とも教会とも違う不思議な静謐さに満たされていた。この感覚はちょっと独特だ。雰囲気は完全に中国風で日本ではないみたいだった。
 祀ってあるのはもちろん孔子なのだけど、孔子に賽銭を投げて、はて、何を願おうと考えてしまった。やはり学問の神様と思えばいいのだろうか。
 日本で孔子と縁のあるところは意外と少ない。ここは貴重な場所に違いない。
 このときは何事もなく当たり前のように大成殿に入っていったのだけど、ここは土日と祝日しか開いてないのだそうだ。



湯島聖堂の孔子像

 外には孔子像が建っていた。ひと目見て、あ、孔子だ、と思ったわけではないけど、ここに建っているということは孔子に違いないと予測はつく。
 1975年(昭和50年)に、中華民国台北ライオンズクラブ(台湾)から寄贈されたものというから新しいものだ。昔から建っていたわけではないようだ。
 高さ4.75メートルで、世界一大きな孔子像らしい。

 孔子といっても今の日本ではすっかりマイナーな存在となってしまっている。『論語』を学校で習った記憶はないし、個人で全部読み通す人も少ないだろう。私もぱらぱら拾い読みした程度だ。
 儒教の教えも現代日本では縁遠いものとなった。釈迦、キリスト、ソクラテスとあわせて世界四聖(しせい)という認識も希薄になっているように思う。
 生まれは紀元前551年というから、キリストより500年以上も前の人だ。春秋時代の中国、魯の昌平郷に下級武士の次男として生まれたとされている。または巫女の子だったという説もある。
 幼くして孤児となって、苦労して学んで学問で身を立て、役人を志すが失望し、後半生は弟子たちとともに諸国を巡り、73歳で死んだということになっている。ただ、何しろ昔の話でもあり、その後の伝説によってさんざん脚色されてしまったので、孔子の実際の人生がどんなものだったのかはよく分からない。学者、思想家、宗教家としても、自ら何かを書き残したわけでもなく、孔子がしゃべったことを弟子たちが書いた『論語』があるだけだ。
 それでも、2500年も経った今でも孔子の教えは現在の私たちの中にも生きているということは、やっぱりすごい人だったのだろう。孔子の教えは単純であり、当たり前のことなのだけど、あらためてそう言われるとなるほどそうだなと思うことばかりだ。社会には礼や秩序が必要であり、人を思いやる仁の心が大切だ、なんていうのもまったくその通り。でも、こういうことを正面から言って説得力を持ち得るのは、なんといっても高い人徳があればこそだ。名言はどう言うかではなく誰が言うかによるというのと同じようなものとも言える。偉かったのは孔子の思想というより、孔子という存在そのものだったのだろう。
 日本でももう一度儒教を見直すべきときなのかもしれない。



湯島の聖橋

 ここが有名なお茶の水の聖橋か。テレビなどでよく見る風景だ。
 御茶ノ水駅の横には神田川が流れ、その上にはニコライ堂と湯島聖堂をつなぐ聖橋が架かっている。
 さだまさしの「檸檬」の中では、♪喰べかけの夢を聖橋から放る 各駅停車の檸檬色がそれをかみくだく♪と歌われている。

 梅まつりで賑わっていた湯島天神とは対照的に、湯島聖堂は観光客も少なく静かだった。
 他ではなかなか味わえない異空間ぶりなので、東京へ行った際には訪れてみることをおすすめしたい。
 
【アクセス】
 ・JR中央本線「御茶ノ水駅」から 徒歩約3分
 ・東京メトロ千代田線「新御茶ノ水駅」から徒歩約5分
 ・東京メトロ丸の内線「御茶ノ水駅」から徒歩約2分
 ・駐車場 なし
 ・拝観時間 9時半-17時(冬は16時まで)
 ・土、日曜、祝日は大成殿公開
 ・入場 無料

 湯島聖堂webサイト
 

梅まつり中の湯島天神であらためて東京パワーを思い知る

東京(Tokyo)
湯島天神-1

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f4.5, 1/800s(絞り優先)



 私たちが湯島天神を訪れたのは、梅まつりまっただ中の日曜日だった。きっと混んでるだろうと話していたけど、まさかあれほどとは思ってなかった。さほど広くない境内は初詣客並みの人で溢れかえり、賽銭を投げ入れるまで10分もかかったのだった。いやはや、東京を侮ってはいけないとあらためて思う。人が集まるところは徹底して人が多いのが東京だ。それはもう、容赦がない。初詣以外でこんなにもたくさん人のいる神社仏閣を初めて見た。毎年、この時期だけでも40万人の人が訪れるというから、そりゃあ賑わうはずだ。
 狭い参道の両脇には、昔懐かしい屋台が立ち並んで、いい香りを漂わせていた。名古屋あたりではこういう古典的な屋台はめっきり見かけなくなった。東京ではまだ生き残っていたんだ。子供の頃の夏祭りの記憶がよみがえる。
 特に強い思い入れがあったわけではない湯島天神だったけど、思いがけない光景に遭遇できて喜んだ。普段のひっそりした神社ももちろん好きだけど、こういう賑やかなのもたまにはいい。なんだかんだで30分以上湯島の天神さんを堪能することとなった。

 創建は458年というから相当古い。雄略天皇が地元の神様だった天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀るために建てたのが始まりとされている。天之手力雄命は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋に隠れて出てこなくなってしまったときに戸を開いた力持ちの神様だ。創建時はまだ天神さんではない。そもそも菅原道真はまだ生まれてない。
 1355年、地元住民の要望で京都北野天満宮から分霊を勧請(かんじょう)してきて菅原道真を合祀するようになった。なので、湯島天神としてはここが始まりという言い方もできる。
 1478年、太田道灌が再建して、そのとき梅の木数百本を植えたと伝えられている。なんでも夢に菅原道真が出てきて、湯島天神をなんとかせにゃならんと思い込んだらしい。作業着は着てなかったと思うけど。
 徳川家康もこの天神さんを大事にしたひとりだった。朱印地の寄進するなどして手厚く保護して、5代将軍綱吉が近くに幕府の学問所として湯島聖堂を移築してからは湯島はたいへん活気づいて賑わったそうだ。
 茶屋が常設され、毎月10日と25日は縁日が開かれ、屋台や市などに大勢の人が押し寄せたという。芝居や大相撲の本場所が開かれたこともあった。
 あと、目黒不動、谷中感応寺とともに「江戸の三富」という富くじが売り出されて、そのときは年末ジャンボに行列する人々のような光景が広がったんだとか。昔も今も湯島天神は人を惹きつける魅力のある神社のようだ(富くじは、1842年、老中水野忠邦の天保の改革のときに禁止された)。

湯島天神の絵馬

 うなる絵馬。ものすごい数に圧倒される。ここ一ヶ所だけでなく、数ヶ所がこんな感じにふくれあがっている。これを見たら菅原道真さんでも立ちくらみがするんじゃないだろうか。おちおち死んでもいられない。
 こんなところにも東京のパワーを見る思いがした。名古屋なんかとは規模が違う。この時期の湯島天神が人でごった返すのは、梅まつりと受験生関係者と観光客が一堂に会するからなんだろう。シーズンオフの平日からこんなふうではあるまい。
 ここの絵馬は、年の前半が干支で、後半が牛に乗った天神さんになるらしい。受験用はダルマ・タイプになっている。

湯島天神の野点

 梅園の方では野点(のだて)が行われていた。なかなか雰囲気があっていい。300円で一般の人もお茶をいただくことができる。
 反対側ではピエロのパントマイムショーもあった。梅と天神とピエロって、どういう組み合わせだ。それでもけっこう見物客がいて、東京人って意外と暇だなと思う。
 肝心の梅は、完全に出遅れ。もう散り果ててほとんど残ってないような寂しさだった。今年は暖かかったから、ここの梅も早々に終わってしまったようだ。たいていいつもの年なら3月くらいまではぎりぎり残るはずなのに。
 白梅を中心に約300本が植えられているというから、満開のときはきれいなのだろう。
 湯島の白梅といえば、泉鏡花『婦系図』。
 ♪知るや白梅、玉垣に残る二人の影法師♪
 泉鏡花の筆塚も建てられている。後年、新派でもよく演じられたことから、新派記念碑もここに作られた。
 神楽坂の芸者と結婚した鏡花も、ふたりしてこの湯島天神を何度となく訪れたのだろう。

湯島天神の男坂

 湯島天神へと向かうには、3つの坂がある。38段の急な石段になっている男坂と、途中に平らなところがある緩やかな女坂、そして裏へと抜ける夫婦坂と。
 写真は男坂を一気に駆け上がる男勝りの(推定)女の子。私たちは一応、全部の坂を歩いておいた。
 夫婦坂の下には切通坂がある。かつて石川啄木が朝日新聞に勤めていたとき、いつもこの道を歩いていたそうだ。当時の面影はもうほとんど何も残ってないのだろう。啄木は何を思いながらあの坂を行き来していたのだろう。
 江戸時代は、坂の上にある湯島天神から遠く上野の山や江戸湾まで見渡せたそうだ。切通坂という名前もそのとき付けられたものかもしれない。今はもう、高いビルに囲まれて、まるで見通しはきかない。

湯島天神の神輿

 金ぴか御神輿(おみこし)やはっぴを着た男衆もいて祭りムードを盛り上げる。この神輿も歴史のあるものなのだろう。神輿に関しては、いつか書くことががあるかもしれない。

 湯島天神の社殿は、江戸時代の1703年の火災で一度焼けている。そのときは将軍綱吉が500両を出して再建させた。綱吉が大事にしたのは犬だけではない。
 1885年(明治18年)に大がかりな改築工事をしたものの、平成に入っていよいよ老朽化が進んで、現在のものは1995年(平成7年)に建て直されたものだ。樹齢250年の木曽檜を使った総檜造りというから、かなりお金がかかっている。でも、1995年以前の古い社殿も見ておきたかった。あの頃は神社仏閣に関してまるで興味がなかったから、見てもちっとも嬉しくなかっただろうけど。
 1999年(平成11年)には湯島天満宮宝物殿が建てられた。徳川化粧軍直筆の書や、家康を描いた絵、安藤広重の日本画などが展示されている。
 2002年(平成14年)には、湯島天神1100年祭というのが行われたそうだ。次の2102年の1200年祭には出たいと思う(がんばって)。

 今回、たまたまでも湯島天満宮のハレの顔を見ることができた。巡り合わせがよかった。次は普段着の湯島天神を見たい。歴史や過去を偲びながら、のんびりと境内を歩けば、また違った感慨を抱くことになるだろう。
 今回は受験生のお願い事を聞くだけで手一杯だった道真さんは、私たちの存在に気づかなかったんじゃないだろうか。次は静かなときに行って、ちゃんと願い事を聞いてもらわなくちゃ。
 そういえば、ひいたおみくじは大吉だったんだ。それを戻しに行かなくてはいけないというのもある。
 湯島天神さん、また行きます。道真さん、待っててね。

突撃!私の晩ごはん番外編、80年代風ひな人形料理

食べ物(Food)
ひな祭りサンデー料理

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/30s(絞り優先)



 3月3日といえば、ひな祭り。今年は料理でひな祭りにちょっこっとだけ接近してみた。突撃!私の晩ごはん番外編、ひな祭り料理編ということで、東京のツレの家で作ることになった。というか、私がお手伝いして作ってもらったといった方が正しいかもしれない。私がしたことといえば、ひな人形の顔を書いたくらいのものだから。
 それにしても写真で見ると、なんだか人相の悪いひな人形になっている。黒メガネをしたカップルびなは、1980年代の香りだ。ナメ猫を思い出す。
 ひな祭りにちなんだ料理は何を作ればいいのか今ひとつよく分からなかったので、とりあえず「すし太郎」に頼ってみた。任せたぞ、サブちゃん。その他、ちらし寿司には欠かせないピンクの粉を某所から入手して準備は万端。早速ひな祭り料理開始だ。

 ちらし寿司は、すし太郎をあったかご飯に混ぜるだけだから簡単にできた。まずはひな人形作りとして、ちらし寿司を三角おにぎりにする。
 衣装は薄焼き卵。お内裏様は海苔を巻いた。顔は海苔をハサミで切って貼り付けた。
 顔はうずらの卵。手持ちはブロッコリーとチーズで。このあたりで凝るなら凝れる。今回はあるもので間に合わせた。
 もうひとつのメイン、菱餅のちらし寿司バージョンは、ノーマルの白と、ピンクの粉と、大葉の刻みで三色にした。緑色がしっかり出てないところにやや不満が残ったものの、まずまずそれっぽくできたんではないだろうか。
 菱餅の三色はそれぞれ、ピンクは魔よけ、白は清浄、緑は草萌える大地の生命力を表しているんだそうだ。
 あとは、麩を浮かべた吸い物とカニかまの手まり寿司、何かおかずが欲しいということでひな祭りとは無関係に鶏そぼろを作った。
 ふたりがかりで合計2時間半、けっこうかかってようやく完成にこぎつけた。なかなかひな祭り料理っぽくできているじゃないかと喜ぶ我々。祭りの日くらいこういう遊び料理でもいい。
 ひな祭り料理といっても、特に決まった食材や形式があるわけではない。春らしく華やかで女の子が喜びそうなものというのが基本となる。
 ひとつ、つきものとして蛤(はまぐり)がある。これは、ひとつひとつ形と大きさが違って他の片割れとぴったり合うことがないことや、汚れた水を嫌うことから、貞操や純潔を象徴するものということで、ひな祭りに食べるようになったそうだ。

 ひな祭りは桃の節句というように、古代の中国から伝わった五つの節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)のひとつだった。元々は女の子の祭りではなかった。平安時代になって、貴族の間で上巳(じょうし)の節句としての行事が行われるようになり、当時上流階級の女の子が紙で作った人形を使った「ひいな遊び」とあわさって、ひな祭りとしてのスタイルがだんだん確立されていった。
 桃の節句といったのは、旧暦の3月3日はちょうど桃の花が咲く季節だったからで、今は季節がずれてしまっている。
 現在のようにひな壇にひな人形を飾るようになったのは江戸時代からで、最初は宮中行事だったものが上流階級や大奥でも行われるようになって、だんだんそれを庶民もまねるようになっていった。
 完全に一般市民の行事として定着したのは明治以降のことだ。
 最初の頃は、人形を自分の身代わりに見立てて、厄を祓うという意味で川や海に流していたのに、それは定着しなかった。毎年買ったばかりのひな人形を流されてしまったら親はたまったもんじゃないということでうやみやになっていったのだろうか。今は女の子が無事できれいに育ちますようにという意味でひな人形を飾るということになっている。
 ただ、今でも一部の神社で古いひな人形を流して供養するというのをやっているところはある。流したひな人形の行方が気になるところではあるけど。
 ひな人形は早く片づけないとお嫁に行くのが遅れると言われるのは、当初の考え方としてひな人形は自分の穢れを託したものということがあった。これを早く流さないと自分の穢れが払えないということで、片づけないとよくないことが起こると言われるようになったというわけだ。片づけられない症候群とかそういうこととは関係ない。
 お内裏様とおひな様の位置が関東と関西では逆というのは有名な話だ。私たちのひな祭り料理は東京だったので関東式になっている。
 昔の中国や日本では、左の方が上位という考え方があった。左大臣と右大臣では左大臣の方が位が高い。関西式はこの伝統にのっとって、お内裏様が左、向かって右側に来る。
 関東で逆になったのは、大正天皇が即位式のとき西洋にならって男性(天皇)が女性(皇后)の右側(向かって左)に立ったことで、それ以降皇室ではお内裏様を右側に置くようになったのだった。現在でも、天皇の立ち位置はいつも向かって左側になっているはずだ。
 ひな人形の置き方に関しては、現在はどらでも間違いではないということになっている。
 もうひとつ、内裏は天皇の住居を意味する。だから、本来、お内裏様というのは男雛、女雛をセットで呼ぶ呼び方だった。今は男雛とお内裏様と呼ぶのが普通になってるけど、これは間違いといえば間違いなので、そういうことにうるさい人に対しては男雛、女雛と呼んだ方が無難だ。

 例年だと桃の花が咲き始めるまであとひと月ほどあるところだけど、今年は冬が暖かかったからぼちぼち桃も咲いてきそうな気配だ。早くも潮干狩りが始まったというニュースも読んだ。なんだか季節が前のめりに焦ってるみたいで、こちらの季節感も狂ってしまいそうだ。桃はゆっくり4月に咲いてくれればいいのに。
 ひな祭りが終わればいよいよ季節は春だ。その前にホワイトデーというやつがゴール前のキーパーのように両手を広げて通せんぼをしているからなんとかそれをやっつけて、ぼちぼちと気持ちを桜の方に向けていきたい。
 ここまで来ればもうのんびりはしていられない。桜、カタクリ、桃、ツツジ、藤、バラ、カキツバタ。野草も待ったなしでどんどん咲いてくる。また花の季節がやって来た。イベントはしばらく休みになっても退屈している暇はない。
 次の特別料理は、少し気が早いけど、こどもの日料理がある。端午の節句ってどんな料理を作るんだろう。全然思いつかないけど何かあるんだろうか。オリジナル創作料理として、立体鯉のぼりと鎧兜料理を作ってみたいと考えている。って、できるのか、そんなもの!?

漠然と訪れたお台場で、強烈な寒風と贅沢な夜景に前が滲んだ

東京(Tokyo)
お台場-1

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f7.1, 1/800s(絞り優先)



 ♪遠のいてくお台場の海は まぶしい西陽に乱反射して♪
 小松未歩が「東京日和」の中でこう歌ったお台場に降り立ったとき、夕焼けの感動ではなくあまりの極寒ぶりに我々は涙することになった。一体何事ですか、この寒風は。顔が痛いですよ、ここ。名古屋を出てきたときは春の陽気だったのに、お台場はシベリアだった。中学生以来、耳当てが欲しいと本気で思った私であった。花粉症の鼻水も凍る寒さ。人もまばらな人工海岸おだいばビーチには寒風が情け容赦なく吹き荒れ、眠ったら死ぬ八甲田山状態。ここでは絶対、針の穴に糸は通せなかっただろう(あえてここでそれをする必然性はまったくない)。ここは冬向きのスポットではないと確信するまで5分とかからなかった。

 お台場へ行こうと思ったのは、観光客としては当たり前とも言える心理だ。それに間違いはない。ただ、お台場で何をしたいとか何を見たいとかがなかったため、とりあえず行ってみるだけ行ってみたお台場の印象はやや漠然としたものとなった。お台場はひとつの大きな街で、小さな人工島などではない。お台場へ行こうというのは、たとえば六本木へ行こうとか原宿へ行こうというのと同じくらい曖昧なものだ。それはたいした下調べをしなかった我々にも問題があるのだけど、お台場自体にも問題がないとは言えない。お台場といえば何を連想しますかという問いを考えてみると分かる。多くの人はフジテレビとか昔の台場とかレインボーブリッジとかになるだろう。でも、それらを自分の目でじっくり見たいかと訊かれればそれほどでもないというのが実際のところではないだろうか。結局、お台場って何よという問いに対する明確な答えを私は手に入れられなかった。ただ、いくつかよかったところや見つけたオススメはあったので、今日はそのへんを漠然と紹介したいと思う。

お台場-2

 お台場への交通手段といえばやはり、ゆりかもめが一般的だろう。無人運転の新交通システムで、ゆらりゆられて新橋から15分ほどで台場に到着する。ぐるりと遠回りしているのが邪魔くさいといえば邪魔くさいけど、初めて訪れるときは東京湾と周囲の高層ビル群などが見られて楽しい。値段は310円だからまずまずか。
 ゆりかもめつながりでお台場のユリカモメ。親子がエサをまいていて、それに群がり集まっていた。おこぼれにあずかろうと、砂浜にはオナガガモやキンクロハジロたちが待ち構える。東京の野鳥はどこでも本当に人慣れしている。オナガなど触れるくらいまで近づいても逃げない。野鳥が全部鳩並み。
 寒くなければもっとじっくり鳥見もしたかったけど、立ち止まると寒さに負けてしまうので歩き続ける。もはや手の感覚がない。

お台場-3

 お台場といえばフジテレビ。どういうつもりでお台場なんかへ移ったのか知らないけど、今の観光地としてのお台場があるのはフジテレビの影響がすごく大きいのは間違いない。そのフジテレビも移ってそろそろ10年になる。ただ、同じ1997年にできたニッポン放送2004年に有楽町へ移転してしまった。
 それ以前のお台場は、13号埋め立て地と呼ばれていて、観光地などではなかった。1995年に誘致するはずだった世界都市博覧会が中止になって、いったんは開発も止まりかけたことさえあった。
 しかし、最近では開発もめざましく、これからどんどん発展していくのだろう。高層マンションなども建っていたから、こちらに住んで都心に通うというのもありだ。電車一本で30分以内で中心までいけるというのはいい。2002年のりんかい線の全線開通や、ゆりかもめの豊洲までの延長もあって、ますます便利になりつつある。
 石原都知事がここに国営のカジノを建てるって話はどうなったんだろう。ぜひやればいいと思うけど。
 フジテレビは今回入らなかった。丸い展望台もいつか機会があれば登ってみよう。

お台場-4

 唐突に自由の女神。でも、ドラマ好きの私にはお馴染みの自由の女神。大好きだったドラマ「With Love」で登場したあれだ。あのときはちょうど、フランスから本物の自由の女神が貸し出されていた時期だったから(1998年年4月から1999年5月まで)、ドラマの中では本物が写っていたのだろう。現在のはレプリカだ。好評だったもんだから、本物が帰った後、フランスに頼んで直接型取りさせてもらってレプリカを作ってしまった。サイズは本物と同じ高さ11メートル(重さ9トン)だけど、これが意外と小さい。ミニチュアサイズ? と思ったくらいだった。完成は2000年。
 女神の後ろに見えてるのがレインボーブリッジ。長さ918メートルの吊り橋だ。歩道があって歩いて渡れるとは知らなかった。1キロくらいなら記念として歩いてみてもいい。タダだし。
 橋の間、右寄りには東京タワーが見えている。夜になると明るいオレンジに光ってその存在感を増す。

 お台場はもともと、江戸時代末期、黒船に乗ったペリーの船を追い払うために砲台を作った場所だというのは有名な話だ。お台場というのは、砲台場が訛ったものだと言われている。なので、ここ以外にも砲台があった場所はお台場と呼んでも間違いではないことになる。
 現在は第三台場だった場所が公園として整備されいて歩くことができるようになっている。写真でいうと、レインボーブリッジの手前に見えている小島のようなのがそれだ。駅からは遠いので歩くとけっこうかかりそうだ。第六は離れ小島になっていて上陸することはできない。東京湾の野鳥たちのオアシスとなっているようだ。それ以外の台場は埋め立てられてしまって残っていない。
 全部で数十あった砲台は結局使われることはなかったものの、それを見たペリーは引き返して横浜まで行ってしまったから、まったく役に立たなかったということはなかった。あってもなくてものちの展開は変わらなかったと思うけど。

お台場-5

 いわゆるお台場と呼ばれる埋め立て地は、臨海副都心と呼ばれていていて(またの名をレインボータウン)、台場、有明、青海の3つのエリアに分かれている。
 施設としてはいろいろあって、いちいち説明するととりとめがない。中心になるのは、「デックス東京ビーチ」ということになるのだろうか。ショッピング、食事、レジャーなどの複合施設で、シーサイドモールとアイランドモール、東京ジョイポリスで構成されている。
 私たちが行ったのは、昭和30年代、40年代の昭和が再現されている「台場一丁目商店街」やミニ香港タウンの「台場小香港」あたりだった。そのへんはまたあらためて紹介したいと思っている。
 いろいろな車が集められていて試乗もできる「MEGA WEB」や、「アクアシティー」、「船の科学館」、「ビックサイト」、「大江戸温泉物語」などなど、その気になればここだけで一日充分楽しく過ごすことができる。
 ただ、ある程度下調べして目的を持っていかないと、どうしていいものやら身を持て余してしまうということになりがちなので、準備が必要だろう。特にデートや、家族連れのお父さんは、行き当たりばったりで行くと評価を著しく下げることになりかねないので注意が必要だ。
 ゆりかもめもいいけど、もう少し暖かくなれば水上バスや屋形船などもよさそうだ。
 もし帰りが夜になったら、ゆりかもめで新橋方面へ引き返さずに反対の豊洲へ向かうコースを強くおすすめしたい。できれば最後尾の車両の一番後ろの席を陣取りたい。なるべくならひとりよりもふたりの方が望ましい。欲を言えば、それは同性同士ではなく異性同士の方が更にいい。
 遠ざかるお台場の夜景が目の前180度に広がり、それはもう素晴らしく美しいのだ。あちこちのタワーにも登っていろいろなところから夜景を見たけど、ゆりかもめから見た東京の夜景は他のどこよりも贅沢に思えた。そのときこそ、寒さではなく感動で目の前が少し滲んだのだった。

呼ばれたのか惹かれたのか根津神社は思いがけず立派で驚く

神社仏閣(Shrines and temples)
根津神社-1

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/250s(絞り優先)



 どうして根津神社へ行こうと思ったのか自分でもよく分からない。その存在はガイドブックか何かで見かけて知ったのだと思う。どんなゆかりのある神社なのかよく知りもせずなんとなく行きたいと思ったのは、根津神社が私を呼んだのか、はたまた私の中の何かが惹かれたのか。とにかく行こうと思った。
 連れと共に出向いた根津神社の前に立ったとき、思いがけず立派な神社で驚く。おおー、大きい。もっとこぢんまりとしたところを想像していたので意外だった。さっそく大鳥居をくぐって中に入ることにする。ちょっとお邪魔します。

 根津といえば甚八。かつて根津甚八もこのあたりに住んでいたというウワサがあるけど、本名が根津透なので芸名は根津神社からではない。真田十勇士の一人である根津甚八を舞台で演じたことから芸名にしたそうだ。
 根津神社の創建は古い。もともとは千駄木に日本武尊(やまとたけるのみこと)が須佐之男命(すさのおのみこと)を祀るために建てたのが始まりとされている。それが本当なら、創建から1,900年余りということになる。
 その後、太田道灌が社殿を建てた。ただ、今のように立派な神社となるのはもっと後の5代将軍綱吉のときだ。世継ぎの子供がいなかった綱吉は、亡き兄の息子綱豊(後の6代将軍家宣)を養子に迎えることになり、その生家であったこの地に根津神社を移して大造営をした。
 それは天下普請と呼ばれ、大変大かがりな工事だったという。現在よりも更に広かった2万2千坪の土地は湿地帯に近いような状態で、造営にはのべ80万人がかり出されたそうだ。
 建物は将軍の名に恥じない作りとなっていて、日光東照宮を模した権現作りの社殿をはじめ、唐門、楼門、透塀などが豪華に立ち並んでいる。それらはすべて国の重要文化財に指定されている(昭和6年にいったん国宝になったあと重文に)。
 以後徳川政府には手厚く保護されるとともに、庶民からも根津の権現様と呼ばれて親しまれてきた。明治維新の際には、明治天皇が国家安泰をこの神社に願ったそうだ。
 写真に写ってるのが、最初の鳥居をくぐった先にある楼門だ。これがもっとも印象的だった。力強くて迫力があり、美しかった。

根津神社-2

 楼門の次は唐門。門の左右は透塀(すきべい)で、これが周囲をぐるりと取り囲んでいる。時代劇の撮影などでよく使われるそうだから、透塀の向こうを走るシーンなんかが出てきたら、それは根津神社の可能性が高い。
 この右側にはやや地味で目立たない神楽殿がある。かつてはここで舞が披露されたのだろう。昨日登場したライオン丸猫はこの神楽殿を守るように陣取っていた。隣に大きなイチョウの木があったから、秋にはまた違った風情があって美しいに違いない。
 左側には、乙女稲荷神社がある。小さめの赤い鳥居が100以上立ち並んでいて、ミニ伏見稲荷といった風情となっている。こちらもよくテレビで登場するらしい。

根津神社-3

 拝殿の前で何やら人だかりができている。お詣りするわけでもなくなんとなく立ち尽くしてる感じで何事かと思って中を見てみると、ちょうど結婚式が行われているところだった。そういうことか。しかしこうなるとお詣りがしづらい。結婚式見物の人の前でお詣りをしないといけないから。しばらく待ってみたけど式は終わりそうにないので、控え目にお詣りしておいた。神さんも結婚式の最中で我々のお願い事など聞いちゃいられなかっただろうけど。
 重要文化財で執りおこなわれる結婚式はなかなか価値がある。儀式も一切簡略化せず本格的にやるようだから、神前の結婚式をするにはいいところだ。生田神社に負けるな。

根津神社-4

 拝殿の左右には紅白の梅が一本ずつ植えられていて、おお、なるほど、これはいいと思う。
 それにしても根津神社がこんなにも立派で由緒のある神社だとは思ってもみなかった。東京人の間では知らない人がいないほど有名なんだろうか。今残っている江戸時代の神社建築としては最大の規模だそうで、東京十社のひとつでもあるから、やはり格式のある神社ということなのだろう(神田明神、芝大神宮、日枝神社、亀戸天神社、白山神社、品川神社、富岡八幡宮、王子神社、氷川神社)。
 一般的には、つつじ祭りと例大祭で有名なようだ。丸い植え込みがたくさんあってきれいだと思ったらあれはつつじだったのか。4月下旬には約50種類3,000株のつつじが咲き誇るそうだ。珍しいつつじもあるというから見てみたい気もするけど、相当な人出らしいので行くなら覚悟が必要だ。
 例大祭は毎年9月中旬の土、日で、6代将軍家宣が始めたものだ。現存する3基の大神輿も家宣が奉納したもので、当時は江戸中から山車を集めてきたという。この天下祭は、山王祭、神田祭とあわせて江戸の三大祭と呼ばれている。
 2006年の去年はこの地に移って300年ということで、御遷座300年大祭が大規模に行われたそうだ。
 拝殿にはどういうわけか、これでもかってほどに「卍」のマークが入っていたのが不思議だった。普通卍は仏教関連のもので、神社にはないはずだ。神仏習合の名残というには前面に押し出している感じがあってそれは違う気もする。家康が日光東照宮で祀られるとき東照大権現となったことから、その流れで卍が使われているのではないかというのがあったけど、実際のところはよく分からない。

 根津といえば、夏目漱石ゆかりの地でもある。イギリス留学から帰ってきた漱石は、しばらくの間、根津にあった友人の斎藤阿具博士宅を借りて住んでいた。その頃書かれたのが『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』などだ。
 当時38歳だった漱石は、神経衰弱を和らげるために小説でも書きたまえという友達の高浜虚子のすすめで嫌々『猫』を書き始めることになる。奥さんが書斎をのぞくと、苦虫をかみつぶしたような顔で原稿用紙に向かっていたそうだ。
 このときの家は、犬山の「明治村」にそっくり移築展示されている。
 森鴎外の『青年』の中にも根津神社は登場しているから、鴎外もこのあたりをよく散歩したんじゃないだろうか。
 司馬遼太郎も根津神社がとても好きだったそうだ。

 どういういきさつで訪れることになったにせよ、行ってよかった根津神社。ライオン丸猫にも出会えたし、結婚式も見ることができた。予想を裏切る立派さで感動もあった。これからは根津といえば甚八ではなく神社だ。
 再び訪れる機会があるかどうか分からないけど、しっかり記憶に刻んでおこう。まだ行ったことがない人はおすすめします。

根津神社のライオン丸は一度見たら忘れない着ぐるみを着たような猫だった

猫(Cat)
根津神社の猫-1

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/100s(絞り優先)



 根津神社で遭遇したすごいやつ。
 ひと目見たら忘れられないインパクト。もこもこの毛並みはヒツジのようでもあり、ライオンのようでもある。一部では根津のライオンキングと呼ばれているらしい。
 何もかもが規格外の体つき。毛の多さ、太りっぷり、そして特筆すべきは手足の極太さだ。通常の猫の3倍くらいの太さがある。こんなところにも脂肪はつくのだろうか。でも、半分は骨だと思うから、やはりすごい。
 どこからどこまでが顔で、どこから首なのか、胴体の首の境目はどこなのか。猫用の首輪は絶対に巻けない。中型犬用が必要だ。
 それにしても、通常のトラ猫が悪ふざけで着ぐるみを着てるとしか思えない。冬場は暖かくていいだろうけど、夏はこんなに着込んでいたら暑くて仕方ない。

根津神社の猫-2

 眼光鋭く、人を見てもまるで動じる様子がない。割と人なつっこくて、そろりそろりといった感じに寄ってきた。そっとなら触ることもできる。毛並みはかなりゴワゴワで、サラサラヘアーとはほど遠い。
 こんな体をしたライオン猫だけど、動きは驚くほど俊敏なのだ。突然茂みに向かって走り出していったかと思ったら、他の猫に飛びかかっていた。それはまだ若い白黒のスリムな猫で、お互いにうなっていた。ライオン丸ももちろん負けてない。長老というほど年寄りではないらしい。5才以上ではあると思うけど。
 じっと顔のあたりを見ていると、超高級な毛皮に顔が埋もれているみたいに見えてくる。
 他の猫たちはこいつを見て自分たちと同じ仲間の生き物だと思うだろうか。その貫禄ゆえに仲間と認めてもらえず寂しい思いをしているのかもしれない。

根津神社の猫-3

 神楽殿脇のこのあたりがお気に入りの場所らしい。猫は神様の使いともいうし、本人も神楽殿を守っているつもりでいるのかもしれない。
 猫のいる神社はいい神社だと私は思っている。多少迷惑をかけるにしてもそれはお互い様だ。人間の方がよほど世界にも他の生き物にも迷惑をかけている。せめて野良とくらい共存できる社会であって欲しい。
 こいつもこの体つきを見る限り、食べるものに困っていることはないだろう。神社を訪れる人たちの心をなごませるという役割をしっかり果たしている。タダめし食いではない。
 次はいつ訪れることができるか分からない根津神社だけど、ぜひとも長生きしてもらって再会したい。そのときは何か美味しいものでも持っていこう。

根津神社の猫-4

 乙女稲荷横の枯れ葉の中に黒いかたまりを発見。あ、猫。わっ、死んでる!? と思わず口をついた言葉に反応してもぞもぞと動き出した。なんだびっくりさせないでよ。こんなに無防備な体勢でぴくりともせず熟睡してたら死んでると思っても仕方がない。ここの猫は大事にされているようで、人に対する警戒心が弱い。他にもまだまだ野良がいそうだ。
 黒猫だけど、手に白い手袋をしてるだけでずいぶん印象が違うものだ。ヒゲが白いからってのもあるだろう。
 少しのびをしたりあくびをしたりしてまた眠りに入ってしまった。もうすぐ春ですね。だから人も猫も眠たい。

 私、どうやら風邪をひいてしまったようなので、今日はこれだけ軽く書いてもう寝てしまう。明日かあさってまでには完治させる予定。
 明日はしっかり書こう。